=================================== カルテット 第2幕 =================================== -----------------------------------------------------------------------  1-20 : 毒殺師 -----------------------------------------------------------------------  海エルフ族の族長が宮殿をかまえる海都サウザスは、豊かではあるが小さな都市だった。港ばかりが海に張り出し、三角帆を張った大型船が十数隻も停泊している。そのうちの大半は、大陸産の宝石や織物などの奢侈(しゃし)品を積み込み、遠く外海を渡って、隣の大陸へと向かうものだ。一年におよぶ航海ののち、大型船は別の世界からの貿易品を満載して戻ってくる。帰路の主な積み荷は、紙だった。  エルフ諸族の生まれ故郷である、この広大な大陸では、製紙技術が途絶えて久しい。羊皮紙ならば、内陸の山岳部でかろうじて生産されているが、植物の繊維を使ってつくられる紙は、すべて隣の大陸から輸入されたものだ。公式文書や贅沢な貴族達の使う紙は、例外なく、海を渡ってもたらされた奢侈(しゃし)品だった。  この紙貿易の生み出す富により、海エルフ族の財政のほぼ8割方がまかなわれていた。海の向こうからやってくる財で、彼らは船をつくり、都市をつくる。  黒エルフ族の族長、リューズ・スィノニムは、白漆喰の壁を抜いて透かし模様を施した華麗な窓から、遠くの水平線に消えようとしている船影を見つめていた。青々とした海を照らす太陽の輝きは、闇に適応した黒エルフの目には、いささか眩しすぎる。目を細め、リューズは顔に手をそえて影をつくった。紺碧の海の色は、確かに海エルフたちの瞳の色を思わせる。  交易の契約のために、族長リューズが海エルフ族の都を訪れるのは、毎年の恒例行事だった。黒エルフ族の求める主な物産は、海辺でつくられる塩だ。砂漠の地下で掘り出される岩塩だけで、部族の民を潤すには限度がある。内陸の奢侈品を求める海エルフ族と契約し、いくらかの宝石や絹織物と引き替えに、塩を得るのが、リューズが族長の額冠(ティアラ)を引き継いで以来の慣習だった。  契約のための話し合いは、使者を送って済ますこともできるが、リューズは海を見るのを好み、よほどのことがなければ、いつも自ら足を運んでいた。長年の盟友である、海エルフの族長ヘンリックと顔を合わせるのも、長旅の楽しみの一つだ。  「今年の塩だ。契約書に署名を」  背後で聞こえた声に、リューズは振り返った。黒檀で作られた異国風の長机の上には、何枚もの書類が広げられていた。その中の、たった一枚を買う金で、つつましい部族の民が、10日は家族を養える。  長衣(ジュラバ)の裾を優雅にさばいて、リューズは机に歩み寄った。 「ヘンリック、貿易は楽しいか」  椅子に腰をおろし、リューズは向の席から羽根ペンを差し出す海エルフの族長に意地悪く笑いかけた。ペンを手渡し、ヘンリックが苦笑した。浅黒い額に、海エルフ族の族長であることを示す、紺碧の額冠(ティアラ)がよく映えている。族長の額冠(ティアラ)は、海エルフでも代々同じ品を受け継いでいるはずだが、それはまるで、ヘンリックのためにあつらえた物のように思えた。 「楽しいわけではない。だが、この貧しい部族が生き延びるには、いろいろとコツがいる。お前達と違って、砂漠の底から飽きるほど宝石を掘り出せるわけではないからな」 「それはヒガミか。だから塩の値を釣り上げるのだな。悪徳なことだ」  契約の書類を眺めながら、リューズは大仰に嘆いて見せた。 「値切っても無駄だ」  勝手を知っている顔で、ヘンリックは笑っている。以前は簡単に動揺していた武人あがりのこの男も、今では立派な商売人ということか。リューズはつまらなく思ったが、文句を言うのはやめにして、大人しく自分の署名を書き込んでやることにした。  「所定の期日に港へ船を着けろ。間に合うように隊商(キャラバン)を送る」  荷物の引き渡しは、二つの部族が領境を接する港町で行われる予定だ。そこから先、塩を詰めた革袋は、数十頭の砂牛を連ねた隊商(キャラバン)に引き継がれ、いくつものオアシスを経由して、砂漠の都タンジールにたどり着く。 「隣大陸から、大粒のサファイアをそろえろという注文がある。手持ちがあれば、荷物にそれを混ぜてくれ。屑は掴ませないと信じてるぞ、リューズ」  後ろで控えていた侍従に書類を渡しながら、ヘンリックが冗談めかせて言った。まだ子供のようにも見える侍従は、緊張した面もちで紙束を受け取った。青い目の少年は、リューズと目が会うと、哀れなほど狼狽(うろた)え、慌てて部屋を出ていった。不調法な侍従だ。大方、貴族嫌いのヘンリックが、平民の子を取り立てたのだろう。ヘンリックには昔から、身分の低い者の中から頭角を顕した逸材を重用し、身近に置くのを好む癖がある。客の前で醜態をさらす侍従を好き好んで使う気持ちが、まったく理解できなかったが、リューズは、敢えてそれには触れないことにした。  「損はさせない。お前に恨まれると、砂の混じった塩を売られるからな。そんなことになったら、俺の民が哀れだ。塩なしで生き延びるには、砂漠の夏は暑すぎる」  大仰なため息をつき、リューズは胸が痛むというように、自分の心臓を覆ってみせた。ヘンリックがあきれたような顔をする。 「人聞きの悪いことを言うな。その噂を流したのはお前だったんだな」 「商売をするなら、悪名の一つや二つは勲章だぞ、英雄殿」 「お前の言うことをいちいち真に受けていたら、身が持たん」  打ちひしがれた様子で首を振るヘンリックを見て、リューズはほくそ笑んだ。からかい甲斐のある奴だ。なんでも真に受ける朴訥なところが、たまらない。もう、かなりの年月を盟友として過ごし、そろそろリューズのからかい癖にも慣れてきそうなものだが、ヘンリックは、それに関してだけは、相変わらずの様子だ。  リューズが初めてヘンリックと会った時、彼はまだ族長ではなかった。もう、すでに20年近く昔のことになる。  黒エルフ族の前族長であった父が早逝し、若くして族長の額冠(ティアラ)を受け継いだリューズとは違って、ヘンリックは平民出の成り上がり者だった。一兵卒の身分でしかなかったヘンリックは、現族長の落胤(らくいん)だとかいう触れ込みで、海エルフ族の有力貴族であるバドネイル家の後援を受け、正式な決闘によって、海エルフ族を統べるための紺碧の額冠(ティアラ)を手に入れたのだ。  それまでにも、何度か海エルフ族と同盟を結んだことがあったため、リューズはバドネイル家の家長と懇意だった。当時の族長が不治の病に倒れたのを好機と見たバドネイル家は、自分たちに都合良く動く傀儡(かいらい)の次期族長を用意して、その者を推すようにとリューズに頼み込んできた。その時に引き合わされた、バドネイル家お気に入りの人形というのが、ヘンリックだったのだ。  バドネイルは、ヘンリックに入れあげていた。確かに、当時のヘンリックには何か尋常でないカリスマのようなものがあった。必要なものを掴みとるためには、何の迷いも見せない男だった。バドネイルは箱入りの一人娘をヘンリックに与え、ありとあらゆる後押しを惜しまなかった。それゆえ、平民出のどこの馬の骨とも知れないヘンリックを、黒エルフ族の族長であるリューズに引き合わせるような真似までしてのけたのだ。  だが、結局、リューズがバドネイル家の傀儡を後押ししてやることはなかった。当時のヘンリックの、野心と飢えを知る瞳の鋭さを見て、そんなものは必要がないと思ったのだ。放って置いても、この男は族長になるような気がした。そして、それは間違った判断ではなかった。  彼はバドネイルの思惑通り、当時の族長を決闘によって倒し、その後にうち続く挑戦者をも、一人残らず打ち負かした。部族で最強の者を族長として迎えるのが、海エルフ族の建て前だったが、族長の額冠(ティアラ)が、世襲でなく受け継がれるのは、実に十数代ぶりの出来事だった。  額冠(ティアラ)を賭けた決闘では、対戦者のどちらか片方が命を落とすまで戦う作法だ。ヘンリックは闘技場の白い砂に、68人の対戦者の血を吸わせた。リューズはその戦いの見届け人として招待され、一兵卒あがりの男が血塗れの額冠(ティアラ)を掴み取るのを見た。バドネイル家の貴族たちが、おのが栄華を確信し、歓声をあげるのも聞いた。  しかし、ヘンリックは出来の悪い人形だった。彼は、バドネイルの傀儡としては働かなかったのだ。結局のところ、湾岸の大貴族バドネイルですら、ヘンリックが掴み取ったものの一つでしかなかったのだ。  ヘンリックが族長として最初にやった仕事は、遷都だった。貴族の邸宅が居並ぶ大都市バルハイから、この小さな港町サウザスに首都を移したのを皮切りに、ヘンリックは、湾岸貴族たちの権勢を矢継ぎ早にはぎ取っていった。そして、その被害を受けた貴族の中には、バドネイル家の者も含まれていた。  「湾岸には貴族など一人も必要ない」というのが、あの頃のヘンリックの信条だった。その湾岸貴族の権力によって族長に推された男が、それを言うのかと、リューズはおかしく思ったものだった。強い勢力を持つ貴族社会からの風が、ヘンリックにとって、苛烈な向かい風であることは、あまり良い状況とは言えない。ヘンリックを支えているのは、貿易による富と、部族の民の強い支持だけだった。単に民に愛されているだけで、族長がつとまるものではない。貴族たちを恐れないのは、権力者の腹を食い破って族長におさまった平民ならではの愚かさだったろう。  湾岸の貴族達は、奪い去られる権力を取り戻すことはできなかったが、ヘンリックにその愚かさの代償を支払わせる事には成功した。彼の愛妾を毒殺したのだ。  それは、ヘンリックにとって、あまりにも高価な代償だったといえる。妾妃の死のわけを、自らに求めて苦悩する盟友が、思いあまって命を絶つのではないかと、リューズは当時、本気で心配してやらなければならなかった。長年、懇意だった湾岸の大貴族たちを見限ってまで、平民出の族長の肩を持ってやったのだ。野心と才覚を見込んで、力を貸してやったのというのに、そう簡単に英雄伝説を終わりにされては、黒エルフの族長位を賭けるほどの大博打に、負けが出てしまう。  真夏の熱気に腐りゆく女の死体を抱いて、ヘンリックが閉じこもってしまったという話を、部族の隊商(キャラバン)から聞いた時には、ヘンリックが発狂したものと思い、リューズは彼には珍しい焦りようで、海都サウザスに駆けつけたのだった。政治的に都合のいい盟友を失いたくないという打算もあったが、それよりも、ヘンリックにはどこか、世話を焼きたい気分に他人を陥れるような所がある。そもそも、その性質のおかげで、かつては大貴族バドネイルの目にとまったわけだから、リューズひとりが躍らされていた訳でもなさそうだった。  周りの心配をよそに、ヘンリックはある日突然、正気を取り戻し、生者の世界に戻ってきた。彼に仕えていた者たちは、一様に胸をなでおろしたが、リューズはヘンリックが以前と違ってしまったのを感じていた。ヘンリックはやけに人当たりが良くなり、貴族たちをさほど追いつめなくなった。そして、リューズの前では、時折、無意識に疲れたような顔をするようになった。  リューズは、ヘンリックの意図を尋ねた事はなかったが、彼がなぜそうなったのかは、漠然と理解できているつもりだった。ヘンリックは、妾妃の忘れ形見である子供らを殺されるのではないかと恐れているのだ。ヘンリックの愛妾は、二人の男児を挙げ、三人目をはらんだまま、夜会の杯に盛られた毒のために死んだ。遺された二人の息子だけは、何としても守りたかったのだろう。命の他には、何も失うものはないと信じていたヘンリックは、妾妃を殺されて初めて、自分に弱点ができていたのに気付かされたのだ。  時折、ヘンリックが見せる不思議な疲労感と同じものを、リューズは別の場所で何度も見たことがあった。戦場で瀕死の傷を負い、死を待つばかりの味方の兵が、とどめの剣を与える自分を、それと同じ顔で見上げるを、リューズはよく憶えていた。痛みや苦しみに耐えかねて、死を待ち受ける者の目だ。死の天使の翼が触れるのを待ちきれず、情けを求める兵の顔だ。  「人質には、亡き奥方の忘れ形見を送ったそうだな」  リューズから急に意外な話を向けられて、ヘンリックは驚いた様子だった。優雅に脚を組み、リューズは相手の表情が変わるのを観察した。ヘンリックは、リューズの思惑をはかろうとするように、目を細めて盟友の顔を見つめた。 「そうだ。イルスを遣った」  堅い声で、ヘンリックは答えた。  あれからすでに10年ちかく経ったというのに、ヘンリックは、失った妾妃のことを考えるだけで、胸中をかき乱される様子だった。死んだ女の名は、確か、ヘレン・トゥランバートルといったはずだ。とりたてて目立った家柄の出身ではない。平民とさして変わらぬ下級貴族の娘で、名だたる黒エルフの美女たちに比べれば、特に美しいというほどでもなかったが、素朴で、側にいるだけで心が休まるような、平凡な女だった。  「哀れな子だ。まだ母親が恋しい年頃に母を殺されたうえ、辺境の賢者に弟子入りするという名目で首都を追われ、今度は明日をも知れぬ虜囚の身に? お前は息子に恨みでもあるのか? なぜ手元に置いてやらん」  哀れみの声を作りはするが、リューズはヘンリックをいたぶるのを楽しんでいるだけだった。ヘンリックが未だに死んだ愛妾のことを忘れていないのを、リューズはよく知っていた。 「父親らしい事のひとつもしてやらないのでは、そう遠からず息子に見限られるぞ」  唇を笑いに歪めてリューズが言うと、ヘンリックは苦みばしった顔をした。 「イルスは遠に俺を見限っているさ。あいつは何から何までヘレンに似ていて、気難しい」 「お前が自分の息子を避けるのは、息子たちが死んだ女に似ているからだ。死んだ女の面影を見るのが、そんなにつらいか?」  意地悪く、リューズは言った。ヘンリックは困ったようにため息をつき、目を伏せる。リューズは畳み掛けるように言葉を継いだ。 「母親に似るのは、子供らの罪ではあるまいよ。哀れとは思わないのか」 「思うさ」  端的に応え、ヘンリックはこめかみを押さえたまま、机に置かれた銀杯に残っていた葡萄酒を飲み干した。ヘンリックが苛立っているのを見てとり、リューズは満足した。  「あきらめて、新しい女をつくれ」  親切心から、リューズは忠告した。ヘンリックは苦笑して首を横に振った。 「有力貴族の娘を片端から娶(めと)れというのか? お前がやったように?」 「お前でも、皮肉が言えるらしいな、ヘンリック」  予想していなかったヘンリックの反撃に撃たれて、リューズは顔をしかめた。ヘンリックは、リューズになら自分の気持ちが理解できるだろうと言いたいに違いない。幼い頃からの婚約者で、愛し愛されて生きていくはずだったリューズの正妃も、出産のための宿下がり中に、権力争いに巻き込まれて謀殺されてしまった。  「お前はもっと、子供をつくれ。よそに嫁がせる娘の一人もいないくせに、年寄りぶっておさまり返っている場合か? 都合のいい女の胎(はら)を借りて、子供を増やせ。血を絶やさないためだ。死んだ女も許してくれる」 「ああ…そうだな」  弱々しく笑って応えるヘンリックには、まったくその気がないようだった。リューズは呆れて肩をすくめた。  女を死なせてから、確かにヘンリックは変わった。相変わらず、いかにも武人らしい強い族長ではあったが、額冠(ティアラ)を手に入れたばかりの頃、そうだったような、何かに飢え餓(かつ)えて権力を求めるようなところがなくなった。ヘンリックは今も、この世に生きていく意味を見失ったままなのだ。いかにも英雄然とした姿は、彼の演技でしかなく、ヘンリックはすでに疲れ果てていて、生きることに苦痛を感じている。  だが、おそらく、そんな事を知っているのは、広い大陸中を探したところで、リューズぐらいのものだろう。はなはだ迷惑な話だった。  いつまでも、ヘンリックには、誰にも心を開こうとしない臆病なところがある。本心を晒さずに生きようとするヘンリックを目の当たりにすると、リューズはいつも、彼の化けの皮を剥いでやりたい気分になる。そうやって自分に正直になったほうが、いくらも楽というものだ。黙って耐えているヘンリックの不器用さを見るたび、リューズはどうしようもなくイライラするのだった。  「ヘンリック。お前は足下にいる蛇が子供を噛むのを恐れて、竜の巣穴に子供を投げ込む馬鹿者だぞ」  苦虫を噛み潰したような顔になって、リューズは話を変えた。ヘンリックに、そろそろ本題を話してやらねばならないだろう。  いぶかしげな表情をするヘンリックの前に、リューズは懐から取り出した小さな瓶(びん)を置いた。水晶から削り出された華麗な瓶は、透明なその内側に、とろりとした深紅の液体を満たしていた。 「なんだ?」  低い声で、ヘンリックが問いかけてきた。 「アルスビューラと云う名の毒だ。北方の辺境民が狩猟に使うもので、猛毒らしい。量を使えば、即効性もある」  リューズは淡々と説明した。ヘンリックが、話の先を察知して、顔をしかめる。 「これを一瓶、葡萄酒に混ぜて飲ませるだけで、確実に命を奪えるそうだ。飲んだ者は、全身の毛穴から血を吹き出させて失血死する。無惨だな。隊商(キャラバン)の者が報告してきた。これがお前が欲しがっていた答えだ。受け取れ…恐らく間違いない。お前の女を殺した毒だ」  リューズが促しても、ヘンリックはしばらくピクリとも動かなかった。暗い海のような青の瞳が、鋭い視線で、深紅の小瓶を見おろしている。その表情は、リューズがバドネイルの海辺の屋敷で、初めてヘンリックを見た時に、彼の顔を覆っていたものに似ていた。分厚い仮面で覆い隠した、憎悪の顔だ。  思えば、あの当時から、ヘンリックは湾岸の貴族たちを憎んでいるようだった。ヘレンを殺されたことが、憎しみと復讐の原因ではない。むしろ、ヘレン・トゥランバートルを死なせてから、ヘンリックの抱えている憎しみが薄れたように思える。リューズは目を細め、獲物の様子をうかがう蛇ように、ヘンリックの顔を見つめた。  「アルスビューラは希有な毒だ。これを使う暗殺師は限られる。連中は北に住む貧しい部族で、常は狩猟の民だが、かげでは暗殺を生業(なりわい)にしている。その商売相手は主に大貴族か王族だ」 「…バドネイル」  呪詛のように、ヘンリックが呟いた。こめかみに指をあて、リューズはヘンリックの顔を眺めた。 「知ってどうする。殺すのか。お前にとっては大恩ある後見人だろう」 「確かめたかっただけだ」  手をのばして、ヘンリックは深紅の毒を満たした小瓶を取り、それを弄んだ。リューズは眉間に皺を寄せた。 「自分で飲むなよ」  ため息まじりにリューズが言うと、ヘンリックは意外そうに顔をあげた。 「どういう意味だ?」 「そのままの意味だ。女の後を追うなど、みっともないぞ。まして相手は10年も前に逝っている。お前のことなんか待っていないさ」  ぶつぶつとリューズが言うと、ヘンリックは破顔した。声をたてて笑う盟友を、リューズは気にくわないまま見守った。 「俺もそこまで腑抜けてはいない」  机の上に瓶を戻して、ヘンリックは呟いた。 「そうだといいがな」  フンと鼻で笑って、リューズは応えた。 「心配かけてすまないな」  ヘンリックはまだ笑っている。リューズは面白くなかった。 「暗殺師たちは今、どこかの止ん事無き身分の客に雇われているとかで、北方の狩猟場から姿を消しているそうだ。今の所、湾岸の者の名は聞こえていない。お前の女を殺した連中が、お前の息子たちまで殺そうとしている訳ではないだろう」 「だが、湾岸に近づけば危険だ。バドネイルは自分たちの血を引く正妃の子に、額冠(ティアラ)を継がせたがっている。権力を望もうが望むまいが、ヘレンの息子には命の危険がある」 「自分から遠ざければ安全ということもあるまいよ。そもそもお前の身から出た錆だ。側に置いて守ってやるのが筋というものだろう。お前が辛いかどうかなど、生まれてきた子の知ったことではない。我が子に甘えるのも、ほどほどにな!」 「耳が痛い」  薄笑いして目をそらし、ヘンリックは窓の外へと視線を向けた。  あきらめて、リューズは何も言い返さないことにした。リューズが言っていることの意味は、ヘンリックも良く分かっているに違いない。なにしろ、リューズは今まで、ヘンリックと顔を合わせるたびに、同じ説教を繰り返してきたのだ。  ヘンリックは、自分の気持ちに不器用ではあるが、馬鹿ではない。それだけの年月をかけても解決できない想いが、ヘンリックの中にあるということだろう。リューズは、死んだ女の冥利を思った。  「死の臭いばかりだ」  突然、ヘンリックがぽつりと言った。リューズは首をかしげた。 「北からの暗殺師は、次は誰に毒を盛るのだろうな。男か、女か、どこかの王族か、商人か。もしかしたら、この俺にかもしれんな。あるは、リューズ、お前なのかも」  水平線を見つめたまま、ヘンリックは独り言のようにぼんやりと言った。リューズは笑った。 「毒では俺を殺せぬよ」  机から、水晶の小瓶を取り上げて、リューズはその蓋を開いてみた。まるで、香油の壷を開いたように、みずみずしい花の香がこぼれた。それが、猛毒アルスビューラの匂いだとは、とても信じられない。 「これが死の臭いか? 甘美なことよ。異国から手に入れた香油だと偽っても、誰も疑うまいな」 「お前からの贈り物にはせいぜい気をつけるように、皆に言ってやった方が親切かもしれんな」 「気にくわない相手を始末するのに、俺はそんな気の長いことはしない」 「そうだろうとも」  にやりとヘンリックが笑った。リューズも、それ応えて薄く笑った。  「知っているか、ヘンリック。毒殺は女の好むやり方なのだそうだ」  リューズは瓶に蓋をして、深紅の猛毒を水晶の中にとじこめた。ヘンリックが椅子の肘掛けに頬杖をつく。 「この一瓶はくれてやる。お前の正妃を問いただしてみるがいい」 「セレスタがヘレンに毒杯をあおらせたと思っているのか?」  正妃の名を口にして、ヘンリックは重苦しいため息をついた。セレスタ・バドネイルとは、婚姻によって、ヘンリックに湾岸に出入りするために必要な身分を与えた大貴族の娘だった。ヘンリックが族長になった後は、その正妃に収まっている。愛妾ヘレン・トゥランバートル亡き今、ヘンリックの後宮でさぞかし居丈高に暮らしていることだろう。 「さあ…? 十年も前の事の真偽など、確かめようもないことだ。そんなことは、どうでもいい。お前に必要なのは復讐だ。愛娘が死ねば、バドネイルの落胆はかなりのものだろう。お前も十年来の恨みにけりをつけられる」 「悪い冗談だ。証拠もないのに、セレスタに何の罪がある」  リューズの残酷さを咎める口調で、ヘンリックが言う。 「女の換えは、いくらでもきく。だがお前は一人しかいない。お前がそうやって、いつまでも腑抜けていると、部族のために良くない。正妃にこれを飲ませたら、何もかも忘れられるかもしれないぞ。命を購えるのは、命を以てだけだ」 「お前の主義はよく分かった。だが、海辺には海辺のやり方がある。気持ちだけ受け取っておくさ、リューズ」  眉をひそめて、リューズはヘンリックの真面目腐った顔を睨み付けた。 「…いつまでも子供のような綺麗事を信じて、寝首をかかれないように気をつけろ。お前のことを邪魔だと思っている連中には事欠かないだろう。毒死しながら、こんな事になるなら、先に殺しておくのだったと悔いても知らんぞ」 「そうなるなら、それも俺の運命だろう」  悟ったような事を、ヘンリックは口にした。リューズは人の悪い笑みを浮かべた。 「ふぅん…なるほど。お前はそれを期待しているわけか。同盟は残念だったな。戦死する機会を失った」  ヘンリックは何も答えず、肩をすくめた。リューズは笑って、さらにヘンリックをからかってやる事にした。 「まあ…そう気落ちすることもない。どうせまたすぐに戦は起こる。その暁には、再び盟友として時を過ごそう」 「戦いには飽きたんじゃなかったのか」  ヘンリックが苦笑する。 「飽きたさ」  窓の外の海を見やって、リューズは歌うように言葉を継いだ。 「血を流すのも、下衆な連中の白い首を斬るのも、もう、うんざりだ。俺は息子たちや部族の民と静かに暮らしたいだけだ。我が子を死地に追いやるのも真っ平。可愛げのない貴族の女どもを抱くのもいやだ。さっさと死んで楽になりたい。お前と同じだ」  遠くの水平線に、白い帆を満帆に張った船が現れた。遠い世界から戻った船を迎える銅鑼の音が、港から風に運ばれて聞こえてくる。リューズはそれに耳をすまし、しばし沈黙した。  「だが、いま俺が斃(たお)れたら、この額冠(ティアラ)を引き継ぐ者が誰もいない。息子たちは、みな宮廷育ちで軟弱だ。俺がいなくなれば、すぐにでも、欲にまみれた白い豚どもが押し寄せてきて、俺の部族を喰い散らかすのは目に見えている。連中は砂漠の富を盗み、女を漁り、魔導師たちを砂牛同然の奴隷として扱うだろう。我が部族が砂漠に王国をつくる以前の昔、そうだったようにな。好むと好まざるとに関わらず、俺は家長の血脈に連なる者として生まれ、額冠(ティアラ)を受け継いだ。部族を養い、富ませるために働くのが俺の運命だ。勝機があれば、いつでも兵を挙げる。好機を見逃せば、次には自分たちが追い立てられる番なのかもしれんぞ、ヘンリック。これは、お前とお前の部族にとっても同じ事だ」 「人質にやった息子が死んでもいいのか」  静かな言葉で、ヘンリックが言った。リューズは視線を床に落とした。 「スィグルは誇りあるアンフィバロウ家の血を受けた俺の子だ。部族と運命を共にさせる」  言いながら、リューズは胸が疼くのを感じていた。トルレッキオへ向けて発つため、タンジールを辞す時の我が子の顔が脳裏に浮かんでくる。強がって笑ってみせる顔が哀れだった。健気な子だ。支配者の血族にふさわしい覚悟と品位がある。なぜ、よりによって、天は哀れなあの子を同盟の生け贄に選んだのかと、リューズは我知らず、ため息をついた。  「お前、俺のことを馬鹿にはできんな」  ヘンリックが低く声をたてて笑った。 「父親らしい事のひとつもしてやらないのでは、そう遠からず息子に見限られるぞ」 「うるさい。気味良さそうに人の揚げ足をとるな。スィグルは心の優しい子なんだ。俺を見限ったりしない」  むきになって、リューズは反論した。 「親馬鹿なことだ。我が子に甘えるなと人に説教を垂れておいて、お前はどうなんだ。心配なら心配だと正直に言えばいいだろう」  ヘンリックが笑いをかみ殺したような顔をする。リューズがその顔をじろりと睨み付けても、ヘンリックは一向に動じる気配もない。 「心配だ」  リューズは腹を立てながら、正直に答えた。 「心配するな。よほどの事がなければ、俺は同盟を反古にするつもりはない。お前たちが勝手に先走ったりしなければ、戦などそう簡単に起こらん。どこも当分は兵を貯えるさ」  リューズをなだめるように、ヘンリックは説明してきた。リューズは憮然として、それを聞いた。どうだか、分かったものではない。 「それに、いざという時になっても、イルスは黙って殺されるような玉じゃない」  ヘンリックはずいぶんと余裕がある様子だ。リューズはまるで面白くなかった。 「足掻いてみせるのはみっともないぞ。王族にはそれなりの死に方がある」 「イルスは王族じゃない。俺とヘレンの子だ。いつでも思うように生きればいい」 「馬鹿な。額冠(ティアラ)を着けて生きる者に、自由などあるものか」 「邪魔になるなら額冠(ティアラ)など捨てればいいさ。そうなったところで、困るのは俺だけだ。人質になるのも、イヤなら断ってしまえばよかったのに、根っから不器用な子だな」 「ヘンリック、お前は、頭がおかしいんじゃないのか?」  あきれ果てて、リューズは力無く友を罵った。ヘンリックはそれを気味良さそうに見ている。リューズには、この、わけの分からない平民出の男の、奔放なところが、ひどく羨ましかった。自分ならば、到底、口に出せないようなことを、ヘンリックは平気でペラペラと話す。親が子の幸せを願うのは、人として当然の本能だ。リューズも我が子可愛さに目がくらまないわけではなかった。だが、額冠(ティアラ)を継承した以上は、親である前に族長でなければならない。それがアンフィバロウ家の家長である者の責任というものだ。血の伝統を背負っていないヘンリックには、それが分からないだけだ。  「お前、虜囚になっていた子供と女を取り返したときは、えらく喜んでいたじゃないか。死んでいてくれた方がマシだと思うなら、なぜ探したりしたんだ。放っておけばよかったんじゃないのか。死んでいた方が面子が立つんだろう」 「生きているかもしれないのに、放っておけるものか」  笑っているヘンリックに噛みついてやりたい気分で、リューズは答えた。 「お前だって、面子よりは子供が大事なんだ。いいかげん認めろ」 「余計なお世話だ。人のことより、自分の息子のことでも心配しておけ。勝機があれば俺は兵を挙げるぞ。せいぜい憶えておくんだな」  手をつけていなかった銀杯の葡萄酒を飲んで、リューズははき捨てた。香り高い内陸産の葡萄酒はうまかったが、酒気にあてられて酔いそうだった。いまいましい気分になって、リューズは杯を机に戻した。 「イルスは悪運が強い。同盟が崩れたら、他の連中を引き連れて、さっさと抜け出して来るに決まっているさ。その時は、領境の近いお前の領地へ向かうだろうから、せいぜい無事なうちに拾ってやってくれ」  ヘンリックは、息子が生き延びることを疑いもしていない様子だ。 「ふん。そう遠からず、そんな事にならねばいいがな」 「不吉なことを言うな」  銀杯に葡萄酒を注いで、ヘンリックがびっくりしたように、リューズの減らず口を押し返してきた。  「いやな噂を聞いた」  アルスビューラの瓶を見おろして、リューズは別の話に水を向けた。 「北の毒殺師どもを雇っているのは、山エルフだ」  出所の確かでない噂として、隊商(キャラバン)の者たちが伝えてきた話だった。 「山の族長が、正体のわからぬ病にふせっているとか。食事も受け付けず、意識も朦朧とするほどだそうだ。血反吐を吐いて悶絶する姿を見たという者までいるらしい」  ヘンリックが目を細める。その青い目の奥で、ヘンリックが自分とほぼ同じ計算をしているのを、リューズは見て取った。銀杯の葡萄酒で喉を湿らせてから、ヘンリックは注意深く言葉を継いだ。 「…フラカッツァーでの族長会議では、健在のように見受けたが」  あれからまだ、二度ほど月が満ちただけだというのに。 「ずいぶん急な病だ」  含みのある言葉を、ヘンリックは独り言のように呟いた。 「正妃が付ききりで看病しているのだそうだが…病状は悪化するばかりだとか」 「…族長の死後、額冠(ティアラ)は誰が継承するんだ?」 「長子だろう。山の者たちはいつも長子に相続させる」 「正妃の子か…あるいは、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスだな」 「性悪な餓鬼よ」  リューズは噂に聞く神殿の子供のことを思った。神聖神殿の大神官の秘蔵っ子で、このままのうのうと暮らしていれば、山エルフ族の王権のようなちっぽけなものではなく、大陸全土を支配する純白の玉座が待っているというのに、なにを好き好んで神官職を捨て、聖楼城を去ってまで、人質などにおさまったのか。 「横から現れて額冠(ティアラ)を奪おうとする。まるで昔のお前のようだ、ヘンリック」 「俺とは立場が違う。神籍を捨てて何の得がある。同盟の人質には、自ら志願したそうだが、いかにも変わった子供だな」  ヘンリックが面白そうに言う。 「お前が同じ立場だとしたら、人質に志願する理由があるものと思うか?」  リューズは自分と同じ興味を持っていそうな同盟者に問いかけた。 「さあな。山エルフの連中は形式にこだわる。族長位につくには、件の学院で学び、大法官をつとめあげた経歴が必要なのだそうだな。族長の額冠(ティアラ)に近づきたければ、まずはそこからだろうが…人質になれば、まず間違いなく学院には入れる」 「ブラン・アムリネスともあろう者が、学院の門をくぐるのに、そんな回りくどい手順を踏む必要があると思うのか?」  にっこりと機嫌良く笑って、リューズは尋ねた。ヘンリックが呆れたような苦笑を見せて、微かに首を振り、芝居がかったリューズの問いに答えた。 「未だに額冠(ティアラ)を持っていないらしいじゃないか。部族の領内に所領もなく、地位も身分も官職もない。あれではただの客分だ。ブラン・アムリネスには何もない。あるのは、額の聖刻だけだ」 「それも、厳密にはもう当てになるまい。神殿を捨ててきたのだからな。何をするにも頭を下げて頼むほかはない。気位の高い山の血を引いているなら、さぞかし気の重いことだろう。まして白亜の神殿で暮らした身なら、なおのことさ」  リューズは満足して頷いた。ヘンリックが、ふふんと笑う。かつて、湾岸の大貴族たちに取り入らねばならなかったこの男にとっても、その苦痛の味わいがどんなものかは、かなり馴染みの深いことだろうと、リューズは思った。 「ブラン・アムリネスは族長になると思うか? 俺たちの盟友、あるは敵に?」  頬杖をつき、リューズは自分の耳朶を華やかに飾る、赤い血の滴のような石の房を弄んだ。 「族長位におさまるには、ブラン・アムリネスは若すぎる」  ヘンリックの声は慎重だった。しかし、その言葉とは裏腹に、否定の響きが感じられなかった。ヘンリックは勘の良い男だ。知識に凝り固まった学者面の政治屋が、考えあぐねて出した答えよりも、ヘンリックの咄嗟の思いつきのほうが、いくらも面白く、賭けを打って出る甲斐もある。ヘンリックが自分と同じことを考えているらしいと悟って、リューズは上機嫌になった。 「俺は父の額冠(ティアラ)を受け継いだとき、15歳だった。ブラン・アムリネスはいま14歳だ」 「大神官の後ろ盾がついた族長か。恐ろしいな」  茶化すような口調で、ヘンリックは言った。 「即位できればの話だ」  リューズはにやっと笑った。 「女は毒を使うのでな。油断できぬ。山の正妃は我が子可愛さに目がくらんだようだ。長年連れ添った夫を裏切るとは、女は恐ろしい生き物よ」 「アルスビューラか」  ヘンリックが苦々しく、その名を口にする。 「解毒剤はあるのか」 「そんなものはない」  身も蓋もない答えを嬉しげに返すリューズに、ヘンリックがまた苦笑した。 「まさか、神殿の子を後押ししてやるつもりなのか、リューズ」 「いいや。ブラン・アムリネスには死んでもらった方が都合がいい。同じ戦うにしても、部族の仇は暗愚なほうが望ましいからな」 「いやにブラン・アムリネスを気に入っているのだな。神殿嫌いなお前が、珍しい」 「このまま山エルフの族長が死ねば、そおらく内乱が起こる。勝機だな、ヘンリック」  ヘンリックがにやっと笑い、酒杯を空けた。 「自分の子が可愛ければ、先にブラン・アムリネスが死んで、戦機が去るように祈れ」  席から立ち上がるヘンリックを見上げて、リューズは薄く笑った。 「そんなことは祈ってもむだだ。自分の血を引く子供を、神々が見捨てると思うのか」 「リューズ、知らないのか? この世に神などいない」  冗談めかせて、ヘンリックが答える。それを聞き、リューズはにやりと笑った。 「そうか。なるほど。お前は異端者だ。神聖神殿にお前を売れば、いくらになるかな」  リューズはヘンリックがどう答えるか楽しみだった。 「…値切っても無駄だ、と、言ったはずだ」  静かに答えるヘンリックの顔を眺めたまま、リューズは笑い、ゆっくりと立ち上がった。そして、旧来の友に右手を差し出しす。 「また来年の同じ日に会おう、ヘンリック。あるいは、山の都フラカッツァーで、そう遠くない、いつかの日に」  ヘンリックがリューズの右手を握った。 「帰路の無事を」  ヘンリックの声に被さるように、港からの銅鑼の音が鳴り響いた。隣大陸からの貿易品が豊かであったことを、海都サウザスに知らしめる銅鑼の音だ。誇らしげに打ち鳴らされる銅鑼の響きに耳を傾け、リューズはおそらく一生見ることのない、海の向こうの世界を思い描いた。 -----------------------------------------------------------------------  1-21 : 二通の手紙 -----------------------------------------------------------------------  彼女からの手紙はいつも、「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」という一文で始まる。自室で、白羽の紋章をつけた手紙に目を通しながら、シュレーは、いつも心配そうな顔ばかりしている少女のことを思い出していた。  微かに上気した薄紅色の頬と、明るい緑の瞳。白い額には深紅の聖刻。まっすぐで、細く柔らかな金髪。美しいというより、可憐な少女と言った方が相応しい。アルミナ・ディア・フロンティエーナ。それが、地上で最も神聖な血を濃厚に受け継いだ少女、白羽の紋章と天地にかけて永遠の愛と忠誠を誓いあった、彼の妻の名前だ。  シュレーがアルミナを妻として娶(めと)ったのは、8歳の誕生日のことだった。祖父である大神官は、誕生祝いのための祭礼の終わりに、歳の釣り合う一族の娘たちを集め、シュレーの前に並ばせた。そして、その中からどれでも好きな者を妻に決めよとシュレーに命じた。  集められた少女たちは、全部で15人いた。純白の衣装で全身を覆った少女たちは、どれも同じように見えた。重たげなヴエールの下で、控えめにうつむいた顔には、額の赤い聖刻が見えるばかりで、微笑んでいるのか、悲しんでいるのかもわからない。  白大理石づくりの神殿には、大勢の神官たちが居並び、はるか高みに据えられた祭壇と、その前の玉座に座る大神官を見上げていた。聖楼城の深部に築かれた神殿は、純血の神殿種でなければ立ち入ることが許されない場所だった。その中でも、祭壇のごく近くに侍る権利を与えられているのは、官職を与えられた28人の最高位の神官たちだけだ。シュレーはその中の一人として、玉座を間近に見上げる場所に立っていた。  かすかに囁くような大神官の声が、神殿に集まっていた全ての神殿種の耳朶を打った。それは、喉から発せられる声ではなかった。まばゆく光り輝く純白の翼を広げ、大神官は告げた。ブラン・アムリネスに妻帯を許す、と。  見上げた祖父の顔は、翼からあふれる光にかすんで、よく見えなかった。目を細め、シュレーは祭壇の前に座っている祖父の顔を、なんとか見極めようとした。それに気づいた祖父が、かすかに笑ったような気がしたが、ただの目の錯覚だったのかもしれない。  突然、杖が大理石の床を激しく打つ音がした。 「大神官台下、おそれながら、ブラン・アムリネスはまだ若すぎます。彼が成人する時を待ち、神殿種の正統な血脈を遺すものとして相応しいかどうか、確かめる必要があります」  背の高い高位の神官が、祭壇を見上げていた。彼もまた、声によらない言葉で話していた。その言葉は、神殿の床を埋めるすべての神官たちの耳に届いているに違いなかった。神殿種の使う言葉には、そういう力が備わっているのだ。 「ノルティエ・デュアス」  祭壇から、激しい感情を含んだ大神官の言葉が降りかかってきた。短い悲鳴をあげて、背の高い神官が膝を折った。彼の手を離れた杖が、けたたましい音を立てて大理石の床に転がった。 「朕(わたし)の言葉は世界の言葉だ。反逆はゆるさぬ」  大神官の声には、容赦の無い怒りが織り込まれていた。生々しい感情をぶつけられて、ノルティエ・デュアスを名乗る神官は悶絶していた。シュレーは黙ってそれを見下ろしているほかはなかった。こうして傍にいるだけでも、神経に無数の針を打ちこまれるような苦痛を感じた。それほどの力を持つ大神官の怒りを、まともに自分の身に受けるのは願い下げだ。  床に這ったノルティエ・デュアスの顔から、ぽたぽたと鮮血が滴っていた。白い床に落ちた小さな赤い点は、神殿種の誰もが額に刻んでいる聖刻に似ていた。震える手で口元を覆い、ノルティエ・デュアスは神官服の豪奢な袖で、あふれ出る鼻血を押さえた。  顔をあげる瞬間、シュレーは彼の灰色の視線と出会った。緑がかった灰色の目で、ノルティエ・デュアスはシュレーを睨み付けた。杖を拾い、体裁をとりつくろう彼の翼は、シュレーにしか聞こえない呪いの声を送ってきた。  「出来そこないめ…お前に神殿を滅ぼさせるものか」  神聖な血で汚れた顔を拭い、毅然と顎をあげるノルティエ・デュアスの姿は痛々しく、神々しかった。シュレーがその姿から目をそらすと、囁くような呪いの声が、次々とシュレーに襲いかかってきた。誰のものかもわからない声は、口々に、予言された滅びの子を呪っていた。  じりじりと脳を刺す、悪意に満ちた囁き声に耐える方法を、シュレーはすでに身につけていた。これは荒野に吹く風のようなものだ。抵抗してみせたところで、止んでくれるわけではない。本物の荒れ野にいた頃、嵐が運んできた砂つぶてを、身を硬くして耐えたように、シュレーは押し寄せる憎しみの囁きに耐えた。それ以外に、出来ることは何もなかった。  「ブラン・アムリネス」  不意に呼びかける祖父の優しげな声に、シュレーは顔をあげた。 「そなたの伴侶を選ぶがよい」  祭壇につづく長い階段の下に並んだ少女たちを、大神官は翼の意匠で飾られた杖で指し示した。そこに並んでいる少女たちは、相変わらず顔を伏せたままだった。  遠目に人数を数え、ちょうど真ん中にいた少女をシュレーは選んだ。それがアルミナだった。彼女を選んだ理由は何もない。ただ、アルミナが、真ん中に立たされていたというだけのことで、それは偶然の仕業でしかない。  アルミナはその時、7歳だった。大神官はアルミナを祭壇に上げ、シュレーと彼女の手を握り合わさせて、その場で婚姻のための儀式を執り行った。シュレーがアルミナの体に触れたのは、その時が最初であり、最後でもあった。  大神官の前に呼び出された緊張で、アルミナの手は震えていた。白絹の手袋ごしにも、彼女の手がひどく冷たくなっているのが分かるほどだった。祖父の気まぐれ、あるいは愛娘の忘れ形見を溺愛するあまりの我侭で、自分の誕生祝いのひとつに加えられた少女に、シュレーは微かな同情と、後ろめたさを感じた。  神聖神殿の血統には、女児が生まれることが少ない。血統を重んじるあまりの、度重なる近親婚のため、必要以上に血が濃くなり、正常な体で生まれてくる子が減っているのだ。一族の中で、子供を産む機能を備えた、女だと認められる者は珍しかった。数少ない彼女たちは、特定の誰かと婚姻することはなく、神殿の一族の全ての者の母として、女たちだけで暮らしていた。  だから、大神官から妻帯を許されるのは、神殿ではこの上ない大変な名誉だった。祖父は、シュレーの血の薄さを補うために、妻帯の名誉を与えたのだ。神聖神殿の一族の者として子を成し、血を残す権利を、誕生祝いとして贈ったまでのこと。大神官は、孫に名誉さえ与えられれば、それで良かったのだ。  そんな下らない名誉のために、アルミナはあらゆる自由を奪われた。婚姻した女は、決して人前に姿を現さないのが、神聖神殿の一族での習わしだった。身の回りの世話をする数人の神官以外とは口を利くこともなく、アルミナは聖楼城の塔の小部屋で育った。部屋を出られるのは、朝夕に行われる祭礼の時だけだ。それも、他の者たちと同じように、広々とした礼拝堂に並ぶわけではなく、その中二階にしつらえられた、格子窓つきの壁の向こう側の席に座らなければならない。  13歳になるまで、シュレーは実際には、アルミナと会ったことがなかった。婚姻の儀式の時以来、二人は一度も顔を合わせたことがなかったのだ。神殿の一族では、それがたとえ夫婦であっても、男女が親しく言葉を交わすのは、ふしだらなことだと考えられていた。婚姻は子孫を残すためのもの。だから、夫婦が顔を合わせるのは、月が巡り、妻の体が子を成す準備を整えた数日だけと決められていた。まだ幼く、初潮も迎えていないアルミナが、シュレーと会う機会があるはずもなかった。  そのかわり、子供のころから、彼女はほぼ毎日のように、シュレーに手紙を書いて寄越した。今朝の祭礼で、猊下のお姿をお見かけいたしましたとか、部屋の窓にとまった鳥に餌をやりましたとか、そういった事ばかりが手紙には書かれていた。  アルミナからの手紙を読んでも、それがどうしたのだ、としか、シュレーには感じられなかった。なんと単調で変化のない世界のことを、飽きもせず、毎日のように書き送ってくることだろう。どう返事をしてやったらいいのか、まるで見当もつかない。  だが、その世界に彼女を閉じこめているのが、他ならぬ自分だということを、シュレーは自覚していた。アルミナの話し相手はいつも同じ顔ぶれの数人の神官だけで、彼女にとって、唯一交流を持てる「外界」はシュレーひとりだけなのだ。だから、手紙が来れば無理にでも返事を書いた。返事を出せば、アルミナはまた手紙を寄越す。そのくり返しが、1日と空けず、5年ほども続いた。  時には、アルミナが手ずから作ったという服や、身の回りのものが届けられることがあった。シュレーがそれを身に付けて祭礼に出ると、アルミナは驚くほど喜び、いつもよりも分厚い手紙を送ってきた。それを読むことは、シュレーには、耐え難い苦痛だった。単調な神殿での暮らしの中でも、彼女の住んでいる世界がどれほど詰まらなく、喜びの薄いものなのかを、思い知らされるような気がしたからだ。  シュレーは仕方なく、聖楼城の中のことを説明した内容の手紙を、アルミナに送り続けた。天に向かって伸びる塔の数は二十九本。それは二十八人の天使と、大神官を象徴するものだ。どれも白大理石で飾られ、日の光に眩く輝き、夕暮れには茜色に染まる。塔の高さはどれもまちまちで、統一されたものではない。聖楼城は古く、豪華ではあるが、美しい城とは言えない。いびつな蟻塚に似ている。白く塗られ、飾り立てられた巨大な蟻塚だ。その中に住んでいる蟻にあたるのが、神聖な一族を名乗る神殿種たちで、自分やアルミナもそのうちの一人だ。正統な血を受け継いだと認められた者は、正式な神官になり、官職を与えられる。聖楼城の入り組んだ回廊には延々と扉が並び、その中のあるものには神官が住みつき、あるものは封印されて秘密を住まわせている。聖楼城には、開けてはならない扉が多く、秘密の場所には事欠かない。  正統な血筋に相応しくないと判断された者の行方は知れない。それも、聖楼城が呑みこむ、数知れない秘密のひとつだ。その者の部屋の扉は封印され、二度と開かれることは無い。それはいつも突然起こり、封印された部屋の中にまだ誰かがいるのか、それとも空なのかは、誰も知らないことだった。それについて興味を示すこと自体、タブーと考えられていた。高貴な神殿種の血を受けながら、その正統な血筋を示さない者など、存在してはならないのだ。  ある朝目覚めると、自分の部屋の扉が開かなくなっている悪夢を、シュレーは何度も見た。だが、その夢のことをアルミナへの手紙に書いたことは一度もない。   * * * * * *  そんなある日、シュレーの部屋に下位の神官が現れて、言った。大神官台下(だいか)のご命令です。奥方の部屋をお訪ねください、と。  アルミナが、初潮を迎えたのだ。シュレーは13歳で、アルミナは12歳だった。  いやだ、とシュレーは答えた。今まで一度も祖父の命令に逆らったことはなかったが、なぜかその時だけは、考えるより早く、言葉が口を衝いて出た。ご命令ですと、神官は復唱した。シュレーは承知した。大神官の命令は絶対で、それを拒否する権利など、誰にもない。それは神聖神殿では当たり前のことだった。間違っているのはシュレーの方で、伝令役の神官は、あくまで大神官の意思を伝えにきたにすぎず、シュレーの意思を確かめたいわけではない。そんなことは十分理解していたはずなのに、祖父の命令を、なぜ拒否しようとしたのか、シュレーは自分でもわけがわからなかった。  塔の部屋を訪れると、アルミナはそこにいた。分厚いヴェールの間から覗く、微かに上気した薄紅色の頬と、明るい緑の瞳。きっちりと眉の上で切りそろえられた前髪が飾る白い額には、神聖神殿の血統を証す深紅の聖刻。まっすぐで、細く柔らかな金髪。美しいというより、可憐な少女と言った方が相応しい。  現れたシュレーを見て、アルミナは少し恥じらいながら、それでも嬉しそうに微笑した。  耐えられなかった。なにがそんなに嬉しいのか、シュレーには理解できなかった。いったい誰のせいで、自分が幽閉されてるのかを、アルミナは知らないのだろうか。  アルミナは口を利かなかった。女の方から話しかけるのは、不作法だと決められているからだ。会話は男から切り出すものと決まっている。だが、シュレーは何も話しかけなかった。アルミナに話せることが何もなかったからだ。  何も話さず、何もしようとしないシュレーをアルミナは不思議そうに眺めたが、すぐにお茶を入れはじめた。花の香りのする紅いお茶を注ぎ、自分に差し出すアルミナを見た時、シュレーは神殿を出ることを決めた。  自分が神聖神殿にいても、何もいいことはない。満足するのは大神官だけで、自分はそんなことを望んでいるわけではない。神籍を捨てれば、多くのものを失うのと同時に、自由を手に入れられる。神殿の者は、神籍を持つ者としか婚姻できない掟だから、自分が神籍を捨てて神殿を出れば、アルミナも自由になるだろう。女たちと共に暮らすのもいいし、もっと別の、アルミナを幸せにしそうな相手を夫にするのでもいい。少なくとも、純血の神殿種とは程遠いシュレーの子を産むよりは、彼女にとってはましな未来が手に入るだろう。  その後すぐ、神殿を出ることを、シュレーは大神官に申し出た。もちろん祖父は許さなかった。それでも、シュレーは聖楼城を去った。何もかもを一度に解決できるとは考えていない。物事には順序というものがある。焦る気もないし、無い物ねだりをする気もない。必要なら、いくらでも時間をかける。どんな犠牲でも払うつもりだった。  思い返すと、シュレーが初めてアルミナの部屋を訪れたのは、一年前のちょうど今ごろだった。結局、アルミナと顔を合わせたのは、ほんの数回だけだ。シュレーはアルミナとろくに話しもしなかったし、彼女に指一本触れたこともない。神殿の記録上は、アルミナと6年ほども連れ添ってきた事になっているが、実際には、まったくの他人と変わらない気がした。  しかし、よく考えてみれば、今までの自分の一生で、全くの他人でない者が、何人いたというのだろうか。シュレーは口元を歪めて笑った。母は、生まれてきた息子を抱き上げることもなく死に、父もすぐにその後を追わされた。唯一の肉親であるはずの祖父、大神官も、時折の気まぐれで玉座から呼びかけるだけで、シュレーは祖父の顔すら見たことがない。神々しいその尊顔は、いつもまばゆい後光の中に霞んでいて、肉親の情があるのかどうだか、確かめようもない。この世界にいるのは、悪意を持った他人と、無関心な他人だけだ。アルミナは数少ない例外だったが、それももう過去のことだ。シュレーは神官職とともに、彼女を捨ててきたのだ。  「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」と、アルミナからの手紙には、いつもと同じことが書いてある。金箔を押して意匠を象った白羽の紋章が、ランプの明かりを鈍く反射している。頬杖をついて、シュレーはそれを読んだ。流れるような文字は、びっしりと紙面を埋めていた。小さな文字が整然と並んでいるのが、アルミナの几帳面な性格を映している。  『…猊下がいらっしゃらない聖楼城はとても寂しく、まるで冬の城のようです。朝夕の祭礼でも、もう猊下のお姿を拝見することができないのが、とても残念です。……そちらではご不自由なくお暮らしですか。山の食べ物はお口に合いますか。異国の景色はどんなものですか。……昨夜、猊下の夢を見ました。夢の中で、猊下は何かを、わたくしに話しかけてくださったのですが、目をさますと、猊下のお話をみんな忘れてしまっていて、とても悲しい気持ちになりました。……聖楼城の南のお庭で咲いた花を、オルハが摘んできてくれました。とても美しい花でしたので、刺繍にして、猊下にもお送りいたします。せめてそれが、故郷をなつかしく思われる時に、猊下をお慰めできることができれば、わたくしも幸せです。わたくしの身代わりにお側に置いて下さい。……いつかはまた、お会いできますか。……毎日、朝夕の礼拝で、猊下のご無事をお祈りしています。……トルレッキオはあまりに遠く、猊下にわたくしの声をお聞き届けいただくのは無理ですが、わたくしは、いつも、猊下のことを想っております。どうか、いつも、お心の片隅に、わたくしのことをお留め置きください。……猊下のお側にお仕えできる日が、ふたたび巡って来ますよう、猊下がご無事で聖楼城にお帰りになる日を、一日千秋の想いでお待ちしています。どうかくれぐれも、ご自愛下さいませ。……アルミナ・ディア・フロンティエーナ』  いまだに聖楼城の塔に閉じ込められているアルミナの孤独を考えるとると、返事を書いてやらないといけないと思ったが、筆が動かなかった。アルミナからの手紙には、いつも同じようなことが書いてある。誰とも会わず、するべきことが何もないアルミナにとっては、世界は毎日少しも変わらないものなのだろう。  シュレーは、読むともなく手紙を見つめたまま、手元に置いてあったグラスをとって、それに満たされていたものを飲んだ。半分ほど飲み干すと、焼け付くような胃の痛みが少しはましになった。グラスの中の水には、何種類かの解毒剤を混ぜてある。そのうちのどれかが、うまく効果を発揮したのを確認して、シュレーはため息をついた。それでもまだ胃が熱い。かすかな吐き気も感じた。  一体何に毒を盛られているのか、しばらく解毒剤を飲まずにいると、とたんに体調が悪くなってくる。だが、当て推量で解毒剤を飲み過ぎると、逆にその薬のせいで、命を削られることもありうる。  山エルフの族長が、最近になって急に健康を損ない、床についているのだという噂が聞こえてきていた。激しい胃の痛みをうったえ、血を吐くのだとか。  族長は、シュレーが山エルフ族の血族として、その宮廷序列に加わることを承知した。おそらくはそれが、彼にとっての不運の始まりだろう。長子相続を重んじる山エルフでは、シュレーの叔父にあたる現族長よりも、直系にあたるシュレーの方が、強い継承権を持っていることになる。  神籍を捨てて、部族に戻りたいのだと話を持ちかけた時、族長は、シュレーになら部族を率いられるだろうと言っていた。堅物で、無欲な男だ。同腹の弟というだけあって、死んだ父に良く似ている。不器用で、ちっぽけな真実を押し通すために、それと知りつつ、わが身を危険にさらすのだ。  実子の中に、族長の額冠(ティアラ)を受け継ぐに相応しい者がいなかった。それは我が身の不徳の致すところと、族長はシュレーの前で恥じ入った。いくら神籍の者を相手にしているとはいえ、まだ歳の足りないシュレーに対して、そうも腹を割って話すのかと、愚直とさえ思える族長の振るまいに驚かされたものだった。  あの男がフラカッツァーで死のうとしている。自分に情けをかけたばかりに、王宮で孤立し、ひそかに殺されようとしている。おそらく、シュレーが生きているうちは、叔父は殺されないだろう。族長位を横から奪う邪魔者を始末してから、族長を殺し、長子に額冠(ティアラ)を継承させる算段なのだ。  胃の中にズキンと刺すような痛みを感じて、シュレーは顔をしかめた。聖刻を捺された額に、じわりと脂汗が浮くのがわかる。意味がないと思いながら、耐えられずに服の上から、胃の辺りをつかんだ。できるものなら、毒を染み込ませた胃の腑を体から切り放して捨ててしまいたいような気分だった。  おそらく、叔父も同じ毒にやられている。自分がこうして生きながらえている間、生かさず殺さずの毒を盛られて、日々、生死の境をさまよい続けているのだ。  ある日突然、自分が血を吐いて倒れる姿を想像すると、シュレーはひどく不愉快な気分になった。早く何とかしなければ、自分が選び取ったのは、毒殺される自由だったということになりそうだ。  口にするもの全てに、毒の味がするような気がする。もともとここは、山エルフ族のための学院だ。ここにいる者すべてに、王権の息がかかっている。執事のアザールを別の者に入れ替えたところで、新しい別の執事が食事に毒を盛るだけだ。  何とかしなければならない。自分が生きてさえいれば、まだ、叔父にも生き残れる希望はある。何もかも終わってしまう前に、毒殺の首謀者を始末すればいいのだ。トルレッキオにいる、あの女を。  アルミナからの手紙をどけて、シュレーは別の書簡を取り出した。その書簡には、大きすぎる角を誇らしげに掲げた山羊の紋章の蝋封印がされてある。すでに一度開いてあるそれに、シュレーはもう一度目を通した。  その書簡の冒頭にも、皮肉なことに、「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」と書かれていた。  宴席にお呼びいたしたく、と書き連ねた女文字の最後には、山エルフ族の正妃の名が記されていた。それは、アルフ・オルファンの実母の名だった。大方、決闘騒ぎのことの顛末に関して、オルファンが母親に泣きついたに違いない。山エルフは名誉を傷つけた相手を決して許さない。それは、女の身である正妃であっても、同じことだった。  息子の名誉を奪うブラン・アムリネスを殺しに、絹のドレスを纏った毒殺師がやってくる。哀れな息子を族長位につけるための、決定的な方法を用意して、学院に現れるつもりだ。  グラスの底に残った水を飲み干して、シュレーはひとり嗤(わら)った。大陸に君臨する竜(ドラグーン)の末裔たちに比べれば、あっけないほど小さな敵、だが、今まさにシュレーの喉元に短刀を突きつけているのは、間違いなく、その女だった。  宴席への招待を断るのは不可能ではない。だが、山エルフ族の部族長の紋章をつけた招待状を蹴るのには、それだけの覚悟が必要だ。今回の話を断ったところで、招待状は何度でも送りつけられるだろう。断りつづけるのには限界がある。抜け目のない義母は、そう遠からず、非礼を糾弾して攻撃してくるに違いない。相手は単なる嫌がらせや、当てこすりの嫌味を言うためにシュレーに会いたがっている訳ではない。実子の政敵を叩き潰し、息の根を止めるための画策をしているのだ。  机の端に用意されていた羽根ペンと紙を取って、シュレーは食事の招待を受けるための手紙を書こうとした。乱暴に紙束を掴んだせいで、アルミナが送ってきた手紙が床に舞い落ち、薄い絹に刺繍された、薄桃色の草花の模様が、質素な敷物の上に舞った。ふとそれを眺めると、そこにだけ花が咲いたように見える。  遠き聖楼城の庭を思い出すためにとアルミナは考えたようだが、シュレーにとって、聖楼城は忌まわしいだけの場所だった。柱の陰からも、祭礼のため跪く時も、絶え間なく聞こえてくる嫉妬と呪いの声。世を滅ぼすと予言された者。いやしい下民と子を成した淫売の息子。大神官に取り入る不埒者。いっそ死んでしまえばいいのに。あの下民の男が、城の塔から身を投げたように。  その城で、自分に微笑みかけたのは、あの気の弱そうな少女だけだった。アルミナ。小さな花の刺繍は、シュレーに、いつも控えめにうつむいて微笑む、彼女の姿を思い出させた。 -----------------------------------------------------------------------  1-22 : 師匠と弟子 -----------------------------------------------------------------------  「腕の力でやろうと思うな。剣に自分の体重を乗せるんだ。腹に力を入れるんだぞ。あとは集中することだ。狙いを定めたものから目を離すな」  腕組みして、海エルフのイルスは淡々と説明した。言いようのない疲労を感じて、練習場の壁にもたれながら、シュレーはそれを聞くともなく聞いていた。  黄味を帯びた細かい砂をしきつめた練習場の一角で、イルス・フォルデスは、黒エルフのスィグルに剣の稽古をつけていた。あまり似合っているとは言えない学院の制服に身を包んではいるものの、イルスがスィグルに使わせているのは、両刃で幅広の、海辺の長剣だった。 「そうやってるよ」  不機嫌そうに答え、つんと顔をそむける黒エルフのスィグルを、イルスがじろりと睨み付ける。その様子がおかしく、シュレーは人知れず微笑していた。 「やってない。じゃあ、どうしてお前はこの程度のものも斬れないんだよ」  にべもなく言い、イルスが指さした練習場の床には、途中まで斬れていたり、あるいはただ束ねが崩れただけの、柴の束が転がっていた。体に釣り合わない長剣を地面に突き、スィグルがムッとした顔で指さされたそれを見る。 「けっこう硬いんだよ、これ。そんな簡単そうに言うなら、イルス、自分でやってみたらどうだい?」  練習用の台に結わえ付けられた新しい柴の束を顎で示して、スィグルは憎々しげに言う。イルスはため息をつき、答える代わりに腰に帯びていた自分の長剣をすらりと抜いた。そして、練習台に近づくと、剣をかまえ、あっさりと柴の束を両断してみせた。ざくりと心地よい音が響き、柱に結びつけられていない束の上半分が、砂地に転がり落ちる。台に残された下半分は、鋭利な切り口を見せていた。  「なんで?」  本当に不思議そうに、スィグルが呟くのを、シュレーは聞いた。イルスが苦笑して、肩をすくめた。そうするのは、どうやら彼の癖のようだった。呆れたり、困ったりして言葉が見つからなくなると、イルス・フォルデスは、よく、そうした表情を見せる。  地下の練習場には、明々と篝火がたかれてはいるものの、やはりどこか薄暗く、かすかに松ヤニの臭いが漂っている。ぼんやりと煤でよごれている石壁に背中をあずけて、シュレーはイルスとスィグルのやり取りを見物することにした。  朝から体調がすぐれないように思ってはいたが、一向に治まる気配もない胃の痛みのせいで、もう戦斧を振るのもうんざりだった。最後の練習相手を丁重に断ってからは、都合のいいことに、もう誰もシュレーに近づいてこなくなった。誰にも知られないように深いため息をつき、シュレーは額に浮いた脂汗を手でぬぐった。胃を締め付ける痛みが落ち着くまでは、どこかに歩いて行く気にもならない。髪を束ねていた絹糸を指で切り、シュレーは、肩までで切りそろえた淡い色の金髪をほどいた。  いくつかある練習場の中でも、シュレーが自分の場所として決めているのは一つだけだった。その部屋を目指して現れたわけではないのだろうが、イルスは、砂埃でかすんだ室内にシュレーの姿を認めると、ごく自然な成り行きで近づいてきて、気さくに挨拶をした。驚いたことに、昨日まで口を利くのも汚らわしそうにしていたスィグル・レイラスが、愛想がいいとは言えないまでも、自分から挨拶してきた。おはよう、と不愉快な荷物を押しつけるように言い、その後は憮然と黙り込んでしまったが、シュレーはその変化を画期的なことと受け止めていた。  スィグルに稽古をつけてやっているイルスの言葉に、室内にいる山エルフの学生たちが、耳をそばだてているのに気付いて、シュレーは薄く笑った。彼らが現れると、練習場の空気がざわつくような気がする。黒系種族の姿を見慣れないこともあるのだろうが、それよりも、例の決闘騒ぎの一件が、すでに尾鰭のついた噂となって、学院内を一周したのだと見た方がいいだろう。  学院長への忠告は、思った以上によく効いた。決闘に関する、スィグル・レイラスとイルス・フォルデスの責任は、暗黙のうちに不問に処されたことになる。大法官として学生たちを統率している義弟には悪いが、シュレーはこの結果に満足していた。  しかし、イルスは今後、当分の間、気位の高い挑戦者には事欠かないに違いない。スィグル・レイラスの使う得体の知れない力については、未知のものへの恐れもあって、山エルフの学生たちも及び腰になっているが、イルスが使うのは、少しばかり山のものと形の違っているだけの、ただの剣だと思われている。正体のわからない力に敗れるならともかく、剣の技において敗れ去ったと見とめるのは、気ぐらいの高い山の者たちにとって、耐え難い屈辱にちがいない。  そう遠からず、腕に憶えのある連中が束になって現れ、イルス・フォルデスを屈服させようとするだろう。山エルフたちは、そういう事に熱心だ。自分の誇りを傷つけた者を跪かせ、這いつくばらせることに並大抵でない情熱を注ぐのが、彼らの本性だ。それを達成するために、彼らは手段を選ばない。正々堂々とやるばかりが、復讐ではないのだ。  だが、イルスの技量をもってすれば、並大抵の相手に伸されることはあり得ないだろう。シュレーも自分の腕にはそれなりの自信を持っていたが、イルスを相手に戦うとなると、多めに見積もっても、互角に持ち込むのがせいぜいなように思える。得意の戦斧で対戦しても、動きの速いイルスをつかまえることはできなかった。小回りの効く剣を使ったところで、イルスの素早さに太刀打ちできないのは目に見えている。  決闘のことだけでなく、イルスが、対戦したシュレーを打ち負かしたという事が、学院の山エルフたちにとって、名誉欲を掻き立てる一因になっているのは確かだ。もし、イルスに勝つことができれば、ひいてはシュレーよりも技量が勝っていると暗に証明することになる。公には尊敬の念を表し、腫れ物に触るように、高位の神官に対するのと同じ礼節をもってシュレーを迎える彼らも、内心では、高慢な神殿の一族の者を打ち負かす名誉を思って酔いしれているに違いない。  彼らの獲物はイルスでもなく、シュレーでもない。ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスと呼ばれる、もう実在しない少年なのだ。奥ゆかしい山の民のことで、神官職に本気で刃を向けるのは気が退けても、イルスが相手なら、遠慮無く戦えるということだろう。イルスにとっては、はなはだ迷惑な話だろうが、決闘熱をあおるのに、シュレーも一役買ってしまったことになる。シュレーは、これには少し責任を感じていた。正直なところ、彼があれほど強いとは思わなかったのだ。あの場で自分に負けてくれていれば、イルスの立場も少しはマシになると考えたのだが、この算段には、かなりの自惚れが含まれていたと認めざるを得ない。  イルスには、そういう危険があることを、忠告しておいてやるのが親切かもしれない。面倒に巻き込まれるのがイヤなら、誰か適当な相手を見つけて、わざと負けてやるのも一つの策だ。だが、そんなことをイルスが受け入れるとは考えにくい。そう思って、シュレーは薄く微笑んだ。  イルスがさくさくと砂を踏んで近寄ってきて、シュレーの前に立った。  「忠告だ」  イルスは抜き身の長剣を提げたまま、髪を掻き、きっぱりとした口調で言った。忠告の先をこされた気がして、シュレーは不思議な気分なり、イルスを眺めた。  イルスは、忌々しそうにため息をつき、慣れた手つきで鞘に剣を戻した。イルスが腰の革帯に吊している鞘は、青や緑のエナメルを焼き付けた見事な品だった。内陸では見かけない不思議な文様が、鞘の拵(こしら)えとして施されている。おそらくそれは、海辺の職人の仕事なのだろう。 「どうぞ」  軽く頷く仕草をして、シュレーはイルスの話を聞くことにした。剣の柄に腕を乗せ、イルスがため息をついた。 「スィグルの腕じゃ、生身のものなんて絶対に斬れない。今までのを見ただろ。痛い目にあうのがオチだ」 「悪かったな」  スィグルが遠くから混ぜ返すが、イルスはそれをあっけなく無視した。シュレーは思わず苦笑した。 「考え直せ。お前、死ぬかもしれないぞ」  イルスはきっぱりした口調で言った。 「そうだな」  口元を覆って、シュレーは、砂地に転がされている折れ曲がっただけの柴の束を見やった。  スィグル・レイラスに翼を切らせる約束をしたのは、確かにちょっと思いきりが良すぎたかもしれない。そう思っているのが分るのか、遠めにこちらを睨んでいるスィグルが、ますます不機嫌そうに眉をひそめた。山の部族の気位の高さも名高いものだが、砂漠の民の傲慢もなかなかのものだ。不愉快そうな顔をしたスィグルに睨まれると、わけもなく謝りたいような気分になってくる。そう思いながら、シュレーはスィグルに笑いかけた。  しかし、それはかえって、高慢ちきな砂漠の殿下のご機嫌を損ねたようだった。ついと視線をそらし、スィグルはこちらに背をむけた。持て余した長剣を砂地に付き立て、それに腕をあずけた華奢な魔導師の周りには、目に見えない結界でもあるように、誰も近寄っていこうとしない。確かに、側に寄っただけで、何をされるか分らない気配だ。  「骨が通ってるのか」  まじめな顔で、イルスが尋ねてくる。話から気がそれていたのに気づいて、シュレーは一瞬、海エルフの少年の顔を、不思議なもののように見下ろした。そしてやっと、彼が、シュレーの背にある翼のことを聞きたがっていることを理解した。同じ練習場で訓練している他の学生を気にして、イルスは具体的な言葉を避けているようだった。 「いいや」  ゆっくりと首を横に振って、シュレーは答えた。 「例のあれは、ある種の共生生物なんだ。母親の胎内で感染して、脊椎に寄生する」  ひそめた声でシュレーが説明すると、イルスが気味悪そうに顔をしかめた。 「寄生…?」 「出生後には、感染したりはしない。だいいち、神聖神殿の血を持っている者にしか寄生できない種なんだ」  苦笑して、シュレーは説明した。イルスが少し安心したような顔をする。イルスの気持ちが明け透けに顔に出るのに、シュレーはある種の感動のようなものを感じていた。イルスが何を思っているのかは、顔を見るだけでわかってしまう。  宮廷で暮らしたことがないという過去が、イルスにそういう振るまいをさせるのだろう。彼は自分を作らない。  シェル・マイオスにも、スィグル・レイラスにも、宮廷で召使いに傅(かしづ)かれて育った者に特有の所作が感じられる。彼らには、王族とは、このように振る舞うべきだという視線に、無意識に応えようとする面がある。自分の思った事を有り体に話し、いつも自分に正直でいることが、部族長の血を受け継いだ者にとって、いかに希有なことなのかを、イルスは知らないにちがいない。  でも、シュレーは、それをイルスの無知だとは思わなかった。彼はなかなか油断ならない。シェルやスィグルは扱いやすいが、イルスには、ときどき何を言い出すかわからないような所がある。それが彼の面白味だ。  「自分の意志で動かせるんだよな。感覚はあるのか」  じっとシュレーの背中を透かし見るような目をして、イルスは顎に手をやった。 「脊椎に根を張っていて、神経系も繋がっている。もちろん、自分の意志で動かせるし、ケガをすれば痛むよ」 「出血は」 「するんじゃないかな。血管系も繋がっているから」  軽く首をかしげて、シュレーは答えた。神殿の一族は、普段、体内に翼を隠していて、めったなことがなければ、それを広げたりしない。だから、翼に傷を負うこと自体が稀な出来事なのだ。実際、シュレーも自分の翼に傷を受けたことは無かった。 「どうやって血を止めるんだ。腕や脚を切ったときみたいに、傷口を焼くのか?」  眉間にしわを寄せて、イルスは不快そうに尋ねてくる。 「放って置いても、勝手に止まるらしいよ。寄生種が体の中に戻ろうとするからね」  指先で鼻筋をかいて、イルスは困ったようにシュレーの顔を見つめてくる。やめると言ってくれないかと考えているのだろう。  「あいつにやらせるなら、方法を考えないといけない。とりあえず剣じゃむりだ。一刀で打ち落とせないと、かなり痛むのは確実だし、だいいち、それだけの力がないのなら、何度やり直しても同じことだぞ。斧でも使うか? それともいっそ、鋸(のこぎり)で引かせた方が確実で早いかもしれない」 「人のことだと思うと、いろいろ恐ろしいことを考えつくものだね、フォルデス」  冗談のつもりで、シュレーは言ったが、イルスは自分の考えたことに嫌気がさした様子だった。 「気持ち悪い」  想像を追い払おうとするように、イルスは軽く首を振った。剣を交える時には、あんなに嬉しそうな顔をするくせに、イルスは意外と、血の気のある話が嫌いのようだ。シュレーは腕組みして身震いするイルスを、おかしな奴だと思いながら眺めた。  その時、メキッと柱の折れるような派手な音が聞こえ、練習場に驚きの声が上がった。シュレーとイルスは、つい先刻まで、スィグルが剣の練習をしていたあたりに目を向けた。  練習台の柱が、暴風に吹き拉(ひし)がれたように折れ、ちぎれ飛んだ木片が、練習場の床に散乱していた。遠巻きに見ていた山エルフの学生たちが、気の無いふりを装うのも忘れ、どよめいている。  スィグルがこちらを向いて、折れた練習台を指さした。 「これじゃだめなわけ?」  苛立ったため息をつくスィグルの手には、剣が握られていない。イルスがこめかみを押さえて下を向いた。 「剣を使え」 「魔法の方が早いよ」  スィグルが聞く耳持たないという風情で言い返す。 「だめだ。剣をとれ」  イルスは厳しい口調で命令した。スィグルはこれ以上はないというほど不満を顕にした顔をしたが、それでも何も言い返さず、砂地に放り出してあった長剣をのろのろと拾いに言った。  「シュレー、お前やっぱり、あいつに殺されるぞ」  スィグルの動作を監視しながら、イルスが忌々しそうにつぶやいた。 「フォルデス、君がやってくれると助かるんだが」  あまり冗談ともいいきれない気分で、シュレーは苦笑した。イルスが首を横に振る。 「俺は人を斬るのはご免だ。戦ならともかく、なんで剣を血で汚さないといけないんだよ。どうしても切り落としたいなら医者を呼べ。剣で斬られるなんて無茶苦茶だ。神殿を頼れば、それなりの処置をしてもらえるんじゃないのか?」  周りに聞かれないように、小さくひそめたイルスの声には、不愉快そうな気配が濃厚に漂っていた。 「たとえ医者にでも、門外不出の秘密を簡単にバラすわけにいかないし、これに関しては、神殿も力にはなってくれないだろう。私の除籍に関して、大神官は今も反対している」 「だったら、神殿を出ることないんじゃないのか? わざわざ……切り落としてまで、どうしてなんだよ?」  イルスは、シュレーの顔をよく見ようとするように、目を細めている。何も見ていないような青い目を見下ろして、シュレーは薄く笑った。 「切り落とした翼を神殿に送りつけて、大神官を納得させるんだ」  耳元で囁くと、イルスは心底イヤそうに顔をしかめて、唾を飲んだ。 「急ぐのか」 「それなりには。…はっきりと除籍されないうちは、それをだしにされて、山エルフ族の額冠(ティアラ)が手に入らないんだ」  シュレーがそっけなく説明すると、イルスは複雑そうな表情で、シュレーの顔をじっと見つめてきた。そして、少し考え込んでから、言った。 「スィグルにやらせるのは止めろ。あいつも結構複雑な心境なんだ」  シュレーは微笑した。 「ある程度は分ってるつもりだ。彼は別に誰も恨んでなんかいない。傷ついて苦しんでるだけだ。だから復讐のために翼を切る必要なんてない…そう言いたいんだろう、フォルデス」 「どうして知ってるんだ」  驚いた顔で、イルスが声を強くした。 「私なら、復讐しようとしていることを、敵に知らせたりしない。そういう相手の前では、いつも微笑んでいるさ」  にっこりと微笑してみせると、イルスは体を退き、動揺したように呻いた。大方、自分も恨まれているのではと、ありもしない咎に思いめぐらしているのだろうと思って、シュレーはおかしかった。  「レイラスは君にいろいろ相談したんじゃないかい。彼は人と話した方がいい。思っている事を話せば、少しは気が楽になる」 「お前…ほんとに色々よく知ってるな。大人っぽいっていうか。そういうのは、すごいと思うけど、なんとなく怖い気もする」  イルスがいかにも尊敬したように言うので、シュレーは思わず吹き出した。こうも、あけすけに物をいう相手と話したのは初めてだった。 「フォルデス、『静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)』が何をする官職か知ってるかい」  イルスが神殿の事情に疎そうなのに気付いて、シュレーは尋ねてみた。するとイルスは、困ったように肩をすくめた。やはりなと思って、シュレーはまた笑った。信心深い山エルフ族の学院で暮らすには、イルスの神殿に対する無知は多少問題があるように思えた。神聖神殿への忠誠心に疑いを持たれでもしたら、彼はなにかと厄介な目にあうことになるだろう。 「懺悔(ざんげ)を聞くのが、ブラン・アムリネスの主な役目だ。神殿の中の狭い部屋で、隣の部屋に来た懺悔者の話を聞くのが仕事なんだ。相手の顔は見えないし、どこの誰なのかもわからない。下位の神官ではなく、ブラン・アムリネス本人に話を聞かせる程度の布施をしたんだから、どういった階層の相手かは、だいたい推測できるけどね。そこで聞く話にずっと耳を傾けていれば、どれが本当に人を憎んでいる者で、どれがそうじゃないかなんて、自然とわかるようになる。君が、空の星を見ただけで、方角を知るように、私には人の心の中に憎しみがあるかどうかが、ちゃんとわかるんだよ」 「お前は、懺悔しに来た連中の悩みを解決してやれるのか」  感心した風に、イルスが呟いた。シュレーはおかしくなって、声をたてて笑った。 「いいや。そんな事、できるわけがないよ。結局、問題を解決できるのは本人だけだ」  イルスがぽかんとして、しばらく言いよどんだ。 「じゃあ、話を聞いたあと、どうするんだよ? ああそうか、大変だなって言うのか?」 「まあ似たようなものだ。黙って話を聞いて、最後に『汝救われり』とか、『悔い改めよ』とか言って送り出すだけだよ。そういう風に答えると決められてるんだ」 「たったそれだけか?」  苦笑いして、イルスは頬を掻いた。 「たったそれだけさ。だから静謐なる調停者なんだよ。つまり、めったに口を利かない神官てことさ」 「めちゃくちゃだ」  イルスが面白そうに言って、笑った。 「でも、そういうことでしか救われない者もいるのさ。苦しみや憎しみで弱くなっていると、誰かに話を聞いてもらわないと、押しつぶされそうになる時がある。レイラスもそうだ。ちがうかい」 「そう思うなら、お前が聞いてやればよかったんだ」  イルスが、とがめるように顔をしかめる。一言口にするごとに、笑ったり怒ったり、忙しい顔だ。 「こういう事は相手を選ぶ。レイラスはブラン・アムリネスに救われたいわけじゃない。フォルデス、君は彼を救えたみたいだね」 「俺は話を聞いてやっただけだ。他には何もしてやれない。どうすればあいつが納得するのかなんて、見当もつかないからな」  イルスは、ばつが悪そうに顔をそむけ、足元の砂地を見下ろした。 「神殿では、私もそうだったよ。余計な手を差し伸べるより、黙って見ているだけの方がいいこともある。本人が自分で何とかできなければ、誰にも解決できはしない」  静かに、シュレーは付け加えた。イルスが重いため息をついた。 「…お前は、誰かに救ってもらえるのか?」  ぽつりと問いかけるイルスの言葉に、シュレーは驚いた。 「私は救いなんかいらない」 「天使だからか」  顔をあげて、イルスは恨めしそうにシュレーの目を見つめてきた。 「意外なことを言うね」 「神殿の天使は人を救うためにいるんだろ。だったらお前みたなヤツは、自分自身だって救えるのかもな。一人でも十分立派にやっていけるってことか?」  印象的な海エルフの青い目を、シュレーは訝しく見つめ返した。イルスが何を言いたがっているのか、よく分からなかった。 「フォルデス…私はもう神殿とは関係がない。だから誰も救わない。自分の面倒は自分でみるが、それは救いとは違う。神殿の血族が救えるものなんて、何もない。レイラスを救ったのは私ではなく、君だった。でも、君はべつに天使でもなんでもないだろう。救いというのは、受け手のほうの技術だよ。レイラスが話さなければ、君は何も聞いてやれない。神官だって同じだ。誰かが懺悔にやってくるから、私はそれを聞いてやる。それだけのことだよ。神官でなくても、背中に翼がなくても、誰にでもできることだ」 「じゃあ、言い方を変える。お前は誰かに自分の話を聞いてもらいたいと思うことはないのか? どうしてお前は、自分のことになると、どうでもいい話をして気をそらそうとするんだ」  すぐに言葉を返そうとして口を開いてから、シュレーは自分が語るべき言葉を持っていないのに気づかされた。考えを巡らすため、シュレーは一呼吸し、イルスから目をそむけた。  「私は自分のことを話すのは好きじゃない」 「救ってもらいたい相手はいないってことか」 「君にはいるのか」  なぜかうっすらと腹が立って、シュレーは早口に聞き返した。 「考えたことがない」  動揺する気配もなく、イルスは答えを返してきた。 「でも、そういう相手はいた方がいいなとは思う。でも、俺は鈍いみたいで、自分が何かに困ってても、気づかないことが多いんだ。大体いつも、人に言われてから、やっと気づくんだよ」 「父上のこともかい」  意地悪くシュレーが問いただすと、イルスは苦笑した。 「いつか親父殿を超える男になってみせる。俺の命数が尽きる前に、必ず」 「…君は、父上に認められたいと思っているだけだよ、フォルデス」  穏やかに、シュレーは諭した。イルスが珍しく、意地の悪い笑みを浮かべた。 「お前は話をそらすのが上手いな。そういうのも、神殿で教えてもらったのか?」  うっと息を呑んで、シュレーは押し黙った。あけすけに言うイルスの言葉は、かえって皮肉めいて聞こえ、まるで別の少年がイルスの姿を借りて話しているようにさえ思えた。  イルスはふと無表情になって、剣の稽古をしているスィグルに目をむけた。 「あいつは…部族のために死ぬのが自分の義務だと思いこんでる。ここで死ぬことでしか、部族に貢献できないって考えてるんだと思う」  淡々と、イルスは語った。彼の青い目が追っているスィグル・レイラスは、いかにも不機嫌そうに、それでいて真剣に、柴の束と格闘していた。 「人質に選ばれるっていうのは、そういうことなんだよな。俺も、ここで死ぬことしか期待されてないのかもしれない。俺がいくら剣の技を磨いたところで、それには何の意味もないのかもな」 「…そんなことはない」  口に出してから、シュレーはなぜ自分がそんな事を言ったのか、不思議に思った。イルスが問いかけるような視線をシュレーに向けた。 「お前、どうして人質になったんだ。神殿にいたほうが楽だったんじゃないのか」 「私は額冠(ティアラ)が欲しいんだ。生まれつきそれを持っている君には理解できないだろうけど」 「額冠(ティアラ)なんかなくても、お前には、ここに赤い点がついてるだろう」  こつこつと自分の額の中央をつついて、イルスは言った。 「……こんなもの、何の役に立つんだい。困った時に竜(ドラグーン)が現れて、私を救ってくれるとでもいうのか。そんなものは、どこにもいない。どこにもいないんだ。聖刻に救われたことは一度もない。私はこれから逃れたいんだ。額冠(ティアラ)と、それのもたらす世俗の権力を手に入れて、自分の世界を取り戻したい。私から、誰も何も奪えないだけの力を手に入れるんだ」 「額冠(ティアラ)なんて、ただの輪っかだぞ。力なんかくれるもんか」  冷たくさえ感じる響きの声で、イルスは呟いた。 「お前が欲しがってるのは額冠(ティアラ)じゃない、別のものだと思う」 「別のもの?」 「俺が剣技を磨くのは、強くなりたいからだ。それは、お前がさっき言ったみたいに、親父殿に認められたいからかもしれない。親父殿や他のみんなに、俺がこの世に無駄に生まれてきたわけじゃないと認めさせたい。今のところ、俺にできるのは剣技を鍛えることだけだ。それだけが俺の取り得だ。他のことで認めてもらえるなら、それでもいいのかもしれないけど、どうせなら、俺は親父殿が一番得意なことに勝ちたいんだよ。お前には、馬鹿げたことに聞こえるのかもしれないけど、でも、それは、俺にとっては大事なことなんだ」  ため息をついて、イルスは華やかに装飾を施された長剣の鞘に触れた。 「お前の場合、それが額冠(ティアラ)を手に入れることなんだろ」  首をかしげて、イルスは言った。シュレーは目を細めた。確かにそうだ。神殿を捨てて、自由を手に入れて、力を手に入れて、そこから先には、何もない。そこまで行くだけでも、自分の一生を使い果たしてしまうのではないかと思いこそすれ、その先を歩かなければならなくなった時、なにを目指して行くのかを考えた事がなかった。 「お前はどうして額冠(ティアラ)が欲しいんだ?」 「さあ…どうしてなんだろうな」 「あいつは、どうして、ここで死ななきゃならないなんて思いつめてるんだ」  視線でスィグルを示し、イルスは呟いた。 「お前、本当に、いいのか。自分を痛めつけたり、あいつをそれに付き合わせたりして、それで本当に欲しいものが手に入るのか」 「何も知らないくせに、君はいろいろ解ってるんだな、フォルデス」  シュレーは呆れたような気分で言った。 「もう一度、よく考えてみよう。彼に頼むかどうかも含めて」 「そうしろ」  安心したように、イルスは穏やかな顔をした。 「フォルデス……また試合をしよう」  シュレーは何も考えず、心の命ずるままに呟いた。すると、イルスはシュレーに向き直って、にっこりと嬉しそうに笑った。 「今度は俺に勝ってみせろよ」 「軟弱な相手ばかりじゃ張り合いがないかい」 「お前とは、話をするより試合をするほうが、分かりやすいことが多い」 「ボロが出てたって言いたいのかい、フォルデス」  いやな顔をするシュレーを見て、イルスはなぜか面白そうに笑い声をたてた。 「お前は難しいな、『竜(ドラグーン)』。俺のことを『竜の心を知るもの(フォルデス)』って呼ぶのはやめてくれ。お前が何を考えてるのかなんて、俺には少しもわからない。その名前は不釣合いだぜ。イルスでいいよ。前にもそう言っただろ?」 「……ああ、そうだったかな」  なぜかシュレーはうろたえていた。 「俺の話を聞いてくれて、ありがとう、シュレー。確かに、ちょっとは気が楽だ。次は俺かお前の話を聞くよ」  イルスが軽くシュレーの肩を叩いて、歩き出そうとする。そして、ふと迷うよう様子を見せてから、イルスは振り返った。  「お前、顔色悪いぞ」  心配そうなイルスの様子がおかしく、シュレーは微笑した。 「もしかして、君が一番言いたかったことは、それじゃないのか」  シュレーがからかうように言うと、イルスは困惑したように眉を寄せ、肩をすくめた。彼自身にも、自分が何のために話しに来たのか、わかっていない様子だった。 「そうかもしれない」 「心配することはないよ。君はもう、借りを返してくれたから、私が死霊になっても、困ることはないだろう」 「そういう事を心配してるわけじゃない。お前はどうしてそうなんだ」  明らかにムッとした顔で、イルスが言った。 「それだけ嫌味が言えるなら、大丈夫なのかもな」 「君もいろいろ気苦労するものだ」  小さく笑い声をたてて、シュレーは言った。イルスが呆れたようにシュレーを見ている。  なんでもない、毒を盛られているせいだよ。いつ死んでも不思議じゃないんだ。顔色ぐらい悪くもなるさ。シュレーは心の中で意味の無い言葉を繰った。そう答えたら、イルスが何と言うのか興味があった。きっと、なにか想像もつかないよな事をしてくれるに違いない。そう思うと、ますますおかしいような気がした。  「君の弟子がイライラして待ってるよ、フォルデス」  スィグルに視線を向けて、シュレーはイルスに、立ち去るように促した。スィグルは、思ったように事が進まないせいか、訓練に飽きてきているようだった。遠めに見ても、彼の剣に身が入っていないのがわかる。 「シュレー、俺の名前はイルスだ」  イルスが、諦めたようなため息をつき、にやりとした。 「わかったよ、イルス」  壁にもたれて腕を組んだまま、シュレーは笑って答えた。  いかにも面白くなさそうな様子で、芝の束を崩して回っているスィグルに説教するため、イルスは練習場の奥へと歩み去った。イルスから何か指摘されて、スィグルは初め、忌々しそうに反論していたようだったが、腹を立てたイルスから軽い拳骨(げんこつ)を食らわされてからは、とたんに大人しくなった。どうやら、海辺の師匠は弟子に反論の権利を与えない主義のようだ。確かに、あの黒エルフには、それくらいの意表をつくやり方でないと、何一つ教え込むことはできそうもない。  相変わらず、胃は痛みつづけていた。しかし、シュレーはそれを、どこか遠くのもののように感じていた。  自分は、無駄なものとしてこの世に生まれてきた訳ではないと、イルスは言っていたが、それは彼を惜しむ者がいるからだ。いつの日か彼が死に、この世界から消えうせたのを知るとき、涙を流してくれる者が何人かはいるだろう。少なくとも、スィグル・レイラスはイルスの命を惜しんでいた。シュレーでさえ、イルスが夭逝(ようせい)するという予言を聞き、動揺したのを認めざるを得ない。  たが、お前の場合はどうだ、と、シュレーの中にいる、もう一人の自分が囁いた。お前は、まるで無駄なもの、忌み嫌われるものとして、この世に生まれてきた。お前の死を悼(いた)んで泣いてくれる者など、この世には一人もいない。その証拠に、お前を殺そうとする者は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほどいるが、お前の命を救おうとする者は、今までに一人もいなかった。この先もずっとそうだ。あと何年、何十年と、苦しみながら孤独に生きていくより、いっそ大人しく殺されたほうが楽ではないのか。  「…私は死んだりしない」  かすれた小声で呟き、シュレーはいつまでも痛みつづける胃を押さえた。 -----------------------------------------------------------------------  1-23 : 開 講 -----------------------------------------------------------------------  開講を告げるラッパの音が高らかに鳴り響いていた。その音色に活気付いた空気に気を高ぶらせ、蹄を踏み鳴らす数十騎の騎馬を、学院の馬丁たちが慣れた様子でなだめすかしている。  森を切り拓いて作った広場には、学院の制服を身につけた学生たちが、数十人ほども集まっていた。厳かに神官への礼をとる学生たちの間を通りぬけ、シュレーは広場の正面にある石段に近づいて行った。  辺りには、濃厚な森の匂いが立ちこめ、運ばれてくる甲冑が打ち合って鳴り響く小気味の良い雑音が聞こえていた。長らくの休暇が明けて最初の講義は、模擬戦だという。シュレーは、前もっての教官からの知らせで、講義の始まりには正面の石段のあたりにいるようにと伝えられていた。  日が天頂へ昇りゆく時刻の、山の空気は肌寒かった。夏が終わり始めているのが、肌で感じられた。早朝からの風が雲を吹き払っており、山々の上には、抜けるような青空が広がっている。高山の頂きを飾る万年雪の白と、淡く霞むような清潔な空の青が、ひどく眩しい。  目を細め、シュレーは広場の正面に顔を向けた。平たく削った石を積み上げた、古い石段に、旗を掲げた柱が並んでいる。中央の柱の旗には、山エルフ族の王権の象徴である、二本の角を生やした山羊の紋章が刺繍されていた。その両脇には、旗のない柱が一本ずつ建っている。それは、模擬戦の勝者の紋章を掲げるための柱だった。二隊にわけた学生たちを戦わせ、勝った方の隊の将軍だった学生には、その指揮を称えるため、軍旗を掲げる名誉が与えられる慣わしなのだ。  「よう。今日は、いくらかマシな顔してるな」  親しげな声に呼びかけられ、シュレーは意外な気分で、旗を見上げていた視線を落とした。すぐ横に、イルスがやって来ていた。そして、気さくに微笑んでいるイルスの後ろには、心底うんざりしていると言いたげな顔つきの、スィグルがいた。  「フォルデス」 「イルスだ」  前もって予想していたらしく、楽しげに訂正するイルスの口調には、シュレーを迎え撃つような気配があった。 「おはよう、イルス」  苦笑しながら、シュレーはイルスの訂正に従った。 「君の同居人は、相変わらず機嫌が悪いみたいだな」 「こいつはこれで普通だと思った方が気が楽だぞ」  肩をすくめて言い、イルスはこちらに背を向けているスィグルを親指で指差した。シュレーは微笑した。  「おはよう、レイラス」 「おはよう、猊下」  愛想のない早口で、スィグルは振り向きもせずに応えた。イルスが口の端を歪めて笑いを堪えている。 「今日は模擬戦だけど、君は大丈夫かい」 「大丈夫って、何がさ」  つっけんどんに、スィグルは言った。 「剣は苦手みたいだったけど、馬には乗れるのかと思ってね」 「余計なお世話だ」  ちらりと振り向き、スィグルは金色の目でシュレーを睨んだ。  「模擬戦て、何をやるんだ?」  腕組みして、学生達を見渡しながら、イルスが言った。 「この学生たちを二つの隊に分けて、それぞれに将軍を決める。そして、実戦を想定して戦わせるんだよ」  シュレーが説明するのを、イルスは不思議そうに聞いている。 「そんなことしたら、今日の陽が沈む頃には、ここにいる連中の半分は死んでるんじゃないのか?」 「イルス、いくら山エルフでも、ほんとに殺し合うほどは馬鹿じゃないと思うよ」  したり顔で言うスィグルの言葉に、シュレーは吹き出しそうになった。 「誰も死ななかったら、どうやって勝敗を決めるんだよ」  イルスは至って真面目に首をかしげる。もっともな疑問だった。 「甲冑の胸当てに小さな壷をつけるんだ。それを割られたら、死んだことになる。壷の中に山羊の血が入っているから、割られると本当に血まみれになる。なるべく死なないようにしたほうがいい」  シュレーは自分の心臓を指差し、忠告した。 「ずいぶんと妙なお遊びだな」  呆れた風に、イルスが言った。 「伝統のあるやり方だ。少なくとも、この学院ではね」  異民族からのにべもない感想に苦笑しながら、シュレーは説明した。  「義兄上(あにうえ)」  不意に呼びかけられて、シュレーは表情を硬くした。振り向くと、義弟、アルフ・オルファンがゆっくりと近づいて来ていた。  アルフはすでに、略式の甲冑を身につけていた。金属の芯をなめし皮で覆った胸当てと、紋章を象嵌した華やかな肩当てを、制服の上に着けた姿は、山エルフ族では一般的な、騎乗戦のための出で立ちだった。  飾り羽根のついた兜を小脇に抱え、皮製の手甲の具合を直しながら、義弟はにっこりと含みのある微笑を見せ、恭しく礼をした。 「ずいぶんと、ご機嫌がよろしいですね、猊下(げいか)。神殿の方は、模擬戦などお嫌いかとご心配申し上げてましたよ」  アルフはなぜか、勝ち誇ったような顔をしている。シュレーは内心で、それを訝(いぶか)しんだ。 「それは、気苦労をかけて済まなかった」  柔らかく微笑み返して、シュレーは言った。アルフ・オルファンは、ちらりと視線を走らせ、イルスとスィグルを眺めた。 「こちらは?」  愚問の類だった。学院にいる黒系種族は、たった二人だけだということを、アルフが知らないはずはない。シュレーはアルフ・オルファンに微笑みかけた。 「フォルデス、レイラス、これは私の義弟のアルフ・オルファン・フォーリュンベルグ。オルファン、あちらは、黒エルフ族のスィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。こちらは、海エルフ族のイルス・フォルデス・マルドゥーク殿下だ」  にやにや笑いながら紹介を聞き、アルフはシュレーが言い終わるのを待たずに、言葉をかぶせた。 「義兄上は、同族の学生とはあまり、ご歓談なさらないようですが、異国のお客人は、よほどお好きなようですね」 「挨拶くらいするものだ、オルファン」  シュレーはやんわりと抗議した。すると、アルフはふふんと鼻で笑った。 「いかにも、おっしゃる通りです、義兄上」  芝居かがった仕草で、イルスの方に向き直り、アルフはにやりと顔を歪めた。 「共通語はお話になられるのかな、海辺の殿下」  皮肉に満ちた物言いを聞き、スィグルが不愉快そうに眉を吊り上げた。しかし、当のイルスは、わずかに苦笑しただけだった。 「一応は」  肩をすくめ、イルスは答えた。 「それは何よりです。片言では身のあるお話もできません」 「共通語が話せても、頭が空っぽだと話題にも事欠く始末、しかたなく皮肉を言うにしても、それ自体、面白みのないことですね」  なめらかな響きのある声で、スィグルが話の腰を折った。にこりともせずに言い、スィグルはアルフ・オルファンの顔を凝視している。 「何の事をおっしゃっているのか」 「独り言です」  珍しく、スィグルはにっこりと晴れやかに笑った。アルフが居心地悪そうに咳払いをした。シュレーは、スィグルの変わり身に呆れた。華奢な黒エルフの王子は、そうして愛想良くしていると、実に美しげで、面と向かって口を利くのも、面はゆいもののように見えた。  そうした事もできるのなら、いつも愛想良くしていてもらいたいものだ。同じ憎まれ口を利くにしても、少しは目の保養になる。  「オルファンは、この学院の大法官をつとめている。学内での出来事には全て、彼が賞罰を与える規則だ。君達もいずれはオルファンの世話になることもあるだろう」  腕組みしたまま、シュレーは説明した。オルファンは不機嫌そうに眉をひそめただけで、何も応えようとしなかった。イルスがちらりとシュレーに視線を送ってきた。どうやら彼は、オルファンがなぜ自分に敵意を見せるのかを納得したようだった。  「レイラス殿下、お噂はかねがね。大変美しい方が学院に来られたとかで、学寮でも夜な夜な噂話が尽きる事がありませんよ」  目を細めて笑い、アルフは言った。 「僕のことでそれほど賑やかになるとは、山の方々は、よほど美姫に不自由なさっているらしい。我が部族の都タンジールでは、容貌について話すのは無作法とされています。誰もが美しいので、お互いを誉めはじめると、いつまでも話が進まない。魔導師というものは、たいてい、くだらない口を利くのが嫌いです」  いかにも宮廷慣れした様子で、スィグルは満面の微笑みを浮かべながら、気の弱い者ならそれだけで胃を悪くしそうな、毒のある声を出した。イルスはその姿によほど驚いているらしく、物言いたげな視線をシュレーに送ってくる。 「すると殿下も魔導師でいらっしゃるようだ」  にやりと口元を歪め、アルフ・オルファンは低く唸った。 「僕は例外ですよ。今こうして、あなたと口を利いている」  スィグルは含み笑いし、むっとしたアルフ・オルファンの顔から、ついっと視線をそらせた。 「ところで猊下、あなたと彼と、どちらが山羊の紋章を継ぐのですか」  詠うように言うスィグルの金色の目が、意地悪く光っていた。アルフ・オルファンがぴくりと肩を揺らす。シュレーは感心して、軽いため息をついた。 「オルファンだよ、レイラス」  挑戦的な黒エルフが面白く、シュレーは笑いながら答えた。 「義兄上(あにうえ)…」  アルフ・オルファンがうめく。 「猊下、僕の部族では、心にもない嘘をつく者の舌は、青く染まると言い伝えられています」  皮肉たっぷりに言い、スィグルが微笑んだ。 「私は初耳だ」  シュレーはため息とともに言った。スィグルはそれには何も応えず、引きつった顔をしているアルフ・オルファンに視線をくれた。 「オルファン殿下、あなたの義兄上の舌が青く染まっていないかどうか、確かめなくていいんですか」 「………黒系種族の言い伝えなど、一向に取り合う気にもならない」  オルファンの額にうっすらと血管が浮いていた。  突然、鳴り響くラッパの音が変わった。学生達の視線が、いっせいに石段の上に集まった。シュレーがそちらに目を向けると、石段の上に、三人の教官が上がって行くところだった。いよいよ模擬戦が始まろうとしている。  「義兄上、決着をつけましょう」  苛立ちを押し殺した声で、アルフ・オルファンが言った。 「なんの決着だ、オルファン」 「ご存知のはずだ」  兜を抱えなおし、アルフ・オルファンはシュレーたちのそばから歩み去ろうとしていた。 「どちらが山羊の紋章にふさわしいか、日没までにはご理解いただけますよ」  捨て台詞のように、アルフは言った。 「…それは楽しみだ」  組み合わせていた腕をほどいて、シュレーはアルフ・オルファンの後姿を眺めた。甲冑を鳴らして立ち去る背の高い義弟の背中が、怒りに燃えていた。  「お前の義弟(おとうと)は、例の決闘のことで、かなり迷惑したみたいだな」  イルスが少し済まなそうに言った。 「決闘で迷惑したのはこっちだろ。なに気のいいこと言ってるんだよ、イルス。あのキンキラ頭のノッポ野郎め、いけ好かない奴だ」  むっとした声で、スィグルが反論した。 「おっと。失礼、猊下」  嫌味たっぷりな流し目をシュレーに向けて、スィグルは慇懃に詫びた。 「どういたしまして」  口の端をゆがめて笑い、シュレーは言った。 「スィグル……お前、ちっとも懲りてないんだな。少しは分かってるのかと期待してたぜ」  イルスが呆れたように言うのを、スィグルはさも意外そうに聞いている。 「分かってるって何の事だよ? 僕が何を分かってないって言うのさ」  言い返すスィグルは、腹の底から意外だと感じているらしかった。軽く口元を覆って、シュレーはなんとか笑いをこらえた。 「無茶するのは止めるって決めたんじゃなかったのか」  半ば諦めたような力ない口調で、イルスが応じる。スィグルは、ふんと尊大なため息をつき、自分の腰に手をあてた。 「それは、そう約束したけど、僕は売られた喧嘩は買うよ。そういうものだろう。喧嘩は無茶なことじゃない、仕方の無いことだよ」 「もうしないって言ってたくせに」 「そんなこと言ったっけ。憶えてないな。イルス、夢でも見たんじゃないのかい」  咎めるような目をするスィグルに睨まれて、イルスは頭痛でもするように、こめかみを押さえた。 「シュレー、俺は今日はもう、こいつと顔を合わせていたくない。別の隊になる方法を教えてくれ」 「それは多分無理じゃないかな」  シュレーは苦笑しながら答えた。  「オルファンの物言いからして、今日の将軍の一人は彼だ。そして、おそらく、残るもう一人の将軍は、私だな。自分の隊の兵になる学生は、将軍が選ぶのが慣わしだが、彼が君たちを選ぶとは思えない。オルファンは私に勝ちたがっている。精鋭を欲しがるだろう」 「僕らが精鋭じゃないって言いたいのか、猊下」  スィグルが目くじらをたてた。 「お前、自分が精鋭だと思ってるのか。どうかしてるぞ」  イルスが至極まじめな口調で忠告した。スィグルはそれにもむっとした様子だったが、反論するのをなんとか思いとどまったらしい。 「学院での戦闘は騎馬兵による馬上槍(ランス)戦が中心だ。君たち、馬上槍(ランス)の経験は?」  顎に手をやって、シュレーは異民族の少年たちの顔を見比べた。 「あるわけないだろ」  スィグルが即答した。イルスが肩をすくめて首を横に振る。 「それじゃ、オルファン将軍の目には止まらないな。君たちは馬上槍(ランス)も使えないし、戦斧も振れない。役に立たないよ」  シュレーはにっこりと笑った。イルスはにやっと笑っただけだったが、スィグルは明らかに腹を立てていた。 「敵地に突撃するなんて獣地味てるよ、優雅じゃないね。そんなことやってるから、なかなか勝てないんだよ、山の連中は」  スィグルは憎々しげに山エルフ族の戦法を非難した。黒エルフ族と山エルフ族は、領境を接している。二つの部族は、領境にある湿潤な平野の支配権をめぐって、長年争ってきたのだ。  山エルフ族は、砂漠の民が送り出してくる魔導師部隊と、矢を雨のように降らせてくる長弓隊の攻撃に苦しんできた。山エルフにとって、弓矢はともかく、魔導師たちは始末に負えないものだった。魔法による攻撃は、どんな盾を以ってしても防ぎようがない。騎馬兵の機動力にものをいわせて、敵陣に突撃をかけ、魔導師たちを殲滅する以外には、これといった対抗策がなかった。そもそも、山の部族の馬上槍(ランス)は、砂漠の魔導師の頭蓋骨を続けざまに突き砕くために開発された武器だ。  「魔法を頼みにしすぎないことだよ、レイラス。君たちの部族は、魔導兵に絶大な自信を持っているみたいだけど、騎馬部隊の脚は速い。馬上槍(ランス)で串刺しにされたら、魔導師だってただの死体になる。それに、全部の兵が魔法を使えるわけじゃないんだろう。山エルフたちは、黒エルフなら誰でも魔導師だと信じてるようだが、そんなことはない。君たちにとっても、魔導兵は稀少な兵器なんだ。それに対する山の兵は、全員が馬上槍(ランス)を使う。物量の論理は、甘えさせてはくれないよ。最後の魔導兵が死んだあとは、君たちはどうやって戦うんだい。突撃してきた山エルフに矢を射掛けても、あまり効果はないと思うが?」  穏やかに説明してやると、スィグルは不機嫌そうに顔をゆがめた。 「馬上槍(ランス)が部族の兵に触れる前に、魔導師が山エルフを一人残らず始末するさ」 「空論だ」  シュレーは笑った。 「なんだって?」  スィグルが針のような小声で答え、じろりと上目遣いに睨みつけてきた。 「失敗したときの打開策を用意せずに戦うなんて、愚か者のやることだ」  シュレーは臆せず、正直な意見を言ってやった。スィグルは腹立たしそうに、大きな息をついている。 「イルスは、どう思うんだよ? 君たちの部族も、山の騎馬兵と戦ったことあるんだろう。故郷では、馬上槍(ランス)との戦い方は習わなかったのかい」  逃げたなと思ったが、シュレーはスィグルを追い詰めないことにした。イルスの考えを聞いてみたかったのだ。  イルスは少し考えるそぶりを見せてから、スィグルの顔を見下ろし、それからシュレーに視線を向けた。 「馬上槍(ランス)で攻撃されたら、よける、習ったのはそれだけだ」 「…よけるって………よけられなかったら?」  口をぱくぱくさせてから、スィグルは助けを求めるような口調でイルスを問い詰めた。 「よけられる」  イルスは困ったように答えた。 「なるほど」  妙な感心をして、シュレーは破顔した。スィグルがますますむっとする。 「おい猊下、これは空論じゃないって言うのか!?」 「彼は速いよ、確かに。馬上槍(ランス)をかわすのなんて、海エルフの兵には大して難しいことじゃないのかもしれない」 「僕の部族がノロマだって言うのか。なんて侮辱だ!」  激昂して、スィグルが言った。ずいぶんと気位の高い黒エルフだ。 「俺たちからみたら、お前らはみんなノロマだ。仕方ないだろう、そういうものなんだから」  当惑した顔で、イルスが応えた。かっとしたスィグルが、目にも止まらぬ速さで平手打ちを食らわせようとした。しかし、イルスはわずかに首を巡らせただけで、事も無げにそれを避けた。勢いづいていたスィグルは、獲物を失ってフラリとよろけた。  「く…くやしい……」  低い声でスィグルがうめいた。 「レイラス、彼は速いって言っただろう。甘く見てたのかい」 「スィグル、あんまり暴れてると、教官に目をつけられるぞ」  畳み掛けるように、シュレーとイルスが口々に忠告した。  その時だった。  「殿下は、我が学院の伝統に敬意を払えぬとおっしゃるのか!!」  突然響き渡った怒声に驚かされ、シュレーはびくりと身を硬くした。スィグルが目を見開いて、広場の石段を振り向く。イルスが眉間に皺を寄せ、石段の上に立っている教官たちを見遣った。  「マイオスだ」  石段の上で、教官たちに詰め寄られている金髪の少年を見つけて、シュレーは呟いた。学院の制服を身につけてはいるものの、シェル・マイオスの明るい金髪は、快晴の空の下ではとびぬけて目立っていた。束ねもしていない、金色の長い巻毛は、本物の黄金でできているように、場違いな優美さを醸し出している。 「…びっくりした」  隠し切れないため息をついて、スィグルが小声で言った。 「どうしたんだ、あいつ」  イルスが心配そうに囁いた。広場に集まった学生たちが、物見高くざわめいている。シェル・マイオスの表情は、ひどく暗かった。心なしか、いくらかやつれたようにも見える。思いつめたように眉を寄せ、唇を引き結び、森エルフの少年は、背の高い教官に囲まれて、弱い生き物のように大人しくうつむいていた。  「僕は…戦闘には参加できません」  震えているが、強い意思を感じさせるシェル・マイオスの声が聞こえた。 「模擬戦闘への参加は本学院の学生の義務である!」  甲冑を着けた山エルフの教官が、雷鳴のような強い声で叱責した。 「殿下、ご体調がすぐれないのであれば、本日の模擬戦闘はご欠席いただいても差し支えございません」  甲冑の教官をやんわりと押しのけて、別の教官が告げた。しかし、シェルは頑強に首を振った。 「戦闘には参加できません。今回も、その次も、ずっとです。もう戦も起こらないはずです。何のために、こんなことをするんですか」  言い終わる頃には、シェルはうつむき、その声は消え入りそうだった。シュレーはため息をついた。  「とっとと森へ逃げ帰ればいいんだ、腰抜けめ」  微かな声で、隣にいたスィグルがつぶやいた。しかし、その声には以前のような覇気がなかった。シュレーはうな垂れたスィグルの横顔を盗み見て、薄く笑った。  「模擬戦闘には参加していただく」 「それほどお嫌でしたら、すぐに退場なさるとよろしいでしょう。模擬戦とはいえ、戦術は実戦と変わりません。気迫の足らぬ兵は、長くは生きておられませんので」  教官の物腰はやわらかだったが、丁寧に絹でくるんだ石をぶつけるようなものだった。言葉にひそんだ明らかな侮蔑の気配を聞き取り、学生たちが次々と忍び笑いした。どよめくような笑い声の中でも、シェル・マイオスは頑固そうにうつむいたまま、じっと拳を握り合わせ、言葉を翻そうとはしなかった。  「本日の模擬戦闘の将軍の名をお呼びする。呼ばれたら壇上へ。課題をご説明する」  立ち尽くしているシェルを押しのけ、甲冑の教官が一歩前へ進み出た。 「西の将軍、アルフ・オルファン・フォーリュンベルグ殿下」  教官の声が告げ終わるのを待たず、学生たちが大声でアルフ・オルファンの名を呼んだ。勝ち誇ったような微笑を浮かべながら、アルフ・オルファンが壇上に姿を見せた。  晴れがましい壇上から、アルフは、強い視線をシュレーに向けてきた。挑みかかるように笑う義弟の視線を受け止め、シュレーは無表情になった。深い息をつき、教官が次の名前を告げるのを待つ。 「東の将軍、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下」  学生たちのある者はどよめき、ある者は言葉を失って沈黙した。シュレーはアルフ・オルファンの視線をかわしてうつむき、ため息をついてから、顔をあげた。  「あれはお前のことか」  抑揚のない声で、イルスが尋ねてきた。 「ちがう。私は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ」  囁くように答えてから、シュレーは歩き出した。壇上へ上がるために。  ちらりと振り向くと、イルスが腕組みしてこちらを見ていた。イルスはただ無表情にこちらを見ているだけだったが、シュレーはなぜか、耐え難い恥を感じていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-24 : 静謐なる調停者 -----------------------------------------------------------------------  「本日の模擬戦闘の課題は、防衛戦である」  戦場の匂いを漂わせた強硬な声色で、山エルフ族の教官は宣言した。短く刈った銀に近い金髪に、鋭い灰色の目をした教官は、壇上に上げたシュレーと、アルフ・オルファンを交互に睨んだ。  「猊下(げいか)の東軍は、北の高地を取って防衛を」  石段の上に広げられた羊皮紙の地図を剣の先で指し、教官はシュレーに視線を向けた。軽く頷き、シュレーは足もとの地図を見下ろした。そこに描かれているのは、模擬戦の舞台となる、学院の南のなだらかな斜面だった。森林と岩場で構成された模擬戦闘の戦場を、シュレーはざっと眺めて確認した。  「猊下(げいか)の陣はこの峰に。対する西軍は、斜面をくだったこの場所に陣を張り、高地を攻める。刻限は日没。それまでに首級を挙げられなければ、残存兵の数で勝敗を決する」  剣で地図上に印されたアルフ・オルファンの陣を突き、教官は歯切れの良い言葉で説明を終えた。シュレーが顔をあげると、アルフ・オルファンの視線とぶつかった。オルファンはにやりと歯を見せて笑い、その次の瞬間には、シュレーがそこにいるのも忘れたというそぶりで、石段の下に集められた大勢の学生に向き直っていた。  「オルファン殿下の軍は高地攻めを行うことになる。地の利に劣るため、西軍の兵力を増強し、騎兵30騎、歩兵40人を率いる」  教官の説明を聞き、シュレーは眉をひそめた。  広場に集められた学生は、多く見積もっても、百人ていどだった。オルファンの軍に、70人からの兵力を割かれては、残る兵の数は知れている。地勢的に有利な高地を割り当てられたからといって、格段の兵力差を埋めるのは至難の技だ。 「西軍の兵力は騎兵20騎、歩兵10人」 「…なんだと?」  とっさの小声で、シュレーは呟いていた。2倍以上の兵力差だった。  眉間に皺を寄せたシュレーの横顔を盗み見て、オルファンがまた薄笑いした。シュレーは内心憮然として、無表情を作った。この模擬戦闘は、どうやら、オルファンが勝利するように仕組まれているらしかった。  これで、どちらが族長に相応しいか、決着をつけるだと?  シュレーは冷ややかな気分だった。アルフ・オルファンを見やると、高慢な義弟は、すでにシュレーの首級を挙げたかのように、勝ち誇った顔をしていた。  面白い。目を細めて義弟を見つめ、シュレーは微かな呟きをもらした。乾いた唇を舐め、もう一度地図に目を落とす。  陣地として指定された高地は、森林に囲まれた手狭な峰だった。背後には谷があり、騎馬兵の退路となるような場所ではなかった。道が開けているのは、南斜面に向かう森林だけだ。これではまるで、敵陣に向かって道が開かれているようなものだ。大層、不利な陣だった。袋小路に追い詰められたも同然だ。  「猊下、こちらを」  恭しい声で、もう一人の教官が呼びかけてきた。振り向くと、教官は手のひらにわずかに余るほどの大きさの、純白の大理石の玉を捧げ持っていた。 「猊下の首級です」  促されて、シュレーはひやりとした感触の大理石を受け取った。 「将軍は、兵に倒された場合、この首級を手渡すように。味方の兵が、陣まで敵将の首級を持ちかえった時点で、模擬戦闘は終了する。戦略、戦術は、各陣の将軍の裁量により指揮をとるように。模擬戦闘による負傷者が出た場合は、いったん陣に収容して医師を待て。以上である」  シュレーは、手の上にある白大理石の塊を軽く握り締めた。重みが腕に心地よい。ふと顔を上げると、アルフ・オルファンの手にも、ほぼ同じ大きさの大理石の玉が握られていた。それは、シュレーが受け取ったものとは違い、ほぼ漆黒に近い色をしていた。  「オルファン、勝算はあるのか」  義弟の手の中の石を見つめ、シュレーは静かに尋ねた。 「これは意外なことをお尋ねになるものだ。義兄上こそ、策がおありなのかな」  シュレーは微笑した。 「私は勝算のない戦いは好まない」 「それは、色々な意味に受けとれるお言葉です」 「日が傾くまでには、その黒い石を貰い受けるよ、オルファン」 「…どうでしょう」  にやっと笑うオルファンに、シュレーは静かに笑って答えた。 「私を甘く見ないことだ、従弟(いとこ)殿」  シュレーは、教官から手渡された革袋に大理石の玉を収め、それを剣を吊るした革帯に結びつけた。 「義兄上はおそろしい」  腕組みして、アルフ・オルファンは面白そうにシュレーを眺めている。 「兵を選べ、オルファン。不利なそなたに情けをかけよう」 「不利?」  とっさに、オルファンはシュレーの言葉を繰り返し、そして、一呼吸のちに、はじけるような笑い声をあげた。喉を反らせて笑う山エルフの少年を、シュレーは穏やかに微笑みながら眺めた。 「さすがは義兄上だ、仰ることが違う。奇跡でも起こされるおつもりなのか、シュレー・ライラル・ディアフロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下? やはり竜(ドラグーン)が現れて、義兄上をお救いくださるのか?」  アルフ・オルファンの声は、必要以上に昂揚していた。執拗に畳み掛けるアルフ・オルファンの皮肉の中に、シュレーは恐れの気配があるのを感じ取り、目を細めて笑い返した。 「そうだよ、オルファン。気をつけろ、私の血は神聖だ」 「……絵空事だ」  ひそめた声で、オルファンは自分に言い聞かせるように応えた。 「この俗世で、神殿と同じように事が運ぶとお考えなら、大変な間違いですよ。神聖なあなたには及びもつかないような事をしてのけるのが、戦場での流儀です。手加減しませんよ、猊下、あなたに勝ってみせる」 「好きにするがいい。気に入りの兵を選べ、オルファン。私は残りの兵でいい」  にっこりと神聖な笑みをつくり、シュレーは優雅な手つきで、広場からこのやり取りを見守っている学生たちを示した。シュレーの顔を見つめるオルファンは、かすかに震えていた。それが怖気によるものなのか、怒りによるものなのかは、彼の顔を見ただけでは計りかねることだった。  ぎりっと歯をくいしばり、アルフ・オルファンは脇に抱えていた兜をかぶった。足音高く石段を降りていく彼を、山エルフの学生たちが歓呼で迎える。手を振り上げてオルファンの名を呼ぶ群衆からは、甲冑の鳴る華々しい音が鳴り響いた  学院はオルファンのものだった。オルファンの軍の兵に選ばれようと、山羊の紋章の甲冑で身をかためた彼に、多くの学生たちが群がって行く。シュレーが現れるまで、それらの全ては、永遠に、彼のものだったのだ。  奪い去られることのない栄光に、オルファンは慣れすぎている。彼はシュレーとはひどく違っていた。オルファンはいつも、なにかが自分から奪われることを何よりも恐れている。それに引き換え、シュレーが考えていることといえば、どうすれば、一つでも多くのものを、この世界から奪い取れるかということだった。  オルファンにとって、世界は名誉と権力を惜しみなく与えてくれるもので、なにかが奪われること自体、不自然なことなのだ。族長の長子として生まれた彼は、産着にくるまっていた頃から、山羊の紋章を身につけている。父親が占めている権力の座も、山の額冠(ティアラ)も、間違いなく彼のものだった。そんなオルファンには、誰かから奪わなければ、生きていくこともままならない者がいるなどと、想像できるはずもない。  シュレーは、腹の底から粘質な笑みがこみ上げるのを感じて、慌ててうつむいた。  オルファンが絹の産着にくるまって、銀の食器で食べていた頃、自分が何をしていたのかを、シュレーはこみ上げる笑いの中で思い返していた。  吹きすさぶ砂交じりの風と、夕日をうつして黄金に光る灰色の雲。細かな針のように石つぶてを乗せた荒野の風に吹かれながら、いつも沈黙がちな父が、今にも、命を絶って楽になろうと言い出すのではないかという不安に耐え、空腹と寒さをやり過ごす他には、これといってすることもない。そんな悲惨な幼年時代を、聖桜城の白い壁の中で、自分は懐かしんでいなかったか。  あんな荒れ野でも、少なくとも自由があった。誰かを憎んだり、誰かに憎まれたりという事も考えなくてよかった。今日の皿に乗る食べ物のことだけを真剣に考えるほかに、脳髄を苦しめるものは何もなかったのだ。  そういう自分の姿が、おそろしく惨めで滑稽なように感じられ、シュレーは笑った。オルファンが憎かった。それは、他の者に言わせれば、おそらく嫉妬と名付けられる感情だろう。父が荒野へ逃げ、何もかもをフイにしてしまわなければ、オルファンが味わっている栄華も名誉も、全てがシュレーのものだったのだ。  それを思う惨めさを認めたくないために、シュレーは義弟への憎しみを押し殺そうとした。  「マイオス」  厳しい声で、シュレーは呼びかけた。石段の上で、相変わらずうつむき、立ち尽くしている森エルフの少年は、シュレーの声にびくりと体をふるわせると、様子をうかがうようにゆっくりと顔をあげた。 「いつまでそうしてるんだ。誰も助けてくれないぞ」  つとめて穏やかな微笑を浮かべたつもりだったが、シェル・マイオスはますます怖気づいたように、じりじりと後ずさった。 「僕は…殺し合いの練習なんてしません。そんなもの、必要だと思えない」 「そう難しいものでもない」 「…ライラル殿下は、神殿の方なのに、殺しあうのも平気なんですか」 「当たり前だ。神殿はいつだって、戦には無頓着で、君たちが殺し合い数を減らし合うのを、楽しんでいる。私はその一族の血に連なる者の一人だ。その私が、どうして殺し合うのを嫌ったりするというんだ。いつまでも、そうやって震えてるつもりかい。君は人質になったんだ。故郷でのことなど早く忘れて、剣をとることを学ぶんだな」  投げ付けるように言い、シュレーは広場へ視線を戻した。オルファンの兵の選抜が、着々と進んでいた。義弟が選んだのは、予想に違わず、馬上槍(ランス)に長けた精鋭ばかりだ。 「ライラル殿下は嘘をついてる。あなたはそんな人じゃない。そんな人だったら、僕に声をかけてくれたりしません」  シェルはどんよりと沈んだ声で言った。 「君がみっともないから、情けをかけてやったんだ。マイオス、私の気持ちを汲んで、ここは大人しく聞き分けるんだ。そうやって、目の前でうじうじされると、ひどく目障りだよ」  馬丁が騎馬兵のための馬を広場の中央に引きたててきた。羽飾りのついた兜をかぶった、晴れがましい騎兵たちが、次々と鞍に跨る。手綱を引かれて活気付いた軍馬があげる、けたたましい嘶き(いななき)が、山々にこだました。  シュレーは我知らず重いため息をもらしていた。見渡した広場に集められた、シュレーのための兵は、見るからに少なく、相対する敵軍の多勢を、不安げに眺めるばかりだ。  その中にいて、少しも気後れする様子がないのは、黒系種族の二人だけだった。イルス・フォルデスとスィグル・レイラスは、黙り込みがちな山エルフの学生たちに気を遣う様子もなく、退屈そうに何かを話し合っていた。  オルファンは、やはり彼らを選ばなかった。  シュレーは、勝算について考えた。そんなものは、万にひとつも無いように思えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-25 : 決 戦 -----------------------------------------------------------------------  学院の南斜面を見下ろす峰に、シュレーが率いる東軍の陣が用意されていた。背後には谷、敵を迎え撃つ正面には、開けた森があるばかりだ。  斜面の南、森がまばらになる辺りに、義弟の率いる西軍の陣が見えた。遠めにも良く目立つ、金糸で山羊の紋章を刺繍された、アルフ・オルファンの軍旗が見える。その紋章は、山エルフ族の族長であり、フォーリュンベルグ家の家長である者を象徴する大角山羊(ヴォルフォス)に、その長子を示す、白い山百合の意匠がそえられたものだ。それは、アルフ・オルファンのために作られた意匠ではなく、代々の長子、すなわち山の部族の継承者が使用してきたものだった。  「おい、猊下(げいか)」  不満げなスィグル・レイラスの声に呼びかけられて、シュレーは振りかえった。見れば、そこには、甲冑の胸当てをつけただけという、ごく簡単な装備で、つんと顎をあげた黒エルフの王子が立っていた。 「甲冑を着けないのか、レイラス。練習用になまらせた馬上槍(ランス)でも、防具もなしにまともに受ければ、肋骨の一本や二本は確実にやられるぞ」  自分の胸郭を覆う甲冑を軽くこつこつと叩いて見せて、シュレーは忠告してやった。しかし、どうせこの生意気な黒エルフのことだ。異民族の武具を身に着けるのを嫌って、わざとそうしているに違いない。  案の定、スィグルはふんと鼻で笑っただけで、シュレーの忠告を受け流した。 「あんた、まさか本当に、馬上槍(ランス)で突つきまわされる気なのか。冗談だろう。負けるんだったら、さっさと負けてほしいね。日没までこき使われて、そのあげく惨敗なんて、うんざりだよ。とんだ茶番もあったもんだ」  煩わしそうに胸当てについた素焼きの入れ物に触れて、黒エルフは文句を言った。 「茶番か…まったくだ」  薄く笑って、シュレーは陣の奥にしつらえられた、簡単な天幕へ視線をやった。騎兵のための馬が並べられ、気の乗らない風な、山エルフの学生たちが、憂鬱そうに手綱をもてあそんでいるのが見える。しかし、イルスとシェル・マイオスの姿は見えなかった。彼らは、天幕に引っ込んでいるのかもしれない。  「さっさとあの旗を降ろして降参したら?」  首を巡らせて、スィグル・レイラスが陣に掲げられたシュレーの軍旗を示した。旗には、天秤の上に心臓と羽根を乗せた、ブラン・アムリネスの紋章が刺繍されていた。その紋章は、神殿を出た時から、シュレーのものではないのが建前だが、新たな紋章を与えられていないこともあり、誰もがそれをシュレーのものと見なしているのだった。 「私がオルファンに負けると思ってるのか」 「負けないとでも思ってるのかい。あんたじゃなくたって、普通は負けるよ。だって向こうはこっちの2倍なんだぞ。自分より強い敵に向かっていくのは、馬鹿のやることだ。父上もそう仰っていた。自分の方が弱い時は、さっさと撤退するものさ。いくら悔しくたって、強くなって戻る以外に、方法なんてないだろう」  ため息をつき、スィグルはしたり顔で説教した。この黒エルフが言うにしては、耳を疑うほど常識的な意見だった。シュレーは笑った。 「猊下、あんたはここでは邪魔者なんだ。勝ち目はないよ」 「ご指導ありがとう、レイラス。しかし私は面と向かって挑戦されて、すごすごと引き下がれるほど、恥知らずではないんだ」 「恥?」  眉をひそめて、スィグルが呟いた。 「もう充分辱められてるよ、猊下。連中がなんて言ってるか聞いてみな」  天幕のあたりにたむろしている、金髪に白い肌の山エルフたちを見やって、スィグルは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。 「オルファンの敵のために戦ったって、何の意味もないんだとさ。神官崩れの指揮なんて目も当てられないに決まってるから、さっさと戦死して、死体置き場で休んだ方がマシらしいよ。そもそも、この模擬戦闘は、オルファンを勝たせるための芝居みたいなものだ。山エルフの連中は、みんな、前もってそういう話を聞いてるんだよ。猊下、あんたは昨日からずっと、学園じゅうの笑い者だったってことさ。それを知らずにいたのは、あんたと、僕とイルスと、それからあの森のハナタレ坊やくらいだ」 「たいそう自尊心の傷つく話だ」  笑いながら、シュレーは答えた。スィグルは、その声を聞いて、さらにむっとした顔をした。 「……まさか、降参しない気なのかい」 「どうして、わざわざそんな事を聞きに来るんだい。私の指揮が気に食わないなら、君もっさと死体置き場へ行けばいいのじゃないか、レイラス」  シュレーが答えると、スィグルはうつむき、小さく舌打ちをした。 「いやだ」  刺のある小声で呟き、スィグルはため息とともに顔をあげた。 「あんたの不名誉に付き合わされて、どうして僕まで負けなきゃならないんだ。山の者の馬上槍(ランス)に屈服したなんて、アンフィバロウ家の名折れだよ」 「せいぜい、頭蓋骨を割られないように気をつけるといいよ、魔導師殿」  腕を組んでふんぞり返っているスィグルが面白く、シュレーは小さく笑い声をたてた。 「フォルデスは? 彼も降参を勧めてたかい」 「イルス?」  ますます不機嫌そうになって、スィグルは憎たらしそうに相棒の名を口にした。この黒エルフの少年は、不愉快だということを示す表情を、数え切れないほど持っているらしい。 「イルスがそんな事考えるわけないよ。窮地に立たされた戦友を見捨てて逃げるくらいだったら、何かの虫に生まれ変わったほうがマシだとかなんとか言って、やる気満々だよ。海エルフってどうしてああなんだ。どんなに強いつもりか知らないけど、イルスの頭もたかが知れてるね!」  苛立った様子で、スィグルはぺらぺらとなめらかに文句を言った。どうやら、この高慢な黒エルフは、自分の意見が通らなかったことに、よほど腹が立つらしい。 「フォルデスが君の決闘騒ぎに付き合ってくれたのも、その虫に生まれ変わるのが嫌だったからじゃないのか。散々迷惑をかけておいて、今更彼の性分を恨むのは良くない」 「僕は決闘に付き合ってくれって頼んだわけじゃないよ。イルスが勝手にやったんだ」  少しは後ろめたいのか、スィグルの言葉には勢いがなかった。 「じゃあ、私も君にはこの茶番に付き合ってくれと頼まないことにしよう。君が勝手にやってくれ」  にやりと笑って、シュレーは答えた。 「…口ばっかり達者だな、猊下」  押し殺した声で、スィグルが毒づいた。 「私は口以外も達者だよ。さあ、作戦会議をするから、天幕へおいで、レイラス」  シュレーは天幕に向かって歩き出した。あっけにとられた様子で、スィグルがシュレーの背中に言葉を投げ付けてきた。 「なんで僕が作戦なんか考えないといけないのさ。あんたの戦(いくさ)だろう」 「雑兵として使い捨てられるのが好みなら、べつに無理強いはしないよ」  言い捨てて、シュレーは振りかえらずに歩きつづけた。自分の自尊心にひどく正直な黒エルフが、この言葉に逆らえるはずが無いのは、分かりきったことだった。 「畜生、嫌味なヤツだ! もうちょっと普通に話せないのか!」  屈服した気配で、スィグルが怒鳴った。 「君にもその言葉をお返しするよ」  スィグル・レイラスが近づいてくる足音を聞きながら、シュレーは振り向かずに答えた。   * * * * * *  天幕の中に入ると、そこには簡素な机があり、模擬戦の戦場となる南斜面の地図が広げられていた。その前にある椅子に腰しかけ、イルスが頬杖をついたまま、見るともなしに地図を眺めている。  天幕の奥には、まるで哀れな捕虜のような風情で、シェル・マイオスが腰掛けていた。彼は誰とも口を利きたくないという様子で、ぎゅっと握り締めた拳を、行儀よくそろえた膝の上に置き、うつむいていた。  シュレーはため息をつき、イルスの後姿に呼びかけた。  「良策でも浮かんだかい」 「あいにく、そんな都合のいいものはない」  シュレーが声をかけても、イルスが振り向く気配はなかった。天幕に誰が入ってきたのかが、その姿を確かめるまでもなく、彼には分かっているらしかった。 「負けるに決まってるさ」  遅れて天幕に入ってきたスィグルが、無愛想に言い放った。 「シュレーを説得できたのか、スィグル」  振り向きながら、答えを知っている風に、イルスが尋ねた。スィグルが忌々しげに咳払いをした。 「できるわけないだろ、この石頭、さすがは山エルフの血が半分流れてるだけあるよ。負けるってわかってても、絶対に退こうとしないんだから。馬鹿馬鹿しい。日が傾く前に全滅は確実だ!」 「戦力差が倍あるくらいで、怖気づくな」  苦笑して言うイルスは、場違いなほど平然としていた。負けるのが悔しくないのか、勝てるつもりでいるのか、それとも、芝居がかった模擬戦闘など、どうでもいいと思っているかだ。シュレーは黙って、イルスの表情をうかがった。 「誰が怖気づいてるんだよ! 馬鹿馬鹿しいって言ってるんじゃないか! 一生懸命やればいいなんて、下らない事考えてるんじゃないだろうね、イルス。そんなお綺麗な考え方なんて、何の役に立つっていうんだ。そんなもの、砂牛の耳の毛ほどの価値もないよ!」  畳み掛けるようにわめくスィグルを見て、首を傾げ、イルスが言った。 「それはどの程度の価値なんだ?」 「そんな、今はどうでも良いような事を、いちいち聞かないでくれよ!」  スィグルは息を切らせて熱弁を振るっている。腕組みして、口元に手をやり、シュレーはイルスの横顔を眺めた。そして、少し考えてから言った。 「フォルデス。君は何人までなら倒せる自信がある? 40人は無理か」 「猊下、イルスに一人で戦をさせようっていうのかい」  馬鹿にした口調で、スィグルが混ぜ返した。微笑み返して、シュレーは机に広げられた地図に指をおろした。 「ここが今いる東軍の陣地。こっちがオルファンの西軍だ。見てのとおり、私たちの陣は森に向かって開かれていて、背後は谷、退路がない。先に打って出るには兵力が足りないので、やはり防衛戦ということになるだろうが、騎兵だけを取っても、向こうはこちらに10騎も勝る。レイラスが言うように、ここを押し崩されるのは時間の問題だ」  騎兵を表す駒を、地図の上に並べながら、シュレーはゆっくりと話した。敵の騎兵は30騎、それに対して、味方は20騎。そして、敵の歩兵は40、こちらは格段に少なく、たったの10名だ。山エルフ族の戦法の主体が騎兵による馬上槍(ランス)戦だとは言っても、歩兵の不足は嫌味なほどだ 「持ちこたえたところで、残存兵の数で勝負が決まるんだろ。そういう事なら、始める前から負けてるよ」  オルファンの軍の騎兵を表す駒を指先で弾き飛ばして、スィグルが腹だたしそうに口を挟んだ。騎兵の駒は、ころころと転がって、地図の端まで飛んでいった。机からこぼれおちかけたその駒を、イルスの手がひょいと救い上げた。 「日没までに、お前の義弟(おとうと)の首をもらえばいいんだろ」  地図の上の駒を見下ろし、イルスがあっさりと言った。シュレーは満足して頷いた。 「そういうことだ」  スィグルがあきれたと言いたげに首を振る。 「攻めに出たって、向こうの方が強いのは変わらないよ。戻る場所もなくなって、殲滅されるのが関の山さ。袋叩きにされたいわけか、猊下?」 「陣の護りを固めて、オルファンの軍を誘い出す。オルファンはせっかちだ。はなから勝ちを確信して、全騎兵を投入してくるだろう。すると西軍の陣は手薄になる。おそらく、戦斧の歩兵が半数ほど残っているだけだ。陣が持ちこたえている間に、敵陣まで行き、オルファンの首を取り、陣まで戻る。できそうだと思うか、フォルデス」 「ちょっと待って」  答えようとするイルスの顔の前に手をかざして、スィグルがすばやく止めた。 「どうしてイルスが行くことになってるんだよ」  スィグルは上目遣いにシュレーを睨んだまま、顎でイルスを示した。 「この中で一番腕が立つからだ。彼が断ったら私が行く」  刺々しいスィグルの口調がおかしく、シュレーは笑いながら答えた。 「へえ、猊下御自らのお出ましで? ずいぶんと後のない計略だね」  筆で刷いたような形のいい眉をひそめ、スィグルが嫌味たっぷりの声を使った。  初めて会った時からずっとそうだったが、この黒エルフは、まったく気後れする気配も無く、シュレーの目を凝視してくる。それは彼らの部族の風習に近いものだというが、視線を合わせることはおろか、シュレーの顔を見ることも畏れるような者ばかりの学院に、すっかり慣れはじめていた今では、こうやって睨みつけられるのには少々抵抗があった。 「お前の首を取られたら負けになるぞ」  そっけなく、イルスが尋ねてきた。 「陣にいても、この兵力差だ。時をかけるだけで、起るのは同じ事だろう。だったら私は、万に一つの機会の方に賭ける」  真面目に答えると、イルスがにやりと笑った。 「何人連れて行くつもりか知らないが、お前の技は一対一で戦うためのものだ。シュレー、お前には無理だ」 「そうだよ。そういうのを空論ていうんだよ、猊下」  気味良さそうに、スィグルが言った。よくもそこまで嬉しそうな顔をするものだ。 「まあ、でも、試しにやってみるのもいいから、俺が死んだらお前が出ろ」 「えっ!?」  頷きながら言うイルスの顔を、スィグルがひどく驚いて見上げた。 「イルス、やる気なの!?」 「同時に40人ていうのは、さすがにつらい。でも、全員倒す必要はないんだよな」  地図の上の駒を眺め、イルスは何か思案するように小さく頷いている。 「オルファン一人で充分だ。あとは君の邪魔をする者だけでいい」  敵陣の中央に、西軍の将をあらわす駒を置いて、シュレーは静かに言った。 「戻る時に連中は攻撃してくると思うか?」  机に両手をついたまま、ちらりと顔を上げて、イルスはシュレーを見上げてきた。イルスの顔はいたって真剣だったが、彼の目には、かすかに笑いの気配があった。何かを面白がっている風でもないのに、それは場違いなもののように感じられる。 「ありえない。首級は一度奪われたら取り戻すことはできない。そうなったら、敗北を避ける唯一の方法は、相打ちにすることだ。私の首級を奪い、敗残兵の数で勝敗を決めれば、勝てる可能性は充分にある」 「死ぬなよ、シュレー」  イルスはけろりとして言った。明快な忠告だった。シュレーは頷いた。  鞘を鳴らして、イルスが腰に帯びていた幅広の剣を引き抜いた。海エルフたちの使う文字で、剣には何かが書き記されていたが、シュレーにはその内容まではわからなかった。剣の研ぎ具合を確かめるイルスの行動は、戦いの前にはそうするものだと教え込まれた、様式的なものなのかもしれかったが、刃先を撫でるイルスの仕草には、普段の彼にはない浮き足立った気配があった。  海エルフには強敵を求める本能のようなものがあるという。彼らはいつも小人数で敵陣に現れて、並み居る敵を次々と屠(ほふ)ることに酔いしれ、狂乱する。ひとたび戦いと流血に酔うと、彼らは死を恐れなくなる。大群と大群の戦いを基本とした山エルフ族の観念からいくと、海エルフの戦士達の戦い方は戦闘と呼べるようなものではない。大規模な決闘、もしくは喧嘩、あるいは、ただの殺し合いだ。  神殿の記録には、「狂乱した海辺の戦士は、よく調教された猟犬のようなものだ」と書き残されていた。数十年前、大陸辺境の海辺に派遣された下位の神官が、大神官にあてて報告してきたものだ。  昔、海辺でひどい暴動が起り、神殿がその仲裁に入ったようだったが、結局、我を忘れた海エルフたちには神の言葉など通じず、実際に騒ぎを収めたのは、当時の族長だったらしい。  海エルフたちは、自分よりも強いと認めた相手には、常軌を逸して忠実なのだという。荒れ狂う猟犬の群れには、主人が必要だ。海エルフたちが、自分達を統治する族長を決めるために、血なまぐさい剣闘試合を繰り返すのには、まるで理由がないわけではない。  十数代の族長が即位する間、神殿は、辺境の海辺が安定した王権によって統治されていることに満足していた。だが、その王家も、イルスの実父である現族長、ヘンリック・ウェルン・マルドゥークによって、あっさりと血脈を断たれてしまった。  族長ウェルンはマルドゥーク家の血を引く、先の族長の私生児だという触れ込みだが、それが真実なのかどうかなど、部族の者たちには大して取り沙汰されていない様子だ。ヘンリック・ウェルンは海辺の部族の中でもずば抜けて強く、族長の額冠(ティアラ)を奪い取るための正式な剣闘試合で、68人の候補者全員の首を飛ばした。猟犬たちは、闘技場の白い砂を染める流血に酔い、新たな族長を歓呼で迎え入れたというわけだ。彼らにとって、族長を選ぶのに、それ以上にふさわしい方法などないのだろう。  神殿は、洗礼名も持たない族長を慌てて聖別し、大神官の下僕としての名を教え込まねばならなかった。  シュレーは、イルスの父親と、遠目にではあるが、対面したことがあった。各部族の統治者は、3年ごとに、神殿への忠誠を証するために、聖楼城に巡礼するしきたりだ。ヘンリック・ウェルン・マルドゥークも、もちろん、その折の祭礼に現れていた。  聖楼城の大聖堂で、彼らのために祭祀を行ったのは、ほかならぬシュレーだった。ヘンリック・ウェルンは、まだ若く、厳しい顔をした男だった。はるかな祭壇の高みから彼を見下ろし、シュレーは辺境の族長位簒奪(さんだつ)者を祝福した。うろ覚えの顔を思い出してみても、イルスとはあまり似ていない。  イルスの気質は穏やかで、政敵を皆殺しにしてでも権力を手に入れようというような、彼の父親が示した種類の野心とは、まるで無縁のように思える。そもそもイルスは、権力の座から、遥かにかけはなれた経歴を生きてきた。だが、彼の血の中にも、神官たちが猟犬のようだと恐れた何かが、潜んでいるのかもしれない。  もし彼が戦いに酔って、指揮下を離れたら、今度の模擬戦闘ではひどい負け戦を味わうことになりそうだ。シュレーは何食わぬ顔で、イルスの横顔をうかがった。そして、彼が使い物にならなくなった時のことを考えた。  「あとは陣の防衛の都合だ。騎兵の戦力が劣るのは、どうにもできない」  思案のために乾いた唇を舐めてから、シュレーは再び話し始めた。 「持ちこたえられなきゃ意味無いんじゃないのか」  まるで憮然としきった顔で、スィグルが指摘してきた。シュレーは頷いた。 「大丈夫だ。馬上槍(ランス)が味方の兵に触れる前に、魔導師が騎兵を蹴散らすだろう」 「…………なにそれ」  機嫌が悪かったことも忘れた様子で、スィグルがぽかんとした。 「なんだよ、それ。僕をアテにしてるのか? 虫のいいこと言うなよ。空論だって言って馬鹿にしたくせに」 「空論じゃないさ。君の頭蓋骨が馬上槍(ランス)に砕かれて粉々になっても、私にはまだ20騎の騎兵が残っている。敵を10騎削ってくれればいい。もう少し削ってくれてもいいが、無理は言わないさ。それでもなんとか、対等に渡り合えるようにはなるだろう」 「ひ…ひとりで10騎倒せって? ……無茶苦茶言うな!」 「魔導師がいれば大丈夫だって言ったのは君だよ。嘘だったのかい。とんだことだね、レイラス。舌を見せてくれ。今ごろ真っ青なんじゃないのかい」  シュレーは、からかうつもりで言った。しかし、イルスがいたって真面目な表情で、スィグルの顔をすばやくつかみ、ためらいも無く口をこじ開けた。シュレーは驚きのあまり声もなく、目を見開いた。 「別に青くはないぞ。嘘じゃなかったんだな」  ひどく驚いたせいか、スィグルの針のような細い瞳孔が、今は大きく開いている。 「やれるだろ、10人くらい。食堂ではできて、ここでは出来ないなんて卑怯だぞ、スィグル。どうだ、やるれな?」  イルスがすごむと、スィグルは顔を掴まれたまま、かくかくと頷いた。  ぱっと手を離されて、スィグルがよろよろと後ずさった。驚きすぎて、とっさに文句を言う気力もないようだった。わけがわからなくなっているらしく、スィグルは両手で口を覆ったまま、ひどく動揺した目でイルスとシュレーを交互に眺めている。 「嘘じゃないなら、出し惜しみせずに、ちゃんとやれよ。お前は歩兵としては大した役に立たないんだからな」  困ったやつだと言いたげに、イルスは腕組みをしてスィグルを見ている。 「…フォルデス、冗談のつもりだったんだ」  やっと搾り出した声で言い、シュレーは忘れていた息を吸った。イルスが首をかしげた。 「なんだ、そうだったのか」 「なんだそうだったのか、ってなんだよ!! びっくりするじゃないか! 人の顔をモノみたいに掴むな!! この野蛮人!! ちょっとは常識ってものを考えろ!」  我にかえり、スィグルは火がついたようにわめきはじめた。 「そりゃ悪かったな」  笑うでもなく、イルスは平然と詫びた。  都合の良い展開ではあったが、シュレーは初めて、この小うるさい黒エルフに同情した。 「フォルデス、もしかして機嫌が悪いのか」 「どうしてだ?」  きょとんとして、イルスが聞き返してきた。 「いや…なんでもない」  剣を鞘に仕舞い、イルスがうつむいたまま髪をかきあげた。じっと天幕の下の地面を見つめるイルスからは、ごくかすかに、甘い花か木の実のような香りがした。目を細め、シュレーはふに落ちない気持ちになった。イルスは宮廷人らしく、香(こう)を使ったりするような質(たち)ではない。少なくとも、今まではそうだったはずだ。  「始めるか?」  天幕の入り口に向き直って腕組みし、何かを押し殺しているような声で、イルスはゆっくりと尋ねてきた。 「…フォルデス、分かっていると思うが、模擬戦闘では胸当てにつけた壷を割れば勝ったことになる。相手を痛めつけすぎないように、気をつけてくれ」  言いながら、シュレーはお節介な忠告だったと思った。そういうことなら、イルスはいつも気を遣っているはずだ。  しかし、イルスは、ゆっくりと振り向いて、にやあっと笑った。イルスはかすかに酔ったような顔をしていた。それは、練習試合の時に、打ち合った戦斧の向こう側に見たのと同じ種類の笑いだった。まだ文句を言いたげだったスィグル・レイラスが、驚いたように短くうめいた。 「気をつける」  再びこちらに背を向けながら、イルスが答えた。 「………ああ、そうしてくれ」  軽い動揺をやり過ごしながら、シュレーは頼んだ。  天幕の入り口に下げられた布を払いのけて、イルスが出て行った。外からの微風に乗って、また同じ甘い香りが感じられた。 「……花の匂いがしないか、レイラス」  ためらってから、シュレーはスィグル・レイラスに問い掛けた。 「やっぱりするよね」  自分も気になっていたのだというような含みのある口調で、スィグルが答えた。憎まれ口を利くのも忘れる程度には、スィグルも動揺しているらしかった。 「じゃあ、気のせいじゃないんだ。あれ、イルスからだと思うよ」 「香(こう)でも使ってるのか?」 「ちがいます」  突然、天幕の奥に座っていたシェル・マイオスの声がした。今まで、気配もなくなりを潜めていた彼が、突然口を利いたので、シュレーは訳も無くぎくりとした。 「違うとは、なんのことだい」  シュレーが話を向けると、シェル・マイオスはうつむいていた顔を、少しだけ上げた。 「内陸の奥地には、あの香りと、そっくりな芳香のする花があって、四年に一度だけ開花するんです。海エルフ族では、その年には決まって、暴動が起こったり、戦を始めたり、族長が代変わりしたりする。彼らがあの香りを嗅ぐと、特殊な精神状態になって、気分の昂揚に歯止めが利きにくくなるんです。遠く内陸から離れて、海辺で暮らすようになった今でも、花の開花周期に合わせて、彼らは体調を変化させている。古代語では、花の名前はアルマ。だから、海エルフでは、その時期のことをアルマ期と呼んでいるそうです」  シェルはまるで、魔法で言葉を仕込まれた人形のように、つらつらと無表情に語っている。スィグルが眉間に皺を寄せ、森エルフの話を聞くのを厭うように、机の端に腰掛けて背を向けた。 「アルマ期。その話は神殿の報告にもあった」  そういえば、神殿に保存されていた暴動の報告書にも、アルマ期の影響によるものという記述があった。だが、シュレーはそれについて気にもとめていなかった。報告書を書いた神官の、責任逃れのための苦しい言い訳だと思ったのだ。 「あの花には、少しだけど毒があって、食べたりすると、朦朧とするんです。沢山集めると、匂いだけでも酔うことがあるみたいで。アルマ期の海エルフの体臭にも、同じような効果があるらしいです。お互いに影響しあって、アルマ期の発現を促すためです。海辺にはアルマは咲かないので、彼らは体の中に花を持って行ったんですよ」 「まるで、おとぎ話だな」  シュレーは話を笑って受け流そうとした。 「笑い事じゃないです。彼を止めてください。アルマ期の海エルフは、すごく危険なんです。お互いに殺し合ったりすることを、本能的に求めてるんですよ」 「イルスが? まさか」  目をそらしたまま、スィグルが馬鹿にしたように言った。 「アルマの花には、強い酩酊効果があるんです。アルマ期の海エルフの体の中でも、花の成分と同じものが作られていて、彼らは自家中毒を起こしてるんですよ。イルスがどういう性格かとか、そういうことは関係がないんです。彼が自分を制御できているうちはいいけど、一度血に酔ったら、そう簡単には正気に戻らないですよ」  シェルは眉を寄せ、シュレーを睨みつけてきた。頑固そうな顔だとシュレーは感心した。 「戦いなんて止めましょう。いいことなんて一つもないです。森の中を馬で走り回るなんて…今ごろのこの地帯では、ちょうど、地上棲の鳥の産卵期です。親鳥も卵も、騎兵の蹄にかかったら一溜りもないのに。ライラル殿下、僕には沢山の悲鳴が聞こえます。神殿の一族は、この地上で生きる全てのものの父祖なんでしょう。だったら殿下にだって、その声が聞こえるはずです!」  シュレーに訴えかけるシェル・マイオスの顔は、シュレーが神殿で飽きるほど眺めてきた、従順な信徒たちのものと同じだった。神官たちが自分や世界を愛していて、その嘆きを癒すと信じている者の目だ。 「私には、そんなものは聞こえない。それは、君たちの部族に特有の能力だ。その感応力を使って、君たちは日々、ちっぽけな生き物の声を聞きながら生きている。それらを手なずけて、戦に使うためだよ、マイオス。君たちにだって、悲鳴の主を救えはしない。神殿だってそうだ」 「殿下…あなたは、自分が負けることが、そんなに耐えられないんですか」  シェルの声には、驚きと非難の響きがあった。シュレーはなぜか、不愉快だった。それを自覚するより先に、満面の微笑がシュレーの顔を覆った。 「君たち森エルフの耳には、樹木や獣の声は聞こえても、人の心があげる悲鳴は届かないらしい」  神々しい微笑とともに、シュレーは言った。シェルの視線が、シュレーの横にいるスィグル・レイラスの上をさ迷い、それから逃れるように、再びうつむきがちに地面を見つめた。 「猊下…あんたには呆れるよ」  腕組みしたスィグルが、ほんとうに呆れたような顔で、シュレーを見ていた。 「行こう。マイオスが聞き取ったのは、オルファンの軍の騎馬兵が森を行軍する気配だ。布陣を済ませたら、突撃してくる」  シュレーは、スィグル・レイラスの言葉に答えることなく、彼を天幕の外へ促した。スィグルは物言いたげに目を細めたが、結局何も言わずに天幕を出て行った。  それに続くため、天幕の入り口を覆う布に手をかけたまま、シュレーは少しためらい、シェル・マイオスを振りかえった。 「マイオス」  声をかけてから、シュレーは言葉を選びかねた。 「フォルデスが本当に狂乱したら、どうやって止めたらいいか、君は知っているのか」  シュレーが尋ねると、シェルは目を閉じてため息をついた。 「彼をねじ伏せられるような強敵を用意することです。好敵手が定まれば、相手かまわず殺し合ったりしないものだそうだから」 「ここに、そんな相手がいるものか。他の方法は?」  舌を巻くほどのイルスの撃剣を思い返し、シュレーはため息をついた。 「知りません」  小さな声だったが、それでもきっぱりとシェルは言った。 「ライラル殿下、お願いです。彼を行かせないでください。オルファン殿下にもしものことがあったら…イルスは窮地に追い込まれます」  希(こいねが)うシェルの視線を、シュレーは黙って受け止めた。  オルファンの死。オルファンの死。オルファンの死…  シュレーの頭の中で、その言葉だけが何度も果てしなく繰り返された。あの義弟が、イルス・フォルデスに殺されるようなことになれば、それは同盟の破綻を招く一大事だ。  そこから先を考えることは、シュレーには出来なかった。それについての自分の結論を、知りたくなかったのだ。  シュレーはシェルの視線を断ち切って、何も言わずに天幕を出て行った。 -----------------------------------------------------------------------  1-26 : 罪の定義 -----------------------------------------------------------------------  無数の小さな悲鳴が、シェルの耳の奥で、熱く鳴り響いていた。それは、追い立てられ逃げ惑うものの、心が叫ぶ悲鳴だった。  シェルは一人、薄暗い天幕の中で、目を閉じ、耳を塞いだ。耳の奥の血管が、鼓動に合わせて、とくとくと脈打つのが感じられる。  この声は、このあたりの高山森林地帯に棲息している、地上性の山鳥のものに違いない。この飛べない鳥達は、夏の終わりから冬までの間に、産卵期を迎える。針葉樹の根元に、細い針のような落ち葉で椀のような巣をつくり、そこへ卵を生みつけては、つがいの鳥が交互に温める習性なのだ。森の木々の根元には、足の踏み場もないほどの、朽ち葉の巣が並んでいることだろう。  悲鳴に引きずられて、少しでも神経を研ぎ澄ますと、騎兵の蹄に踏み砕かれる、小さな生き物の断末魔の気配までが、はっきりとした衝撃になって、シェルの心を苛(さいな)んだ。衝撃を受けるたびに、心臓が激しく動悸する。昂ぶった神経をなんとか鎮めようと、シェルは深い息をつき、自分の心臓の音を聞いた。  日常、必要もなく心を開放するのは身のためにならないと、年長の森エルフたちから何度躾(しつけ)られても、シェルには、耳で聞く音と、心で聞く音を、はっきりと区別することができなかった。  それが、どれほど危険な事か、シェルは耳が痛くなるほど教えられてきた。森エルフに特有の感応力は、自分以外の者の喜びや苦しみを、共有するための力だ。もし、自分では支えきれないほどの感情の波が押し寄せれば、それに耐えきれずに、心を押しつぶされて発狂することもある。それを防ぐには、なるべく心を閉ざして生きることだと、大人達はいつも言っていた。  その力は、特別な時にだけしか使ってはいけないものだ。むやみに使いつづければ、いつかは自分の身に負い切れない力に触れ、それによって息の根を止められるだろう。殊に、相手が強大な自然である場合は、その力をちっぽけなものと侮るのは命取りだ。  シェルは生まれつき、森の獣や樹木の声を聞くことができた。それはいつも決まって、耳の奥の小さな骨を微かに震わす、意味の無い音として始まった。意識して聞かなければ、それは単なる風の音のようなものだが、心を開いて耳を傾けさえすれば、シェルには、いとも簡単に、人ならぬものたちの声が聞き取れるのだった。  シェルははじめ、それが特殊なことだとは気づかずにいた。訳のわからない事ばかり言う大人達よりは、森に棲む鳥や獣のほうが、よほど話のわかる相手に思えていたのだ。  シェルのその能力の強さに最初に気づいたのは、シェル自身ではなく、いつも幼いシェルの遊び相手になっていた、年の近い姉たちだった。  まだ年端の行かないシェルや姉たちは、王宮から出ることを許されていなかった。何百年も前から生き続けている古木ばかりが、うっそうと枝を茂らせる王宮の庭だけが、シェルや歳若い姉達の遊び場だった。  その小さな森の中に棲む、動物や鳥や樹木、ささやかな草木や虫の類までが、かすかに囁き歌い交わす声を、シェルは聞き取ることができた。遠くから来る雨を知らせてブツブツと呟く蟻の歌や、朝、次々と目覚めて葉をひろげる樹々のため息までが、人の声と変わりない馴染み深いものとして、シェルの耳に届いていた。  緑華(りょくか)宮殿と名付けられた王宮は、けして大規模なものではなく、その周囲を樹齢の高い樹々の防壁で、何重にも取り囲まれるようにして建っている、邸宅のようなものだった。王族の誰もが、夜眠る時をのぞいた日々の大半を、緑したたる庭の森をさまよって過ごす習慣だったので、シェルも毎日、姉たちに手を引かれて、森の中をあちこちと歩き回って過ごした。  狭い森のことで、シェルが物心つくころには、森の中で知らない場所などないほどになっていた。いつ花の蕾が開き、どの巣の雛が巣立つのかを、シェルが誰よりも正確に知っているのを、姉達はひどく不思議がった。だが、シェルにとっては、それが分からないという姉達のほうが不思議だった。朝露を吸った枝々から、花の蕾たちの囁く声が、姉達のお喋りする声となんら変わりないものとして、シェルにはちゃんと聞こえていたのだ。  緑華宮殿の庭には、はるかな太古から生き続けていると言い伝えられている大樹があり、それを中心にした濃密な動植物の生態系が営まれていた。大樹の名はアシャンティカといい、年老いてなお瑞々しいその樹木は、代々エントゥリオ家の家長とだけ契約を交わしてきた、森の強大な精霊であった。  アシャンティカの声を聞き取ることは、王族の一員として生まれた者にとって、必要最低限の力だとされていた。王族の子供が、はじめてアシャンティカの声を聞きとった日は、血族をあげての祝い事となる。それは、その子供が、森の一員として受け入れられたことを証明する出来事だからだ。その力を欠いて生まれてきた者は、森では、どうしようもない出来そこないだとして、蔑まれることになる。  アシャンティカの声を聞けなければ、成人のために必要な、守護生物(トゥラシェ)を探す場所を知ることもできない。  時が満ちて旅立ちのための空気が整えば、アシャンティカは王族の子供に、それぞれ定められた行き先を囁きかけてくる。  男子であっても、女子であっても、その時が来れば、アシャンティカに命じられた場所へ旅をして、自分が心を繋ぎ、ともに過ごす守護生物(トゥラシェ)を探さなければならない。森エルフならば、誰しも、守護生物(トゥラシェ)と契約し、その力を分け与えられて生きるものだ。守護生物(トゥラシェ)は守護する者の望むとおりに、様々な力を惜しみなく貸してくれる。それへの代価として、森エルフは森に仕え、守護生物(トゥラシェ)に仕える。そうなってはじめて、子供たちは成人したと認められ、部族の集まりに参加し、婚姻する権利を手に入れることができるのだ。  守護生物(トゥラシェ)がどんな姿をしているかは、アシャンティカの導きしだいだった。それが、より強い生き物であればあるほど、その者の感応力の高さが証明される。守護生物(トゥラシェ)のほとんどは動物の姿をしているが、中にはそれが植物である者もいた。森エルフの族長の守護生物(トゥラシェ)は、ほかならぬ、内陸の森林地帯最古の古木、アシャンティカそのものだった。  王族の誰もが、アシャンティカが、「我を見出せ」と呼びかけてくることを夢見ていた。それはつまり、自分こそが次の族長として選ばれたということだからだ。今の族長であるシェルの父は、すでに沢山の子を成して、老齢だった。アシャンティカに守護され、大樹と心を繋ぐことで、ただ人とは比較にならない長寿を生きている父ではあったが、アシャンティカが新しい誰かの守護生物(トゥラシェ)になる日は、そう遠くないと思われていた。  アシャンティカに旅立ちを促された兄や姉たちは、森の長に選ばれなかった消沈を隠して、つとめて誇らしげに緑華宮殿を出ていった。帰って来る時には、彼らは名実ともに大人になって、守護生物(トゥラシェ)とともに現れる。守護生物(トゥラシェ)が植物だった場合には、旅立った子供が、それきり帰らないこともあったが、気難しい古木が契約に応じることは稀だった。  契約した守護生物(トゥラシェ)の命が尽きるまでは、守護生物(トゥラシェ)の習性に従い、その傍らで生きるのが森での掟だ。四六時中、そばに居なければならない訳ではないが、守護生物(トゥラシェ)の心の声を常に聞いていることが、とても大切なことだと考えられているのだ。  13才になった今でも、シェルにはまだ、守護生物(トゥラシェ)がいなかった。  アシャンティカは、いつも気安くシェルに語りかけてくれたが、いつまで待っても、旅立ちを促してはくれなかった。  シェルは、誰よりも早く、強い感応力を発現させ、誰も聞くことができないほど微かな森の声を聞き取ることができたが、それは結局、シェルを緑華(りょくか)宮殿の奥深くへ閉じ込めただけだった。周囲の感情の変化に過敏なシェルを、姉たちは過保護に扱い、あらゆる悲しみや苦しみから遠ざけようとした。優しい姉たちは、感応力に恵まれすぎた幸運で哀れな弟が、ふとしたはずみで心を打ち砕かれるのではないかと、いつも心配ばかりしていたのだ。  守護生物(トゥラシェ)を伴って戻ってきた兄たちからは、旅立ちの遅いことを、いつも冗談の種にしてからかわれた。感応力の強さだけをとれば、自分たちよりもはるかに強い力を持っているはずのシェルが、そうやって落ちこぼれているのは、兄たちには少しばかり気味が良かったのだろう。  姉たちは、時折、シェルこそアシャンティカを守護生物(トゥラシェ)とする者かもしれないと噂をしていた。大きな樹が育つまでには多くの時間が必要なように、アシャンティカと契約するほどの者が生まれるまでには、長い時をかけなければならないのだと。  シェルは、姉たちの噂が嫌いだった。もし、アシャンティカが自分に、「我を見出せ」と語りかけてくる時が来たとしたら、それは、族長である父が世を去る時だ。シェルにとって、それは想像するのさえ厭わしい、悲しいことだった。  年老いた父は、いつも王宮の森の奥の、大樹アシャンティカの根元に座っている。遠く離れていて、顔を合わせることがなくても、高い感応力を持つ父の心が、いつも自分に優しく触れるのが、シェルには感じられた。父の心には、部族への愛や、それを包む森への愛、そして、我が子を愛しむ優しい気持ちが溢れていた。  家族という親しい間柄であっても、複雑な心と感情を持つ、人と人が心を触れ合わせるのは、とても危険なことだ。よほどの好意で結ばれた相手とでなければ、お互いの心に触れ合ったりはしない。それは、深い愛情を示し合う時や、心に傷を受けた者と、その痛みを分け合って癒す時に限られる。  その慣わしを易々と越えて、気安く語りかけてくれる大樹アシャンティカや、慈愛に満ちた父のことが、シェルはとても好きだった。ふわりと呼びかけてくるその声に応えるのは楽しかった。強大な意思と心を持った、威風堂々の古木たちの言葉を聞くのも、ごく単純な言葉しか理解できない、いたいけな虫たちの歌も、シェルを陽気な気分にさせた。シェルはいつも、森に棲む全てのものを、自分の一部のように愛していた。   それから切り離されることなど、考えた事もなかった。  だから、ある日アシャンティカが呼びかけてきて、森を出るように告げた時も、少しも悲しいと思わなかった。  大樹アシャンティカは、森を出て、はるか遠いトルレッキオへ行けと、シェルに命じた。そしてそこで、守護生物(トゥラシェ)を見つけろと。  ついに旅立ちの時がやってきた。それを知った母や姉たちは、毎日を泣き暮らした。シェルは彼女たちが何を悲しんでいるのかが、よく分からなかった。アシャンティカは、王族の末子であるシェルにも、「我を見出せ」と告げはしなかった。父が世を去るのは、まだ当分先のことなのだ。それを喜びこそすれ、泣きたい気持ちになどなるはずもなかった。  緑華宮殿の小さな森を出て、新しい世界に触れることを思うと、シェルの胸は躍った。自分の守護生物(トゥラシェ)と出会えることも、シェルの気分を明るくさせた。探し出すまでに、どれくらいの時間がかかるかは分からないが、アシャンティカが示す先に、守護生物(トゥラシェ)がいないわけは無い。大樹が示す行き先には、つねに希望が待っている。それは、今までにアシャンティカの示した道を旅してきた多くの者が、証明してきた事実なのだ。  いや。そのはずだった。  シェルは、誰も居ない天幕の奥で、耳を塞ぎながら、必死で遠い森にいるアシャンティカに呼びかけた。  だが、何度呼んでみたところで、聞こえてくるのは、騎馬兵に踏み荒らされる森の悲鳴ばかりだ。蹄から逃げ惑う、親鳥達の甲高い悲鳴。あっけなく潰れて行く卵がたてる、言葉にもならないような漠然とした不吉な気配。荒荒しい馬達の吐息。それを見つめているはずの、この地の樹々は、沈黙しているばかりで何も語ろうとしない。  アシャンティカの声は、どこからも聞こえなかった。  シェルは、森からも家族からも、すっかり切り離されていた。なにかを傷つけることを厭うはずの彼らが、黒エルフの双子と王妃を拷問にかけたわけを問いただしても、シェルの耳には、どんな答えも返ってはこなかった。聞こえてくるのは、逃げ惑い喚き立てる声、ただ、そればかりだ。  シェルは癒されたかった。故郷の森が懐かしかった。あの地では、何もかもが調和の中にあって、不必要に傷つけあったり、意味も無く戦ったりする者などいなかった。少なくとも、シェルにとっての世界は、今までずっと、そのように営まれていたのだ。  森の墓所の生贄に。  シェルは自分の心に深く突き刺さっているその言葉を、何度も反芻しては、記憶の中にある、緑華宮殿の森をさまよった。風にざわめく梢、柔らかく湿った苔、樹々にからみつく、鮮やかな蘭の群生、鳥の声、甘い草いきれ、かわるがわる呼びかけてくる、優しい古木たち。  墓所はその森の深部にあった。アシャンティカの根元に。大きな石の蓋が落とされた、うつろな洞窟の入り口。族長である父は、いつも、苔むしたその石の上に腰を降ろしていた。  一度だけ、シェルはその石蓋の下にあるものについて、父に尋ねたことがある。すると父は、アシャンティカの根だ、と答えた。王族のものが死ぬときは、みなアシャンティカの根に抱かれて永遠の眠りにつき、再び森の土へと還るのだと。今生を終えた森の部族の者が、永遠に護られて眠るために、このような場所は、森のあちこちに数知れずある。そのそれぞれを、森の大樹が護っている。どの樹々もみな、アシャンティカの僕(しもべ)だと、豊かに年老いた族長は誇らしげに語った。  アシャンティカは、はるかな高みにある梢をふるわせて、いかにも、そうだ、と付け加えた。その得意げにおどけた気配を感じ取ると、シェルは微笑まずにはいられなかった。  アシャンティカは森の精霊王だ。森の部族の者たち全員に愛されている偉大な存在で、大陸深くに根を張り、その隅々までを知り尽くした知恵者だ。シェルは、大樹アシャンティカの知識の深さを、いつも心から尊敬していた。  アシャンティカが知らないことなど、なにもない。そう。だから、アシャンティカは知っていたに違いない。森のどこかで、墓所に閉じ込められた黒エルフの双子がいたことを。そして、誰よりも優しいはずの大樹は、それには少しも心を痛めなかったのだ。  その事実が、今は、シェルの心を深く抉(えぐ)っていた。  アシャンティカは森エルフの民の守護生物(トゥラシェ)だ。大樹は何百年もの時を生きつづけ、森エルフを護ってくれた。父が部族を愛し、慈しんでいるように、アシャンティカも、森の部族を深く愛し、大切に思ってくれている。  あの、うっそうと生い茂る、深く豊かな森と、その僕(しもべ)である者たちだけを。  シェルは、この山深い土地で、自分の守護生物(トゥラシェ)など見つかるわけがないと思った。自分は、アシャンティカに見捨てられたのだ。姉たちは、それを知っていたのだ。だから、あんなに泣いて、別れを惜しんだ。  だが、その姉たちも、とめどない涙を流しこそすれ、結局は、シェルをこの異郷へと送り出すのを止められはしなかった。  シェルは、どうしようもない激しさで、逃げ出したいと思った。しかし、自分が何から逃げたがっているのか、そして、どこへ逃げ帰ろうとしているのかは、シェル自身にさえ、少しもわからなかった。   * * * * * * 「シェル・マイオス」  苛立った声で呼びかけられて、シェルはハッと顔をあげた。その声は、まぎれも無く人の喉から発せられる、本物の声だった。  天幕の入り口に顔を向けると、まばゆい外の光を染め抜くように、ほっそりした人影が立っていた。 「出ろ」  砂漠の訛りのある公用語だった。 「…レイラス殿下」  シェルはかすれた声で、戸惑いながら呼びかけた。黒エルフのスィグルが、自分に話しかけてくることなど、もう永遠にないと信じていたので、その意外さがシェルを驚かせていた。 「立てよ」  つっけんどんに言い、スィグルは天幕の入り口にかけられた布を乱暴にはねのけて入ってきた。シェルは思わず、弾かれたように立ちあがっていた。  スィグルは、机の上に置いてあった地図を掴んで、沢山の駒を乗せたままのそれを、おかまいなしに引き抜いた。駒が次々と地面に落ちるのを、シェルは胃の痛くなるような思いで見守った。 「でも…でも僕は…戦いには参加しません」 「猊下も、腰抜けのお前には何も期待してないだろうさ」  地図を筒に丸めながら、スィグルは付け入る隙の無い早口で、シェルの言葉を遮った。 「それじゃあ…何のために呼ばれたんですか」 「閲兵(えっぺい)だ。突っ立って猊下の話を聞いてやればいい。それくらいは付き合えるだろ。お前を呼んで来いって、神聖な猊下からのお言いつけなんだ。言う事をきけ」  スィグルは、細い瞳をそなえた黄金の目で、じろりとシェルを睨み付けた。アシャンティカの根元にあった石蓋のことが頭をよぎり、シェルはとっさにその視線から逃れた。 「レイラス殿下、あの…この前のこと、謝りたいです」 「なにを? なにを謝るんだ。お前に謝って欲しいことなんて何もないよ」  ため息混じりに、スィグルが言った。 「たくさん、失礼なことを言いました。かっとして…ろくに何も考えてなくて」  足もとの地面を見下ろして、シェルは謝罪した。 「……………」  スィグルの物言いたげな沈黙が、じわりと天幕の中を息苦しく満たした。 「あの後、いろいろ考えてみたんです。僕なりに。でも…どうしたらいいか、思いつかなくて…」  シェルは思いつくことを整理する余裕も無く口に出した。 「……本当なんですか。あの時、ライラル殿下が言っていたこと」  自分が事実を確かめたいのか、嘘だと言って欲しいだけなのか、シェルにはもう、わけが分からなかった。 「お前、ほんとうに何も知らないのか」  スィグルは微かな声で尋ねてきた。シェルは思わず答えあぐねた。本当に何も知らなかったからだ。 「僕の部族が、そんな事をできるはずがないです。感応力のある者が、誰かを傷つけるなんて、自分を痛めつけるのと大して変わらないことなんですから」  スィグルが話を聞いてくれている風だったので、シェルは必死で説明した。 「教えてやるよ」  つっけんどんな言葉と一緒に、羊皮紙の地図が投げ渡された。あわててそれを受けとめ、シェルは机越しにスィグルと向き合った。 「安心しろ。お前のお優しい同族たちは、直接は手を下さなかったよ。お前らはいつも、傭兵を雇うんだろう。内陸にはいくらでも貧しい部族がいて、連中は金を見せれば何でもするってさ。お前らはいつだって、それを笑って見ているだけだ。戦場にも、妙なケダモノを連れて現れて、そいつらに戦わせるんだ。お前らは、手を汚すのがよっぽど嫌いらしいな。でも、直接やらなかったからって、それで綺麗なつもりかよ? 何も知らないだって? それがどうした。何も知らないから、自分にだけはにこにこ笑って、一緒に茶のみ話でもしてほしいってのか、坊や?」  突然、言葉を失ったように沈黙して、スィグルは深い息をついた。 「……………いや…お前が悪いんじゃないんだよな」  なにかを押し殺したような声で、スィグルが低く呟いた。彼の言葉は、シェルにではなく、彼自身に向けられたもののように聞こえた。こちらを睨みつけているスィグルの目元が、かすかに震えるのが見えた。 「僕…どうしたらいいですか。どうしたら、許してもらえますか」  自分の声が明らかに震えているのを感じながら、シェルはなんとかスィグルの顔から目をそらさずに問い掛けることができた。  スィグルは、黄金の目で、シェルの顔をじっと見つめている。天幕の薄闇の中で、その目はかすかに光っているように見えた。 「お前の……指をよこせ」 「…え?」  意味が分からず、ぽかんと問い返すシェルの顔から、スィグルが目をそむけた。 「今の…どういう意味なんですか」  スィグルは鋭い視線を、足元の地面に向けていた。 「そのままの意味だよ。お前が自分の指を全部切り落としたら、何もかも許してやってもいい」  シェルは言葉もなかった。 「それ……本気なんですか。本気で言ってるんですよね」  泣き出しそうな気分で、シェルは早口に問いただした。 「やれるっていうのか、お前みたいな甘っちょろい坊やが。じゃあ、やってみせろよ。ぜひ拝ませてもらいたいね」  顔を上げ、語気荒く言うと、スィグルは腰に帯びていた曲刃の剣を抜き放ち、机の上に投げて寄越した。研ぎ上げられた砂漠の蛮刀が、水で濡れたように冷たく光った。シェルは思わず体を退いてしまった。 「拾え。やれよ。やって見せろ。切り落とせ。度胸がないなら、僕がやってやろうか。お前らが僕の母上にやったみたいにな!」  ささくれた大声で、スィグルが怒鳴った。シェルは震えた。  言い終わらないうちに、スィグルが音高く机を叩いた。彼が、ふうっと荒い息をつくのが聞こえた。 「……怖いか、シェル・マイオス?」  机に手をついたまま、スィグルが尋ねてきた。シェルは少し迷ってから、頷いた。 「こ…こわいです」  上目遣いにシェルを見上げて、スィグルが薄く笑った。 「それが自覚できるっていうのは、心底怖がってない証拠さ。お前は僕が本気じゃないと思ってるだろ。そうやって逃げ回ってれば、僕があきらめると思ってる」  机の上の剣を拾い上げて、スィグルはのろのろと、それを鞘に戻した。 「もういいから。僕とは関係無い場所で生きてくれ。僕はお前が嫌いなわけじゃない。森エルフが嫌いなだけだ。僕の前から消えてくれれば、それで許してやる」  シェルはなにか口を利こうとしたが、息を吸い込んだだけで、何も声にならなかった。胸の奥がジリッと焼けるような感覚がして、シェルはいやな味のする唾を飲み下し、あわてて心を閉ざした。スィグルの押し殺した声からは、燃えるような憎悪が感じられた。 「………他には、何もするなって事ですか。レイラス殿下は、僕の指が欲しいんですか」  やっとのことで、シェルは問い掛けた。スィグルが不愉快そうに片眉を吊り上げる。 「お前に何ができるっていうんだよ?」  美しい顔をしかめて、黒エルフは低く囁いた。 「僕らが味わった苦痛がどんなものか、お前なんかに分かるのか?」  かすれた声で問い詰めてくるスィグルの言葉に絡みつくようにして、水の滴るような音が聞こえた気がした。シェルは慌てて気を引き締めた。スィグルの心を覗いてしまいそうな気がしたのだ。そんな無作法なことをして、これ以上、嫌われたくなかった。 「わかりません。でも……分かったら許してもらえるんですか」  シェルが恐る恐る顔をあげると、スィグルは顔をしかめ、ふいと視線をそらせた。 「……いいや」  シェルに背を向けて、スィグルは天幕を出て行くそぶりを見せた。 「さっさと来い。ブラン・アムリネス猊下に嫌味を言われるのには、もう飽き飽きしてるんだ」  スィグルはシェルを待つ気配も見せず、入ってきた時と同じように、足早に天幕を出ていった。  丸めた地図を抱きかかえたまま、シェルはうつむき、自分のつま先を見下ろした。  スィグルの心の中に何があるのかを知るのは、それほど難しいことではない。生まれつきの感応力を使えば、彼の心の奥底に眠る感情のひとつひとつを、まるで自分のもののように辿ることだってできる。  知りたいような気がした。それ以外には、スィグル・レイラスを理解するための糸口が何もない。彼が、森の墓所で何を聞き、何を見たのかを知ることができれば、スィグルが送りつけてくる憎しみのわけも、納得できるに違いない。場合によっては、感応力を使って、傷つけられた彼の心を癒すことも可能かもしれない。  だが、森の掟は、同意のない相手の心に触れることを禁じていた。それは、シェルが知っているかぎり、この世で最も恐ろしい罪だった。  しかし、それが、もっと大きな罪を償うために必要なのだったら。  顔を上げ、シェルは天幕を出た。高山の澄みきった日差しが、シェルの顔にふりかかった。まぶしさに目を細め、シェルは、陣に並んだ山エルフの騎兵たちを眺めた。全身を甲冑で覆い隠した彼らは、どれが誰なのか、まるで判別がつかなかった。  スィグルはその群れからはずれた場所に、腕組みして立っていた。ほとんど甲冑をつけていない軽装で、出撃の準備を整える山エルフ達に、いらいらと穏やかでない視線を向けている。彼の側には、誰もいなかった。何者も寄せ付けないような気配が、スィグルの周りに漂っている。  心を覗くのは簡単なことだ。側へ行って、相手の体に触れられさえすれば、感応力を働かせて、心を寄り合わせることができる。  シェルは、遠めにスィグルを見つめたまま、羊皮紙の地図をぎゅっと抱きしめた。  「閲兵を行う。全員整列」  よく通る強い声で呼びかけられ、シェルはびくっと体を引きつらせた。声のするほうに目を向けると、兜を抱えた甲冑姿のシュレーが、こちらにやって来るところだった。 -----------------------------------------------------------------------  1-27 : かぼそい絆 ----------------------------------------------------------------------- 「マイオス、君に頼みたいことがある」  甲冑の具合を直しながら、シュレーは、無表情な視線でシェルの顔を見下ろしてきた。 「頼みたい事…ですか?」  地図を抱えたまま、シェルは小声で問い返した。 「君には、感応力があるらしい。それを使って、敵軍の戦闘行動を偵察してほしいんだ」 「偵察なんて、僕にはできません」  驚いて、シェルはとっさに、シュレーから一歩後ずさった。 「さっき君が自分で言っていたように、森の声を聞くだけでいい。あとは私が自分で判断する」  シェルを見下ろすシュレーの視線には、有無を言わせぬ意思があった。シェルは呆然とそれを見上げた。イルスのことといい、スィグルのことといい、この神殿からやってきた少年は、使える者は何もかも利用するつもりのようだった。 「地図を」  シェルを招くシュレーの手は、金属製の手袋のような、きらめく手甲で覆われていた。冷たい金属で何もかも覆い隠した姿は、まるで彼の心そのものを表しているように、シェルには思えた。  シェルは、自分が持たされていた地図を、仕方なくシュレーに手渡した。シュレーは地図の端を片手で持ちあげ、空中にそれを開いて見せた。白銀で装飾された兜を抱えているため、彼の左手は埋まっているのだ。  シュレーが小脇に抱えている兜には、白銀を打ち出して、天秤の形をした紋章が象られていた。水平になった天秤の皿の、片方には心臓が、もう片方には、神聖神殿を象徴する、白い羽根が載せられていた。それは、シュレーが神殿にいた頃に名乗っていた、ブラン・アムリネスという神官職の紋章だった。その意匠の由来を、シェルは神官から教えられて、習い憶えている。  ブラン・アムリネスという名は、神聖神殿の創世神話に登場する、天使のものだ。彼は28人いる天使のひとりであり、その身を犠牲にして、大陸の全種族を古の大災害から救ったと言い伝えられている聖者だった。ブラン・アムリネスの性質は慈悲深く、誰もが見捨てた罪人にさえ、最後まで赦しを垂れる天使だと信じられている。  ブラン・アムリネスの紋章に天秤が用いられているのは、神話の中での彼の振る舞いが原因になっている。そもそも、大災害の原因となったのは、民衆が神殿に対して起こした反乱だった。神殿に弓引く者を掃討するため、大神官は、数知れない種族を災害によって滅ぼすことを決定した。その折に、反乱を起こした民衆を最後まで弁護したのが、天使ブラン・アムリネスだった。  神話の中で、彼は熱心に民衆を説得し、神殿との調停をはかろうと奔走するが、結局、その努力もむなしく、神聖神殿の決した処罰は民衆に下されることになった。しかし、ブラン・アムリネスは、神殿の放った矢から、身を呈して民衆をかばい、再度、大神官に民衆の命乞いをした。神殿の天使が、命と引き換えに嘆願した望みに胸を打たれた大神官は、民を撃つために用意した魔法を再び聖楼城奥深くに封印し、民を許したというのが、神話に描かれている出来事だ。  神殿の壁画には、いまも、心臓を射抜かれて血を流す、ブラン・アムリネスの姿が描かれるしきたりだ。ブラン・アムリネスの天秤で量ると、民衆の命は、神殿の権威とまったく同じ重さで釣り合う。神殿種の中で、最も慈悲深い天使、それがブラン・アムリネスだ。  シェルは、その天使が転生したと見なされる者だけが、神聖神殿で、ブラン・アムリネスの神官職につくことになると習った。つまり、今目の前にいる、甲冑に身を包んだ少年が、静謐なる調停者ブラン・アムリネスの転生体だということになる。  シェルは、うらめしい気持ちで、シュレーの兜に飾られた天秤の紋章を見下ろした。  シュレーに、ブラン・アムリネスの名にふさわしい慈悲の心があれば、無駄な戦いで友人を危険にさらし、哀れな生き物を生きたまま踏み殺すことを、思いとどまってくれたはずだ。だが実際には、この少年の中には、神話の天使の慈悲のカケラすら見つけ出すこともできない。彼は、自分の名誉欲と、友人の安全を天秤にかけ、少しも迷うことなく、名誉のほうを選んだのだ。  イルスが窮地に追いこまれるかもしれないと警告しても、シュレーはそれを意に介さない様子だった。彼の神聖な頭の中には、この模擬戦闘に勝つこと以外の考えがないのだ。  「…聞いているのか、マイオス」  ため息まじりのシュレーの声に咎められ、シェルははっと顔をあげた。見上げると、シュレーはまるで無表情に、シェルと向き合っていた。左手の指で、こつこつと兜を叩きながら、シュレーはシェルを見下ろし、そして、厳しい声で言った。 「マイオス、君も、私の指揮が気に食わない連中の一人なのかい」  目を細め、シュレーは灰色がかった緑の目で、シェルの顔を見つめてきた。 「……どういう意味ですか」  戸惑いながら、シェルは尋ねた。シュレーは、まっすぐシェルを見つめたまま、手甲をはめた手で、綺麗に切りそろえられた前髪をかきあげた。血の雫のような聖刻が刻まれた、彼の白い額には、じっとりと汗が浮いていた。 「私に気に食わないことがあるなら、黙っていないで、言葉で言え」 「…イルスを奇襲に向かわせるなんて、止めてください。危険です。こんな模擬戦闘なんて馬鹿げてます。戦の練習をするなんて…殺し合いの練習なんて、僕はいやです」  素直に、シェルは思っていることを口に出した。それを聞き、シュレーはふと皮肉めいた微笑を浮かべた。 「私に文句を言わないでくれ。これはオルファンが仕掛けてきた戦だ。戦うのをやめれば、私は負ける。…それとも、君は、私にさっさと負けろと言っているのか?」 「模擬戦を終わらせる方法が、それしかないなら、そうしてください。戦いの勝ち負けなんて、今はどうでもいいことでしょう。僕は、イルスの方が心配です。ライラル殿下は、そうじゃないんですか?」  シュレーは何も言わず、シェルの顔をまじまじと見た。そして、笑いをかみ殺すように目を伏せ、うつむいた。 「心配か。確かに心配だよ。彼がおかしくなって、指揮下を離れるんじゃないかとね」  再び顔をあげた時には、シュレーの顔にいつもの清らかな微笑が戻っていた。  シェルは、何か胸苦しいような気がして、山エルフ族の衣装をつけた自分の胸元に手をあてた。心臓が、いやに激しく鳴っている。 「マイオス、君は、今日の私の敵が誰か、知っているんだろうな」  シェルの脳裏に、シュレーの義弟であり、山エルフ族の継承者である、アルフ・オルファン・フォーリュンベルグの顔が浮かんだ。一瞬の光景だったが、オルファンはなぜか、憎しみに満ちた顔でこちらを睨んでいた。 「オルファン殿下…です」 「そうだ。オルファンは、今日の模擬戦闘で、私と彼と、どちらが継承者として相応しいかを決しようと挑戦してきた。この戦いの勝者が、大角山羊(ヴォルフォス)の紋章を継承するということだよ、マイオス」  地図を持った腕をおろして、シュレーは、ゆるやかな傾斜を下った先の、敵軍の陣地を遠目に見下ろした。 「でも、これは、ただの模擬戦闘でしょう。山エルフの継承者は、いつも長子と決まっていて、いまさら、変えられるものではないと思います」  シュレーの横顔を盗み見ながら、シェルは小声で反論した。 「なるほど。それでは君に、世の中の仕組みをひとつ教えてあげよう」  シェルの手に地図を返して、シュレーは晴れやかに微笑した。 「山エルフの直系の長子は私だが、現在の族長の長子は、オルファンだ。私の父はかつて、この山の部族の継承者だった。現族長のハルペグ・オルロイ・フォーリュンベルグ閣下は、私の父の実弟、私から見ると叔父にあたる。現族長が死亡した場合、直系血族の中から、もっとも継承権の強いものが次期族長に選抜される。この場合、誰が最も強い継承権を持っているかわかるかい」 「…ライラル殿下です」 「その通り、私がそうだ」  頷いて、シュレーは満足げに笑った。シェルは少し安心した。思わず微笑み返すと、シュレーはかすかに不機嫌そうになり、表情を引き締めた。 「オルファンを族長位につけるためには、どうすればいいか分かるか、マイオス?」  浅いため息をつきながら、シュレーは兜につけられている羽根飾りを撫でた。純白の山鳥の羽根だった。たぶんそれは、神殿からやってきたシュレーのために、学院が特別に用意した白い羽根だろうと、シェルは思った。陣地にいるほかの学生達の兜には、どれも、白地に茶色の斑点のある鷲の羽根が飾られている。講義のはじまりに見た、アルフ・オルファンの兜もそうだ。白い羽根飾りのある兜を使っているのは、シュレーだけだった。 「そんな方法なんて、あるわけがないです。だって、血の濃さは変えられないでしょう?」 「いいや、簡単だ。自分より血の濃い者を抹殺すればいい。そうすれば自分が長子になれる」 「………オルファン殿下が、ライラル殿下に毒を盛っているという話のことですか。でも…そんな馬鹿な。そんなの、きっと、気のせいですよ」 「気のせい?」  シュレーは目を細め、興味深そうに言った。どこか、シェルのことを馬鹿にしているような口調だった。 「いとこ同士で殺し合うなんて、おかしいです」  むきになって、シェルは反論した。すると、シュレーはいかにも可笑しそうに笑った。 「そうだな。だから、優しいオルファンは私に最後の機会をくれた。今日ここで負けて見せれば、命だけは助けてやると言っているつもりなんだ。彼に敗北して、大人しく這いつくばれと。この私に?」  にやりと冷たく笑って、シュレーはオルファンの陣地を見下ろした。 「……だったら尚更負けてください」  背の高いシュレーの顔を見上げて、シェルは説得した。シュレーは面白そうに首をかしげた。 「君は鈍いな、マイオス。負けたら私がどうなるかは、思い付かないのかい。君の賢い頭は、何のためについてるんだ」  シェルはうつむいた。足元の地面に、蟻が行列をつくって進んでいた。彼らはひそひそと、新しいエサ場のことを噂し合っていた。模擬戦闘のことになど、彼らは興味が無い様子だ。 「ここで負ければ、私は一生、オルファンの顔色をうかがいながら生きていくことになる。何かの気まぐれで、彼が再び私の命を欲しがりはしないかと怯えながらね。そして実際、彼はいずれ私の命を欲しがるようになるだろう。靴の中に入った不愉快な小石を、いつまでも我慢する馬鹿がいないように。どうだ、惨めだろう。君には想像できないかもしれないが、ここで死ぬのも、いくらか先の将来に死ぬのも、結局は同じことなんだ。私は自分の地位を確かなものにするために、この戦いには勝たなければならない。明日も、その先も、生きたまま過ごしたければね。君たちには下らなく思えるこのお遊びも、私には本物の戦と同じなんだ。……わかるだろう?」  穏やかに語られるシュレーの言葉は、まるで、シュレー自身に向けられているもののように感じられた。 「…ライラル殿下」 シェルは目を細め、シュレーの厳しい顔を見た。 「私はもう始めてしまったんだ。逃げ帰る場所なんてどこにもない。君もそうだろう、マイオス。ここで踏みとどまるしかない。泣きわめいて見せたって、誰も君の言う事を聞いてはくれない。君は、何かの形で、自分の力を示さなければいけない。戦いが嫌いなら、一番の勝利者になって、この世界から戦いを抹殺するがいい。君がそこで我侭をいっているうちは、誰も君の言葉に耳を傾けはしない」  静かな声で言い終えて、シュレーは陣の奥にいる山エルフの学生たちに目を向けた。  気だるげに寄り固まって、ひそひそと話している甲冑の群れを眺め、シュレーはかすかにため息をもらした。シェルは彼の視線をたどり、それから、もう一度シュレーの顔に目を向けた。いつも自信ありげに見える背の高いシュレーが、なぜか、ひどく気の弱い生き物のように思えた。 「ライラル殿下…どうして神殿を出なくちゃならなかったんですか」  何度か言いよどんでから、シェルは思い切って尋ねてみた。 「君はフォルデスと同じようなことを聞くんだな。私は世俗の権力が欲しいんだ。私を侮る連中に、復讐するための力が……それだけだよ」  優雅に笑いながら答えるシュレーの言葉から、嘘の匂いが感じられた。自分が、何を根拠にそう思うのか、シェル自身にもわからなかったが、なぜか、それが確かなことだという自信があった。 「命の危険をおかしてもですか。そうまでして、何になるんですか。僕には、殿下がそんなことを望んでいるようには見えません」  シェルが尋ねても、シュレーはすぐには何も答えなかった。 「それも、フォルデスが同じ事を言っていたよ。やはり、君たちは似てる」  やんわりと話をはぐらかして、シュレーはシェルに笑いかけた。 「イルスには何て答えたんですか」 「君に答えたのと同じことを」  言葉をひるがえす気配もなく、シュレーはさらりと答えた。彼は、自分が話したことが、自分の望みであると、信じているようだった。あるいは、そうだと信じ込もうとしている。シェルは重苦しい焦りを感じ、眉を寄せた。 「…ライラル殿下は嘘をついている。僕にはそれが分かるんです」 「それも、きみの厄介な感応力の顕れなのかい。そんな下らないことに使う余裕があるんだったら、私を勝たせるために力を使ってくれないか」  呆れた風に言い、シュレーはかすかにムッとした様子を見せた。  「猊下! いつまで待たせるんだ。臆病者をいくら説得したところで、無駄だよ、無駄! あきらめて、さっさと閲兵してくれ。話が終わる前に敵が突撃してくるよ」  じれたスィグル・レイラスがわめく声が聞こえた、シェルから視線をそらせて顔を上げ、シュレーは不愉快そうに深いため息をついた。 「レイラス、兵を並ばせてくれ」  兵のほうを振りかえり、シュレーが言った。スィグルは相変わらず離れた場所にいて、腕組みしたまま胸を張っている。 「あんたが指揮官だ。あんたがやってくれ。僕は知らない」  高慢な大声で、スィグルが宣言した。シュレーか呆れた顔をするのを、シェルは間近で見守った。 「腹の立つ奴だ…我侭を言ってばかりで、聞き分けがない。レイラスといい、この森エルフといい、宮廷育ちの連中は、どうしてこうも政治力がないんだ。オルファンに負けたら、自分たちもこの先、呑気ではいられないんだぞ」  シュレーが独り言のような小声でつぶやいた。その憎憎しげな声を聞き、シェルはぎょっとした。この神聖な少年が、そういった感情を顕にするのを初めて聞いた気がしたのだ。 「怒らないでください、ライラル殿下」  シェルは思わず声をかけた。すると、シュレーは訝しげにシェルを見つめた。 「私は怒ってなどいない」  たしなめるような口調で言うシュレーは、すでにいつもと同じ無表情だ。シェルは急に不安になった。 「すみません…」  謝りながら、シェルは無意識に上着の裾を握り締めていた。急激に鼓動が早くなっていくのがわかる。荒い呼吸で上下する胸をなだめながら、シェルはうつむいた。 「せっかく、名誉を回復する機会を作ってやろうというのに、鈍い森エルフだ。もう待ってやる時間がない。好きにするがいいさ」  苛立ったシュレーの小声が聞こえた。 「気持ちは有りがたいです。でも、僕には、名誉より大切にしたいものがあるんです」  シェルは顔を上げられず、足元を見つめたまま、声を絞り出した。 「マイオス」  突然の大声で呼びかけ、シュレーがシェルの肩に触れた。その瞬間、シェルは頭の中にほのかな幻影が閃くのを感じた。 「マイオス、君は、さっきから、一人で何を言っているんだ?」  シェルの体を軽くゆすって、シュレーが問いただしてきた。シェルは軽い目眩を感じながら、うっすらと白く霞んでいる視界の中の、シュレーを見上げた。  こじんまりと片付いた、質素だが上品な小部屋に、純白の衣装をつけた少女が立っている。今までシェルが会ったことも見たこともないその少女は、恥ずかしそうにこちらを見つめ、優しく微笑んでいた。それなのに、シェルはなぜかひどく不安になった。その場から逃げ出したいほどに。  アルミナ、とその少女の名前を呼ぶシュレーの声がかすかに聞こえた。 「アルミナ……?」  シェルの肩に置かれたシュレーの手が、一瞬、びくりと震えた。 「なぜアルミナのことを知っているんだ?」  正体も無くうろたえた、シュレーの声が聞こえた。 「アルミナ…って、誰ですか?」  視界の眩さに耐えられず、シェルは反面を覆った。明らかな驚きを見せ、シュレーがシェルの肩から手をはなした。甲冑が鳴る金属質な音がチリチリと聞こえ、シュレーが息を呑むのがわかった。 「なんだと?」  つとめて冷静に話そうとしているシュレーの言葉には、語尾の震えが感じられた。耳の奥が焼けるような痛みを感じ、シェルは目を閉じ、耳を塞いだ。 「…ライラル殿下が、そう言ったんです」 「………落ち付け、マイオス。心を閉じろ。君の耳は聞こえすぎだ」  梢の葉が風に震えるような微かさで、シュレーの声が聞こえた。 「ライラル殿下は…どうして、あの白い女の子が怖いんですか?」  シュレーがほんの一瞬で逆上するのが、手に取るように分かった。手甲をつけたままの平手で、シュレーがシェルの横面を殴りつけた。  シェルの口の中に、むせ返るような血の味が湧いた。シェルがよろめいて座り込む間に、白く濁っていた視界が、ふっと鮮明になった。  シュレーが、言葉にならない、か細く震える悲鳴のような声をあげるのが聞こえた。シェルは震えた。それは、どう考えても、シュレーの喉から発せられた声ではなかった。  シュレーの言葉を聞いていたのではなかったのだ。 「ごめんなさい……すみません、僕から離れてください」  痛みで痺れる頬を押さえて、シェルは愕然としながら、かろうじてそれだけ告げた。  シュレーが怒りを押さえこんで、激しく後悔しはじめるのが分かった。 「悪かった、マイオス。防具を着てるのを忘れていた」  目を閉じ、顔をしかめて、シュレーが詫びた。低く押し殺した声は、まだ震えていた。 「ごめんなさい、許してください。わざとじゃないんです。人の心がここまで見えるなんて、今までにないことで、気づかなかったんです!」 「模擬戦には出なくていい。君は陣にいろ」  押し殺したシュレーの声は、ひどく冷静だった。 「これは忠告だが、戦列には参加しないつもりでも、甲冑は着けておいたほうがいい。防衛線を敵の騎馬兵が突破したら、陣にいても、馬上槍(ランス)で攻撃される可能性がある。正直いって、私は陣を守り抜く自信がない。こちらの騎馬兵は、まるでやる気が無いからな」  くるりとシェルに背を向けて、シュレーは山エルフの学生たちがたむろしている方へ、歩み去ろうとした。そして、ふと何かに退き止められるように歩みを止め、少し迷ってから、シェルのほうを振りかえった。 「アルミナは私の妻だ。いや…妻だった女だ。………私は、彼女を怖がっているのか?」  シェルを見下ろすシュレーの顔は、不機嫌なようにも、不安がっているようにも見えた。シェルは答えあぐねた。  無意識にシュレーの精神と同調していた時、白い服を着て微笑んでいる少女のことが、ひどく恐ろしかった。そして、それは間違いなく、シュレーの心が感じていた事だ。あの、いかにも優しげで気弱そうな少女が、シュレーを苦しめる理由がなんなのか、シェルにはわからなかった。 「どうしてあの人が怖いんですか?」  シュレーが自分の心を知っているような気がしたので、シェルは、答えるかわりに、一つ先の質問を口にした。 「………君は知ってるんじゃないのか。私の心を覗いたんだろう」  無表情な声で、シュレーは呟いた。シェルは何も答えられず、おろおろと言いよどんだ。 「私はあの女が好きだったんだ」  あっさりと言うシュレーの言葉を聞き、シェルは驚きと動揺のため、思わず短い悲鳴を上げた。シュレーは、赤面するシェルを蔑むように、伏目がちに見下ろしてきた。 「馬鹿馬鹿しい……私を滅ぼそうとする、神殿種の女をだ。私の父は、たった一人の女のために何もかも捨てて、最後には自分の命まで失った。目も当てられない愚か者だ。…だが、私の中にも、それと同じ血が流れているらしい。あの女といると、幸せで目がくらむ。私が恐れてるのは、アルミナ本人ではなく、その低俗な幸福感に酔っている自分だよ」  他人事のように、シュレーは淡々と説明し、言い終えてから、不愉快さに耐えかねたように、微かに眉をひそめた。 「でも、ライラル殿下は……今でもあの子が好きなんですよね」 「…そんなこと、到底認める気にならないが、私の心はそう言ってるかい」  シェルは呆然と首を横に振った。 「わかりません。ライラル殿下が心を閉じてしまったし、僕も、もうあなたの心に触れないようにしているから」  シュレーは少し笑った。 「実は今でも好きだよ。でも、それに何の意味がある? 神殿種の女である限り、彼女は神殿の持ち物、私は神殿を出た身だ。諦めるより他に手はないだろう。神殿には、私の命を奪おうと企む天使も多い。私は、父がそうだったように、命をかけてまで女を欲しがったりしない」 「でも……でも、悲しくはないんですか?」  シュレーがあまりにも平気そうにしているので、シェルは悲しい気持ちになった。 「悲しいよ」  シュレーは真顔で答えた。 「だが、それに何の意味がある? 私が悲しんでいれば、誰かが助けてくれるとでも?」  口を開いたものの、シェルは何も答えられず、細く息を吸った。  こともなげに言うシュレーの無表情が、シェルには、ひどく悲しかった。  唐突に、シェルは自分がいままでに何も失ったことがないのに気づいた。森での暮らしはいつも満たされていて、人々も森の木々も、地を這う虫たちさえ、シェルに優しく、優しく語りかけてきた。シェルが何かに悲しんでいたら、いつも誰かが現れて、それを慰めてくれた。  シェルは、それを当たり前のことだと感じていた自分に気づき、呆然とした。  すぐ目の前にいる少年は、あまりにも、シェルと違っていた。シェルが当たり前のように与えられてきたもののことを、シュレーは何も知らないのだ。  シェルは、自分の幸福を恥じた。優しい家族に囲まれ、飢えることも、寒さに震えることもなく、好きな本ばかりを読みあさり、世俗のことを何も知らず、何に不足を感じることもなく生きてきたこの13年間が、救いがたい罪のように思えた。  シュレーはシェルに最後の一瞥をくれると、再び歩き始めた。甲冑に身を包んだ彼の後姿からは、何にも頼らずに生きている者の強さと危うさが感じられた。  立ち尽くすシェルを放置したまま、シュレーは見る間に兵を並ばせ、ひとりひとりを閲兵した。学生たちは、肩にあしらわれた紋章のほかは、どれもそっくり同じに見える甲冑で身を包み、事務的な恭しさでシュレーの閲兵を受けている。よろりと立ちあがって、シェルはその様子を遠まきに眺めた。  学生達はみな、型どおりに礼儀正しかった。面と向かって、シュレーを馬鹿にしたそぶりを見せるのは、甲冑を着ける気配もない、スィグル・レイラスくらいのものだ。しかし、そうやって、鼻持ちならない態度を示す、あの魔導師だけが、この陣の中で、シュレーのために戦うのが確実な、唯一の兵なのだ。  シェルは腹の底に、ざわつく焦りを感じた。殴られた頬の痛みが、ぼんやりと熱かった。こんなところで、ひとり突っ立って、自分は何をしているのだろうかと、シェルはとても不思議だった。  顔をあげ、耳をそばだてると、また例の悲鳴が聞こえ始めた。山鳥達が逃げ惑っている。それを踏みつぶす、騎馬兵の鞭に昂揚した馬たちのいななき。枝を折られて苛立つ森の木々の声。それは徐々に斜面を這い進み、こちらへ近づいて来ていた。  地面に舞い落ちたままになっていた羊皮紙の地図を、シェルは無意識に拾い上げていた。そこに書かれた地形と、シェルの感応力の網にかかる騎馬兵の気配を照らし合わせると、オルファンの軍はひとつの大きな軍勢をつくって、まっすぐ正面から戦いを仕掛けてくるつもりのようだった。  彼らの到達は近い。しかし、迎え撃つための準備が間に合わないほどではない。オルファンの軍は、進軍をあせるあまり、長い縦列に延び切っていた。彼らが隊列を立てなおすまでには、いくらか時間がかかりそうだ。相手が大群であっても、少しずつ兵力を切りとっていけば、勝ち目があるかもしれない。  地図を握り締めて、シェルは閲兵の進む兵の列へと近づいて行った。  相変わらず、戦いは恐ろしかった。今すぐにでも、それを終わらせたかった。だが、どちらかが勝つまで決着がつかないのだとしたら、シュレーを勝たせてやりたい気がした。やるだけ無駄なのかもしれないと感じはしたが、彼が窮地にいると知り、そこから彼を救いたいと考える者が誰一人いないのでは、あまりにも悲しいと思ったのだ。  閲兵を終えようとしているシュレーの前で、シェルは立ち止まり、地図の一点を指差した。 「あなたの敵は、今ここです、ライラル殿下」  シュレーは、最後の兵の甲冑に手を触れたまま、シェルの顔を見下ろした。彼は何も言わなかった。 「今なら、隊列が長く延びていて、敵の兵も油断している……彼らは遊び半分で山鳥を追いたてています。真剣に行軍しているわけではないです。馬も並足で歩いたり、突然走ったりして、足並みがそろっていません」  シェルが説明すると、シュレーは薄く笑った。 「どうするのがいいと思う、マイオス」 「敵が目的地に辿り付いて、陣形を整える前に、到着した少数の兵を、順に叩けばいいんじゃないかと思います」 「同感だ。先頭の兵が行軍をとめたら、私に伝えてくれ」  最後の兵の、ゆるんだ甲冑の革ベルトを勢い良く引き絞り、シュレーは満足げに言った。 「どういう風の吹きまわしだ?」 「…ライラル殿下、世界には、あなたが困っていると知って、それを無視できない者だって、ちゃんといます。僕は、そういう人は、きっと沢山いると思う……もし、今までそういう人がいなかったんだったら、この先に出会うんだって考えてください。居ないんじゃないです。ただ巡り合わせが悪かっただけで、そういう人は、ほんとは沢山いるんです」  シェルの顔を見て、首をかしげ、シュレーは吹き出しそうなのを堪えているような顔をした。 「なかなか素敵な幻想だな」 「幻想じゃありません。本当のことです」  早口に、シェルは反論した。  にやりと含みのある笑みだけを残し、シュレーは白い羽根を飾った兜をかぶった。そうすると、白い飾り羽根と、甲冑にあしらわれた静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)の紋章のほかに、彼を識別できるものは何もなくなった。  シェルをその場に置き去りにして、シュレーは彼のための白い馬に跨った。銀色に輝く面覆いを跳ね上げ、馬上槍(ランス)を握ると、シュレーは閲兵を済ませた兵に視線を向けた。 「出陣する。今日の日没には、諸君は、勝軍の兵として祝杯をあげるだろう」  シュレーの声は、自信に満ちあふれ、まるで何かの予言のように響いた。シェルは地図の端を掴んだまま、微かな体の震えを抑えるため、歯を食いしばった。  シュレーの合図に従い、騎兵たちが次々と馬に跨る。甲冑の鳴る音と、蹄を打ちつける馬たちのいななきで、陣はにわかに活気付いた。 -----------------------------------------------------------------------  1-28 : 白羽の軍旗 -----------------------------------------------------------------------  晴れ渡った空の下でも、針葉樹の森は薄暗く、枝の隙間から光の帯のように陽光が射し込むほかには、陰気に湿った土と、朽ちかけた落ち葉があるだけだった。うろこのような樹皮に覆われた針葉樹は、どれも硬く痩せており、まっすぐに天をついてのびては、はるか頭上で傘のように大きな枝を張っている。  馬の手綱を絞り、スィグルは上目遣いに梢を見上げた。リスかなにか、小さな生き物が何匹か、馬の気配に驚いて、せわしなく枝を渡っていっている。くつくつと喉を鳴らすような鳥の鳴き声が、森の奥から空耳のように聞こえていた。  シュレーの合図で、騎馬隊は進軍をとめた。興奮して足を踏み鳴らしている馬をなだめつつ、ご大層な甲冑をつけた山エルフの学生たちは、森の奥を見つめるシュレーに注目している。  「レイラス」  面覆いを上げて、シュレーが呼んだ。誰も彼も同じような甲冑にくるまれていても、白い羽根飾りをつけたシュレーだけは、スィグルにも簡単に識別できた。 「なんだよ、猊下」 「君の魔法の射程はどれくらいだ?」  右腕に抱えた馬上槍(ランス)を鞍の上に預けて、シュレーはうろうろと足踏みする馬の首を撫でている。山エルフの学生たちの、面覆いに隠れされた視線が、いっせいに自分に向けられるのを感じ、スィグルはむっとした。  首をめぐらして、スィグルは都合のよい標的を探した。顎をあげて、梢を見るように促すと、シュレーはちらりとスィグルの顔を見てから、心持ち視線をあげた。  スィグルが、気を落ち付けて集中し、胸の前にかざした右手のあたりに魔力を吸い集めると、指先が痺れるように熱く感じられた。頃合を見計らって、魔力を解放すると、目に見えない力が騎馬隊の頭上の梢を撃ち、生木を折る音とともに、ヘし折られた針葉樹の枝が降り注いだ。  突然の落下物に襲われた騎馬兵たちは、驚き暴れ出す馬を操るのに必死になっている。いい気味だった。スィグル自身の乗り馬も、びくりと耳をふるわせ、前足を跳ね上げかけたが、手綱を引くと大人しくなった。ほくそ笑んで目を細め、シュレーを横目で見やると、兜の中の神聖な顔は、人の悪そうな薄笑いで応えてきた。  「かなりの距離に有効なようだ」 「狙いも正確だよ、猊下。胸の壷を割ればいいんだろ。簡単だよ。うすのろな馬上槍(ランス)隊なんて、僕の敵じゃない」  ふん、と鼻で笑って、スィグルは胸を張った。それを聞いたシュレーが、うっすらと歯を見せて笑った。  鞍に置いていた馬上槍(ランス)を握りなおし、シュレーはスィグルのそばに馬を寄せてきた。 「馬上槍(ランス)隊は基本的に一対一で戦う。一人の兵がいっときに相手にできるのは、一人の敵だけだ。馬上槍(ランス)をかまえ、狙い定めた敵に突撃する。そして、すれ違う瞬間に、相手の心臓を突く」  丸く鈍らせた練習用の馬上槍(ランス)の先で、シュレーはスィグルの胸の中央を軽く小突いた。肋骨の束ねを押されて、倒れかけそうになるのを、スィグルはなんとかこらえた。 「君は甲冑をつけていないから、馬上槍(ランス)で撃たれれば、骨折くらいは覚悟しなくてはいけない。模擬戦では、胸当ての壷を狙うのが規則だが、実戦では、心臓のほかに、喉や眼も狙う。敵軍の兵の、ちょっとした反則行為でも、君は命を落とすかもしれない。君の部族の魔導師のように、馬上槍(ランス)に頭蓋骨を割られたくなければ、敵が突進してくるのに気づいた場合、君に限っては、私の指示を待つ必要はない。迷わず後退しろ」  シュレーの、人を上から見下ろすような物言いが気に食わず、スィグルは眉間に皺を寄せた。 「あいにくだけど、猊下、僕は逃げない。僕を倒そうなんて生意気なことを考える馬鹿は、魔法で吹き飛ばして落馬させてやるさ」  シュレーは含みのある笑いを浮かべた後、どん、とスィグルの胸を押して、馬上槍(ランス)を退いた。息がつまって、スィグルは堪え切れずに2、3度むせた。 「折れた肋骨が肺に刺さると、死ぬこともある。模擬戦では時折、ほんとうに死者がでる。憶えておくといい」  慣れた手綱さばきで馬首を巡らせて、シュレーは兵の最後尾にいる、シェル・マイオスのほうへと近づいて行った。  見るともなしに横目でそれを見送り、スィグルは落ち付かない気分になった。あれほど愚図っていた森エルフのシェルが、シュレーに力を貸すのに同意したのは、意外なことだった。2人が何を話していたのかは、スィグルのいたところまでは聞こえてこなかったが、シュレーが逆上してシェル・マイオスを殴り付けるのが見えた。  複雑な気分だった。軍規に従わない者を罰するのは当然のことだし、まして、憎い森エルフの王族がどんな目にあおうと、小気味良い気分になりこそすれ、その他には何も思うことなどないはずだった。手綱をもてあそびながら、スィグルはシュレーがシェルと話に行くのを見ないようにつとめた。  不愉快だった。殴り付けてでも思惑に従わせようという腹が気に食わない。そうやって、みっともなく足掻いてみせたところで、シュレーの敗北はもう決まっているようなものだと、スィグルは感じていた。  しかし、この戦いに撤退という策がありえないことも、もちろん理解していた。両軍が激突することを前提に、この模擬戦闘は開始されている。これが実際の戦闘であれば、勝機のない戦いからは、撤退するのが正しいやり方だ。敗北が確実だと思われる戦闘に、やけっぱちで臨むなど、優雅なやり方からは程遠い。そこまでの不利を押しつけられること自体も、これほどの窮地に陥るほどの馬鹿者だと揶揄されているようで、ひどく気に食わない。  敵地に人質として身を置いているとはいえ、スィグルは大陸西南部の砂漠地帯で、広大な領地を支配する族長の血統に連なる者だ。せせこましい山の部族に、あざ笑われるために来たのではない。父、リューズ・スィノニムは、政治的な配慮から、神殿の権威の前に致し方なく膝を折っただけで、大角山羊(ヴォルフォス)の軍旗に屈したわけではないのだ。同盟の締結の時点で、北部の戦線は山エルフ族の優位を許していたが、あと1年もあれば、勇猛な父の軍は、内陸の平野を版図に呑み込んだに違いないというのに。  神殿め。  口に出すわけにはいかない呪詛を、スィグルはごつごつした異物を飲み下すように、苦労して喉の奥に押しこんだ。それを口にするのは、わけもなく恐ろしかった。理由の無い恐怖心のようなものが、スィグルの心の奥底に潜んでいるようだった。  ふと顔をあげ、スィグルは学院の外壁のあたりで見せられた、シュレーの翼のことを思い出した。この言い知れない神殿への恐怖感も、あの白い翼と同じものによって、辛気臭い洗礼名と同時に、神官たちがスィグルに押しつけてきたものなのかもしれない。  シュレーは神聖神殿を滅ぼすつもりのようだが、そんな大それたことが可能だとは思えなかった。それを手伝えと持ちかけられたところで、胸のざわつく魅力的な野望だと思いこそすれ、どうすればあの白亜の神殿が倒れるものか、見当もつかない。勇敢で偉大な父ですら、神殿と対抗するのは得策でないと判断し、誇り高いその額を、神聖神殿の白大理石の床に擦り付けねばならなかったのだ。  自分の想像にむっとして、スィグルは唇を引き結んだ。不意に甲高い声をあげて、大きな翼を持った鳥が飛び去っていった。 「レイラス」  声に振り向くと、シェル・マイオスを伴ったシュレーが、また戻ってきていた。 「マイオスが敵軍の位置を読む。マイオスからの合図を聞いたら、君はなるべく沢山の敵兵を討つように心がけてくれ。君の防衛線を突破した騎兵は、こちらの馬上槍(ランス)隊が受けて立つ」 「合図なんか要らないね」  なるべく抑揚のない声で、スィグルは言った。しかし、それに応えるシュレーも、無表情だった。 「戦場においては、情報は重要な要素だ。それに指揮官は私だ。命令違反は処罰の対象になるぞ」  スィグルと同じく、甲冑をつけていないシェルが、ちらちらと不安そうにシュレーのほうを盗み見ている。スィグルは顔をしかめた。 「ふん。あんたの部族じゃ、敗軍の将にも、そんな権威があるのかい」  嫌味を言ってやると、シュレーがにやりと笑った。 「まだ…勝ち目はあります」  横から口をはさむように、馬上のシェル・マイオスが言った。シェルは、無意識のように見える仕草で、馬のたてがみに指を漉き入れ、鞍の頭に軽く手をそえているだけで、手綱を握っていなかった。それでも、馬はシェルのいうことをよくきいた。森の民に独特の力だ。スィグルにはそれが、ひどく薄気味悪かった。 「いまの敵の位置は?」  シュレーが戦いが近づくのを予感している声色で訪ねた。 「もうじきです。先頭が見えるはずです」 「フォルデスは? オルファンを見つけたか?」  当たり前のように、シュレーが尋ねるのに、スィグルは目を見張った。 「まだです。まだ斜面にいる」 「…なんでわかるんだよ」  思わず、スィグルはシェルを問いただした。 「人それぞれに、波のようなものがあって、感応力でそれを追えます。限度はありますけど、知っている相手なら、注意して気配を追いつづければ、大体の居場所くらいは」 「森の部族に独特の力だ。彼らは、自分の心と他人の心の境界線があいまいで、気を許すと心を読む。マイオス、君の馬は何と言っている?」  面白そうに、シュレーが尋ねた。 「右の後ろ足の蹄鉄が減っていると言ってます。それから、今夜には角砂糖が欲しいって」  落ちこんだ様子で、シェルは律儀に答えた。シュレーが、彼に似合わない苦笑をした。 「さっきのことは、気にしなくていい。君が読んだのは、私が持っている中で、一番どうでもいい秘密だ。相応の君の秘密で、代価を支払ってもらう」 「…すみません」  シェルは首をすくめ、居場所がないというような表情をした。スィグルはため息をついた。 「猊下、あんたの秘密って、あれのことか?」  スィグルは注意深く尋ねた。シュレーは森の奥を見つめたまま、軽く首を横に振った。 「ちがう。もっと、ちっぽけなものだ。マイオス、君が相応だと思うものでいい」 「相応の秘密…ですか?」  大きな緑の目で、シェルはシュレーの横顔を見上げている。戦いの緊張で青ざめたシェルの顔は、隊商(キャラバン)が運んできた新しい紙のように白く、引きつっていた。 「僕…まだ、守護生物(トゥラシェ)がいないんです」 「トゥラシェ…?」  シェルの話をきくシュレーは、どこか上の空だった。スィグルは、シュレーがこの話に大して興味を持っていないのを感じた。シェルに口を利かせるために、話しかけているだけなのだ。  馬の上で、シェルはがたがたと小刻みに震えていた。だが、こうやって何か喋っていると、その怯えも少しは紛れるようだ。シュレーがそれを狙って、シェルに話させているのは、おそらく間違いがなさそうだった。スィグルはふんと鼻を鳴らした。この神官は、時折、ふとした無意識で、妙に人を労わるところがある。食堂での決闘をもみ消したのにしても、あんなことをして、シュレーに何の得があるのか、スィグルには見当もつかなかった。 「守護生物(トゥラシェ)っていうのは、森エルフ一人に一体連れ添っている生き物のことで……それを見つけるのが、森では一人前として認められるために必要なことなんです。感応力が強ければ強いほど、より強大な守護生物(トゥラシェ)に招かれるんです。僕らは守護生物(トゥラシェ)と心を繋いで、力を分け合うんですよ」 「君達森エルフが、戦場に連れ出す巨大な生物のことだな」  馬上槍(ランス)を握りなおし、シュレーはぼんやりとした声で尋ねた。 「守護生物(トゥラシェ)を戦いに連れ出すのは、悲しいことです。アシャンティカも悲しんでいる…」 「アシャンティカ?」  シュレーは夢の中の繰言のように、質問を繰り返す。 「部族の森を守る、最大の守護生物(トゥラシェ)で…大樹の姿をしています。森の墓所の番人で……」  言いかけて、シェルははっとしたように口をつぐんだ。スィグルと目が合うと、シェルは火に触れた子供がうろたえるように、泣き出しそうな顔をした。シェルの乗っている馬が、それに引きずられるように、悲しげにいなないた。 「マイオス、その問題については、近々レイラスと決着をつけろ」  まるで命令のような口調で、シュレーは忠告した。 「君には責任が無い。それをレイラスに理解させるんだ」 「余計なお世話だって言ってるだろ、猊下。ほっといてくれ。どうして僕に構うんだ」 「君を見てると腹が立つ」  いかにも可笑しそうに、シュレーは笑った。 「レイラス、君はまるで、この世で不幸なのは自分だけだと言いたげだ」 「だったら何だ。あんたみたいに、チヤホヤされて生きてるやつに、僕の気持ちなんてわかりっこない」 「レイラス殿下…本気でもないのに、そんな心にも無いことを言わないほうがいいです。ライラル殿下は、あなたのことを気に入ってるんです、あなたの力になりたいと思ってるんですよ!」  慌てたそぶりで、シェル・マイオスが咄嗟に、シュレーを罵ろうとするスィグルの言葉を遮った。スィグルはぎょっとして、気の弱そうなシェルの顔を見た。シェルもびっくりしたように、目を丸くして、そのあとすぐ、人形のような顔に、じわりと後悔の表情を浮き上がらせた。肩を震わせて笑いながら、シュレーが甲冑の面覆いを下ろした。 「わかるか、レイラス。彼は怖い。気をつけろ」  兜のせいで、シュレーの声は鈍く響いた。 「力になりたい? 馬鹿にするな」  手綱を握り締めて、スィグルはうめいた。 「君の境遇があんまり悲惨なんで、同情してるんだよ。そうやって一生、自分の傷にすがり付いて生きていく君を思うと、その惨めさには涙が出そうだ。フォルデスに話を聞いてもらって、少しは立ち直ったんじゃなかったのかい。急にしおらしく挨拶をするようになったりして、君は本当に純真だな」  面覆いからこぼれて聞こえるシュレーの声は、まだ笑っていた。 「な…なんだと!? もういっぺん言ってみろ!!」  かっとして、スィグルは大声を出した。驚いた馬が、ぶるっと体を振るわせる。 「強がっても君は世間知らずだ。心が優しすぎるよ。人を憎むことなんかできるものか。復讐したいなら、さっさとやったらどうだ。マイオスは無防備だ。さっきの魔法を見て思ったんだが、あんな力を持ってるのに、どうしていつも使わずに我慢するんだ。君は同じ力で、人を殺めたこともあるんだろう」 「…どうせやるんならお前からやってやる、シュレー・ライラル!」  頭がクラッとするほどの怒りが、一気に込み上げてきて、スィグルはシュレーの兜の喉もとを掴んだ。面覆いの中の顔が微笑しているのを見て、スィグルは一瞬、わけがかわらなくなった。 「やめてください! やめてくださいっ!! ライラル殿下も、もっと普通に話せばいいのに…どうしてわざわざ、そんな、レイラス殿下を怒らせるような言い方ばかり選ぶんですか!?」  2人の間に割って入り、シェル・マイオスはひそめた声で必死に訴えた。手のやり場を失ったまま、スィグルは眉間に皺をよせて、シェル・マイオスの切羽詰った視線を浴び、苦笑しているシュレーを見やった。  不意に、この神官が不思議なものに思えた。気位の高い、嫌味でいけ好かない奴だとだけ思ってきたが、シュレー・ライラルが皮肉を言うのは、スィグルに対してだけだ。シュレーが実際には、皮肉ではない、何か別のことを言おうとしているなどと、今まで考えたこともない。  そう思って考えると、シュレーが何かを言って、自分が気を悪くするたびに、イルスが面白がっていたのが思い出される。イルスには、シュレーが言おうとしていた事の本質が、理解できていたのかもしれない。スィグルは複雑な気分になった。 「マイオス、敵はどうだ」  ふと気配の違う引き締まった声で、シュレーが尋ねた。一瞬ぽかんとしてから、シェルは言われたことを理解したようだった。 「あ…えと……! この峰につづく最後の斜面を登ってます。先頭はすぐに現れます!」  慌てているシェルの声を聞き、スィグルは森の切れる斜面へと目を向けた。 「レイラス、黒エルフの魔導師の力量とやらを、見せてもらおう。私がオルファンに負けたら、君も、女装して廊下をうろつくぐらいじゃ済まされないぞ」 「うるさい」  ぽつりと応じると、手甲をつけたシュレーの固い手が、スィグルの背中をぽんと叩いた。 「マイオス、怖いのなら、君はいったん後退してもいい」 「僕もここにいます」  木々の向こうから、こつこつと木切れを叩くのに似た山鳥の声が、けたたましく響き、斜面の向こうから、まだらな茶色の羽根をした一抱えほどもある大きさの、地上性の鳥の群れが現れた。朽ち葉を蹴立てて、鳥達は狂ったように逃げ惑い、萎えた翼を振りたてては、こちらに向かって突進してきた。  それを追うように、銀の甲冑をつけた騎馬兵が一騎、ニ騎と姿をあらわした。敵軍の兵は、行軍の途中で出くわした対戦者の本隊に、度肝を抜かれたようだった。思わず手綱を引き、馬を棹立ちにさせた先頭の騎兵が、大声をあげて何か叫んだ。山エルフの言葉だった。前足を振り下ろした馬の蹄に、通りかかった山鳥が、あっけなく踏みつぶされた。 「うう…っ」  苦しげに低くうめいて、シェル・マイオスが馬の背にかがみこんだ。スィグルはそれに視線を奪われ、すぐ隣で倒れ伏した森エルフに、思わず手を差し伸べそうになった。 「レイラス、殺せ」  混乱している敵兵を馬上槍(ランス)で指し示して、シュレーは至極冷静に命じた。  はっとして、スィグルは敵兵に向き直った。先頭の騎兵は、すでに体制を立て直し、突進するか後退するかで迷っている。その甲冑の胸当てには、味方の兵がつけているのと同じ、素焼きの小さな壷がとりつけてあった。  肩の高さに手のひらをかざし、そこへ魔力を集中させる。指先に凝ったそれを、スィグルはまっすぐに敵兵へと叩き付けた。  パン、と音高らかに壷が割れ、その中に閉じ込められていた山羊の血が飛び散った。魔力に押されて、先頭の敵兵がもんどりうって落馬した。後続の騎兵たちが、何が起こったのか把握できずに、お互いの顔を見合わせて喚き散らしているのが見える。 「やった」  気味が良かった。スィグルは思わず呟いた。 「喜ぶな。敵はまだいる」  強い声で叱咤して、シュレーが馬上槍(ランス)を構えた。 「近づいて来る者は無視しろ。一番遠い兵から倒すんだ。わかったな」 「わかった」  スィグルが即答すると、シュレーが振り向いて面覆いを上げた。 「君がいれば、私の軍は無敵だ」  にやっと笑って、シュレーは芝居がかった口調を作った。  スィグルは呆気にとられた。その言葉はいやに耳心地良く聞こえた。 「僕を担ぐな」  噛み付くように、スィグルは言った。 「嬉しいくせに。マイオスの面倒は君が見ろ、頼んだぞ」  面覆いを降ろして、シュレーは馬の腹を蹴った。10騎の馬上槍(ランス)隊が整列する前に並足で馬を寄せ、シュレーは良く響く声で宣言した。 「敵が防衛線を突破したら、それを合図に突撃する。敵の一騎を味方の二騎で攻撃しろ。一騎が失敗したら、敵が体制を立てなおす前に、後続のもう一騎で倒す。私より右の5騎が前衛、左の5騎が後衛だ。それでも倒せなかった敵は、歩兵で始末する。いいな、簡単な仕事だ。できないとは言わせないぞ。一騎も討ち漏らすな。皆殺しにしろ。 諸君、私は勝利を確信している。白羽の軍旗を敗北で汚す者には、呪いあると知るがいい!」  二人目の騎兵を吹き飛ばした手応えに酔いながら、スィグルはシュレーの声を聞いていた。まるで竜(ドラグーン)の声だ。神聖神殿の祭壇から、数知れない民に予言を告げ知らせる、容赦のない声。  白羽を飾った兜と、甲冑に打ち出された静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)の紋章、そして、神聖な趣の色濃い、シュレーの毅然とした態度に、その場にいた全員が身震いし、居住まいを正した。  この神官は、自分の中に流れている血の力を知り尽くしている。スィグルはどうにも否定し切れない感嘆で、一瞬、呼吸を忘れた。  動悸を抑え、スィグルは、続々と現れる敵の騎兵に狙いを定めた。血しぶきをあげて馬上から転げ落ちる兵を避けつつ、後続の馬上槍(ランス)兵が一騎、防衛線を突破した。スィグルははっとして、我知らずシュレーの方に視線を向けた。 「前衛、突撃!」  間髪入れずに、シュレーが指揮した。騎兵の鞭の音がなり、朽ち葉を跳ね上げて、5騎の馬上槍(ランス)兵が突撃していった。 「後衛、構え!」  静かにさえ聞こえる落ち付いた声で、シュレーは残る騎兵に命じた。それと、森の奥に突撃した馬上槍(ランス)兵が、スィグルの討ち漏らした敵を、すべて平らげるのは、ほぼ同時だった。返り血を浴びた5騎が、一人も欠けることなく、慣れた様子で馬首をめぐらせ、列に戻り始める。  敵の騎兵は、これで5騎削られた。あと5騎しとめれば、馬上槍(ランス)隊の兵力は敵味方互角になる。鮮やかなものだった。 「マイオス!」  その場を動かず、シュレーが大声でシェルを呼んだ。 「フォルデスは? 今、どこにいる?」  叱責するような厳しい声色に、青ざめたままの顔で、シェルが体を起こした。 「……峰のふもとに」  シェル・マイオスの声は、苦しげにかすれていた。 「どっちへ向かっている?」  シュレーは労わりを見せる気配もなく、厳しく問いただした。 「敵陣へです」 「………わかった。レイラス、ぼやぼやするな、後続が来るぞ!」  促されて視線を戻すと、さらに6騎が到着していた。あれを全て屠れば、騎兵の兵力差は逆転する。  スィグルは魔力を集めた。 「後衛、突撃!」  スィグルの仕事を待たずに、シュレーが号令した。舌打ちして、スィグルは新たな獲物を馬上から吹き飛ばした。 「猊下! 僕が始末するって言ってるだろ!?」 「わめくな。君の文句なら、後でまとめて聞いてやる」  面覆いをあげ、シュレーは突撃していった後衛の騎馬兵を目で追っていた。 「脱落が出る」  冷静に響くシュレーの声が消えないうちに、味方の兵が2人、馬上槍(ランス)に突き落とされて落馬した。隊列に戻ってくる兵の数は、3人に減っていた。 「また新手が来ます。今度はかなりの数がまとまって…」  握り締めた手を、口元にもっていき、シェルが確信にみちた声で知らせた。最終的な敵の本隊と合流することになりそうだった。敵味方の脱落によって、騎馬兵の戦力は、ほぼ互角のはずだった。  峰を越えて、敵の騎馬が次々に数を増していた。  馬上槍(ランス)を握り、シュレーが面覆いを降ろした。 「私も行く。レイラス、後は任せた」 「あんたが死んだら、この馬鹿げたお遊びも終わりにできるよ」  手早く防具を確認し、馬上槍(ランス)を構えるシュレーは、何も答えなかった。 「ライラル殿下、気をつけてください」  心配そうに、シェルが忠告した。 「マイオス、フォルデスが戻り始めたら、合図をくれ。陣まで撤退して、防衛戦を展開する」 「わかりました。でも…どうやって?」  シェルが戸惑うのにも、シュレーは取り合わなかった。 「感応力が使えるだろう。私の心に触れていい。トゥラシェの話は面白かったよ。でも、君が私から読んだ秘密は、それほど大きなものじゃないぞ」  騎馬に鞭を当て、風のような初速でシュレーが隊列を離れた。姿勢を下げて速度を上げる彼の乗馬は巧みで、敵手と定められた対戦者は、一瞬あきらかな怯みを見せた。その隙を逃さず、シュレーの馬上槍(ランス)は敵兵の心臓をとらえた。金属がぶつかり合う激しい音が響き、敵兵は血しぶきをあげて馬上から消えた。シュレーが手綱をしぼり、手際良く馬首をめぐらした時には、甲冑に打ち出された神聖な紋章も、兜を飾る純白の羽根飾りも、飛び散った返り血を浴び、べったりと赤黒く濡れていた。 「レイラス殿下、また敵が…!」  シェル・マイオスが、慌てた口調でスィグルに告げた。森の奥に視線を戻すと、シュレーに向かって突進してくる騎兵が2騎、目に飛び込んできた。 「焦るな、僕が仕留める」  スィグルはシュレーを守るために、狙いすまして魔力を放った。自分のごく近くで敵兵が次々と倒されるのを、こともなげに一瞥し、シュレーは馬上槍(ランス)をあげて、礼を送ってきた。少し呆れながら、それでもどこか誇らしい気分で、スィグルは右手をあげ、それに応えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-29 : 首 級 -----------------------------------------------------------------------  息が切れるのが、イルスには、やけに心地よく感じられた。  イルスは速度を緩めずに、なだらかな斜面を駆け下った。憶え込んだ地図上の最短距離を思い返し、走りながら梢で輝く太陽の位置をちらりと盗み見る。山の太陽は控えめな明るさで、針葉樹の枝葉の隙間にきらきらと輝いていた。見るものを殴り付けるような海辺の陽光とは随分違う。  森の終わる斜面のふもとで、すれ違う細い幹を掴んで、イルスは足を止めた。斜面を駆け下りた勢いが体を運び、一瞬宙に浮くような感覚に襲われる。反動を体の外に逃がして、イルスはふうっと深い息をついた。  ここからはすでに、アルフ・オルファンの軍旗が見えた。金糸で刺繍された、豪華な山羊の紋章が、高々と掲げられている。陣中の樹木は切り倒されており、まばらになった森の隙間から、歩兵が守る天幕が透けて見えている。  とくとくと心臓が鳴るのが、喉元のあたりで感じられるような気がした。顔を流れおちる汗を袖でぬぐい、イルスはふと妙な違和感を感じた。甘い香りが鼻に残る。  いやな予感がして、イルスは息をととのえながら、自分の袖の匂いを嗅いだ。 「…アルマ?」  疑いというよりは、それはほぼ確信に近い考えだった。一瞬途方にくれ、イルスは呼吸をとめた。そして、すぐに諦めて、肩で深い息をついた。  少しは変だと思っていたのだ。練習場でシュレーの戦斧と対戦した時の、不必要なほどの昂揚感が、なんとはなしにその前兆を感じさせていた。  アルマ期の引き起こす変調については、話だけでしか知らない。というのも、イルスがまともにアルマ期を経験するのは、これが初めてだった。海エルフで、大人の男であれば、誰でもほぼ狂いなく4年に一度巡ってくるものだ。年齢からして、そろそろ1度目が襲ってきても何の不思議もなかった。  師匠の庵に暮らしていた頃、イルスは、近隣の村々にアルマの波が広がっていくのを1度だけ見たことがある。ちょうど4年前のことだ。普段は、とりたててどうということもない田舎の男達が、アルマ期を迎えると、それを示すための青い化粧を顔にほどこし、戦装束に似た特別な衣装をまとう。そうすると、ただの漁師にすぎない彼らが、まるで海都の夜警隊の一員であるかのように精悍に見えた。どんな小さな村でも、男達は夜な夜な剣をとって戦い、その集落で最も強い男がだれなのかをはっきりさせようと、躍起になっていた。決闘は村の長老が仕切り、血の気の勝ちすぎる若者が無駄に殺し合わないように指図をしていた。  近隣の村での試合に立ち会うよう招かれた師匠の供で、イルスもその剣闘試合を見に行った。酒のせいばかりでない何かに酔った村の男達がひしめきあって、鍔迫(つばぜ)り合いをする2人を囃(はや)し立てる広場には、そこはかとなく甘い匂いが漂っていた。たったいまも、自分の体から匂うのと同じ、甘ったるい花のような、木の実のような、独特の芳香だ。  あの場に居合わせると、自分でもよくわからない血の騒ぎを感じて、誰彼構わず戦いを挑みたくなる気分の昂揚が起こった。師匠は、アルマについて簡単に教え、考えなくとも、その時がくれば、お前もその正体を体で理解するものだと言った。  アルマに襲われた時に最も注意すべきなのは、狂乱しないことだというのが、師匠の教えだ。そのための方法は三つある。手ごわい好敵手を見付けること、あるいは健康な若い女を、もしくは、その両方を。いずれにせよ、良い獲物を見付けさえすれば、それに夢中になって、他の事は目に入らなくなる。くだらない小競り合いに狂乱することもなくなる。あとは獲物を食らい尽くすか、逆に食らい尽くされるのを待てば良い。それによってアルマは去る。なるべく大きな獲物を狙うのが、海辺の男たちの本懐というものだが、しかし最初は、身近にいる顔見知りの中から好敵手を求めるのが良いだろうと師匠は言った。  その時には、師匠の話はわけがわからなかったが、イルスは今になって、少しは納得した。自分の心が、そわそわと何かを探し求めているのが自覚できるからだ。自分が探しているのは、おそらく、師匠のいう良い獲物というものだろう。  しかし、その三つのどれも、このトルレッキオでは無理な話のように思えた。シュレーはなかなかの使い手だったが、正直いって、イルスは彼との戦いが物足りなかった。面白みはあっても、まだ冷静でいられる程度のものだ。アルマが要求してくるのは、その程度のお遊戯ではなく、戦闘種族の血の狂乱にとって代われるほどの、手ごわい強敵にちがいない。  それに、ここには女など一人もいない。そうでなくとも、自分より力もなく、剣も使わないような女たちには、イルスはあまり興味を感じなかった。連中の話すことは、大抵、わけがわからない。無力なのを気の毒だと思いはするが、それだけにすぎない。  そのどれも見つけられなかった時にどうなるのかは、師匠は話してくれなかった。海辺で暮らしていれば、どのみち強敵とは巡り合える。そんなことを心配する必要などないと、師匠は考えたのだろう。なにしろ、探すまでもなく、師匠自身がイルスにとっての最大の強敵だったからだ。  だが今は、考えても仕方がないことだ。  イルスは顔をあげ、敵陣を見渡した。好敵手がいないなら、数を相手にして気を紛らわせば済むことだとイルスは考えた。それ自体がすでに、好戦的な狂乱の一部であることには、イルスは少しも気づかなかった。  汗で濡れた髪をかきあげ、イルスは腰に帯びていた長剣を抜いた。手入れの行き届いた刀身は、触れるだけで切れそうな鋭い輝きを放っていた。そこには、師匠が鍛冶師に彫らせた、懐かしい故郷の文字が刻まれている。アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ。イルスは何気なく、その言葉を声に出して読んだ。汝、死を恐れるなかれ、という意味だ。  死(ヴィーダ)。イルスは額冠(ティアラ)に隠れた自分の額に触れた。それについて考えると、いつも、頭の中が真っ白になり、何も思い付かなくなる。死ぬのは恐ろしいような気がした。だが、自分がなぜ死を恐れるのか、イルスにはわからなかった。死ねばどうなるのかを、誰も教えてくれないせいだ。物知りの師匠すら、死んだことがないから、死ねばどうなるのかは知らんと言い、それ以上のことを教えてはくれなかった。  剣を握りなおし、呼吸を整えて、イルスは再び走り出した。さくさくと枯葉を踏む感触が心地よい。  アルフ・オルファンはおそらく、天幕にいるものと、イルスは見当をつけた。将が先陣に立つのは、海エルフならば当たり前のことだが、山の部族では通常、将軍は殿(しんがり)に陣取るのが普通なのだという。それを伝えたシュレーは、先陣に立つつもりだったようだが、イルスはそれを高く買っていた。口に出すことは、わけのわからない薀蓄(うんちく)ばかりだが、シュレーのやることには、いちいち共感できた。  義弟に勝ちたいというなら、それを手伝ってやるのに異存はない。  木立を抜けて陣に出ると、ぼんやりと立っていた山エルフの歩兵が、戦斧をだらんと垂らしたまま、驚きに口を開き、死霊でも見るような目で、イルスを見下ろした。イルスは思わず、にやっと笑った。  「て……敵だ!」  戦斧から何度も手を滑らせながら、歩兵は叫んだ。剣を使うまでもない気がして、イルスは左手で歩兵の胸当ての壷を殴った。ぱりんと軽い音がして、ひび割れた壷から、赤黒い血が流れ出た。  あっけにとられている死者を置き去りにして、イルスは天幕に向かって走り出した。そこにはさすがに、5、6人の歩兵が待ちうけていた。警告を聞き付けて、訳も分からず武器を構えた歩兵たちは、イルスの姿を見つけて、驚きの声をあげた。 「止まれ!!」  軽装の防具で武装した山エルフの少年が、イルスの前に立ちはだかった。淡い緑色の目が、まっすぐにイルスを睨み付けていた。腕に憶えのある者の目つきだ。イルスは満足して笑い、走る速度を緩めずに、剣を構えた。対戦者が戦斧を振り上げるのが見える。  一気に速度をあげて、イルスは跳躍した。型どおりに、歩兵の戦斧が長剣を受けとめた。体を退き、イルスはすぐにニ撃目を撃ち込んだ。戦斧の重量をやり過ごさなければならない歩兵の動きは鈍く、イルスの目には、ただ突っ立っているだけと変わらなかった。長剣の切っ先で叩くと、胸当ての壷はあっけなく割れた。  弱い。イルスはうめいた。 「天幕を守れ!」  叫びながら、新たな歩兵が駆け寄ってきた。それに触発されるように、次から次へと戦斧を携えた兵がやってくる。彼らを引き連れて、イルスはさらに走った。  後ろから追いかけてくる兵は、イルスに追い付くことができそうもなかった。拍子ぬけするほど簡単に、天幕の入り口が近づいてきた。その前には、2人の歩兵が待ち構えている。一瞬で2人を見比べて、イルスは右の兵に襲いかかった。  刀身を撃ちこんで受けとめさせると、金髪の歩兵は力強くイルスを押し返してきた。抗わず飛びのいて後退すると、もう一人の歩兵のすぐ横に着地した。咄嗟には反応できないでいる歩兵の顔を見上げ、イルスは、動揺した山エルフに思わず笑いかけた。たじろぐ歩兵に足払いをかけると、戦斧を取り落として、対戦者は地面に倒れた。長剣の柄を使って、イルスは1度も剣を交えなかったその兵を、死者の頭数に加え、体勢を立て直して撃ちかかってきた、先刻の歩兵に向き直った。  戦斧の切っ先が、ひどくゆっくりに見えた。たあいもなく攻撃を避け、イルスは相手の懐に飛び込んだ。鼻が擦れ合いそうな間合いで、イルスは歩兵の胸にある素焼きの壷を掴んだ。イルスの目を覗きこんで、歩兵は悲鳴のようなうめき声をあげた。壷を握った指に力をこめると、それは簡単に砕け散った。  「オ…オルファン殿下!!」  死者が口をきいた。血まみれになった手で、歩兵を突き放して、イルスは天幕の入り口を覆う幕を、長剣で払いのけた。  薄暗い天幕の中にいる人数は、とっさの薄闇に目がついていかず、すぐには計り知れなかった。それでもイルスは構わずに中に入った。  「貴様……奇襲か!?」  聞き覚えのある声が、天幕の奥から聞こえた。うすぼんやりと物の輪郭が見え、イルスはその声の主が甲冑で重装備しているのに気づいた。  まばたきして目を慣らし、よく見極めると、それは銀色の甲冑に大角山羊(ヴォルフォス)の紋章を帯びた、アルフ・オルファンだった。その横に、立ちあがりかけた3人の歩兵が付き従っている。彼らは戦斧ではなく、山エルフ独特の、細身の剣を握っていた。 「お前の首を、もらいに来た」  剣を構える気にならず、イルスは腕を垂らしたまま、アルフ・オルファンに告げた。腕前を推し量るため、3人の歩兵と次々目を合わせてみたが、そのどれもが、怯えて後ずさる。負けるような気がしなかった。鈍(なまく)らな剣を握った、のろまな連中だ。  わけのわからない苛立ちを感じる。オルファンに視線を戻し、イルスは長剣を構えた。オルファンは、たじろぐ自分を寸でのところで押しとどめた気配で、イルスの視線を受けとめた。 「始末しろ!」  憎々しげな声色で、オルファンが命じた。3人の歩兵は、奇声を張り上げて、ほぼ同時にうちかかってきた。  撃ちこまれた攻撃を、イルスはすべて避けた。突きを食らわしてくる歩兵の攻撃とすれ違い、イルスは一番右にいた少年の膝の裏を蹴った。がくんと倒れこんだ山エルフの背に足をかけ、イルスはすぐ目の前で振り返った別の歩兵の胸当てから、素焼きの壷をなぎ払った。 「何をしている、相手は一人だぞ!?」  激昂したオルファンの声が、叱責した。緊張した息をつき、残る一人の歩兵が、細身の剣を突き出してきた。  イルスは倒れた歩兵の背を覆う鎧を掴んで引き起こし、それを盾にした。狙いをつけたとおり、怖気づいた歩兵のなまくらな剣は、味方の兵の心臓を貫いた。驚きの声をあげる死者を放りだし、イルスは硬直している最後の一人を、いともたやすく仕留めた。長剣に弾き飛ばされた素焼きの壷が、天幕の柱に当たって粉々になった。天幕の豪華な幌(ほろ)に、鮮やかな血の色がぱっと散った。  視界にひろがった血の色に、イルスは思わず目を見開いた。その一瞬、脳裏を焼くような喜悦が、イルスの背骨を駈け抜けた。  狂乱しかかっている。普段から、どこか血の色に酔うようなところはあったが、今感じたのは、日ごろ感じるようなものとは比較にならない。長剣の柄が指に吸い付くような感覚がある。研ぎ澄まされた剣の切っ先を、イルスは自分の体の一部のように実感できた。それが恐ろしくもあり、心地よくもある。まるで訳がわからない。  イルスがくるりと向き直ると、アルフ・オルファンは怒りで引きつった顔をしていた。 「勝負だ」  イルスが笑いかけると、オルファンはそばにあった戦斧を手に取った。 「これが義兄上(あにうえ)のやり口か…卑怯だ!」  駄々をこねる子供のような声で叫び、オルファンが討ちかかってきた。イルスはそれをひらりと避けた。そして、かろうじて踏みとどまったオルファンが振り向くのを待って、イルスは彼の喉元に、剣先を付き付けた。オルファンが息をのんだ。 「お前は卑怯じゃないのか?」  イルスは目を細めて問いただした。 「どうして正々堂々と勝負しないんだ」 「黙れ…! 黒系種族め……なにが正々堂々だ!! 僕はいつだって正々堂々としている。卑怯なのは義兄上(あにうえ)だ…義兄上(あにうえ)のほうだ! 奇襲をかける将軍など…大角山羊(ヴォルフォス)の紋章に相応しいはずがあるか!!」  今にも喉に触れそうな長剣の切っ先を恐れている様子で、オルファンは喚(わめ)いた。重装備で身を鎧(よろ)っていても、まだ兜をつけていないオルファンの喉元は無防備だった。あと、ほんのひと押しで、オルファンの喉笛に切っ先が沈む。イルスはその感触を、自分の手で確かめたいような気がした。  あと、ほんの、ひと押しだ。自分の奥底で、なにかが囁くのが感じられた。アルマだ。身震いを抑えて、イルスは目を細めた。 「なぜ互角で勝負できなかったんだ」 「この学院の兵は、もともと全て僕のものだ。義兄上にも兵はくれてやった……!」 「そうか…それが道理だっていうなら、シュレーのやり口も別に卑怯でもないさ」  空いた右手で、イルスは、アルフ・オルファンの胸当てに取り付けられた素焼きの壷を叩き割った。山羊の血があふれ出て、見事な装飾で飾られたオルファンの甲冑を汚した。  イルスは、屈辱と恐怖で震えているオルファンを睨み付けた。そして、たっぷり迷ってから剣を退いた。すると、オルファンは天から彼を吊るしていた糸をぷつりと断たれたように、くたくたと座り込んだ。 「おい、首を寄越せ」  天幕の床にへたりこんだオルファンに、イルスは手を伸ばした。 「……ただで済むと思うなよ。義兄上も…貴様も、他の連中もだ! あの魔導師にも吠え面かかせてやる。おぼえておけよ!」  腰に結わえ付けていた、大理石の玉を、オルファンは震える手で毟(むし)り取り、イルスに投げ付けた。それを受け取り、イルスはオルファンを見下ろした。 「決闘の件は、悪かったと思ってる。でも、あれはそもそも、向こうから売ってきた喧嘩だ。今回は水に流してくれ」  イルスが告げると、オルファンがゆっくりと顔をあげた。引きつったオルファンの顔には、驚きとも怒りともつかない表情が浮かび、頬がひくひくと痙攣していた。 「……貴様らが王族面していられるのも、あと少しの間だ。ケダモノめ………!」  イルスはオルファンの顔を見下ろした。なんの興味も感じなかった。 「獣? そうかもな。だったら、お前はなんだ。…負け犬か?」  イルスは、無表情な自分の声を、他人のもののように感じた。 「な……なんだと!?」  オルファンの育ちの良さそうな顔が、見る間に紅潮した。 「誰か来い、何をしている、役立たずの馬鹿どもが!! こいつを殺せ! 殺せッ!!」  オルファンは、正気を失ったように喚き散らした。イルスは顔をしかめた。得体の知れない、いやな予感がした。  身をひるがえして、イルスは天幕の奥へと走り、なめし皮でできた天幕を切り裂いて、陣の裏手へと走り出た。歩兵達が申し訳程度に追ってくる気配がした。それを無視して走りぬけ、イルスは森の中へと飛びこんだ。   * * * * * *  あいつはなんの事を言っていたんだ、と、イルスは走りながら呟いた。故郷の言葉で口を利くと、いくらか頭がすっきりするような気がした。枝を払いのけ、うねる木の根のよけながら、森の斜面を一気に駆け上がる。  手の中に、革袋からこぼれた黒大理石の球が、心地よい重さと冷たさをもって感じられた。これを陣まで持ちかえれば、シュレーは晴れて勝利将軍というわけだ。もちろん、シュレーが今も生き長らえていればの話だが。  だが、イルスはわけもなく、シュレーがまだ死者の列に加わっていないことを確信していた。神殿育ちのくせに、シュレーはいやに勝負強そうな面構えだ。伸るか反るかの瞬間を何度も越えて来たような目つきをしている。優しげに微笑んでいる時には、それがわからないが、練習試合でイルスの撃剣を受けとめた刹那には、化けの皮がはがれ、その下の素顔が見えていた。あれはまさしく竜(ドラグーン)の末裔の顔だ。さっきの甘っちょろい義弟あたりでは、竜(ドラグーン)の鼻っ面を引っかく程度が関の山だろう。  やけに可笑しいような気がして、イルスはつむじ風のように走りながら、くすくすと笑った。笑いながら森の木立を駆け抜け、そして、はたと足をとめた。  薄暗い大木の根元に、何かがうずくまっていた。  全身の産毛が逆立つような気配を感じて、イルスは飛びのき、考える間もなく剣を握った。ごとりと鈍い音をたてて、黒大理石の球が森の朽ち葉の上に転がったが、それを目で追う余裕もなかった。  人だった。こちらに向いた背中は、枯葉と良く似た色の外套(マント)で覆われており、苦しげに丸まっている。針葉樹の根元にすがり付き、荒い息で背中を上下させるその姿は、森の獣が爪を研いでいるのに似ていた。  だが紛れもなく人だ。山エルフの学生ではない。まず、出で立ちからして違っていた。わずかに覗いている長い髪も、金髪ではなく赤みを帯びた褐色だった。  「おい…」  剣をかまえたまま、イルスは声をかけた。理由はわからないが、剣を退くのが恐ろしかった。  イルスの声を聞いて、丸まっていた背中がゆっくりと置きあがった。木の根元にうずめていた頭が現れ、暗い赤褐色の乱れ髪に覆われた顔が、突然くるりと振り向いた。  「お前…私を、見たな?」  イルスは恐れて息を呑んだ。かすれた声で問い掛けてくるのは、若い女の声だった。  視界の端に、森の薄闇の中でもきらりと光る何かが見えた。女の甲高い奇声が聞こえると同時に、枯葉色の姿が消えた。風圧を感じて、イルスは本能的に剣を構えた。まぶしい火花と、ずしりとした重みがイルスの長剣に襲いかかった。  ほんの一瞬で、驚くほど高く跳躍した女が、イルスの頭上から襲い掛かってきたのだ。攻撃を受けとめた自分の長剣が、イルスの前髪に触れ、額冠(ティアラ)を飾る石をぎりぎりと削るのを、イルスは乱れた呼吸の中で感じ取った。  見上げた視界一杯に、女の赤い髪と、爛々と見開かれた黒い左目があった。その中に写っている自分の青い目を、イルスは瞬きもせずに覗きこんだ。その青の中に、またもうひとつ、女の赤い髪と黒い目が小さく潜んでいる。  イルスが力任せに払いのけようとすると、女はまるで体重がないような軽さで、ひらりと飛びのき間合いをとった。押し戻すための力のやり場を失って、イルスは数歩よろめいた。  女の素早さは、明らかにイルスを凌いでいる。確かめなくても、イルスにはそれがわかった。女の目の奥には、弱者を嘲弄(ちょうろう)する、手練(てだ)れの剣士の傲慢が潜んでいた。  姿勢をたてなおして顔を上げると、肩の高さに短い剣を構えたまま、女もイルスに向き直っていた。女の淡い褐色の手には、剣がニ本……二刀だった。女は目を見開いて笑った。  「私はヨランダ。お前の名は」  女の赤い唇が開き、尖った白い犬歯がのぞいた。 「イルスだ!」  わめく自分の声を聞いて、イルスは始めて、自分の怖気に気がついた。  くつくつと喉を鳴らし、女が笑った。何かに酔っているような、そして、どこか疲労の気配のある気だるげな笑い方だった。 「殺すのが惜しい。2年も絞れば業物(わざもの)になりそうだ」  じりじりと間合いをつめて、女は言った。女はイルスよりも、わずかに背が高かった。森に溶け込むような色の外套を着込み、くすんだ朱色の帽子をかぶっている。女はエルフ族ではなかった。帽子の端からのぞく耳は、小さく、丸い。  肉食獣のような抜け目なさで、ちらりともイルスから目をそらさず、女は剣を握ったままの右腕で、顔に落ちかかった赤い髪を後ろに払った。現れた顔を見て、イルスはぎょっとした。女の顔は、燃えあがるように美しい。そして、額の中央から右半面にかけて、真っ赤な石を生やしていた。 「竜(ドラグーン)の涙…!」  うろたえて、イルスは剣をかまえたまま後ずさった。その姿を見て、女はにやあっと凄絶な笑いを満面に浮かべた。  その次の瞬間には、微笑みの残像を残して、女の姿が目の前から消えていた。跳躍したのだ。風が鳴るのを感じて、イルスは女の攻撃から身をかわした。間近に着地した女は、バネがはずむような俊敏さで、息つく間もない二撃目を討ちこんできた。舞うように身を翻し、両手に握った剣で、次々と激しい突きを食らわせてくる。イルスはそれを避けることができなかった。全ての攻撃を剣で受けるのが精一杯だ。  攻撃からは身をかわすのが剣士の有るべき姿と師匠は教えた。攻撃を剣で受けて、火花を散らせるのは無様だと。そう教え込まれたイルスの頭には、今の己の無様さが、焼き鏝(ごて)を押し当てられるような痛みに感じられた。  恐怖と窒息で、頭の芯が痺れるような気がした。怯(ひる)まなければ、もう少しは言う事をきくはずの筋肉が、すでに悲鳴を上げている。女の太刀筋には、明らかな殺気があった。討ちこみの一つでも受けとめそこなえば、その瞬間に自分が殺されるのを、イルスは感じていた。  右から来たと思えば、その衝撃の終わらないうちに、もう一刀が喉もとを突く。執拗な突きを必死で受け流しつづけ、どん、と背中が何かに当たるのを感じて、イルスは息を詰まらせた。背後に大木の幹があった。後がない。自分は死ぬのだ、とイルスは思った。恐ろしかった。  だが、女は不意に剣をひいた。息が切れたのだ。息を吸い込み、唇を舐めて、女は憎々しげに、しかし、どこか嬉しげにも見える微笑を浮かべた。 「強い(ウルバ)」と、イルスは思わず母国語でうめいた。女が笑って、再び二刀を構えた。それに促され、イルスもとっさに剣を構えていた。 「強い、汝も(ウルバ・アフラ・ウィー)」と女が呟いた。  今まで公用語を喋っていた女が、急に海エルフの言葉を使ったのに、イルスは虚を突かれた。いやに古い言いまわしだが、間違いなく故郷の言葉だ。とっさに、イルスの剣先が下がった。その隙を逃さず、女が飛びかかってきた。  息をのんで、イルスは身を低くした。女の剣が、大木に突き刺さった。逃げたイルスを追おうとして、幹に噛まれた剣が抜けず、女は手をすり抜けた一方の剣を、とっさに振りかえった。一瞬の隙だった。ほんのわずか無防備になった女の脇腹に向かう、ひとすじの太刀筋が、イルスの脳裏をよぎった。それを実行するのは、容易いことだった。しかしイルスは、それを躊躇(ためら)った。  イルスの決断を待たず、幹に奪われた剣を見捨てて、女が振りかえった。その大きく見開かれた目には、激しい怒りの色があった。 「小僧ッ、女と侮ったな」低い声で、女は告げた。「殺す!」  短い剣を逆手に握りかえ、女はイルスの懐に飛びこんできた。イルスはそれから、かろうじて身をかわした。すれ違う瞬間、横目でイルスを見た女の顔が、残酷に笑っていた。ハッとして、イルスは自分の喉に手をやった。女の外套(マント)の結び紐が、ゆるく首に絡み付いていた。  長剣でそれを断ち切ろうとしたが、間に合わなかった。背後に回った女が、イルスの背に足をかけて、力任せに紐を引いた。気管を一気に引き絞られて、イルスは後ろむきに倒れこんだ。女がイルスの体を受けとめ、肩に片足をかけて、ぎりぎりと紐を引いた。  「苦しいか」  イルスの首をしめながら、女は真上からイルスの目を覗きこんできた。取り落とした剣を探して、イルスは森の地面を掻き毟った。なにか固く冷たいものが指に触れた。苦し紛れに掴むと、それは黒大理石でできた球、アルフ・オルファンの首級だった。 「う……う…」  イルスは首に食い込む紐を外そうと、虚しくもがいた。窒息していく苦しさで、頭の中の血が沸騰しそうだった。 「ゆっくり死んでいく気分を味わえ」  わざと手加減している様子で、女は声をあげて笑った。 「可哀想に。お前はいい匂いがするな…懐かしい、故郷の草原を思い出す。アルマが咲くのを、私はもう一度見られるのか……」  歌うような声で言い、女はイルスの首筋に顔を埋め、うっとりと息を吸った。 「花を咲かせても、お前はなにも残さずに、ここで死ぬのさ。ゆっくり、苦しみながら、死の恐怖に怯えながらね」  笑う女の声が、ふと遠のくような気がした。あとほんの一呼吸のためなら、何をしてもいいとイルスは思った。どうせ死なねばならないにしても、せめてあと一息吸わせてくれ。もう、死は恐ろしくなかった。早く楽になりたいだけだ。負けた。自分も負け犬になったのだと、イルスは思った。 「もう死ぬのか? もっと苦しんでみせろ。もっともがけ小僧っ、もっとだッ!」  言い募る女の言葉が、不意に悲鳴に変わった。そして、イルスの喉を締め付けていた紐が、あっけなく緩んだ。イルスは肺一杯に息を吸い込んだ。  激しい咳がこみ上げてくる。イルスは体を曲げて苦しみ悶えながら息を吸った。一呼吸ごとに命が戻ってくるような感覚がした。痺れていた指先に血が通い、湧き上っていた全身の血が急激に鎮まっていく。  切り裂くような女の悲鳴が耳を突き、イルスははっと我に返った。地面に手をついて体を起こすと、女がうずくまって頭を抱えていた。細い指が長い髪を掻き毟っている。悪霊にとりつかれたような気配で、女は朽ち葉の上で身悶え、のた打ち回った。 「お…おい…」  喉を押さえたまま、イルスはかすれた声で女に呼びかけた。頭を抱えている女の姿を見て、イルスははっとした。  竜(ドラグーン)の涙。 「苦しいのか?」  とっさに何も考えず、イルスは女の傍らに這い寄った。イルスが無意識に差し伸べた手を、女が激しく振り払った。 「頭が(トゥーバ)…」  涙に濡れた顔でイルスを見上げ、朦朧とした女は、どこかすがり付くような目をした。心臓を鷲づかみされるような感覚を覚えて、イルスは息を呑んだ。 「…死ぬのはいや(トゥルハ・ヴィーダ)」  甲高い悲鳴を上げて、女の手がイルスの腕を掴んだ。苦し紛れに木の枝でも掴むような仕草だった。丸く磨いてある女の爪が、自分の腕に食い込むのを、イルスは呆然と眺めた。 「死ぬのはいや(トゥルハ・ヴィーダ)!」  目を閉じ、梢を仰いで、イルスは悲鳴をあげる女の手を握った。  なにも見えないはずの闇の中に、ふと、いくつかの幻影が見えた。水晶から削り出した、小さな瓶の中に、血のように赤い液が満たされている。枯草ばかりのような荒れ果てた草原で咲き乱れる、淡い赤の花。光り輝く白い翼。沢山の瓶や壷を選り分ける、女たちの指。大角山羊(ヴォルフォス)の紋章。血の雫。  イルスの頭の中で、真っ白な閃光がひらめいた。はじかれたように、イルスは目を開けた。最後の一瞬、シュレーの顔が見えた。未来視したのだ。 「お前は…毒殺師……シュレーを殺しに来たのか?」  イルスの声を聞いたのか、女はびくりと体を震わせた。苦悶で落ち窪んだ目で、女はイルスを見上げてきた。そして、目にもとまらぬ早さで腕を振り上げ、イルスの喉元を狙って、短剣を走らせた。  かろうじてそれをかわし、イルスは自分を見上げる女の顔を見つめた。 「今ごろもう…し…死んでるわ……ざまあみろ……みんな…みんな、殺してやるのよ」  うつろな声で言い、女は気を失った。  意識がなくなっても、女の指はイルスの腕に食い込んだままだった。イルスは女の半面を覆う、深紅に透き通った竜(ドラグーン)の涙を見下ろした。女が死にかかっているのは、直感的に理解できた。  死(ヴィーダ)。イルスは自分が震えているのを感じた。握ったままの女の手は温かく、意外なほど柔らかかった。  イルスは、自分の腕に食いこんだ女の指を、一本ずつ引き剥がした。爪が食いこんだ傷跡から、ぽたぽたと血が流れおちて、森の地面に吸い込まれた。  イルスは立ち上がり、そばに落ちていた黒大理石の球を拾い、剣を拾った。抜き身の剣を握り、イルスは意識のない女の心臓のあたりを狙った。ほんのひと突きだと自分を促してみたが、剣を握る左腕には、まるで麻痺したように力が入らなかった。  死ぬのはいや(トゥルハ・ヴィーダ)。イルスは女の声を耳元に思い出していた。哀れに思えた。なぜそう思うのか自分でも訳が分からなかったが、とにかく、目の前で死にかかっている女が哀れに思え、とても殺せなかった。  革袋を探し出して、イルスは黒大理石の球をそれに納め、ベルトに結び付けた。枯葉色の外套(マント)を拾い、倒れたままの女に着せ掛けてやると、イルスは陣を目指して走り出した。  シュレーは死んだのか。走りながら、イルスは考えた。いいや、あいつは、俺が首級を持って戻るまで、死なないと約束した。  イルスの頭の中を、様々なことがよぎり、そして出ていった。  あの女の名前はなんと言ったっけ? …ヨランダだ。ヨランダ。  それはイルスの故郷の言葉の中で、ちゃんとした意味を持っている名前だった。明けの明星のことだ。ヨランダ。明けの星。竜の涙。俺に、汝も強い(ウルバ・アフラ・ウィー)、と言った。強い女(ウルバ・ウエラ)。シュレーを殺しに来た。毒殺師。  小さな峰で、森が途切れた。さらに高地にあるシュレーの陣を見上げて、イルスは足をとめた。息が切れると、喉が痛かった。何が起ころうとしているのか、イルスにはまるで分からなかった。  後ろを振り返っても、誰かが追ってくる気配はない。あの女は死んだのかと思うと、イルスはとても、不安になった。 -----------------------------------------------------------------------  1-30 : 心が語る言葉 ----------------------------------------------------------------------- 「イルスが…戻り始めました」  隣にいたシェル・マイオスが、ふと何かに呼ばれるように顔をあげた。目を閉じたまま馬首をめぐらし、耳をすますような仕草をするシェルを、スィグルは横目で盗み見た。  ずっと集中しつづけていたせいか、シェルの顔には、疲労の気配が感じられる。束ねていない金髪が、いく筋も汗で頬に張り付いており、かすかに肩で息をつくのが、いかにも虚弱そうに見えた。  森の連中が使う感応力というものが、どういったものなのか、スィグルには見当がつかなかった。魔法を使うのも、それなりに気が張り、疲労するものだが、それと同じようなものなのかもしれない。 「ライラル殿下に知らせたほうが、いいですよね?」  シェルが目を開き、機嫌をうかがうような顔で、スィグルに話しかけてきた。消え入りそうな小声の中に、シェルが、なんとかして自分の心を掴もうとしているのが感じられ、スィグルは不愉快になった。 「さっさとしてくれ。僕はもう飽きた」  早口に応え、スィグルは手綱を操って、シェルのそばから馬を離した。  どんよりとした疲労感が、体中の関節から感じられる。あと半時もこの調子で続けていると、スィグルの魔法も底をつきそうだった。そろそろ決着がつきそうだというのは、スィグルにとっても朗報だったが、シェルの口からそれを聞いて、素直に喜んだ素振りを見せる気にはなれない。  前線に目をやると、敵方の騎馬兵たちが撤退しはじめていた。その場に残るのは、味方の騎兵だけだ。馬上槍(ランス)を打ち合わせて戦う者の姿は、もうなかった。  味方の騎兵達は疲れよりも強い昂揚感に浮き足立っているようだった。戦線を後にする敵軍の背中でも眺めているのか、生き残りの騎馬兵たちも、指揮官であるシュレーも、こちらに戻ってくる気配がない。 「じゃあ……ライラル殿下に知らせます」 「感応力か? 直接行けよ…どうせ、もう、敵はいないんだ」  スィグルが鋭く言うと、シェルは怯えたような視線をこちらに向けた。大きな緑の目が、ちらちらと臆病そうにこちらを見つめている。 「でも、ライラル殿下は感応力を使っていいって…」  シェルは言いよどんで唇を噛んだ。ふん、とスィグルは笑った。 「お前、前線に行くのが怖いんだろ」 「…そうです。一緒に行ってくれませんか」  シェルに頼られているのを感じて、スィグルは喩えようも無く不愉快になった。ほんのしばらくの間、ここで一緒に戦ったというだけで、恥ずかしげもなく懐いてくるとは。  そうやって、すがりつくような目で見られるのが、スィグルは大嫌いだった。タンジールに残してきた、双子の弟のことを思い出す。いつもいつもスィグルを頼ってばかりで、自分でなにかをしようという気がないのだ。  だが、そういう弟の面倒をみてやることが、スィグルは嫌いではなかった。弟のスフィルが自分の影に隠れていくのを、内心、心地よく思っていたのだ。だからいつも、頼られれば頼られるだけ気分が良かった。  しかし、その挙句があれだ。  弟は、何もかもスィグルに押し付けて、自分だけあっさりと苦痛から逃げ出していった。この森エルフも、スフィルと同じ目をしている。他人を頼ることで、自分を襲う責任を、なにもかも押し付けようとする者の目つきだ。 「臆病者(オルドラン)」  シェルから目をそむけ、前線をみつめたまま、スィグルはつぶやいた。公用語ではなく、森エルフの言葉だった。 「え…?」  シェルがぽかんとする。それもそうだろう。スィグルが森エルフの言葉で喋るなんて、想像もしなかったにちがいない。 「森エルフ語が、わかるんですか?」  シェルの声が、わずかに弾んでいた。 「猊下に伝えるんだったら、さっさとしろよ、うすのろ(アイェテ)、愚図(プランバ)、能なし(ウフェリトゥ)」 「…発音いいんですね」  複雑そうなシェルの声が、穏やかに聞こえてくる。 「何度も聞いたからな」  スィグルが手短に答えると、シェルはその意味を察したようだった。スィグルが知っている森エルフ語は、ほとんどが罵詈雑言を吐くための言葉ばかりだ。  あちこちから浴びせられる罵声。虜囚のころ、その言葉の意味を理解するようになるに連れ、スフィルが、耐えられないといって泣いてばかりいた侮辱の声だ。優雅な砂漠の宮廷で、誉め言葉しか聞かされたことがなかったスフィルにとっては、そうやって貶(おとし)められる事そのものも、耐え難い苦痛だったのだろう。  それは、もちろん、自分にとっても同じことだった。そうでなければならないはずだ。誇り高きアンフィバロウ家の末裔、「砂漠の黒い悪魔」として、敵兵を震えあがらせる、勇猛で気高い族長の息子が、あんな侮辱を受け入れていいはずがない。  だが、あの時、スィグルは悔しいとは思えなかった。生きていられれば、それで良かった。体と心の両方に感じる苦痛のために、声を殺して泣いている弟を見ながら、スィグルはいつも呆然と考えていた。今日も生きていられた、と。頭に浮かぶのはそれだけだった。  今日も殺さないでいてくれた。だが、明日には命をとられるかもしれない。黙って服従していれば、命を助けてくれるというなら、それで構わないと思っていた。ただひたすら、死ぬのが怖かったのだ。名誉や自尊心などというものより、今日、明日一日の命が欲しかった。  誇りある部族の血統を、侮辱によって汚されるなと、族長である父リューズは常々皆に命じていた。スィグルの気位の高さを、王族に相応しい気品だと、いつも褒めちぎってくれた。  その心に叛いたことを、父は一言も咎めない。だが、父の横に立って、正気を失った母や弟の日々の狂態を目にするたびに、スィグルは臓腑が焼け落ちそうな恥を感じた。死んだほうがましだったのだ。生きて戻ったところで、誇り高い父の顔に、拭い去りがたい恥の汚辱を塗りつけるだけだ。  生きて帰って来てはいけなかった。口には出さなくても、父もそう思っているはずだ。なんと恥知らずな痴れ物が、おめおめ生きて戻ってきたものかと。  それでもまだ、自分は、死ぬのを怖れている。人質としてタンジールを去る自分を、父が惜しんでくれたことで、自尊心を満たした。臆病者(オルドラン)なのは、どちらの方だ。  スィグルはシェルの顔を見つめた。 「僕はお前と馴れ合ったりしない。今日は力を借りたかもしれないが、これは猊下への貸しだ。そうでもなきゃ、お前みたいな屑と力を合わせることなんて無い。お前と僕とは、敵どうしだ。おぼえとけ!」  シェルは、おどおどした仕草ではあるが、それでも真っ直ぐにスィグルの顔を見つめ返してくる。 「……いやです」  シェルは無理やり搾り出したような声で答えた。どう答えるか迷った挙句に、なんとか掴み取った言葉のように聞こえた。  スィグルはしばし、呆気にとられた。なんと言い返していいか見当もつかない。  それきりシェルは押し黙っていた。おそらく、感応力を働かせて、シュレーにイルスの帰還を伝えているせいだろう。妙なやつだった。腹が立たないのだろうか。  スィグルはため息をつき、前線に出たままのシュレーを見遣った。  兜を飾る白羽を、返り血で真っ赤に染めたシュレーは、遠目にもいくらか疲れた様子で、峰を下って敗走していく敵軍を見送っている。さしずめ、シュレーは自分の勝利の予感にでも酔っているのだろう。何とはなしに、腹の立つ話だ。  しかし、圧倒的な不利から、ここまで勝機を呼びこんだシュレーの才覚と度胸には、正直言って、スィグルは感心していた。わざわざそれを口に出して言って、いい気にさせてやる気は毛頭無いが、シュレーが単なる神官崩れの我が侭なお坊ちゃんではないと、認めてやってもいい。  シェルからの知らせを受け取ったのか、シュレーは軽く手をあげて、味方の兵たちに撤退の合図を出した。よほど疲れているのか、動きに精彩がない。あんな甲冑をつけて走り回ったら、誰しも疲れるに決まっているが、他の兵達はまだまだ活力がありそうだ。シュレーは意外と虚弱なのだなとスィグルは気味がよかった。 「こちらも陣まで撤退して、イルスが戻ってくるのを待つそうです。敵が態勢をたてなおして、もう一度押し寄せてくるかもしれないですから、早めに移動しないと…」  シェルがシュレーの言葉を伝えてきた。スィグルは眉をひそめた。 「もう勝ったようなもんじゃないか」  意気揚揚と陣に戻って行く味方の兵たちとすれ違いながら、スィグルはシュレーの用心深さにあきれた。イルスが首級をもって戻れば、あとはそれをシュレーが、講義が始まった場所、例の勝利将軍の軍旗をかかげるという場所まで持っていけばいいだけだ。白羽の軍旗があの柱にはためくことになるとは、誰も想像していなかっただろう。  陣に戻り始める前に、スィグルはなにげなく峰のあたりにいるシュレーを振りかえった。味方の兵があらかた引き上げてしまったというのに、シュレーはなぜか、一向に動く気配もなく、その場に馬を留めさせていた。  大した余裕だ。なぜ、ああも尊大でいられるのか。どんな侮辱にも汚されることがないと、確信でもしているかのような、あの自信。  スィグルには、シュレー・ライラルが、自分とはまるで別の世界にいる者のように見えた。はるかな高みから、同情の目で見下ろされているような気がする。神殿種の血を引くシュレーには、スィグルが味わっている苦痛など、ほんのちっぽけで取るに足らないものに見えるのかもしれない。  不意に、シェルが2、3度むせた。それに気をとられて、スィグルは何気なく視線を向けた。すると、森エルフのただでさえ白い顔が、ぎょっとするほど青ざめていた。  突然、片手で口元を覆って、もう片方の手で胃のあたりを抑えると、シェルは激しく咳き込んで馬の背に倒れた。暴れ出すシェルの馬をなだめるため、スィグルはとっさにシェルの手から落ちた手綱を掬い取った。 「おい…しっかりしろ! 落馬するぞ!?」  咳で体を震わせているシェルに呼びかけて、スィグルは暴れる馬を鎮めようとした。しかし、いくら宥めすかしても、シェルの馬は一向に落ち付く気配を見せなかった。今にも騎手を振り落とすのではないかというほど足を踏み鳴らす馬は、驚いているというより、何かに苦しんでいるように見えた。 「どうしたんだよ急に……お前…どこか悪いのか?」  スィグルが怖気づきながら言うと、シェルはがばっと顔をあげた。スィグルは思わず手綱を放り出して体を退いた。 「これは僕のじゃあまりません……た…大変です!」  引きつった声で、シェルが言った。 「レイラス殿下、手伝ってください!」  自分の手綱を拾って、シェルは急に生きかえったように、力強く言った。暴れていた馬は、シェルが首筋を軽く撫でただけで、嘘のように大人しくなり、シュレーがいる森の終わりのあたりに馬首を向けた。  スィグルが訳を尋ねるより早く、シェルに見つめられたスィグルの乗り馬は、声高くいななき、走り出したシェルの馬の後を追った。振り落とされそうになり、スィグルはあわてて姿勢を低くした。馬は何かに追いたてられるような早さで、シュレーを目指して走っていた。  すれ違う味方の騎兵たちが、あっけにとられたように自分たちを見送るのを、スィグル自身もわけがわからないままに眺めるほかはなかった。妙な力を使って、シェルはスィグルの馬を引き連れ、シュレーのところまで行きたいらしい。抵抗しようにも、馬はまるでいう事をきかなかった。手綱を引いても、馬脚をゆるめるどころか、ますます加速していく始末だ。  シェルは一気に戦場をかけぬけ、騎馬隊の先頭にいたシュレーのところまで辿りついた。少し遅れたスィグルの馬からは、まだいくらか距離があった。スィグルが駈け付ける前に、シェルが迷わずシュレーの甲冑の喉当てを掴むのが見えた。 「ライラル殿下、しっかりしてください! 目を覚まして!」  大声でシュレーに呼びかけ、シェルは掴んだ甲冑を引き戻そうと必死になっている様子だった。それを見て、スィグルはシュレーの首が座っていないのに気づいた。甲冑に覆われた姿では判然としないが、シュレーは、意識がないらしかった。  倒れかかるシュレーの体を、スィグルは間一髪で馬を横付けして支えた。甲冑を着た体は重かった。意識のある者がふざけてもたれ掛かるような重みではない。シュレーを挟んだ向こう側で、シェルが思いつめた顔をしているのが見える。 「なんだよ、これ? 馬上槍(ランス)でやられてたのか? そんなの見なかったぞ?」  スィグルは混乱して喚きながら、なんとかシュレーの体を押し戻した。シュレーの体は、甲冑を支えに、うつむいた姿勢で安定した。スィグルがシュレーの顔を見ようと、兜の面覆いを上げようとすると、うなだれた兜の中から、ぼたぼたと鮮血があふれ出た。 「うわ…っ!? なんで…中まで血が?」  スィグルは思わず手を退いた。かたんと微かな音をたてて、シュレーの面覆いが降りた。 「血を吐いたんですよっ!」  眉を寄せて、シェルはまるで自分が吐血したような青ざめた顔をした。 「いつ!?」 「いま…今です……わからない! もっと前からこうだったのかも……」  叫んだシェルの目から、涙が溢れ出すのを、スィグルは唖然と見守った。何が起こっているのか、わけがわからない。ふとスィグルが自分の手を見ると、赤黒い山羊の血に混ざって、鮮やかな赤い血がべったりとついていた。一瞬、混乱のあまり、くらりと意識が漂った。  ちがう、とスィグルは自分に言い聞かせた。これは自分がやったのではない。自分が殺した者の血ではない。 「ど…どうしましょう。どうしたらいいですか?」  うろたえた声で、シェルが独り言のようにつぶやき、スィグルの顔の上で視線をさまよわせた。 「知るか、そんなこと!!」  スィグルはとっさに怒鳴っていた。シェルがビクッと肩をふるわせる。 「でも、でも…早くなんとかしないと…ライラル殿下が死んでしまいます!」  シュレーの馬の手綱を取り、シェルが涙声でわめいた。 「まだ……生きてるのか?」 「生きてます!」  何かを振り切るように大声を出して、シェルが涙をぬぐった。 「とにかく…陣へ戻りましょう。レイラス殿下、伴走してください。ライラル殿下が落馬したら困ります」  すがりつくようなシェルの目に見つめられて、スィグルは返す言葉を思い付かなかった。馬首を巡らせて、スィグルはシュレーの馬と自分の馬を並ばせた。手綱を握る自分の手が震えているのに気づいたが、それが何のためであるのか、スィグルには分からなかった。  シェルがまた感応力を使ったのか、馬は意外な早さで走り出した。手綱を握らなくても、三頭はぴっりたと足並みを揃えていた。ぐらりと揺れるシュレーの体を、シェルが苦労して支えていた。スィグルは一瞬ためらってから、シュレーの甲冑の肩当てを掴み、傾いた体を、自分のほうに引き戻した。シュレーの胸当てにつけられた素焼きの壷は、まだ割れていなかった。 「せっかく勝てそうだったのに、結局、負け犬か、猊下……」  スィグルは、独り言のようなつもりで言った。 「勝ち負けなんて……どうでもいいです! どうして、こんな時に、そんなこと言うんですか。心配じゃないんですか!? みんなどうかしてる…あなたも、ライラル殿下も、オルファン殿下も、みんな、みんな、どうかしてますよッ!!」  きっぱりした声で、シェルが言った。そう大きな声ではなかったが、蹄の音にかき消されることもなく、まっすぐにスィグルの耳に届いた。制服の袖で涙をぬぐい、シェルが自分を奮い立たせるように首を振るのを、スィグルは複雑な気分で見守った。  馬を走らせながら、シェルは不器用そうな手つきで、手間取りながらシュレーの手甲を外した。そして、その下の革の手袋を抜き取ると、シェルは、年のわりには大きいシュレーの手をしっかりと握った。 「ライラル殿下、しっかりしてください。僕の声が聞こえますか?」  相手が聞いているのを確信しているような声で、シェルはシュレーに話しかけた。半眼になり、わずかにうつむくシェルの顔は、青ざめているが真剣そのものだった。  面覆いの空気穴から透けるシュレーの横顔は、かすかに口を開いていたが、何か答える気配はなかった。スィグルには、シュレーが死んでいるように見えた。シェルが言うように、今はまだ生きていたとしても、どうせすぐに死体に変わりそうだ。  面覆いの下から、いく筋も血が滴り落ちはじめている。兜の中であふれた血が、甲冑を伝って流れ落ちているのだ。その量からしても、シュレーがかなりの量の血を吐いたらしいことは、容易に想像がついた。まるで、この模擬戦闘で、シュレーが一生分の幸運を使い果たしたように思え、スィグルはいやな気分になった。 「……どうして、どうしてこんな事に…? ライラル殿下、元気だったのに……」  シェルの目から、次々と涙がこぼれおちていくのを、スィグルは不思議に落ち付いた気分で眺めた。 「毒だ、きっと…」  スィグルが呟くと、シェルがゆっくりとこちらを見た。 「………猊下、あんた、生きてるより死んだほうが、誰かの役に立つらしいね」  スィグルはかすかな声で囁きかけた。 「いっそ死んでやったら…? そのほうがラクだと思うよ」  スィグルには、面覆いの中で、シュレーが薄笑いしたように見えた。   * * * * * *  天幕に横たえたシュレーから、シェルが手間取りながら兜を外すと、むせかえるような鮮血の臭いが溢れ出した。シェルが抑え切れずに悲鳴をあげるのを聞きながら、スィグルは正視できずに、とっさにその光景から眼をそむけた。  鼻の奥に残る血の臭いは、スィグルに森の地下の暗闇を思い出させた。吐き気と目眩が急激に襲ってくる。スィグルは机に手をついて目を閉じた。自分の喉がかすかに痙攣するのを理性で抑えこみ、スィグルは肩で息をついた。 「ライラル殿下、目を開けてください、しっかりして!」  シュレーに訴えかけるシェルの声は、ひどく切羽詰っていた。 「ライラル殿下!」  シェルが叫ぶように呼びかけるのが聞こえ、それを追うように、むせ返るシュレーの濡れた咳の音が聞こえた。ぎょっとして、スィグルは二人のほうを振りかえった。 「気が付いた!」  地面に横たえられていたシュレーが、かすかに体を起こしていた。シェルが涙で濡れた顔を輝かせている。スィグルは、無意識にシュレーの傍ら膝をつき、その顔を覗きこんでいた。  シェルに右手を握られたまま、シュレーは苦しげに咳き込み、地面に真っ赤な鮮血を吐いた。あざやかな血の色を見て、スィグルは動けなくなった。手甲をつけたままのシュレーの左手が、甲冑の上から、胃のあたりを掻き毟る甲高い金属音が聞こえた。 「うああっ…」  シェルが腹を押さえて悲鳴をあげた。スィグルは一瞬混乱し、そして、すぐに感応力の事を思い出した。 「離れてろ、バカ!!」  シュレーの腕を掴んでシェルの手から取り上げ、スィグルは痛みと混乱で引きつっている森エルフの体を蹴りとばした。天幕の床に転がって、シェルは震えながら、血を吐くシュレーの姿を見ている。シェルの蒼白な顔には、まだ、苦悶の気配がある。そばにいるだけでも、感覚が伝わるのだろう。やっかいな連中だ。  掴んだシュレーの腕は、猛烈に冷たかった。苦し紛れに何かを掴みたいのか、空を掻くように指が動く。吐いた血で息が詰まらないように、スィグルはシュレーの頭を抱え上げてやった。淡い緑色だった、スィグルの制服の袖が、みるみる血で染まった。新しい血の匂いがする。  ゆっくりと息を吐き、スィグルは頭の中を整理した。落ちつけ、何からやればいいか考えろ、と自分の中で繰り返すと、狂いかけていた平常心が急速に戻ってきた。  これは多分、暗殺だ。よくある話だった。自分とシェルが平気だということは、これは同盟のからみではない。おそらくイルスも無事だろう。だとしたら、シュレーは継承権がもとで殺されかかっているのだ。神殿かもしれないし、山羊の紋章に関ることかもしれない。  ともかく、今は、生き長らえさせることのほうが先決だ。死なせるのは、自分がやらなくても、他の誰かがやるに違いない。  ひとしきり血を吐くと、シュレーは小さく咳き込んで、ぐったりした。天幕の床に、ちいさな血だまりができている。 「おい、猊下、意識はあるのか」  スィグルが頬を叩くと、シュレーは煩そうに薄く目をあけた。目を開いているが、視線が定まらない。朦朧としているらしかった。 「マイオス…」  耳をそばだてないと聞こえないような、かすかな声で、シュレーがシェルの名を呼んだ。シュレーの血で濡れた唇が動くのが、いやに緩慢に感じられる。 「は…はい、なんですか?」  シェルが飛びあがるように応え、這い寄ってきた。 「フォルデスはいつ戻る……?」  シュレーの声はうつろだったが、うわ言を言っているわけではない。 「もうじきです」  シェルが、少しほっとしたように言った。 「遅いな……なにかあったのか……?」  シュレーが深く息を吸う音が、かすかな風のように聞こえた。 「ライラル殿下、自分の心配をしてください。そうだ…僕、医師を呼んできます。たしか、負傷者が出たら医師を呼べって…」  立ちあがろうとするシェルの短衣(チュニック)の裾を、シュレーの手が思いがけない確かさで掴み、ひきとめた。 「呼ぶな」 「な…なぜですか?」  シェルの声が驚きで上擦っていた。 「私が死ぬと……負けになる」  苦しみのために落ち窪んだ目で、シュレーはシェルを見上げている。  スィグルは顔をしかめた。シェルは言葉の意味が理解できずに、呆然としている。やがて、模擬戦の勝ち負けのことを言っているのだと気づいたらしく、シェルの顔に怒りの気配が広がっていった。 「…ライラル殿下、あなたは、本当に死にかかってるんですよ!」 「レイラス…マイオスを行かせるな」  荒い息をつきながら、シュレーが言った。かすかな声だったが、それには強い意思が感じられた。 「猊下、死んでもいいのか」 「救護された学生は、模擬戦では死者の扱いだ。医師を呼んだら、引き分けになってしまう。フォルデスが何人倒したのか…わからないから……」  ふっと意識が遠のくように、シュレーの言葉がおぼつかなくなった。スィグルは眉間に皺を寄せた。心臓が緊張のために激しく鳴るのを、スィグルはどこか冷静な頭で感じとっていた。 「敗残兵の…数で…決着をつけたら、負けるかもしれない」  言葉を継ぐシュレーの声は、気力だけで意識を保っているように聞こえた。 「レイラス……騎兵を何人倒した…?」 「そんなこと、もうどうでもいいじゃないですか!」  はじめて聞くような大声で、シェルが叫んだ。スィグルは顔を覆う森エルフを、黙って見つめた。 「マイオス……何度言ったらわかるんだ。ここで死ななくても……戦いに負ければ、私はいずれ殺される。負けた場合の一生なんて、私には考える必要がない……ここで死ぬならそれまでだ。放っておいてくれ」 「明日死ぬのを心配して、今日死ぬんですか、ライラル殿下!! 馬鹿げてます!」 「マイオス、これが初めてじゃないんだ。医師も信用できない…この学院には、私の味方なんて一人もいないんだ」  シュレーが微かな声で言うのを聞き、シェルが、息をのんだ。 「そ…そんな…! そんなことって………」  うな垂れて、シェルが苦しげな息を吐いた。 「私は死なない…死んだりしない……今日も、明日も、その先もだ……連中の思うようにはさせない……絶対に」  押し殺した声で呟くシュレーの言葉には、怨念のようなものが感じられた。  神殿種を暗殺しようとするなど、正気をうたがうような話だ。もし、うまくやったとしても、神殿にそれを知られたら、無残な処罰が待っているだろう。暗殺に関った者だけではない。山の部族全員に、その咎が及ぶことを覚悟したほうがいい。スィグルは口元に手をやり、かすかな震えを隠そうとした。  それでも、シュレーが殺されかかっているのは、確かなことだ。今、こうして目の前で命を奪われかかっている。  この神官は、いままで、それと知りながら平気な顔をしてきたのだ。シュレーには、命を奪われてでも、手にしたいものがあるというのだろうか。  そんなものは自分にはない。スィグルは必死で呼吸を整えながら、そればかりを思い巡らした。 「30騎のうち、12騎は僕がしとめた…」  スィグルは深呼吸して、言葉を継いだ。 「あんたは4騎倒した。それから、味方の兵が残りのうちの9騎…味方の歩兵が、2騎始末してるのを見た。だから、残っている敵の騎兵は、たったの3騎だ。こっちにはまだ5騎残ってる。騎兵の数だけなら、こっちが有利だ。でも、歩兵はまだほとんど交戦してない。数は向こうが圧倒的に多いはずだ」  スィグルの声は、自分でも意外なほど冷静だった。 「君は、フォルデスが…敵の歩兵を何人くらい倒したと思う?」 「さあ、そんなの僕が知るわけないだろ。自分で考えろよ。指揮官は、あんただ」  スィグルはつとめて高飛車な口調を作った。シュレーが血で濡れた唇を笑いの形に歪めた。 「可愛げのないやつだ」 「僕に何かさせたいんだったら、跪いて頼むんだね。なにもなしで言うことを聞かせようなんて甘いよ」  シュレーの灰色がかった緑の瞳が、自分を支えているスィグルの顔を、ふらふらと惑いながら見上げた。かすかな逡巡を見せてから、シュレーは小声で切り出した。 「ここで勝たなければ、私に未来はない。マイオス、レイラス、力を貸してくれ…」  いつも朗々と話すシュレーの言葉も、こればかりは頼りない。 「僕、いくらでも手伝います、なんでもします、だから死なないでください」  悩む気配もなく、シェルが即答した。そして、少しためらってから、シェルはシュレーの手を握った。シェルの顔が微かに歪む。 「苦しいですね…なんとかしなくちゃ」 「私の部屋に、解毒剤がある……それを取ってきてくれないか。キャビネットの鍵が、首に………」  シェルが甲冑の喉あてをはずし、シュレーが首から下げていた銀の鎖を引っ張り出した。それには、小さな鍵が通してあった。 「私の紋章の入った箱がある。それをそのまま持ってきてくれ」 「わかりました、僕、行ってきます」  頷いて、シェルが立ちあがった。 「ライラル殿下……きっと大丈夫です。死んだりしません。僕、なんとかしますから。だから、無茶しないでください。お願いです」  言い含める様に呟くシェルの声を、シュレーはうつろな目で聞いていた。 「レイラス殿下、あとは頼みます」  言い置いて、シェルが天幕を出て行く。スィグルは何も答えずに、それを見送った。  天幕の入り口を覆う布が、ばさりと戻り、走り去るシェルの足音が遠ざかって行く。外には、兵たちの甲冑がたてる耳障りな金属の音が、うるさく聞こえていた。いつまでも指示がないと、連中も怪しむに違いない。スィグルは、じわりとした焦りを感じた。 「解毒剤なんて、ほんとにあるのかい?」  目を閉じかけるシュレーに、スィグルは問いかけた。 「たぶん。…この感じ、覚えがある。前に一度…解毒できたから、今度も…大丈夫…な…………」  言いかけて、シュレーは眉を寄せ、押し黙った。 「猊下…どうした?」  大きくむせて、シュレーはまた血を吐いた。手甲をつけたままの左手と、素肌の右手が、それぞれ地面にめり込むのを見て、スィグルはうろたえた。どうにもしてやれない。少し迷ってから、スィグルは自分の髪を束ねている皮紐をほどいて、シュレーの髪を束ねてやった。髪が血で濡れるのが哀れな気がしたのだ。  だが、そうしてから、なにを意味のないことをしているのかと、スィグルは自分が分からなくなった。 「甲冑を…」  胴を閉じ込めている胸当ての革ベルトを、シュレーの指が苦しげに探っていた。防具を着ているのが苦しいのだろう。スィグルはシュレーの手を退けさせて、代わりに甲冑を脱がせはじめた。  上から順にベルトを解くうちに、甲冑の内側から、金属を押し上げる力があるのが感じられた。一瞬ためらってから、スィグルはまた一つ甲冑のベルトを緩めた。すると、それが限度だったように、残っていた皮ベルトが次々に千切れ、甲冑を押し開くように、白く光る翼が溢れ出してきた。 「うわっ…」  咄嗟のことで、スィグルは悲鳴を抑えられなかった。白く半透明な翼は、淡い光を発しながら、天幕の天井まで広がった。気が気でなく、思わず天幕の入り口を見遣る。誰か入ってきたら、神聖神殿の門外不出の秘密が広まってしまう。 「め…迷惑だ……こんなもん、さっさと切り落とせ!!」  どうすることもできず、スィグルはあきらめて防具をはずしてやることにした。甲冑の下の制服は、ひどい汗で湿っている。淡い緑色の絹のシャツが、そのまま雨の中を歩いた様に濡れて、シュレーの肩に張りついていた。  激しくむせるたびに、腹を押さえるシュレーの手の下で腹筋が引きつるのがわかった。毒で胃をやられているに違いない。  吐血がおさまると、シュレーは崩れるように地面に横たわった。右手で口元をぬぐって、自分の白い手を染める鮮血を、かすかに震えながら見上げている。 「死にそうか?」  スィグルは、憎まれ口しか出てこないのが、情けないような気がした。シュレーの顔は蒼白を通り越して、まるで死人のようだった。 「死ぬかもしれない……と、いつも思う」  シュレーが、かすれた声で呟くのが聞こえた。血で染まった、ふるえる指先を見つめたまま、シュレーはゆっくりと目蓋を伏せた。目を閉じたというより、意識が抜け落ちていくような頼りなさだった。 「今日は、死ぬのかもしれない…明日は、本当に死ぬかもしれないと………いつも」  憔悴しきった顔をしながら、シュレーは気力を奮い起こすように、ゆっくりと目を開いた。 「死なないんじゃなかったのかい」  その場に座り込んだまま、スィグルは力なく混ぜ返した。  かすかに首をめぐらせて、シュレーがスィグルの顔を見上げた。自分の血に染まった姿で倒れ込んでいるのを見ると、ほんとうに天使ブラン・アムリネスが神殿の壁画から抜け落ちてきたようだ。 「君は、どうやって生き延びたんだ、レイラス」  耳をそばだてて聞かないと、聞き取れないような声のはずが、シュレーの問いかけはスィグルの耳を激しく打った。シュレーがなんのことを聞いているのか、スィグルには直感的にわかった。 「……懺悔(ざんげ)でもしろっていうのか」  歯を食いしばって、スィグルはうめいた。シュレーは何でも知っているはずだ。神聖神殿の記録を調べたと言っていた。タンジールの神官たちは、事の次第を聖楼城(せいろうじょう)に書き送っていたはずなのだ。  なぜ今、そんなことを話したがるのか、シュレーの気がしれなかった。スィグルは座り込んだまま頭を抱えた。知っているなら、わざわざ聞き出す事もないではないか。  スィグルは話したくなかった。その事実を、自分の口から誰かに話したことは、今まで一度もない。できることなら、誰にも知られたくない。自分はもう、一生分の侮辱を受けたと、スィグルは思いたかった。これ以上、誰かに罵られたくないのだ。 「いつも……」  シュレーが突然呟いたので、スィグルははっとして顔をあげた。 「暗い…穴の中を、ひとりでさ迷ってるような気がする」  スィグルは、途切れがちな言葉を聞きながら、傍らに横たわっている神殿の天使にゆっくりと向き直った。シュレーは目を開いて天井を見上げていたが、もうほとんど意識がないようだった。 「誰も彼も私から奪っていく。父上や、母上や…私の自由、私の心、挙句は、命まで…生きるためには、それと戦わないといけない。でも、私はもう戦うのはいやなんだ。なせ、こんなことばかり………これが、私の生涯の全てか…? 自由になって…ここを出て行きたい……ちゃんと、生きたままで……明るいところ…に……」  シュレーの言葉の終わりは、すっかり消え入って聞こえなくなった。重いものでも運ぶような風情で、シュレーは目を閉じ、少ししてから目をあけた。スィグルは思わず顔を歪めた。 「君も…そうだったんだろう? 苦しかったか?」  息がつまるのか、シュレーは顎をそらせ、スィグルではなく、天幕の天蓋を見上げている。その視線は危うげで、定まらない。 「でも……君はもう、そこから出てきた。私は、それが……うらやましい。君が、どうやって耐えたのか………私に…教えてくれ」  スィグルのほうへ顔を向けて、シュレーは、なにかを頼るような目をした。  スィグルはまた、スフィルのことを思い出した。なぜ弟は、あの時、助けてくれと言ってくれなかったのか。そう言ってくれれば、いくらでも助けてやったのに。 「………出られる。いつか。こんなのは…ただの悪い夢だと思えばいいんだ」  スィグルは自分の袖で、血で汚れたシュレーの頬を拭いてやった。 「君も……夢の中でやったことなんて…さっさと、忘れてしまえ」  眉を寄せ、スィグルはうつむいた。目をあけていられない。 「そんなこと……できるもんか。僕は──────人を殺して食ったんだぞ…」  その言葉のあまりの苦さに、スィグルの舌は痺れた。  シュレーの手が頭に触れるのを感じ、スィグルは驚いて目をあけた。 「レイラス…汝、許されり」  シュレーは薄く笑っていた。 「……………もう、忘れていい」  シュレーの手から力が抜けて、自分の髪の間を白い長い指が滑り落ちていくのを、スィグルは目を見開いて見送った。  ぱた、と音を立てて、シュレーの手が翼の上に落ちた。シュレーは薄く目を開いていたが、その視線には意識の光がなかった。 「……おい……よせよ……!!」  スィグルはぞっとして、とっさにシュレーの手を握ってみた。その手には、まだ脈があった。気を失っただけだ。 「この…クソ野郎(ルガイズューレ)!!」  全身でため息をつき、スィグルはその場にうずくまった。  天幕の中でひとりにされると、焼け付くように喉が乾いてくる。頭の芯が痺れるような目眩を、スィグルは感じた。 「………忘れるなんて無理なんだ…そんなことできたら、とっくにやってる!!」  天幕の地面に爪をたてて、スィグルはうめいた。シュレーが聞いているとは思えなかったが、押し留められない言葉の波が、乾いた喉からつぎつぎと溢れ出てくるのだ。 「父上も……他の連中も……みんな知ってるくせに、なにも言わない………どうして、誰も、僕を責めないんだ… 僕がスフィルをあんなふうにしたんだ、みんな……僕が勝手にやったんだ、スフィルが悪いんじゃない……僕のせいなんだぞ! 猊下、あんたは間違ってる。あんたがやらなきゃいけないのは、僕を罰する事じゃないのか、なんとか言えよッ、畜生!! 目をさませ!!」  シュレーの体を揺らして、スィグルはその神聖な耳元でわめきちらした。返事を聞かないと、不安で気が狂いそうだったのだ。 「なにが神殿の天使だ……!! 母上を、スフィルを…僕を救ってくれって………僕はあんたに祈ったこともあるんだぞ………でも、なんだよ、これは…ただの死にぞこないじゃないか! なんのための神聖神殿だッ……自分ひとりの命も助けられないあんたが、誰を救えるっていうんだ……!! 救えるもんか!! さっさとくたばれ! いい気味だ……!!」  だが、シュレーは目をあける気配がなかった。気を失ったまま、ぐったりとしている。  スィグルは呆然として沈黙した。袖を染めた血の赤さに目眩がする。  自分がわめきちらした事の意味を、スィグルはいい終えてから、やっと理解した。シュレーは死にかかっている。誰かが助けてやらなければ、このまま死ぬのだ。  誰がやったのかもわからない謀略によって。ただ、その血筋に生まれたというだけのことを理由に。  かつて、スィグルがそうだったように。 「くそ……猊下、あんた、負けないんじゃなかったのか……?」  不意に、自分の声が表の喧騒に吸い取られるのを感じて、スィグルはハッとした。天幕の外にいる兵たちが騒がしい。誰かが天幕に近寄ってくるのを感じる。  スィグルはとっさに立ちあがって、天幕の入り口に走り寄った。覆いを跳ね除けて外へ出ると、天幕を目指してきていた山エルフの学生たちと、鼻先がぶつかりそうな距離で出くわした。  天幕に入ろうとしていた学生たちは、身につけた甲冑の重さのため、走る勢いを止められず、スィグルの体にぶつかってきた。スィグルは力任せに兵たちを押し返した。 「なんだ、なにか用か!?」  入り口に立ちはだかって、スィグルはよろめいている兵たちを睨み付けた。 「敵襲だ、猊下の指示をうかがいに来た」 「指揮官が何をしている。防衛戦はどうなったんだ」 「騎兵がもう交戦している、さっさとしてくれ!」  天幕から、スィグルは陣の入り口を見遣った。敵軍は、残った歩兵まで総動員して、押し寄せてきていた。  イルスが挙げた首級が、こちらに戻っていないのを知っているのかもしれない。いつまでも白羽の軍旗が上がらないのを見れば、それに気づくのも当然だろう。最後の勝機を狙って、シュレーの首を取りに来たのだ。 「くそっ……イルスのやつ、のんびりしやがって…………!」  母国語で悪態をつくスィグルを、兵たちは不審そうに眺めている。 「猊下は休養中だ。防衛戦の指揮権を委任された。行くぞ」  自分より頭ひとつぶんも上背のある兵たちを見上げて、スィグルは尊大に命じた。  考え間もなくそうしてから、なぜそんなはったりを言うのか、スィグルは自分が不思議でならなかった。 「お前が指揮を摂るだと………? なんの権利があって……」  胸倉を掴もうとして腕を伸ばしてきた兵を、スィグルは魔法で弾き飛ばした。派手に地面を転がった兵は、胸当ての壷が割れてしまったが、吹き飛ばされた衝撃と痛みに気をとられ、それにも気づかない様子だ。 「貴様……味方の兵だぞ!?」 「黙れ!」  色めき立つ山エルフたちに、スィグルは一喝した。 「敵もろとも吹き飛ばされたくなかったら、さっさと戦列に戻って陣を守れ! 魔法の恐ろしさをもっと詳しく知りたいか?」  山エルフの兵たちは、なにか言い返そうという気概を見せはしたが、結局、誰も反論しようとしない。ほんのしばらく、スィグルは彼らと睨み合っていた。最初の一人が天幕を離れて走り出すと、山エルフの少年たちは、次々とスィグルの命令に従った。  最後の一人がその場を離れたのを見て、スィグルは思わず、深いため息をついた。なぜ自分がこんなことをしてやらねばならないのか、納得がいかない。だが、のんびり考えている暇はなさそうだ。  兵たちが戦列に戻り始めるのを追って、スィグルは武器を持たないまま、戦列に向かって走り出した。  途中、スィグルは振り向いて天幕のほうを見遣った。  戻った時に、シュレーが死んでいたらどうなるのかと考えると、空恐ろしかった。イルスが首級を持って戻ってきたところで、それを握らせるのは死体の手なのか。スィグルは身震いした。  スフィル、スフィル、と、スィグルは弟の名を呪文のように呟きながら走った。助けてやる、絶対に、タンジールの夕日をもう一度見せる。暗闇の中でたった一人、飢えて死ぬのはあんまりだ。お願いだから、今日も、僕が戻るまで生きていてくれ。  妄想と狂気に落ちていきそうになる頭を振って、スィグルは自分を取り戻そうとした。自分はもう、森の地下にはいない。タンジールでもない。ここはトルレッキオだ。模擬戦闘には勝たねばならない。負ければシュレーには後がないのだ。  口先だけの世迷い言で、ひとを救った気になられたら迷惑だ。それを伝えるまでは、死んでもらっては困る。癪に障る、人を憐れむあの顔に、さんざん文句を言ってやらないと自分の気が済みそうにない。  スィグルが前線に出ると、味方の騎兵は全て倒されていた。騎手を失って暴れる馬を避けながら、歩兵たちが戦っている。その防衛線も、すでにあっけなく持ち崩されようとしていた。 「そこを退け!」  スィグルが大声で告げると、驚いた兵たちが何人かこちらを見た。味方の兵が残っているのにも構わず、スィグルはその一帯にいた敵の歩兵に、出せる限りの魔力を叩き付けた。  疾風のような駿足で襲いかかる魔法のために、あたりの兵はなぎ倒された。怯んだ兵たちは、敵も味方もなく、スィグルを化け物でも見るような目で見つめ返してくる。  急激に魔力を使ったために、くらっと目眩がした。それを気取られないように、スィグルは山エルフたちを睨み付けた。 「さあ来い。手加減なんかできないからな。腕の一本二本は覚悟しろ。陣に踏み込んだやつは、片っ端から吹き飛ばす!!」  目に見えない力を恐れ、敵兵たちは明らかな怯みを見せた。スィグルは自分の中に眠る魔力をかき集めるため、歯を食いしばった。  暗闇の中から、あにうえ、と力なく呼びかける弟の声が、耳元に蘇る。僕が眠ったら、兄上の魔法で殺して…もう二度と、暗闇の中で目をさましたくないんだ。  死んだほうがましだと、弟は何度も言っていた。  そんなことはない。そんなことはない。そんなことはない。スィグルは次々に蘇る幻覚をなぎ払うように、心の中で叫んだ。  スフィルが生きて戻ったことを喜ぶものが誰もいなくても、スィグルは、弟を助けてやりたかった。暗闇の底に見捨てられ、飢えてさまよう惨めな子供を。もう一度、明るい場所へ戻してやりたい。  ……あの天使も、いま、暗闇の底に。  スィグルは深く、息を吸いこんだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-31 : 道 標(みちしるべ) -----------------------------------------------------------------------  喉を通る呼吸の音が激しく乱れ、まるで、真冬の梢を吹き抜ける風たちの悲鳴のようだった。  シェルはカギを握り締め、わき目もふらずに森の中を走りぬけた。土地鑑のおぼつかない学寮までの道のりが、無限の距離に感じられる。何度も木の根に足をとられ、朽ち葉のうえに倒れこんでも、シェルは痛みを感じることも忘れていた。  枝々を透かせて見える空は、あっけないほど晴れている。必死で走りながら雲一つない青空を見上げると、シェルはその眩しさで、溢れ出る涙を止められなかった。 「箱を……キャビネットの中の……箱………」  肺が引きつるような息苦しさと戦うために、シェルは意味もなく、言いつけられた言葉を繰り返した。  シュレーの部屋を訪ねた時、その奥には古めかしいキャビネットがあった。立派な彫刻のある、黒檀の扉がぴったりと閉じられ、くすんだ金の錠前がかかっていた。  その中にある解毒剤を持ってもどれば、シュレーは助かるのだと、シェルは、震えあがり足を止めそうになる自分に言い聞かせつつ、木の根を避け、岩場を飛び越え、ふもとの学寮を目指して走りつづけた。  腹の奥に、焼けた鉄を押し当てられているような痛みを感じる。それに気をとられると、息をすることもできなくなりそうに思えて、シェルはその痛みから逃れようと必死なった。  それはおそらく、陣の天幕の中で、シュレーが感じている痛みに違いなかった。感応力が、遠く陣を離れた今でも、彼の感覚を追いつづけているのだ。  学寮に急ぐ自分の足を妨げる、その鈍く煮えたぎるような苦痛を、シェルは断ち切りがたい思いで感じ取っていた。この痛みが感じられるかぎり、シュレーが生きているのだと知ることができる。痛みを感じるのは生きている者だけだ。死んでしまえば、その苦痛さえ、ただの漠然とした感傷となってしまう。  生きている。まだ、シュレーを助けることができる。自分を苦しめるその苦痛から、逃れてはならないとシェルは感じていた。  生まれつき体の弱いシェルが、病がちになって熱を出すたびに、シェルの母や姉達は、いつもそばにいて、シェルが味わっている苦痛を分け合ってくれた。どんなに苦しい時でも、そうやって家族がそばにいて、自分の痛みをともに苦しんでくれることが、とても暖かいものとして感じられ、いつも、病床のシェルを励ましてくれた。  いつもちょっとしたことで倒れこむ虚弱な体のことを、恨めしく思ったこともあった。しかし、いまシュレーが味わっているこの痛みにくらべれば、あんなものは問題にもならない程度の苦しみだ。シェルは、その苦しみの中に、シュレーをたった一人で置いておくのがいやだった。誰かの心が寄り添っていることが、彼を励ますのではないかと思えて、その苦痛を他人のものとして放り出すことができない。  カギをつなぐ鎖を、シェルは走りながら自分の首にかけた。  死にかけている者の心に触れてはならないと、森の部族の大人たちは、シェルに教えていた。死にゆく者のそばに寄り添い、別れを惜しむのには退き時がある。死線をまたぐ時は、誰しも一人で逝かねばならない。死霊の心に触れてはならない。生きたままの体で、死を経験してはならない。それは、感応力を持って生まれてきた者が、自分の壊れ易い精神を守るために、絶対に必要なことだ。  シェルは、故郷で教えられたことに、簡単に叛こうとする自分の心が不思議だった。命の危険にさらされ、冷たい死に触れようとするシュレーの気配から、手を離すことができない。  このままシュレーが死ねば、自分は生きたままで生と死の境を越えてしまうことになる。死霊がささやく言葉に、耳を傾けてはならない。それも厳重な森の掟だ。だが、シュレーがもしこのまま死ななければならないというなら、自分は、彼が話したがる言葉の全てを、聞いてやるのが当たり前だと感じている。  「…シェル!?」  呼びとめられて、シェルは悲鳴をあげた。いつのまにか、感応力の伝えてくる気配に没頭していた。  十数歩も行き過ぎてから、シェルは振りかえった。左手に長剣を提げたイルスが、針葉樹の幹の向こう側にいた。 「イルス…!」  話している暇が惜しい。シェルはすぐにも走り出したい気分で、じりじりと焦った。走り寄ってくるイルスを、じっとして待つことができない。落ち付かないシェルの様子を見て、イルスが深刻な表情を見せる。 「どうした、なにがあった!?」  異変の気配を察したのか、イルスの声は硬く、かすれていた。 「ライラル殿下が…………! イルス、早く陣に戻ってください!」  うまく説明することができず、シェルは息切れする喉をなだめならが、陣のほうを指差した。  かまわずに走り去ろうとするシェルを、イルスの声が鋭く退き留めた。 「…毒か!?」 「え…!?」  シェルは心底から驚き、振り向いた。イルスの声には、確信めいた響きがあった。 「死んだのか!?」  走りだそうとするシェルの肩をイルスが掴んで、乱暴に揺する。  その瞬間、シェルは目の前に激しい色がいくつも閃くのを感じて、自分がどこにいるのか、わからなくなった。  ねっとりと熱い風が窓から吹き込んでいるのを感じながら、内心からの凍えるような震えが湧き上がってくる。小さな子供の泣き声が、すぐ耳元で聞こえた。母上、と何度も叫んでいる。その声の聞こえたほうへ意識をむけると、血まみれになった豪華なドレスにすがりついている子供が見えた。見なれない文様が刺繍された短衣(チュニック)は、初めて会った時にイルスが着ていたものに、どことなく似ている。  指先から血のしずくを滴りおとす優しい手がのびてきて、自分のほほに触れるのを、シェルは感じた。微笑んでいる女性の、青い瞳がこちらを見ている。  イルスはいい子ね、と、その女性が異国の言葉で囁いた。力なく横たわり、汗をかくように血を流しているドレスの女性は、丸く膨らんだ腹を抱えていた。妊娠している。  自分の心の中から、ははうえ、と、稚(いとけな)く震える声が聞こえた。  シェルは焦った。これは、たぶんイルスの心だ。感応力のせいで、彼の心に引き込まれかけているのだ。人の心の奥底にあるものに、触れてはいけない。 「答えろ、シュレーはどうなったんだ!?」  間近でわめくイルスの声が、シェルを幻想から引き戻した。激しく揺さぶられて、シェルの首ががくりと仰け反る。よろめきながら、シェルはイルスの手を振り払った。  荒い息をつきながら、シェルはイルスから数歩あとずさった。答えを言葉にできず、代わりに激しく首を横に振ってみせる。 「僕が……解毒剤を…取りに行くんです!」 「どこにある?」 「ライラル殿下の部屋に………」 「俺が行く、お前は首級を持って戻れ。俺のほうが速い」  イルスが、シェルの手に、革袋につめた丸い大理石の球を押し付けようとしたが、シェルはそれを拒んだ。 「だめです、それは! イルスは戻ってください。ライラル殿下が、イルスのこと心配してました!」 「後でいい、そんなのは」 「陣にはまた敵が来てると思います。模擬戦闘には勝たなきゃならないって、ライラル殿下が……。倒れたことを知られて救護されたら、その医師が殿下を殺すだろうって………ここの人達は、みんな、共謀してるんだって言うんです」  首級を押しつけようとするイルスの手から、力が退いて行くのが感じられた。  言いながら、シェルは自分の頬を涙が伝い落ちていくのを感じていた。なぜ泣いているのか、自分でもよく分からない。恐ろしさと悲しさ、いいようのない怒りと悔しさが、シェルの心のなかに充満して、涙になって流れ出てくるようだった。  イルスが、言葉を失ったように、じっとシェルの顔を見下ろしている。イルスも、ここまで同じように走ってきていたせいか、ゆっくりと肩を上下させて、大きな息をついている。それでも、汗のしずくを浮かせた顔には、まだ充分な余裕があった。 「僕がいても、もう何の役にも立たないから……イルスが戻ってください」  うな垂れて、シェルは告げた。  ざあっと激しい風が森の中を駈け抜けていき、朽ち葉を吹き飛ばし、二人の服をはためかせた。しっとりと美しく湿った森の土の匂いにまぎれて、甘い花のような香がする。イルスのほうから香ってきているに違いないとシェルは思った。彼は根っからの戦いのための血筋だ。シェルが10人束になっても、かないっこないほどの働きができる。  剣をとれないことを、悲しいと思ったのは、これが初めてだった。争うのは嫌いだ。たとえ模擬戦であっても、暴力によって何かを競い合おうとする姿は、シェルの目に醜いものとしてうつった。シェルは、自分が武器をとって敵方の学生を痛めつけるなど、想像するのもいやだった。  だが、それでも、自分が今、何の役にも立てないことが、不甲斐ない。 「わかった……」  低く、かすれた声で、イルスが答えた。その、ぼんやりとした声を聞き、シェルが顔を上げると、イルスの青い目は、どこか遠くをさまようように見つめている。 「どうして、毒殺のこと……知ってたんですか」  シェルが尋ねると、イルスは迷うような無表情になって沈黙した。シェルを見つめるイルスの視線が、ちらちらと小刻みに揺れている。 「未来視した」  ぽつりと答えるイルスの言葉を聞き、シェルは驚いてイルスの額を見た。 「だ…だめじゃないですか! イルス、命に関ることなんでしょう」 「また、助けられなかった……」  イルスは無表情だったが、彼が激しく動揺しているのが、シェルには感じ取れた。 「また、って……」 「役にも立たないこの力のせいで、俺は死ぬのか」  混乱した様子で、イルスが早口に喚いた。 「俺は、母上が死んだ時も、毒殺のことを未来視した。それでも助けられなかった。他のもそうだ。死ぬのがわかってても、何もできない。シュレーもそうなのか。あいつも死ぬのか。だったら俺は、なんのために未来なんか見てるんだ。これじゃ……俺は、ただ次の死者を選んでるだけだ! 俺がもっとうまくやってれば―――――――」  言い募るに連れ、イルスの口から流れ出る言葉は、彼の故郷の言葉に変わっていった。イルスは、シェルが海エルフの言葉を理解できると知っているはずだったが、それはむしろ、独り言であるように聞こえた。 「イルス…落ち付いてください! ライラル殿下は生きてます、死んだりしません……殿下もそう言ってました」  先を急がねばならなかったが、シェルはイルスを置いていけない気分で、後ずさりながら話しかけた。その声を、イルスは聞いていないようだった。言葉をつまらせて、動揺した目を見開き、森の地面を見下ろしている。そんなイルスを、シェルは激しく焦りながら見つめた。 「大丈夫です(ウフラ・スウェナ)、死んだりしません(オルト・トゥルハ・ヴィーダ)」  海エルフの言葉で話しかけると、イルスは驚かされたように顔を上げた。眉間にしわを寄せ、イルスはやっと、シェルのほうに視線を戻してくれた。 「……イルス、ライラル殿下を助けましょう。誰も助けないなら、僕らがやればいいです」  イルスが、こちらをじっと見ている。木漏れ日のふりそそぐ針葉樹の森の中で見ると、抜き身の長剣を握って立ち尽くしているイルスは、まるで、誰かがそこに置いていった、異国の彫像のように見えた。 「…俺の母上も、毒で殺されたんだ。俺は、母上を助けたかった。でも、だめだった。母上は死んだよ……俺のせいだ」 「そんなことありません、考えすぎです」  シェルは、これといった確信もなく、とっさに否定していた。  目を閉じ、イルスが悪夢を追い払うように首を振る。顔をあげて、シェルのほうを見たイルスは、すでに、シェルが知っている少年に戻っていた。 「ウェルラ・ヴィエナ(すまなかった)、フラ・メルティ(ありがとう)」  イルスは力強い響きのある海辺の言葉で応えた。 「一緒に、ライラル殿下を助けてください」  シェルはイルスの青い目を見やって、念をおすような気持ちで言った。それを聞き、イルスが頷いた。シェルは、思わず微笑んだ。イルスが、あきれた風に肩をすくめて苦笑する。 「急げ、シェル。走れ!」  歯切れの良い公用語で言い残して、イルスは陣に向かって走り去った。機敏に木の根を避けつつ走っていくイルスの背中が、みるみる遠ざかっていく。イルスはまるで風のように走る。シェルには彼がとてもうらやましく思えた。自分もまた、この森を吹き抜ける厳しい風のように、まっしぐらに走りたいのに。  一呼吸だけ見送り、シェルもまた、学寮への道のりを走り出した。山から吹き降ろす風が、シェルの背中を押してくれた。  ざわざわと梢を鳴らす風たちが、走るシェルを、つぎつぎと追い越して行く。もつれて言うことをきかない自分の足が情けなくて、涙が出てくる。吹き抜ける風を追いかけて、シェルは、泣きながら走りつづけた。  急に森が切れて、岩の目立つ小さな崖があらわれた。走る勢いをとめられず、シェルは岩場で足をすべらせた。針葉樹のささくれた幹を掴み、転がり落ちそうになる体をかろうじて止める。  空中にある自分の足先を震えながら見つめ、シェルはなんとか体を引き戻した。針葉樹を掴んだ手は、荒れた硬い樹皮のために皮膚が破れ、血をにじませていた。  シェルは、ケガをしたのは初めてだった。裂けた傷口で、みるみる小さな血の玉がふくれあがり、白かった手にいくつもの赤く細い筋を作りはじめる。  痛い。  シェルは驚いた。手の平に開いた傷口は、引きつるようにひりひりと痛み、そこだけが脈打つ様に、ひどく熱い。  血を流すことが、こんなにつらいものだなんて。  土と樹皮で汚れ、血のにじんだシェルの手の上に、ぽたぽたと涙がおちた。大きな雫が傷に触れると、涙がしみて、するどい痛みが湧きあがってくる。それでも、シェルは自分の手を見つめるのをやめられなかった。  行かなくちゃいけない。自分にそう言い聞かせて、足を踏み出す。  崖の下をのぞき込むと、下まではシェルの身長の5倍ほどもあった。むきだしの岩から、針葉樹の根が突きだし、しっとりと濡れた蔓(つる)と苔(こけ)が、それにからみついている。その高さに、シェルの目はくらみ、一瞬で怖気がやってきた。 「無理だ………僕には…降りられないよ……」  小声で呟きながら、シェルは崖の一番上にある岩を掴んだ。それで体を支えて、ぎこちなく足をおろすと、滑り易い苔の感触の中から、しっかりとした岩の足場を探し出すことができた。  そのまま、ゆっくりと体を降ろしていく。岩をつかんだ手の平の傷口が熱い。見えない足場を探る自分の足が、あきらかに震えているのを、シェルは感じていた。  あと少しで地面に辿り付きそうになったところで、シェルの手は掴んでいた岩から指を滑らせ、空をかいた。意識が抜け落ちるような落下感のあと、地面に強く背中を打ちつけ、シェルは息をつまらせた。  一瞬、心臓が止まったような気がした。  目を閉じた暗闇のなかで、鼓動が戻ってくるのを確かめると、どっと冷や汗が吹き出てくる。  仰向けに倒れたまま、シェルはゆっくりと目をあけた。  真正面に見える森の空が、透けるような淡い青だ。枝を張る針葉樹の葉が、暗い緑の陰になっている。故郷の森の、明るく温かい景色とは、まるで違っている。なつかしい、アシャンティカの森。  もう帰れないかもしれない。そう思うと無性に心細い。  痛みで痺れる体を、シェルは苦労して起こした。山々を覆う森たちは、なにも語らず、シェルの痛みに無関心だった。  いつも自分のそばにいてくれた、兄弟たちや、母のこと、族長である父のことが、シェルの頭の中に次々と浮かんできた。やわらかい陽射しの中の豊かな森。部族を守る守護生物(トゥラシェ)たち。偉大なる森の精霊、アシャンティカ。その温かい世界に、シェルは帰りたかった。心の底から、帰りたいと思った。  だが、自分は彼らに捨てられたのだ。帰るところなど、どこにもない。ここで殺されるために選ばれたのだ。スィグル・レイラスがそう言っていた。誰もそれを否定しなかった。いつか、自分はここで命をとられるのだ。それは今夜かもしれない。そうでなければ、明日かもしれない。  こうして、森の中でたったひとり苦しんでいても、誰一人手をさしのべてはくれない。このままこの地でシェルが死んでも、誰も、どうすることもできない。それっきりで終わりなのだ。どうしていいか、わからない。  もし、今、死にかかっているのがシュレーでなく、自分だったら、誰か助けてくれるのだろうか。スィグル・レイラスは、シェルが死にかけている姿をみても、いい気味だといって笑うのだろうか。  そうであっても、自分には文句が言えない。  シェルは立ちあがった。不安の生み出す小刻みな呼吸が、シェルの肺を苦しめる。  学寮まで、まだしばらく、走り続けないといけない。シュレーを助けなければいけない。それ以外のことは、今考えても仕方のないことだ。  自分自身の体に感じる痛みと、遠くからやってくる痛みが、シェルの中でせめぎあっている。もう走りたくないと叫ぶ、悲鳴に近い自分の声が、耳の奥で聞こえるような気がする。もう走りたくない。一歩だって歩けない。痛くて苦しい。立ちあがって走ったところで、誰が見ている、誰が、ほめてくれるというのだ。  そこまで思ってから、シェルは気づいた。これは自分の心であって、自分の思いではない。その声は、自分の心の奥底の、とても遠いところから聞こえていた。  私が死んでも、誰も泣かない。  密やかなその声を感じとって、シェルはあたりを見まわした。遠くから聞こえるその思いが誰のものか、シェルにはわかった。 「僕は泣きます!」  引きつる肺を抱えたまま、シェルは大声で叫んだ。 「あなたが死んだら、僕は悲しいです!! イルスだって、あなたのこと心配してました! レイラス殿下だって、きっとそうです! しっかりしてください、自分が、たったひとりだなんて…馬鹿なことを、考えないで……誰にも、一言も確かめもしないで、そんなこと勝手に決めないでください! みんな、あなたのために走ってるんですよ!!」  声に出さなくても、生まれつき持っている感応力が、それを遠くにいる声の主に伝えるはずだった。だが、言葉にださずにはいられない衝動が、シェルを突き動かしていた。  シェルの声に驚いて、深い緑の梢から、次々と鳥たちが飛び立っていった。その羽音と、動揺した小さな生き物たちの心がたてる囀(さえず)りが、かすかに伝わってきているはずの、遠い声をかき消した。  あたりが静まったあとも、どんな答えも返らなかった。だが、シェルの感応力は、誰かの物言いたげな沈黙の気配を、はっきりと感じ取っている。  聞いている。走らなければ、とシェルは思った。  呼吸を整え、痛みをなだめて、シェルは走り出した。風も鳥も、軽がるとシェルを追い越していったが、夢中でそれを追い、ただひたすらに、シェルは走った。 -----------------------------------------------------------------------  1-32 : 貴婦人の訪問 ----------------------------------------------------------------------- 「ライラル殿下から頼まれて来たんだ、扉を開けてよ、アザール」  シュレーの居室の扉を叩いて、シェルは中にいるはずの執事の名を読んだ。どんどん、と黒檀の扉を激しく叩くと、その衝撃で手が軋む。シェルは鈍く痛み続ける腹を押さえ、黒光りする扉に寄りかかった。扉を叩く手の痛みのほうが、よほど他人事のように感じられる。  扉の向こう側に誰かがいるのを、シェルは感応力で感じ取っていた。なぜすぐに出てきてくれないのかと、シェルは悲しい気持ちになった。  ひどく緩慢に感じられる動きで、部屋の扉が開き、まえに見たのと同じ、硬い表情の執事が顔を出した。背の高い山エルフが、泥だらけになり、涙で濡れたシェルの顔を、一瞬唖然として見下ろしてくる。 「なにごとでございますか」 「部屋に入れて……頼まれたものを、持っていかなくちゃいけないんだ」  横をすりぬけて部屋に入ろうとしたシェルを、執事が手で遮る。 「畏れ多くも、ブラン・アムリネス猊下のお部屋です。私の一存でお入れするわけには参りません」  アザールは、シェルを見くびっているような目つきをした。 「その……ブラン・アムリネス猊下の頼みで、僕は来たんだよ、アザール。今は話している時間なんかないんだ、お願いだよ」  シェルは懇願した。執事がかすかに動揺した表情を見せる。 「猊下も、殿下も、本日は模擬戦闘でございましょう。まだ決着がついていないのでしたら、殿下はお戻りにならなければなりません。戦いが続いているうちに、戦列を離れるなど、お褒めできることではありません。ご用がおありでしたら、ブラン・アムリネス猊下がお戻りになってから、改めてお越しください。その時には、お取次ぎいたします」  慇懃な言葉のなかに、シェルを追い出そうとする気配が濃厚に感じられる。シェルは押しかえされまいとして、首を横に振った。 「違うッ…今じゃないとだめなんだよ、僕が帰らないと、ライラル殿下が大変なんだ……!」  シェルが言うと、アザールは眉をひそめた。シェルは、はっとして執事の顔をみつめた。 「君も、そうなんだね……君も、ライラル殿下を殺そうとしてるんだ!」  シェルが大声で言うと、アザールはぎょっとしたように後ずさった。彼の顔が青ざめるのを、シェルは悔しい気持ちで見上げていた。 「どうして君たちは、そんなことをするんだよ! 酷いと思わなかったの!? 毒を飲ませるなんて、信じられない、酷いよっ!!」  シェルが責めると、アザールの顔はますます青ざめた。 「なにを仰っているのですか、殿下……」  シェルの顔を見下ろすアザールの視線が震えている。彼が動揺しているのを、シェルは感じた。 「ブラン・アムリネス猊下に、そのようなことをする者が、いるはずがございません。滅多なことを口になさらないでください」 「だったらどうして、ライラル殿下があんな目にあうんだよ! いきなり血を吐いたりするわけないじゃないか」  シェルの言葉に、アザールがかすかな悲鳴をあげた。 「そんな馬鹿な……! 嘘を仰っているのです……そのようなことは…ありえません!! 猊下が口になさるものは、すべて私が毒見を……」  アザールは心底動揺しているように見えた。シェルは、一瞬呆然としてアザールを見上げた。 「君は…じゃあ、ライラル殿下の味方なの?」 「猊下が血を……本当なのでございますか?」  シェルの言葉は、身を乗り出して問い詰めてきたアザールの声に押し流された。  シェルは、執事の剣幕に気おされて、ただ頷いて見せるしかなかった。 「猊下のお言い付けとは、なんだったのですか」 「キャビネットの中の箱を取りに来たんだ、だから中に入れて……」 「お入りください」  シェルが言い終わるのを待たずに、アザールは黒檀の扉を大きく開き、シェルを中に迎え入れた。  扉を通りぬけると、まず、執事が詰めるための小部屋があり、その先に居間が用意されている。身分の高い者のための居室だ。早足に案内するアザールのあとを、シェルはほとんど走るような勢いで追わねばならなかった。  居間の暖炉には、ゆらゆらと炎がゆらめている。その灯りだけに照らされた薄暗い部屋は、留守の主人を待ちうけて、きちんと居心地良く整頓されていた。 「キャビネットは奥に。ですが、あれは、猊下がカギをかけておられて、私にはお開けすることができません」  壁際に置かれている黒檀づくりの戸棚を示して、アザールは強張った声をだした。 「……君は、ライラル殿下の味方なんだね」  シェルは、上擦った声でたずねた。アザールが、そうだと言ってくれることを望みながら。 「ブラン・アムリネス猊下は、われわれ卑しい大陸の民に、いつも惜しみない慈悲を与えてくださる尊いお方です。猊下をお守りするのが、私の勤めであり、喜びなのです」  アザールはまっすぐな目でシェルを見つめている。シェルは思わずアザールに抱きついた。 「よかった! ライラル殿下の味方がいたよ! 一人なんかじゃなかったんだ」 「殿下! 殿下!!」  アザールは驚いて、激しく身じろぎした。シェルはあわてて飛びのいた。驚かせてしまったのは良くなかったが、そうやって体に触れても、アザールが嘘をついていないことが感じられたのが、シェルには嬉しかった。 「お急ぎください」  警戒したそぶりで、シェルから距離をとりながら、アザールは部屋の奥にあるキャビネットへと、シェルを促した。 「心配ないよ、カギは預かってきてるんだ」  シェルは歩きながら、首からさげていた鎖をはずし、小さなカギを取り出した。 「この中に、解毒剤があるって、ライラル殿下が言ってた。だから、それを持っていけば、殿下は大丈夫なんだよ、アザール」  キャビネットにかけられた金の錠前には、白羽の紋章が象嵌(ぞうがん)されていた。シェルが、小さなカギを鍵穴に入れて回すと、錠前が、かちりと秘密めいた音をたてた。  待ち切れない様子で、アザールがキャビネットの扉を開いた。良く手入れされた戸棚の扉は、わずかな軋みすらなく、なめらかに開き、その中にとじこめてあった秘密を見せた。  アザールが目を見張り、言葉もなく後ずさるのを、シェルは横目に眺めた。そして、戸棚の中に目を向け、シェルは息を吸いこみ、悲鳴を吐きそうになる口を覆った。  戸棚の中には、頭蓋骨がひとつ置かれていた。  空洞になった眼窩が、闇のおちる戸棚の中から、うつろに天井を仰いでいる。 「う……」  口元を押さえた指の間から、シェルはうめいた。古い骨が、ため息をつくのが聞こえたような気がした。 「なぜ……このようなものが、ここに……」  アザールの声を聞き、シェルは我にかえった。 「……ライラル殿下の持ち物なの?」 「私は…存じません。この戸棚を開くことができるのは、ブラン・アムリネス猊下だけですので……猊下が聖楼城(せいろうじょう)からお持ちになったものでしょう」  シェルは、恐ろしさよりも、かすかに漂うような死者の声に気をとられていた。空虚な眼窩から、死霊が自分を見つめているような気がする。  物言いたげなその視線に吸い寄せられて、シェルは、戸棚の中の頭蓋骨に手をのばした。アザールがうろたえる気配がしたが、それも、どこか遠くの出来事のようだ。  乾いてざらつく骨の感触が、シェルの指に触れた。死者の声を聞いてはならないと教える、故郷の者たちの言葉が、かすかに頭の奥で蘇る。  生きた肉を失い果てた硬い頬を、シェルが両手で包むと、死者は深いため息をもらした。  シュレー、と死者は密かな声で呟いた。シュレー、私の子……。  茫洋と消えかける死者の意識が、途切れがちに呟き、そして沈黙した。低く響く、大人の男の声だ。シェルは、死者の瞳とみつめあった。死霊の声はとても冷たく、凍えた息とともに吐き出されているように感じられた。骨に触れる指先が、凍えそうに思えるほどだ。 「あなたは…ライラル殿下の、父上……?」  目眩に目を細め、シェルはぼんやりと呟いた。死者は、なにも応えなかった。  突然、激しいラッパの音が聞こえた。シェルはびくりとして、戸棚の中で頭蓋骨を取り落としてしまった。 「な…なに? これは…?」  高らかに鳴り響くラッパの音を聞き、シェルは部屋の中を見まわした。アザールが眉間にしわを寄せ、居間を出るための扉を見つめている。 「貴人の来館を知らせるラッパでございます。おそらく、正妃様がご到着になったのです」  アザールの声が急(せ)いていた。 「殿下、なによりもまず、お急ぎになりませんと……正妃様は、猊下のお義母上(ははうえ)です。模擬戦闘が終われば、お出迎えにならないわけには参りません」  シェルはキャビネットの中に目をもどした。中段に置かれている頭蓋骨のすぐしたに、白羽の紋章にそえて天秤の意匠が飾られた、木の箱が置かれている。ブラン・アムリネスの紋章だ。他には、それらしいものは置かれていない。これが、シュレーの言っていたものに違いない。  シェルは箱を取り出した。片手で抱えられるほどの大きさだが、ずしりとした重みがある。だが、持って走れないほどの重さではない。シェルは、陣までの距離を思い描き、痛みのある胃のあたりを撫でた。 「なぜ、ライラル殿下の義母上が、学院に来られるの?」  アザールの不安げに曇った顔を見上げて、シェルは尋ねた。アザールがわずかに顔を歪める。 「猊下は正妃様と、晩餐(ばんさん)のお約束をなさっているのです。猊下は学院を離れることがおできにならない。ですから、正妃様が直々にお越し下さったのです。ご挨拶なさらないわけには参りません。非礼を問われます……ますます苦しいお立場に………」  アザールは扉を見遣ったまま、ひそめた声で告げ、シェルのほうに向き直った。 「猊下は、模擬戦闘では敗北なさいましたか」  問いかけるアザールの声からは、確信によって裏付けされている気配がした。 「……ライラル殿下は、たぶん、負けないと思う」 「それは…そんな馬鹿な」  アザールは首を振り、複雑そうな声でひとりごちた。 「お勝ちになってはなりませんとお伝えください」  シェルを部屋の扉のほうへ促して歩きながら、アザールは言い含める様に告げた。 「殿下、どうか、お気をつけて」 「ありがとう…心配しないで。ライラル殿下は、きっと大丈夫だから」 「私もそう信じております」  居間の扉を開き、アザールはシェルの背中を押すように、強く言った。シェルは頷き、学寮の廊下を走り出した。  石造りの壁には、鳴り響くラッパの音がこだましている。うるさく喚きたてるその音色は、シェルに、嘲笑に仰け反る女の喉を感じさせた。  耳障りな残響の残る薄暗い階段を、シェルは必死でかけおりた。天井にはねかえる、自分の呼吸の音が、なさけないほど乱れている。  地上階にたどりつき、シェルは鈍い赤の絨毯が敷いてある廊下に駆け出した。そのとたん、廊下をいく一団と、正面から出くわしてしまった。  ぎょっとして、シェルは立ちすくんだ。絨毯の上をやってきていたのは、鮮やかな絹のスカートで身を飾った、女ばかりの群れだった。その先頭には、笑いさざめきながら、シェルよりも年が若そうな数人の童女たちが、廊下に色とりどりの花びらを撒いている。  振り撒かれた花を踏んで、こちらへやってきていた女たちは、シェルの姿をみて、ぴたりと笑い止み、足をとめた。刺繍入りの豪奢なヴェールをかぶっている女たちは、行列の先頭にいる女主人を守るように、その周りに集まった。 「まあ……可愛いこと」  行列を従えていた貴婦人が、ゆっくりとした優雅な口調の公用語で、シェルに話しかけてきた。  貴婦人は、一面に金糸で刺繍をほどこした、重々しい衣装で着飾っていた。スカートのすそを埋める華やかな白いレースと、その下に降り積もった花々の、濃厚で瑞々しい香。しかし、シェルはそのどれよりも、貴婦人の右反面に浮かぶ、引きつれた赤黒い傷跡に目を奪われていた。金色の睫毛で飾られた目を横切って、一直線に走りおりる醜い傷跡が残されている。焼けた金属か、刃物を押し当てられたような、痛々しい古傷だ。  女主人を守る少女達は、先触れの童女にいたるまで、それとそっくり同じ傷口を、顔に浮きあがらせていた。隻眼の女たちに見つめられて、シェルは息をのんだ。 「まるで、お人形さんのようじゃ……それにしては、ずいぶんと泥だらけ…」  深紅の紅を掃いた唇を、艶かしい赤の扇で隠し、貴婦人は笑い声をたてた。シェルはよろめくように後ずさった。貴婦人は、年のころからいって、シェルの母とそう変わらないようだったが、片方だけになった緑の目を細めて笑う様には、母上が見せる微笑みとはまるで違う、妖艶で毒々しいなにかがあった。 「せっかくの可愛いお顔が、台無し」  女主人が笑いで喉をそらせるのを見て、片目の少女たちが、くすくすと笑い声をたてはじめた。女たちの鈴を振るような声が、暗い廊下に響き渡る。  笑い声に追われるように、シェルはその場から逃げ出した。  囁くような笑い声が、どこまでもシェルの背を追ってくるように思えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-33 : 竜の愛し子 (ドラグーンのいとしご) -----------------------------------------------------------------------  イルスが駆け戻ると、敵兵に押し寄せられた陣の防衛線は、天幕の間近まで後退していた。味方の兵力はごくわずかだったが、魔法を振るうスィグルに助けられ、意外なほどの健闘を見せているようだった。景気良く吹き飛ばされた甲冑の敵兵たちを、味方の兵が始末していく。どう見ても、まともな戦法とは思えない。  森から駆け出して、陣を横切り、イルスは剣を構えてスィグルの横に並んだ。  気配に気づいたスィグルが、脅された猫のように、ひどく機敏に振り向く。引きつった表情のままイルスの目をのぞき込んだスィグルの、針のようだった瞳が、落ちかかるイルスの影のせいで、すうっと丸く開くのが見えた。 「イルス……この、ウスノロッ!! 餓鬼の使いじゃあるまいし、楽しく道草食ってきてる場合か!?」  憔悴してクマの浮いた顔で、スィグルがわめき散らした。  乱戦で疲れきったスィグルの顔は、まるで死霊のように青ざめている。それでも、横目で敵の動きを追う様子には、戦い慣れた者に独特の気配と、不思議な余裕があった。イルスは意外な気分でそれを眺めた。 「シュレーは?」  イルスが早口に問いただすと、スィグルは天幕のほうを顎で示した。 「猊下はご休養中だよッ。いいご身分だ!!」  首を振って、スィグルが叫ぶ。  押し寄せてきた敵兵を始末しようと、イルスが踏み込みかけると、目の前に迫っていた山エルフの兵が、ありもしない突風に吹き飛ばされるように後ろへと弾き飛ばされた。獲物を失って、イルスは失速した。 「首級は!?」  詰問する声に呼びとめられて振り返ると、肩で息をついているスィグルが、吹き飛ばされた敵兵たちに向けて手をかざしたまま、こちらを見ていた。 「捕って来た」 「天幕へ持っていってやって」  スィグルが天幕のほうをちらちらと不安げに見やる。 「ここは大丈夫か!?」 「大丈夫なもんか! 僕はもう倒れそうだよッ」  次々と悪態をつきながら、再び押し寄せてきた敵兵を吹き飛ばそうとして、スィグルが手をかざした。敵兵が吹き飛ぶ瞬間、横に立っているだけでも、イルスには、どん、と胸を叩かれるような衝撃が感じられた。 「しまった…」  舌打ちして後ずさる途中で、スィグルが、何も無い地面に踵をとられて倒れこんだ。肩で息をつくスィグルは、ほんとうにもう疲れきっているように見えた。  イルスが視線をもどすと、魔法が打ちもらした兵が二人、防衛線を突破してきた。姿勢を低くして走り出し、イルスはそれを迎え撃った。  戦斧を振りかざして突進してくる歩兵の間合いに飛び込み、イルスは対戦者の胸当ての壷を剣先でなぎ払った。素焼きの壷が大きな弧を描いて飛んでいくのを背後の気配として感じ取りながら、イルスはもう一人の敵の戦斧と向き合う。  敵兵は気合をこめた声でわめき、イルスに襲い掛かってきた。ふりおろされる戦斧の銀色の切っ先を、ごくわずかに避け、それが肩をかすめて振り下ろされるまでの間に、イルスは敵兵の胸当てにある壷を剣の柄で叩き割った。  敗北した敵兵を押しのけ、その向こうにいた数人と睨み合う。すると、イルスの剣にひるんだ敵の歩兵たちが、戦斧を構えなおしながら、じわじわと後ずさった。 「ひるむな! 倒せ! 魔道士はもう使い物にならん。決闘の不名誉を雪げるぞ」  斬り込みかねている敵兵達のうちの一人が、声高に言い、イルスに挑んできた。それに続くように、最後に残った5人の敵兵が、一挙に押し寄せてくる。味方の山エルフたちが、助力にかけつける気配はなかった。だれもが、たった一人の相手にかかりきりになっている。それでなくても、連中には助太刀する気などないように感じられた。  息をつき、かわいた唇を舐め、イルスは敵を迎え撃つための助走に入った。耳元を行過ぎる風が高く鳴る。地面を蹴って跳ぶと、敵兵たちは釘つげになったように立ち止まって、襲いかかるイルスを見上げた。  狙ったのは2番目の兵だった。自分が先に交戦するとは予想していなかったのか、イルスの切っ先を受けとめる歩兵の戦斧には、まるで力がこもっていなかった。勢いに押され、海辺の長剣が歩兵の兜をけたたましく掻いた。  すぐに、とびのいて、イルスは相手が姿勢を立てなおす前に、胸の壷を割った。駆け戻ってきていた先頭のひとりに振り返り、戦斧の回旋攻撃を飛び越えて、胸当てに剣を叩きつけると、乾き始めた黒い血が飛び散った。 「あと3人!」  イルスが向き直って剣を構えると、残る3人は先鋒を譲り合ってためらった。それを待つのがじれったく、イルスは真中の兵を選んで斬りかかった。  ひどくゆっくりに見える動きで、3人の兵が、跳びかかってくるイルスを振り仰いだ。跳躍をうけとめた兵は、足場をぐらつかせて倒れこんだ。壷を叩き割ろうとしたイルスの剣を、横にいた兵が突き出した戦斧が遮る。その瞬間の、言いようのない激しい怒りに突き動かされ、イルスは邪魔立てした兵の戦斧を踏みつけた。武器を押さえられて、歩兵はうろたえた。胸当ての壷をめがけて振り下ろされるイルスの剣を見開いた目で追うだけで、敵は、戦斧から手を離すことができないまま、敗残者の列に加わった。 「イルス!」  枯れた声で、スィグルが叫ぶのが聞こえた。  気配を感じてイルスがふりかえると、地面に倒れていた一人と、無傷だったもう一人が、同時に襲いかかってきていた。  舌打ちして、イルスは剣を構えた。助走をつける暇がなく、ただ二人分の攻撃を受けとめるほかにない。押し返した兵は、再び、まったく同時に打ちかかってきた。時をずらせなかったことに、イルスは軽い衝撃を覚えた。しくじったのだ。  ふたつの戦斧を避け、イルスは後退した。また、同時に攻撃をしかけてくる二人のうちの、背の低いほうに狙いを定め、イルスは相手の懐に飛び込んだ。間合いをつめられて、敵兵はなすすべもなく、イルスの攻撃を受け入れた。  イルスは急いで姿勢を立てなおしたが、そのときにはもう、風を切る戦斧の切っ先が、自分の胸めがけて振り下ろされてるのが、間近に見えた。走るためにろくな装備をつけていない。だが、力を解放したばかりで、にわかには足が動かなかった。  イルスは無表情なまま、急速に近づいてくる銀の切っ先を見つめた。半ば無意識の動きで、剣を握りなおしはしたが、間に合わないという確信があった。ほんの刹那のうちに、敵の戦斧が自分の肋骨にめりこむ瞬間が脳裏にうかんだ。不思議と、それを恐ろしいと思わない。  甲高く風が鳴り、戦斧の切っ先とともに、敵兵の姿が目の前から消えた。  わけがわからず、イルスは周りを見まわした。疲れて座り込んでいる敗残兵たちの中に、たったいま転がり込んだ一人の姿が見えた。胸当ての壷が割れて、そこから垂れた血が、地面に滴り落ちている。 「僕だよ、僕!」  恩着せがましいスィグルの声に振り返らされてから、イルスはやっと合点がいった。スィグルが魔法を使ったのだ。 「余計なことを…」  イルスはとっさに呟いていた。 「なんだって? 助けなかったら大怪我してたよ!」  顔をしかめて鋭く叫ぶスィグルの言葉に、イルスはため息をついて頷いた。 「そうだな。助かった」  礼を言うと、戦いの昂揚感が急激にひいていく。 「君が、敵陣でもっと数を減らしてきていれば、僕がこんな苦労しなくて済んだんだ」  スィグルが、のろのろと立ちあがりながら、文句を言った。  あたりを見まわすと、そこに生き残っていたのは、味方の兵たちだけだった。 「全部お前がやったのか?」  感心して、イルスは尋ねた。 「まあ、大半はね」  胸を張って、スィグルが答える。 「すごいな」  イルスは本心から、高慢ちきな黒エルフの魔道士を尊敬した。口ほどのことはある。 「当然だよ」  疲れた顔のまま、スィグルがにっこりと笑った。  イルスは思わず笑い返そうとした。だが、その笑みは驚きに吸い取られて消えた。 地面が揺れている。イルスは表情を強張らせた。  かすかな揺れが起こり、それに続いて、ファーーーンと遠くの何かを呼ぶような音が聞こえ始めた。その声が大きく聞こえ始めたころ、どん、と突き上げる激しい揺れがイルスの足元を掬っていったた。  巨大な何かが、地面の下から体当たりを食らわせてくるような衝撃が、地面から湧きあがってくる。よろめいた姿勢をなんとか立てなおしながら、イルスは汗の流れ落ちる顔をあげた。  その場にいた誰もが、おびえて立ちあがっている。地面に足をつけているのが恐ろしく感じられた。目を見開いたスィグルが、おろおろと辺りを見まわしている。 「イルス、竜(ドラグーン)だ…!」  ゆれる地面に足を取られながら、スィグルが駆け寄ってきた。  竜の声は、狂ったような激しさで、山の空気を振るわせつづけている。  イルスはとっさに、ベルトに結び付けてあった首級に手をやった。 「天幕は?」  イルスはスィグルの顔をのぞき込んだ。どん、と激しい揺れが立て続けに襲いかかってきて、ふたりは山の地面に倒れこんだ。もろい岩に、稲妻のような亀裂が走ってゆく。 「まずいよ……戻ろう」  地面に手をついたまま、スィグルが天幕を振り返った。イルスは頷き、たよりなく揺れている天幕へ向かった。   * * * * * *  天幕の中には、血にそまった白い翼が充満していた。その血の匂いと、鮮やかな色を見て、イルスは目を見開いた。  自分の翼にくるまれるようにして、シュレーは地面に倒れていた。腹を押さえている指が、血で真っ赤に染まっている。体を丸め、横たわる体には、力が感じられなかった。 「猊下、起きろ! 勝たせてやったぞ」  スィグルがシュレーのそばに膝をつき、蒼白になっている頬を、はたはたと叩いた。  イルスは少し遅れてから、天幕の入り口をしっかりと覆い、揺れる柱を気にしながら、スィグルと向き合う場所に片膝をついて姿勢をおとした。天幕の床に、おびただしい血のあとがある。これを全部こいつが吐いたのか、と思いながら、イルスはシュレーの顔をのぞき込んだ。  シュレーは目を閉じていなかった。うっすらと半眼にひらいた目から、灰色がかった暗い緑の目が、どこか一点を眺めたまま止まっている。その正面にある自分のことを、シュレーが見ていないのを感じた瞬間、イルスの心臓がどきんと激しい鼓動を打った。 「こいつ、息をしてない」  イルスが誰にともなく呟くと、スィグルががばっと顔をあげ、イルスの顔を凝視した。イルスは、ごく短い間、スィグルの金色の目と睨み合った。  はりつめた視線の糸を断ち切って、スィグルがかすかな悲鳴のような声をもらし、シュレーの口元を掴んだ。スィグルの端整な無表情が、おそろしくゆっくりと、苦痛の表情にすりかわっていく。スィグルが手に息が触れるはずの呼吸の気配を、必死で探しているのがわかった。 「息を、してない」  スィグルがぽつりと告げる。 「…………死んでる」  イルスは、自分を見つめるスィグルの視線が、ふっとどこか遠くへ行こうとするのに気づいた。  イルスは、スィグルの手をどけさせて、シュレーの顔を見下ろした。白い顔には苦悶を押し殺した表情だけが残っていた。ぼんやりと何も見ていない視線には、不思議となんの表情もない。 「おい…シュレー?」  軽く叩くと、頬はすでに冷たい。 「死んでるんだよ」  頭を抱えて、スィグルがうめいた。 「死んでる、死んでるよ……もう息をしてないんだよ! 誰が確かめたって同じだ…ッ」 「うるさい!! 黙れ!」  うずくまってわめくスィグルを、イルスは怒鳴りつけた。  肩を揺すろうとして触れると、そこを覆う白い翼だけが、異様に熱かった。  ファーーーーン、と慟哭する声が、真下から聞こえた。それはただの音ではなく、地を震わす激しい振動として、天幕の床を突き上げてきた。  その慟哭が耳を突く瞬間、シュレーの翼が確かな脈を打つのを、イルスは感じた。その熱さに弾かれる思いがして、イルスは悲鳴をあげ、手を離した。 「翼が……生きてる…」  イルスの言葉に答えるように、地底から、竜(ドラグーン)の引き絞られた慟哭が、するどく立て続けに聞こえはじめた。  天幕の入り口が開くのを感じて、イルスは振り返った。外の光に縁取られ、泥まみれになったシェルが、箱を抱えて立っていた。 「ライラル殿下、待ってください」  天幕の中に走りこんできたシェルは、うずくまっているスィグルの横に座ると、箱を置き、なんのためらいもなく、シュレーの翼に手をかけ、それを押し開いた。 「なにを……なにをノロノロしてやがったんだよッ、お前は!!」  スィグルが顔を上げ、蒼白になってシェルに食ってかかった。イルスはただ、それを見ていた。 「この、のろま!! お前がもたもたしてるから、こいつは死んだんだッ!! なんでもっと早く来ない! なんでだよ……っ」 「やめろっ、シェルが悪いんじゃない。こいつはちゃんと急いでた」  シェルの胸倉に掴みかかろうとするスィグルの手を、イルスは鷲づかみにした。  スィグルが引きつった顔でイルスを睨みつけ、すぐに手を振り払った。スィグルの骨ばった細い腕は、まるで自分も死んでいるように冷え切って、細かく震えていた。  シェルはそのやりとりに気を取られていない様子で、すぐにシュレーのほうに向き直った。シュレーの力の抜けた腕をとり、イルスの胸につきつけてくる。 「な…なんだ……?」 「手を握ってあげてください!」  言われるまま、イルスは冷えはじめているシュレーの手を握った。ぬめりのある血の感触がする。シェルが、手甲で覆われたシュレーの左腕から、不器用な手つきでなんとか防具をはずしだす。 「レイラス殿下も!」  素肌になったシュレーの左手を、横にいるスィグルの顔の前にもっていって、シェルが強い声で促した。しかし、スィグルは激しく首を振って抵抗した。 「いやだ!! 死体なんか…触りたくないッ」 「まだ生きてます、死体じゃありません!」  食いつくような勢いで、シェルが訴えた。しかし、イルスは自分が握っている手が、もう生きていないのを感じていた。はるか昔、海都の屋敷で握った母の手と同じ、命の残り火のようなほの温さのほかには何も無い、つめたく強張った感触だ。 「だって…ライラル殿下の心をまだ感じます、まだ、死んだわけじゃないです」  シェルの言葉を追うように、竜が哭(な)いた。激しい揺れとともに、シュレーの翼がかすかに動いた。翼は、なにかを探ろうとするように、ざわりと地面を掃いていく。  それを避けようと、イルスは思わず立ちあがりかけた。しかし、シュレーの手を離すのが悪いことのように思えて、膝に白い翼が触れるのを、そのままにしておくしかなかった。 「手を握ってあげてください!」  シェルが、スィグルに詰めよって、命令に近い口調で言った。スィグルは座り込んだまま、怯えた顔でシェルを見上げ、尽きつけられた冷たい手を、まるで刃物でも握り締めるような気配で握った。 「死なないでって、言ってあげてください。心の中でだけでいいんです。助けてあげてください」  スィグルは、すっかり混乱していて、シェルから何を言われているのか理解していないように見えた。瞳の開いた金色の目が、シェルの顔を食い入るように見ている。 「こんなふうに殺されるなんて、あんまりです。レイラス殿下も、そう思ってください。助けたいって……今だけでいいんです。今だけでも………卵の色のことは、忘れてください。自分の家族なんだと思ってください」  シェルの強い視線で見つめられ、スィグルが、かすかに頷く。  シェルは突然イルスのほうに向き直った。 「イルスも」 「助けられるのか?」 「絶対に」  シェルはきっぱりとした声で即答した。 「絶対に助けます。力を貸してください、お願いです」  強い意思を顕わした表情のまま、シェルは、大きな緑の目から、ぽたぽたと涙を流した。イルスは目を細めてそれを見た。 「助けてくれ」  イルスは口を衝いて出た自分の言葉が不思議だった。 「ライラル殿下がいたほうがいいって、言ってあげてください。何度も」  念を押すように言ってから、シェルは視線をはずした。シェルが、聖刻のあるシュレーの額に手をおいた。目を閉じ、深く息を吸い込んで押し黙るシェルの姿に、スィグルが不安げな視線を向けている。 「助かるわけないよ……だって……もう、死んでるんだぞ」  スィグルが震える声で呟く。イルスは動揺しているスィグルを落ち着けさせたい気持ちで、黒エルフの少年の顔を見つめた。 「こいつは、竜(ドラグーン)の末裔だ。竜が奇跡を起こして、こいつを助けるかもしれない。見捨てるな」 「そんなわけないよ。そんなわけない、奇跡なんて、起こるわけない……。こいつは天使でも、竜の末裔でも、なんでもない。そんな力なんてない………そんな、力が、あったら…どうして、僕らを救ってくれなかったんだよ!! 僕だって祈ったぞ、闇の中で、こいつに祈ったんだ、ブラン・アムリネスに!!」  スィグルが泣きそうな顔で眉を寄せ、うつむいた。 「シュレーの力になってやろう。こいつには誰も、頼れる相手がいないんだ」  イルスは静かに言った。 「いやだ!! 僕はいやだ!!」  悲鳴のような声で、スィグルが拒否した。だが、スィグルはそれでも、シュレーの手を握り締めているのに、イルスは気づいた。 「誰も僕らを助けてくれなかった! たった二人だけで、闇のなかを這いまわったんだ!! こいつもそうすればいい。弱いから殺されるんだッ!! 自分のせいじゃないか…!! なのに、どうしてこいつだけ、都合よく助けてもらえるんだよッ。なんで僕が……なんで………助けてやれなんて……。こんなやつ死ねばいい…白いやつらなんか、みんな、いくらでも死ねばいい!! 死ねばいいんだッ!!!」  シュレーの白い手を両手で握ったまま、スィグルは地面にうずくまって絶叫した。イルスは、スィグルが目に見えない血を吐いているように思えた。 「じゃあ、もう、お前は出て行ってもいい」  イルスが言うと、スィグルは青ざめた顔をあげた。 「……いやだ」  スィグルの憔悴した顔をイルスは黙って見つめた。  また、激しく竜(ドラグーン)が哭いた。地面が揺れ、天幕の柱が揺れる。 「…追いついた」  目を閉じたまま、シェルが顔をあげ、ぽつりと告げた。  地殻を押し上げようとして竜(ドラグーン)が暴れているように、地面は時折激しく振動している。そのたびに、シュレーの翼が脈を打ち、白い燐光を強くした。  イルスは冷たくなったシュレーの手を強く握ってやった。その指が、かすかに動いたように思えて、イルスは握った白い手に目をうばわれた。ざわざわと漣(さざなみ)のような微かな震えが、シュレーの腕を行過ぎる。なにかが、体の中を走り回っているように見え、イルスは自分の目を疑った。  突如、白い翼が激しい光を発して、天幕の天井まで伸びた。鼓膜を打ちぬきそうな激しい竜(ドラグーン)の声と、音にならない不思議な声が、天幕の中に充満し、イルスの脳髄に突き刺さった。  翼が、急激に縮みはじめ、白い光を放ちながら、シュレーの背中に戻っていく。ずしん、と重いもので背中を叩かれたような勢いで、動かないはずのシュレーの背中が仰け反った。  長い潜水から浮きあがってきた者がそうするように、シュレーの口が開き、喉をそらして、大きく息を吸い込むのを、イルスは信じられない思いで見下ろした。シュレーの見開かれた緑の目が、恐怖のような、深い動揺のような表情を浮かべている。 「よかった!」  シェルが叫び、シュレーの額から手を離した。 「そんな……そんなばかな………」  蘇生の緊張で引きつっている白い手を握ったまま、スィグルがシュレーの顔を覗き込もうと身を乗り出す。  つい先刻まで、力なくだらりとしていたシュレーの手が、とりあえずそこにあったものを掴む気配で、イルスの手を強く握ってきた。骨をきしませるような手加減のない握力を感じ取り、イルスは安堵の息をついた。  じょじょに緊張の抜ける体を横たえて、シュレーは不思議そうに天幕の天井を眺め、それから、目だけを動かして、ちらりとイルスのほうに視線をむけた。今はじめて見たのであれば、寝ぼけているのだと思うような、なにげない無表情だった。 「………フォルデス」  かすれた小声で、シュレーがつぶやいた。 「首級…は?」  真面目な顔で尋ねてくるシュレーを、イルスはあっけにとられて見下ろした。 「な……なに言ってんだよ、こいつは………」  わなわなと震えながら、スィグルがうめき、握っていた手を放り出した。  ファーーーンと竜が声高く鳴いた。顔をめぐらせて、シュレーが耳を地面におしつけ、目を細めてその音を聞いた。 「竜(ドラグーン)だ………」  地底から響く声と、突き上げるような揺れが、急速に遠のいていき、天幕のなかに静寂が戻ってきた。 「おい…大丈夫なのか、シュレー」  イルスは、半眼のまま、どことも知れないところを見つめているシュレーに、遠慮がちに呼びかけた。 「……一度死んで、生きかえったような気分だけどね」  イルスの目を見上げて、シュレーは真顔で答えた。  イルスはしばらくその意味がわからず、シュレーの顔を見たままじっとしていた。そして、それが冗談だと気づいて、呆れ果て、ため息をついた。 「首級だ」  ベルトにつけていた革袋から、黒大理石の球を取り出して、イルスはそれをシュレーの手に握らせた。シュレーが首をかたむけて、自分の右手が握っている球に目をやる。 「オルファンは、どうだった」 「お前は卑怯だと言っていた」 「……私が?」  力なく、シュレーは喉を鳴らして笑った。 「さあ……あとは、凱旋(がいせん)だ。オルファンに、白羽の軍旗が翻るのを見せてやらなければ」  体を起こそうとするシュレーに驚いて、シェルが手を貸した。 「起きて歩くなんて無茶じゃないですか?」 「マイオス、私の身には何も起こらなかった。私は、ただ戦って、勝っただけだ。立って歩けない理由がない」  シェルが気まずそうにうつむく。スィグルが憤然と立ちあがった。 「馬鹿馬鹿しい。あんたには、付き合いきれないよ」  顔を強張らせて言い、スィグルは大またで天幕を出て行った。 「彼はなにを怒っているんだ」  シュレーが不思議そうに言う。 「俺が怒ってるのと同じ理由だろうな」  イルスは立ちあがり、腕組みをして、シュレーを見下ろした。 「君もなにか怒っているのか」  シュレーがいぶかしむように眉を寄せる。 「僕ら、とても心配しました、ライラル殿下」  シェルがやんわりと説明した。シュレーは自分の背中を支えているシェルに、視線を向けた。 「……そうか」   困惑している様子で、シュレーが呟いた。 「それで………君たちは、私にどうしてほしいんだ。這いつくばって礼を言えとでも?」  かるく首をかしげ、シュレーは戸惑いを感じさせる声色で言う。いつになく、たどたどしい話し方をするものだと思い、イルスは笑いをこらえて首をふった。シェルが珍しく苦笑を見せる。 「殿下、解毒剤は?」  シェルが持ってきた箱を示すと、シュレーはため息をついた。 「…飲んでおくよ」  箱を開くと、人の指ほどしかない小さな瓶(びん)が、綿にくるまれて沢山並べられていた。色鮮やかな液体が、その中に詰められている。シュレーが疲労の気配のあるしぐさで瓶を選ぶのを見下ろしていると、イルスの脳裏に、森の中でみた未来視のことが思い出された。  瓶を選ぶ女の指、深紅に染まった翼。 「シュレー……おまえ、誰に命を狙われてるんだ」  イルスはためらっても仕方がないと思いきり、シュレーに尋ねてみた。 「おそらく、義母(はは)だろう」 「そいつが毒殺師を雇ってるのか」 「……そんなことを、なぜ知っているんだ?」 「未来視した」  イルスが答えると、シュレーの顔が曇った。 「私が毒殺される未来を見たということか」  シュレーの言葉には、自嘲の気配が匂っている。イルスは言葉につまって、沈黙した。シュレーの死までを視(み)たわけではない。その危険性を感じさせる内容だったというだけだ。  だが、未来を見たといったら、それがなにを意味しているのか知りたがって当然だろう。しかし、イルスにわかるのは、脳裏に閃いた光景そのものだけであり、それがシュレーの死を意味しているのだとも、あるいは、大丈夫だとも、なんとも言ってやれない。 「お前を殺そうとしている連中がいるということだけだ」  イルスが教えると、シュレーは一瞬、露骨に苛立った顔をした。そして、それを隠すようにイルスから目をそらした。 「……そんなことは、私はずっと以前から身をもって知っている」  シェルが心配そうにイルスのほうへ視線を送ってきた。 「なんとかしなくていいのか」  イルスはシュレーの横顔を見下ろし、無表情なままの相手の様子をうかがった。  息を吸い込み、言葉を選ぶように黙り込んでから、シュレーはイルスのほうに顔を向けた。そして、いつにない早口で、一気に言った。 「君は常々、運命は変えられないと思っているようだが、私に関してはそれが可能だとでも言うのか? そんなことを信じられるなら、自分の死のほうを、なんとかしてみせたらどうなんだ。簡単に言うな。私は君とちがって、あきらめたことは一度もない」  シュレーの顔は無表情なままだったが、彼が怒っているのは明らかだった。 「ライラル殿下、イルスは殿下を助けたいと思ってるんですよ」  シェルが、まるで責められているのが自分であるかのような慌てようで、口をはさむ。 「助ける? 私を? 君が? どうやって? 私のための奇跡でも起こしてくれるというのか、青い竜(ドラグーン)? それはいつ起こるんだ? 次に私が死ぬときか? それとも、その次か? それとも、その次の、次の、次か?」  シュレーが顔を歪めて笑い声をたてた。気おされて、イルスは思わず体を引いていた。シェルが物言いたげに何度も口を開き、そのたびに何も言えずに押し黙った。  笑いながら、シュレーは両手で自分の顔を覆った。疲れきったものの気配がする。 「すまない、フォルデス」 「いや…いいよ。俺が悪かった」  顔をあげ、シュレーは箱の中の小さな瓶のいくつかを、無造作に選び出した。そして、その中身をためらいもなく飲んだ。 「私は今までに何度か死んだ」  ありきたりの話をするような口調で、シュレーは話はじめた。 「そのたびに、翼が私を生きかえらせる」  シェルが眉間にしわを寄せ、シュレーの手元を見下ろしている。 「あれは私に寄生しているから、私がいないと生きていけない。だから私を生かそうとする。私が死にかければ、大抵の毒は自浄するし、怪我も治す。だから、毒殺師のことは、気にしなくていい、フォルデス……神殿種を暗殺するのは容易ではない。私を殺すのはたやすくても…私の翼はそう簡単には死なないからだ」  深い息をついて、シュレーは自分の肩を支えているシェルの手をどけさせた。シュレーが立ちあがるのを、シェルが壊れやすい人形が運ばれるのを眺めているような落ち着かない様子で見ている。  だが、シュレーは意外と危なげのない様子で立ちあがった。 「首級を持って行く。マイオス、甲冑を着るから、手伝ってくれ」  地面に落ちている自分の兜を、緩慢な動作で拾い上げながら、シュレーがシェルに頼んでいる。兜に飾られた白い羽が、黒くくすんだ血に汚れている。 「ライラル殿下、その前に、イルスにこう言ってください。ウェルラ・ヴィエナ、フラ・メルティって」  シュレーと向き合って、シェルがたしなめるように言った。口調はとても穏やかだったが、その言葉の底には、梃子でも動かない頑固さが感じられる。 「それは、どこの、どういう意味の言葉なんだ?」  シュレーの横顔が、不愉快そうな表情を浮かべるのを、イルスは笑いをこらえつつ眺めた。 「海エルフ語です。意味を説明するのは難しいですけど、今言うのに、一番ぴったりな言葉です。そうですよね?」  シェルがイルスの顔を見て、微笑んだ。改めてよく見ると、シェルは泥だらけなうえ、あちこちに引っかき傷をつくっていて、見るも無残な姿だ。イルスは肩をすくめた。  シュレーが首をかしげ、イルスのほうに顔を向けてきた。じっとこちらを見ているシュレーの目は、どこか迷惑そうな表情を浮かべている。 「言ってくれ」  腕組みし、顎をあげて、イルスはシュレーを促した。  一呼吸してから、シュレーはくだらない遊びに付き合ってやるのだという風情で口を開いた。 「ウェルラ・ヴィエナ(すまなかった)、フラ・メルティ(ありがとう)」  イルスはこらえきれずに苦笑した。 「ひどい発音だ」 「君の公用語よりはマシだよ」  目を細めたシュレーが早口に反論するのを聞き、イルスは絶句した。シェルが屈託のない笑い声をたてている。 「そうなのか?」  イルスはシェルに尋ねた。 「そんなことないです。ライラル殿下は、照れてるんですよ。そうですよね?」  シュレーは自分を見上げて笑っているシェルのほうを、無表情にちらりと見ただけで、なにも反論しなかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-34 : 落 日 -----------------------------------------------------------------------  日の傾き始めた山の空に、白羽の紋章を刺繍した豪奢な軍記がはためいている。石造りの広場に立てられた片方の柱には、勝利者を称えるための、ブラン・アムリネスの紋章が、もう一方には、敗者の軍記が柱の半ばまで掲揚された半旗として翻っていた。半旗には、山の部族の継承者を示す、大角山羊(ヴォルフォス)と山百合の紋章が刺繍されている。  背後ではためく二枚の旗を、シュレーは振り返って眺めた。金糸を輝かせて翻る軍旗の背景で、橙色に染まりつつある、まばゆい空が美しい。  日没だ。 「勝利将軍に歓呼!」  腹の底に響くような、力強い声で、学院の教官が命じた。  壇上から広場を見渡し、シュレーは、武器を打ち鳴らして勝利者の栄誉を称える山の学院の学生たちの一人一人を眺めた。彼らが口々に称えているのは、ブラン・アムリネスの名だ。  いずれは、彼らに、別の名で自分を称えさせてみせる。山の部族の正統な後継者、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグとして、この一人一人のうえに君臨するのだ。  今この場に集められた学生たちのほとんどは、将来、間違いなく山の宮廷にはべる重臣へと成長していく。その日にも、ここにいる全ての者が、今日、目にしたことを憶えているだろう。どちらが大角山羊(ヴォルフォス)の主にふさわしく、どちらがそうでないかを。  自分の横に立っている従弟(いとこ)に、シュレーは目を向けた。甲冑を着け、兜を脇に抱えたまま、アルフ・オルファンは歓呼する学生の群れをにらみつけている。 「オルファン」  シュレーが声をかけると、アルフ・オルファンは、強い視線でこちらを向いた。 「面白い戦いだった。君には感謝している。またの機会が楽しみだ」  シュレーは微笑んでみせた。オルファンが憎しみの表情を押し隠そうと、歯噛みするのがわかった。  神殿の血を受けた自分が、どんな容貌をしているのか、シュレーはよく知っていた。大陸の民として生まれた者のなかには、神殿の天使が浮かべる神聖な微笑みに畏れを抱かない者など、いるはずがない。 「君は、私が卑怯だと言っていたのだそうだな。フォルデスから聞いたよ。オルファン、君は今もそう思っているのか」 「義兄(あに)上は…卑怯だ。いまさら戻ってきて、継承者だなどと………!」  押し殺した声で、オルファンは訴えた。 「あなたの父上は、族長位を捨てて逃げた。神殿種の女を盗んで………部族の面汚しだ!」  オルファンの言葉を聞いて、シュレーは思わず、微笑みを失った。 「父上が、どんな思いでこの部族を守ったか、あなたは知らないんだ。戦いのさなかの部族を見捨てて逃げ出すことが、どういうことか……あなたは恥に思わないのか。あなたの父上がやったことで、この十数年間、山の部族は神殿からの懲罰を恐れながら過ごした。そのことを、あなたはもっと考えるべきだっ。大角山羊(ヴォルフォス)の継承者にふさわしいのは、あなたではない。あなたは…恥知らずで、臆病な、裏切り者の子だ!!」 「……私の父を侮辱するな」 「神殿に帰れ」  低く押し殺したオルファンの声は、シュレーの喉元に突き刺さった。シュレーは、無表情なまま、オルファンの目の奥を見つめた。オルファンの目には憎しみが溢れていた。彼を見つめる自分の目にも、おそらく同じものがあるに違いない。 「部族を愛しているというなら、神殿に帰れ。あなたには、族長位なんかより、もっと強い権力があるじゃないか。それでこの部族を守ろうとは思わないのか」 「…私の邪魔をするなら、君も殺す」  シュレーは、真顔でそれを告げた。激しい歓呼のなかでも、アルフ・オルファンが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。 「従弟殿、私は慈悲の天使だ。おとなしくするというなら、君を生かしておくぐらいの慈悲はある」 「ば……馬鹿にするなぁっ!!」  オルファンは脇に抱えていた兜を、シュレーに向かって投げつけてきた。歓呼していた群集が、一瞬にして静まり返った。  オルファンは、シュレーと、壇上の教官と、自分を見つめる学生たち、そして、石段を転がり落ちて行く自分の兜を、次々とせわしなく見比べてから、シュレーに目を戻した。オルファンの頬がひくひくと引きつっているのを、シュレーは見下ろした。 「この部族の継承者は僕だ!!」  喉を引き裂くような声で、アルフ・オルファンは叫んだ。静まり返った広場のすみずみにまで、その声は響き渡っていった。 「父上は……父上は狂った。あなたは、神殿の権力で父上を脅したんだ! なぜそんなことを!! あなたには族長位なんかよりも、もっと大きな力があるのに!! あなたの父上も、あなたも、どこまでこの部族を侮辱すれば気が済むんだっ!!!」  泣き叫ぶようなオルファンの声を、シュレーはなにも感じられないまま聞いていた。もろい心しか持たない従弟が、目の前で崩れ落ちるのが見える。  不意に、華やかな女の笑い声が聞こえた。シュレーは驚いて、石壇の下に視線を向けた。  そこには、十数人の侍女たちを連れ、高貴な者だけに許された衣装で身を飾った、片目の女が立っていた。シュレーとオルファンを見上げ、扇で口元を覆い、女は声高く笑っている。  オルファンが、ゆっくりと我にかえり、その女を見下ろした。 「……母上」  くすくすと笑いさざめく侍女たちに囲まれたまま、隻眼の貴婦人はにっこりと壇上を見上げてきた。その女の、年齢に不釣合いな子供じみた微笑に、シュレーはたじろいだ。 「アルフ・オルファン、猊下にお詫びをなさい」  首をかしげて、冗談でも言うように、女は笑いながら命じた。  そして、重たげに飾り立てられたドレスのスカートをつまみ、石段をゆっくりと登ってくる。オルファンの横に並んで、自分と向き合い微笑みを浮かべる女の顔を、シュレーは見つめた。  山の正妃だ。オルファンの実母であり、族長ハルペグ・オルロイのただ一人の妻だ。  この女の顔は、オルファンとよく似ている。火傷と傷のあとで台無しになった右半面を見なければ、とても美しい。 「なにを黙り込んでいるのです。猊下にお詫びをなさい。そなたの言葉はとても無礼じゃ」  問い掛けるような表情を片方だけになった目に浮かべて、山の正妃は自分の息子をみつめる。アルフ・オルファンは、わなわなと震えながら母親と見詰め合い、そして、あきらめたようにうつむいてから、シュレーに向き直った 「…義兄(あに)上、どうか……非礼を、お許しください」  オルファンは、まるで、自分を殺すための呪文を唱えているように見えた。 「わたくしの息子をお許しくださいますわね。猊下はそのための天使でいらっしゃるのですもの」  微笑みながら、正妃は甲冑を着たままの息子の肩を、愛しげに背後から抱き、シュレーの顔をみつめた。形よく紅を刷いた赤い唇が、血で濡れたように見え、どこかまがまがしく感じられる。シュレーは頭をさげるふりをして、女の微笑みから目をそらした。 「義母(ははうえ)上、もちろんです。オルファンは冗談を言っていただけですよ」 「まあ……亡きヨアヒム様のことを、冗談の種に? オルファン、そなたは悪い子じゃ」  正妃はオルファンの頬を包み、眉をひそめて息子を叱り付けた。  ヨアヒムとは、シュレーの父の名だった。その名を正妃が親しげに呼ぶのが、シュレーには、耐えがたい不愉快に感じられた。 「予定より、お早いご到着だったのですね」  シュレーが声をかけると、正妃は息子の頬から手をどけ、衣擦れの音をたてながら、シュレーのほうに近寄ってきた。  間近で顔をのぞきこまれて、シュレーは思わず一歩あとずさった。女の服から、濃厚に甘い香木の匂いがする。シュレーは強い匂いが苦手だった。だが、今退くのは、それだけが理由ではない。 「猊下に少しでも早くお会いしたくて、風の馬に乗ってまいりましたの」  にっこりと微笑んで、正妃はシュレーに手袋をした右手を差し出した。貴婦人の手に接吻するのが山の部族の男の礼儀だと聞いていたが、神官であるシュレーに、そんなことを要求してくるのは、この正妃がはじめてだった。 「接吻してくださいませんの?」 「義母上、私たちは親子です」 「まあ、変わったことを仰るのね。オルファン」  シュレーのほうに差し出していた右手を、正妃は背後にいる息子のほうへ伸ばした。オルファンがかすかに驚いてから、石壇に膝をつき、母の手をとって、接吻をした。  それを確かめてから、正妃はシュレーのほうに向き直って、にっこりと微笑んだ。  白い絹で包まれた手を、女は再びシュレーのほうへ差し出してくる。 「さあ。わたくしに挨拶をしてくださいませ」  妖しい緑色に光る正妃の左目を見上げたまま、シュレーは石壇に片膝をついた。手をとると、女の肌はほんのりと温かかった。なめらかな感触のある絹の手袋に唇をつけると、甘い香木の匂いが喉につまる。  正妃の手を返して、シュレーは立ちあがった。扇で口元を隠した正妃の目が、笑っている。 「光栄ですわ」  正妃はやわらかく言い置いてから、柱の上で翻っている、ふたつの旗を見上げた。 「本日は模擬戦闘だったそうですわね。猊下がお勝ちになったとか…」  白羽の軍記を見上げる正妃の顔は、夕日の赤い色で染まっている。 「戦がお上手でいらっしゃるのね」  シュレーに目をもどす正妃は、何を考えているのか計り知れない表情をしている。かすかに微笑んではいるが、それが単なる仮面であるのか、あるいは、彼女が本当になにかを楽しんでいるのか、判断がつかない。 「殿方は、戦がお上手なほうがよろしいですわ」  しずしずと歩いて、正妃はアルフ・オルファンの隣へ寄り、うつむいている息子の肩に触れた。 「オルファン、義兄(あに)上に戦のことを教えていただきなさい。そなたのお父上も、以前はいつも、ヨアヒム様からいろいろと習っておられたのですよ。兄と弟は助け合って生きるもの。そなたも猊下に仲良くしていただいて、良いことを沢山お習いなさい」  耳元で告げる正妃の声を、オルファンは目を見開いて聞いている。声をひそめているわけでもないのに、正妃は息子と秘密の話をしているように、悪戯っぽく振舞っている。 「…叔父上のご病状は」  シュレーは、目の前にいる女に毒を盛られているはずの、族長のことを思った。 「お元気ですわ、あの方は。いつもお元気」  ぼんやりと答え、正妃はふと空を見やった。 「ああ、日が沈みますわね、もうじき」  シュレーは暗い山並みの見える空へ目を向けた。女の言うとおりだった。  いつのまにか、落日の刻限が早くなっている。短い山の夏が、終わろうとしているのだと、シュレーは思った。  振り仰いだ黄昏の空に、ゆったりとはためく白羽の軍旗が誇らしかった。自分は、圧倒的な不利の中でも、アルフ・オルファンを凌いだ。従弟からの挑戦に立ち向かってやった。  そう、自分は……勝ったのだ!  シュレーは、静まり返る広場を、昂揚した目で見渡した。  今日、この場で感じている、朽ち葉の匂うこの風、あの、震える太陽、血を流す苦しみを、自分は永遠に忘れないだろう。  山々の稜線に今日の太陽が沈みゆく。古い学院にも、戦いの熱気を押し隠す、ひそやかな黄昏がおとずれようとしていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-35 : 沈黙の骨 -----------------------------------------------------------------------  どこかから聞こえる楽器の音で、シュレーは目をさました。うつろに目を開いて上を眺めると、寝台を覆う天蓋が見える。暗い臙脂(えんじ)色で、植物の蔦を模した豪華な刺繍が一面に施されている。  それを眺めていると、聖桜城(せいろうじょう)で眺めた別の天蓋のことが思い出された。これとは違う、濃紺のびろうどで、やはり同じように、金糸で植物の模様が刺繍された、古びた品だった。金糸もくすんで、けばけばしい光が抜け、薄闇の中で、かすかな幻のように浮かび上がっていた。  アルミナの部屋の天蓋だ。華奢な少女の体と並んで横になっていると、一晩中、一睡もできなかった。  清潔な絹の匂い、枕の上に投げ出された、少女の髪の匂い、かすかな息の音、ぼんやりした温もりが隣に感じられるほかは、どんな言葉もなく、そばで眠る少女の体に触れたこともなかった。  黙ったまま横になっているアルミナの呼吸は、明け方頃になると、ゆっくりとした寝息に変わる。それを数えながら、シュレーはいつも、朝日がやってきて、自分をアルミナの部屋から追い出してくれるのを、ひたすら待っていた。  部屋の小窓から差し込む朝日が、寝台の天蓋を撫でてゆき、刺繍の文様が鮮やかな金色に浮かび上がるのを眺めると、いつも、ほっとした。そして、寂しかった。隣で眠る少女を揺り起こして、なにか話し掛けたいような衝動を感じた。彼女の華奢な体を強く抱いて、なにかを問いただしたいような。  だが、大抵、夜明けを告げるため、見まわりの神官が杖で扉を叩く静かな音が、それを思いとどまらせた。シュレーが寝台を出て行っても、眠り足りない少女は、それに気づかないことのほうが多かった。  シュレーには、そのほうが都合がよかった。仇と決めた神殿種の女を欲しがるのは、無様だと思った。かつて、父がそうであったように、いっときの劣情のために何もかもを捨てて行くような、惨めな生涯を送りたくない。  だが、最後に会った夜にかぎって、アルミナは寝息を立てなかった。彼女がずっと目覚めているのを、シュレーは感じていた。朝日がさしても、アルミナは身じろぎひとつせず、ただ黙って横になっているばかりだ。彼女がなにを考えているのか、シュレーには分からなかった。  あの少女の考えていることは、大抵、わけがわからない。山のように送られてくる手紙を読んでも、彼女のことは、少しもわからない。そして、今はもう、彼女のことがわからなくても、少しも困らない。あの少女のことを考える必要が、もう、自分にはないからだ。  あの濃紺の天蓋に射す朝日を見ることは、もう二度とない。あれはもう、別の誰かのものになる。あの微かな香りも、何もかも。アルミナはもう、シュレーのことを想わなくてすむ。  神聖神殿の定めた戒律には、妻となった者は、その夫を慕うべし、と記されている。アルミナは神殿に忠実な娘だった。アルミナがシュレーのことを想うのは、そのせいだ。  シュレーが神殿を去り、別の夫が彼女の配偶者として選ばれれば、あの少女は、新しい誰かのことを慕うようになるだろう。あきれるほどの文字を連ねた、たあいもない退屈なばかりの手紙も、別の誰かのところへ届くようになる。シュレーが神殿をほろぼす日までは、彼女はその男と幸せに過ごせばいい。神殿の聖母として、純血の神殿種の子供を産んで、それを育てて生きるのだ。  ひとつだけ気がかりなことがあるとすれば、彼女の新しい配偶者が、ちゃんと手紙の返事を書いてやってくれるかという事だけだ。それから、もうひとつ。あの、臆病な少女に、なにも無理強いしないでほしい。  それだけだ。  喉が乾き、かすかに胃が痛む。ぼんやりと気だるく、頭が重い。天蓋の模様を見上げて、シュレーはぼんやりとしていた。なにか、納得のいかない気分だった。  ふと、扉を叩く微かな音した。シュレーは我にかえった。 「誰だ」  とっさに起きあがって、シュレーは小声でするどく問いただした。うすぐらい寝室には、暖炉の明かりしかない。ゆらめく炎の影が、絨毯を敷いた床で踊っている。 「猊下、お目覚めになっておられますか」  執事のアザールの声だった。シュレーはいま、どういう刻限なのかわからず、戸惑った。 「起きている」  動揺した声で、シュレーは答えた。 「お客様でございます。お会いになられますか」  扉の向こうから、アザールの声が控えめに聞こえる。シュレーは顔をしかめた。いつも緊張した声色で話してくるこの男のことが、今日は格別疎ましかった。 「客…? 誰が会いたがっているんだ」 「シェル・マイオス・エントゥリオ殿下です」 「マイオスが?」 「それから、もう一人の海エルフの殿下も」  イルス・フォルデスのことを言っているのだろう。アザールは、大陸の白系種族の例にもれず、黒系種族を蔑んでいるようだから、彼の名を口にするのに抵抗があるのかもしれない。 「……もう朝か」  シュレーは一人ごちるような気分で尋ねた。 「いいえ。まだ夜半でございます」  シュレーは、自分がどうやって部屋に帰ってきたのか、思い出せなかった。学寮まで馬で戻ったことは憶えている。だが、その先が思い出せない。  渇きを感じて、喉元に触れると、いやに熱かった。熱が出ているらしい。頭もぼんやりとして、重く感じる。疲れと気だるさのせいで、誰にも会う気がしない。 「後で会う……なんの用で会いたいのか、聞いておいてくれ」  寝台に背中を戻して、シュレーはため息とともに命じた。 「それが……もう、お出でになっております」  アザールの声が終わらないうちに、寝室の扉がばたんと乱暴に開かれた。シュレーは目を見開いて飛び起きた。枕元にあった懐剣に、思わず手がいく。 「な…なんだ!?」  あっけにとられているアザールを押しのけて、シェルが部屋に入ってきた。ご大層に大きな盆に乗せた食事を運んできている。少し遅れてから、イルスが楽器を手にして現れた。  イルスと、寝台の上に盆を置くシェルとを、シュレーは交互に見つめた。 「なんなんだ、これは、マイオス!」 「ごはんです」  森の民族衣装をつけたシェルが、にっこりと笑って、寝台の上に置いた盆を示した。  盆の上には、何枚かの皿があり、麦の粥らしいものや、果物が乗せられている。食事だ。見ればわかる。 「食えるか」  ずかずかと近寄ってきたイルスが、シュレーの顔をのぞきこんでくる。シュレーはあっけにとられつつ、何が起こっているのかを、なんとなく理解して、苦笑した。 「……君が作ってきたのか?」  あきれた気分で、シュレーはイルスを見上げた。 「シェルに頼まれた」  イルスはにやりと笑い返してきた。 「祝勝会だ」  手に持っていたものを、イルスはシュレーに示した。ヴィオラだ。なめらかな木に細い弦を張った楽器を、イルスは自分の顎にあてて、弓を引いて短い音楽を奏でた。聞きなれない異国の曲だ。 「君が弾くのか」  シュレーは感心して、尋ねた。 「たいして上手くない、なんて言うなよ。ひとが弾いてる間は、黙って聴くもんだ」  弓でシュレーのほうを指して、イルスがまた、にやっと笑った。 「気分はどうですか、殿下」  シェルが心配そうな顔をしている。 「…あまりよくない」 「そうだろうな。そんな顔してる。まだ熱が下がってないんだ」  イルスが寝室の壁に背中を持たれ掛けさせ、こちらを見下ろしていた。 「熱……? なんで知ってるんだ」 「みんなで殿下を部屋まで運んだからです」  誇らしげに、シェルが言い、鼻白むシュレーとむきあったまま、にっこりと満面の笑みをうかべた。 「食えそうなものだけ食え。それから、お前、元気になったら、俺から料理を習え」  イルスが料理を指差して、言った。シュレーは皿に乗っている食べ物を見つめた。 「なんでそんなことを君から習わなくちゃいけないんだ?」 「自分で作った料理には毒が入っているわけないからです」  真面目な顔で、シェルが説明した。 「それは…そうかもしれないが………」  シュレーは頷いているシェルの顔を、困った気分で見つめた。 「僕も一緒に習いますから。これから毎日、みんなで一緒に食事をしましょう」  陽気な声をとりつくろつて言うシェルは、不安げにシュレーの顔を見ている。その視線を浴びて、シュレーは思わす顔をしかめた。 「殿下、これ、預かってた鍵です」  首から下げていた鎖をはずして、シェルがキャビネットの鍵を返してきた。体温の残る鍵を受け取って、シュレーはその、ごく小さな金属の欠片が、ひどく温かく感じられるのを不思議なもののように思った。 「俺たちが、お前を毒殺師から守る」  イルスがきっぱりと言うのを聞いて、シュレーはぎょっとした。 「なんだって?」 「力になります、殿下。そう約束しました」 「あれは……模擬戦闘の中だけの話だぞ」  シュレーはうろたえている自分のことが馬鹿馬鹿しく、部屋の壁にある暖炉の火に視線を逃がした。 「殿下が死んだら、僕は悲しいです。だから、僕は殿下を助けます。自分が死んでも誰も困らないなんて思わないでください。イルスも、レイラス殿下も、あなたを助けるのに力を貸してくれました。だから戻ってこられたんですよ」 「あれは、神殿種がもともと持っている復活のための力だ」 「ライラル殿下……一人で戦うより、力を合わせたほうが勝算があるって、模擬戦闘だったらわかってたくせに、本物の戦いだと、どうしてわからなくなっちゃうんですか?」  むっとした声で言うシェルに驚いて、シュレーは視線を戻した。  2人がじっとこっちを見ている。しばらく呆然としてから、シュレーはため息をついて、うな垂れた。 「なぜ私を助けようなんて思うんだ。理由があるのか、君たちには」 「僕には、理由はありません。ただ殿下を助けたいだけです」  シェルが少し困ったように笑った。 「……理解できないな」 「どうしてですか」  シェルが、驚いたように問いただしてきた。 「…理解できないから、理解できないと言っているだけだ」  シェルがすねたような顔をしていたので、思わず苦笑し、シュレーは答えた。 「私を助けてなんになる」 「なにがあるのか知らないですが、誰かが毒殺されるなんて、ひどい話です。僕は、そんなことは許せないんです。だから殿下を助けます」  きっぱりというシェルの言葉を聞いて、シュレーはしばらく真顔になり、そして声をたてて笑った。 「マイオス、毒殺なんてありふれた話だ。どこにでもあるよ。君だって歴史を知っているだろう。今まで何人の者が毒殺されてきたことか。私がそのうちの一人だからって、なんの不思議がある」 「殿下がその一人でも、なんの不思議もありません。だから、皆で助けるって言ってるんです」  ぎゅっと唇を引き結んで、シェルは押し黙った。答えを待つように自分を見上げてくるシェルを、シュレーは言葉を選りながら動揺して眺めた。 「……余計なお節介だ、マイオス。私のことには、手を出すな。親切で言っているんだぞ」 「僕は余計なお節介が好きなんです。だからやるんです。放っておいてください。僕やイルスがなにをしようと、殿下には関係ないんでしょう。いやなら、無視してくれていいです。僕は殿下に、なにかを命令できるわけじゃないですから。ただ、頼んでるだけです」  眉を寄せて言うシェル・マイオスの顔を、シュレーは見つめた。シェルはまだほんの子供で、なにも知らないくせに口だけは一丁前な、ただの甘えたの坊やに見えた。なんという頑固そうな顔だと、シュレーは内心でだけ驚きの息をついた。 「だったら、断る。君たちに余波が及ぶことにまで、私は責任をとりたくない」 「断られても、僕はやります」 「なにを訳のわからないことを言ってるんだ」 「殿下には僕らの気持ちなんて分かりっこないんです。はじめから、説得しようなんて思ってないです。殿下は自分のやりたいようにやるんでしょう。だったら僕らがそうしても、文句を言わないでください」  寝台の布団を叩いて、シェルが癇癪を起こしたように言った。  あっけにとられて、シュレーは薄く唇を開いたまま、なにも言い返せずにシェルを眺めた。 「たまには人のいうことも聞いてみたらどうですか。殿下はいつも自分の話ばっかり、自分の都合ばっかりです。どうしてなんですか。どうして、僕の話は聞けないんですか。どうして、殿下はいつも正しくて、僕は間違ってるんですか。そんなことないと思います。殿下は、ほんのちょっとも、そう思ってくれないんですか」  長衣(トーガ)の身頃を揉みながら、シェルはいらだった口調で、まるで独り言のように言い募っている。 「君の理想は、君の世界で守れ。私には関係ない…他人事だ」 「だから、僕はそうしてるんです。殿下を毒殺から守ります。誰かがひどい目にあうのを、黙ってみていることはできないです」  強い口調で、シェルは言い、恭順を促すような目で、シュレーを見た。押しつけがましいその言いようが、ひどく不愉快で、シュレーはシェルから目をそむけた。 「………弱気な君のことだ、どうせすぐに逃げ出すだろう。君が考えてるほど、事は甘くない」  シュレーはかすかな怒りを押しとどめながら、呟くように答えた。 「ほんとは助けて欲しいくせに、殿下はずるいです…」  ぽつりと投げつけられたその言葉に胸を叩かれ、シュレーは驚いてシェルに視線を戻した。森エルフの少年は、疲れたような仕草で、のろのろと寝台の横の床に座り込むところだった。  言い返す言葉を選びあぐねていたシュレーの肩を、イルスがヴィオラの弓で軽くつついてきた。はっとして見上げると、イルスは無表情にこちらを眺めていた。 「音楽は?」  ヴィオラを示して、イルスが尋ねてきた。  シュレーはしばし呆然とした。意味がわからなかったのではないが、答えるべき言葉が浮かんでこなかったのだ。  やっと返事を思いついたときには、ひどく長い時間が過ぎていた。 「……静かなやつを」  シーツの上にある自分の手をみおろして、シュレーは頼んだ。 「わかった」  イルスの声に続いて、音を調べるいくつもの音階が聞こえた。やがて、静かな曲が流れ出す。眠気を誘う、異国の音色だった。聖歌でない音楽を聴くのは、初めてだった。シュレーは耳ごこちの良い音の波に聞き入った。  知らない曲のはずが、どこか懐かしいような気がする。遠い昔、まだ子供で、自分が神聖神殿の言葉を話すようになる以前に、どこかで聞いたことのある子守唄のような。  だが、自分がそんなものを聴いたことがあるはずがないと、シュレーは思いなおした。荒野で両親と過ごした数年間、憶えている限りの記憶を呼び起こしても、思い出せるのは、父が厳しい顔をして働いている姿だけだ。  父ヨアヒムは、シュレーに一度もやさしい言葉をかけてくれたことはなかった。何をして見せても、ほめもせず、怒りもしない。父がなにかを話すこと自体が、奇跡のような出来事だった。母は産後の病のため、父によって天幕の奥にかくまわれていて、子供が病人をわずらわせないようにと、シュレーはその天幕のなかに入ることも禁じられていた。そのほかに会うものといえば、荒野の山羊飼いたちと、その、いけすかない子供達だけだ。  誰かが歌を歌って聴かせてくれることや、まして楽器を奏でているところなど、ひとつも記憶にない。子供の頃のことで、憶えていることは、ごくわずかだった。そのころに話していたはずの言葉も、すっかり忘れ果ててしまった。  曲が終わる頃、シュレーがふと見ると、寝台の足元で、シェルが眠り込んでいた。イルスがそれに気づいているのか、いないのかを、確かめるのが億劫だった。少なくとも、自分は聴いている。イルスがそれを、自分に聴かせるために弾いているのだろうということを、シュレーは漠然と感じ取っていた。  不思議なことをする。  ふと、音楽が途切れた。 「シェルが寝てるな」  楽器を置いて、寝台に座り、イルスが小声で言った。 「模擬戦で疲れたんだろう。君も疲れたんじゃないのか。部屋に帰って休め」  どこか、みじめな気持ちで、シュレーは言った。彼らが、自分を哀れんでここにいるのが感じられたせいだ。 「俺は眠くない。アルマの間は、眠くならないんだ」  説明の足らない返事を淡々と言い、イルスはまた押し黙った。シュレーは、それについての説明を、くどくどと求める気がしなかった。気になっているのは、ほかのことだ。 「フォルデス、私は死ぬのか? …君は、私が本当に死ぬのを未来視したのか?」  寝台の背板にもたれて、シュレーは尋ねてみた。  しかし、答えが返らなかった。シュレーはそれを怪訝におもって、横にいるイルスを振り仰いだ。 「お前に話がある」  イルスは、盆の上にのっていたグラスをとって、それに水差しの水をそそぎ、シュレーに手渡してきた。喉が乾いていたので、シュレーはそれをおとなしく受け取った。  シュレーがグラスを持ったままでいると、イルスが、自分のぶんのグラスにも水を入れて、それを飲んで見せた。そして、飲め、と促すような視線をシュレーに向けた。シュレーは苦笑した。彼らが自分に毒を盛ろうとしているのではと疑ったりするほど、追い詰められてはいないつもりだ。  シュレーは水を飲んだ。冷たい水が、胃にしみた。 「どうして神殿を出てきた。大神官になれないぐらい、我慢できないのか。死ぬよりましだろう」 「神殿にいても、私はいずれ殺される」 「どうして?」 「…ひとつには、私が詩篇に予言されている、世を滅ぼす者なのではないかという懸念があるためだ。それから、私が純血でないことも、理由のひとつだ」 「純血じゃないのが、なんでまずいんだ?」  無表情なまま、イルスは率直に尋ねてきた。そうやって、ためらいもなく聞かれると、答えないわけにはいかないような気分にさせられる。  シュレーは迷った。イルスが聞いてきた問いの答えは、神殿が守っている重要な秘密の一つだ。  だが、思いとどまろうと決める前に、自然と口が開いていた。 「神殿の天使は、前世の記憶を持ったまま生まれてくることになっている。だが、私にはそれがない。私は、ブラン・アムリネスの記憶を一つも持ってないんだ。混血したせいで、転生が不完全なのだと、神殿の連中は言っている」 「それと、お前を殺すことと、なんの関係があるんだ」 「私が死ねば、天使ブラン・アムリネスが、次は純血の神殿種として転生するかもしれないからだ。天使の転生は危険をともなう出来事のようだが、いつまでも混血の私で満足するよりは、いくらかの危険に挑戦したほうがいいと考えている者が、神殿の天使の中に大勢いる」  シュレーはいつのまにか、うつむきがちに話していた自分に気づき、無理に顔をあげた。 「私は、ずっと生きているより、さっさと死んだほうが、神殿の役に立つ。私が死んで、喜ぶ者はいても、悲しむ者はいない。私が、まだ生きているのは不思議なくらいだ。祖父が死んで、私を守る後ろ盾がなくなれば、私の命もそれまでだろう」  イルスは納得したようだったが、それが、かえって彼を黙らせた。 「私を殺そうとしているのは、山エルフの連中だけではない。君たちにとっても、神殿は恐ろしいだろう。下手に関わると、君たちも面倒に巻き込まれるかもしれないぞ。君たちがこの件を無視しても、私はなんとも思わない。神殿でもそうだったが、ここも同じだ。一人でなんとかすることに、私は慣れている。今日だって、君たちの手を借りなくても……」  勢いに任せて言いかけてから、シュレーは言葉を失って押し黙った。  じっと無表情な目で、イルスがこちらを見下ろしていた。なんの気負いもない彼の目で見つめられると、シュレーは自分の腹のうちにある弱気を、透かし見られているような気分になった。  誰もいないはずの天幕の中で、どこか遠くから、自分を励ます声が聞こえた。泣きながら走って行くシェル・マイオスの姿が見えた。自分は、あの頼りない少年に、弱音を吐いた。なぜ、そんなことをしたのか、苦し紛れの気の緩みか、自分でも良く分からない。  ほんの少しでも弱みをみせれば、人はそれに付けこもうとする。ろくに世間をしらないシェル・マイオスですら、そうだ。ついさっきも、模擬戦での働きを盾に、シュレーの弱みを握ったような顔をしていた。彼に限らず、人はみな、そういうものだ。弱みを見せるほうが悪い。そうしたほうが負けなのだ。  シュレーは、寝台にもたれて眠っているシェル・マイオスに視線を向けた。ぐっすりと眠り込んでいる森エルフの少年は、あちこちにできた傷を手当てされたせいで、返って痛々しいような姿をしていた。シュレーは、ただ黙って、その傷を数えた。シェルの手のひらに巻いてある包帯に、うっすらと血が滲んでいる。  彼らがいなければ、勝てはしなかった。そうかもしれない。だが、それも、たまたまそこにいた者を、自分がうまく利用したというだけのことだ。彼らがいなければ、他の方法を考えた。だから、これは、単なる偶然に過ぎない。彼らがいなければ、模擬戦闘に勝てもせず、今の命もなかったと思うのは、ただの妄想だ。そんなものはなくても、自分は立派に生きていける。  シュレーは胸に湧く沢山の言葉を飲み込むために、胃に染みる水を飲み干した。 「お前の故郷の連中は、お前よりも、その、なんとかいう天使のほうが大事なのか」  手持ち無沙汰なのか、イルスはヴィオラの弦を弾きながら、話しかけてきた。途切れ途切れに聞こえる音のひとつひとつを追うと、それは、さっきまでイルスが弾いていた曲と同じものだった。 「……連中は、ブラン・アムリネスだけが大事なんだ。私のことは、死ねばいいと思っている。さっさと死んで、ブラン・アムリネスを次の一生に送り出せと。実際に手を下す者たちもいた。もっとも、それが明らかになれば、大神官からの処罰がある。連中も命がけだ。それほど私を殺したがっている」  シュレーは聖楼城(せいろうじょう)での日々を思った。誰もが、早く死なないかという目で、自分を見ていた。下賎の血を受けた肉体に縛り付けられた、哀れな同胞、天使ブラン・アムリネスの悲劇を悼むような、あの目と、数知れない囁き声。 「神殿の連中は………私の前で、私を殺す相談をする」  空になったクリスタルガラスについた水滴が、のろのろと流れているのを見つめ、シュレーは独り言のようなつもりで呟いた。 「私を生かしておいた方が良いのか、それとも、すぐにでも殺したほうがよいのか…どちらが神殿のためになるのかを……やつらは私に決めさせようとする」 「お前に…? どうして?」  イルスが心底驚いている声で、尋ねてくる。 「私が、ブラン・アムリネスだからだ。私には、神殿の重要な決定を行うための会議の一員に加わる義務がある。ブラン・アムリネスの転生についても、重要な議案だ。私は、私が死んだほうがよいか、もう少し生きていたほうがよいか、決めなければいけない」  片膝を抱えて、シュレーは寝台の天蓋を仰いだ。淡く輝く金の文様。 「私は、死んだほうがいいんだ。私もそう思う。生きていても何の役にも立たない。どこへいっても私は邪魔者だ……私は誰も救えないが、天使ブラン・アムリネスは、大陸の民に慈悲を与えることができる。君たちには、ブラン・アムリネスが必要だろう?」  口に出すと、その考えは言い知れない苦痛をともなってシュレーの心を刺した。 「………私はブラン・アムリネスの記憶など知らない。それでも生きていたい。ただのシュレーとして、生きていたいんだ」  胸の奥にたまったものを吐き出す思いで、シュレーは呟いた。 「俺には、そのほうが助かる」  イルスが、いやにあっさりと言うので、シュレーはむっとして海エルフの少年を見上げた。 「憶えやすいからか」  睨みつけると、イルスが笑いをこらえるような顔をしたので、シュレーはますます腹が立った。 「君に話すんじゃなかった!」 「怒るなよ、笑ったのは、別に真面目に聞いてないからじゃないさ」  楽器を抱えて、イルスが抑えた笑い声をたてた。そして、眠っているシェルを指差して、こちらに目配せを送ってきた。 「こいつが、お前はこれくらいだったって言ってた」  自分の腰のあたりの高さを手のひらで示して、イルスが言う。シュレーはその意味がわからず、顔をしかめた。 「なんのことだ」 「死にかけたお前を、連れ戻しにいった時、シェルがみたお前は、これくらいだったんだってさ。料理を作ってる横で、ずっとそれを話すんだ。自分の代わりになにか、俺からお前に言って欲しかったんだろ」  イルスの言葉を聞いているうちに、シュレーはその話の意味をじわりと理解して、ますます不愉快になった。 「それが可笑しいのか」 「お前は子供だ」 「…ふざけるな、わざわざ皮肉を言いに来たのか。私は疲れている、さっさと出ていってくれ」  苛立って、シュレーは空になったグラスを、盆の上に戻した。普通に置いたつもりが、クリスタルガラスが割れそうな軋みを立てたので、シュレーは驚いて息をのんだ。果物を乗せた皿が踊り、その音で、寝台にもたれかかっていたシェルが、びっくりしたようにひくひくと目蓋を震わせ、ぼんやりと目を開いた。  しまったという気分で、シュレーはため息をつき、熱っぽく汗をかいている自分の首を手で拭った。 「眠ってました……」  こちらに背を向けたまま、シェルが、ひどく驚いたような小声で呟いた。 「そろそろ戻るか」  イルスが声をかけると、シェルは言葉にならないような声で、眠たげに同意した。 「ライラル殿下……食事は?」  目の前にあった皿の上に、料理がそのまま残っているのを見て、シェルが寝ぼけた声で尋ねてきた。 「すまない、食欲がない」  ため息で苛立ちを押し隠して、シュレーは説明した。イルスは自分のグラスに残っていた水を飲んでいるだけで、なにも口を挟まなかった。 「アザール!」  シュレーは、強い声で執事を呼んだ。彼が扉の向こうで控えているのは、良く分かっていた。いつものことだ。  すぐに扉が開いて、山エルフの執事が顔を見せた。 「帰るそうだ。私の代わりに見送りを」  シュレーが頼むと、アザールは畏まって礼をした。  眠そうにふらりと立ちあがるシェルを、アザールが戸口に案内していく。  寝台から腰をあげて、イルスが首をかしげ、こちらを向いた。 「お前はな、誰も救えないわけじゃないぞ。スィグルを救えたじゃないか」 「なんだって?」  ぼんやりと言うイルスの言葉に、なぜか目眩がするほど腹が立った。 「救っただと? あんなやつ、どうやって救うんだ。なにもかも終わったあとで、私になにができるっていうんだ!」 「お前はあいつを救った。気づいてないだけだ」  イルスは立ち去りながら、足をとめ、しれっと言いきった。 「……出て行け!!」  喉からあふれた声に、シュレーの理性は押しのけられた。驚いた執事が、おどおどと振り向き、暗い顔をするシェルに気をつかって、早く立ち去るようにと促すのが見える。 「何度も言わせるな……私には誰も救えない、私は天使ではない、そんな力はないんだ!!」 「天使じゃなくても、人を救うことはできるって、お前が言ったんだぞ」  薄闇に目を凝らすようにイルスが目を細めて言う。シュレーは怒りで震える息を呑んだ。 「猊下はたいへんお疲れです、お帰りください」  執事アザールが、強張った声でイルスに忠告した。  イルスは、ちらりとシュレーのほうを一瞥したが、それきりなにも言わず、シェルの背を押して、扉を通りぬけて行った。 「猊下……」  あとを取り繕おうとしている執事を、シュレーは言葉もなく、ただじっと見詰めた。 「ご不快のこととお察し申し上げますが……卑しい種族の者の口走ることなど妄言でございます。もう2度とお取次ぎしないように致します。どうかお心やすらかに……」  胸を覆うような仕草をして、山エルフの青年は精一杯の忠誠を示してきた。シュレーは耐えられずに首を垂れた。 「お前たちは、どうしてそうなんだ。ほんのわずかの違いを競って、愚かに争ってばかりいて……そんなことだから、神殿の連中に、獣と同じだと見くびられるんだ。なぜ分からない。いつまで家畜同然に扱われれば満足する気だ、恥を知れ!!」  シュレーが怒鳴ると、アザールは、振り下ろされる牧者の杖に驚いた山羊が、あわてて群れに逃げ帰るようなそぶりで、シュレーの部屋を出て行った。  寝台から、シュレーは必死で這い出した。熱のせいで、足元がおぼつかない。薄闇の中にある、居間につづく扉に走りより、真鍮の取っ手を掴むと、その冷たさと重さが、ひどく切なく感じられた。裸足のまま、居間の絨毯を踏んで走る。  暖炉の火に染められた居間の闇の中で、黒檀のキャビネットを開こうとした。手元がふるえて、なかなか開かない錠前を、シュレーは恨みに思った。なにもかもが上手くいかない。小さな鍵ひとつ、満足にあけることができない。  乱暴にキャビネットの扉を開くと、中から古びた頭蓋骨が自分を見上げていた。それは、聖楼城の地下から持ち出した、父の遺骸だった。  神殿を去る前に、シュレーはあらゆる禁忌をおかして、城の古い地下部に再び忍びこみ、地下牢にうち捨てられたままの父の遺体をさがした。幼い日に見た、無残な父の遺骸があったのと同じ場所に、白い骨になった姿で、父ヨアヒムは横たわっていた。  年月が過ぎるうちに、遺体の肉は削げ落ち、静かな骨だけが残されたのだ。幼い日に見た、父の死顔にあった痛みも、苦しみも、すべてが腐り落ちて帳消しになってしまった。  遺骸を一目見るだけのつもりが、シュレーは、気づくと父の頭蓋骨を掴んでいた。濡れた暗黒の地下道を走り去る自分のことを、無数の目が見ているような気がした。  やはりお前は不名誉な下民の子だと、囁く声が聞こえるような気がした。耳をくすぐる無数の翼の音を振り払いながら、シュレーは地下道を走りつづけた。なんと言われても良かった。永遠に絆を断ち切られる前に、父の骨が欲しかったのだ。 「父上……」  頭蓋骨のうつろな眼窩に指をかけ、シュレーはそれを戸棚の中から取り出した。足元がよろめいて、立っていられなくなり、居間の絨毯のうえに膝をつく。 「なにか言ってください、父上」  死んだ者の眼窩を見つめて、シュレーはうめいた。 「私が生まれてきて良かったと言ってください」  頭蓋骨を抱いて、シュレーはうずくまった。ひどい吐き気と頭痛がした。 「どうして死んだのですか、父上。どうして。なぜ私を置いていったのですか………あなたには私なんて、どうでも良かったのか…遺された私が、どうなるか、少しも気にならなかったのか!!」  できるものなら、シュレーは泣きたかった。でも、どうやって泣くのか、どうしても思い出せない。 「父上…もう苦しいんです。私はひとりで精一杯やってきました。何をされても、何度殺されても、我慢して、一人で戦ってきました。もう、我慢できない。もう戦いたくない。私も、一緒に連れて行ってください。私をもう、ひとりで置いておかないでください。なんでも、あなたの言うことを、よくきいて…どんなことでも、一生懸命……やります……」  頭蓋骨はなにも言わなかった。生きていたときと変わらず、父はただ沈黙ばかりを、シュレーに押しつけてくる。押し迫る孤独で胸がつまった。手を差し伸べてくれる者なら、誰にでも、すがり付きたいような気がした。 「父上…――――」  シュレーは、死んだ者の声を聞こうと耳をすまし、乾いた骨を抱きしめた。  いつまで耳をすましても、どんな声も、かすかなため息ひとつさえ、聞こえはしなかった。  荒野に立っていた、あの寡黙な男もそうだった。時折、思い出したように目をくれるほかは、こちらに興味を示そうともしない。生きていても、死んでいても、父は同じだ。どちらも等しくシュレーに無関心であり、救いの手を差し伸べるような情愛がない。  それでも、シュレーは父に気に入られたかった。いつも、寡黙な父の関心を引こうと必死だったのだ。たった一言、よくやったと言われるためであれば、なんでもやってみせただろう。たったひとり、何もない荒野に置いて行かれるのが怖かったのだ。  だが、結局、父はそうした。 「私はあなたのようにはならない」  死者の耳にもよく聞こえるように、シュレーはひそやかに告げた。 「あなたが捨てていったものを、全部手に入れてやる。あなたが失敗したことを、私が全部やり直す……あなたの血を継いでいても、私はちゃんと、誰もが心から尊敬するような者に……」  爪が骨を掻く音が、途切れたシュレーの言葉を継いだ。  あとはただ、沈黙と、燃える暖炉の薪の音だけが、薄暗い部屋に立ち込め、その、ひどく乾いた手で、シュレーを包みこんだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-36 : 小さな同盟 -----------------------------------------------------------------------  寝静まった暗い廊下を行く間、シェルは一言も口をきかなかった。  とぼとぼと鈍色(にびいろ)の絨毯を踏んで行く森エルフの少年の小さな背中を見下ろしながら、イルスはそれを押してやるような気分で歩いた。眠気のせいか、シェルの足取りはひどくゆっくりしていて、気を使って歩かないと、イルスはすぐにそれを追い越してしまいそうだった。  淡い色合いの華やかな民族衣装で着飾っていても、シェルは鉛の錘(おもり)を引いて歩くように惨めな後姿をしている。この少年を落ち込ませているのが何なのか、イルスには不思議だった。シェルにとっても、この日は大変な一日だっただろうが、戦いには勝ち、シュレーの命も助けてやれた。彼には落ち込む必要などないはずだ。  小ぶりな頭や、幼子のように華奢な作りの関節の影が、シェルを必要以上に子供っぽく見せている。眠たげに歩みを運ぶ足取りも、まるで初めて歩くことを知った子供のようだ。イルスが知っている森エルフは、シェルだけだったが、同族に比べても、シェルが貧弱な発育しかしていないことは、漠然と察しがつく。  森エルフたちは、優雅なことを好む部族だと聞いているが、決して弱々しい連中ではない。海エルフ族は長大な国境線を、この森の部族と接しており、過去に何度も彼らと戦っている。  海エルフは獰猛だとして知られる部族だが、自分達のほうから侵略したことなど、実際には、ほとんどない。戦端はいつも森の部族の侵入によって開かれてきた。森エルフたちは、彼らが守護生物(トゥラシェ)と呼ぶ、見上げるような大きさをした生き物を連れて現れ、それを使役して、領境を侵す。  連中は自分の手を汚すことなく、巨大な生き物をけしかけて、海エルフの兵を踏み潰し、食い殺させるのだという。その恐ろしさは、戦地からはるかに遠い海岸付近まで、生々しく聞こえていた。イルスが修行をしていたあたりの鄙(ひな)びた漁村でも、聞き分けのない子は、森のトゥラシェに食わせるよと、親が子供を叱る時の話の種にするほどだ。  森エルフたちは、エルフ諸族のなかでも、どこにもひけをとらないぐらいには獰猛だ。戦うのがいやだと言うような、情けないみそっかすでは、シェルは故郷でもさぞかし馬鹿にされただろう。  しかし、イルスはシェルを馬鹿にする気はなかった。いかにも腕っ節の弱い奴ではあるが、泣きながら走って行く姿には、どこかしら気丈な気配が感じられた。ただ単なる臆病心から、戦いを嫌っているわけではないだろう。たぶん、この軟弱な少年は、世間を知らず、いくらか心根が優しすぎるのだと、イルスは思った。  廊下の折れ曲がる場所にある階段の前で、シェルがふと立ち止まった。広く入り組んでいる学寮の建物の中で、シェルが居室を与えられている棟と、イルスが住む場所は、別の棟に分かれており、この階段から別の方向へ行かねばならない。  ここから階段をあがるイルスに別れを言うために立ち止まったのだろうが、シェルはこちらに背をむけたまま、しょんぼりと黙り込んだままだった。 「…帰って寝ろ」  イルスは、シェルの背中を叩いて言い、軽い足取りで階段を数段駆け上がった。 「おやすみなさい」  ぼんやりと答える声に、イルスが足を止め、振り向いて眺めると、シェルがのろのろと歩きはじめるところだった。  イルスはそれを、黙って見送っていた。だが、シェルが階段の入り口から見えるあたりを横切り、その姿が見えなくなってしまうと、わけもなく彼のことが心配になった。  軽くため息をついてから、イルスは登りかけていた階段をかけおりた。  イルスがひょいと覗いてみると、薄暗い廊下を歩いていくシェルの背中は、彼の部屋があるはずの方向とは、まるで反対のほうへと進んでいっていた。 「おい! お前の部屋はそっちじゃないだろ?」  道に迷っているのではないかと思い、イルスはシェルに呼びかけた。  角を曲がりかけていたシェルが、おどろいて振り向き、立ちすくむ気配を見せる。 「どこへ行くんだよ。あんまりウロウロするな。ここはお前の部族の庭じゃない。なにがあるか、わからないんだぞ」  イルスが忠告すると、シェルはごそごそと袖口をさぐり、ゆったりとした袖のなかから、小さな包みを取り出してイルスに示した。 「これを持って行くんです……」 「なんだ、それ?」  言い訳めいた言葉の響きに、イルスは首をかしげた。 「角砂糖、です」  気まずそうに言うシェルの言葉を、イルスは理解できなかった。 「そんなもん、どうする気だ?」 「馬に食べさせるんです」  イルスは、説明を聞かなければよかったと思った。シェルの言うことは、聞けば聞くほど訳がわからない。 「あの……イルス、もうちょっと付き合ってもらってもいいですか」  済まなそうに上目遣いになるシェルを眺めて、イルスは首をかしげた。 「話したいことが……」  眉間に淡くしわ寄せて、シェルがうつむいた。   * * * * * *  月明かりだけを頼りに歩く夜の中には、人の気配もなく、学院が寝静まっている気配がした。  シェルが忍びこんだ先は、学院の厩(うまや)だった。うろうろと遠い声を探すようにさまよった挙句、やたらと遠回りをして、学寮から外れたところにある石造りの建物に辿りついた。  木で作られた観音開きの扉から、一抱えもある閂(かんぬき)を外して、シェルはこっそりと厩の中に入っていった。ついてきた手前、今更自分だけ帰るわけにもいかず、イルスはシェルの背中を追って、のろのろと厩の敷居をまたいだ。  飼い葉と馬の匂いのする薄闇を目で探ると、木の柵で細かく区切られた囲いの中に、ずらりと軍馬が並んでいた。模擬戦闘で使われていた馬たちだ。イルスたちが入ってきたのに気づいた馬たちは、神経質そうに耳をパタパタと震わせてみたり、大鋸屑(おがくず)を敷き詰めてある厩の地面を、良く手入れされた蹄(ひづめ)で引っかいたりしている。  見なれない顔がやってきたことに、馬たちは動揺しているようだった。馬丁を呼ぼうとして嘶(いなな)き始める馬の首を、シェルが駆け寄って撫でてやっている。すると、馬たちは、ふと気がそれたように大人しくなった。 「すごいな、お前。馬の扱いに慣れてる」  イルスは感心して、小声でシェルを誉めた。鼻面を摺り寄せてくる馬の首を抱き、シェルは楽しそうにしている。 「馬は賢いから、説明したら、何でもちゃんと分かってくれます」 「お前、馬の言葉までわかるのか?」  イルスがあっけにとられて言うと、シェルは笑いながら首を横に振った。 「馬は言葉なんて持ってないですけど、心は通じるんです」  シェルは袖口に隠していた包みから、角砂糖を取り出して、手のひらに乗せた。シェルがそれを馬の鼻先に持っていくと、馬は黙々とそれを食べた。栗毛の馬の目は、黒々と澄んでおり、濡れた黒大理石のように美しかった。 「お前…俺がメシを作ってる間に、厨房から砂糖をちょろまかしてきたんだな」  イルスは半ば呆れた気分で言った。シェルが照れたように笑う。 「約束してたのを、思い出したんです。模擬戦闘が終わったら、角砂糖をあげるって、こいつと……」  栗毛の馬がシェルに懐いて、そのしなやかな首で華奢な森エルフの少年の体を宙に放り上げた。シェルが驚いて笑い声を立てるのが、イルスにはとても不思議だった。言葉を話す連中といるよりも、シェルはこうして、ものを言わない生き物のそばにいるほうが、よほど寛(くつろ)いでいられるように見える。 「減ってた蹄鉄(ていてつ)は、新しいのに変えてもらえたんだね。よかったね」  目を細めて馬にほお擦りし、シェルが嬉しそうに馬に話しかけている。 「今日は怖かっただろう。戦いなんて、いやだね」  シェルが首をかしげて馬の目をのぞき込むと、栗毛の馬は、それに同意するように首をあげて小さく嘶(いなな)いた。  厩の壁にもたれて、イルスはシェルが馬となにか囁き交わすのを眺めた。  馬が心を許す者に悪いやつはいないと故郷の師匠が言っていたのを、イルスは思い出した。イルスが初めて馬に乗ろうとした時のことだ。  師匠が飼っていた馬は、隣大陸から船で運ばれてきたという葦毛(あしげ)の馬で、とりたてて名馬というわけでもないくせに、気位が高く、鼻息が荒かった。鞍に乗ろうとすると、葦毛の馬は容赦なく暴れ、イルスを何度も浜辺の砂地に叩きつけた。  イルスが腹を立てて、毎日飼い葉と水を運んでやっているのが誰かわかってるのかと悪態をつくと、師匠は、馬が抗うのは、お前が恐れているせいだとイルスを笑った。  悔しかったが、確かにそうだった。蹄を踏み鳴らして歯をむくのが憎たらしく、怖くもあったのだ。  結局、葦毛の馬は、一度もイルスを乗せてくれないまま、年老いて死んだ。師匠はその馬に、宵の明星(ヨルド)という名をつけていた。葦毛の馬の額に、白い点があったせいだ。  真夏、月夜の厩にはむっとするような熱気が満ちており、師匠に命じられるままに、イルスは瀕死の馬の流す汗を柔らかい藁(わら)で拭いてやった。馬の汗には死の匂いが混ざっていた。イルスが馬の濡れた黒い目を覗き込むと、葦毛の馬も、じっとイルスを見つめ返してきた。死に行く馬の瞳は、とても静かだった。イルスはその時、自分が葦毛の馬の目を、はじめて見たのだと気づいた。こちらが見つめれば、抗いもせず、憎たらしく暴れもしないで、ただじっと見つめ返してくる。  死んだ馬の肉を、師匠は近隣の里の者たちに振る舞った。イルスは、自分がありついた馬肉の味をおぼえている。老いて死んだだけのことはあり、たいして美味(うま)くはなかった。気位の高い葦毛は、ほんの一夜、海辺の村々の食卓を賑わし、それきりこの世から消えていった。  死(ヴィーダ)。それは、この世界から消えるということだ。  鬣(たてがみ)を梳(す)くシェルの指に目を細めている栗毛の馬を、イルスは手持ち無沙汰に眺めた。この馬も、ヨルドと同じ美しい黒い目をしている。のぞき込むと、あっけなく引きこまれて、それきり戻れなくなりそうな。  あの女もそうだ。  イルスは森の中で出くわした、毒殺師のことを思い巡らせた。  あの敏腕。深い黒い瞳。燃えあがる炎のような赤い髪。熱い息。ヨランダ、明けの星、強い女(ウルバ・ウエラ)、あの女の汗にも死の匂いがした。乾いた土と枯れた草の匂いに混じった、女の甘い体臭の奥にあり、息をひそめてはいるが、それは、確かな足音でゆっくりと近づいてくる天敵の匂いのように、危険で、冷たい、異質な何かだ。  あの女は、その足音が自分に追い付き、冷え切ったその手で不意に背を叩く前に、シュレーの息の根をとめて、自分の死出の旅路の水先をとらせようとしている。 「イルス」  戸惑ったシェルの声にはっとして、イルスは自分がぼんやりしていたことに気づいた。  顔をあげ、厩の壁にあずけていた背をおこすと、壁につるしてあった馬を手入れするための道具が、かたかたと小さく鳴った。 「話を聞いてもらってもいいですか」  擦り寄ってくる馬の首を撫でながら、シェルはきゅうに、深刻な顔をした。  イルスは黙ったまま頷いた。言葉を話すのが、いやに億劫だった。もともと、公用語で話すのは得意ではないが、ここ一日、いやに口が重い。  馬を囲うための柵にもたれて、シェルは言葉を選ぶように押し黙ってから、思いきったように口を開いた。 「ライラル殿下の父上のことを、なにか知りませんか」  言いにくそうに尋ねるシェルの顔を、イルスは少しの間、じっと見つめた。 「知らない」  イルスは首を振った。 「あいつの親父は、部族を捨てて、神殿種の女と駆け落ちしたんだって、スィグルから聞いた」  シェルがますます難しい顔をして押し黙る。 「そんなことがあったっていうのに、シュレーがなんで、山の族長になんてなれるのか、俺には納得がいかない」 「長子だからでしょう?」  ぼんやりとした声で、シェルが戸惑ったように答えてきた。 「ライラル殿下の父上は、山エルフ族の先代の族長閣下の長子なんですよ。だから、その長子であるライラル殿下には、血筋からいくと、山エルフ族の族長位の第一継承権があるんです」  シェルがしゃがみこんで、厩(うまや)の地面にしきつめてある大鋸屑(おがくず)を払いのけ、現れた砂地の上に、家系図を書いてみせた。公用語で書かれた文字を、イルスは注意深く読んだ。  シュレーの父の名が、ヨアヒム・ティルマンというのだと、イルスは初めて知った。その妻であるルサリアという女の名に、シェルは「聖母」という言葉を書き添えている。その血筋をたどると、神聖神殿の長である、大神官の名が書き記されていた。  イルスは思わずため息をついていた。シュレーが何者なのかを、今はじめて知ったような気がする。イルスの目の前をうろうろしている時は、シュレーは別段どうといった有り難味のない、普通の少年のように見えている。だが、彼は神殿種の血を引く、イルスよりも一段高い場所に住んでいる者なのだ。  田舎の海辺には、めったに本物の神殿種は姿を見せず、神殿にいるのは現地で調達された準神官ばかりだったが、ごくたまに、海都の正神官が巡察のためにやってくることもあった。そのたびに、どんな辺境の村村までも白い羽根で飾り立て、神殿種の来臨を祝わねばならない。  白い羽根をむしるため、海鳥をつかまえていくのは、海辺の子供達の手伝い仕事だった。師匠の庵に住んでいるイルスが、その仕事を言いつけられることはなかったが、近隣の里の子供らが浜辺にやってきて、海鳥をねらうのを何度か目にしたものだ。  そうまでして飾り立てたところで、正神官が田舎の漁村の一つ一つを訪れることなどは、ありえないことだった。イルスが正神官を見たことがあるのは、一度きり、まだ海都に暮らしていた頃のことだ。  洗礼名を与えられるため、父に連れられて神殿へ行った。誰よりも偉い英雄だと信じていた父が、軟弱そうな金髪の神官に平伏するのが、幼いイルスには信じられない出来事だった。ひょろりと背の高い金髪の神官は、見下すような醒めた目で、父ヘンリックを見下ろしていた。故郷の誰もが、英雄として称える族長を。  だが、あの時の神官ですら、神聖神殿のなかでは、ごく下っ端にすぎなかったのだ。  そしてシュレーは、その神聖神殿の階位の頂点付近にいる者だ。本来なら、簡単に口をきいていいような相手ではないのかもしれない。  イルスは今ごろになってやっと、シュレーを怒らせたことを、ひどく気まずく思った。相手が何者か、頭ではわかっているつもりだったが、それを実感したことがなかったのだ。 「現職の山エルフ族族長である、ハルペグ・オルロイ閣下は、正式な山エルフ族の族長ではないことになります」  幼さの残る高い声で、シェルは説明しはじめた。地面に描いた家系図を、真面目な顔つきで見下ろしているシェルを、イルスはぼんやりと眺めた。 「それぞれの部族の、部族長継承のための方法は、神聖神殿によって認められたものでないと駄目ですから、長子相続ということで代々額冠(ティアラ)を引き継いできている山エルフ族では、族長は長子でなければならないんです」  砂に書いた系図の名前のいくつかを、シェルが輪で囲んだ。先代の山エルフ族族長、シュレーの父であるヨアヒム・ティルマン、そして、シュレー本人の3人だ。 「ほら、ライラル殿下が正統な継承者でしょう?」  シェルが顔をあげ、イルスを見上げてくる。イルスは何度か軽く頷いてみせた。 「じゃあ……今の山の族長は、にせものってことか?」  わけがわからず、イルスは顔をしかめた。 「そうじゃありません。ハルペグ・オルロイ閣下は、ちゃんと、神聖神殿から叙任を受けた族長です。ただ、正式じゃない族長だというだけです」 「わからねえ」  きっぱりとイルスが言うと、シェルが鼻白んだ。 「ど…どうしてですか」 「なんでハッキリさせなかったんだ。どっちが本物の族長なのか。シュレーが継ぐのか、アルフが継ぐのか、ハッキリさせたほうがいいんじゃねえのか? 正式じゃない族長、なんて、納得できるか? 族長はどの部族にも、たった一人だけだ。そうじゃないと、誰が部族をまとめていくんだよ」  イルスはいらいらしながら尋ねた。シェルが困ったように忙しなく瞬きした。 「だから……もう、はっきりしてるじゃないですか」  指をからめて、もじもじしながら、シェルは言った。 「ライラル殿下が、正統な継承者なんです。だって、長子なんですから」  シェルの言葉を聞いて、イルスはしばらく言葉を失っていた。つまり、シュレーはいずれ、山エルフ族の族長になろうとしている。考えてみれば、当たり前のことだ。そのための継承者なのだから。  だが、イルスには、自分と同じ年恰好の少年が、いつか族長位につくのだということが、うまく納得できなかった。 「だったらなんで、山の連中はシュレーを殺そうとしてるんだ?」  上ずった声で、イルスはシェルに問い掛けた。シェルの白い顔が、暗い表情でかげる。 「ライラル殿下が亡くなったら、長子相続の継承権は、現族長のハルペグ・オルロイ閣下に移ります。そうなれば、今の王統が正式なものになります」 「なるほどな……」  イルスは深いため息をついた。 「いい考えだ……」 「そんなことありません」  むっとしたように、シェルが応える。イルスは、シェルが自分の非人情な言葉をとがめたものと思って、苦笑した。 「ちがいます、そういう意味じゃあまりせん。ライラル殿下が気の毒だというだけじゃないんです」  シェルが首を振ると、彼の長い金髪がふわふわと薄闇の中を漂った。 「領土内での神殿種の変死は、どんな事情があっても、その部族の罪として処罰されることになってるじゃないですか。知らないんですか?」  必死の眼差しを向けて来るシェルを見下ろして、イルスはぽかんとした。知らなかった。 「処罰って?」  イルスが臆面もなく尋ねると、シェルはうろたえたようにうめいて、あとずさった。 「……呪いです。滅ぼされるんです」  小声で、シェルが説明した。 「神聖神殿が定めた、正式な掟です。実際に滅ぼされた部族なんて、いくらでもあります。どうやって滅ぼすのかは、僕は知らないし…たぶん、誰も知らないんだと思いますけど、神聖神殿は、一部族をまるごと滅亡させるための魔法か、なにか、そういったものを持っているんだと思います。神殿の人達は、それを、『呪い』と呼んでます」 「呪い?」  イルスは、その言葉の不吉な響きに、顔をしかめた。わけもなく不安で、心がざわつく。 「呪いによって滅ぼされた部族は、どんな公文書からも存在を抹消されるので、実際になにが起こったのかは、ほとんど記録がのこっていません。わかっているのは、一度呪われると、1、2年ぐらいのすごく短い期間で、あっというまに血筋が絶えてしまうということです。生き残る部族民もいるみたいですが、神聖神殿は部族の名前も土地も、なにもかも無かったことにして奪ってしまうので……なにも残りません。ほとんど、なにも…」 「…ほとんど」  イルスが鸚鵡(おうむ)返しに呟くと、シェルは大きな目をこちらに向けたまま、なにか大切なことを言いあぐねるように押し黙った。 「イルス、僕、考えたんですけど……」  たっぷり迷った挙句、消え入りそうなほどひそめた声で、シェルは口火をきった。 「オルファン殿下は、そんな危険なことまでして、族長位を継ぎたいなんて思うものでしょうか」  シェルの緑色の目が、ちらちらと不安げな動きで、あたりをうかがうように小刻みに揺れ動いている。 「おかしいですよ。神殿種に害意を抱くなんて……そんなこと。神殿種どうしの間でなら、ありうるかもしれないですけど。だから、あの……ライラル殿下を殺そうとしてるのは……も……もしかして……あの……」 「神殿の連中だって言いたいのか?」  イルスが言いかけると、シェルが悲鳴を上げて跳びついてきて、イルスの口を塞いだ。あたりをうかがうシェルを、イルスはあっけに取られて眺めた。 「だめですよ、そんなこと、堂々と言ったりして。誰か聞いてたらどうするんですか」  馬しか聞いてない、とイルスは内心で悪態をついた。 「馬だって、少しは人の言葉がわかるんですよ!」  真面目な顔で、シェルが応えた。イルスはシェルが自分の心を読んでいることに驚き、シェルを突き放した。 「俺はなにも言ってないぞ!?」  シェルはたじろいで、大きな目をイルスに向けた。 「すみません……感応力です。僕、人の心と、本当に話していることの区別が、うまくつかなくて……」  混乱しているシェルの謝罪は、どこか上の空だった。 「ライラル殿下を守らないと、大変なことになります」  緊張した目つきをして、シェルが震える声をだした。 「もし…もしもですよ。山エルフ族が滅亡しちゃったら、四部族(フォルト・フィア)の均衡が崩れます」  シェルが泣きそうな顔をするので、イルスは眉をひそめた。 「今まで、良くも悪くも、僕らエルフ族は白系と黒系の二派に分かれて、それぞれが同盟関係にあるような状態でした。イルスの部族だって、黒エルフ族と同盟関係だったでしょう。森エルフ族にも、山の領土を侵さないっていう暗黙の了解があるんです」  シェルの目から、盛りあがった涙がぽろぽろとこぼれはじめた。 「山エルフ族が消えたら、僕の部族は……黒エルフ族と海エルフ族に挟(はさ)み撃ちされて、滅亡しちゃうと思うんです。だから……だから、ライラル殿下には、生きていてもらわないと、困るんです」  イルスから離れて、シェルは顔を覆った。 「僕……そんなこと考えてるんです。ライラル殿下のためを思ってるだけじゃないんです。それを…言っておかないとと思って……。僕、ライラル殿下にも、さっき、嘘を……」  涙を振り払うように顔を上げ、シェルはイルスの顔をまっすぐに見詰めてくる。 「故郷がなくなると思うと、怖いんです。もし負けたら、父上も、母上も、みんな殺されるかも……そう思ったら、怖くて……」  うつむき、シェルは押し殺した声で言った。 「イルス……イルスやレイラス殿下には、ライラル殿下が死んだほうが、得かもしれないですよ。それでも助けますか…?」  シェルの強い声で言われて、イルスはかすかな動揺を感じた。目の前でべそをかいている森エルフの少年が、不思議と大人びて見えた。  イルスが答えられずにいると、シェルが急に、顔を歪めてうずくまった。 「それでも助けるんですよね……」  シェルが、必死で嗚咽を押さえこむのが聞こえた。 「どうして僕は、そういう風になれないんだろう」  イルスは、買かぶりだと言おうとしたが、シェルは聞いていない様子だった。 「ライラル殿下を助けたいって、僕は必死だったんです。でも、さっき、ライラル殿下の顔を見て…ああ、よかったって思って。これで戦にならずに済むなって……自分がそう思ってるのに、気づいたんです。目の前で死にかかってる人より、自分の家族のほうが心配なんです。僕は結局、自分のことしか心配してないんです! それなのに、僕は、自分がライラル殿下のためを思ってるって、信じてました」  シェルは顔をしかめて、うつむき、自分の膝に顔を埋めた。そうするシェルの仕草は、とても疲れていて、眠そうだった。 「僕の頭の中には、汚いことばっかりです。きっと…だからトゥラシェもいないんだ。レイラス殿下も、僕を許してくれるわけないです。だって……僕は、自分の家族を守るためだったら、レイラス殿下を森の墓所に閉じ込めるくらい、平気でやるかもしれません。僕みたいなのが、戦をやるのかもしれない……部族を守るためだって……仕方ないんだっていって…」  シェルの声は、だんだんに弱まっていき、苦しげに掠れて消えようとしている。 「みんながイルスみたいだったら、きっと、もっと、いい世界に……」  シェルが嗚咽をこらえて押し黙ると、囲いの中に繋がれている馬たちが、不安げに地面を蹄で引っかき、シェルの注意を引こうとするように落ち着きなく鼻を鳴らした。 「あのな……」  頭をかいて、イルスはシェルの前に座り込んだ。 「俺も別に、シュレーが可哀想だなとか、助けてやらなきゃなんて、考えてない」  言葉を選びながら、イルスは気まずい思いで説明した。  シェルが涙で汚れた顔を上げ、鼻をすすりながらイルスを見る。 「じゃあ、どうしてですか」 「…うぅん……わからねえ。なんとなくだ。いや、どっちかっていうと、意地かもしれねえな」 「お母さんのことですね」  シェルは、震えた声で早口に言った。 「イルスのお母さん、きれいな人ですね。優しい人です。イルスのこと、いい子だって言ってましたね。僕もそう思います。僕の母上も、とても優しい人なんです。僕がこんな汚い心だって知ったら、母上はきっと泣きますね」 「そんなことないさ」  シェルが森の中で自分の心を読んでいたらしいことに、イルスは苦笑した。腹は立たないが、気恥ずかしい。子供っぽいやつだと思われただろう。 「馬が懐くのに悪い奴はいないって、俺の師匠が言ってた。俺もそう思う」  イルスの言葉を聞き終わらないうちに、シェルは情けないほど顔を歪めて、小さな子供のような泣き声をたてた。 「馬は優しいだけです。イルスもそうです。僕はみんなに優しくしてもらえるような立派な心じゃないんです。ライラル殿下に優しくしてあげてください。ライラル殿下の心を見ました。なんにもない荒野に一人で立ってました。寒くて寂しくって何にもないんです。ライラル殿下が可哀想です。ライラル殿下を助けて、励ましてあげるって約束してください」  泣きじゃくるシェルが、本気でそう言っているらしいことに気づき、イルスは思わず笑った。なにが可笑しいのか自分でも分からなかったが、泣いているシェルの横で、イルスは声をたてて笑った。 「どうして笑うんですか、真面目にきいてくださいよ! 大事な話なんですから!!」  シェルが泣きながらイルスの襟首を掴んで、がくがくと揺すってきた。イルスは堪えきれずに、揺れながら笑った。 「わかった、わかったよ、あいつを助けて励ますんだろ、俺も手伝うって言ってるじゃねぇか。お前、変なやつだな!」  シェルが幼いのか年を食っているのか、まるで分からないと思いながら、イルスは泣き伏す彼の華奢な背中を軽く叩いた。 「もう、戻って寝ろよ。お前、疲れてるんだよ。馬にも砂糖を食わしたし、もういいだろ」  笑いの残る声で忠告すると、シェルは置きあがって、首を振った。 「そうしたいんですけど、まだやることがあって…」  ぎょっとして、イルスは思わずシェルの涙顔を睨んだ。 「まだ、なにかあるのかよ?」 「模擬戦闘のときに死んだ鳥を、埋葬するんです」 「………今度は鳥か」  うめいて、イルスは厩(うまや)の床に呆然と倒れた。 「なにかが食って始末するんじゃないのか?」 「そうでしょうか。でも、ほら、今は山鳥の繁殖期なんですよ。残った卵はどうなるんでしょう。それも山の獣に食われるんでしょうか。可哀想じゃないですか? 模擬戦闘がなかったら、ちゃんと生まれたかもしれないのに……なんとかできないでしょうか。暖めて孵(かえ)すとか……」  心配そうに、シェルが言う。  その声を聞きながら、イルスは腹の底からこみ上げてくる笑いに体を震わせた。シェルは、妙なやつだ。苛立たしいほど律儀なこの少年のことを、イルスは気に入った。 「ああぁ…そうだな、わかった。手伝うよ」  笑いながら、イルスは大鋸屑(おがくず)のついた髪に指を梳き入れた。大鋸屑(おがくず)には、馬の匂いがうつっていた。死んだ宵の明星(ヨルド)のことが、とても鮮やかに思い出された。トゥルハ・ヴィーダ(死ぬのはいや)と叫ぶ、明けの明星(ヨランダ)の声が、耳の奥に蘇(よみがえ)る。  死にたくない、とイルスは思った。  笑うたびにそう思う。トゥルハ・ヴィーダ、と。誰かを好きになるたびにそう思うのだ。自分がこの世から消えたあとも、彼らが生きており、自分の知りようのないところで、泣いたり笑ったりするのだということが、とても寂しい。  それを考えたくない。明日のことなど、なにも考えたくない。今日この日に握る剣の切っ先だけを、ただ無心に見つめていたい。なにも悩まず、なにも恐れず、失うものを無様に惜しむような、醜態をさらさずに。  自分は今日もまた、無駄な一日を過ごしただろうかとイルスは考えた。あとどれくらいの間、自分がこの世界にいられるのかを、誰かに教えてもらいたかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-37 : 原初の卵 -----------------------------------------------------------------------  シェルは眠気でふらふらしながら、諦め悪く、山鳥の巣をひとつひとつ執念深く覗き込んでいる。月明かりのある夜とはいえ、森の中には闇の垂れ込める場所が多かった。  学寮の常夜灯から火を盗んで松明を灯してきたものの、夜の中で山鳥の巣がどうなったかを見てまわるのには無理があった。 「シェル、もう諦めろ。明日にすりゃいいじゃないか」  月を見上げて、イルスは言った。もう真夜中を過ぎている。梢の合間に見える夜空は、晴れ渡っているようで、小さく鋭い星明りが眺められた。 「眠いです…」  よろめいて針葉樹の幹にとりつき、シェルが寝言のような声でつぶやく。 「もう戻ろう。明日でも手伝ってやるから」  苦笑しながら言うと、シェルは泣きはらした目で、うろんと眠そうにこちらを見た。 「……でも、早く見つけないと、卵が冷えちゃいます」  イルスはため息をついて、山鳥の巣の中から、割れた卵のカラをつまみ出し、シェルの鼻先につきつけた。 「あきらめろ。もう手遅れだ。どの巣も食われたあとだ」  卵のカラには、ねっとりと食べ残しの黄味がへばりついている。シェルが悲しそうな顔をしたので、イルスは卵の殻をそのへんに投げ捨てた。  その音を聞きつけて、どこかからキィと小さな声があがった。闇の中に気配を感じて、イルスが松明の明かりを向けると、鳥達が小枝を集めて地面に築いた巣に、長い尾と耳のある小さな獣がとりついて、食べ残しの卵を漁っていた。明かりの輪に触れて、小動物は短い悲鳴をあげ、3本ある尾をはためかせて闇のなかに駆け戻っていく。 「…サンビです」  さびしそうな声で、シェルが呟いた。 「僕らの森にもいます。卵や虫を食べるんです。可愛いですね…」 「仕方ないさ。諦めろ。親のいなくなった巣が、荒らされないわけない。昼間のうちに、もう食われてたんだよ」 「そうですよね」  うな垂れて、シェルは消え入りそうな声で言った。 「僕……もう眠ってもいいですか」  シェルは今この場所でも倒れこんで眠りそうに見えた。 「ひとりで学寮に戻れるか?」  イルスが問い掛けると、シェルが不思議そうに顔をあげた。 「イルスは?」 「俺は眠くないんだ。ひとりで起きてるのも暇だし、もうちょっと探してみてやるよ」  イルスが肩をすくめると、シェルが済まなそうに笑った。 「アルマですね」  シェルが訳を知っているふうに言うのに、イルスは驚いた。 「知ってるのか?」 「本に載ってました。海エルフ族は定期的にアルマ期に入るって。エルフ族の中でも、一番の変わり種ですね」  疲れたシェルの言葉には力がなく、どこか夢見るような響きがある。 「イルスが狂乱するんだと思って心配しました。アルマの狂乱を制御するには、ウランバかウエラが必要だって、本に書いてあったんです。それがないと、すっかり狂って、だれ彼構わず襲うって。そうならなくて良かった。本に書いてあることなんて、あてにならないんですね」  イルスはシェルの言葉を聞いて、一瞬なにも考えられなくなった。 「…好敵手(ウランバ)か女(ウエラ)?」  森の闇を見渡して、イルスはシェルの言葉を繰り返した。 「僕…時々思うんですけど……神殿の教えてる創生神話だって、全部が本当じゃないんじゃないかって……」  手近な巣を覗き込んで、シェルは割れた卵のカラを取り出し、イルスに示した。 「見てください…卵の殻の色は、『まだら』です」  シェルはうっすらと笑って、卵の殻を巣に返した。 「原初の竜は、二つの卵を産んだっていうけど……同じ一体の生き物が全然違う色の卵を産むなんてことは、ありえないです。原初の竜は、自分が入っていた卵と同じ色の殻をした卵しか産まないはずです」 「…なあ、そういえば、原初の竜が入ってた卵は、誰が産んだんだ?」  イルスがつぶやくと、シェルが珍しくにやっと笑った。 「『原初の卵』ですね…イルス、それを聞くと、神殿の人達に怒られるんですよ」  イルスは肩をすくめ、薄笑いして首を振った。 「シュレーにでも聞いてみるか?」 「そうですね」  あくびを噛み殺して言い、シェルは自分のたいまつで森の夜道を照らした。 「明日の朝、ライラル殿下を誘いにいきます。一緒に朝ごはん食べましょう」  イルスが頷くと、シェルは微笑した。そして、丁寧に詫びを言ってから、学寮への道を帰っていった。   * * * * * *  誰もいなくなると、森は恐ろしく静かだった。どこかからかすかに、サンビのキィキィ鳴く声が聞こえるだけだ。梢を鳴らす夜風の音が、かえって静けさを感じさせる。 「原初の卵か……」  一人ごちて、イルスはため息をついた。  松明をかざすと、森には恐ろしく沢山の山鳥の巣があった。どの巣にも、親鳥が座り、卵を抱いている。守る者のいなくなった巣には、茶褐色の山鳥の代わりに、淡い金色のような毛並みをしたサンビが首を突っ込んでいたり、すっかり食い尽くされて用済みになった巣には、ぽっかりとした空白があるだけになっている。  サンビたちは、親鳥が守っている巣にも、意地汚く狙いをつけているようで、時折森のあちこちから、怒った山鳥が小さな獣を威嚇する羽音と、木切れを叩くような低い鳴き声が聞こえてくる。 「生きてる卵なんて、あるわけねぇよ」  悪態をついて、イルスは巣を壊さないように、注意深く歩きまわった。  そうして幾つかの巣を覗き込んだあと、不意に背後で気配がした。  その気配のたてる殺気に、イルスは総毛立って振りかえった。  目の前に、まだら色の卵があった。それを器用に2本の指で支えている白い手があり、その腕の先には、月明かりの中で薄笑いする女の顔があった。 「卵だろう…?」  ぽつりと女の声が呟くのを、イルスは聞いた。にやっと歯を見せる女の顔を見て、イルスは自分の心臓が激しく鳴るのを感じた。 「明けの星(ヨランダ)」  イルスが呼ぶと、月明かりの中に立っている女は、クッと可笑しそうに喉を鳴らした。女の指がかすかに揺れて、その上に乗った卵がぐらりと傾いた。支えを失った山鳥の卵は、森の地面に吸い寄せられるように落ちてゆく。卵はまるで、ゆっくりと落ちていくように見えた。  それが地面に叩きつけられ、くしゃっと微かな音を立てた瞬間、イルスは我にかえって松明を投げ捨て、とびのいた。無意識に剣の柄を掴み、身構えたイルスを、女は顎をあげて、面白そうに見ている。 「なぜ私を殺さなかった」  生きた目の残る左半身をこちらに向けて、同じ間合いでゆっくりと横へ歩きながら、毒殺師はイルスを舐めるように見つめてくる。視線でそれを追いながら、イルスは身動きがとれずにいた。女は寛いだ風な仕草でいるが、ほんの少しでも動けば襲いかかられそうな、はりつめた殺気を帯びている。  イルスの顔に視線をすえたままでも、女は器用に山鳥の巣をよけて歩いている。ヨランダが踏みしめる小枝が、ぽきぽきと鳴るのが、梢をゆらす風の音にまざって、ひそやかに聞こえてくる。イルスは耳をそばだてて、その音を聞いた。 「お前は私を殺せたはずだ」  ヨランダはイルスの真横で歩みを止めた。  なにも答えずにいると、ヨランダはふと気をゆるめたふうに、そばに寄って来る。間近に顔を寄せる女を、イルスは横目で見た。  月明かりの中で青白く架かっているヨランダの顔の、反面には笑みが、もう反面には赤い石があった。竜の涙だ。石に押しのけられて歪んだ顔は、醜かったが、ヨランダはそれを隠そうともしていない。まるで、顔の半ばあたりに、まるで違う二つの世界を区切る、見えない果てがあるようだ。 「私に情けをかけたつもりか」  イルスの耳元で、女の声が囁いた。背筋が震えて、イルスは思わず、剣を握る手に力をこめ、それに耐えた。剣を抜いて、身を守らなければと頭では思っていても、震え上がった腕は、少しもいうことをきかない。鞘の中で、長剣の刀身がかたかたと小刻みに鳴った。悔しかった。 「……どうせ死ぬ」  イルスは枯れた喉から無理やり言葉を搾り出した。ヨランダがかすかに驚いて身を引く。女が動揺して息をのむ音が聞こえた。ヨランダの眉間に、隠しきれない不安の皺が寄った。イルスはたまらず、女の顔から目をそらした。 「殺さなくても、お前はどうせ、すぐに死ぬ」  イルスは息苦しくなって、2、3度、肩で大きく息をついた。女の殺気が、急激に強くなっていくのが感じられる。 「どこか遠くへいって、あと少しの間、楽しく暮らしたらどうなんだ!」  堪えられず、イルスは叫ぶように言って飛びのいた。思わず剣を抜いたが、向き合った女は武器をとる気配もなく、ただじっとイルスを見つめている。 「小僧が、わかったような口を……」  首をかしげて、笑いに顔をゆがめ、ヨランダは面白そうに言った。 「なに不自由ない暮らしの、お幸せな王族の坊やに……私の心など、わかるものか」  ヨランダの心臓に向けた自分の長剣の切っ先が、無様にさまよい定まらないのを見て、イルスは食いしばった歯の間から、短い息をついた。 「……わかる!」  とっさに叫ぶように答えたイルスを、ヨランダは意外そうな顔で見つめてきた。  その視線を浴びると、とても息苦しいような気がした。自分がわけもなく、むきになっているのが感じられる。イルスはしばらく呼吸を整えてから、左手だけで剣を支え、空いた右手で、額冠(ティアラ)を外した。  ヨランダの片方だけの黒い目が、かすかに見開かれるのがわかった。黒い瞳が、自分の額の竜の涙をとらえているのが感じられた。ヨランダの見つめるあたりが、じわりと焼けるような気がした。 「………そうか」  ぽつりと細く響く声で、ヨランダがつぶやいた。ふいに殺気が薄まった。  女は体重を感じさせない足取りで、森の地面を踏み、ひっそりと近寄ってきた。  真正面に向き合って、ヨランダはイルスの顔を見つめてきた。目の前で、紅も塗らない女の唇が、ため息をつくように薄く開かれる。 「お前も、そうか」  伏目がちに、女はイルスの顔を見ている。 「そうだっ!」  イルスは気負ってわめいた。構えた剣の、切っ先が定まらない。ヨランダが、イルスが構えている長剣の刃先に指を乗せた。 「握りが甘いよ。もっと脇を締めな……」  剣を撫で、ヨランダは無防備に、イルスの間近に寄ってきた。 「花(アルマ)の匂いがする……」  イルスの耳元に顔を近づけて、ヨランダが深く息を吸う。その喉もとで、赤い飾り玉を一玉だけつけた、首飾りが揺れていた。女の首は、折れそうに細い。うっとりと呟く女の声は、甘かった。ヨランダのため息が耳元に触れるのを感じて、イルスは耐えられずに身をかわした。 「シュレーを殺して、お前になんの得があるんだ!」  剣を構えなおして、イルスは叫んだ。 「金をもらっている。それに、天使殺しさ、めったにない大仕事だよ」 「たのむ……殺さないでくれ…」  イルスは目をそらし、うな垂れて懇願した。  それを聞き、ヨランダはしばらく黙り込んでいた。イルスは、ヨランダに自分の心を透かし見られているような気がした。なにも考えないようにと努めて、イルスは思いきって女の顔を見上げた。  目が合うと、ヨランダは口元にうっすらと、曖昧な微笑を浮かべた。 「天使を助けたければ、私に勝つがいい。それができない時は、お前の命も、私がもらう」  平然と、ヨランダは告げた。 「どうして俺が……殺されなきゃいけないんだ」 「私を侮辱した」  感情のないような無表情になって、ヨランダは淡々と答える。 「……なんだって?」  イルスはうろたえた。 「この心臓が動いている限り、私は戦える。お前はそれを、見くびった。私に2度も、勝ちをゆずった。お前は私を、馬鹿にしている」  付け入る隙のない黒大理石のような目で、イルスをまっすぐに見つめ、ヨランダは冷たく告げた。 「…ちがう、馬鹿になんか、してない」  ためらってから、イルスはうろたえた声で答えた。 「お前…女じゃないか。女に剣を向けるなんて、できない」  女の目を見つめたまま、イルスは小さく首を振った。 「女(ウエラ)?」  薄笑いして呟くヨランダの低い声は、挑発めいて聞こえた。 「私が女に見えるなら、お前と私の勝負は、もう、ついたようなものだ」 「どういう意味だ」 「私の勝ちだ。私のほうが強い」  女の声に侮蔑の響きを感じて、イルスはかっとなった。 「そんなこと、勝負をつけてみるまで分かるもんかよ!」 「では、試すか? いま、ここで?」  イルスの長剣を指で弾いて跳ね除け、ヨランダは満面に鮮やかな笑みを浮かべた。とたんに猛烈な殺気が押し寄せる。イルスは、笑う女の顔に見とれた。戦いの気配に酔ったような、ヨランダの顔は美しかった。鍛え上げられた女剣士の体から、生きている者のたくましさと、死に逝く者の危うさが、お互いに会い入れないまま、陽炎のように立ち上っている。  イルスは苦しくなって目を細め、眉間にしわを寄せた。 「試さない」  搾り出した声で、イルスが答えると、ヨランダが驚いた顔をした。 「女なんか斬ったら、俺の剣が穢(けが)れる!」  心にもない言葉が、イルスの口を突いて出た。しかし、ヨランダは怒るどころか、突然火がついたようけたたましい笑い声をあげた。 「やっぱりごらん!! いいザマよ!」  哄笑をたっぷりと含んだ声で、ヨランダは言い、高慢に顎をそらして白い喉元を見せた。ヨランダが笑うのに合わせて、赤い首飾りがゆらゆらと揺れた。月明かりがつくる影が、ヨランダの胸でゆらめている。 「餓鬼のくせに、お前、女(ウエラ)が欲しいのさ」  鋭い声で言い、ヨランダは両脇につるした剣をふた振り引き抜いた。鞘の鳴る音が心地よく感じられる。ヨランダは短い剣を打ち合わせ、イルスの喉元にそれを押しつけた。それでも、イルスは笑うヨランダの顔から目が離せなかった。 「生意気なんだよ」  イルスは自分の顔を覗き込む、ヨランダの瞳をみつめた。喉に押し当てられた切っ先は、とても鋭かった。まっすぐに見つめると、ヨランダの黒い瞳は濡れたように深く、驚くほど静かで、やはりまっすぐに、イルスを見つめ返してきた。  長剣の刀身が、ヨランダのわき腹に触れていた。ほんのひと押しで斬れる。あとほんの少し。イルスは小刻みにゆれる自分の武器が、粗末な革の防具をつけたヨランダの体を撫でるのを感じた。あと、ほんの少しの力があれば、女をしとめることなど容易い。 「選ぶんなら今のうちだよ」  静かな声で、ヨランダが告げる。 「私がお前にとっての、好敵手(ウランバ)か……女(ウエラ)か」  剣を構えたまま、ヨランダはイルスの肩に肘を乗せ、耳元に唇を寄せて問いかけてきた。女の囁く声が、染み渡る毒のように、イルスの頭を浸した。頭の奥で騒ぐ狂乱の血が、ゆっくりと鎮まり、不思議な納得に落ち着こうとするのが感じられる。  剣を支える腕の力が抜け、切っ先がゆるやかに地面を叩く、軽い衝撃が伝わってきた。好敵手(ウランバ)か女(ウエラ)。イルスは何度も繰り返し、そればかりを思った。 「私が欲しいんなら、相手になってやってもいい。死出の旅路に発つ前に、お前を一人前に仕上げてやってもいいさ」  ヨランダは竜の涙のないほうの柔らかい頬を、ゆっくりとイルスの耳元に摺り寄せてきた。それは人の動きとは思えないような、素朴な仕草だった。女の髪からは、乾いた甘い香りがほのかに匂った。  イルスは目を閉じかけるのをこらえて半眼になった。ぬるま湯にひたるような心地よさを感じる。 「でも、その前に、ひとつ教えて」 「……なにを?」  イルスはうつろな頭でヨランダの声を待った。 「あの天使はどうすれば死ぬの?」  甘く装った声の向こうに、牙をむく獣の気配がした。首をめぐらして、イルスはすぐそばにあるヨランダの顔を見つめた。 「ヨランダ……」  微笑みながら、女はイルスの目を見つめている。 「お前は、俺の、好敵手(ウランバ)だ……」  イルスが囁くと、ヨランダはうっとりと艶かしく笑った。 「小僧……命を捨てる覚悟だね」  甘い息を吐きかけるヨランダの声を聞くと、頭の芯が痺れるような気がした。喉元に剣を付き付けたままのヨランダを、イルスは力の限り突き飛ばした。避けもせず、押しやられてよろめきながら、ヨランダは声高く笑った。二刀の剣をゆるりと構えなおして笑う声には、どこかしら無邪気なような響きがあった。 「俺のことは、イルスって呼べ。小僧じゃねえ!」  長剣を両手で構え、イルスは重心を落として、毒殺師を睨みつけた。 「へえぇ…いい面(つら)するじゃないか! 一丁前に、私に挑戦(ヴィーララー)を受けられたつもりかい。いい気になるんじゃないよッ!!」  狂喜する女の声が、耳ごこちよく聞こえる。 「かかってきな! ぶっ殺してやる! 餓鬼のまま死んで恥をさらしな!!」 「うるせぇ!!」  女の罵声を聞きながら、イルスは力まかせに長剣を打ちこんだ。  ヨランダはけたたましく笑いながら、ひらりと舞うように身をかわした。飛びのいて距離をとり、ヨランダが上段に剣をかまえる。月明かりを浴びて立つ女の姿に、イルスは立ちすくみかけ、息をのむと、それを振り払うために、大声をはりあげた。 「ヨランダ、俺が引導わたしてやるぜ!」 「私を殺(や)るっていうのかい。いいね、やってもらおうじゃないか。うまくやった褒美には、私の死体でも抱くがいいよッ。お前たち男どもはみんなそう、生きてても、死んでても、女にやることはひとつだけさ! 私が怖けりゃ、殺してからにするがいいわっ。死んでたって、私はお前のを食いちぎるかもしれないよ」  笑いながら、ヨランダは憎悪の気配のある言葉を、つぎつぎとイルスに叩きつけてきた。 「畜生…ッ」  イルスはうつむいて、うめいた。なにが苦しいのか分からなかったが、目の前にいる女が笑うのが、耐えがたかった。 「シュレーを殺したからって、お前の命がのびるわけじゃねぇだろ!」  イルスが斬りかかると、ヨランダはそれをかわさず、交差させた二振りの剣で、イルスの長剣を受けとめた。にやりと壮絶に笑う女の反面を、イルスは見上げた。 「復讐さ」  耳障りな音をたてて、打ち合せた剣がすれ違う。両者がすばやく身を翻し、再び向きあった時、ヨランダはすでに、二刀の剣を構えなおしていた。  速い。  イルスは敵手の技量に酔いしれた。湧き起こる陶酔で、剣を握る指が痺れる。力をたくわえた肢体、狂いなく急所を狙う切っ先、迷いのない瞳、全てが完璧だ。 「ブラン・アムリネスは部族の仇だ!」  イルスの心臓を正確無比な技で狙って、ヨランダは剣を突き出してきた。イルスは長剣を盾に、かろうじてそれを弾き返した。 「あいつは、私たちを見捨てたのよ。なにもしてない部族が呪いで滅ぶのを、黙って見ていたんだ。あいつには私たちを救うだけの力があったのに。なにが慈悲の天使だッ」 「……シュレーがか?」  動揺して、イルスは尋ねた。 「あいつじゃない。ずっと昔の話さ」  心臓の高さにかまえた剣の切っ先を、ヨランダはイルスをからかうようにさまよわせた。 「…じゃあ、シュレーには関係ねぇじゃねえか!」  目の前をふらふらとさまようヨランダの剣を乱暴に打ち払って、イルスはわめいた。 「今はあいつがブラン・アムリネスよ。恨みを受けさせる。そのために、私たちは、必死で逃げ延びて、今まで生きてきたのよ…何十年も、何百年も……何もない北の、荒野の果てに追いやられてね」  イルスを睨んで笑うヨランダの目には、強い光があった。 「よせ……シュレーは、天使じゃない、あいつは何もしらねぇんだ」  ヨランダが喉を仰け反らせて短く笑う。 「お前は、馬鹿か! 赤ん坊だって、もっとマシな嘘をつくだろうよ」 「嘘じゃない」  イルスは頼み込むような気持ちで声をしぼりだした。しかし、ヨランダはイルスの話に取り合う気配もない。見くびられているのを感じて、イルスは焦った。 「死ぬときになって、この日が巡ってきたのは、私の幸運……ろくでもない一生の、たった一度きりの運。天使を殺して、部族の英雄として死んでやるわ」 「逆恨みだ、みっともねぇぞ」  吐き捨てるように言うと、ヨランダがふふんと笑った。 「お前たちには、わかるまい。私たちは、たとえ滅びても、誇り高い狼のまま、お前らは、神殿に飼いならされた、卑屈な猟犬よ」 「…どういう意味だ」 「アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ!」  きゅうに、海エルフ語で叫び、ヨランダは閃くような一撃を食らわせてきた。避けきれず、イルスは長剣でそれを受けとめた。  それは、「汝、死を恐れるなかれ」という意味の言葉だった。打ち合わせたイルスの長剣を、ヨランダの視線が悪戯っぽく撫でてゆく。一呼吸してから、イルスは、女が長剣に刻まれた文字を読んだのだということに気づいた。 「お前……この字が読めるのか?」 「それはもともと、私たちの部族の文字だ。お前が話すのも、私たちの言葉だ。神殿が、それを私たちから盗んで、エルフどもにくれてやったのよ。花(アルマ)の咲く土地を焼かれて、何もかも忘れて、海辺で飼いならされて、それで満足か。お前のぷんぷんさせるその匂い、誇りもなにもない、飼い犬のしるしだ!」  イルスはなにも答えられなかった。頭の中が真っ白になる。 「神殿の床にはいつくばって、餌をもらいな」  罵って、ヨランダが撃ちかかってきた。火花を散らし、剣が鳴る。  激しい打撃を受けとめきれず、長剣をかまえたまま、イルスは森の地面に後ろむきに倒れこんだ。支えを失ったヨランダも、ほんの一瞬抗っただけで、持ちこたえられずにイルスの上に倒れてきた。  背中の下で、山鳥の巣が、ぽきぽきと乾いた音をたてて崩れた。ヨランダの頭が落ちかかる場所に、親鳥がいなくなり、空になった巣があるのが見える。無傷の卵が、そこに座っていた。  イルスはとっさのことに考えもなく、腕をのばして、倒れこむヨランダの頭を支えた。卵が気がかりだったのか、女の頭を心配したのか、自分でも判断がつかない。  イルスの腕に頭を乗せたまま、目の前に山鳥の卵があるのを見て、ヨランダが顔を歪めた。ヨランダが低く短い怒り声をあげ、拳を振り上げて、巣の中の卵を叩き割った。卵の黄味で汚れた手で、ヨランダがイルスを押し返す。 「さかりのついた手で、私に触るな」  疲れたふうに言うヨランダの声には、もう戦意が感じられなかった。敵手の気まぐれに、イルスはむっとした。 「ワザとじゃねえよ…」  曇った声で反論し、イルスは自分の腕を見た。そこには、昼間女がつけた爪あとが、まだ生々しく残っていた。  置きあがったヨランダは、地面に座り込んだまま、気が抜けたような仕草で、自分の首を飾っている、首飾りの玉を確かめている。その飾りは、宝石ではなく、指先ほどの大きさの、小さなガラスの器のように見えた。なかにわずかの液体が閉じ込めてある。それが割れていないのを確かめ、ヨランダがほっとため息をつくのが聞こえた。  背中を見せる毒殺師の心が、イルスには読めなかった。ヨランダの気は張り詰めていて、付け入る隙がなかったが、女にはもう殺気がない。 「なんだよ……それ……」  ヨランダが戦いから気をそらしたのが、気に食わなかった。イルスは苛立ちを隠しきれず、とげのある声で敵手に呼びかけた。 「毒よ」  イルスのほうを振りかえって言い、ヨランダは座りなおした。そして、のろのろと、梢にかかる月を見上げた。 「母さんがくれたのさ。私が苦しまずに死ねるように。母さんは死んで、今は、あそこに…」  腕を上げ、月を指差して、ヨランダはひどく切なげに言った。 「母さん。私、きっと、もうすぐ死ぬわ」  顔を覆って呟くヨランダからは、まるで月と話しているような、不思議な気配がした。 「トゥルハ・ヴィーダ(死にたくない)」  顔を覆っていたヨランダの手が、彼女の頬を滑り落ち、顎をはなれて、座り込んだ膝の上に落ちた。 「ウエラナ(母さん)、オルト・トゥルハ・ヴィーダ(私、死にたくない)……」  心がないような無表情で、ヨランダは月と話している。女の横顔の、竜の涙に冒されていない反面は、痩せて頬の肉が薄く、うっすらと隈が浮いていたが、月明かりをあびている肌がなめらかで、まるで壊れもののように見える。  その顔からは、生きている者が持っている、あらゆる無駄が削ぎ落とされてしまっているように見えた。死の床で、イルスの母もこんな顔をしていた。力なく、同時にとても力強い、静かな美しい顔だ。  綺麗だ。  出しぬけにそう思うと、ただそれだけが、イルスの頭の中で繰り返された。  美しい、強い女(ウルバ・ウエラ)。風より速い剣。  イルスは自分を抑えきれずに、ヨランダの膝の上にあった、女の白い手を奪い取った。驚いたふうもなく、ヨランダがイルスの顔に視線を向けた。反面を覆う深紅の竜の涙は、血の色のように生々しく、醜悪に成長している。石に潰された反面には、苦しみの表情が焼き付いていた。 「ヨランダ」 「天使は殺す」  イルスが呼びかけると、無表情なまま、ヨランダが呟いて応えた。イルスは目を細めて、彼女の顔をよく見ようとした。 「私が死ぬ前に、みんな殺す」  ひそやかに唇を動かして、ヨランダはかすかな声で、そう告げた。 「お前も殺す。みんな殺して、連れて行く」 「ヨランダ」  女の瞳を覗き込むと、そこには黒々とした深い闇があった。静まり返っていて、恨みも怒りもない。見つめれば、そのまま、じっと見つめ返してくる。自分の死を見つめている目だ。死んだ夜の、宵の明星(ヨルド)と同じ。月明かりの中で黒い瞳を見つめていると、イルスには、たった今にも、その瞳からふと命の火が消え、ヨランダが事切れるのではないかと不安になった。 「イルス」  ため息と変わらないような、かすかな声で、ヨランダが呟いた。それがイルスに魔法をかけた。頭の中で、なにかがぷつりと途切れるのを感じた。  腕を引き寄せ、イルスはヨランダを抱いた。女は少しも抗わず、思っていたよりもずっと小さい体を、イルスに預けてきた。ヨランダの体は、まるでもう死んでいるように、ひやりとしている。その首筋から、ほのかに甘い汗の匂いがした。  女の体は鍛え上げられて張り詰め、無駄がない。その手は冷たかったが、触れる脚は温かい。イルスの脇腹に押し当てられたヨランダの乳房は、あっけないほど柔らかかった。 「トゥルハ・ヴィーダ、アフラ・ウィー(お前も死ぬのが怖いか)?」  ひそかに、くぐもって響くヨランダの声を、イルスは自分の胸のあたりで聞いた。 「…怖い」  イルスは応える声が自分のものではないように思った。ヨランダが冷たい頬をイルスの胸に擦り付け、身じろぎしてイルスの首に腕を回した。イルスの肩に頬を乗せ、ヨランダが深い息をつく。  ヨランダを抱きしめてやるには、自分の腕はまだすこし短かすぎる。それが不甲斐なく思え、イルスは悲しかった。 「死にたくない」  イルスはヨランダを抱く腕に力をこめた。自分のものとは別の、力強い心臓の音が、まるで自分の中にあるように感じられる。 「俺は、それ以外のことを、考えたことがない。怖い、死にたくない…そればっかりだ。トゥルハ・ヴィーダ、トゥルハ・ヴィーダ、なにをしてても、誰といても、俺はいつも上の空で、トゥルハ・ヴィーダ、そればっかりだよ」  イルスは自分の声が、みっともなく震えているのを聞いた。  ヨランダがイルスの首を抱き寄せた。女の胸は、とても優しく、温かい。イルスは目を閉じ、ヨランダの胸に顔をうずめた。そういていると、自分がとても、死(ヴィーダ)から遠い場所で、守られているような気がした。  湧き起こる心地よさで胸がつまった。死にたくない、死にたくないと、頭の奥で自分の声が繰り返しうったえている。死にたくない。死にたくない。トゥルハ・ヴィーダ。今日この夜が、いつまでも終わらなければいい。朝がくれば、自分はまた一歩、死(ヴィーダ)に近づいてしまう。 「どうして俺だけ…」  イルスはうめいた。自分を抱く女が、体を丸めて、その声を聞いているのを感じる。 「みんな…生きていくのに、どうして俺だけが、死ななくちゃいけないんだ。死にたくない…なんにもいらない……ふつうに、あたりまえに生きてられれば、俺は、なんにもいらないんだ…」  自分が語る言葉に、イルスは耳を傾けた。自分がそんなことを考えていると、初めて知った。誰ともこんな話をしたことがなかった。師匠にも、誰にも、自分自身にさえ、話したことがない。  ヨランダがイルスの顔を上げさせ、黒い空虚な目で見つめてきた。 「可哀想に(アルティラーナ)」  ヨランダが、うつろな表情のまま呟いた。イルスは、ほんの少しの距離でも、この女から離れているのに、耐えられないような気がした。しかし、ヨランダはそんなイルスの心に気づかない様子で、やんわりとイルスを押しのけると、ふたたび上の空で月を仰ぐ。 「シュレーを許してやってくれ。あいつも死にたくないんだ。おんなじなんだよ。お前も、俺も、あいつも、同じだ。誰だって死にたくないんだ」 「それを押しとおしたければ、私を殺すがいい」  ヨランダは淡々と言う。イルスはなにも答えられず、その代わりに、目の前にあるヨランダの手を握った。それに目を落とし、ヨランダが指を絡めてきた。触れ合った女の指は、しっとりと心地よく、冷ややかだった。 「…ひとりで逝くのがいやなら、俺が一緒にいってやってもいい」  うな垂れて、イルスは言った。イルスは、自分は頭がおかしくなったのだと思った。もし、ヨランダが、ではそうしてくれと答えてきたらどうするのか、この女の望むまま、ほんとうに一緒に死んでやるのかを、自分がまるで考えていないのが分かっていた。 「そんなことは、お前の女(ウエラ)に言ってやれ」  ヨランダが手を離そうとするのが苦痛で、イルスは冷たい女の手を逃がさないように、強く握りなおした。ヨランダが不思議そうに目を細め、なにかを問い掛けるように、イルスの目を見つめてきた。ヨランダがなにを思っているのか、イルスには、少しも分からなかった。その心にあるものを見ようと、イルスはまっすぐに女の目をのぞきこんだ。  ヨランダがふと、納得したような、かすかな笑みを見せた。 「お前の挑戦(ヴィーララー)を受け入れてやる」  ぽつりと答えたヨランダを、イルスは食い入るように見つめた。 「戦いだ。イルス。どちらかが敗れ去って死ぬまで、お前は私の好敵手(ウランバ)だ。アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ(汝、死を恐れるなかれ)」  ゆっくりと告げ終わると、ヨランダはイルスの唇に口付けた。枯草の匂いに似た、女の髪の甘い香りがする。イルスは目を閉じた。ヨランダの頬は冷たかったが、唇は柔らかく、温かかった。イルスは夢中で、ヨランダの背中を抱き、赤い髪を探った。  ヨランダの舌は、温かく濡れて甘い味がした。イルスはそれを、頭の奥に焼き付けた。いつまでも、この時のことを、忘れないでいられるように。イルスの心のなかにあるのは、ただ、どうやってこの女に勝とうかということだけだった。  離れているのが息苦しいような気がして、強く抱くと、ヨランダもイルスの体を抱き締めてきた。薄く目を開いて間近に見つめれば、ヨランダはまっすぐに見つめ返してきたが、女の顔はどこか上の空だった。イルスは、ヨランダが、少しも自分のことを見ていないような気がした。女の目の奥にあるのは、自分の死を見つめる、黒々とした闇だけだ。 「畜生、なにを見てるんだよ」  体を離して向き合うと、自分の心臓の音が、すぐ耳元で聞こえた。イルスはヨランダの顔を見つめた。ヨランダはゆっくりと何度がまばたきをして、イルスのほうを見たまま、首をかしげた。 「お前の顔を」  乾いた声で、ヨランダは淡々と答えてくる。 「…うそだ。お前は俺なんか見てない」  自分の言葉が低く篭って聞こえるのが無様で、イルスは苦しかった。 「そんなことはない」  ぼんやりと言い、ヨランダの手が、イルスの髪についていた小枝を摘み上げて、後ろに放り投げた。山鳥の巣の欠片だろう。 「ちゃんと俺を見ろ、お前は俺の、好敵手(ウランバ)だろ」  イルスがうめくと、ヨランダは梢を仰ぎ、短い笑い声をたてた。  胸を震わせて笑う好敵手(ウランバ)の横顔を、イルスは胸を焼く激しい焦りとともに眺めた。 「イルス、私に勝ちたかったら、もっと腕をあげな。待ってやる」  ヨランダが、自分の技を見くびっているのを感じ、イルスは悔しかった。だが、不思議と腹は立たなかった。自分のほうが弱いということを、イルスはもう知っていた。どう考えても、自分のほうが弱い。命を捨ててかかっていったところで、ヨランダの技にはかなわないような気がした。  それでも、どうしても勝ちたい。そのためになら何でもする。命の一つぐらい、この女にくれてやってもいい。  落ち着きと狂乱が、同時に心を支配した。  挑戦(ヴィーララー)は受け入れられた。好敵手(ウランバ)を見つけたのだ。  ひとたび始めれば、獲物を撃ち破るまで、アルマは終わらない。敗れ去って蹂躙(じゅうりん)されるか、勝者になって支配するか、ふたつにひとつだ。 「ヨランダ、お前がシュレーを殺(や)る前に、俺の剣で、お前の心臓を止めてやる」  心から湧く声で、イルスは告げた。ヨランダがイルスの顔をじっと見つめ、鮮やかな笑みを浮かべた。  その狂喜する視線の前に立ち、イルスは生まれて初めて、死(ヴィーダ)のことを忘れた。 -----------------------------------------------------------------------  1-38 : 炎 -----------------------------------------------------------------------  部屋の扉を開くと、居間の入り口の前で、灰色の目をした山エルフの執事が、イルスを見下ろしていた。小さなランプを灯しただけの暗い控えの間で、イルスは異民族の老人と向き合った。 「遅いお戻りです」  淡々と咎める口調で、執事は言った。イルスは答える言葉を思いつかず、ただ黙って老人の顔を見上げていた。 「お夜食か、なにかお飲み物をお持ちいたしますか」  老人は固い声で尋ねてきた。執事の声には愛想がなかったが、それでも、なにか今までと違う打ち解けた響きが感じられた。イルスは黙ったまま首を横に振った。  イルスはしばらく黙ったまま、老人と見詰め合っていたが、やがて、そうしている意味がないことに気づき、目をそらして部屋に入ろうとした。  すると、かすかに言いよどむ気配のあと、老人の声が追ってきた。 「本日の模擬戦闘では、陣営のご勝利、おめでとうございます」  イルスが振りかえると、老執事はにこりともせず、祝いの言葉を告げていた。 「かような逆境にあってのご勝利。将軍閣下のお力のみならず、陣営のお味方のお働きによるものと存じます。ヨアヒム・ティルマン様の御在学中もかくやと、晴れがましく拝見いたしました」  無表情に話す執事の後ろに、イルスは長い時の流れを感じた。 「…シュレーの親父を、知ってるのか」 「お仕えいたしました」  抑揚のなく答える執事の声の奥にある誇りを、イルスははっきりと感じ取っていた。 「そういえば、お前の名前は?」  イルスは向き直って、老人に尋ねた。 「ザハルと申します」  老人は相変わらずの余所余所しい声色で答えた。 「俺はイルスだ。よろしく頼むよ」  イルスが真顔で告げると、老執事ザハルは心臓を覆う仕草をして、深々と頭をさげた。そして、おもむろに居間へつづく扉を開き、イルスを中へ通した。  すれちがう時も、老人は気難しげな灰色の目で、まっすぐにイルスを見つめていた。その年老いた顔を見上げながら歩き、イルスは自分が、この執事ほどの歳まで生きることがないことを考えていた。  おそらく、自分は、この世界のことをなにも知らないままで、消えて行くのだろう。振りかえるための過去もなければ、誰かに語ってやる思い出もない。今までの自分の背後にあったのは、薄っぺらな死(ヴィーダ)への恐ればかりだ。それ以外のものなど、何一つなかった。  この執事がいつまで生きているのかは分からない。だが、この先のいつかの日に、この山エルフの老人が別の主(あるじ)に過去を語る時、自分はイルス・フォルデスに仕えたのだと誇らしげに言ってもらえるような、立派な男になれるだろうかと、イルスはぼんやりと考えた。  ただなにもせず漠然と生きて、人知れず無駄に死んでいくような者が、誰かの誇りになれるだろうか。そんな自分を、誰かが憶えていてくれるだろうか。与えられた時をあっという間に食い尽くし、砂の上の文様が満ち潮の波にさらわれ、永遠にかき消されるように、あっけなくこの世界から消えて行き、それきり忘れ去られる。今の自分は、その程度のものだ。  扉の閉じる音におどかされたのか、びくりと引きつるような仕草で、暖炉の火が染める闇の向こう側から、白い細い手が長椅子の背を掴んだ。 「おかえり…」  大あくびをしながら、のろりと体を起こして、長椅子に寝そべっていたスィグルがこちらを向いた。その、大仰に暢気を装った仕草に、イルスは苦笑した。 「猊下のご機嫌はどうだった?」 「最悪さ。俺は怒鳴り散らされたよ」 「それだけ元気なら、殺したって死なないね。命汚いやつだよ」  あきれたような口調をつくって、スィグルが言う。  イルスは居間を横切り、暖炉の火を眺められる長椅子に、スィグルと並んで腰を下ろした。優雅に脚を組み、肘掛に頬杖をついている黒エルフの少年の美貌の横顔に、ゆらゆらと踊る火影がうつっている。 「明日、シェルがシュレーを朝飯に誘うっていってた。やつに料理を教えるんだ。お前も一緒にこいよ。うまいもの食わせてやるぜ」  イルスは自分の膝にひじをつき、炎を見つめる自分の頬を支えた。 「悪いんだけどさ、僕は、何を食べても味がわからないんだ。森の虜囚だったころからずっとそうで、今も治らないんだよ。多分ね…良くないものを食べたんで、罰があたったんだよね。イルス、君、ほんとは気づいてなかったかい?」  ぼんやりと響く声で、スィグルが説明しているのを、イルスはただ揺れる炎を見つめて聞いていた。 「だったら余計にいいんじゃないか。シュレーが最初につくるもんなんて、どうせ不味いに決まってる。そんなもん食ってやれるのは、お前ぐらいのものだ」 「僕の口はゴミ箱じゃないんだぞ」  喉を鳴らして笑いながら、スィグルが文句を言う。イルスは我知らず薄く微笑んでいた。  スィグルの笑い声が消えても、イルスはそのまま、暖炉の炎を見つめていた。黙々と薪を焼く赤い炎。燃やし尽くせば消えうせると知っていても、燃えあがるのをやめない。 「俺、死にたくないんだ。ずっと生きていたい。みっともなく足掻いて延びる命がほんの一時でも、そのために足掻く方がいいような気がする。生きてると、俺はこの一瞬のためにいるのかなって思うことがあるけど、そういう時が、その、ほんの一時のうちに起こるかもしれないだろ?」 「へえ…」  気のない風に、スィグルが相槌をうって立ちあがった。黒エルフの華奢な背中が、暖炉の前にうずくまり、白い手が、横につんであった薪の山から、2、3本の木切れをつかみとって、無造作に投げ込んでいく。スィグルが金属の火掻き忙で炎をつつくと、暖炉の火は、新しい命を得たように、ふたたびめらめらと勢い良く燃えあがった。  あの女の髪の色だ。イルスは目を細めて、陶然と炎の色を見つめた。 「実は僕も、それを君に教えてやろうかと思ってたんだよ」  すとんと長椅子に腰を下ろして、スィグルはまた脚を組んだ。  ちらりと横目で相棒を見やると、黒エルフの金色の目が、じっとこちらを見ているのと出会う。 「ひとがせっかく、いつか勿体ぶって恩着せがましく話してやろうと思って、すごく楽しみにしてたっていうのに、君はほんと、気の利かないやつだね、イルス」  にこりともせずに、スィグルが言った。イルスは思わず、にやりと笑った。それを見て、スィグルはこらえきれないというように、にやりと笑い返してきた。 「シェルを許してやれ」 「それとこれとは、話がべつだよ」 「へえ? どれとどれが、別の話なんだよ」 「うるさいな。君はほんとに、無礼で、がさつで、気の利かない海エルフだね」  頬杖をついて微笑みながら、スィグルは無理に眉間に皺を寄せ、むつかしい顔を作って見せている。 「シュレーが死んだ方が、俺たちには都合がいいんじゃないかって、シェルが言ってたぞ。お前、それでも、シュレーを助けてやるのか?」 「ああ? あのウスノロの坊やに言われるまで、そんなことも気づいてなかったの? イルス、君、気が利かないだけじゃなくて、頭も悪いんじゃないのかい」  くすくすと笑い声をたてて、スィグルか眠そうに肘掛にもたれ、暖かい炎のゆらめきに体を向ける。 「いいね。助けてやろうじゃないか。みっともなく死にぞこなって、ぶるぶる震えてみせるがいいよ。ほんのお慈悲で力になってやってもいいさ。あいつは僕が、ちょっとしたお情けで助けてやったんだって、生きてる限り毎日大声で自慢してやるよ」  腹の底から搾り出すような、ひそかな声で、スィグルが独り言のように呟いた。イルスは薄く笑って、その横顔を見つめた。 「スィグル、お前は立派な男だ」  イルスが誉めると、スィグルはぎょっとしたように振り向き、そして、虚をつかれた無表情になった。やがて、沈黙にしずんだスィグルの顔を、じわりとした作り笑いが覆い尽くした。 「やっぱりさ、イルスは頭が悪いよね…。そんなこと、君以外の誰も思ってないよ」  笑いながら言うスィグルの声は、震えていた。 「言ってやらないと分からないみたいだから、親切で教えてやるけど、僕はね、このまま生きてても恥をさらすばっかりで、あんまり惨めだっていうんで、故郷を追い出されたんだ。誰が人質になるかくじ引きで決めたのは本当だけど、あの箱のなかにはさ…もともと、僕の名前を書いたくじしか入ってなかったんだ」  イルスは驚いて、スィグルの顔を見つめた。すると、スィグルはいかにも楽しそうに聞こえる、緊張した笑い声をたてた。 「本当だよ。僕はね、見たんだよ。前の夜に、こっそりね。弟の名前を書いたくじを盗もうと思ったんだ。そしたら……僕とスフィルの名前のしか、はいってなかったんだ。…僕の弟、森にいる時から頭がおかしいんだ。すっかり狂っちゃってさ、あいつ、自分の名前も書けないし、手掴みでものを食うんだよ。そんなになってるのに、あいつ、毎日ちゃんとものを食いやがる。ぜんぜん死なないんだよ。腹がへったら僕を呼んで泣きわめくんだ……いくら、ここで死ぬだけでいいっていっても、そんなやつが来たら、部族の恥さらしだろ。だからさ、くじの残りの半分も、全部僕の名前に書き換えてやったんだよ」  いかにも可笑しい話をするように、スィグルは陽気な声を出している。イルスは目を細め、黙ってそれを聞いた。 「父上は最後の慈悲で、僕に、ここで部族のために死んで、名誉を取り戻す機会をくれたんだよね。だから僕は、君と違って、ここで部族のために死なないといけないんだ。そうでもしないと、父上の面目がまるつぶれじゃないか。そうだろ?」  歪んだ微笑で顔をくずして、スィグルは言いよどんだ。 「でも、僕も死にたくない。生きたまま帰りたいよ、タンジールへ。僕はさ、タンジールにいた頃、リューズ・スィノニムの再来だって言われてたんだ。神童だって。いつだって、父上の一番の自慢だったんだよ。すごいだろ。僕は君と違って頭もいいし、この通り、容姿も端麗。魔法だって誰より強くて上手い。アンフィバロウ家の誇りある血筋に見合った気位だって、ちゃんとあったよ。僕に言わせりゃ、他のやつらなんて、みんな馬鹿で低能で、度胸も誇りもない弱虫だった。リューズ・スィノニムの息子だって名乗れるほどの価値なんてないよ。ごみ屑みたいなもんだったのさ」  微笑みながら言うスィグルの顔は、いかにも誇らしげで、晴れ晴れとしていた。イルスには、それが、ひどく哀れに思えた。 「でも今は、僕が屑だ。戦なんて起こらなきゃよかった。いつまでもずっと、父上の自慢の息子でいたかったよ」  ため息のような笑い声をたてて、スィグルは炎に目を向けた。薄笑いしたままの華奢な横顔を、イルスは眺めた。 「父上父上って、お前はそればっかりか? 餓鬼じゃねえんだぞ。親父のことなんか知るかよ。俺は俺だ。あの野郎とは関係ねぇよ」  イルスは気負って言い、スィグルの頭を小突いた。不安げなまま、スィグルは文句も言わず、苦しげに笑い声をたてた。 「イルス、あのさ…」  笑いながら、スィグルは上擦った声で言った。 「今じゃないけど、また、いつか、僕の話を聞いてよ。この同盟が終わったら、きっと僕は死んでて、君は生き延びてるだろうと思うから、僕が森で何を見たのか、僕の代わりに、憶えておいてよ。今は無理だけど、そのうち話すから…」  笑いの張りついたスィグルの顔を、イルスは見つめた。 「お前…俺より先に死ぬつもりでいるのか」  イルスがぽつりと尋ねると、スィグルが困ったように押し黙った。 「アルティラーナ・アフラ・ウィー(お前も可哀想だ)」  イルスが母国語で呟くと、スィグルは混乱した顔をした。だが、黒エルフの少年は、彼の金色の目でまんじりともせずイルスを見つめるばかりで、なにも問いただそうとはしなかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-39 : 女狐の陰謀 -----------------------------------------------------------------------  山の夜にはもはや、夏の終わる気配がする。暖炉の火が心地よい。  火に半身をさらして立ち、ヨランダは長椅子にくつろぐ高貴な女主人を見守っていた。  豪華な絹とレースをまとい、素足になって火にあたっている山エルフ族の正妃は、長椅子にけだるげに身を横たえ、片目の侍女たちがひとりひとり毒見をした銀の杯を受け取り、葡萄酒の香りに目を細めている。  あるじの前で、火にあたるなど普通なら考えられない。しかし、正妃はヨランダにこの場所に立っているように命じた。あの高貴な血の女がなにを考えているのやら、さっぱりわからない。しかし、ヨランダは客のいう事に逆らう気はなかった。 「アルフ・オルファン、そなた敗北したようじゃな」  葡萄酒に口をつける気配もなく、正妃は末席に立たせた息子に、ちらりと流し目をくれた。  アルフ・オルファン。山エルフ族の継承者だ。ヨランダは型どおりの情報を反芻しながら、うつむいて立っている身なりのいい少年を、やや離れた場所からゆっくりと眺めた。  金髪の子供は叱りつけられるのを怯えている犬のように、哀れに震えていた。ヨランダは、山の部族の継承者は、母親が怖いのだろうと読んだ。額に締めた白銀の飾りも、これでは台無しだ。 「あれは……奇襲のためです、母上。義兄上(あにうえ)は卑怯な戦法を……」 「そなたの口は言い訳をするためにあるのかえ、アルフ」  取りつくしまもない冷たい声で、正妃はぴしゃりと言い、アルフ・オルファンの言葉をさえぎった。弁明を呑み込み、少年が拳を握るのが薄闇の中にもはっきりとわかる。 「どのような理由であれ、敗北は敗北。わたくしはそなたの軍旗が半旗として掲げられているのを見ました。これがまことの戦であれば、あの旗のもとには、そなたの首があったろう。だらしなくも、この母に屍(むくろ)をさらして、そなた、さぞかし誇らしかろう」  言い終えながら、正妃は優雅な哄笑で喉をふるわせた。ヨランダには、正妃が本当に面白がっているように見えた。 「母上…」  ふるえる声で、アルフが応える。あの言われようでは、申し開きのしようもないだろう。たかが遊びの戦でしくじっただけではないか。ヨランダはあきれた気分で、高貴な親子のやりとりを眺めた。 「死ねばそれまでじゃ、アルフ。そなたがなぜ勝てなかったのか、母に申してみよ」 「それは…」  オルファンは口篭もる。 「長子ではないからじゃ」  ぴしゃりと叱り付ける口調で言う母の言葉に、オルファンがぎょっとしたように深刻な顔をする。 「母上、違います。多勢(たぜい)に慢心し、力が及びませんでした…今後はもっと努力いたします」  言い返す息子の言葉は、思いの他強かった。一歩前に進み出た息子に、正妃は閉じたままの扇をつきつけて、厳しく脚止めした。 「いくばくかの努力など、お血筋の前にはなんの意味もありませぬ。そなたは正統な世継ぎではない。この部族の継承者のお血筋は、ヨアヒム様のものじゃ。そなたのお父上は……ヨアヒム様がお戻りになるまでの、代用にすぎぬ。そのお子である、そなたもじゃ」  有無を言わせぬ強い口調で、正妃はオルファンを責める。  ヨアヒム・ティルマンとは、山エルフ族のもとの継承者で、すでに死んだ男のはずだ。死人が帰ってくるはずはない。  ヨランダはため息をついて、自分のそばの炎を見下ろした。 「そなたに正統な継承者になっていただくため、ブラン・アムリネス猊下には世を去っていただかねばならぬ」  重苦しい息をついて、正妃の声が、いまいましげに言う。 「母上、神殿種を暗殺するなど、お止めください。もしそれが神殿の怒りに触れたら……部族にどんな咎(とが)が及ぶか、お考えになってください」  少年の声が言い終える前に、扇がなにかに叩き付けられる音が聞こえた。 「情けなや、なんと弱気なことを! そなたはやはり、ハルペグ殿のお子じゃ。用心深いばかりで、覇気がない…せめて族長位に恥じぬ威厳と誇りを身につけよ!!」  子供が息をのむのを、ヨランダは片耳でだけ聞いていた。  哀れなことだ。母親に愛されていない。自分が血を流して生んだ子を、こうも悪し様に罵る母を、ヨランダは初めて見た。高貴な連中の考えることに、なっとくがいったことはない。こういった連中は、たいていどこか狂っていて、その狂気を金に変え、毒殺師を雇うのだ。  アルフ・オルファンは押し黙り、応える気配がない。ヨランダはゆっくりと顔をあげ、ふたたび、うつむいて震える少年の姿を眺めた。  確かに威厳はないかもしれぬ。ヨランダは淡々とした気分で、ひ弱な子供を見た。だが、生まれつき威厳のある者など、そうそういるものでもあるまい。だいいち、地上で最初の味方がこれでは、自信の持ちようもないではないか。 「アルフ、そなた、よそ者に臣下の礼をとる姿を恥ずかしげもなくさらそうというのか……不甲斐ない、なんという無能な…いっそ死んでくださったほうが母への面目が立とうぞ」  銀杯をきつく握り締めて、正妃は震える息子に、厳しく告げた。そして、ふと、秘密を隠し持った少女のような、可憐な忍び笑いをもらす。 「ハルペグ殿もじゃ……」  笑いながらひとりごちる母親の声をきき、継承者がはじかれたように顔をあげた。 「母上……父上のご体調がすぐれないのは、何者かが父上に毒を盛っているせいという噂を聞きました。まさか……母上……」 「まさか……なんじゃ?」  唇を笑いの形にゆがめて、正妃がゆっくりと問い掛ける。 「……悪い噂です、母上。ちがうと聞かせてください」  跪いて、少年は母親の豪華な裳裾にとりすがった。楽しげな笑い声とともに、正妃のよく手入れされた少女のような足が、息子の膝を押し返す。 「大事ない」  にっこりと正妃は微笑んだ。 「ハルペグ殿が亡くなっても、そなたが力をつけるまで、戦はなかろう。そなたが立派な大人になるまで、神聖神殿が、同盟によってそなたを守ってくださる。一日でも早う一人前におなりになるよう、今はせいぜい勉学に励まれよ」  呆然と立ちあがり、あとずさるオルファンを、正妃は期待をこめた目で見上げている。オルファンはどこか遠くを見つめ、かすかに震えていた。 「ふふふ…心強いであろう、オルファン。神殿の天使様方が、そなたの後ろ盾じゃ。この母の尽力ぞ。地上で、これにまさる後見人があろうか。リューズ・スィノニムなど、恐るに足らず。海辺の者どもも然り、同盟が用済みになるまで彼奴らの子を囲っておいて、いずれ決戦の暁には、膾(なます)に刻んで送り返してやろうぞ。よい気味だこと。その日が来るのが楽しみじゃ」  うっとりと言い、正妃は杯に唇を寄せた。 「母上……父上を殺すおつもりなのですか。なぜそんなことをする必要があるのですか!」  葡萄酒を楽しむのを遮られて、正妃は露骨に不満げな顔をした。じろりと酒盃越しの上目遣いで息子を睨みつけ、正妃は声を低くした。 「わからぬのか。そなたは、お父上に裏切られたのですよ。ハルペグ殿は、我らの領土も、族長位も、なにもかも、あのふしだらな女の子に、くれてやるお積もりなのじゃ。そなた、その額冠(ティアラ)を、あのしたり顔の小僧に奪われる屈辱に耐えようというのか!」  激昂する正妃の声に、アルフ・オルファンがたじろぐ。 「父上は部族の行く末を心配なさったのです。きっと、ブラン・アムリネス猊下が、神殿の力を傘に着て、父上を脅したにちがいありませ……」 「愚か者!」  容赦のない正妃の叫びが、アルフ・オルファンの言葉を食い破った。 「そなたは愚かじゃ。お黙りなさい。愚か者の言うことなど、聞きとうない。そなたがもっと、才気煥発であれば、わたくしの気苦労も、いくらかは少なくてすんだろうに」  醜いものでも目にしたように、正妃は息子から目をそむけて、うめいた。女は本当に苦しそうに見えた。 「母上…」 「目障りじゃ、おさがり!!」  悲鳴のような声で言い、正妃は酒盃の中の葡萄酒を息子の顔に浴びせた。  アルフ・オルファンは呆然としている。ヨランダは、ゆっくりと顔をぬぐう少年の仕草を、伏目がちに見守った。  アルフ・オルファンは結局それ以上は母親になにも言わず、軽く作法通りの礼をとって、その場から去ろうとした。自分の前を歩いていく少年を、ヨランダはじっと目で追った。  へりくだる素振りを見せないヨランダに、アルフは気分を害したようだった。行きすぎようとして足をとめる少年の背中を、ヨランダは横目で見た。 「無礼者…なんだその態度は……」  声の変わりきっていない少年の言葉に、ヨランダは眉を動かした。くるりと振りかえって、アルフがヨランダの顔を睨みつける。少年の目には、やり場のない怒りが溢れかえっていた。  ヨランダは黙ったまま、少年の顔をみつめた。アルフ・オルファンはいくらか、ヨランダより背が高いようだった。だが、体格ばかり良くても、結局は子供だ。醒めた目で、ヨランダはアルフと見詰め合った。  アルフが腕をふりあげ、自分を殴ろうとするのがわかったが、ヨランダは避けないでいてやった。無傷のほうの頬が成り、火のなかに倒れそうになる自分の体を、ヨランダは暖炉の飾り枠を掴んでおしとどめた。  深い息をついて、アルフ・オルファンは憤然と立ち去っていった。  頬はひりひりと痛んだが、たいしたことではない。ヨランダは退屈した気分のまま、薄ぐらい室内に目を戻した。 「ヨランダ」  顔をしかめて、正妃がこちらに両腕をさしのべてきた。側へ来いという意味だと悟って、ヨランダは女主人のくつろぐ長椅子に歩み寄り、毛足の長い敷物の上に跪いた。金を払っている者には恭順の姿勢を見せろと、いつも母が言っていた。そうしたほうが、仕事がうまくいくと。  ヨランダは疑いもなく、いつもそうしていた。頭を下げて見せることなど、苦にもならない。そんなことで、自分の誇りが傷つけられるとは思えなかった。 「わたしくの息子をゆるしておくれ。あれは乱暴な子じゃ」  眉間に皺を寄せて、絹の手袋を抜き取ると、正妃は跪くヨランダの頬に温かい手で触れてきた。正妃の手は、しっとりと柔らかく、とても優しかった。アルフが殴りつけた頬を確かめる正妃の顔は、実の息子に向かうときより、よほど親身に見えた。 「ハルペグ殿はアルフを甘やかしてばかり。あれにはいつも好き勝手をさせて。継承者にふさわしからぬ気弱ぶりも無能も、すべてお見逃しになる」  口惜しそうに言って、正妃は唇を噛んだ。ヨランダはただ黙って、女主人の言葉を待った。 「ヨランダ、わたくしの寝支度を手伝っておくれ」  ヨランダの頬にかかる髪を指で梳いて耳にかけ、正妃はにっこりと親しげに笑いかけてくる。ヨランダはただ黙って、頭をさげた。   * * * * * *  何重にも重ね着した豪華な衣装を侍女たち脱がせていくと、正妃の体には生々しい火傷のあとが残されていた。白い絹の下着の、大きく開いた胸元からは、赤黒く引き攣れた皮膚がのぞいている。  甘い薔薇の匂いのする香油をたらした浴槽をかき混ぜながら、ヨランダは軽い驚きとともにそれを見やった。裸になりながら、正妃は楽しげにこちらを見て、火傷のあとを見つめるヨランダに、いかにも無邪気に、にっこりと笑いかけてくる。  浴槽に横になった旅疲れした正妃の体を、ヨランダは湯に浸した海綿で拭いてやった。隻眼の娘たちが、華麗な正妃の衣装を、楽しげに眺めながら片付けていく。  自分の肩をぬぐうヨランダを振り仰ぎ、正妃は傷のある顔を向けてきた。 「ヨランダ、そなた、しくじったようじゃな。なにゆえ、猊下はお亡くなりにならぬ。神聖な骸(むくろ)を眺められるものと信じて、女の身をおして、戦場(いくさば)にまで出向いたものを」  叱責されるものと思い、ヨランダは正妃の声を待っていた。しかし、正妃は機嫌良く体を拭かれているだけで、ヨランダを怒鳴りつける気はないようだった。  わけがわからず、ヨランダはしばらくの間押し黙って、正妃の顔を見下ろした。  正妃は、苛立つ気配もなく、機嫌の良い寛いだ顔で、ヨランダの説明を待っているようだった。いつまでも黙って睨み合っているわけにもいかない。 「毒は盛りました。でも、効かないのです、奥様」  ヨランダは正妃の視線を受け止めたまま、正直に答えた。 「……解毒しておるのじゃ。もっと別の強い毒を使うがよい。金子(きんす)が欲しければ、いくらでも払わせましょう」  気前良く言う正妃に、ヨランダは形式通り頭をさげて見せた。ヨランダは、主の望むまま、深入りするのは良くないと習っていた。どんな軽い仕事でも、必ず金を支払わせろと。ちょっとした情けで、ただ働きすれば、相手は次からもそれを求めてくる。そうするわけにはいかなかった。自分が死んでも、故郷の仲間たちは、今後も食っていかねばならない。 「今回は、解毒を見越して、ふたつの毒を使いました。片方の毒を解毒することで、もう片方の毒が働くように仕組んだのです。普通なら逃れられないはず。なぜ死なないのか、私にもわかりません」  正妃が目を細める。  ヨランダは責任を感じてはいなかった。失敗したわけではない。普通ならあれで死んだはずだ。自分がやった仕事に自信があった。だから、少しも気もとがめない。 「竜(ドラグーン)が奇跡を起こしたんですわ、正妃様」  盗み聞きしていたらしい侍女たちが、口々に噂するように、正妃に話しかけてくる。  正妃が面白そうに声をたてて笑った。 「竜(ドラグーン)が嘶(いなな)くのを、わたくしも聞きましたとも。やはり尊いお血筋か……恐ろしや」  ほくそえみ、正妃がつぶやくのを、ヨランダは黙って見下ろした。やはり、なにを考えているのか、よくわからない女だ。 「ヨランダ、そなた、いかに卑しかろうとも、毒殺師と恐れられるものの誇りを見せよ。なんとしても、猊下のお命を奪うのじゃ」 「いざとなれば刺し違えましても」  ヨランダが本心から言うと、正妃は驚いたように浴槽から体を起こして、濡れた指で、ヨランダの手首をつかんだ。 「それはならぬ。猊下は病死なさるのじゃ。そうでなければ神殿への申し訳がたつまい」  見開かれた正妃の緑色の瞳は、むしろ可憐だった。その目が無垢なことに、ヨランダは不覚にも絶句した。 「…心得ました」  ヨランダが頷くと、正妃はほっとしたように微笑み、浴槽の中に体を戻した。  侍女たちが笑いさざめきながら、籠いっぱいにむしりとってきた薔薇の花びらを、浴槽の中に流し込んだ。むっとするほどの青く甘い香りに、ヨランダは一瞬目眩を感じた。ただでさえ、花(アルマ)の咲く頃には、ものの匂いを強く感じるようになっている。そこをこの濃厚な香りに襲われると、強い刺激で、ふと気が遠のくような感じがした。  正妃は子供のように楽しげに、胸元に薔薇の花をかき集めて笑っている。正妃の胸は豊かだったが、醜い火傷のあとのせいで、見る影もなかった。  ヨランダがそれを見ているのに感づき、正妃がくすくすと笑って、こちらを見た。 「…わたくしの傷がなぜできたか、そなたは知りたいか?」  浴槽の中で体をのばす正妃は、くつろいでいるように見えた。 「いいえ」  正妃の手を洗いながら、ヨランダは正直に答えた。 「ヨランダ、そなたはよい子じゃ」  微笑んで、正妃はヨランダを見つめた。 「聞いておくれ」  親しげに頼ってくる正妃の言葉に、ヨランダは何と答えたものか考えあぐね、ただ黙り込んだ。正妃はそれを、承諾したものと受け取ったようだった。 「あれはもう、ずっと昔、わたくしがまだ、ほんの乙女だったころ」  物語を語って聞かせるような夢見る口調が、女主人の口から漏れ出た。 「ヨアヒム様たちが、今は亡き、先代の族長様のお供で聖楼城(せいろうじょう)へ……。そなたたちも知っておろう。決められた年毎に、族長様は聖楼城(せいろうじょう)へお出向きになるのじゃ。あのころ、先代様はすでにご老齢で、ヨアヒム様はその継承者として、神殿の方々にお披露目されるために、お父上のお供をなさった。ヨアヒム様は、部族の継承者にふさわしい晴れがましいお姿で……とてもご立派であった。ご衣裳にも、馬鎧にも、誇らしい大角山羊(ヴォルフォス)と白山百合のご紋章が……」  うっとりと遠くを見つめる正妃の心が、どこか遠い過去へ飛んでいるのを、ヨランダは感じた。女主人はしばらく夢心地で押し黙り、そして、ふと思い出したようにヨランダの顔に目をもどした。 「わたくしもそれに同行を」  顔を輝かせて話す正妃は、本物の少女のようだった。 「わたくしは生まれたときから決められた、山の継承者のための許婚(いいなずけ)で、ヨアヒム様の妻になるお約束をしていたのじゃ。ヨアヒム様が、天使様にお会いになる時に身につけられるご衣裳には、すべてわたくしがこの手で、継承者のご紋章を刺繍してさしあげた。わたくしは不器用で…何度失敗したか知れませぬ。それでもヨアヒム様はわたくしを誉めてくださった。無口なお方であったが…とてもお優しい方、ほんの一言お言葉をいただくだけで、いつも有頂天で、わたくしは幸せでした」  幸せそうに微笑み、自分を見つめる正妃の視線をあびて、ヨランダは居心地悪く、ぎこちない微笑みを返した。  年甲斐もなく、女主人が恋に浮かれているのが見て取れた。ヨランダにはそれが恐ろしかった。何がこの女を、そうも浮き立たせるのか。その男は遠い日にすでに死に、自分はもう別の男の妻だというのに、なにをいまさら、頬を染めて話すことがあるのか。  ヨランダが動揺して正妃の目を見つめていると、きらきらと輝いていた女の目に、ふともとの暗い狂気に似た表情が立ち戻ってきた。 「でも、あの夜…聖楼城には火が……」  正妃が凍るような声で言うと、浴槽の回りで控えていた隻眼の侍女たちが怯えて、お互いに身をすりあわせた。娘達が悲しげなため息をつくのを、ヨランダは横目で見た。 「聖母様たちのお住まいの棟が火事になり、おそろしいことに」  恐怖に引きつった表情を浮かべ、正妃はヨランダの手を強く握ってきた。甘い香りに濡れた女の手は、恐怖のためか、つめたく冷え始めていた。 「ヨアヒム様は勇敢にも、炎の中から聖母様たちを救い出された。わたくしもそのお供を。この火傷も、顔の傷も、その折に受けたものじゃ」  いまだに痛む傷に触れるかのように、正妃は恐る恐る、自分の顔に指を滑らせた。目許を横切る傷は焼け爛れ、無残だった。 「あの時、お一人だけ、逃げ遅れておられた聖母様がいらして……その方をお救いするために無理をしたせいで、わたくしはこんな醜い体に…」  うつむきがちに目を見開く正妃の瞳には、浴槽を漂う深紅の薔薇がうつりこんでいる。それは、女の目の中に浮いた、血のしみのようにも見えた。 「わたくしが、見つけてさしあげなければ…あの聖母様は、おそらく、あのままお亡くなりになったろう」  ぽつりと言い、顔をあげる正妃を正視できないのか、侍女たちがこそこそと遠巻きにしていく。娘達はなにかを怖がっているように、ヨランダには思えた。  結い上げた髪に指を入れ、正妃はがたがたと身を震わせている。寒いのかと思い、ヨランダは海綿に湯をひたして、起きあがっている正妃の肩に湯を垂らしてやった。  その手を、正妃が恐ろしいほどの力で掴んできた。 「それが、あの女じゃ!!」  髪をふりほどいて叫ぶ正妃の声は、人の声とも思えない憎しみに満ちていた。ヨランダは気おされて顔をしかめ、正妃の肩から手をどかした。触れているだけで、狂気がうつりそうな気がした。 「あの泥棒猫! 乙女の顔をした淫売女っ!! あの女が、わたくしのヨアヒム様をたぶらかしたのじゃ!!」  とっさに身をひこうとするヨランダの腕をつかみ、正妃は狂ったように言い募ってきた。 「わたくしが何も知らぬ小娘と思ってッ…あの女、ヨアヒム様にふしだらな真似を……!!」  血の滲むような正妃の絶叫が、部屋のすみずみまで響き渡った。侍女たちは、部屋のすみに寄り集まって震えている。ヨランダは逃げることもできず、薄闇の中でもらんらんと光る、正妃の瞳を見つめた。 「殺しておくれ…あの女の産んだ子を。苦しませて死なせるのじゃ! わたくしが味わった苦痛のほんの一片でも、あの女に思い知らせておやり!!」  ヨランダをとらえて離さず、正妃は食い入るような目で、懇願してきた。ヨランダは言葉もなく、何度も頷いて見せた。  突然ヨランダを力任せに押し返すと、正妃は花の浮く華麗な水面を叩きはじめた。飛び散るしずくに甘い薔薇の香りがする。浴槽の側に立ち尽くしたまま、ヨランダは女主人の狂態を見守った。 「あの顔……あの顔じゃ! あの女にそっくりな、あの顔、あの目、あの唇で……わたくしを馬鹿にしてッ……!! 何度殺したところで、飽き足らぬ。顔をつぶして、生きたまま焼いてやりたい…あの女の代わりに、あの小僧に、わたくしの無念を思い知らせてやる……!! 思い知らせてやるのじゃ!!」  涙もなく、怒りに震える体で、正妃は湯の中に身をかがめ、呪いの言葉を吐き出している。 「この部族は…わたくしが守る……ヨアヒム様がお帰りになるまで、わたくしがお守りする。邪魔をするものはみな殺します、汚らわしいハルペグ殿もッ…その子も、ブラン・アムリネスも、あの女も、みんなじゃ! ヨアヒム様がもう、この世にいらっしゃらないのに、屑ばかりがのうのうと生きている……ッ、そのような間違いは、わたくしが許さぬ。ヨアヒム様がお戻りになったら、わたくしが、この手で、あの族長冠をお返しするのじゃ……きっとまた、誉めてくださる…わたくしのことを!」  湯の中握り締められ震えている正妃の手を、ヨランダは思わず握ってやっていた。この女は、狂っている。それでも、どこかに正気はある。いっそのこと、完全に狂っていれば、もう少し楽だったに違いない。目覚めたまま夢の中をさまよって、恋しい男に抱かれていることもできただろう。  震える顔をあげて、正妃はヨランダを見つめ、泣きべそをかく子供のような表情をした。 「わたくしは、ハルペグ殿のお子など、産みとうなかった…」  ヨランダの胸にすがりついて、正妃は悲鳴のようなか細い声で訴えた。 「アルティラーナ(可哀想に)…」  ヨランダは心から、そう呟いた。  母ほどの歳の女主人は、ヨランダの胸で、目を見開いて震えている。その目を見下ろして、ヨランダは思った。おそらく、この女が自分の最後の主(あるじ)だろう。 「奥様、お望みのとおりに、私は誰の命でも奪います」  ヨランダが話しかけると、正妃はひきつった息に焼け爛れた胸を震わせ、目を閉じた。 「そなただけが、頼りじゃ。よろしく頼みます。そなたも女なら、わたくしの無念を、わかっておくれ」  ヨランダは頷きかけて、戸惑った。正妃の無念は、ヨランダには分からなかった。  今まで誰にも、恋をしたことがなかったからだ。  それは、どういったものか。どんな色で、どんな香りか。危険な毒のように、赤い色をしているのか。毒草オストラの根のように、甘い味で、人の心を狂わせるのか。それとも、禁断の毒薬アルスビューラのように、うっとりする香りと美しい赤で、おびただしい血を流させるのか。  ヨランダの心に、ふと懐かしい花(アルマ)の香りが蘇った。遠い北の、さびしい故郷の野を埋め尽くす、甘い香り。あれが、恋の香りか。  同じ香りを漂わせる、歳若い好敵手(ウランバ)のことを、ヨランダは思い出した。死にたくないといって震えていた、可哀想な子供。一緒に死んでもいいと言った男の、まっすぐに自分を見つめてきた、青い瞳を。  いずれ自分が死に、花(アルマ)の咲く時期が去れば、あの子供も何もかも忘れるだろう。部族の男たちの狂乱は長くはもたない。ほんの一時だ。花が咲きはじめ、最後の花びらが散るまでの間の、幻のようなものだ。  次の花(アルマ)が咲くとき、おそらく自分は死に絶えてこの世にいない。あの青い目は、今とは違う、本物の男になって、別の好敵手(ウランバ)を追っている。あるいは、別の女(ウエラ)を。  そう思ったとき、ヨランダは、自分の心の奥底の、ひどく乾いたところに、かすかな震えが走るのを感じた。  連れて行けばいい。花(アルマ)が散る前に、すべて刈り取って、連れていけばいいのだ。 「奥様、私にすべて、お任せを」  言い終えると、ヨランダは押し黙った。そして、震える女主人の肩を、いつまでも抱いてやった。               ---- 第2幕 おわり ---- _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2004 TEAR DROP. 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