=================================== カルテット 第1幕 =================================== -----------------------------------------------------------------------  1-0 : 遠 雷 -----------------------------------------------------------------------  嵐がやって来る……。  御者の息子は、遠くの山陰に目を向けた。  カッと閃く遠雷が、鋭い峰がいくつも伸びる暗い谷を、鮮やかな青紫に染めあげていく。  雨の匂いだ。重たい黒雲がのしかかる遠くの山の頂きあたりが、ぼんやりと灰色に煙っている。  少年が見渡すと、谷の向こうの峰々はすっかり、重たげな霞の中に姿をくらましていた。  夏場の嵐は足が速い。すぐにもここへやって来るだろう。  少年が振りかえって見ると、がたがたと揺れ動く御者台の隣では、父親が真剣な顔つきで鞭をふるっていた。  父親が馬を追いたてる低い声を上げて鞭を振り下ろすと、ぴしゃりという音と共に、馬の蹄が山道の石畳を蹴立てる音が速まっていく。  曲がりくねる山道を掴む車輪が、街道が大きく折れ曲がる辺りで、ぎりぎりと耳障りな唸りをあげた。流れ去る石畳が、まるで灰色の濁流のようだ。行き過ぎる断崖を見下ろすと、緊張で息がつまった。  大丈夫だ。少年は小声でつぶやいた。  父は当代一と誉めそやされる、腕の良い御者だ。山の宮殿に住む族長様の馬車の御者台にだって、座ったことがある。そこらの馬丁とは格が違う。この程度の山道で、しくじるはずがない。  今日のお客人も、父のその腕前を見込んで、特にと頼まれた、とても高貴なお方だ。神殿からやってきた、この上なく高貴なお血筋だという。  この馬車を御するのは、父にとっても、一世一代の大仕事。  明くる朝に仕事を控えた父は、気が昂ぶって眠れず、黙り込んだままいつまでも車輪の具合を確かめていた。この仕事をやり遂げれば、父の評判はさらに上がるに違いない。  頼もしく思って見つめた父の顔が、ひどく汗ばんでいた。  父親が鞭を振り上げるのを眺めながら、少年は心の中でだけ、いっぱしの御者がするように、ハイヨッと強い声をあげてみた。それと同じ父親の声が上がり、鞭が鳴り、馬が苦役に抗って首を振りたてる。  今はこうして、隣に座っている他にすることがなくても、少年はいつか、父の握るこの鞭と手綱を、立派に引き継いでみせるつもりだった。そして、父を越える御者になる。その時こそは誇らしく、声高らかに馬を追うだろう。  不意に、ぽつりと静かな音をたてて、大粒の雨が御者台を打った。  曇天を振り仰いだ頬に、肩に、叩き付けるような重たい雨粒が次々と打ちかかる。雨は見る間に豪雨になった。  思った通りだ、と少年はうんざりした。  降り始めた雨は、見る間に辺りの岩肌の色合いを変えていく。  乾いた地面が水を吸い、草いきれと砂地の匂いが湧き起こる。灰色の山道が見る間につややかな黒に濡れそぼり、遠目に見えていた堅牢な城門は、灰色の雨でぼんやりと煙って、霧の中へとかき消えた。  目の眩むような光とともに、雷鳴が轟いた。  胃の腑に叩き付けるような、激しい轟音が鳴る。驚いて嘶(いなな)き、馬脚を乱す4頭立ての馬たちの手綱を、父が引き絞る。馬車は速度をおとすことなく、石畳の坂道を駆け上がっていく。  少年は心配になって、御者台から後ろを振り返った。  揺れる馬車の後ろには、銀色の立派な甲冑で武装した護衛の兵士たちの馬が、何頭も付き従っている。雨を避けるために、どの兵士も、姿勢を低くおとし、兜の面覆いを降ろしきっていた。  山道の下は鋭い岩肌が続く崖。落ちればひとたまりもない。雨に濡れた石畳は滑りやすく、あやうげに車輪を受けとめては、ごろごろと天の雷鳴に劣らぬ轟音をたてた。  父はいやに馬を急がせている。たぶん、雨がやって来る前に、馬車を目的地に着けたかったのだろう。雨中を走るのは、客人に気を使うことが多く、気持ちのいいものではない。  だが、そう心配することはなさそうだった。目的地の城門は、もう間近にあるはずだ。  少年が霧の中に目をこらすと、城壁の周囲に巡らされた深い堀が現れた。空堀は雨に濡れた黒土をさらしている。  それを渡る跳ね橋に車輪が乗ったのを感じて、父親が、ほっとため息をつくのが感じられた。  少年も、それにつられてほっとした。父は大役を果たし終えた。  そのとき。  激しい光とともに、耳を裂く轟音があたりを包んだ。  一条の雷光が、目の前の城壁を撃つのが見えた。  少年は息を忘れ、棹立ちになる4頭の馬の背を見送った。驚いた馬は半狂乱になり、父の手綱に従わなかった。  暴れまわる馬に引きずられ、馬車が傾く。  なにか大きな手で掬い上げられるように、馬車の片輪が浮き上がる。  少年は、抵抗する間もなく、御者台から放り出された。  跳ね橋の上に叩き出された自分のすぐ横で橋が終わり、はるか下にある空掘の底がみえる。橋の丸太にしがみついて、少年は震え上がった。  あと少しで、死ぬところだ。  そして、父がどうなったのかに思い当たって、少年は弾かれたように起きあがった。 「父ちゃん、どこだ?」  父は、少年よりも少し先へと投げ出されていた。そのすぐ側で馬が暴れているのを見つけて、少年の血の気が引いた。馬をつないでいた頚木が折れ、勝手に暴れ出しているのだ。  もんどりうって立ちあがり、少年は父を蹄にかけかねない暴れ馬を押しとどめようとした。父は、右腕を押さえて倒れ込んだまま、起きあがる気配もない。  少年が父親のまえに走り出して遮ると、狂った馬が驚き、激しく身をよじらせた。  日ごろ、とても大人しかった馬の目が、恐怖に濁って赤く血走っている。その目を睨みつけ、歯を食いしばると、少年は震える足を踏ん張った。どんなに恐ろしかろうと、父を踏み殺させるわけにはいかない。  少年の目から逃れようと見を翻した馬が、橋から足をすべらせ、ぐらりと宙に倒れ込んでいった。  その先には、なにもなかった。  馬はもがきながら、空掘に落ちていった。細く引き絞られた嘶きが急速に遠ざかり、豪雨の打ちつける暗い堀の底から、ぐしゃっと骨の砕けるいやな音がした。  少年の心臓は激しく鼓動を打った。  雨のしずくが次々の顎を伝い落ちていく。少年は、震える手を伸ばして、うずくまっている父親の背中を揺すった。うめき声をあげて、父親が目を覚ました。 「父ちゃん、大丈夫か」  少年が声をかけると、父親はもうろうと、青ざめた顔をあげた。 「馬車は…?」  豪雨にかき消された父親の声は、苦しげにひきつっていた。 「わからねえ」  きゅうにうろたえて、少年は小声になった。父親のことが気がかりで、馬車がどうなったかなど、考えもしなかった。 「この、馬鹿が!」  少年を押しのけ、馬車を見た父親が、低く悲鳴のようなうめき声をあげた。  跳ね橋のはじに、かろうじて引っかかるようにして、馬車が揺れている。繋がれたままの馬が興奮して暴れ、馬車もろとも奈落に飛び込みそうになっているのだ。  息子を突き飛ばすように押しのけ、父親は倒れた馬車にかけよった。尻餅をつきながら、少年はそのあとを目で追った。  後からついてきたいた護衛の兵士たちが、ものものしい気配で走り回り、馬車を引き戻そうと必死になっている。兜を脱ぎ捨てた兵士たちが、次々と馬車の扉にとりつき、中にいる者を助け出そうとしていた。  父は血相を変えて馬車にとりつき、壊れた扉をはがした。しかし、お客人を助けるため中に入ろうとすると、馬車はぐらりと傾き、今にも堀の底へ落ちていきそうな、耳障りな軋みをたてた。  やめろ、父ちゃん。助けられっこない。  少年は肝を冷やして、揺れる馬車の上の父親を見つめた。馬車もろとも堀に落ちれば、命はない。  不意に父親が振り向いて、まじまじとこちらを見た。  馬車から飛び降りて、父が駆け寄ってくるのに気づき、少年は目を見開いた。父親は少年の腕を掴み、引きずるようにして馬車のそばに連れていこうとする。 「なにするんだ」 「お前が一番軽い。お前が行け」  馬車の道具入れから取り出した縄を胴回りに巻かれながら、少年は手短に告げる父の声を聞いた。 「い……いやだ、俺怖いよ……」  言い終わらないうちに、父親が腕を振り上げ、少年の頬を殴りつけた。  一瞬、眩暈がするほどの痛みが走って、気が遠くなった。  父に押し出されるまま、少年は朦朧と馬車の上に上がった。 「中に入ったら、お客人にその縄を結ぶんだぞ、わかったな!」  父の真剣な叫び声が追ってくる。  父ちゃんは、俺が死んでもいいんだな。  振り返る気もせず、かすかに震える手で馬車の入り口に手をかけた。観念して体重を移すと、馬車は意地悪く傾き、少年にはるか下にある空堀の底を見せつけてくる。  御者の息子は、かたく目を閉じたまま、馬車のなかに飛び込んだ。  なにか柔らかいものに手が触れ、驚いて目を開くと、すぐ近くに誰かがいた。  身なりのいい金髪の少年が、気を失ってぐったりとしていた。  自分とほとんど同じ年恰好だ。これが、神殿から来た高貴なお血筋のお客人。  馬車が倒れた時にぶつけたのか、お客人はこめかみから血を流していた。それ以外は、特に怪我もないようだ。上等の絹と革で装った姿には乱れがない。白い額に、血の雫を落としたような赤い小さな点がついている。それは、神殿に仕える中でも、特に位の高い神官であることの印だった。  少年は自分の胴に巻かれた縄を解きながら、悔しくなって歯を食いしばった。  このお客人に比べたら、自分の命はとても安いのだ。お供の兵士たちにはもちろんのこと、父にとっても。  少年は苦労して、神官の体を馬車の入り口まで押し上げた。沢山の手が現れて、神官の体を掴んだが、御者の息子を救い上げようとする手は無かった。  ぎしぎしと身の毛もよだつような軋みを立てる馬車から、少年は必死で這い上がった。橋の丸太を掴んだところで力尽きかけていると、父の無骨な左腕が少年の革帯を掴んで、乱暴に引きずりあげた。  ため息をついて、少年は父の顔を見上げた。しかし、父はもう、こちらを見てはいなかった。  兵士たちは、壊れ物に触るような扱いで、神官を橋の上に横たえると、自分たちの立派な外套をはぎとって次々と着せ掛けた。  そうしても、ひどく振り続く雨が、見る間に高貴なお客人を濡らした。 「猊下(げいか)が…!」 「誰か学院の医師を呼んで来い」  兵士たちが口々に喚き散らす声は、暴れる馬以上に半狂乱だった。  その引きつった声を聞きながら、御者の息子は橋の上にへたり込んだ。まだ脚が震えている。ふと見ると、すぐ傍に立っている父の指先も、小刻みに震えていた。  降りしきる豪雨を浴びる父の顔は、死んだように血の気がなかった。目を見開いたまま、兵士たちが揺り起こそうとする高貴な客人を遠巻きに見ているばかりだ。  兵士たちがどよめくのに気づいて目をもどすと、気を失っていたらしい貴人が、ゆっくりと目を開いたところだった。  うつろな表情を浮かべた目は、灰色がかった緑色だ。  少年は、神官の顔をよく見たくて、のろりと立ち上がった。  起きあがる神官の姿をみて、兵士達が深い安堵の息をついている。少年もほっとして、父に微笑みかけようとした。だが、父親の顔は、さきほどにも増して青ざめていた。 「行け…」  小声で、父が告げた。 「逃げろ」  少年の体を山道のほうへ押しやって、父はこちらに見向きもせずに命令した。 「どうして?」  踏みとどまり、少年は問い返した。 「殺される」  固い声でいう父親の視線をたどり、少年は、立ちあがった神官がこちらを見ているのに気づいた。  ゆっくりと歩いてくる神官の少年を追うように、兵士たちが甲冑を鳴らしてやってくる。無表情な神官の少年の顔を見つめ、御者の息子は動揺した。  まさか。命がけで助け出したのに、まさか。  神官が前に立つのを待たずに、突然、父親が膝を折って這いつくばった。 「息子はお許しください」  喚くような大声で言う父親の姿を、御者の息子は驚いて見下ろした。 「息子はお許しください!」  懇願をくりかえして裏返る父の声は無様だった。  どうすればよいかわからず、御者の息子は目の前で立ち止まった神官の顔をみつめた。神官の顔は端整だった。  肩口までで切りそろえられた金髪は、濡れそぼって顔に張りつき、豪華な絹と革の衣装もぐっしょりと濡れて台無しになっていたが、その神官の持つ不思議な威厳は、すこしも衰えはしていない。  ぽたぽたと雨の雫を滴り落としながら、神官は這いつくばる父の背中を見下ろしている。その顔は無表情だった。これほど無表情な顔というのを見たのは、初めてだった。  ゆっくりと口を開いて、金髪の少年は、父になにか問い掛けてきた。  だが、その言葉は聞きなれない響きのある異国のことばで、御者の息子には、少しも意味がわからなかった。 「猊下(げいか)が、御者の右腕はどうしたのかとお尋ねになっている」  怒鳴りつけるような声で、付き従っている兵士が言った。 「お許しください、なにとぞ。息子は見習で、横に座っていただけでございます。どうか命だけは、とらないでやってください。どうか、どうか、お慈悲を……!」  父がますます、橋に額をこすりつける。そうしている父親は、当代いちの御者ではなく、ただの惨めにくたびれた男に見えた。いきり立った兵士たちと、無表情な神官が、それを見つめている。  少年は、どうしていいかわからず、凍りついたように立ち尽くした。できるものなら、誰の目からも、こんな父親の姿を隠してしまいたかった。  ふと顔を向けて、神官がこちらを見つめてきた。灰色を帯びた、暗い緑色の目は、暗雲を押し開いて現れる雷光の閃きに似て、冷たく容赦がないように見えた。  いたたまれず、御者の息子は自分も膝を折った。跪きながら、神官の顔から目をそらすことができず、御者の息子は高貴な血筋の客人をまじまじと見詰めつづけた。  父は、この不始末の責任をとらされる。お客人の命を助けようが、あのまま死なせようが、どちらにせよ父は殺されるに決まっていたのだ。たぶん父は、それを知っていた。  混乱した頭の奥で、その考えが閃くと、少年は自分の体が冷えるのを感じた。父が殺される。自分も殺されるのだ。馬車がひっくり返ったせいで。  父を連れて、さっさと逃げればよかった!  少年は激しく後悔した。馬鹿は父ちゃんのほうだ。そして悔しかった。とても悔しかった。 「お答えしろ!」  すごんだ兵士が、腰に帯びていた細身の剣を抜き放ち、父親の頭の上に振りかざした。はじかれた雨が、白く小さな霧となって剣を包む。  御者の息子は、死を覚悟した。恐ろしいと思い、それから逃れたかったが、自分にはどうすることもできないことは、考えるまでもなく腑に落ちた。  貴人が自分たちのような身分の低い者の命を顧みるはずがない。  御者の息子は、父親が殺されるのを見たくなかった。だが、震え上がってしまい、その場から目をそむけることさえできない。  どうせ死なねばならないなら、自分から先にやってほしかった。父が苦しんで死ぬのを見たくない。怖い、怖い……死にたくない。  不意に、金髪の神官の手が兵士の剣を持つ手を掴んだ。その手が自分に触れたことに、兵士は度肝を抜かれたようにたじろいでいる。  神官は自分よりも背の高い兵士の、兜の面覆いを跳ね上げた下にある顔を見たまま、細身の剣の刃先に指を滑らせた。きらめく銀色の剣の刃先におりた、わずかな血のりが、雨に洗い流されて消えて行く。それを見て、兵士の剣を握る手が、傍目にも明らかなほど震え始めた。  御者の息子は、神官が自分に向き直り、傷ついた指先を伸ばしてくるのを、呆然と待ちうけた。傷口が開いて血のしたたる指が額に触れ、ゆるい滑りのある感触を残していく。  神官は平静な振る舞いで御者の息子をやんわりと押しのけ、父親のそばに片膝をつくと、這いつくばったままの父親の顔をあげさせて、その額にも、同じように血を塗りつけた。父は見開いた目で、神官を仰いでいる。  父はしばし、沢山の言葉を飲み込んだように口篭もってから、はっと振りかえり、息子の額にも血の印がつけられているのを確かめた。それを見つけて、父は突然、吠えるように泣いた。 「ありがとうございます」  再び這いつくばる父を、神官は興味のないふうに一瞥し、その場から歩き出した。  我に返った兵士たちが、おお慌てでそれを追い始める。うるさく鳴る甲冑の音がいくつも、少年の横や後ろを通り過ぎていく。 「ブラン・アムリネス猊下(げいか)が、お前たちを聖別なさった。よって、命は預け置く。本来なら一族皆殺しのお仕置きがあっても然るべきところだ。猊下のお慈悲に、感謝を怠るな」  父に剣を振りかざしていた兵士は、緊張の残る震えた声で言った。他の兵士達からやや遅れてあとを追っていくその兵士は、何度か剣を鞘におさめようとしていたが、手がふるえ、うまくいかないために、とうとう諦め、抜き身の剣を背後に持ったまま進んでいった。  御者の息子は立ち去って行く高貴なお客人の後姿を見送った。屈強な兵士に取り囲まれた、雨に濡れそぼった姿が、堅牢な城門をくぐっていく。  激しい雨音をついて、どこか遠くから、ファーーンと長く引き伸ばされた、耳慣れない獣の鳴き声が聞こえ始めた。  ゆっくりと繰り返すその声は悲しげで、すすり泣く女の声のようにも、はぐれた仲間を呼び集める寂しい獣の声のようにも聞こえる。  神官の顔が、咆哮(ほうこう)に耳を傾けるように、城壁に隠された天を見上げた。その横顔は、うっすらと笑っているようにも見えた。  それを確かめる間もなく、神官は首を垂れ、城壁の中へと進み始めた。  ああ、そうか……。  あの神官は、たった今、自分と父親の命を救っていったのだ。  自分はそれに気づかず礼を言うのを忘れた。  もう一度こちらに目を向けて欲しい。  御者の息子は出し抜けにそう願った。  鎖の鳴る音が響き渡り、城門の鎧戸が降り始める。一抱えほどもある丸太の格子が、城門の奥にある景色を遮る。  ずしん、と厳かな地響きをたてて、鎧戸が降りきった。  雷鳴が、うるさい犬のように吠えたてている。その音を従えて、またあの長い鳴き声が聞こえた。ファーーンと悲しげに、何かを呼ぶように。 「竜(ドラグーン)だ……」  少年は、呆然とつぶやく父の声を聞いた。打ちつける激しい雨が痛い。  雷光がにわかに辺りを照らし、少年の目を眩ませた。  そして、ふたたび辺りに雨中の薄闇がもどった時、神官の姿は、甲冑の一団にかくれてしまい、すっかり見えなくなっていた。  それっきりだ。  神官は一度も振り返らなかった。  その一夜、雨はますます山々を濡らし、雷鳴は鳴り止むことない激しさで吠えつづけた。 -----------------------------------------------------------------------  1-1 : 停戦会議 -----------------------------------------------------------------------  丸天井の荘厳な広間には、重苦しい沈黙がたれ込めていた。部屋の中央に置かれた豪華な長机は、会議のための席だったが、その場に席を与えられた男たちは、じっと沈黙するばかりだった。  磨きあげられた大理石の床には、永年使い込まれた建物ならではの、細かな傷が無数に残っている。そこに置かれた巨大な長机も、その回りに置かれた、ビロウド張りの重た気な椅子も、かつて名工の手によって作られて以来、創造主である職人が世を去った今にいたるまで、この広間で交わされる様々な密談や盟約の物言わぬ証人として、時を過ごしてきた調度品たちだ。  広間に集まった男たちは、それぞれ、ビロウド張りの椅子にゆったりと腰掛け、ある者は自信に満ちた表情で、ある者は高貴な無表情のまま、お互いの顔を見渡していた。彼らが身にまとった絹と亜麻の衣装は、富裕の証であり、額に巻いた金属の輪は、彼らがそれぞれの一族を率いる権力の座を占めていることを証すためのものだ。そして、彼らの細長く尖った耳が、肌の色や髪の色は違っていても、彼らの血統が、大陸で最も古い血統であると言われる、高慢なエルフ氏族に属することを示していた。  そもそも、同じ血筋に属していたはずのエルフ氏族は、今では大きく4つの部族に別れ、それぞれが、族長による絶対支配によって統率される、部族集団を営んでいた。大陸に古くから君臨する神聖神殿は、その4部族を正当な部族国家として認め、彼らの居住地によって、それぞれを、森エルフ族、山エルフ族、黒エルフ族、海エルフ族と名付けた。  新たな名を与えられてからの千年、同じ血から生まれた兄弟たちは、互いを喰らい合いながら強国へと成長していった。うちつづく戦いは、彼らを憎み合わせた。それがまた新たな戦いの火種となって、エルフ諸族の中に飛び火していくことのくり返しで、戦いの歴史には、果てがないように思われた。  ここ十数年の戦いに終止符が打たれたのは、すべての氏族の父であると言われる、神殿の一族の特別な計らいがあってのことだ。ある夜、無益な領土争いを止め、停戦会議の席につけとの命令書が、神殿から各部族長のもとに届けられた。金の箔押しで縁を飾られた豪奢な巻き紙には、白い翼を象った、神殿の紋章がいれられていた。地上で生きる者にとって、この紋章を帯びた命令書に逆らうことは、死と滅亡を意味していた。それは、エルフ諸族を率いる部族長にとっても同じことだ。  停戦会議が行われたのは、命令書が届けられたのち、20日後のことだった。4人の部族長たちは、山エルフ族の首都である、フラカッツァーに集まり、長き戦いの歴史を過去のものに変えるための会談を行うことになった。  だが、その席に座った時には、すでに、彼らが話し合うべき問題は、全て決着が付いていた。 「その書類に、おのおの血で署名を」  上座に席をとっている淡い金髪の男が、広間に集まった数人の男たちに言った。山エルフ族の族長、その人だった。その口調は穏やかだったが、選択の余地を与えない厳しさも持ち合わせている。  山の者は抜け目がない。薄笑いを浮かべ、若き海エルフ族の族長ヘンリックは、目の前に置かれた書類に視線を落とした。  それは停戦合意の旨が記された誓約書だ。海エルフ、森エルフ、山エルフ、黒エルフの四部族は、領境を現在の位置で凍結し、それぞれ矛を納めよという内容の文章が、そこに書かれている。長きに渡った民族闘争は、神聖神殿の白羽の紋章をあしらった、一枚の紙切れによって、終止符を打たれることになるのだ。  「お使い下さい」  背後で聞こえた声に気付き、ヘンリックが振り向くと、そこには金髪の子供が、抜き身の短刀を捧げ持っていた。宝石で飾られた儀式的な短刀は、血判を捺す時、自らの指を傷つけるためのものだ。  つい数日前までは、この山エルフの子供と同じ、白い顔金の髪は敵の代名詞だった。戦場では、山の者の戦斧が、数しれない部下達の頭蓋骨を叩き割ってきた。領土を守るため、あるいは野心のために、ヘンリックも数え切れないほどの白い頚を挙げてきたのだ。  ヘンリックが子供の顔を見つめると、向こうも、敵意のため強ばった顔で、ヘンリックをにらみ返してきた。 「お借りしよう」 「いいえ、この短刀はお納め下さい」  緊張のため早口になって、子供はヘンリックの言葉を遮った。 「停戦を祝って、大神官様が下賜なさった品です。 それぞれの族長様に、持ち帰っていただけるようにと、同じ短刀を四本…」  ヘンリックは、飾りたてられた短刀を受け取り、その柄に神殿の紋章が刻まれているのを確かめた。黄金の柄には大粒の真珠、透かし彫りのある刀身は銀でできている。美しい、見事な品だった。  「それでは頂戴しておこう」  ヘンリックが呟くように答えると、子供は頭を下げて引き下がった。  ヘンリックは、研ぎすまされた刃の上で指をすべらせた。するどい痛みとともに、血があふれだす。停戦の誓約書に署名をせねばなるまい。  金箔で装飾された誓約書の末尾には、山エルフ族領土内にある士官学校に、王族の男子を差し出せという条件がつけられていた。つまるところ、息子を一人、人質として差し出せというわけだ。  海エルフ族の族長ヘンリックは、誓約書に血文字で署名した。  戦いは終わったのだ。   * * * * * *  「戻ったら人質選びだな、マルドゥーク殿」  歌うような上機嫌の口調で呼び止められ、ヘンリックは立ち止まった。  停戦の手続きが完了し、広間に集まっていた面々は、交わす言葉もないままに立ち去ろうとしている。声がした方に視線をやると、広間を片付けるため立ち働いている山エルフの従僕たちの向こうに、黒ずくめの長衣(ジュラバ)をまとった一団がいた。黒エルフ族だ。  優雅な足どりで、黒エルフ族たちがヘンリックに近づいてきた。黒エルフ達は誰もが、象牙のような白い顔に、まっすぐな長い黒髪をしている。暗闇でも物が見えるという、彼らの猫のような瞳が、薄暗い通路に入ったとたん、すうっと丸く太る。  「久しぶりだ、ヘンリック」  美貌の族長が進み出て、ヘンリックに右手を差し出した。彼の白い指にも、つい今し方つけたばかりの傷が残っている。  3人の従僕を従えた黒エルフ族の族長リューズ・スィノニムは、一面、黒いオパールと銀糸の刺繍で装飾された、漆黒の絹の長衣(ジュラバ)で正装していた。いくらか疲れた表情をしているものの、悪巧みを隠したような毒のある微笑には、彼独特の危う気な魅力があった。族長に付き従う従僕たちの顔立ちは、どれも美しげで、見分けがつかないほどそっくりだ。多胎出産が珍しくないという黒エルフ族のことだ。おそらく、この従僕たちは3つ子なのだろう。派手好みのリューズは、美貌で知られる部族の中から、とりわけ見栄えのいい者を、装飾品代わりに連れてきたにちがいない。敵地に赴くというのに、屈強な護衛兵ではなく、華奢な少年兵を連れて歩くとは、彼らしい、酔狂なことだった。  「元気そうだな、リューズ。戦場でも、山の者どもの宮殿でも、お前は変わらないようだ」  黒エルフの族長リューズの手を握って、ヘンリックは微かに笑った。 「お前は戦場にいる時より若く見えるぞ、ヘンリック」  にやりと人の悪い笑みをこぼし、リューズはヘンリックの横に並んで歩き出した。  「停戦は大神官の差し金だ。山の者たちが神殿と繋がったのだろう」  金の柄の短刀を弄びながら、リューズは小声で話し掛けてくる。 「今、領境を凍結すれば、山エルフの領土は元の広さを凌ぐことになる。奴等には有利な成りゆきさ」 「ずいぶん物騒な顔をするな、リューズ。俺達はたった今、停戦に合意してきた所じゃなかったか?」  リューズと目を合わせないまま、ヘンリックは笑った。リューズがくつくつと咽を鳴らして笑うのが聞こえる。 「我が一族だけ出遅れて、三部族同盟軍に叩きつぶされるのは面白くないからな。 いかに旧来の友とはいえ、ヘンリック、お前もその時は俺の頚を叩き落とすのをためらうまい」  言葉もなく、ヘンリックはすぐ横を歩くリューズの顔を見た。かすかに片眉をあげて微笑しているリューズは、ヘンリックの心を透かし見ているような目をしていた。  廊下の終わりにある大扉が軋みながら開き、外の光を浴びたリューズの瞳が、針のように細くなる。  宝石で飾りたてられた美貌の黒エルフを眺めて、ヘンリックは重いため息をついた。華奢な頚だ。リューズの細頚など、一刀で打ち落とせる。しかし、長年の同盟者を、自らの手でほふるのは気が進まない。だが、敵と味方に分かれてしまえば、そんな世迷いごとは通用すまい。それが戦というものだ。  今までも、そのようにして多くの血が流れた。  リューズの金色の目が眩しいような錯覚をおぼえて、ヘンリックは目を細めた。  「ヘンリック、我が友よ、俺は戦いに飽きた。これ以上血を流し続けても虚しいばかりだ。これで最後にしたい」  不思議なほど無邪気な笑顔を見せ、リューズは短刀で傷つけた指先を舐めた。傷がふさがらないのか、リューズの指先には、まだ赤く血の滴があふれ出している。  「お前は血に飢えた男だと思っていた」 容赦なく敵の兵士を惨殺してきたリューズの戦果を思いだし、ヘンリックは正直に言った。 「俺が奴等を殺すのは、奴等が俺を殺そうとするからだ。まがまがしい、金髪の悪魔どもめ。奴等が、女を奪い、麦を焼き払うのをやめるというなら、俺は誰も殺さない」  リューズは憎しみを隠そうともしない口調で、言い放つ。 「リューズ、知っているか? 金髪の連中は、お前の事を『砂漠の黒い悪魔』と呼んでいるそうだ」  ヘンリックが皮肉めかして言うと、リューズは何も答えず、ただにっこりと笑って見せた。  「領土に戻ったら、息子の中から人質を選ばねばならないな。金髪の連中ばかりいる所へ遣るんだ。さぞかし俺の息子は目立つだろう」  長い戦いのせいで、部族間の対立は根が深い。停戦が整ったとはいえ、ついこの間までは敵地だった場所へ、息子を送り込まなければならないのだ。 「ヘンリック、お前の息子と俺の息子は、きっと気が合う。友達になってやってくれと、お前の息子に伝えて欲しい」  リューズは、戦の勝ち負けについて考えている時よりも、よほど不安そうに見えた。親馬鹿な友人が微笑ましく、ヘンリックは笑いながらリューズの背中を叩いた。 「がらにもなくメソメソするな。今夜は宴席を張るらしいじゃないか。久しぶりに飲み明かそう」 「お前に付き合って、酔いつぶれるのはごめんだな」  リューズは珍しく苦笑した。 「お前が弱すぎるんだ、リューズ。酔いつぶれた不意をつかれて、命をとられないように気をつけた方がいいな。何なら、俺の兵を護衛に貸すが?」  きらきらしい黒エルフの従僕をちらりと見遣って、ヘンリックは言った。こんな華奢な兵では、いざ族長の身を護らねばならない危機に直面しても、自分の体を盾にしてリューズをかばうのが精々ではないかと思えた。しかし、リューズは笑いながら首を横に振った。 「心配はいらない。3人とも魔法を使うから」  ヘンリックがもう一度振り返ると、黒エルフ族の3人の少年は、おそろしいほど無表情な目で、じっとヘンリックの目を見つめ返してきた。 「お前たち黒エルフは、油断できない連中だ」  ヘンリックは、独り言のように呟いた。 「なんなら一人進呈するぞ。なにかと役にたつ。3つ子だから、どれでも同じだが、選びたければ選んでもいい」  リューズが、薄く唇を開いて、白い歯をのぞかせた。 「いや…遠慮しておくさ。3人そろっているのが、お前の美学だろう」  ヘンリックは肩をすくめ、苦笑した。リューズは目を細め、ただ、にやりと笑っただけだった。 -----------------------------------------------------------------------  1-2 : 同盟の子供達 -----------------------------------------------------------------------  磨きあげられた銀の刀身に、青い瞳がうつっている。深い深い、サファイアのような青。長く海辺で暮らすうちに、海の青で瞳が染め抜かれたのだ。海エルフの子供は、例外なく、そう教えられて育つ。  海エルフのイルスは、豪華な短刀に映り込んだ、自分の青い瞳を眺めていた。黄金と真珠で飾られた銀の短刀は、長い戦いに終止符を打った、四部族同盟の印だ。  武器というより、宝飾品に近いその短刀には、鞘がなかった。海エルフ族の族長ヘンリックは、海岸の街の職人に命じて黄金とサファイアの鞘をこしらえさせて、息子に持たせた。数日前までは敵地だった場所へ、人質として赴く息子への、はなむけのつもりだろう。  父、ヘンリックが、何を基準に自分を人質に選んだのか、イルスには見当がついていた。イルスは妾腹の末子で、かばってくれる母親もすでに亡く、人質にやることに、反対する者が誰もいない。それが理由だ。  人質に選ばれた事を告げるとき、父は多くの言葉を費やさなかった。ただ一言、トルレッキオへ行けと言い、鞘に収めた同盟の短刀をイルスに手渡した。トルレッキオとは、停戦条件により人質を差し出すための場所、山エルフ族の士官学校がある街の名だと聞いていた。  イルスの母が死んでしばらく経った頃、まだ幼く、肉親の愛情を必要としていたイルスを、父は不要になった者を扱うような無関心さで、首都から遠く離れた海辺にすむ剣豪のもとへ弟子入りさせた。父はその日、イルスを見送りに現れたが、その時にも、父親らしい言葉のひとつさえ、口にしようとしなかった。  海辺の庵で、14歳になる今まで剣の修行に明け暮れ、突然、父の命令で首都に呼び戻されたと思ったら、今度は人質として異国へ赴けと言う。  数年ぶりに会った父は、イルスの記憶の中にいた男より、いくぶん年を重ねていたが、相変わらず、精悍で凛々しく、逞しい、族長の名にふさわしい者のように見えた。浅黒い肌に、真冬の海のような暗めの青の瞳、額に頂いたマルドゥーク家の家長の証しである額冠(ティアラ)、金の短刀を握ってイルスに差し出した手は、14歳になった今でも、イルスのものより大きく、力強かった。  幼い日、首都を追われ、母亡きこの世でただ一人、イルスに優しくしてくれた同腹の兄と引き離されることに泣いて抗ったイルスを、遠い海辺の街に行く馬車に投げ込んだのも、これと同じ父の手だった。イルスは父に、一人前の男として扱われたかった。あの時のように、無様に馬車に投げ入れられるのは、二度とご免だ。  イルスは黙って短刀を受け取った。尋ねるべき事は色々あった気がするが、うまく言葉にならなかったのだ。それきり、イルスは父と顔を合わせていない。  刀身に映る瞳の青は、確かに海の色に酷似していた。故郷の海を、小さく切り取って持ってきたかのようだ。トルレッキオには海がない。ここで命を落とすことがあれば、もう二度と海を見ることはないだろう。  「役目ご苦労。見送りはここまででいい」  短刀を鞘に戻して、イルスはそれをベルトに挟んだ。高い丸天井に反響し、イルスの声は予想以上によく通った。 「殿下」  イルスの侍従として、内陸への旅に付き添ってきた兵士達が、石の床に膝をついた。 「しばらくのご辛抱です」  青い目の同胞たちが、強ばった顔でイルスを見上げている。彼らが口々に告げる別れの言葉に何と答えるべきかわからず、イルスはただ彼らに微笑みかけた。  「お部屋の用意が整いました」  いつの間にか、部屋に現れていた山エルフの老人が、別れを惜しむ侍従たちを追い払うように言った。 「ご案内いたします。さあ、どうぞ」  よく響く声で、老人は言う。追い立てるような早口だ。  「…帰路も気を抜くな」  侍従達に声をかけ、イルスは山エルフの老人の後を追った。 「殿下」  何を告げるでもない、侍従達の声が背後から聞こえてきた。期限のない、人質としての生活が始まろうとしている。追いすがる同胞の声を聞きながら、イルスは振り向かずに歩いた。   * * * * * *  「こちらでございます」  山エルフの老人は、黒檀の扉の前で立ち止まった。 「鍵は後ほどお預けいたします。  お部屋付きの執事がおりますので、ご用の際にはお申し付けください」 真鍮の鍵をイルスに見せて、山エルフの老人は言った。相手が聞いているかどうかなど、まるで頓着しない口調だ。案の定、イルスがうなづくのも確かめずに、老人は黒檀の扉を開いた。  かすかな音さえなく、扉は開いた。中は、石造りの床に絨毯を敷いた居間で、イルスには馴染みのない、山エルフ風の調度品が置かれていた。重たい木でつくられた家具が、壁を埋めている。どれも古い物のようだが、きちんと手入れされ、つややかに磨かれていた。  「必要な物があれば、用意させますので、お申し付け下さい。  国元からお好みの調度品をお取り寄せになっても、よろしゅうございます」 冷たい口調で言って、老人はイルスに鍵を手渡した。 「ですが、お部屋の改造は、もうご遠慮ねがいます」  山エルフの老人は、灰色の目でイルスを睨み付け、念を押した。  「もう?」  わけがわからず、イルスは聞き返した。 「ここは由緒ある学院でございます。 いかに王族のご子息のご要望とはいえ、そう何度も壁を抜くわけには参りません」 「壁を抜く…!?」  語気の荒い老人に気圧されて、イルスは居間の壁を見渡した。どの壁も、変わった様子はない。  「古ぼけた壁の一枚や二枚、ケチケチするなよ、貧乏くさい」  突然降ってわいた声に、イルスは飛び上がりそうになった。確かにさっきまでは、誰の気配もしなかったはずの居間から、その声は聞こえた。  「誰だ」  とっさに、帯びていた剣に手をやり、イルスは誰何した。声がした辺りに目をやると、長椅子の背越しに、白い腕が現れるのが見えた。  「イルス・フォルデス・マルドゥーク、だね?」  歌うような口調で名を呼ばれ、イルスはうろたえた。  長椅子に寝そべっていたらしい人物が身を起こし、こちらを向いた。象牙のような白い顔に、長いまっすぐな黒髪、猫のような瞳。黒エルフだ。痩せた小振りな顔の中で、長い睫に飾られた黄金の目が、宝石のように見える。  黒エルフを見るのは、初めてだった。魔法部族の少年の華奢な美貌を前に、イルスは呆気にとられるばかりだった。  「なんて綺麗な青い瞳だ。気に入ったよ、イルス」  くすくすと笑い声をたてて、黒エルフは言った。耳障りの良い美声で誉められているのが自分のことだと気付くまで、イルスは眉間に皺を寄せて悩まなければならなかった。美貌の黒エルフが、他人の美しさについて話すなどと、想像も及ばなかったからだ。  「スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下です」  不機嫌そうな口調で、山エルフの老人が告げた。いつまでも名乗らない黒エルフに苛立ったのだろう。それを元々知っていた様子で、黒エルフの少年はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。 「君と同様、同盟の生け贄としてここへ送られてきた身の上さ。 どうやら、屠殺場に引き出されるまで、まだいくらか時間がありそうだ。 余生をともに過ごす相手が、君のようにマトモな奴で嬉しいよ」  黒エルフのスィグルは、長椅子の背に頬杖をつき、値踏みするような目でイルスを眺めてくる。  黒エルフ族の族長リューズと、父ヘンリックが戦友だという話は聞いていた。目の前にいる黒エルフの少年は、そのリューズの息子ということになる。「砂漠の黒い悪魔」と呼ばれる族長リューズの血を引くにしては、スィグルは華奢すぎるように見えた。父同士は、数度にわたる同盟関係によって友情を交わしたのかもしれないが、イルスは、女にもやり込められてしまいそうに、ひ弱なスィグルと付き合っていく自信がなかった。なにしろ、この皮肉屋にどんな言葉をかけていいかすら、思いつかないのだ。  山エルフの老人が、苛立った咳払いをした。はっと我に返って、イルスは青白い山エルフの顔を見上げた。 「このお部屋の鍵でございます」  山エルフの老人は、真鍮製の大振りな鍵をイルスに差し出した。 「学院におられる間は、ご自分のお屋敷とお思い下さって結構でございます。 ですが、くれぐれも…」 「壁を壊すのはやめろ」  スィグルに言葉を遮られて、老人はますますムッとした。スィグルが無遠慮に笑い声をあげる。 「お前達の伝統が何なのかなんて知らないが…ここの部屋は僕には狭すぎるのさ。 どうせなら、部屋は広い方がいい。イルスだって賛成してくれると思うけどな」 「お言葉ですが、当学院の規則で、学寮ではそれぞれ個室をお持ちになると決まっております。 どんな理由がございますとも、お二人での同居は認めておりません」 「同居!?」  思わず大声で言葉を挟んでしまったイルスは、山エルフの老人と黒エルフのスィグルの視線を浴び、慌てて口元を覆った。  「ご存知なかったのですか」  怪訝な顔で、老人は尋ねた。 「聞いてない。どういうことだ」  きょとんとしているスィグルに目を向けはしたが、結局、イルスは山エルフの老人に尋ねた。 「僕の父の意向だよ。君も承知してるんだと思っていたけど」  答えはスィグルの方から返ってきた。イルスは軽い目眩を感じて、こめかみを押さえた。恐らく、父ヘンリックは、イルスに伝える必要がないと勝手に決めてしまったのだろう。父の話は、大抵いつも説明が足りない。  「知らなかったのなら、とんだ手違いだけど… もう部屋を分けていた壁は壊させてしまったし、あきらめてもらうしかないね」 「…………」  陽気に語るスィグルの顔を見つめたまま、イルスは言葉を探していた。  「何とかならないのか?」  山エルフの老人に、イルスは尋ねた。 「お気の毒です」  老人は、本当に気の毒そうな顔をしていた。  イルスは微かにうなだれ、老人が差し出したままだった真鍮の鍵を受けとった。 -----------------------------------------------------------------------  1-3 : 銀の蛇 ----------------------------------------------------------------------- 「怒ることないだろ。同じ部屋に住んでるからって、別にとって食いやしないさ」  からかうように言って、スィグルはイルスに右手を差し出した。 「何のまねだ」  突きつけられた白い手を見おろして、イルスは動揺した。 「手を握るんだ。黒エルフ式の挨拶だよ、知らないのかい。 同じ運命に翻弄される者同士として、最大の親愛を示したつもりだったんだけどね」  スィグルが不満そうに眉をひそめたので、イルスは気がすすまないまま、スィグルの手を握った。 「最初が肝心だと思うから、言っておくけど…」  握ったイルスの手を軽く降りながら、スィグルはにこやかに話し始めた。スィグルの手首を飾る銀の腕輪が、しゃらしゃらと涼しげに鳴る。 「僕を見た目で判断すると、痛い目にあうよ」 「見た目で判断されたくないなら、その格好を何とかした方がいいぞ」  銀と宝石で飾りたてられたスィグルの黒髪をうんざりと眺めて、イルスは忠告した。 「親切だね、君は」  笑い声をたてて、スィグルはイルスの手を強く握り返してきた。  そのとたん、スィグルの腕輪に見えていたものが、銀色のヘビになって鎌首をもたげた。 「うわっ」  手首の動脈に銀色の牙を突き刺されて、イルスは思わずスィグルの手を振り払った。そして、とっさに剣を抜こうとして、イルスは自分の手首に傷がないのに気付いた。  「黒エルフの右手は、君がその腰に帯びている剣より危険だって、憶えておくと便利だよ、イルス。右手を握りあうのは、相手を信用してるって示すための儀式なんだ。 相手を認められないなら、差し出された手をとっちゃいけない」  にっこりと笑って、スィグルは言った。イルスの前にかざしたスィグルの右手首には、元通りの銀の腕輪がはめられている。幻覚だったのだ。  「この世界を案内しよう、イルス」  右手を引っ込めると、スィグルはイルスの答えも聞かずに、扉に向かって歩き出した。   * * * * * *  「この学院の建物は、トルレッキオ山の中腹に建ってる。 南側から見るのと、北側から見るのとでは、建物の階数が違ってるんだ」  学生寮のテラスから見おろせる建物を指さして、スィグルは説明した。イルスが部屋を割り当てられた建物は、敷地の中でも一番北、つまり山頂側に位置しており、学院を一望できた。 「だから、だいたいどの建物にも、地上階というのが決められている。その階を基準にして、地上2階とか、地下3階とかいうんだ。これも憶えておくと便利だよ、イルス」  虫も殺さないような顔で、スィグルはにっこりと微笑んだ。 「あとは、階段に次ぐ階段に慣れることだね。でも、へたに歩き回って、道に迷うとひどいことになるよ。無計画な増改築を繰り返してるせいで、ずいぶん複雑な構造になってるからね。これだから、金髪の連中のやることは信用できないのさ」  スィグルは尊大な態度で、学院の構造について批判した。たまたま通りかかった山エルフ族の学生たちが、ムッとした視線をスィグルに送ってきたが、それさえも、スィグルは嬉しそうに眺めている。悪趣味なヤツだと、イルスは内心でスィグルをののしった。 「ずいぶん立派な建物だと思うが?」 「イルス、君に僕たちの都を見せてやりたいね」  首をふって、スィグルは嘆かわしそうに言う。 「うるわしのタンジール。砂漠の宝石だよ」  黄昏に沈むトルレッキオ山を眺めおろしながら、スィグルは詩でも詠うようにつぶやく。 「自分の都が他よりよく思えるだけじゃないのか」  もう二度と戻れないかもしれない都だ。 「イルスは思わないのかい。部族を愛するのは当然のことだよ」  うっとりとスィグルは遠くを見つめる目をしている。この黒エルフは、その金色の魔法の目で、はるかに遠い砂漠の都を見通しているのかもしれない。イルスは、スィグルの芝居かがった口調がおかしくなって、無意識に微笑した。 「笑うのって難しいね。イルス。早く故郷に帰りたい。僕もそう思うよ」  スィグルはすらすらと言って、イルスに微笑みかけた。 「僕らはいつまで、この忌ま忌ましい学院にいなきゃいけないんだと思う?」  夕闇の迫る気色に目を戻して、スィグルは淡い微笑を残したまま、独り言のように言った。その問いの答えを知っている者など、いるはずもない。もし、いるとすれば、それは神聖神殿にいる大神官ぐらいのものだろう。四部族同盟が続く限り、イルスも、目の前にいる黒エルフの王子も、この学院で人質として生きていくしかないのだ。もしかしたら、一生をここで終えることになるのかもしれない。  スィグルは、それを知っているように思えたので、イルスは何も答えなかった。先のない一生のことを確認しあったところで、虚しくなるだけだ。  いつまでも黙っているイルスに気付いて、スィグルが振り向き、にやっと笑った。 「そんな、面白くなさそうな顔しないで、景色でも眺めるといいよ、イルス。ここからは、滅多に見られないようなものが見えるんだから」  促されるままに、イルスは目を細めて、遠くの景色を見渡してみた。山陰に落ちようとする太陽は大きく赤く太り、落ち着きのない様子でゆらゆらと揺れている。金色に照らし出された山エルフ風の重厚な学棟は、針葉樹の森の緑に栄えて、美しかった。十数棟の建物を取り囲むように、背の高い学院の塀が続いている。外敵の侵入を阻み、学院の敷地を明らかにするために、その壁は延々と続いてた。気難しい山エルフ族がいかにも好みそうな、防御に徹底した要塞建築だ。  はじめて見る異国の景色は、馴染みがなく、異様なもののようにも思えたが、イルスはその重厚な美しさを素直に感じていた。故郷の都市も、十分美しく華やかだと思っていたが、ここには降り積もる文化の香りがある。スィグルが悪し様に言う程に悪いものには思えない。それを認めることは、イルスには大した苦痛ではなかった。  「ごらんよ、イルス。あれが僕らの世界の果てさ」  学院の外周を囲む防壁を指差して、スィグルはまた、詠うような口調で言った。言葉だけを聞いていると、スィグルはなにやら楽しげだ。 「僕らがここから逃げられないように、ああやって取り囲んでる」  灰色の石組みを遠目に睨み付けて、スィグルはうっすらと顔をしかめた。イルスはスィグルの横顔を見ていた。不敵に振る舞っている黒エルフ族の王子が、きゅうに、とても弱いものに思えた。 「この森と、陰気な学棟が、僕らの世界の全てだなんて、信じられるかい? まるで、たちの悪い冗談だ。この先ずっと、この小さな世界の中で一生を送るなんて、僕はいやだよ」  静かな声で言い、スィグルは首をかしげてイルスを見上げてきた。もっともな話だった。 「…そうだな」  しばらく答えを選びあぐねてから、イルスはやっとそれだけ呟いた。スィグルはなぜか、満足げに微笑した。 「いつか、この学院を出られたら、イルスにもタンジールを見せてあげるよ。それから、僕の持ってるオアシスも。砂漠で見る夕日は、ここのよりずっと綺麗だって知らないだろう。夕暮れにはいつも、タンジールの街に風が吹き抜けるんだ。乾いた砂の匂いと、甘い花の香りがする風だよ。僕のオアシスは、まだ小さい街だけど、そのうち、タンジールにも負けないような街に変えるのが、僕の数ある野望のうちのひとつなんだ。疫病も飢えもない、平和な街をつくるんだ。そこでは毎日、男も女も歌って暮らすんだよ。麦も焼かれないし、家畜も殺されないし、家族がさらわれたりしないんだ」  イルスは、未だ一度も見たことのない砂漠のことを思い描いた。どこまでも砂ばかりが続くという、その光景は、海エルフの首都サウザスの浜辺に少しは似ているのかもしれない。海岸の白い砂が足裏を焼く心地よい痛みが、かすかに記憶の中に蘇ってくる。 「お前の街の名前は、なんていうんだ?」 「グラナダ」  イルスが訪ねると、嬉しそうに、スィグルが答えた。小作りに整ったスィグルの美しい顔が、よりいっそう晴れやかに見えた。 「僕は、必ずあの街に帰るよ。必ず、生きたままで」 「綺麗な所なんだろうな」 「来れば解るよ。きっとイルスも気に入る。君のために、楽士を呼んで、毎日違う新しい歌を歌わせるよ」  楽しげに言って、スィグルは黒エルフの言葉で短く歌を口ずさんだ。イルスは機嫌のいいスィグルを見て、我知らず微笑していた。  「僕は、スィグル・レイラス・アンフィバロウだ。長いからスィグルでいいよ。いつまでここにいるのか分からないけど、当分の間、よろしく」  スィグルはイルスの前に、右手を差し出した。その手首から、銀の腕輪が消えている。しゃらしゃらと音がしたのに気付いて、イルスはスィグルの左手を見た。腕輪はその手の中にあった。  スィグルはイルスに見えるように左手を軽く振ってみせてから、ぽいっと惜しげもなく腕輪をトルレッキオ山に向かって投げ捨てた。銀色の輝きが吸い込まれるように、優雅な弧を描いて谷間に消えていく。  呆気にとられているイルスに、スィグルは悪戯好きな子供のように笑いかけた。 「君のことはイルスでいいよね」  いまさらのように確認するスィグルが急におかしくなって、イルスは思わず声をたてて笑った。そして、差し出されたスィグルの右手をとり、言った。 「イルス・フォルデス・マルドゥークだ。ゆっくりタンジールの話を聞かせてくれ、スィグル」  スィグルはまた、にやりと笑ってイルスの手を握り返してきたが、もう銀の蛇は現れなかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-4 : 継承者 -----------------------------------------------------------------------  「イルスは、どうして人質に選ばれたんだい」  先に立って薄暗い階段を登りながら、スィグルは振り向きもせずに話しかけてくる。意外と足の早い黒エルフの背中を追うために、イルスはかなり努力をしなければならなかった。  学院の中を案内するという名目で、スィグルは石造りの階段を使い、上の階へ行ったり、下の階へ行ったりと、イルスを引っ張り回している。ここを曲がると図書室への近道に出るのだとか、西にある別の寮に行くには、この真上の階の渡り廊下を使うといいとか、申し訳程度に説明をしてはくれるのだが、この学院に着いたばかりのイルスが、そんな複雑な構造を一気には憶えられるはずもない。たちの悪いことに、スィグルもそれは承知しているらしく、あまり熱心に説明する気がないようだ。  微かにシャラシャラと金属の鳴る音がするのは、スィグルが身に付けている銀の飾り物が、ぶつかりあって鳴る音だろう。その音が規則正しく続いているのは、スィグルが一定の速度で階段を登っているせいだ。見た目に華奢で、まるで女のようだと見くびっていた黒エルフが、自分よりも健脚なことを思い知らされて、イルスは悔しかった。 「どうしたんだい、遅いよ。もうバテたのか?」  ひょいと振り返ったスィグルの顔は、イルスの返事を聞く前から、もう笑っていた。 「平気だ」  ムッとした口調で、イルスは答えた。嘘だった。イルスが肩で息をしているのを見て、スィグルはまた、ニヤッと歯を見せて笑った。  「人質に選ばれたわけは?」  いくらかゆるめた歩調で、スィグルはまた階段を登り始めた。 「高度な政治的判断てやつじゃないのか」  不機嫌なせいで、イルスは普段より大きな声で答えた。 「俺は妾腹で、母上はもうとっくに亡くなったし、もともと大した貴族じゃなかった。成人前で、特にこれといった官位もないから、俺が死んでも親父殿は困らないのさ。息子なら他にもまだ、4人残ってるからな」 「へえ、そうなんだ」  なにがおかしいのか、スィグルはなぜか声をたてて笑っている。薄気味悪いような、腹が立つような気分で、イルスはますます憮然とした。  「うちはね、あと16人いるんだ。僕は第16王子。同腹の弟が1人いるだけで、あとは全部腹違いの兄が上に15人だよ」 「第16王子…」  あっけにとられて、イルスは繰り返した。スィグルがまた笑い声をたてる。 「砂漠では、よく子供が死ぬからね。父上は念のため、たくさん子供をつくっておいたんだ。でもそれが全員、意外と生き延びてさ。今じゃ、10人いる母上たちが、王宮の部屋割りで毎日モメる始末なんだ。面白いだろ」  さも楽しげに、スィグルはイルスをちらりと振り返る。笑っていいものかどうかわからず、イルスは驚いた顔のまま、スィグルの視線を浴びるしかなかった。そもそも、面白がるような話でもない。 「父上は昔、好きな女がいたから、その人を正妃にしたんだ。でも、その人が妊娠して王宮から下がっている間に、権力争いのせいで殺されちゃってね。腹をたてた父上は、謀殺の疑いのある貴族の娘を全員、妾妃として召し上げた。それが今いる10人の母上で、そのうちの1人が僕の母だ。亡くなった正妃と同じ苦しみを味わわせた上、愛のない夫に耐える苦痛を与えて復讐するんだと父上は言ってる。執念深い性格なんだよね、多分」  面白おかしい昔話でも話して聞かせる口調で、スィグルは淀みなく説明している。 「女は愛せないけど、自分の血を分けた子供はみんな、分け隔てなく可愛いって父上は言ってたよ。うちは、誰を人質にやるか、くじ引きで決めたんだけど、僕が当たりを引いたときは、父上は泣いて別れを惜しんでくれたよ。まあ、誰が引き当てたところで、父上は同じようにしたと思うけどね。イルスの父上も、特別イルスのことが必要ないなんて思ってないと思うなぁ。案外、君んとこでも、裏でくじ引きしたのかもしれないだろ?」  そこまで聞いて、イルスはやっとスィグルの言いたいことが理解できた。 「別に俺は親父殿を恨んでるわけじゃない」 「あれ、そうなの? せっかく慰めてみたのに、残念だよ」  本当に残念そうに、スィグルは顔をしかめる。  「お前…変わってるな」  本心から、イルスは言った。とんでもない奴と、同じ部屋で暮らすことになったのではないかと思うと、なにやら不安だ。これならいっそ、金髪に青い目の異民族との同居の方が、いくらかマシかもしれない。 「他の部族の風習は、ちょっと変わってる風に見えるものだろ」  もっともらしくスィグルは言う。 「黒エルフって、みんなお前みたいな感じなのか?」 「どうだろう」スィグルは真剣に悩んでいる気配だ。 「タンジールを出発するときに、僕の守り役が、殿下、客地での奇行はお慎み下さいって言ってたから、案外、僕はちょっとズレてるのかもしれないよね」  イルスは少し安心した。こんな奴が砂漠にうようよいるのかと思うと、気分的に穏やかでない。  「着いたよ」  突然スィグルが立ち止まったので、イルスはとっさに避けきれず、黒エルフの背中にぶつかった。スィグルの髪飾りがシャランと冷たい音をたてる。 「なにやってんの、イルス」  ザッと身をひいて、スィグルはかみつきそうな顔をした。黒エルフでは、相手の身体に触るのは、たとえ偶然であっても、絶対に避けなければいけない不作法なことなのかもしれなかった。 「悪かったよ」  なんだか情けない気分で、イルスは謝った。ぶつかった時、スィグルの背中に浮き上がっている肩甲骨の感触がした。見た目の通り、スィグルはかなり華奢な体格のようだった。それでも、これだけの階段を登ってきて、息が乱れていない。  呼吸を整えるために深く息をつきながら、イルスは長旅で鈍った身体を鍛え直す決意をした。   * * * * * *  スィグルがイルスを連れてきた場所は、学院の食堂だった。階段のすぐ横にあった薄暗く短い廊下を通り、黒檀の大扉をくぐると、天井の高い広間が現れた。漆黒の大理石を敷き詰めた床に、天井の梁からつるされた無数のランプが映り込んでいる。星空をうつした水面を歩いているような、不思議な感覚をおぼえる。  「ようこそ、殿下」  食堂の給仕役が、スィグルの顔を知っているらしく、にこやかに近づいてきた。 「今日は連れがいるんだ。2人分たのむね」  定席があるのか、スィグルは案内を待たずに、店の奥に歩いていく。給仕役のお辞儀を受けながら、イルスは大人しくスィグルの後についていった。  その席は店の一番はしにあり、窓から学院の敷地を見渡せる場所だった。イルスに席をすすめてから、スィグルは向かいに座り、絹のクロスをかけたテーブルに肘をついた。  「悪いんだけど、ここの料理はものすごく不味いらしいよ」  にやにやしながら、スィグルは忠告した。イルスは、訳が分からなくなってこめかみを押さえた。確かに、この店はかなり空いている。 「それを知ってて連れてきたのか」 「いや、まあ、そうだといえばそうだけど、僕は毎日ここで食事してるんだ」  少し困ったように、スィグルはいいわけをした。 「不味いって評判らしいけど、僕には料理の味がわからないんだよ」 「お前の好みには合うってわけだな」 「さあ。よく分からない。食事には興味ないから」  給仕役がやってきたので、イルスはそれ以上なにも聞かなかった。  給仕役は、イルスとスィグルの前に、クリスタルのグラスを恭しく置き、血のような暗い赤色の葡萄酒を注いだ。ふわりと濃厚な葡萄酒の香りがたちのぼる。山エルフは葡萄酒を作るのが得意な民族だと聞いているが、この店で出している酒も、かなり良い品物のようだった。 「学院が酒蔵を持っているらしいんだ。山の連中は酒を飲むのが好きで、これがないと生活できないんだとか」  スィグルは葡萄酒のにおいをクンクンとかいで、不思議なものでもみつけたように首をかしげる。 「殿下、お気に召さなければ、別の樽の葡萄酒をお持ちします」   給仕役が恭しく言う。 「いや、僕は葡萄酒の味も匂いも、全然理解できないから、水でも酒でもなんでもいいよ」  給仕役が、やはり恭しくお辞儀をする。スィグルは本当に葡萄酒の善し悪しが分からないようだった。イルスは軽くグラスに口をつけ、それが間違いなく上質の葡萄酒であることを確かめた。すくなくとも、味のわからない黒エルフに飲ませるようなものではない。ちらりと不安げに給仕役がイルスを見た。 「…いい酒だな」  イルスが言うと、給仕役は満足げに微笑み、軽くお辞儀をする。 「こちらの殿下にも、同じ料理をお出しすればよろしいですか?」  スィグルは尋ねられて首を振った。 「イルスには、普通の料理でいいよ。好き嫌いはない?」  スィグルは、軽く首をかしげて尋ねてくる。 「……たぶんな。ここの連中が何を食ってるのかにもよる」  慎重に、イルスは答えた。 「鴨はいかがですか」と給仕役。 「食える」とイルスは答え、少し安心した。 「うえ」とスィグルが低く呻いた。 「殿下は肉料理がお嫌いなんでございますよ」  給仕役が、気を効かせて説明してくれた。別に、ここの鴨料理が最悪だという意味ではないらしい。 「それでは、ローストした鴨に特製のソースをかけてお持ちします、殿下」  どちらに話しかけているのか定かでない口調で言い、給仕役は何度もお辞儀をしながら下がった。ペコペコと頭をさげる様子がおかしいのか、スィグルは頬杖をついたまま、くつくつと喉を鳴らして笑っている。 「僕やイルスの額冠(ティアラ)を見たせいじゃなくて、あいつは、誰にでも殿下って言うんだよ。そう呼ばれて怒る奴なんて、そうそういないだろ。そんなヤツは、この学院に一人しかいないんだからさ」 「…どういうことだ?」  スィグルが、いかにもイルスもわかっている風に言うので、イルスは不安になった。トルレッキオに到着したばかりで、この学院にどんな顔ぶれがそろっているのかも知らないイルスに、そんな詳しい事情などわかるわけがない。スィグルはふと笑うのをやめて、不思議そうにイルスの顔を見た。 「本当に知らないの?一人いるだろう、『殿下』より身分の高いヤツが。知ってるはずだよ、イルス」 「待ってくれ、本当に知らない。俺は、人質に選ばれたその日に出発して、今日、ここに到着したばかりなんだ。本当に何も聞いてないんだよ」  軽い目眩をおぼえながら、イルスは説明した。スィグルがあっけにとられる顔を、イルスは初めて見ることができた。 「イルス、君、やっかいごとを押しつけられやすい性格だねって言われない?」 「ああ、よく言われる」 「正しい評価だね。同情するよ。ろくな説明もしてもらえずに、今夜にも寝首をかかれるかもしれない場所へ、人質として送り込まれるなんて。まあ、何も聞かずに平然と言うことを聞いているイルスにも問題あると思うけどさ」 「それも、よく言われるな」  同盟の短剣を手渡す時の父ヘンリックの顔を、イルスは思い出した。何か聞かなければいけないと思いはしたが、何から話していいかまるで見当もつかず、イルスは結局何も言わずに短剣を受け取ったのだ。父を前にすると、なぜかいつも、思っていることが言葉にならない。  同盟のための人質になるのがイヤだと言ったところで、誰かが代わってくれるわけでもない。息子がトルレッキオで客死することも十分考えられると、父が知らないわけでもないだろう。それを考えた上で決めたことだ。トルレッキオへ行けと命じるのは、そういう意味だ。場合によっては、そこで死ねと命じられたのだ。それ以上、なにを尋ねればいいのか、イルスには今でも言葉が見つけられない。気をつけろとか、生きて戻れとヘンリックが言いさえすれば、あるいは、再びこの目で故郷の海を見る日が来るのかと尋ねられたかもしれない。  「でも、別に俺は平然としちゃいない」 グラスの中でゆれている異郷の酒を見おろしたまま、イルスは呟いた。それは、自分の耳にも、充分、泣き言のように聞こえ、イルスは情けなくなってため息をついた。 「泣いてもいいんだよ、イルス。なんなら僕の胸をかそうか?」  にやりと笑って、スィグルが楽しそうに言う。 「からかうな」  苦笑しながら、イルスは葡萄酒を飲んだ。 「それより、さっき言ってた『殿下』より身分の高い一人っていうのは誰だ?」  イルスが言うと、スィグルは思わせぶりに片眉をつりあげ、腰の飾り帯から何かを引き抜いた。テーブルの上に差し出されたのは、真珠と黄金で飾られた銀の短剣だった。 「この紋章を持ち物に刻むのを許されてるヤツがいるんだよ」  スィグルが示したのは、短剣の柄がしらに象眼された、神聖神殿の紋章だった。純白にきらめく貝で象眼されたその紋章は、大きく広げられた一対の翼の形をしている。持ち主のない翼だけが羽ばたく、神殿の紋章だ。  この翼の紋章を許されているのが何者か、王族に生まれていれば知らないはずはない。イルスも、もちろん、それに関する教育を受けていた。この紋章は、神聖神殿を継承する大神官と、その血を分けた一族を表すものであり、同時に、神殿が大陸全土に及ぼす強い支配力の象徴でもある。  今回の四部族同盟についても、そもそもの始まりは大神官の調停によるものだと聞いている。山エルフ族が神殿と結び、その威光を借りて、自分たちに有利な条件のもとに同盟をもちかけてきたのだ。神殿が召集すれば、大陸全土の部族を動員しての討伐軍を編成することも可能だとあっては、残る三部族の中に、同盟を拒否する無謀さを持ち合わせた族長など、いるわけがない。領土争いは平和裏に終結し、神殿は平和の使者として、大陸全土にその名を知らしめた。  だが、当の領土争いの火種を撒いたのも、それを鎮圧したのと同じ、神聖神殿だというのは、今では知らない者のいない事実だ。大陸全土から、神殿は恐れられていた。民衆にとっては、慈悲深い神の代理人である神聖神殿だが、部族を率いる者たちにとって、白羽の紋章は恐怖の対象でしかない。  「ヤツは、ここではシュレー・ライラル・フォーリュンベルグと名乗ってる。山エルフ族の王族の一人として、学院に在籍してるけど、実際には神聖神殿の血を引いてて、もっと長い名前を持ってるのさ。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス『猊下(げいか)』、神籍だ。次の大神官の最有力候補だって噂だよ」 「…長い名前だな」  うんざりして、イルスは言った。 「ディア・フロンティエーナっていうのは、神殿の直系血族だってことを表す称号だろ。それから、ブラン・アムリネスっていうのは、官職の名前らしいよ。古代語で、えーと…静謐(せいひつ)なる調停者、だっけ? 忘れたけど、とにかく、そうやって分けて覚えるといいよ。ライラルは僕らのと同じ洗礼名だから、要するに、名前はシュレー、そういうことだよ。神聖なる一族の直系の息子にして、静謐なる調停者シュレー・ライラルだ」 「ただのシュレーじゃダメなのか?」  憶える気もせず、イルスは軽く首を振った。 「だめだよ、マルドゥークの末裔イルス・フォルデス」  楽しそうにスィグルは答える。 「自分の名前が長くていやだと思っていたけど、考えを改めなきゃいけないみたいだな。上には上がいる」 「そういうことだよ、マルドゥークの末裔イルス・フォルデス。僕の名前を憶えてるかい?」 「スィグル…なんだっけ? スィグル…なんとかアンフィバロウだ」 「僕はレイラス殿下だよ、イルス・フォルデス・マルドゥーク。スィグル・レイラス・アンフィバロウだ。洗礼名を忘れるなんて、君は失礼な海エルフだな、イルス・フォルデス・マルドゥーク」  いかにも楽しそうな口調で、スィグルがからかう。イルスは頭を抱えた。 「イルスでいいよ。俺は長い名前を憶えるのが苦手なんだ」 「まあ、僕も別にスィグルでいいけどさ…さっきの猊下の名前は憶えておいた方がいいよ。なんなら、毎晩寝る前に10回ずつ暗唱するのに付き合おうか?」  急にまじめな顔をして、スィグルが言う。イルスはため息をついた。 「余計なお世話だ。そんな雲の上にいる神籍のヤツになんて会うこともないさ。名前を憶えてなくてもバレない」 「そうでもないよ」  またニヤリと口元をゆがめるスィグルを見て、イルスはうなだれた。どうしてこの黒エルフは、自分をからかうのがそんなに気に入ったのだろうか。イルスは苛立ちを紛らわせようと、グラスの葡萄酒をあおった。  「その猊下が同盟の人質の1人だって知らないんだろう」  葡萄酒を吹き出しかけて、イルスはむせた。スィグルは仕掛けていた落とし穴に誰かが落ちたのを見たように、気味良さそうな笑い声をたてた。 「なんで神官が同盟の人質になるんだよ!?」  テーブルに置かれていた布で口元を拭いながら、イルスは言った。 「だから、最初に言ってるじゃないか。例の猊下は、山エルフの王族ってことで来てるんだよ」 「どうして?なんでそうなるんだよ」 「大神官の継承者でありながら、山エルフの継承権も持ってるんだってさ。イルスや僕みたいに、ゴミみたいな継承権じゃないよ。大神官の継承権は第3位、山エルフの継承権なんて第1位だ。山エルフの次期族長だった男が、大神官の娘と駆け落ちしたのさ。その二人の間に生まれたのが、例の、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下。次期大神官は、現職の指名によって決まるしきたりだから、彼が選ばれるのは時間の問題だってさ。なのに今は、神殿を出て、父親の故郷である山エルフ族の王族におさまって、名前も変えたってわけ。だけど、山の連中はみんな、彼のことをブラン・アムリネス猊下と呼んでるようだよ」 「なんで、そんなやつが人質なんかに?」  心底驚いて、イルスは尋ねた。スィグルの顔から急に笑いが消える。 「さあねえ、神様のお戯れってやつじゃないか?哀れな人質の境遇を御自らご体験遊ばすという計画だろう。白い連中のやりそうなことさ。冗談じゃない」 「………」 スィグルの長い睫に縁取られた黄金の目に、一瞬、明かな憎悪がよぎるのを見て、イルスは沈黙した。スィグルはそのまま目を細め、絹の布で覆われたテーブルの中央あたりをじっと見おろしている。  「殿下、料理をお持ちいたしました」  給仕役の声を聞いて、スィグルはハッとした風に顔をあげた。 「うわ、本当に鴨を焼いてきたんだな」  顔をしかめるスィグルを無視して、給仕役はうまそうに焼けた鴨をイルスの前に置いた。次々と料理の皿がテーブルを埋めていくが、スィグルの前にはほんの少しの野菜料理が並ぶだけだ。  「けっこう腹がへってきたね。どんどん食べて、イルス」  にこにこと愛想よくイルスに皿をすすめて、スィグルは遠慮する気配もなく、自分の料理に手をつけ始めた。 「自慢のソースでございますよ、殿下」 給仕役はお辞儀をして、後ろ歩きのまま歩み去った。鴨の上に、どろりとした緑色のソースがかかっている。かすかに苦みのある匂いが漂ってくるが、これは山エルフ風の味付けなのかもしれない。  食器を手にとって、イルスは鴨を一切れ口に運んだ。 「どんな味だい、イルス」  興味深そうに、スィグルが尋ねてくる。 「……ものすごく不味い」  口の中のものを呑み込んでから、イルスはひきつった声で答えた。本当に、今まで食べたもののなかで、一、二を争う不味さだった。 「やっぱり、本当にこの店って、不味いんだなあ」  やっと納得できたという様子で、スィグルが嬉しげにうなづく。 「野菜はうまいのか?」  肉をつつきながら、イルスは低く尋ねた。遠くから、給仕役がそわそわとこちらを見守っている。 「一口食べていいよ」  スィグルは自分の皿から、茹でた芋にソースをかけた料理をとりわけ、イルスの方に押してよこした。材料の見当がつかない、うす赤い透明なソースがかかっている。イルスは一口でそれを食べた。 「どうなんだい」 「……………」  芋をかみ砕くイルスを、スィグルは葡萄酒を飲みながら眺めている。 「こんなもの、よく毎日食えるな、お前」  二杯目の葡萄酒を自分で注いで、イルスはそれを飲み干した。まともなのは葡萄酒だけだ。甘いような苦いような、まとまりのないソースの味が、のどの奥に残っているような気がして気分が悪い。 「僕、食べ物の味が全然わからないみたいなんだ」 「そうらしいな」  平然と微笑むスィグルを、イルスは恨みのこもった目で睨んだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-5 : 決闘 -----------------------------------------------------------------------  「戦が終わったなんて信じられない」  小さなテーブルに気怠げに頬杖をつき、スィグルは壁際の席から、大理石の広間を見渡して呟いた。  スィグルが常連になっているという店の料理は猛烈に不味く、とても食べられたものではなかった。かなり空腹だったはずのイルスが、すっかり食欲を失ってしまったのを見て、スィグルは店の料理の不味さが自分の想像以上だったと言い、イルスを別の店に連れていったのだ。  こちらは打って変わって盛況だった。壁を象牙色の大理石で飾られ、床には茶と緑色のメノウで幾何学模様が描かれている。山エルフの好む、菱形と長方形を組み合わせた複雑な図柄だ。イルスには馴染みのない意匠だった。  広間に置かれたテーブルには、金髪の学生たちが座り、それぞれの話題で盛り上がっている。ランプの明かりの中で見ても、誰もがまぶしいような白い肌をしている。誰もまじまじとは見つめてこないが、その純白の空間のなかで、イルスとスィグルはひどく目立った。そこはかとない注目を感じ、イルスは居心地が悪かった。  「僕がどうしてあの店を毎日使うか、わかっただろ」  横目でイルスを見て、スィグルは気味良さそうに言う。イルスはため息をついて頷いた。 「でも、料理はこっちの方が数段ましだぞ」 「味がいいって人気らしいよ、ここ。ごらんの通りの盛況ぶりさ。見渡す限り山エルフばかり。まるで敵陣にたった一人、置き去りにされた気分じゃないかい」 「大差ない状況だろ」  むっつりとイルスが呟くと、スィグルは低い声で笑った。かすかだが、語尾があやしい。スィグルは酔っているようだった。  「昔々…神様がこの大陸の生き物を作るとき、白い卵と黒い卵を産んだ。全ての人はその二つの卵から生まれた。白い卵から生まれたのが白系種族。黒い卵から生まれたのが、僕らみたいな黒系種族……」  歌うような抑揚のある口調で、スィグルは誰でも知っている創世神話の一節を話し始めた。スィグルの視線が広間の山エルフたちの上をさまよっているので、イルスはそれが自分に話しかけるための言葉なのかどうか悩んだ。 「違ったのは卵のカラの色だけだろ。神話には、それだけしか書いてない。神様は白い卵と黒い卵を1個ずつ産んだって書いてあるだけだ。それだけだ」 「お前、酔ってるんだな」  苦笑して、イルスは指摘した。スィグルが酒に弱いらしいことがわかって、イルスはなぜか安心した。全く隙のない相手だと思いかけていたが、この人を食ったような黒エルフにも、ちゃんと弱点はある。  「酔った僕は危険だよ。なにしろ嘘がつけないからね」  くつくつと喉を鳴らし、スィグルは懲りもせずに葡萄酒のグラスを上げる。イルスは全く酔いを感じていなかった。もともと、酒には強い血統らしく、酔っても軽く意識が漂う程度までだ。そういえば、父ヘンリックが何度目かに黒エルフ族と軍事同盟を結んだ祝いの席で、黒エルフの族長リューズを酔いつぶれさせたという話を、侍従から聞いたことがある。きっと、スィグルの父親も、酒には弱いたちなのだろう。海エルフに飲み比べを挑むなど、無謀なことだ。 「酔ってなくても、お前は充分危険だ」 「失礼だなあ。素面の時は、僕なりに自制してるんだよ、イルス」  酔いに任せた上機嫌で、スィグルは調子良く答える。 「それじゃ早く酔いを醒ましてくれ」  空になった自分のグラスに葡萄酒を注ぐため、イルスはスィグルから目を離した。 「それは難しい相談だなあ。君がどんどん飲むもんだから、つい、つられて……」  スィグルの言葉が、きゅうに途切れた。嫌な予感がして、イルスは葡萄酒を入れた壷を持ったまま、向にいるスィグルに向き直った。  「なにか用事でも?」  席の後ろに立った一団と視線を合わせるため、スィグルは軽く仰け反るようにして、不自然な振り向き方をしていた。  スィグルの後ろには、数人の山エルフが立っていた。全員が、薄緑の絹のシャツに、革のチュニックを重ねた学院の制服を着ている。同じような顔立ちに、短く刈った金髪のため、イルスには一人一人の見分けがつかなかった。少なくとも、この学院で学ぶ学生には違いないだろう。  「同盟のためにいらっしゃった人質の殿下でいらっしゃいますか」 含みのある口調で、山エルフの少年が言い、スィグルの肩に手を置いた。すぐに振り払うだろうというイルスの予想に反して、スィグルはかすかに肩を動かしただけで、にこにこと張り付いたような微笑を浮かべている。 「恐れ入りますが、この広間は白系専用という規則になっておりまして」 「その上、女人禁制の厳しい掟をご存知ないとは驚きですね、黒い姫君」  笑いながら、金髪の少年たちは言い、宝石で飾られたスィグルの髪を引っ張った。  イルスはむっとした。制服の連中は帯剣している。スィグルは飾り帯にさした同盟の短剣以外には武器もなく、見た目にも華奢な様子だ。山エルフたちがスィグルのことを、人数がかりで喧嘩をしかければ、簡単に打ちのめせる相手だと思っているのが、直感的に読みとれた。愛用の長剣を帯びているイルスとは、目を合わせようともしない。  「やめろ」  不機嫌な声で、イルスは忠告した。 「そいつを甘く見てると後悔するぞ」 「おや」と淡い緑の目をした長身の山エルフが大仰に驚いくふりをする。 「海辺からお越しの殿下もいらしたんですね。どうりで魚臭いわけだ」 「ルガイズューレ」  スィグルが急に楽しげな笑い声をたて、黒エルフの言葉で何か呟いたので、イルスはとっさに腹を立てるのも忘れてしまった。 「おっと失礼、君たちは公用語で言ってやらないとわからないんだね」  肩をゆらして笑いながら、スィグルは酔った口調で続ける。 「クソ野郎」  山エルフの手を払って立ち上がり、スィグルは相手の淡い緑色の目を覗き込んだ。 「…っていう意味だよ、憶えたかい? 忠告するけど、僕を見た目で判断しないほうがいいよ。イルス、なんでか教えてやって」  スィグルの金色の目で見つめられて、山エルフはたじろいでいる。イルスは苦笑して、スィグルの望みの言葉を言った。 「気をつけろ、そいつは魔法を使う」 「そう、正解」  嬉しそうなスィグルの声と同時に、緑の目の山エルフの体が、広間の中央まで吹き飛んだ。途中にあったテーブルや人垣をなぎたおし、山エルフの体は子供に投げ捨てられた人形のように、あっけなく床にたたきつけられた。苦しげに潰れた悲鳴が、広間の中央から上がる。  予想していた以上の力を見せられて、イルスは思わず立ち上がっていた。吹き飛ばされた山エルフは、激しくせき込み、血の混じった液を吐いている。ちょっとした売り言葉への応酬にしては、それは力加減が強すぎた。 「やめろ、スィグル」  広間の中央に歩いていくスィグルの背中を、イルスは鋭い声で呼び止めた。しかし、スィグルはそれが聞こえていないのか、息をのむ人垣を抜けて、床に倒れている山エルフの少年のそばに歩み寄った。  山エルフは、屈辱を味わっている表情をしていた。しかし、スィグルの華奢な顔を見上げる緑の目には、隠しきれない怯えがある。スィグルは唇をゆがめて悪魔的に微笑した。獲物をいたぶる猫に似ている。  「怖かった?」  せき込むたびに揺れる山エルフの胸を、スィグルは砂漠風のサンダルをはいた足で踏みつけ、獲物の青ざめた白い顔を覗き込んだ。 「心配しなくていいよ。もう戦は終わったんだ。殺したりしない」  飾り帯に挟んである短剣の黄金の柄に手をやり、スィグルは恭しくその銀の刀身を引き抜いた。 「君たちがなにもしなければ、僕も何もしない。だけどね、僕は売られた喧嘩は買うよ。そうやって怯えてる君の目、たまらないね。自分より強い相手に挑むなんて、本当に馬鹿だよ」  スィグルが、殺しさえしなければいいと思っているように、イルスには思えた。それに気付いた瞬間、イルスは無意識に走り出していた。悲鳴をあげる山エルフの緑の目にむかって、スィグルが銀の短剣を振り上げるのが見える。広間に立ち尽くす山エルフたちの口から、悲鳴とも怒号ともつかない声がもれた。  「ばか、やめろ!」 短刀を握っているスィグルの右手に飛びついて、イルスは黒エルフの華奢な体を引き倒した。間一髪で難を逃れた山エルフは、つい今までスィグルの姿が占めていた辺りを見上げたまま、悲鳴をあげつづけている。  イルスは、自分の体の下で、スィグルの骨ばった肩が震えているのに気付いた。笑っている。信じられない思いで、イルスはスィグルの顔を覗き込んだ。スィグルは、いかにもおかしそうに小さな笑い声をたてていた。  「イルス、本気だと思ったね?」 「お前は本気だった」  昂揚のため、イルスの声は荒くなっていた。ちらりと倒れている山エルフの方を見やって、スィグルは床に座りなおす。 「こいつ漏らしてる。目玉の一つや二つ、なくしたところで死ぬわけでもないだろうに、情けないヤツだ」  友達をからかっているような気安いスィグルの口調が、今はまがまがしく聞こえる。 「同胞の不名誉を雪ごうっていうヤツはいないのか?」  挑発的な口調で言い、スィグルは言葉もなく立ち尽くしている山エルフたちを見回した。 「それとも震え上がって動けないか? 間抜け面の豚どもが。それでも金髪の悪魔と呼ばれた部族の血を引いてるのか。お前らには冥府の便所掃除がお似合いだ。腰抜けはさっさと帰ってベッドで震えてろ」  綺麗な顔に似合わない罵詈雑言が、スィグルの口からすらすら流れ出る。周りで立ち尽くしていた山エルフたちの顔に、あきらかな怒色がひろがっていく。 「もうよせ」スィグルの腕を引いて、イルスは忠告した。 しかしスィグルは、その上気した顔に嬉しそうな笑みを浮かべ、嫣然と答えた。 「もう遅いよ」  確かにそうらしい。鞘走る音がいくつも鳴るのが、イルスの耳にも、はっきりと聞こえていた。どう考えても多勢に無勢だ。スィグルがどの程度の技量を持っているのか知らないが、故郷の師匠はいつも言っていたものだ。勝ち目のない戦いを挑むのは愚か者のやることで、間抜けな海ネズミに生まれ変わるよりも恥ずかしいことだと。しかし、師匠はイルスにこうも教えた。敵に追いつめられ死を待つほかはない戦友を見捨てて逃げだし、己の命を長らえるくらいなら、ともに戦って死に、卑しい船虫に生まれ変わる方が何倍もましだと。  師匠の教えは矛盾している。それに今まで気付かなかった自分を、イルスは呪った。このまま故郷に戻れずに死ねば、師匠にそれを指摘することは永遠にできないままになるだろう。  「畜生、なんでこうなるんだ」 長剣の柄を握り、イルスは少しためらってから抜刀した。使い込まれた刀身が小気味よく鳴り、マルドゥークの紋章が刻印された、青白い刀身がきらめいた。 -----------------------------------------------------------------------  1-6 : 神々の血族 -----------------------------------------------------------------------  シュレーは自分の手紙に署名を入れ、純白の羽根でできたペンを置いた。流れるような神聖文字で埋められた羊皮紙の上端には、金箔で白羽の紋章が描かれている。黒檀の机に置かれたランプが照らし出した宛名は、神聖神殿の主である大神官、シュレーの祖父の名だった。  手紙を封印するために、シュレーはランプの覆いを開き、血のように赤いロウを炎にかざして溶かした。滴り落ちる赤い滴を丸めた羊皮紙の継ぎ目に垂らし、そこに右手の人差し指にはめた金の指輪を押しつけると、それぞれの皿に羽根と心臓をのせた天秤の図柄が写し取られた。それは『静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)』と呼ばれる官職を象徴する意匠であり、また、彼自身を示す紋章でもある。  シュレーは慣れた手つきで机の端に置かれた銀のベルを取り、それを軽く振った。硬質な音が響いて少したつと、いつものように部屋の扉が開き、学院が用意した山エルフの執事が現れた。銀に近いブロンドをした、シュレーよりいくらか年上なだけの、まだ若い男だった。  「お呼びでございますか、猊下(げいか)」  深々と礼をして、銀髪の執事は言った。 「ご苦労だが、この書状を神殿へ送ってくれ」  ロウで封印した羊皮紙の筒を差し出し、シュレーは言った。身に付けているのは、絹のシャツに革のチュニックを重ねた、ごく普通の学院の制服だが、シュレーの立ち居振る舞いには、神殿の神官が見せる独特の所作が見えかくれしている。 「聖楼城へでございますね」  シュレーを畏れている様子で、執事はおずおずと答えた。数ある神聖神殿の中でも、大神官が居住する正神殿のことを、民は聖楼城と呼んで信仰の対象にしている。それは大陸最古の神殿であり、大陸全土に拡がった神殿による支配の要である。  シュレーは頷いて、封印した書簡を執事に手渡した。  「お食事はどうなさいますか。料理番が、何をお持ちすればよいかと申しておりました」  執事が尋ねると、シュレーは淡い緑色の目に、困ったような表情を浮かべて言いよどんだ。無意識に首を倒すのは、考え込む時の彼の癖だ。肩のあたりで切りそろえられたシュレーの細い金髪が流れ、前髪の間から、額の赤い刻印が現れた。それは、神殿の一族であることを示すため、大神官が自らの一族につける深紅の小さな点だ。  神籍を示す刻印を直視するのを恐れているのか、執事は深々と頭を下げ、視線をそらせた。  「この学院では、学生はみな、共同の食堂を使って食事をすると聞いていたのだが」  気のない様子で、シュレーは言った。試しに聞いてみるだけだという風情だ。執事は畏まって、ますます深い礼をした。 「左様でございます。ですが猊下のお食事は、特別にお部屋までお運びするようにと……」 「神殿からの命令だな」  ため息とともに、シュレーが執事の言葉を遮った。 「左様でございます」  高貴な主人が不機嫌なのを感じて、執事の声が震えている。 「いい機会だから言っておくが、私は神籍を返上した身だ。神殿とはもう何の関わりもない。だから、他の学生と同じように扱ってくれれば充分だ。憶えておいて欲しい」  穏やかに説いて聞かせるような口調で、シュレーは執事に言った。しかし、山エルフの執事が畏まったまま怯えているのを見て、シュレーの顔にうっすらと苦笑が浮かぶ。  「食堂の場所を教えてくれれば、私は自分で行くよ、アザール」  執事に歩みより、シュレーは震えている山エルフの肩をぽんぽんと叩いた。驚いた執事が顔を上げ、おそろしい怪物と出会ったかのように飛び退く。 「私の名をなぜご存知なのですか」 「最初に会ったとき、君が名乗ったんだ。忘れたのか?」 「で……ですが…私のような者の名前を、憶えていていただけるとは夢にも…」  執事は相変わらず、小刻みに震えていた。どうやら感動に打ちふるえているらしかった。シュレーはまた苦笑した。 「長い名前に慣れているものでね。君の名前は憶えやすくていい。長すぎて会話の時に舌を噛みそうになる心配もない」 「ありがとうございます」  誉められているわけではないが、執事にはそれがわからない様子だ。  くり返し礼を言い、バッタのように頭をさげつづける執事を、シュレーは苦労して落ちつかせた。聞き出したいのは単純なことなのだ。  「そろそろ食堂の場所を教えてくれないか、アザール。食事をしたいんだ」  木漏れ日のように穏やかな微笑を浮かべ、シュレーは執事アザールに言った。 「ご…ご案内いたします、はい、少々お待ちを! 一番良い料理を出す食堂を、すぐに調べて参ります!」  裏がえった声で言い、執事は旋風のように部屋を出ていってしまった。  しばらく呆気にとられていたシュレーは、やがて肩を落としてため息をついた。こめかみに長い指をもっていき、頭痛をこらえるために強く押す。 「手紙を忘れてるぞ、アザール」  独り言を言い、シュレーは床に落ちている羊皮紙の筒を拾い上げた。アザールが驚いたときに取り落としたのだろう。  シュレーを食堂に連れていくよりも、神殿の紋章が入った手紙を床に落とす方が、よほど罪が重いのだが、シュレーはそれを哀れな執事には黙っていてやることにした。   * * * * * *  「こちらが、一番良い料理を出す食堂だと、料理番が申しておりました。もっとも、その料理番が任されている食堂がここでございますから、猊下には毎日ここの厨房でおつくりしたものをお出ししておりました」  息継ぎを忘れて喋ったアザールは、なんとか全部言い終えたものの、むせかえるのを隠すために必死の形相になった。  いくつもの階段を登り降りして案内された先には、黒檀の大扉があった。学院には、いくつかの食堂が用意されており、学生は気に入った店で食事をすることが許されているらしい。扉の中には、学院で学ぶ山エルフたちが大勢いるのだろう。  アザールから目をそらし、シュレーは笑いをこらえた。学院も、飽きない執事を選んだものだ。おそらく、このアザールという若者は、別段間が抜けているわけではないのだろうが、シュレーに気を遣うあまり、ときどき挙動がおかしくなる。自分よりいくらも年下の子供とはいえ、相手が高貴なる神殿の血筋を引いていると気負いすぎているのだろう。  「あとは一人でなんとかなるよ、アザール。案内ご苦労だった」 「扉をお開けいたします」  あたふたと先回りして、アザールは黒檀の大扉に手をかけた。扉ぐらい自分で開けられると思ったが、シュレーはアザールのしたいようにさせてやることにした。その方が話が早そうに思えたのだ。  かすかな軋みを立てて、扉は開いた。すると、中から猛獣でも暴れ出したような、激しい悲鳴と怒号が聞こえる。あまりの意外な出来事に、アザールは扉の取っ手を握ったまま立ち尽くしている。  幾何学模様で飾られた大理石の広間は、怒鳴り声をあげる山エルフでごったがえしていた。腕をふりあげて何かをどなりちらしている山エルフたちの手には、刃渡りの狭い刺突用の剣がきらめいている。テーブルは無惨にひっくり返り、料理を載せた皿が踏み砕かれて床に散らばっていた。  「喧嘩だな」  広間の混乱を眺めながら、物怖じしない口調でシュレーは呟いた。  突然、人垣を割って現れた何かが、シュレーのいる扉のすぐ横の壁に叩きつけられた。見れば、すっかり気を失った山エルフの少年だ。握りしめた細身の剣は根本で折れ、刀身を失っている。泡を吹いている少年の横に膝をつき、シュレーは鼻血で汚れた山エルフの横面を叩いた。  「だめだな、本当にのびてる」  首を振って、シュレーは言った。命に別状はなさそうだが、かなり打ちのめされた様子だ。  山エルフは気位が高く、ささいなもめ事から決闘に及ぶことも珍しくないというが、気位が高い分だけ引き際も心得ているとシュレーは聞いていた。つまり、完膚無きまで叩きのめしてしまうと、負けた相手はその不名誉を雪ぐため、さらなる復讐を用意して、再度の決闘を挑んでくる。だから、どちらが勝ったのか判別がつかない程度でやめておくのが、正しい決闘の作法だと。しかし、ここまでみっともなく負けてしまった場合、どう対処するのが作法なのやら。  「次はお前か」  憎悪のこもった声で呼びかけられ、シュレーは顔をあげた。  頬を返り血で赤黒く染めた黒エルフが、シュレーを見おろして笑っていた。結い上げていた長い黒髪が崩れ、砂漠風の長衣を着た背中を覆っている。豪奢なその衣装には、所々、細身の剣でかすめられた鉤裂きができている。嬉しげな微笑に歪んだ唇が血で染まっているように赤く、重たげな睫で縁取られた目は、狂ったように光っている。綺麗な顔だと、シュレーは空事のように思い、黒エルフの顔を見上げた。  「げ…猊下(げいか)! もどりましょう…!」  動転したアザールがじたばたしている。その声を聞いたとたん、黒エルフの顔からぬぐい去るように微笑が消えた。 「猊下……?」  一歩進み出て、黒エルフはシュレーの顔をじっと見つめてくる。 「シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス……」  呪文のように黒エルフが呟いているのが、自分の古い名だというのに、シュレーは一瞬気づけなかった。  「無礼者…! 猊下のお名前を呼び捨てにするなど……!!」  激昂したアザールが、黒エルフに食ってかかろうとしたが、その手が黒エルフの衣服に触れようとした瞬間、哀れな執事の体がありもしない風にあおられるように浮き上がり、勢い良く壁にたたきつけられた。  「アザール!」  驚いて、シュレーは気を失って倒れた執事に目をやった。  「目を逸らすな、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。そいつは気を失ってるだけだ」  ぴしゃりと叱りつけるように、黒エルフは言った。金色に輝いている黒エルフの目を、シュレーはまっすぐに見つめ返した。  シュレーの名を呼び捨てにするのを許されているのは、祖父である大神官だけだ。しかし、それをとがめ立てする気が起こらないのは、目の前にいる黒エルフが何かに憑かれたような目でシュレーを見ているからだ。  「お前がそうか」  黒エルフは、にやっと笑って、唇についた血を舐め取った。まるで砂漠の悪鬼のようだ。  「スィグル!」  人垣の向こうから、誰かがこちらに向かって呼びかけている。一瞬、シュレーはそれが目の前の黒エルフの名かと思ったが、美貌の黒エルフはその声を無視した。 「馬鹿野郎、ぼんやりするな! 後ろがガラ空きだぞ、スィグル!!」  怒ったような声が立て続けに警告すると、黒エルフは初めてハッとして振り返った。  黒エルフに向かって、剣を振りかぶる人影が見えた。黒エルフが丸腰なのに気づき、シュレーはとっさに腰に帯びた剣を抜いていた。しかし、割ってはいるには、間合いが遠すぎる。  黒エルフをしとめようと現れた少年は、力任せに剣を振りかぶり、黒エルフの腹をめがけて振り下ろした。絹の長衣に包まれた黒エルフの体に剣が食い込む瞬間、何かが破裂する音とともに剣が折れ、それと同時に、黒エルフの体もはねとばされて、そばの壁に激しく叩きつけられた。  「やった…しとめたぞ!」  剣が折れた反動で床に転がっていた山エルフが、歓喜の声をあげた。  抜き身のままの剣を床に転がして、シュレーはぐったりしている黒エルフを助け起こした。剣が狙っていた脇腹には傷がないようだが、黒エルフは気を失っているようだ。目を閉じていると、少女のようにも見える整った顔立ちをしているせいか、頬を叩くのも気が退けて、シュレーは仕方なく、黒エルフの肩を揺すってみた。しかし、黒エルフは苦しそうに瞼を震わせるだけで、意識を取り戻す気配がない。  自分を睨みつけていた時は、悪鬼のようだと思えた黒エルフが、布越しにもはっきりわかるほど痩せた体格をしているのに気づき、シュレーは気を失っている黒エルフに同情を感じた。理由はわからないにしても、なぜ大勢を相手に喧嘩などしなければならないのか。  「ざまあみろだ……黒系種族め」  勝ち誇った笑い声が、シュレーの神経に障った。振り向くと、黒エルフに斬りかかっていた少年が、いかにも気味良さそうに腹を抱えている。 「丸腰の相手に斬りかかるのが、お前達の礼儀か?」  むっとして言い、シュレーは剣を拾って立ち上がった。ささいなことでも決闘に及ぶ山エルフの血が、自分にも半分流れているらしいなと、シュレーは内心で思った。だからといって、血の命じるままに剣をとるのに、今はさほど、ためらいを感じなかった。  驚いたように山エルフがこちらを見る。しかし、卑怯者は二度驚いた。シュレーの背後に何かを見ている。  「お前、いいこと言うぜ」  シュレーが振り返ると、肩で息をつぎながら、褐色の肌の少年が立っていた。深い青の瞳。海エルフだ。いつの間に現れたのか気配がなかったが、その声には聞き覚えがある。つい先刻、黒エルフの名を呼んでいた声だ。  左手に握っていた見事な長剣を、海エルフの少年は丁寧に鞘におさめた。そして、床にへたり込んでいる山エルフに歩み寄ると、絹のシャツの胸ぐらをつかんで引き上げ、立ち上がらせる。  「いかれたヤツだが、あれでも同室のよしみがある。悪いが手加減しないぜ」  真面目腐って宣告し、海エルフは山エルフの少年のこめかみを強かに殴った。激しくよろめいて、再び床に倒れ込んだ山エルフは、白目をむいてのびていた。  対戦者を殴った左手の具合を調べるように小さく振り、海エルフはシュレーの方に向き直った。シュレーの方が上背があるが、褐色の肌の少年は、いかにも戦闘民族の戦士に成長しそうな、均整のとれた体つきをしている。  「左利きなのか」  感心して、シュレーは場違いに穏やかな口調で言った。 「父親ゆずりだ」  薄く笑って、海エルフは答えた。額に銀の輪を締めている。エルフ族では確か、部族長の一族であることを示すために、こういった額冠(ティアラ)をつける習慣だったはずだ。 「そうか。君は『左利きのヘンリック』の息子なんだな」  微笑して、海エルフは右手をシュレーに差し出した。 「白系種族に味方してもらえるとは意外だった。礼を言うよ」 「なんだ?」  差し出された手の意味がわからず、シュレーは戸惑った。 「右手を握りあうんだ。黒エルフの習慣で、信頼を示すための挨拶らしい。そこでのびてるヤツから教えてもらったんだ」  倒れている黒エルフのほうを顎で示し、海エルフの少年は言った。 「結局なにもしなかった。感謝される理由が何もないが…」 「丸腰の相手に剣で斬りかかるのは、卑怯者のすることだ。俺の故郷でも、みんなそう思ってる。お前の言うことは正しい。気に入ったよ」  シュレーは微笑して、海エルフの右手を握った。 「でもな、ひとつ忠告しておくよ。あいつが丸腰だなんて思うな。痛い目にあわされるぞ」  意味ありげに深々とため息をつき、海エルフは気絶している黒エルフに向き直った。 「あいつ、手当してやらなきゃだめなんだろうな」 「部屋に戻れば簡単な手当くらいできるが、どうする」  シュレーが提案すると、海エルフは不思議そうな顔をした。 「医術の心得でもあるのか」 「…神殿仕込みなんだ」  海エルフがじっと自分の顔を見るので、シュレーはなぜか、額の刻印が隠れているといいと思った。シュレーの素性を知って、この海エルフが執事のアザールのように畏れおののいてへりくだるのを見たくない気がしたのだ。  不意に、大きなベルの音が近づいてくる気配がした。海エルフがいぶかしげに顔をあげる。  「教官だ。騒ぎを聞きつけてやって来たんだろう」  シュレーは耳をすまして、階段から響いてくる音の距離をはかった。空洞に反響して大きく聞こえてはいるが、まだいくらか遠い。  「出くわさない方がいい。学内での決闘は禁じられている」  決闘に走りやすい学生たちを戒める数々の掟を、シュレーは思い浮かべた。だが、それを説明するまでもなく、海エルフは状況を察したようだ。  「ともかく…悪いけど世話になるぜ。もめ事はまずいんだ」  乱れた褐色の髪をなでつけながら、海エルフは苦虫を噛み潰したような顔をした。 「人質だから」  シュレーは小声で答えた。 「まあ…今さら何を気にしたところで、意味がないかもしれないけどな」 「これだけ派手な騒ぎになるとね。でも、気にすることはないよ。大勢で君たち二人を叩きのめそうとするなんて、卑怯なやり方だ」 「ああ、それについては……後で説明するよ。あいつを運んでから」  悪夢を振り払うように首をふり、海エルフは相棒のそばに歩み寄っていった。  「行こう」  黒檀の扉を開いて、シュレーは相棒を軽々と抱えあげた海エルフを振り返った。 -----------------------------------------------------------------------  1-7 : 荒野に佇(たたず)む者 -----------------------------------------------------------------------  「そこの長椅子にでも寝かせて」  居室のドアを開けて、シュレーはつかつかと奥のキャビネットに向かった。後から入ってきた海エルフは、ぐったりしたままの黒エルフを担いでいる。  言われたとおりに、海エルフは気絶している相棒を、長椅子の上に降ろし、ため息をついた。 「こいつが飯を食わないたちで助かった。まさか担いで階段を登ったり降りたりさせられるなんてな」  恨み言を言って、海エルフは長椅子の肘掛けに軽く腰掛けた。キャビネットから薬箱を取り出し、シュレーは戻ってきた。 「イルス・フォルデス・マルドゥークだ。くたばってる方は、スィグル…ええと…なんだっけな」 「スィグル・レイラス・アンフィバロウ」  シュレーが薬を選びながら助け船を出すと、イルスは納得したように頷いてから、ふと顔をあげた。 「なんで知ってるんだ」 「黒エルフ族が差し向けた人質は、第16王子のスィグル・レイラスだと聞いている」  黒エルフの容態を調べながら、シュレーは言った。特に目立ったケガはしていない様子だ。消耗して気を失っただけのようだが、意識を取り戻させてから、もっと詳しく診察したほうがよさそうだった。 「…ふうん。山エルフの連中は、みんな耳が早いんだな。俺よりよっぽど事情に通じてるらしい」 「同じ人質どうしだから」  ため息をついて、シュレーは付け加えた。海エルフのイルスがぎょっとした顔をする。そろそろ『猊下(げいか)』に戻らなければならないだろうと思って、シュレーは気が重かった。 「じゃあお前…」 「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ。……ここの連中は、別の名前の方を気に入ってくれているみたいだが。君もそうかな」  気付け薬を黒エルフの鼻先に近づけながら、シュレーは自嘲ぎみに言った。  突然、イルスがシュレーの腕をつかんで、気付け薬をとりあげた。 「なにをするんだ」  驚いて、シュレーはイルスの顔を見上げた。 「こいつを起こすのはよせ。やっぱり連れて戻る」  イルスは慌てているようだった。ため息をつき、シュレーは肩を落とした。 「手当をするぐらい、気にしなくていい」 「いや、やめとけ。お前は目を覚ましてる時のスィグルを知らないから、そんな平気そうにしてられるんだ。こいつはな、白い卵から生まれたヤツが大嫌いなんだよ。今日のもめ事は、これで終わりにさせてくれ」  イルスは疲れた顔で説明した。 「どういう意味か…のみこめないんだが」 「あの喧嘩、確かに元々は向こうから仕掛けてきたんだけど、あそこまで騒ぎを大きくしたのは、こいつなんだ。かるく脅して済ませればいいのに、滅茶苦茶にしやがって………こいつ、どこかおかしいんじゃないかと思う。相手が白系種族だと、歯止めが効かないらしいよ」 「……なるほど。黒い卵から生み出された者としか、親しくする気はないってことか」  苦笑して、シュレーは納得した。 「君もそう思っているわけだね、フォルデス」  宮廷でのしきたり通り、シュレーは相手を洗礼名で呼んだ。彼らはお互いを名前で呼び合っているようだが、それは黒い卵に属する間柄ならではの特例なのかもしれない。身分が釣り合っていて、同じ年頃であれば、名前で呼んでも咎められはしないものだというが、シュレーはそれに慣れていなかった。 「俺は別に。正直言って、こっちに来るまで、本物の白系種族を見たこともなかったんだ。今までは敵だったけど、もう戦も終わってしまった。お前らがなんなのか、俺にはわからない」  困惑した様子で、イルスは腕組みしている。 「お前には、恩義があるし、気が合いそうだと思ったんだけどな。スィグルといい、お前といい、卵のカラの色がよっぽど気になるんだな。俺が気になるのは、お前が敵なのか味方なのかっていう事だけだ。だいたい、人が卵から生まれるなんて、あるわけないだろ? そりゃまあ、探せばそんな種族もいるかもしれないけどな」  自分でも何を言っているかわからないという様子で、イルスはうつむいて顔を擦った。口のうまいタチではないらしい。シュレーは静かに微笑した。 「騒ぎは内々におさめさせるよ」 「…どうやって?」  顔を上げ、イルスは不思議そうに目を細める。部屋の薄闇の中でも、海エルフ独特の青い目が、ぼんやりと光っていると錯覚するほど鮮やかだ。  しかし、その特徴的な目は生まれつき視力が虚弱だと聞いたことがある。半水棲種族である彼らは、耳の後ろに小さな鰓を持っていて、水中でもしばらく呼吸ができる。その目も、水中で物を見るのに都合がいいようにできているため、陸上では多少歪んだ像を結ぶのだ。イルスもおそらく、その特徴を備えているに違いない。  シュレーは自分の目で海を見たことがなかったが、それがイルスの目と良く似た色をしているのだろうと想像した。目の前にいる少年は、大陸の最果てからやってきたのだ。神殿支配が強く及ばない世界から。  「ここの連中は、額に赤い印のある者の言うことを、割と素直に聞いてくれるんだ。だから簡単だよ。心配しなくていい」  伏し目がちに、シュレーは説明した。明日の朝にでも、食堂での出来事を忘れるように学院の責任者に伝えれば、それで事は済むだろう。  「お前、どうして…そこまでしてくれるんだ?」  シュレーの顔を良く見ようとするように、イルスはまた目を細める。ランプの明かりだけでは、彼にはシュレーの顔がよく見えないのだろう。  「この学院では、君や、そこの黒エルフの立場は不利だと思うから」 「それが、お前になんの関係があるんだ?」 「さあ…わからない。でも、そうした方が、君たちは不愉快な思いをしなくて済むと思っただけだ」  イルスが本当に不思議そうに言うので、シュレーはなぜか惨めな気分になった。 「何も返せないけど、いいのか」 「神殿では見返りを求めるなと教えているだろう」 「それはおかしいだろう。恩義を受けたら、なるべく早く返せって俺の故郷では教えられるぜ」  イルスはびっくりした顔で言い返してきた。 「どうしてそう思うんだ?」  神殿の教えが行き渡っていないことに、シュレーも驚いた。 「だって…当たり前だろ。明日まで相手が生きてるかどうかなんて、わからない。死人に恩義は返せないぜ。死霊に借りをつくってもいいことがない」  話しているイルスの顔が真剣なので、シュレーは思わず吹き出した。 「その話、この学院ではしない方がいい。異端者だと思われたら面倒だよ、フォルデス。君たちの考え方はわかった気がする。でも、心配しなくても、私は明日も生きている」 「そりゃそうだろうけど……でも、なにか俺たちにできることがあったら言ってくれ」  イルスは居心地が悪そうにしている。誰かの世話になって、そのまま何も返さないのが、よほど妙に感じられるのだろう。神殿の教えからすれば、咎めなければならない事なのだろうが、シュレーはイルスの律儀さがおかしかった。  「それじゃあ、今度、食事に付き合ってほしい。一人で食べるのは退屈で」 「いいけど…お前、欲のないヤツだなあ。もっと別の事にしたほうが得だぞ」  黒エルフを抱え上げるために、その華奢な腕をとりながら、イルスが苦笑する。シュレーはそれに応えて微笑した。 「なにが貴重かは人それぞれだ。私は、誰かと食事をしたことが、ほとんどないんだ」 「"ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり"」  スィグルの体を抱え上げ、イルスは不満げな声で呟いた。 「…詩編だね」  軽い驚きのため、シュレーの声が上擦った。 「故郷にいる俺の師匠が好きで、何度も暗唱させられた。お前見てるとあれを思い出すよ。そういうの、あんまりいい事じゃないぜ。食事くらい、いつでも付き合うから、お前のその近寄りにくい感じを、なんとかしてくれ。俺のことは、イルスでいいから、お前の長い名前を憶えろなんて言わないでくれよな」  矢継ぎ早に文句を言い、よろめきながら出ていくイルスを、シュレーは黙って見送った。   * * * * * *  黒檀の扉が閉じると、部屋はとたんに静かになった。食事をするのを忘れていたことを、シュレーは思い出した。  誰か人を呼んで、食事を頼もうかと思ったが、やめた。執事のアザールも、黒エルフのスィグルに伸されてしまったことだし、今ごろは手当されて人心地ついたところだろう。一晩空腹を抱えているくらいは、大したことではない。  さっきまで黒エルフのスィグルが占領していた長椅子に腰をおろし、シュレーはため息をついた。  例の詩編は古いものだ。 「ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり……。汝、沈黙の剣もて千の都を滅ぼし、凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす。死霊を率いて荒れ野を渡り、とこしえに己の心の欲するところを知らず」  微かな声で詩編を暗唱し、シュレーは天井を埋める黒檀の木目を見つめた。  イルスがなぜ、この詩編を思い出したのか、シュレーは不思議だった。  シュレーはまさに荒れ野で生みおとされた。大神官の娘と恋に落ちた父は、彼女を連れて聖楼城から逃げた。神聖神殿の一族が婚姻をゆるされるのは、同じ血を持った者、額に赤い印が刻まれている者だけだったからだ。結ばれるためには、何もかも捨てて逃げる他に方法がなかった。  山エルフ族の族長となるべく教育され、期待をかけられていた父は、一人の女性のために、本当に何もかも捨ててしまったのだ。逃避行のさなかに身重になった母は、子供を産み落とすための場所も見つけられず、荒れ野でシュレーを産み落としたのだという。  その後の数年を、父と母は荒野で生きながらえた。そのころの事を、シュレーはうっすらと記憶している。荒野では、いつでも風が哭き、天幕の幌がはためく音が絶え間なく聞こえていた。母は出産のために体を壊し、天幕の奥から姿を現すことはなかった。シュレーは母に会うことを父から禁じられていた。初めて母の姿を見たのは、聖楼城に戻る決意を父が固めた時だ。  逃げ延びてから何年も過ぎた頃になって、なぜ父が母を神殿に返す決意をしたのかは知らない。天幕の奥から、布にくるまった母を抱き上げて出てきた時の父の顔を、シュレーは今でも憶えていた。怒りと苦悩で強ばった、生きたまま死んでしまったかのような顔。  母とシュレーを痩せた馬に乗せ、父は聖楼城の門を叩いた。祖父の大神官は狂喜してシュレーを迎え、その日のうちに額に深紅の刻印を刻んだ。しかし、それきり母にも父にも会っていない。日をあけずに母は亡くなり、父も死んだ。自殺だったという噂を聞いたことがあるが、父がなぜ死なねばならなかったのかは、今でもわからない。  イルスが呟いた詩編は、神殿に伝わるもので、その内容は預言だと信じられている。荒れ野に佇む者は、千の都を滅ぼし、万の王国を滅ぼすのだと、神殿の者たちは信じている。  シュレーがそうだと恐れる者たちもいた。溺愛していた娘の忘れ形見であるシュレーを、大神官はその権力で守り続けてきたが、どんな力をもってしても、神殿の柱の陰でささやかれる悪意に満ちた噂話を絶つことなどできない。  エルフ諸族に軍事同盟を結ばせ、人質を差し出させて、戦を終わらせるのだと聞いたとき、シュレーは神籍を返上する決意をした。本当は、もうずっと前からそれを望んでいて、たまたま軍事同盟に機会を与えられただけと言った方が正しいだろう。  長子相続を掟とする山エルフの習わしに則ると、現族長よりも、直系血族であるシュレーの継承権が勝っている。それを盾に、シュレーは山エルフの王族として名を連ねることを認めさせた。軍事同盟の人質になることも、自分から申し出たことだ。  権力には興味がない。自分が通り過ぎたあとに聞こえる、噂好きな連中の囁き声と忍び笑いから逃れたかっただけだ。  神殿とその教えを愛し、血を分けた氏族を護るために力を尽くすことを、皆に示せばわかってくれると、祖父である大神官はいつもシュレーに言い聞かせてきた。しかし、それは無理な相談だ。詩編が歌うような、沈黙の剣が自分の手にあったら、シュレーは何より先に、額に赤い印をつけた同族たちの命を奪う自信があった。  荒れ野に佇む者が世を滅ぼすと神殿の連中は信じている。荒野で生まれ落ちたシュレーは、確かにその詩編の指し示す者かもしれない。だが、神殿の連中はこうは考えなかったか?  大神官の娘を連れ去った男も、荒れ野からやってきたと。  聖楼城には、28本の望楼がある。虚空にむかって立つ、鋭い尖塔だ。父はその中の、もっとも背の高いものから身を投げて死んだ。いくつもの塔を寄り合わせたような聖楼城の谷底へ向かって、父の身体は落下し、白羽の紋章を刺繍した旗を掲げるための、青銅の柱に串刺しになった。  遺体がおろされたのは、7日もたった後だった。父恋しさのために、シュレーは遺体が安置された地下の小部屋に、苦労して忍び込んだ。死者を覆うための白い布を取ると、父の顔から目がなくなっていた。尖塔に曝(さら)されている間に、死肉をあさる鳥どもがつつき出したのだ。  地下室に響きわたる自分の悲鳴を、シュレーは今でも憶えている。  自分を守り育ててくれた大神官や、同じ血を分けた氏族に、恩義を感じていないわけではない。だが、それよりも強く、彼らが憎い。どうしても許すことができない。  ただ、それだけ。それが全てだ。たったそれだけのことが、今やシュレーの心を創る全てだった。 -----------------------------------------------------------------------  1-8 :  悪夢の迷宮 -----------------------------------------------------------------------  水が滴り落ちる音が聞こえる。  それは、いつもの悪夢の始まりを告げる符丁だった。力を使いすぎると、いつも決まって同じ夢を見る。子供の頃の悪夢が、くり返し意識に昇ってくるのだ。  規則的に聞こえる水音が、誰かの足音のように思えて、スィグルはゆっくりと振り返った。  背後には、大人なら背をかがめないと頭をぶつけてしまいそうな、狭い通路が続いていた。天井に所々あけられた空気穴から差し込む月明かりだけが、暗闇に沈む地下通路を照らし出す光だ。膝の少し下あたりまで、カビ臭い匂いのする濁った水がたまっている。天井で結露した水滴が、あちらこちらの水面をうつたびに、かすかな水音が通路にこだました。  足音のように思えたのは、錯覚だったようだ。心臓がしめつけられるような感覚のため、スィグルの呼吸は早くなっていた。  恐れる必要はない、と、スィグルは自分に言い聞かせた。これは夢だ。ただの夢だ。ただの夢だ。ただの夢だ。何度も自分の言葉を反芻するうち、スィグルの心臓は主人の言葉を受け入れ、落ちつきを見せはじめた。  わずかな月明かりでも、暗闇に棲む一族に生まれたスィグルの目には、通路の隅々までが見渡せた。曲がりくねり、枝分かれした通路には、壁の丸い石が濡れて光っているばかりで、人の気配はしない。  湿った暗闇の中で、たった一人だった。  なるべく水音を立てないように、細心の注意をはらいながら、スィグルは通路の奥へと進みはじめた。通路の向こうには、スィグルを待っている者がいる。双子の弟のスフィルだ。熱を出して震えていた弟の、自分にそっくりな顔を思い出して、スィグルの気は焦った。戻ったらもう、弟が死んでいるような予感がして、不安なのだ。  細い通路を抜けると、天井の高い空間に出る。他の通路とは違い、その空間の壁は天然の岩盤でできていた。濡れて乳白色に光る岩肌には、無数の空洞がえぐり取られている。そのひとつひとつには、ボロをまとった遺骸が横たえられている。その中には、すでに骨になっているものもあった。  ここは墓なのだ。  暗闇に身をひそめたまま、スィグルは空洞に誰もいないかを見極めようと、いそがしく視線をさまよわせた。聞こえるのは水滴が落ちる音ばかりだ。誰もいない。  もう一度あたりをうかがってから、スィグルは足音をひそめ、壁に穿たれた墓穴のひとつに近づいていった。  膝を抱え、そこに頭を預けたままの姿の亡骸が、墓穴を塞いでいる。それを躊躇いもなく押し退け、スィグルは墓穴の奥の暗闇に潜り込んだ。  「スフィル」  かすかな声で、スィグルは弟の名を呼んだ。耳をすますと、苦しげな息づかいが聞き取れる。まだ弟が生きていたことを確認して、スィグルはほっとため息をついた。  「スフィル」  暗い墓穴の奥に、膝を抱えている小さな人影があった。恐がらせないように名前を呼びながら、スィグルは奥へと這い進んだ。  月明かりのほとんど届かない闇の中で、ぼんやりした光が二つともった。薄青い、猫のような瞳。スフィルだ。  ほっと安堵した瞬間、スィグルは自分が夢を見ているのか、それとも、本当に地下の穴蔵にいるのか、区別がつかなくなった。そんなはずはないと自分に言い聞かせながらも、スィグルは目眩を感じていた。力を使いすぎた後に感じる疲労で、体中の関節が軋んでいる。そして、胃を締め付ける空腹感。「あの頃」と同じだ。  「スィグル」  かすれて消えかかった声で、弟が応える。弱々しく伸ばしてきた弟の手をとり、スィグルは自分とそっくりな弟の顔を覗き込んだ。すっかりやつれて、落ちくぼんだ目だけが大きく見えるスフィルの顔。おそらく、自分も鏡に映したように同じ顔をしているのだろうと、スィグルは考えた。  スフィルがちゃんと生きていた事が嬉しく、スィグルは弟の痩せた身体をきつく抱きしめた。骨の感触のするスフィルの身体は、熱が高いのか、気味悪く火照っている。弟が目に見えて弱っているのを感じて、スィグルの心臓は鼓動を早めた。  「スフィル、食べ物を持ってきたよ」  スィグルはなるべく明るい声をつくって、スィグルに告げた。  「スィグル……タンジールに帰りたい…」  熱に浮かされた声で、スフィルが譫言を言う。懐に隠していた肉を取り出しながら、スィグルはその言葉を黙って聞いていた。  「食べられるか?」  スィグルは抱き抱えたままのスフィルの鼻先に、獲物の肉をもっていった。ひとかたまりの肉からは、まだ血が滴り落ちている。スフィルは目を閉じ、かすかに首を振った。身体が弱っていて、食べ物を受け付けないのかもしれないが、スフィルが拒むのはそれだけが理由ではないことを、スィグルは知っていた。  「死んだら帰れないぞ」  押し寄せる疲労を払いのけるため、スィグルはいくらか強い口調で言った。スフィルが薄く目を開く。 「…僕らはここで死ぬんだ」  それを受け入れている口調で、スフィルが呟いた。 「だったら早く死にたい」 「父上の軍がもうすぐそこまで来てる。僕らを助けに来るんだよ。スフィル」  弟の目を覗き込んで、スィグルは言い聞かせた。スフィルが珍しく微笑を見せた。 「スィグルは本当に嘘が下手だね」 「嘘じゃない」  スフィルがこのまま死んでしまいそうな気がして、スィグルは何とか弟を励まそうとした。しかし、言い終わらないうちに、涙があふれだしてスフィルの顔にぽたぽたと落ちた。  口元に落ちたスィグルの涙を、スフィルは赤い舌を出して舐め取った。 「美味しい」  無邪気な声で、スフィルが呆然と呟く。スィグルは耐えられなくなって顔を覆った。  「こんなの夢だ。ただの悪い夢だ。目がさめたら、タンジールの王宮にいるに決まってる。スフィル、死なないで…死なないで、死なないでよ!」  弟の身体を抱きしめて、スィグルはひそめた声で懇願した。  突然、土くれが崩れるような音をたてて、墓穴を塞いでいた遺骸が転がり落ちた。穴の入口に、月明かりで浮かび上がった人影が見える。  スフィルが狂ったように甲高い悲鳴をあげた。足を捕まれたスフィルが、墓穴から引きずり出される。  「助けて!スィグル!!助けて!」  気付くとスィグルは恐怖のためにガタガタ震えていた。  弟を助けなければ。  たった一人暗闇の中に取り残されるのは嫌だ。  意を決して墓穴を飛び出すと、そこにはスフィルしかいなかった。濁った水の中に半分沈んだスフィルの身体は、血で真っ赤に染まっている。引きずり出された腸が生々しい白さで水面を漂っている。スィグルは吐き気で息をつまらせた。  「スィグル」  いやにはっきりした声で言い、瀕死のはずのスフィルが目を開いた。  「スィグルはどうして僕が死ぬのがいやなの?」  スフィルが笑っている。  「僕が大事だから面倒をみてくれたわけじゃないよね?」  腹を裂かれたまま、スフィルはこともなげに身を起こし、スィグルを見上げてくる。  「あさましいよ、スィグル。僕がいなくてもスィグルは生き延びられるだろう。その力さえあれば…この穴蔵でも生きながらえられる。タンジールに帰れなくても、ずっとここで生き続けるんだ。スィグルはそれが嫌なんだよね。一人でそんなふうに生きていたくないんだろ?」  滝のように血を流しながら立ち上がり、スフィルはスィグルのほうに近づいてくる。  「違う…違うよ、スフィル……死んだら帰れないじゃないか。一緒にタンジールに帰るって約束したじゃないか」  悲鳴と変わらない声で、スィグルは弁解した。死霊のように凍てついた息を吐きながら、スフィルがけたけたと笑う。 「スィグルは本当に嘘が下手だね」  スフィルが身体を揺らすと、引き裂かれた腑(はらわた)がぼたぼたと水の中に落ちた。  「…お前、あのまま死んだ方がましだったって言うのか!」  顔を覆って、スィグルはうずくまった。腐った水の臭いで頭が割れそうになる。 「タンジールには、ちゃんと帰れたじゃないか。僕の言うことは本当だった。本当だったんだぞ!!」 「じゃあ、何がそんなに怖いの、兄上」  肩に冷たい手が置かれる感触がした。生温かい血が背中に降り注ぐ。  恐ろしさで、どうしても弟の顔を見上げられず、スィグルはうずくまったまま震えていた。 「どうやって生き延びたか聞かれるのが怖いんだろう」  クスクスと笑うスィグルの声が、すぐ耳元で聞こえた。汚水に濡れた髪を捕まれる感覚がして、ものすごい力で顔を上げさせられると、自分とそっくりな顔で笑っている弟と目があった。  引き裂かれた腹に手を入れ、スフィルは自分の肝臓を引きちぎった。血の滴るそれをスィグルの鼻先につきつけ、スフィルはにやりと笑う。 「食べられるかい、兄上」  のどの奥にゆっくりと悲鳴がこみあげるのを、スィグルは感じた。 「食欲がなくても食べなくちゃ。なんなら、僕が口移しで食べさせてあげるよ。兄上がそうしてくれたみたいにね」  クッとスィグルはおかしそうに喉を鳴らす。 「生き延びるためには、仕方がないんだよねえ……スィグル?」  唇に押しつけられた肝臓は、まだ温かく、まぎれもない血の味がした。 「でも、僕は? 僕も仕方ないって思ってたかな? 僕がスィグルと同じように考えると思う?」  ふっと理性が途切れるのを、スィグルは自覚した。 「黙れ!! これはただの夢なんだよ!」  喉が張り裂けそうな声で、スィグルは叫んだ。 「お前は本物のスフィルじゃない! あいつはタンジールにいるんだ。こんな所で死んだりしなかった。僕が生き延びさせてやったんだ!! 僕が助けなきゃあいつは死んでいた! 僕は…僕は正しいことをしたんだ!!」  言葉と同時に、制御できない力がスィグルの中から暴れ出して、目の前にいる弟の身体をはじき飛ばした。  血煙をあげて、スフィルの身体はばらばらの肉片に変わり、濁った水の中に次々と降り注ぐ。  「…スフィル……!」  はっと我に返って、スィグルは千切れとんだ弟の体を拾い集めようとした。赤く濁った水の底で、長い髪がスィグルの指に触れた。スィグルは無我夢中でそれを拾い上げた。水から引き上げたそれは、砕けたスフィルの顔の反面だった。薄青い光彩を備えた眼球が、こぼれ落ちそうになりながら、片方だけ残っている。双子の弟の黒髪をからみつかせた自分の手が、ぶるぶる震えているのを、スィグルは他人のもののように見おろした。 「逃げられないよ…兄上……どんなに遠くへ行ってもね」  粉砕された肉片の中で、自分とそっくりなスフィルの薄赤い唇がにやりと歪む。  押しとどめられない悲鳴が、灼けるような熱さでスィグルの喉を衝いた。スィグルは、悲鳴を止めようとは思わなかった。そうでもしなければ、体の芯から湧き上がる恐怖が、自分を狂わせてしまいそうだった。 -----------------------------------------------------------------------  1-9 : 悲鳴 -----------------------------------------------------------------------  壁越しにもはっきりわかるほどの明かな悲鳴が響きわたり、眠っていたイルスの意識を一瞬ではっきりと覚醒させた。  「なんだ?」  とっさに、枕元に置いていた剣を握ったまま、イルスは寝室を出ていた。廊下には火を小さく絞ったランプが置かれているだけで、イルスはすぐには目が慣れず、廊下の奥にうずくまっている人影に気付かなかった。  壁の窪み(アルコーブ)に置かれているランプに近づき、イルスは明かりが強くなるように調整した。それで初めて、その人影に目がいく。  スィグルだった。  廊下の壁に擦り寄ったまま、スィグルは放心したように座り込んでいる。投げ出した自分の足を、険しい表情で見つめてはいるが、もう悲鳴はあげていなかった。  「目がさめたらしいな」  ため息をついて、イルスはスィグルに話しかけた。  気を失ったまま、なかなか意識を取り戻さないので、学寮の医者を呼ぶほかはないかと思っていたら、スィグルは気楽なことに、いつのまにか寝息をたてていた。気を失っているというより、疲れはてて眠っているという風だったので、イルスはばかばかしくなって、黒エルフを彼の寝室に放り込み、自分も寝ることにしたのだ。  しかし、結局叩き起こされる羽目になった。  乱れた前髪を手で梳いて、イルスはうっすらと腹がたつのを、なんとかやり過ごそうとした。真夜中に叫ぶのも、黒エルフ風の流儀なのかもしれない。  「おい」  スィグルと視線を合わせるために、イルスは床に膝をついた。それでやっと、スィグルががたがたと震えていることに気付いた。  「どうしたんだ…?」  伝い落ちた汗が、スィグルの顎から滴り落ちそうになっている。もともと青白いスィグルの顔が、ますます青ざめていて紙のようだった。 「気分でも悪いのか?」 「…吐きそうだ」  そういう割には、意外としっかりした口調で、スィグルは答えた。 「夢を見たんだ。それだけだよ。起こしちゃったね……ごめん」  薄闇の中で、スィグルの黄金の瞳が冴え冴えと光っている。少し薄気味の悪い目だ。  スィグルが素直に詫びたので、イルスは咎め立てしないことにした。多少は心配だったこともあり、目を覚ましたのなら、ひとまずはよしとする気になったのだ。  「あの後、どうなったか憶えてないよ」  かすかに震えている声で、スィグルが言った。 「そうだろうな。お前はどういうわけか勝手に壁にぶち当たって、そのまま気絶してたんだ」 「ああ…そうか。咄嗟だったんで慌てちゃって、力の使い方を間違えたんだ。相手の剣を折るだけのつもりが、自分にも食らってしまったみたいだ。カッコつかないね」  冷や汗に濡れた顔で苦笑して、スィグルは滴り落ちそうな汗を拭った。 「力を使いすぎると、消耗して気を失うことがあるんだよ。気をつけないといけないんだけど、頭に血がのぼってたんだ」  スィグルが済まなそうに言うので、イルスはため息をつき、肩をすくめた。  魔導士のことは、イルスにはよくわからなかった。イルスの師匠は、剣も使い、魔導の心得も持つ達人だったが、イルスが師匠から教えられた魔導についての知識はごくわずかなもので、スィグルがなぜ力を使いすぎると気絶するのかまではわからない。少なくとも、イルスの師匠が力を使いすぎて気を失ったことはなかった。  スィグルが未熟なのか、師匠の技が優れていたのか、それとも、両者は全く違う性質の技を使うのか。魔導士にも様々な流派があり、剣術と同様、様々な流儀があるようだから、師匠のわずかな教えから頭ごなしに未熟だと決めつけるのは良くないだろう。  イルスが父の命令で師匠に弟子入りする事になったとき、師匠はイルス自身に道を選ばせた。魔導か、剣か、どちらを選んでもいいが、両道を極める時間はお前には与えられていないと師匠は言った。幼いイルスは剣士になりたかった。だから迷うこともなく剣を選んだ。  今同じ事を問われても、やはり剣の道を選ぶという自信がある。海エルフ族の中に魔導士が生まれることは稀で、彼らの力は正体のない不気味なものと受け取られていた。師匠のように、剣を極めた上に身に付ける技能としてなら尊敬されもするが、剣を握る前に習い憶えるようなものではないと考えられている。イルスも魔導というものを、そのように受け取っていた。  師匠は、イルスを手放す時、弟子が剣をとって魔導を捨てたことについて、残念なことだと言った。お前は剣もなかなか使うようになったが、天性、魔導の素養がある。限られた時を無駄にしたな、弟子よ。師匠のその言葉を、イルスは屈辱的な気分で聞いた。結局、師匠の剣技を皆伝する前に、人質として故郷を離れることになってしまった。  師匠は、魔導士としての修練の結果、予言の力を持っていた。イルスが弟子入りした日に師匠が言った、両道を極める時間はないという言葉は、本当だった。両道どころか、片方の道すら皆伝に至らなかったと、イルスは苦々しい気分で思った。それとも、魔導を選んでいれば、同じだけの月日が流れるうちに、一人前だと認められるほどの力を手に入れられたのだろうか。だから師匠は残念だと言ったのか。  スィグルが手を触れることもなく、次々と対戦者を倒すのを目の当たりにして、鮮やかなものだと思いはした。だが、イルスには、自分が同じように魔導で戦うところは想像がつかなかった。たとえ素養があると言われても、ひとふりの剣だけを携えて戦うのが、海の者の誇りというものだ。  「そういえば、あいつは?」  突然、スィグルが言った。イルスは驚き、我に返った。しかし、イルスがスィグルの方に目をやっても、スィグルは相変わらずぐったりと座りこみ、うつむいたままだ。イルスは戸惑った。 「あいつ?」  上擦った声で、イルスは問いかけた。すると、スィグルは顔をあげ、イルスと視線を合わせた。 「シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」  スィグルが淀みなくその名を言うので、イルスは彼の記憶力に感心した。 「お前、よくそんな長い名前を憶えてられるな」 「僕は一度聞いたら大抵のことは完璧に憶えていられる体質なんだ」 「得な体質だな、うらやましいぜ」 「そうでもないよ。忘れられないっていうもの時には問題だ」  冗談のつもりなのかもしれないが、スィグルの顔があまりにも真剣だったので、イルスは返答に困った。  「なにか食べたい」  疲れ切った風に目を閉じて、スィグルがぽつりと言った。イルスは呆れた。 「そりゃそうだろうな。あれだけしか食わないんじゃ、すぐに腹が減るさ」  頭痛でもするのか、スィグルは頭を抱えた。そして、親に怒られた子供のように、片目だけ開けてイルスの機嫌をうかがう目をした。 「食事しにいくよ。イルス、付き合って」 「俺は別に腹は減ってない。眠いだけだ。だいたい、こんな時刻に飯なんか食えるもんか」  本心から、イルスは言った。夜明けまでもうじきだが、起き出すには早すぎる。 「夜中に一人でものを食べるのって惨めだと同情してほしいなあ」 「俺の故郷では、そういう聞き分けのない餓鬼は空きっ腹のまま眠らせるのが常識だ」  腕組みしてイルスが冷たく言うと、スィグルはごまかすように笑った。 「実は僕の故郷でもそうだよ。でもちょっとの間じゃないか、付きあったっていいだろ? 同居の相棒が、孤独にむせび泣きながら夜食を食べてるなんて、考えただけでも寝覚めが悪いと思うんだけどなあ」 「……なんてやつだ」  目元を覆って、イルスは悪態をついた。 「どうやって飯なんか食う気だ?」 「いつでも料理を出す店が1つだけあるんだ。眠れない学生が一晩中飲むためにね」  にこにこと愛想笑いをつくって、スィグルが説明する。 「ここはずいぶん甘い学院らしいな」 「だから白系の将校は腰抜けなのさ」 「ふざけるな」  したり顔のスィグルを軽く蹴飛ばして、イルスは自分の寝室の扉に向かった。 「うわ、乱暴だな。結局付き合ってくれないのか」  スィグルは驚いた様子で言った。 「着替えるんだよ、馬鹿」  自分の人の好さが情けなくなって、イルスは腹を立てていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-10 : 深夜の客 -----------------------------------------------------------------------  「お前、死霊みたいな顔してたぞ」  イルスはテーブルに頬杖をつき、黙々と茹でた芋を食べている同居人を、呆れ顔で眺めた。 「なのに、よくそんなに食うな。食えるんなら、まともな時間にまとめて食えよ」 「いや、今夜は特別腹が減って」  スィグルは悪びれずに言い、銀のフォークで塩茹でしただけの芋をつついている。 「ヒーヒーわめいてたくせに、変わり身の早いヤツだ」  深々とため息をつき、イルスは葡萄酒を舐めた。とにかく眠気を押しやるのが一苦労だ。 「僕、なんて言ってた?」  スィグルが不安げな上目遣いをする。聞かれるとまずいような事があるのかもしれない。これが故郷の悪友たち相手だったら、適当な嘘でからかって一揉みしてやりたいところだが、相手のことを良く知らないこともあって、イルスは正直に答えてやることにした。 「共通語で寝言を言うヤツがいたら会ってみたいぜ。お前が何をわめいても、黒エルフの言葉で言ってるかぎりは、俺にはわからないよ」  スィグルはふと緊張がほどけたように微笑した。 「じゃあ今度は共通語で叫ぶから、よろしく頼むよ」 「冗談いうヒマに食え」  あくびをかみ殺して、イルスは言った。スィグルがクスクスと小さく笑い声をたてる。  「イルス、けっこう強いね。感心したよ。金髪の連中は、君に近づくこともできなかった。気味がよかったよ。その長剣、いつも持ち歩いているのかい」  薬でも飲むように、用心深い仕草で葡萄酒のグラスをあげながら、スィグルは言う。いつもそうして、もう二度と酔っぱらわないように用心してもらいたいとイルスは願った。 「剣は戦士の命だ。手の届かない所に置いてあったら、役に立たないだろ」  それを聞いたスィグルは、軽く肩をすくめる。 「僕は剣が使えないんだ。今度教えてよ」  イルスは呆れて、華奢なスィグルの顔を見つめた。剣が使えないなんて、イルスの故郷では恥ずかしすぎて誰にも言えないくらいの悩みだ。スィグルは少し気後れしているようではあるが、恥ずかしがっているようには見えない。  「使えない? …どうして?」  驚きのあまり上擦った声で、イルスは尋ねた。スィグルが撫然とする。 「重い」  分かりやすい答えだ。 「…お前、それでも砂漠の黒い悪魔と呼ばれる族長の血を引いているのか?」 「いやだなあ。これでもリューズ・スィノニムの再来と言われてるのに」  黒エルフの族長の名をあげて、スィグルはにっこりと笑う。イルスは信用できなかった。スィグルはきっと、母親の血を濃厚に受け継いだに違いない。  何千という捕虜の首を次々と落とし、死体から溢れ出る血で、自軍の砂牛の渇きを癒させたという逸話を残した黒エルフの美貌の長は、敵からはもちろん、同盟者である海エルフからも、あらゆる意味で恐れられていた。本当か嘘かわからないような、その類の血生臭い武勇伝が多い族長だった。勝利を得るためには、手段を選ばない残酷さで知られる男だ。剣も振れないというスィグルとは、まったく種類が違うように思える。  しかし、喧嘩を売ってきた山エルフをいたぶっていたスィグルの、残酷な目を思い出して、イルスは黙り込んだ。確かに、目の前で茹でた芋をつついている華奢な少年は、砂漠の黒い悪魔の血統を受け継いでいるのかもしれなかった。  「どうしたのさ、イルス。難しい顔して」 「…砂牛に血を飲ませた話、本当なのか」  胸が悪くなるような気分で、イルスは尋ねた。スィグルは一瞬きょとんとしていたが、得心がいったのか、やがて嬉しそうに微笑んだ。  「本当らしいよ、その話。父上が話していた。補給が大切だって」 「補給?」  見当はずれな話をされている気がして、イルスは眉間にシワをよせた。スィグルがうんうんと頷く。  「水が足りなかったんだ。一番近くのオアシスまで行こうとすると、自軍の兵に飲ませるのが精一杯でね。兵を乗せる砂牛の分までは回らない計算だったんだってさ。運悪く、戦いに勝った後だったから、捕虜も山ほどいてね。困ったんだろう」  当たり前の事を話しているように、スィグルは説明している。 「お前の部族では、捕虜をなぶり殺しにするのか?」  それは恥ずべき行為だ。イルスは、剣を持たない相手を傷つけるなど、考えるだけでも卑怯者だと教えられて育った。 「どうせ死ぬんだ。助けようとしたって、飲ませる水がないんじゃあ、助けようもないよ。砂漠に置き去りにされて渇き死ぬより、首を斬られた方が楽だって知らないの、イルス」 「じゃあせめて葬ってやれよ。ケダモノに血を飲ませるなんて侮辱だ」  顔をしかめて言うイルスを、スィグルは不思議そうに見ている。 「砂牛が死ねばオアシスまでたどり着けない。血なんて水と大して変わらないんだよ。侮辱かどうかも大切だけど、自分の兵を生きたまま連れて帰る事の方が、大切だと思わないの?」  スィグルの言うことももっともなように思える。だが、イルスはその選択を迫られる状況を想像するのに耐えられなかった。 「…もういい。黙って食えよ」  血のように赤い葡萄酒が疎ましく思えて、イルスはグラスを脇へ押しやった。スィグルがくすくすと笑う。 「意外とヤワなんだね、イルス」 「お前と違ってマトモな神経なんだよ」 「僕のどこがマトモじゃないっていうんだ」  スィグルは、すねたように言う。 「白系種族の連中が嫌いなのはお前の自由だけどな、だからって、好き放題痛めつけていいなんて思うなよ。今日のことだって、おかしいぞ。髪や肌の色が多少違ったって、奴等にだって血も肉もある。俺たちと変わらないんだぞ」 「でも、あっちはそう思ってないよ。僕らのことを生きてる価値のない虫けらだと思ってるか、血も涙もない悪魔だと思ってるかだ。僕の父上が奴等の血を砂牛に飲ませたって君は驚くけど、それは部族を救うためだよ。意味もなく殺したわけじゃない。白い連中が僕らに何をやってきたかは知らないんだろう。奴等は楽しみのために僕らの同族を殺してきたんだよ。君たち海エルフだって、別に今まで何事もなく暮らしてきたわけじゃないじゃないか。どうして奴等の肩をもつんだよ」  スィグルの声は冷静だったが、その裏には絶対に譲ろうとしない頑強さも潜んでいた。スィグルと言い争う気はなかったはずなのだがと思い、イルスはため息をついた。  「うまく言えないけど……白系種族にだってお前と気の合うヤツはいると思うぞ」 「いないね、そんなヤツは」  強い口調で早口に言い、スィグルはイルスの言葉を遮った。 「砂漠に残してきた僕のオアシスと、高貴な母上の美貌にかけて、誓ってもいい。僕は奴等が嫌いだ。できれば片っ端から殺していきたいくらいにね。ここで僕と気が合うヤツがいるとすればね、イルス、それは君一人だけだと思うよ」  食欲がなくなったのか、まだ料理の残っている皿にフォークを転がし、スィグルは語尾を濁らせた。うつむきがちな顔から、瞳を丸く太らせた黄金の目が、じっとイルスを見ている。 「…君が僕を嫌いだっていうなら、それも諦めるほかないけど」  小声で言って黙り込むスィグルを見ていると、イルスは猛烈に居心地が悪い気分になった。ここで自分がスィグルを突き放せば、この黒エルフは、本当にたった一人になってしまいそうな気がする。スィグルが白系種族を嫌っているのは、冗談の付け入る余地のないほど本気のことで、この学院にいる白系種族でない者は、イルスとスィグルだけなのだ。  ひ弱な花なのか、危険な猛獣なのか判別のつかない、この黒エルフが、学院で孤立してしまえば、何が起こるのか予想もつかない。ろくでもない事が起こりかねないのは確かだ。  「お前な…そういう風に言えば、俺が嫌いだとは言わないって計算してるだろう」 「あれ…イルス、意外と鋭いんだね」 「……………」  肩を落とし、イルスは苛立ちをやり過ごすために、大きく息をついだ。  「これからな、もし喧嘩を売られるようなことがあったら、絶対に俺を呼べよ」  目を閉じたまま、イルスは忠告した。 「助っ人してくれるんだ」 「ちがう」  嬉しそうにしているスィグルを睨み付けて、イルスは言った。 「お前が無茶しないか見張るんだ。この調子だと、お前はいつか誰かを殺しちまうぞ。そうなってからじゃ、遅いんだからな」  真剣に言うイルスを見て、スィグルはふふんと鼻で笑った。しかし、黒エルフの少女のような赤い唇は、否定の言葉をつむぐ気配もない。  「お前ひとりの問題じゃないんだぞ。お前も俺も、同盟のための人質なんだ。お前が起こした不始末は、そのままお前の部族に返される。わかってるんだろうな」 「憶えておくよ。…でも、僕は自分のやりたいようにやるさ。でもまあ、他でもない君の言うことだから、少しくらいは聞いてあげてもいいけどね」  にっこりと綺麗な微笑を見せて、スィグルは言った。痩せて華奢なせいで、スィグルの美貌は男でも女でもないように見える。実際には弱くなどないくせに、保護してやらないといけないような気分にさせるのが、この黒エルフの小狡いところだ。  イルスは何度目かのため息をついた。気が重い。巻き込まれるとろくな事がない予感がひしひしとするが、自分がスィグルを嫌いなわけではないこともわかる。  「僕はね、君のこと気に入ったよ、イルス。お節介なところもね」 「俺はお前の喧嘩っ早いところと、酒癖が悪いところと、味音痴なところが嫌いだ。剣が使えないっていうのも呆れるな。なんとかしろ」  思いつく限りの文句を並べて、イルスは恨みのこもった目でスィグルを見た。 「他はともかく、最後のはなんとか努力してみるよ。明日から練習だね。よろしく、先生」  テーブル越しに右手を差し出して、スィグルはにこやかに言う。いつのまに教えることになったのかと、イルスは考えかけてやめた。スィグルはなんでもやりたいようにやる気なのだろう。抵抗してもムダだ。  イルスは仕方なくスィグルの右手を握った。その手は骨張っていて冷たかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-11 : 練習試合 -----------------------------------------------------------------------  翌朝、イルスは惰眠をむさぼっていたスィグルを、布団から蹴り出さねばならなかった。学院で迎える最初の朝は肌寒く、眠り足りない同居人は、部屋を出るまでの間、ずっと休みなく文句をいい続けたが、イルスはそれを無視した。  「これは名誉の問題だと思うから言わせてもらうけどさぁ」  不満を絵に描いたような不機嫌な表情で、スィグルが抗議してくるのを、イルスは無言で聞きながら歩いた。  朝食をとった食堂から、訓練場のある地階へと下っていくところだ。行き違うのは金髪に白い肌の山エルフばかりだが、そろそろ、その状況にも慣れ初めている。  ここは海の見える故郷の屋敷ではないし、口をきく相手は全員、神殿が教え広めている共通語で話す。イルスは、いつまで人質として留め置かれるのかわからない以上、それに文句を言っても始まらないと割り切ることにした。ここは海から遠くはなれた異郷だ。順応すべきところは従うが、しかし、どうしても譲れないものもある。  剣技を磨くことと、体を鍛えることは、立って歩き始めた頃から、当然の義務として教えられてきた。この石造りの学寮で暮らしていても、それを変える必要はないとイルスは考えていた。自分から剣術を学びたいというなら、それは、同居人の黒エルフも同じ義務を負っているということだ。  「僕の髪が長いのは、部族の習慣なんだよ。黒エルフの男は戦士だろうが官吏だろうが、みんな僕と同じように髪をのばしてるし、長衣(ジュラバ)を着てる。当たり前なんだよ、あ・た・り・ま・え!」  イルスに追いすがって、スィグルが訴える。 「そんな格好で剣が振れるならやって見せてくれ」  にべもなく言い、イルスは廊下の奥にあるはずの、訓練場を目指した。  スィグルは、薄緑の絹のシャツに、革のチュニックを重ねた、山エルフ風の衣装を着ていた。この学院の制服だ。授業が始まる前の休暇の間は、服装は自由ということになっているので、敢えてこの服を着る必要はないのだが、スィグルは丈の短い衣装を一着も持っていなかったのだ。  長衣から動きやすい服装に着替えて、華やかな装身具を外し、背中まで届く長い黒髪をひとつに束ねると、さすがのスィグルも少年に見えた。なまじっかな少女より整っている顔立ちはどうしようもないが、この方がいくらもマシというものだ。  「授業がはじまったら、どうせ着なきゃならないんだ。今から慣れろよ」  イルスも、つき合いで学院の制服を着ていた。訓練用の服も故郷から持ってきてはいたが、ひたすら文句を言い続けるスィグルを牽制するためには、妥協してやるほかないだろう。異民族の衣装に身を包んだ自分の姿を鏡で見ると、確かに妙な気がするが、動きやすさの点では、さほど問題がないようだ。  「言っておくけど、僕は部屋では長衣(ジュラバ)を着るからね」 「好きにしろ」  腹立たしそうに言うスィグルがおかしく思えて、イルスは笑いをかみ殺した。  訓練場の入口には、刃を入れていない訓練用の剣を脇に抱えた山エルフたちが、たむろしていた。彼らは、そばを通り過ぎていくイルスとスィグルに、敵意からか好奇心からか判別のつかない視線を送ってきたが、イルスはそれを無視し、スィグルはおしなべて自分より長身な山エルフたちを不満げな目で睨み返した。  訓練場の扉を開くと、明かり取りの小窓がいくつも開いた部屋が現れた。壁には朝だというのに篝火が焚かれている。床には柔らかい砂が敷き詰められており、広々とした室内の思い思いの場所で、生徒たちが鍛錬に励んでいた。  イルスとスィグルが室内に入ってくると、一瞬、あたりが静まり返った。あまり良い種類の沈黙とは言えない。ちくちくと肌を射す、好意とはほど遠い視線を感じながら、イルスは室内を見渡した。  「おはよう。今日は制服なんだな」  背後から声をかけられ、イルスは振り向いた。扉のすぐ横に、シュレーが立っていた。山エルフの生徒たちを、取り巻きのように連れているが、シュレーが彼らと親しいようには見えなかった。  シュレーがイルスに話しかけたことに、山エルフたちはかすかに腹を立てているようだった。しかし、シュレーはそれを意に介さず、一人、取り巻きの群れを抜けて、イルスとスィグルの方に歩み寄ってくる。無駄のない所作は大仰でこそなかったが、神殿の者に特有の、厳かな気配が見えかくれしている。  「元気そうでよかった」  スィグルの顔を見て、シュレーは言った。肩までで切りそろえた金髪を、今日はひとつに束ねている。シュレーのほぐれた前髪の間から、神聖神殿の一族であることを示す、赤い刻印が透けていた。  「世話になったらしいですね、猊下」  いつもの愛想のいい声とはうって変わって、スィグルは硬質な冷たい響きのする声で言った。シュレーが薄く笑う。  「私はもう猊下ではないよ。知っているんじゃないのかい」 「でもみんな、そう呼んでる」  顎をあげて、スィグルは不機嫌そうに言う。 「何度言っても、直してくれないんだ。いちいち言うのも飽きてしまったんだよ。でも、知っての通り、今の私は山エルフの王族のひとりだ」 「僕らは、宮廷序列からいうと同等な身分てことだね、猊下」 「そういうことだよ、レイラス」  スィグルを洗礼名で呼んで、シュレーは困ったように笑った。  「鍛錬に来たのか」  シュレーが細身の剣を握っているのに気付いて、イルスが言った。シュレーは意味有りげに苦笑し、頷く。 「鍛錬にもならないけどね。みんな遠慮して、負けてばかりだ」  ちらりと取り巻きのほうを気にして、シュレーは声をひそめる。 「よかったら相手になってもらえないかな」 「冗談だろ。そんなのゴメンだよ」  ろくに考えもしていない様子で、スィグルが拒否する。シュレーがまた微笑んだ。 「君は白い卵が嫌いなんだったね」 「あんたのご先祖が考えた下らない伝説のおかげで苦労させられてる」 「シュレー、得物はなんだ」  スィグルの言葉を遮るように、イルスは手短に尋ねた。スィグルが大仰に驚き、イルスの顔を見上げてきた。シュレーまでが、虚を突かれたように推し黙り、イルスに顔を向ける。 「本気で手あわせする気なのか? イルス、どうかしてるよ。だいたい、今日は僕に剣術を教える約束だっただろう。だからろくに寝てもいないのに、こんな馬鹿みたいな服まで着込んで、やって来たんじゃないか!」  早口に抗議するスィグルの顔を、イルスは黙って押し返した。 「寝てないのは自分のせいだ。一勝負する間くらい待てるだろうが。その歳になるまで剣を仕込まれなかったんだ。あとほんのちょっと待つくらい同じ事だ」  深く考えずにイルスは抗議した。  従軍した兵たちから、山エルフの使う戦斧の攻撃は強烈だと噂に聞いていた。『左利きのヘンリック』と呼ばれ、異民族にも恐れられていた海エルフの族長でさえ、金髪の兵士が使う戦斧攻撃のために深手を負ったことがあるのだ。修行のためと称して師匠のもとに遣わされる前、まだイルスがほんの子供だったころに、父親の背中に残っている斧の傷を見たことがあった。使い手として名を轟かせる父の、肩胛骨を割ったという武器と、一度対戦してみたいと思っていたのだ。シュレーがそれを使うかどうかはわからないが、山エルフの血を半分引いているというなら、まるで期待できないわけでもないだろう。  「イルス…君がそんなこと言うなんて。僕、傷ついたよ」  上目遣いになってスィグルは恨み言を言った。 「……先約があるみたいだな。私は遠慮しておこう」  薄く微笑して、シュレーは引き下がろうとした。 「変な気をつかわなくていいよ、猊下。イルスは強敵を求めてるらしいから、せいぜい気をつけるんだね」  刺すような声でシュレーを引き留め、スィグルはいかにも悔しそうな顔をした。いつも底はかとなく勝ち誇ったような顔をしているスィグルが、そんな顔をしているのを見ると、イルスは何かとんでもないヘマをしたような気分になった。  「勝負がついたら、約束通りお前に教えるよ」 「君がボロボロに負けてなければね。もし万が一そうなったら、そっちの猊下に頼んだ方がマシかもしれないじゃないか。そんな畏れ多いこと、頼まなくてすむように期待するよ、まったく」  じろりと横目でイルスを睨み付け、スィグルは砂を踏んで部屋の壁際に歩み去った。イルスがため息をつくと、シュレーが苦笑した。 「扱いやすい相手じゃないな」 「負けたら何を言われるかわかったもんじゃないぜ」  肩を落として、イルスは独り言のように呟いた。 「でもそう簡単には勝てないよ、フォルデス」  穏やかに微笑みながら、シュレーが言うので、イルスは意外な気分で対戦者の緑の目を見つめ返した。  「槍か戦斧が望みだけど、剣も一通り使える。君にあわせるよ」  イルスはしばらく無言で、微笑む相手の真意をはかり、やがて納得して微笑んだ。同居人と同じく、神籍の猊下も、見た目で判断してはならない相手のようだった。 「お前は戦斧だ。俺は剣を使う」 「いいね。名にし負う海エルフの撃剣、受けて立とう」  白い歯を見せて笑うシュレーの顔は、まるで神殿の壁画に描かれたモザイク画の天使のように清らかだった。   * * * * * *  「私の技は神殿仕込みなので、全て迎撃用だ。だから先制攻撃の作法は知らない。君から来てくれ、フォルデス」  長い柄の先に、見事な湾曲を描く三日月のような刃をつけた戦斧の台尻を、シュレーは静かに砂地に降ろしていた。神殿の一族の血を引くシュレーの容姿はどことなく神々しく、そうやって立っていると、杖を持って光臨した天の使いのようにも思える。  鞘から抜いた剣だけを、イルスは左手に握っていた。故郷から持ってきた愛用の剣は、本来両手持ちの剣だが、技が熟練すれば片手でも使えるように作られている。盾は持たないのが海エルフの常だ。功撃と後退のくり返しで敵をかわし、同時に複数の相手と剣を交えるのが、部族に伝わる戦い方だった。  師匠から学んだ戦い方に、迎撃というのは存在しなかった。海辺の戦士が身に付けている迎撃法は、相手の攻撃をかわすことだけだった。対戦者に攻撃する機会を与えず、自分からの攻撃に終始するのが、最も戦士らしい戦い方だと教えられてきた。  そして、イルスはそれを疑ったことはない。  剣の柄を両手で握り直し、イルスは十数歩先に立つシュレーの顔を見た。訓練場に居合わせた山エルフたちは、みな手をやすめて、この練習試合を見物するつもりのようだ。  スィグルが腕組みして壁にもたれ、下らないものでも見るような目をして、こちらを眺めている。  「本気でやるか」  構える気配のないシュレーに、イルスは確かめた。 「君が本気かどうかは、最初の一撃で判断しよう」  静かな微笑をたたえたまま、シュレーは答えた。イルスはにやりと笑った。食えない相手だ。血の中に潜む戦闘民族の性質が、ふつふつと湧き上がるのを、イルスは感じた。剣を握る手に力がこもる。手加減するのは難しそうだった。  剣を上げるのと同時に、イルスは砂を蹴って走り出した。その瞬発力の早さに、試合を見ていた誰もが驚きの声をあげたが、イルスは戦斧を握り直すシュレーの目だけを見ていた。  跳躍し、シュレーの眉間を狙って、イルスは最初の一撃を打ち込んだ。鋭い金属音が鳴り、まともに食らえば頭蓋骨を砕きかねない一撃を、シュレーの戦斧が受けた。装飾の施された戦斧の柄から火花が散り、シュレーの白い顔に振りかかる。  攻撃の重みで後退したシュレーの間近に、イルスは着地した。打ち合った武器の向こうで、シュレーが白い顔を歪めて笑った。イルスは、この高貴な少年が笑うのを、初めて見た気がした。 「君は高く跳ぶなあ…」  竜が舌なめずりをするような声で、シュレーは言い、戦斧を梃子に使ってイルスの剣をはねのけようとした。しかし、シュレーが振り下ろした戦斧のすぐ脇をすり抜け、イルスはシュレーの背後に回っていた。  とびのいて振り向いたシュレーの顔は、もう笑っていなかった。シュレーが体勢を立て直す間もなく、イルスは第二撃のための跳躍にはいっていたのだ。  ギィンと鈍い音が鳴り、左肩にむけて振り下ろされたイルスの一撃を、シュレーの戦斧が受けとめた。 「くっ……」  シュレーは小さく呻いた。押し返されるのを待たずに飛び退き、イルスは手薄になった下段に、三度目の攻撃をふりおろした。  戦斧を砂に突き、シュレーはそれも辛うじて防いだ。武器が擦れ合い、けたたましく軋む音が鳴った。イルスは相手の技量に感心した。師匠のように優雅にとはいかないが、とにかく、この神官は、イルスの立て続けの打ち込みを三度までも防いだのだ。  深々と砂に埋もれた戦斧を引き抜いたシュレーは、肩で息をしていた。しかし、その顔はまた微笑していた。 「なるほど……君の同胞が三倍の数の兵をほふったというのも頷ける」 「山エルフの兵が、どうやって俺の親父を撃ち取ったかわかるか」  気分の昂揚を抑えながら、イルスは口を開いた。 「君たちの技には補えない欠点がある。…跳躍だ」  間合いをはかるイルスの目と、長剣の切っ先をせわしなく見比べながら、シュレーは息を整えつつ、楽しげに話している。 「跳躍した瞬間を、背後から狙えば簡単だよ、フォルデス」 「卑怯なやり方だな」  にやりと笑って、イルスは答えた。シュレーが目を細めて笑い返してきた。 「命のやりとりに卑怯もくそもない。生き残った方が勝ちだ」  声をひそめて呟くシュレーの言葉には、その清らかな顔からは想像もつかないような凄みがあった。イルスは、対戦者が面変わりするのを間近に見て、ある種の陶酔を感じた。強敵を前にするとき、イルスはいつも同じ感覚を覚える。血と戦いを求めるのは、海エルフなら誰でも持っている性だという。  剣を握る左手の肩から指先にかけて、戦闘の興奮が細波のようにおけおりていく。湧き上がる狂乱に身を任せそうになるのを押し止めて、イルスは剣を握り直した。 「跳躍は命がけだ。勝機がなければ跳ばない。跳躍中に斬られるのは剣士の恥だ」 「では、君の父上も肩の傷を恥に思っているだろう」  戦斧を構えると、シュレーはイルスの膝を狙って湾曲した刃先を振り下ろした。鋼の斧が自分の膝を砕く直前、イルスはそれを見計らうように跳躍した。回旋による攻撃の反動のため、シュレーの右肩は無防備だった。勝利を確信し、イルスはごくわずかに剣先をそらせた。攻撃を予知したシュレーの顔が不自然に振り向き、自分の右肩をかすめる両刃の剣を見送った。  ほとんど体重を感じさせない動きで、イルスは砂の上に着地し、振り下ろした剣を退いて、すばやく体勢をたてなおした。反動から解放され、振り向いたシュレーと目が合う。イルスは本能的な悦びのため、満面に笑みがこみ上げるのを止められなかった。  「……右腕が落ちたぞ、シュレー」  イルスが言うと、シュレーはにやりと笑った。 「片腕じゃ戦斧は振れないな」 「俺の親父の肩を割った兵士は英雄になれたのか?」  笑いながら、イルスは尋ねた。 「知らないのかい」  左手だけで戦斧を握り、シュレーはイルスとの間合いをつめた。 「その場で君の父上にしとめられたんだよ」  声高にいうシュレーの言葉に、試合を見守っていた山エルフたちが騒然とする。 「戦斧で肩を狙ったのは馬鹿だった。君たちは片腕でも戦える。そうだろう」  言い終えたあと、一呼吸してから、シュレーは左腕だけで戦斧を構えた。イルスの腹をねらって、戦斧の突きが繰り出される。間近からの攻撃をかわすため、イルスはよろめいて砂地に手をついた。戦斧を退き、さらにイルスの腹部を狙うシュレーの攻撃をかわすのに係り切りになると、イルスには攻撃に転じるタイミングが見つからなくなった。  しかし、何度目かの突きをすれ違うようにかわすと、イルスは戦斧の柄を左手で掴み、残った右手に握った剣を、シュレーの喉元に押しあてた。  冷たい鋼の刀身を喉に押しつけられたまま、シュレーがなぜか満足そうにため息をつき、イルスの顔を見おろす。 「どうやら死んだらしい」 「そういうことだ。俺の勝ちだな」  笑い返して、イルスは言った。 「一騎打ちなら君たちは山エルフに対してほとんど無敵だ」 「俺は5人までなら同時に打ち合える。何人まで相手にできるかが、海の者の自慢なのさ」  剣を退いて、イルスはシュレーを解放した。 「なぜそうなったか考えたことは?」  薄く微笑みを見せて、シュレーは汗ばんだ顔をイルスに向けた。 「………さあ?」  師匠はそんなことをイルスに尋ねたこともないし、教えてくれたこともなかった。 「君たちの兵力が、いつも敵のそれより格段に少ないからだ。戦場に出れば、君たちはいつも、複数の敵から同時に攻撃される」  静かに言うシュレーの顔を良く見るために、イルスは目を細めた。 「君たち海エルフは、他の部族に比べて、格段に数が少ない。それを補って血を残すために、君たちは自分たちの中に、特殊な体質をつくった。…狂乱の戦士の血だ。そのからくりが、君の中にもちゃんと隠されているとは、驚いたよ。普段はおとなしい君でさえ、剣を握るとあんな目をするなんてね」  面白そうに言うシュレーに、イルスは苦笑を返した。 「物知りなんだな」 「残念だけど、神殿は何でも知ってるんだ」  シュレーは目を細めて言った。 「ついでに、もうひとつ、君が知らないらしいことを教えよう、フォルデス。君の父上が左利きになったのは、件の兵士に肩を割られて以降のことだよ。それまでは両手利きだった。君が左利きなのは、父上に似たせいじゃない」  軽い衝撃のため、イルスは一瞬だけ目を見開いた。 「父上にこだわるのは止した方がいい。君は君で充分強い」 「海エルフでは、一番強い戦士が族長になる。みんな族長には敬意をはらってる。その族長がたまたま実の父だっただけだ」  イルスはなぜか責められているような気がして、思わず強い口調になっていた。 「親が子に何かを伝えられるなんて妄想だよ」  神殿の者に相応しい微笑みを見せて、シュレーが言う。 「お前は孤独なやつだ」  声を落として、イルスが呟くと、シュレーはなにも答えずにただ微笑した。  「昨日の決闘騒ぎ、丸くおさめておいた。君たちへの処罰はない」 「……すまなかった。二度と世話にならない」  イルスは呟き、砂地に視線を落とした。もともと、巻き込まれただけとはいえ、ケンカを買った以上は同罪だという気がした。後味が悪かった。 「いつでも頼ってくれていい。心配しなくても、私が死霊になる前に借りを返してもらうから」 「…前にも聞いたと思うけど、どうしてそう、俺たちの世話を焼くんだ?」  イルスが目をあげると、シュレーと視線があった。 「そのほうが、君たちが不愉快な思いをしないで済むと思って」 「正直言って、俺はお前が親切なだけだとは思えない……いや、悪い…言い方がまずかった」  イルスは動揺して顔を擦った。うまい言葉が見つからない。 「私に、他にも目的があるように思えると言いたいなら、君は意外と鋭いよ」  シュレーは薄く笑っていた。その笑みが少し寂しそうなような気がして、イルスはますます自己嫌悪を感じた。 「君のような二心ない者と関わっていたいだけだ。誰かに無償で力を貸すと、自分がいくらか高尚な存在になったような錯覚を感じて、一時的に満足できる。要するに、君たちに感謝されると、気分がいいんだよ。…この説明で納得できたかい?」  シュレーの口調は自嘲的だった。イルスは小さくため息をついた。 「お前は俺には難しすぎるぜ。気難しいのも神殿仕込みか?」 「これは自前だ」  イルスは真剣に尋ねたのだが、シュレーはそれを冗談だと思ったようだった。  「イルス」  声をかけられて振り向くと、鞘を差し出して、スィグルが立っていた。 「勝負はついただろう」  微笑むシュレーに、スィグルは敵意のこもった眼差しを向けた。シュレーが静かに頷く。 「作戦を変えないと、勝ち目はなさそうだ」 「あきらめた方が賢いんじゃないかい。かなり圧されてたよ、猊下」 「そうでもないよ。今、圧されてるのは彼の方だ」  イルスを見て、シュレーはにっこりと笑った。スィグルがかすかに顔をしかめる。言い得た話だと思って、イルスは苦笑した。 「今夜、食事に付き合ってもらえないか。よかったら、黒エルフの友人も一緒に」  シュレーの提案に、イルスは肩をすくめた。 「お前には借りがあるから、俺はかまわない。スィグルがどうするかは、本人の顔を見ればわかるんじゃないのか」 「お断りだよ、猊下」  案の定、ぴしゃりと拒否するスィグルは、今にもかみつきそうな顔で敵意をむき出しにしている。 「それは残念だよ。どうせなら君の美貌を眺めながら食事をしたかった」  修辞的な言い回しで言い、シュレーは面白そうにスィグルを見つめる。 「悪いけど、他をあたってくれないかなあ。あいにく、坊主の白いケツには興味ないんだ」 「心配しなくてもいい。私には君よりずっと物静かで美しい妻がいる」  さらりと受け流して、シュレーはスィグルに微笑みを向けた。気を悪くしたのを認めたくないという顔で、スィグルが圧し黙る。  「気が向いたら君も来てくれ、レイラス。それで借りは無しにするよ。それがだめなら、いつか、もっと別の屈辱的な形で返してもらうことにしようか。君が女装して学院中の廊下を歩いてくれたら、私も君を助けた甲斐があったと納得できるかもしれないな。それとも、なにか他にいい案があったら教えてくれ」  歩み去りながら、シュレーは言い、こちらに軽く手を振って見せた。  「………僕は行かないよ。絶対行かないからな。なんて奴……なんて奴だ。なんて奴だ!」  怒りながら、スィグルはわなわなと震えていた。しばらく考えて、イルスはふと思いついた。 「なあ、スィグル、お前、シュレーにからかわれたんじゃないのか?」 「あれが本気じゃないって言いたいわけ? そんなわけないだろ。アレが奴の本性なんだよ!! なにが君よりずっと物静かで美しい妻がいるだ。ずっとって何だ。なんで妻なんかいるんだ。なんだかイライラするなあっ」 「…やっぱり、からかわれてるよ、お前」  苦笑を抑えて、イルスは忠告した。 「気晴らしに買い物でもしようかな。山エルフの貧乏貴族どもには手も出せないようなものをバンバン買ったら、腹いせになるかもしれない」 「お前は剣の稽古だろ」 「えっ!? 僕がこんなに落ち込んでるのに、稽古なんかさせる気なのかい!?」 「疲れて倒れるまで素振りすれば、腹いせになるぜ」  口をぱくぱくさせて言葉を選んでいるスィグルに、イルスは何度か頷いて見せた。 「素振り千回だ」 「…千回って言った?」 「言った」  スィグルはあっけにとられた顔で、イルスをただ見上げている。千回ぐらい当たり前だ。形はともかく、腕力をつけるところから初めなければ、スィグルの場合、話にならない。イルスは無駄な言葉は返さないことに決め、ただ黙ってスィグルを見おろした。 「わったよ、やりゃいいんだろ、やりゃあ!!」  ひとしきりわめいてから、スィグルは剣を握った。 -----------------------------------------------------------------------  1-12 : 四部族連合 -----------------------------------------------------------------------  執事が差し出した真鍮製のカギを、シェルは満面に笑みを浮かべて受け取った。 「ありがとう。これ、僕が自由に使っていいんだね?」 「はい、学院にいらっしゃる間は、お手元に」  山エルフの執事は、シェルにつられたのか、かすかに微笑み返してきた。 「君の名前は?」  シェルは背の高い執事の顔を見上げ、昂揚した声で尋ねた。 「ラザロと申します」  軽く礼をして、執事は答えた。 「僕は、シェル・マイオス・エリトゥリオ」 「存じております」  苦笑をかみ殺して、執事は答えた。すると、シェルはびっくりしたような顔をした。長くのばした金の巻き毛に、大きな緑の目をしたシェルは、生き生きと微笑んでいないと、まるで人形のように見える。シェルの日焼けしていない白い顔は、十三歳という年齢の割に子供っぽく、頬は丸く、金色の長い睫は微妙にカールしていた。  「ラザロ、僕がいつまでここにいなきゃいけないか、君は知ってる?」  特別な感情のない無表情な声で、シェルは言った。ラザロはかすかに顔をしかめた。人質として送られてきた森エルフの王子には、この学院を出ていくべき期限というものがない。それを知っているラザロは、初対面の幼い主人に同情したようだった。 「やっぱり知らないよね。誰に聞いてもイヤな顔されるんだよ。でも、僕はけっこう、この成りゆきを歓迎してるんだ。こんな時でもないと、母上や姉上たちから離れられないもんね」  真面目な顔で言い、シェルは一瞬沈黙した。しかし、ラザロが戸惑っているのに気付くと、シェルはまたにっこりと笑った。 「ラザロ、僕が学院にいる間、仲良くしてね。もしかしたら、僕が死ぬまでずっとかもしれないけど」 「…精一杯お仕えいたします」 「うん、ありがとう」  答えるのとほとんど同時に、シェルは長身のラザロを抱きしめた。 「で…殿下!?」  予期せぬ出来事に、執事は錯乱して飛び退いた。シェルは両腕を広げたまま、ぽかんとしてラザロを見ている。  「あ、そうか。ごめんね。山エルフはこういうことしないんだよね」  苦笑いして、シェルは頭をかいた。人質に選ばれてからというもの、泣き暮らす母上や姉上たちをよそに、シェルはエルフ諸族の風俗習慣について詳しく勉強してきたのだが、いざ本物の異民族を前にすると、予習はすっかり抜け落ち、いつも通りに振る舞ってしまっていた。これから、他の部族の人質としてやってきた少年たちと友達になる予定だというのに、ちょっとした風習の違いのせいで、いきなり嫌われてしまうのは、いかにもまずい。  「よろしく、ラザロ」  右手を心臓にあてて、シェルはお辞儀をしてみせた。これが山エルフ風のあいさつだと本に書いてあったのだ。しかし、ラザロは予想以上に恐縮して、シェルに何度も礼を返してきた。 「いけません、殿下。目下のものにそのような」 「これ、違うの?」  本には確かに、こうやって挨拶するものだと書いてあったのだが、資料が古かったのかもしれないとシェルは後悔した。それとも、使者のための礼節読本を参考にしたのでは、多少まずかったのかもしれない。  「難しいなあ。まあ、そのうち研究するよ」  少し照れて、シェルは笑った。ラザロは気が気ではない様子で、心なしか、シェルとの距離を多めにとっている。また、いつ抱きつかれるかと思うと、落ちつかないのかもしれない。  「ねえ、ラザロ。他の人質の人たちは、僕より先に到着してるの?」  軽く首をかしげて、シェルは尋ねた。 「はい、皆様すでにご到着です」  ラザロは緊張のためか、少し早口になっていた。 「誰からでもいいから、僕、会ってみたいんだ。どこに行けば会えるか知ってる?」 「そうでございますね…まだ休暇中で講義は始まっておりませんので、皆様ご自由にお過ごしかと存じますが。どこに居られるかまでは…」 「うろうろしてたら、会えるかな?」  思案顔で、シェルは言った。 「学院は広うございますし、学生の方は大勢いらっしゃいますので、偶然お会いするのは難しいかと。それに、迷われるといけません。古くからの学院でございますので、危険な場所もございます。お望みでしたら、各殿下のお部屋に伝言をお届けいたします」 「ああ、それじゃ頼むよ。いつでもいいけど、なるべく早く会いたいって僕が言ってたと伝えてよ」  満足そうに微笑んで、シェルは言った。 「かしこまりました」  一礼して、ラザロは伝言を伝えるため、去ろうとした。  「あ、ちょっと待って、ラザロ」  急に思いついたように、シェルがそれを呼び止める。 「部屋にいるってことも考えられるのかな?」 「は……殿下方がお部屋に居られるかどうかでございますか」 「そうそう。もし、部屋にいるんだったら、僕、ちょっと行って会ってこようかなと思って。伝言しに行っても、いなかったら会えるわけないし、いるんだったら、直接僕が行った方が手間が省けるよ」  自分の思いつきに深く納得して、シェルは何度もうなずいた。しかし、ラザロは困惑している様子だ。 「…お言葉ですが、先方様のご都合がつかない場合も考えられます」 「断られたら帰るからいいよ。3人もいるんだし、誰かひとりくらい会ってくれるさ」  気を悪くすることもなく、シェルは笑った。ほんのちょっと会って話すくらい、誰も嫌がらないだろう。  「さあ、行こうよ、ラザロ。ついでに学院の道案内もしてくれると助かるな」  物言いたげな執事を扉の外に追い出して、シェルは受け取ったばかりのカギを使い、黒檀の扉にカギをかけた。がちゃりと重たい音がして、掛け金がかかる感触がした。シェルはうっとりとその感触を楽しんだ。ここには、うるさい兄上たちや、お節介な姉上たちはいない。口うるさい母上に、日に焼けるだの、転んでケガをするだの、下らないお説教をされることもない。この部屋は、正真正銘、自分一人の場所なのだ。  シェルは、真鍮のカギを、懐に大切にしまい込んだ。 「さて、ラザロ、誰のところから行こうか?」  前もって調べて置いた、3人の少年たちの名前を、シェルは思い返した。山エルフからの人質は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグ。元は神聖一族の出で、山エルフの第一位継承権を持っている。海エルフからの人質は、イルス・フォルデス・マルドゥーク。海エルフを見るのは初めてだ。黒エルフからの人質は、スィグル・レイラス・アンフィバロウ。美貌で名高い一族の出だから、きっと綺麗な顔立ちをしているだろう。みんな共通語が通じるだろうか。もし通じなくても、シェルはエルフ諸族の言語を簡単になら話せるように勉強してきていた。それぞれの部族の言葉で挨拶したら、みんな喜んでくれるだろうか。  おなじ運命を分かち合う少年たちが、自分と友達になってくれるところを想像して、シェルはうっとりしていた。長い戦いに明け暮れてきたエルフ諸族も、四部族同盟によって、再び元通りの平和な時代を迎えることができた。四つの部族を代表して集められた自分たちが友情を結ぶことで、四部族同盟が末永く続くことが確かめられるように思えて、シェルはその気高い理想に燃えていた。そして何より、同じ年頃の友達ができるということが、シェルには嬉しかったのだ。  今まで家族としか接したことのないシェルは、人に嫌われたことがなかった。そもそも、それが間違いの始まりだった。   * * * * * *  「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグ様のお部屋です」  シェルに与えられた部屋の入口と同じような、黒檀の扉の前で、執事ラザロは説明した。ラザロが、取り付けられていた真鍮の輪で扉を叩くと、部屋の中から山エルフの執事が顔をのぞかせた。  彼らは山エルフの言葉で挨拶をし、会話をしたが、シェルにはその会話の意味がちゃんと聞き取れた。 「アザール、取り次ぎを頼む。マイオス殿下が、ライラル殿下にお会いになりたいとおっしゃっている」  アザールと呼ばれた執事は、難しい顔をした。 「猊下はお休み中だ。あとで申し上げておく。気が向いたらお会いになるだろう」 「マイオス殿下が直々にお出でになっているんだぞ。せめて今お伝えしてくれ」  ラザロは気を悪くしたようで、早口になった。シェルはその言葉を聞き取るため、少し苦労しなければならなかった。 「猊下のお邪魔をするわけにはいかん。森エルフの王子でもだ。神籍のお方に無礼だろう」  アザールは頑強に拒む。シェルは、山エルフのシュレーを「猊下(げいか)」と呼んでいる執事が、少し嫌いになった。  「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグは、もう神籍は返上してるって聞いたけど、違うの?」  シェルがきゅうに山エルフの言葉で話したので、二人の執事はぎょっとして振り返った。特に、アザールの驚きぶりは、可哀想になるほどだった。シェルは、ちょっといきなりすぎたかなと反省した。ふつう、エルフ族は他の部族の言葉を学ぶことはなく、部族間での会話は、神殿で使われる共通語で行われる。共通語を話せれば、どこへ行っても困ることはないので、それ以上の言語を頭に詰め込もうとする者は希なのだ。だから、まさかシェルが山エルフの言語を解するとは、執事たちも考えなかったのだろう。  「ごめん、ラザロ。盗み聞きしちゃった」  なんとなく卑怯な事をした気分になり、シェルは白状した。ラザロが物言いたげにぱくぱくと口を動かしてから、やっと言葉をひねり出した。 「殿下は…私達の言葉がおわかりになるのですか」 「勉強してきたんだ。話せた方がいいかと思って。盗み聞きしてやれって思ったわけじゃないんだけど……その、聞こえちゃうから、やっぱり。……あのう…シュレー・ライラルはもう神籍を返上してるから、敬称は"殿下"の方が正しいと思うよ、アザール」  流ちょうな山エルフの言葉で、シェルは忠告した。ラザロが微笑み、アザールは沈黙した。  アザールは何か言おうとしたようだったが、部屋の奥から聞こえたベルの音に、はっとして振り向いたきり、そちらに気を奪われた様子だった。 「猊下がお呼びのようです。少々お待ちください」  不愉快そうな顔のまま、アザールは部屋に引っ込んでしまった。シェルは、ラザロと顔を見合わせ、肩をすくめた。  「"殿下"でいいんだよね、ラザロ。僕の言葉、間違ってる?」  華奢な顎に手をやって、シェルは考え込んだ。ラザロは気味良さそうに微笑んでいる。 「いいえ。間違いはございません。マイオス殿下は山エルフの言葉をよくご存知ですね」  ラザロはどこか、誇らしげだった。シェルは安心して微笑み返した。  シェルがラザロに礼を言おうとしたとき、黒檀の扉が再び開いた。その向こうには、学院の制服を着た、背の高い少年が立っていた。額の中央に、金髪を透かせて赤い聖刻が見えている。少年は、かすかに驚いたような顔をしていた。  「はじめまして」  緊張しながら微笑み、シェルは山エルフの言葉で言った。額の聖刻からして、目の前の少年は山エルフのシュレーに違いなかった。喜んでもらえるといいなと思って、シェルは精一杯正しい発音をするように気をつかった。  しかし、聖刻の少年は困ったような微笑みを見せた。 「恥ずかしい話だが…私は共通語しか話せない」  まったく訛りのない共通語だった。シェルは心底驚いて、目の前の少年を見上げた。山エルフなのに、自分の部族の言葉がまったくわからないとは。 「シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ。よろしく、マイオス。よかったら入ってくれ」  シェルに手をさしのべて、シュレーは言った。まるで神殿の壁画の中にいる、天の使いのようだとシェルは感動した。 「僕…あの、僕でよかったら、山エルフの言葉を教えます!」  言葉を選ぶ余裕もなく、シェルは一息にそれだけ言った。執事たちはギョッとして顔色を失ったが、シュレーは一瞬真顔になり、その後、声をたてて笑った。よほどおかしかったのか、シュレーはしばらくの間、聖刻のある額に手をやり、笑いを圧し殺すのに苦労しているようだった。自分がまずいことを言ったのだと気付いて、シェルはうつむいた。恥ずかしさで顔が火照るのがわかる。友達になってもらうつもりが、馬鹿にされて追い返されてしまうかもしれないと思うと、シェルの気分はどんどん落ち込みはじめた。  「…気遣いありがとう……でも、今日は別の話をしたいな」  まだ笑いの気配の残る声で、シュレーはやっと口を開いた。ラザロがほっとため息をつくのが聞こえた。  扉を大きく開き、シュレーがシェルを中へと促した。シュレーの穏やかそうな緑の目には、シェルを嫌っているような表情は見つからなかった。シェルは不安が晴れた勢いで、ぱっと破顔し、考える間もなくシュレーに抱きついていた。  シェルがしまったと思ったのは、シュレーが短く呻いて息を呑むのを聞いた後だった。 -----------------------------------------------------------------------  1-13 : 白い卵と黒い卵 -----------------------------------------------------------------------  「驚いたよ」とシュレーは微笑しながら言った。  整頓された室内は、磨かれた木製の家具がいくつか置かれているだけで、質素すぎるほど質素だった。すすめられた長椅子に腰掛け、シェルは執事アザールが給仕してくれたお茶を飲んだ。  「君たち森エルフは開放的で陽気だな」  姿勢良く椅子に腰掛け、シュレーは面白そうにシェルの顔を見ている。馬鹿にされているわけではないとは思いながらも、シェルはなぜか緊張していた。シュレーとは1歳ちがいのはずだが、神殿の血を引く少年は、シェルよりずっと年上に見えた。背も高く、体つきも大人びている。年の割に子供っぽく、いつも兄たちにからかわれていたシェルとは大違いだ。  「ごめんなさい。他の部族の風習を勉強してきたんだけど、いざとなると舞い上がっちゃって…」  シェルは情けなくなって、ため息をついた。気をつけようと思っていたはずなのに、案の定ドジを踏んでしまうとは、まったく嫌になる。 「気にすることはないよ。ちょっとした風習の違いだ。君の故郷では普通のことなんだろう、マイオス」 「そうです。でも、森エルフ以外には嫌われるから止せって本にも書いてありました」  気落ちしたまま、シェルは答えた。シュレーは何か別のことを考えている様子で、にやりと笑った。 「確かに、相手を間違えるとひどい目にあわされるかもしれないな。最初に訪ねたのが私のところで良かった。いきなり黒エルフの山猫君と対決なんてことにならずに済んで幸運だったよ」 「それ…黒エルフのスィグル・レイラス・アンフィバロウのこと、ですか」  シュレーの言葉に含みがあるのが不思議な気がして、シェルは自信なく訪ねた。シュレーは、人のことを悪く言うような少年に見えなかったのだが、黒エルフのスィグルのことを言う時の彼の表情には、皮肉めいた何かが感じられた。 「そうだよ。彼は白い卵が嫌いなんだそうだ」  青磁のカップからお茶を飲んで、シュレーは答えた。シェルは少し不安になった。  「創世神話ですか。…やっぱり、信じてるんですか。全ての民族が二つの卵から生み出されたって……?」  ついこの間まで、神官として同じ教えを説いていたはずのシュレーが、創世神話を信じていても何の不思議もなかった。シェルは、相手の表情をうかがいながら、注意深く尋ねた。上目遣いの不安げな視線に気付いて、シュレーがかすかに笑った。 「さあ?」  否定の響きのある言葉で、シュレーはシェルの質問を受け流した。 「難しい問題だ。創世神話の時代から生き続けている者はいないからね。大神官に選ばれた者は、先代の大神官の記憶を受け継ぐと言われているが、歴代の大神官はその記憶の内容を秘密にして、一族の者にも明かさない。神話の内容が真実かどうかを証明してみせろと言われても、私にはできないな」 「でも、神殿では、創世神話を教えてるんですよね。僕も習いました」  控えめにシェルが言うと、シュレーは一時目を閉じて微笑した。 「君は頭がいいみたいだな、マイオス」  楽しそうに言って、シュレーはシェルの顔を見つめた。 「証明されないものを信じることを、人は"信仰"と呼ぶんだ。神聖神殿は、この"信仰"をひろめるために存在している。君みたいに、創世神話の真実性について疑問を持つ者が神殿にやってきたら、こうしろと私は教えられた」 「え?」  黙ってしまったシュレーの顔を、シェルは見つめ返した。シュレーは注意して見ればわかるという程度の、かすかな微笑を浮かべている以外は、ほとんど無表情だった。シュレーの静かな緑の瞳が、シェルを見つめている。森の民はみんな、同じ緑色の光彩を備えて生まれてくるものだが、シュレーの少し灰色味を帯びた緑の目には、故郷で見る同胞たちのような、木漏れ日のような陽気な光がない。目をそらせず、シェルが息をつまらせそうになっていると、不意にシュレーはシェルに手をさしのべ、慈愛に満ちた微笑みで顔を覆った。 「微笑み、"信じよ"と言えと」  シュレーの微笑があまりに神々しかったので、シェルは正視できなくなってうつむいた。自分が下らないことを尋ねてしまった気がして、シェルは後悔し始めていた。 「ごめんなさい」  惨めな気分で、シェルは謝った。シュレーがくすくすと笑い声をたてるのが聞こえた。 「気にすることはない。実は私も信じていないんだ」 「え?」 「この世には神なんかいない。神殿の都合が存在するだけだ」  天使そのもののような微笑を浮かべて、あっさりと言うシュレーが、シェルはなんとなく恐ろしかった。 「……でも、神様はいるって、僕は信じてます」  シェルが怖ず怖ずと言うと、シュレーはまた微笑した。 「それが"信仰"というやつだよ。理屈じゃない。神殿で君のような者ばかりが生まれていれば、何の苦労もなかっただろうな」 「苦労してるんですか」  シェルが小声で聞くと、シュレーは意外そうな顔をした。 「すまない。言葉の綾だよ。……いや、ここに来てからは苦労しているかもしれないな。額に赤い印があるだけで、変に持ち上げられたり、嫌われたりしているよ」 「嫌われているって、黒エルフの人のことですか」  シェルは漠然と不愉快になって、顔をしかめた。神籍を返上したシュレーのことを、未だに「猊下(げいか)」と呼んでいる執事のことや、白系種族だというだけで嫌っているという黒エルフのことが、なんとなく嫌だ。シェルは、シュレーに好感を抱いていた。みんなで友達になれればいいと思っていたのに、裏切られたような気分になる。  「レイラスは、白系種族がもれなく嫌いで、同じ黒系種族のイルス・フォルデスにしか心を開かない決意のようだよ」 「海エルフの? …彼も、やっぱり白系種族が嫌いなんですか」 「さあ……どうかな」  答えを知らないわけではなさそうな口調で、シュレーははぐらかした。  「彼らと食事をする約束になっているんだが、よかったら君も来るかい、マイオス」  微笑んで言うシュレーを見ていると、シェルは、誘いを断ってはいけないような気分になった。 「でも、僕は……」  怖じ気付いて、シェルは言いよどんだ。 「君は、きっと、イルス・フォルデスと気が合うと思う」 「え…どうしてですか?」  意外な言葉に、シェルは顔をあげた。 「似てるからだよ、マイオス。私よりはずっと気が合うだろう」 「……あのう…気が合わなかったんですか?」  シュレーの事を何と呼んで良いかわからず、シェルは歯切れの悪い言い方をしてしまった。 「私はどちらかというと、スィグル・レイラスと気が合いそうだ」  シュレーは微笑みながら、お茶を飲んだ。シェルは呆気にとられた。 「でも…………嫌われてるんでしょう?」 「そうらしい」  穏やかに答えるシュレーの顔は、なぜか満足げだった。神々の血を受け継ぐこの少年は、どこかが決定的に俗人とは違っていて、自分に敵意を持つ者すら愛することができるのかもしれないと、シェルは思った。 「一緒に行ってくれるだろう、マイオス」  いくぶん親しげな気配を感じさせる口調で、シュレーは言い、かすかに微笑んだ。シェルは頷いた。  同じ運命のもとに集められた仲間に会いたいのも理由のひとつだったが、目の前にいる神聖な少年を、たった一人で、いわれのない敵意の中に立たせたくなかったのだ。もとをただせば、エルフ諸族は同じ一つの部族だったという。髪の色や肌の色が少し違うというだけで、お互いにいがみ合うのは愚かなことだとシェルは信じている。シュレーを嫌っているという黒エルフのスィグルにも、それを話して解ってもらわなければならないと、シェルは密かな使命感に燃えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-14 : 隠蔽工作 -----------------------------------------------------------------------  夕食の約束をしているという食堂まで、シェルと並んで歩きながら、シュレーは簡単に学院の中を案内してくれた。  増改築の挙げ句に迷路じみた複雑さのある学寮の中では、見たことのない道を歩くよりは、多少遠回りでも、知った道を使う方がいいのだそうだ。シュレーは自分の知っている道をいくつか教えてくれたが、シェルはそれを上の空で聞いていた。  通りすがる山エルフの学生たちが、尊敬の眼差しでシュレーを見送り、中には軽く礼をするのに出会うと、シェルは何となく落ちつかなかった。シュレーは通りすがりの学生たちには注意をはらう様子もない。きっと、シュレーは慣れているのだろう。  「彼らが気になるかい?」 「えっ!?」  きゅうに質問されて、シェルはどぎまぎしてしまった。シュレーが優しげに微笑した。 「気にすることはないよ。おかしいのは君じゃなくて、彼らの方だ。私はもう神殿の一員ではないから、特別な礼をとる必要はないんだよ」 「そうですね。でも、ライラル殿下はなんだか威厳があるから、ああやって頭をさげたくなる気持ちもわからなくはないです」  照れながらシェルが答えると、シュレーは黙って微笑んだ。それは、限りなく無表情に近い微笑だった。  「義兄(あに)上!」  背後から呼び止める声を聞いて、シュレーの顔から微笑がかき消えた。厳しい顔つきで振り向くシュレーを、シェルは呆気にとられて見守った。 「オルファン」  無表情な声で呟いたシュレーの目線を追い、シェルは廊下の向こうから追ってくる山エルフの少年を見つけた。  長身の少年は、シュレーの側まで来ると、略式の礼をとった。少年の態度は、位の高い神官に対する礼儀にかなったものだった。彼の短く刈った金髪は白金のような淡い色をしており、目は緑かがったグレー。額には、金に白金で象眼のある額冠(ティアラ)を締めていた。部族長の一族を示す印だ。  「こちらは?」  シェルの額に額冠(ティアラ)を見つけて、山エルフの少年はかすかに動揺を見せた。 「森エルフの客人だよ。シェル・マイオス・エントゥリオ殿下だ」 「そうでしたか。はじめまして」  少年は、心臓の上に軽く右手をあてて、シェルに微笑みかけた。お辞儀をする必要はないのかと納得して、シェルは彼の真似をし、挨拶を返した。 「彼はアルフ・オルファン・フォーリュンベルグ。私の従弟だ」  シュレーが静かに付け加えた。額冠(ティアラ)の示すとおり、彼の名は、山エルフの王族のものだった。 「今は義弟(おとうと)ですよ、義兄上(あにうえ)」  人なつこく微笑んで、アルフ・オルファンは訂正した。 「君の母上がそれを認めてくださればの話だ」  シュレーは含みのある微笑を浮かべた。 「母に異存のあるはずがありませんよ。義兄上(あにうえ)は部族の正統な後継者です」 「それは違うな、オルファン。部族を継ぐのは君だよ。私にはその気はないから、私の食事に一服盛るのは、そろそろ止めてくださるように、義母上(ははうえ)にお願いしておいてくれ。それとも、私は永遠に醒めない眠りにつくまで、額冠(ティアラ)はいただけないのかな?」 「ご冗談を」  アルフ・オルファンは少し困ったような顔をした。シュレーは相変わらずの、優しげな微笑みを浮かべている。シェルは笑っていいのかどうか解らず、ひきつった顔をしてしまった。 「最近どうも体調がすぐれなくてね。冗談が下手なのは、そのせいかもしれないな」  シュレーはなぜか声をたてて笑った。わけが解らず、シェルもそれに釣られて煮えきらない笑い声をたてたが、アルフ・オルファンは笑っていなかった。  「何か用事があったのだろう、オルファン」  ぴたりと急に笑い止んで、シュレーは言った。 「……昨夜、学生たちの間で決闘騒ぎがあったとか」  圧し殺した声で言うアルフ・オルファンの表情は固かった。 「それは大変だな。誰か懲罰房に送られるのかい」 「決闘を仕掛けた者が見つからないので、懲罰房に入れられたのは、決闘に乗った学生が数人だけです」 「なるほど。それは示しがつかないな」 「義兄上(あにうえ)は犯人をご存知なのでは?」  微笑むシュレーの顔を見つめて、アルフ・オルファンは尋ねた。彼の言葉には、シュレーが犯人を知っていることを確信している気配があった。頭一つ分ほども背の高い二人がにらみ合っているのを、シェルは落ちつかない気分で見比べた。義理とはいえ、兄弟どうしだという二人が、なぜ緊張した気配で言葉をかわすのか、シェルには理解できなかった。 「残念だが知らない。君もよく知っているとおり、私は食堂には行かないのでね。いつも君の母上特製の調味料が入った食事を、自分の部屋で食べている」 「………静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)と呼ばれるお方が、なぜ異民族の肩を持つのですか。同族の者が恥を受けても、あなたは平気なんですか、義兄上(あにうえ)。それとも、神殿の血を持つあなたにとって、同族と思えるのは聖楼城に住む方々だけだとでも?」  アルフ・オルファンは何とか微笑しようとしているようだったが、そのこめかみは怒りのために細かく痙攣していた。 「落ちつくがいい、オルファン」  くすくすと忍び笑いをもらして、シュレーは義弟の白い頬をさらりと撫でた。咄嗟のことに驚き、アルフ・オルファンは怯えた子供のように身を退いた。 「私は何も知らない。静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)と呼ばれていたのは、君と同族になる以前の話だ。オルファン、君は矛盾した事を言っている。君と同族なのは、ブラン・アムリネスではない、ただのシュレー・ライラルだ」 「義兄上(あにうえ)…」  顔を歪めて、アルフ・オルファンはシュレーを見つめている。その視線を受けても、シュレーの微笑は変わらなかった。シェルとお茶を飲んでいる時に見せていた、神々しいあの微笑とも、少しも違わない。 「族長になるんだろう。直接乗り込んできて、わめき散らすのは、うまい手ではないと憶えておくといい。君は人を信用しすぎる。その調子では、戦う前から勝負がついているぞ」 「義兄上(あにうえ)…名誉の問題です。学院は、決闘の首謀者の責任を、このまま不問にするそうです。でも、そんな事で、誰が納得するというんですか! みっともなく敗北した者だけが懲罰房に入れられて、決闘を仕掛けた者がのうのうとしているなんて………!」  次第に口調を荒くするアルフ・オルファンを、シュレーは微笑みながら見守っている。オルファンは、途中で言葉を失って目を閉じた。シュレーと目を合わせているのに耐えられなくなったように、彼はがくりとうなだれた。 「学院の学生たちを取り仕切っているのは、大法官である、この僕だとご存知のはずだ。……犯人を処罰できなければ、腰抜けだと笑い者にされます。首謀者を処罰させてください」  悔しそうにうつむき、アルフ・オルファンは言った。シェルはアルフ・オルファンが気の毒になった。アルフ・オルファンは、かたく握りしめた手を、小刻みに震わせていた。気位の高い山エルフは、どんな些細なことでも、名誉を重んじる。ほんの少しの侮辱にも耐えられないのが、彼らの弱さであり、彼らの強さでもある。  「犯人を見つける方法はないんですか?」  遠慮しながら、シェルはシュレーに尋ねた。シュレーはシェルに顔を向け、困ったように微笑んだ。 「オルファンは犯人を知っているようだ」 「じゃあ、その人たちを処罰すればいいんじゃないんですか?」  当たり前の事だ。シェルはびっくりして、声を高くした。そして、何気なくアルフ・オルファンの顔を見て、息を呑んだ。うなだれた姿勢のまま、シュレーを見上げる彼の目には、憎しみの色が明らかだった。  「マイオスの言うとおりだ、オルファン。犯人を知っているなら処罰すればいい。明確な犯人が見つかっているなら、大法官であるお前の決定に、学院も反対すまい」  にっこりと微笑み、シュレーはシェルの意見に賛成してくれた。しかし、オルファンは何も答えなかった。 「食事の約束をしているので、私達はもう行く。今夜は義母上(ははうえ)特製の調味料を味わえなくて残念だ」  シュレーに促されて、シェルは歩き出した。振り向いて見ると、アルフ・オルファンは、うつむいたまま動く気配もない。  シェルは不安になって、シュレーの顔を見上げた。シュレーはいつも通りの微笑を浮かべている。無表情と変わらない、意味のない微笑だ。それは神官特有の表情だった。  「いいんですか、彼を残していって…」  ひそめた声で、シェルはシュレーに尋ねた。シュレーは前を向いたまま、口元を笑いで歪めた。 「放っておくといい。手も足も出なくなって、腹いせに私を罵りに来ただけだ。それでは何も解決しない」 「なぜ、あなたを罵りになんて…」 「私が犯人を隠匿しているからだ。決闘を仕掛けた犯人のことは忘れるように、学院長に忠告した。学院の自治は、生徒の中から選ばれる大法官が取り仕切るのが習わしだが、学院長からの命令が優先される。大法官に任命されるのは、大抵が山エルフの次期族長候補者で、族長としての適性を調べるためのお遊びみたいなものなんだ。非常時には、その権限を学院長に回収されるんだよ」  こともなげに、シュレーは説明した。 「あなたは、学院長に命令して、犯人の罪をうやむやにしたんですね」  裏切られた気分で、シェルは確認した。シュレーは誰かの罪をもみ消してやったのだ。それは、自分自身の罪かもしれないし、ごく親しい誰かの罪かもしれない。シュレーが、神聖な微笑を浮かべるこの顔で、そんなことをするなんて、シェルは想像したくもなかった。 「命令したわけではないよ。私にはそんな権限はない。ただ少し意見を言っただけだ」 「あなたの義弟(おとうと)に同情します」 「四部族連合の意義を理解できない彼には、私も同情しているよ」  シェルの顔を横目で見おろし、シュレーは真顔で言った。シェルは、その言葉の意味がわからず、無意識に立ち止まってしまった。 「私が庇っているのは、黒エルフのスィグル・レイラスと海エルフのイルス・フォルデスだ。彼らは私刑にあったんだよ。仕掛けたのは彼らでも、原因をつくったのは山エルフの学生たちだ。この場合の処罰は、政治的な都合を考えると、双方不問にするのが正しい。先に山エルフの学生を懲罰房に入れて処分してしまったオルファンの失態だ。彼には、正義漢ぶりたがる悪い癖がある。族長には向かない」 「でも……でも、それじゃ、オルファン殿下の立場がないじゃないですか。義弟(おとうと)が可哀想だと思わないんですか?」  シェルは本心から言った。シュレーは静かに微笑した。 「彼は母親と共謀して、私の食事に毒を盛っている。私の哀れな執事をだまして、日毎に私を裏切らせているのさ。第一継承権を持つ私が邪魔なんだろう。おかげで、私は毎日、何種類かの解毒剤を飲まなければ生きていられない。それでもオルファンには同情を感じているよ。彼は生きている限り、私と戦わねばならなくなった。私は彼には手加減してやれない。命がかかっているからね」  シェルは数歩先で立ち止まり、自分の方を見つめているシュレーを、信じられない気分で眺めた。後ろを振り返ると、廊下の先には、まだアルフ・オルファンが立ち尽くしている。屈辱と憎しみで震える彼の視線は、シュレーに向けられていた。  同じ血を持った従兄弟どうしで殺し合わなければいけないなんて。シェルは、自分の兄たちや姉たちのことを思い出した。自分が兄弟たちと殺し合うところを想像しようとしたが、シェルにはできなかった。毎日うるさく自分をからかいに来る兄たちに腹を立てたことは何度もあったが、殺したいと思ったことなどない。いつまでも子供っぽく、本を読んでばかりいるシェルを、兄たちは本の虫だと言い、呆れながらでも可愛がってくれていた。シェルには政治のことなど解るわけがないと言われると、腹を立てていたものだったが、兄たちの言っていたことは間違いではなかった。シェルには政治がわからない。シュレーの言っている事の意味を頭では理解できても、心がそれについていけない。  「信じなくていいよ、マイオス」  どこか楽しげに、シュレーは言った。 「君には関係のない世界の話だ」  シュレーはシェルに歩き出すように促し、自分もまた歩き出した。シェルは、アルフ・オルファンの視線が、目の前にあるシュレーの背中に突き刺さっているのを感じながら、その後を追った。 -----------------------------------------------------------------------  1-15 : 贅沢な食事 -----------------------------------------------------------------------  食堂の黒大理石の床の上に立つと、シェルは自分が宙に浮いているような錯覚を感じて、一瞬くらりとした。天井につるされた無数のランプが映り込む床は、まるで澄み切った夜空のように、曇りのない黒さだった。  「綺麗なところですね」  感心して、シェルは呟いた。先に立っていたシュレーが振り返って、かすかに笑った。それを見て、シェルはなんだかホッとした。あんなことがあった後だから、シュレーの機嫌がいいはずはないと思っていたのだが、シュレーはアルフ・オルファンと行き会った事自体、憶えてもいないという様子だ。実際に忘れてしまったわけではないだろうが、神聖な血を受け継ぐ少年が、他人を気遣う性分なのだとわかって、シェルは嬉しかった。  「ここで食事をする約束なんだが…」  店を見渡しながら、シュレーは言った。しかし、店の中はがらんとしていて、待ち合わせた相手どころか、食事をしている学生の姿すら見つからない。相手の姿を知っているわけでもないのに、シェルはあたりをきょろきょろと探してみた。 「遅れてきてるんでしょうか?」 「さあ。単に、すっぽかされたのかもしれないな」  苦笑して、シュレーは答えた。 「約束を破るなんて…」  シェルが、そんな人たちなんですかと言いかけたとき、背後で扉の開く音が大きく響いた。  「悪い、待たせたな」  浅黒い肌の少年が、誰かの手を引っぱりながら、扉から顔をのぞかせた。その目がつくりもののような青だったので、シェルは呆気にとられて、その少年の顔に見入ってしまった。少年の額冠(ティアラ)にはめ込まれている碧玉(サファイア)と、彼の瞳とは、同じ絵の具で描かれたもののように、そっくり同じ色合いだった。海エルフの青い瞳だ。数々の書物に記述されていたその色合いを、シェルは初めて自分の目で見たのだった。  「あの目、一度見たら忘れられない印象だろう」  歩み寄ってくる海エルフの少年を見て、ぽかんとしているシェルに、シュレーが小声で言った。シェルはこくこくと頷くのが精一杯で、何を答えたものか見当もつかなかった。  「結局、君も来てくれたんだな、レイラス」  シュレーがそう言うのを聞いて初めて、シェルはイルスに引きずられるようにして歩いてきた、もう一人に気付いた。 「イルスがどうしても来いっていうからだ」  苛立った声で、もう一人の少年は答えた。長い黒髪に、猫のような黄金の目。黒エルフだ。不満げな表情さえしていなければ、その黒エルフは、ちょっと男勝りな少女といっても通用するような、美しげな容貌をしていた。思わず見とれかけていたシェルは、華奢な美貌の持ち主本人に、ぎろりと睨まれて我に返った。  「なんだ、こいつ?」  刺々しい口調で誰何されて、シェルはどうしようもなく、たじろいだ。物怖じする気配もなく、じっと自分の目を睨み付けてくる黒エルフの強い視線を、まともに見返すことができない。  これが例の、砂漠の民の凝視というものなのだと、シェルはうつむきながら自分を励ました。エルフ諸族の風習や習慣について書かれた本をあたれば、黒エルフの視線についての記述は必ずみつけられる。  黒エルフでは、人でもなんでも、「じっと見る」という癖があるという。話す相手の目をじっと見つめているからといって、特に強い好意があるわけでも、敵意があるわけでもない。彼らは単に、そうするのが普通だとして生活しているので、凝視することに疑問を感じないらしいのだ。使節のための教本には、黒エルフの宮廷に立ち、その場にいる全員にじっと目を覗き込まれても、深い意味はないのだから動揺してはいけないと書かれていた。  しかし、シェルはすでに動揺していた。やはり本で読むのと、実際に体験するのとでは、全然違っている。  「彼は、シェル・マイオス・エントゥリオ。人質の最後の一人だ」  無意識に後ずさっていたシェルを前に押し出して、シュレーが静かに言った。 「マイオス、こちらがイルス・フォルデス・マルドゥーク。そちらはスィグル・レイラス・アンフィバロウだ。詳しい説明はいらないな」 「よ…よろしく!!」  赤面しながら、シェルはあわてて挨拶した。それぞれの部族の言葉で挨拶できるように準備してきたものの、部族のちがう二人と同時に出会ってしまったものだから、結局、共通語で話すしかなかった。  「よろしくな」  笑いをこらえているような顔で、海エルフのイルスは、胸の前で両手を握り合わせる仕草をした。本に書いてある海エルフの作法と同じだった。それを見た黒エルフのスィグルが、面白くなさそうな顔で、軽く会釈をした。挨拶の席でなければ、それは軽く目を閉じただけに見えただろう。  「今日、学院に到着したところだそうだ。一緒に食事をしようと思って、私が誘ったんだ」  シュレーが説明すると、イルスが納得したように頷いた。スィグルはまだ、じっとシェルの目を見つめたままだ。 「これで2対2ってことだね、猊下(げいか)」 「そういう風に解釈してもらっても私は気にしないが、ここでは卵の色なんて無意味だよ、レイラス」 「いいかげんにしろ、スィグル」  シュレーとイルスが畳み掛けるように文句を言った。するとスィグルは、ふんと鼻で笑い、シェルから目をそらした。やっと息ができるようになった気がして、シェルは深呼吸してみた。  「あ…あの…仲がいいんですね!」  シェルは精一杯愛想良く話したつもりだったが、スィグルが、今度は汚いものでも見るような目つきで、シェルを睨み付けてきた。 「お前、頭が悪いのか、共通語がなってないのか、どっちだよ?」 「えっ……あの、僕………すみません」  口元を覆って、シェルは言いよどんだ。 「今夜はいちだんと機嫌が悪いらしいな」  シュレーは、その場にいるスィグルについて、まるでどこか遠くにいる者を噂するような口調で話した。目を細めて、海エルフのイルスが面白そうに笑った。 「剣術の練習場でかなり絞ったんで、腹が減って気が立ってるんだ」 「人のことを動物みたいに言わないでほしいね」 「今日はここの料理も旨く感じるかもしれないさ」  苦笑して言い、文句を言いたそうにしているスィグルをかわすと、イルスはシュレーとシェルを奥の席にうながした。 「ここの料理って不味いんですか?」  思い切って、シェルは海エルフの言葉を使ってみた。イルスは一瞬きょとんとして、その青い瞳でシェルを見おろした。 「ラーダ(もちろん)、アル・ハ・ウィー(まるで豚のエサだ)」  とイルスは言った。海エルフの言葉だ。シェルは、イルスと顔を見合わせて笑った。シュレーが、イルスとは気が合うだろうと言った意味が、わかるような気がした。彼の人見知りしない雰囲気のお陰で、シェルは少し安心していられた。 「ラゥ・ダ(牛の舌)?」  不満げな顔で、スィグルが呟いた。黒エルフの言葉だった。シェル一人だけが爆笑し、イルスはシュレーと不思議そうに顔を見合わせた。   * * * * * *  食堂の料理の不味さは、笑い事ではなかった。  窓から夜の学院を見渡せる席には、鶏や鴨、鳩など、様々な肉料理や、野菜をふんだんに使った煮込み料理、何種類かのスープや、鮮やかな色合いのサラダが所せましと並べられていた。給仕の山エルフはとても愛想が良く、にこにこしながら何度もお辞儀をしてくれたが、料理の味はどれも驚くほど不味かった。  「うっ………」  黄味を帯びたクリーム状のスープを口に運んでから、シェルは耐えきれずにうめいた。甘いような、塩辛いような、苦いような味が、混ざりきらないまま感じられる。一瞬、喉の奥から吐き気が込み上げるような気がした。 「なかなか斬新な味付けだな…」  口元を布で拭いながら、シュレーがいくぶん掠れた声で言った。 「そうかなあ」  スィグルだけが、平然とサラダをつついている。もしかしたら、サラダは普通の味なのかもしれないと思って、シェルは赤いソースのかかったそれを、一口食べてみた。そして後悔した。サラダに使われているソースも、他のものに勝るとも劣らない不味さだったのだ。 「これって…山エルフ風の味付けなんですか?」  こみあげる吐き気をこらえながら、シェルはシュレーに愛想笑いを向けた。 「いや…どうだろう。違うと思うんだが……」  シュレーが珍しく煮え切らない事を言う。山エルフ族の血を引く彼も、つい最近に神籍を返上したばかりで、実際には山エルフのことを良く知らないのかもしれない。  ぐっと葡萄酒のグラスをあけたイルスが、深々とため息をついてから、つぶやいた。 「やっぱり耐えられない。ここの料理だけはダメだ」 「じゃあ、別の店にすれば良かったのに」  頬杖をついてたスィグルが、ものうげに言った。イルスは頭でも痛いのか、こめかみを押さえ、小さく咳払いをした。 「食事時の混み合う時間に、ひとけのない店なんか他にないらしいぞ」 「別に混んでたっていいじゃないか。この猊下(げいか)がいるかぎり、席が空いてないって言って追い出される事なんて、考えられないと思うけどな」  ちらりとシュレーを見遣って、スィグルは少し刺のある口調をつくった。シェルは心配してシュレーを見たが、彼は少しも応えていない様子だった。 「お前を連れて、山エルフが大勢いる所へ行くのは二度とご免だな」  きょとんとしているスィグルの顔を指差して、イルスがきっぱりと言った。 「どうして」  スィグルが首を傾げると、イルスがギョッとした表情を見せた。シェルの横で、シュレーがくすくすと楽しげに忍び笑いする。 「どうして、だと!? 決まってるだろ。お前はな、いつ報復されても不思議じゃない立場なんだぞ!?」  イルスは強い口調で、横の席でくつろいでいるスィグルに説明している。 「報復って、昨日の決闘騒ぎのことかい。そんなの逆恨みだよ」  肩をすくめ、スィグルはさも下らない心配だと言いたげに鼻で笑った。そして、自分の前に置かれていた鴨料理の皿を、けむたそうにイルスの方へ押しやった。 「逆恨み? 逆恨みって言ったか? ……シュレー、逆恨みってどう言う意味の言葉か教えてくれ」 「おそらく、いわれのない恨みや、身に憶えのない恨み、筋違いな理由で恨まれることじゃないかな?」  シュレーが微笑みながら言った。 「やっぱり逆恨みってそういう意味だよな。スィグル、お前、分かってて言ってるか? それとも、共通語が苦手なのか?」  イルスは、ついさっきスィグル本人が言ったような事を、そのまま口にした。シェルは、なんだか気味がよくなり、思わず笑ってしまったが、スィグルにじろりと睨み付けられて、笑いをかみ殺した。 「どうして僕が恨まれなきゃらないんだよ。もともと、ケンカを売ってきたのは、向こうじゃないか。僕はそれを買ってやっただけだよ」 「高く買い過ぎだ」  イルスがため息をつく。 「この学院では、決闘はもちろん、練習場以外の場所での抜刀も禁じられている。決闘に関わった学生は、どちらが仕掛けたかに関わらず、短くて1日、長くて10日の懲罰房入りに処される決まりだ。気をつけた方がいいよ、レイラス」  シュレーが穏やかに忠告した。 「僕は抜刀なんかしてないよ。イルスだけだ」  あけすけと言うスィグルの言葉を聞いて、葡萄酒を飲みかけていたイルスが激しくむせた。 「僕は誰にも斬り付けてないし、殴ってもいない。ただ食堂に立っていただけだよ。学院大法典とかいう、この学院のうるさい規則が書いてある本は一度読んだけど、学院内で魔法を使っちゃいけないっていう決まりは、どこにも書いてなかった」 「…山エルフには、魔法を使う者は滅多に生まれてこないようだ。だから今までは、そんな規則は必要無かったんだろう。……それにしても、君は意外と卑怯なんだな、レイラス」  びっくりしたように、シュレーが言った。シェルは少しむっとしていた。イルスに好い印象を持っていたので、彼ひとりに罪を着せようとしているスィグルが気に食わなかったのだ。 「あんたにそんなこと言われる筋合いじゃないよ、猊下(げいか)」  真顔で、スィグルが答え、シュレーが面白そうに笑った。シェルは、自分の頭の中で、何かがプツンと音をたてて切れるのを感じた。  「君をかばうために、ライラル殿下が力を貸してくれたこと、知らないんですか!」  とっさに、シェルは声を荒げていた。シュレーとイルスが、あっけにとられた顔で、椅子から立ち上がったシェルを見上げている。スィグルは、面倒腐そうな視線を、まっすぐシェルの目に向けた。 「『猊下(げいか)』が勝手にやったことだ」  スィグルは悪怯れる様子もなく言い放った。深いため息をついて、イルスが目を覆う。シュレーが苦笑して、イルスに何か呟いていたが、頭に血がのぼっているシェルには、それを聞き取る余裕はなかった。 「…自分だけ無事ならそれでいいなんて、狡いと思わないんですか!?」 「イルスになにかあったら、僕が何とかするさ。猊下(げいか)の力を借りようなんて思わない。だいたい、お前には関係ないだろ、キャンキャンわめくなよ」 「関係なくないです!! 僕だって…同じ人質の一人なんだから!」  とっさにくじけそうになったが、シェルは無理して踏み止まった。 「だいたい、さっきから猊下猊下って言ってるけど、ライラル殿下はもう神官じゃないし、そう呼ばれるのが嫌いだって、わかんないんですか!?」  一瞬でも、冷静な意識が戻ってくると、自分がなぜそんなに怒っているのか、シェルにも解らなくなっていた。しかし、それに気付いたからといって、腹が立たなくなるわけでもない。 「そう呼ばれるのが嫌いらしいって知ってるから、そう呼んでるんだってわかんないのか?」  汚いものでも見るような目で、スィグルがシェルを見上げた。不愉快そうに眉をひそめたスィグルは、その華やかな美貌のために、よりいっそう凄みがあって、シェルは完全に圧倒されてしまった。 「僕は白い連中と口を聞くのは嫌いだ。一緒に食事するなんて、イルスの頼みでもなけりゃ、絶対にお断りだよ。猊下(げいか)はこの際仕方ないとしても、お前なんか知らないね。『同じ人質』だって? 笑わせるなよ。僕は白系種族の中でも、森エルフが一番嫌いだ。お前とひとまとめにされるなんて、考えただけで反吐が出る」 「そんな……そんなこと言われても……」  シェルは言葉を失った。スィグルは別に激昂している気配もなく、淡々と言葉を紡いでいただけだったが、激しく罵られたほうが、いくらかマシだとシェルは思った。一時の苛立ちでぶつけられた言葉なら、まだ耐えられるが、スィグルが心底本気でそう言っているのだと確信させられるのは辛かった。  「スィグル」  ため息の混じった声で、イルスが口を開いた。椅子を引く音を聞いて、シェルはイルスの方に視線を向けた。  「フォルデス、やめておけ」  諭す口調で、早口にシュレーが忠告する。  しかし、それを聞き終えることもなく、イルスはスィグルの胸ぐらを掴んで立たせ、手加減の感じられない力で殴り倒した。  シェルは人が殴られるのを見たのは、これが初めてだった。とっさに抑えることもできない悲鳴が口をついた。殴られる直前、スィグルはイルスの目を真直ぐ見ていた気がしたが、それはシェルの見間違いだったかもしれない。殴られると分かっていて避けもしないなんて、おかしな話だ。  スィグルの華奢な体は、簡単にはねとばされて、壁際に転がった。スィグルはすぐに体を起こして、殴られた右頬を手の甲でこすり、血のこぼれた唇を舐めた。イルスを見上げるネコのような目は、驚くほど無表情だった。  「すまなかったな。腹が立ったんだ」  イルスが硬い声で言った。謝っているというより、ただ説明しているだけに聞こえた。 「ちょっとは手加減してくれてもいいだろ」  スィグルが少し掠れた声で応えた。シェルは彼が怒っているものと思っていたので、普段の他愛もないお喋りを交わす時のような、スィグルの口調を聞いて、わけがわからなくなった。シェルの横で、シュレーが深々とため息をつく。  「そう思うなら、お前も他人に手加減してやれ」 「イルスの話はわかりやすいな」  スィグルは痛みをこらえている風な、引きつった微笑を浮かべた。 「ごちそうさま。一緒に食事はしたよ。これでいいだろ、イルス」 「………」  ふらりと立ち上がって、立ち去るそぶりを見せるスィグルを、イルスは黙って見ていた。シェルは気が気でなく、二人を交互に見渡してから、どうにもできなくなってシュレーに視線を向けた。シュレーが肩をすくめて首をふる。放っておけと言われているのだろうが、それでもシェルは落ち着かなかった。  「ごめんなさい。僕…あの……余計なこと言いました」 「まったくだね」  容赦なく言って、スィグルは挨拶もせずに店を出ていってしまった。  シェルは途方にくれて、椅子に座った。せっかくの食事が滅茶苦茶だ。自分がいなければ、もう少しなごやかに話が進んだのかもしれないと思うと、シェルは顔を上げられなかった。イルスの顔を見るのも、シュレーの顔を見るのも、恐いような気がした。  「彼はもっと怒るかと思ったよ」  シュレーが静かな声で言った。倒れた椅子を直して、イルスが座り直す気配がした。 「あいつ、殴られ慣れてる」  答えになっていないような事を、イルスが言った。 「スィグルは別に怒ってないと思う」 「随分、信頼し合ってるんだね」  冗談めかして、シュレーが言った。 「そういうわけじゃないけどな。お前もそう思うんだろう、シュレー」 「…レイラスはきっと、君が思ってるほど感情的な性格じゃないよ。彼は、意図してああいう風に振る舞ってる。白系種族を憎んでいるのも、理由のない差別ではないんじゃないかと思うが」 「人を憎んでも、いいことがない」  覇気のない口調で、イルスは小さく呟いた。殴ったイルスの方が、よほどこたえている様子だった。 「そうと知っていても、憎しみを消せない時はある。意図して消さないように努力することもある。私にはわかる」  穏やかに言うシュレーの言葉を聞いて、イルスが何度か言い淀むのが感じられた。しばらくの沈黙ののち、イルスが再び話し始めた。  「お前も、あいつも、孤独なやつだ」 「彼にもそう言ってやるといい。同じ時間を生きていくなら、孤独じゃない方が有意義だ。自覚すれば、解決できるかもしれないよ」  シェルは、義弟アルフ・オルファンと対決するシュレーの姿を思い出していた。イルスやスィグルは、それを知っているのだろうか。 「お前のは解決できないって言いたいのか?」  イルスは、そんなことはないと言いたげだった。 「私の孤独は、すでに予言されている。君も言っていたじゃないか。汝の名は『孤独』なり」 「ただの詩編だ。思い付きだよ」  シェルは、神殿が教える聖典の中にある詩編を思い出した。子供の頃に暗記されられた膨大な言葉の羅列が、意図しなくても頭の中で蘇ってくる。詩編と呼ばれる謎めいた言葉の群れは、予言なのだと聞いていた。  汝の名は孤独。それは特定の詩編を連想させる言葉だ。  ほの暗き荒れ野に佇む者よ、汝の名は『孤独』なり。汝、沈黙の剣もて千の都を滅ぼし、凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす。死霊を率いて荒れ野を渡り、とこしえに己の心の欲するところを知らず。滅ぼせ友よ。彼の者を。死の衣引く彼の者を、荒れ野の闇に葬らん。  「あれは、私のための予言だ。神殿の者なら、誰でも知っている。私は、世界を滅ぼすと予言された者なんだ。…フォルデス、君もそれを知っていたんじゃないのかい?」  どこか諦めたような声で、シュレーはイルスに問いかけた。答えの代わりに、イルスの深いため息が聞こえた。  「俺になんて言ってほしいんだ? 本当にお前が予言された者なんだったら、自分が世界を滅ぼす前にどうにかしろよ。そういうもんだろ? そうでもしなきゃ、予言なんて何の役に立つんだよ。…まったく、スィグルといい、お前といい、かなりイカレてるぜ」  少し苛立った口調で言い、イルスはシュレーの問いを押し返した。  「シェル…腹が減らないか?」 「えっ!?」  急に場違いな話をされて、シェルは顔をあげた。シュレーが意外そうにイルスを見ている。イルスは面白くなさそうな表情で、シェルを見ていた。 「腹が…って。………減ってますけど…でも…」  どぎまぎしながら、シェルは答えた。 「メシをつくるから手伝え」  有無を言わせない口調で、イルスが言った。 「シュレー、お前もだ」 「料理なんてやったことがない」 「じゃあ、今からやれ」  イルスは断固とした口調で即答した。シェルは、動揺しているシュレーを初めて見た。 「忘れてたけど、スィグルは朝からほとんど何も食ってないんだ。詫び代わりに、食事を作って持っていく。お前らも一緒に来て食え」 「一緒に来てって…どこへ行くんですか?」  シェルはぽかんとしたまま尋ねた。 「スィグルの部屋」  イルスは断言した。 「でも、彼はいやがるんじゃないかな?」  シュレーの言うことは至極もっともだったので、シェルは何度も頷いた。ついさっき、森エルフは特に嫌いだと宣言されたばかりで、どんな顔をして部屋を訪ねろというのだ。 「あいつの勝手で、俺は部屋の壁をぶち抜かれたんだ。あいつが自分の好きなようにするんだったら、俺も俺の好きなようにする。さあ行くぞ。とりあえず、この店の厨房を乗っ取るところからだ」  迷いもせずに立ち上がり、イルスは店の奥に向かって歩き出した。  残されたシェルとシュレーは、互いに顔を見合わせた。シェルはとてもイルスの後についていく勇気がなかったが、シュレーはいかにも興味深そうににっこりと笑った。 「彼は凶暴みたいだから、言う事を聞かないと、私達も殴られるかもしれないな」 「えぇっ!? まさか…本当に行くんですか!?」  シェルは悲鳴のような口調でシュレーを問いただした。 「面白そうだ」  案の定、シュレーはイルスの後を追って、店の奥に向かっていった。  シェルは、おろおろと迷ったが、シュレーが早く来いというようにシェルの名前を呼ぶので、自分でもなぜかわからないまま、二人の後に続くことになった。 -----------------------------------------------------------------------  1-16 : 世界の果て -----------------------------------------------------------------------  「…ったく、思いっきり殴りやがって…いて…」  右頬に手のひらを押し当てたまま、スィグルは寝室の壁にかけられた鏡をのぞきこんでいた。イルスに殴られた右頬は、少し腫れてきていたが、治癒の魔法のおかげで、少しずつは回復してきているようだった。  スィグルが使える魔法のほとんどは、手を触れずに物を動かすという攻撃のためのものだ。治療のための力はお粗末なものなのだが、それでも、今はないよりマシというものだった。痛みを意識の外に追いやりながら、スィグルは治癒の力を右手に集中させるよう努力していた。  イルスが何に腹を立てたのかは、スィグルには大体分かっていた。自分一人だけ責任逃れをするような事を言って、イルスに咎を押し付けたのにも怒っていなかったわけではないだろうが、あのシェルとかいう森エルフをいたぶった事のほうが、イルスのカンに触ったのは間違いない。あれさえなければ、その場で殴られたりするようなことはなく、部屋に戻ってからグチグチと説教される程度で済んだのかもしれなかった。  手を離して鏡を見ると、頬の腫れはもう微かなものになっていた。鏡の中から、いつもと変わらない、いくぶんやせ過ぎの自分の顔が見つめ返してくる。顔の骨格が小さいせいか、大きな目がよりいっそう大きく目立って見える。スィグルは、自分の顔が嫌いだった。  まるで女のようだ。歳相応に発育していれば、もう少しは逞しくなっていたのかもしれないが、ひょろりと痩せた体と顔立ちは、多少、男勝りな少女だと言っても通用しそうな風情だ。母譲りの美貌さえ、どうしようもなく疎ましく思える。  背中に引きつれるような疼痛を感じて、スィグルは長衣(ジュラバ)の前を開き、壁にかけられている鏡に、背中を写してみた。浮き上がった肩甲骨の上あたりに、青黒い痣ができている。殴られて壁にぶつかった時にできたものだろう。  こっちも魔法で治すかどうか迷ってから、スィグルは放っておくことにした。魔法を使うのはかなり骨の折れる仕事だ。軽い打ち身くらいなら、自然に治るのを待った方がいいだろう。顔が腫れるのはみっともないが、背中なら服を着ている限り、だれにも解りっこない。  服を着付け直そうとした時、自分の背中を覆う古い傷が目に入って、スィグルは顔をしかめた。何をしていても忘れる事のない傷だが、あらためて目にすると、胸の奥にざわつく憎悪が鮮やかに蘇ってくるのを感じる。  スィグルはなるべく傷口を見ないようにして、長衣(ジュラバ)の前襟をとめ直した。古傷は、背中の中央あたり、肩甲骨の下から腰のあたりまでを覆う、かなりの深手だった。今も引きつった傷口が、はっきりと浮かび上がっている。あの、シェルとかいう森エルフが見たら、自分が憎まれている理由を悟って、顔色を失うことだろうと思い、スィグルはまた胸くそわるくなった。  傷は森エルフ族が日常的に使う、小形の鉈(ナタ)のような刃物でつけられたものだった。今も醜く残る傷口の全体像を見れば、それが文字になっているのが解るはずだ。森エルフが使う文字で、そこにはこう書かれているのだ。「砂漠の黒い悪魔の息子にして、おぞましき獣の子、汚濁の中にて死すべし」  スィグルは、自分の背中に刻まれている言葉を読むことはできなかったが、その意味は理解していた。森エルフの言葉を話すことができるからだ。  まだ戦いが激しかった頃、スィグルは敵地に虜囚として捕らえられていたことがあった。森エルフ族が雇った卑しい傭兵どもが、スィグルの母と、その双児の息子をさらって、森の民に売ったのだ。  彼らは、森エルフ族に『砂漠の黒い悪魔』と恐れられていた黒エルフの族長、リューズ・スィノニムと取り引きするための材料にされた。先代の族長のころに生まれた失地を回復するために、族長リューズは森エルフと戦っていた。容赦というものを知らない父の戦略は苛烈で、悪魔の名に相応しいものだったという。その猛烈な行軍を止めるため、森エルフ族はリューズ・スィノニムの妻と息子を人質にとり、撤退を迫った。  しかし、父は撤退しなかった。自らの手で、森エルフの使者の首を切り落とし、軍旗に曝(さら)して行軍を続けた。それを知った森エルフたちは、見せしめにリューズ・スィノニムの妻と、二人の息子を拷問にかけた。行軍する父の元には、数日ごとに、切り落とされた妻の指が一本ずつ届けられたが、父は顔色一つ変えなかったという。  父がスィグルたちを見限ったのは、当たり前のことだった。父リューズには、10人の妻と、17人の息子がいる。スィグルと、弟のスフィルが命を奪われたとしても、まだ15人の健康な息子が残っているのだ。それにこだわって、軍を退くなど、意味のないことだった。父の軍は、最後までその勢いをとめることはなく、見事に失地を回復した。  それをスィグルが知ったのは、虜囚の身で9歳から13歳までの4年間を生き抜き、父の軍に救出されてタンジールに戻った後のことだった。途中で引き離された母上は、その1年前に救出され、タンジールに戻っていた。だが、スィグルが母と再会したときには、母は3年に及ぶ陵辱と飢えのため、もう正気を失っていた。  生きたまま地下の墓所に捨てられていたスィグルとスフィルを助け出した父・リューズ・スィノニムは、部族の者の目をはばからず、やせ細った二人の息子を抱き締め、声をあげて泣いた。父リューズの戦装束からは、部族長の血筋の者にだけ許される、あえかな香の匂いが漂っていた。それは、スィグルに、故郷タンジールの砂と風の匂いを思わせた。久々に見る日の光が眩しく、目がつぶれそうだった。それ以外のことは、不思議となにも憶えていない。  タンジールに戻っても、スィグルは、かなりの時間を療養のために費やさなければならなかった。やっと故郷に戻れたというのに、双児の弟は、繊細な母の血を濃厚に受け継いでいたせいか、すっかり頭がおかしくなっていて、宮殿の医師たちの姿を見るのさえ怖がり、父、リューズ・スィノニムでさえ、近寄らせようとしなかった。スフィルは、スィグルにすがりつくようにして毎日を生き、腹が減ると、スィグルに食べ物をねだった。  スィグルは、もう、弟は、いっそ死んだ方がよかったのかもしれないと思っていた。タンジールに戻っても、スフィルはまだ、森の穴蔵の中にいるつもりなのだ。スィグルが与える食べ物を、手づかみで貪り食う双児の弟を見ていると、スィグルはいつもそう思った。  人質に選ばれたスィグルが、タンジールを去らねばならなくなった日、スフィルはそれを理解できず、泣き叫んで暴れた。スフィルの瞳の色は、母上と同じ淡い青だったが、それ以外は、スィグルとまったく同じと言ってもいいほど、良く似ていた。幼い頃は、瞳の色が同じだというだけで、母上がスフィルを可愛がるのが妬ましかったが、狂ったスフィルを見ていると、それもまた、母の血を受けたスフィルの不運のように思えた。  暗闇と飢えに耐える4年を生き抜くことは、スフィルには何の意味も残さなかった。暗闇の中で、スフィルはずっと、死を待ち望んでいた。苦しむ事なく、眠るように、楽になりたいと望んでいた。  それを無理矢理生き延びさせたのは、スィグルだった。あの暗闇の中では、生き続けることそのものが、恐怖だった。だが、それでも、スィグルは死にたくなかった。これはただの悪い夢で、自分は今も砂漠の宮殿で、幸せに暮らしているものと信じたかった。目をさませば、今までの苦痛も屈辱も全て嘘だったと確かめられるに違いない。スィグルは、部族の者たちに捨てられたと認めるのが恐ろしかった。その恐怖は、暗闇で生き続ける恐怖に勝っていた。  飢えながら、スィグルはいつも、大勢の女官と侍従にかしづかれて暮らしていた幸福な日々を思った。リューズ・スィノニムの再来と褒めそやされ、満足していた日々、自分は部族のために必要なのだと信じていた。部族の者が、自分を見捨てるわけがない。助けは今日にもやってくる。父は自分を取り戻しにやってくる。今日でなければ明日、明日でなければ、その翌日にでも。  だから、スィグルは、いつ終わるとも知れない永遠の恐怖に、弟を付き合わせた。一人、闇の中で生き延びるのが恐ろしかったからだ。  吐き気を感じて、スィグルは回想を遠くへ押しやろうとした。しかし、記憶は次々と溢れだしてきた。まるで、もう一人の自分が頭の中にいて、何もかも過去に押しやって忘れてしまおうとするスィグルを許さず、いたいぶろうとしているかのようだった。  ふと脳裏をよぎった弟の顔の幻影に、スィグルは細いかすかな悲鳴をあげた。母上の胎内にいるときからずっと一緒で、一度も離れた事がなかった双子の弟だ。  スフィルが眠っている間に、一瞬で命を奪ってやることもできただろう。あさましく生き残り、狂人として、恐怖にふるえながら毎日を送らせるよりも、そのほうがずっと親切だったかもしれない。  墓所には、死肉を喰らう獣がうろついていた。自分の手を汚すのを嫌う森エルフどもによって、生きたまま捨てられた者たちも、ある者は正気を失い、ある者は生き延びる道を求めて、あの湿った闇の中を彷徨っていた。陽のささない地下で口にできるものといえば、わずかな茸類や、汚水に紛れ込んだ小魚や水棲の生き物ぐらいだ。そんなものでも、飢えを癒してくれるなら、ないよりましだった。だが、それだけで命を繋ぐのは無理な話だ。  ふいに喉の奥によみがえった血の臭いに、スィグルは目眩を感じた。タンジールに戻り、もうろうと眠る枕元では、宮殿の医師たちが父に話す声が聞こえいた。殿下はおそらく……あの状況で生き長らえておられたのには、他に理由が考えられません。  殿下は人の肉を……人の道に反することです。  どっと吹き出た冷や汗が、気味悪く服を濡らすのがわかった。吐き気が舌を痺れさせる。悲鳴に似た耳鳴が、頭の奥で鳴り響いていた。そうだよ、父上、僕は人の肉を喰った。死にたくなかったんだ。そうしないと、僕も誰かに喰われてた。仕方がなかったんだ!!  頭の中で、もう一人の自分が錯乱して喚きだすのを感じながら、スィグルは壁にもたれ、体を支えた。  飢えと恐怖のために気のふれた墓所の囚人たちは、飢餓を満たしたいという本能だけで襲いかかってきた。スィグルは、弱った囚人が、他の囚人たちに襲われ、生きたまま肉を食いちぎられるのを何度も見た。その時の悲鳴。その時の血の匂いを、今でもスィグルは鮮明に憶えている。あの暗闇の中では、人の心など持っていない方が、幸せだったのだ。  だからスィグルは人の心を捨てた。魔法の力を使って、獲物の頭を吹き飛ばし、そのなま暖かい内蔵を喰った。飢餓で痺れた舌には、人肉の味は甘く、腹を満たすと幸福なような気さえした。スィグルが自分のやっている事の意味に気付いたのは、自分を助け出した父に抱きしめられ、雅な香の匂いを嗅いだ時だった。自分がもう、父リューズの自慢の息子ではなく、ただの恥知らずの狂人に堕ちいていたことを、号泣して詫びる父に悟らされたのだ。  父はあのとき、枕元の椅子からゆらりと立ち上がり、医師に向かって言った。「忘れよ」と。その凍てついた声を聞き、スィグルは、なぜ父が『悪魔』と呼ばれるのかを知った。父にとっては、意に反する正義など意味がないのだ。しかし、全ての者がそう思うわけではない。  スフィルは狂った。繊細な弟は、耐えられなかったのだ。正気を手放さなければ、耐えられないような恐怖だったのだ。死よりも恐ろしい闇の中を生き抜かねばならなかった。その恐怖の中から戻り、正気を保っていたスィグルを、父は浅ましいと思っただろうか?  ドンドンと扉が叩かれる音がして、スィグルはビクッと体を震わせた。心臓が早鐘を打っていた。目眩のせいで、スィグルはふらふらと扉に近付いていった。急かすように、ドンドンと再び扉が鳴る。  「スィグル、いるんだろ? 飯を持ってきたんだ。開けてくれ」  イルスの声だった。天井がぐるぐる回っているような気がした。扉の把っ手を握ったまま、スィグルは肩で息をした。  食いたければ、這いつくばって足を舐めろ。金髪の異民族の冷ややかな目と、嘲り笑う声が、まるで耳もとで聞こえているかのように蘇ってくるのを感じて、スィグルは耳を覆った。魔法を使って、拷問吏を引き裂いてやりたかったが、そんなことをすれば、魔法を使えないスフィルが、ひどい目にあわされるのを知っていた。抵抗できない。飢え死にしたくなければ、やつらの言う事に従う他はなかったのだ。  食事の話なんか聞きたくないんだよ、馬鹿野郎。スィグルは声にならないほどの小声で唸った。扉は執拗に打ち鳴らされる。  苛立ったスィグルの神経は、その昂揚にまかせ、うるさく鳴っている扉を吹き飛ばしたがっていた。気が高ぶると、スィグルは時々、自分の持っている魔法を制御できなくなる。凶暴に暴れ出そうとする魔法の力を、スィグルは必死で押しとどめた。 「食事はいいよ、イルス」  かすれた声を、スィグルはやっとの思いで絞り出した。 「腹が減ってるはずだ。開けろ」  どん、と扉が鳴った。くらりとスィグルの視界が揺れて、目の前が灰色になった。それでもスィグルは、夢中で把っ手を引き、扉を開いた。イルスに詮索されたくなかったのだ。このまま閉じこもっていたら、イルスは、自分が殴ったせいでスィグルが機嫌を損ねているのだと思うだろう。殴られたことには、特に腹も立たなかった。下らないことで、イルスと一悶着あると面倒だ。  廊下には、イルスのほかに、見覚えのある白系種族が二人立っていた。金色に輝く髪を見て、理性では押さえきれない恐怖感が、スィグルの中に込み上げてきた。  もう僕を墓に閉じ込めないで。何も悪い事してないよ。ずっといい子にしてたんだ。なのにどうして、殺されないといけないの?  頭の中で、悲鳴が響いた。それを口に出していないのを確かめるために、スィグルは自分の口元に触れてみなければならなかった。虜囚時代のことを思い出すと、きまって頭が混乱して、自分がどこにいて、何をしているのかも解らなくなることがある。それでも、自分がタンジールに戻ったことを知らないスフィルより、ほんの少しはマシだ。眠りの中で、あるいは目覚めたままの白昼夢で、朦朧と過去の暗闇の中をさまよう時も、浅ましいその思いだけが、スィグルを支えていた。  「なんでお前らまでいるんだよ?」  シュレーとシェルに目を向け、できるだけ迷惑そうな顔をつくって、スィグルは言った。 「ご…ごめんなさい。仲直りしたくて……」  おどおどした表情で、森エルフのシェルが言った。シュレーは何も言わずに苦笑している。 「僕…会ったばかりなのに、いきなり怒ったりして、軽率でした。ほんとうにごめんなさい。もう一度、ちゃんと話がしたいなと思って……あの、良かったらもう一度、一緒に食事をしようよ…?」  シェルを睨んだまま、苛立った息をついているスィグルを見て、イルスとシュレーが顔を見合わせるのがわかったが、スィグルはもう、何かを言い出す気力がなかった。  イルス、森エルフを連れてくるなんて、僕を殺す気かい?  スィグルは心の中でだけ泣き言を言った。  タンジールで再会した母は、スィグルが誰なのか全く解らない様子だった。生きて帰った息子が目の前に立っていても、それが目に入らないのか、すっかり指のまばらになった手で、いつまでも髪を梳いては、時折、なにか歌のようなものをブツブツと口ずさんでいた。  あいつらが母上をこんな風にしたんだ。気のふれた母を前に、スィグルは、森に棲む白い顔の連中の手から、一本残らず指を切り落としてやりたいと思った。それは母のための復讐でもあったが、自分自身のための復讐でもある。自分たちを卑しい部族だと蔑み、拷問した連中を、同じ目にあわせるまで、あの闇の中で味わった恐怖が消えないような気がするのだ。  くらりと猛烈な目眩がして、スィグルの目の前が完全な暗闇になった。身体が床に打ちつけられる衝撃と、シェルのわめく悲鳴のような声が聞こえた。  殴られた傷を治癒させるために、力を使ったせいだろうか。スィグルはゆっくりと意識を失いながら、後悔していた。  誰かの温かい指が、首筋の動脈に触れるのがわかった。 「心拍が早い。顔も真っ青だし…貧血だろう」  静かな声が、降りかかるように聞こえた。誰かが倒れた自分のそばに屈み込んで、介抱してくれている。  この声は、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。いけ好かない相手に情けをかけられたのが悔しかった。平気だ、と言おうとして、スィグルは自分の舌が動かないのに気付いた。そして、次の瞬間には、完全に意識を失っていた。   * * * * * *  「こいつ、やっぱりどこか悪いんじゃないのか? こんなに度々気を失うヤツなんて、知らないぜ」  あきれたように言うイルスの声で、スィグルは目をさました。薄く目を開けると、目の前に、指輪をはめた小さな白い手があった。しばらく考えたあとで、スィグルはそれが自分の手だと気付いた。  わけもなく驚いて起き上がると、ずきんと激しい頭痛がした。その痛みがひくと、とたんに周りの景気が目に飛び込んでくる。スィグルは、自分の部屋の寝台に寝かされていた。その周りに腰掛けたイルスと、シュレーとシェルが、無遠慮な視線を自分に向けている。シェルは心配そうな顔でスィグルを見つめているが、イルスとシュレーは、いかにも退屈そうだった。  「気がついたか。よく寝るやつだな、お前」  組んだ自分の膝の上で頬杖をつき、イルスはうんざりした顔をしている。 「…僕、どれくらい寝てた?」  やっと絞り出した声で、スィグルはイルスに話しかけた。 「いや、大した時間じゃない。倒れたのも、ついさっきじゃないかな。大丈夫か?」 「殴られたせいで、どこかおかしくなったのかもしれないよ」  何となくムッとして、スィグルは不機嫌な声になった。とって付けたように心配されても、不愉快だ。イルスが少し気まずそうにため息をついた。 「悪かった。今度は手加減する」 「殴るのをやめてくれればいいのに」 「お前が口で言って解るようになったらな」  寝台のそばの机に置かれていた陶器のカップを取って、イルスはそれをスィグルに差し出した。空腹に響く、いい匂いがした。わけもわからずカップを受け取ると、スィグルはその中を用心深く覗き込んだ。澄んだ色のスープが入っている。少し冷め始めているようだが、まだかすかに湯気がのぼってくる。  「これなに?」  くんくんと匂いをかぎながら、スィグルは言った。 「名前のないスープ」  頬杖をついたまま、イルスがさも当たり前のように答えた。 「それ、イルスが作ったんだよ。みんなで食べようって言って、他の料理も一緒につくったんだ。スープだけは、冷めるといけないから、僕ら先に飲んじゃったけど、すごく美味しかったよ」  興奮ぎみの口調で、シェルがぺらぺらと説明する。この森エルフは、スィグルに話しかける時、いちいち顔を赤くするほど意気込んでいるらしい。返事をするかわりに、スィグルはふんと馬鹿にしたような声を立てた。すると、シェルは居心地悪そうにイルスの方を見た。  いつの間にか、シェルはやけにイルスを気に入った様子だった。それが、そこはかとなく不愉快で、スィグルは苛立った。  「飲め。お前の嫌いなものなんか入ってない」  イルスの口調が、子犬でもしつけるような感じだったので、スィグルはさらに苛立った。だが、敢えて何も言わずに、カップに口をつけた。スープのほの温かい感覚はわかったが、スィグルには何の味も感じられなかった。スープだと偽って、ただの白湯を飲まされていても、きっと気がつかないだろう。  森の墓所から助け出されて、タンジールに戻ったあと、スィグルは自分が食べ物の味を全く感じなくなっているのに気付いた。宮殿の医師たちが、様々な手をつくしたが、結局それだけは、どうしても回復しなかったのだ。  それでも、食べ物が胃にしみわたるような感覚をおぼえて、スィグルは自分がかなり空腹だったことに気付いた。そういえば、朝からまともに食事をしていなかったのだ。  「うまいか?」  真面目腐った顔で、イルスが尋ねてきた。 「さあ」  スープを飲み干しながら、スィグルは愛想もなく答えた。それでも、イルスはにやっと満足げに微笑した。 「いちいち文句を言うヤツだ」  カラになったカップをスィグルから受け取り、机に戻しながら、イルスが言った。 「他のも食えるか?」  寝台から立ち上がって、イルスは剣を吊す革帯を締め直している。どこかに出かけるつもりのようだ。  「食えるかって……そりゃ大丈夫だけど。どういうことだよ」 「ピクニックだよ」  嬉しそうに、シェルが口をはさんだ。スィグルは顔をしかめ、部屋を出ていくイルスの背中を見送った。シェルとシュレーのいる部屋に一人で残されるなんて、ほとんど拷問だ。しかもそれが自分の寝室ときては、逃げ出す場所さえありはしない。  「ちょっと待ってよ、イルス…」  早口に呼びかけても、イルスはそれが聞こえていないように、さっさと扉を開けて出ていった。眉間に皺を寄せて、スィグルは嬉しげに自分の顔を覗き込んでくる森エルフを睨み付けた。 「気安く近寄るな。勝手に部屋に入ってくるなんて、どういう神経だ」  スィグルの声には刺が満載されていた。シェルが、しゅんとしてうつむいた。 「フォルデスは、君とマイオスを仲直りさせたいんだろうな」  おさまりかえった静かな声で、シュレーが横槍を入れてきた。寝台の端に腰掛けたままのシュレーは、何かの間違いで神殿の壁画から抜け出てしまったような、近寄りがたい雰囲気を身にまとっている。スィグルには、それが恐ろしかった。地上で最も神聖な血の匂いが、シュレーの容姿からはぷんぷん臭ってくる。  「余計なお世話だ」  押し殺した声で、スィグルは言った。少しも自分の気持ちを考えようとしないイルスに、腹が立った。だが、それも仕方のない事だ。イルスは何も知らないのだし、スィグルは、自分の身の上話をして、彼が自分に同情する顔を見る気もなかった。 「残念だけど、君のためを思ってのことじゃないな。彼はマイオスに気を遣っているんだ。何があるのかは詮索しないが、フォルデスに見損なわれるのがイヤだと思うのなら、そろそろ折れた方がいいよ、レイラス」 「もう神官でもないくせに、お説教か」  カチンときて、スィグルは思わず皮肉を言った。身体をよじるようにして振り向いたシュレーの顔は、意地悪そうに笑っていた。 「忠告だ」 「クソ坊主…」  軽くうずき始めた頭を抱えて、スィグルは唸った。目眩がするのは、たぶん、緊張のためだろう。認めるのは屈辱的だったが、スィグルはすぐ側にいるシェルの視線が怖かった。記憶の中に焼き付いている、森の民の緑の目は、スィグルにとって恐怖の具現だった。  「私たちと食事をするのが嫌なんだったら、あんな方法じゃなく、もっと角の立たないやり方で逃げ出した方がいい。そうじゃないと、フォルデスは何度でも君を私達の前に連れ出すだろうな。ちゃんとした理由を持ってるんだったら、フォルデスには話したらどうだい。わざと怒らせるのは良くないよ」  悪魔のような微笑をうかべ、シュレーがスィグルを見つめている。こういう奴が、平然と人を陥れるのだろうなとスィグルは思った。 「それじゃ…わざとだったんですか?」  びっくりした顔で、シェルが頓狂な声をあげる。スィグルはため息をついた。 「僕は白系種族が嫌いなんだ。イルスがその理由で納得しないから、もっと具体的な方法でそれを示しただけだよ」 「…でも、そんな理由って……ひどいと思うよ。もし、誰かに、黒系種族は嫌いだから、顔も見たくないなんて言われたら、やっぱり嫌だと思いませんか?」  シェルは言葉を選びながら、誠実そうな口調で、熱心に語りかけてくる。スィグルは俯いたまま答えた。 「そんな奴…珍しくもない。お前らは皆そうだ」 「そんなことないです! 僕は、君と友達になりたいって本当に思ってる。他の人たちだって、きっと同じだよ」  シェルは早口にまくしたてた。スィグルは苛立ちのため、身震いした。 「違うよ、マイオス」  静かに、シュレーが口をはさんだ。シェルが不意をつかれて、ぽかんとシュレーを眺めた。 「君は知らないのかもしれないが…レイラスの言っている事の方が正しい。白系種族と黒系種族は、有史以来ずっと対立しつづけている。種族が違うというだけで、憎み合い、殺し合って来た。今でもそれは変わらない。だから、マイオス、君一人が黒系種族を差別しないからといって、彼らへの迫害の歴史が帳消しになるわけではない」 「…そんな………でも……じゃあ僕は、どうしたらいいんですか」  動揺した声で呟くシェルは、今にも泣き出しそうに見えた。 「そんな方法は誰も知らない。知っていれば、とっくに問題は解決している」 「……わかったような口をきくなよ、猊下(げいか)」  疲労のため、スィグルの声はかすれていた。 「すまない。だが、私は思ったことを言っただけだ」  シュレーの言葉からは、同情も蔑みも、欺瞞に満ちた優越感も感じとれなかった。スィグルは何も答えられなくなった。  出し抜けに、部屋の扉が開かれた。 「出かけるぞ。スィグル、お前も来い」  イルスが顔を出し、強い口調で言った。 「心配しなくても、レイラスは来るよ」  戸口のイルスに微笑を向けて、シュレーが言った。何事もなかったような、穏やかな微笑だ。しかし、泣きそうな顔をして俯いているシェルを見とがめて、イルスはかすかに顔をしかめた。  言っておくけど、これは僕じゃなくて、猊下の責任だよ。スィグルはイルスに、そう言ってやろうかと思ったが、結局、思いとどまった。  「外で食事するのはいいけど、どこまで行くの」  顔をあげて、スィグルは尋ねた。 「世界の果てまでだ」  短く答えて、イルスはまた扉の向こうに消えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-17 : 秘 密 -----------------------------------------------------------------------  「世界の果てか…確かにそうだな」  学院の敷地をぐるりと取り囲む堅牢な防壁を遠目に眺めやって、シュレーが面白そうに言った。  外はすでにすっかり夜もふけていて、満月が中天にかかっている。学寮を少し離れただけで、道の両脇を針葉樹の森が埋める、鬱蒼とした場所に出た。土地勘があるわけでもないだろうが、イルスは他の者を引き連れて、迷うこともなく学院の敷地の端までずんずん進んでいった。時折、道を外れて森の中を歩かされたが、いつのまにかまた、土を踏み固めただけの粗末な遊歩道に戻ることができるあたり、彼には天性の方向感覚が備わっているらしかった。  一度、学寮のテラスから外を眺めただけのはずなのに、確信に満ちた足どりで進むイルスを見て、スィグルは彼を見直した。さすがは六分儀ひとつで海原を渡る部族の者だ。学寮の中を連れ回してからかった時には、右も左も解らない様子だったが、外に出て星々の位置を確かめられさえすれば、たどるべき道を自然と知ることができるのだろう。  彼奴(きゃつ)らは水の上をゆく隊商(キャラバン)でございますよと、子供の頃に教えをうけた老師が説明してくれたのを、スィグルは思い出した。海エルフと黒エルフは、昔から交易ルートを通じて繋がっている。海の者たちは、黒エルフの事を「砂の海を航海する者たち」だと言っているそうだ。どちらも考える事は同じようなもので、自分たちを基準に相手を理解しようとする。それでも、理解し合えるだけマシというものだった。  進む先の方向を確かめるとき、イルスが無意識に夜空をちらりと見やって、ひときわ明るい星の位置を確認するのが、スィグルには懐かしく思えた。その青白い星のことを、黒エルフでは「母なる星(パスハ)」と呼んでいる。道しるべのない砂漠を旅する時、隊商(キャラバン)は、この星の位置をたよりに砂牛の手綱を引くのだ。おそらく、イルスたち海エルフも、この星を道しるべにして、寄る辺なき海原を渡るのだろう。  「どうして、時々空を見るんですか?」  だしぬけに、シェルがそう言ったので、スィグルはぎょっとした。自分に話しかけられたのかと誤解したが、シェルはどうやら、イルスに話しかけたようだった。前を歩いていく二人の後ろ姿を、スィグルは憮然と眺めた。 「ああ…星を見てるんだ」  ぼんやりと答えるイルスは、いかにも当たり前だと思ってることを尋ねられたと感じている様子だった。 「珍しい星でも見えるんですか?」  不思議そうにシェルが言うと、イルスが笑う声が聞こえた。 「違うよ。星の位置を見てる。あの青白い星は、ずっと真北にあって動かないから、その星と他の星の位置を比べると、自分がいまどっちの方向に進んでるかが解る」 「六分儀もなしで、そんなこと解るんですか?」  シェルが興味深そうに声を高くする。そんなこと、生まれたときから星を眺めていれば、自然と解るようになるだろうと思って、スィグルは苛立った。 「慣れれば大体の方角くらいは解るさ。海エルフは子供のころから仕込まれるからな」  イルスは特別面倒くさがる気配もなく、シェルに説明してやっている。 「フォルデス、君も船に乗るのかい」  スィグルの後ろを歩いていたシュレーが言った。イルスが荷物を抱え直しがら振り返り、そのまま後ろ向きに歩き始める。 「航海術の基礎はやった。近頃は海戦も珍しいから、大して仕込まれちゃいないけどな。でも、船はいいぞ。海には果てがないからな」  嬉しそうに答えるイルスは、いかにも純粋そうに見えた。  大陸の南端に済む彼らは、水平線の向こうにある別の大陸まで、船を駆ることも珍しくない。神聖一族の支配するこの大陸から、無法の隣大陸へ船で物資を運び、行く先々の物産を仕入れて戻ってくる。白い卵も黒い卵も関係のない世界のことを、彼らは知っているのだ。だから自由になれる。神殿の者たちがしたり顔で垂れる教えも、海を越えてしまえば他人事だ。  「羨ましいよ。君たち海エルフは自由だな」  スィグルの心を見透かしたようなことを、シュレーは言った。それを聞いたイルスが、にやっと笑う。そして、不意にスィグルに心配そうな目を向けた。  「お前、まだ気分が悪いのか?」 「…べつに、そういう訳じゃないよ。森が嫌いなだけさ」  憮然とした声で、スィグルは答えた。自分の声が思ったよりも子供っぽくすねていたので、スィグルは驚いた。イルスが苦笑するのが、月明かりの中にもはっきり見える。 「お前達も、あの星を使うんだろう。なんて呼んでるんだ」  イルスが無理に話しかけてくれているのが、良く解った。スィグルはため息をついた。 「『母なる星(パスハ)』だよ」  観念して、スィグルは答えた。今度は、いくらかましな口調だった。 「俺たちは『竜の眼(アズガン・ルー)』って呼んでる。昔話に出てくる、片目の海竜の名前がアズガン。あれはそれの眼なんだってさ」  イルスはまた夜空を見上げた。遠目のものが見えにくいのか、イルスは眉根を寄せ、目を細めている。普段から、イルスが時々こういった表情を見せることに、スィグルは気付いた。どうやら彼は目が悪いらしい。そういえば、海エルフは皆、近視なのだという話を聞いたことがある。生まれつき目が悪いなどと、不運な部族もあったものだ。暗闇の中でも目が利き、遠くのものまでよく見通す黒エルフの瞳とは、ずいぶん出来が違っている。彼らも、自分たち黒エルフも、元をただせば同じひとつのエルフ氏族だったというのだが、スィグルは納得がいかなかった。自分と白系種族が違う程度には、自分とイルスも違っているような気がする。源流は同じなどといったところで、結局、エルフ諸族はすでにもう、全く別の民族なのだろうと、スィグルは思った。  「シュレー、竜(ドラグーン)って本当にいるのか?」  突然、ぽつりと尋ねたイルスに、スィグルはギョッとした。上の空だったようだ。 「どうしてそんなことを?」  シュレーが不思議そうに答えた。 「子供の頃、俺に名前をくれた神殿の神官が、竜(ドラグーン)は本当にいるって言っているのを聞いたんだ。神聖神殿の大神官は竜と血を分けた兄弟で、お前達、神殿の一族はみんな、竜(ドラグーン)の末裔なんだってな。俺の名前は、母上がつけたらしいんだけど、海エルフの言葉で『青い竜』っていう意味なんだ。そんな名前をつけるなんて、神殿に対する不敬だって、よく小言を言われたよ」  大して気にしていない様子で言い、イルスは楽しそうに笑った。 「神殿の者は皆、自分たちが竜(ドラグーン)の末裔だという話を信じている。神殿に伝わる教えによると、大神官は人の姿をした竜(ドラグーン)だ。この世の始まりから転生を繰り返して生き続けていて、全ての部族を生み出した実の父として、世界に君臨している」  どこまで本気なのか推し量れない口調で、シュレーが淡々と説明した。それが本当なんだったら、こいつも竜(ドラグーン)の末裔というわけかと思って、スィグルはフンと鼻で笑った。竜(ドラグーン)は地上で最も古い種族だと言い伝えられる怪物で、時には大きなトカゲのような姿で描かれ、別の時には、巨大な地虫のようだと言い伝えられる。彼らは定まった姿を持たない。その時々の話の都合で、どんな姿にもなれるのだ。結局は、誰も見たことがない、おとぎ話の中の生き物でしかない。少なくとも、スィグルはそう信じていた。 「本物の竜(ドラグーン)を見たことはないが、かなり獰猛で巨大な生き物だという伝説だよ。それと神殿の一族の血が繋がっているなんて考えにくいが、その勇猛さをある種の象徴として借りているのではないかな」  微かに笑っているシュレーの声には、竜(ドラグーン)の末裔を語る一族に対する侮蔑の気配があるように聞こえた。だが、きっとそれは気のせいだろう。スィグルは自分の直感を無理に否定した。全ての部族から畏れ敬われる神殿の一族の者が、自分の血族を蔑む必要などあるわけがない。 「でも、神殿の紋章は白い鳥の翼ですよね。どうして竜の翼じゃないんだろう」  素朴な疑問を、シェルが口にした。そういえばそうだと思って、スィグルは無意識に後ろにいるシュレーの方を振り返ってしまった。目が合うと、シュレーは意地悪くニヤリと笑った。しまったとスィグルは後悔した。 「…さあ、どうしてかな。竜(ドラグーン)は鳥の姿をしているのかもしれないな」  答えを知っている風に、シュレーは言葉を濁した。 「知りたいかい、レイラスも」  シュレーはいかにも悪気のないように見える顔をしているが、スィグルはそれを信用する気にはなれなかった。人が知りたがっているのに気付いた上で、からかっているのだ。スィグルは、人をからかうのは好きだったが、その逆は嫌いだった。まして相手が神殿の者ときたら、なおのこと腹が立つ。 「興味ないね。そんなこと知ったところで、何かの役に立つのかい」  刺々しい口調で答え、スィグルは前に向き直った。すると、見た目にもがっかりしているのが分かるような顔で、こっちを見ているイルスと目が合った。 「なんだよ、イルス」 「スィグル、お前、おかしいぞ。何を一人でイライラしてんだよ」 「僕が不機嫌な理由なんて、考えなくても分かるだろ?」  腹が立って、スィグルは噛み付くような答え方をしてしまった。シェルがビクビクしているのが分かる。 「説明しないと理解してもらえないみたいだよ、レイラス。理由があるんだろう」  何かを促すように、シュレーが言い添える。面白がっている様子だった。振り向いて、スィグルはじろりとシュレーを睨み付けた。しかし、それでも、神聖な血を引く少年は、にこにこと機嫌良く笑っているだけだ。 「余計なお世話はやめてくれ。あんたがそうやってお節介だから、いろいろと問題が起こるんだ。わかっててやってるんだろ。善人面して人の腹を探るのは感心しないね」 「君だって、わざと人を怒らせたりするだろう。同じだよ」  嫌味たっぷりの声色で、シュレーは応戦してきた。スィグルは自分の形勢が明らかに不利なのを感じとった。こんなことは初めてだ。言いよどんで何も言い返せないなんて。  スィグルが言葉を選びかねて動揺しているのを見てとると、シュレーはいかにも勝ち誇ったふうに、にやっと笑った。  「…そういえば、君の氏族の姓、マルドゥークというのも、竜(ドラグーン)の名前だな」  ごく自然な流れで、シュレーが話を継いだ。スィグルは屈辱的な気分だった。シュレーは、スィグルが困っているのを知って、わざと話をそらせたのだ。スィグルは歯がみして、うつむいた。情けない。まだら蛇に狙われた時の砂牛の仔だって、もっとマシに振る舞っただろうと思って、スィグルは耐えられない気持ちだった。  「それから、フォルデスというのは、詩編で予言された竜の心を知る者の名だ。君の名前には竜(ドラグーン)がたくさんいるらしいな」  不意に、ごく近くでシュレーの声を聞いて、スィグルは自分が無意識に立ち止まっていたことに気付いた。通りすがるシュレーが、無表情な目で、じっとスィグルの顔をのぞき込み、歩き出すのを促すように、スィグルの肩を押した。  「詮索されたくなければ、顔に出すな」  スィグルにしか聞こえないような微かな声で、シュレーが忠告した。軽い驚きのため、スィグルは目を見張った。 「……うるさい」  なぜか、スィグルも声をひそめていた。前を歩いていく二人は、このやり取りに気付いていない様子だった。 「竜(マルドゥーク)の末裔にして、竜(ドラグーン)の心を知る者、青き竜……いい名前ですね」  シェルが嬉しそうにころころと笑っている。スィグルは自分の額に気味の悪い汗が浮くのを感じた。額冠(ティアラ)がゆるむような感触がする。  「君がそうやって恨みをまき散らすのは、それを誰かに憐れんでもらいたいからさ。話せば楽になるよ、レイラス。自分の腹に収められないなら、そうするしかないだろう」  並んで歩きながら、シュレーが静かに言った。 「あんたに何がわかるんだ」  うつむいたまま、スィグルは弱々しく応えた。 「わかるよ。人を呪いながら生きることの意味がね」 「あんたも誰か恨んだりするっていうのかい」  無理に顔を上げ、笑おうとして、スィグルは失敗した。その代わりに、シュレーが薄笑いを浮かべた。 「私はいずれ世界を滅ぼすんだ。よかったら君も手伝わないか、レイラス」 「………どうやって?」  シュレーの穏やかそうな緑の目の中に、何か凍ったものが潜んでいる気がして、スィグルは憎たらしい白系種族の瞳から目が離せなくなった。シュレーが微笑して、かすかに唇を開いた。整った白い歯列が見える。 「正神殿の地下には、世界を滅ぼすための魔法が封印されている。それを使えるのは大神官だけだ」  密かな声で、シュレーは話し始めた。すぐ前を歩いている二人が、なぜシュレーの話に興味を示さないのか、スィグルは信じられない思いがした。  神官たちは、自分たちの生まれ故郷である聖楼城のことを、決して話そうとしない。大陸全土に点在する神聖神殿の頂点にたつ正神殿についての話題は、神官たちの最大の秘密であり、それについて質問するのはタブーだと考えられていた。神籍を持たない者が、聖楼城の秘密を目にすると、目が潰れると信じている者たちさえいる。スィグルは、そこまで神聖神殿を崇拝する気持ちなど持ち合わせなかったが、それでも、シュレーが話そうとしている事に、漠然とした恐怖感を感じずにはいられなかった。  何か尋ねようとして、スィグルは口を開いたが、なかなか言葉が出てこなかった。シュレーは薄く笑いながら、自分の唇に人差し指を添えて、口を利くなというような仕草をした。 「聖楼城の秘密を知っているのは、神殿の血族と、それぞれの部族を統治する部族長だけだよ。即位する時、部族長はかならず聖楼城に呼び出される。大神官はその時、部族長になる者に自分の秘密を見せる。その後、魔法をかけて秘密を忘れさせる。それでも、族長達は心の底では聖楼城で見せられたものを憶えていて、決して神聖神殿には逆らわなくなる。たとえ、それを自覚できなくても、彼らは神殿の頚城に繋がれているんだ。どんなに誇り高い馬も、主人の鞭を恐れるものだ」  スィグルは、無意識のうちにに、かすかに首を横に振っていた。父からも、神官からも、教師たちからも、今までにそんな話は聞いたこともなかった。 「信じる必要はないけど、本当の話だ。君たちも、洗礼名を授けられる儀式の時に、似たようなことを経験しているはずだ。神殿の秘密を記憶しておく権利を持っているのは、神籍の者だけなんだよ」  微笑して、シュレーは言った。洗礼名を授けることができるのは、杖と神籍を持つ高位の神官だけと定められている。言葉を話す歳まで成長すると、王族の男子は皆、神聖神殿から洗礼名を授けられることになる。純白の衣と金糸の縫い取りのある外套を着た、高位の神官がタンジールにやってきて、自分と弟のスフィルを抱き上げ、神殿の奥へと連れていったことを、スィグルも憶えていた。だが、その時に奥の小部屋で何があったのかは、思いだそうとしても思い出せなかった。神殿から戻り、母の手に帰された時には、もう、自分にレイラスという新しい名が付いていることを、至極当たり前のように思っていたのだ。  それ以後、目下の者たちは、スィグルのことをレイラス殿下と呼び慣わした。レイラスとは、詩編の中に登場する彗星の名だった。「彗星レイラス、その者の性、苛烈にして、天を穿つ炎の矢」という一節の中にだけ書き記された名で、特にどうということもない名前だった。弟のスフィルに与えられたリルナムという名も、やはり彗星の名だ。神官は、単に双子だからという理由で、兄と弟に同じような名前を授けたのだろう。  洗礼名は、ただの慣習だった。少なくとも、スィグルはそう信じている。だから、それを授ける儀式も、ただの習わしにすぎない。神殿への忠誠を示すという以外には、これといった意味はない。そのはずだ。しかし、シュレーは、何か大きな秘密を知っている者の余裕を見せて、嗤(わら)っている。 「大神官は沢山の秘密を持っている。血族の者でも、その全てを知っているわけではない。私が知っているのも、そのごく一部だけだ。大神官が世界を滅ぼすほどの大きな魔法を管理しているのは知っているが、それが具体的に何なのかは知らされていない。見たことはあるはずなんだが、思い出せないんだ。魔法の秘密を知っていていいのは、神聖一族の中でも、大神官ただ一人と定められている。その魔法を手にしたければ、自分が大神官になるしかない」  シュレーはひどく小さな声で話しているようだったが、その言葉は、一語一句漏らすことなく、スィグルの耳にちゃんと届いた。スィグルは、ふと胸に強い不安が湧くのを感じた。自分に名前を授けた神官も、これと同じような、ひどく密かな声で、新しい名前を囁きかけてきたような気がする。 「大神官の魔法には、名前がついているんだよ、レイラス。神殿の連中は、それをディノス・アシュワスと呼んでいる。ディノスは「凍てつく」という意味の神殿語で、アシュワスとは槍のことだ。ディノス・アシュワスとは、凍てつく槍という意味さ。詩編には、「荒れ野に佇む者」が「凍てつく穂先もて万の王国を滅ぼす」と予言されている。…ディノス・アシュワスは私のための魔法だ。世界を滅ぼすための」  シュレーは微かに唇を歪めただけだったが、なぜか、スィグルの耳元には、彼がくすくすと忍び笑いする声が聞こえていた。 「でも…このままでは私は大神官にはなれない。私が私の魔法を手に入れるのを手伝うと約束したら、なぜ無理なのか教えてあげるよ。その代わり、その時には君の口から、君の秘密を聞こう、レイラス。秘密を交換して、誓いを立てるんだ。簡単だよ。ほんの少し思い切るだけで、君は自分の憎しみにカタをつけられる」  自分に微笑みかけるシュレーの凍てついた声を聞きながら、スィグルは彼が少しも口を動かしていないのに気付いた。シュレーは声を出していない。だから、イルスも、シェルも、この話に気付かないのだ。  神官が魔法を使うという話など、聞いたことがなかった。だが、それでも、シュレーは魔法を使ってスィグルに話かけてきているらしかった。 「あんた…魔法を使うんだな」  かすれた声で、スィグルは問いかけた。いつの間にか、とても喉が渇いていた。シュレーは黙ったまま、首を横に振った。 「これは君たちの使う魔法とは違う。神殿では普通のことだ。重要な話は、言葉では伝えられない」  シュレーはもうスィグルから目をそらしていたが、その声は、まっすぐこちらを見て話しかけてくる者の声のように、スィグルの耳に聞こえてきた。神聖な声、神聖な言葉だ。それは、神聖神殿の奥でこそ、畏まって聞くべき声のように思えた。  「ところで、黒エルフでは、どうしてあの星のことを、『母なる星』って呼ぶんですか?」  突然、聞こえてきた異質な声に驚き、スィグルはびくっと体を震わせた。顔をあげると、シェルがスィグルの方を振り返っていた。スィグルは動揺して唾を呑んだ。いくぶん緊張した面もちで、シェルがこちらを見ている。違和感を覚えて、スィグルは一時考え込んだ。そして、シェルが「パスハ」の意味をちゃんと理解していることに気付いた。  「…黒エルフの言葉がわかるのか」  驚きを感じて、スィグルは上擦った声で尋ねた。共通語さえ話せれば十分と考えられている中では、たとえ王族であっても、他の部族の言葉を学ぶなど、ありえない話だ。まして、黒系種族の言葉を知っている白系種族など、聞いたことがない。 「勉強してきたんです。話せると役に立つかと思って」  照れたように、シェルは微笑んでいる。よく見ると、この森エルフは歳の割に童顔で、人なつこいところがあった。 「彼は全エルフ氏族の言葉を知っているわけだな。なかなか凄いよ」  感心したように、シュレーが呟く。密談の気配など微塵も残っていなかった。シュレーは今も十分静かに話していたが、先刻の密かな声の気配と比べると、ひどくうるさいように思えた。  シェルから目をそらして、スィグルは自分の足下の地面を見おろした。なにか落ちつかない気分だった。 「僕、本を読んで物を憶えたりするの、得意なんです。他になにも取り柄がないし……それに、喜んでもらえたら、僕も嬉しいから」  照れて恐縮した風に言って、シェルは話題を変えたそうにしている。自分が褒めそやされるのに慣れていないのだろう。  純朴そうなシェルの、剣を握ったことさえなさそうな手から、その白い指を切り落とす自分を想像して、スィグルは震えた。毎日一本ずつ。あいつらが母上にやったように、長く引き延ばされた恐怖と苦痛を味わわせることができたら、どんなに気が晴れるだろうかと思ってきた。  だが、人に恨まれる事さえ知らないような、この腹の立つ森エルフを拷問にかけて、飢えと恐怖の充満する地下の穴へ落とせば、本当に気が晴れるだろうか。死肉を漁る怪物に追い回され、心も理性もない獣のように共食いをさせれば、本当に、自分の胸に巣くった恐怖にケリがつくのだろうか。  スィグルは、自分の想像に吐き気を覚えた。そんなことで気が晴れるはずがないように思えた。だが、奴等は黒エルフの族長リューズの猛攻に腹を立て、その憂さを晴らすためだけに、スィグルに同じ事をやったのだ。森の者共は、苦しむ黒エルフの子供を見て、気味よさげに笑っていた。笑っていたのだ。笑いながら、スィグルの背中に嘲りの言葉を刻んだのだ。痛みと出血で気を失っても、何度も叩き起こされて、苦痛と屈辱を余すところなく舐めさせられた。スィグルには、奴等を憎むだけの理由が十分にあるはずだった。  そして、シェルはあの連中と同じ部族の血を引いている。こいつも、あの哄笑の中の一人だったかもしれない。そう思っても、スィグルにはなぜか、血を流して苦しむシェルを想像しただけで、それを哀れに感じている自分が分かった。  許せない。それだけは、どうしても許してはならない事だ。憎い仇に情けをかけるなど、あってはならない。  世界を滅ぼすのだという神官の誘いに乗って、取引きをするほうが、ずっとマシだ。  「着いた」  驚いたようなイルスの声が聞こえた。はっとして、スィグルは前を見た。そこには、針葉樹の森を分けて、唐突に灰色の石壁が立ちはだかっていた。  森の中を抜ける小道は、壁の下に潜り込んで、ぷっつりと消えていた。この先の世界があるのに、目の前の分厚い壁によって、そこへ続く道が断ち切られてしまったかのような風景だ。  イルスが足下に持っていた荷物を置いた。 「これが俺たちの世界の終わりか」  呟くイルスの声は淡々としていた。人質は学院の敷地から出ることができない。それが同盟の定める掟だ。学院の敷地を囲む防壁は、まさしく、彼らにとっての世界の果てだった。  イルスが、壁に歩み寄って、その灰色の岩肌に触れた。壁の高さは、イルスの身長の優に五倍はあるようだった。壁に触れたまま黙っているイルスの後ろ姿を、スィグルも黙ったまま見守っていた。誰も何も話しかけなかった。  「さて、飯にするか」  何事もなかったように言いい、イルスが戻ってきた。食事の時間だ。 -----------------------------------------------------------------------  1-18 : 竜(ドラグーン)は歌う -----------------------------------------------------------------------  イルスはなぜか、料理ができるようだった。シェルが熱心に説明してくれた事が本当なのだとしたら、イルスは例の黒大理石で飾られた食堂の厨房を乗っ取り、その場でこの料理をつくって来たということになる。  とりたてて豪華というものではなかったが、四人分の腹を満たすのに十分そうな量の食べ物が、荷物の中に詰められていた。思い思いの場所に腰を下ろし、スィグルたちは食事をとった。見上げると、月は中天を過ぎかけている。シェルも酒には弱いらしく、喉を潤すために飲んだ分だけでも、顔を赤くして、よりいっそう陽気になっていた。  「おいしいですか? おいしいですよね!」  なぜかスィグルの近くに腰をおろしているシェルは、執拗にスィグルの感想を求めてきた。シュレーは、もうスィグルには特別何の興味もないし、もともとそんなものは無かったというような顔をして、イルスと楽しげに話している。スィグルは深々とため息をついた。  「うるさいな。ちょっとは黙れよ」  シェルの顔から目をそむけて、スィグルはつとめて冷たく言った。空腹なはずなのだが、あまり食欲がなかった。 「おいしいと思うんですけど。イルスがせっかく作ってくれたんだし…おいしいんだったら、そう言ってあげた方が…」  しょんぼりしているシェルの声を聞いて、スィグルはなぜこの森エルフがうるさく料理の味について聞くのかを理解した。 「イルス」  憮然と頬杖をついたまま、スィグルは数歩先の岩の上に腰掛けているイルスに呼びかけた。シュレーと話していたイルスが、不思議そうにこっちを見る。 「おいしいよ、料理」  笑いもせずに、スィグルは嘘をついた。本当は、料理の味など感じないのだ。他の三人が口をそろえて不味いと罵る食堂の料理も、イルスが作った料理も、スィグルには少しも変わらなかった。 「嘘つくな」  苦笑して、イルスが言った。スィグルは驚いて、葡萄酒のグラスを落としそうになった。 「なんで嘘だと思うんだよ」 「お前、ちっとも食ってないぞ」 「…ああ……あんまり腹が減ってないんだよ」  少しホッとして、スィグルは笑いに顔を崩した。 「それこそ嘘だな。お前は嘘つきだ」  イルスは笑いながら文句を言っているが、いくらかは満足そうだった。  「どうして料理なんかできるんだい。海エルフは男が料理するものなの?」  スィグルは、少しイルスに済まないと思っていた。だから、努めて楽しげな口調をつくって尋ねた。だが、それを聞いたイルスは、突然、面白くなさそうな顔をした。 「違う。俺は5歳の時から最近まで、師匠の庵で暮らしていたから、自分の食うものは自分でつくらなきゃ仕方なかったんだ。女手がなかったからな」 「え…じゃあ、イルスって、宮殿育ちじゃないの!?」  唖然として、スィグルは心底から頓狂な声を出してしまった。イルスが苦笑する。 「そういうことだ」  スィグルは、イルスが食堂の給仕役にまでいちいち挨拶する理由が、やっとわかった気がした。彼は、人にかしづかれて暮らすのに慣れていない様子だった。イルスは召使いが何かをするたびに、いちいち「ありがとう」と言うので、うるさくて仕方がない。初めは気さくなのだろうと思っていたが、それにしてはイルスは腰が低すぎる。黒エルフの都タンジールでは、下級貴族だって、イルスよりは威張って暮らしているものだ。  「なんで、そんな事になったんだよ。宮廷にいられないような理由でもあったの?」  悪気無く尋ねてしまってから、スィグルはしまったと思った。イルスの顔が、今まで見たことのない種類の表情を浮かべたからだ。それは、触れられたくない事情について話を向けられた者特有の表情だった。 「さあな。族長の命令だから、俺は詳しい理由までは知らない。俺がいると都合の悪いことが、あったのかもしれない」  低い調子の声で、イルスは説明した。言いたくないなら、うまくはぐらかせば良さそうなものだが、イルスには、そんな器用なことはできないらしかった。 「母上が亡くなってすぐ、俺は師匠の庵へ、同腹の兄は辺境の領境を警備する駐屯軍に送られた。俺も、もうちょっと歳を食っていたら、従軍できたのかもしれない。いや…だめかな?」  珍しく、うつむいてしまったイルスを見て、スィグルは責任を感じていた。イルスは自分が人質に選ばれたのも、父親に厄介払いされたのだと感じている風だと気付いていたのに、そんなことも忘れてしまうとは、自分は思ったより動揺しているのかもしれなかった。  「じゃあ、君の剣術は師匠の直伝ということか。海エルフでは、そうやって技術を学ぶものなのかい」  練習試合でイルスと立ち会ったことを、シュレーは思い出しているようだ。 「いいや。普通は兵学校に行く。優秀なら、その後もう少し学んで、将官になる。貴族でも、平民でもそうだ。俺が特殊なんだ」  そう答えられて、シュレーも気まずそうな顔をした。なんとなく気味がよかったが、スィグルは笑うわけにもいかず、ただ押し黙っているしかなかった。 「どうして…そんな事に?」  罪のない顔で、シェルがなにげなく尋ねた。シュレーが顔をしかめるのが見えた。どうやらシェルには、イルスが感じている引け目を理解できないようだった。戦士としての立身を願っているイルスが、部族の精鋭として教育される一団に参加できなかったことに負い目を感じているのは、誰が見ても分かることだ。  いつも傭兵に頼ってばかりいて、自分たちは甲冑を着けることさえ疎む森エルフの卑怯者には、イルスの気持ちなど分かるまいと思って、スィグルはムッとした。だが、イルスはちょっと居心地悪そうに笑って、シェルの顔を見つめただけだった。  「これのせいだ」  そっけなく言って、イルスは彼の額を覆っていた額冠(ティアラ)を外した。部族長の一族であることを証す額冠(ティアラ)を、人前で外すことは不作法だと考えられていた。スィグルは呆気にとられかけたが、イルスの顔を見て、納得がいった。額の中央、眉間のすこし上あたりに、指先ほどの小さな青い石がついていた。それはイルスの瞳と良く似た色で、宝石のように澄んでいたが、装飾品の類でないのは、一目見ただけで理解できた。  「竜(ドラグーン)の涙だ」  ぽつりとシュレーが呟いた。さすがの彼も、心底驚いている様子だった。もちろん、スィグルも驚いていた。 「俺の部族では、頭にこれを付けて生まれてきた子供は、周りに災いを起こすって信じられてる。なんでも、特殊な魔法を持って生まれてきた証拠らしいな。神官がそう言ってたよ。俺と関わると不幸になると、みんな信じてる。母上が死んだのも、俺のせいだと言うヤツもいる。もしかしたら…親父殿もそう思っているのかもしれない。石のことを知っていて、俺とまともに付き合ってくれるのは、兄者と師匠だけだった」  イルスはあまり興味がなさそうに説明している。スィグルはすぐには何も言ってやれないほど驚いていた。  「竜(ドラグーン)の涙」とは、特定の者だけが生まれつき身体に備えている器官のことだ。それは、魔法の能力と深い関わりを持っていた。海エルフ族で、それが災いの証だと考えられているというのは、スィグルには初耳だったが、黒エルフでも、竜の涙を持って生まれた者が、特別な存在だと考えられているのは同じだった。  それを額に備えている者は、訓練次第で、けた外れの魔力を発揮する。魔法を操る能力は、誰にでもあるものではなく、魔法部族だと名高い黒エルフでも、部族民の半数にやっと手が届く程度の割合だ。子供が魔力を持って生まれるのは、黒エルフでは吉兆だと考えられていた。魔法を使う子供は、将来、部族を守る魔法戦士に育つ。だから、強力な魔力を証してくれる「竜の涙」を備えているというのは、ある意味とても名誉なことだ。  だが、持ち主に強い魔力を与えるこの額の石は、宝石のような無機の結晶ではなく、生きた身体の一部で、死ぬまで成長し続ける。成長の速度はゆるやかで、見た目にはわからない程度だが、魔力を使うのに比例して成長するため、自分の素養を頼みに魔法を使い続けた「竜の涙」の持ち主が、ある時突然、石に脳髄をつぶされて死に至ることが珍しくない。石の成長につねに注意しながら使うか、あるいは全く魔法を使わないように努めるしか、「竜の涙」による圧死を免れる方法はない。  イルスが魔法を使うという話は、まだ聞いていない。使えないのかもしれないし、あるいは、単に自覚がないのかもしれない。スィグルは背筋が寒くなるような思いがした。魔力を持っていても、それが必ず表に出るとは限らない。ある日突然に発露した魔法を見て初めて、自分に魔力があるのを知るものなのだ。黒エルフでは、そういう力を示した子供には、必ず魔法を制御するための訓練が施される。制御の方法を知らないまま魔力を抱えていると、いつか、自制できない状態で魔法が暴走しだすことも考えられるからだ。  だが、単に制御できないだけなら、ある意味、本人にとっては大した問題ではないのかもしれない。スィグルの魔法が制御できなくなった場合、体にたまった力が出尽くすまで魔法をまき散らし、周りを破壊しつくせば、すぐに力つきて意識を失う。その一時さえ、スィグルに近づかないようにすれば、部屋が壊れるのに悩むのがせいぜいだ。  しかし、「竜の涙」を持っていると話は違ってくる。突然暴走しはじめた自分の力を止められず、急激に成長した石に脳髄を押しつぶされて死ぬことになる。本人の死はもとより、その膨大な魔力が与える被害も甚大だ。黒エルフでは、「竜の涙」を持った子供が生まれたら、産湯の熱も冷め切らぬうちに、その子を王宮に引き取るしきたりになっている。その子がたどる運命は、部族を守る偉大な魔法戦士としての栄華を得るか、力を制御できないと見限られて命を絶たれるかのどちらかだ。  「生まれてすぐなら、切開して取り出す方法もあるらしいが…」  口元を手で覆って、シュレーが言い淀みながら言った。その口振りからして、神殿の者たちも、「竜の涙」の効用を知っているらしかった。  「ま…魔法は? 使えるの?」  言い終わらないうちに、スィグルは自分の手の傾いたグラスからこぼれる葡萄酒に気付いた。だが、それに驚く気さえしなかった。 「使えない。ときどき、未来が見えるけど、でも、それだけだ」  平然と、イルスは答えた。 「冗談じゃない!!」  青ざめて、スィグルは叫び、無意識に立ち上がっていた。スィグルの足下で、グラスの割れる音がした。イルスの方が、よほど驚いた顔をしていた。 「使えるんだよ、使えるんじゃないか! 未来視するんだろ!? どうやって? ちゃんと意識してできるの!?」  血相を変えて近寄ってくるスィグルに、イルスは仰け反っている。ぽかんとしているイルスの頭を両手で掴んで、スィグルは彼の額の青い透明な石を見おろした。表に出ている部分は、小指の先ほどの大きさしかないが、頭の中にどれくらいの大きさのものが埋まっているのかは知りようがない。脳に絡みつくようにして成長する「竜の涙」の大きさと形は、持ち主が死んだあと、遺骸から取り出して初めてわかるのだ。  タンジールの王宮には、歴代の魔法戦士たちが遺した、様々な色と形の「竜の涙」が保存されている。スィグルは子供の頃、老師に連れられて、一度だけそれを見せてもらったことがあった。どれも、透明で美しい石ばかりだったが、人の頭の中に収まるには大きすぎるように見えた。そこまでの大きさに育った「竜の涙」のために、その持ち主が命を落とすことになったと聞いて、スィグルは目の前に並べられた美しい石たちに、まがまがしい力を感じたものだった。  王宮に仕えた「竜の涙」を持つ魔法戦士たちは、果てしない戦いの中、部族を守るために、命の危険を知りながら、魔法を用いて戦ったのだ。「竜の涙」は、ひと思いには持ち主を殺さない。頭の中で徐々に成長する異物に耐えながら生きながらえ、最期には、脳髄を押しつぶされる苦痛に悶えながら、長く引き延ばされた死に襲われるのを待つことになる。その死様はこの上なく凄惨なものだという。  「意識しては無理だ。夢に似てるかな……たまに、明け方頃に見たり……起きてる時にも、断片的に閃くことはあるけど、大して役にたたない。一瞬だしな」 「じゃあ…じゃあ、未来視が始まっても、自分では止められないんだね!?」  スィグルは目眩を感じた。イルスは自覚していないようだが、無意識のうちに制御できない魔力を発揮している。スィグルのように、手を触れずに物を動かしたり、傷を癒したりする力なら、誰の目にも明らかだが、未来視は見過ごされることが多いのだ。イルスがどの程度遠い未来のことまで、どの程度的確に視るのかによっては、使っている魔力が大きい場合も考えられる。誰も知らないうちに、本人さえ気付かずに、イルスは死に近づいているかもしれないのだ。  「フォルデス、『竜(ドラグーン)の涙』は成長するんだ。以前に比べて、この石は大きくなったかい?」  注意深く、シュレーが尋ねた。イルスがスィグルの手をどけさせながら、しばらく考え込む気配を見せる。 「なってない…と思う」 「未来視した後に、頭痛がしたりしない?」  スィグルは性急に尋ねた。わけも分かっていないイルスを不安がらせるのは良くないと思いはしたが、スィグル自身が不安なのだ。 「……たまには」 「………!」  口を開いたまま、スィグルは言葉を選びあぐねてしまった。イルスが動揺した目をしている。その額に埋まった石を透かし視られるものなら、そうして確かめたいとスィグルは思った。イルスの「竜の涙」は、イルスが無意識に力を使うたび、脳の中でちゃんと成長している。そうやって、少しずつイルスを殺している。 「なんだよ?」 「二度と力を使うな!」  じれたイルスが呟くのと、スィグルが大声を上げるのと、ほとんど同時だった。  「このままじゃダメだ。タンジールから魔導師を呼ぶよ」  誰に言うわけでもなく、スィグルは宣言した。今からでも、魔法の制御法を身に付けさせれば、気まぐれに発露する未来視の力を抑えられるかもしれない。少なくとも、イルスの力がどれ程のものなのか、部族の魔導師なら判定してくれるだろう。  「お前、俺が長生きしないって心配しているのか?」  世間話でもするような、暢気な口調で、イルスが言った。 「それなら知ってる。だから気にするな。俺の師匠にも予言の力があって、俺の一生はもう師匠の口から予言されてるんだ」 「…なんて、予言されてるんだ」  シュレーが無表情に尋ねた。イルスは何気ない視線をシュレーに向けた。シュレーの顔には、どんな表情も浮かんではいなかったが、それは、何かを隠すために無理に創り出した仮面のように、スィグルには見えた。 「俺は子供を二人もうけて、その子が成長するのを見ずに戦死する。師匠の予言が的中すれば、そうなる」 「そんな事を知っていて、よく平気でいられるな」  シュレーはイルスから目をそむけて、静かに言った。 「戦死するのは仕方ない。俺は剣の道を選んだんだから」 「予言は、よりよい未来を掴むために使うものだと君は言っていたけど、自分の運命には大人しく従うというのか」 「生き続ける事に意味があればそうする。でも、死ぬことに意味があるなら、俺は死んでもいい」 「父親を失うと子供は不幸だ。後ろ盾もなく育つのは惨めだよ。君は血を残してはいけない、フォルデス」  顔をあげたシュレーの眉間に、淡く皺が浮いていた。イルスは何かを悟っているように微笑で応えた。 「お前もつらかったか?」  シュレーは軽く目を伏せかけただけで、何も答えなかった。視線をそらせて、シュレーは学院を囲む外壁に顔を向けた。灰色の分厚い壁は、相変わらずそこに立ちはだかっていた。  「イルスのお師匠様の予言能力は、確かなんですか?」  ずっと押し黙っていたシェルが、よく通る綺麗な声で問いかけてきた。 「師匠の予言は、外れることもある。未来は一定のものじゃないからな」 「じゃあ、イルスの未来も、予言と違うことだってあり得るんですよね」  真剣な顔で、シェルは言い募ってくる。 「……でも、俺も視たんだ。自分が、戦場で死ぬのを」  すまなさそうに笑って、イルスは言った。スィグルはイルスの魔力の強さを確信した。少なくとも、十年近く先の未来を、イルスは未来視したのだ。 「じゃあ、僕らはずっとこの壁の中から出られない方がいいです。ここにいる限り、イルスは戦場になんか行けないし、そこで死ぬこともない」  シェルは落ち込んではいたが、強い意志の感じられる声で言った。言い得た話だった。 「ここで一生暮らすんじゃ、ダメなんですか?」  シェルはなぜか、シュレーに顔を向けた。学院の外壁を眺めていたシュレーが、ゆっくりとシェルに視線を戻した。しかし、シュレーは無表情にシェルを見つめるだけで、森エルフの少年の問いかけに答える気配もない。シェルが動揺して、眉を寄せる。 「そりゃあ、この学院にいる限り、僕らは何もできないし、ただ毎日を送るだけかもしれないけど……でも、権力とか、戦とか、額冠(ティアラ)の継承ばかりが、この世界の全てじゃないと思う。みんなは、やっぱり、そういう事に興味があるんですか。ここを出て、戦をしたり、政治をしたり…それが望みですか?」  シュレーがため息をついて、困ったように微笑した。シェルは今にも泣き出しそうにも見えたし、何を言われても屈しそうにないようにも見えた。 「僕らがここに人質としている限り、四部族同盟は続くし、戦いは起こらない。そうでしょう? だったら、ここで生き続けることでも、僕らはちゃんと役に立ってる。それは、意味のあることだと思います。殺し合ったり、憎み合ったりするより、その方がずっといいよ」  シェルは一度うつむいてから、イルスに視線を戻した。 「戦場で死ぬのが剣士の名誉だっていうのは分かります。でも…イルス、あなたが死ぬっていう戦場では、どの部族が殺し合ってるんですか。僕たち森エルフと? それとも、他の部族ですか? 今、こうやってやっと平和になったのに、また殺し合うのを望むなんて、おかしいです。僕はどの部族とも殺し合いなんてしたくないし、イルスにも死んで欲しくない。みんなは、そうは思わないんですか?」  悲しそうな目をしたシェルに責められて、イルスは何と答えればいいのか分からないという顔をしていた。シュレーは無表情にシェルの顔を眺めている。いつもシュレーの顔をうっすらと覆っている微笑の仮面を剥がしただけでも、大したものだとスィグルは思った。  しかし、スィグルは、それを誉めてやる気はなかった。シェルに腹を立てているからだ。  この森エルフは、イルスがどんな思いで自分の未来を見つめているのか考えもしない。イルスは別に、戦が起こるのを望んでいるから、自分の死に場所が戦場にあると未来視したわけではない。それは、この先に起こる動かしがたい出来事であり、予知者は単にそれを垣間みるだけだ。イルスは戦場で死にたがっているわけではなく、自分が戦死するのを「知っている」だけに過ぎない。このままだと、イルスが好むと好まざるとに関わらず、その運命は彼に降りかかるのだ。  そんなことも理解できないで、ちっぽけな正論を振りかざすシェルに、スィグルは腹を立てていた。  「お前のは、ただの屁理屈だ。自分の家族が殺されても、そう思えるか?」  腕組みをして、スィグルはシェルを睨み付けた。背中の傷がうずくような錯覚がした。シェルが不意を突かれたように、スィグルの方に振り向く。 「自分の手を汚したことがない奴に、そんなことを言う資格があるか? 目の前に自分を殺そうとしてる敵がいても、お前はそうやって、ありがたい御講釈を垂れてやるのか? お前達だって、今まで数え切れないほど人を殺してきたんじゃないのか。どう違うんだよ、言ってみろ!」 「もうよせよ。言ったって始まらないだろ」  スィグルの袖を引き、イルスが疲れた声で忠告した。それを振り払って、スィグルはシェルに歩み寄った。怯えているのは見え見えだったが、スィグルが間近で睨み付けても、シェルは唇をかみしめて耐え、いかにも頑固そうな視線を返してきた。  森エルフの衣装である、華やかな長衣(トーガ)をまとったシェルの胸ぐらを、スィグルは手加減無く掴んだ。 「ここで人質をやってりゃ、いつまでも平和がつづくなんて本気で信じてるのか!? お前、馬鹿だよ、何も知らないんだな。この同盟はな、神殿が仕組んだことだ。そうでもなきゃ、戦いは今でも続いていたし、いずれは僕がお前とお前の家族を血祭りにあげることだって、十分あり得たんだよ! これからだって、神殿の都合でいつでも同盟は破棄される。そうなったら、お前も、僕も、イルスも、敵の部族の者としてここで殺されるんだ!! そうじゃないのか、猊下(げいか)? この坊やに本当のことを教えてやったらどうだい」  シェルを突き放して、スィグルはシュレーを振り返った。シェルは無様に地面に転がった。シュレーは目を細め、怒りに高揚しているスィグルの顔を見た。 「次の戦機が訪れるまで、他部族の足を封じる…そのための人質だ。戦端が開かれて、敵対部族となれば、殺すほかないだろう」 「…うそです、そんなの!」  シェルの声は悲鳴のようだった。 「無駄だと思うぞ。勝機があれば、族長は兵をあげるだろう。そのために、死んでも惜しくない者を人質に選んだんだからな」  イルスが、場違いなほど平静な声で言った。 「僕の部族もそうだ。一人の命にかかずらわって、部族全体を窮地に陥れるような馬鹿なまねはしない。それだけの意志があるから、族長になれるんだ」  苦々しい気持ちで、スィグルは父の顔を思い出していた。ひどく子煩悩で、いつも自分に甘い父、リューズ・スィノニム。領地でも、新しい砂牛でも、望めば何でも与えてくれた。スィグルが喜んで礼を言うと、父はいつも、これはお前が自分の命と自由の代償として手に入れたものだと言った。礼など必要ない。お前を襲う運命に対する、ただの購いだ、と。でも、父リューズは一度も、逃げ出しても構わないとは言ってくれなかった。命汚く逃げ延びるよりも、アンフィバロウ家の者として誇りある死を選べと教えられてきた。  もしこのトルレッキオで命を奪われるような事があっても、スィグルはその運命を受け入れる覚悟だった。二度は逃げない。浅ましく逃げ回るのは、もう十分だ。  「家族を見捨てるなんて…どうして、そんなこと考えられるんですか。僕が死ぬってわかってて、それでも戦いを選ぶなんて、僕の家族がそんなことするわけないです! どうして、そんなこと、簡単に言うんですか!?」  シェルはスィグルを睨み付けたまま、泣いていた。簡単に泣く奴だと、スィグルはシェルを蔑んだ。その甘ったれた物言いにも腹が立った。まるで、あの時の自分と同じ。スィグルは言葉を失って、シェルを睨みつけた。  「すでに一度、部族に捨てられたことがあるからだ」  自分のものではない声に、それを告げられて、スィグルは立ちすくんだ。振り向くと、シュレーの冷酷な視線に行き当たった。 「黒エルフ族の族長、リューズ・スィノニムの進軍を止めるため、森エルフ族は傭兵を雇って、スィノニムの息子と妻をさらわせた。彼らは四年間を森エルフの虜囚として過ごし、その後、部族の軍に救出された。スィノニムの妻の名はエゼキエラ。二人の息子の名は、スィグル・レイラスとスフィル・リルナム。森エルフ族は、彼らを地下墓所への生け贄に捧げたと神殿に報告している。君のことだろう、スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。よく生きていたね」 「…知ってたのか」  スィグルは、自分の顔がひきつるのを止められなかった。 「悪いんだが、神殿はいろいろと良く知ってる。各地の神殿が、聖楼城に向けて、定期的に報告を送ってくるからね。その記録を使って、ここに来る前に、私は君たちのことを調べた」  にこりともせずに、シュレーは平然と答えた。 「……全部…知ってたんだな」  何もかも知ってるんだ。そう思うと、スィグルには、自分の手がカタカタと震え出すのが見えた。シュレーは心なしか悲しそうに見える微笑を浮かべた。 「マイオス、先に傷つけたのは君の部族の方だよ。恨みを受け取るべきだ。君たちは、レイラスと彼の弟を拷問にかけて、墓穴に閉じこめたんだ」  シュレーは知ってる。あの暗闇の中、スィグルがどうやって生き延びたのかも、知っているのかもしれない。 「嘘だ…そんなこと知らないです……僕がやったんじゃない。同じ森エルフでも……僕には…どうしようもないじゃないですか…!」  混乱しきったシェルの声が、スィグルの耳をついた。 「レイラスも、同じ黒エルフだというだけで拷問されたんだよ。彼はまだ、王宮から一歩も出たことがなかった。君の同族を一人も殺したことがないし、傷つけたことさえなかったんだ。今の君と同じようにね」  スィグルの足下の小石が、かたかたと揺れながらふわりと浮き上がった。魔法が暴走しかけている。でも、それを制御する方法を、スィグルは思い出せなかった。不意に、イルスの手がスィグルの手首を掴んだ。驚いて視線を向けると、イルスの青い目がじっとこちらを見上げていた。あいつを黙らせてくれ、イルス。スィグルは声にならない声で、イルスに懇願した。  「レイラス、マイオスに背中の傷を見せたやったらどうだい。きっと彼も納得してくれるよ。『砂漠の黒い悪魔の息子にして、おぞましき獣の子、汚濁の中にて死すべし』……君の背中には、森エルフの文字でそう書いてある。森エルフの鉈(マチェテ)で彫られたんだ。マイオス、君は、その痛みと屈辱を思うべきだ」  一見、優しげにも思える微笑を浮かべて、シュレーは言った。スィグルは自分の歯がカチカチと鳴る音を聞いた。 「……殺してやる」  震える舌で、スィグルは呟いた。シュレーは相手が違うだろうと言いたげに、薄笑いを浮かべ、頭を抱えて蹲っているシェルに目を向けた。シュレーに掴み掛かろうとするスィグルの両腕を、立ち上がったイルスが、ごく自然な動作で掴んだ。イルスを吹き飛ばしてシュレーに襲いかかるのは、スィグルにはた易いことだった。だが、スィグルはそれを必死で堪えた。  「他人の秘密をペラペラとよく喋るやつだ」  イルスが穏やかに抗議した。 「レイラスを楽にしてやったんだよ。理由を知らなければ、マイオスはいつまでも彼に付きまとうだろう。そうするにしても、それなりの覚悟が必要じゃないかと思ってね」 「そんなこと、スィグルに自分でやらせれば済むことだ」 「レイラスには、まだ、その勇気はない。私はいつまでも茶番に付き合っていられないよ、フォルデス」 「お前も殴られたいのか?」  困り果てたように、イルスが尋ねる。シュレーが笑って首を横に振った。  「ほ…本当なんですか? いまの話……ほんとうに?」  頭を抱えたまま、くぐもった涙声でシェルが言った。 「僕の部族が……そんなことするわけないです。みんな、いい人ばかりなんだ。いつも、人を傷つけちゃいけないって……教えられてたんです。本当に…みんな、そう言って……」 「お前の……」  こみ上げる言葉で、スィグルの喉が詰まりそうになった。声が震えるのを抑えようと、スィグルは歯を食いしばり、息をついた。 「お前のお優しい同族に聞いてみてくれよ……生きたまま墓穴に閉じこめるのは、傷つけたうちに入らないのかって。それとも僕は人じゃないのか? 獣の子だから、死んでもいいのか? 鞭で打っても、剣で切りつけても、生きたまま獣に喰わせても、少しも気がとがめないっていうのか!? ケダモノなのはお前らだ! お前らの方だ!! お前らなんか、みんな、獣に喰われて死ねばいいんだ!!!」  目を閉じたまま、スィグルは声を限りに叫んだ。言葉を重ねるごとに、なぜか胸が苦しくなった。  不意に立ち上がったシェルが、何も言わずに針葉樹の森の中へ走り去った。スィグルはその足音が遠ざかるのを聞いた。シェルにはねのけられた枝の鳴る音が、遠くの暗闇へと遠ざかっていく。  胸が焼けるような気がして、スィグルはいつまでも顔を上げられなかった。  その後ろ姿がすっかり見えなくなるまで見送ってから、シュレーが疲れたような声で、再び話し始めた。 「レイラス、君は、私やマイオスに何をして欲しいんだい。ここで君に殺されて死ねと言われても、私は困る。確かに、君は不幸だった。それは事実だと思うよ。だが、私もマイオスも、君の不幸には責任がない。憎いというなら、憎むのも君の自由だ。だが、私には私の都合もある。君が自分の都合を主張するなら、私にもその権利があるだろう」 「…そんなもの知るか!」  堪えきれず、スィグルは貯えた魔法の力を、シュレーの足下に叩きつけた。小石と土が弾き飛ばされ、シュレーの体にまともに打ちかかった。しかし、シュレーは目を閉じて顔をそむけただけで、それから逃れようとはしなかった。  「マイオスの言葉を借りるわけではないが、今の私には、世界のこの状況を、どうすることもできない。君の憎しみに、どう報いてやることもできないよ。だが、いずれは、それだけの力をつけて、君の恨みに応えよう。だからそれまで、待ってくれないか?」  神殿で教えを垂れる竜(ドラグーン)の末裔の声だった。シュレーの緑色の瞳を、スィグルは震えながら見おろした。シュレーは、物怖じする気配もなく、まっすぐにスィグルの凝視を受けとめていた。  「……あいつらの指を一本ずつ切り落としてから、地下の穴蔵に閉じこめてやりたいんだ。ずっとそう思ってきた」  かすれた声で、スィグルは言った。 「いずれは、君にそれだけの力をあげるよ。その力を使うかどうかは、君の自由だ。許すのもいいし、君の痛めつけた連中を拷問して殺すのもいい。もし殺したとしても、私は君を非難しないよ。…もちろん、賞賛も、しないが」  スィグルを見つめるシュレーの顔には、石つぶてが付けた細かい傷があったが、それでもお、神殿の祭壇から民を見おろす大神官の趣があった。スィグルは力無く首を垂れた。  「どうして欲しいんだ、猊下(げいか)」 「永遠の友情を誓ってくれ」  こともなげに、シュレーは言った。スィグルは自分の耳を疑った。 「どういうことだよ」 「言った通りの意味なんだが。君のことが気に入ったので、友達になりたいんだよ」 「僕はいやだ」 「それは君の都合だ」  楽しげに、シュレーは反論した。 「詭弁だよ!」  目眩がする思いがして、スィグルは頭を振った。 「そうかな、フォルデスはどう思う?」 「回りくどいし、余計なことをやりすぎだ」  スィグルの腕を掴んだまま、イルスが呆れたように言った。 「僕はあんたが嫌いだ。神殿の犬め。理由はそれだけで十分だろ。よくもそんな事が言えるな!? どうかしてるんじゃないのか!? あんたのジジイが退屈しのぎに弄んでる部族の者にも、家族もいれば、血も流れてるんだ。お前らの神殿なんか、みんなブッ潰してやる!」  激昂して、スィグルは喚いた。 「そうか……私もそう望んでるよ、レイラス」  ひどく満足げに、シュレーが満面の微笑をたたえた。スィグルはふと毒気を抜かれる思いがして、神々しいシュレーの微笑に見とれた。  その時、地を震わすような音が聞こえた。それは、何かの哭(な)く声のようだった。地の底からわき上がるような響きで、それは、ファーーーーンと長い声をあげた。  「なんだ…この音?」  辺りを見回して、イルスが言った。しかし、シュレーは大して動揺する風もなく、足下の地面を見おろしただけだった。 「竜(ドラグーン)だ。哭(な)いている」  何もかも知り尽くしているのかと思わせる言葉で、シュレーが言った。 「学院の地下には、竜(ドラグーン)が棲んでいるという伝説がある。時折聞こえるこの声は、その竜の哭く声だと言われている。誰もその竜を見たことがないが、なぜか竜がいることを疑わない」  シュレーの言葉に応えるように、竜がまた哭いた。何かを探し求めてさまよっている姿を思わせる、悲しげな声だった。哭き声が聞こえるたびに、地面の下で、大量の空気が震える気配がした。山肌の岩盤の下には、大きな空洞があるようだった。  「そうだ…君が約束してくれたら、私の秘密も教えると言っていたな、レイラス。知りたいかい?」  額から流れ落ちた血の滴をふき取って、シュレーはスィグルを見つめた。スィグルは、シュレーと約束したつもりはなかった。彼は世界を滅ぼすつもりだという。そのついでに、森エルフを虐殺させてやってもいいと言いたいのだろうか。  竜の声は、自分たちの真下から聞こえてきているようにさえ思えた。スィグルが言葉を覆さないのを確かめて、シュレーは満足そうに笑った。  短衣(チュニック)を脱ぎ、シュレーはおもむろに片肌をさらした。月明かりとは違う、淡い光が、心持ちうなだれたシュレーの背中からこぼれ、一対の白い光の束が、その中から立ち上がった。ゆっくりと吹き上げる光の帯は、見る間に固まり、淡く透ける塊となっていく。  成長を終えたそれは、まるで大きな鳥の翼のように見えた。シュレーが森の夜空に一対の白い翼を伸ばすのを、スィグルは信じられない思いで見守った。スィグルの腕を掴んでいた手がゆるみ、イルスが息を呑むのが聞こえた。  鳥の羽ばたきに似た音をたてて、かすかに向こう側が透ける純白の翼が震えた。ため息をついて、シュレーが顔をあげた。片肌を脱いで、背中の白い翼を拡げた姿は、まさに神殿の壁画に描かれた、天使の絵姿と酷似していた。  神聖神殿の祭壇の奥の壁には、かならず、28人の天使の姿が描かれている。物心付いた子供が、神官から、まず最初に憶えさせられるのは、この天使達の名前だった。スィグルも、タンジールの王宮内にある神殿で、呪文のような響きのする耳慣れない名前をいくつも憶えさせられたものだった。たった一度教えられただけの難解な名前を、スィグルが全部暗記してしまったと聞いて、父リューズは新しい領土でも手に入れたように喜んでくれた。あれは幾つの時だったのだろうか。  星々の声聞く者ノルティエ・デュアス、炎抱く守護者アズュリエ・カフラ、虚ろなる祈りの記録者サフリア・ヴィジュレ…。どの天使たちも、神官とよく似た衣装をまとい、その背には、巨大な純白の翼を広げた姿で描かれていた。その厳かな壁画の一番はしに、胸を矢で射抜かれて倒れた姿で描かれている天使の名は、静謐なる調停者ブラン・アムリネスといった。シュレーがその名に帯びる官職の名と同じ、神殿が守り伝える伝説の中に登場する、天の使いの名だ。  スィグルの目の前で、大きな純白の翼を広げたシュレーの姿は、ブラン・アムリネスを名乗るのに相応しいものに見えた。  「…は…羽根が……」  驚きのあまり、スィグルの舌は上手く動かなかった。それを見て、にやっと嫌味ったらしく微笑するのは、いつもと変わらないシュレーだった。簡単な手品に引っかかった子供を見て喜ぶように、シュレーは立ち尽くしているスィグルとイルスを交互に眺めている。  「神殿の一族の秘密さ。門外不出なんだ、秘密にしてくれるね。でも、これで解っただろう、神殿の白羽の紋章の理由が」  紋章と似た形になるように、シュレーは翼を開いて見せた。もう頷く他はなかった。 「近々、この翼は切り落とすことになっている」 「切り落とす…?」  イルスがやっと絞り出したような言葉で、口を開いた。 「神殿の一族は、神殿を出る時に、翼を切り落とすのが掟だ。これが神聖神殿の血を受けたという証拠だからね。私の母は、神殿を出て私を産み落とすために、翼を切った。だから私も同じようにする。そうでもしなければ、この血から逃れることができないんだ。それに…どうせこの翼には意味がない。山エルフの血が半分混ざったせいで、私の翼は役に立たないんだ。小さすぎて、飛べないからね」 「神官たちは、みんなそうなのか? 翼を持っていて、飛べるのか?」  ほの明るい光を放つ翼に、イルスは手をのばした。シュレーは特に嫌う様子もなく、翼を広げ、イルスに触れさせた。 「血族ならばね。この翼で飛べることが、大神官になるための第一条件だ。だから、私には無理なんだよ。いくらお祖父様が私を気に入っていてもだ」 「だから…一族を捨ててきたのかい」  スィグルが尋ねると、シュレーはにやっと笑った。  また竜が哭いた。ファーーーンと高らかな声が、地下のうろに響きわたっているのが分かる。  「そうさ。いつまでも続く茶番には耐えられない。道が塞がっているなら、それを切り拓くのが私の信条なんだ」  翼をのばして、シュレーはスィグルの頬を撫でた。羽毛に似た感触のするそれは、暖かかったが、ただの光の塊のようにも見えた。  柔らかく暖かな翼で触れられると、心の奥底にある何かが癒されるような気がした。スィグルは伏し目がちになり、今も淡い光をこぼれさせている白い翼に頬を押し当てた。  くすくすと子供が忍び笑いするような声が、スィグルの耳元で聞こえた。とても密やかなその笑い声は、神聖な響きに満ちていた。これは確かに、つい半時前、世界を滅ぼす魔法の話を自分に囁きかけてきたのと同じ、不思議な声だった。そう思って視線をあげると、そうだよとでも言いそうな顔をしたシュレーと目があった。  再び目を細めて、スィグルはため息をついた。あの声はきっと、この翼が伝えてきたものだ。子供の頃、スィグルを神殿の奥に連れていった神官にも、これと同じ翼があったに違いない。名前をもらった時の記憶に残る、白く光る暖かい何かで触れられる感触を、スィグルはぼんやりと思い出した。  「本当なら、フォルデス、君には秘密にしておこうかと思っていたんだよ。でも、秘密には、秘密をもって購うのが神殿の礼儀でね。私は、竜の涙を見たのは初めてだ。神殿にも知らないことはあるらしい。満足だよ」  面白そうに言って、それを最後に、シュレーは翼をたたんだ。見る見るうちに輪郭が溶けていき、小さく縮んだ白い光の塊が、シュレーの背中に戻っていく。短衣(チュニック)を着付け直して、シュレーは小さく伸びをした。  「できたら、フォルデス、君に私の翼を切り落としてもらいたいんだが」 「冗談はやめろ」  身震いして、イルスは即答した。 「君の腕を見込んで頼んでいるのに」  シュレーが微かに笑った。  スィグルは、目の前の不思議な少年の数奇な運命を思った。彼はまだ、本当の意味では神籍を捨てていなかったのだ。スィグルは、大人びて、おさまりかえった風なシュレーの心の中にある逡巡を見た気がした。  「それじゃあ、レイラス、君はどうだい。森エルフの指の代わりに、私の翼を切るのでは、満足できないかな」  白系種族の頂点に君臨する神殿の一族から、純白の翼を切り落とす自分を、スィグルは思い描いてみた。それこそまるで、おとぎ話の中の出来事のようだ。だが、竜(ドラグーン)の哭く夜には、どんなことも不思議ではないような気がした。  翼を切り落とされれば、それは生涯消えない深い傷として、シュレーの体に残るだろう。そして、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスの名は葬られる。その代わりに、彼が何を手に入れようとしているのか、スィグルには分からなかったが、スィグルの憎しみを購うためには、そう悪くない代価のように思えた。  「…いいよ。切ってやる」  静かな心で、スィグルは取引きに応じた。イルスが肩をすくめ、シュレーが満足げに微笑した。 「それまでに剣の腕を上げておいてくれ、レイラス。手元が狂って命まで取られるのはご免だ」 「いつ、やるんだい」 「君の準備ができたら、すぐにでも」  微笑みながら、シュレーが答えた。すでに覚悟は固まっているらしかった。  「だったら、もうしばらく待たせることになりそうだよ。なにしろ僕は、剣の使い方をまだ知らないんだ」  にやっと笑って、スィグルは言った。 「…そうか」  意外そうに答えるシュレーの顔は、心なしか引きつっていた。 「どうしても待てないっていうなら、今ここで挑戦してみてもいいけど?」  真面目な顔で、スィグルは尋ねた。シュレーが苦笑した。 「いや…やめておこう」  竜(ドラグーン)は、まだ哭き続けていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-19 : 月と星の船 -----------------------------------------------------------------------  部屋に戻ると、イルスは物思いに沈んだ風に、居間の窓から学院を囲む針葉樹の森を見おろした。山エルフ風の家具と敷物があるだけの、質素な室内には、灯心を焦がしてゆらめくランプの灯だけがともっていて、いっそ月明かりのある屋外の方が明るいように思えた。  竜(ドラグーン)の哭く声だという、例の音は、まだ時折思い出したように続いていた。防壁のあたりで聞いたほどの大きさではないが、耳をすますと、夜気を震わせて響くかすかな声が、風に乗ってやってくる。本当にこれは竜(ドラグーン)の声なのだろうかと、スィグルは考えるともなく、おとぎ話の中から現れた生き物の存在について思い巡らせた。  「竜(ドラグーン)はこの世界で一番古い血を持つ生き物で、この世の始まりから終わりまでのことを、何もかも知っているって言うよな」  外の景色を眺めたまま、イルスが話しかけてきた。長椅子に座りかけていたスィグルは、イルスの言葉を聞いて、立ち止まり、海エルフの少年の後ろ姿を眺めた。淡い緑のシャツに、濃い茶の短衣(チュニック)を合わせた、山エルフ風の制服は、彼にはあまり似合っていなかった。おそらく自分にも、この制服は少しも似合わないのだろう。スィグルはさっさと自分の部族の衣装に着替えたかったが、イルスは誰かと話したがってるように見えた。あきらめて、スィグルは窓辺に歩み寄った。  「竜のことは良く知らないよ」  月明かりに照らされた森を見おろし、スィグルはぼんやりと答えた。イルスが話したがっている話題は、別のことのように思えた。 「あいつは本当に竜(ドラグーン)の末裔かもしれないな。何でも知ってて、本心がわからない。まるで竜みたいだ。俺たちとは、どこか、まるっきり違うところがある気がする」  窓枠に肘をつき、イルスは身を乗り出すようにして、学寮の真下の地面を見おろしている。 「あいつっていうのは、シュレー・ライラルのことかい」 「ああ」  スィグルは、今は額冠(ティアラ)で隠されているイルスの額に、無意識に目をやっていた。どちらかといえば、イルスの方がよほど竜(ドラグーン)に縁があるように思えた。神殿が彼に与えた洗礼名は、フォルデス、竜の心を知る者の意味だという。そのイルスが、竜の心はまったく分からないと言う。スィグルはそれが、なにやらおかしいような気がして、静かな笑いに唇を歪めた。 「そうかな。僕には、だんだん分かってきたけど?」  スィグルがもっともらしく言うと、イルスが珍しくにやりと笑った。 「さすがは永遠の友情を誓っただけのことはあるな」 「そんなもの誓った憶えはないよ。僕が約束したのは、あのご大層な翼をちょん切ってやるって事だけさ」  くすくすと笑いながら、スィグルは答えた。  「スィグル、お前は本当に、あいつの翼を切り落としてやるのか?」  イルスは、スィグルにそれを思いとどまらせたい様子だった。イルスはきっと、シュレーの政治的な立場云々よりも、純粋にあの白い翼を惜しんでいるのだろう。 「あんなもんでも、切れば血がでるのかな。やっぱり痛いんだと思う?」  意地悪く、冗談めかしてスィグルは言った。イルスが露骨に顔をしかめる。 「それは…腕や脚を切るのと同じじゃないのか。痛くも痒くもないようなものだったら、あいつ、もう自分で切り落としてそうだ」 「それは言い得た話だね。さすがの猊下(げいか)も、痛いのは怖いってことかな。先にイルスに頼むあたり、どうせ痛い目みなきゃならないなら、せめて一刀で落としてほしいって思ってるのが見え見えだよね」  小気味よい気分で、スィグルは喉を鳴らして笑った。イルスがそれを咎めるような視線を、こちらに向けた。  「お前な、ほんとに悪趣味だぞ。他人の痛みに無頓着っていうか…面白がってるだろ?」 「…そうかもしれない。昔はもっと違ったんだけどね。世の中があんまり僕の痛みに無頓着だから、それに復讐したいのかもしれない」  イルスをからかうつもりで言った言葉に、スィグルは自分の胸を打たれた。確かにそうだと思った。単に自分は腹いせをしたいだけなのだろう。イルスがうっすらと顔をしかめ、憐れみに似た表情を浮かべるのを見て、スィグルは複雑な気分だった。  こういう目で見られたくないと思って、イルスには何も教えないつもりにしていたのに、結局、他人の口から何もかも暴露されてしまうというのは、格好のつかない話だ。  だが、シュレーが言うように、こうやって同情されるのは、なかなか心地のいいものだった。そう思っている自分に、スィグルは呆れた。  「イルス…君は、死ぬことに意味があるなら、潔く命を捨てる覚悟みたいだけど、僕にはそんなことはできない。命が惜しいんだ。死ぬのは怖い。僕が生き続ける事には何の意味もなくて、今ここで死ねば沢山の人の役に立てるってわかってても、僕はきっと、自分の命を惜しいと思っちゃうんだよ」  湿った暗闇の中で、自分の死から逃げ回っていた時のように。スィグルは、すぐにも甦りそうになる恐怖の記憶を、心の底に押し込めるため、一呼吸した。 「どうやったら、君みたいになれるんだろうね。死を恐れないように…」  イルスの青い目を覗き込んで、スィグルは本心から尋ねた。イルスがその問いの答えを知っているような気がしたのだ。だが、海エルフの少年はあっさりと首を横に振った。 「俺も死ぬのは怖い」  軽い驚きのため、スィグルは一瞬、沈黙した。 「じゃあ、どうして生き延びる方法を考えないの。予言の通りに死んでも構わないなんて、矛盾してると思うけど」 「…そうだな。うまく説明できないけど……将来、自分が何のために死ぬことになるのかなんて、今は想像もつかないだろ。でも、もし、それが命に代えても守りたいと思うもののためなんだったら、それはそれで満足のような気がするんだ。満足して死ねるんだったら、俺は、それも悪くないかなと思う」  イルスの言いたがっている事は、なんとなく理解できる気がした。スィグルは伏目がちになって夜空を見上げた。 「自分の命より大切だと思えるものを持ってるっていうだけでも、特別なことなんじゃないかな。僕には、そんなものはないよ。いつだって自分がいちばん大事なんだ。そうじゃないって思おうとした時もあるけど、でも僕は、追い詰められると、いつも、どうやったら自分がうまく生き延びられるかばかり考えてしまうんだよ」  森の墓穴の中でも、ずっとそうだった。自分に都合のいい事ばかり考えて、目の当たりにしたくない事からは目を背けようとしていた。数知れない美しい言い訳を考えたところで、自分自身の卑怯さを誤魔化しきれるはずもない。  スィグルが微かなため息をつくと、イルスが窓枠に頬杖をつき、ぽつりと言った。 「師匠が、答えを急ぐなと言っていた。この世に生まれ落ちたばかりの小僧に、死の意味などわかるものかってな。俺が死ぬ日までは、まだ時間があるみたいだから、それまでに答えを出すよ。考えようによっては、この先何年かは生きてるっていう保証があるぶん、明日どうなるわからないより、マシなのかもしれないしな。お前にだって時間はあるだろ。しばらく考えてみたら、案外、それなりの答えが見つかるかもしれないぞ」 「なんで、そんなに前向きなのさ」  感心して、スィグルは言った。ほめたつもりだったのだが、イルスはなぜか苦笑した。 「後ろ向きだと、俺にはツイてないことが多すぎて、惨めな気分になるからだ」 「そういう事なら、僕もそうだな。ここ数年、ろくな事がなかったよ」  イルスの苦笑の意味がわかって、スィグルも思わず苦笑いした。  イルスが不意に肩を落として、スィグルに向き直った。 「殴ったのは悪かったと思ってる。行き過ぎだった。すまない。お前のこと、何も知らなくて、無神経だった」  イルスが頭を下げるのを、スィグルは呆気にとられたまま見送った。 「よ、よしなよ、王族はそんな簡単に頭を下げるもんじゃないって習わなかったの!?」  ハッとして、スィグルはイルスをとがめた。顔を上げたイルスは、困惑の表情を浮かべていた。 「明日の自分に今日のことを恥じないように生きることが大切だと師匠には教えられたけど、俺は毎日、後悔ばかりしてる」  目を細めて、スィグルはイルスの顔を見た。 「……いいよ。イルスが悪いわけじゃない。僕も、どうしたらいいか分からないんだ。ごめん…もうしないよ」  うなだれて、スィグルは詫びた。イルスと話していると、自分が何をそんなに憎んでいるのかさえ、分からなくなりそうな気がして、スィグルは急に情けない気分になった。  イルスから目をそらして、スィグルは窓枠に頬杖をついた。そして、恐ろしい暗闇のことや、イルスの額に埋まっている「竜の涙」のこと、シュレーの白い翼のことなどを、脈絡もなく次々と回想した。  「シェルを許してやる気はないか?」  イルスがぽつりと尋ねてきた。少し考え込んでから、スィグルは首を横に振った。言い淀んでいた間に、自分が何を考えていたのか、スィグル自身にもわからなかった。今夜のことがなければ、そんな気はないねと即答できただろうと思うと、スィグルは複雑な気分だった。  僕のせいじゃないのにと泣きわめいていたシェルの顔が、スィグルの脳裏に浮かんだ。たぶん、その気持ちを一番深く理解できるのは、自分のような気がした。  スィグルも、僕のせいじゃないのにと、泣き叫んだことがあった。森の地下の暗闇の中で。でも、それを聞いてくれた者は一人もいなかった。だから、シェルの慟哭を聞いてやる義理はない。他にいくらでも、シェルの言い分を聞いてくれる者がいるだろう。そいつらに慰めてもらえばいい。それが自分である必要などないと、スィグルは何度も繰り返し考えた。そんな必要など、どこにもない。  スィグルが夜空を見上げると、真北の空に、微動だにしない『母なる星(パスハ)』が青白い輝きを放っていた。 「あの星のこと、どうして『母なる星』って呼んでるのか話してもいいかい?」  考えもしなかった言葉が、スィグルの口を衝いて出た。イルスが頷くのを見て、スィグルは不思議な気分だった。自分はなぜ、そんなことを話したがっているのだろうかと、不思議だったのだ。 「僕の部族に伝わる古い言い伝えでは…この世界の生き物はみんな、あの星からやってきたんだ。月と星を巡る船に乗って…」  子供の頃、なんども聞いた物語を、スィグルは耳元に母の語る声が聞こえるほど鮮明に思い出していた。 「いつか僕らは、月と星の船に乗って、パスハに帰る。麗しの故郷へ。僕らをこの世界に連れてきたその船は、今も、この世界のどこかにあるんだよ。僕らはみんな、その船が運んできた、同じひとつの種から生まれた兄弟だったんだ」  恐らく、彼が初めて耳にするだろう、その話を、イルスは不思議そうに聞いている。砂漠の部族は、神聖神殿が大陸全土を支配する以前から、この物語を口伝てに伝えてきたのだ。母が枕辺で、いつまでも眠つかない子供のために、語って聞かせる寝物語として。 「白い卵も、黒い卵も、僕らの部族の言い伝えにはない。そんなもの、はじめから無ければよかったんだよね。もしそうだったら、誰も僕らのことを、卑しい部族だなんて言わないよ。だって…本当に何も違わないんだから。ほんの少し、見た目が違ってるだけだもん」 「…そうだな」  イルスがひっそりと答えた。天上の『母なる星(パスハ)』はとても小さく、しかし明るく輝いていた。 「僕は、大人になったら、月と星の船を探しだそうと思ってた。そうすれば、僕らが同じ種から生まれたんだって、みんなが納得してくれるんじゃないかと思ったんだ」  タンジールの王宮深くで温々と暮らしていた子供の頃を思い、スィグルは泣き出しそうな気分だった。月と星の船を探すと言うと、母上はいつも困ったように笑って、あまり遠くに行ってはいやよ、スィグル、と言い、瞼に接吻してくれた。髪を撫でてくれた母上の白い手には、ちゃんと指が全部そろっていた。指輪をはめた、細くて綺麗な指が5本ずつ。つややかに磨かれた爪には花の文様が描かれていて、いつも、擦り込まれた香油の甘い匂いを漂わせていた。  「でも…きっともう、僕には船を見つけられないと思う。そんなものが、どこかに本当にあるって事を、信じられなくなったんだ」  スィグルの背中の古傷が、じくじくと痛んだ。スィグルは、パスハを見上げるのをやめた。 「僕にその話をしてくれた母上だって、もう、そんなことは信じていないと思う」  スィグルは、うつむいて、眼下の森を見おろした。微かに光るものが、針葉樹の森に向かっていくつも落ちていくのが見えた。耳飾りでも壊れてしまったのかと思ってから、スィグルはやっと、それが自分の涙だと気付いた。  かすかな光の粒は、降り注ぐ雨のように、ポタポタと次々に落ちていった。森の穴蔵から救い出された時も、タンジールの夕陽を再び目にした時も、決して溢れ出るこのとなかった涙が、なぜか急に、スィグルの目からこぼれ落ちていた。  「…僕があいつらを許したら、母上が可哀想だ」  こみ上げる嗚咽を堪えると、どうしようもなく息がつまった。窓枠にもたれて顔を覆い、スィグルは湧き上がってくるやり場のない感情を、やり過ごそうとした。 「母上も、スフィルも、僕も、蔑まれたり、なぶり殺されるために生まれてきたんじゃない。何も悪いことなんかしてない。なのに、あいつら、母上を酷い目に……。許せない。許せないよ。僕は、あいつらを許しちゃいけないんだ。許しちゃいけないんだ。母上も、スフィルも、もう幸せになれないのに、どうして僕だけが……無事に戻ってきて………」  思いを吐き出してしまうと、力が抜けて、スィグルはずるずるとその場に座り込んだ。泣きわめく子供と何も変わらなかった。喉を衝く嗚咽を押し殺すため、スィグルは顔を覆う手に力をこめた。 「どうして僕は……潔く死ねなかったんだろう。生き残っても、いいことなんか一つもない。かげで笑い者にされるだけなのに……どうして死ぬのを恐がったりしたんだろう。スフィルは何度も、死にたいって言ったんだ。でも僕は怖くて……」  イルスは何も答えなかったが、スィグルがそこにいる限り、いつまでも側を離れようとしなかった。スィグルと同じように、窓辺の床に脚を投げ出して座り、イルスはただ黙ったままで、そこにいた。  時折、竜(ドラグーン)が哭(な)く声が聞こえた。竜はいったい、何を哭(な)いているのだろうかとスィグルは思った。ただ嘆くほかにできることもない、無力な生き物のことを想うと、胸が締めつけられるようだった。  「お前が悪いんじゃない」  不意に、イルスがぽつりと言うのを聞いて、スィグルは顔をあげた。どれほどの時間が過ぎたのか、それとも、ほんの少ししか経っていないのか、分からなかった。  「船を探せよ。お前は、見つけられる」  独り言のように言うイルスの目は、どこか遠くをぼんやりと見ているようだった。 「お前が生きてるのは、そのためだ」 「イルス…」  涙の気配の残る声で、スィグルは横にいる海エルフの名を呼んだ。 「それから、今の話をみんなに教えてやれ」  自分の額冠(ティアラ)に触れて、イルスは目を閉じた。 「……未来視したの?」  スィグルが問いつめる口調になるのを聞いて、イルスは目を開き、にやっと笑った。 「いいや、当てずっぽうだよ」  笑いながら、イルスは言うが、それが嘘だということを、スィグルなぜか確信していた。イルスの額に埋まっている「竜(ドラグーン)の涙」は、今では額冠(ティアラ)に隠されていて、見ることができない。だが、それが今も、イルスの脳髄に根をはり、命を吸い上げていることを、スィグルは漠然と思った。  なぜイルスは海エルフなんかに生まれたのだろうかと、スィグルは悔しかった。砂漠に住む同族として生まれていれば、彼は、災いを呼ぶ者として一族から遠ざけられることもなく、偉大な魔法戦士として尊敬され、栄華を味わい、部族の戦史に名を残したかもしれないのに。魔法に無知な部族に生まれたばっかりに、謂れのない迷信を押しつけられ、その挙げ句、こんなところで、どうでもいような未来を視るために、命を無駄に削っている。  「あ…ありがとう…イルス」  小声で言い、スィグルは抱えた膝に顔を埋めた。イルスがおかしそうに笑う低い声が聞こえたが、なぜか、少しも腹が立たなかった。               ---- 第1幕 おわり ---- _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2004 TEAR DROP. 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