=================================== カルテット 第3幕 =================================== -----------------------------------------------------------------------  1-40 : 虚しき翼 -----------------------------------------------------------------------  チチチ、チチテュウ、と小鳥が鳴いた。  わずかな窓の隙間から聞こえてくるその声に耳をすまして、アルミナは微笑んだ。  風を入れるために細く開くことができるだけの窓からは、アルミナの小さな手さえ出すこともできない。窓辺にかけられた渡り鳥の巣の中で、丸くふくれて鳴いている小鳥に触れてみたかったが、アルミナはそれをガラスごしに眺めているしかなかった。  外から流れ込んでくる風が、いつのまにか冷たくなっている。窓辺に運んだ椅子に座り、アルミナは外の風景をぼんやりと眺めた。暮れかけた空が淡く茜色に染まりはじめ、小窓から見える尖塔の、沢山の小さい窓には、ひとつ、またひとつと灯りがともりだしている。  もうじきこの部屋にも、世話係の神官オルハが灯りを運んでくるだろう。そう思って、アルミナはそわそわした。  窓の外をよく見たくて、いつもすっぽりと被っていなければならない重たいヴェールを、肩口にはらいおとし、顔をさらしていたからだ。誰もいない部屋でのことといっても、オルハが見とがめれば、いつものように、はしたないとお説教されるにちがいない。  でも、一日中ヴェールをかぶっているのは憂鬱で、息がつまる。  結んだ肩までの金髪をほどき、窓から風を入れて、髪を涼風になびかせると、気持ちがよかった。アルミナは時々こうやって、こっそりと決まりごとを破り、窓辺に座っていた。世話係のオルハが目をはなす、ほんの短い時間だけのことだ。  チチチ、とまた小鳥が鳴いた。アルミナは手袋をはずして、ガラスごしに小鳥に触れてみた。  冷たくなめらかなガラスの感触がするだけで、やはり、小鳥のからだの温かさは感じられなかった。  ふっくらした柔らかそうな羽根でおおわれた白い鳥が、じっとこちらを見つめるのを、アルミナはさびしく思った。  親鳥が窓辺にやってきて、せっせと小枝をはこび始めたのは、夏のはじめの頃だった。  重たい青銅の窓枠で囲まれた、質素な小窓のむこうがわに、アルミナの両手ほどの大きさのこじんまりとした巣ができあがると、渡り鳥はそこに卵を5個産んだ。  5個も。  こんな小さな鳥のからだのどこに、そんなに沢山の卵が入っていたのだろうかと驚いて、アルミナはオルハに尋ねてみた。するとオルハは、そういうものですよと、したり顔で言い、不思議がるアルミナには取り合わなかった。  親鳥は交代で卵を抱き、しばらくすると、ちいさな白いヒナが丸い巣にぎっしりとひしめき、可愛い声で餌をねだるようになった。  どうしても自分も餌をやってみたくて、アルミナはオルハが一日に2度運んできてくれる食事から、こっそりとパンのかけらを残しておくようにした。  まだオルハがやってこない朝早くに起きて、窓辺にパンのかけらを押し出してやると、はじめは警戒していた親鳥も、そのうちそれが食べ物だと理解したようで、アルミナからの贈り物を受け取るようになった。  窓辺から拾っていったパンを、親鳥が飲み下してヒナに与えるのを眺めていると、アルミナはいつも、なにか胸の奥がこそばゆいような、幸せな気持ちになった。  だからそのことを、シュレーへの手紙に書いた。  窓の外のことに興味を持つことも、戒律で禁じられている。ふしだらだと嫌われるかもしれないと不安だったが、思いきって話してみたのだ。  何日かすると、天秤の紋章をつけた返事がやってきた。  どきどきする胸をしずめながら、アルミナは手紙の鑞封(ろうふう)を丁寧にはがし、何度も深呼吸してから、中味を読んだ。整然と並ぶいつもの字、彼女の夫、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスの文字。  アルミナは膝の上にある手紙の束のなかから、丁寧に折り畳んだ一通を取り出した。どれも同じ紙に書かれているが、何度も読み返すうちに、アルミナはどの手紙に何が書いてあったのか、なんとなく見分けられるようになっていた。 「その鳥はおそらく、ア・ユ・ルヴァンという名前で、大陸の中央部から南端のあいだを渡る種類です。夏のはじめにこの正神殿のあたりまで到達して繁殖し、夏の終わりには南にむかって飛び立ちます。空を飛びながら空中の虫をとらえて飛び続け、南の越冬地につくまで、ほとんど地上に降りない、飛翔力の強い品種です。一度の産卵で5個から7個の卵を産みます。卵の色は産卵地の砂と良く似た淡い茶色でーーー」  アルミナは小さく声に出して、シュレーからの手紙を読みかえしてみた。今ではもう、内容のほとんどを憶えてしまっている。その手紙には延々と、ア・ユ・ルヴァンという鳥についての説明が、事細かに書かれているだけだった。  シュレーからの返事はいつもそのようなものだ。  正神殿内部の事細かな案内や、その歴史、その由来などについて、事実が延々と書かれているだけで、彼の言葉がほとんどない。今までに受け取った手紙をそらんじるだけで、一度も行ったことのない、シュレーたち正神官の住む区画を迷わずに歩き回ることができるのではないかと思えるほどの綿密さだ。  そういう意味のない内容のものを、わざわざ書き送ってくることと、無味乾燥な内容のなかにちらりとあらわれる彼の本音が、いつもなぜか、アルミナの心を温めてくれた。 「猊下は、わたくしになにを仰りたかったのかしら」  手紙を膝の上に置いて、アルミナは窓の外の小鳥に話しかけてみた。鳥は相変わらず風に吹かれて、小さな羽をそよがせ、黒く澄んだ丸い目で、アルミナを見上げている。  黄色いくちばしを開いて、小鳥はチチテュウ、と親鳥に甘えるようなさえずり方をした。  アルミナは、かすかな息をもらし、また微笑んだ。  巣の中に残ったヒナは、もうこの一羽だけだった。  夏が終わりはじめるころに、親鳥が何度巣立ちをうながしても、この一羽だけが飛ぶのを怖がって動こうとせず、いつまでも愚図っていた。  冷たい風が吹きはじめると、親鳥もとうとう愛想をつかした。この一羽だけを後に残し、南への長い旅へと飛び立っていってしまったのだ。  それからしばらくの間、餌を運んでくれる者がいなくなったのが分からないのか、残された一羽は、窓辺で必死にさえずり、親鳥を呼びつづけた。  アルミナは、小鳥が飢えるのではないかと心配で、なるべく毎日、パンのかけらを置いてやるようにした。  はじめは怖がっていた鳥も、ひもじさに耐えかねるのか、今ではアルミナが差し出した食べ物を取るために、巣の中からちょこちょこと歩き出てきて、パンのかけらをついばむようになっている。  オルハは、この鳥はもうじき死ぬのだと言っている。  冬がやってくれば凍えて死ぬし、それまでに飢えて死ぬかもしれない。他の兄弟達はみな、早めに飛ぶ練習をして、親から虫の取り方や、渡りのための心得を習っていたというのに、この臆病な一羽は、いつまでも巣のなかでじっとしているだけで、なにひとつ学んでこなかった。  罪深い鳥なのです、とオルハは説教めいた口調で説明し、鳥に餌をやらないようにとアルミナに忠告した。 「猊下は、あなたはちゃんと飛べるとお考えなのかもしれないわ」  身をかがめ、小鳥の目をのぞきこんで、アルミナは淡く微笑んでみせた。 「ア・ユ・ルヴァン、あなたは飛翔力の強い品種なのですって。だから今からでも、南まで飛べるに違いないわ。猊下は賢いお方なの、なんでもご存じなのよ。あなたが本当に罪深い鳥でも、猊下がそれをお許しくださるでしょう」  チチチ、と餌をねだる声で、小鳥が鳴く。アルミナは困った。  パンのかけらはもう全部食べさせてしまったし、次の食事は夕の祈りのあとで、まだ先の時刻だ。  夜に窓をあけるのは戒律違反で、見回りの神官の目を盗んで餌をやるにしても、とても勇気がいることだ。夜の闇にかくれて戒律を犯すのは、もっとも恥知らずな部類だと考えられている。アルミナも、夜にはおとなしく戒律にしたがい、決められた作法で寝床につくようにしていた。  でも今夜もひもじいままでいると、明日には鳥は死んでしまうのだろうか。どれくらい放っておかれると、この小さい命が消え失せるのか、アルミナは知らなかった。  さびしそうに鳴いている鳥を慰めるために、アルミナは小声で歌いはじめた。  祭祀のときに、ぶあつい格子の向こうから聞こえてくる美しい聖歌。アルミナはそれを何度も聞くうちに、すっかりおぼえて歌うことができるようになった。  のどに指で触れ、声が大きくなりすぎないように、アルミナは風がそよぐほどの微かな声で歌った。  夕暮れの匂う空。どこかから夕の刻限を告げる鐘の音が、いくつも聞こえてくる。目を閉じて歌うと、自分の声が体の中に満ちるようだった。誰もいなければ、喉のかぎりの声で歌えるのに。  アルミナの歌声は、こじんまりとした部屋の窓辺でだけ、かすかに漂うように流れていく。  神聖神殿では、やってはいけないことが沢山ある。歌を歌うのも戒律違反だ。  でも、朝と夕方の祈りのたびに聖堂で聞く聖歌隊の歌声に、アルミナは憧れていた。あの美しい歌声のなかに、自分も混ざりたかった。  それを言うと、オルハはお説教ではなく、本当に怒った。  聖歌隊は、神殿種のなかでも階級の低い神官のつく官職で、性別のはっきりしないものの仕事だ。アルミナのような肉体的に完全な女で、聖母として皆に尊敬されるような者が、聖歌隊に入りたいと望むなど、とんだ気狂い沙汰なのだという。  あれは下級神官にとって唯一の美しい仕事でございます、貴女様には他に、もっと美しいお役目がありましょうとオルハは怒った。  アルミナは反省した。オルハを傷つけたのだと思った。オルハも中性体(ユニ)だったからだ。  アルミナはオルハが好きだった。お説教ばかりなのは困るが、子供の頃からずっと自分の世話をしてくれた人だ。親身になってくれる、たった一人の人だ。傷つけたくない。  だからその望みは、それっきり誰にも言っていない。  もちろんシュレーへの手紙に書いたこともない。  彼が自分に取り合ってくれるのは、自分が女(ファム)で、彼が男(オム)だから、それだけのことだとアルミナは理解していた。  シュレーは親切で、心がやさしい。だから手紙の返事もくれるし、戒律をやぶってばかりいるふしだらな娘にも我慢してくれている。  でも彼は、アルミナのことを煩わしく思っている。しかたなく一緒にいてくれるだけ。  ふいに声が枯れて、アルミナは歌うのをやめた。窓から吹き込む風の音が、ひゅうひゅうと気味悪く鳴っている。  手紙の束を見下ろして、アルミナは、シュレーが自分を愛してくれているといいなと思った。  会うといつもそっけない、難しい顔をして、口をきこうともしないが、彼が自分のことを嫌っているわけではないことは、なんとなくわかる。  ただ、好きなのかどうかがわからない。尋ねてみたいと思ったことはあったが、それはとてもきけないことだった。  愛情を求めるのはふしだらだと戒律にもしるされている。戒律の命じることには、なぜ駄目なのか理解できないことが多かったが、アルミナはそれにだけは納得していた。自分が相手を好きだからといって、相手にも自分を好きになってほしいと望むのは、恥ずかしいことのような気がした。  アルミナはシュレーが好きだった。それは戒律にも違反していない。アルミナがシュレーの妻だからだ。  だが、2人が夫婦でなくなれば、自分のなかにあるこの気持ちも、ただの戒律違反のふしだらな思いに変わる。  シュレーは婚姻の解消を申し出ると言った。別れ際に言ったことはそれだけだ。大神官台下に、婚姻の解消を申し出る、貴女はもう自由だ、とそっけなく言って、それっきり。  彼がなにから自分を自由にしたのか、アルミナにはわからなかった。  その時はただ、この方はこんな声をしておられたのだなという軽い興奮と、置き去りにされた寂しさで、なにも答えられず、馬鹿な娘のようにただ黙り込んでしまった。  子供の頃から、婚姻の祭祀の時に聞いたシュレーの声を、アルミナはなんとか忘れないでいようと、毎日何度も思い返すようにしていた。でも、それから何年かたった今では、シュレーの声のほうが変わってしまっていた。  大勢のなかから自分を選んでくれた彼の気持ちも、もう変わったのかもしれない。  アルミナは切なくなって、膝のうえにあった手紙の束から一通を拾い上げ、胸に抱いた。そうしていると、遠くにいるシュレーが、いくらか自分の気持ちをわかってくれるような気がしたのだ。  小鳥が、チチチ、とまた鳴いた。  風が冷たくなってきた。  ふと見ると、あたりはもう暗くなりはじめていた。遠くにある尖塔の輪郭が夕闇に溶け、窓からもれる灯りだけが、点々と明るい。  オルハがやって来ない。  アルミナは不安になった。  いつもなら、暗くなる前に部屋に灯りを持ってきてくれるのに。  椅子にこしかけたまま 、アルミナは自分の部屋を見渡した。薄暗く、誰もいない、小さな部屋。  まだ幼い頃、眠る時間になって、オルハが灯りを吹き消しに来るのが、とても嫌だった。何も見えない暗闇のなかに、なにかとても恐いものがいるような気がして。  アルミナが怖がっているのに気付くと、オルハはいつも、アルミナ様にはブラン・アムリネス猊下がついておいでですよと言ってくれた。その言葉は不思議な力をもっていて、幼いアルミナをほっと安心させた。  そのころからいつも、不安なときはそう思うようにしている。わたくしはあの方と共にある。いつもあの方を信じて、ついていけばいいのです、と。  いつも自分が、なにかに守られているような気がした。もし暗闇のなかに何か悪いものがいても、それはアルミナに触れるまえに消えてしまう。どんなに遠く離れていても、天使が、あの少年の翼が自分を守ってくれる。だから自分はひとりになることなんてない、そんなことは、心配する必要がない。  アルミナはいつも、そう信じた。そして眠った。 「でも、もう猊下はお城にいらっしゃらないの」  声に出して呟くと、言葉は夕闇の押し寄せる部屋のなかで、いやに乾いて聞こえた。  突然、ばたんと乱暴な音をたてて小部屋の扉が開かれた。  アルミナは驚いて立ち上がり、悲鳴をこらえて口を覆った。  膝のうえにあった手紙の束がばさばさと流れ落ち、椅子が倒れた。アルミナがたじろいで後ずさったために、彼女の背におされた窓枠が閉じ、青銅のきしむ重たい音が激しく鳴った。 「アルミナ様」  息をきらせたオルハが、長い神官服の裾を乱して入ってきた。浅い皿のようなランプに点った、小さな灯りを手で覆って庇い、オルハは揺れる火にあおられるようにして照らされている。汗の浮いた、オルハの白い小太りな顔は、今までに無い深刻な表情をうかべていた。 「オルハ、どうしたの」  動揺を隠しきれず、アルミナの声は震えた。 「どうなさったのですか。ヴェールを!」  ひそめた厳しい声が飛んだ。  アルミナははっと気付いて、肩に払い落としていたヴェールをあわてて被りなおした。重たい衣の冠りものを頭に乗せ、顔の前に布を垂らすと、暗い部屋のなかは、もっと見えにくくなった。  オルハの気配をさがそうとして、アルミナははっとした。  たくさんの気配がこの部屋にやってきていた。囁きかわす翼の声が遠くのざわめきとして聞こえる。遠くを通り縋る者達や、見回りの神官たちの気配とは明らかに違う強い翼の気配。  アルミナは体の芯から緊張した。  その翼のさえずりは、男(オム)たちの声だった。まっすぐに、こっちへやってくる。  そんなはずはない。この小部屋に入れる男(オム)は、アルミナの夫である天使ブラン・アムリネスだけのはずだ。  しかしある翼は、遠くからでも聞こえる声で、誰かに囁きかけている。その声を、胸の奥で、アルミナの翼が拾い上げた。  あの女(ファム)はみなで分けよう。  独り占めするほど、けちじゃあるまい。  チチチ、チチテュウ、と鳴く鳥のこえが、ガラス越しにかすかに聞こえた。餌をねだる小鳥が、くちばしでガラスを叩いている。  いや、いや。来ないで!  アルミナの喉は、息苦しくなるほどの早い息をついた。  なぜ飛んでいかないの。翼があるのに。  ここを離れて、幸せな南の空へ、飛んで行ってしまえばいいのに。  しかし小鳥は怖じけるばかりで、いっこうに、飛び立つ気配を見せない。  人だかりが扉の向こう側に立ち止まるのがわかった。  きいっと小さな軋みを立てて、扉が開かれた。 -----------------------------------------------------------------------  1-41 : 邪 眼 -----------------------------------------------------------------------  暗闇の満ちた扉の向こうがわから、鴨居(かもい)をよけて身をかがめた純白の長身が入り込んできた。ゆっくりと厳かな動作であらわれるその姿は、たった今、闇の中から生まれ出てきているように見える。  アルミナは震えながら、どうすることもできずに、それを見守った。  男(オム)だ。  普段着のための略装とはいえ、正神官の衣装を身にまとっている。見なれた中性体(ユニ)たちの着る、下位の神官のための衣装とは違って、その白は薄闇の中でも輝くように鮮やかだった。  正神官が注意深く顔をあげ、灰色の目だけを動かして、アルミナの小部屋を見渡した。そして、彼は、窓辺にアルミナが立ち尽くしているのを、醒めた目でちらりと見つめてきた。おそろしく白いその顔には、血の通ったものの気配がしない。額の聖刻が、紙のうえにしたたった血のようだ。  灰色の目に見つめられ、アルミナは身を固くした。  オルハが短い悲鳴のような声をたて、ランプを持ったまま、床に膝をつき平伏した。浅いランプから油がこぼれ、炎がゆらいで、灯芯のこげるジジッという音が、静まり返った部屋に響いた。 「火に気をつけよ」  こぼれた油を指差し、低い声で、正神官はオルハをとがめた。絹の手袋で覆われた正神官の手は大きく、骨張っていた。  オルハが慌てて、身をかがめたままの姿勢で、ランプからこぼれた床の油をそで口でぬぐい、灯火を持って後ずさった。  それを神経質に目で追っている正神官のうしろから、次々と新しい神官服姿が部屋に入ってくる。あとから来た者がたてる、低く笑うような翼のさえずりが、アルミナを混乱させた。  どれも男(オム)だった。ぜんぶで3人。  妻となった者は塔の部屋にかくまわれ、そこには夫である男(オム)しか入ることができないはずだ。その厳格な戒律が堂々と破られている。  アルミナは無意識に、良く見えない暗い室内に、きょろきょろと目をこらしていた。 「口をきくなんて、何日ぶりだか、おぼえちゃいないよな」  笑うような声が、無遠慮に響いた。戸口の近くから、じっとこちらを見つめている灰色の目の正神官の横をすり抜けて、強いくせのある金髪の別の神官が、ぶらぶらとアルミナの部屋の中程まで入り込んできた。  天井を見上げてから、部屋の奥にある寝台に目を向け、くせ毛の神官はクスッとこえらたような笑い声をたてた。そしてにわかに、首をめぐらし、アルミナのほうに近寄ってくる。  アルミナは恐くなって、冷たい青銅の窓枠に背中を押し付けた。それ以上後ろに逃げることができないとは知っていたが、無意識にあとずさってしまうのだ。  すぐ目の前まで来た男(オム)が、見上げるような長身をかがめて、ヴェールの奥にあるアルミナの顔をのぞきこんできた。笑いを満たした男(オム)の目は、淡い青をしていた。  アルミナは緊張で失神しそうな気がした。そうすれば何も考えなくていい。そのほうが楽かもしれない。  乱れた自分の息の音を遠くに聞きながら、アルミナはひくひく痙攣する目蓋を閉じかけた。  そのとき、足下でかさりと乾いた音がした。アルミナははっとして、目の前にいる男(オム)を半ば無意識に突き飛ばしていた。床に落としてしまった手紙を、彼の足が踏んでいたのだ。アルミナの軟弱な腕では、彼を押し返すこともできなかったが、足下に目をむけた正神官は、手紙に気付き、薄く微笑んで、折り畳まれた紙束を踏んでいた足をどけた。 「ブラン・アムリネスから」  かがみこんで手紙をつまみあげ、くせ毛の神官は確認するように呟いた。床に膝をついたままの姿勢で、正神官は体をねじって後ろをふりかえり、戸口に立っている姿勢のよい2人に、ひらひらと手紙を振ってみせた。彼の手は、手袋をしていない素手だった。大きな手をしている。強い力を感じさせる男(オム)の手に、アルミナは怯えた。 「おーーーお返しください」  胸の前で握り合わせた手に力をこめて、アルミナは懇願した。軽く驚いた顔で、くせ毛の神官が上目遣いにアルミナを見上げた。 「おしゃべりな女(ファム) だ。それもブラン・アムリネスの趣味? そのほうがいいっていうのかい、真面目腐ったあいつが?」  ククッと喉の奥で笑い、穏やかな声で言って、正神官は立ち上がった。背をのばすと、彼は覆いかぶさってくるような長身で、アルミナはまた、壁ぎわで身を固くした。 「いやぁ、ちがうな。君はアムリネスの口には合わなかったらしいね。なんでも食いたい年頃のくせに、なかなかどうして、贅沢だよ、我らが末弟も。それとも、食い方を知らなかったのかなぁ、どうなの? 味見ぐらいはされたろう?」  歯を見せて笑い、正神官は青い目でまたアルミナの顔を面白そうに覗き込んできた。彼の手に握られていた一通の手紙が、支えをうしなってはらはらと舞い落ちていくのに目を向けて、アルミナは彼の視線からなんとか逃れようとした。 「ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ」  ゆっくりだが断固とした厳しい声が、軽口をたたく正神官の言葉を止めた。口元を声のない笑いで歪め、片眉をあげて、アルミナの目の前にいた正神官は、身をよじって戸口をふりかえった。 「なんですか、兄上様」 「下品な話は止せ」  無表情に、灰色の目の神官が命じた。 「なにが下品なんだ。どのあたりが? 具体的に指摘してくだされば、今後は気をつけましょう、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス」 「お前の口からもれる言葉の全てが破廉恥だ。戒律を犯している」 「たまには好きに話させてよ、声帯が錆びるじゃないか。ときどき使ってやらなきゃ具合が悪くなる。あれと同じで」  言い終えると、くせ毛の神官はおどけたように肩をすくめて、首をかしげ、灰色の目の神官に目配せをした。灰色の目の神官、ノルティエ・デュアスは、むっと不愉快そうに眉をひそめた。 「兄上のは普段からよくお使いだから平気だろうけど」  早口に付け加えられた言葉のあとの、ほんの一瞬、その場の空気がひきつるように緊張した。  ややあって、ふっ、と遠慮がちにこらえた笑いを、戸口にいたもう一人の男(オム)がたてた。 「やめなさい、アズュリエ・カフラ、兄上に不敬ですよ」 「声帯だよ、声帯。声の話さ、なにが不敬なんだよ、ん?」   アズュリエ・カフラは首をそらし、そろえた2本の指で、自分の喉を軽く叩いて示した。 「もういい、黙れ」  ため息とともに、灰色の目のノルティエ・デュアスが2人のやりとりを制した。 「ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ」 「なんでしょう」  ノルティエ・デュアスの呼び掛けに、彼の背後からおっとりと応えて、もうひとりの正神官が言った。 「女(ファム)を今夜中に雑居房にうつせるように手配を」  アルミナは、部屋の向こう側で話し合われていることの意味を、すぐには理解できなかった。だが、やがて、彼らが話しているのは、自分のことだと気付いて、思わず声をあげそうになった。 「大神官台下のご許可はいただけたのですか、兄上」 「そんなものは必要無い」  早口に言い切るノルティエ・デュアスの顔を、やや後ろから見つめ、もうひとりの神官はしばらく微笑みがちなままあらぬ方向を眺めて、押し黙っていた。そして、長い息を吸ってから、ゆっくりと目を閉じ、口を開いた。 「私はご免です」  優し気な目鼻立ちに微笑みをにおわせたまま、彼は首を振り、まっすぐな細い銀髪をゆらす。 「懲罰は兄上だけが受けてくださいますように」 「それでよい」  動揺のない声で、ノルティエ・デュアスが即答した。 「これ以上、時を無駄にするわけにはいくまい。数限られた女(ファム)だ、休み無く産ませても足りないほどなのだからな」  ちらりと灰色の視線がアルミナを見た。 「そうそう、勿体無いよ。まだちょっと半熟だけど」  アルミナのそばに立っていたアズュリエ・カフラが、急に手をのばして、ヴェールのすそをめくった。アルミナはぎょっとして、顔を見られないように、ヴェールの垂れ絹を押さえて抵抗した。 「食べられないことはない」  ヴェールの隙間から一瞬だけ見えたアズュリエ・カフラの顔は、複雑な表情を浮かべていた。彼がどこか悲しそうに見えて、アルミナはぎくりとした。 「産ませよう。健康そうだ。念のため診察してから、女(ファム)たちの雑居房に移すよ。予約待ちしてる逸材が、毎日切ながって困ってるんだ」  アルミナのヴェールから手をどけて、アズュリエ・カフラは踵をかえした。 「娘の記憶を消せ」  ノルティエ・デュアスが軽く振り返り、背後に立っている正神官、サフリア・ヴィジュレに命じた。サフリア・ヴィジュレは閉じていた目を開き、少しだけノルティエ・デュアスのほうに顔をむけはしたが、その視線は誰もいない空間に向けられていた。薄暗がりの中にいる彼の目は、みょうな色合いに見えた。黒い瞳をしているようでもあったが、どこかぼんやりと鈍い色をしており、焦点がさだまらない。  彼には何も見えていないらしいことに、アルミナは気付いた。盲目なのだ。 「ブラン・アムリネスのことについてですか?」  サフリア・ヴィジュレはやはり微笑んだまま、さらりと尋ねた。アルミナは息を飲んで押し殺した悲鳴をあげた。 「全てだ、この部屋のことも」  厳めしい無表情のまま、ノルティエ・デュアスは手袋をはめた指を組み合わせ、絹と肌との馴染みを直した。 「女(ファム)は愚かだ。必要のない過去など憶えさせておくと、ろくなことにならない」  ノルティエ・デュアスは言って、部屋を出て行こうとした。 「あ、あの、猊下、お待ちください」  部屋のすみに控えていた世話係のオルハが、意を決したように進み出て、ノルティエ・デュアスに平伏した。 「私はアルミナ様にお仕えしております者です。私もアルミナ様のおそばに置いていただけましょうか」  引き止められたことを不愉快に思っている様子で、ノルティエ・デュアスが振り返った。 「雑居房に住んでよいのは女(ファム)だけだ。そなたは中性体(ユニ)であろう」 「ですが、猊下、私はアルミナ様が御幼少の頃より身の回りのお世話をしてまいりました。アルミナ様はお一人では何もおできになりません」  神官服の喪裾に取り付こうとするオルハを、ノルティエ・デュアスは押し退けた。 「汚らわしい中性体(ユニ)が、私に触るな!!」  一喝するノルティエ・デュアスの声は、その場の者たちが息をのむほど鋭かった。緊張がさめはじめるころ、アルミナは自分のすぐそばで、アズュリエ・カフラがひゅうと風のような音をたてる微かな口笛を吹いたのを聞いた。 「この部屋は封鎖する。そなたも廃棄処分だ。房にこもり、身辺を整え、転生を祈りつつ時を待て」  呆然としたオルハの顔にそれだけ言い捨てて、ノルティエ・デュアスは部屋を出ていった。  アルミナは、ふたたび闇のなかに沈んでいったノルティエ・デュアスが消えたあたりと、床に倒れ込むようにして座っているオルハを、交互にせわしなく見つめた。  さっき、あの人はなんと言ったのだろう。  廃棄処分。それはどういう意味の言葉で、オルハになにをすると言っているのだろう。  わからない。  わからない、と繰り返しつつ、アルミナは泣き出してしまった。  なにが始まろうとしているのか、わからない。  突然吹き出した激しい嗚咽をこらえて、アルミナは床にしゃがみ込んだ。誰もが黙っている室内で、自分がしゃくりあげる声だけが、異質なもののようにはっきりと聞こえる。 「オルハーーーー」  引きつる喉から、アルミナは親しい神官の名を呼んだ。 「オルハ」  ヴェールごしに、アルミナは自分の顔を手でおおった。片方の手は、鳥に触れようとして手袋を脱いだままの素手だった。部屋に居残っている男(オム)たちに、素手を見られる。戒律違反だ。なんてふしだらな娘だと、みな驚き呆れるだろう。  ブラン・アムリネス猊下は、ふしだらなわたくしをお許しにならなかったのだわ。だからわたくしをお見捨てになったのです。  胸に湧いた自分の言葉に、アルミナはこらえきれずに声をあげて泣いた。胸の奥に隠した翼が熱く疼く。  オルハが近寄ってきて、子供のころによくそうしてくれたように、アルミナの背中を優しくさすってくれた。 「アルミナ様、なにも御心配なさらなくとも大丈夫です。ブラン・アムリネス猊下が貴女様を守ってくださいます」  疲れ切った小声で、オルハがやんわりと呟いた。 「猊下は慈悲深いお方、アルミナ様をお見捨てになったりするはずがありません。そのような愚かなことを仰っていると、今度お会いしたとき、猊下に笑われますよ。みっともない泣き顔をお見せしないで、いつも微笑んでいなくてはいけません。女(ファム)が感情をあらわにするなど、はしたない、戒律違反ですよ」  背中を撫でるオルハの手が、声が、小刻みに震えているのが感じられた。  アルミナはオルハの神官服の袖を握って、声をあげ、ただひたすら激しく泣いた。  泣き止めば、自分もオルハもどこか恐ろしい場所へつれていかれるのだと思ったのだ。泣き続けていれば、いつまでもオルハは自分を慰めるために、そばにいてくれるのではないかと思えた。そのためなら、一生ここで泣き続けていたいような気がしたのだ。 「ブラン・アムリネスは守ってなんかくれっこないさ」  突然のおどけた声に、アルミナもオルハも虚をつかれ、そばに立っていたアズュリエ・カフラを見上げた。その様子がおかしかったとでもいうのか、彼は肩をすくめ、声をたてて笑った。 「あいつは天使じゃないんだしさ。知らないの? 偽物なんだよねぇ。いやぁ、どうかな。少なくとも本物じゃないな」  皮肉めかして言うアズュリエ・カフラからアルミナを守ろうとするように、オルハはものも言わず、2人の間に立ちはだかった。 「さあ行こう、今夜中に移せとノルティエ・デュアスからの命令だ」  アズュリエ・カフラが小部屋の扉を指差し、外に出るように促した。  アルミナは何度も首を横に振って、オルハの腕にとりすがった。  青い目を細め、アズュリエ・カフラは困ったように笑うと、戸口にいるサフリア・ヴィジュレに助けを求める視線を向けた。  それが見えるわけもないはずなのに、サフリア・ヴィジュレは目を閉じたまま、応えるように笑った。 「心配いりません、悲しいことは、すぐに忘れさせてあげます」 「それ自体は痛くも痒くもないから、心配することないよ。ただちょっと、翌日あたりに最悪の気分になるけどさぁ。ヴィジュレの技術的な問題だと思うんだよな。そこんとこは、どうなんだ、秘密?」  含み笑いしながら、アズュリエ・カフラが尋ねた。  サフリア・ヴィジュレが閉じていた目を開いた。  アルミナは驚いて、思わず泣くのを忘れた。  サフリアの瞳がまっすぐにこちらを向いた。なにかの光のいたずらで、サフリア・ヴィジュレの反面にだけ、淡い明かりがあたった。青白い光の帯は月明かりだろう。もう月がのぼったのだ。  虚空を見つめて笑うサフリア・ヴィジュレの瞳は、血のように真っ赤だった。まるで、白眼のなかに丸い血の染みが浮いたよう。その視線には、おそろしい呪いが染み込んでいるように思えた。 「やさしくしますよ、なるべく壊さないように」  慈愛にみちた微笑みを浮かべ、盲目の天使が告げた。  チチチ、チチテュウ、と小鳥が鳴いた。いなくなった保護者に餌をねだる、幼い甘い声で。 -----------------------------------------------------------------------  1-42 : 忘れざる想い ----------------------------------------------------------------------- 「怖がることないよ」  こちらに背を向けて、水盆で手を洗っている男(オム)の背中を、アルミナは狭い寝台の上で縮こまり、震えながら見つめた。濡れた両手を胸の前にだらんと垂らした姿で、男(オム)は振り返った。  細かく波打つくせのある髪は、あかるく濃い金色をしており、遠目にこちらを見つめる目は、淡い青。  アズュリエ・カフラと呼ばれていた正神官だ。  その名前が本当に彼のものなのだとしたら、彼は天使だ。ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ。  アルミナは、目の前にいる男(オム)が天使の一員だなど、とても信じられない気持ちだった。  恐い人。恐い恐い恐い、恐い人。  小部屋にやってきた男(オム)たちはみんな、アルミナを恐ろしい目で見ていた。そして訳の分からない恐ろしい話をして、アルミナを無理矢理、城のどこかにある別の場所に連れていった。  どこをどう歩かされたのか、アルミナはおぼえていなかった。腕をつかまれて引き立てられる恐ろしさで、頭が朦朧としてしまったのだ。生まれてから今まで、今日ほど乱暴に扱われたことはなかった。  男(オム)たちはアルミナがとても追いつけないような大股で歩き、なにも説明することなく、いくつもの階段をのぼらせ、小さな何も無い部屋にとじこめたり、また連れ出したりした。  そして行き着いた先がここ。  がらんとした何も無い白い部屋には、小さな寝台だけがあり、煌々と明かりが点されていた。  ヴェールも外套も手袋もない、肌着姿にされて、寝台に乗せられ、青い目の男(オム)と2人っきり取り残されてしまった。  恐い。  アルミナは首をかしげて苦笑している男(オム)の顔を、震えながら見つめた。まばたきをするのが恐ろしかった。一瞬でも目をとじたら、その間になにかとても嫌なことが起こりそうな気がして。 「怖がることないったら。そんなにビクビクされたら、かえってその気になるじゃないか」  くすくすと笑い声をたてて、男(オム)は無遠慮に近付いてきた。寝台の足下に腰をおろした彼を避けるため、アルミナは壁ぎわまで精一杯逃げた。素足になったつま先を肌着のスカートの中に隠し、膝を抱き寄せて、つめたい白い壁にぴったりとすり寄る。  アルミナのほうを見て、アズュリエ・カフラは笑いを失い、眉間に皺を作って、うんざりと言いたげなため息をついた。 「おい。なんなら本当に、腰抜けのアムリネスの尻拭いをしてやってもいいんだぜ。何度も寝たはずの女(ファム)が未だに未使用だなんてバレたら、あいつだってゴミ箱いきだ。まあ、もっとも、その前にあいつのほうが逃げ出しちまったけどさぁ」  厳しい声に、アルミナはびくりとしてアズュリエ・カフラの顔を見上げた。 「医師(ドクトル)だ、わかるな?」  自分の胸を指で叩いて、アズュリエ・カフラはアルミナをさとすように言った。  塔の小部屋にいたときと、彼の話す雰囲気が違っている。アルミナは、きょろきょろと彷徨う視線をアズュリエ・カフラに向けた。 「雑居房については知ってる?」  いくらか穏やかな声で聞かれたこともあって、アルミナは少しだけ彼の言葉に聞く耳を持った。小刻みに首を横に振ってみせると、アズュリエ・カフラは納得したように、何度か小さくうなずきかえしてきた。 「女(ファム)ばかりが集団で生活している場所のことだよ。正神殿のなかに何ケ所かある。君はこれから、そこへいって暮らすわけ。集団生活の基本はなにか知ってる?」  アルミナはその場所を想像しようとしたが、うまく思い描くことができなかった。不安になってアルミナがうつむくと、アズュリエ・カフラが、困ったなと言いたげにクスリと笑い声を作った。 「感染症を持ち込まないことさ。つまり、うつる病気だよ、わかる?」  アルミナは、首を横に振った。 「そうか。まぁいいよ。君が特に重大な感染症を持って無いことは、定例の検査でわかってるから。感染症についての検診は形式的なものなんだ。もっと重要なのは、君がすでに妊娠してないかどうかについてさ」  寝台の足下で足を組み、アズュリエ・カフラは深くため息をついた。 「ま、それについても、調べるまでもないと思ってるんだけどさ」  アズュリエ・カフラは伏し目がちになって、ちらりとアルミナの腹のあたりを見た。アルミナは無意識に、自分の下腹に手をやった。リネンの布越しに触れる自分の体は温かかった。  調べる。どうやって?  アルミナは上目づかいにアズュリエ・カフラを見つめた。すると彼は苦笑して、天井を見上げ、アルミナの視線から逃れた。 「規則だから。規則、わかる? 戒律だよ。そうしなきゃ駄目だって決まってんの、ずっと昔から」  言いながら、アズュリエ・カフラはくくく、と喉の奥で笑い声をたてた。 「誰が決めたか知ってる?」  首を傾けていたずらっぽく尋ねてくるアズュリエ・カフラの顔を見つめ、胸の前で合わせた手をもっと体に引き付けるようにしてから、アルミナは首を横に振った。 「俺だ」  いかにもおかしそうに、アズュリエ・カフラは笑いながら言った。 「正確には、今の体に転生する前の、その前の、さらに前の、ずーーっとずぅーーーーっと前の俺だ。俺は天使だからさ、前世の記憶を持ってるんだよ、わかるだろ?」  アルミナに手を差し伸べるような仕種をして、アズュリエ・カフラはおどけたような言い方をした。  その話はアルミナにも理解できた。天使は延々と転生しつづける。そしてその前の一生の記憶を持ったまま生まれてくる。原初の竜が卵を抱いていたころに生きていた天使と、今生きている天使は、まったくの同一人物なのだ。  アルミナははじめて、ゆっくりと頷いた。にっこりと、アズュリエ・カフラが笑った。 「少しは落ち着いた?」  いままでとは逆のほうに首をかしげ直して、アズュリエ・カフラが尋ねてきた。アルミナは、答えあぐねた。天使がまた、苦笑した。 「まあいいよ。わかるわけないもんな。俺だって信じないよ、自分が天使じゃなきゃさ。信じられっこないってのが普通さ。ブラン・アムリネスもそうだったろ? ん? 信じてなかったよな、そうだろ?」  頷けというような口調で言われて、アルミナは動揺した。  シュレーがそんな話をしていたことはなかった。  もっとも、彼はアルミナと口をきくのをいやがっていたので、限られた一緒にいる時間にも、彼の翼が語りかけてくることもなく、声を使って話してくることもない。手紙の中でそれについて書かれていなければ、アルミナがシュレーの考えを知る方法はなにもなかった。  それにしたって、アルミナがきかなければ、彼はなにも答えない。聞いたところで、返事が返ってくるとは限らないのだ。  アルミナが黙り込み、なにも答えないでいると、アズュリエ・カフラが不機嫌そうに顔をしかめた。 「知らないの? それとも、俺を信用してないだけかい?」  アルミナは何と答えたらよいかわからず、泣き出したい気持ちになった。 「あっ、ごめん、ごめんよ。そんな顔しないでくれよ。参っちゃうな」  慌てたように腰を浮かしかけて、アズュリエ・カフラは早口に言った。そして、顔をこすり、ため息をついてまた腰をおろした。 「目を醒ましてる女の子と話すのは、苦手だよ。俺の患者はだいたい、眠ってる女(ファム)でね」  くせ毛を手櫛で梳き上げ、アズュリエ・カフラはしばらくだまっていた。  アルミナは、つんと鼻をさすつめたい匂いを感じながら、壁にぴったりとくっついて彼が再び話すのを待った。はじめ冷たかった白い壁は、アルミナの体温を吸って、生暖かくなりはじめていた。 「きみに幾つか聞きたいことがある。ここでは、口をきいても戒律違反にはならないから、素直に知ってるとおりのことを答えてくれ。そしたら君にも、それ相応の秘密を教えてあげるよ」  まじめな顔で、アズュリエ・カフラは言った。  アルミナは少しためらってから、怖ず怖ずと頷いた。男(オム)のいうことに逆らってはならないという戒律のためもあったが、アズュリエ・カフラがふざけているようには見えなかったことが、いちばんアルミナを納得させた。 「ブラン・アムリネスと、君のことさ」  唇をなめ、言葉を選ぶように、アズュリエ・カフラはゆっくりと質問してきた。 「君は、アムリネスとは、そうだな、なんていうかーーーーーいや、まず違う方向から質問しようか」  言い淀んでから、アズュリエ・カフラは早口に話を変えた。 「君は彼と何度か一緒に寝たよね、でも妊娠したことがない。それは、どうして? 君には毎月ちゃんと、生理がきてるよね。だから君が妊娠しないのは、君のせいじゃないんだ。ということは、どういうことか、俺が言いたいことは、何となくでもわかる?」  アルミナは、黙ったまま、うつむいた。  この人はなにを知りたがっているのかしら。 「君は、その、処女だよね。見りゃわかるよ、なんとなく。アムリネスはどうして、君との間に子供を作れなかったの? つまり、あいつには生殖能力がなかったかどうかってことさ。それとも、君が嫌がったの? どっち?」  眉間に皺を寄せて、アズュリエ・カフラは声を低くした。  アルミナは驚いて、ぽかんとした。なんと答えればいいのか、まるでわからず、そうするしかなかったのだ。 「アムリネスが嫌いだった? 彼が神殿種じゃないのが、気持ち悪かった? だから彼を、拒否してきたわけ?」  アズュリエ・カフラの言葉が終わる前から、アルミナは何度も首を横に振ってみせた。 「ちがうんだね?」  低い声で、天使は念押しをした。 「じゃあ、やっぱり、君の意志は関係なくて、アムリネスのほうの問題なんだ」  独り言のように言って、アズュリエ・カフラはアルミナから目をそらした。  寝台から腰をあげて、アズュリエ・カフラは頭をかき、部屋のなかを歩き回った。  アルミナは、その薄く苛立った様子を、じっと見守った。  やがて彼は何かを決意したような気配で、アルミナのほうに近寄ってきた。寝台のすみまで逃げてしまっていたアルミナは、自分の顔を覗き込んでくる男(オム)を避けようがなかった。 「きみたち女(ファム)の数がとても少ないことは知ってるね」  ひそめた声で、アズュリエ・カフラは説明した。 「神殿種の男(オム)の大半は、繁殖しないまま死ぬんだ。選び抜かれた優秀な一握りだけが、繁殖の権利を持ってるんだよ。それも、若くて健康な一時期だけ。それ以外の者は、生まれてきた甲斐もなく、一世代で血を絶やすことになる。健康じゃなかったり、能力的に劣るものは特にそう。じつは、かくいう俺もそうでね、生まれつき駄目なんだよ、子種がとても薄いの」  にやりと悪戯っぽく笑って、アズュリエ・カフラはアルミナの顔を間近でじろじろと見つめた。 「そう、だから厳密にいうと、俺は限り無く中性体(ユニ)に近いわけ。だけどこうして、今も立派な正神官様でいられるのはね、俺が天使だからなんだよ、天使アズュリエ・カフラの記憶を持って生まれたからさ。憶えてるのよ、俺はね、原初の竜(ドラグーン)のことをさーーーー」  沈黙に吸い取られるように、アズュリエ・カフラの言葉が消えた。  鼻をさす、薬くさい匂いのする手がのびてきて、アルミナの髪に触れた。アルミナの体は緊張のために硬直してしまい、引きつった喉が、かすかな息の音をたてただけだった。  間近でみると、アズュリエ・カフラは不思議な顔をしていた。長い下睫で飾られた目のあたりには、細かい皺がいくつも浮いている。若いのか、歳をとっているのか、よくわからない。なんだか気味が悪い。彼の手が自分に触れるのではないかと思うと、とても恐ろしい。 「でも、ブラン・アムリネスは? あいつは、前世のことなんて何もおぼえてないみたいだよ。あいつは、もしかして、天使でもないし、男(オム)でもないんじゃないかな。だいいち彼は、神殿種ですらないよ。そんなやつを、正神殿で暮らさせるわけにはいかないよね。まして女(ファム)を独占させるなんて、ちょっとやりすぎじゃないの。いくら大神官の孫だからってさ」  つらつらと言いつのってから、アズュリエ・カフラは、アルミナの反応を待つように、言葉を切った。  アルミナが、あまりの侮辱ぶりに呆然としていると、天使は困ったように笑った。 「と、みんなは思ってる。そして、とても怒ってるんだよ。そろそろアムリネスに、自分がどの程度のやつか、よく理解させてやらないといけないんじゃないかって、ノルティエ・デュアスも真剣に考えてるようだよ」  アルミナは、小部屋にやってきた、最初の天使の顔を思い出した。陰うつで、まるですでに死んだ者のような、白い顔。オルハにひどいことを言った、いやな人。ノルティエ・デュアス。 「猊下はーーー慈悲の天使でいらっしゃいます。わたくしの夫で、男(オム)でいらっしゃいます」  精一杯の声で反論したつもりだったが、アルミナの声は震えていて、囁くような小声だった。しかしそれを聞いて、アズュリエ・カフラはにやっと笑った。 「可愛い声だ」  呟くように言って、アズュリエ・カフラは膝を抱えているアルミナの手に、長い人さし指の指先だけを触れさせた。 「小さい手だ」  すうっと指を滑らせてアルミナの手の甲を撫で、アズュリエ・カフラは言った。 「俺にも君みたいな、可愛い女(ファム)がいたらいいのになぁ。俺だったら君を、捨てていったりしない」  含み笑いして、アズュリエ・カフラは言った。震えながら見つめると、天使の顔は、どことなく寂しそうだった。 「けどアムリネスは賢いよ。逃げ出さなかったら、きっと殺されていた。仕方がなかったんだよ、彼を恨んじゃいけない。君はもともと、神殿種の女(ファム)で、彼とは関係のない存在だったんだ。たまたまなにかの偶然で、彼と縁があっただけで。それでも彼のことが好きだったんなら、アムリネスがどこかで無事に生きていられることを、喜んであげなきゃ。今ここで、それを喜んであげて」  アルミナに目配せして、アズュリエ・カフラは言った。アルミナは、きゅうに、目の前の男(オム)を恐ろしいと感じなくなった。 「今以外にはないよ。検診が終わったら、君はサフリア・ヴィジュレに記憶を調整されるし、そうなったらもう2度と、アムリネスのことを思い出さないかもしれない。彼のために祈ってやるなら、今しかない」 「猊下はなぜ、そのようなことを、わたくしに教えてくださるのですか」  かすれた小声で、アルミナは尋ねてみた。アズュリエ・カフラは薄く笑った。 「君が可愛いから」 「なぜ、ブラン・アムリネス猊下が、お命をうばわれなければならないのでございますか」  口に出すのも恐ろしいような気持ちで、アルミナは尋ねた。 「ブラン・アムリネスは死なないよ。殺されるのは宿主(ホスト)のほうさ」 「猊下のおっしゃる意味が、わかりません」  心細くなって、アルミナは自分の肌着のスカートを強く握りしめた。 「君が生きていれば、ブラン・アムリネスにはまた会えるかもしれない。もしかしたら、君がブラン・アムリネスを産む可能性だってあるんだよ、天使は何度でも転生するからね。ブラン・アムリネスが君のことまで記憶しているかどうかは保証できないけど、とにかく彼はまた転生してくるよ」  アズュリエ・カフラはもっともなことを言っていると思った。でも、アルミナは自分がまだ深い悲しみを感じてるのに気付いた。 「それでも悲しいかい?」  目を細め、アズュリエ・カフラは密やかに尋ねてきた。アルミナは動揺した。 「わたくしは、今生のブラン・アムリネス猊下にお仕えしたいのです」  口に出すとなぜか、とても悲しくなって、涙がぽたぽたと膝のうえに落ちた。アズュリエ・カフラは微笑み、アルミナの頭を撫でた。その手の温かさは、オルハのものと良く似ていた。いたわり慰めてくれる保護者の手だ。 「大神官台下も、今生の彼を惜しんでいるんだ。今の正神殿には、台下の味方はとても少ない、みんな、台下はもうじき亡くなって、ノルティエ・デュアスが大神官になると予想している。君は台下のお味方になってさしあげて」 「台下はなぜ、ブラン・アムリネス猊下をお守りくださらないのですか」 「台下は今までも、アムリネスを守ってこられたし、今後もそれは変わらない。ただ、それの邪魔をする者が大勢いるんだ。台下は偉大なお方だけども、全能じゃない。君にできることとできないことがあるように、台下にも、できないことはあるんだよ。だけど、アムリネスのためにできることをやらないような、薄情な方じゃない。君だってそうだろ?」  アルミナは頷いた。 「サフリア・ヴィジュレの忘却処理が始まったら、抵抗しないでみんな忘れるんだ。いいね? 抵抗すれば、あいつは手荒なことをする。七歳から今までの記憶を全部消すなんて、それ自体危険なことだ、君の精神が壊れるかもしれない。サフリア・ヴィジュレは本当に記憶を消しているわけじゃない、君から見えなくしてしまうだけだ、君の心のなかに、なにもかもちゃんと残ってる、だから心配しなくていいんだよ」 「でも、わたくしはブラン・アムリネス猊下のことも、オルハのことも、みんな忘れてしまうのですか?」  アズュリエ・カフラは小さく頷いて見せた。 「忘れたくありません」  アルミナは頼み込むような気持ちで言った。 「今は忘れたほうが君のためだ。本当に必要なことなら、君はまた思い出すことができるよ。本当に大切なことを忘れさせるなんてことは、誰にもできゃしないんだ、サフリア・ヴィジュレにも、ブラン・アムリネスにも、君自身だって、ぜったいに」  ジーッと低く唸る虫の声のような音が、部屋のなかに響きわたった。アルミナはビクッと体を引きつらせ、白い部屋の天井を見回した。アズュリエ・カフラは舌打ちして、ちらりと横目で背後の扉を見遣ってから、アルミナに向き直った。 「俺にも昔、好きな女(ファム)がいたんだ。何度か忘却処理を受けたけど、彼女のことはね、何度でも思い出せたし、今も忘れてないよ。だから君だってそうだ、心配いらない」 「その方は、いまどこに?」  天使の寂しそうな表情が気になって、アルミナはついそれを尋ねてしまった。アズュリエ・カフラは伏し目がちになって微笑した。 「今は、台下にお仕えする。彼女とはいずれ会える、月と星の船で」  ジーッと呼ぶ音がまた鳴り響いた。アズュリエ・カフラが扉のほうを振り返り、立ち上がろうとした。 「わたくしも猊下のことを思い出せるでしょうか」  背中を向けられて、不安でたまらない気持ちになり、アルミナが問い返すと、アズュリエ・カフラは少しだけ振り返り、にやっと笑ってみせた。  天使はつかつかと狭い部屋を横切り、扉を開けにいった。小振りな扉を開くと、部屋の外から、もうひとりの天使が入ってきた。サフリア・ヴィジュレだ。  戸口を通るためにかがめていた身を起こし、略式の神官服の裾をなおすと、サフリア・ヴィジュレはアルミナのほうに顔をむけた。煌々と明るい白い部屋のなかで見ると、サフリア・ヴィジュレの両眼が、血のような赤であることがはっきりとわかった。アルミナは、その視線の上にいるのが恐ろしく、寝台の上で身を固くした。 「ずいぶんゆっくりしていましたね、検診はもう終わったでしょう」  サフリア・ヴィジュレは、おっとりと響く声で言った。彼の目は、アルミナのほうに向けられたままだったが、こちらを見ているわけではない。自分のそばにいる、アズュリエ・カフラの気配と話しているのだ。遠目に見ていると、それがよくわかった。 「念入りに調べさせてよ、せっかくのお役得なんだからさぁ」  小部屋で聞いたような、いかにも軽薄な雰囲気に戻って、アズュリエ・カフラが応える。 「よこしまな気持ちで職務にあたるとは、感心しませんね」  ため息混じりに、サフリア・ヴィジュレが小言を言った。 「女(ファム)のスカートをめくる仕事で、よこしまな気持ちにならないほうが、不健全だと思うけどね」  軽口をたたいて、アズュリエ・カフラは笑っている。しかしアルミナのほうを見た彼の顔は、笑っていなかった。強い視線で、天使はアルミナを見つめた。  大切なことなら思い出せる、とアズュリエ・カフラは言っていた。そうでなければ忘れる、ということだ。  思い出せなければ、それは、いま失いたくないと願っていることの全てが、自分にとってはどうでもいいことだったということになるのだろうか。  アルミナは、今、自分は試されているのだと思った。  この試練を乗り越えてゆけば、また、あの無口な少年と会えるような気がした。  手紙をやりとりするだけでなく、触れれば手がとどくような、すぐそばで、彼と話してみたい。また会えたときには、なんと言えばいいのだろう。  顔をみるといつも、胸がいっぱいになって、ただ黙っているだけしかできず、彼の言葉を待っているうちに、いつも眠ってしまい、すぐに朝がきて、彼はいなくなる。いつもそれの繰り返し。  そんなふうに時を無駄にしているうちに、こんな日が来てしまった。  今度会えたら、わたくしのことを愛してくださいますかと尋ねてみようとアルミナは思った。  でもそんなことは、ばかな娘のする質問のような気もする。  あの幼い日に、彼は大勢の娘達の中から自分を選び、この女(ファム)を妻に、と言ったのだ。そして天地にかけて永遠の愛情を誓ってくれた。その日からずっと、おそろしい夜の闇のなかでも、閉じ込められた部屋の孤独のなかでも、彼はアルミナを守ってくれた。  これからも、ずっとそう。彼を信じてついていけばいい。そうすればまた会える。また会えると信じればいいのだ。そして彼への想いを消さないように。 「今夜中に雑居房に移すのでしょう。はやく始めなければ、すでに就寝の刻限を過ぎていますよ」  かすかな苛立ちをひそませた穏やかな声色で、サフリア・ヴィジュレが言い、アルミナの前に立った。  あの小鳥は今夜飛び立ったろうか、それとも、あのまま窓辺で凍えて死ぬつもりだろうか。  死なないでほしい。飛べるわ、翼があるのだもの。  アルミナは、自分を見下ろす赤い目をまっすぐに見上げた。  何も見えていないくせに、天使はいかにも優し気な顔で、アルミナと見つめあって微笑んでいた。  サフリア・ヴィジュレは神官服の肩掛けを脱ぎ、軽くうなだれるような仕種をした。彼の背中から、部屋いっぱいに広がるほどの巨大な翼があらわれる。  淡く光り、半透明に透ける翼は、真冬のガラス窓のよう。  そういえば、自分の背にも翼が。  アルミナはふいに、それを思い出した。  目の前を覆い隠すように広がった天使の翼が、アルミナを包み込んだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-43 : 石の女 -----------------------------------------------------------------------  海に張り出した岬には、白大理石で組まれた墓がある。  墓は外洋を渡る貿易船に良く似た形をしていた。  こうして眺める今も、陽光に輝く水平線にむかって進んでいく貿易船がある。岬をのぼっていく道すがら眺めると、墓石の船は、ちょうどその船団の殿(しんがり)についていると錯覚するのにちょうどよい大きさだ。  ツタの這う白い船の中には、やはり同じように白い大理石でできた、石の女が横たわって眠っている。白い墓石は、その女を海の向こうに連れてゆくための外洋船なのだ。  石の船の前に佇んで待っている初老の男をみとめて、ヘンリックは歩調を速め、岬の頂上につづく坂をのぼっていった。こじんまりとした岬には、その男のほかに誰もおらず、眼下の港の喧噪も、かすかなざわめきとして聞こえてくるばかりだ。  昼下がりの海風は生暖かい。それに乗って、さまざまな甘い花の香りが漂ってくる。香りだけでなく、風に舞う小さな 黄色の花も、くるくると踊りながら岬のふもとへと流れ去っていく。  花たちとすれ違いながら、ヘンリックは坂の終わるあたりまで、黙々と歩いた。 「息災(そくさい)かな」  ヘンリックが声をかけるのを待たずに、墓石の前で待っていた初老の男が口を聞いた。  老いはじめてなお屈強な肩と胸板。質素な短衣(チュニック)姿で、男はゆるく腕を組んだまま、のんびりとヘンリックのほうに体をむけた。 「マードック先生」  挨拶がわりに、ヘンリックは初老の男の名前を呼んだ。  剣豪マードック。若き日には、稀代の使い手として海の部族のものたちからの尊敬を集めた英雄だが、湾岸貴族たちの権力闘争に巻き込まれ、名誉も活躍の場も全て失って、片田舎の庵に引きこもって以来、その鄙(ひな)びた場所で今も暮らしている。  ヘレンの死後すぐに、ヘンリックがイルスをこの男に託したのは、彼が自分の師でもあった人物だからだ。 「お元気そうで安心しました」 「嘘をつくな。なかなかくたばらぬジジイだと悔しいのだろう」  大笑して、マードックは組んでいた腕をほどき、近くへ来いというように手招きした。  ヘンリックは薄く笑いかえして、胸の前で手を握り合わせ、マードックに礼をした。今ではもう、他の誰にも見せる必要のない恭順の礼儀が、懐かしく心地よいものに感じられた。 「ヘレン・トゥランバートルか」  目を伏せ、胸の上に両手を重ねた姿で横たわっている石の女の横顔を、マードックは感慨深そうな面持ちで見遣った。 「あれからもう10年ほども過ぎようか。哀れな、惜しいことをしたものだ。よい娘であったものをな」  しみじみと言い、マードックはしばらく押し黙る。 「いまだに孕(はら)んでおるわ」  ツタに飾られた墓石を指さして、マードックはにやりと笑いかけてきた。ヘンリックは苦笑した。  白大理石で象られた故人の姿は、死んだ時そのままに、臨月の腹をしていた。  ヘレンが毒死し、この墓を作る時になっても、ヘンリックにはまだ彼女が死んだのだということを納得できなかった。  失血のため意識が遠のいたヘレンは、しばらく眠るわ、と言い残して目をとじ、それきり二度と目を開かなかったのだ。待っていればそのうち、良く眠ったと満足げに欠伸のひとつもして、目を開くのではないかと思えた。  ヘレンを埋めなければならないと代わる代わる誰かが諭(さと)しに来ても、ヘンリックにはそれが、とんでもないこととしか思えなかった。目をさましたときに土の下にいたら、女は驚いて腹を立てるだろう。それが哀れに思えて、どうしても許す気になれなかったのだ。  埋葬後には、生身の女の代わりに、それとそっくりな石の女がここで眠っている。閉じられた石の目蓋が開いたことは一度もないし、今後もそうだろう。丸く膨らんだ腹に触れても、冷たい石の感触がするばかりで、もうじき生まれようとしていた子供の力強い胎動は、どこかになりをひそめてしまった。  自分はおかしいのだろう、と時々思う。女(ウエラ)の死を認められずに今だに逃げ続けている。 「ヘレンは次は娘を産むのだと申しておった。娘が生まれておれば、今頃、楽しみも多かったろうな」  懐かし気に呟くマードックは、どこかしら老人の気配を漂わせていた。マードックの屈強な体躯に似合わない弱気に、ヘンリックは違和感をおぼえた。 「娘がほしければ、ご自分でお作りになったらどうだ。お師匠は今だにお盛んだとか。噂に聞いておりますが」  冷やかす口調で、ヘンリックは言った。するとマードックはまた大笑した。 「儂のような爺が父親では、生まれて来る子も哀れであろう。一人前になる前に親父がくたばるわい。儂もそなたと同じで、もっぱら石の女ばかり相手にしておるのよ」  マードックのおどけた口調に、ヘンリックは思わず笑い声をたてた。石の女とは、不妊の女のことだ。  海辺のあちこちに娼館(ルパーナ)があり、そこには貧しさのために売られてきた女や、家を追われた女、戦で夫や父を失って路頭に迷った女たちが流れ着いていた。  海エルフ族の男には、結婚しない者が多く、アルマがやってきて、女が欲しくなれば、気紛れに娼館(ルパーナ)に通い、そこで子供ができれば、女ごと引き取ることもあり、子供の養育を手伝ってやることもある。子供ができなければ、そのアルマかぎりで別れて、二度と会わないこともある。  甘い匂いとともに不思議な狂乱がやってくると、理性では抑え込めないほどの強さで、好敵手(ウランバ)と女(ウエラ)が欲しくなる。アルマは女(ウエラ)が出産するまで続く。うまれてきた子の産声を聞くまで、決しておさまらないものなのだ。  ヘンリックは自分の身にそれが起こるまで、そんな馬鹿なことがあるわけがないと思っていた。そして実際にアルマの狂乱がやってくると、今度は、これがいずれは醒めるのだということが信じられなかった。  だが、いざ産屋でヘレンが産んだ最初の息子、ジン・クラヴィスがあげる盛大な産声を聞くと、干潟の汐がひくような勢いで、狂乱は醒めた。祭りのあとのような、疲れた気分が後に残るばかりで、自分がなにに酔っていたのか、まるで思い出せないほどに、あっけなく。  ヘレンは3度目のアルマを終わらせずに逝ってしまった。だから今だに狂乱が醒めないのだ。自分の子を孕んだ女(ウエラ)に執着する、非日常的な高揚感だけを残して、ヘレンは眠りつづけている。  そういった高揚感を嫌う男もいる。なにやら自分が貶(おとし)められたようで、不愉快なのだ。そういう者は娼館(ルパーナ)で、「石の女」を買う。女が孕まなけれは、アルマは煮え切らないまま漠然と去ってゆき、脳を焼く激しい執着と快感もないかわりに、不様に女(ウエラ)に振り回されることもない。  アルマに支配されると、海エルフの男は自分の女(ウエラ)の言いなりになる。場末の娼婦たちでさえ、つかまえた男には我がまま放題で、いいようにあしらっては日頃の憂さを晴している。ふだん威張り腐っている連中がしおらしく言うことをきくのが面白いのだろう。  そのように扱われるのが不本意だと思う気持ちは理解できる。マードックもおそらく、そのような一派として生きてきたのだろう。マードックには子供がなく、妻もいなかった。弟子にとったヘンリックの子供たちを、自分の孫のように思っているようだ。特に、彼の庵で育ったイルスには、格別の思い入れを持っている。  イルスにとっては、自分よりマードックのほうが、よほど父親と感じられるものだろうとヘンリックは思っていた。イルスに最初に剣を握らせたのは、自分でなくマードックだ。海の部族では、昔から、最初の剣を買い与えるのは父親の役目だと考えられている。息子は父親の太刀筋を受け継ぐものだ。  イルスが受け継いだのはヘンリックの太刀筋でなく、マードックの技。妙なものだった。当のヘンリックに本格的な剣を教えたのも、そのマードックなのだから。  族長の額冠(ティアラ)を賭けた挑戦(ヴィーララー)のために、マードックがヘンリックを鍛え上げたのだ。人々がヘンリックの技として知るものは、すべて、マードックから写し取ったものだ。そういう意味では、ヘンリックにとっても、マードックは父親のようなものなのだ。  イルスはむしろ、弟のようなものか、とヘンリックは皮肉めいた気分になった。 「そなたがなぜ、この老いぼれを海都まで呼びつけたのか、あててみせよう」  ヘンリックと目を合わせて、マードックは悪戯っぽく言った。  昔、見つめられただけで切れそうな、するどい眼光をたたえていた師の目には、老いによる隙ができていた。ヘンリックはそれを、寂しく思った。  かつて自分の好敵手(ウランバ)であり、もっとも恐ろしい相手だった、この男も老いぼれた。なんども死ぬほど痛めつけられ、そのたびに、いつか腕をあげて、この男を殺すと心に誓ったものだったが、それももう昔のことになった。 「イルスのことだ、そうであろう」  ふふんと笑う師匠に、ヘンリックはただ、頷いてみせた。 「口が重いようだのう、ヘンリック」  にやりとして、マードックはくんくんと風の匂いをかいだ。 「そなた少し匂うようだぞ。アルマか、若い連中のにぎやかなことだ」 「お師匠、イルスもそろそろだろう」 「そうかもしれぬな。だが儂の知ったことかよ。そなたが父親だろうが、息子の始末くらいそなたがつけてやるがよい」  意地悪く眉をひそめて、マードックは言い、そして陽気に笑った。ヘンリックもそれにつられて、我知らず微笑していた。 「だから好敵手(ウランバ)の都合をつけてやろうとしているんじゃないか。お師匠、トルレッキオに行ってもらえないか」 「なんと、そなた老いぼれたこの儂に、イルスの相手をせよというのか。んん?」 「爺のほうがいい。イルスが殺されると困るからな。もし間違って師匠が斬られても、今さら惜しむような命でもありますまい」  悪態をつくと、マードックはやられたというように背をそらせて豪快な笑い声をあげる。 「イルスもなかなか使うようになりおったからの」  嬉し気に、マードックは言った。どこか自慢めいたその楽しげな口調に、ヘンリックは複雑な思いがした。やはり、師匠に息子をとられたようだ。 「どうなんだ、師匠。イルスは使い物になるのかどうか、どう思っているのですか」 「ふむ」  顎に手をやって、マードックは記憶をたぐるような仕草をした。ヘンリックは微笑したまま答えを待った。 「まあまあ、といったところだのう。そなたも知っておろうが、儂は老いぼれよ。そなたを鍛えたときほどの、力はもうない。それに、儂はあれが可愛くてのう。まるで孫のように思えるのよ。儂には、イルスを仕上げるのは無理じゃ、わかっておろうが」  返答をうながされたが、ヘンリックは答えあぐねて、師匠から目をそらした。  港から銅鑼の音がきこえてきた。景気よく連打する銅の響きが、風に乗ってやってくる。貿易船を送りだすための餞(はなむけ)の音色だ。また一つの船が海を越えて行こうとしている。  外洋を乗り切れば、その先は隣大陸。ヘレンはいつも、船に乗って、そこへ行ってみたいと言っていた。  しかし女を外洋船に乗せるなど、馬鹿げた話だった。ヘンリックは一度も、それに取り合わなかった。  だが今は後悔している。乗せてやればよかった。  後になって思うと、自分はあの女に何もしてやらなかった。  なににつけても、自分はいつも後になってから、もっとこうしておけばよかったと悔いてばかりいる。そう思ってから慌てても、なにもかも後の祭りだ。  イルスのこともそうだろう。取り返しがつかなくなった今になって、手放したことを惜しく思う。  他にどうすることもできない、師匠のもとに託すのがイルスを生き延びさせる一番良い方法だと思っていたが、本当にそうだっただろうか。  権力から遠ざけることで、子供達を守れると思った。湾岸貴族たちの権力争いには凄まじいものがある。自分自身、それにうんざりと疲れきっていた。そういったものの中で、育っていくのは哀れだと思ったのだ。  だがそれも、単なる言い訳だったかもしれない。  情をうつせばそれが弱みになる。ヘレンが死んだ後、その子供たちまで、つぎつぎと死んでいくのではないかと恐ろしかった。そしてその苦痛を堪えるのが嫌だったのだ。  それが本音だろう。  情けない話だ。  ヘレンが生きていたら、なんて気の弱い男なのと笑うか、くどくどと説教をしただろう。  ヘンリックは横たわっている石の女に目をやった。ヘレンは別段説教をはじめるでもなく、しおらしく眠っている。  そういえば自分はずっと昔から、この女に笑われるのが嫌で、いいところを見せようと意地を張ってきた。強いふりをしてきた。  だが実際に強かったのは、この女のほうではなかったのか。  俺はどうしたらいいと思う、ヘレン。  自嘲めいた気持ちで、ヘンリックは心の中でだけ、石の女(ウエラ)に呼びかけた。 「すねるでない」  突然、マードックがまじめな顔をして言った。  ヘンリックはぎょっとして、師匠の老いはじめた顔を見た。 「なんと言ったのだ、お師匠」 「すねるなと言ったのだ。いい歳をして、そなたはなぜいつも、世をすねるのだ」  なげかわしそうに、マードックが悔やむ。 「しっかりせんか。そなた親になったのだぞ。この都を見てみよ、そなたが作ったのだ、自信を持て」  力強い大きな手で、ヘンリックの背を力任せに叩き、マードックは岬から臨める海都サウザスを示した。軽くむせながら、ヘンリックは眼下にひろがるこじんまりとした都市を見おろした。  小さな湾を抱え込んだ、河口の扇状地いっぱいに、きっちりと区画整理された都市がひろがっている。はりめぐらされた水路には、荷物を運ぶための小舟が忙しく行き交っている。家並みは質素でどれも似たような新しいものばかりだが、通りには人が溢れている。  そういえば、住居がたりないので、新しく土地を開墾しなければならないだろうと、家臣たちが相談してきていた。河ぞいに都市を広げるのがいいだろう。いずれは陸路も整備してやらなければ。  街には夏の終わりの緑が生い茂っている。吹き渡る海風が、繁茂したツタ植物の花を優しく刈り取って、遠くへ運んでいく。  そういえばあの花は、海の向こうの大陸からの客人が持ってきた珍しいもので、こちらの大陸での名前がまだなく、ヘレンの名前をつけてあるのだ。いまこの岬にもある、黄色い小さな花を咲かせるツタだ。  風に乗せて花と種をとばすので、いつのまにか、サウザスの町中に広がったようだ。追い立てられるように働き、族長らしくふるまううちに、10年もの時が流れたのだ。  ぼんやりと微笑みながら、小さな街だな、とヘンリックは思った。なんという小さな首都だ。 「廃都バルハイの頽廃(たいはい)を思えば、この地は爽やかだのう」  マードックがいかにも気味良さげに大声で言った。街に呼び掛けるように喚く師匠の声は、実際に街まで聞こえているかもしれない。ヘンリックは苦笑した。 「お師匠、うるさいぞ」 「黙れ黙れ、老い先短いじじいだぞ、好きに喚かせんか」 「馬鹿な。師匠は殺しても死なないような男だ」  笑い声をあげて、ヘンリックは言った。 「とんでもないことを言う弟子だ。師匠への尊敬に欠けておるわ」  さも驚いたような口調をつくって、マードックはおどけてみせている。 「そなたに稽古をつけておったころには、儂は毎晩、そなたに寝首をかかれるのではないかとビクビクしておったぞ。血の気が多いだけが取り柄の不出来な弟子だったからの。まったく弟子など持つものではないわ!」  がっしりとした腕を組み、マードックは海都を見下ろしている。 「俺もあのころは毎日、今日こそお師匠に殺されるだろうと思っていた」  腰に帯びた剣の柄に腕をあずけて、ヘンリックは、気持ちよさそうに海風を浴びている師匠の顔を眺めた。 「そうだろうとも。儂はそなたを憎んでおった。毎日、今日こそは息の根を止めると意気込んでおったものよ」  ヘンリックはぎくりとしてマードックの顔を見つめ直した。老師は薄く微笑んでいたが、その言葉は真剣なものだった。 「弟子よ、そういうものだ。儂はそなたに期待をかけておった。今まで何人かの弟子を育ててきたが、そなたは儂が手掛けたなかでも、抜群の使い手であった。そなたほどの者に出会ったのは儂の生涯最大の僥倖(ぎょうこう)というものだ。  儂はそなたに持っているものの全てをくれてやった。何食わぬ顔でそれを持っていく、若く力に溢れたそなたが憎く、恐ろしく思えたのだ」  にやあっと人の悪い笑みを満面にうかべ、マードックは動揺しているヘンリックの顔を面白そうに眺めまわした。 「そなたは儂の息子のようなもの。今ではそなたの栄光が、ただ嬉しいばかりだ。」  詩編でも歌うような、みょうな調子をつけて言い、マードックは笑った。 「イルスを恐れるな。あれはまだ、ただのヒヨっ子だ。いまこの一時は憎み合おうとも、いずれはこうして、それを喜び合う日も来よう。そなたの息子じゃ、そなたが仕上げよ」  マードックは、拳でどんとヘンリックの胸を叩いた。  マードックの右手には、昔、ヘンリックが噛み付いた痕が今も残っていた。それを見つけて、ヘンリックはわけもなく照れくさくなり、首を垂れて笑った。  激しい鍛練のすえ、剣も失い、負けをとって、本当に殺されると思ったのだ。マードックの剣を奪おうとして、その手に食らい付いた。マードックはそれでも、剣を落とさなかった。  あの頃は、どうやったら、あの男から一本とれるだろうかとそればかり考えて過ごしていた。悠然とかまえるマードックを、いつも恨みのこもった目で睨んでいた。あいつを殺す、殺す、とそればかり。  今にして考えれば、それこそが、アルマの血の狂乱だったのだ。師匠はもちろん、それを知ったうえで、ヘンリックに付き合ったのだろう。生涯最初の、本格的な好敵手(ウランバ)として。 「お師匠」  暑気で汗ばんだ首筋をぬぐいながら笑って、ヘンリックは顔をあげた。マードックは相変わらず、悠然とそこに構えていた。 「参ったか、弟子よ」  マードックは、得意げにいう。 「さあ、どうだか」  腕組みをして、ヘンリックは応えた。 「強情だのう」  ちっと舌打ちをして、マードックは顔をしかめた。ヘンリックは思わず、低い笑い声をたてた。 「トルレッキオの様子はどうなのだ。イルスは息災にしておるのか」  くだけた様子で、マードックが話を変えた。 「とりあえずは恙(つつが)無く。しかし侍従はすべて追い返されました」 「子供だけ囲おうというのか。山の者どもも慈悲のないことを」  不満げに顔をしかめ、マードックは首を振った。 「同盟は、しばらくは存続するでしょうが、それもいずれはどこかから破れるでしょう。同盟を持ちかけてきた山エルフはもちろん、リューズ・スィノニムも兵を休めている。森の動向は例のごとく謎めいています。連中がなにをきっかけに攻め込んでくるのかは、まったく分かりません。神聖神殿からの命令ということもあり、今回はおとなしく軍を退いていきましたが、森との国境は普段通り監視させています」 「守護生物(トゥラシェ)か、恐ろしいのう」  身震いして、マードックはなにかを思い出すような顔をしている。この老剣士も、若い日には森エルフとの戦線で戦ったことがあるのかもしれない。 「もし同盟が崩れるとしたら、おそらく森からの侵略によってでしょう」 「連中がやってきたら、迎撃せねばなるまいのう」 「山エルフ族は、森エルフとの正式な軍事同盟を結んでいないが、伝統的に深い仲にある。戦端が開かれれば、トルレッキオでも変化が起こるのは確実だ」  ヘンリックがため息をつき言葉をきると、マードックは深く頷いた。 「イルスを逃がさねばならぬな」 「リューズに迎えを頼んである。だが、あいつを信用するだけでは、心もとないのです」  ヘンリックは、静かに付け加えた。マードックはにやりとした。 「儂に行ってほしいのか、ヘンリック」 「頼まれてくれませんか。正式な兵を割くわけにはいかない」 「行くだけ無駄かもしれぬぞ」  マードックは含みのある声で忠告した。 「たとえ遺骸になっていても。ここに埋めてやりたい」 「いいや、弟子よ、イルスは生きたまま帰る」  ヘンリックの言葉を遮って、マードックは強く応えた。ヘンリックは微笑した。  マードックは予言の力を持っている。それが本当に魔力であるのか、それとも、この師匠独特のペテンであるのか、魔法のことは全く知らないヘンリックには、見分けようもない。  だが今は、どちらでも良い。息子が無事に戻るというのだから。  ヘンリックは、マードックの予言を信じることにした。 「出立の心づもりはしておこう。砂漠か、まあ、物珍しくてよいわ」  苦笑するマードックの顔を、ヘンリックはすまない気持ちで眺めた。 「のう、ヘレンよ、まったく、弟子などとるものではないのう!」  どちらの弟子のことを愚痴っているのか知れない口調で、マードックは墓石に文句をいった。  ヘレンが生きていた頃も、マードックはよく、こうして愚痴を聞かせていた。マードックに限らず、ヘンリックも隠れてさんざんな愚痴を垂れた。ヘレンはそういう性分の女だったのだろう。いつも誰かの愚痴を聞かされているような。  そういうとき、ヘレンはいつも、微笑みながらそれを聞き、そして言った。  心配するひまがあるなら、さっさと動いて、なんとかなさいよ。  あなたには、きっとできるわ。私のいうことを信じて、と。  愛しい、石の女。  日の光をあびて白く輝いているその姿を、ヘンリックはまぶしさに目を細め、懐かしく過ぎ去った日々と同じ、穏やかな、甘い狂乱に駆り立てられる想いで見つめた。 -----------------------------------------------------------------------  1-44 : 殺 意 -----------------------------------------------------------------------  イルスはその一夜、一向に襲ってこない眠気を待ちながら、学寮の部屋の明かりも灯さない窓辺で、退屈な時を過ごした。  一晩中開け放っていた窓からは、山の夜に冷やされた空気が、巨大な蛇がのたうつように、ひっそりと忍びこみ、静まり返った居間にとぐろを巻いて、暖炉の炎と目に見えない争いを続けていた。  故郷の海辺ではまだ、真夜中すぎの時刻でも、むっとするような熱気が街を包み込んでいるはずだ。なのにこの土地では、すでに真冬のような寒さ。遠くヘ来たのだと、イルスは改めて実感した。  夜気がかすかに肌を刺すようだったが、わざわざ開けた窓を再び閉めるのは、そこはかとなく癪にさわった。それに、昼間ひさびさに暴れまわったので、体中の筋肉が戦いの残滓に浮かれたように熱を持っている。いくらか冷やされるくらいが、ちょうどいい。  首をたおして見上げると、星々の位置も、故郷で眺めるものとは幾分違っているようだった。ここでも変わらないのは、天の北極に輝く鮮やかな星、「竜の眼(アズガン・ルー)」だけだ。  そういえば、と、イルスは思い出した。スィグルはあの星のことを、別の名で呼んでいた。なんという呼び名だったか、どうしても思い出せなかった。  ぼんやりと、異民族のつけた別の名前のことを考えながら星を見上げ、まんじりともせずに窓辺に座っていると、東のほうから淡い光が射しはじめた。  イルスは針葉樹の森のはるか上にあり、いまにも朝の光に呑まれようとしている幽かな星を見つけた。  あの星の呼び名は、明けの明星(ヨランダ)というのだ。  星は、みる間に押し寄せる朝日に追いつかれ、溶け入るように消えていった。  イルスは黙って、それを見つめていた。  そのまま白む空を見つめていると、妙なものがやって来た。朝の太陽を点々と覆い隠す、無数の白い影の群れだ。    最初の白い影は、淡い青に輝き始めた空を、真っ二つに切り裂くように現れた。  イルスはそれを、ただの目の錯覚だろうと思った。あるいは、夜明けの空にまぎれた流星でも見つけたのか。  だが、はじめ一つ二つだった白い影は、みるみる大きな群へと育っていった。短く甲高いさえずりをふりまき、群はまっしぐらに南を目指している。  鳥だ。低い唸りを立てて激しく羽ばたく鳥の群。  日の光のなかをよぎっていくものの姿を、イルスは窓から身を乗り出して確かめた。東からの朝日にまばゆく照らされ、ものすごい速さで飛び去っていく鳥たちは、まるでそれ自身が光り輝いているように、あざやかな白をしている。  行き過ぎる白い影の速度は、まともに出くわせば、体を突き抜けていくのではないかというほどの、猛烈な速さだ。いったいどんな翼で飛べば、あれほどの速さが出せるのか。  イルスはわけもなく楽しい気分になり、はるか上空から急降下したり、また飛び上がっていったりする白い小さな姿を目で追ってみた。  まるで追いつけない。  きょろきょろと目を動かしながら、イルスは思わず微笑した。  ひとつひとつの白い姿は、ほんの一瞬のうちに学院の上空を通り過ぎて行く。窓枠に腰掛け、針葉樹の鬱蒼としげる森を背に、イルスは灰色の岩肌をさらす峰々の向こうに目をこらした。朝日のさす山の向こう側から次々と生まれでるように、鳥たちの姿は尽きることなく現れる。  朝日が昇りきり、あたりが明るくなるころには、群はトルレッキオ学院の空を覆いつくすほどの大群になった。さえずる声が寄り合わさって、猛烈な騒音になっている。  上から叩き付ける音の雨だ。 「うるさくて眠れないよ!」  大声で文句を言われて、イルスは部屋の中をふりかえった。  白いリネンの寝間着を着て、長い黒髪を振り乱したままの姿で、スィグルが居間に立っている。  イルスはぽかんとして、スィグルの顔を見つめた。  昨夜、ぽつりぽつりと言葉を交わしたあと、スィグルは疲れたと言って自分の寝室に眠りにいった。そのときも、スィグルは十分にくたびれた表情をしていたが、今はあの時以上だ。イルスは相棒の白い目元に浮いた、無惨な隈(くま)を眺めた。  なにか応えたほうがよいのだろうと思ったが、一晩中黙り込んでいたせいか、適当な言葉が浮かんで来ない。 「うるさいんだよ!」  ぽかんと黙ったままでいるイルスに苛立った様子で、スィグルは一、ニ歩前に踏み出した。肩をいからせ不満げな顔をして、イルスが開けはなった窓を指さす。 「ひとが寝てるっていうのに、朝っぱらからピィピィピィピィ…いったいどうなってるんだよ!?」  本気で怒っているらしい同居人を眺めて、イルスは笑いをかみ殺した。 「丸太を枕に眠ってる山の野蛮人どもにはわからないだろうけど、僕は眠りが浅いんだよ。静かにしてくれないと眠れないんだ!!」  スィグルはそのまま、ひとしきりわめき続けた。  空を埋め尽くす鳥の声よりも、文句をいう同居人のほうが、よほどうるさい。  思いつくかぎりの暴言をひとしきり吐くと、スィグルは虚ろな目つきで居間の長椅子に横になり、丸くなって眠り込んだ。  眠れないんじゃなかったのか。  イルスは不思議に思ったが、口をきくのが面倒くさく、明け方になってやっと眠れたらしい黒エルフの少年を、そのまま放って置いてやることにした。  また一夜が明けた。また1日分、自分は死(ヴィーダ)に近づいた。  だが今日は、それを虚しいと感じない。  今日は昨日とはまた別の、今日限りの出来事が起こるに違いない。それを生きるために、この日が巡ってきたのだ。ただそれだけを見つめていれば充分だという気がした。  イルスは窓枠からひょいと飛び降り、冷えて固まった肩をほぐしながら、居間を横切って自分の寝室に着替えに向かった。  今朝は、シェルとの約束で、シュレーに料理をおしえてやることになっている。  昨夜の癇癪を思い出すと、シュレーがおとなしく付いてくるのかどうか怪しいものだ。  だが、腹を立ててわめき散らすような天使なら、朝になって腹を空かすのも人並みだろう。生きているかぎり、人は飯を食わねばならない。  居間から出る扉の取っ手に手をかけたまま、イルスは長椅子で眠っているスィグルをふりかえった。  扉の音で目をさますような、やわな眠り方には見えない。  笑い声を押し殺しながら、イルスは薄ぐらい廊下に体をすべりこませた。  着替えてシェルを迎えにいってやろう。  あの森エルフが、スィグルのように寝起きの悪いほうでなければいいが。  そう思いめぐらしながら顔を洗い、学院の制服に袖を通すと、袖が足りないような気がした。  昨日は手首を覆うところまで、絹の袖があったはずだ。腕をのばし、布地の長さを確かめてみて、イルスは首をかしげた。やはり少しばかり短いようだ。  袖が一晩で縮むとは考えにくい。イルスの腕が伸びたのだ。  体が熱い。  イルスはぼんやりと思った。  全身の関節が軋むような感覚がある。体に力がみなぎっている。何か別のものに作り替えられているような気分だ。  鈍い痛みをそこはかとなく感じるが、いやな感覚ではなかった。  喉が乾き、腹が減っているが、まる一夜、一睡もしていないとは信じられないほど、気分が良かった。  髪を濡らし、手櫛で撫でつけると、かすかに甘い花のような匂いが感じられた。故郷の海辺でかいだのと、同じ匂い。アルマの芳香だ。  自分は大人になろうとしている。  額冠(ティアラ)の位置を確かめるために鏡を見つめると、期待していたよりも子供っぽい顔の自分が見つめ返してきた。イルスは首をかしげ、自分の目をのぞき込んだ。青い瞳は故郷の海の色と同じだった。そこには迷いが感じられない。  好敵手(ウランバ)を見つけたからだ、とイルスは思った。  不足なものは何もない。恐ろしいものも、何もなかった。同盟のことも、父より優れた剣士になることも、故郷にのこしてきた諸々の物思いも、なにもかも全てがどうでも良かった。挑戦(ヴィーララー)は受け入れられた。あとはどちらがより強いかを、確かめればいいだけだ。  戦いに敗れて命を奪われることを想像しても、イルスは恐怖を感じなかった。命がけで戦うことを思うと、ただひたすら血が騒いだ。敗れ去って殺されるとしても、自分に勝る技量によって蹂躙されるなら本望だろう。  一片の悔いもないところまで戦い尽くせば、そのことを自分は誇りに思うだろう。好敵手(ウランバ)の剣の速さと鋭さを思うと、胸の奥が焼けただれるような熱い想いがした。利き腕の指に痺れるような陶酔が生まれる。  剣を帯びる前に、イルスは懐かしい故郷の文様で飾りたてられた鞘から、愛用の長剣を引き抜いてみた。指になじむ柄の感覚が快い。重い刀身は、青白く鈍い光をたたえた銀色の水面のようだ。  だが、刃にはいくらか刃こぼれがあった。  使い古してなまくらになった剣を鍛え治すために、鍛冶師を探さねばならない。学院にもちゃんと、鍛冶師を擁した炉があるだろうか。  一突きで心臓を刺し貫くほどの、鋭い切っ先が必要だ。  好敵手(ウランバ)の息の根を止めるために。  イルスはこれまでの人生で、自分の剣で人を傷つけたいと思ったことは一度もなかった。剣の技を鍛え、部族の勇者と認められるほどの使い手になりたいとは常日頃望んできたが、それは誰かを傷つけるためではない。むしろ何も傷つけないように、気をくばってきたように思える。  だが今は違う。イルスは、これまでなら自分でも不愉快に思ったにちがいない感覚を、ごく自然なものとして受け入れていた。剣を握る利き腕に受ける、獲物の心臓を突く手応え。今まで一度も味わったことのないそれを、イルスは欲しがっていた。  死(ヴィーダ)にあらがう気力もなく、身をゆだねようとする異民族の女の心臓を。  あの女が見つめているのは、死(ヴィーダ)だけだ。イルスを間近にしていても、ヨランダは凍り付くような死(ヴィーダ)の暗黒の瞳と、うっとりと見つめあっていた。  死を恐れながら、それに向かって歩いていくヨランダの足どりは、まったく淀みがないように思えた。暗い世界の果てを目指して、まっしぐらに歩いている。  その女を引き留めて、振り向かせ、ひと思いに。  剣を勢い良く鞘にもどすと、金属のこすれあう硬質な鞘鳴りが聞こえた。鍔(つば)があげるカチンという音色を聞き、イルスは軽くため息をついた。  ヨランダがどこにいるのかすら知らない。  自分は馬鹿だ、とイルスは微笑した。  そして、シェルを迎えにいくために、自分の部屋を出ていった。   -----------------------------------------------------------------------  1-45 : 懺 悔  ----------------------------------------------------------------------- 「昨夜(きのう)は、すみませんでした」  イルスと並んで学寮の廊下を歩きながら、シェルは済まなそうにうつむき、丁寧な口調でそう言った。  シェルはトルレッキオ学院の制服を身につけて、長い金髪を束ねもせずに背に垂らしている。イルスが部屋に迎えにいったときには、シェルはもう起き出していて、興奮した面持ちで窓の外を眺めていた。  スィグルとは違って、シェルの寝起きはじゅうぶんに良いようだ。  いささか良すぎる。  挨拶を交わすまでにも、シェルはカワセミのようによく喋った。  生返事をするイルスを相手に、ひとしきり窓辺で眺めた空の異変について語ると、シェルははっとしたように沈黙し、そういえばシュレーと朝食を作る約束なのだったと言った。  イルスがあきれて、そうだと応えると、シェルはきゅうにイルスを急かして、部屋を出発したのだ。  相変わらず、妙なやつだった。  苦笑しているイルスを、シェルは心底済まなそうな顔で見上げてくる。たぶん、シェルは自分がなぜ笑われているのか、よくわかっていないに違い無い。 「あの後、卵を探してくれたんですよね。僕、お礼より先に関係ない話ばっかりして、ほんとに済みません。無神経ですよね」  気がねしているふうな視線を、シェルはイルスに送ってきた。イルスに追いつくために、シェルは心なしか早足で歩いているようだ。 「べつにいいさ。お前に礼を言われないといけないのかどうか、よくわからないし。それにどうせ、一晩中探してたわけでもないんだ」 「生きてる卵は、やっぱり見つかりませんでしたか」  納得しているような気配で、シェルは残念そうに確かめた。 「見つからなかった」  暗い夜の森と、赤々と燃える松明の火が、イルスの脳裏をよぎって消えた。  炎の中に、一瞬だけ、女の赤い髪が見えたような気がした。  まぼろしだ。  それと気付いていたが、いつの間にかイルスの心はそれを追いかけていた。  汝、死を恐れるなかれ(アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ)と、懐かしい言葉で囁く、女の赤い唇。赤黒く透けた、まがまがしい竜の涙。美しい横顔。恐ろしい切っ先。低く押し殺した甘い声、甘い息。朝日に消える明けの明星(ヨランダ)…。  ぼんやりしているイルスが、不機嫌なのだとでも思ったのか、シェルがますます落ちつきのない仕草をする。 「いいんです、イルスが悪いんじゃないですから。仕方がなかったんです」  大慌てで、シェルは手を降り、早口になった。 「僕、生き物が好きなんです。だから死ぬと可哀想に思えて……。でも、サンビが卵を食べるのは仕方がないですよ。僕だって食べるし、そういうものですよね。時期が早いですから、鳥たちはまた産卵すると思います。へんなことに付きあわせちゃって、ごめんなさい。あとで考えてみたら、べつに、僕ひとりで行けばいいことでした」  イルスは反省しているらしいシェルが可笑しく、笑いを隠すために口元を手で覆った。  話から気をそらしたことを済まなく思い、イルスは気持ちを入れ替えた。  思えば、昨夜からずっと、自分はあの女のことばかり考えている気がする。ぼんやりして見つめていたのは夜の闇ではなく、そのどこかに紛れているかもしれない、黒い瞳だったに違いない。  いつまでもぼやぼやしている場合ではない。イルスは困惑しているシェルを安心させるために、珍しく、作り笑いしてみせた。 「お前、物知りだよな」  イルスが誉めると、シェルがなぜかギョッとした。 「あ、ありがとうございます! でも僕、それぐらいしかいいところないですから」  照れているのか緊張しているのか、シェルは真面目な顔つきのまま、みるみる顔を赤くした。 「あの群れだけど…なんなんだ?」  廊下の窓を顎で示して、イルスは尋ねた。  シェルも、それに促されるように窓の外に視線を向けた。 「あれは渡り鳥です」  廊下を歩きながら、シェルは興奮した面もちで説明しはじめた。  石造りの暗い廊下に光をなげかけてくる窓からも、鳥たちの小さな影が、せわしなく鈍色の絨毯をよぎっていく。その動きは、廊下を進んでいくイルスたちの足どりよりも、はるかに速い。 「ア・ユ・ルヴァンというんです。この大陸で、最長の距離を渡る鳥ですよ!」  窓から襲ってくるさえずりの轟音にかきけされないために、シェルは大声で続けた。 「大陸の中央部から、南の海岸線ちかくまで、一気に飛んでいくんです。すごいですよね! イルスたちの住んでいるあたりにも、同じ鳥が飛来してたんじゃないですか?」  一生懸命に話しかけてくるシェルの話を、心持ち身をかがめて聞きながら、イルスは横目に、窓越しの影を見送った。すばやく動くものの気配に、わけもなく目を吸い寄せられる。それを目で追うのが楽しいのだ。 「海辺に来るときは、こんな大群じゃなかったぞ」  同じような大声で、イルスはシェルの言葉に応えた。 「群れはそのうち、いくつもの小さな群れに別れていくんです。これは、それ以前の大群です」  ぴったりと閉じられた窓のそばで、山エルフの学生たちも鳥の群を見ている。まだ朝早い時刻で、講義のために起き出すには早すぎるが、この騒音で叩き起こされ、寝直すのをあきらめた者は多いにちがいない。 「こんな大きな群れを見るのは、僕、はじめてです!」  嬉しそうに、白い顔をかすかに上気させて、シェルが言った。  妙なことで喜ぶやつだと思ったが、この耳を突く大騒ぎが、イルスにもそれなりに面白く感じられていた。 「外で朝御飯を食べたら美味しいだろうなって思ってたんですけど、これじゃ無理ですね!」  照れくさそうな顔で、シェルは言った。 「うるさいから、落ちついて話もできないですよね」 「それもそうだけど…」  頬をかきながら、イルスは窓の外の針葉樹の森に目をやった。濃い緑色の枝々に、点々と白いものが降り積もっていっている。 「鳥のクソまみれでものを食うのは、あんまりな!」  イルスの話をききながら、シェルが陽気に笑い声をたてた。 「ア・ユ・ルヴァンが一日待ってくれて良かったですよね。もし、昨日の模擬戦闘のうちに、この群れが到着してたら…」  笑いをこらえて、シェルが言い淀んだ。 「甲冑も馬もみんなクソまみれだ。竜(ドラグーン)だって、呆れて寝てたかもしれないぜ」  イルスが言うと、シェルがこらえきれなくなったふうに吹き出した。 「ライラル殿下はどんな顔したでしょうね?」 「あいつは何があっても、こう、むすっとしてるのさ」  指で眉間に皺を寄せてみせて、イルスは、いつも取り澄ましたシュレーの顔を思い出し、にやっと笑った。 「だめだめ…やめてくださいよ! 想像するじゃないですか…! そんなライラル殿下なんて、想像つくような、つかないような……」  シェルが腹を押さえて、前のめりになり笑いをこらえている。笑い上戸なやつだ。 「きっと、全然気にしないで指揮をとるんでしょうね。真面目な顔で、前衛、突撃! なんて言って……」  簡単に想像がつくような気がして、イルスは思わず吹き出しかけた。 「おはよう」  むっとした声で呼び止められて、イルスとシェルは通り過ぎかけていた扉の前に釘付けになった。振り返ると、学院の制服を着た姿で、ゆるく腕組みをして、シュレーが暗めの緑の目で、こちらを見ていた。  シェルが笑いを飲み込んで呻くのが、鳥の羽ばたきにもかき消されずに聞こえてくる。 「お…はようございます、ライラル殿下!」  とりつくろって上擦った声で、シェルが叫んだ。舐め始めたばかりの飴をうっかり丸飲みした子供のような顔をしている。イルスも煮え切らないまま笑いを押し戻して、シュレーの顔色をうかがった。  休み足りないように疲れた顔をしているが、顔色はそう悪くなかった。とても昨日死んだばかりのようには見えない。  それを言うと、余計に怒らせそうな気がしたので、イルスは注意深く口をつぐんだ。 「君たちはどこへ行くつもりだったんだ」  むすっと面白くなさそうな声で、シュレーが尋ねてきた。 「お前の部屋だ」  イルスが苦笑しながら応えると、シュレーはゆるりと腕をほどき、拳でどんとそばにあった扉を叩いた。 「だったら、ここじゃないのか」  シュレーが、いつになく尊大なふうに言う。  神殿種の血をひいていることを思えば、自分たちと口を利くだけでも、ほんとうはかなり譲っているつもりなのかもしれない。今のこういう態度や、昨夜の聞く耳のない振る舞いが、物わかりのいいように見えるこいつの、本当の姿かもしれない。  そう思うと、イルスはムッとする気にもならなかった。  部屋の前で待ってただけでも上出来だ。  こんな所で、用事もないのに突っ立っているわけがない。シェルとイルスが迎えにやってくるのを、待っていたに違いないのだ。  もっと大人っぽいやつだと思っていたが、シェルがいうように、まるっきり子供じみたところがあるのかもしれない。  助けてやれて良かった。  イルスは、昨日の自分たちの働きに、とても満足した。 「元気そうだな。思ったより丈夫なやつだ」  本心から感心して言ったつもりだったが、シュレーは面白くなさそうに眉をひそめた。 「君たちも…」  イルスとシェルを、ゆっくりと交互に見つめ、シュレーはまた腕を組み直した。 「あと2、3度転生してはどうだ。馬鹿がなおるかもしれないぞ」  薄く笑って、シュレーは穏やかに言った。 「…まだ怒ってますね」  たじろいだ小声でつぶやきながら、シェルがイルスの脇腹を肘の先で軽くつついてきた。 「だめ押しだったかな」  苦笑いして、イルスは応えた。  微笑んでいるシュレーにじっと見つめられて、シェルはしばらく押し黙っていたが、やがて押し出されるように口を開いた。 「すみません、冗談のつもりだったんです」  しおしおと意気消沈して、シェルが白状した。  機嫌をうかがうように、上目遣いに見上げてくるシェルを、シュレーはしばらく押し黙って見下ろしていたが、やがて、思いなおしたように深いため息をついた。 「マイオス、きみの冗談なんて…上品なものだ」  小さく首を振りながら言って、シュレーは組んでいた腕をほどいた。 「怒ってるわけじゃない。まだちょっと、体調が悪いだけだ」  もっともらしく言うシュレーの顔を、イルスはちらりと見た。  怒ってたくせに。  しかしイルスは、自分達に加わってきたシュレーの、いくらか気まずそうな顔に免じて、なにも言わないでいてやることにした。 「レイラスは?」  スィグルがいないのが予想外だったのか、シュレーはイルスの背後に目を走らせて、小声で尋ねてきた。 「部屋で寝てる」  イルスは簡単に答えた。 「彼も来るんだと思っていたよ」  むつかしい顔をして、シュレーはイルスと並んで歩きながら、かすかに眉間に皺を寄せた。シェルが目に見えてしゅんとする。 「僕がいるってわかってるから、誘っても来ないんじゃないですか」 「ちがう。あいつは単に寝てるだけだ。昨日の夜、寝つきが悪かったらしくて、明け方になってから眠ったんで…」 「気を遣わなくていい」  静かだが、きっぱりとした口調で、シュレーがイルスの言葉をさえぎった。 「レイラスがいくら寝汚いとしても、こんな騒音のなかで眠っていられるわけがないよ」  陰鬱な声色で、シュレーが言う。それを聞いて、シェルが俯いてしまった。 「…でも本当に寝てるんだぞ?」 「彼は私のことも気に食わないんだろう」  掠れた声で言うシュレーの言葉に、傷ついたような気配がしたので、イルスは唖然とした。  なにをそう勝手に思い込んでいるのか。そんなふうなやつだったか? 「フォルデス、…君には悪いと思ってる」  ずんずんと早足で廊下を進んでいくシュレーに追いつけずに、シェルが遅れている。待ってやれよ口をはさむこともできず、イルスはちらちらと後ろを降り返りながら、長身のシュレーについていった。 「なんというか、私は、たぶん……自分で思ってるよりずっと…」  苦しそうに言いよどんで、シュレーはいらいらと言葉を探った。 「気が短い」  汚いものでも摘むような表情で、シュレーは言った。  じろりと灰緑の目で睨みつけられて、イルスは並んで歩く距離から思わず1歩遠ざかった。 「あれからいろいろ考えたんだが…、君には謝らないといけない。怒鳴ったりして済まなかった」  視線をそらせて、シュレーはさらに早足になった。こちらに話しかけているつもりなのだろうが、まるで独り言だ。 「君たちの言うとおり、私はたぶん子供っぽいんだろう。自分ではこれでも、理性的に生きているつもりなんだが、ときどきカッとなって、思ってもいないようなことを…。ほんとうに、いやになる。なにをやっても、いつも失敗ばかりでろくなことがない。今後はこういうことがないように、注意するよ。だから私を……」  シュレーが突然立ち止まったので、イルスは彼を追い越してしまった。  あわてて振りかえると、シュレーは不機嫌そうにこちらを見ている。 「許してくれないか」  むっとしたふうに、シュレーはつっけんどんに頼んできた。  しばらく考えてから、イルスはうめいた。 「お前、まさか照れてるのか」 「私が照れちゃおかしいか」  肯定の返事を返すシュレーの顔は、完璧ともいえる不機嫌さで、イルスはしばらく、立ち尽くしたままでシュレーの表情が変わるのを待ってみた。だが、いくら待っても、シュレーは照れたような顔はしなかった。 「おかしくはないけど…そういう態度だと、怒ってるのかと思うだろ」  イルスが呆然として言うと、シュレーは、遅れてついてきたシェルのほうを、ちらりと一瞥した。 「怒ってるのは君たちのほうなんじゃないか」  横目で見咎められて、シェルはわけがわからないというふうに、イルスとシュレーを交互に見つめた。 「僕、怒ってません。なんのことですか?」 「ちょっと八つ当たりされたくらいで怒るような、狭い了見じゃないぞ」  イルスがシェルの言葉を継ぐと、シュレーはまた、不愉快そうに押し黙った。  立ち止まったまま、しばらく沈黙して、通りすがりの山エルフの学生たちを何人か見送ってから、シュレーはぽつりと口を開いた。 「レイラスは? 彼は別だろう」 「あいつも怒ってない」  イルスは保証した。  シュレーが疑わしそうにイルスを見下ろしてくる。  イルスはわけもなく焦った。疑い深いやつだ。 「本当だ。昨日の夜にあいつと話した。べつに怒ってない。お前が無事だったって聞いて、あいつも安心してたさ。お前に恩をきせて、得意になってやるって言ってた」  肩をすくめて、イルスは言葉をきった。シュレーは複雑な表情を浮かべ、また黙りこんでしまう。 「…馬鹿馬鹿しい」  かわいた声で、シュレーがぽつりと言った。 「気に病んで、損をした」  シュレーは低く呟き、顔をしかめている。  廊下の窓のすぐそばを、数10羽の白い鳥が、羽虫を争って追いかけながら騒々しく飛び去っていった。  シュレーはそれに驚いたのか、びくりと体を震わせて、窓の外に目をやった。 「うるさい鳥だ…」  ため息をついて、シュレーは廊下に目を戻した。  その、うんざりした口調からして、シュレーも明け方からの騒音で眠りを妨げられたクチかもしれない。 「マイオス、君は物知りなようだが、あの鳥の名前も知っているのか」  気まずそうに、シュレーはシェルに顔をむけた。  シェルが、ぱっと嬉しそうな笑顔になる。話を向けられたのが嬉しいのだろう。素直なやつだとイルスは思った。 「ア・ユ・ルヴァンですよ、ライラル殿下」  うきうきと話すシェルの顔を、シュレーは不思議そうに見下ろしている。 「妙な名だな」 「行ったり来たり(ア・ユ・ルヴァン)」  シェルが楽しげに繰り返した。 「この鳥たちは内陸からやって来たんです。殿下がいらした聖楼城のあたりが、この鳥の繁殖地です。殿下も、見たことあるんじゃないですか?」  少し考え込む仕草をみせてから、シュレーは窓の外に目を向け、首をふった。 「いいや、知らない。はじめて見るな」  シュレーの声はどこかしら虚ろにきこえる。 「私の部屋には窓がなかったので、聖楼城の外の景色を見たことはない」  シェルが微笑みを引っ込めるのに失敗して、あいまいな表情をした。 「窓がある部屋から外を見たりしなかったんですか」 「いいや……見ない。私は、高い場所が嫌いなんだ」  言いにくそうに、シュレーが答える。 「どうしてですか?」  あっけらかんと尋ねるシェルに、イルスは内心ため息をついた。 「怖い」  シュレーの声はひどく幽かなものだった。 「空を飛ぶものの気が知れない」  重苦しいため息と共に言葉を吐き出して、シュレーが窓から目をそむけ、再び廊下を進み始めた。 「行こう、私は空腹なんだ」  指先でイルスとシェルを差し招いて、シュレーは2人を待たずに、背中を見せた。  シェルが肩をすくめて、イルスを見上げてきた。 「この鳥を知らないなんて、神殿種はよっぽど外のことに興味がないんですね」  イルスは、シュレーが嘘をついているような気がしていた。ここまでの大群となると、まるで別のもののようだが、この鳥はありふれた生き物だ。いくら高いところが嫌いだとしても、一度も窓から外を見たことがないなんてことが、ありえるものだろうか。  しかし、人の心を読めるらしいシェルが、シュレーの信じているということは、シュレーは本当に知らないのかもしれない。イルスは釈然としなかったが、いちおう、納得しておくことにした。  どうでもいいような話だ。  この時はまだ、イルスはそう感じていた。そして何よりも、腹が減っていたのだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-46 : 支配者の食卓 -----------------------------------------------------------------------  イルスたちが向かったのは、黒大理石の床の食堂だった。  早朝であったことと、ひどい味の料理のおかげで、食堂には学生の姿がない。ほんの一杯のスープすら求める者がいないというのは、なかなかできることではない。  だが、厨房を借りようとしているイルスたちにすれば、客が1人もいないことは有り難かった。いつになく早い朝食を求めにやってくる学生たちへの奉仕で、大忙しになっている厨房を乗っ取るのは、いくら何でも忍びない。  シュレーがもっともらしく頼むと、厨房にたった1人だけいた料理人は、驚きはしたものの、暇にしている竈(かまど)を大人しく貸してくれた。シュレーが神々しい微笑を浮かべて頼んでいるものを、うかつに貸さないと答える天罰でも降るように思える。料理人も大方、そのような錯覚を感じたのだろう。  理由はどうあれ、好都合だった。  調理場には型どおり、朝食を用意するための食材が届けられていた。学院のなかで作られているらしい野菜や、卵、干した肉や魚などだ。鍋には、料理の下準備に使う濃い肉のスープ(グレービー)が沸いており、いい匂いが漂っていた。 「料理っていっても、いろいろある。今は朝だ。だから朝飯の作り方からでいいか?」  イルスは腕捲りをしながら、背後にいるシュレーに問いかけた。 「なんでもかまわない」  気のそれたふうな声で、シュレーが答えるので、イルスは不思議に思って振り返った。シュレーは竈からおろされたままになっている大鍋の中をのぞきこんでいた。遅れてついてきていたシェルが、好奇心旺盛にそれにならったところだ。 「ふつうだ…」  不可解そうに、シュレーが唸った。なんのことか分からず、イルスは、気になって自分も鍋の中を覗きにいった。  中には、野菜を煮込んだスープ(ブイヨン)が入っていた。冷めていて香りは淡いが、やはり、うまそうないい匂いがした。 「いい匂いのような気がするが、いったい、いつ不味くなるんだ。それとも、すでに不味いということか?」  顔をあげ、鍋に蓋をして、シュレーがこの世の根深い神秘についてでも議論を向けるような風情で一人ごちる。 「それは確かに不思議です」  シェルがもっともらしく頷いた。  イルスも不思議には思っていたが、それについて2人のように真剣に考える気にはならなかった。料理というものは、下手な者がつくるといつの間にか不味くなり、まともな者がつくれば、それなりに仕上がる。いつ不味くなっているのか分かるぐらいだったら、そもそも不味くなんかならない。 「これ、使えるんじゃないのかな」  イルスがなにげなく言うと、シェルとシュレーは判でついたように調子をそろえて、びくりと反応した。 「ここの料理を使うのか、やめてくれ」 「そうですよ、それじゃ自分たちで作る意味が全然ないじゃないですか」  シュレーは断固とした口調で言い、シェルは頼み込むような情けない声を出した。 「まだ味付けしてなさそうだし、大丈夫だろう。味見してみるか?」  イルスが尋ねると、2人はやはり、そろいもそろって、黙ったまま首を横に振った。首を振る回数まで、そっくり同じだった。  シェルがシュレーのマネをしているのだろうとイルスはあっけにとられながら考えた。その逆は考えにくかったからだ。見た目はまだしも、性格や立ち居振る舞いが全く違うこの2人が、同じような仕草をするのは気味が悪い。 「お前ら……真似するのはよせ」  イルスは慎重に、シュレーとシェルの両方にむかって言った。すると、シュレーはシェルを、シェルはシュレーを、訝しそうに見た。 「私は真似なんかしていないよ」 「僕は真似なんかしていません」  ぴったりと同時に言い終えてから、シュレーはしばらく押し黙り、気味悪そうにシェルを横目で見おろした。シェルがぎょっとしたように、その視線を見返した。 「……マイオス、なぜ私の真似をするんだ」 「僕、ほんとに真似なんかしてません。ただの偶然です」  自分でも気味が悪いのか、シェルは慌てた早口で弁解した。  イルスは、シェルの言うとおりだろうと思い直した。そんな下らないことをして、シェルがシュレーをからかう理由がない。 「味見は俺がするからいいよ」  そのへんに置かれていた味見用らしき器で、イルスは鍋の中のスープを一口飲んでみた。思った通り、普通の味だった。味付けをなにもしていないから、取り立ててうまくもないが、不味くもない。 「平気だろう。不味くなるのは、この後でだよ。味付けがヤバいんだ、たぶんな」  イルスが食器を濯ごうとして手おけを探すために背をむけると、どちらが先に言ったのかわからないほど同時に、ふうんと感心したふうなシュレーとシェルの声がきこえた。  イルスはそのぴったりと同じなことが不気味で、思わず振り返った。 「マイオス」  正面をむいたままの渋面で、シュレーがぽつりと言った。 「君は、まだ私の心を読んでるんじゃないのか」 「そんなことしてません……たぶん」  ちらりとシュレーの横顔を盗み見て、シェルが自信なさそうに言う。 「だったらどうして、そんなに同時に、私の真似ができるんだ」 「わかりませんけど、僕は自分が思ったとおり、ふつうに喋ったりしているだけです」  信じてもらおうと必死なのか、シェルはシュレーに力説している。 「君の感応力とかいう力は、ほんとに制御できているのかい」  心持ちシェルから距離をとって、シュレーが尋ねる。シェルは複雑そうな顔をした。 「できてるはずですけど……基本的に僕ら森エルフはお互いの心を読み合いながら生活してますから。殿下が僕を警戒せずに考えを垂れ流してれば別です」  感応力の使いこなしについて疑いを持たれるのが不名誉なのか、シェルはいくぶんスネたような口のききかたをした。シュレーが困った顔になる。 「私はふつうにものを考えてるだけだ。君がどこまで読みとれるかなんてことを意識しながら思考したりするものか。どうせ読むんだったら、私じゃなくフォルデスのを読め。そのほうが料理が上達する」  シュレーは何気なく提案したのだろうが、イルスは自分でも意外なほどギョッとした。 「やめろ、俺の心なんか読むな。お前、そんなことしてたのか!?」  イルスは動揺して、シェルから距離をとるために後ずさった。調理台の上に積んであった空鍋に手があたって、けたたましい音が鳴った。鍋が崩れ落ちないようにとっさに押さえるイルスの姿を、2人がぽかんとして見つめてくる。  他のことなら平気だが、ヨランダのことを考えていたのをシェルに読まれるのは、なぜか死ぬほど恥ずかしかった。自分でも理由はわからないが、とにかく知られたくないのだ。 「そんなに驚くことないだろう。冗談だよ、フォルデス」  シュレーが気味良さそうに微笑した。イルスはそれを、気まずい思いで見た。 「僕がイルスの心を読もうとしてないかぎり、偶然に見えたりしないです。僕のこと信じてください」  シェルが困ったように説明してきた。イルスは作り笑いして頷いた。 「フォルデス。君はマイオスに見られると都合の悪いようなことを考えてるのかい。いったい何を思索してるのか知りたいね」  冗談めかして問いただすシュレーの声は、楽しそうだった。 「うるせえ」  イルスは苛立って小声で答え、そばの作業台のカゴに盛ってあった卵を、シュレーに投げ渡した。投げ渡されたものを笑いながら受け取って、シュレーは不思議そうにそれを見た。 「卵がどうしたんだ」 「オムレツを作るから卵を割って混ぜとけ。シェルも」  卵のカゴを示して頼むと、シェルは話がそれたのが嬉しいのか、うんうんと楽しそうに頷いた。 「四人分だから、五、六個でいいぞ」 「レイラスのぶんか」  シュレーが納得したように言いながら、茶色い卵を一つ二つと手にとった。シェルがそばにあった料理用の大椀を引っぱり出してきている。そこに卵を割るつもりなのだろう。 「シュレー、念のため聞いておくけど、お前、卵くらい割れるんだろうな」  イルスが確かめると、シュレーは気を悪くしたふうに薄く顔をしかめた。 「当たり前だ。私だって卵くらいは割れるさ」  そうだろうなと思って、イルスはちょっと済まないような気分になった。そして、他の材料を見繕うために背を向けようとして、ぎくりと足を止めた。  シュレーとシェルが、大椀のなかに卵を入れるのが見えた。殻に収まったままの卵だ。イルスがそれに気付いて、あわてて振り返るのと、2人が椀の中の卵を叩き潰すのは、ほとんど同時だった。  くしゃっ、と卵がつぶれる音がした。  イルスはその瞬間、言葉もなく2人の姿を見つめた。だが、妙なのは、シュレーも驚いているらしいことだ。 「殻(カラ)はどうすればいいんでしょうか、イルス?」  透明な白身に濡れた手を椀の上に持ち上げ、シェルがにこにこと楽しそうに尋ねてきた。 「そんな馬鹿な……」  たじろいだ顔で、シュレーは大椀の中で砕けた卵を見おろし、動揺した仕草で、イルスのほうに視線を向けてきた。 「フォルデス、私は卵の割り方ぐらい知っている、本当だ」 「……だったら、なんでいきなり卵を殴ったりするんだよ」 「わからない。ぼんやりしてたら、そうするものだという気になって……」  言葉を飲み込んで、シュレーは横でにこにこしているシェルにゆっくりと視線を向けた。 「マイオス」  シェルを呼ぶシュレーの声は、答えを予想してか、ずいぶん動揺していた。 「君は、今までに卵を割ってみたことは?」 「これが初めてです」  照れくさそうに、シェルが答えた。 「……そうか」  あいまいな声で、シュレーが返事をした。急いでなにかを尋ねたいのを、なんとかこらえているような声色だ。 「君たち森エルフの感応力について幾つか質問したいのだが、いいかな」 「どうしたんですか、急に」  ぽかんとして、シェルがシュレーの顔を見上げる。 「君は、他人の心を読むだけじゃなくて、自由に操ることもできるのか」  シュレーが何を言いたいのかは、イルスにも分かった。しかし、シェルにはそれがわからないようだった。 「できませんよ、そんなこと」  笑って、シェルは答えた。 「そんなこと、やっていいわけないじゃないですか。人の心の深部には、絶対に触れてはいけないんです。表面上の意識とか、ちょっとした考えを読む程度のことでは、相手の意志を操ったりなんて、そんな大それたことはできません」  のんびりと説明しているシェルの話を聞きながら、シュレーがだんだん微笑を失った。 「君の言ってることは、ずいぶん複雑だな。つまりそれは、やらないようにしているだけで、やろうと思えば可能だということか」  問いつめる口調を隠せなくなっているシュレーを、シェルはやっと、動揺した顔を見上げた。 「殿下、人に対してそんなことをするのは、罪深いことです」 「君は今、私にそれをやっていると思う」  きっぱりと言うシュレーの言葉を聞いて、シェルはあんぐりと口を開き、返答の言葉をさがしている様子だ。結局言葉が見つからないのか、シェルは黙ったまま、小さく首を横に振った。 「感応力で操っていいのは守護生物(トゥラシェ)の心だけです」  シェルの声は小さく、弁解の気配がした。 「君たちがトゥラシェと呼んでいるのは、君たちが感応力を使って使役する家畜のことか」  シュレーは淡々と確認した。  シェルは驚いたふうに、真顔のシュレーを見つめ、そして、イルスのほうにも助けを求めるような視線を向けた。  だが、イルスはシェルに何を言ってやればいいか思いつかなかった。 「ち…違います。守護生物(トゥラシェ)は偉大な森の精霊たちで、森エルフはそれと契約して、力を借りているだけです。守護生物(トゥラシェ)は僕らの願いを読みとって聞き届けてくれるだけで、使役されているわけじゃないです」 「なるほど……」  シュレーは顔をしかめ、カゴの中から卵をもう一個取り出すと、器用に片手で割ってみせた。料理はできないと言っていたが、慣れた手つきだなとイルスは思った。 「私が北方の荒野で生まれた話は君にしたかな、マイオス」  シュレーが穏やかに問いただすと、シェルはすでに打ちひしがれたふうに、首を横に振った。力のない仕草だ。 「あの辺りの遊牧民は、渡り鳥の卵で薬を作るんだ。卵を割って、黄身だけ取り出すんだ。なるべく沢山。そしてそれを煮詰めて卵の油を取る。なんでも、産褥(さんじょく)後の病をなおすための、滋養にいいんだとか……」  シェルの表情を推し量りながら、シュレーは静かに話している。  イルスはてっきり、シュレーは怒っているのだと思っていた。だが、シェルに話しかけるシュレーの声は穏やかで、機嫌がいいとは言えないまでも、シェルに腹を立てているふうではない。 「私はよく、父の言い付けで、病身の母のために卵を集めた。卵を割って、黄身と白身を分けるところまでは、私の仕事だった。だから、卵ぐらいは割れるんだよ。私に命令するばかりだった、ろくでもない父親のおかげでね」  シュレーはそこで、初めて不愉快そうに顔をしかめた。  シュレーが父親についての心情を示すのを、イルスは初めて見た気がした。 「ライラル殿下は、お父上のことを嫌いじゃないです、殿下の父上だってきっと、殿下のことを大切に思ってました」  シェルが慌てたふうに、シュレーの言葉を否定した。 「いいや、違うな。父上は私のことを恨みに思っておいでだった。私を産んだせいで、母上は病になり、挙げ句亡くなったんだ。父上は自殺するときも、私のことは思い煩わなかった」 「そんなことありません。殿下のお父上は、今でも殿下のことを心配しておられます」  シェルはやけに、確信に満ちたことを言う。その言葉を遮るように、シュレーが強い声で続けた。 「マイオス、そういう父親だったら、まだ世の中を知らない子供を残して自殺したりしないし、するとしても、一緒に連れていくぐらいの甲斐性はあるさ」 「それでも殿下は父上のことが好きだったんでしょう? だからここへ、お父上の故郷に、戻ってきたんじゃないんですか」  なにか激しい使命感に背中を押されるような勢いで、シェルはシュレーを説得しようとしている。  うつむきがちにシェルの表情をうかがっていたシュレーが、その言葉を待っていたように背すじを延ばした。 「マイオス」  シュレーが重々しく響く声でシェルの洗礼名を呼ぶ。 「君のいう守護生物(トゥラシェ)との契約、というのは、どうやってやるんだい」 うつむいているシェルの顔を、シュレーは厳しい目で見つめた。 「こ……声を聞いてやるんです、心の。守護生物(トゥラシェ)がいろいろと話すので、それを聞いて、一緒に苦しんでやったり……時間をかけて信頼関係を……でも、僕はまだ守護生物(トゥラシェ)と契約したことはないので、よく分かりません……」 「そうかな」  きっぱりした声で、シュレーが口をはさんだ。 「マイオスにはもう、守護生物(トゥラシェ)がいると思わないか、フォルデス?」  張り付いたように微笑みながら、シュレーが話を向けてきた。  イルスはしばらく考えてから、しかたなく思っていることを答えた。 「お前、自分がそうだっていうのか?」 「私は、自分が父親に執着してることを認めたくない。でも、知ってはいるんだ。ずっとまえから。これまで、誰にも話したことがない。でも、マイオスはそれを知っているようだ。私は彼に、なにか話したのかもしれない」 「ライラル殿下」  シェルが思い余ったように、大きな声でシュレーの言葉を遮った。 「僕……殿下を助けたくて、部族の禁忌を侵しました。死にかけた人を追いかけていっちゃいけないんです。なぜダメなのか、知らなかったんですけど、こういうことだったのかもしれません。人を守護生物(トゥラシェ)のように扱うなんて……これからは自分の力のことを、もっと気をつけます。もう、二度としません」  シェルが途切れがちに言うと、シュレーはにっこりと笑って見せた。 「いいんだよ、マイオス。君は私を助けようとしてくれたんだろう。その気持ちが嬉しいよ、ありがとう」  微笑みながら言って、シュレーは卵で濡れた手を、開いたり閉じたりして眺めた。 「そう言って欲しいと思ってるだろう」 「……思ってます」  シェルは気まずそうに答える。 「私に心にもないことを言わせないでくれ!」  シュレーは忍耐の限界だというように、調理台を叩いた。粉々に砕けた卵を入れた大椀が、台のうえで飛び跳ねた。  シェルはビクッと気弱そうに体を固くしたが、その後すぐに、居直ったように強気な顔をした。 「さっきも言いましたけど、守護生物(トゥラシェ)は契約者に使役されてるんじゃないんです!! 意に反することを無理矢理やらせるなんて、そもそも、できないんです!」 「それじゃ君は私が自分でそう思ってるんだと言いたいのか」 「殿下はそう思ってるんです。僕が殿下の心を操ったりしてるんじゃなくて、殿下が僕の願いを勝手に感知してるだけです。無視してくれていいです。僕はかまいませんよ、どんどん無視してください、今までだってずっと、殿下は僕らの期待なんか無視してきたじゃないですか!!」 「なんとかならないのか」  顔をしかめて、シュレーが言う。 「僕が死ぬか……より強大な守護生物(トゥラシェ)と契約するかしか、方法がありません」  シェルが答えると、シュレーは目を閉じて、長い溜息をついた。 「死んでくれ、と言いたいところだが、そうもいかないだろう。君のための強大な守護生物(トゥラシェ)とやらを、全力で探すんだ。言うまでもないが……私にできることがあるなら、どんなことでも協力は惜しまないよ、マイオス。君の正式な守護生物(トゥラシェ)を見つけるためなら、私はなんだってやってみせる」  シュレーの微笑は、いつになくひきつっていた。  それもそうだろう。イルスはシュレーに同情した。  その朝の食事ができるまでの間、シュレーは芋の皮をむこうとして五回ほど指を突き刺し、二度も同じ煮えたぎる鍋の取っ手を素手で掴んで、悲鳴と一緒に、いまいましそうにシェルの名前を呼んだ。  どこまでがシュレー本人の失敗で、どこからがシェルの影響なのかは、傍目には全く区別がつかなかったが、出来上がった料理が、どう見ても失敗なことだけは確かだった。 「どうして僕も誘ってくれなかったのさ」  あとから食堂にやってきたスィグルが、意外な文句を言った。  スィグルはまだ眠たそうな顔をしていたが、おとなしく学院の制服を来て、いつもの席で優雅に水を飲んでいた。食事を運んできたイルスを見つけると、スィグルはさも当たり前のように、こっちだよと手招きして呼び寄せた。 「お前が寝てたからだ」  イルスは当然のことを言ったつもりだったが、スィグルはまるで、間抜けな言い訳を聞くときのような顔をしている。 「それとこれとは別だろう。イルスって薄情だよね」  スィグルは心底からムッとしたような表情で、イルスを非難した。  少し遅れて厨房からやってきたシュレーとシェルが、スィグルに気付いて、いくらか驚いたようだった。スィグルは2人をちらりと冷たく一瞥したが、特になにも文句を言わなかった。  自分たちの作った食事の不味さに、シェルとシュレーは食欲が萎えた様子で、ほとんど口をつけなかったが、スィグルは取り澄ました顔で、自分のぶんを全部平らげた。  誰も何も話さないので、イルスは敢えて口を開かなかった。食事は不味くて、がっかりしていたし、そもそも気まずくて話す話題にも困るような雰囲気だった。  食後に、ミルクを混ぜたお茶を不味そうに飲んでいるスィグルに、さんざんためらったような気配ののち、シュレーが声をかけた。 「レイラス、昨日の模擬戦闘では、きみのおかげで助かったよ。私のことでは、心配かけて済まなかった。ありがとう。でも今はもう、だいぶ回復したから、心配いらないよ。……と、マイオスが言って欲しいらしい」 「きゅうに何言ってんだよ?」  気味悪そうに、スィグルが鋭い声をあげ、椅子を引いた。 「頭に悪い虫でもいるんじゃないの?」 「そんなもので済むんだったら、私はむしろ喜んだと思うよ」  苦い顔をして、シュレーは真面目に答えている。  イルスは思わず、飲んでいたお茶を吹き出しかけた。熱いのだけが取り柄のような味だった。 -----------------------------------------------------------------------  1-47 : 大陸の子らよ -----------------------------------------------------------------------  トルレッキオ学院の教室は全て、学寮に取り囲まれるようにして建てられた、陰欝でいかめしい古い棟(むね)の中にある。  学生たちは誰でもみな、思い思いの教室に自由に入っていくことができた。  教師たちはそれぞれ、一人にひとつずつ自分専用の教室を持っており、そこに学生が集まっているかどうかに関わりなく、始まりの時刻から終わりの刻限までのあいだ、彼らの知る知識について話すことになっている。  学生たちには、自分の気の向いた講義を聞く自由と、気に食わない教師の講義を無視する自由が与えられていた。  厳格な規律を数知れず押しつけてくるトルレッキオ学院が、学生に期待する最も重要なことは、学棟の正面玄関にもしっくい細工の浮き彫りとして掲げられているように、「自立せよ」ということだった。全ての学則は、これを達成するための明確な導きとして存在している。  学院で学ぶ学生たちは、名門か、そうでないかの差こそあっても、全員が貴族以上の特権階級の出身者だ。召使たちにかしずかれることに慣れきって育って来た少年たちに、学院は、ほとんどの身の回りの世話を自分自身ですませることを強制し、学内の秩序も、大法官と呼び慣わされている役職を頂点にした、学生だけの自治組織に守らせている。  この山奥の古い学院は、さながら、ひとつの部族国家のようだ。  実際に、この学院は山エルフ族の未来の宮廷を支えるための全ての人材を育て上げることを使命としていた。宮廷の仕組みを、そっくりそのまま写し取ったといってもよい。  ここで学ぶ少年時代に得た友や敵は、その後の生涯にまで持ち越されていくことになる。  山の都フラカッツァーを彩る、華々しい派閥のほとんどは、このトルレッキオで誕生し、学内でのささいな権勢や名誉を争いながら育っていったものだ。  宮廷に侍(はべ)る者で、トルレッキオを知らぬ者はいない。その宮廷の主(あるじ)である、代々の山エルフ族の族長その人も、かつてはこの小さな宮廷を従え、この学院の防壁の内側で、支配すること、君臨することについて学んだ。 だが、いつの世にも、不名誉な例外はある。  今、フラカッツァーの宮廷の頂点に君臨しているはずの男、山エルフ族族長ハルペグ・オルロイは、トルレッキオでの名誉を知らなかった。山の都で、族長冠に仕える渋面の重臣たちが、まだいたいけな少年だった頃に、未来の自分の主として敬意を払い、時には、激しい反発をぶつけて争った大法官は、べつの男だった。  ヨアヒム・ティルマン。  かつてその名は、ある種の崇拝とともに囁かれた。だが今は、その名を口にする者すらいない。  裏切り者の名に過ぎない。  神殿から女を盗み、部族を窮地に陥れた男。才能にめぐまれ、何においても群を抜いた能力を示し、多くの学生からの尊敬と、部族の重臣たちからの期待を受け、これ以上は望むべくもないほどの名誉の中にいながら、それをまるで取るに足らないもののように、あっけなく置き去りにしていった男。  しかしその名を忘れ去った者もいない。重苦しい喪失感とともに、多くの者の胸に刻みこまれた名だ。  シェルは、教室がずらりと並ぶ廊下のすみで、ぽつねんと立ち尽くしていた。  朝食を終えたあと、さっさと学棟に向かうシュレーにくっついて、イルスやスィグルとともにやってきたものの、シェルはその後の行き先を決めていなかった。  数ある教室の中からどれを選べばいいか戸惑っていると、シュレーは別段誰を誘うでもなく、それまで一緒にやってきた三人を残して、するりと教室に入っていってしまった。  成り行き上、朝食ぐらいは一緒に食べるが、それ以外の場でまで、行動をともにする義理はないということなのだろう。  シュレーはどう見てもシェルのことを遠巻きにしている。一言二言、イルスが話かけたのに答えた以外は、まともに口をきこうともしない。  なにか期待していたわけではなかったが、シェルはそこはかとなく不機嫌になった。  少しぐらい、親切にしてくれたっていいではないか。シュレーは自分たちよりもずっと、学院のことを知っているように見える。どこへ行けばいいか教えてくれるとか、一緒に行くかと誘うぐらいのことをしてくれてもいいはずだ。こっちはシュレーのために、いろいろ考えてやっているというのに。  そう思うと、よけいに惨めな気がした。シェルはため息をもらしてうなだれた。 イルスとスィグルは仲がいいから、二人で行き先を決めるのかもしれない。実際彼らはすでに、二人でなにごとか話し合っている。  それに加わりたかったが、自分が彼らと一緒に行って良いだけの理由がないことが、シェルには、指先からいつまでも抜けない刺のように感じられた。  要するに自分には、友達といえるような相手が、一人もいないのだ。だから少しでも縁のある相手がいると、すがりつくような気分になってしまうのだろう。  独りって辛いなとシェルは思った。こんな時に、どっちへいこうかと他愛ない相談をする相手がいたらいいのに。そういう相手もなく、たった一人で生きて行かなければならないとしたら、きっと寂しいだろう。 「おい、シェル。お前はどこに行くつもりなんだ?」 「えっ?」  降って湧いたように突然呼びかけられて、シェルは間の抜けた悲鳴をあげた。  振り向くと、面白そうにこちらを見ているイルスと目が合った。 「俺は、どこに行けばいいか見当もつかないから、シュレーについて行こうかと思うんだけど、お前はなにか、いい考えがあるか?」  イルスは、こともなげに尋ねてくる。 「僕も一緒にいっていいんですか?」  そわそわしつつ、シェルは尋ねてみた。 「どこの教室も、みんな勝手に入ってるみたいだし、俺達が入ってまずかったら、誰かが追い出してくれるだろう。気にすることないさ」  あっさりとイルスは言う。 「イルス、こいつが訊いてるのは、そういうことじゃないよ」  醒めた口調でスィグルが説明する。  スィグルが冷たい金色の視線をちらりと向けてくるのに、シェルは腹に力をこめて、ぐっと耐えた。どこかへ消えろと言われても気に病まないように、シェルは心を鎧った。 「なにをもたもたしてるんだ。行き先が決まらないなら、さっさと入ってくればいいだろう」  教室の戸口から、シュレーが苛立ちきった様子で差し招いている。シェルはびっくりしながらそれを見た。 「もう開講の刻限だ。遅れたら入れない規則だぞ」  シュレーが言い終らないうちに、鐘を振るガランガランという音が、幾つも騒々しく学棟の廊下を渡りはじめる。 「ほら、早く!」  鋭く急かす言葉を叩き付けると、シュレーは教室に引込んでいった。 「お節介なやつ」  スィグルが小声で悪態をつくのが聞こえた。  鐘の音に気を急かされているのか、イルスはそれに何も答えず、不本意そうにしているスィグルを押して、教室に入っていく。シェルも慌ててそれを追った。  教室は思っていたよりも狭く、部屋の真ん中にしつらえられた教壇の周りに、車座に並べられた椅子が三重にあるだけで、あとは壁ぎわの古い暖炉と、それと向き合う壁一面に広げられた大きな地図があるだけだった。  世界地図だ。  シェルは、ここまで大きな地図を初めて見た。正確に同じ大きさに切った羊皮紙を繋ぎ合わせたものに、色とりどりの顔料で、精密な輪郭線が描いてある。  地図の左はしは広大な南の海で、そこには豪華な装飾つきの金文字で、「第四大陸(ル・フォア)」と書かれていた。その文字に戯れるように、一つ目の(ドラグーン)がいる。  隻眼竜、アズガン。  古い物語に登場する竜のことを思い出して、シェルはわくわくした。  南の海洋を暴れ回ったという怪物だ。同じ海を争って、三つの頭を持つ海竜マルドゥークと戦い、そして敗れて、マルドゥークに服従した。 「早く座れ、マイオス。なにをぼやっとしてるんだ」  苛立ったシュレーの声に驚かされて、シェルは間の抜けた悲鳴をあげてしまった。  教室のあちこちから聞こえる、くすくすと笑う声に顔を真っ赤にしながら、シェルはシュレーの隣の席に逃げ込んだ。そこしか席があいていなかったのだ。  上目づかいになって周りを見ると、イルスとスィグルも、シュレーをはさんだすぐ向こう側にいた。  イルスはシュレーのとなりで、組んだ脚をゆっくりと揺らしながら、壁の地図に目をむけている。  三頭竜マルドゥークと同じ名前が、彼の氏族の姓だ。あの地図のいちばん下の、大陸最南東端から彼はやってきた。  なんて遠くから来たのだろうと、シェルは改めて感動した。  地図のなかにある、エルフ四部族(フォルト・フィア)の領土は広大だった。大陸全土をみわたしても、これに匹敵する部族は見当たらない。桁違いだ。  だが、それでも、エルフ族もまた、この大陸で神聖神殿に支配される諸部族のひとつにすぎない。どんなに広い領土を持っていても、大陸の「それ以外」の部分のほうが何倍も広い。  どんなところなんだろう。  シェルは、大きな地図を埋めるたくさんの部族領と、複雑に入り組んだ領境いを見つめた。 「遅いな」  ため息まじりの小声で、シュレーがつぶやいた。 「なにがですか?」  シェルが尋ねると、シュレーは、教室の奥にある一枚の扉を顎で示した。 「開講の刻限はとっくに過ぎているのに。教授はなにをしているんだ」  あきれたような口調で、シュレーが文句を言った。  あの扉の向うは、教師のための部屋か、専用の通路かなにかだろうと、シェルは見当をつけた。  学生たちが、なかなか講義が始まらないのに退屈して、不満げにひそひそと話し始めている。その声に交じって、かすかに、どたどたと走ってくる足音がする。  教室にいる学生たちの視線が、ひとつ、またひとつと、奥の扉に集まりはじめた。  シェルも瞬きして、つやつやと古びた光沢を放つ扉を見つめた。  何度か派手に壁に体当りするような音が響いて、足音が止まった。シェルは緊張して、ごくりと唾を飲み込んだ。  真鍮の取っ手がカタカタと揺れ、扉が勢いよく開かれる。向こう側から現れた者の姿を見て、学生たちのうちの何人かがどよめき、うろたえて椅子から立ち上がりかけた。  節くれた大木の樹皮のような、ごつごつとした顔は淡い灰色で、沢山の細かな皺で埋め尽くされている。扉を後ろ手に閉めて教室に入ってくる足取りはものすごい大股だった。  ただでさえ見上げるような長身が、教壇に立ち、灰色の襞(ひだ)にうもれた黒い小さな目で学生たちを見回すのを、シェルはあんぐりと口を開いて見上げた。  深い緑色のマントから、枯れ枝のような細長い灰色の腕が突き出している。しかも四本。  四本?  シェルは自分の目がおかしいのではない事をたしかめるために、ゆっくりとした所作でうごめく灰色の腕を数えなおした。  確かに四本。二対の腕がある。 「遅れてしまって申し訳ない。諸君の貴重な時間を無駄にしてしまった」  木枯しが騒いでいるような擦れきった声だった。 「わたくしの名は、クム・ロウ・クレイカ・ナン。諸君に、この大陸の様々な種族と、その生い立ちについてお教えするのが、わたくしの職務です」  不思議ななまりのある大陸公用語で、教師は挨拶した。 「さっそくお話ししよう、大陸の子らよ」  知性に溢れた黒い瞳がうっとりと、深い静かな愛着を秘めて、壁の大きな地図を見つめていた。黒目だけしかないその目は、人のものというよりむしろ、物静かな獣の瞳のようだった。  やがて、ゆっくりと顔をめぐらしているクム・ロウ師の視線が、シェルのところまでやってきた。  訳もなく、師に注目されたい気がして、シェルは異民族の瞳をまっすぐに見つめかえして、精いっぱい微笑んでみせた。  すると、灰色の顔がかすかに動き、シェルに微笑を返してくる。シェルはあまりの嬉しさに、今度は心底から微笑んだ。  なにも聞かなくても、シェルにはこの教師が、壁にかけられた大きな地図と、そこに描かれた世界を愛していることがわかった。同じ憧れをもって、遠い世界を見つめる瞳。  この人の話をちゃんと聞こう。  シェルは軽く身動ぎして椅子に座りなおし、耳を澄ませた。  深く長い息を吸って、クム・ロウ師が話し始めた。 -----------------------------------------------------------------------  1-48 : 第四大陸 ----------------------------------------------------------------------- 「はじめてお見かけするお顔が多いようだ」  教室を見回してそう言ってから、クム・ロウ師はまた、シェルの顔に目をむけた。 「わたくしの姿を見て、さぞ驚かれただろう」  答えをうかがうように、師は言葉を休め、何人かの学生の顔をのぞきこんだ。しかし、教室からの答えは返らなかった。 「サイレンシア(沈黙)?」  低くうなるような声を立てて、師が笑う。とても古い言葉だ。誰も答えないのは、教室にいる誰もが、彼がつぶやいた言葉の意味を理解しなかったからだろう。 「僕ら森エルフは沈黙(ソウェト)、と。ここにいる人達はみんな、サイリス(沈黙)といいます」  シェルは考えるより早く立ち上がって、必要もない大声でそう答えていた。 「わたくしの部族では、サイレンシア、と……」  シェルに目を戻し、師は楽しんでいるふうな気配のする声で、ゆっくりと言った。 「大陸公用語では、沈黙(シリス)と。この言葉によって、わたくしたちは語り合うことができる。神聖神殿がわたくしたち大陸の子らに分け与えた大きな恵みのひとつです」  師の言葉には、神殿への崇拝よりも、数知れない異なる部族が、同じ一つの言語を話すことへの驚きが感じられた。 「君は、アシャンティカの森の部族から来たのだね」  シェルにむけて、クム・ロウ師は優しく問いかけてきた。シェルは、師が故郷の森の精霊樹の名を知っていることに、嬉しい驚きを感じた。 「はい、そうです!」  シェルが意気込んで答えると、師はかすかに笑い、四つある皺だらけの灰色の手の平の一つで、シェルの椅子を示した。 「座ってよろしい。発言は、座ったままでかまいません」  シェルははっとして、慌てて椅子に座り込んだ。そのとたん、教室の緊張がいっせいに解けたような忍び笑いが湧くのが聞こえて、シェルは耳の先まで真っ赤になった。 「神殿は諸君のことをエルフと呼んでいる。そのような名前でいうなら、わたくしはノーヴァです。これは、新しい、という意味の、とてもとても古い言葉です」  息を継ぐために、クム・ロウ師は話をやめ、端目にもはっきりわかるほどの大仰な深呼吸をした。シェルはその様子をみて、師がずっと、息をしていなかったのに気づいた。 「諸君はおそらく、ノーヴァという名の部族など聞いたことがないでしょう。しかし、わたくしたちは諸君たちエルフがこの土地にやってくるはるか以前から、この山々に暮らしていました。わたくしたちは、とても古い種族で、諸君、エルフ族がこの大陸にあらわれる以前から、神殿に仕えているのです」  ちらりと師の黒い目が、自分の横に向けられるのを感じて、シェルも同じように、視線を動かした。  クム・ロウ師は、シュレーを見ていた。 「諸君が見ているのは、ノーヴァ族の最後の一人でしょう」  師があまりにさらりと言うので、シェルはすぐには言葉の意味を理解できなかった。 「諸君の父祖は、わたくしたちの知識と長命を尊敬し、わたくしたちからこの土地の多くを学んだ。諸君はわたくしから、この山々を継承してゆく最後の世代かもしれません。聞く耳を持って、必要なことがらの全てを、学び取っていかれますように」  シュレーを見つめて話すクム・ロウ師は、他の誰でもない、シュレーたったひとりに、話を聞いて欲しがっているように思えた。  シュレーが目を細め、表情を歪めるのを、シェルははらはらしながら見守った。 「エルフはたいへん美しい。まるで天使のように」  にっこりと笑った表情を時間をかけて作り、クム・ロウ師は言った。 「諸君は健康な産声をあげて母親の胎から生まれ出て、活発に動き回り、あらゆる場所に住み着き、好戦的で、多くの子どもを産み、早々に死ぬ。すばらしいことだ。諸君、わたくしが何年生きたかおわかりかな?」  軽く首を傾げて、師は誰にともなく尋ねた。 「今年で、300と56年」  驚く学生たちを、師は楽しげに眺めている。彼がこんな風に学生たちの驚愕を眺めるのは、今までにも何度となく繰り返された光景なのだろう。 「ノーヴァは非常に長命な種族で、ごらんのように、二対の腕と、高い知性を与えられている。飢餓と寒冷に強く、環境が劣悪になれば仮死状態になって、それを凌ぐ。わたくしたちの使命は、この山々の開拓でした。同じ使命を負った種族と争いながら、わたくしたちは目的を成し遂げました。いま、トルレッキオにある川や湖、地下を流れる水脈は、わたくしたちノーヴァがこしらえたものです」  言い終えてからしばらく、師はぼんやりとしていた。目にみえない何かを辿るように、クム・ロウ師の手の平がゆらゆらと空中を撫でている。 「諸君はなにを?」  かすかな、吹き過ぎる風のような声で、師はつぶやき、学生たちの顔をひとつひとつ、なにか初めて見る不思議な生き物と向き合うような澄んだ眼差しで見つめた。 「何のために、この大陸にいるのだろうかと、考えたことは?」  年老いた彼自身、その問の答えを求めているように、シェルには思えた。なぜか切ないように思って、シェルは眉間に淡い皺をよせ、クム・ロウ師の灰色の顔を見上げた。 「諸君はまだ幼く、この大陸の土を踏みしめて間もない。たくさん知りなさい。世界を知ることで、諸君は自分自身を知る事ができるでしょう」  壁の世界地図を指さして、クム・ロウ師は学生たちの視線を導いた。 「第四大陸(ル・フォア)です。中央にあるのが、聖桜城(せいろうじょう)、神聖神殿の正神殿。ここに住まう神聖なる種族が、この大陸で最も古い血筋です」  ちらりと興味ぶかげにシュレーに目をくれて、クム・ロウ師は言った。 「大陸中央部以北には、未開墾の土地が多い。気候風土が厳しく、生活に適さないのです。第四大陸に棲む種族の数は、全部で500とも、600とも言われております。未だ生態を記録されていない種族もあり、すでに滅び去った種族があり……今まさに、滅びに瀕する種族がある。……猊下にお尋ねしてもよろしいかな」  思い切ったようにシュレーを名指してから、クム・ロウ師は大きく深呼吸をした。 「今、厳密には、第四大陸には幾つの種族が?」  じっとシュレーを見つめ、師は忠実に主人の言葉を待つ飼い犬のような目をした。  沈黙を差し向けられて、シュレーが居心地のわるそうな咳払いをする。  シュレーがなかなか答えを返さないのは、知らないからではなく、答えたくないからだ。シェルにはそんな気がした。 「私はそれを、あなたから習いにきたのだ」  穏やかな声で答え、シュレーは諦めたようにため息をついた。 「わたくしの知識よりも、猊下がご存知のことのほうが、よほど正確に今の世界を写しとっていることでしょう」 「神殿で得た知識は、おいそれとは口外できない。私に沈黙の誓いを破れと?」 「それは畏れ多いことです。では、こうしましょう。わたくしが推論をお話しいたします。猊下はただそれをお聞きください」  クム・ロウ師は穏やかななかにも、得体の知れない熱意のこもった声で提案した。シュレーは堅い無表情で押し黙るだけだ。 「わたくしの師はかつて、こう教えておられました。この大陸には、2000種もの種族がひしめいてる、と。しかし、わたくしが師からこの教壇を受け継いだころには、すでにそれは誤った知識でした」  にこりとクム・ロウ師が微笑む。師の顔を覆う皮膚は、とても硬く、分厚くなっていて、微笑みの表情をつくるのにも、ぎこちない、儀式めいた用心深さがあった。 「わたくしが猊下におあいするのは、二度目です。一度目は、わたくしの師の、最期を看取りにいらした折に。今とは別の、もっとお年を召したお姿で。おぼえていてくださいましたでしょうか」  震えた声で、クム・ロウ師は力無く問いかけた。尋ねられたシュレーの目元が、ひくりと震える。 「……ル・フォアの全種族を合わせても、今やすでに800種、そのうちの200種は滅びに瀕している。哀れな、わが大陸の子らよ、そなたらを救わぬ、我が翼のむなしきを呪え、我が慈悲の甲斐なきを、呪ってくれ、私が哀れなそなたたちを、忘れぬように!」  教室からしばらく、息をする物音すら消しさるほどの、尋常でない大声で、クム・ロウ師は叫んだ。シュレーは背筋をのばし、毅然とした態度を変えなかったが、シェルには彼が、他の学生たちと同じように、動揺と緊張で身を固くしているのがわかった。  残響の残る静けさの中に、クム・ロウ師が深く息を吸い込む音が聞こえる。 「猊下が、そう仰ったのです。わたくしたちの手をお取りになって。賎しいわたくしたちの手を……なんというお慈悲。またこのトルレッキオにおいでになるとは……またお目にかかることができるとは、わたくしは夢にも思いませんでした」  シェルには、師がシュレーを責めているのか、それとも、天使と再会できたことを喜んでいるのか、区別がつかなくなって混乱した。師は、小さな子供が喜ぶ時のような、素直な喜びに浸っているように見える。それと同時に、深く静かに怒ってもいる。複雑な感情の気配を感じとって、シェルは苦しくなった。 「さきほど、醜いわたくしを御覧になって、猊下は驚かれました。わたくしたちノーヴァのことは、すでにお忘れなのですね。そして、あの時は少しも惜しまれなかった秘密を、今は惜しんでおいでです」  言葉の持つ怨念とは裏腹に、クム・ロウ師の声も目も、とても穏やかだった。怒りよりも、諦めに似た深い悲しみが、ゆっくりと浸みわたるように辺りを満たしていく。シェルは自分のものではない悲しみに呑まれ、瞬いた睫が重く濡れるのを感じた。  クム・ロウ師が話したのは、今のシュレーの事ではなく、転生する以前の、別の者の思い出だろう。神殿の天使が昔、この学院を訪れていたのだ。慈悲の天使、静謐なる調停者、ブラン・アムリネスが。  でも今ここにいる少年は、シュレー・ライラルだ。彼はそう名乗りたがっている。 「わたくしの推測では、第四大陸の種族数は、当時よりさらに減っているはずです」 「ル・フォアには今、328種の種族が・・・うち169種は絶滅の瀬戸際に。さらに42種は、その存続について協議中だ」  淡々とした態度を装った声で、シュレーが突然答えた。クム・ロウ師が、はっとする。 「猊下、せめて、いま仰った42種だけでもお救いいただけるように、天使様がたや大神官様に命乞いを……」  クム・ロウ師の声がおろおろとうろたえている。 「むろん、救済についても協議されている。私は助命をうったえた。絶滅は、天使たちの合議による結論だ。神殿の決定に異論をとなえるのは、あなたのためにならない」  シュレーの呼吸が、ひどく深かった。ゆらゆらと大きく揺れ動く彼の心を静めようと、シェルはシュレーの横顔を見つめた。  教壇のクム・ロウ師を見上げるシュレーの表情は、とても厳しい。何かに頼ることを、根本から拒否したような孤高の顔だ。  頼ってくれてもいいのに。  事の次第もわかっていないというのに、シェルは、シュレーのかわりに何か弁解したい気になった。しかし、何を言えば弁解になるのかさえ、シェルには分からなかった。 「猊下はなぜ、またトルレッキオへ?」  クム・ロウ師は、どこかしら呆然として、問いかけてきた。 「エルフ・フォルト・フィアの同盟を成立させるためだ」  強い口調で、シュレーが答える。自分が尋ねた時と、答えが違う。シェルはそれに気づいて、ひどく傷ついた。シュレーは答えを使い分けている。本当のことなど、答える気がないのだ。 「なぜ、猊下がお越しにならねばならないのでしょうか。猊下には、神殿でのお役目がおありでしょう」 「私の力など……」  押し殺したシュレーの呻きに遮られ、クム・ロウ師が言葉を失う。シュレーは視線を床に落とし、顔をしかめて、石造りの文様をじっと睨みつけている。 「救われたいのなら、そなたたちも愚かに争い、憎み合うのをやめよ」  低く擦れた声で、シュレーが言った。 「殺し合うために、この大陸にいるのか。お互いを根絶やしにするために? なにがそう憎いのだ。もとは同じ、一つの船に乗っていたというのに……なぜ争ってばかりいるんだ」 「つまり猊下は、わたくしたち大陸の民を、お見捨てになるのですね」  静かに言うクム・ロウ師の言葉を聞き終えずに、シュレーが勢い良く立ち上がった。 「ちがう」  青ざめて、シュレーがつぶやく。 「なにが違うのですか。この土地で、一体、猊下になにがおできになりますか。黒い大理石の球をとるのはお上手でも、滅びゆく大陸の民は救えないと仰る。ご自分が一体、どなたなのかすら、お忘れになったのです」 「私は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ」 「ヨアヒム・ティルマンの息子など、誰も欲しがっておりません」  クム・ロウ師がさらりと口にした名前は、押し殺されていた教室のどよめきを呼び戻した。ひそひそと耳ごこちの悪い言葉を囁き交わす学生たちの声が、渦を巻く水源の流れのように溢れだして、シュレーを溺れさせようとしている。  シェルは半ば無意識に立ち上がっていた。それでどうなる訳でもないが、一人で溺れるよりは、二人のほうがましだ。  そう思ってシュレーを見つめると、彼は余計なお世話だと言いたげに、じろりとシェルを横目に睨み、すぐに教壇に向き直った。 「それでも私は父の息子だ」 「それは猊下の身勝手です。あなたは慈悲の天使としてお生まれになりました。お身にふさわしい場所に、お戻りを。そして、滅びゆく大陸の子らに、お慈悲をお与えになってください」  静かに訴えるクム・ロウ師の言葉に、シュレーは何も答えなかった。  軽く目を伏せ、短いため息をもらすと、シュレーは席を離れて歩きだした。教壇を迂回して教室を横切ってくるシュレーを恐れて、口々に批判をしていた学生たちがぴたりと押し黙る。シュレーはそれに目もくれず、よどみない早足で毅然と教室を出ていってしまった。  一瞬の困惑から醒め、シェルはあわてて、シュレーのあとを追おうとした。役にたたないかもしれないが、せめて何か励ましの一言だけでもと思ったのだ。  シェルは、教室を出るために歩きだした。しかし、目の前で席を立ったスィグルに驚かされて、思わず立ち止まってしまった。  スィグルは一瞬じろりとシェルを睨みつけてから、ゆっくりと、教壇に立つ灰色の異民族を見上げる。 「教師ふぜいが、傲慢な口のききようだ」  尊大な態度で、スィグルが言った。彼の澄んだ声は自信に満ちあふれていて、教室じゅうによく通った。 「自分の職務を忘れているのは、お前のほうだ。僕には、役にも立たないお前の恨みごとを聞いてやる義理はない。これのどこが講義なんだ。……不愉快だよ」  気位高く顎をあげて言い、スィグルは心底不愉快そうに顔をしかめた。そして、ふん、と苛立ったため息をついて、さっさと教室を出ていってしまった。  硬い床を踏む、スィグルの長靴(ちょうか)の音が、ゴツゴツと静まりかえった教室に響いて、消えた。  シェルはどうしようもなくなって、少しの間、おどおどと立ちすくんだが、すぐに二人のあとを追いかけようとした。  だが、何かがシェルの上着の背中を掴み、むりやりシェルをその場に引き留めた。びっくりして振り返ると、イルスがシェルの制服の上着を掴んでいる。 「あいつに任せておけよ」  イルスは密かに忠告して、シェルを自分の隣の空席に座らせた。よろめいて椅子に座り込みながら、シェルは居心地の悪い教室を見回した。 「任せるって・・・レイラス殿下がなにかしてくれるわけないと……」  押し殺した声で、シェルはイルスに訴えた。 「スィグルはシュレーに借りがある。あいつも、それぐらい分かってるさ。信用してやれ」  同じようにひそめた声でイルスが答える。  スィグルがなにか、シュレーに恩義を感じていたなんて、シェルは想像もしなかった。 もし、イルスの考えが間違っていて、誰もシュレーの味方になってくれなかったら。シェルは困惑したが、すでに立ち上がる機会がない。 「確かに、わたくしは貴重な講義時間を浪費した。諸君には、またお詫びをしなければ」  クム・ロウ師は静かに詫び、また深い息を継いだ。冬の梢を吹き抜ける、枯れきった風のような音が聞こえる。  師は黒い小さな目で、壁の地図を見つめ、しばし黙り込んだ。 「地図を……描き変えなければ」  師の見つめる第四大陸を、シェルも見つめた。教室に初めて入ってきたときに眺めた、この古びた豪華な地図が、正確に盤状に分けられている理由が、今になって漠然とわかった。地図はところどころ新しく、鮮やかな色彩を帯びている。  書き換えられた跡なのだ。  その升目には、かつて、今はもういない部族のための王国があったのだ。 -----------------------------------------------------------------------  1-49 : 永遠の誓い ----------------------------------------------------------------------- 「言い訳を思いつかなくなったら、とっとと逃げ出すのが神殿ふうなのかい」  腹に力を入れて、強い声で呼びかけると、追い付けそうもない早足で廊下を進んでいた後ろ姿が、ほんの少しの間だけ歩みを止める。  走るのが癪(しゃく)で、スィグルは無理な早足でシュレーの背中を追っていた。  廊下の薄闇のむこうで、シュレーの淡い色合いの金髪と、大人びた長身の背中が、早足に合わせて揺れている。スィグルは、自分もせめてあれくらい育っていたかったなと思った。もしそうだったら、今シュレーに追い付くために、涙ぐましい小細工をする必要もなかっただろうに。 「おい猊下! ちょっとくらい、哀れな大陸の民にお慈悲を示してくれたっていいだろ。止まってくれよ!」  からかう口調で頼んでいる途中から、シュレーはいらだった様子で足を止め、くるりと振り返った。ほの明かりのなかに見えるのは、強張った無表情だ。 「なんの用だ」  スィグルが追い付いてくるのを待ってから、シュレーは短刀を突き付けるようにつぶやいた。 「昨日の礼を、聞こうと思ってさ」  深く息を吸うのを隠そうとして、スィグルは失敗した。軽くむせるスィグルを、苦虫を噛みつぶしたような表情で眺め、シュレーが腕組みをする。 「礼なら、食堂で言ったはずだ」 「命を助けてやったのに、あれっぽっちで終わりなのかい。助けなきゃ良かったよ」 「もともとが余計なお世話だろう」  心もち顎をあげた姿勢のまま、眉を寄せ、シュレーは人を拒むような固い声で答える。 「よく言うよ。泣きべそかいて命乞いしたくせに」  にやりと笑って、スィグルは相手の様子をうかがった。  シュレーは一瞬、むっとした顔をしたが、すぐに首を振って顔をそむけた。わき起こった苦笑を隠しているのだ。スィグルは目を細め、満足して笑った。 「実際には、なんなんだ」 「随分あっさりかわすじゃないか?」 「君には、礼だけじゃなく、借りも返してあるはずだ」  シュレーはいやみたっぷりに答えた。伏し目がちにスィグルを見下ろしてくる、灰緑の目が面白がっているふうな光を帯びている。 「あんたの秘密は、安いもんだったよ。僕のとは比べものにならない。不足ぶんを貰いにきたんだ」 「翼の秘密をもらすのは、神殿では禁忌なんだぞ」 「確かに、あの時は驚いたさ。でも、あんた天使なんだろ。天使に羽根が生えてることなんて、秘密でもなんでもないよ。神殿の壁画の中のあんたは、いつだって翼を出しっぱなしだ。誰だって知ってるよ」 スィグルはなるべく、当たりまえだという顔をして言ってやった。 「見るまで信じてもいなかったくせに……」  憎々しげに唸るシュレーの顔は、少し楽しそうだ。 「いいだろう。何を知りたいんだ」  組んでいた腕がほどかれ、シュレーの肩から力が抜ける。 「船だよ」  スィグルは注意深く、シュレーの表情をうかがった。 「もとは同じ、一つの船に乗っていたというのに、なぜ争ってばかりいるんだ」  スィグルは、ついさっき、シュレーが教室で言っていた言葉をそのまま繰り返した。それを聞き、シュレーが微かに目を細めた。 「いつ、僕らは同じ一つの船に乗ってたんだい? そんなこと、創生神話のどこにも書かれてないよ」  スィグルがゆっくりと尋ねるのを、シュレーは小さく何度か頷きながら聞いている。 「その船は、月と星の船かい?」  スィグルが冗談めかして聞くと、シュレーの表情がふと硬くなった。 「私は動転していたらしい。うっかり余計なことまで口にした……」  ため息をもらして、シュレーは小首をかしげた。 「レイラス……その話は誰から聞いたんだい」 「母上からさ」 「君の母上は、誰から?」 「さあ。たぶん、母上の母上だろう。僕の部族では、大抵の子供が聞いてる昔話だと思うけど……」  指をあげて、シュレーはスィグルの言葉を厳しく遮った。 「人の耳のないところへ」  顰(ひそ)めた声で言い置いて、シュレーは身をひるがえし、歩きはじめた。  着いて来いという意味なのだろうが、スィグルはすぐに従う気にならなかった。こちらの都合を聞きもしないで、傲慢なことだ。  ふふん、と独り笑いして、スィグルは神殿種の長身を追うために歩きだした。  シュレーはスィグルを、学寮にある彼の部屋に連れていった。  学生たちが講義に出払っている間の学寮には、意外な数の使用人たちの姿があった。あるじが留守のあいだに、部屋の掃除をする者や、暖炉の薪を運んでくる者、インク壷のインクを注ぎ足す者まで、さまざまな仕事を持った者たちがいる。  まだ鐘も鳴らないうちから、制服姿の学生が戻ってきたので、使用人たちは慌てふためいて姿を隠し、間に合わなかった者は、あきらめてその場に膝をついた。  それを横目で見送りながら、スィグルはシュレーの部屋の扉の前で立ち止まった。そこでは、まだ若い執事が、シュレーの部屋を整える使用人たちを指揮している。 「猊下、どうなさったのですか」  泡を食った様子で、執事は使用人たちを追い払い、シュレーに深々と御辞儀をした。 「レイラスと話がある。アザール、すまないが、しばらく部屋を人払いしてくれ」   顔をあげた山エルフの執事が、敵意と疑念を隠しきらない目つきでスィグルを見つめてくる。  山エルフの陰気な瞳をまっすぐに見つめ返し、スィグルは胸をはったままでいた。  もし誰かが、お前を軽く見て、ないがしろにするようなことがあれば、お前は胸を張って、お前の血がいかに誇り高いか教えてやるがいい。  まだスィグルが幼子で、タンジールの王宮深くに守られていたころ、父、リューズ・スィノニムからそう教えられた。  使用人ふぜいに、なめられてたまるか。スィグルはそう呟く、自分の心の声を聞いた。 「内密の話をする。誰が来ても取り次がないでくれ。君も遠慮してほしい」  扉の前で執事を立ち止まらせ、シュレーが念押しをしている。  アザールというらしい執事は、シュレーには畏まってふたたび御辞儀をしたが、こちらには気のない礼を送ってくるだけだった。 「レイラス、なにか飲物は?」  シュレーが半ば儀礼的に尋ねてきた。 「それじゃ、毒入りのお茶でももらうよ」  微笑んで答えると、シュレーがため息をもらす。 「何もいらないそうだ。さがってくれていい」  シュレーは物言いたげな執事を部屋の外に追い出して、自分で扉を閉めた。  スィグルは薄笑いして、閉じた扉を振り返った。  重い黒檀の扉がばたんと閉じられたあとは、静かに薪を燃やしている暖炉のつぶやきだけが、しばらく続いた。  火のそばの長椅子をスィグルに示して、座るように勧めて、シュレーは斜向かいにある肘掛け椅子に腰をおろした。  スィグルは目を動かして、こじんまりとしたシュレーの部屋をながめた。  ありがたい神殿種を迎えるのだから、学院はもっと豪華な部屋を用意したのだと予想をしていたのだが、シュレーの居室は質素なものだった。置かれている調度品にも、目だった華やかさがなく、部屋はどことなくがらんとしている。 「貧乏くさい部屋だ」  スィグルがつぶやくと、シュレーは一時、混乱した顔をした。 「神殿種はもっと、豪勢な部屋に住んでるんだって期待してたよ。これだったら、僕らの部屋のほうが豪華だ」  不満げなスィグルの物言いが面白いのか、シュレーはかすかに笑い声をたてた。冗談ではなく、真面目に言ったのだが、シュレーにはただの憎まれ口と勘違いされたらしい。 「もっとなにか置いたら? 飾りになるようなものとかさ。神殿からなにか持ってこなかったの?」 「私は私財は何も持っていない」  シュレーが当たりまえのように言う。 「そんなはずないだろ。あんたは一応、28人しかいない天使の一人なんだぞ」 「天使でも、神殿種は全員、私財は持っていない」 「そんなの、おかしいよ。宝石とか、なにか、そういうのが沢山要るだろ? 民はそういうのを期待するものだよ」  スィグルは眉間に皺を寄せた。  何も持っていなかったら、貧民に施しをしてやることもできないし、民が部族の自慢にできるような、立派な建物を建ててやることもできない。だいいち、異民族と居並ぶときに、ほかより見劣りするようでは、話にもならない。 「神殿には贅沢な所蔵品もあるが、それを個人が持つ必要はないだろう」 「……あんた、おかしいよ。財産が誰のものかはっきりしなかったら、もめごとになるだろう。領地とか砂牛とか女とか、そういうのは誰の持ち物なのか、はっきりさせておくから価値があるんじゃないか」  まじめに忠告してやったというのに、シュレーは気に病むどころか、困ったように笑うだけだ。 「神殿の社会は、君が想像しているようなものではない。地上での財産なんて、神殿種にはなんの意味もないんだよ」 「それは随分とお綺麗な御心(みこころ)だね」  むっとして、スィグルは言った。 「彼らにとって、唯一価値があるのは、世界の終焉まで転生しつづけることだ」  なにかを回想しているような、どこか虚ろな目で、シュレーが言った。 「世の終わりには、月と星の船がふたたびあらわれて、神殿種たちを楽園へつれもどす。神殿種にとっては、その時まで生き続けることだけが重要なんだ」  シュレーは鋭く囁くように説明した。  スィグルはシュレーの言っている意味がわからず、動揺した視線を神殿種の白い顔にむけた。 「世界の終焉て、なに?」  口に出してみると、まるで幼子がきくような質問だ。 「レイラス、君が言った月と星の船の話は、それにまつわる伝承だ。今は聖典から削除されているが、むかしは創生神話の最初に、もう一節あった」  空白になった頭で聞いたはずが、スィグルは自分の体に、うずくような緊張と畏れが走り抜けるのを感じた。指先がしびれて、鼓動が強くなる。耳の奥になにか、ぼんやりと熱いものがこみあげるような気持ちがした。その熱のなかで、ゆるやかな脈がつづいている。  どくり、と鼓動が鳴る。  スィグルはまっすぐに、神殿種の瞳と見つめあった。 「創生神話(ジェネシス)、第一章、第一節。いにしえの昔、翼あるもの、ルナより放たれてパス・ハーを巡り、月と星の船を駆りて、ル・フォアにおりたちぬ。 第二節。原初の竜、ふたつの卵を擁す。ひとつは白き、ひとつは黒き卵なり」  よどみなく語って、シュレーはまじまじとスィグルの顔を見返してくる。 「続きは知ってるだろう?」  念を押すように言うシュレーに、スィグルは小さく頷いて答えた。 「あまたの種、これより生まれ出づ。翼ある者、天より来たりてこれを牧す。これすなわち、世の初めなり」  創生神話の続きを、スィグルは小声で引き継いだ。 「翼ある者 というのが、神殿種のことだとしたら、彼らはル・フォアの種族ではないことにならないか?」 「ああ……そうかもね……」  ぼんやりと応えて、スィグルはシュレーから目をそらした。  暖炉のそばに座っているのに、体の芯が冷えている。血色を失った指をひらいて、暖炉の火にかざしてみたが、芯からの身震いは治まらなかった。 「怖いかい」  さも当たりまえのように、シュレーが尋ねてきた。  怖い?  そうかもしれない。  知ってはならないことを、教えられようとしている予感がする。 「創生神話の結末は、予言書である詩篇の最終行にしるされていた。そこも今は削除されたので君は知らないだろう」  ゆっくりと諭すように言うシュレーの声には、神殿の者たち特有の響きがある。 「あまたの種、絶え果てぬ。これすなわち世の終わりなり。月と星の船、呼び声に応えて再び来たり、翼ある者を楽土に導かん」  シュレーを見つめる下目蓋がひくりと跳ねるように脈打つのを感じて、スィグルは目を伏せ、冷えきった指で目蓋を押さえた。 「どうして、削除なんか?」 「大陸の民が恐がるからだろう。君だって震えている」  顔を上げてみると、指の間に暖炉の火を赤く透かせたスィグルの手は、確かに小刻みに震えていた。 「詩篇の内容は、本当に予言なのかい。いつか本当に……」  震える指先を握り締めて隠し、スィグルはシュレーの顔に目を戻した。 「全種族が滅亡するなんてことが?」  スィグルが尋ねると、シュレーは薄らと皮肉めいた微笑みをうかべる。 「それはありえない」  シュレーがきっぱりと即答するのを聞いて、スィグルはほっと短い息をついた。 「神殿種だけは絶対に滅亡しない」  囁くように続けるシュレーの顔は、恐ろしいほどの無表情だ。 「どんな部族が滅びようと、連中は意に介さない。救いなんてありえないよ。君達はみんな、神殿種が楽土にゆくための生けにえだ。さっさと死んでくれたほうが、都合がいいんだ。早く楽園に行きたい、そう思うのが普通だろう」 「……そんな。いくらなんでも、悪く言い過ぎじゃないのかい」  冗談めかせて、スィグルは否定した。  強ばった作り笑いを浮かべるスィグルの顔をしばらく見つめてから、シュレーはにっこりと、穏やかな笑みで応えた。 「神殿は着々と計画を進めている」  脚を組み直し、シュレーは深く腰掛けた椅子のうえで、ゆったりと身じろぎした。 「天使会議では、君たち黒エルフ族の絶滅が検討されたこともある。戦いばかりで和平を受け入れないからだ。それを聞いた君の父上は、跪いて命乞いしたよ」  説明するシュレーの言葉は、あっさりしていたが、どこか挑発めいた響きがあった。  スィグルはぽかんとして、その話を聞いた。すぐには意味がわからなかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-50 : 炎の矢 ----------------------------------------------------------------------- 「……父上が?」 上ずった声で、スィグルは薄笑いを消せないまま問い返した。 「そう。フラカッツァーで、私に。スィノニムが、森エルフから奪った土地を返すと約束したので、森エルフ族族長のシャンタル・メイヨウが、正式に黒エルフ族の助命嘆願を申し入れたんだ」 無表情を崩しもしないシュレーが、しれっと答える。 「……嘘だ」  考えるより早く、言葉が口を衝いて出た。  思わず立ちあがるスィグルの顔を、シュレーがのんびりと見上げてきた。 「返すってなんだよ。もともと僕らの領地だ。それを取り返しただけだ! 父上はいつも、命より誇りを惜しめと……」 「君の父上は、君に嘘を教えたんだ」  スィグルの言葉を押しのけて、シュレーが口をはさんだ。  スィグルは自分が何を言おうとしていたのか、すっかり忘れてしまった。 「君の父上はシャンタル・メイヨウに頭をさげた。正直でいいじゃないか。全滅して大陸史から抹消されるより、いくらかの土地を返すほうが、ずっとマシだ。それとも君なら、森エルフに命乞いなんかできないか。誇りを守って餓死するっていうのかい」  スィグルは眩暈を感じて、うなだれた。 「……ひどい」 「何が、ひどいんだ」  シュレーの言葉はとても穏やかで、無慈悲だった。 「僕らの土地なのに……」 「この大陸の土地は神殿のものだ。君らの持ち物じゃない。新しい別の部族に、いつでも投げ与えることができる。君たちは滅亡してしまって居ないから、文句を言えない。それでみんな、しあわせだ……」 「そんな。そんなのって……僕らの土地だ!」 「君たちがいたことなんて、みんなすぐ忘れるさ。今までもそうだったんだから」  言葉もなく、スィグルはシュレーの目を見つめた。  本気で言っている。  シュレーが作り話をしているのだったらいいのにと、スィグルは思った。その考えに逃げようとして、スィグルは失敗した。  シュレーは幾らか悲しそうではあったが、ほんの少しだけだ。  何度も同じような滅亡の間際に立ち会ったような、場慣れが感じられる。  神殿は本当に、黒エルフ族を滅ぼそうとしていたのだ。  そう思うと急に、スィグルは怖くなった。  怖くてたまらない。  ひとが誰かにひどいことをするのに、理由なんかいらないのだ。  母上がどんなに泣いてあやまっても……鋏(はさみ)が指を…… 「やめて」  悲鳴のような声が、のどの奥からあふれ出た。  跪いて、スィグルは目の前にあったシュレーの膝を掴んだ。  ぎょっとしたシュレーが身をひこうとしたが、骨ばった膝に、しっかりとスィグルの指が食込んでいる。 「滅ぼすなんて、そんなのひどいよ……助けて、滅ぼさないで。お願いだよ!」  立ち上がりかけていたシュレーが、身動きがとれないと諦めたのか、落ち着かない表情で椅子に戻った。 「レイラス、落ち着け。助命嘆願は聞き入れられたんだ。だから君が今ここにいるんだ。黒エルフ族の絶滅の代わりに、四部族(フォルト・フィア)同盟を提案して、天使たちを説得したんだ」 「じゃあ……この同盟はあんたの差し金なのか……」  呆然と、スィグルは唸った。  父を跪かせた神殿の連中が憎いと思ってきた。同盟を恨みにも思った。  だがその同盟に部族の命を救われていたなんて。  それが今目の前にいる者の仕業だったなんて。  ……眩暈がする。 「他になにか、いい案があったら教えてくれ」  シュレーはどこか、苛立ったふうに答えてきた。  息が苦しい。  混乱した頭を落ち着けようと、スィグルは目を閉じて、深く息を吸い込んだ。  しかしぼんやりした意識はますます不透明になって、自分がなにを考えているのか、スィグルにはもうよく分からなくなってしまった。 「痛いんだが、そろそろ離してくれないか。君の椅子はあっちだ」  軽い苛立ちを感じさせる声で言い、シュレーが向かい側の椅子を指差した。  スィグルは我にかえって、シュレーの膝から手を離した。指が痺れている。かなりの力で掴んでいたらしい。  そのままシュレーが座っている肱掛椅子の足にもたれて、スィグルは床に座り込んだ。 「ここで聞いてもいい?」 「君たち黒エルフでは床に座り込むのが正しい作法なのか」 「いいから続きを話してよ」  スィグルは指図をうけるつもりはなかった。  じっと見上げて黙っていると、シュレーは観念したのか、ふかぶかとため息をついて、肘掛に肘をつき、赤い聖刻のある額に手をやった。 「……呪いの執行には、天使会議での合意と、大神官台下の許可が必要なんだ。天使会議での決定は多数決だから、なんともいえない。……いや、もっと正確にいうと、絶滅の立案は、たいてい可決されるものなんだ」 「でも、あんたが止めてくれるんだろう。あんたはそのための天使なんだからさ」  話す自分の口調が、責め立てるような早口だったのに、スィグルは驚いた。 「誰も私の話なんて聞いてない。天使たちは次にどれを滅ぼすか決めて、それを実行しているだけだ。大神官も、天使会議の決定はたいてい呑んでしまう」  うつむくシュレーの顔は、ひどく深刻だった。 「……じゃあなんで、僕ら黒エルフは助かったの」  しばらくたってやっと、自分の考えていることが言葉になった。スィグルはシュレーの膝の代わりに、彼が座っている肘掛椅子の脚を強く握り締めた。 「実際のところ、君たちの絶滅はいちど決定されたんだ。でも、大神官が許可しなかった」  ちらりとスィグルを横目に眺めて、シュレーは説明した。彼自身、なっとくしていないような話し振りだ。 「僕らだけなにか特別だったのかな」  なにげなく思っていることを口にすると、シュレーが皮肉っぽく笑った。 「それは君らしい、夢のある理由だな。でもまあ、そうかもしれない。考えられる理由は一つだけだ。なんだか分かるかい?」  冗談めかせて尋ねてきたシュレーに、苛立って首を振った。 「いいから言えよ」  答えをせがむスィグルの顔を、シュレーはやれやれという表情で見下ろしてくる。 「……私と血が繋がっていることだ」 「繋がってないよ」  びっくりして、スィグルは言い返した。 「エルフはもともと、ひとつの種族だった。それを神殿が四種族に分けたんだ。だが今でも、君たちは交配が可能で、混血児を産むことができる。私には山エルフ族の血が流れているから、君たち黒エルフ族とも、交配できるかもしれない」 「……交配?」  スィグルが鸚鵡(おうむ)返しに聞き返すと、シュレーは気まずそうに目をそらした。 「わからないならいい。とにかく、呪いは血の近い者すべてに及ぶんだ。黒エルフ族にかけた呪いは、四部族全体に効果を顕わす恐れがあるし、私の身にも害があるかもしれない。森エルフ族の族長シャンタル・メイヨウは、自分の部族民の身を心配したし、大神官は孫である私の命を惜しんだ。だから君たち黒エルフの助命に協力したんだ」  スィグルは納得して、頷いた。 「じゃあ、もしかして僕らは、永遠に滅ぼされることがないんだ」 「私が……いや、現職の大神官が生きている限りはな」  きっぱりと言うシュレーの顔を見て、スィグルは雷に打たれたような戦慄を感じた。 「大神官て、いつ死ぬんだろう」 「在位の年数からして、もう長くない」 「……じゃあ」 「時間が無い」  甘えのない口ぶりで、シュレーは断定した。  スィグルは大きく息を吸って、目を見開いた。 「どうすればいいの」 「それまでに神殿を倒すしかない」 「そんなの無理だよ」  スィグルは即答した。  絶望的だ。  スィグルはシュレーにもたれかかったまま、割れそうに痛み始めた頭を抱えた。 「神殿は、大陸の全種族に君臨している。だから、大きな力を持っているように見えるが、実際のところ、おそらく、数千人ていどだ」  説明されて、スィグルはやっと顔をあげた。 「君達が恐れている呪いも、神殿内の特定の一派が取り仕切って、他には秘密にしているから、実際にそれと関わっているのは、ごく一部、せいぜい数百人。君達が心底恐れてるのは、そのたった数百人の神殿種なんだよ」  シュレーの声は小さかったが、まるで、耳元で叫ばれているように思える。 「だから、呪いに携わる数百人が一時に死ねば、呪いの技術は失われる」  あっさりと説明するシュレーの口元に、薄笑いが浮かぶのを見つけて、スィグルは小さく息を呑んだ。 「でも……そんなこと、ありえないよ。たくさんの神殿種が一時に死ぬなんてさ」 「自然には無理だが人為なら、ありうる」 「ちょっと待てよ、そんな……」  目元を手で覆って、スィグルは気を落ち着けようとした。 「聖桜城に軍をいれるなんて、絶対にむりだ。先に気づかれて、部族ごと滅ぼされるよ」  何度も首を振って、スィグルはシュレーの言葉を必死で振り払った。 「君が生まれる前の話だが……聖桜城に大火が起こって、中にとりのこされた神殿種を救い出すために、入城を許された部族がいるんだ」 話しながら、シュレーは何故か、うっすらと歯を見せて微笑んでいる。歯列にいやに犬歯が目立つ。 「私の父、ヨアヒム・ティルマンが率いてきた、山エルフ族だよ。父は城のなかに入って、女(ファム)たちを助け出したんだ。……そして破滅した」 にっこりと微笑んで、シュレーが静かに立ち上がった。  傍近くから引き離されて、スィグルはひどく心細くなり、厳かな身のこなしで暖炉に歩み寄るシュレーを、頭を巡らして見送った。  大人びた長身が炎のそばにかがみこみ、指先に火が燃えうつるのではないかと怖くなるほど手をのばす。 「もう一度、聖桜城に火を。中から火を放てば、簡単だ」 つぶやくシュレーの声を、スィグルは抱きよせた自分の膝に寄りすがって聞いた。 「君がやってくれないか」 「……そんなの、僕にできるわけない」 気力のなえた声で吐き捨て、スィグルは膝に顔をうずめた。 「君の名前はレイラスだろう。詩篇は君の運命も予言してるよ」 「彗星レイラス?」 ふん、と鼻を鳴らしてスィグルは毒づいた。 「そう。天をうがつ炎の矢、だ」 笑う気配のする声で、シュレーが詩篇の一節を続けた。 「言いがかりだ。名前が同じってだけで、そんなのないよ」 「そうかな」 皮肉めかせた声で言い、シュレーは立ち上がってこちらを見た。 「私なんて、伝説上の人物と同じ名前だというだけで、初対面の教師に吊し上げられたり、君に怨まれたりしているが、それは言いがかりじゃないのか」 指先にのこる火の熱さを確かめるように、シュレーは手を握り締め自分の唇に触れさせている。 「レイラス、私は思うんだが、人にはそれぞれ運命がある。逃げれば逃げるだけ、それは追いかけてくる。逃れたいものとは、対決するしかない。そしてそれを、乗り越えていくほかない。私は黙って殺される気はない。君はどうなんだ。ただここで、殺されるために生きるので、ほんとうに満足なのか。生き残って、やりたいことは何かないのか。ごみのように捨てられた屑のまま死んで、それで構わないのか」  淡々と問い掛けられて、スィグルは息を呑んだ。 「……僕が屑だって?」 「他のなんだ」  あっさりと問い返された言葉に、答えを返せない。  スィグルは黙ったまま、ずっと椅子の足元にうずくまっていた。  しばらくして、暖炉の薪が燃え崩れ、ぱちぱちと賑やかな音を立てた。スィグルははっとして、顔をあげた。  どれくらい時間がたったのか、よくわからなかった。  しかしシュレーは相変わらず答えを待つように、暖炉のそばから、こちらを見つめていた。 「やる気になったかい?」  そこはかとない期待を感じさせる口調で、シュレーが尋ねてきた。 「できるわけないだろ。馬鹿じゃないのか」  早口に、スィグルは吐き捨てた。 「……そうか」  落胆した気配が、シュレーの相槌からにじみ出ていた。  スィグルは立ちあがって、シュレーと向き合った。 「あんたが天使なんだろ。あんたが1人でなんとかしろよ」  力なく、スィグルは悪態をついた。 「君はずるいな、スィグル・レイラス。私のことを天使として信仰してるわけでもないくせに、都合のいい時だけ祭り上げる。君たちはみんなそうだ。都合のいい救いだけ受け取ろうとする」 「いや……そうでもないよ」  シュレーのそばに歩み寄りながら、スィグルは答えた。 「僕はさ、あんたのこと信じてたよ。……昔はね。天使のなかでも一番好きだったし」 「それは意外な告白だ」  信じていないふうに、眉をあげ、シュレーは笑っている。  でも本当だ。  子供のころは何度も、慈悲の天使に祈った。ある時は、日常のささやかな罪の許しを求めて。別の時には、戦いに赴く父や部族の兵の無事を願って。あるいはただ何と無く、漠然と正体の定まらない幸福を望んで。自分よりはるかに大きな力を持った、神聖な者に頼りたい気持ちで。  実際に、自分が祈っていた相手の姿を見てみるまでは、それが滑稽なこととは知らなかった。  シュレーは自分と変わらない、ただの少年だ。他よりいくらか優れたところがあったとしても、一人で成し遂げられることには限界がある。それどころか、シュレーには、自分の力ではどうにもできないことに向き合った時に、祈ってすがりつく相手さえいないのだ。  スィグルはシュレーの顔を上目遣いに見上げた。 「あの教師だけどさ、あんたのこと恨んでないと思うよ。あれは、なんていうか……あんたに祈ってるんだ。助けてほしいって。救って欲しいんだよ、あんたに。別になにかして欲しいって期待してるわけじゃなくてさ……」  シュレーはただじっと緑の目をこちらに向けて、スィグルの話を聞いている。 「僕にもわかるよ、そういう気分。僕は死にたくない。もう一度、母上や弟と、幸せに暮らしたい。部族の民を幸せにしたい。僕は部族の勇者として誇り高く生きたい。けど僕は……あんたが言うように、ただの屑だ。どうにもできないじゃないか。祈るしかないんだよ。他にはなにも、できることがないからさ。それぐらいいいだろ……それぐらい…………」  言葉が途切れてしまい、スィグルは空白の息だけを吐いた。  さまざまな思いが絡み合って、頭のなかが真っ白になった。  強い力に押し出されるように、スィグルはがくりと、絨毯のうえに膝をついた。 「ブラン・アムリネス猊下、私の懺悔をお聞きください」  むかし躾けられた通りの、神殿の作法どおりだ。しかしスィグルは、心からの声で話していた。 「罪を告白しにまいりました」  右手で心臓を覆う仕種は、神聖な種族への恭順のしるしだ。 たっぷりと迷う気配を漂わせたのち、動揺した力無い声で、シュレーが沈黙を破った。 「……偽り無き言葉で話せ」  懺悔を聞く神官たちが決ってそう答える、お定まりの言葉だ。 「教えに背き、人を殺めて食いました。厭がる弟にも無理矢理に。一人で科人になるのが恐ろしく、弟を付き合わせました。罰は全て私にお与えください。贖罪(しょくざい)の方法をお示しください。私の一生を、猊下の救いのための道具と思し召しください。どんな苦役も望んで受けます」  前もって考えていたわけでもない言葉を淀み無く言い終え、首を垂れて、神殿の天使像にそうするように、スィグルはシュレーのつま先に、自分の額を押し当てた。灼けたものを押し当てられたようにシュレーが緊張した。  おそらく自分はいつも、頭のすみで祈り続けていたのだろう。同じ言葉を繰り返し、相手のいない繰り言として、陳腐な呪いでもかけるように祈り続けてきた。  顔をあげると、シュレーは怒ったような、途方にくれたような顔をしていた。 「レイラス、私が言いたかったのは……君にも幸せになる権利はあるということなんだ」 「そんな下らない慰めは聞きたくない。僕が聞きたいのは、天使の言葉だよ、猊下!」  スィグルが突っぱねると、重い沈黙が返った。  少しして、シュレーは手をのばし、スィグルの頭に触れた。 「……神殿を滅ぼし、大陸の民にあまねく、等しき自由と解放を。それをもって、汝の罪を許す」  威厳に満ちた神聖な声だ。スィグルは軽い驚きを感じて、シュレーの無表情な顔を見上げ、目を瞬かせた。 「お言葉に従います」  スィグルは微笑んだ。 「どんなに強がって見せても、君は結局、神殿の被支配民にすぎないのか」  シュレーの言葉からは、侮蔑の気配ではなく、ただひたすら落胆だけが感じとれた。スィグルは今までにない落ち着いた気分で微笑みかえした。 「あんたは知らないのかもしれないけど、支配するより、支配されることのほうが、ずっと楽なんだよ。侵略者の横暴に屈伏した僕が言うんだから間違いない。誰も彼もが神殿の支配を嫌ってると思ってるなら、あんたはきっと失敗する。僕が力を貸すのは、あんたが天使だからさ。あんたが、なにかものすごい奇跡を起こして僕らを救ってくれるって、心のどこかで期待をかけてる。僕だけじゃない……みんな同じだ」 「肝に銘じておこう」 「僕があんたを手伝って、この世界を壊したら、ご褒美に母上と弟を元通りにするって約束してよ。そして僕らを苦しめた連中に制裁を」 「……約束しよう」  シュレーがおとなしく嘘をついた。その声を聞き、スィグルは心底ほっとした。  それこそ自分がずっと求めてきた救済だ。  いや、こういうのは堕落っていうのかな。  自分はもともと、そのように出来ているのだとスィグルは思った。そういう恥知らずな造りだから、一人だけ何食わぬ顔で今ものうのうと生きていられるのだ。 「それじゃあ、僕は今から、彗星レイラスだ。あんたの野望のために、天を穿つ炎の矢になろう」 シュレーは物言いたげに沈黙した。 「二度と私に跪くな」 「友情が欲しいってわけ?」  手短に、スィグルはシュレーの期待を言い当てたつもりだった。神殿種の少年がうっすらと顔をしかめるのを、スィグルは気味良く見つめた。 「仰せのままに、猊下」 「腹の立つやつだ」 「あんたが馬鹿なんだよ」  おかしくなって、スィグルは小さく笑い声をもらした。 「君の言うとおりだろうな」  肩から力を抜き、シュレーが石造りの暖炉を掴んで、炎をのぞきこんでいる。そうやっていると、シュレーにはこれといって威厳はなかった。ごくありきたりの少年だ。  さっきのは何だったんだろうと、スィグルは不思議だった。 「先のことはいいけど、とりあえず何からやればいいのさ」 「族長になることだ」  スィグルは瞬きして、首をかしげた。 「あんた、族長になりたいのか。そうだったよね」 「私もそうだが、君も。それからマイオスとフォルデスもだ。そして四部族(フォルト・フィア)をひとつの部族国家に戻す。第四大陸に巨大な連合王国を作るんだ」 「…………は?」  微笑んだまま、スィグルは聞き返した。 「今なんて?」 「族長になって、四部族(フォルト・フィア)の統一に力を貸してくれ」  スィグルは無意識に立ちあがっていた。 「……無理だろ、そんなの」  スィグルは呆然とつぶやいた。シュレーは何事も無かったように、燃える薪を見つめている。 「なにを寝ぼけたことを……今まで何を聞いていたんだ、レイラス。聖桜城に入れるのは部族長か、その継承者だけだ。君は私に、君の部族の継承者になると約束したんだぞ。フォルデスやマイオスにも同じことを納得させなくちゃならない。あんな野心の欠片もないような、ぼやっとした連中にだ」  憮然と早口になるシュレーの話を聞きながら、スィグルは一瞬のうちに猛烈な怒りが自分の奥底からこみあげてくるのを感じた。 「そんなことできっこないだろう! あんたこそ何を寝ぼけたことを言ってるんだ!」 -----------------------------------------------------------------------  1-51 : 深淵の鍛冶師 -----------------------------------------------------------------------  黒々とのたうつ螺旋階段が、地下へ地下へといつまでも続いている。  岩盤をえぐって形を整えただけの、荒っぽい石段を踏みしめて、イルスは注意深く、真っ黒な階段をくだっていった。  壁に点々と松明(たいまつ)が灯されている。  ゆらゆらと踊る灯りが、ひとつ絶え果てたころに次、また次と、地下の空洞を照らし出している。  石段に混じった石英や雲母が、明かりに燐(またた)くさまは、まるで、夜の海に漂う銀の泡のようだ。  月明かりを集め、冷たく輝くのに似て、物静かで儚(はかな)い、懐かしい美しさだ。  足音の反響に混じって、空耳のような音がいくつか、地下から浮かび上がってくる。  かんかん、こんこん、と硬質な音が、囁くように鳴り響いている。  鎚(つち)の音だ。  灼熱の鉄を鍛えるため、鍛治師たちが休みなく働く音。  絶え間なく響いてくるその音は、大地の奥底に潜む、竜の鼓動のように思える。  遠くから誘うように耳朶をうつ、密やかで力強い音色に呼ばれるまま、イルスは明滅する闇と炎の間を駆け下っていった。  鍛冶場は身分のあるお方がごらんになるような場所ではありませんと、部屋つき執事ザハルは言っていた。  しかし、イルスの故郷では、自分の剣を鍛えるのに無関心な剣士などいない。鍛冶師と直に会って、自分の剣の性分を伝えておくのは、当たり前のことだ。持ち主以上に、その剣のことを知っている者はいないし、その剣を必要とているのは自分なのだ。他人任せでは心許ない。  イルスがそう説明すると、ザハルは二つのことを教えてくれた。  一つは、鍛冶場に至るこの道。  もう一つは、その道筋が「竜の喉」と呼ばれてきたということだ。  竜に呑まれて行く。  その先にあるのは、竜の胃袋か?  イルスは一人笑いして、螺旋階段の大きなうねりを軽い足取りで下った。  数十の松明を数えながら、舞うようにしばらく行くと、きゅうに生々しく鎚の音が耳に飛び込んだ。  曲った先には階段がなく、かわりに古びた鞣し革が吊されただけの、粗末な入口が待ちかまえている。  竜の喉の終わりに違いない。  縦に裂かれた革の隙間から、乾いた熱気が漏れ出ている。岩の焼ける匂い、鉄の灼ける匂い。それにまじった、かすかな獣脂の匂い。  イルスは向こう側の気配をうかがいつつ、腰に吊していた長剣を、剣帯ごと外した。帯剣を解くのは、鍛治師への礼儀だ。  鍛治場は剣のふるさと。そこへ戻るとき、剣は武器であることを止め、鍛治師たちの芸術の手に戻される。  だから、それ相応に扱わねば、剣がすねる。鍛治師たちの機嫌も悪かろう。  師匠マードックの言葉だ。  鞘に納めたままの剣で、革の覆いをはねのけ、中に入ると、激しい鞴(ふいご)の音が鳴り、剣を鍛える鎚の響きがイルスを迎えた。  薄闇に火花が散る。  鎚を握るのは、大岩のような男たちだ。  汗と脂煙に濡れぎらつく顔には、小さな黒い瞳がらんらんと光り、鞴(ふいご)の風を受けて燃え上がる炉の炎を、灼熱に魅入られたように見つめている。  屈強な筋肉に覆われた背は、つねに折り曲げられたような前かがみで、火花を避けるための革衣の他は、ろくに縫いもしていない毛皮を纏っているだけだ。  大きな頭には不釣り合いな程小さい、つぶれた丸い耳。荒い呼吸のために開かれたままの大口からは、鋭い犬歯が突き出している。  人というより、獣に近い。  イルスは、初めて見る異民族の姿に、とっさに言葉を失った。 「なにを、ぽかんとしてるのさ、ボウヤ」  気配のない方から、予想もしなかった女の声で呼びかけられて、イルスは体を引きつらせた。  身を翻して見ると、自分を見下ろす岩だなに、片膝を抱えあげて赤毛の好敵手(ウランバ)が座っている。  脂の匂う煤(すす)けた闇のなかでも、女の黒い目は冷たく澄んでいた。  ざわり、と何かが背筋をかけのぼってくる。 「……ヨランダ」  つぶやいた名は、蜜のような味がした。  女(ウエラ)は赤い唇をゆがめて、にやりと笑った。  笑い返したものかどうか、わけもなく戸惑ううちに、イルスは結局、女の目から視線をそらせた。 「得物の手入れに来たのか」  機嫌の良さそうな饒舌で、ヨランダはのんびりと尋ねてくる。答えが言葉にならず、イルスはヨランダを見上げて、ゆっくり頷いてみせた。 「やつらに頼みな」  顎をあげて、ヨランダはイルスの背後を示した。  ふりかえって見ると、異形の鍛冶師が鍛え上げた剣を、岩をくりぬいてつくった大きな水桶に突っ込んだところだ。赤く燃えていた剣が冷水に揉まれ、けたたましい悲鳴と水蒸気をあげる。  イルスはその様に見とれた。  引き上げられた剣は、山の部族が使う細身のものだ。硬質な銀色の刀身に、炉の照り返しを赤々とうつしだしている。  仕上げたばかりの剣を見つめる鍛冶師たちの目は、熱に酔いしれている。炉の周りにいる数人の男たちの間には、目に見えない興奮の糸が張り巡らされているようだ。  そばに寄るだけで、自分もその糸に絡めとられてしまいそうな気がする。イルスはそれに、漠然とした恐れを感じていた。 「私は丸腰だ。剣の産屋でやりあおうなんて、野暮なことは考えるんじゃないよ」  笑いさざめくような声にはっとして向き直ると、ヨランダがすぐ隣にいた。いつのまに岩だなから降りたのか、少しも気配がない。  横目でちらりと眺めおろすと、たしかに、ヨランダの剣帯は空だった。  片足に体重を乗せて、ごく近くに立つ姿には、これといった殺気もない。こちらにむけられた頬には、うっすらと透明な産毛が見える。ヨランダは、触れようとすれば手の届く、ただの娘に見えた。 「今まで……どこにいたんだ」  口を衝いて出た自分の言葉に、イルスは内心驚いた。しかし、ヨランダはこちらを見もしない。 「正妃のところに」  あっけなく答えて、にやりと笑いを見せると、ヨランダはイルスが手に持ったままだった長剣の柄にをにぎり、すばやく引き抜いた。  油断していた。イルスは総毛立ち、あわてて身を引いた。  しかし、剣は小気味よく鞘を鳴らして出ていく。抜き身の刃を掴んで引き止める度胸は、とっさには湧かなかった。 「アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ(汝、死を恐れるなかれ)!」  刀身に刻まれた文字を、ヨランダが読み上げた。その強い声は、イルスにではなく、鍛冶場にいる別の者たちに呼びかけているように聞こえた。  鉄と灼熱に没頭していた鍛冶師たちの、興奮の糸がふっつりと切れた。  鍛冶師たちがいっせいに、のそりと重い動作でこちらを向いた。鈍く光っている彼らの黒い瞳に見つめられ、イルスはうろたえた。  ヨランダの顔に視線を逃すと、そこにも、片方だけになった黒い瞳が、地下の薄闇に濡れて爛々と光っている。  どれも同じ、黒い瞳だ。  ひとりだけ青い目でいるのが、イルスにはひどく異様に思えた。 「いい剣ね。故郷から持ってきたのかい」  長剣を撫でて、ヨランダが誉めた。  ヨランダは、楽しそうに長剣のすみずみまでを眺めている。  イルスは深い息をついた。ヨランダはたぶん、海辺の武器が見たかっただけなのだ。 「ああ。湾岸の鍛冶場から」  イルスは安心して、やっと微笑んだ。 「お前には、この剣はでかすぎやしない? もっと身の丈にあったのを使うもんだよ」  さらりと言うヨランダの言葉に、イルスはむっとした。  師匠が鍛冶師に頼んで、イルスのためにあつらえてくれた剣だ。具合の悪いことなど何もない。 「おまえの剣、できたぞ」  たどたどしい公用語が割り込んできて、イルスの反論を遮った。  荒い息の音の混じる声がしたほうに目を向けると、ふたふりの剣をぶらさげた鍛冶師が、こちらにやってくる。  剣には見覚えがあった。ヨランダが使っていたものだ。  そばにくると、鍛冶師は見上げるような巨大な体躯で、肩や胸に、瘤のような筋肉がもりあがっている。汗をかいた鍛冶師の体からは、かすかな鋼鉄の匂いと、濃厚な獣脂の匂いが漂ってきた。  自分の剣を受け取るために、ヨランダはイルスの長剣を無造作に砂地に突きたてた。それを見て、イルスはますます、むっと不愉快になった。 「いい砥ぎね。ありがとう」  喜色を浮かべて鍛冶師に礼をいうヨランダが、普段よりしおらしい気がする。  剣を並べて握り、ふたつの片刃の砥ぎ具合を見比べているヨランダと、腕を垂らしてそれを見下ろす若い鍛冶師を、イルスは交互に眺めた。  鍛冶師の屈強な体躯は汗に濡れ、荒い息がくりかえし嵐のように響く。その脇に立つと、ヨランダはひどく華奢に見えた。まるで風にも折れそうな、弱々しい娘のようだ。  イルスは訳もなく、惨めな気分になり、ふたりから目をそらした。  今日はもう、予定を変えて戻ろうかと思い、イルスが手をのばしかけたとき、鍛冶師の手が先回りして、砂地に立っていた長剣を引き抜いた。 「研ぐか」  低くうなるような声で、鍛冶師が尋ねてきた。片言の公用語だ。  イルスは鍛治師の獣相を見上げた。エルフとはまるで種族が違うらしい、屈強な体躯は恐ろしげだ。  言葉がわからないのかもしれない。なぜか気味良く、イルスはそう思った。 「頼む」  気をつかって、イルスはなるべく簡単に答えた。 「おれ、話せないだけ。お前の話、わかる」  鍛冶師の声色は相変わらずだったが、彼が不機嫌なのが感じられる。  イルスは驚いた。そして反省した。  なにをきゅうに、得意な気持ちになったのか。 「すまない」  イルスがわびると、鍛治師は小さな黒い目で、じっとイルスを見下ろしてくる。 「いい剣だ」  無表情に答えて、鍛冶師はのそりと背を向け、イルスの剣を持ち去った。  くすくすと笑うヨランダの声が降り掛かってきた。 「やつらはうすのろだけど、馬鹿じゃないのさ。安心して剣をまかせな」 「知り合いなのか」  むすっとした気分のまま尋ねると、ヨランダは面白そうに眉をあげた。 「ガキくさい顔だね」 「悪かったな」  無愛想なまま答えると、ヨランダは一瞬だけ笑いをこらえるような顔をしてから、我慢しきれなかったのか、声をたてて笑った。 「笑うな」  イルスは腹を立てていた。  でも、ヨランダが楽しげに笑っているのが嬉しくもあった。この女も、こんなふうに笑うことがあるのだ。 「こんどは、お前が丸腰になったね」  鞘に戻した二刀を剣帯に吊して腰に帯びながら、ヨランダはまだうっすらと笑っていた。 「私たちの習わしでは、炉辺は神聖な場所だ。戦いはまた、別の時に」  ヨランダはもう、立ち去る気配を見せている。イルスはじわりと胸のうちをあぶられるような気持ちになった。 「別の時っていつだよ」  小声しか出なかった。 「死に急いでどうしようっていうんだい。行儀よくお勉強でもしてな。」 「……俺が負けるって、決ってるわけじゃない」  くやしまぎれに、イルスは強がってみせた。 「俺はお前に殺されたりしない。自分の死に場所ぐらい、もう知ってる」  背をむけていたヨランダが、身をよじってこちらに目をもどした。 「口だけは一人前だね」  女の顔は、意地悪く笑っている。 「嘘じゃない。未来視したんだ」  ヨランダを信じさせようと思って、イルスは後先考えずに話した。  ヨランダが、ふいに真顔に戻った。 「お前、未来視なの」  黒い瞳に見つめられて、イルスは動揺した。 「私がいつ死ぬかも、わかる?」  なにげない風に尋ねてくるヨランダの反面が、不安げにかげっている。  イルスはきゅうに、口籠った。答えをひとつも持っていない。 「わからないよ。お前の未来なんか、俺は見てないし……」  慣れない作り笑いでごまかそうとしたが、ヨランダは少しも、イルスから目をそらそうとしない。 「お前がもし、今夜だといっても、私は平気よ。覚悟はできてる」  イルスはヨランダの右半面を醜く歪めている、赤黒い透明な石を見つめかえした。  竜の涙。死(ヴィーダ)だ。  恐ろしいと思った。目の前にいる、この女の死が。  あの剣が、この黒い瞳が、この世界から消えてしまうなんて。触れることのできない遠いどこかへ行ってしまう。 「お前が死ぬのは、ずっと先なんじゃないかな」  目を細めてヨランダを見つめ、イルスは自分ではない別のものに操られたような言葉で話した。 「俺はよく、他人の死を未来視するけど、お前のは見えなかったよ。俺の力じゃ、見えないくらい先なんだろう。十年ぐらい先までは、なんとかわかるんだけど……」  無責任な言葉が、すらすらと口を衝いて出てくる。まるで未来が全部見えているような言いかただ。  師匠が知ったら怒るだろう。予知者が見るのは、未来のほんのひとかけらだ。たったそれだけのことが、大勢を苦しませる。起こらなくてもいいような悲しい出来事を呼び寄せるのだ。 「私があと何年も生きてるなんて、あるわけない。このごろずいぶん、おかしくなってきてる。昨日のことも、忘れてしまいそうで……」  ヨランダが鍛冶場の炉に目を逸した。 「怖い」  ぽつりとつぶやいて、ヨランダは短いため息をついた。 「怖いって……お前が?」  驚いて、イルスが尋ね返すと、ヨランダが不満げに眉をあげる。 「そうよ、おかしい?」  イルスは答えを言葉にできず、ただ首を横に振ってみせた。 「ときどき自分がわからなくなる。お前にも、そういうことが?」 「自分がわからないって、どういうのだ」 「頭の中が、虚ろになって、なにも感じなくなるの。ものを壊したくなったり……」  ヨランダは不意に、恥らったように話すのをやめた。何気ない仕草に、女の匂いがした。 「とにかく、私は時々おかしいんだ」 「それぐらい、誰にでもあるだろ。石がなくたって」  ヨランダを元気付けたいと思ってイルスは気楽なふうに話した。  ヨランダは納得していない顔でうつむきがちになり、うっすらと笑った。 「気休めは止しな。お前もいつか私と同じになる。その時がくる前に、大切なことはみんなやっておくといいよ。自分が他の連中とおんなじように、当たりまえに生きられるなんて、思っちゃだめよ。私たちはいつだって、今日かぎりの命なんだから」 「……お前の大切なことは、みんな終ったのか」 「ああ、終った」 「死にたくないって言ってたくせに」  女の顔から目をそむけて、イルスはつぶやいた。  なんの未練も感じさせないヨランダの横顔に、イルスは心を傷つけられた。  この好敵手(ウランバ)はやはり、自分を見ていない。死に行く前のほんの片手間に、技に奢って未熟な剣士をからかっただけなのだ。  腹を立てたいと思ったが、イルスはただ、悲しかった。 「死にたくないよ。だけど、私の一生はもう終る。腹の立つこの石が、私を押しつぶすのを、どうやってとめられる?」  ヨランダがクスクスと笑う声が聞こえる。イルスは小さく首を振った。 「俺はあきらめない」 「むだな足掻きだよ。お前もどうせ、そのうち死ぬわ。せいぜい後悔なく生きることね」  ヨランダがやんわりと応えた。  がきん、と鋭い鎚の音が鳴った。  驚いて、二人は燃える炉のそばにある、金床(かなとこ)を見遣った。  獣面の鍛冶師が、鎚(つち)をふりあげ、屈強な汗まみれの腕で、金床に横たわる赤く燃えた剣を鍛え始めた。  風をきって振り下ろされた鎚(つち)が剣を打ちのめし、けたたましい叫びをあげる金属を、一点の隙も無い武器へと変えてゆく。  飛び散る火花が地下の闇を切り裂く。  執拗に鉄を打ちつづける、鍛冶師たちの腕から、額から、しずくになって汗が飛ぶ。  ヨランダはそれを面白そうに見つめている。  女の白い喉元で、赤い液体を閉じ込めた、ガラスの入れ物が揺れている。中につまっているのは毒だと言っていた。  死の恐怖に追いつかれて、ヨランダが今夜にも、その中味をあおるのではないかと想像すると、イルスは気が気でなかった。  なぜそんな、くだらないものに、この女をとられなければならないのか。  それぐらいなら、いっそのこと。  今すぐこの場で、殺してしまいたい。  がきん、がきん、と休みなく、音は聞こえた。打ちひしがれてゆく鉄の悲鳴と、自分の呼吸が、ぴったりと同じ早さだ。  耳を打つその音階が、女の横顔と重なるのが、たとえようもない。  胸苦しくなって、イルスは目を閉じた。  赤く輝く鋼鉄に焼かれ、目の底が燃えるようだ。 「やつらが何者か、お前は知らないだろ」  ヨランダの声に呼び戻されて、イルスは目を開けた。 「私たちはずっと昔、ともに戦った。神殿を倒すために。そして呪いをかけられたんだ。やつらは日にあたると死んでしまうようになった。生き残ったのは、こうやって穴蔵にいた者だけで、あとはみんな死んだのよ。今もこうやって、ここから一歩も出ずに生きていくしかないのさ」  ヨランダが低くかすれた心地よい声で、イルスの耳元に囁いた。 「だけどお前は、奴らが不幸せだと思う?」  イルスはヨランダの声を聞きながら、うすぼんやりと、別のことを考えていた。  息が熱い。間近に頬を寄せてくる女の甘い匂い。鍛冶場の淀んだ熱気のなかで、それだけが場違いだ。揺れる羽飾りのついた帽子の中にまとめられた赤毛が、長いのか短いのか、気になってしまう。  異民族の丸い耳にかかる赤い後れ毛。耳飾りをしていない。女たちはみんな、飾り物を身につけたがるものなのに、部族の風習が違うのだろうか。  ヨランダには、髪の色と同じ、赤い石が似合いそうだ。炎の色。赤い血の、色……。  ぼんやりとそう考えたときに、ちらりと赤いものがヨランダの耳の後ろあたりに見えた。  気になって、目を細めてみると、そこにあるものの正体がわかった。  竜の涙だ。赤い石が、なめらかな首筋から唐突に突き出している。  がきん、と鍛治師の鎚が鳴った。 「やつらには燃える炉と、灼けた鉄があれば充分なのよ。私にもそういうものがある。それがある限り、私は不幸せにはなれっこない」  淡く微笑みながら言うヨランダの頭の中で、なにが起こってるのかを想像して、イルスは軽い吐き気を感じた。赤い竜(ドラグーン)が、女の頭を食い破って生れ出ようとしている。誰にもそれを止めることができない。 「お前にもそういうものがある?」  がきん、と頭のなかに響く鎚の音が聞こえた。イルスは仕事に没頭する鍛治師たちを見つめた。  たゆみない槌の音を、イルスの呼吸が追い抜いていた。 「俺は……」  首を振って、イルスはうめいた。 「強い剣士になりたい。それ以外はなにも」 「いつかはなれるさ。次の花(アルマ)が咲く頃には……」  細められたヨランダの目蓋に、うす青く静脈が透けている。  女の肌はどこもかしこも薄く滑らかで、簡単に引き裂けそうに見える。  噛み付きたい。  柔らかな肉を噛み千切る感触が、イルスには生々しく想像できた。苦しんで身をよじる女の生白い喉も。  死(ヴィーダ)から遠ざけたいとも思い、それと同じくらい強く、滅茶苦茶に傷つけたいとも思う。  それが死であろうと、なんだろうと、誰にも渡したくない。  この好敵手(ウランバ)は、最後の息のひとかけらまで、自分のものだ。  イルスはそう思っている自分の心に、混乱した。  なぜそんなことを。どうかしている。アルマの血の狂乱がやってきて、正気を奪っていこうとしている。  炉の炎を掻き立てる鞴(ふいご)の音が、ごうごうと地下の穴蔵にごだました。  イルスは手をのばして、ヨランダの髪を覆う帽子をとった。いくつかの三つ編みに編まれ、帽子のなかに納まってた赤毛が、ゆるりと崩れてヨランダの肩におちる。  ヨランダは不思議そうにイルスを眺めてきた。  女が隠す気配も見せない頭の右半分には、豪華な髪飾りのように、たくさんの赤い石が浮きあがっている。  イルスは目眩に似た激しい焦りを感じた。死(ヴィーダ)にこの女を奪われてしまう。  灼熱の鉤爪で、胸を掻き毟られるようだ。 「早く俺に、剣の使い方を教えてくれ」 「それは……好敵手(ウランバ)に頼むようなこと?」  ヨランダがからかう口調で答える。 「いつかじゃだめなんだ。俺は今、強くなりたいんだ。今日限りの命だっていうなら、今日。次のアルマには、お前はいないんだろう。だったら俺にもこれが最後だ。俺はお前に、勝ちたいんだ」  ややあってから、うつむいて目をそらし、ヨランダが笑った。皮肉めかせて喉を鳴らすのが聞こえる。 「ああ、そうかい。そいつはいいね。だけどボウヤ、自分がなにを言ってるかわかってるのかい。それとももう、どっぷり花(アルマ)に酔っちまって、なにがなんだか分からないっていうの?」  顔をあげたヨランダの目は、笑っていなかった。 「私がなんで、お前の命を取らないでやったか、わかってないのかい。お前が可哀想だからよ。長い命じゃないんだ。故郷に帰って、女(ウエラ)たちに子供を産ませてやりな。お前にはまだ、時間があるだろう」  イルスの手から帽子をひったくって、ヨランダは目を合わせないまま言った。 「挑戦(ヴィーララー)は神聖だ。途中ではやめられない」  驚いて、イルスは答えた。 「……だったらさっさと、決着をつけたらどう。お前、ほんとに私を殺せるの」  とげとげしい口調で、ヨランダが尋ねてきた。 「私の心臓を、ちゃんと狙えるのかい。たかがちょっとの傷だって、びびって斬れないくせにさ」  自分の左胸をどんと叩いて、ヨランダはイルスを睨み付けてきた。  ヨランダの無防備な胸元を見て、イルスは押し黙った。  いつまでも何も応えないでいると、ヨランダが舌打ちしてこちらに背を向け、帽子をかぶり直した。  腕を上げたヨランダの脇腹には、しっかりと鍛えられたなめらかな筋肉が淡く浮き上がっている。女の腰は、思ったより細かった。 「お前が竜の涙じゃなかったら、あのとき殺(や)ってた」  突然立ち去ろうとするヨランダにぎょっとして、イルスは思わず声をかけた。 「ヨランダ」 「なに」  振り向いた女の顔は渋面だった。 「剣技を教えてくれないのか」 「教えてやるわよ」  ヨランダは苛立った気配の答えを寄越してきた。 「いっておくけど、私がお前を殺そうと思ったら、そんなこと簡単なのよ。お前、それでもいいの」  いらいらと早口になって、ヨランダが尋ねてきた。 「いいよ」  確かめるヨランダの心が不思議に思えて、イルスはあっさりと答えた。  アルマ期の挑戦(ヴィーララー)はもともと、命のやりとりだ。  ヨランダが深くため息をもらし、再びくるりと背をむけた。 「ヨランダ……いつ?」  鍛治場を出て行くヨランダの背中に、イルスは言葉を投げかけた。 「ヌーイ」  螺旋階段にこだまして、ヨランダからの答えが返った。  夜、という意味の言葉だ。  まろやかな懐かしい響き、海辺の故郷を思い出す。  ばさりと入り口を覆う革が下りて、女の足音は、すぐに聞こえなくなった。  遠ざかる気配すら追えない。  がきん、と再び剣を鍛える音が戻ってきた。炉に返し、灼熱を取り戻させた剣を、鍛治師たちがまた叩きはじめた。  イルスは炉辺の男たちに目をむけた。  ぎらつく暗闇に吐いたため息が、ひどく熱い。  振り下ろされた鎚のまわりに、ぱっと火花が飛び散る。  目が焼けるようだ。  しかしイルスはそれから目をそらせなかった。  金床にむけられた男達の目も、狂乱に憑かれたように鋭く、ただじっと、白熱した一点だけを見つめている。  強力(ごうりき)の槌に蹂躙される鉄の悲鳴が、何度も心地よく、獣脂のにおう熱い暗闇に響きわたる。  嘆くように。喘ぐように。  イルスは耳をすまし、ぼんやりといつまでも、その声を聞いていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-52 : 地図の欠片 -----------------------------------------------------------------------  誰もいなくなってしまった。  しん、と静まり返った教室に一人ぽつねんと居残って、シェルは廊下を行き交っている、学生たちの長靴(ちょうか)の音を聞いていた。  石造りの硬い床を、こつこつと叩く踵(かかと)の音は、どれも幾人か連れ立って早足に歩き回っている。  山エルフの学生たちは、仲がいい者どうしで徒党を組んでいるのが好きらしい。  たいていは5、6人で、企みを隠した目配せと、彼らにしか分からないらしい秘密の話で賑やかに談笑しながら、学内をうろうろとさ迷っていたり、廊下の終わりの石段にたむろして、果ての無い立ち話をしていたりする。  彼らが楽しそうに見えて、うらやましい。  イルスが誘ってくれたのを、断らなければ良かった。剣の手入れのために学院の鍛冶師を探しに行くから、シェルも一緒にどうかと言ってくれたのだ。  シェルは、椅子の前に投げ出した自分の足を見下ろした。  剣のことに興味がないし、鍛冶場なんて、恐ろしい。  人を傷つけたり、殺したりする、剣や槍を鍛える鍛冶師たちは、きっと、粗野で狂暴な連中だろう。  学棟では、帯剣が禁じられているため、丸腰に慣れないイルスは長居をしたくないふうで、さっさと寮に戻ってしまったが、シェルはこの学び舎(や)の、諍(いさか)いのない雰囲気のほうが、しっくりと肌になじむ。  だけど一緒についていけば、イルスともっと話しができたかもしれない。しばらく時間をつぶしていれば、気を取り直して戻ってきたシュレーやスィグルとも、また顔を合わせられたかもしれない。  うつむいたまま、シェルは重苦しい小さなため息をついた。  後悔している。  故郷の王宮では、うるさく付きまとってくる世話好きな姉たちから逃れるのに、必死なくらいだったのに。ここでは簡単に、誰もいなくなってしまう。  同盟の人質として、同じ境遇のうちにいるのだから、友達になれると思いこんでいたが、どうやら彼らは、自分にはそれを望んでいない。  一緒にいると、楽しいような気がする。  シュレーは気難しくて、すぐに機嫌が悪くなるのには参るけど、模擬戦闘でのことには、感謝してくれていたみたいだった。そのことを別にしても、シュレーの心はどことなく物言いたげで、もとからそんなに、冷たくはなかった。  イルスは嫌味なところがなくて、いつも気楽に話しかけてくれるし、彼と一緒だったら、スィグルもシェルに憎しみを顕わにしないみたいだ。自分とは本来、関わりのないことかもしれないが、彼らが軽口を叩き合うのを側で聞いているだけでも、シェルはなんとなく楽しくなり、自分もその雰囲気の一員であるような気分になれた。  よそよそしい壁を取り払って、もっと親しくなれたらいいのに。  もっといろいろ話したり、一緒にいられたら楽しいだろう。  だけど彼らは3人が3人とも、シェルとの別れ際に寂しいなんて思っていない。  しゅんと納得して、シェルは所在なく、椅子から立ちあがった。  なにげなく教室の壁を見遣ると、大きな地図がシェルの目を引いた。  四角く切った羊皮紙を継ぎ合わせた、古びた地図だが、金銀をふんだんに使った豪華な品のようで、うっすらと煤けて鈍い色合いになってはいるものの、落ちつき払った美しさだ。  くすんでしまう前には、きっと鮮やかな群青色をしていただろう、泡立つ海に囲まれて、第四大陸(ル・フォア)の全様が描かれている。  鷹の羽を飾った矢が指し示す北は、地図の真上よりも少し傾いていた。斜めに描かれた矢と同じになるように、シェルは首を傾け、大陸の最北端を見上げてみた。  大陸の中ほどより少し上あたりを境にして、精緻な色彩で塗り分けられていた地図が、まるで描きかけのまま投げ出されたように、のっぺりとした灰色に沈んでいる。そこには、無関心そうな言葉がぽつりと書きこまれているだけだ。  荒野(ムア)。  ぼそりと、シェルはその言葉を小声でなぞってみた。  シェルは故郷の教師たちから、大陸の北には、何も無い荒野が広がっていると教えられた。呪われた地であり、そこには何も無い。  大陸の北部について、それ以上、学ぶべき知識はない。  大陸の中央にある、神聖一族の直轄領(ちょっかつりょう)より南が、大陸の民に分け与えられた恵みの地であり、そこにある稔りは全て、神殿種たちの神聖な技(わざ)によるもの。養われるために、大陸の民は神殿種に仕え、服従するのだ。  荒野(ムア)には……何も、ない。  そんなことが、ありえるだろうか。  何もない、なんてことが?  大陸の南には、こんなに沢山の部族がいて、山々があり、大河が流れ下り、鳥が渡り、森には花が咲き乱れて、白い女鹿たちは毎年の秋ごとに可愛い子供を産むのに?  シェルは何度かまばたきして、地図の中の、灰色に塗られた辺りを見つめた。  神殿の神官たちは、荒野(ムア)は呪われた地として、興味を持つことすら禁じている。彼らが、何もない、と言うのだから、そこには何もないのだ。  だけど。ここにも、きっと、何かが……。  自分の心に知られるのも怖いような思いで、シェルが慎重に考えかけたとき、どたどたと激しい足音がして、ばたんと乱暴に扉が開く音がした。  飛びあがって、シェルは振り向いた。  教室の扉を押し開けて、灰色の巨人が現れていた。クム・ロウ師が戻ってきたのだ。 「先生……すみませんっ。僕は地図を見ていただけで……!」  慌てて舌を噛みそうになって、シェルはうっと黙り込んだ。みるみる頬が熱くなってくる。クム・ロウ師はシェルがいることを予想していなかったようで、虚をつかれたようにぴくりとも動かなくなっている。  扉をくぐるために灰色の長身をかがめたままで、クム・ロウ師は小さな黒い目で、じっとシェルを見つめている。シェルが黙り込むと、低く繰り返されるクム・ロウ師のかすれた呼吸の音が、静まり返った教室に響いた。 「君は、わたくしの講義に来ていた、森エルフの子供だね」  ゆっくりと注意深い発音で確かめてくるクム・ロウ師に向かって、シェルは何度も頷いてみせた。 「地図に興味があるのかね?」 「はい! いえ、あのう……そうです、すみません」  じたばたと答えるシェルをまじまじと見て、クム・ロウ師は、常人よりはずっと多めの時間をかけて、にんまり、と笑った。 「なぜ、謝罪を、するのかね。地図を見るのが、そんなに悪い、ことなのかね」 「いえ、そんなことはないです! ……と、思います。たぶん……」  こちらをじっと見ているクム・ロウ師の視線に言葉を押し返され、シェルはだんだん小声になった。  のしのしと大仰な足取りで、灰色の肌をした4本腕の老師は、無造作に椅子を脇へ押しやりながら、まっすぐにシェルのところまで教室を横切ってきた。  目の前で立ち止まられて、シェルは思わず1歩退いた。 「君の名前は、なんというのかね」  すぐそばにいる者に話しかけているとは思えないような大声で、クム・ロウ師が訊ねてくる。びっくりして耳を塞ぎながら、シェルはあんぐりと老師の小ぶりな顔を見上げた。 「シェル・マイオス・エントゥリオです、先生」 「マイオス! 道指し示す者来たりて語る。耳傾けるべし、その名はマイオス!」  深い皺がいく本も刻まれた無表情のままで、クム・ロウ師は、シェルの洗礼名の由来となっている、詩篇の一節を喚きたてた。 「そ……そうです、そのマイオスです」 「マイオス君は……」  言いかけて、クム・ロウ師はふっと言葉を切り、ふうぅっと、長い息を吐いた。そしてたっぷりと時間をかけて、傍目に見ているシェルが息苦しくなってくるほど、たくさんの息を吸い込んだ。 「ブラン・アムリネス猊下と親しいようだったが、なぜかね」  また、にまりと笑って、クム・ロウ師はシェルが予想もしていなかったことを訊ねてきた。 「なぜって……わかりません。そんなに親しくはないです」 「猊下の隣の席にいてもかね? いつから、そのような栄誉が、たまたまそこにいた少年に投げ与えられるような、不信心な世になったのかね」  喚きたてる嵐のような、威圧感のある声だ。クム・ロウ師の顔が、こちらを覗きこんで笑っていなければ、老師が怒っていると思うべきところだろう。 「模擬戦闘で一緒に戦ったので……そのせいかもしれないです」  どことなく恥ずかしく、後ろめたい気がして、シェルはうつむいて視線をそらした。自分がなにか、得意に思っていると見られるのがいやだったのだ。 「天使が戦上手でも誰も喜ばないでしょう。しかしマイオス君。君は良いことをした。ブラン・アムリネス猊下は義理堅く、大陸の民の忠誠を重く受けとってくださるお方。きっと君のことも、目をかけてくださる」  クム・ロウ師がシュレーのことを、よく知っている人物のように話すのに、シェルは違和感を覚えて、顔をあげた。 「あのう……先生は、ライラル殿下のことを、よく知っているんですか?」 「シュレー・ライラル。わたくしは知りません。ヨアヒム・ティルマンの血が天使を冒涜したのです。ティルマン君。聡明な少年でした。崇拝というものを知れば、猊下のよい僕(しもべ)になれたものを。愚か者です」  むっと顔をしかめて見せるクム・ロウ師の黒い瞳が、どことなく傷ついている。 「先生は、ライラル殿下の父上のことを、知っているんですか?」  驚いて、シェルは確かめた。  そうだ。クム・ロウ師は自分は途方もない長命だと言っていた。それが本当なら、シュレーの父親がまだ少年だったころにも、この学院にいたのもかしれない。きっとそうだ。 「よく知っています。彼はよい生徒で、ちょうど、さきほどの君のように、この地図を眺めに、毎日のようにやってきました。よい族長になって幸福な死を迎えるものとばかり。まさか聖母を犯すほど、道を過つ馬鹿者だったとは……」  ひゅうう、と息を吸う細い音が、クム・ロウ師ののどから響きはじめた。  師が息をつぐ間、シェルは黙って、言葉の続きを待った。  肺いっぱいに息を吸いおわると、クム・ロウ師は水にもぐる時にそうするように、ぴたりと呼吸を止めてしまった。シェルは老師が、話す時にまったく息をしていないことに気づいた。  ノーヴァ族といったっけ。  シェルは他では見ることもない、灰色の異民族を改めて不思議に思った。 「でも、ライラル殿下の父上と母上は、愛し合っていたんですよね?」  師の姿は異様でも、その中におさめられている心が同じなことを、シェルはぼんやりと確信していた。 「愛というのが、どういったものか、わたくしは知りません」  黒目ばかりの小さな目を地図に向け、クム・ロウ師は大陸の南の端、エルフ諸族の領地があるあたりを見つめ、ゆらゆらと震える骨ばった指で、山間(やまあい)の国を示した。 「ごらん、マイオス君。君たちの国……」  地図に敷き詰められた羊皮紙の一葉には、山エルフ族の領地が描かれている。  その端をつまんで、クム・ロウ師は一気に、羊皮紙を台紙から剥ぎ取った。  繊維の引き千切れる音とともに、近隣の土地もろとも、山エルフ族の領土は第四大陸(ル・フォア)から姿を消した。一緒に連れ去られた森を、シェルは咄嗟に湧いた言い知れない切なさとともに、師の手の中にある羊皮紙の切れ端のなかに探した。  クム・ロウ師が地図の破片を支えていた指を開くと、紙切れはひらひらと舞い落ちていく。老師はなにかの儀式のように、4つの手の指を、ゆらゆらと蠢かせている。 「消えてしまったよ。このような痛手と悲しみが、たった一人の愚か者のせいで、起きてよいものでしょうか。君のいう、愛なるもののために?」 「けど……実際には今もこうして、ちゃんと山エルフ族の部族領は無事です」 「君は、何歳かね、マイオス君」  関係ない質問をするクム・ロウ師が、話から気をそらしたのだとシェルは思った。煮え切らない気持ちで、シェルはしぶしぶ答えた。 「13歳です、先生……」 「なんと若い。君が生まれてから今までの時は、わたくしにとっては、ほんの1日ほどのこと。わたくしよりさらに長命な神殿種にとっては、ただの一時、目蓋を伏せて、また開くまでの合間のことです。神聖な沈黙が、許しであると、忘却であると、どうして決められましょうか。深い怒りもまた、沈黙のもととなるものです」  シェルはぎゅっと唇を引き結んだ。  クム・ロウ師の言うことは、理解できた。  今まで自分では、そんなことを考えてみたこともなかったが、師はこう言っている。神殿種の怒りはまだ生々しく、呪いは今も保留されている。シェルにとっては、自分が生まれるより前の大昔に起きた、すでに終わった出来事であっても、神殿にとっては、そうではない。 「先生は、神殿が山エルフ族を滅ぼすと思ってるんですか」 「わたくしは、心配しているのです。君のいう、愛というもの。わたくしがそれを持っているとすれば、この若く愚かな人々のことを思うときの心です。昨日生まれて、今日には死んでしまう、健気な彼らの名前を、地図から削ることにならなければ良いが……」  深い息をつくクム・ロウ師の呼吸が、悲しげに細い音を立てた。 「わたくしは沢山の名前を、葬らねばならなかった。この上、慣れ親しんできた人々の名を、それに加えたくないのです」  哀切に語るクム・ロウ師の言葉に引きずられて、シェルの心は揺れた。いけないと思いながら、声が口を衝いていた。 「先生、荒野(ムア)にも先生が忘れなければならない名前がありましたか」  強張った無表情から、むりに微笑を作って、クム・ロウ師は答えた。 「ききわけのない少年よ、荒野(ムア)には何もありません。しかし君が欲しいというなら、わたくしは今でも、地図の欠片をいくらか保管しています。君と親しい神聖な御方が、古い名前を思い出したいと思し召しならば、わたくしの手元から、それらがなくなっても、惜しみはしないとお伝えしなさい」  シェルは動揺して、何度もからっぽの息を吐き出した。 「もし、ライラル殿下が欲しくないと言っても、僕にそれを、くれませんか、先生」 「君が知って、どうするのかね」  きょとんと不思議そうにこちらを見下ろすクム・ロウ師は、森で出会った鹿のようだ。 「わかりません。でも僕、知りたいんです。その、古い名前というのを。忘れられてそれっきりなんて……悲しいし……」  言い終えられずに、シェルは口篭もった。自分で言っていて、わけのわからない理由のような気がした。  しかしクム・ロウ師は、ぐるぐると喉を鳴らして笑った。異様な笑い声だ。 「わたくしはまた、よい生徒を得たようだ」  二対ある、クム・ロウ師の痩せた手が、ぽんと勢い良く打ち鳴らされる。乾いて皺の寄った手のひらを擦り合わせ、クム・ロウ師は高揚した目つきで地図を見上げた。 「美しい(ビーネ)! この大陸のことを理解したい、そう思わないかね、マイオス君」 「はい」  うっとりと陶酔している老師の様子がおかしくて、シェルは思わず微笑んだ。 「たくさん知りなさい。世界を見つめなさい。それはあらゆる神秘に触れることができる力だ。それによって君は、自分自身を知ることができる」  シェルの肩に触れて、クム・ロウ師は穏やかな力をこめて言った。  そしてもう一つの右手で、長衣(ローブ)の懐をごそごそと探り、小さな金色の鍵を取り出して、シェルに差し出した。 「君にあげよう。わたくしの研究室の鍵です。いつでも好きなときに来て、好きなだけ居ていい。わたくしが居ないときでも、わたくしが居なくなってからも……」  にこりと微笑んで、クム・ロウ師はシェルの手の中に、鍵を落とした。  シェルはあわてて、鍵を握り締めた。 「この鍵をあげるのだから、君がわたくしを失望させる愚か者でないことを、願っているよ」  シェルはクム・ロウ師の黒い瞳をまっすぐに見上げた。  手の中にぎゅっと握り締めた鍵には、しみいるような心の震えが刻み込まれているように思えた。  今の自分と同じように、この鍵を握り締めて、ここに立っていた誰かがいる。感応力がぼんやりと拾い上げる古い心の残滓(ざんし)を、シェルは追いかけた。  先生、鍵をお返しします、申し訳ありません。  落ちついた若い男の声が、虚無から蘇ってきた。  走り去る背中を見送る誰かが、冬の嵐のような声で叫ぶのが聞こえた。  愚か者!  愚か者!  愚か者め! 「マイオス君。機会があればぜひ、猊下もお誘いしなさい」  朦朧と漂ってくる古い声と良く似た、かすれた声が、シェルの耳を現実に引き戻した。  シェルは、年老いた異民族の目を見つめた。 「僕、きっとそうします」  シェルが約束すると、クム・ロウ師はかすかに、頷いたようだった。 「さて。わたくしは地図を修正しに来たのです。君はもう行きなさい」  床に落ちていた剥がれた羊皮紙を拾い上げて、クム・ロウ師はシェルに背を向けた。  また来て良いと言われたので、シェルは寂しくなかった。  そうだ。一度別れたからって、それっきりってことはない。  寂しければ、また会いに行けばいいんだ。  よく考えてみれば、そんなの、当たり前のことだ。  指を開き、こっそりと手の中の鍵を覗き見て、シェルは不思議な気持ちになった。  この学院に来て受け取った、みっつ目の鍵だ。この先いったい幾つの鍵をもらって生きていくんだろう。 「先生、また来ます」  挨拶して、シェルは走り出した。誰に会いに行こうかと、考えながら。 -----------------------------------------------------------------------  1-53 : 花争い -----------------------------------------------------------------------  ばさばさと、うるさく飛び去ってゆく幾つもの羽音が聞こえる。  ヨランダは針葉樹のささくれた大枝に座り、幹に肩をもたれかけさせて、白い残像を引いて空を渡っていく鳥たちの姿を見上げた。  枝の間をよぎっていく一瞬に目をこらし、じっと神経をとぎすますと、鳥たちの羽ばたきが次第にゆっくりになってゆく。重たげに翼をもちあげ、振りおろす。そしてまた翼を挙げる。  鳥の動きが、止まって見える。  いち、に、さん……。  うつろな心の中で、ヨランダは小さな翼の羽ばたきを数えた。  北からやってきた渡り鳥。故郷の枯れ果てた地平線にも、これと同じ鳥が群れを作って、まっしぐらに飛び立っていく姿が見られた。  砂地に巧みに紛れた巣から、卵を集めて煮詰めると、産婦や病人に滋養を付けさせるのに丁度いい、栄養価の高い薬が作れる。  卵を拾い集めるのは子供の仕事で、昔はよく、同じ年頃の娘たちと連れ立って、鳥の巣を探すために荒野を駆け巡った。  運良く白い鳥を捕まえられたら、娘たちはそれを持って、大急ぎで部族の天幕へと帰り、その奥まった一室にたむろしている、男たちに贈り物をした。白い鳥は幸運と長生きの印。部族の男たちがいつも健康で、いつまでも生きるようにと願いをかけた、縁起の良い贈り物とされていた。  誰に与えるかは、鳥を捕まえた娘が決めることだ。娘たちは大抵、体が大きく、より健康そうな男を選んだ。  いつも隅のほうで咳(せき)をしていた、あんな痩せっぽちに情をかけてやったのは、自分くらいのもんだったろう。  ひょろりと痩せた虚弱な少年のことを、ヨランダはぼんやりと思い出していた。  今ならあの鳥を、百羽だって捕まえられる。  1羽で1年。百羽いれば、百年だって生きられるかもしれない。  ヨランダは、天空をゆっくりとよぎる白い影に手を伸ばそうとした。  ふいに座っていた枝が震え、一つ下の枝に、鈍い柿色の外套に隠れた小柄な背中が現れた。  一気に集中が崩れ、頭上の空をゆく鳥たちが、再び矢のような勢いで流れはじめる。  鳥たちの長く引き延ばされたさえずりが戻り、ヨランダの胸をかき乱した。 「ヨランダ」  そこはかとなく舌足らずな幼さを残した娘の声が、足下から呼びかけてきた。いつもの言づてを伝えに来た仲間だ。  ヨランダは頭を振って、目を瞬かせてから、声のしたほうに目をやった。 「ルシル?」  驚いて、ヨランダはひそめた声で鋭くささやいた。  枝をつかんで、身軽に登って来た娘の顔には、見覚えがあった。丸い頬に、黒目がちな可愛げのある目鼻立ちをしている。昔、狩りに出てゆく年上の娘たちのあとを、必死についてきていた小さいのだ。 「鳥、すごい数だね」  ルシルは横に座り、ヨランダの肩に柔らかい頬を擦り寄せてきた。ルシルの髪に焚きこめられた、淡い枯れ草のような甘い匂いがする。部族の成人した娘たちが使う香の匂いだ。  自分が故郷を離れている間に、こんな小娘まで、大人の女であることを示す帽子を被せられたのだ。 「お前みたいな見習いを寄越すなんて、婆さまはボケたの」  非難をこめて、ヨランダは呻いた。 「あたしが婆さまに我がまま言ったの。姐さまに会いたかったんだよ。言づてだけなら、あたしだって……」  上目づかいにこちらの様子をうかがって、ルシルが白状する。 「姐(あね)さま、あたし大人になったの」  戸惑いをほこらしさの下にかくした顔で、ルシルが言った。大きな黒い目が、黒曜石のように深く輝いている。 「皆のために、あたしも働く」 「馬鹿だね。花(アルマ)の季節は短いんだよ。年頃の娘なら、今頃は、男の取り合いでもやってるもんよ」  思わず説教じみた口調で言うと、ルシルは気まずそうな顔をする。 「姐さまだって、やってないじゃない」 「お前、男が怖いのかい」  ヨランダがからかうと、ルシルはぶんぶんと首を横に振ってみせた。 「そんなんじゃないよ。ただ嫌いなだけ。やつら臭いんだもん」 「しょうがない子だね」  呆れて短いため息をひとつ漏らしてから、ヨランダはルシルの額に自分の頬を擦り寄せ、年下の同胞に挨拶をした。ルシルの肌は暮れはじめた山の空気になぶられて、ひやりとしていた。  北方ではもうとっくに、花の季節は去ろうとしているはずだ。今年の淡い夏の間、四年に一度しかない花(アルマ)が北の平原に咲き、その甘い香りが、部族の男たちに繁殖を促す。  花は以前に比べて、桁違いに少なくなっているという。部族をまとめる老婆が言うには、ずっと昔、婆の母の母がまだ小さな娘だったころには、平原をうめつくすほどのうす赤い花の群れが見られたという。しかし今では、子種を求める女たちが、限られた花を奪い合って争う始末だ。  部族の男たちは、いつもぼんやりと無表情で、ただ呆然と座っていることが多かった。それが花(アルマ)の香りに触れると、眠っていた何かが呼び覚まされたように人柄を変える。  男の目を覚まさせるには、満開の花(アルマ)が百本必要だと信じられており、成人した女たちは野辺に咲く花を毟りとって狩り集めた甘い香りを抱えて、お目当ての男のいる天幕へと走ってゆくのだ。せっかく集めた花を、別の誰かに奪われでもしたら、元も子もない。  甘い香りの中で繰り広げられる花争いは、女たちにとっても、一種の狂気だ。より強い香りを漂わせる花を求めて、感極まった女達は、躊躇いもなく剣を使った。  斬り付けあった者どうしでも、いったん子種を得て腹を膨らませれば、すべて忘れたようにけろりと仲良くしている。  ヨランダには、その気持ちがどうしても分からなかった。甘ったるい花の匂いで満たされた天幕の中で起こることに、それほどまでに執着する気持ちも、よく分からない。  先だっての花の頃には、ヨランダは孕(はら)むこともなく、呆気にとられるうちに、早々とやってきた秋の風にさらされて、あっという間に花は枯れていった。  自分が子供を産むことは、もうない。ヨランダはその考えを受け入れていた。  そうする他に方法がない。  今年の花も、もう終わろうとしているのだから。 「姐さま、これお土産。婆さまからの預かりもの」  ルシルは腰に吊るした袋から、ごそごそと片手で器用に小さな包みを取り出した。  草の繊維を織って作った布で、丁寧にくるまれた包みを受け取り、ヨランダは中味を開いてみた。  ころんとしたいびつな飴玉が幾つかと、素焼きの小さな平たい容器が入っている。  容器を取り出して開くと、中には鈍い赤色のとろりとした固まりが入っていた。部族の娘たちが化粧するときに使う紅(べに)だ。 「それから、これも……」  ルシルは自分の手首にはめていた、細い金属の腕輪をはずして、ヨランダに差し出した。地味な品だが、透かし彫りのある綺麗な仕上がりだった。 「道中でなくすと困るから、あたしが着けてた……ごめん」  後ろめたそうに説明して、ルシルが腕輪を、さらにぐいっと差し出してくる。 「気に入ったんなら、お前が着けててもいいよ」 「だけど、これ姐さまに、って……」  拒否しながらでも、ルシルは未練ありげに繊細な腕輪を揉んでいる。  ヨランダは淡く微笑した。  ルシルは女らしい飾り物が好きで、子供のころから新しい編み方で髪を編んだり、草の実で爪を染めたりしていた。ろくすっぽ剣も振れない未熟者で、年上の娘たちには馬鹿にされてばかりだったが、ヨランダはそういうルシルが可哀想に思えて、折に触れて面倒をみたり、いじめられるのを庇ってやったりもした。  出来の悪い妹のようなものだ。自分がいなくなったら、ルシルはどうなるだろうかと、心配になる。 「そんな話はいいから、言づてのほうを早く寄越しなよ」  ヨランダがやんわりと急かすと、ルシルはどこか煮え切らないままの顔で、こくりと頷いた。  さっきとは反対側の腰にぶら下げていた革袋から、別の包みを丁寧に取り出し、ヨランダに手渡す。  中に包まれていたのは、水晶を刻んで作った小瓶だった。  ヨランダは注意深くその蓋を開き、中に満たされていた深紅の液体の香りを確かめた。 「アルスビューラ……」  花のような甘い香りを放つ、赤い毒の名を呟き、ヨランダは水晶の小瓶の栓を戻した。 「婆さまが、大事に使えって」  ルシルの念押しに頷き、ヨランダは小瓶を厳重に包んでから、自分の腰にある革袋に仕舞い込んだ。 「フラカッツァーは順調だって。族長はそう長くはもたないよ」  ルシルは、うふふ、と得意げに笑った。 「まだ殺るんじゃないと伝えて。ハルペグはしばらく生かしておけって、正妃の頼みだ」  ため息をついて、ヨランダは説明した。ルシルが顔をしかめる。 「あの小母さん、ほんとに旦那を殺る気あるの?」 「さあ……私たちが気にしてやるような事じゃないよ。余計なことに頭を使うのはお止し」 「天使のほうは?」  期待をこめた眼差しで尋ね、ルシルはヨランダの二の腕にすりよってきた。 「……難しい」  昔、泣きべそをかいて薄汚れた頬を摺り寄せてきた時とは違って、体に触れるルシルの乳房は、丸く育ち、暖かく柔らかな感触がした。ヨランダは細めた横目で、無邪気に自分を見つめているルシルを眺めた。 「婆さまは何か、言ってなかったかい」 「アルスビューラより強い毒はないから、他に手立てはないって」 「……郷(さと)には、あと幾つ残ってる?」  ため息をもらし、ヨランダは赤い瓶のことを思い巡らした。 「それで最後だよ。姐さま」  ルシルが不安げに答えた。ヨランダの目蓋が震えた。 「……おかしい。いったい、天使は何でできてるの。あんな餓鬼一人、ひと瓶も含ませりゃ、くたばるはずなのに」 「やっぱり天使は、死なない生き物なんじゃ……?」  眉を寄せて、ルシルが気味悪そうに呟く。 「そんなわけない。あんたも見りゃわかるわよ。あんなのはただの、エルフの餓鬼じゃないか。お前、私がしくじると思ってるのかい」  思わずカッとして、ヨランダは腕輪をはめたルシルの細い手首を鷲づかみにした。ルシルが驚いて体を引きつらせ、枝から重心がずれそうになるのを、かろうじて踏みとどまっている。  はっと我に返り、ヨランダは落ちそうになっているルシルの体を支えた。引き戻されて安堵の息をつき、ふとこちらを見たルシルの目は、怯えたように暗かった。 「どうしてそんなに怒るのよ……」  じり、と後ずさって、ルシルは叱りつけられた子供のように、上目遣いにヨランダを見つめてくる。 「……ごめん。時々、どうしようもなく腹が立って……悪かったよ、ルシル」 「婆さまに頼んで、姐さまが郷(さと)に帰れるように、しようか?」 「余計な気を回すんじゃないよ。私はまだ大丈夫。死に化粧して出てきたのに、どの面さげて帰るっていうのさ」  空笑いして、ヨランダは天を仰いだ。 「姐さま……死ぬの?」  じっと真剣な眼差しで、ルシルがヨランダの瞳を見つめてくる。  ヨランダはしばらく、言葉の話し方を思い出せないような気分で、黙り込んだ。何度が、舌の付け根が痺れるような感覚が湧き、やがて、上ずった声が出た。 「そうよ」 「……もう、郷(さと)にも帰れないの?」 「ああ、そう。たぶんね」  ルシルの淡い茶色の瞳が、ちらちらと炎のように小さく揺れている。 「あのね。姐さま……あたし、ヨルカの子供を産めって、婆さまに言われたの」  その名を聞いた瞬間に、脳裏に苦しそうな空咳の音が蘇った。  ヨランダは瞬きを忘れて、ぼんやりとルシルの顔を見つめた。 「姐さま、あたし……」  腕にはめた細い腕輪を上げ下げしながら、ルシルがうつむいて目をそらせた。 「大人になったの」  顔をそむけて首を垂れるルシルの項(うなじ)が、ほっそりと筋張って生白い。もう昔のような、ふくふくと丸い、隙だらけの子供ではない。 「あんな病気持ちでも、ちゃんと役に立ったのかい」  ヨランダが訊ねると、ルシルは意外な機敏さで、こちらに顔を向けた。 「気になるんだったら、姐さまも試してみたらいいさ」  喉を突く短刀のようなルシルの声に、ヨランダは思わず息をつまらせた。 「あんな腑抜けのために、百本も花(アルマ)を狩れって……?」 「これ! ……ヨルカが姐さまにって」  小さく叫ぶようにヨランダの言葉を遮り、ルシルは腕輪をはずし、繊細な細工のあるそれを、ヨランダの鼻先につきつけてくる。苦しそうに寄せられた眉と、幼さの残る口元を、ヨランダは戸惑いながら見つめ返した。  まだお互いに小娘だったころ。ヨランダが、つかまえた小鳥を、天幕のすみで寝こんでいるヨルカという名の少年に食わせてやろうとすると、ルシルはそれを笑って、あんなやつに、と反対した。  それでも、人並みより虚弱に生まれ付いた少年が可哀想に思えたので、ヨランダは鳥をヨルカに食わせてやった。ヨルカは喜んで、微笑み、自分で刻んでこしらえた、小さな首飾りを寄越した。  ルシルはあのときも、それを欲しがったっけ。 「……お前が持ってていいよ」  淡く微笑して、ヨランダはルシルの手をやんわりと押し返した。 「ヨルカも男だけど、あいつが臭いのは平気なのかい」  からかう口調で訊ねると、ルシルは耳まで真っ赤に染まった。 「うん。平気……」 「そう」  おかしくなって、ヨランダは笑い声をたてた。抱えた膝に頬杖をつき、小さくなっているルシルの肩を抱く。 「元気でね、ルシル。みんなにもそう言って」  囁くと、ルシルの肩が震えた。きゅうに、赤ん坊でも泣き出したような嗚咽が、ルシルの喉からもれた。 「姐さま、ごめんなさい、ごめんなさい……!」 「もう、お行きよ。フラカッツァーまで、ちゃんと気をつけるんだよ」  泣きじゃくるルシルを、ヨランダは一通りなだめすかした。  涙で熱をもったルシルの背中を撫でていると、なにかとても、懐かしい気持ちになった。泣き虫のルシルを、これまでこうやって、何度も慰めてきた。  またこうやって、困り果てて震えている背中を抱くことになるなんて。自分の生涯も、意外と長いものだ。 「あたし、姐さまのこと大好きだよ。優しくて強くて。あたし、ずっと……子供でいたかった」  去り際に何度も振りかえるルシルの未練がましい声を聞き、ヨランダは枝に腰を下ろしたまま、右手をあげて別れの挨拶をした。  ルシルはどこか必死に見える仕草で、丈夫な枝を目ざとく探して、次々と飛び移っていく。鈍い色合いの外套に包まれた小さな姿が、ぽんと踊るように枝を蹴り、枝を掴む。  ヨランダはそれをじっと見送った。  遠ざかるルシルがふっと空中に踊り、幻が掻き消えるように、ほろりと霞んで消えた。  跳んだのだ。  それを確かめて、ヨランダはゆらりと立ちあがった。  新しい毒が手に入った。  腰に吊るした皮袋ごしに、小さな水晶の瓶を握り締め、ヨランダははるか下にある、湿った森の地面を見下ろした。  天使を殺るのだ。それだけが、この生涯に残された願い。  一夜ごとに着実に冷えてゆく体に、最後に残された熱だ。  ヨランダはふと、天幕に満ちる甘い香りを思い出した。胸一杯の花束を抱きかかえて走る女たち。むせ返るように甘く香る花弁を散らして、乱暴に抱き寄せられるのが、どんな心地だったか、もう忘れた。  憶えていられるわけもない。自分は天幕を選ばなかった。誰でも同じだと、そう思っていたのだ。  花に酔っても、ヨルカは咳込むのだろうか。可哀想なその背中を、もう一度撫でてやりたかった。  はあっ、と長い息を吐き、自分の肩を抱きしめて、ヨランダは目を閉じた。  どうやって跳ぶのかは、いつも本能の中にあった。自分が森のなかにいるのを忘れればいい。どこへでも跳んでゆける。  ゆらりと揺らめき始めるヨランダの姿を見つめる者は、誰もいなかった。  甲高い鳥たちの囀(さえず)りを聞きながら、ヨランダは消えた。 -----------------------------------------------------------------------  1-54 : 赤い百合 -----------------------------------------------------------------------  遠くで鐘の音がせわしなく鳴り響いている。  いくつもの巨大な鐘が打ち鳴らされる音色と残響が、ねっとりとより合わさって胸に打ち寄せる。  ガラーン、リンゴーン、ガラーン……  薄く目を開いたまま、うつらうつらとまどろむアルミナの耳は、行ったり来たりする鐘の音のゆらめきに聴き入っていた。  横になったまま、ぼんやりと見つめる先には、赤い花が咲いている。血のように真っ赤だ。  この花はたしか、百合というのだったと思う。壁の絵の中に描かれているのを、いつか見たことがある。  でも、そのときには、花は白い色をしていた。  百合には赤いものもあるのだろうか。あんなに真っ赤な。  壁の百合を見たのは、いつのことだったか。どこでそれを、見たのか。  よく分からなかった。思い出そうとすると、とたんに考えがまとまらなくなって、頭がぼうっとする。  赤い百合は、ゆっくりと息をするように揺れている。  リンゴーン、ガラーン、ゴーン……  赤い花が、ゆっくりと近付いてくる。ぼんやりと目をむけて、少ししてから、アルミナは気づいた。  赤い百合は、本物の花ではなく、誰かの胸に咲いている刺繍だ。  真っ白な衣の胸元に、赤い百合の刺繍を飾った女性が、横たわるアルミナの枕元に座り、やわらかい布で額の汗を押さえてくれている。  その女性は、卵がたのほっそりとした輪郭に、穏やかな緑色の目をしていて、ゆるく波うつ金髪を後ろで一つに束ねている。目尻に小さく皺が浮いているが、それまで含めても、落ち着いた美しい顔立ちだ。白く秀でた額の中央に、赤い小さな点がある。聖刻だ。  アルミナが見つめているのに気づくと、女性はふっくらと微笑んだ。 「ご気分は、いかが?」  なにか答えようとして、アルミナは自分の手足から急に血の気がひいて、胸が苦しくなるのを感じた。舌の奥にいやな味がひろがっていく。  吐き気で気が遠くなった。 「今は無理をしないで、お眠りなさい」  温かい指で、そっとアルミナの瞼を閉じさせて、女性の声が言った。 言われるまま、アルミナはまた、深い眠りに落ちていった。

 雑居房とよばれている、がらんと大きな部屋には、沢山の寝台と、沢山の鍵のかかった扉と、大きな円卓があった。  壁には大きな填め殺しの窓が一つだけあり、ぶあつい窓ガラスから、暖かい日差が差し込んで、円卓の半分までを、明るく照らしている。  窓の外に見えるのは、沢山の塔、鐘楼、小さな窓、それから見渡すかぎりの平らな荒れ地。砂と石が目立つ平原には、うっすらと冬枯れが始まっている。  窓のそばにある大きな揺り椅子に、小柄な老婆がこしかけ、灰色がかった地平線を見るともなく見つめている。  その老婆のもとに集うように、そっくり同じ白い服に身を包んだ女たちが座っていた。年嵩の者から、アルミナと同い年かもっと幼いものまで、五十人ほどもいるだろうか。  姿勢よく、質素な木製の椅子に腰かけ、女たちはそれぞれ、刺繍をするための木枠や、糸を紡ぐための紡(つむ)、レースを編むための小さな沢山の糸巻きを手にしていた。  円卓の、日陰になっているほうの端に立ったアルミナを、その場にいた全員の目がじっと見つめている。 「目を覚ましましたわ。もうすっかり大丈夫なようです」  アルミナの肩に手をそえていた女性の声が言った。伏し目がちにふりむいて、アルミナは女性の胸を飾っている、赤い百合の刺繍を見つめた。 「さあ、皆さんにご挨拶を」  促されて、アルミナは大勢の視線と向き合った。 「アルミナともうします」  擦れた声だった。  女たちは瞬きして、密やかな翼の囁きで応えてきた。  ごきげんよう、アルミナさま、と、いくつもに折り重なった様々な声が告げた。  軽く会釈する女たちに姿勢を下げて応え、アルミナも翼を使った。  わたくしも、お仲間に。  緊張しつつ呼びかけると、女たちの翼は、どうぞよろしくと囁きかけてきた。  アルミナはほっとした。 「空いた椅子に、お座りになって」  赤い百合の女性が示すのに促されて、アルミナは円卓の周りに無造作に置かれている椅子を見回した。ほとんどの椅子には主がいたが、ひとつふたつ、空っぽの席が残っている。  自分と同じ年かっこうの少女たちがいる辺りに、ひとつ空席があるのを見つけて、アルミナは背後にいる女性に目配せをした。  すると女性は、にっこりと微笑み、何も言わずに頷いた。  アルミナが空席に座るのを、白い服の少女たちが、じっと見つめている。気になって見つめかえすと、たいていの少女はびっくりしたように恥じらい、いそいそと自分の手仕事に戻っていった。  アルミナの右隣にいた少女だけが、視線から逃げそこねて、アルミナと見つめあった。  まっすぐな淡い金髪に、気の弱そうな小さな灰色の目をしたその少女は、アルミナに、少し寂しそうなような喜んでいるような、不思議な微笑を向けてきた。 「わたくしはセシリアです」  大急ぎの小声で、灰色の目の少女が名乗った。 「セシリアさま……」  アルミナは遠慮がちに微笑んで、新しい名前を憶えた。これから沢山の名前を憶えなければならないだろう。 「刺繍は、お好きですか」  囁くような小声で、セシリアが尋ねてくる。アルミナは彼女がさしだした丸い木枠と、そこに張られた白い絹に目を落した。  見覚えがある気がした。自分はそれが、とても好きだった。 「はい、好きです」  アルミナが微笑むと、セシリアも遠慮がちに微笑みかえし、なにも言わずにアルミナに木枠を手渡してくれた。  セシリアの手から、白い糸束と、銀色に光る針を受け取り、アルミナは女たちが代わる代わる眺めている大きな図案をのぞきこんだ。  白い絹に、白糸で縫い上げられていく、細かな鎖の模様。  アルミナの頭の奥が、ちくりと痛んだ。 「これは、どなたのご衣装ですか」  隣にいるセシリアに話し掛けると、セシリアはびっくりした顔で、口をきくなというふうに、人差指を唇にあてる。 「静かに」  円卓のどこかから、鋭い声が飛んできた。アルミナはびくりとして針先を震わせた。 「無駄に話すのは、ふしだらですよ。分をわきまえて、沈黙を学びなさい」  神経質に響く大人の女性の声で叱りつけられ、アルミナは縮み上がった。すぐ横で、セシリアが同じように、身を強張らせてうつむいている。  アルミナは惨めな気持ちになった。自分のせいで、セシリアまで叱られてしまった。 「サフリア・ヴィジュレ様のご衣装です」  穏やかな声に説明されて、アルミナはふと顔をあげた。  円卓の一席から、胸に赤い百合を咲かせた女性が、淡く微笑みかけてきた。セシリアが、ほっと密かな安堵の息をつく。 「アイネ様、あなたがそのように甘やかされては、示しがつきませんわ」  強張って低くこもった声がきこえた。  円卓の別の端に、ぴんと姿勢よく胸を張った、灰色の瞳の女(ファム)がいた。叱責の声のあるじに違いない。  大きな目元を飾る睫と、ふっくらと厚みのある唇の赤さが、その女(ファム)に強い存在感を与えていた。白い衣の豊満な胸元を、華やかな白い糸で刺繍された、大輪の百合の花束がかざっている。  アルミナには彼女の座る場所が、円卓にはあるはずのない、上座のように感じられた。  手仕事をする指先を休める気配もない、黙りこんだ女たちを側近くに従え、灰色の瞳の女(ファム)は、つんと顎をあげている。 「お気にさわったのでしたら、おわびいたします」  赤い百合の女(ファム)が、やんわりと物怖じもなく応える。 「わたくしの気にさわるかどうかではございません。戒律ですわ」 「グロリアさま、あなたはまるで、歩く戒律ですわね」  やさしげに、赤い百合の女は微笑む。  手仕事に戻ろうとする彼女を見て、灰色の瞳の女が険悪に眉を寄せた。グロリアと呼ばれたその女は、手に持っていた刺繍の枠をはたと円卓に置いた。  それを見た、女たちの手仕事がぴたりと止まる。 「おだまり、グロリア。腹の吾子に障る。耳ざとい天使に、翼がわめくのを聞かれてもよいのか」  しわがれた声が飛んだ。  のんびりと震えながら語られた言葉は、窓辺からきこえた。  アルミナはぽかんとして、窓辺に座る老女を見つめ、顔を赤らめて押し黙ったグロリアに目をやった。  よく見ると、円卓のかげになったグロリアの腹は、丸く大きくふくれている。  たぶん、子供が入っているのだと思う。  アルミナは羨ましいような、恐いような気持ちになった。  あんなに大きくなったものを、どうやって外に出すのかしら。  そう思ったところで、鐘が鳴りはじめた。  リンゴーン、ガラーン 「みなさん、聖堂へ」  仕事の手を休め、赤い百合の女が立ち上がった。それに倣うように、白い衣を引いて、女たちは沈黙のまま次々に立ち上がった。  夕の祈りの時刻だった。  女たちは、ベールを深深とかぶって顔を隠しつつ、慣れたふうに三列に並ぶ。  どうすればいいのか戸惑いながら、アルミナはセシリアの横にくっついて、なんとか自分をその一員に紛れ込ませた。  行列がしずしずと進み、先頭あたりで2人の女(ファム)に両脇を支えられている老婆が扉まで行きつくと、列を率いて歩くアイネが、扉にとりつけられた金具を揺らし、こつこつ、と扉を叩いた。  扉からは分厚い木の音色がした。  なめらかに開かれる扉を見守るアルミナの胸は、どきどきと不安げに脈打っている。  行列がふたたび進みはじめた。  自分の体が敷居を越え、部屋の外に出て行くのが、信じられない。  足を踏み出しながら、アルミナは思わず息をとめ、ぎゅっと固く目を閉じた。

「アイネさまと、グロリアさまは、仲が悪いの」  顔を洗うための水盆に水を満たし、順番に寝支度を整えながら、少女たちはかすかな声で囁きかけてきた。それがまるで、とんでもない秘密だというふうに。  次の少女に水盆を譲って、アルミナは誰かに差し出された白くやわらかな布で、濡れた顔をぬぐった。  少女たちは一本きりの櫛を大事そうに交替で使い、肩を過ぎるあたりで切り揃えた金髪を丁寧にとかしている。  少女たちはとても、仲が良さそうだ。アルミナは、自分がその中の一人になれるのか、心配になった。 「アルミナさまは、どこの房からいらしたの?」  身を寄せあっている十数人の少女たちのうちの誰かが、浮き立った気持ちを押し隠した声で尋ねてきた。 「……どこの、房?」  少し考えてから、アルミナは答えた。意味がわからなかった。 「お城のなかには、いくつかここと同じような房があるんですって。アルミナさまは、そのどこかからいらしたんでしょう?」  こっそりと囁くように、そばにいたセシリアが説明してくれた。 「わたくし……なにも憶えていません」  口に出すととても不安で、アルミナは不思議そうにこちらを見つめてくる少女たちを落ち着き無く見回した。 「では……きっとどこか、秘密の場所からいらしたのね」  セシリアが微笑んで言った。少女たちはアルミナを興味深げに見つめ、にっこりと笑いかけてくる。 「素敵ですわ」 「秘密の場所だなんて」 「なにか少しでも、憶えておいでですか?」  口々の囁き声に気圧されながら、アルミナは空っぽになった記憶をたどった。 「窓辺に、小鳥が……」  チチテュウ、とさえずる可愛い声がぼんやりと頭をかすめて消えてゆく。 「それから、歌……」  ずきずきと痛み始めたこめかみに指をそえて、アルミナはきれぎれの記憶をたどった。 「どんな歌ですの?」  しげしげとアルミナの顔を見つめて、少女たちは真剣な面持ちだ。  アルミナは小声で、ちらりと思い出せた歌の断片を口ずさんだ。  いくつかの音を拾い上げただけで、歌は脆く崩れて消えていってしまう。次にくる音を思い出せなくなって、アルミナは呆然と黙りこんだ。  なぜか悲しい。思い出せないなんて。  とても大切な、忘れてはいけないことを、沢山失った気がする。 「アルミナさま、なんて奇麗なお声」  励ますような力づよさのある囁き声で、セシリアが言った。 「ありがとうございます。でも、わたくし、もうなにも思い出せません」  アルミナは済まない気持ちになって、無理に微笑みをつくってみせた。  少女たちは何も言わず、アルミナを労るような曖昧な微笑で応えてくるばかりだ。 「よかった。怖い方でなくて」  ほっとしたような、浮き立ったような、微妙な気配で、少女たちが囁く。  アルミナには、なんのことかわからなかった。 「ずっと眠っておられたでしょう。その間に、わたくしたち、いろいろ秘密の話し合いをいたしましたの」 「夜にですわ」 「翼を使ってはだめ、天使に聞かれてしまうわ」 「でも声は……」  くすくす笑いを押し殺したような、ひそやかなざわめきを立てて、少女たちは口々にアルミナに説明したがった。 「喉から出る声は、天使にも、グロリアさまにも、聞こえていないってわかったの」  アルミナに遠慮がちに微笑みかけて、隣にいたセシリアが、灰色の瞳を不安げにちらちらと瞬かせた。 「いけないことですのよ」 「ですから、こっそり話すんですわ」 「わたくしたちの、秘密」  小さな明かりだけの部屋でも、はっきりと赤い唇を手で覆い隠して、少女たちは微笑み、アルミナをうかがうような目をした。  やっと、アルミナは少女たちの言う意味を理解した。  ここでは、喋ってはいけないのだ。  まして、皆の見ている前で、歌を歌うなんて、とんでもなくふしだらだと思われたかもしれない。 「わたくし……申し訳ございません、知らなかったのです。これからは、口を慎むようにいたします」  内心、おろおろとうろたえながら、アルミナはつっかえつっかえ謝った。 「お気になさらないで、アルミナさま」 「わたくしたち、秘密を共有いたしましょう」  微笑む少女たちが、怯えているのが感じられた。  アルミナは薄く唇を開き、彼女たちを見まわし、最後にはすぐ隣から自分をのぞき込んでいる、セシリアの瞳と向き合った。  セシリアの口元は微笑んでいたが、うっすらとしかめられた眉に、不安な表情が漂っている。  告げ口をするのではと、心配されているのだわ。  アルミナはびっくりしながら悟った。  答える代わりに、アルミナは首を横に振った。  そんなことは、いたしません。  そう言おうとした時。
   とつぜん、少女たちがぴくっと驚いたふうに震え、大慌てで自分の寝台にむかいはじめた。ひたひたと素足の足音が、固い床のうえを右往左往する。  ぽかんとするアルミナの袖を引っ張って、セシリアが壁ぎわにずらりと並んだ寝台のほうへと招いている。  さあ……お嬢さんたち。  歌うような調子で、誰かの翼が語りかけてきている。  アルミナは急いで、自分のふとんにもぐり込んだ。  きいっ、と小さな軋みをたてて、扉が開いた。  アルミナは心底から震えあがった。  扉のむこうから、恐いものが現れる。また、わたくしを、恐ろしいところに連れていく……  薄闇から赤い百合が咲いた。アルミナはこごえた吐息にのどを震わせた。  部屋に入ってきたのは、胸に赤い百合を咲かせた、やさしげな女(ファム)一人きりだった。  たしか、アイネ、さま。  横になったまま、アルミナは新しくおぼえた名前をたぐりよせた。  ほっ、と暖かい息が、凍り付いた喉を満たす。 「皆さま。女(ファム)が口にしてよいのは聖なる言葉だけ、無駄な語らいはふしだらで、あなたがたの胎(たい)を汚すものですよ」  厳しい言葉とは裏腹に、アイネの声は穏やかで、とても優しかった。 「罪穢れの許しを乞う、祈りを」  寝台の並ぶ通路の中ほどまで静かに歩いて、アイネは少女たちに命じた。  すると、部屋のあちこちから、ひそひそとつぶやかれる祈りの言葉が立ち上った。  考えるより先に、アルミナはふとんの上で手を組み合わせ、同じ祈りをとなえていた。  これだけは、不思議なほど淀みなく思い出せる。  ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス、と、アルミナは少女たちとともに、贖罪の天使への祈りの文句を唱えた。  神聖な言葉を口にしながら、アルミナは落ち着かなかった。  天使はどこかで、この許しを乞う祈りを、聞いてくれているのかしら。  ほんとうに、ほんとうに?  ああ、そうだといいのに。  祈りのなかに時折現れる天使の名前が、温かく、慕わしい。  アイネがゆっくりと歩き回る足音が、近付いてくる。目をとじ、それを聞きながら一心に祈っていると、ちょうど聖句が終わるところで、アイネがアルミナの寝台の前にやってきた。 「天に栄光」 「地に平和を」  アイネの言葉に応じて、横たわる少女たちが声をそろえて詠唱する。その中に自分の声が熔けてゆくのを、アルミナは感動に似た思いで感じとった。  わたくしはずっと、ひとりだった。ひとりで寂しかった。  でも今は沢山の人に囲まれている。親切なセシリアさま。お優しいアイネさま。  身を寄せ合った時の、少女たちの肌の温かさ。  わたくしはもう、さびしい思いをしなくていいのだわ。 「小さな母上様がた、静かにお休みなさい。物思いは明日にして」  足音ひそかに歩き、アイネがアルミナのふとんをそっと整えてくれた。真綿ごしに感じる、アイネの手は安らぎに満ちていた。  同じように一人一人の蒲団を着せ直してやりながら、アイネはぐるりと部屋を一周し、暖かい沈黙を後に残して、扉の向うに戻っていった。  しばらく、物言いたげな空気だけが、暗い室内にたちこめていた。  しかしやがて、穏やかな寝息が聞こえはじめた。  アルミナはうっとりと目蓋を閉じ、ふわりと訪れた眠気に身を任せた。  こんな日が、いつまでも続きますように。  浅い眠りに落ちていくなか、小さな夢をいくつも見た。  枕を抱えた中年の神官が、物言いたげにこちらを見つめている。  マクラデゴザイマス。あるみなさま……枕、で、ゴザイマス……。  神官はそう繰り返しながら、ふっと吹き消される蝋燭の火のように、闇のなかへと消えていく。  アルミナは寝苦しさに、何度も寝返りを打った。 -----------------------------------------------------------------------  1-55 : 夢の向こう側 -----------------------------------------------------------------------  枕…………。  白い飾り気のないリネンで包まれた羽根枕を横目に見下ろしながら、アルミナはせかせかと身支度をした。  何重にも重ね着をした白い衣の上に、頭をすっぽり覆うヴェールをかぶって、手袋をはめる。喉元の線にきっちりと沿ったヴェールのボタンを上まで全部とめるのは、手間がかかった。  隣の寝台で身支度している少女たちは、手早くすませてしまっているが、アルミナ一人が他よりずっと手間取っている。  夢のことなどで寝ぼけて、上の空でいるせいだと恥ずかしく思って、アルミナは慌てて身支度を済ませ、他の娘たちと同じように、寝台の足元に、手袋をした指を組み合わせて祈るように首を垂れて立った。顔が見えるように跳ね上げてあるヴェールのすそが、少しずつ滑り落ちてくるのが気がかりだったが、誰も動かないのにもう一度身なりをいじるのは気が引ける。  きぃ、と小さく音を立てて寝室の扉が開いた。 「おはようございます、皆様」  中年の女性(ファム)が、扉のむこうから点呼に現れた。冷たいかんじのする調子で、翼を使って語り掛けてくる。アルミナには、まだ名前も知らない相手だった。  少女たちは示し合わせたように一時に、おはようございます、と翼で応えた。  出遅れてぽかんとしていたアルミナを、中年の女性(ファム)がじろりと睨んでくる。 「早く、この房に慣れていただかなくては」 「申し訳ございません……」  首をすくめて、アルミナはわびた。 「わたくしが、アルミナさまに、お教えします」  新しい翼が会話に割り込んできたのに驚いて、中年の女性(ファム)が首をめぐらした。  セシリアさま。かばってくださったのだわ。  びっくりしながら、アルミナも声のあるじに目を向けた。  アルミナと目があうと、セシリアはにっこりと笑った。 「そんな暇があればよろしいですが」  歯切れの良い低い声が、中年の女性(ファム)の喉から漏れた。 「いつまでこの房に、いられるやら……」  蔑んだような厳しい言われように、近々追い出されるのだろうかと怖くなって、アルミナはびくっと肩を震わせた。  馴染まない者は、居させてもらえないのかしら?  自分はもしかすると、どこかから追い出されて来たのかしら?  どんどん追い出されて、行く所がなくなったら、どうしましょう。  悲しくなって、アルミナは顔をあげ、セシリアに助けを求めた。  にこりともう一度微笑みをつくるセシリアの顔は、どことなく寂しげだ。だけど、どこかしら、大丈夫だと励ましてくれているように見える。  ごとり、と靴音高く、中年の女性(ファム)が二人の視線に割って入ってきた。  じっと見下ろされる視線に、アルミナは首をすくめた。 「皆様、よろしいですか。1日も早く、百合を咲かせて、お部屋をいただけるよう、お励みなさい。他の房では、あなたがたくらいのお年でも、1輪2輪は終えているそうですよ」  大部屋の少女たちは一様に、ため息を殺したような重い沈黙でそれに応えた。 「これから呼ぶ方は、わたくしについて診察室へ。あとの方は、居間へ行ってグロリア様からお仕事をいただきなさい」  女(ファム)が早口にいくつかの名前を呼ぶと、6人の少女たちが、返事のかわりに列から一歩前へ出た。  アルミナの名は呼ばれなかった。  診察室というのがどんなところなのか見当がつかず、呼ばれなかったことが良いことなのか、悪いことなのかも、わからない。  名前が出尽くすと、残りの娘たちは誰に指示されるでもなく、列をつくったまま部屋を出ていきはじめる。アルミナもあわてて、その列からこぼれないように歩き出した。  ちらりと横目で確かめると、セシリアも同じ場所へいくもう一本の列に加わっている。  アルミナはほっとため息をついた。  部屋に残された6人は皆、どことなくそわそわと、出て行く列を見送っていた。

「青の聖堂の方々のご衣裳や調度品を新しくする年なので、そのために使う布を織ったり、刺繍をしたりするお仕事が、このところ続いているのです」  アルミナに房での行儀作法を教えるために、セシリアは円卓から外れた、部屋のすみに二人ぶんの席を移し、静かな声で説明をはじめた。 「いくつかある房のなかでも、わたくしたちの房がいちばん、刺繍のわざに長けた方が多いので、とくに選ばれて、サフリア・ヴィジュレ様の新しい祭祀衣裳の刺繍をすることになっているの」  セシリアは、鎖の模様の図案をアルミナに示した。昨日も円卓に広げられていたものだ。 「いちばん上手いのは、アイネ様か、グロリア様か、どちらかわからないのですって。でもグロリア様は懐妊なさっているので、いちばん名誉な、新しい僧冠の刺繍は、アイネ様が。グロリア様は、それも不愉快に思ってらっしゃるの」  図案の説明をするふりをして、セシリアはひそめにひそめた声で、アルミナに耳打ちした。顔をあげたセシリアと見詰め合い、アルミナは戸惑って目をぱちぱちさせた。 「秘密ですけど、みなさまご存知のことよ」 「アイネ様と、グロリア様は、どうして仲が……」  悪い、とは言いにくい気がして、アルミナは口篭もった。 「大部屋にいらしたころから、競い合っていらしたようですわ。でも、お二人のいちばんの気がかりは、百合のこと。ううん、グロリア様の気がかり、かしら……?」 「百合のこと……。あの、刺繍の百合のことでございますか。それとも他の?」  意味がわからず、アルミナが首をかしげると、セシリアは不思議そうにアルミナを見つめた。 「刺繍の百合のことですわ」 「あれにはなにか、意味があるのですか」  ただの服の飾りだと思っていた。  セシリアは一瞬、あっけにとられたように言葉につまった。 「お産みになったお子の数です」  答えるセシリアの口調は、知っているのが当たり前だというような、困惑を含んでいる。 「白い百合は男の子(オム)で、赤い百合は女の子(ファム)ですわ。お産みしたお子が大人になったときに、もし女(ファム)だったら、赤い糸をいただけるんですって」  アルミナは、アイネの胸元に咲き誇っていた大輪の赤い百合のことを思い出した。  あれはつまり、アイネが女の子(ファム)を産んだことを示しているのだ。  でも、アイネの胸を飾っている百合は、あの赤いのが1輪きりで、グロリアの衣装に刺繍された沢山の百合とは、比べるまでもないように思える。 「赤い百合のほうが、えらいのですか」 「もちろんですわ。グロリア様は、たくさん百合を持っているのを誇りにしておられても、ちっとも女(ファム)を産めないので、いつもアイネ様のことが、気がかりなのです」  話を聞きながら、アルミナは自分のスカートを、ぎゅっと握り締めていた。  なじめない話……  わけもなく不安で、アルミナの心臓はどきどきといやな鼓動を打った。 「房でのお力は、おおよそ百合の数できまります。わたくしたちはまだ1輪もないので、軽く見られますけれど、もうじきの我慢ですわ、アルミナ様。いずれお子は授かります。冷たくされるのにも、しばらくは辛抱なさってください」  アルミナをはげまそうとして、セシリアはどことなく無理に作ったふうに、にっこりと微笑みかけてくれた。  でもアルミナはうまく微笑み返せなかった。 「セシリア様……」  なんとか微笑もうとして、アルミナは頬をこわばらせた。 「どこの……房、でも、みんなそうなのですか」  たどたどしく、アルミナは質問した。 「わかりません。わたくしは、この房で育ったんですもの。ほかの房のことまでは……」  セシリアは困ったように静かに微笑した。  首をめぐらせて円卓のほうを盗み見ると、胸元に白い百合を咲かせた女(ファム)たちが、黙々と手仕事にふけっていた。時折ひそひそと、言葉を交わすのが聞こえてくるが、なにを言っているのかまでは聞き取れない。  部屋のむこうの端にある大きな窓辺には、老婆がじっと座っている。  まだ1輪もない娘たちは、肩身狭げに数人で固まって、一言もなく刺繍に励んでいる。  年端もない者たちは、円卓からはずれたところで、大人達の手仕事をまねた、ままごとを、熱心に遊んでいる。  閉じ込められていると、ふいにアルミナは思った。  ここに閉じ込められている。  祈って乞い願わなくても、こんな日は永遠に続く。  今日も、明日も、明後日も、その先も、ずっとずっと、永久に同じような日が。毎日刺繍をして、ひそひそと小声で話して、百合の数を比べ合いながら、そしてあの窓辺にいる人のようになる。  頭に乗せた白く重い絹のヴェールに押しつぶされてしまったように、老婆の腰は曲がり、じっと腰掛けている様子は、物静かで、息をしているのが不思議なほどだ。  ぼんやりと空中を見つめているだけの、年老いて皺だらけを横顔を、アルミナはじっと見つめた。  ……そんな生涯でも、構わない。  そういうものだという気がした。  ここが嫌いなわけではない。  窓辺にじっと座っているだけの日々でも。  ただ……。  そう思いかけて、アルミナは混乱した。  ただ、なんだというのかしら。  なにか足りないような気がする、とても大切なものが。  だけどここにあるもの以上に、なにが欲しいというのだろう。  考えようとすると、アルミナの頭の奥がすこし痛んだ。遠くからズキズキと脈打つ痛みがやってくるのを感じて、アルミナは考えるのをやめた。  すると不思議に、痛みはおさまってしまうのだった。  セシリアは親切に、辛抱強く、房での暮らしと仕事について教えてくれた。  事細かに決められた行儀作法は、慣れるまで苦労しそうだったが、毎日の手仕事のほうには、楽しみも見つけられそうだ。  どっさりとある白い布に、えんえんと鎖模様を刺繍していく手仕事はきりがなく、何人いても手が足りないほどで、何も考えずに黙々と働くには好都合だ。  細かな手仕事はアルミナの性に合っていた。冷たい目でじろりと見るばかりのグロリアでさえ、あなたは手先が器用なようですと、そっけなくであるにしても、刺繍の仕上がりを誉めてくれた。  日がな一日、窓の外の陽光が絶え、窓々にぼんやりとした灯りが入り始める時刻まで、アルミナは他の娘たちと固まって、精密で単調な鎖の格子模様を布に縫い付け続けた。  時刻を告げる鐘が鳴ると、女(ファム)たちは連れだって黙々と、質素な食事をとり、行列をつくって聖堂に赴き、額づいて祈りを捧げ、身支度をして、眠りについた。  娘たちはとりとめもない秘密の話を、ひそひそと大切に交換して、微笑み交わした。  明日はどんな日だろうと不安に思う必要もない。  今日と同じような一日に、きまっている。  眠る前、ふと気づくと、今朝名前を呼ばれて部屋に残された娘たちの姿が、どこにもなかった。  その代わりに、昨夜はいなかった顔が、いくつかあったような気がする。  アルミナはそれを薄っすらと不思議に思ったが、セシリアや他の娘たちに尋ねるのは止した。  聞けば教えてもらえたかもしれないが、今日は沢山のことを教えられすぎた。答えを知りたくなかったのだ。  温かい布団のなかで、ふっと糸が切れるように眠りに落ちると、ぼんやりとした暗闇のなかで、その夜の夢が待っていた。  きのうの夜見たのと同じ、中年の神官が、枕を抱いて、ぐっしょりと濡れたような暗闇の中に立っている。  灰色がかった神官服には見覚えがあった。  そう思ったそばから、いいえ、知らないわと説いて聞かせる自分の声が胸のうちに響いてくる。  女(ファム)たちが着る、純白ですそを引きずるような衣装とは違う。くるぶしあたりで長衣のすそが終わり、しっかりとした歩きやすそうな靴がのぞいている。小ぶりで質素な僧帽をかぶっている。  オルハ、とアルミナはつぶやいた。夢の中で。  しかし言い終える前にはもう、その言葉の意味がわからなくなっていた。  あるみなさま。  しょんぼりと背を丸めて立ち尽くしている神官の、浅黒く落ち窪んだ目元の奥から、疲れきってらんらんと光る目がこちらを見ている。  だらしなく半開きになった唇から、神官はぜいぜいと浅い息をついた。  あるみなさま。  枕(まくら)でございます。枕でございます。枕でございますよ。  声ではない言葉が、アルミナに訴えかけてきた。  枕、枕、枕でございますよ。  新しいものをご用意いたしましたのに、お気に入りの枕でなくては眠れないと駄々をこねられて、まるでほんのお子様のよう。  ───に笑われてしまいますよ。  ぐい、とアルミナの胸に枕を押し付けて、神官は小言めいた言葉を繰り返している。  ぜいぜいと苦しげに吐きかけられる息には、なんともいえない苦い匂いがした。 「やめて、苦しいわ……」  夢の中で、アルミナは胸を押しつぶしそうになる枕を押し返そうと、必死で抗った。  枕でございますよ。  これがないと。  あるみなさま。  ねむれませんでしょう。  さあ! さあどうぞ! さあ、お使いください!  息がつまりそうな恐ろしさに悲鳴をもらしそうになったとき、押し返そうと掴んだ枕のどこかに、指に触れる硬いものがあった。  アルミナははっと目を開いた。  夢の中でか、ほんとうに目を開いたのか、よくわからないほど、頭が混乱している。  真っ暗ななかで、アルミナは起きあがり、自分の頭を乗せていた枕を裏返した。  ごそごそと探ると、枕の芯に、硬い塊のようなものがある。  アルミナは考えるより先に、枕のすみの糸に歯をかけ、引き千切って、中身を開いた。  羽毛にまざって、大事にくるまれるように、何かが収まっている。  部屋の暗がりでは、いまひとつ物がよく見えない。  だが、自分が枕の中から引っ張り出しているものがなんなのか、アルミナにははっきりとわかった。  手にとって、目をこらす。  折りたたまれた手紙だ。枕のなかには同じような紙束がいくつも収められていた。  手に取った一枚の、うすぼんやりとほの白い、その紙の上に、なんと書かれているのか、アルミナには見えるような気がした。  アルミナ殿。  几帳面なきちんとした文字で、こう書いてある。  お手紙をいただけて、うれしい。あなたにお会いできる日を、私もたのしみにしています。  文字は暗闇のなかに光で書きつけてあるように、紙にしみこんだインクとしてではなく、アルミナの心と記憶のなかから現れた。  自分は何度も何度も、この手紙に書かれた文字を、魂に焼きつけるように読んだ。  部屋におひとりで、さびしいおもいをさせて、ゆるしてください。  いつかあなたを、そこから助けます。  まだ幼い、少年の書く文字が、目の前にあるように鮮明に蘇ってくる。  緑の目をしていた。  祭壇の前に立たされて、震えていたアルミナの手を励ますように握ってくれた。  見つめ返すと、彼は叱られたように、自分にあやまるような、済まなさそうな顔をした。  アルミナは彼に微笑みかけた。精一杯の笑顔で。  選んでいただけて、わたくしは嬉しいのです。嬉しいのです!  言葉は交わせなくても、彼にそう伝えたかったのだ。  なぜかは自分でもわからない。済まなさそうにする彼を励ましたかったから。楽しそうに微笑んでいる目を、彼にも見せて欲しかったから。  しかし少年は驚いたように目をそむけ、それでもまだ強く、手を握ってくれていた。  それからずっと、その手のぬくもりを、忘れたことがない。  でも彼の名前を忘れた。  どこの誰なのかも。  どんな声だったのかも。  みんな忘れてしまった。どうしてそんなことに?  アルミナは悲しかった。胸を引き裂かれるような痛みと切なさで涙がこぼれた。  だけど忘れていないこともある。  これは彼からの最初の手紙。自分のいちばんの宝物で、これからも、ずっとそう。  彼のところへ行きたい。もう一度会いたい。  心の奥底から吹き上げる火のような激しさで、アルミナはそう思った。 -----------------------------------------------------------------------  1-56 : 目ざめの朝 -----------------------------------------------------------------------  朝がやってきても、夢の中で取り戻したものは、消えていなかった。  起き出してきた同室の少女たちは、羽毛まみれになってぼんやりと手紙を眺めているアルミナを見つけて、おろおろと戸惑っていたが、セシリアの一声が、皆を我に返らせた。 「皆さんで手分けして、羽根を拾いましょう」  少女たちは一瞬、お互いの顔を見合わせただけで、すぐにその言葉に従った。  寝台の周りや、部屋の思いがけない遠くまで飛び散った不毛は、一つ残らず少女たちの白い小さな指で拾い集められ、もう一度アルミナの枕の中に詰め込まれた。  セシリアが、最後に残っていた羽毛を、アルミナのゆるやかな癖のある金髪からつまみあげ、放心している顔を、心配げに見上げてきた。 「アルミナ様、点呼までに身支度を整えないと、叱られますわ」 「……夢を見ました。そこで枕の中に何かがあって……取り出してみたら、この手紙が……」  一言口に出すと、流れるように言葉が溢れ出て、アルミナは早口に誰にともなく訴えた。 「わたくし、この方とお約束したのです。永遠に離れないと……!」  しっ、と短く、セシリアが唇に指をあてて、黙るように促した。 「その方は、どなたなのですか」  潜めた声で、セシリアが尋ねた。アルミナは、夢の中で見た少年の顔を思い出そうとして、眉を寄せた。  思い出せない。 「……わかりません。手紙には、シュレー・ライラルと」  アルミナの周りに寄り集まっていた少女たちは、びっくりしたようにお互いを見渡した。 「洗礼名が……」 「男(オム)ですわ」  囁く少女たちの声が、緊張で上擦った。 「でも、アルミナ様はもうお忘れになったのですわ、その方のことは」  言い含めるような強い口調で、セシリアが言った。 「そんな……わたくし、思い出したのです、夢の中で」 「お忘れにならなくてはいけません」  小声だというのに、セシリアの声はきっぱりと響いた。 「……アルミナ様は、たぶん、そのことが元で房を移されたのですわ」  セシリアの目がじっと、こちらを見つめている。暗く曇った顔に、悲しげな表情があるのを、アルミナは混乱しながら見つめかえした。 「男(オム)に想いを寄せてはいけません」 「なぜですか……。ふしだらだから?」  寄りすがりたい気持ちで、アルミナは無意識に手紙を胸に抱き寄せていた。 「つらい思いをなさるから……」  脇にいた、菫色の目の誰かが、寝台に座ったままのアルミナの夜着の裾を握って、ひそやかに言った。  そちらに首をめぐらし、アルミナは集まった少女のひとりひとりと、さまようように視線を合わせた。誰もが同じような暗く寂しげな表情で、アルミナを見つめ返してくる。 「でも、わたくしを、助け出しに来てくださると……お約束を」  いつも和やかに笑っていた少女たちが、微笑まないのが恐ろしく、アルミナはだんだんに消え入る声で、力無い反論をした。 「その方も、もうアルミナ様のことは、お忘れですわ」  誰が言ったのか分からない声が、背後から聞こえて、アルミナは振り向いた。そこにも同じように、暗く沈んだ表情の顔が、いくつもあるだけだ。 「男(オム)とは、何を言い交わしても、無駄なのです」 「天使が約束を食べてしまうのですって」  口々に、少女たちは漠然とした事を言う。 「わたくしたちが逃げ出さないように、天使が見張っているのです。お会いした男(オム)と、共にどこかへ逃げ出す相談をする方がいても、すぐに天使に見つかって、男(オム)は何もかも忘れさせられてしまうので、まるで初めて会った方のようになってしまうのです。言い交わした方に忘れられるのは、つらいですわ。ですから、アルミナ様もお忘れになったほうが、気持ちがらくです」  セシリアが、噛んで含めるように、ゆっくりと説明した。  天使が忘れさせる、と反芻すると、アルミナの頭のすみに、ほの白く透ける大きな翼のことが思い出された。 「……でも、わたくし、思い出したいのです。あの方が、約束をお忘れになっていても。憶えておきたいのです……あの方のことを」  指に触れる羊皮紙の手触りを頼りに、アルミナは言葉をつないだ。 「それだけのことが、なぜいけないのですか」  問いかけると、アルミナと目が合った少女は皆、悲しげに目を伏せる。  誰もが答えを知っているふうでもあり、困り果てて黙っているようにも見えた。 「手紙は、始末なさったほうが、よろしいですわ」  ぽつりと、セシリアが忠告した。 「もし見つかったら、アルミナ様、また記憶を消されます」 「消されても、また思い出します」  首を横に振って、アルミナはセシリアの言葉に逆らった。  本当に大切なことは、誰にも忘れさせることはできない。  そんなふうな気がした。 「何度でも、記憶は消されます。そして最後には、頭がへんになって死んでしまうんだわ」  キッときつい目をして、セシリアがどことなく怒ったように言う。 「ほんの何度がお会いしただけの男(オム)が、そんなに大事なものですか。ご自分のお命よりも、その方のことが、大切だっておっしゃるの?」  問い詰めるセシリアの口調は、密かだが、厳しかった。 「……そうです」  考えもせず、そう答えてから、アルミナは自分が本当に、そう思っているのを感じた。 「たぶん、わたくしは……ふしだらな女(ファム)なのですわ」  下睫毛に涙がたまるのを感じたが、アルミナは泣くのをこらえた。どうしてこんなことで、涙が出るのか、自分でもよくわからず、情けなく思えた。  セシリアは、しばらくじっとこちらを見つめてから、アルミナが胸に押し付けている手紙の束に視線を落とした。 「……そんなことは、ございませんわ。皆、同じようなものです」  ぽつりと言い置いて、セシリアはこちらに背を向けた。 「急いで身支度をしないと、皆さん」  唐突に、セシリアが翼をふるわせて、皆に告げた。  少女たちは、はっとして、慌ただしく自分の寝台のほうへと戻り始めた。  時折、もの言いたげな同情的な目で、アルミナのほうを見る者がいる。  しかし殆どの娘たちは、何かを振り切るような急ぎ足で、朝の身支度に立ち返っていった。 「……今夜、針をこっそり持ってきて、枕を縫いましょう。その中に隠しておけば、見つからずに済むかもしれません」  ぼんやりしているアルミナの洋服掛けから、セシリアはてきぱきと純白の衣装をはずした。寝台の上に自分の服が並べられていくのを、アルミナはただぽかんと見守った。 「ぼんやり座っていらしても、何も変わりはしませんわ。自分だけの秘密を持たれるなら、それなりのお覚悟をなさいませんと」  アルミナだけに聞こえるように、ほんの小声で、セシリアは言った。 「生きていれば、その方とは、またいつかお会いできます。ですから、もっと、ご自分を大切になさって」  セシリアの灰色の目を、アルミナは涙ぐんだまま、しばらく見つめた。  なんて強そうな方なんでしょう。  尊敬に近い気持ちで、アルミナはセシリアのことを思った。  そして、夜着の袖で涙をぬぐって、寝台から降りると、枕の中に秘密を仕舞って、大急ぎで身支度をはじめた。 -----------------------------------------------------------------------  1-57 : 刺繍図案集 -----------------------------------------------------------------------  アルミナが刺繍した布を、しばらく隅々まで確認してから、グロリアは大きな目でじろりとこちらを見上げてきた。  アルミナはたじろいで、握り合わせていた手を、さらにきつく握った。  身重のせいだというが、グロリアは頻繁に機嫌が悪くなる。  時によっては、全く筋の通らないことで、厳しく叱責を受ける者もいた。  任された刺繍の出来が、グロリアの目に叶わなかったのだろうか。  今日に限って、アルミナは他の少女たちが受け持っているのとは別の、はじめての図案を任せられた。  ひと針ずつ慎重に、間違いがないようにと気を遣って仕上げたため、思った以上に時間がかかり、この日一日を使いきってしまったが、そのことで仕事が遅いと叱られるのだろうか。  グロリアが黙ったままでいるので、アルミナはしばらくの間、さまざまな不運な想像ばかりを思い描いた。 「あなたは明日から、作業から外れて結構です」  神経質な声で、グロリアが告げた。  ぎょっとして、アルミナは息を呑んだ。 「申し訳ございません。刺繍は、もう一度やり直します」  慌てた声で、アルミナが許しを乞うと、グロリアは目を細めて、さらに苛立った顔をする。 「誰が口をきいていいと許しましたか。ふしだらですよ!」  鞭のような声で、グロリアに叱責され、アルミナは反射的に目をつぶって、首をすくめた。  もう一度謝ろうとしたが、口をきけばまた叱られそうに思えたので、アルミナは深々と頭を垂れて、女(ファム)の礼儀とされる、恭順の姿勢をとった。  ごほん、と気まずそうな咳払いの音がして、椅子に腰掛けているグロリアの脚が大儀そうに身じろぎするのが見えた。  大きく膨らんだ腹にそえられていたグロリアの手が、顔をあげろというように、せわしく振られる。アルミナは恐る恐る姿勢を起こしてみた。 「刺繍の出来は、たいへんよろしいですわ。ですからあなたには、別の仕事をしていただきます」  斜向きに、アルミナをちらりと眺めて、グロリアが早口に言った。 「念のために尋ねますが、あなたは未産ですわね」 「は……はい……たぶん…………申し訳ございません」  ぽかんとしそうになっている自分を感じ、上擦った声で、アルミナは慌てて答えた。  謝ったのは、頷けば済むのに口を聞いたことについてか、子どもを生んだことがないことについてか、自分でも分からなかったが、グロリアは納得したように頷いた。 「それで結構、このお役目は未産の方にしかできないのです、しきたりとして」  うっ、と短いかけ声のようなため息をつき、グロリアが椅子から立ち上がった。 「セシリア様、あなたもおいでなさい」  グロリアが億劫げに呼ばわると、大きな円卓の向こうで、刺繍をしていたセシリアが、びっくりしたように立ち上がった。  とたとたと早足にやってくるセシリアと、グロリアの横でおどおどしているアルミナを、円卓の女(ファム)たちは皆、興味深げに横目で眺めてくる。  グロリアは広間のすみに置かれた、赤みを帯びた木製の戸棚のところまで二人を連れて行き、鈍い金色の錠前のかかったその開き戸に、そっと触れた。  錠前の鍵は、なぜかその戸棚のすぐ側の壁にある釘に引っかけてあり、グロリアはその小さな鍵で、しばらく閉ざしてあったらしい、戸棚を開いた。  中にあったものに、窓からの陽の光がさしこみ、アルミナの一抱えほどもありそうな、大きな刺繍枠を照らし出した。  枠には、透けるほどに薄い、白い絹の布が張ってあり、その半分までが、精緻で鮮やかな色合いの刺繍に埋め尽くされている。それは図案というより絵のようだ。  白い布、白い糸しか見たことがないこの部屋で、極彩色の刺繍の絵は、異様なほど際立っていた。美しく微妙な色合いに、アルミナは目を奪われた。 「中から取り出していただけますかしら」  命じる口調で、グロリアはアルミナたちに告げた。  それに手を触れるのがはばかられるようで、一瞬及び腰になってから、アルミナはセシリアとともに、重い木枠をごとりと床におろした。  そして木枠を裏側から見て、アルミナは微かな驚きの声をあげた。  はかないほど薄い透ける布の、裏側には全く別の模様が刺繍されていた。  表には、明るい昼間の風景が、その裏には、よく似た場所の、夜の風景が描かれている。  これほど薄いものなのに、片面を刺繍したときにできるはずの、裏にあらわれる糸の始末や、結び目などが、ひとつも見あたらない。まるで魔法のように。 「これの続きを、あなた方お二人で、やっていただくことにします」  グロリアは淡々とそう命じた。 「糸はこの戸棚の中に。必要なら、いくら使ってもよろしい。一日の作業が終わるたびに、ここに片付けるようになさい」 「……あの、わたくし、できません」  立ち去ろうとするグロリアの背に、アルミナは思わず泣き言を言った。  グロリアはちらりとこちらを振り返り、不機嫌そうに顔を歪めた。 「この厨子(ずし)の刺繍は、女(ファム)の中でも、とくに技術に長けた方だけが携わることのできる、名誉なものです。名を残せるのですよ」  最後のところを、特に強調して、グロリアは言った。 「できないと知っているなら、できるように努力なさい」  ぴしりと言いおいて、グロリアは立ち去っていった。  身重の体が円卓の椅子に腰掛けるのを待ってから、横にいたセシリアがほうっと安堵の息をもらした。  顔を見合わせると、セシリアはにっこりとこちらに笑いかけてくる。 「大丈夫です。わたくしは以前にも、この刺繍を勤めましたので、やり方はお教えできますわ」  セシリアはてきぱきと、刺繍枠の表と裏の両面に、ひとつずつの椅子を運んで、二人が布ごしに向かい合えるようにした。  そして、戸棚の引き出しから、大きな紙が筒に丸められたものを取り出してきて、木枠の横の床に拡げた。 「まあ……」  感嘆の息を漏らした唇を慌てて指で覆って、アルミナは紙に描かれた絵をのぞきこんだ。  片方は昼間の、もう片方は夜の絵で、色鮮やかな絵の具で彩色されている。  昼間のほうの絵の中央には翼を拡げた天使が描かれており、夜のほうには、同じ位置に、二つの卵を抱えた竜(ドラグーン)がいた。  並べて描かれた二枚の絵は、たぶん、裏どうしを重ねて透かすと、ぴったり同じ輪郭になるように描かれている。 「これが、この厨子の刺繍の図案です」  セシリアが言うのに、アルミナは小さく頷いた。 「わたくしが刺した針を、そちらで受け取っていただいて、アルミナさまが向こう側の図柄の糸を刺した針といっしょに、こちらに刺して戻してくだされば、わたくしが同じことを繰り返します。片方の裏面になる始末の糸は、もう片方の表の糸で隠れますので、結び目が見えないようになっているのです」  すでに刺繍された部分を眺めると、微妙な色合いになるように、糸の種類をこまめに変えてある。棚の引き出しに収められた色糸の枷(かせ)には、驚くほどの種類があって、赤い糸だけでも十種類以上あるようだった。 「……大変な作業ですわね」  緊張のため息をついて、アルミナは呟いた。 「ええ。それに、技術の同じ方が、二人いないとできません。もう一度、このお仕事ができるなんて、思ってもみませんでしたわ」  喜ぶセシリアの頬が、うっすらと赤みを帯びていた。 「昼と夜と、どちらの面がお好きですか」  セシリアに尋ねられて、アルミナは図案の絵柄をじっと見おろした。  昼間の天使は、緑と花のあふれる輝く草原に、白い翼を拡げて佇んでいる。その周りでは、見たこともない珍しい生き物が、体を丸めて眠り込んでいる。天使も目を伏せているが、どことなく微笑んでいるように見えた。  目を開いたら、きっと、この方は緑の瞳をしていらっしゃるのだわ。  脈絡もなく、そんな空想が浮かび、アルミナは嬉しくなった。 「あのう……昼のほうを刺しても、よろしいでしょうか」  そうできれば、一日中ずっと、絵の中の天使を見つめていられる。  アルミナが遠慮しながら言ってみると、セシリアは嬉しそうに微笑んだ。 「どうぞ。わたくしは夜の絵のほうが好きなのです」  そう言われて、アルミナはやっと、夜の絵のほうを真面目に眺めた。  絵の中にいる竜(ドラグーン)は、恐ろしげな姿をしている。  石だらけで剥きだしの地面に、竜と二つの卵だけがぽつんとあり、周りには銀色のなめらかな岩のようなものが、幾つも突き刺さっている。昼の面で、動物のいる位置だから、なにもいない夜の面では、それの代わりに銀の岩があるのだとアルミナは思った。  暗い空には月があり、満天の星があり、渦のような形に集まった小さな星々や、薄い七色の絹の布を風に流したようなものが、闇を彩っている。流れ星がいくつか、竜のいる地面に落ちてきて、明るく辺りを照らしているのが、美しいといえば美しかった。 「怖い絵です……」  なぜこんなものが好きなのか、という疑問を押し込めて、アルミナはセシリアの顔を見た。 「前にも、夜の面を刺したので、その時に考えていたのですけど。たぶんこれは、創生神話の時代のことを描いてあるのですわ」  セシリアは、刺繍図案の中の、ふたつの卵を指さした。 「原初の竜、ふたつの卵を擁す。一つは白き、一つは黒き卵なり」  絵の中の卵は、たしかに、黒いものと白いものが、一つずつだ。 「ですからこれは、創生前夜の絵で、この卵から、すべての大陸の民が孵(かえ)るのでしょう。その後の世が、そちらの昼の面の絵なのだと、わたくしは思うのです。原初の竜は転生して、天使になったのですわ」 「こんな恐ろしい竜が、転生して天使様になるなんて……」  鮮やかな赤い鱗(うろこ)に覆われた竜の姿を眺めて、アルミナは言った。 「恐ろしくないですわ、だってこの竜は母親なんですもの。どんな姿をしていても、卵を抱く女(ファム)には聖母の慈愛があるはずです」 「グロリア様にも……?」  思わずアルミナが尋ねると、セシリアは黙り込んで、笑いをこらえるような顔をした。 「……案外、意地悪ですのね、アルミナ様」  言われてみて、はじめて、アルミナは自分が口走ったことの大胆さを感じた。  もしグロリアに聞こえていたら、きっととんでもなく叱られてしまうに違いない。  そう思い当たりながら、なぜかアルミナは、思わず微笑んでしまっていた。 「さっそく始めましょう」  そそくさと椅子に腰掛けて、透ける布地の向こう側で、セシリアが図案どおりの色糸を、針に通している。  同じように腰掛けて、アルミナも引き出しの中の糸を選んだ。  図案の中の、縫い始めの場所にあたるのは、草原のなかの小さな丸い花だ。  淡い赤紫色をした、はかない花に見覚えがあるような気がする。  針に糸を通した糸のはしを結びながら、アルミナは図案の中の天使を見つめた。  手紙に記された署名には、シュレー・ライラルとあった。  夢の中で思い出した幼い日のあの少年も、今ではアルミナと同じくらいの年になっているはず。  この天使と似ているだろうか。  まっすぐで細い金の髪に。長い腕……。  絵のなかの天使が、ゆるやかに両腕をさしのべて微笑んでいるのを、ふいに身近に感じて、アルミナは真っ赤に頬を染めた。 「アルミナ様、はじめてもよろしいですか?」 「は……はいっ……」  セシリアに声をかけられ、アルミナは大慌てで、甲高い声の返事を返した。  不思議そうな目でセシリアに見つめられたが、理由など恥ずかしくてとても話せない。  ぎゅっと唇を引き結んだまま、アルミナは震える指で、最初の一針にとりかかった。 -----------------------------------------------------------------------  1-58 : 真実を照らす灯 -----------------------------------------------------------------------  ほう、と暗闇の中に、青白くぼんやりとした光が灯った。  灯心を焦がす明かりとは違う、弱々しく穏やかな光の輪が、ひとつ、またひとつと夜の部屋に浮かびあがり、その中にいる少女たちの顔を照らしている。  ほの青い燐光に染められ、少女たちの白い顔も夜着も、青ざめて見える。それをぐるりと見回し、アルミナは目を瞬かせた。  睫毛が重たく頬に触れ、燐光をうつして微かな軌跡をつくる。  誰の手にも、燭台はない。  青白い光は、リネンに包まれた少女たちの胸から漏れ出ていた。 「体内の翼に意識を集めて、光を、と念じるのですわ、アルミナ様」  アルミナに微笑みかけ、セシリアが言った。  消灯時刻がとっくに過ぎた大部屋には、明かりが絶やされ、燭台を灯すための火種もない。  それでも、例の手紙を読んでみるには、光が必要だった。  瞼を伏せて、アルミナは、体の奥深くに潜む自分の翼に呼びかけた。  光を!  なにかが言葉でない声、音でない音で、答えたような気がした。  そして目を開くと、自分の胸元から、淡く青白い燐光があふれ出て、しっかりと胸に抱いていた手紙の束を、はっきりと照らし出していた。  アルミナは自分の中の光のまぶしさに目を瞬かせて、同室の仲間たちを見回した。 「見回りは2時間ごとですわ。始めましょう」  セシリアが促すように、軽く頷いてみせた。

「アルミナ様の秘密を聞くのですから、わたくしたちも一人ずつ、自分の秘密を話します」 「皆で話すと時間がないから、順番に、毎夜……」  そう告げて、目配せを交わし会う少女たちの中から、すみれ色の瞳に淡い金髪をした誰かが、意を決したように一歩近寄ってきた。  少女は思い詰めたような顔でアルミナを見つめるばかりで、名乗りもしない。  順番を決めていたわけではないのか、他の少女たちは、少しびっくりしたような面もちで、その沈鬱な表情の一人を見つめている。 「わたくしにも約束を言い交わした方が……」  唐突に、かすれた小声で話し始め、すみれ色の瞳の少女は、ごくりと苦い薬でも飲むように、小さく喉を鳴らした。 「最初にお会いしたのは、銀色の満月の晩。わたくしと同じぐらいのお年で、お背の高い、痩せた方でした。わたくしの初めての方、怖いと申し上げたら、夜明けまで、ただわたくしの手を握って……」  ひと息に話して、息が切れたのか、喘ぐように少女は押し黙る。  皆に無言で見守られる少女の顔は、なぜかとても悲しげだった。 「満月を待てば、またお会いできました。あの方は、わたくしのことを愛しいと、おっしゃって、月を待つのが苦しいと……」  見つめ合う少女の目に、みるみるうちに大粒の涙があふれ、こぼれ落ちるのと、アルミナは戸惑いながら向き合った。 「わたくし、あの方をお慕いしていました」  うつむき、指先で涙をぬぐって、少女は声をつまらせる。  ぎょっとしたように、周りの少女たちが、さわさわと囁き交わす。 「お会いできるのは、この月が最後とおっしゃるのを聞いて……ふたりで逃げる決心をしました」  小さく悲鳴をあげかける娘たちを、自分も驚きを押し殺している顔で、セシリアが押しとどめている。 「どこへ……?」  アルミナは思わず問いかけていた。  皆が何に驚いているのか、良く分からない。  涙に濡れた重い睫毛を伏せ、話す少女は何度も言いよどんだ。 「……さあ。わかりません。ここでない、どこかへ」 「では、なぜ、今もここに、いらっしゃるのですか」  顔をあげた少女の、すみれ色の瞳には、ぼんやりとした虚ろな表情がある。  アルミナはどうしていいか分からず、その瞳と見つめ合った。  やがて菫色の瞳が彷徨い逃げるように逸らされ、低い声で、少女は話しを続けた。 「つかまったのです。逃げられるわけがありませんもの……」  悔やむような気配が、うつむく少女の首筋から立ち上り、彼女はそれを振り払うように、首を振って顔を上げた。 「引き離されるのを、ただぼんやりと受け入れることに、どうしても耐えられなかっただけです。あの方と、たとえほんの一歩でもいいから、逃げてみたかったのです」  アルミナの目の中に、失った何かを探そうとしているような眼差しで、少女はじっとこちらを見つめている。 「わたくし、一時は、あの方の記憶を消されました。でも、思い出したの」  眉を寄せ、すみれ色の瞳の少女は、過去を透かし見ている表情をした。 「夢の中に、あの方が。……血を流していて、ひどい怪我、翼が折れて、お腹に、穴が」  少女は、努めて気をしっかり持とうとしているふうだったが、眉を寄せたその表情は、恐ろしいほど青ざめて、燐光に浮かび上がっている。  夢の中で、彼女が見たものを、アルミナは想像できなかった。  その代わりに思い出されてくるのは、どこかの純白の壁、そこに浮き彫りにされた、白大理石の巨大な彫刻だ。  胸を射抜かれ、頽(くずお)れる天使。 「わたくし、お苦しみになっているあの方を、毎晩夢の中で、膝に抱いてさしあげました。その夢は……七日続いて、最後の夜に、あの方はやっと楽になられて……夢も、それきりでした」  少女はぼんやりとした口調で話し、周りで怯えて顔を強ばらせている同室の者たちを、少しの間見回していた。 「それでは、針を飲んだのは、わざとでしたのね」  緊張しきったセシリアの声が、横から注意深く問いただした。  驚いて、アルミナはセシリアの顔に目をそらした。 「針?」  アルミナが問い返すと、セシリアがこくりと頷く。 「真夜中に夢歩きして、針をたくさん飲み込んだのです。それで死にかけて、白の神殿へ。グロリア様は、あれは事故だと」  セシリアが、声をひそめて説明してくれたが、アルミナにはそれが現実のこととは想像できなかった。針を飲み込むなんて、一本でも恐ろしい。 「わたくし、死にたかったのです」  ぽつりと、しかしきっぱりとした意志を感じさせる声が、アルミナの意識を引き戻した。 「死ねば、あの方にまた会えるような気が……」  虚ろなすみれ色の目は、まるで何か、とても冷たく深い闇に見入っているようだった。  セシリアが突然、話す少女の言葉を止めさせるように、彼女の手を握った。 「だめ、死んではだめ! 別れがつらくて、そんな夢をご覧になっただけですわ! 次の月には、もしかしたら、その方にまたお会いできるかもしれないじゃないですか」  セシリアの声はするどい悲鳴のように響き、周りに息を飲ませた。  慌てたように、セシリアは少女の手を離し、夜に潜んでいることを忘れた自分の唇を指で封じた。 「……そうですわね」  セシリアに握られた手を、不思議そうにさすりながら、すみれ色の瞳の少女はぼんやり答えた。 「白の神殿の天使様も、そうおっしゃっていました。そんな大怪我をした神官様がいらしたら、天使様がご存じないはずはないけど、そんな怪我で亡くなった正神官様はおいでではないと」 「ほら、ごらんなさい」  ほっとしたように、セシリアが相づちを打つ。  すみれ色の瞳が微笑を浮かべるのが、青白い燐光の中に浮かんで見える。 「アルミナ様……わたくし、共に生きられないなら、命など意味がないと感じるほどの想いがあるって、わかるような気がしますわ」  微笑みながら、少女は小さく首を傾げ、アルミナと向き合った。 「その手紙に、触らせてくださいませんか?」  少女がなぜそんなことを望むのか分からず、アルミナはしばし躊躇った。  微笑みながらこちらに手を伸ばしている少女は、笑ってはいても、泣いている時より苦しげに見えた。 「……どうぞ」  胸に押し抱いていた羊皮紙の束を、両手で支えて、アルミナは差し出した。  白い指先がのびてきて、熱いものにでも触れるように、ほんの少しだけ触れては、すぐに離れていった。 「わたくしにも、こういうものがあれば良かった」  手紙に触れた指先を強く握りしめて、微笑んだまま、少女はまたうつむいた。 「そのほうが信じやすいですもの、あの方が今も、このお城のどこかにいらっしゃるって」 「……きっと、いつか見つけられますわ」  うつむく少女を励ましたい気持ちで、アルミナは腑に落ちないまま言葉をかけた。 「アルミナ様も、見つけられますわ」  はっきりと、労るような声で少女から返事が返り、アルミナはびっくりした。 「わたくしは、もう見つけたから、いいのです。あの方が今、どこにいらっしゃるか」 「では、お会いになったのですか?」 「いいえ。でも、いつか、また。月と星の船で」  涙を流させた混乱が去ったあとの、少女の瞳は静かだった。  その目と見つめ合って、アルミナは自分が探している誰かのことを思った。  自分の手に、手紙を残していった誰か。  目の前にいる少女が言うように、ほんの一歩でもいい、二人でここを逃げられたらと、彼も考えただろうか。  自分は、そう考えただろうか。  たとえそのまま永遠に別れて、月と星の船を待たねばならない身の上になったとしても?  ……わからない。  世界には、そういった想いもあるものだろう。  でも、もし、それが夢の中であっても、あの緑の目の人が、自分の膝で死ぬのを見たら。  自分はきっと、後悔する。  この人のように。  淡く微笑んでいる、菫色の瞳はどこも見ていない。ぼんやりと虚ろになって、何度も繰り返し、過ぎ去ってしまった過去への深い深い後悔を、じっと堪えているだけだ。 「あの……。どなたから聞いたのだったか、忘れてしまったのですが……」  ふと浮かび上がってきた記憶を、アルミナはたぐり寄せながら言葉にした。 「もし、大切な方と永遠に別れてしまっても、神殿種は転生するのです。その方の次の一生は、あなたを母として始まることもあると……ですから、あの…………まだ、絶望しないで」  押し殺した嗚咽が聞こえたのに驚いて、アルミナは、励ますつもりで言った言葉を飲み込んだ。  微笑の仮面を脱ぎ捨てるように、目の前の少女は悲しみに歪めた顔を顕し、それを両手で覆い隠した。 「ごめんなさい」 「いいえ!」  アルミナがわびようとすると、少女はするどく拒んで、首を振った。 「あのとき、わたくしがお願いしたのです。わたくしを連れて、逃げてくださいと。みんな、わたくしのせいなのです。わたくしが殺したようなものですわ」  ため息ひとつで、少女は深い混乱から顔を上げた。 「あの方がわたくしの胎から蘇られるように、毎日お祈りします。あの方の魂を、幸福な一生にお戻しするまで、わたくしは死にません」  涙で腫れた赤い目でも、彼女は弱々しい外見とはうらはらに、毅然として見えた。 「……誰のせいでもありませんわ。おかしいのは、このお城のほう」  ぽつりと、セシリアがつぶやいた言葉に、その場にいた娘たちはぴくりと身をすくませはしたが、反論しようとする者も、とがめる者もいなかった。 「わたくしの秘密は、これで全部です。アルミナ様の秘密に、足りるかしら」  首を傾げて、すみれ色の瞳の少女は言った。 「もう一つだけ、教えてくださいませんか」  泣きはらした目で微笑む少女に、つられるように微笑みかえして、アルミナは頼んだ。 「お名前を」  きょとんと虚をつかれたように、少女は幼い表情をし、それから本当の微笑みを見せた。 「わたくしは、エルシオネです」  ぺこりと頭をさげて正式なお辞儀をしてみせる少女の顔は、とても陽気そうに見えた。  泣いているのが、似合わない。  その人が苦い秘密を胸に秘め、うつむいて過ごした日々のことを、アルミナは思いやった。  この人が、そんな目に遭わねばならない、どんな罪を犯したというの。  慕わしいものと離れたくないと願う、たったそれだけのこと。  それがここでは、重い罪だというのだろうか。

 誰からともなく、少女たちはエルシオネの肩に触れ、腕に触れ、身を寄せ合った。  胸からこぼれる淡い燐光を重ね合わせ、少女たちはアルミナの手にある手紙の文字を、闇の中から浮かび上がらせた。  アルミナはエルシオネに、一番上にあった一枚を手渡した。  エルシオネはアルミナに寄り添って、伏し目がちに紙の上の文字を追う。 「……つつがなくお過ごしとのこと、嬉しく思います。赤の神殿では大祓(おおはらい)を終え、今年の祭祀は全て完了しました。新年の聖餐(せいさん)式までの間、各神殿は大門を閉ざし、正神官たちは潔斎(けっさい)に入ります」  アルミナはエルシオネが読み上げるひと文字ひと文字を、大切に目で追った。  几帳面に書き付けられた字面は整っていたが、どことなく文字が硬く見える。書いた者の指が、真冬の寒さでかじかんでいるのが感じられた。  冬の部屋。そこに一人居て、自分に手紙を書き送ってくれた誰か。 「赤の神殿の方なのですわ。では、アルミナ様は、ブラン・アムリネス様の神殿からこちらへお越しになったのね」  セシリアが納得したように念を押す。  そう問われて、アルミナはなぜか呆然とした。 「ここは、どこなのですか……」 「わたくしたちの守護天使はサフリア・ヴィジュレ様ですわ。今も、この塔の最上階のお部屋においでで、わたくしたちを守ってくださっています」  セシリアはにっこりと、どこか自慢げにそう言った。  アルミナは短く息を飲み、怯えた目で房の天井を見上げた。  この上にいる。  この上に、この上にいる、あの天使が! 「アルミナ様、どうなさったの? 落ち着いて……」  動揺したエルシオネが、小声でするどくたしなめて、座り込みそうになるアルミナの肩を支える。  その瞬間。  リン、ゴーン、とどこかの塔が深夜の鐘を鳴らし始めた。  普段なら慣れきっていて、眠りを妨げられることもない、その音に、少女たちは飛び上がった。  お互いの目を見つめ合って、少女たちは行ったり来たりする鐘の音をやり過ごす。  その音色を聴くに連れ、アルミナの呼吸は早まった。 「わたくし、あの音を憶えています」  横にいるエルシオネに、アルミナは必死でうったえた。 「赤の神殿の鐘ですわよね。ブラン・アムリネス猊下の鐘です」 「ええ……そういえば」  アルミナの勢いに気圧されて、エルシオネの言葉はたどたどしい。 「わたくしの居場所は、あの塔ですわ。あそこに帰してください!」  ぶあつい青銅の窓枠。  その向こう側で、ふっくらとした小鳥が鳴いている。  チチテュウ。  指先に触れる冷たい窓ガラス。  脳裏によみがえった生々しい景色は、それ自体が鋭い刃物であるかのように、アルミナの頭をつらぬいた。  恐ろしい痛みが、頭の奥を稲妻のように駆け抜ける。  こらえきれずに、アルミナは絶叫した。 -----------------------------------------------------------------------  1-59 : 塔の囚われ人 -----------------------------------------------------------------------  杖が扉を打ち鳴らすずっと前から、慌てふためいた何対かの翼が階段を駆け上がってくる気配に、天使は叩き起こされていた。 「猊下(げいか)!」  扉の向こう側で、怯えたような鋭い声が呼ばわる。  すでに明け方近く。窓のない部屋には、ぼんやりとした丸い燐光が点々と灯り、白い壁を薄緑に浮かび上がらせている。  枕元の小卓に置かれた振り子時計が、規則正しく時を数えているのを横目に一瞥し、眠気に痺れた目元を揉みながら、アズュリエ・カフラは寝台から身を起こした。  縮れた癖の強い金髪が、枕のせいで、どうにも処置のないほど乱れている。満足に手櫛も受け付けないそれを、申し訳程度に撫でつけて、カフラは憮然とした。  神殿内の僧房は施錠されていない。最高位の神官である天使の房でも同じことだ。  深夜の訪問客は、部屋に飛び込みたければ、いつでもそうできるはずだが、天使が内側から扉を開くのを、やきもきして待っているようだった。  夜着のまま、なにも羽織らずに出向いて扉を開けると、転がり込むように、三人の正神官が面前で膝をついた。 「猊下、どうかご内密に」  いきなりの肉声で、その中の一人が懇願してくる。  神殿内では通常、会話には翼(よく)による念話を用いる。そうすれば、城の中にいる誰にでも、その気さえあれば聞こえるからだ。  内密の話というのは、それ自体になにか不穏なものがあると見なされる。それゆえ常に、不特定多数に公開された状態での会話を主とするのが、この城での作法だった。  先頭に膝をついている神官が、壊れ物でも運ぶように、絹製の僧冠を捧げ持っているのを、カフラは伏し目に見つけた。  その純白の面(おもて)に金糸で刺繍されている紋章の意匠は、鎖(くさり)だった。天使サフリア・ヴィジュレの紋章だ。  ヴィジュレの血のように赤い盲目の目を思い出し、カフラは顔をしかめた。  見れば、神官たちの僧衣の文様も、カフラの司る白の神殿のものではない。  消灯後、各所に錠の下ろされた神殿内を、所属を越えて別の塔へ行くのは通常では無理がある。まして天使の居室まで駆け上ろうというのでは、殆ど不可能と言ってよい。  しかし目の前の三人は、天使の僧冠を手形代わりに、ここまで押し入ってきたもののようだった。  と、なると、用件はひとつだ。 「ヴィジュレが倒れたか?」  念を押すため、カフラは声に出して確認をした。  その声は、眠気にかすれて、不機嫌だった。  神官たちは、床に額をこすりつけて平伏する。 「とつぜん苦しまれて、発作を起こされました」  幾つかの遺伝的な障害を抱えて生まれついたサフリア・ヴィジュレの肉体は虚弱だった。時折の不調は珍しくなかったが、伝令たちの顔色を見れば、それがちょっとした体調不良ではありえないのは明白だ。  おそらくヴィジュレは昏倒している。  すでに絶命している恐れもある。  やつが「死ぬ」のは今年で三度目、とカフラは苦々しく反芻した。  ヴィジュレはいくら忠告しても、自分の肉体の深刻な状況に無頓着だった。苦痛を覚えるのだけが煩わしいようで、痛みのある時にだけカフラのもとに現れ、鎮痛のための処方箋が効果を示している限りは、あたかも健康体であるかのように振る舞っている。  ヴィジュレは自分の、生来の不運を無視しようとしている。そうすることで現実が修正できるわけでもないだろうに。 「内密には無理だな。治療には俺の神殿を起こさないといけない。それに、場合によっては別の神殿も」  彼らの主(あるじ)から、有事の際には隠密にと命じられていたのだろう。神官たちは哀れなほど狼狽えた。 「ここまで駆け込んできた機転は正しかったよ。それはヴィジュレにも諭しておく。もちろん、やつが無事に甦ったらだけどさ」  冗談めかせて脅しつけると、神官たちは蒼白になった。  天使は死なない、たとえ死んでも、すぐに蘇生する。  それは神殿内では当たり前の事実であり、翼を備えた神殿種たちにも共通する事例だった。  しかし蘇生しないこともある。  明言する者はいなくても、それは衆知の事実だった。神殿種にも死ぬ者はいる。  天使にも、だ。  延々と転生を繰り返し、不滅の魂を持つはずの天使が死んだとしたら。  そのときに神聖神殿の中で起きる反射は、この城で生まれ育った者なら本能的に予想のつくことだった。  その天使は、はじめから居なかったことになる。  神殿内では、それで全ての辻褄が合ってしまう。  そうなれば、その塔に仕える者たちも、いるはずのない、存在してはならない者たちということになる。  蒼白になった神官たちの目は、それを知っている様子だ。  この城の中では、現実よりも、幻想のほうが重視されるということを。  それでこそ、必死の形相で、夜中の螺旋階段を駆け上がってくる気にもなろうというものだ。  塔に棲む者はみな、最上階の天使と運命をともにしている。  特に、ブラン・アムリネスが不在の今、不吉な噂が容易に飛び交うようになっている。半死半生の主(あるじ)を抱えていては、明日は我が身、さぞかし夢見が悪かろう。  まるで地獄だな。誰も彼もが、審判を待っている、青ざめた罪人(つみびと)のようだ。  くすりと自嘲の笑みを浮かべてから、カフラは体内に潜む自分の翼(よく)に意識を集中した。  長身の肉体にくまなく散じていた寄生種が、呼び起こされて覚醒し、耳には聞こえない声を、壁を越え、眠り込んでいる夜明けの僧坊のすみずみまで響き渡らせる。  それに応えて、自分に仕える神官たちが飛び起きるのが感じられた。  彼らは常に、天使に忠実だった。 「ヴィジュレを運べ、地下房だ。場所はうちの誰かに案内させろ」  着衣を整える時間をとらず、カフラはそのままの足で部屋を出た。  後を追ってきた部屋付きの正神官たちが、夜着の上に金襴の僧衣を着せかけ、翼の意匠のついた長い杖を手渡してくる。  現れた暗い階段を駆け下りながら、カフラは狙いを定めて、別の塔で眠っているはずの天使に呼びかけた。  ───ノルティエ・デュアス。  すると、すぐに返事が返ってきた。  天使の長兄の感度の高さに、カフラは思わず短く口笛を吹いた。  ───急いで来てくれ、ヴィジュレがまた昇天した。  手短に伝えて、カフラは正神官が扉を開いて待っていた、白い小部屋の中に駆け込んだ。  扉はすぐさま閉じられ、カフラは天井にある、翡翠(ひすい)に似た色の大きな球体を見つめた。それにはまるで、巨大な目であるかのように、深い青の「瞳」がある。それと目が合った瞬間、密閉された室内に、がくんと微かな揺れが走り、部屋はゆるやかに落下しはじめた。  城の地下を目指してまっしぐらに落ちていく。無数の階段を越えていくより、はるかに速い。  この小部屋のことを、神殿種たちは「天使の箱」と呼んでいるようだ。  しかし当の天使たちは内々に、もっと短い別の名で、この動く小部屋のことを記憶している。  その名は、「リフト」といった。数千年の昔から。

 白の神殿の地下房に運び込まれた時、サフリア・ヴィジュレには意識がなかった。  ヴィジュレに仕える不寝番の神官が、異変に気づいて部屋に入った時には、胸をかきむしるようにして痙攣していたという。  ヴィジュレの乱れた着衣の喉元から胸にかけては、自分の爪で傷つけたらしい、生々しい赤い痕と血の染みが、白い膚(はだ)と絹のうえに、鮮やかに浮かび上がっている。  寝具にくるみ、ヴィジュレを抱きかかえて運んできた神官たちは、息をきらして汗をかいてはいたが、寒風にさらされたように蒼白な顔色をしていた。  青ざめもするだろうとカフラは内心で考えながら、自分の部下たちに診察と治療の準備を指示した。  ヴィジュレはこのところ心臓に不具合があった。そのあたりが原因だろう。  何もない白い部屋に、唐突に生えている白い寝台の上で、ぐったりと命のないもののように横たわっているヴィジュレの頸に触れ、カフラは脈を確かめた。  思い出したように、時折弱い脈が触れるだけで、ほとんど死んでいるといってもよい状態だ。宿主(ホスト)の危機を察知して、翼(よく)が活性化し、背中から露出したままになっている。酸素をとりこむために体外に飛び出したヴィジュレの翼は、血液を循環させているせいで、赤い色をしていた。  そうやって、翼が停止しかけた心肺機能を補助しているかぎり、ヴィジュレは生き続けるが、それは死んでいないというだけの意味でしかない。宿主(ホスト)にとっても寄生種(パラサイト)にとっても、消耗の激しい状況であるのが問題だった。  いっそ死んでいれば、と、カフラはぼんやりと、どこか遠い心の奥で考えた。半端に生きているから、再生がはじまらず、いつまでも苦しむことになる。このままだらだらと消耗したうえ、宿主(ホスト)と寄生種(パラサイト)が共倒れになるのでは困る。  意識のない目を見開いたままのヴィジュレの美貌は、紙で作った人形のように真っ白で、盲目の瞳だけが、まがまがしい赤い色をして真上に向けられている。  治療にむけて、ヴィジュレの夜着を剥ぎにきていた神官が、自分が持ち上げた衣の下にあるものを目にして、ひっと短い悲鳴をあげ、後ろによろめいた。 「……猊下、こ、これは」  助けを求めるように自分を見上げる神官に、カフラは首をかしげて苦笑を返した。 「そう、びびるなよ……」  思わず毒づき、カフラはヴィジュレの生白い胸に走る生々しい手術痕を視線でなぞった。胸郭を開いたのは去年のことだ。  しかし、医術に慣れ親しんだ神官たちをたじろがせたのが、この傷ではないことは分かり切っている。  だらりと無防備に両腕を垂らし、意識のないヴィジュレには、さらされた膚(はだ)をはばかる様子がないのは当然のことだ。  それだけに、無闇に触れるのには罪悪感がある。  ヴィジュレの胸には、青ざめた頬と同じように白い、ふたつの乳房があった。  瀕死の息に、不規則に上下する丸みを帯びた肉は、痩せてはいたが、なめらかな弾力を予想させる、整った形をしている。 「こ……これは……女(ファム)です」  やっと絞り出したような声で、神官がカフラに抗議してきた。受け入れがたい事実に抵抗を試みているような、動揺に満ちた声色だ。 「ヴィジュレが聞いてたら、お前、殺されちゃうよ」  含み笑いして、カフラは両腕を消毒するために寝台のそばを離れた。  聞かれていなくても、この施術に関わった彼らの命運は、尽きたも同然だ。  ヴィジュレはおそらく、この秘密への代価として、彼らに死を求めるだろう。ままならぬ身への苛立ちは、それだけに留まらず、カフラにも向けられるかもしれない。  ヴィジュレは時折、たがが外れたような残虐性を露わにして、不都合のある者を地下牢に引き立て、拷問することがあった。  それがヴィジュレの心には何かの救いに感じられるのだろう。  この城は病んでいる。たぶんもう手の施しようがないほど。  疲労とも、自嘲ともつかぬ倦怠感のなかで、カフラはそう思った。  しかし、それから逃れる方法などない。  いかに狂い果てていようと、それが天使の姿をしているかぎり、大陸は天使を、竜の末裔を、神殿を求める。天使であることから逃れて、どこへ行こうというのか。  ブラン・アムリネスのように?  思わず微笑してから、カフラは自分に驚いた。  アムリネスの悪あがきも、天使であることから彼を解放してはくれないだろう。  なにしろそれは、己の背にある、この身のうちに。  塔からは逃げだせても、自分自身から、どうやって逃れようというのか。  しかし、逃れたいという想いには、カフラは共感していた。  アムリネスの宿主(ホスト)は、まだ若い。もしや自分には生きている価値があるのではないかと、一縷の望みを抱いていられる年頃だ。  一度は誰でも、そんなことを思う。命のある者として、当たり前のことではないか。それを願わないとしたら、その者には、心が無いのだ。 「ノルティエ・デュアスを喚べ」  カフラは逃避的な回想を振り払うために、小さく首を振ってから、呆然としている正神官たちに命じた。 -----------------------------------------------------------------------  1-60 : 運搬者(ヴィークル) ----------------------------------------------------------------------- 「死んでいるのか」  透明な膜の向こう側で眠っているヴィジュレをのぞきこんで、ノルティエ・デュアスは冷静に質問してきた。  その長身の背中を遠目に眺め、カフラは気怠く答えた。 「いいや。翼(よく)の機能で、なんとか持ち直してる。まだ意識はないけどね」  人払いしてあるのをいいことに、カフラはご大層な僧衣を脱ぎ、簡単な夜着だけになって、ぐったりと椅子に座り込んでいた。  ヴィジュレの容態を見下ろすノルティエ・デュアスは、早朝にたたき起こされて駆けつけたとは思えないほど、きっちりと正式な僧衣に身をかためている。ご丁寧に、手袋まで忘れないのはさすがだ。  ヴィジュレを覆う膜は、白の神殿の地下房に棲み付いている大きな虫のようなものが紡ぐ皮膜で、中には酸素が満たされている。ヴィジュレの弱った心臓と肺への負担を減らし、呼吸を楽にするための処置だ。  ごろんと丸い胸部の節を持った虫は、うずくまった男ほどの大きさがある。  生かしておくには餌をやる必要があるが、普段は休眠しており、命令を受けると目を覚まして、透明な皮膜を張り、その中を酸素で満たす。そのためだけに生きている。おそらく、この城の地下にしか、生息していない種だ。  人の手を借りてしか生きられない、不自然な謎めいた種族。  だが、こいつらがいなくなると、困る。  空気でまるまると膨らんだ、虫の白っぽい胸節がゆっくりとしぼんでいくのを見守りながら、カフラは内心で身震いした。 「なぜ呼んだのだ」  ノルティエ・デュアスが上体を捩(ねじ)って、こちらを振り返った。 「いくつか問題が」  縮れた金髪に指を入れると、汗で蒸れた熱気がこもっている。それを解きほぐしながら、カフラはデュアスと目を合わせないように、うつむいた。 「一つは見ての通り、サフリア・ヴィジュレの体調のことだけどね。本人は転生を希望しているらしいけど、そうなの?」  ノルティエ・デュアスはすぐには返答しなかった。  カフラがじれて顔をあげると、デュアスはまた、透明な皮膜の中で眠っているヴィジュレに目を戻している。  手術痕が痛々しいヴィジュレの裸体は、見間違いようもなく、女のものだった。それを見つめるデュアスの態度は、なにか寒々しいほど冷たく思われる。 「べつの体に移るには、まだ早い」  答えるデュアスは、声までが無表情に響く。  彼は死の天使と呼ばれ、その名にふさわしい職務を負っていた。天使たちの死と転生を司るのも、彼の役目だ。 「ヴィジュレは、本人がいう程には、覚醒が進んでいない。今の状態から転生の処置をすると、転生胚(てんせいはい)形成の段階で、情報劣化が起きる」  淡々と肉声で語るデュアスの口振りは、城の地上部で話す時の、いつもの厳かな口調から、いくぶん外れたものだ。なぜこんな時にと驚くが、ノルティエ・デュアスはどこかしら、この場でくつろいでいるようだった。 「転生すればいいというものではない、ヴィジュレの記憶が受け継がれなければ、なんの意味もない」  金糸で一面に刺繍を施された絢爛(けんらん)な外套の中で、ノルティエ・デュアスは腕組みをし、カフラに向き直った。  その言葉には、どことなく、サフリア・ヴィジュレという名の天使への親しみや愛着がこめられているようには聞こえた。だが、それが彼の目の前で憔悴して眠っている、女の形をしたものへの愛着ではないことも、カフラには分かっていた。 「運搬者(ヴィークル)を保たせるのはお前の仕事だ、ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ。不可能だというなら、我々は貴重な仲間をまた一人失うことになる。天使を失うのは、大きすぎる痛手だ」  足音ひそかに歩み寄りながら、デュアスは淡々と話す。その口調は淡泊だが、何者も逆らわせない断固とした力が潜んでいる。 「運搬者(ヴィークル)ね……」  うっすらとした嫌悪感をこめて、カフラは反復した。 「お前は宿主(ホスト)と呼び慣わしているんだったな」  ごく淡い笑みが、デュアスの顔に現れる。その残酷な微笑は、彼の顔に無理やりかぶせられた仮面のように不自然に思えた。 「我々は客分(ゲスト)ではないだろう、主権はこちらにあるべきものだ。これは、我々の乗り物(ヴィークル)に過ぎない」  腕組みをゆるめて、ノルティエ・デュアスは自分の胸を、軽く指で叩いて見せた。彼の運搬者(ヴィークル)、彼の宿主(ホスト)を。 「俺も次には、もっと使い勝手のいい乗り物(ヴィークル)に恵まれたいもんだよ。兄上のようにね」  皮肉を言っているのか、自虐に走っているのか、自分でもわからないまま、カフラは苦い笑いに顔をゆがめた。 「単刀直入に言うよ。ヴィジュレの体はもう寿命がきてる。今年にはいってから三度目の危篤なんだ、それも、ほぼ定期的に」  ノルティエ・デュアスが興味深げに目を細める。無表情だった灰色の瞳に、ちらりと人並みの感情がよぎる。しかしそれは、同情や哀れみではない。探求心、という言葉がいちばん近いだろう。 「その割には元気なように見受けたが」 「……やつはな、無茶をしてるんだ。まあ、たとえるなら、分解寸前のポンコツな乗り物(ヴィークル)で、荒野をぶっとばしてるようなものだよ。今乗っているものが壊れても、すぐに新しいのがあると、たかをくくってるんだ」 「忠告して自重させろ」 「自重したって無駄なんだよ……」  自分の顔から、軽薄な笑顔の仮面がはがれ落ちそうになるのを感じて、カフラは深い息をつき、言葉を置いた。 「定期的に突然危篤になる理由だけどさ。前回の危篤時に活性化した蘇生胚(そせいはい)を消費しきったら倒れるということだと思うんだよね。つまりさ、やつの運搬者(ヴィークル)は、もう役に立たない。運転手を運ぶどころか、寄生種(パラサイト)が後ろから押してやらないと進むこともできないぐらい、ぶっ壊れてるってことなんだよ」 「なるほど」  大した感銘を受けるわけでもなく、デュアスはあっさりと納得した。 「患者を治療するのが俺の仕事だよ、たしかに。だけど、もう、なんていうか……ヴィジュレは歩く死体だ。翼(よく)の機能が宿主(ホスト)を辛うじて生かしているというだけで……」 「つまり」  耳元にはっきりと響くノルティエ・デュアスの声が、カフラの言葉を止めさせた。口に出しかけていた回りくどい説明が、頭の中で砂の山のように崩れる。 「お前はこう言いたい。お前にできることは、もう何も無い、と」  カフラが顔をあげて眺めると、わかったよと宥(なだ)めるような、どことなく優しげでもある微笑が、ノルティエ・デュアスの顔に浮かんでいる。  昔はこうではなかったと、唐突にカフラは考えた。回想に逃避している自分を感じる。  デュアスは変わった。別人になったのだ。それが天使として目覚めるということ。そしてそれは、宿主(ホスト)の精神的な死と同義だ。  創生神話は、神殿種のことを、翼(つばさ)ある者、と記している。的確な表現だろう。天使の本体は、その翼のほうにある。天より来たりて第四大陸の全種族を牧しているのは、この体の中に巣くっている、翼そのもの。  天使とは、死体に取り憑いて生きていく、何者かのことだ。 「それで。どうするのだ」  デュアスの平板な口調の裏に、どことなく嬲(なぶ)るような気配がする。カフラは枯れた喉のまま押し黙り、自分を見下ろす長身の天使と向き合った。 「医師(ドクトル)、どうすればヴィジュレは回復する?」 「蘇生胚(そせいはい)の形成を……促すほかは」 「要するに、お前が私に相談したいのは、お前と私の、どちらがヴィジュレを殺すかということなんだろう。いや、もっと親切に言ってやるとしたら、お前は自分の手を汚したくない。臆病心と……お前の職能ゆえの、くだらん自尊心からな」  ちらりと鋭い犬歯をのぞかせて、ノルティエ・デュアスが嗤(わら)った。 「命を助けるのが俺の仕事だ!」  皮肉めかせたからかいの言葉に、カフラは思わず声を荒げた。  鞘走る音がして、ノルティエ・デュアスの外套の奥から、鈍く光る刀身が引き抜かれる。  その使い込まれた刃に、横目に視線を吸い寄せられたまま、カフラは言葉を失った。  この武器に見覚えがある。その切っ先を身に受ける痛みに、憶えが。  理屈抜きの、恐怖を感じた。 「用意してきた」  ため息まじりの小声で、ノルティエ・デュアスが呟く。 「そう怖じ気づくな。道具が違うだけで、お前が常日頃やっていることと似ている」  見つめ合ったノルティエ・デュアスの灰色の瞳に、カフラは何の迷いも見つけられなかった。  この乗り物を操っているのは、まさしく死の天使なのだ。 「死ねばいいんだろ。どうしてもっと楽な方法じゃ駄目なんだ……なにもそんな野蛮なもので……」  早口に問いかける自分の口調に、はっきりと懇願の色がまじるのを、カフラは止められなかった。 「損傷が激しければ、翼(よく)はその分大量の蘇生胚を形成する。軽傷で二度三度と死ぬよりは、より効率的に寄生種(パラサイト)の覚醒を促せる。だから薬物でもいいんだぞ、アズュリエ・カフラ。早すぎず、遅すぎずで、劇的な損傷を受けて死ねばいい。どうする、お前がやるか?」  カフラが座る椅子の背に手を置いて、デュアスは小さな子供の顔色でもうかがうように、身をかがめて問いつめてくる。  拒絶が言葉にならず、カフラはただ何度も首を振って拒んだ。  ヴィジュレは意識がない。意識がないんだと自分の声が頭の中に響く。  だから痛みも感じない、そのぶん、ずっとマシじゃないか。眠っているうちに片がついて、目が覚めたらまた、かりそめのものでも健康な体に。  だが、だからといって、その道筋にある出来事を受け入れられるか?  人間のやることか?  びりびりと紙を裂くような音がして、ふと目を向けると、ノルティエ・デュアスがヴィジュレを包む透明な膜を破いていた。  僧衣をまとった姿のせいか、抜き身の剣を提げているのにも何か神聖さがあるような錯覚をおぼえるほどだ。  ノルティエ・デュアスが寝台に横たわるヴィジュレの背の下に手を入れて、白い体を抱き起こすのを、カフラは身動きもとれずに見守った。  息が上がっているせいか、それとも、膜から漏れた純粋酸素を吸っているせいか、指先がじんと痺れたように感じる。 「……ああ、あにうえ?」  朦朧とした目覚めの声が聞こえて、カフラは思わず立ち上がっていた。  ノルティエ・デュアスの横顔が、かすかにこちらを向くのが分かる。どことなく、天使は微笑しているようにも見えた。  どうした、と嘲弄する視線が、こちらを一瞥していく。  自分に言い聞かせていた、馬鹿げた言い訳は、その一瞬でかき消えた。 「ヴィジュレ、お前を治すには、もう、復活させるしかないそうだ」  穏やかに説明するノルティエ・デュアスの声が聞こえた。息をのむヴィジュレの声が聞こえた。裸の背に触れる、冷たい金属の感触が何なのか、ヴィジュレは悟ったようだった。  湧き起こるヴィジュレの恐怖で、空気が凍る。  カフラは二人から目をそむけた。 「転生を。新しい体に移してください、兄上。もっと健康な……!」 「無様なまねは止せ。ほんの半時の辛抱だ」  哀願するヴィジュレを淡々と諫(いさ)める、ノルティエ・デュアスの声に、カフラは耐えきれず、耳を覆った。  押し込められた悲鳴が聞こえ、何か重いものが寝台から転がり落ちる音がきこえた。  甲高い金属音を聞くのに似た、脳を軋ませるほど圧倒的な波を、翼(よく)が拾い上げて伝えてくる。  ヴィジュレの翼(よく)が上げる救難信号、耳をふさいで誤魔化すことのできない、激しい悲鳴だ。  切り刻まれながら床を逃げまどう何かを、ゆっくりと、しかし執拗に追いつめるものの気配が背後から押し寄せる。  濡れたものが床に飛び散る気配、それにつづく絶叫。  早く終わってくれと、カフラは気づくと必死に念じていた。  早く。  早く。  早く死ぬんだ、ヴィジュレ。 「たすけて……」  背後から足首をつかまれて、カフラは自分の喉が痙攣するのを感じた。  見下ろすと、立ちつくす膝に、ヴィジュレがすがりついている。盲目のせいで、恐怖にひきつった顔は、あらぬ方向に向けられている。  その腹に、ぱっくりと赤い裂け目が開いていた。 「たすけて……ごめんなさい。ちゃんと思い出します、だから、もう、やめて……」  ヴィジュレが口走っている言葉はほとんど譫言だった。  蒼白の全裸だったヴィジュレの体が、今はまるで赤い文様の服を着ているようだ。  無視できず、カフラは思わず自分にのばされたヴィジュレの手を握って庇った。  ヴィジュレは引きつった喘息と、譫言のようなか細い悲鳴を上げ続けている。  発作を起こして、心臓が止まらないのが不思議なほどだ。  なぜこんな時に限って、持ちこたえたりするのか。  カフラの中に逃げ込もうとでもいうように、ヴィジュレは傷ついて自由のきかなくなった体で、必死に抱きついてくる。  人肌を、これほど近くに感じたのは、たぶん生まれて初めてだ。 「もう止めよう、デュアス、もう充分だろ」  意味がないとわかっていても、カフラは気づくと懇願していた。  目の前に立つ、死の天使に。 「まだ死んでない」  血と脂にくもった刀身を、ヴィジュレの背中にかざして、ノルティエ・デュアスは穏やかに反論してくる。  顔色一つ変えてない。  悲しんでいるわけでも、楽しんでいるわけでもない。  これがあんたの仕事だから。それだけの理由で、悲鳴に慣れている。  かすかに異様な痙攣を始めるヴィジュレの体を抱きしめながら、カフラは、仮面のように無表情なデュアスの顔を見つめた。 「あんたには、心がないのか……」  咎めるカフラの言葉に、デュアスは逆手に握った剣を振り上げながら、不思議そうな上の空の顔をした。 「避けないと、お前にも当たるぞ」  かすかな濡れた音をたてて、刀身がヴィジュレの白い背中に沈み込む。自分の脇腹に押しつけられたヴィジュレの喉が、短い悲鳴をあげ、女の形をした体に痙攣の波が走るのを、カフラはただ何もせずに抱き留めていた。  悲鳴はそのまま収まらず、ごぼこぼと泡だった呼吸音に変わる。  次の瞬間、ヴィジュレの体が、切り刻まれる痛みとは別のものに、激しく引きつるのが感じられた。  やっと、ヴィジュレの心臓が発作を起こしたらしい。  腕を回された脇腹に、強い圧迫がくるのを、カフラはどこか虚脱したままの頭で堪えた。  早く止まれ。そうすれば終わるんだ。  血まみれの背中を撫でて、カフラは聞いているはずのない相手に囁きかけた。 「蘇生すれば、昼には傷も癒えているだろうが、念のため、今日の祭祀は休ませるんだな。後日、復活祭をやると言い含めておけば、皆、納得するだろう」  手袋をはめた手で、ノルティエ・デュアスが顔にとんだ返り血をぬぐっている。  ひと仕事終えたあとの彼の声色は、爽やかですらある。  ゆっくりと散漫になっていくヴィジュレの脈をとりながら、カフラはぼんやりと考えていた。だが、自分が何を考えているのか、少しも分からない。  これは普通のことだ。なにも酷くない。  長年、この神殿で行われてきたことだ……  必要なことだ、天使を目覚めさせるために……  そう言い聞かせる言葉は、カフラの心を上滑りして、深い虚(うろ)へと転げ落ちていった。 「転生の件は、考えておく」  刀身の血を僧衣でぬぐって、腰に帯びた鞘におさめながら、ノルティエ・デュアスが事務的に話しかけてくる。 「え?」 「ヴィジュレの転生だ。翼(よく)への負担が大きいまま、長く過ごすのは好ましくない。急いで覚醒を進めてみよう」 「急いで……?」  うろんと疲れ切った頭が、具体的なものごとを考えるのを拒否している。  天使の記憶が目覚めるのは、蘇生の後と決まっている。ノルティエ・デュアスは殺戮の話をしている。  どうということもない、慣れ親しんだ作業をこなすように。 「天使を産めるような、女(ファム)はいるのだろうな?」 「さあ……調べるよ」  緩慢な返答しかしないカフラに、ノルティエ・デュアスがうっすらと顔をしかめる。 「同じ失敗を何度もするなよ。ヴィジュレの転生が不完全だったのは、元はといえばお前の責任だ。非難がましく私を見て、それで誤魔化せると思うな。私はお前の後始末をしてやっているんだ」  答える気力がなく、カフラは頷いた。それも、単に項垂れただけだったかもしれない。  静かな靴音をたてて、ノルティエ・デュアスは地下房を出ていった。  白い繭のような室内の壁に、すうっと切り取ったように扉が開き、長身の天使を外へと送り出す。  夜が明ければ、早朝から祭祀が始まる。デュアスはこの後、浴びた血をぬぐい落として、何事もなかったような清潔な顔つきで、天使の列を率いるのだろう。  自分もそこへ、戻らなければならない。  カフラは自分をそう促してみたが、気力の抜けた身体は、すぐには動こうとしなかった。  ヴィジュレの転生に関わったのは、前世の自分だ。失敗だ、責任だと言われても、知ったことではない。そう言いたかった。  しかし憶えている。  ヴィジュレの転生胚を植え付けた女(ファム)が、妊娠中に苦しみだした。胎内で何らかの異常が起きていることは確かだったが、手を尽くしても回復の兆しが現れなかった。  母体を救うには、堕胎するほかなかったが、女(ファム)ひとりの命よりも、天使の転生胚が失われることのほうが損失が大きい。  それには同じ塔に棲む、大勢の命がかかっているのだ。  悲惨な経過のすえに、天使の翼を寄生させて生まれてきたものは、女(ファム)の体をしていた。  女の形をしたもの、といったほうがいい。ヴィジュレは外見上は女でも、女としての機能は持ち合わせていない。生殖能力を欠いた、中性体(ユニ)だ。  当初、ヴィジュレの転生は危ぶまれた。カフラはその責任を追及された。  だが、医師にもどうにもできないことは、ある。  避けがたい不運の部類だ。  医師は神とはちがう、全能ではないのだ、と、天使会議の場で叫ぶ自分の声が記憶に残っている。今とは違う、老人の声で。  今の身体で思い返せば、それも皮肉な台詞だ。あの老人は、白の塔の天使は、この自分自身は、神のように崇められる者、大陸の民が祈って寄り縋る、神性な存在だ。  時折思い出さずにはいられない、身に覚えのない数々の記憶。  アズュリエ・カフラと名乗り、その名で崇められてきたものの、気の遠くなるほど長い生涯の記憶が、自分の中にある。  生まれ落ちた瞬間から、自分はその記憶を運ぶための運搬者(ヴィークル)に過ぎず、新しい命ではない。すでに古びた人生の続き、あるいはその途中の、ちっぽけな数十年でしかない。  それなら生まれつき、自分の心などない方が良かった。  運搬者(ヴィークル)には、心など、必要ない。  ふと気づくと、腕の中にいるヴィジュレはもう死んでいた。  カフラはヴィジュレの体を抱きしめて、銀の髪を撫でた。  それは他の天使より幾分長めに切りそろえられている。頼りない手触りで、ふわふわと指にからみつく。 「ごめんよ……」  ヴィジュレの死に顔が泣いている。  恐怖に引きつってはいても、その顔立ちは美しかった。  強ばった体に、かすかな漣(さざなみ)のような震えが走りはじめる。  翼(よく)が変じた蘇生胚が、活動を始めたらしい。  生命機能の停止を刺激として、翼は宿主(ホスト)を蘇生させ、破壊された器官を修復するための、特殊な形態に変わる。蘇生胚はまず宿主(ホスト)の脳を確保し、その後全身をくまなく探査し、修復を始める。体に走る漣のようなふるえは、この時のものだ。  ヴィジュレの頸に触れ、カフラは脈をはかった。どくん、と唐突な脈動が指に触れる。  見る間に出血がおさまり、むごたらしかった傷口が、少しずつ塞がっていくように見える。開いた傷口からは、胎内を通りすがる蘇生胚が放つ、ぼんやりと青い燐光が、時折こぼれた。  しばらく待つと、ヴィジュレの唇が開いて、ひゅう、と短い息を吸い込んだ。  そのとたん、激しい咳をして、気道に残っていた血の泡が吐き出されてくる。  カフラは慌てて、呼吸を確保するために、ヴィジュレの姿勢を変えさせた。  ひとしきり激しくむせてから、ヴィジュレはぐったりと大人しくなり、喘ぐようなため息を何度かついた。 「……さむい」  闇を見透かそうとしているように、ヴィジュレの赤い瞳が遠くに向けられる。  その声を聞いて、カフラはやっと我に帰り、椅子の背にかけたままの自分の外套を、腕をのばして引き下ろし、ヴィジュレの裸体に覆いかぶせた。 「だれ?」  かすれた声で、ヴィジュレが尋ねる。  ヴィジュレの顔は、ほんの少女のようにも、すでに年老いたもののようにも見えた。蘇生のたびに天使は若返る。何度も死んで、蘇生を繰り返したヴィジュレの年齢は、外見からは量りがたかった。  ずっと昔のまま、年をとっていないようにも見える。 「ヴォルグ?」  朦朧と尋ねてくるヴィジュレの問いかけに、カフラは一瞬、黙り込んだ。 「……いいや」  やっと絞り出した声で答えを返すと、ヴィジュレは痛みをこらえているように、深く、ゆっくりとした息をつく。  蘇生したばかりで、ヴィジュレの意識は混乱しているのだろう。  その名前のあるじは、もういない。おそらく。星の海のすみからすみまで探し回ったとしても。  ヴィジュレの唇がその名を呼ぶことの意味が、カフラの脳の中を白熱する閃光(インパルス)になって飛び回った。 「サヴィナ」  胡座した自分の腿のうえに、ぐったりと頬を乗せている白い横顔に、カフラは呼びかけてみた。どこか祈るような気持ちで。 「……なぁに」  盲目の目を薄く開いたまま、ヴィジュレが夢の中で話しているような相槌をする。彼女が返事をしたことに、カフラは驚きもしたし、同時に、やはりという気もした。  サヴィナは彼女の宿主(ホスト)の名前だった。遠の昔に、この白い女の身体に巣くう天使が、すっかり食い尽くしたはずの娘の名だ。 「ごめん」  考えるより先に、詫びる言葉がカフラの口をついた。 「なにを謝っているの」 「……ヴォルグじゃなくて、ごめん」  そう言うと、サヴィナは微笑した。懐かしい微笑みだった。どことなく諦めきったような物静かな。  最後に見たのは何十年も前、あの頃サヴィナは腎臓がひどく悪くなって、古い血を取り替えるため、毎日のように、白の神殿に通ってきていた。その枕辺で眺めたのと、同じ微笑みだ。 「あなたは臆病なリム・ヨンファル。そうでしょう。知ってる声とちがう、どうしたの」  サヴィナの声は、年端もいかない少年と向き合う時の、優しげな甘い口調で話していた。  それもそうだろう。サヴィナが一番鮮やかに記憶しているリム・ヨンファルは、枕辺の椅子に座ると、足が床から浮くほど、幼い少年だったのだ。 「声が変わったんだよ。だけど今も臆病だよ」  まだ深い傷の残っている腕を伸ばして、顔形を確かめようとするように、サヴィナはカフラの下あごに手を触れ、鼻の高さを指先で測った。 「髭がはえたの? なんだか知らない人みたい」  力無くはあっても、楽しげな声で、サヴィナは笑った。 「君も変わったよ」 「そう?」  サヴィナの紅い唇が、やんわりと美しく微笑む。 「ヴォルグも変わったよ」 「どんなふうに?」  はにかんだようにサヴィナが表情を変える。少年の頃には意味のわからなかった、サヴィナのこの恥じらう顔。  それを見下ろし、カフラはわずかに苦笑した。 「どうっ、て。そうだな……怖いふうにさ」  冗談めかせて、カフラは説明した。 「あなたって、いつも、ふざけてばかり……。なぜ、いつも、ヴォルグを悪く言うの? あんなに優しい人なのに」  サヴィナがまた、楽しげに笑う。  盲目の瞳が、どこかしらうっとりと熱を帯びている。 「……ヴォルグに会いたい。彼はどこにいるの」  眠気に意識を吸い取られているように、サヴィナの瞼が重くなっていく。 「ついさっきまで、ここにいたよ」  君を殺していた。  見えるはずのない相手に、気づくとカフラは無理に作り笑いを向けていた。  傷つけたくないという思いより、サヴィナの微笑を一分一秒でも長く自分のものにしていたいという欲のほうが強かった。 「そう? もっと早く、目を覚ませば良かった……」  残念そうに、サヴィナの顔が曇る。 「でも、なんだかとても眠いの……ヴォルグは戻ってくる?」  言い終える間もなく、サヴィナは深い無意識の眠りへと落ちていく。  深く暗い淵の底に沈み込んでいったはずの亡霊が、何かのはずみで、ふと浮き上がり、すぐにまた、もとの虚無へと呑み込まれていく。  その一瞬に居合わせただけだと、カフラは自分に言い聞かせた。  サヴィナはもう死んだ。ずっと以前に。天使のための生け贄として。  膝に抱いた体が、ぐったりと重く力を失っていく。  せめてもう一言と、心は追い縋っても、言うべき言葉が見つからない。  少年の頃には、サヴィナが死ぬのではないかと、彼女が蒼白の顔で眠り込むのが恐ろしく、枕辺で、思いつく限りのことを喋り続けた。  サヴィナはいつも、穏やかな微笑でそれを聞いてくれた。  臆病なリム・ヨンファル。あなたは天使になるのが怖いのね?  大丈夫。ほんとうに大切な人の記憶は……誰にも奪えない。天使にも、貴方自身にだって、ぜったいに。  子供だったカフラの金髪を撫でながら、そう保証したサヴィナは、何もかも忘れて別人になってしまった。ほんものの天使に。  かたく伏せられた瞼から、薄く開かれた唇から、微笑の残滓が消え、サヴィナの面影が消えていく。 「戻ってこないよ、ヴォルグも、君も……」  指先で頬に触れると、そこにはほんのりと暖かみが戻っていた。なめらかな肌の感触は、新しい絹を撫でるようだ。 「サヴィナ……本当にこれで、良かったかい?」  眠りこんでいる女の顔から、すでに優しげな微笑は消え果て、見慣れた酷薄な天使の顔が、その空白を埋めていた。 -----------------------------------------------------------------------  1-61 : 魂の行方 -----------------------------------------------------------------------  傍仕えの神官たちが届けてきた天使のための神官服に着替え、ヴィジュレは満足げに軽い伸びをした。 「ああ、気分がいい……昨夜までの苦痛が嘘のようですよ」  カフラは、地下房の白い床から生えた寝台に軽く腰かけたまま、ヴィジュレを眺めた。  甦生した身体を確かめる仕草は、新しい服の着心地を試しているのに似ている。  体調さえ良ければ、ヴィジュレはむしろ、機嫌のいい性分だ。その明るい表情を見れば、肉体を死に至らしめたほどの変調が、甦生によって改善されたことは明らかだった。 「昨日じゃないよ。一昨日(おととい)だ」  自分の爪の先を弄りながら、カフラが教えると、ヴィジュレがかすかに首を傾げた。 「私はまる一日眠っていたわけですか。そんな覚えがないですが……」  こちらに顔を向けたヴィジュレの赤い目は、カフラを通り越して、その背後にある壁のあたりを見ているような目つきをしている。 「復活したから、その前後の記憶が抜け落ちてるんじゃないの?」  訝(いぶか)しむヴィジュレに、カフラは軽薄な作り笑いを返した。  種明かしを聞いて、ヴィジュレの顔が一瞬曇った。  今さら、不死身と引き替えに失ったもののことを、惜しむわけでもないだろうに。内心にそう呟きながら、カフラは微笑み続けた。 「……また死にましたか、私は。貴方が介抱してくれたのですか」  サヴィナと変わりない美声で、ヴィジュレが密やかに尋ねてくる。カフラは笑いながら首を横に振ってみせた。 「根性がなくて、また兄上様の力を借りちゃったよ。あんたが、ぎりぎりの線で、一命をとりとめてたもんだからさぁ」  作り笑いではない。サヴィナの仮面をつけているだけで、話しているのは寄生種だと知り尽くしていても、その声で語りかけられる親密で秘密めいた響きに胸が疼き、自嘲の笑みがこぼれてくる。  笑って話すようなことではなかったが、女の顔をした天使には、それを咎める気配すらない。 「ノルティエ・デュアス?」  そう反復して、ヴィジュレはうっすらと不覚そうに顔をしかめた。鼻の付け根に、細かな皺が寄る。 「どうせ兄上のお手を患わせるなら、いっそ新しい身体に転生させてくだされば良いのに。必要を越えて何度も甦りを繰り返すのは、その……よくないのでしょう?」  ヴィジュレは、感情を露わにするのを嫌う「彼」らしい、いかにも柔和な作り笑いを見せた。  カフラは何もない空間に向かって、にやりと苦い微笑を返した。 「その話は、考えてみるってさ。そう遠くないんじゃないの? 俺はこれから聖母様選びをするよ……」  もったいぶった口調で教えてやると、ヴィジュレの表情が、とたんに明るくなる。すっかり気が晴れたように顔を輝かせ、ヴィジュレは笑い声を立てさえした。 「そうですか! それは何より。このお粗末な乗り物(ヴィークル)とも、やっと決別できるというわけですね」  喜ぶヴィジュレの姿を、カフラは自分の顔に貼り付いた微笑の仮面を維持することだけに集中しつつ見つめた。  何も考えずに笑っていることは、すでに慣れきった日常茶飯事だ。 「吉報は、早いほうが良いですよ、アズュリエ・カフラ。怠けていないで、さっさと働きなさい。どうせなら美しい女(ファム)がいいな。醜く転生するのは、面白くないでしょう?」 「贅沢言わないでくれないかなぁ。聖母様は健康第一。美しい骨盤の女を選んでやるよ。こう、突っ込み甲斐のあるような、いいケツしたやつをさぁ」  冗談めかせてカフラが請け合うと、ヴィジュレは一瞬、かすかに顎を上げ、陰湿な微笑を閃かせた。 「よろしく頼みますよ、今生のような失敗がないように。さもないと、私はあなたが職能を失ったのかと疑いたくなる。貴方が本当に、アズュリエ・カフラの名で呼ばれるべきものなのかどうか…」 「ごみ箱行きだってか?」  微笑みを守ったまま、カフラはヴィジュレの盲目の目と見つめ合った。  サフリア・ヴィジュレは神殿種の内政を取り仕切る役割を担っており、誰であろうと、彼が不適当だと感じた者に対して、大小の懲罰を与える強権を持っていた。  その最たるものは、廃棄処分の断行だ。ヴィジュレに名指しされた者は、その存在を抹消され、永遠に忘却される。  天使ともなれば、一介の神官のごとくに、ヴィジュレひとりの気まぐれで消されることはなかったが、審問会の対象にはなった。  審問、と称される拷問だ。  寄生種は運搬者との感覚的な交流を、意図して断つことができると信じられている。つまり、天使は苦痛を感じない。そのような妄想が、神殿種の間では一般に広まっているのだった。  だが実際には感じる。  ヴィジュレは身をもってそれを知っており、時折、気にくわないと思った天使を審問会にかけては、神殿種たちの見守る中、覚醒の浅薄を糾弾するのを趣味としていた。  犠牲者の行き着く果てにあるのは、その場限りの死と、その次にある甦生という、洗礼めいた復活祭で、同胞たちは皆それを眺め、天使の品質が保たれることに安堵する。  実際に感じる苦痛には、論理も駆け引きもありはしない。肉体に感じる痛みのゆえに、天使たちは常にヴィジュレに一目置いた。  今後は特に、天使会議の議場も緊迫することだろう。  ヴィジュレのお気に入りの獲物だった、ブラン・アムリネスがいなくなってしまった。盲目の天使の次の狙いが、誰の上に定まるのか、微妙な情勢だ。 「カンベンしてよ。俺は今の、女のアレを毎日拝める仕事が気に入ってるんだ。失業なんて困るよ」  くすくすと笑いながら、カフラが気のない演技で受け流すと、ヴィジュレはふんと短く嘲るようなため息をもらした。 「あなたが”忘れっぽい”と、私に密告してくる天使もいますよ」 「俺って、クラスでイジメに遭いやすいタイプなんだ」  にやにや笑いのまま、カフラは応えた。  なんのことか意味はいまひとつ分からなくても、自分が覚醒していることを印象づけるため、天使たちはお互い同士だけの密談で、そういう言葉を好んで使う。覚醒した天使の記憶の中にある、断片的な言葉の群れだ。 「そんな話は初耳です。あなたはクラスの人気者でしたよ。忘れたんですか?」  挑戦的に問いかけられて、カフラは絶句した。ヴィジュレの問いかけてきた事の意味が、カフラには少しも分からなかった。 「……親友にしか言えない悩みもあるのさ」  曖昧に応えた一瞬の後、ヴィジュレがくすりと笑い声をたてた。カフラは自分の顔の微笑む仮面に、細かな亀裂が走るのを感じた。 「それは残念……あなたとは親友だと思っていたのに、何千年もたった今になって、こんなふうに裏切られるなんてね」  皮肉をこめた一言で、ヴィジュレが仮面をうち砕いていった。  カフラは思わず眉間に皺を寄せ、まじまじとサフリア・ヴィジュレの白い立ち姿を見つめた。 「カフラ、あなたは怖いのでしょうけど。我慢しなくては」  やんわりと、ヴィジュレが話しはじめた。 「手遅れになると、運搬者(ヴィークル)の寿命がつきるまでに、転生胚が作れませんよ。そうなると貴方は死ぬことになる。どちらがより大きな痛みか、冷静に考えることですね」  ヴィジュレの諭す口調が、嘘を見破ったことを物語っている。 「それとも、まさか、運搬者(ヴィークル)に情けをかけているのですか? あなたは悪趣味だから……」  失笑して、ヴィジュレは言葉を濁した。  その声を聞くと、カフラはまるで自分が肉でできた箱か檻のようなもので、ヴィジュレはその中にいる別の誰かを透かし見、それに呼びかけているように感じられる。 「あんただって、一昨日(おととい)の夜は、泣きわめいて逃げ回ってたぜ」  演技を忘れたカフラの声には、思わぬ憎悪が充満していた。  冷静さを失いかけている自分に、ひやりとした恐怖を感じ、カフラは口にのぼりかけていた言葉を幾つも呑み込んだ。 「必要以上に切り刻まれたいと思う奴ぁいないよ。さすがの俺も、そこまで趣味の幅が広くはないからさぁ。だいたい、あのお兄様はやりすぎだ。案外、そっちの趣味があるんじゃないの? あんたと同じで、さ……」  にやりと作り笑いして付け加えると、ヴィジュレは何ということもないふうに、肩をすくめた。 「私の神殿に戻ります」  ヴィジュレは含みのある微笑を投げかけてから、カフラに背を向けて歩き出した。地下房の出口を目指して。  腕組みし、カフラはただ無言でいた。応えるのに相応しい、そつのない言葉が、何も浮かんでこなかった。  白い床にごろりと転がっている、いくつもの体節を持った虫の横を、ヴィジュレが通り過ぎてゆく。虫は今朝がたまで酸素を作り続けていたが、ヴィジュレが目をさます前に、寿命が尽きて死んでいた。  いったん休眠状態から起こしてしまうと、この生き物は急激に消耗してゆく。  たった一日の限られた命を捧げ尽くしてくれたものの死骸に、ヴィジュレは気づきさえしないようだった。  この城の中では、命というものの尊厳が、そもそも希薄なのだ。  階位の頂点に据えられた天使たちでさえ、見せ物のように殺されて、衆目を楽しませる。  ヴィジュレが次の獲物として選んだのは、もしかすると俺かもしれないな。そう思うと、なぜかカフラの顔には苦笑が湧いた。  出生の怨みを晴らすには、まさにお誂(あつら)え向きだ。前世の借りを、身体で返せということだろう。  己にふりかかる厄災を、よそに回すためなら、天使会議は審問会開催に反対しない。下手に反対して、ヴィジュレの不興を買うだけ損だ。  議場に漂う怯えを感じ取るにつけ、皆が天使に対して抱き、天使たちが自らに強制している幻想は、根拠のないものだと確信する。  お互い、嘘がばれないかと戦々恐々だ。  天使の記憶を取り戻さないアムリネスを蔑むのに熱心だった連中も、内心では、自分の代わりにヴィジュレを楽しませる者がいてくれて、ほっとしていたに違いない。  少なくとも、自分はそうだった。  アムリネスは、口では頑固で、己を糾弾する茶番に押し黙っていたが、血の薄さのために制御のとれない翼(よく)のほうは正直で、助けて、苦しいとすぐに悲鳴をあげた。  それを皆で無視している欺瞞が苦くても、痛むのが自分の身体でなければ耐えられたのだ。  その欺瞞のつけを、支払う時が来たということか。  主を迎えに来ていた神官たちが、ヴィジュレの出立に気づき、杖と外套とを持って駆け寄ってくる。着せかけられた鎖の紋章の外套にくるまり、ヴィジュレはいつもの威厳を取り戻したようだった。  誇らしげにそれを振り仰ぐ神官たちの表情には、神聖なものを目の当たりにする忘我の表情がある。  この城における天使とは、肉でできた偶像だ。同胞たちは、そこに理想と妄想を投影し、そこから逸脱するものを見つけたら、手でも足でも、容赦なくもぎ取ってしまう。 「猊下、ご復活おめでとうございます」 「おめでとうございます」  言祝ぐ取り巻きたちを引き連れ、ヴィジュレは上機嫌に立ち去ってゆく。  寝台に腰掛けたまま、カフラは身じろぎもせず、それを見送った。

 物々しい、よその塔の連中がいなくなると、地下房にはいつもの、居慣れた少数の部下だけが立ち働いていた。  白い床にあたりかまわず飛び散っていた殺戮の痕跡は、昨日のうちに拭き浄められている。残る仕事は、虫の死骸を始末することぐらいだ。  絶命したあとも、そのまま放置されていた死骸に、一人の正神官が近づいていき、お仕着せの靴の固いつま先で、軽くひと蹴りした。すると白っぽく乾いていた死骸は、まるで灰じみた燃えかすのように、脆(もろ)くごっそりと崩れ、細かな塵となる。  死んだらすぐに、こういった分解に至るように、この生き物は創られている。崩れた死骸は、まだ生きている虫の餌になる。  この城には、あらゆる意味で無駄がない。完全に閉じられている。  神殿種の殆どは、ごく僅かな例外をのぞいて、城の中で生まれ、死んだ後も城壁の外へ出ることはない。遺体は城の地下にある、処理場に送られる。そこで何かに使っているらしいが、別の塔の管轄であり、カフラは詳しい事情は知らなかった。  ただ、漠然とした抵抗感だけがある。  いずれヴィジュレが別の身体へ転生を済ませて、サヴィナの肉体が必要なくなっても、そこへ送りたくなかった。  人が死ねば、土に埋めて、墓をたててやるのが、せめてもの慰めだ。  死んだ者の、魂への。  それを口に出せば、たちまち異端者扱いで、懲罰は免れないだろう。神殿種の魂は不滅で、翼(よく)に宿る。死はその者の終末ではなく、次の新しい肉体に移るというだけのこと。  運搬者(ヴィークル)には魂などないのだ。生きて動いているというだけの獣(けだもの)。城の外に棲む、大陸の民のように。  用が済んだら、廃棄処分するだけのことだ。  神官たちの手で、細かく砕かれ、掃き集められていく虫の白い死骸を、カフラはぼんやりと眺め、無意識のうちに爪を噛んだ。  成長するに連れ、いつのまにか始まった癖だ。気がつくとやってしまうので、爪がぼろぼろになる。  塔に仕える世話係りの老神官は、行儀作法に厳しかったが、この癖だけは直すどころか、歓迎した。  天使アズュリエ・カフラが代々持っている癖なのだという。  それが出るのは覚醒が進んだ証しだと、老神官は喜んで、いつも叱りとばしていなければならない不出来な運搬者(ヴィークル)の少年を、いつになく誉めた。  あの世話係も、年をとりすぎたので、転生するためにカフラの元を去った。  その後どこへ行ったのか、知らない。行方を捜したこともない。  誰も皆、天使カフラには忠実だったが、その運搬者(ヴィークル)には冷たかった。その肉体に与えられた、リム・ヨンファルという名は、蔑むため、いずれ抹消されるために名付けられたもので、親しみをこめて呼んでくれたのは、サヴィナと、あとはヴォルグぐらいのものだった。  運搬者(ヴィークル)に付けられた名を呼ぶことは、天使たちの間では忌避されていたが、幼かった頃、同じようにまだ覚醒前の時代を生きていた三人の天使たちは、秘密裏にその名で呼び合っていた。  思いついたのはヴォルグで、サヴィナがそれを教えてくれた。もしも、その名で呼びかけても応えない時が来たら、それは少年時代の終わりであり、共有した秘密が潰(つい)える時でもある。  しかしその名に振り返る限りは、ヴォルグはヴォルグで、サヴィナはサヴィナだと。自分が自分であるその証として、お互いをその名で呼び合うことにしたのだ。  いい考えだと思ったが、カフラはヴォルグ本人を、その名で呼んだことはなかった。サヴィナがいかにも大切そうに、彼の名を呼ぶのが妬けたし、ほとんど同じ年の二人がそうして親しくしていると、一人だけ遅れて生まれた自分が、仲間はずれにされたようで悔しく、ヴォルグが嫌いだった。  だが今になって思う。自分は彼を嫌いではなかった。子供っぽい逆恨みだったのだ。  ヴォルグが彼の名を忘れる前に、一度ぐらい、呼んでみればよかった。  サヴィナが好きになるのも不思議でないほどには、ヴォルグはいい奴だった。少なくとも、リム・ヨンファルよりはずっと、サヴィナにお似合いだったろう。  ただひとつ、ヴォルグに欠点があったとすれば、彼がサヴィナの気持ちに気づかず、親しい仲間としか思っていなかったことだ。  もう大丈夫なつもりで、そう認めてみて、カフラは自分が今だに猛烈な嫉妬を感じるのに驚いた。思わず苛立って爪を噛むと、するどい痛みとともに指先の皮が破れ、血が滲んできた。  舌打ちして、カフラはみっともなくなった自分の指先を見つめた。  悪い癖だ。天使にうつされた、悪癖。 「……誰か、俺の手袋を持ってきてくれ」  翼(よく)を使って誰にともなく呼びかけると、沢山の翼の囀(さえず)りが、天使に仕えたい一心から、我先にと応えを返してくる。  手袋を捧げ持った神官たちが、幾つもある地下房への侵入口から、あちらこちらと現れてくるのを、寝台に腰掛けたままカフラは待った。  最初に辿り着いた者が、誇らしげに純白の手袋を差し出してくる。  それを受け取り、カフラは出遅れた者たちが落胆する気配を周囲に感じた。真っ白い、椀を伏せたような形の巨大な地下房に、やはり白の神官服で全身を覆った者たちが、数十名ほども。  すでに見慣れた、しかし目にするたびに異様な光景だ。  男(オム)ばかり。  それが当たり前のはずが、カフラはいつからか、この光景を異常なものに感じるようになっていた。昔はもっと、この城の中には、女が沢山いたような気がする。  房に囲われ、白絹に覆われて生きる無言の女(ファム)でも、正神官を恐れ、身をかがめて歩く出来損ないの中性体(ユニ)でもなく。当たり前のように、そこらじゅうにいた。  昔、はるかな昔だ。前世の、そのまた前世の、さらに昔の……。それとも、寄生種に食い荒らされる脳が、都合良く正当化した妄想なのかもしれない。そうであればいい、というような。  なぜなのか、いつからなのか、自分でも分からない記憶や、意識が、自分自身の中に色濃く紛れ込んできて、気づくとそれが当たり前になり、元あった自分自身がいなくなる。  あと二、三度、甦生を経れば、リム・ヨンファルはいなくなり、天使アズュリエ・カフラの乗り物(ヴィークル)は、乗り心地の良さを増すだろうと思われた。  ヴィジュレが近々、審問会をするつもりでいるなら、リム・ヨンファルに残された時間はそう長くない。 「皆、せっかく無駄足を踏んだついでだ。働いてくれ」  翼ではなく、肉声を使って話すカフラに、神官たちの顔がさっと緊張の色を浮かべる。  天使が肉声を使うのは、その内容が機密であることと同義だからだ。  しかし、どの顔も怖じ気づく気配はなく、野心を潜ませた者の表情をしていた。それも不思議はない。天使の着衣に触れる権限を持っているのは、この塔の中の階級制度を登り詰めてきた一握りの者たちだけだ。 「我が友、虚ろなる祈りの記録者(ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ)が転生する。それにあたって聖母となる女(ファム)を選定する。全塔の記録から、もっとも相応しい、健康な個体を探せ」  一声すら上げる者はいなかったが、言葉になる以前の、驚きの気配が、この場に集まった者たちの翼から翼へと投げ渡され、共鳴を起こすのが感じられる。  天使は、百数十年に一度しか転生しない。一介の神官たちが日常的に触れる出来事ではなかった。  最後に行われた転生の儀式は、十数年前、ブラン・アムリネスのためのものだが、それは正常には終わらなかった。  聖母が、大火とともに城から消えたせいだ。天使の転生胚を胎内に持ったまま。  今では存在しなかったことになっている、その女(ファム)は、城外で天使の翼(よく)を持った嬰児を産み落とした。あろうことか、大陸の獣を父に持つ運搬者(ヴィークル)に乗せて。  この醜聞の詳細は、忘却の彼方に葬られたが、漠然とした不名誉は、今もまだこの塔の中に充満している。 「ヴィジュレは、今度しょぼくれた乗り物を寄越したら、俺を殺すつもりだそうだ。まあ、いくら奴がいかれてても、二三度死んで詫びたら許してくれるとは思うんだが、もっと上の兄上たちが、俺のことを無能だと思ったら、話は別だからな。念には念を入れて……」  笑いながら、冗談めかせてカフラは告げたが、それを笑う者はいなかった。  冗談では済まない。  塔を守護する天使の死は、そのまま塔全体の消滅を意味している。  ブラン・アムリネスを失い、サフリア・ヴィジュレを消した、その罪は、同じ消滅をもって購わされるだろう。  表情を押し隠しながら震撼する者たちの顔を見渡して、カフラも恐怖を感じていた。  目の前にいるこの者たちや、この塔に棲む大勢の命に、責任を負っている。  天使として生まれようと、他のなんであろうと、それは一人の身には重すぎた。  逃げ出してよいなら、いつでも、今すぐにでも、逃げてしまいたいほどだ。  しかし出来ない。この大勢を裏切っては。  死ぬまでここに囚われているのが、生まれる前から決まっている自分の運命だった。囚われた、その中でやれる全てを、果たしきることが。  だが、もし───と、時折なにかの発作のように思う。  もしも、これとは違う、別の道が、自由に至る道があったのだとしたら。自分はそこへ続く道程を探すこともせず、後戻りできないところまで、すでに来てしまった。  他の誰かのためだという、運命なのだという、責任めいた言葉を言い訳にして。  しかしその実、お定まりの道筋から逸れてゆくのが、怖かっただけかもしれない。いやだいやだと嘆きながらでも、何世代もかけて先人が踏みならした道をゆく安堵感に囚われるうち、ふと気づくと、逃げる道がもう無かったというだけなのだ。 「不出来な主(あるじ)で悪いんだが、俺は死ぬつもりはない。安心してくれ。まあ精々頑張ろうや」  自分の顔を覆う天使の仮面が、にっこりと微笑むのが感じられ、カフラはふと気が楽になるのを感じた。何かが自分に変わって、人生を操縦してくれるような安堵感がこみあげてくる。  思い詰めたふうだった、周囲の神官たちが、引き込まれるように微笑した。彼らの目が、ヴィジュレを仰ぎ見ていた者たちと同じ、神性なものを見つめる時の輝きを帯びてくる。  その目の奥にあるものは、この天使に従ってさえいればよいという、自らの意志を放棄した者だけの、甘く深い安堵だ。  臆病な運搬者(ヴィークル)、リム・ヨンファルには出来ない芸当だろう。  ここしばらく穏やかになりを潜めていた寄生種が、ヴィジュレの転生と聞いて、俄然やる気になってきたらしかった。ざわつく何かが胸の奥底で蠢きはじめ、身体感覚を奪っていくのが感じられる。  アズュリエ・カフラは良い天使だ。つねに人を思い遣る。人の命を救う仕事をしている。励ます微笑で人を勇気づける。  たぶん、彼を運ぶ運搬者(ヴィークル)よりも遙かに、この人々にとって価値がある。  ……いいや。たぶん、ではない。確実に、その通りだ。任せて眠れば、それでいい。  内心の回想に応えるように、カフラの心の奥底で、静かな、しかし力強い声が湧いた。  それはすでにもう、自分自身の考えのようにも思える。自分と、自分の中に巣くう寄生種との、境界線が曖昧だ。  これが正しい方向なのだと、自分に言い聞かせるたび、カフラは悲しかった。  せめて運搬者(ヴィークル)にも魂があって、伝説のいう、あの船に乗れたら。そう願ってきた。  そこでサヴィナに言いたいことがある。  後悔している、天使から君を奪って逃げなかったことを。  手遅れになってはじめて、そう思う自分のことを。  彼女には、生まれついての義務があるから。サヴィナが見つめていたのは他の男だったから。彼女はずっと年上で、自分を相手にするはずがないから。城を出ては、生きてはいけないから。逃れようとする自分を、彼女は蔑むだろうから。  消滅を目前に見つめる今になっては、そんなもっともらしい理由の全てが、何もかも下らない言い訳に思える。  死ねば二度と甦らない、魂さえない、たった一度きりの生涯で、心底から求めるものに手を伸ばそうとしなかった、大切なものを守ろうとしなかった、あらゆる困難から逃げ続けた、それが自分の生きてきた結果だ。  後悔しているというのが、恐らく自分の生涯で最後の言い訳。  だけど───  伏し目がちになって目を瞬かせ、カフラは襲ってきた熱い眩暈(めまい)をこらえた。  だけど、まだ。この生涯は、終わってはいない。彼女が呼んでくれた、本当の名前を憶えている。  リム・ヨンファル、とカフラは自分自身に呼びかけた。  聞いているか? お前はまだ、生きているのか?  追いつめられた今になって、自分の魂が必死で願うものの正体を、カフラはもう知っていた。  サヴィナを苦しめ、自分を苦しめる、この城を覆い尽くした呪いから、神殿種を救いたい。解き放たれた自由な世界で、子供が生まれ、自分自身の望む人生を生き、そして年老いて死ぬ。  それをどこか知れない魂の安息地で迎え、よくやったと労う。それが今望む最後の願いだ。  この望みを手放してはならない。それを見つめている間だけ、自分にも魂があるような気がした。サヴィナも、ヴォルグも、消えていった者たちが皆、今もどこかにいて、うやむやに過ぎ去った時代の悔恨を、償(つぐな)えるような気が。  船に乗るのだ、リム・ヨンファル。魂の安息地へゆく、月と星の船に。  諦めるのは、もうやめろ。活路を探さなければ。  せめて、遺される者たちが、自由に生きられる道を。終わる果てのない不遇の連鎖を、続く世代に送ってはならない。  消えかける臆病な自分の心を、カフラは必死で励ました。  抗う運搬者に苛立った天使が、阻(はば)まれ蛇のようにのたうつのが、カフラの身の内に、灼け付く熱となって感じられた。 -----------------------------------------------------------------------  1-62 : 受胎告知 -----------------------------------------------------------------------  ひどく胸苦しい夢から、アルミナは目覚めた。  手足がしびれ、頭の芯にはまだ鈍い痛みが脈打つように残っていたが、なにより苦痛だったのは、ひりつく喉の渇きだった。  アルミナはあえぐような息をつき、そして咳き込んだ。  薄暗い小部屋の寝台で、すぐそばについていた誰かが、アルミナの背を優しく起こし、口元に水の入った器をあてがってくれた。  アルミナは、むさぼるようにそれを飲み、また咳き込んだ。壁のくぼみに置かれていた燭台の、火影が揺れた。 「……オルハ」  涙ぐみ、かすんだ目のまま、アルミナは自分を助け起こしてくれた温かな腕によりすがった。白い袖に包まれた柔らかな腕に額をすり寄せて甘えると、ほの甘い肌のにおいがして、アルミナをほっとさせた。 「お腹が空いてはいませんか? もうお昼ですよ」  髪を撫でるように、頭のうえに置かれた手に、アルミナははっとして目を開いた。問いかけてきた声は、アルミナが期待したものとは違っていた。  がばっと身を起こし、アルミナは自分の脇に座っている白い衣の人物をあわてて見つめ直した。アイネだった。灯火ひとつの小さな部屋の中で、彼女の胸の赤い百合の刺繍だけが、鮮やかに浮かび上がって見えた。 「ア……アイネ様」  無礼をわびようとしたアルミナの舌は、まだ眠っているようで、うまく言葉をつむげなかった。 「あなたがあまりにお苦しみだったので、白の塔へお返しするかと皆で話していたところでした」  やんわりと微笑み、アイネは水差しから白い陶器の杯に水をもういちど満たして、アルミナに差し出した。アルミナは素直にそれを受け取り、こんどはゆっくりと飲んだ。 「オルハとは、誰ですか」  椅子に腰かけた膝の上で、アイネは両手を長い袖のなかに隠した。姿勢をぴんと正して、かすかにうつむき、両手を袖の中で組み合わせる。|女《ファム》らしい美しい座り姿だった。  しかしアイネの緑の瞳はきらきらと楽しげに輝き、アルミナの顔を見つめていた。|女《ファム》はみだりに微笑んではいけないのではなかったかしら。アルミナはそう思い返し、いつもうるさく小言を言っていた声を思い出した。  オルハ……。  自分の身近で、せわしなく立ち働き、ものを食べさせ、ふとんを着せかけてくれた。お腹が痛くなると、決まって擦り寄りたくなる相手だった。  だが、アルミナには、それが誰なのか、わからなかった。  もつれた糸のように、混乱している自分の記憶を、アルミナは切なく思った。 「オルハは……たぶん、わたくしの大切な人です」 「大切な人?」  アイネは面白そうに、そう繰り返した。 「はい。……思い出せたので」 「そう」  やんわりとうなずくアイネは、また優しい微笑みを浮かべていた。 「あなたは、思い出してはならない事を、思い出そうとなさっているのではないかしら?」  困ったような、しかし、どこか楽しげでもあるアイネの口調に、アルミナは少し驚いた。 「忘れてしまえば、苦痛はないのですよ」  事情を知っているふうな、アイネのたしなめぶりに、アルミナはなんと答えるべきなのか分からず、ただ薄く唇を開いただけで、黙り込んだ。  しばらくの沈黙の間、アイネはずっと、急かすでもなく、やわらかな微笑を浮かべたままだった。 「この房に、あなたがいらした時、あなたは寝台に眠っていらして、下級神官が付き添っていました。……枕を持ってね」  枕デゴザイマスヨ。  夜ごとの悪夢にあらわれた、枕を持った神官の、青黒く疲れ果てた顔が、アルミナの脳裏によみがえった。  オルハ……! 「グロリア様は、よその房からの持ち物を入れるのを、とても厭がっておいでだったけれど、その神官が、あなたはその枕でなければ眠れないのだと、あまりに強く言うものですから、結局こちらが折れたのです。白の塔の天使様も、あなたの健康のために必要だと、特別に許可なさったというのですもの……」  くすり、とアイネはいかにも楽しそうに、かすかな笑い声をもらした。 「おかしな話ですわね。だってあなたは、あの時も、今も、あれとは別の枕で眠っておいでだったでしょう」  手紙を届けるためだったのだ。  オルハが最後にしてくれたことは、あの手紙の束を、アルミナの手元に残すことだった。  アルミナはなぜか、自分の冷え切った指先が、ふとんの上で震え始めるのを感じた。  枕の夢は、毎晩のように見た。その中にある手紙を見つけた夜までは、ずっと。夢の中にあらわれたオルハは、いやな臭いのする息をして、今にも倒れそうな様子だった。  ──夢も、それきりでした。  唐突に、エルシオネの打ち明け話が思い起こされた。  ──最後の夜に、あの方はやっと楽になられて……夢も、それきりでした。  アルミナの心臓は、どきどきと嫌な鼓動を打ち始めた。 「アイネ様、オルハは……その枕を届けた神官は、今どこにいるのでしょうか」 「わたくしには、わかりませんわ」 「どうすれば探せるのでしょうか」 「探し出して、どうするのですか?」  柔和な声で、きっぱりと容赦のない返事を、アイネは返した。  アルミナは絶句した。 「わたくしたち|女《ファム》が、雑居房の外に出られるのは、礼拝の時だけです。行って戻るだけの一本道、あなたもご存じでしょう。わたくしたちは、ここに囚われているのです」 「……オルハが、元気にしているかだけでも、知りたいのです」 「では、祈りなさい」  秘密めかした小声で、アイネが言った。微笑みに目を細めるアイネは、大部屋にいる少女たちのようだった。 「わたくしたちが大部屋で寝起きしていたころには、そう言ったものよ。一心に祈って眠れば、夢の中で相手と心が通じるのだと」 「本当なのでございますか?」 「さあ? でも、なにも手がないよりは、気持ちがらくですわ」  苦笑するアイネの顔には、長い年月をかけて降り積もった、あきらめの色があった。雑居房に住む|女《ファム》たちが皆、多かれ少なかれ持っている、この表情。  アルミナは、自分の心に湧いた期待が、見る間にしぼんでいくのを感じた。  ここで自分たちに許されているのは、刺繍と、空想だけなのだ。 「あら、まあ……そんな顔なさらないで」  アルミナのふとんに、そっと手をそえて、アイネは済まなそうに励ました。 「本当に夢の中に相手が現れたという方も何人かいらしたのよ。でも、それが本当にその相手と話したのか、ただの夢なのか、確かめようがないでしょう? だって相手と会えないのですもの」 「確かめた方は一人もいらっしゃらないのですか?」  もどかしく、アルミナが問いかけると、アイネは袖の中の手を組み替えるあいだ、少し考え込むふうなそぶりを見せた。  やがて、うつむきがちに、アイネは口を開いた。 「私の知る限り、一人いらしたわ。ずいぶん昔ですけれども」 「その方のお話をお聞かせください」  思わず身を乗り出して、アルミナは早口に求めていた。アイネが苦笑したので、アルミナは自分の不作法に気づいたが、事細かな戒律も、今はただひたすらに、もどかしいばかりだった。 「わたくしがまだ、あなたぐらいの年頃だった時の話です。夢に天使が現れると、彼女は話していました」 「天使が……?」 「ええ。毎夜、窓の外の暗闇から天使様が|松明《たいまつ》を掲げて現れるのですって。そして、一緒にお城を出ようと彼女を誘うのだとか」  語って聞かせるアイネの口調は、その話を信じていないふうに聞こえた。 「よくある夢ですのよ。特に、あなたがたぐらいの年頃にはね。わたくしもずいぶん、窓を恨んだものです。あんなふうに外が見えなければ、ここに閉じこめられた暮らしも、もう少しは気が楽だったでしょうにね」  アイネが言っているのは、刺繍をするときに集まる広間の窓のことだろう。いつも年老いた|女《ファム》が腰掛け、日がな一日、枯れた地平線を眺めている、あの大きな窓。 「でも、彼女の夢は本当になったのです。ある日、お城が火災に見舞われて、わたくしたちは一時的に房から避難しましたのよ。お城から逃げ出した時の、あの風の冷たかったこと……その、心地よかったことといったら」  うっとりと懐かしそうに微笑みを浮かべるアイネの目は、とても優しかった。 「彼女はそのとき行方知れずになり、それきりお戻りになりませんでした。逃げ遅れたのだと、皆は言っていましたけど……」  アイネは語るのをやめて、小部屋の外を、あの大きな窓を見つめるような仕草をした。寝台ひとつきりの、こぢんまりと清潔な小部屋の狭さを、アルミナは不意に感じ始めた。 「違うのですか?」  秘密めかして、アイネはアルミナに答えた。 「彼女は逃げなかったのです。火の迫る房に隠れて、待っていたのよ」 「……天使様を、でございますか?」  アルミナが言うと、アイネは小さく頷いた。  見当もつかない話だった。火に取り巻かれて逃げずにいられるだろうか。誰かが迎えに来ると約束したとしても、それは夢の中でのことなのだ。そんなものを信じて、命をかけられるものなのだろうか。  そう否定してから、アルミナはふと思った。もし、自分の夢の中にあの緑の目の少年が現れて、必ず迎えに行くから、火の中で待っていろと言えば、自分は彼が来るのを信じて、いつまでも待っているような気がする。それが自分にとって、たったひとつの希望であるなら。  アイネは、しばらくじっと、アルミナがどんな顔をして話を聞くか、見守っているようだった。ただ黙って、話の続きを待っているアルミナに見つめられて、アイネは淡く、少女めいた微笑を浮かべた。 「彼女は本当に、天使様が迎えに来ると確信していました。一緒にお城を出ようと、逃げるわたくしたちを引き留めさえしました。でも、わたくしは炎を恐れて、皆と一緒に逃げてしまった……ですから、その後のことは、実は知らないのです」  アルミナは、がっかりした。それでは、夢の中で外の人と話ができるという証拠にはならない。そうアイネを問いつめたかったけれど、それはあまりにも不作法なような気がして、アルミナは困り、唇を噛んでうつむいた。その姿に、アイネはくすくすと小さな笑い声を立てた。 「安心なさって。お話はこれで終わりではないのよ。彼女は死んではいなかったのです」 「では本当に迎えが来たのですね」 「火事のあとも、生きていたはず。だって、彼女のお腹にいた天使様が、ちゃんと戻っていらしたんですもの」  予想していなかった話の向きに、アルミナは言葉を失った。 「その方は、聖母さまでいらしたのですか?」  アイネは頷いた。  天使が転生するための、新しい体を生み出す役目を負った|女《ファム》は、聖母と呼ばれて特別視されている。代々の聖母は|女《ファム》の模範として、その名を永遠に記録されることになるのだ。 「彼女は、火事の前に、受胎告知を受けていたのです。ブラン・アムリネス猊下が転生なさるので、猊下のための聖母に選ばれましたの。胎内に天使の胚を授かって、受胎のための儀式も始まっていたのですよ。でも、彼女はそれがとても嫌だったようなの。どうしてかしらね、|女《ファム》にとっては最高の名誉なのに。彼女が松明を掲げた天使の夢を見るようになったのも、それからでしたのよ」 「ブラン・アムリネス猊下の、受胎告知……?」 「ええ。ですから彼女が毎夜夢に見る天使様というのは、ブラン・アムリネス猊下なのではないかと、わたくしたちは思っていたのです。だって、それなら、ありそうなことでしょう。自分の胎内にいらっしゃるのですから。でも、彼女は違うと言うの。別の天使様だと」 「どなたなのでございますか?」 「ノルティエ・デュアス猊下よ」  さらりとアイネが答えた名は、アルミナに正体のわからない衝撃を与えた。 「彼女は恋をしていたのかもしれないわね。猊下は儀式のために、毎夜彼女の部屋に通っていらした。だけどそれも受胎すれば終わりになるはずのこと、彼女はつらかったのでしょう」 「わたくし……あの方は嫌いです」  闇に浮かぶ仮面のような乾いた無表情。その冷たい灰色の目が、射るように見つめている。無用のものを見る目で。 「まあ。そんなことを、おっしゃるものではないわ。ノルティエ・デュアス猊下は、お優しいお方よ。それに、あなたに命を授けてくださった方でしょう」  苦笑して言うアイネの言葉の意味が、アルミナには分からなかった。困惑するアルミナを見て、アイネは不思議そうな真顔になった。 「アルミナ様、ご自分の顔をごらんになったことがないのね。あなたのお顔は、ノルティエ・デュアス猊下そっくりよ。きっとあなたの母君は、猊下のお|胤《たね》をいただいたのですわ」  優しく諭すようなアイネの声は、アルミナの耳から染みこんで、頭の奥深くで鋭い針のような痛みを呼び起こした。  気づくと、アルミナは自分の顔を両手で覆い隠していた。  日々の身支度のときの水面や、夜のガラス窓にうつる自分の顔を見たことはあったが、それをしげしげと見つめたことなどなかった。自分がどんな姿をしているか、考えたくなかったのだ。  ただ、漠然と、自分はよほど醜い顔をしているのだろうと思っていた。  なぜって、あの方は初めて会った時、とても驚いて、わたくしの顔から目を背けた。わたくしは恥ずかしくて、あの方の前では、うつむいてばかり。 「まあ、どうなさったの、アルミナ様」  アイネが戸惑う声でなだめ、済まなさそうにアルミナのふとんを軽く叩いた。 「ごめんなさい。容姿のことをあれこれ言うなんて、不作法でしたわね。でも、悪い意味ではございませんのよ。あなたは、可愛らしいお顔をなさっておいでよ。それに天使様のお姿に似ているなんて、とても光栄なことではなくて?」  アルミナは無意識に首を振って、アイネの言葉を拒んでいた。  耳の奥がじんじんと腫れ上がったように痛んだ。指の間から水がこぼれ落ちるように、堰を切った記憶が、アルミナの脳裏に呼び戻されてきた。  いつかオルハも、泣いているアルミナを、同じ言葉でなだめてくれた。  アルミナ様は可愛らしいお顔をなさっておいでですよ。──様がお帰りになったのは、きっと別の訳があったのでございますよ。アルミナ様の旦那様は天使様なのですもの、お忙しいのです。  アルミナは脳裏に満たされてくる喪われていた記憶の中の声に、顔を覆ったまま目を開いた。  ブラン・アムリネス猊下がお帰りになったのは、きっと別の訳があったのでございますよ。  オルハは、あのとき、彼のことをブラン・アムリネス猊下と呼んでいた。  天使だったのだ。  そう。  天使だった!  アルミナは顔を覆った手を、ゆっくりとおろした。  頭の奥で、強く脈打つ激しい頭痛がしたが、アルミナはそれに耐えることができた。数々の大切な思い出を閉じこめ封印した鎖が、蘇ろうとする記憶の奔流に、今にも引きちぎられようとしているのが分かった。  あと少し、あと少しで、あの方との思い出に手が届く。  過去を封じ込めようと、生き物のように蠢き絡みつく鎖を、アルミナは必死で掻き分けた。  あの夜、あの方は初めてやってきた。わたくしの部屋に。手紙の人。何度も繰り返し読んだ、丁寧な文字。わたくしに初潮が訪れたので。|女《ファム》の務めを果たすことができる。オルハはいつもより念入りに髪を梳いてくれた。扉が開く。白い服の少年が、緊張した面持ちでそこに立っている。わたくしは、会えたのが嬉しくて、こらえきれずに彼に微笑みかけたのだったわ。  けれども猊下は、わたくしの顔をごらんになって、ひどく驚かれた。  わたくしが醜かったから?  そうかもしれない。  でも、もしかしたら。  わたくしが、あの、|死の天使《ノルティエ・デュアス》にそっくりだったから。  その考えは、小さな鍵のように、アルミナの閉じられた記憶にかちりとはまった。  アルミナは思い出した。塔の小部屋で見た光景を。部屋に押し入ってきた、三人の天使のことを。  あの灰色の目の天使は、オルハを廃棄処分にすると言っていた。廃棄処分に。 「アイネ様……」  髪の間から、冷や汗がアルミナの額に流れ落ちてきた。 「廃棄処分とは、なんなのでしょうか」 「まあ。急になにをおっしゃるの」  アイネが微かに眉をひそめるのが分かった。しかしアルミナはもう躊躇しなかった。 「教えてください。オルハは廃棄処分されるのだそうです」  アイネは唇を開いたが、すぐには声にならず、しばしの思案ののち、ゆっくりと答えた。 「……それは、おめでたいことですよ。|中性体《ユニ》たちは、ひどい怪我や病気になったり、年老いたりすると、天寿を待つことなく、転生することができるのです。来世には、|男《オム》か、|女《ファム》に生まれ変わることができるかもしれないでしょう」  つい先刻、昔語りをしていた時とはまるで違う、強ばった大人の顔で、アイネは話していた。 「オルハは元気でした。そんなに年もとっていませんでした。なのに、なぜでございますか」 「では……それは、何か特別のご褒美ではないかしら」 「死ぬことがですか」  口に出してしまうと、それは動かしがたい事実だった。アルミナは自分の手をきつく握り合わせていた。  オルハが死んでしまう。  枕を持って夢に現れた。最後に見たのは、いつだったかしら。  手紙を入れた枕を、持ってきてくれたのがオルハだったと、わたくしは知らなかった。なのに毎夜、それを夢に見た。  あれはただの夢ではなかった。オルハがわたくしに、教えてくれていたのだわ。 「わたくしは、オルハのところに行かなければいけません。アイネ様、どうかこの房からわたくしを出してください」  寝台から降りようとするアルミナを、アイネが驚いて押しとどめた。 「お待ちなさい。ここから出ることはできないのよ。それはあなたも、よくご存じのはずでしょう」 「お願いでございます」  アルミナはアイネの白い袖を握りしめ、心の底から懇願した。どんなに頼んだところで、アイネが房の扉を開けられないことは、アルミナにも分かっていた。彼女も自分も等しく、ここに閉じこめられている。しかし誰かに出してくれと頼むほかに、アルミナには出来ることがなかった。 「どうか、お願いでございます」 「アルミナ様、あなたはここで生きていかなければいけません」  アイネの声は、すでに命令だった。だがその声は静かで、深い悲しみを含んでいた。 「オルハを助けたいのです」 「その|中性体《ユニ》は今生の役目を終えたのです。来世の幸運を祈って送り出してあげなさい。それが|嗜《たしな》みというものですよ」 「そんな……」  おかしいわ。それが正しいわけがない。  そう叫びたかったが、アルミナは言葉を呑み込んだ。  与えられた決め事と、記された戒律を読んで納得していたことの諸々を、それを目の前の現実とした今、少しも納得することができない。  なぜ、歌を歌ってはいけないの。  なぜ、あの方と毎日会うことができないの。  なぜ、オルハが死ぬのを喜ばなくてはいけないの。  なぜ、こんなところに閉じこめられているの。  なぜ、と、いったい誰に問えばいいの。 「アルミナ様、どうか許してちょうだい。珍しいお話を聞けば、あなたの心も少しは紛れるのではないかと思ったのです。落ち着いて、もう少しお眠りになってはどうかしら。お苦しいのでしたら、白の塔の正神官様にお越しいただきましょうか? それとも何か他に、わたくしにできることがあるかしら」  寝台の中にアルミナを押し込め、アイネは悲痛な早口で畳みかけてくる。まるで寝台から一歩でも降りれば、アルミナが死んでしまうかのような慌てようだった。 「もういちど火をつけてみてはいけませんか」  アルミナが思いつくまま口にした問いかけに、アイネはぎょっとして身を離した。 「なにをおっしゃるの」 「ここが火事になれば、外へ出られるのではないのですか」  アルミナは、壁にある小さな灯火をじっと見つめていた。炎は頼りなくちらちらと揺れている。 「出られはしません。わたくしたちは確かに、お城の外へ避難しました。けれど、そこは水も食べ物もない荒野で、わたくしたちが生きていけるような場所ではないのよ。結局わたくしたちは、自ら望んでこの房へ戻りました。ここしか生きられる場所はないのです」 「でも……ブラン・アムリネス猊下の聖母さまは、お城を出られたのでしょう。たったいま、アイネ様がそう話してくださいました」 「ルサリア様は……! 結局、亡くなったのです」  アイネは、絞り出す小声でそれを告げ、肩を落とした。 「逃げ出したけれど、外では生きていけずに、戻っていらしたのです。お城の外で苦しんで、老婆のように老いやつれて亡くなったのよ」 「嘘です。まるでお会いになったようにお話しになる」 「会いました。彼女の最期の希望だったから。わたくしと、グロリア様と……わたくしたち三人は、大部屋では親友だったのです。ノルティエ・デュアス猊下が、特別なお計らいで、わたくしたちを会わせてくださったのよ」 「……猊下は、なぜお城にいらしたのですか。約束の天使ではなかったのですか?」  アルミナは、ふと気づいたその疑問に、いやな寒気を感じた。 「猊下は火災のときに、ひどい火傷を負われて、数日後に亡くなられたの」  伏し目がちに話すアイネの無表情な顔に、灯火の作る暗い陰影が揺れている。 「ルサリア様を救い出したのは、大陸の民だったのです。猊下は彼女がもう房にいないことをご存じなくて、いつまでも探していらしたのではないかしら。ルサリア様は、そのまま大陸の民に|拐《かどわ》かされて、天使の胚もろとも、行方知れずに……戻った時には、彼女は子供を連れていたけれど、それはノルティエ・デュアス猊下のお|胤《たね》ではありませんでした。彼女は大陸の民に犯されたのです」  アイネは、ひどく汚らわしく恐ろしいもののように、大陸の民という呼び名を口にしていた。アルミナには、その気持ちが良く分からなかった。神聖一族が牧している、大陸を耕すための様々な民。それをアルミナは自分の目で見たことがなかった。 「彼女の愚かな夢のために、ブラン・アムリネス猊下は永遠に失われてしまったのです。わたくしは、あの火の中から、無理にでも彼女を連れて逃げるべきでした」 「ブラン・アムリネス猊下は失われてなどいません。今もいらっしゃいます」 「あの方は、純血の神殿種ではありません。ノルティエ・デュアス猊下は、決してお信じにならなかったけれど。おいたわしいこと、猊下はかねてから、ルサリア様を妻にと求めていらしたのです。その彼女が純潔を失ったなどと、到底お信じになれなかったのでしょう。公用語も解さなかったあの子を、ご自身の血を受けた子と信じて、誰の目にも赤の塔の天使と映るようにと、お手ずから厳しく養育なさいました。それでも、ブラン・アムリネス猊下の翼は目覚めることなく、赤の塔は主となる天使を失ったのです。それが、定められた義務から逃れようとした、愚かな夢の顛末なのですよ」  静かな怒りを含んだ声で、アイネは断定した。アルミナには、アイネが誰に対して怒っているのか、良く分からなかった。アイネの友だったという、聖母ルサリアのことを怒っているのか。それとも、天使ノルティエ・デュアスにか。友を見捨てて逃げた自分自身にか。あるいは、その全てか。 「ブラン・アムリネス猊下は……どこにいらしても、赤の塔の主でいらっしゃいます」 「あなたは……赤の塔からいらしたのね?」  アイネは、ふと気づいたように、問いかけてきた。 「……はい」  アルミナは、迷ったすえ、正直に答えた。その記憶を取り戻していることを、アイネに知られてもよいのかどうか、判断がつかなかった。 「そう。赤の塔は近々閉鎖されるのではないかしら。あなたは|女《ファム》だから、廃棄するのは惜しいと、こちらの塔へ移されたのかもしれませんわね。それで記憶を調整されたのですわ。寂しいお気持ちは、分かります。けれど、忘れたふりをなさい。運命に|抗《あらが》っても、不幸を招くだけなのですから」 「そうなのでしょうか……」  アルミナの反論を、アイネは真顔で受け止めた。  そういえば、この方は、ほかの大人の|女《ファム》のように、口答えするなと頭ごなしに叱りつけたりしないのだわ。  静かにアルミナの言葉を待っているアイネの顔を、アルミナはうつむかずに見つめ返した。 「もし、聖母さまが運命に抗わず、お城をお出にならずにブラン・アムリネス猊下をお産みになっておられたら、わたくしは猊下の妻にはなれませんでした。同じ親を持つ者同士は、子をもうけてはならないのだと聞いています。わたくしが、アイネ様のおっしゃるように、ノルティエ・デュアス猊下の血を引いて生まれたのだとしたら、ブラン・アムリネス猊下とわたくしは……兄と妹ということに、なりますもの」  それは禁忌の気配のする言葉だった。神殿種には、血の繋がりを取りざたすることが、不道徳なこととされていたからだ。親兄弟をさす言葉は、聖典のなかに時折登場するため、アルミナも言葉としては知っていたが、それを実際にいる者に対して使うことには、抵抗感があった。  アイネが愕然と表情をゆがめたので、アルミナは恥ずかしさで縮み上がった。 「アルミナ様……あなたは……」 「申し訳ございません」 「あなたは赤の塔で、ブラン・アムリネス猊下の妻だったのですか」  アイネは、顔色を失い、絞り出すような小声で、それを尋ねた。  動揺し、ただ頷いて答えるアルミナの顔を、アイネは食い入るように見つめてくる。 「あなたの目は緑……猊下は確か、灰色の目をなさっておいでだったわ。あなたの、その目は……」  ふとんの上で硬く握り合わされていたアルミナの手を、アイネが震える指でとらえた。 「わたくしの目です。あなたは……あなたは、わたくしの娘です」  アルミナは、なにも考えられなくなった。重ね合わされたアイネの手は、手袋越しにも、緊張のために冷たく強ばっているのがわかった。青ざめたアイネの白い胸元に、薄暗がりでも鮮やかに、真っ赤な百合の刺繍が咲き誇っている。そういえば、それは、|娘《ファム》を産んだ証なのだ。  どんどん、と小部屋の扉が強く打ち鳴らされた。  アイネは、はっとしたように、アルミナの手を離した。アイネが椅子から立ち上がると、衣擦れの音が立った。 「どうぞ」  震えを隠した、張りのある声で、アイネが応えると、扉はすぐに開かれた。壁の灯火が、頼りなく揺れ動いた。 「正神官さまがたがお越しです」  先触れに来たらしい|女《ファム》は、背後を気にして、早口にそう告げた。 「でも……アルミナ様はもう回復されたようです。白の塔の方々をお呼び立てすることは……」 「白の塔からではありません。突然お越しになって……」  |女《ファム》は驚いた仕草でふりかえり、すぐさま長い衣の裾をかいとって、姿勢も低く脇へのいた。その深々としたお辞儀の意味はひとつだった。そこに|男《オム》がいるのだ。  アイネが、ふと我に返ったように、同じ恭順の姿勢をとった。寝台に寝ていたアルミナだけが、呆然とひとり取り残され、扉をくぐって入ってきた三人の正神官と向き合うことになった。  三人は、鎖の紋章を身にまとい、眩しいほどの白の衣と、銀色の杖で正装していた。一目で高位の神官とわかる出で立ちだった。  それを見てしまってからでは手遅れだったが、アルミナは慌てて、寝台に座ったまま、深く頭を垂れた。  雑居房にいるときの普段着で、|女《ファム》たちは容貌をかくすためのヴェールを纏っていない。予告なく現れた|男《オム》たちに、できるかぎり深く頭を垂れて顔を隠すほかなかった。 「めでたくも、我が主、ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ様の聖母となられる貴女様に、ご挨拶に参りました。貴女は|女《ファム》の中にありて、祝福された方。母の中の母、御名は|永遠《とわ》に讃えられたもう」  窮屈な部屋のなかで跪き、|男《オム》たちはよく通る低い声で、一語一句違わない同じ言葉を口にした。  すぐ横で腰を折っているアイネが、息をのむのが分かった。 「聖母アルミナ様」  あとの二人を先導していた正神官が、懐に持っていた白銀の百合の花を、アルミナに差し出した。  それを受け取れという意味だと分かってはいたが、アルミナは訳がわからず、ただ深々と頭をさげたまま身動きがとれずにいた。 「……アルミナ様、百合をお受けするのです」  焦ったような小声で、アイネが促した。 「なんとお返事するか、ご存じですわね?」  まさか知らないはずはあるまいという、口調だった。  正神官に白銀の百合を差し出された|女《ファム》が、どんな言葉を口にすべきか、それは神殿種の|女《ファム》なら知らないはずはなかった。幼いころから、何度もお伽話がわりに語ってきかされてきた物語だ。アルミナにも、オルハがたびたび聞かせてくれた。  その、受胎告知の物語を。  百合を受け取らねばならない。  そして、こう言う。  わたくしは、主の|婢女《はしため》です。御言葉どおり、この身に成りますように。 「あ……」  かすれた声だけが、アルミナの喉からこぼれ出た。 「わたくしは……」  差し出された作り物の百合が、冷たい凶器のように、アルミナを指し示している。 「いやです。お受けできません」  その場にいたもの全てが、筋書きとちがう言葉を耳にして、弾かれたように顔を上げた。  寝台に座っていても、恐ろしさで、脚が震えている。 「……助けて」  顔を覆い、アルミナは膝を抱えて、消え入るような小声で祈った。 -----------------------------------------------------------------------  1-63 : 虚ろなる祈りの記録者 -----------------------------------------------------------------------  この|乗り物《ヴィークル》には、ものを見る機能が備わっていなかった。生まれつき、視力に欠損があったのだ。  そんな体に収まってみて初めて知ったが、盲目の者は、夢の中でも盲目のままだ。  それは奇妙な夢だった。  音、香り、気配、ぬくもり、手触り、そのようなものだけで構成された夢が、夜ごとに立ち現れる。  盲目の娘が繰り返し見ていた夢は、いつも隣に立っている男のことだ。娘はその男のことを、ヴォルグと呼んでいた。  頭ひとつぶん高い所からもれる彼の呼気、手袋をはめた指が杖を握りなおすときの衣擦れの音、かすかに感じられる彼の体臭……そのようなものは、目の見える者にとって、気づきもしないような些細な事ばかりだ。  しかし娘はいつも、渇いた植物が水脈を求めて縦横に根を伸ばすように、とぎすました感覚をはりめぐらせ、そこにいる男の気配をつかみ取ろうとしていた。男のふとした所作が起こした空気の乱れが娘の頬にそよぐと、娘はその熱を帯びた感触をいつまでも憶えており、時折自分のなめらかな頬に指をやっては、何度も飽きもせず思い返していた。  娘は恋をしていた。  その想いは、娘に巣くう天使をじわじわと苦しめた。  娘の体を奪い取ろうと、神経に寄り添い、脳への侵略をすすめるに連れ、娘の胸苦しい恋情が、より克明に押し寄せてくる。娘の手足を我がものとすれば、切なく鼓動する心臓の熱からも逃れようがない。  男の顔を見てみたいと思うようになるのも、自然な成り行きだった。  愛しい男に触れてみたいと願う勇気すらない、うぶな盲目の娘が、夢の中であってもいい、間近に彼と対峙すれば、どんなにか恥じらい|戦《おのの》くだろうかという、底意地の悪い期待からのことだ。  娘の体に乗り換えて以来、暗幕がおりたきりの視界への腹立ちが、限界に達していたのもある。  見たい、という、本能的な欲求から、天使は逃れられなかった。  方法はあった。  至極単純だ。あの男を見たことがある者から、その記憶を奪えばいいだけだ。  誰でも良かった。目の見える者なら。  しかし忌々しい戒律がある。天使とはいえ、理由もなく、同胞の記憶を奪い取るわけにはいかない。無闇に記憶を漁ると、脳に悪影響が出るおそれがあるからだ。やむをえぬ事情での忘却処理でもなければ、他人の脳に踏み込むことは許されていない。それは閉じられた城の中の社会を破綻させぬための|道義《モラル》だった。  だが見たい。なんとしても見たい。ほんの一目でもいい。  動機を忘れ、天使はただ、その一心に取り憑かれた。  その男の目と見つめ合って、狂おしく震えるのは娘の心臓なのか、自分の心臓なのか、もはや判然としない。  そして、その日はやってきた。  天使会議で、審問会が開かれたのだ。  議題は、戻ってきたブラン・アムリネスのことだった。けだものの血を引いて生まれた汚らわしい小僧。それがあつかましく僧冠をかぶって、議場に立っているというだけでも怖気が立ったが、評決は評決だ。天使会議はその小僧を天使ブラン・アムリネスと認め、生かしておくことにした。  あの男がもっともらしい演説を打ったからだ。もうこれ以上、無駄に天使を失うわけにはいかないと。  小僧を生かしておいて、|翼《よく》を覚醒させ、なんとしても転生胚を作らせるのだ。そうすれば新たな|運搬者《ヴィークル》にブラン・アムリネスを移し替えることができる。  理屈は通っているが、現実に可能とは思えなかった。  小僧の中に|翼《よく》があることは分かっていたが、それは休眠しているようだった。真冬の|蛹《さなぎ》のように固く眠りこんでいる。  無理もない。|翼《よく》は神殿種の肉体に寄生しなければ、活性化しないように作られている。その仕様はもっともだ。転生して目覚めてみたら、犬畜生の体に囚われていたなど、あまりにおぞましいではないか。  だが、ブラン・アムリネスは、人ではないものの体におさまってしまった。  覚醒させるのは遺伝的に困難なのではないか?  なにげなく、意見を口にすると、隣に立っている男から、これまで感じたことのない種類の気配が立ち上った。あれは、そう……激怒だ。  それを感じ取った盲目の娘が、どこか脳裏の奥深くで、身も世もなく狼狽えるのが感じられた。常日頃、願ってやまなかった男の視線を我が身の上に感じ、娘は哀れにも震えていた。  しばしの息苦しい沈黙を破り、あの男は硬質な無表情によろわれた声で命じてきた。 「|翼《よく》の制御法を、あれの脳に直に教えてやるがいい。お前の専門だろう。ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ」  命令される筋合いはないという反発は、彼の声の力強さに押し戻され、うやむやに消え去ってしまい、ああ好都合だという己の声が聞こえた。  小僧は戒律を知らない。言葉も話せない。なにをしても誰も気付くまい。小僧は今も、床の円にそった真向かいの位置に立ち、私の隣にいるあの男を正面に見ているはず。屠殺場に引き出された羊のように。 「兄上のご希望では、仕方がありませんね」  舌なめずりしたい気分を押し隠して、天使はそっけなく静かに答えた。答えながら、金襴で飾り立てられた重い僧衣の外套を引きはがすと、|翼《よく》が|運搬者《ヴィークル》の背中の皮膚を突き破って性急に現れようとしていた。  寄生種が体外に姿を現すのは危険をともなうことだった。|運搬者《ヴィークル》の肉体に潜んでこそ、乾燥や飢えから身を守ることができる。  だが通信の感度をあげるためには、生身を晒すのがもっとも効果的で、より良いのは相手の肉体に進入して接触を試みることだ。  しかし天使は躊躇した。  城内で生まれ育った神殿種ならまだしも、不衛生ではないのか。もし未知の雑菌に感染したら、我が身を守りきれるだろうか。恐ろしい。でも。  見たい。  一目でも。  彼の顔を。  私の隣に立っている、その姿を。  結論を出したのが自分なのか、それとも盲目の娘か、どちらが寄生されているほうなのか、天使にはわからなかった。  |翼《よく》を見るのが初めてなのか、混血の小僧は全身から恐怖を発して逃げだそうとしていた。無茶苦茶に暴れる子供を取り押さえるのは難儀だったが、うつぶせに床に押しつけ、首筋から進入して延髄に触れると、殴りかかろうとしていた腕が制御を失ってぱたりと床に落ちた。神経系を乗っ取ってしまえば、|運搬者《ヴィークル》の体など肉でできた人形のようなものだ。  混乱と恐怖で激しい電流を放つ脳を探り、天使は視覚の記憶が蓄積されている場所から、求めるものを探し当てた。  ヴォルグ。  盲目の|運搬者《ヴィークル》の脳が、急激に発熱した。  鋭い表情をうかべた灰色の目を。  彫りの深い顔立ちを。  純白の手袋に覆われた大きな手を。  せめて一目と渇望していた一瞬一瞬が、そこには無尽蔵に記憶されていた。  無関係の記憶をふるい落とし、宝の山を掘り返すような気持ちで、天使はその甘美な記憶を飽かず貪り食った。これまで暗闇だった視界に、鮮やかな光景が蘇る。  その眩しい光に、|運搬者《ヴィークル》の赤い瞳をした目から、涙があふれた。いや、娘が泣いているのは、それだけが理由ではあるまい。  子供の記憶のなかにいる長身の天使が、こちらを見つめている。その目は冷たかったが、たとえようもない陶酔が娘の心臓を切なく締め上げる。  ヴォルグは暗い表情でただじっと子供を見下ろし、静かな声でなにごとか話した。彼がなんと言ったのか、天使にはわからなかった。子供にはヴォルグがなんと言ったのかわからず、それを記憶しておくこともできなかったのだろう。  ヴォルグは初めて、苛立った表情を見せた。やにわに彼は子供の腕をつかみ、恐れる子供を引きずって、窓のそばまで連れて行った。  ……ここはどこなのだろう。正神殿の、塔のどれかのようだった。薄暗い部屋の窓は破られており、突風が絶え間なく吹き付けている。  ヴォルグは逃れようとする子供の首根っこをつかみ、その半身を軽々と窓枠の向こうへと押し出した。枯れた地平線と、いくつもの尖塔や鐘楼が迫ってくるように真下に見える。転落の恐怖が、子供の記憶に、ねっとりと重い脂のように染み付いている。天地のひっくり返る感覚とともに、子供は視界にあるものをとらえ、悲鳴とも怒声ともつかない叫び声を、喉の限りに放った。  はるか下に見える尖塔の先に、なにか大きなものが引っかかっている。人のように見えた。  仰向けに両手足をだらりと垂らしたその姿は、壊れた人形のように力なく、奇妙な方向へねじ曲がっている。みぞおちの少し上あたりを、塔の避雷針が刺し貫いており、そのために絶命したものと思われた。おびただしい血が、赤い雨のように、白亜の塔を流れ落ちていくのが見える。  子供は自分が宙づりになっていることを忘れたかのように、手足をばたつかせ、なにか叫び続けている。ヴィジュレには子供の話す言語は理解できなかったが、翼は言語を越えて、子供が言わんとする概念をつかみ取ってきた。  父だ。  父親。保護者。自分を守ってくれる唯一人の存在。それを失ったという事実を、なんとかして受け入れずにおこうと、子供の脳は狂乱していた。父さん父さんと、甘えるように子供は泣き叫び、塔から身を投げ出そうとする。  力強い腕がそれを引き戻し、石造りの床に子供を転がした。部屋には古びた赤い絨毯が敷き詰められており、それには天秤の意匠が織り込まれていた。天使ブラン・アムリネスの紋章だ。 「あの男はお前の父親ではない」  ヴォルグは灰色の目に、憎しみとも悲しみともつかない、険しい表情を浮かべ、ともすれば発作的に窓から身を投げようとする子供を押さえ込みながら、翼を使って話しかけてきた。子供は翼通信に恐れをなしたのか、それとも言われたことを否定したかったのか、ただ激しく首を横に振った。 「そんなに死にたければ、後を追って飛び降りてみるがいい。苦しんで死んだ挙げ句にお前は蘇る。お前は神殿種で……天使なのだからな」  子供が見上げた視界にいるヴォルグは、突風にあおられて僧冠を失い、暗い顔にはすでに死んだもののように悪鬼の表情を浮かべている。 「思い出せ、ブラン・アムリネス。天使の記憶を取り戻すのだ。お前があの男の息子であるはずがない」  叫ぶ子供を黙らせようとしてか、あるいは無意識にか、ヴォルグは子供の喉頸を締め上げていた。 「お前は、私がルサリアに授けた、私の子……私が、私がお前の父なのだ」  くびり殺しかけているのに気付いたのか、ヴォルグは不意に子供を自由にした。子供は腰をぬかしたまま、窓辺まで床を這ってヴォルグから逃れた。子供はヴォルグを恐れ、そして憎んでいた。 「お前は天使にならねばならぬ。ほかにお前の生き残る道はないのだ」  疲れ果てたように、ヴォルグは床に膝をつき、純白の手袋に包まれた両手で、顔を覆った。 「ここで生きるのは簡単ではない。だが私が、守ってやる……お前の母親のぶんまで」  深い息をつき、ヴォルグはゆっくりと顔をあげた。  苦しみに曇った、しかし、愛しい者を見つめる目で──── 「ヴィジュレ」  厳しい叱責に似た声で名を呼ばれ、ヴィジュレは我に返った。天使会議が、自分を見下ろしている。  格闘のため僧衣は乱れ、僧冠は傾き、乱れた髪の間から汗のしずくが流れ落ちようとしていた。脆弱な娘の心臓が、悲鳴を上げ始めている。  あの目。あの目で、どうしてあの人は、あの目で私を見つめてはくれないの。もしも、ほんの一目、私を愛しく見つめてくれたなら、私はそのために百万回死んでもいいのに。  ヴィジュレはうめいて、左胸を押さえた。冗談ではなく、嫉妬が娘の心臓を止めそうだった。 「ヴィジュレ、呼吸をさせているか」  ヴォルグの声が、非難する気配で自分を呼んでいる。  あいも変わらない、鋼鉄のように無表情な声だ。  く、とヴィジュレは抑えきれない笑い声を絞り出した。  守ってやる、か。言われてみれば、そうかもしれぬ。率先して小僧を|撲《う》つものの、結局のところ、首の皮一枚で命をつないでやるのは、いつもこいつじゃなかったか。  自分の呼吸の音を聞きながら、ヴィジュレは翼を子供の脳から撤退させ、よろめく足で数歩離れた。住み慣れた深い深い忌々しい闇が、ふたたび天使の視界を覆いつくした。  小僧の神経系に進入してどれくらい経っていたのだろう。五分、十分か、それ以上か。  延髄から先を遮断しておいて、呼吸中枢の代行をするのを忘れてしまった。 「兄上。私としたことが、うっかりしていましたよ……でもこれで、手間が省けたじゃないですか」  顔を伝い落ちる、汗とも涙ともつかないものを拭い、天使はこみ上げる笑いをこらえた。なんという姿だ。鼻水を垂らし、惚れた男の一瞥に喘ぐ有様を晒そうとは。  だが後悔はない。これで娘の腹も決まったろう。男の些細な立ち居振る舞いに心をときめかすのは、しょせん生娘のお遊戯でしかなく、そうして浮かれていたところで、この男が自分を愛するはずがない。彼の愛を受けるのは、塔に閉じこめられ、刺繍針を動かすしか能のない|女《ファム》たちだ。 「ブラン・アムリネスの|翼《よく》が生きていれば、蘇生するはず……しないのなら、転生胚を作れる見込みはないということです」  思わず張り上げた声に、答える者はいなかった。息の詰まるような沈黙だけが、議場を満たす。それが同意を意味しているのか、どうか、知りたくもなかったが、議論したところで無意味なことだけは、はっきりしていた。  子供はすでに、死んでいるのだから。 「哀れな我らが同胞、ブラン・アムリネスを救うために、してやれる事はひとつだけです。|運搬者《ヴィークル》を殺し、蘇生してきたらまた殺す、そうして翼の覚醒を促してやるしかない。そうでしょう兄上、今ここで話し合うべき問題は、それを一体誰がやるかです」  自分の声だけが、上ずった笑いに彩られて議場の丸天井にこだまするのを、サフリア・ヴィジュレは聞いた。次にこの沈黙を破るであろう声を、天使は内心舌なめずりして待った。 「……私がやろう」  すぐ隣で、静かに断言したその声に、ヴィジュレは思わず微笑んだ。ヴォルグの声だった。  そうだろう。やるがいい。灰色の|死の天使《ノルティエ・デュアス》。それでこそ背負った名に相応しいというもの。  愛する者を繰り返し手にかける苦痛を舐めるがいい。苦しめてやる。苦しめてやる。私を愛さない、あなたがいけないのよ。  チッチッ、と微かに金属質な鳴き声のようなものを、ヴィジュレの翼がとらえた。|運搬者《ヴィークル》の死を引き金として目覚めたブラン・アムリネスの翼が、蘇生を開始する気配だった。 -----------------------------------------------------------------------  1-64 : 諍う天使 -----------------------------------------------------------------------  冷たい床の感触を、シュレーは素足の足指で確かめた。  荘厳な白で満たされた大聖堂には、凍るような空気と、大勢の呼気に温められた熱気が、混ざり合わないまま絡み合っている。  大きく背中のあいた戦闘用の僧衣は、展翼するのに都合良く作られていた。普段は幾重にも僧衣に包まれている肌が、今は正神殿の冷気に冷やされ、粟立つようだ。  十四歳になっていた。  自分の年をことさらに数えたことはなかった。  神殿の者たちは、天使の肉体が何歳であるか、気にかけることはなかったし、自分を子供扱いしてくれる者もいなかったからだ。  毎日を這うように生き続け、気づくと今日になっていた。  与えられた戦斧を握り治し、シュレーは自分の冷えた指の動きをはかった。冷気に強ばる肌の下には、汗をかくような熱が籠もり始めていた。  遠巻きに円を描いて、純白の僧衣をまとった正神官たちが、壁のように居並び、こちらを見つめている。あるものは天秤の紋章を、その隣の者は、月と星の紋章を僧冠に帯びている。片方は味方の、もう片方は敵の。あるいは、その全てが敵だった。  同じように戦斧を握り、自分を見下ろして立っているノルティエ・デュアスを、シュレーは見つめた。死の天使の体躯は堂々としており、彼の鋼鉄のような目が見下ろす自分が、まだいかに幼く貧弱であるかを思い知らされる。  体温でぬるんだ床を嫌って、シュレーは半歩横へ足を移した。  それを見つめる死の天使は、微動だにしない。彼は天使の中でも一番の手練れで、その称号に相応しく、これまで数知れない死を与えてきた。哀れな運搬者(ヴィークル)たちに。  子供の敵う相手ではない。シュレーはそれを身をもって知っていた。  沈黙を破って、中性体(ユニ)たちの歌う声が低く響き始めた。天上から聞こえるような混声合唱が、大聖堂をゆっくりと満たしていく。  シュレーにとって、それはいつも葬送の歌だった。聖歌というには、あまりに禍々しく聞こえる。天使の復活を告げ、それを祝う歌だ。  神聖な一族の者たちの目が、あるいは翼が、この大聖堂で行われる儀式を静かに見守っている。聖歌に包まれ、血祭りにあげられる自分を、眺めにやってきた連中だ。  沈黙に焦れて、シュレーは震える熱い息を吐いた。呼気は白く凝って、薄もやのようにシュレーを包んだ。 「ヴォルグ」  向き合った天使に、シュレーは呼びかけた。それは一種の賭だった。  死の天使の中にはふたりの男がいる。  どちらの男も、自分を殺すために追ってくるが、それがヴォルグであればいいとシュレーは思った。  彼なら自分を、一撃で仕留めようとするからだ。 「……ヴォルグ」  戦斧をかまえ、シュレーは上目遣いに見上げたまま、もう一度だけ呼びかけた。  死の天使は無表情にこちらを見下ろした。 「はじめるか、アムリネス」  そう問われて、シュレーの呼吸は速くなった。呼びかけた名に、死の天使は答えなかった。  彼が握る武器の、鋭利に研がれた刃を、シュレーは見上げた。  死ぬものかと、内心に叫ぶ自分の声がこだました。その声は我知らず翼に乗り、大聖堂を埋め尽くす冷たい同胞たちのところへ、届いたかのようだった。  復活を。  聖歌がそれに、声高く答えた。  ただひとつ活路は、目の前にいる死の天使を殺すことだった。  復活の儀式は対戦の形式をとっている。これが戒律に倦んだ一族のための娯楽だからだ。  死ぬ天使は、どちらでも良かった。片方が死ねば、儀式は終わる。ここで死ぬのが自分でなくても、やつらは満足する。日ごろ崇めて手の届かない高みに座らせた天使が、血だまりに転落して悶え死ぬのを見られれば。 「ノルティエ・デュアス」  シュレーがその名で呼びかけると、天使は薄く笑った。 「今日は逃げるな」  犬歯を見せて、戦斧を構え、ノルティエ・デュアスは言った。  その姿は神聖だったが、獣(けだもの)の顔だとシュレーは思った。  刺突にも、撫斬ることもできる戦斧は、死の天使の得意とする武器で、長身の彼がその気で振るえば、一撃でシュレーの手足を断ち落とすこともできた。  避けなければ。  最初の一撃をまとにも食らえば、それで終わりだ。  天使はいつも足を狙ってきた。走れなくなれば、この場で嬲り殺されるだけだ。  床をつかむ足指に力をこめ、シュレーは死の天使の太刀筋を探ろうと、彼の顔を見つめた。  復活を。聖歌が轟きはじめた。  耳を聾するその歌声に、シュレーが気をとられた瞬間、戦いは、唐突に始まった。  床を薙ぐようなノルティエ・デュアスの一撃を、シュレーはよろめいてかわした。  避けきれず、わずかに切っ先を受けた脛から、背後にいた正神官の僧衣に赤い血が散った。痛みを感じる余裕はなかった。  復活を。聖歌が求めた。  のしかかるようなその歌声とともに、シュレーはノルティエ・デュアスの二撃目を戦斧で受け止めた。指が痺れるほどの重さだった。 「戦うつもりか」  争う刃越しに、死の天使は呆れたようにシュレーを見下ろした。重みでこちらが震えていても、むこうは平気で笑っている。 「誰が」  シュレーはうめいて答えた。  勝ち目などあるはずがない、まともに戦ったのでは。  渾身の力で、シュレーはノルティエ・デュアスの刃を脇へいなした。けたたましい音を立てて、戦斧の柄が擦れ合い、舞うように身を翻して、死の天使はシュレーの逃走を許した。  シュレーは武器を捨て、床を打つ戦斧の火花を残して、天使の横を走り抜けた。  正神官たちの幾重もの円陣を抜ければ、赤の塔へ続く通路に至ることができる。 「ご復活を」  押し通ろうと人垣にとりつくと、天秤の紋章を帯びた正神官が呼びかけてきた。 「猊下」 「ご復活を」  彼らはシュレーを阻みはしなかったが、道を空けもしない。白い絹をまとった大人たちの体を、シュレーは押しのけて進まなければならなかった。  のんびりと歩いてくるノルティエ・デュアスの足音が聞こえ、シュレーの呼吸は背後から一撃を浴びる恐怖に乱れ始めた。人垣の奥に、天秤の紋章をつけた大扉が見える。その向こうは赤の塔で、日々知り尽くした道筋が広がっている。  神殿の中に逃げ場などなかったが、見知った道には希望があるような気がした。  裸足の足音を鳴らして、シュレーは扉にたどりついた。  大人の背をはるかに越える大きさの扉を開こうと、体に力をこめると、傷口から足を伝っていた血で足元が滑った。  転びかけながら、シュレーはわずかに開いたその隙間から、塔内へと入り込んだ。 「逃げても無駄だ、足跡がついているぞ」  大聖堂から洩れてきた死の天使の声に、シュレーは走りながら舌打ちした。その通りだった。振り返ると、自分の血を踏んだ足が、白い床の上に点々と赤い足跡を残していた。  遅かれ早かれ簡単に追いつかれるだろう。足跡などなくても、ノルティエ・デュアスはシュレーの翼を走査して居場所を見つけることもできる。こちらには向こうが見えなくても、向こうにはこちらが見えているのだ。 「遊んでいるのか、アムリネス」  それを見せつけるような翼通信が、すぐそばにいるように話しかけてきた。  この城の中では、翼通信はありきたりの通信手段で、神殿種であれば誰でも簡単に使うことができた。天使ともなれば、その精度も高く、城内にいる誰にでも囁きかけることができたし、翼を介して相手の脳に侵入することもできる。  ここには隠しておける秘密などない。少なくとも自分の翼を制御できない者には。  今も、死の天使には、追われる恐怖に乱れるシュレーの心が、手に取るように見えているだろう。 「気が済むまで逃げるがいい。疲れ果てた頃に迎えにいってやろう」  勝ち目はない。塔の階段を駆け上がりながら、シュレーはそのことを反復した。  今まで一度として、逃げおおせたことはない。  それなのになぜ、自分はいつも逃げようとするのだろう。  往生際悪く逃げ回ったところで、やつらを喜ばせるだけ。どうせ殺されるなら、大聖堂で死んでもいいはずだ。結果は同じなのだから。  そう結論づけかける自分の考えを、シュレーは振り払おうとした。  お前は成長している、やつは年老いる。いつか予想もしなかったことが起きて、あの男を返り討ちにしてやることができるかもしれない。  諦めれば、それまでだ。  息を切らして、シュレーは果てしなく思えた螺旋階段を上りきった。最上階にあるのは、いつも寝起きしている自分の居室だった。  見慣れた部屋に駆け込み、シュレーは執務机の引き出しを開いた。そこには短剣を用意してあった。相手は戦斧の大振りで、懐には隙があるはずだ。そこへうまく飛び込めれば、あの白い喉を掻き切ってやれるはず。 「それはいい。やってみせろ」  不意に肉声で呼びかけられて、シュレーは悲鳴を上げた。  いつの間にか部屋にノルティエ・デュアスが立ち、抱くように戦斧を抱えていた。 「お前はなぜリフトを使わないんだ。使えないのか」  執務机ごしに、二人は向き合っていた。戦斧は机をはさんでいても、シュレーの体を薙ぐことのできるところにあった。だが短剣はこのままでは役に立たない。 「ヴォルグ……」 「呼んでも無駄だ」  天使はそう応じたが、シュレーはそれが無駄ではないことを知っていた。  天使の中にはふたりの男がいる。ひとりは目の前にいるこの男、もう一人は、自分のことを息子と信じている別の男だ。  彼は天使の中にいる亡霊のようなものだった。ノルティエ・デュアスの運搬者(ヴィークル)だ。  ヴォルグはシュレーに父だと名乗ったが、そんなはずはない。自分の父は唯一人、ヨアヒム・ティルマンという名の、もう死んだ男だ。  シュレーにとって重要なのは、ヴォルグを呼び出すことだった。呼びかけつづければ、彼は不意に現れることがある。  天使は厳かな足取りで執務机を回ってきた。シュレーはそれと同じ歩調で、天使を見つめたまま、逆に回り込んで距離を保とうとした。そしてシュレーは居室の扉がゆっくりと近づいてくるのを待った。塔の最上階に位置するこの部屋の出口は、そこにしかないからだ。 「誰もが通る道だ、アムリネス。お前だけが逃れられるはずがない」  諭すように、天使は言った。彼は復活の儀式のことを言っているのだった。  神聖神殿の天使は初め、運搬者(ヴィークル)の中で眠っている。それを呼び覚ますためには、運搬者(ヴィークル)に死と蘇りを繰り返させ、識域を明け渡させなければならない。翼(よく)が死んだ肉体の維持を代行する一時の間に、天使は少しずつ運搬者(ヴィークル)から奪っていく。記憶と、意識と、生き続けようとする意欲を。  死ぬものか、と、シュレーは自分に言い聞かせた。  以前は明らかだったその意志も、今では強く自分に言い聞かせねばならないような気がした。識域を全て明け渡して眠れば、もう苦しんで死ぬ必要もない。自分の一生はそこで終わりかもしれないが、それがなんだというのだ。  殺されるといつも、もう目覚めなければいいと祈った。もうこのまま永遠に死んで、蘇らない。恐ろしい目にもあわない。痛みもない。父や母がいったところへ、自分もいくことができる。そのほうがいい。  シュレーは汗で滑りかける短剣の柄を握り直した。  脳裏にいつの間にか、少女の顔が浮かんでいた。  アルミナ。  長い間、手紙の文字でしかなかった彼女のことを、シュレーは思った。  彼女が女(ファム)になったので、と、前触れもなく自分を連れに来た隊列に導かれて、アルミナの部屋を訪れたのは、数ヶ月前だった。  塔の小部屋で、彼女は優しく微笑み、夫である天使を待っていた。  まだ幼かったころに、訳も分からず結婚したときの彼女は、白い布に頭から爪先まですっぽりとくるまれた顔のない娘で、シュレーが憶えていたのは、握り合わせた彼女の小さな手が、心細げに震えていたことだけだ。  だが、あのとき部屋で待っていたのは、それとは全く別の、白い夜着の裾をもじもじと掴んで、控え目にこちらを見ている、華奢だが確かに女の形をした少女だ。  シュレーはそのとき女(ファム)を初めて見た。頼りなげなその姿は、シュレーの胸を締め付けた。  アルミナの大きな緑の目と見つめ合って、シュレーは彼女が待っているのが自分ではないことに、絶望をおぼえた。  猊下、と、手紙ではいつも、彼女は自分に呼びかける。彼女は天使と結婚したのだ。  もし、この汚らわしい運搬者(ヴィークル)が死んでも、彼女は泣かない。夫の転生を祝って、彼女も歌うだろう。  復活を。聖歌が翼を介して押し寄せてきた。皆が歌っている。  死の天使が歩を進め、どこか薄笑いを浮かべて距離を詰めた。それに応じて逃げながら、シュレーは自分の背後に扉があるのを感じた。  死ねば天使と入れ替わる。天使は彼女を抱くだろう。自分のこの腕で。はじめから我がものだったという顔をして。  不公平だ。  自分には、彼女と出会う機会さえないのに。  そう思うと、苦しかった。  逃げれば背中から斬られると、シュレーは思った。  そしてまた死に一歩近づく。 「ヴォルグ」  もう一度だけ、シュレーは呼びかけた。死の天使はおどけるように、首をかしげて見せた。 「私は転生を終えている。呼んでも無駄だ、アムリネス。逃げずにここで始末をつけろ。私を走らせるな」  シュレーは一歩、執務机から退いた。天使はまだ追う気配を見せなかった。  もう一歩、さらに一歩、シュレーは短剣をかまえたまま後ずさった。天使が戦斧を構えるのが見えた。  あと一歩だけ。間合いをはかって、居室の絨毯の床に足をすべらせると、天使が動いた。  それを合図に、シュレーは走り出した。執務机に向かって。  重ねられていた書類を蹴散らして天板に飛び乗り、目の前にいる長身の天使に短剣をふりおろすと、ノルティエ・デュアスは驚いた顔でのけぞり、攻撃を受けようと戦斧を構え直した。  腕が白銀の長柄に防がれ、骨が折れそうな衝撃が返ったが、シュレーは攻撃を止める気はなかった。  短剣の切っ先が、死の天使の鎖骨のそばに埋まり、シュレーの顔に返り血が散った。  あと僅か、シュレーは天使の心臓を狙っていた。持てる限りの力で押し込もうとしたが、そのための機会はほんの一瞬だけだった。  天使は呪詛の声とともに、戦斧でシュレーの体をはじき飛ばした。研ぎ澄まされた刃がシュレーの胸を薙ぎ、肩から一閃する深い傷を与えた。  床に転がりおちながら、シュレーは悲鳴をこらえた。  傷は焼けるように熱かった。止めようもなく血があふれ出てきた。  苦痛に呻きながら這うように立ち上がり、シュレーは扉を目指して走った。  手の中にはまだ、死の天使の血を吸った短剣が握られていた。 「アムリネス」  叫ぶようなノルティエ・デュアスの声が、廊下を走るシュレーの背にも届いた。  傷は痛み、全力で走っているつもりでも、流れ去る通路の景色はどこかゆっくりとしている。喉が渇き、頭が朦朧とした。よろけながら、シュレーは自分が血の足跡を残していた階段に辿り着いた。  下の階へ逃れるしか行く先がない。  ヴォルグ。  言葉にならない声で、シュレーは亡霊に呼びかけた。  心臓をねらえと、あの男は教えた。  戦っても勝ち目はない。逃げ回れ。短剣で心臓をひと突きするだけなら、お前の力でもできる。好機を逃さず、痛みを恐れなければ。  父、ヨアヒム・ティルマンに連れられて、この神殿にやってきてからというもの、ヴォルグは自分にあらゆることを教えた。ここで通じる言葉を教え、神殿の教義を教え、天使らしく見える振る舞い方を教えた。  しかし彼が教えたものの中で、一番役に立ったのは、彼を殺すための方法だった。  武器を握らせ、ヴォルグは自分に戦い方を教えた。  弱い者は、ここでは無限に虐げられる。天使の復活を祈る声で、同胞たちは虐殺を正当化する。自分が殺されるのがいやなら、相手を殺すしかなかった。そうやって身代わりに死んでくれる者を作り、自分はもうすっかり転生を終えたふりをして、難を逃れる。  それがここでの生き方だ。  胸の傷は焼け付き、短剣を握る腕は、ずきずきと痛んだ。それでもシュレーは短剣を手放す気はなかった。自分はまだ生きており、もう一撃与える機会があれば、今度こそやり遂げられるかもしれない。  命を失うのはあの男で、自分は今夜も眠る。  また月が満ちたので。  夜になれば。  彼女の部屋に行くことができる。  乱れた息とともに階段を這い降りながら、シュレーは自分にはもう、そんな機会がないことを知っていた。胸の傷は出血がひどく、放っておいてもこのまま死ぬだろう。  動かずにじっとしているほうが、まだましと思われた。走り回っても、死を引き寄せるだけだ。  どこかに隠れて、失血死すれば、そのほうが楽なのではないかと、シュレーはぼんやりとし始めた頭で考えた。  それはひどく寒いかもしれないが、自分のこれまでの一生で、寒さに震えずにいたことなどあっただろうか。  追ってくる足音が、確実に近づいてくる。自分は死の天使を怒らせた。穏やかな死など与えられないだろう。  どこをどう逃げたか、シュレーには判然としなかった。  ふと見ると、目の前に小さな扉があった。もう走れない気がして、シュレーはその前に膝をついた。  扉を開けて、中で眠ってしまいたかった。  しかし小さな扉には不似合いに大きな錠前がかけられており、シュレーはその扉を開くことができない。  アルミナ、と、シュレーは意識の薄れた頭で、愛しいその名を呼んだ。自分がそれを声に出したか、それさえ分からなかった。  体が重く、シュレーは短剣を握ったままの手を床について、くずおれかける自分を支えた。  彼女と眠る、寝床は温かかった。  神殿の女だ、と自分に言い聞かせてみても、安心したふうに寝息をたてているアルミナの香りは甘く、自分は彼女を抱いて眠りたかった。  死にたくないと思っている自分を、そのとき初めて感じたのだ。  僧衣を赤く染めた血が、汗のように床へ滴り落ちていた。  背後に立った足音の主を、シュレーはゆっくりと仰ぎ見た。  戦斧を提げた死の天使が、氷のような無表情で、そこにいた。  ノルティエ・デュアスの僧衣も、シュレーが与えた傷から流れ出た血で、やはり赤く濡れていた。あと少しだった。悔やむでもなく、シュレーはぼんやりと、そう考えた。 「どうした、もう逃げ場がないか」  静かな声で、死の天使は訊ねた。シュレーは頷いた。ここで行き止まりだった。 「お前の妻に、助けを求めてみたらどうだ」  天使の言葉に、シュレーは笑った。あまりに情けなかったからだ。  どうして無意識にこの袋小路へ逃げたのか。要するにそういうことだった。自分はあの何の力も持っていない少女に、救いを求めてやってきた。女の寝床へ逃げ込んだら、死の天使が見逃してくれるとでも思ったのか。ノルティエ・デュアスはそう言っている。 「ヴォルグ……出てきてくれ。こいつに殺されたくない」  もう立ち上がれない気がしたが、逃げるためには体が動いた。立ち上がった足元がふらついて、シュレーは自分の背より小さい小部屋の扉にもたれかかった。  彼女の部屋の戸を、血で汚してしまったなと、頭の隅でぼんやり考えている自分がいた。そんなふうに、迫る現実から逃避しはじめている意識を感じ、シュレーは無表情に自分を見つめる天使の顔を、観念して見上げた。 「もう死んだのですか、あなたの運搬者(ヴィークル)は」 「そうだ、弟よ」  静かに答えて、死の天使はシュレーの髪を鷲づかみにした。  なにをするつもりか、シュレーには分かっていた。ノルティエ・デュアスは、最後にはいつも同じことをする。 「目障りな耳だ」  硬く冷え切った戦斧の刃が、自分の耳に触れるのをシュレーは感じたが、抵抗する気力がなかった。  どうせいつものこと。そう思ったが、その瞬間には予想外に悲鳴が喉にあふれた。  鋭く研がれた刃が、シュレーの右耳を切り落とした。  とっさに傷口を覆おうとして、シュレーは思わず短剣を取り落とした。 「何故お前のような汚らわしいものが生まれたのか、私には理解できない」  髪を掴んだまま、ノルティエ・デュアスは間近にシュレーの顔をのぞき込んだ。 「なぜ人と獣の間に子が生まれるのだ? お前の母親が、それほどふしだらな淫売だったということか?」  天使は罵っているのではなかった。いつもこの男は同じことを訊ねる。  たぶん、不思議でたまらないのだろう。  父と母は愛し合っていた。たったそれだけのことが、この男には理解できないのだ。 「あなたよりヨアヒム・ティルマンを選んだ母を誇りに思う」  シュレーが答えると、天使は壮絶な微笑を浮かべた。 「頭のおかしい女だったのだ」 「おかしいのは、あなたのほうだ」  教えてやると、天使は唇のはしをあげて笑い、提げていた戦斧の柄でシュレーの顎を殴った。気絶しそうな目眩が襲い、微笑する死の天使の白い犬歯が見えた。  狼のようだと、シュレーは思った。ほんとうは、こいつらこそが獣(けだもの)で、ここは獣の城なのではないか。  死の天使が自分を憎んでいることを、シュレーはいつも感じていた。彼は同胞に乞われれば、どんな天使でも殺した。相手が憎いからではない。それが彼の役目だからだ。  それなのに、自分を追い立てるときの死の天使の顔に、いつも憎しみがあるのをシュレーは感じた。  なぜ憎まれるのか、良く分からない。彼が折々に言うように、自分が大陸の民との混血で、それが汚らわしいからか。  だがいつも、ノルティエ・デュアスは母のことを口にする。彼を裏切り、獣(けだもの)に体を許した女のことを。その息子である自分のことを。  しかし、それを憎むことができるのは、天使でなく、ヴォルグではないのか。母を愛したのは、ヴォルグのほうなのだから。 「惜しかったな、今日は」  喉もとの傷を示して、ノルティエ・デュアスはシュレーを労うように言った。 「お前はなかなか骨がある。いずれは私と互角に戦えるようになるかもしれぬ。お前がそれまで生きていられればだが。シュレー・ライラル」  残った左耳に秘密めかして語りかけ、天使はそこに刃を触れさせた。 「悲鳴をあげろ。やつらが聞きたいのは、結局それだ」  シュレーは歯を食いしばって苦痛に耐えた。  アルミナが聞いているのではないかと思った。  無意味なやせ我慢だった。  どうせ全塔がこの有様を知っている。  シュレーは翼(よく)の制御ができず、喉から洩れる声は殺せても、翼通信が勝手に伝える悲鳴はどうにもできなかった。  僅かな糸筋に群がるように、全塔の翼がからみあい、天使が絶命するまでの断末魔の声を、細大漏らさず舐めつくそうとしていた。  弱い者、抵抗できない者が虐げられても、彼らはまるで意に介さず、その有様を喜んだ。この種族はもう腐りきっていて、先がないのだとシュレーは思った。  神聖な白で装っていても、その中身は手の施しようがないほど腐乱している。この古い城が、崩れずに立っているのが不思議になるほどに。  彼女がその一人ではないといいと、シュレーは願った。もしこの扉を開けて、中を見たとき、あの娘がほくそえみながら自分の悲鳴を聞いていたら、どうすればいいのか。 「苦しいか」  血に染まった戦斧の刃を見せて、ノルティエ・デュアスは訊ねた。 「苦しい……」  朦朧と、しかし正直にシュレーは答えた。虚勢を張ろうという気は、もうしなかった。 「これでお前も少しは人の子らしく見える」  ノルティエ・デュアスは満足げにそう言った。  戦斧の切っ先を、天使が自分の鳩尾(みぞおち)にあてがうのを、シュレーはぼんやりと見た。どうして腹なんだ。どうしていつもこいつは、意地が悪いんだ。  刃が自分を小部屋の扉に縫い止めるのを眺めても、シュレーは聞こえる悲鳴が他人のもののように思えた。耳がよく聞こえないからだろうか。それとも、もう死にかけているのだろうか。  虐殺される自分を、シュレーはどこか別の、体の外側から見下ろしているような気がした。  この城に来てからというもの、そういうことは、よくあった。ひどくつらいことがあると、肉体から抜け出して、自分の身に起こる惨たらしい出来事を、他人事のように外側から見つめている。  痛みは痛みとして、感じているはずだが、それを無視しているのだ。なぜそんなことができるようになったのか。時折考えてみるが、どうでもいいことだった。  そうでもしなければ正気でいられないだろう。  シュレーの足にはもう立っている力がなかったが、腹を貫通した戦斧のせいで、床に倒れることもできなかった。  ハルペグ・オルロイか……と、シュレーはぼんやり考えた。あれは父の弟で、自分の叔父なのだという。  父が長子で、部族の継承者だったというのなら、その長子である自分には、父の部族を継承する権利があるのではないかな。  この獣(けだもの)の城を出て、べつの獣(けだもの)のいる城へ行ってみるのも、いいのではないか。どんなところでも、ここよりひどい場所なんて、あるはずがない。  薄暗い廊下のすみで、膝を抱えてぼんやりと、目の前でゆるゆる殺されていく自分を眺めながら、シュレーはそんなことを考えていた。  父と母が過ごし、母が自分を身ごもった場所へ行ってみるのも、いいのではないか。そこなら、ここより寒くないのではないか。流れ出た血から湯気がたつような、この寒い城よりはずっと、温暖な南の地なのだから。  ノルティエ・デュアスが、床に転がっていた短剣を拾い上げた。  彼がそれを、なにに使うのか、見ているのがつらくなり、シュレーは目を伏せた。  どうでもいいことだ、痛みも、死も。耐えるしかない。ただ黙って、耐えるしかないのだ。  ふと気がつくと、自分の隣にもうひとり、誰かが座っていた。  顔を向けてそちらを見ると、その姿は大人のようにも、子供のようにも見えた。金色の巻き毛をしており、その髪は長かったり短かったりした。泣いているようにも、微笑んでいるようにも見える。シュレーは目を細めて、その顔をよく見ようとした。 「トルレッキオというんです」  囁くような微かな声で、その人物はシュレーに教えた。 「その場所はトルレッキオというんです」  ぼんやりとしているシュレーを諭すように、その声はゆっくりと何度も同じことを言った。  シュレーは首をかしげた。 「あなたはブラン・アムリネスか?」  もうじき死ぬ自分と入れ替わろうとしている天使なのではないかと思ったのだ。 「僕はあなたの友達です」  ぽかんとして、シュレーはそう言う者の顔を見た。  自分には友達などいない。そんなものが、自分にもいたらいいのかもしれないが。 「復活おめでとう、アムリネス」  満足げにそう告げて、死の天使はシュレーの顎をそらせ、まだ無傷だった喉頸をあらわにさせた。血に濡れた短剣を、ノルティエ・デュアスはそこへ押し当てた。それを見て、シュレーは、今日の死の天使は優しいのだなと思った。彼が自分の首を一閃して、とどめを刺したからだった。  血が流れた。とてもたくさん。 「私はもう、あなたと入れ替わらないといけないのか」  横にいる巻き毛の天使に、シュレーは訊ねた。天使は落胆したように力なく、首を横に振ってみせた。 「あなたは誰とも入れ替わる必要なんかありません」 「そうだろうか。では、死ぬまえにもう一度だけ、彼女の顔を見てもいいだろうか」  遠慮しながら訊ねてみたが、天使はしばらく、なにも答えず、ただじっと悲しげにこちらを見ていた。 「トルレッキオへ行きなさい、シュレー。この城を出て」  優しく命じて、天使は立ち上がった。  彼はやはりブラン・アムリネスなのではないかと、シュレーは思った。  じっと佇んでいる不明確な後ろ姿は神々しかったし、立ち去るノルティエ・デュアスの姿を、親しい者のように見送っている。 「そこへ行って、私はなにをすればいいのだろう」  ここへ捨てていかれるのだと思って、シュレーは天使の後ろ姿に呼びかけた。 「それはあなたが自分で決めるのです。したいことをすればいいのです。皆がそうして生きているように」  振り向きもせず、金髪の天使は答えた。  人が、したいことをして生きているとは、シュレーは天使に言われて初めて知った。その事実に呆然としながら、シュレーは立ち去ろうとする天使を、ぽつねんと見送った。 「でも、私には、したいことは何もない」  心細くなって、シュレーは天使を引き留めようと、すがりつくような質問をした。 「さっき言っていた事ではだめなのですか。死ぬ前にもう一度彼女の顔を見たいと、あなたは言いました」  微かに振り向き、天使はどこか厳しい響きのする声で、答えを返した。  アルミナ。  自分の死体がぐったりと架かっている小さな扉を、シュレーは振り返った。  あの扉を開けて、ほんの一目、ちらりと垣間見るだけでもいいのだ。  それが一生をかけるような事なのか。たったそれだけのことに、自分は一生をかけなければいけないのか。  シュレーはうなだれた。  それでもよかった。  彼女が自分のことを愛していて、その隣で毎日眠れたら、そのために死んでもよかった。 「行きなさい」  厳しく促す声で、天使が言い残した。  急激な展翼で、自分の体が扉から引き剥がされるのを感じ、シュレーは乖離していた肉体へと引き戻された。そこは激痛の渦で、戻りたくなかった。  運搬者(ヴィークル)の死により活性化した翼(よく)が、壊滅した肉体を立て直そうと、青白い光を放ちながら、全身を駆けめぐっている。  あまりの苦しみに、シュレーは悲鳴をあげたかったが、自分の肉体はまだ死んでいた。再び呼吸が始まるまで、身悶えることすらできずに、自分の血のなかに頽(くずお)れているしかない。  どこへでも行く、とシュレーは誓った。  この凍えるような闇から抜け出て、温かい場所で眠れるのなら、どんなことでもやってみせる。  小さな風音をたてて、最初の息が吸い込まれた。気道に残されていた血を、シュレーは身をよじって吐いた。たった今、この世に生まれ出たような気がした。  死の布が取り払われ、白熱した視界に、シュレーは顔を覆った。 「どうかしましたか?」  のんきそうな声で問いかけられ、シュレーはすぐ隣を歩いている少年の顔を見下ろした。  長い金色の巻き毛を背中に垂らし、緑色の制服を身につけた姿で、彼は自分と目を合わせながら、どこか踊るような足取りで通路を歩いている。  誰だったろうか。  シュレーはぼんやりとして、歩きながら額に手をやった。 「まだ飛んでますね、鳥」  促されて、窓の外に目を向けると、小さな白い鳥の群れが、矢のような勢いで飛んでいるのが見えた。  ア・ユ・ルヴァン。行って戻るものという意味の名前だ。手紙でアルミナに教えるために調べたその名前を、シュレーは今も憶えていた。彼女の寝室の窓辺に巣をかけたという、あの白い鳥は、もう飛び立ったのだろうか。  アルミナは今、どこにいるのだろう。  自分はいま、どこにいるのだ。  今は、いつだ。あれから何日たったのだ。  ひどい苦痛と疲労の残滓に襲われて、シュレーはまた床にくずおれたい気がした。  終わったのだろうか。復活の儀式は。自分また蘇ったのだろうか。合唱する声は、どこへ消えたのだろうか。  白い鳥のけたたましい囀りだけが耳につき、しきりにアルミナの部屋の扉のことが思い出されてくる。  彼女はいま、誰と眠っているのだろうか。 「レイラス殿下が、食事に来てくれるようになって、本当に嬉しいです」  隣を歩いている少年は、言葉のとおり、本当に嬉しそうに話している。  天使に似ている。シュレーはぼんやりと、そう思い出した。  トルレッキオへ行けと、天使は命じていた。そこから先は、自分で決めろと。  シュレーは自分の耳に手をやって、小さな輪の耳飾りをした耳朶に触れた。耳はそこにあった。  ふと、頭にかかっていた霧が晴れるように、意識がはっきりした。 「シェル・マイオス・エントゥリオ」  きゅうにその名を思い出したことに驚き、シュレーは思わず声に出して呼びかけた。隣を歩いていたシェルが、ぽかんとした。 「なんですか?」 「なんでもない」  渋面になって、シュレーは答え、廊下を歩く足を速めた。  識域がおかしかった。明らかに知っているはずの事柄が思い出せず、抜け落ちている気がする。  復活したせいだ。そういえば最近また死んでいたような気がする。  毒死だった。模擬戦闘の時だ。  シュレーは記憶を確かめるために、ひとつひとつの出来事を注意深く思い返してみた。  自分は一度死んで、翼(よく)に蘇らされた。そのときに、どこかが天使と入れ替わったはずだ。  ブラン・アムリネスは、シュレーの中でいつも完全に沈黙していた。彼が姿を見せるのは、蘇生する間のほんの一時だけだ。  天使はシュレーに記憶を与えることもない代わりに、識域を乗っ取ろうともしていなかった。何度、復活を繰り返しても、天使はただシュレーを死の淵からすくい上げるだけだ。  それでも天使は、どこかで自分と繋がっていなければならないらしい。寄生種なのだから、それもそうだろう。  あの巻き毛の天使が行儀よく身をひそめた場所にある記憶は、いつも失われた。その領域は回を重ねるごとに大きくなっている気がする。蘇った後しばらくは、記憶が錯綜し、意識がとぎれることがあった。天使が身の置き所を決めかねて、のたうっているのだろう。  アルミナの顔を、シュレーは思い出してみた。  静かに微笑んで佇んでいる華奢な彼女の姿は、まだ記憶の中に残されていた。  シュレーはそれに深く安堵した。  それさえ憶えていられるなら、天使がなにを食らおうと、文句はなかった。 「レイラスがどうしたって」  不思議そうに自分を見ているシェルに、シュレーは話を向けた。詮索されたくなかったからだ。  なぜ自分が彼と歩いているのか、まったく思い出せなかったが、たぶん学寮の居室に迎えにきて、自分を他の仲間のところへ連れて行こうというのだろう。外は朝のようだし、朝食に行くのかもしれなかった。 「え。だから、レイラス殿下が僕をごはんに迎えに来てくれたんですよ。なんだか、にこにこしてて、今まで意地悪だったのが嘘みたいなんですよ。僕を迎えに来たのは、猊下がそうしろって言うから、って殿下は話してました」  説明して、シェルは感謝しているふうな顔を、シュレーのほうに向けた。  まったく記憶にない話だった。  シュレーは淡く微笑み返してやった。 「それはよかった」  たどり着いた食堂の扉に、シェルはうれしそうに飛びついて、重たそうに開いた。  中には、黒い床が広がっており、いくつもある食卓の一番奥の席に、制服を着た二人連れが座っていた。  シェルは楽しげな早足で、彼らのほうへ近づいていき、料理の並べられた食卓についた。  椅子は四つあった。  シュレーはゆっくりとシェルを追い、食卓のそばに立った。  猫のような目をした、ひどく綺麗な黒髪の少年が、じっと物言いたげに自分を見上げた。  シュレーは何も答えず、ただその視線を受け止め、彼の顔が帯びている獣の相を眺めた。美しいが、それは獣の顔だった。 「人に使いっ走りをさせといて、自分は寝坊かい。さすがに猊下はいいご身分だね」  憎まれ口をきく彼を、シュレーは見下ろした。 「おはようレイラス」 「シュレー、お前まだ具合が悪いんじゃないのか」  向かいの席に座っていた、浅黒い肌の少年が、青い目でこちらを見て、心配げに言った。  ずいぶん優しい獣だな。 「もうなんともない」  シュレーは彼に、笑って嘘をついた。       ---- つづく(執筆中・公開日未定) ---- _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2004 TEAR DROP. 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