掲載サイト:TEAR DROP. ( http://www.teardrop.to/ ) _______________________________________________________ =================================== カルテット 番外編 =================================== ----------------------------------------------------------------------- 「北辺の狼」(1) -----------------------------------------------------------------------  天幕の中を区切るために吊るされた幕が、かすかに揺れている。  つい今しがた、念入りに炉をかきたてたので、暖められた空気が動きはじめたのだろう。  幕一枚で仕切られただけの向こう側を透かし見たい気持ちで、シュレーは煤けて薄汚れた山羊革の幕をじっと見つめた。  炉のあるこちら側は明るすぎ、暗闇の垂れこめる向こう側は、わずかに人のいる気配が感じられるだけで、目に見えるものは何もない。  その向こう側から、こそり、こそりと、なにか囁き交わすような声が聞こえる。  ほろほろ燃え崩れてゆく炉の炭火を横目に眺め、片膝を抱えたまま、シュレーは聞き耳を立ててみた。  あれは父の声だろうが、シュレーの知らない言葉で話している。  それを聞いているのは、母だろう。  父がだめだというので、仕切りの向こう側に入ったことはないが、あっちにいるのは母だけだ。  シュレーは乾いた頬を自分の膝に乗せ、眠気で重たくなった瞼でゆっくりと瞬きをした。  石を円陣に組んだだけの炉のうえに、熱気でかげろうが立っている。何とはなしに息苦しいような気がした。  炭火を使うときに、天幕を締めきりすぎると良くない。  ひとりで暖まって怠けていると、父がこちらに戻ってきた時に、叱られるかもしれない。  それに、おもてに残してきた用事もある……。  伏せかけた目をのろりと開き、シュレーはうずくまっていた姿勢を解いて、天幕の入り口まで這い進んだ。  入り口の覆いをめくってみると、外には凍るような風が吹いている。満天の星があるだけで、月は細くなって消えている。  おもてに顔を出して息をはくと、白く凍る。  吸いこんだ夜気が、ちくちくと肺を刺す。  寒いな。  白くけむる自分の息を三つ数えてから、シュレーは思いきって外に出た。  星明りに目が慣れるにつれ、なだらかな荒れ地に、似たような色の毛をした山羊が何頭もうずくまっているのが見えはじめる。  耳をすましてみると、か細い鳴き声が聞こえた。  声をたよりに、霜のおりた土を踏みしめてさ迷ううちに、うずくまる雌山羊の脚の間に、よたよたと頼りない仔山羊が生まれているのを見つけた。  ここ2、3日、そろそろ産みそうだと目星をつけていたやつだ。  産まれたら、木枯らしに吹かれて凍死しないように、天幕に連れて帰って拭いてやるよう、父から言いつけられていたのだ。  仔山羊の長い毛は、羊水に濡れてべったりと情けなく張りついている。触れてみると、すでにいくらか冷え始めている。  シュレーが仔山羊を抱え上げると、母山羊がうらめしそうに不安げな目をむけて、めええと短く鳴いた。  ぶるぶる震えている仔山羊を抱えて、シュレーは急ぎ足に天幕へ戻る道筋をたどった。  天幕のあたりは、炉の明かりが漏れ出ていて、ぼんやりと明るい。  生まれたての仔山羊とはいえ、抱えて運ぶには大きく感じられる。  落とさないように苦労しながら、シュレーは背中で天幕の入り口の覆い布を押し開け、中に入った。  すると、どすんと背中が何かにぶつかった。  驚いて見上げると、父の緑色の目と視線が合った。  寒風に荒れて強張ってはいるが、父の顔は他の山羊飼いの男たちのように髭も生えなければ、厳つくもない。  お前の親父は女のできそこないだと、山羊飼いたちはいつも、シュレーを馬鹿にした。  父はそう言われてもいつも平然と無言でいるが、シュレーは愉快でなかった。なにか、胸がすっとするようなことを、言い返してみてほしかった。 「シュレー、やっと生まれたか」  父は、シュレーが抱えている仔山羊をひょいと片手で取り上げ、天幕のすみに積み上げてあった、蔓草で編んだやわらかな敷物のうえにぽとりと落とした。  奥まったところの籠のなかに集めてあった干草を一抱え、急いで取りにいき、シュレーは父の隣に戻ってきて、濡れそぼって震えている仔山羊を拭きにかかった。  小さな体は、炉のそばにいても、まだ震えている。 「冷えている」  怒っているのかどうだか、よくわからない平べったい口調で、父がつぶやいた。  山羊の仔が冷えていると言っているのだろう。もっと早く取りにいってやらなくてはだめだと。 「ごめんなさい」  かすれた声を絞り出して謝ってみたが、父はシュレーの声が聞こえないのか、ぼんやりと無視したままだ。  所在なくなって、シュレーは仕方なく、念入りに仔山羊を拭き続けた。体が乾くと、仔山羊のふるえはおさまった。 「今夜はそれを抱いて寝ろ」  ぽつりと命じて、父は立ちあがった。  シュレーはあわてて頷いて、自分の膝のうえに仔山羊を抱き上げた。ほんのりと温かい。  炉の具合を軽く確かめてから、父はまた、仕切りの向こう側に戻ろうとしている。  父の腕で軽く持ち上げられた幕の向こう側は、やはりぽっかりと闇に落ちこんでいる。そのなかに一瞬だけ、白っぽい布にくるまった誰かの脚が動くのが見えた。  シュレーの心臓がどきりとはねた。あれは母だろう。  母はシュレーを産んだせいで病気になって、それからずっと、ああして横になっているのだ。  弱った母を労って、父は夜にはいつも傍についている。  冬枯れで食べ物が乏しくなっても、母にだけは日に二度、その時々でいちばんいいものを食べさせる。  空きっ腹を抱えていても、父はシュレーには構ってくれない。  川の凍りつく真冬でも、母に飲ませる白湯を沸かすため、氷を割ってこいと言いつけるだけだ。  シュレーには、煤けた一枚の布で世界がまっぷたつに分けられているような気がした。  幸せは、ぜんぶ向こう側に取り分けられ、こちら側には、しみったれた骨や屑ばかりが投げてよこされる。父にとって自分は、その屑肉をあさって生きている余計者のように見えているのではないか。  父が腕を下ろし、幕が暗闇を隠すのを見送りながら、シュレーはそんなことを思った。  膝の上で、仔山羊がまどろみ始めている。  折れそうに華奢な脚を折りたたみ、長いまつげを伏せている。  お前はいいなと、シュレーは内心で悪態をついた。  野っ原で凍えないように、心を砕いてくれる者がいる。  自分も山羊に生まれれば良かった。  誰にともなくそう願ってから、シュレーは仔山羊といっしょに炉のそばに丸くなって、粗末な夜具をかぶった。  とろとろと暖かい炉辺の寝入りばな、シュレーはぼんやりと思い直した。  くすくすと炭火のおこる音がする。  自分は、山羊になりたいわけじゃなく。  あの、たった一枚の幕の、向こう側で眠りたいだけなのだ。  世界の幸福な、もう半分のほうで。 ----------------------------------------------------------------------- 「北辺の狼」(2) -----------------------------------------------------------------------  大人達は鼻をつき合わせて、雪の降り始める日のことを話していた。  北辺の地の冬は着実な足取りでやってくる。大地が凍り付いて、山羊たちが食べる草が見あたらなくなる前に、もっと南へと移動を始めなければならない。  天幕を畳み、山羊を連れての大移動となれば、それだけでも大変なことだったが、南下する旅には別の危険がつきものだった。山羊飼いの部族は南に定住する別の部族と領境を接しており、その境界線はいつも曖昧だった。南下しすぎたと難癖をつけられれば、武器をとっての小競り合いから、流血の惨事となる事もありえる。  それを恐れて、大人達は寒風の吹きすさぶこの地の暮らしにくさを堪えていた。  シュレーにはその気持ちが分からなかった。  族長の炉辺を囲んでの祭りの日には、老人たちは代わる代わる、古代の勲(いさおし)を語り、槍をとって戦った先祖の勇猛さをほめたたえるというのに、なぜ今はそうしないのか。南に待ちかまえているのが、どんな悪どい部族かは知らないが、古ぼけた先祖の槍を後生大事に磨き続けているなら、それを使って相手を蹴散らしてしまえばいい。  山羊飼いたちは息子に木製の槍を与えはしたが、それはもっぱら牧童の杖として使われるばかりだった。おそらく、髭をたくわえた大人達も、大酒を飲んだ口で言うほどには、うまく槍を使えないに違いない。そうに決まっている。  放牧に出るための準備を整えて、長い杖を携えやってきた父と、輪になって話し合っている山羊飼いの部族の者たちを、恨めしく見比べながら、シュレーはそう決めつけた。  背は低いが、がっしりとした肉を体にたくわえている山羊飼いたちは、それぞれの手に見事な装飾を施した槍を持っている。それに比べて父は、ひょろりと背が高く、女よりも色白で、携えているのは槍ではなく、ただの木の棒だ。この地に先祖のいない流れ者だから、先祖伝来の槍がないのは仕方がないが、それらしいものを自分で作ったってかまわないだろうに。 「シュレー」  父が振り向いて、呼びつけた。  シュレーは走っていって、朝日に照らされている父の顔を見上げた。 「仔山羊を抱いていってやれ」  父の言いつけに、シュレーは黙ってうなずき、母山羊の周りをうろうろしている華奢な仔山羊を連れにいった。 「よう、白いの。美人の母ちゃん生きてるか」  放牧についていくらしい、山羊飼いの息子達が数人、いつものようにシュレーをからかいにきた。父はシュレーに、彼らと遊ぶことを禁じはしなかったが、毛色の違いをねたにして、いつもからかわれるので、シュレーは彼らにうんざりしていた。 「俺んちの母ちゃんが言ってたぜ。お前の母ちゃんはもうとっくに死んでんじゃねえかって」 「お前が父ちゃんだと思ってるあいつが、ほんとは母ちゃんなんじゃねえか?」  むっとして、シュレーは仔山羊を抱き上げながら、悪童たちを睨み付けた。彼らが、シュレーの母が天幕の中に本当にいるのかどうか、興味を持つのは仕方のないことのように思えた。母は病のせいで一歩も外へ出られないし、シュレーですらまともに姿を見たことがない。父が、もうひとりぶんの分け前をもらうために、母の死を隠しているのではないかと悪い噂をする者もいた。  シュレーが腹が立つのは、彼らが悪口を言うからでなく、父が抗弁しないせいで、自分までこうしてからかわれることだ。 「母ちゃんは病気だけど生きてるし、あれは俺の父ちゃんだ」  仔山羊を抱きしめて、シュレーはなるだけ凄んでみせた。しかし悪童たちは笑うばかりだ。 「槍も持ってないやつは男じゃねえって、俺の父ちゃんが言ってたぞ」  笑う悪童たちは、自分たちのおもちゃの槍をひけらかしている。なんだそんなもん、ただのおもちゃだと内心悪態をつきながら、シュレーは彼らがうらやましかった。 「お前の槍はどうしたよ。天幕に忘れてきたのかよ」 「母ちゃんに持ってきてもらえよ!」  出発をつげる角笛の音が草原に鳴り響いた。悪童たちは笑いながら走り出した。  大人達は山羊の群れを追って、ゆるゆると移動しはじめる。  しんがりを務めるのが、いつもの父の役目だった。群れに追いついてくる父を待って、シュレーは仔山羊を抱きしめたまま、なんとか胸中の苛立ちにけりをつけようとした。  父は彼らと遊ぶことは禁じはしなかったが、彼らと争うことを禁じていたからだ。  立ちつくしているシュレーの背を、山羊を追ってきた父の杖が、歩けというように軽く小突いた。嫌々ついて歩きながら、シュレーは何度かためらい、意をけっして言った。 「父ちゃん、俺も自分の槍がほしい」  父はシュレーにしたのと同じように、歩くのをなまける山羊の尻を杖で軽く小突きながら、ゆるゆると進んでいた。まるでなにも聞いていないように、父はただ前だけを見渡していたが、シュレーには父がちゃんと聞いていることが分かっていた。父はただ、返事をするのを忘れるだけだ。 「父ちゃん、俺にも槍がいるよ。もう6つだし、男だから!」  シュレーにとって、父に向かって駄々をこねるのは、勇気がいった。わがままを言ったところで無駄なことが、シュレーのうちには多すぎた。父が槍を持っていないのは、穂先に使う鉄を買う資力がないからだ。だが、父がシュレーに槍を与えないことの理由は、まだ聞いていない。だめだと言われたら、シュレーは逆らわないつもりだった。父がだめだというなら、だめなのだ。 「おまえはもう6歳なのか?」  しばらくの沈黙ののち、父はシュレーがびっくりするような事を答えてきた。父は息子が何歳かも知らなかったらしい。 「そうだよ、俺もう6歳なんだよ」  普通ならもう最初の槍をもらうような年頃なのだ。その部分を言外に強調して、シュレーは答えた。山羊飼いの部族の子供たちは、6歳になれば木製の槍をもらって、父親に習い、武術のまねごとを始める。自分もそういう年なのだということを、父に理解してもらわねば。 「シュレー、おまえはこの辺りの部族の者より長生きする種族だ」  父の言わんとする話の先行きが見えず、シュレーはただ、父の無表情な緑色の目を見上げた。 「……そうなの?」 「ここの者たちは長く生きても30年、6歳ともなれば大人の一歩手前だが、お前はその倍の60年は生きられる。場合によっては、もっともっと長生きするだろう」 「だから?」 「私の部族では、男子の元服は12歳だった。お前が自分の武器を手にするのは、もっと先のほうがいい」  シュレーはあんぐりとした。父がこんなに長く喋るのを聞いて驚いたこともあるが、なんだか煙に巻かれたような気もしていた。自分があとどれくらい生きるかなんて、考えたこともなかったし、お前は長生きするのだから、もうしばらく子供でいろと言われても、ちっとも納得がいかない。金がないから買えないとか、忙しいから後にしろと言われたほうが、シュレーには我慢がしやすかった。 「武器じゃないよ。ただのおもちゃだよ。槍がだめなら杖でもいいんだよ、父ちゃんが持ってるみたいな」  シュレーはなんだか自分が泣きそうな気がして、できるだけ早口の小声でぶつぶつ言ってみた。 「お前には使いこなせない」 「そんなことない、ほかのやつらみたいに練習すれば」  言いつのろうとするシュレーの額を、父の持っていた杖がごつんと叩いた。それは予想していなかっただけに手痛く、シュレーは抱きかかえていた仔山羊をなんとか取り落とさないようにするのが精一杯で、そのふわふわの毛に額を押しつけてうずくまった。 「いてえ……」  半べそを押し隠して呻くと、父が歩けというように、うずくまっていたシュレーの尻を杖の先で小突いた。 「どうしてよけなかったんだ」 「あんなに急に叩かれたら、よけられっこないよ!」  しかたなく歩きながら、シュレーは自分の額が腫れて痛むのを感じた。たんこぶでもできているかもしれない。かっこわるい。父を恨みながら走って追いつくと、父はそんなシュレーを見下ろして、説いて聞かせるように言った。 「よけられなければ、お前は死ぬ。それが武器を持って生きるものの運命だ」  父の口調は物静かだったが、語られた言葉にシュレーの血は騒いだ。そんなふうな生き方は、男らしくてかっこいいじゃないか。少なくともここで、山羊の尻を追っかけているよりは、ずっと。 「シュレー、槍などお前には必要ない」  父はそう言い置いて、群れから外れて道草を食おうとする一頭の山羊を連れ戻すために、シュレーのそばから離れていった。  山羊の群れの先のほうで、与えられた槍を使って戦争ごっこをしている悪童たちの姿が見えた。シュレーはうらやましく彼らを見つめた。あんなのろまな連中より、きっと自分のほうが、もっと上手く槍を使いこなせるのに。  自分の槍をもらって、強くなって、あいつらみんな叩きのめしてやれたら、きっと気分がいいだろう。物語の英雄みたいに。  シュレーは長いため息をついた。  父は必要ないと言った。だめだということだ。  父がだめだと言えば、もう押しても引いても無駄だということを、シュレーはよく理解していた。 ----------------------------------------------------------------------- 「北辺の狼」(3) -----------------------------------------------------------------------  昼飯の固いチーズをかじっていたとき、なにか嫌な予感がした。それは臭いだった。  嗅ぎ慣れた山羊たちの臭いや、チーズの臭いとは別の、つんと鼻を突くすえた臭いが、どこかからしたような気がした。  シュレーが鼻をひくつかせて確かめようとすると、気まぐれな風向きはもう変わっており、あたりには何事もなかった。  草原に突き出た岩の上に、シュレーは立ち上がり、岩だらけの平原を見渡してみた。  弁当を食い終わった悪童たちは、もう槍合戦で転げ回っており、大人たちは煙管を取り出して、のんびりと煙草をふかしている。  草をはむ山羊の群れの向こう側に、父が立っている背中が見えた。長い杖をまっすぐに地面に立てて、父は群れとは逆のほうを見つめている。  なんだか胸騒ぎがした。  いますぐ父の足元に走っていきたいような臆病心が、シュレーの胸の奥で頭をもたげている。  シュレーは不安になり、仔山羊がどこにいったか、あたりを目で探した。腹を空かせて泣いたので、母親のところに乳を飲ませにいかせたのだ。  槍合戦のすぐそばで、仔山羊はのんびりと母親の乳を飲んでいた。いつもなら、からかわれると知っていて、自分から悪童どものいるほうへ近づきたくはなかったが、シュレーは何かに背中をおされるような思いで、岩から飛び降りた。  仔山羊は無事に成長したらシュレーのうちの最初の山羊として、もらえる約束になっていた。父はその仔山羊をシュレーのものにしていいと言ってくれていた。運良く雌の山羊だったし、成長すれば沢山の仔山羊を生むかもしれない。槍合戦のとばっちりで怪我でもして、それがもとで死にでもしたら大損だ。  シュレーはそう言い聞かせて、自分を急かした。  なんだろう。  いくら、ふざけた連中とはいっても、山羊飼いの部族の者は生活の糧である山羊を傷つけたりはしない。  自分はなにを焦っているんだろう。  すぐ横を走り抜けていくシュレーを、悪童たちはぽかんと不思議そうに見送っている。  母山羊のそばを離れたくない仔山羊は、シュレーが抱き上げると、足をばたつかせ、めええと抗議の声をあげた。母山羊も、おどしつけるような顔をして、シュレーを追い返そうとする。  山羊の親子に腹をぐいぐいやられながら、シュレーは数歩さきにある白い岩かげをじっと見つめた。そこから目が離せなかった。  そして、ふと、自分たちが風上に立っていることに、気付いた。  めええ、と仔山羊の声がうるさく聞こえている。 「どうしたんだよ、白いの」 「なにかいる」  からかう風を装って、声をかけてきた悪童たちに、シュレーは小声で答え、岩陰を指さした。 「なにがいるんだよ」 「わかんないけど……なにかがこっちを見てる」  仔山羊を抱きしめたまま、シュレーは後ずさった。このまま父のいる場所まで走っていこうと思った。そうすれば、父がなんとかしてくれる。 「なんにもいねえよ! 槍無しの臆病ものめ。俺が見てきてやる」  木の槍をふりあげて、年かさの一人が岩のほうへ歩き始めた。 「よせよ」  シュレーは思わず叫んでいた。  それが武器を持って生きるものの運命だ。父の声がきゅうに頭の中でよみがえった。よけられなければ死ぬ。それが武器を持って生きるものの……。  悪童が槍をふりかざし、芝居がかった動きで岩にとびのった瞬間、その向こう側から、白い毛皮をまとった四つ足のなにかが、ぬっと姿をあらわした。  風向きが変わって、すえた臭いがシュレーの鼻をついた。  黄金の目で獲物を狙っている。この獣は、そうだ確か。狼と、呼ばれていた。 「……狼だ」  槍を構えた子供は、まるで伝説の絵のなかの人物のように、間近に巨大な狼と見つめ合っていた。山羊たちは恐怖の臭いに脳をやられ、その場に凍り付いたように動かない。その場の誰もが静止していた。  めええ、と突然、シュレーの腕の中で仔山羊が鳴いた。  その瞬間、白い狼は槍をもった子供を蹴倒し、シュレーをめがけて飛びかかってきた。  悪童たちは悲鳴をあげ、あたりにいた山羊たちは、呪縛をとかれたように走り出した。  シュレーも悲鳴をあげたかったが、それはなぜか声にならなかった。代わりに悲鳴をあげつづける仔山羊を抱いて、シュレーは父親のいるほうへ、必死で走った。  自分がこれほど速く走れると、シュレーは知らなかった。暴走する山羊をかいくぐって、父のいる群れの反対側へ、ひたすら走り続ける。  仔山羊を投げ捨てて、自分だけ助かろうかという思いつきが、ふと脳裏をかすめた。でも、もし狼が追っているのが仔山羊でなく、自分のほうだったら?  こらえきれずに振り向いたとき、シュレーはすぐ後ろで白狼のうなり声をきき、地面に足をとられて草原に体を投げ出された。  もうだめだと悟った瞬間、シュレーはまるくなって仔山羊をかばうように抱きかかえていた。そうして狼の牙が自分の背を襲うのを覚悟したが、代わりに聞こえたのは、ギャンと甲高く響く狼の悲鳴だった。 「シュレー、そこを動くな」  顔をあげると、杖を中段にかまえた父の背中が、自分と狼の間に立ちはだかっていた。  狼の金色の目は、片方が真っ赤につぶれて、流れ出た血が白い毛並みを毒々しい赤に濡らしている。父がやったのだということに、シュレーはなかなか気付けなかった。  狼は姿勢を低くして唸りながら、じっと父と見つめ合っていた。激怒した獣と見つめ合う父の緑の目は、いつもと変わらない無表情だ。  めええ、と仔山羊が母親を呼ぶか細い声をあげた。  それを抱きしめて、シュレーは今やっと、悲鳴をあげた。 「父ちゃん助けて」  戦いは一瞬で終わった。  狼がとびかかり、父は長杖で、その大きく開いた喉を突き貫いて地面に縫い止めた。  まるで舞踏のような、あざやかで無駄のない動きだった。  狼は白い毛皮をふるわせ、開いた口から大量の血泡をふいたが、獣の悲鳴は、最後まで聞こえなかった。  父は、獣の体に死の痙攣が走るのをじっと見つめ、それが動かなくなってからやっと、シュレーのほうを振り向いた。 「シュレー、お前は逃げ足が速いな」  シュレーは、父は怒っているのだと思った。逃げるなんて男らしくないと。  なにか言おうとして口を開いたが、シュレーの口をついて出たのは嗚咽だけだった。  かばっていた仔山羊にすがりつくようにして、シュレーは泣き声をあげた。 「泣くな、シュレー」  仔山羊ごと、父はシュレーを抱え上げた。叱られるのだと思って、シュレーは何度か、ごめんなさいと言ってみたが、嗚咽がひどくて、自分でもなにを言っているのか良く分からないような有様だった。  それを見上げる父の目が笑っていた。笑っている父を、シュレーは初めて見たような気がした。  めええ、と、また仔山羊が鳴きはじめた。  山羊飼いの部族の者たちが、狼の死骸を見に集まってきた。  額に脂汗の光る大人たちの顔は、意外なものを見る目で、父を見つめている。 「あんたがこんな手練れだったなんて」  シュレーを肩車して、父は驚く人々を見つめ返した。 「まぐれだよ。息子が食われかければ、狼ぐらい殺せる。そういうものだろ」  父はそう答えて、あたりに逃げ散らばった山羊を追い戻しはじめた。  最後の一頭を父が数え終わるまで、シュレーは父の金髪の頭にしがみついていた。  父ちゃんは背が高いな。俺も大人になったら、こんなふうになるのかな。シュレーは父を誇りに思った。そして、今までもずっと、内心では父を自慢に思っていた自分に気付いた。  自分はただ、父が英雄だということを、皆にも知ってほしかっただけだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「北辺の狼」(4) -----------------------------------------------------------------------  白狼の毛皮は、父の手によって綺麗になめされ、その冬の寒さから病身の母を守るための布団になった。余った毛皮はシュレーに与えられ、白い襟巻きになって、悪童どもから一目おかれることになった。  父のことを、女のようだとからかう者は、一人もいなくなった。  代わりに肉を持って、息子に槍を仕込んで欲しいと頼みに来る者まであらわれた。  しかし父はそれらを丁重に断り、族長が与えようとした本物の槍も、辞退してしまった。  シュレーは、それを悔しいとは、もう思わなかった。  父は槍がなくても杖で狼を倒したし、杖がなければ素手で戦っただろう。  しかし食い損ねた焼き肉の味は、夢にまで現れてシュレーを苦しめた。  長い冬は、空きっ腹をなだめることに忙しく、結果的に命がけで救った仔山羊でさえ、ときどき、こいつは焼いたら美味いのかということが気になってしかたがなかった。  父がとつぜん差し出すまで、槍がほしいとねだったことは、実はすっかり忘れていたのだ。  朝、出かけるまえに、父はシュレーの顔の前に、一本の見覚えのある棒きれを差し出した。槍らしい形はなく、どちらかというと、ただの牧童の杖だったが、柄には簡単な彫刻が施されており、なにより木肌に残る傷跡には覚えがあった。いつも父が持っていた、あの長杖のものだ。 「これ……どうしたの」  どうしたのかは想像がついたが、シュレーは思わず訊ねた。予想通り、父はなにも答えず、ただシュレーの手に杖を握らせた。父はあの長杖を半分に断ち折って、自分に与えたのだ。 「シュレー」  白狼を倒した武器をゆずりうけた気分は爽快だった。シュレーは自分が無敵になったような気がして、嬉しさに輝かせた目で、自分を呼んだ父を見上げた。 「お前は、仔山羊を守った。この杖はその褒美だ」  父が自分に槍を与えたわけではないことに、シュレーは思わず表情を曇らせた。 「槍を教えてくれるんじゃないの?」 「シュレー、戦っていたら、お前は死んでいた」  渡された棒きれを見下ろして、シュレーはじっと考えた。  確かに父が言うように、戦っていたら自分は狼に殺されていただろう。戦うどころか、逃げるだけで精一杯だった。よく逃げ切れたと思う。自分は幸運だったのだ。 「俺が戦えるようになったら、槍を教えてくれる?」  いつかは自分だって、父が納得するような大人になるだろう。そのときには狼を仕留めた父の業を、受け継いだっていいはずだ。みんながそうするように。シュレーは純粋にそう信じて、父にたのんだ。 「おい、白いの。来いよ、来いよ」  天幕の外から、悪童どもが自分を呼ぶ声がした。シュレーは天幕の入り口のほうへ目を向けた。 「いいものが見えるぞ、見に来いよ」  父は、行ってこいと言うように頷いてみせた。  シュレーは頷き返し、白狼の毛皮を首に巻き付けて、凍るように寒い冬の外気のなかへ飛び出していった。  木製の槍を持った子供らは、シュレーに手招きしながら、南のほうを指さしている。 「寒い寒い」  シュレーは凍えながら、父にもらった杖をしっかりと両手で握りしめた。 「なんだそれ、槍もらったのか」 「父ちゃんの杖、半分もらったんだ」  自慢げに差し出すと、悪童たちは興奮してぴょんぴょん飛び跳ねた。 「すげえ! 狼の血がついてるか?」  杖をためつすがめつして眺め回す喧嘩友達と、シュレーは少し気恥ずかしい気分で押し合いへし合いした。そうすると少し暖かかった。  すっかり杖に夢中になっている連中から、頭ひとつ起こして、シュレーは彼らが何を見ろと言っていたのかを確かめようとした。  南の地平線は、うっすらと起伏のある山並みとなって霞み、少し灰色がかった冬の空が、重たげにその上を覆っている。今日に限って、雲ひとつ無く晴れ渡った空に、ぼうっと白いものがそびえ立って見えた。それは山にしては、あまりに鋭く、槍を束ねて立てておいたような形をしている。 「あれなに?」  初めて見る風景に、シュレーは心を奪われた。遠くにゆらめいている白い影は、炉辺のお伽話に出てくる魔法の国の入り口のようだった。 「あれ、蜃気楼っていうんだぜ」 「遠くにあるお城が見えてんだって」  子供たちは背伸びをして、遠く地平線のうえに浮かんでいるように見える蜃気楼を、並んで見つめた。 「きれいだなあ」  自分たちの白い息にも隠れてしまう、ぼんやりとした城の輪郭を、シュレーは目を細めて眺めた。その城は本当に美しく、輝いて見えた。 「聖桜城(せいろうじょう)っていう、ありがたいお城なんだって、ばあちゃんが言ってた」 「天使が住んでんだぜ」  寒さをやりすごすために足踏みしながら、年かさのひとりが言った。狼にやられて抜けた腕を、まだ包帯で吊っている。 「天使ってなに?」  シュレーが聞くと、みんなぽかんとして、それから笑った。 「おまえ馬鹿じゃねえの。なんも知らねえのな。俺んちこいよ。ばあちゃんに話してもらえ」  シュレーは頷いた。誰かのうちの暖かい天幕に引っ込めるなら、それほどいいことはない。運がよければ、乳をいれた温かい茶の一杯にもありつける。放牧へいく山羊の群れのように、子供たちは肩の擦れ合う近さで草原を走り抜け、竈(かまど)からの煙があがる天幕を目指した。  走りながら、シュレーはもういちど南の空を振り返ってみた。冬の日の寒気が生み出した蜃気楼は、ゆらゆらと夢の中の景色のように不確かに、純白の城の幻影を、うす青い空に描き出していた。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「贖 罪」(前編) ----------------------------------------------------------------------- 「慈悲を垂れる甲斐もあるまい」  静まり返った広間で、その声は、極めてひそやかにシュレーの耳に届いた。竜の舌が耳朶を舐めていくような気配とともに。  シュレーは正神殿の最奥の部屋に集められた高位の神官たちを、ゆっくりと順に見渡した。  誰もが眩いほどの白い衣装に身を包み、白金の杖を携えて広間の中心に向かい、いびつな環を作って佇んでいる。神官たちの顔ぶれは、高位の神官職を叙任され、自分の生来の名とは別の、神話の天使の名で呼ばれる者ばかりだ。シュレーを入れて28人。すでに見慣れた光景だった。  その場にいる誰もが、沈黙のまま、広間の上座にいる音無き声の主に視線を向けている。  円陣の中でも、とりわけ背の高い1人が言葉の紡ぎ手だった。その、まだ若く、堂々とした体躯の神官の名は、星々の声聞く者、ノルティエ・デュアスという。  ノルティエ・デュアスは、微かに満足げな表情で、一堂を見まわしていた。遠目にも、ノルティエ・デュアスの鋭い灰色の目が、並々ならぬ自信に満ち溢れているのがわかる。  それもそのはずだ。まだ若年とはいっても、ノルティエ・デュアスは神殿種の28人の天使たちの、「長兄」だと言い伝えられる天使であり、その転生体である「彼」は、この場の最高権力者なのだ。  天使たちには官職上の上下関係はないが、暗黙のうちに、個人どうしの間での序列があった。そういう視点で眺めると、ノルティエ・デュアスは自分以外の天使たちをほぼ完全に服従させていると言ってよかった。その事実が、彼を、次期大神官候補のひとりと目される地位に押し上げているのだ。  自分の言葉に反論する者が誰もいないのを確認してから、ノルティエ・デュアスは末席に立つシュレーと視線を合わせてきた。シュレーはそれに気づき、微かに片眉をあげた。いやな気分だった。 「東南部の争乱はすでに数十年に及びつつある」  ノルティエ・デュアスは珍しく、喉から発せられる本物の声で話している。シュレーから目をそらすことなく、淡々と説明する声には、広間にいる他の誰でもない、シュレーだけに何かを伝えようとするような、挑戦的な色合いがある。 「かの地の気象条件と、長年の食料事情を鑑みるに、争乱のもとは人口問題にすぎぬ。事態の解決は容易である。競合するうちの一部族を滅亡させて、均衡を復旧させればよい。根本の問題が消えうせ、腹が満ちれば、下民どもも愚かに争い騒ぐのをやめるだろう」  シュレーには、こちらを見たまま言い置いたノルティエ・デュアスが、にやりと笑ったような気がした。 「ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」  シュレーが伏目がちになって目をそらすと、ノルティエ・デュアスの声が追ってきた。 「そう思うだろう」  ノルティエ・デュアスの優しげな猫なで声を聞き、シュレーは視線をあげた。 「どの部族を滅ぼす予定か、お聞かせ願いたいものです、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス。紛争に関っているのは、当程度の規模の地方小王国にすぎない。人口といっても、どれも同じようなものです」  無表情に、シュレーは応えた。ノルティエ・デュアスが目を細める。 「現地から、はるばる、正神殿に嘆願に来ていた者たちがいるそうだ……その者と会ったのではないか、ブラン・アムリネス」  杖を自分の肩に預け、ノルティエ・デュアスは面白そうにシュレーを見た。 「カスガル族の首長は長年神殿に尽くしてきた、信仰篤い者とのことだったので、会いました。紛争での敵対部族の暴虐を嘆いており、神殿からの助力と慈悲を……」 「古い部族だ。それでよかろう」  シュレーの言葉が終わるのを待たずに、ノルティエ・デュアスは言い捨てた。 「……それ、とは?」  儀礼的に問い返したものの、シュレーはノルティエ・デュアスが、あえて問いかけるまでもなく、嘆願の事実を知っているのだろうと思った。ノルティエ・デュアスは神殿で起こる出来事に神経質であり、耳が早い。なんにでも聞き耳をたてている。 「滅ぼすのは、その部族でよい。もう、じゅうぶん生きたであろう。新たな血に土地を明け渡させよ」  ノルティエ・デュアスは微笑んだ。シュレーは驚かなかった。  ノルティエ・デュアスは、普段から、シュレーを眼の仇にしている天使の1人だ。かの部族がブラン・アムリネスに慈悲を求めたことが、面白くなかったのだろう。 「次の月が満ちるまでには、呪いを差し向けるよう、手はずを整えよう。平和の教えに跪かぬ部族は、呪いによって、ことごとく滅ぼし尽くす。生き長らえた部族のものたちも、神聖神殿の教えに従わず、争いつづけるというなら、時を置かずに同じ死の呪いを与えると告げ知らさせよう。それで連中も大人しくなるだろう。我々はいま、エルフどもの和平について協議中であり、辺境の小王国などには長くかかずらわっておれん」  ノルティエ・デュアスは珍しく、重苦しいため息をついた。  大陸南部の大部族、エルフ四部族を調停するのは、大神官から、ノルティエ・デュアスに与えられた仕事だった。  忌々しげに言うからには、調停がうまく進んでいないのだろうとシュレーは思った。  ノルティエ・デュアスが大神官の機嫌をそこね、調停に必要な命令書に言質がとれないという噂が聞こえていたから、おそらく、そのあたりが不機嫌の種なのだろう。 「残念だが、ブラン・アムリネス、大神官台下に泣き付いても無駄だ。あくまで下民どもに慈悲を垂れたくば、以前の様に、自分の命で間に合わせるがいい」  ノルティエ・デュアスは翼の意匠で飾られた杖を掲げ、軽く天井を仰いで左胸を覆う仕草をした。神殿の壁画にある、瀕死のブラン・アムリネスの絵姿を真似ているのだろう。  広間に天使達の忍び笑いがもれた。滅多に声を立てることもない連中が、わざわざ声をたてて笑うとは、わざとそうしているとしか思えない。ノルティエ・デュアスへのご機嫌取りとは、ご苦労なことだ。 「……そのような愚かなことは二度とは繰り返さないでしょう」  シュレーは笑いさざめく白い群れを見渡し、微笑みながら応えた。 「弟よ」  ため息とともに、ノルティエ・デュアスは芝居かがった口調で言った。  神殿の者たちは、自分より年下もの者を弟、年上の者を兄と呼ぶ慣習を持っていた。だが、シュレーは目の前にいる連中に、肉親としての情を感じた事は一度もない。おそらく、ノルティエ・デュアスも、他の天使たちもそうだろう。シュレーを肉親だと認めたことなど、ほんの一度もありはしない。 「慈悲が勝ちすぎるのは、お前のためにならない。下民どもにあまりに情けをかけると、皆、お前の濁った血のことを思い出す……」  ノルティエ・デュアスが言うと、居並ぶ天使たちが囁き交わす羽音が、あちこちから溢れ出るように聞こえはじめた。  シュレーは心の耳を閉ざした。なにも考えず、心をかたく閉じていれば、悪意にみちた囁き声も遠くの出来事のように感じられる。 「次の転生までの辛抱だ、哀れなブラン・アムリネス。下賎の血で汚された女の胎(はら)から生まれたのも、次の世のための試練と思え。我が身を嘆くあまり、自ら命を絶つことなど考えるな。お前の今生が一日も早く終わることを、皆で祈ってやろう」 「ご親切に、兄上方……ご心配いただかずとも、神聖なる血に恵まれぬこの体の寿命は、そう長くはありますまい」  顔を上げ、胸を張ったまま、シュレーは淡々と応えた。 「それが、お前の運命の唯一の救いだ」  ノルティエ・デュアスは頷き、広間の天使達を見まわした。誰もが納得したように頷き交わしていた。  神殿種は代々長命の種族である。シュレーが血をうけたエルフたちも、大陸のなかでは比較的長命な種ではあるが、百年以上も生き続ける神殿種には及ばない。混血の神殿種がどれほどの寿命を生きるのかについては、何一つ記録がない。そのようなことは起こり得ないというのが建前だからだ。  たとえ、神殿種の女が混血児を生んでも、その子は生まれてすぐに闇に葬られる。つまり、神殿の外で生まれた自分は、他の混血児よりも格段に運がよかったのだ。  そう思うと、なぜかとても可笑しく、シュレーは静かに笑いを噛み殺した。軽くうつむいて微笑みがちでいるシュレーの態度を、天使達は恭順の姿勢と受け取り、満足したようだった。  それすら、いつもの事だ。  神殿での暮らしに慣れるにつれ、シュレーは、その場には関りのないことに気がそれることが多くなってきた。  気をそらせて、こみ上げる怒りをやり過ごしている。もともとは、それが始まりのはずだが、今ではただ無気力なだけのようにも思えた。いちいち腹をたてるのが面倒くさい。  今の自分は、煮えたぎる憎悪の淵に、無気力という名の薄い濡れ紙一枚で蓋をして、その上に立っているようなものだと思った。ふとした気の迷いで、足もとの紙を踏みぬけば、吹き上げる怒りで我を忘れるだろう。  自分の手に、この天使たちの命を奪うための武器があり、それが許されるなら、一人残らず息の根を止めてやりたい。まずは、あの、ノルティエ・デュアスからだ。 「次の議案を……」  話題を変えようとしているノルティエ・デュアスを遠目に見つめて、シュレーは件の天使が、自分を呪いながら息絶える様を想像してみた。  ……気持ちがいい。  シュレーは、そう思っている自分が空恐ろしかった。  その後、いくつかの議題が話し合われ、天使達の会議は終わった。  誰からとも無く、天使たちは広間を出て行った。ひそひそと囁き交わす、言葉ではない何かが、耳の奥に触れては流れ去っていくのが感じられる。人々が聖楼城(せいろうじょう)と呼ぶ、この正神殿には、つねに、神殿種たちが囁き合う静かな気配が満ちている。  気を引き締めて、心を閉じていないと、翼は飛び交う声を無制限に拾い集めてしまう。神殿種の証でもある、背中の翼は、なにかと便利なものでもあるが、制御するのには骨の折れる代物だ。  生まれた時からの付き合いである、この寄生生物に手を焼いているのは、どうやらシュレーだけのようだった。純血の神殿種たちは、翼を手なずける苦労というものと無縁らしい。これも、血の薄い自分ならではのことだろう。  シュレーは広間の天井を見上げた。本物の空かと錯覚するほどの高さに、星空を模した天井画が描かれた丸天井が見える。月明かりで青ざめた群雲(むらくも)の合間に、白く輝く星々が瞬いている。  それは、ただの絵であるはずだが、ほんとうに瞬いているように見えた。  シュレーが生まれるはるか以前から、この広間を飾っていた絵だというが、どうやって描かれたのか、見当もつかない。いつ見ても、不思議なものだ。  シュレーは謎めいた天井画を、ぼんやりと見上げた。そこはかとなく気だるい。 「野育ちのお前には、夜空が懐かしかろう」  呼びかけられて、我に返り、シュレーは広間に目を戻した。灯りの落ちかけた広間には、誰もおらず、戸口に立っているノルティエ・デュアスがこちらを見ているだけだった。  白羽の杖を肩に凭せ掛け、ゆるく腕組みした姿で、ノルティエ・デュアスは黄金で飾られた大扉に背中をあずけている。どことなく煤(すす)けた黄金の扉には、創生神話の物語を題材にした浮き彫りが、桝目ごとに筋書きを追う形で彫り込まれていた。ちょうどノルティエ・デュアスの肩口に、二つの卵を抱いている竜(ドラグーン)がいるのを、シュレーは遠目に眺めた。 「エルフ四部族の争乱調停は、いかがですか」 「あの者たちは、数を頼みにして、忠誠に欠ける。やはり滅ぼすべきだったのだ」  ノルティエ・デュアスは、さらりと応えた。その言葉尻に、過去の出来事を仄めかす何かがあるのを感じて、シュレーは眉をひそめた。 「あなたは呪いがお好きだ、ディア・フロンティエーナ・ノルティエ・デュアス」 「お前のように、下民に垂れる慈悲はない。あれは我々によって生み出された被造物にすぎない。生かすも殺すも、我々の自由だ」 「我々の自由、ではなく、あなたは自分の自由にしたがっているのではないのですか」  皮肉のつもりはなく、本心からシュレーは言った。 「……同じことだ。私は神殿種のために働いている。私が良かれと思うことを行えば、皆もその恩恵を受ける」  じわりと笑って、ノルティエ・デュアスはシュレーの視線をやすやすと受けとめた。 「ブラン・アムリネス」  ノルティエ・デュアスの翼が放つ囁き声が、シュレーの耳元にまとわりついた。 「お前はその名に相応しくない。本当にブラン・アムリネスの転生体なのか。お前は、ブラン・アムリネスの記憶を持っているのか。私の知るお前は、今のお前とは別人だ。皆は疑っている。お前は、我々の弟ではないのではないかと」 「……偽者だと? だったら、どうだというのです。さっさと本物のブラン・アムリネスを探したほうがいいのではないですか。私には、民に与える慈悲もない。あなたは、邪魔者もなく、次々とお好きなように大陸の部族を滅ぼせるというわけだ。そうして力を振りかざしてみても、民がいなければ神殿種も生きられないでしょう。あなたがやっているのは、自殺と同じことだ。それと知りつつやっておられるなら、お好きにどうぞ」  シュレーは、聖楼城に似つかわしくない大声で応えた。沈黙の支配するこの城では、大声で喚く事も珍しい。ノルティエ・デュアスが驚いて目を見張るのがわかった。 「……無作法だぞ」  押し殺した囁き声が、シュレーの耳に届いた。ノルティエ・デュアスが、動揺して翼を振るわせる羽音が混ざっているような気がした。 「エルフ四部族も滅ぼされるおつもりか」 「私はそれを推していた。だが、大神官台下が反対なさったのだ。命拾いをしたな、ブラン・アムリネス」 「どういう意味か、わかりかねる」 「エルフどもを滅ぼすための呪いを解き放てば、その血を受けたお前も、無事では済むまい。台下は、そのご懸念のためだけに、エルフ四部族の絶滅に反対なさっていたのだ」 「…………」  シュレーは言葉を失った。それを祖父の情愛と受けとっていいのか、分からなかったからだ。そうなのかもしれないと思っていた時期もあった。この世界にたったひとりの肉親として、自分のことを見守ってくれているのだと。だが、そう思って頼るには、祖父はあまりにシュレーに無関心だった。 「つくづくお前はあの部族を愛しているようだ。お前が創造したのだから、思い入れがあるのは分かるが、身を盾に庇うほどの見所が、いったいどこにある?」  シュレーは、ノルティエ・デュアスの言葉に、一瞬、唖然とした。  エルフ族を創造したのが、ブラン・アムリネスだなどと、そんな話は聞いたことがない。創生神話では、全ての部族は二つの卵から生まれたと伝えられている。大陸の部族である以上、エルフ諸族もそのはずだ。  そんなことを信じていたわけではないが、神殿の天使が、特定の部族を創造したという話は、俄かには受け容れがたい話だった。 「皆はお前が偽者だと疑っているようだが、私は違う」  ゆっくりと、ノルティエ・デュアスは体を起こし、広間の薄闇を渡って、シュレーのほうへ歩み寄ってきた。 「お前はいかにもブラン・アムリネスだ。今も昔も同じように、やり様が汚い。身を盾に庇うのはお前の心が優しいからではなく、計算高いからだ。そうすれば我々が退くと読んでいる」  一、二歩先で歩みをとめて、ノルティエ・デュアスはシュレーと向き合った。長身のノルティエ・デュアスと睨み合うと、まるで頭上から見下ろされるような感じがした。 「我々が一目置いているのは、お前自身の価値にではない。この頭の中に眠っている、ブラン・アムリネスの秘密のためだ。それを手に入れるまでは、お前を見限ることができない」  白羽の杖の先で、ノルティエ・デュアスはシュレーの僧冠を叩き落した。磨かれた大理石の床を転がって行く僧冠を見送ってから、シュレーはもう一度、ノルティエ・デュアスの灰色の目を見上げた。 「秘密など知らない」 「……嘘をつくな。お前は知っている。思い出せないでいるのは、お前が、血の濁った出来そこないだからだ」  ノルティエ・デュアスの顔は、鋼鉄でできた仮面のようだった。僧形で絢爛豪華に飾られ、薄闇のなかに青白く架かっている。ノルティエ・デュアスは、見下すというより、シュレーを対等の生き物として見ていないように思えた。  神殿種の、支配民に対する感情には、命も心も持たない無機物でも眺めるような、ひどく冷めた気配がある。彼らの心の中には、支配民を蔑む気持ちは存在しない。忌み嫌っているのではなく、自分たちより遥かに下等であると確信していて、彼らの言葉に真面目に取り合う気にもならず、幸福を願ってやる考えもないというほうが近い。  ノルティエ・デュアスをはじめとする、天使たちがシュレーを嫌うのは、彼らの守ってきた神聖な血筋が、そんな取るに足らない生き物の血と交わってしまったという異形さ、不完全なものに対する嫌悪感に他ならない。  シュレーの顔を見おろすノルティエ・デュアスは、鳥かごの中で飼われている、めずらしい鳥でも覗きこむような表情だ。人ではないものが、なぜ自分と同じ言葉を話すことができるのかと、いぶかしむような目つき。  シュレーは右手に携えた杖で、目の前の天使を殴り倒したいような衝動を感じた。 「あなたは、ノルティエ・デュアスの記憶を持っているとでも? 本当に? 何百年も前に死んだという、本当に存在したのかどうかも分からないような者の記憶を?」  思わず口走ってから、シュレーはしまったと思った。無意識に一歩退いて、シュレーはノルティエ・デュアスの無表情な顔を睨んだ。教義への反抗には厳罰が用意されている。ノルティエ・デュアスがシュレーを排除したいのなら、それを使えば至極簡単に事が済む。  少し遅れてから、ノルティエ・デュアスは、ゆっくりと唇を歪めて笑った。シュレーは己の未熟さを思った。時々、自分の感情の流れがわからなくなる。自分が激昂していることも、どこか遠くの他人の心のようにしか感じられないのだ。 「憶えているとも、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス。この世界が始まった日のことも、お前が初めて死んだ時のことも、私は憶えている。それゆえ私はノルティエ・デュアスと呼ばれている。他の天使たちもそうだ……哀れなブラン・アムリネス、お前だけが、何もかも忘れたのだ」  杖によりかかって、ノルティエ・デュアスは面白そうに言った。 「……なにひとつ憶えていないのか、ブラン・アムリネス?」  ノルティエ・デュアスが堪え切れないという風情で、うっすらと唇を開き、低い笑い声を立てた。その歯列に鋭く尖った犬歯が混ざっているのを見て、シュレーは背筋が粟立つのを感じた。竜(ドラグーン)の末裔。 「惨めだな。やはり、お前は、早く死んだほうが幸せだ」  言い終えると、ノルティエ・デュアスはゆっくりと身を起こし、足音もなく、広間を横切って出ていった。金糸で絢爛豪華に飾られた外套を着た後姿が、厳かに揺れるのを、シュレーは横目で見送った。  金の大扉が閉じられる音が重々しく響き、薄暗い広間には、シュレーだけが残された。  深く息を吸いこんで、シュレーは天井を仰いだ。天井画の星々は、静かに瞬いている。自分の呼吸の音がうるさく耳につくように思えて、シュレーは息をとめた。  聖楼城に連れてこられる前、どこか、こことは違う場所で見上げた、本物の星空のことが思い出された。  風も凍り付くほどの寒い夜には、時折、星々が氷を払い落とす音が聞こえるのだという伝承を、荒野に住む山羊飼いたちから聞いたので、その話が本当なのかと父に尋ねてみた。  寡黙な父は、話しかけても返事をしないことが多かったが、その時に限って、知りたければ自分で確かめてみろと答えた。  シュレーは夜中じゅう起きて、たったひとり荒野に立っていた。夜空には、手を伸ばせば掴み取れそうに、無数の星が輝いていた。  あの時も、自分の呼吸のせいで、星がたてる音を聞き逃すのではないかと思って、目眩がするまで息を止めた。堪え切れずに吐き出した深い息は、荒野の夜気に白く凍りつき、吸い込んだ空気は肺を刺すように冷たかった。  だが、そうやって、明け方まで一睡もせずに待っていても、星はこそりとも音を立てなかった。日の出前に起き出してきた父に、それを報告したが、父はそれについては何も言わず、さっさと井戸までいって水を汲んでこいと、シュレーに言い付けた。  あの話は、結局、嘘だったのだ。  知っているなら、なぜ、確かめろなどと言ったのか。父がそう言うのだから、確かめられるのだと期待をかけていた。その音を聞き取れば、誉めてもらえるような気がしたのだ。それを話せば何か言ってもらえるだろうと。  ……また関係のないことを考えている。  息苦しくなって、シュレーはとめていた息を吐き出した。  この広間でも、吐いた息はうっすらと白く見えた。  自分の吐く息が霧散してゆくのを、シュレーは黙って見守り、呼吸を整えた。  転がり落ちた僧冠を拾いに、シュレーは広間の奥へゆっくりと歩いた。床に転がっていた僧冠を拾い上げて、シュレーはそれを眺めた。白羽に添えて、天秤の意匠を飾った紋章が、僧冠には刺繍されている。ブラン・アムリネスの紋章だ。  この名は今まで何人かの神殿種によって受け継がれてきたもののはずだ。その誰もが、ブラン・アムリネスという天使の記憶を継承しており、それを転生の証として、この官職を叙任されてきたのであり、今、この位にあるシュレーも、そうでなければ筋がとおらないはずだ。  しかし、シュレーには、ブラン・アムリネスの記憶など心当たりがなかった。シュレーがブラン・アムリネスであると、大神官が決めたというだけだ。  嘘だ。嘘ばかりだ。この古びた城にあるのは、長年降り積もった欺瞞だけだ。  ノルティエ・デュアスにしろ、他の天使にしろ、自分ではない者の記憶など、持っているわけがないのだ。誰も彼も、したり顔で嘘をついている。この世界を守っているというのも嘘、民を愛しているというのも嘘。竜(ドラグーン)の末裔だというのも嘘だ。なにもかも嘘、連中の守っているものの中に、真実などひとつもない。ただ、それを暴く者が誰もいないだけにすぎない。  それなら自分が何もかも暴いてやる。神殿種が守ってきた、虚栄だけのこの世界も、白い石で欺瞞を覆い隠しただけの、誰も救わない神殿も、なにもかも滅ぼし尽くし、背中に白い羽根を生やした連中を、一人残らず抹殺する。生きている甲斐がないほど卑しいのはどちらの方か、はっきりさせてやる。  こみ上げる衝動に耐え切れずに、シュレーは拾い上げた僧冠を、大理石の床に叩き付けた。絹で作られた華麗な僧冠は、投げつけられた衝撃で、簡単にひしゃげた。その面(おもて)を飾る白羽の紋章を踏みにじると、シュレーは僧冠を投げ捨てたまま、足早に広間を後にした。 「懺悔を希望する者が」  広間を出ると、ずっとそこに控えていたらしい下位の神官が、鋭い声でシュレーを呼びとめた。  ぎくりとして立ち止まり、少しためらってから、シュレーは振りかえった。  袖の中に手を隠して姿勢を低くした姿から、下位の神官はさらに低頭した。 「赤の聖堂に待たせてございます」 「もうすぐ日没だ、時間がないだろう」  なんとか苛立ちを抑えこみ、シュレーは取り繕った平静で応えた。  神殿の職務は夜明けから日没までと決められている。夕刻からは天使たちの会議が召集されたため、高位の神官が神殿にいたのは、今日の午後までのことだった。それまでに、今日の予定はすべて済ませた。飛び入りの懺悔者などには会う気がしない。 「猊下にぜひとも拝謁し、懺悔したいと……」 「誰だ」 「山エルフ族族長、ハルペグ・オルロイ・フォーリュンベルグでございます」  わずかに顔をあげて、伝令の神官は告げた。シュレーは苛立ちを忘れた。  山エルフ族族長ハルペグ・オルロイは、シュレーの叔父にあたる人物だった。  四部族同盟の成立を機会に、神籍を捨て、叔父の宮廷に籍を移したいと、内々に話をもちかけていたのだ。おそらく、それの返事を持ってきたのだろう。 「お会いになられましょうか」 「……赤の聖堂だな」 「お供いたします」  立ちあがりかけた下位の神官を、シュレーは杖で制した。 「ひとりで行く」  外套をひるがえして、シュレーは伝令の横を通りすぎた。平伏した下位の神官が、振りかえってシュレーの背を見送るのが感じられた。  高位の神官が一人歩きするのは珍しいことだ。シュレーは誰かが後ろからついてくるのが嫌いだった。作法の決まっている祭礼の時は仕方がないが、そうでもなければ、供をつれて歩くのは好きではない。  日没が近づいた聖楼城は、しんと静まり返っていた。  戒律で、その日の職務を終えた神官は、食事をしたのち房に戻って、決められた祈りの儀式をすませたら、あとは眠る以外にすることがない。部屋から出てはいけない決まりなのだ。  廊下で行き会うのは、見回り役の、武装した神官たちだけだった。僧兵たちは、シュレーの姿を見ると、廊下の脇へよって道をあけた。  聖楼城には、29本の尖塔があり、中央にある塔の下には、大聖堂がある。そのほかの塔にも、それぞれ聖堂が設けられており、その一つ一つに色の名がついていた。  赤の聖堂は、ブラン・アムリネスを象徴する尖塔のもとにある聖堂だ。そこには、日々、最後の慈悲を求めて集まってくる信徒たちが群れをなしている。そういった者たちと会い、懺悔を聞くのが、赤の聖堂の神官たちの職務であり、シュレーの仕事でもあった。  歩きなれた道筋をたどり、シュレーは赤の聖堂に行きついた。見上げるほどの大きさのある、黄金の扉は、すでに閉じられている。日没後には、すべての聖堂が閉鎖されるのがしきたりだ。中には、不寝番の神官が詰めているはずだった。 「扉を開けよ」  翼を使って、シュレーは中にいる神官たちに呼びかけた。もともと、ブラン・アムリネスがやってきたのに気づいていたのか、シュレーが言い終えるのを待たずに、扉はゆっくりと開き始めていた。  まだ開きかけの大扉をくぐりぬけ、シュレーは薄闇の垂れ込める聖堂の中に入っていった  燭台(しょくだい)を捧げ持った神官が、早足に近寄ってきた。 「オルロイは」 「懺悔室に」  顔に見憶えのある年老いた神官は、燭台をかざして、懺悔室に続く道すじを照らした。 「手短になさいませ。じきに日没でございます」  慇懃に、老神官は告げた。シュレーは頷いた。 ----------------------------------------------------------------------- 「贖 罪」(後編) ----------------------------------------------------------------------- 「私の罪を告白しに参りました」  シュレーが懺悔室の中に入ると、闇の中に跪いていた男が、儀礼的な響きのする言葉を投げかけてきた。  その姿は、判然としなかった。  狭い懺悔室に入るときに、燭台の灯りの中に浮かび上がる金髪と、エルフ族の衣装が見えただけだ。  声には、聞き覚えがあった。 「……偽りなき言葉で話せ」  何百年も前から決まり切っている台詞で、シュレーは応えた。  背後で扉が閉じられる気配がして、灯りが絶えた。  ほぼ完全な闇の中で、シュレーは山エルフ族族長、ハルペグ・オルロイ・フォーリュンベルグと対峙した。 「わが息子を裏切り、あるお方を一族の継承者としてお迎えいたします」  低く落ち付いた声で、ハルペグは話し始めた。その声は、いくらかシュレーの亡き父に似ていた。  それもそのはずだ。ハルペグ・オルロイは、シュレーの父の同腹の弟なのだ。  父が生きており、山の部族の継承者として生き続けていれば、いま目の前に跪いているこの男の地位を、シュレーの父が占めているはずだった。  しかし、父は神殿種の女を連れて逃げ出し、継承者としての地位を捨て、荒野で他人の家畜の世話をして細々と生きた。王族に生まれついた高貴な身の上から、その日の食べ物を他人に恵んでもらうような貧しい生活へ。その挙句、その世界からも逃げ出し、この城の尖塔から身を投げて死んだ。ひたすら転落していくだけの、惨めな一生だ。 「ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下…」  跪いた男が、シュレーの応えを待ち、闇の中を探っている気配がする。 「どうか、この罪深き者にお慈悲を」  ハルペグ・オルロイの声は、まるで本当に慈悲を求めているように聞こえる。  シュレーは眉をひそめ、しばらく沈黙していた。自分の息子が可愛いなら、なぜ、シュレーの亡命を受け入れたりするのか、不可解だった。  目が闇に慣れても、相手の姿はよく見えない。だが、懺悔者が跪く位置は、あらかじめそのための席があり、決まっている。シュレーはいつもと同じように見当をつけて、ハルペグ・オルロイの肩に、白羽の杖の先を押し当てた。オルロイの手が、差し伸べられた杖を掴むのが感じられた。 「汝、許されり」  翼を使って、シュレーはオルロイに囁きかけた。それは、赤の神殿のあるじとして、ありきたりの行為だった。 「兄上は……失意のままお亡くなりになったでしょうか」  杖を退こうとしたシュレーに、オルロイは抗った。引きとめる力を感じて、シュレーは杖を戻すのをやめた。  オルロイのいう「兄上」とは、シュレーの父のことに違いない。 「私は、死の直前の父とは、会っていない。それについては誰からも聞いていない」  ひそめた肉声で、シュレーは答えた。  オルロイが死んだように押し黙るのが感じられた。息がつまりそうな沈黙ののち、オルロイはかすれた声で切り出した。 「私の地位は、もともと、兄上のためのもの。私はそれを簒奪(さんだつ)したようなものです。あるべき場所に額冠(ティアラ)を戻し、私の罪のつぐないとさせてください」  ハルペグ・オルロイの声は、疲れ切っているようだった。 「……それについては、そなたが気に病むことはない。私の父は、自らの意思で、その地位を捨てていったのだ。オルロイ、そなたは部族をよく治めていると聞いている」 「私は、部族を兄上から預かっているのです。いずれ戻られる時までと思って参りましたが、兄上亡き今、猊下をお迎えすることが何よりの贖罪(しょくざい)と心得ております」  シュレーは闇の中で目を細めた。  何もかも放り出して逃げた父よりは、この男のほうが、よほど支配者に相応しい。山エルフたちは、族長位を長子に相続させることを重要視しすぎている。今回ばかりは、シュレーにとって、その風習が役に立ったが、長子相続にこだわるあまり、逃げ腰な父ヨアヒムに部族を継がせ、この叔父を支配者の席から遠ざけたとしたら、たいへんな失策だっただろう。 「オルロイ、ブラン・アムリネスは、存在しない罪を癒すことはできない」 「ならば、私の罪は永遠に癒される事はないでしょう」  杖に縋っていたオルロイの手が、離れるのが感じられた。シュレーは杖を引き戻し、自分のそばの床をついた。 「四部族同盟の首尾は?」 「我が部族に有利なかたちになるよう、ご高配を賜れるようです」 「……なによりだ、叔父上」  シュレーはなにげなく、そう呼びかけた。だが、オルロイが息をのむのが聞こえた。 「猊下……」  言いよどむオルロイの声が、懺悔室の中をさ迷った。 「私を叔父と思し召しか……」 「そなたは私の父の弟だ。私の叔父ではないか」 「……勿体無い。お側近くにお仕えできますことが、なによりの幸福でございます。兄上に成り代わり、猊下をお守りいたします」  跪くオルロイが泣いているような気がして、シュレーはかすかな動揺を感じた。  オルロイが自分を歓迎してくれていることは分かったが、何と答えればいいのか、ひとつも思い付かない。誰かに歓迎されるのに慣れていないのだ。 「…………日没を過ぎているだろう。オルロイ、帰るがいい」 「いずれまた、フラカッツァーでご拝謁賜りましょう」  山の都の名を告げて、オルロイが立ち上がる気配がした。 「猊下……失礼する前に、お姿を拝見できますか」  立ち去ろうとするシュレーを、オルロイが引きとめる。意外な申し出に、シュレーは驚いた。  懺悔室の神官は、懺悔者の姿を見ないのがしきたりだ。信徒の去り際にまで、懺悔室に残っていたら、聖堂内の灯りのため、相手の姿を見てしまう。  だが、オルロイはもともと名乗っているのだし、しきたりに拘るのも意味がないような気がした。シュレーの顔など見たところで、意味がないようにも思えたが、オルロイにはなにか懐かしいものがあるのかもしれない。好意への返礼に、それくらいは返してやってもいいように思えた。 「異例だが、見送ることにする」  シュレーが答えると、オルロイは黙ったまま、聖堂側に通じる扉を開いた。沢山の燭台が灯す光が、懺悔室の中に入りこんできた。それが、闇に慣れていた目には眩しく、シュレーは目を細めた。  扉のそばに立っているオルロイは、やはり死んだ父に良く似ていた。寡黙そうな厳しい顔立ちのなかから、父と同じ鋭い緑の目が、こちらを見ている。しかし、オルロイはシュレーが知っている父の姿とは比べ物にならない、立派な衣装で身を飾っており、堂々と整った体躯は力強く、痩せさらばえた山羊飼いとは、はるかに遠い場所に立っている者に違いなかった。 「兄上には、あまり似ておられませんな」 「では、私は母に似たのだろう」 「尊いお血筋に似つかわしい、崇高なご容貌です」  血筋のことを言われて、シュレーは思わず苦笑した。 「笑うと、お母上によく似ておられる。そのお声も、どこか懐かしく聞こえます」  オルロイは深く一礼すると、懺悔室を出ていった。  シュレーは驚いて立ちすくんだ。  神殿には、母のことを教えてくれる者が誰もいなかった。生まれてから一度も、母の顔を見たことはない。病がちな母から、いつも父がシュレーを遠ざけていて、ほんの一目も会ったことがないのだ。  母の姿をうつした肖像画一つ残っていない。神殿種に不名誉を成した女として、その存在を抹殺されてしまったからだ。形見の品もなく、シュレーが母から受け継いだものは、命の他になにもない。  オルロイは、母と会った事があるのか。  それを疑問に思うより早く、シュレーは懺悔室の扉を開けて、聖堂に出ていったハルペグ・オルロイを追いかけていた。オルロイは聖堂からも出て行こうとしていた。  聖楼城側の扉が開いて、背後からブラン・アムリネスを引きとめようとする神官たちの声が聞こえたが、シュレーはそれを無視した。次にオルロイと会う機会がいつになるのかわからない。神籍を返上して、彼の宮廷に移ること自体、成功するかどうか分からないのだ。 「オルロイ、待て!」  聖堂の長廊下を駆け下るうちに、神殿の大扉を守る僧兵がシュレーを遮ろうとして扉の前に立ちはだかるのが見えた。  扉の前に立つ僧兵は、シュレーよりもはるかに体格が良かった。白い神官服に身を包み、棒術のための金属の白い杖を持っている。 「猊下、城へお戻り下さい。この先は神殿の外でございます」  ふたりの僧兵が、シュレーを押し留めて告げた。もみ合ううちに、胸元の留め金がはずれて、金糸で刺繍された外套が落ちた。僧兵は動揺した表情を見せたが、城内の者が聖堂の外に出られないのは、厳重に決められた掟だった。 「オルロイを呼び戻せ」  扉に触れようとするシュレーの腕を、僧兵が棒で押し返した。 「日没を過ぎております、お部屋にお戻りください」 「扉を開けろ」 「戒律でございます」  早口に僧兵は応じた。  シュレーは呆然として、顔をゆがめた。 「戒律……?」 「お戻り下さい」  上目使いに見上げる僧兵たちの視線を、シュレーはかすかな震えを感じながら見下ろした。追い付いてきた神官たちが、床に落ちいてた外套を拾って、シュレーの肩に着せ掛けた。 「ブラン・アムリネス猊下、お戻り下さい」  連れ戻そうと袖を引く神官たちを、シュレーは順に見まわした。 「日没を過ぎております。長引くと、我々にもお仕置きが」 「……わかった」  肩をずりおちる外套を引き上げて、シュレーは小さく頷いた。  踵をかえして、聖楼城へ歩き始めると、神官たちはほっと安堵の息をついた。奥へつづく道をしめして、神官たちはシュレーの側近くを歩いている。 「……誰か、私の母のことを知っている者はいるか?」  シュレーは、誰に話しかけるともなく、呟いた。供をする神官たちが、ぎょっとして口をつぐむ。  誰も、なにも聞かなかったような顔をして、ひたすら歩みを進めている。  シュレーは立ち止まった。弾かれたように、神官たちがふりかえった。 「猊下!!」  走り去ろうとするシュレーの外套を、神官たちが掴んだ。シュレーはそれを振り払い、大扉を目指した。泡を食った僧兵たちが、おろおろと扉の前に戻ってくる。 「通せ」  走りよりながら、シュレーは命じた。 「なりませ……」  決まり切った答えを言おうとする僧兵の顔を、シュレーは白羽の杖で殴り倒した。  昏倒した僧兵を、もうひとりが、信じられないという表情で見送っている。  残る一人が我に帰るのと同時に、シュレーは白金で飾られた白い翼を、力任せに僧兵のみぞおちに沈めた。短くうめいて、僧兵は倒れた。  大扉のかけがねを外し、シュレーは重い扉を押し開けた。外には闇と星明りの垂れ込める、長い渡り廊下があった。この扉の先を見るのも、シュレーには初めてのことだった。  追いすがってくる神官たちを押し返して、シュレーは扉のそとに走り出た。 「オルロイ!」  暗い廊下には、誰の姿も見当たらなかった。  追われるまま、シュレーは渡り廊下を走って、灯りのあるほうを目指した。石で舗装された白い回廊は、複雑に入り組んでおり、まるで迷路のようだった。このまま進んで行って、聖堂まで戻れるのかどうか自信がなかったが、そんなことは気にならなかった。  いくつもの角を曲がり、列柱のあたりを走り抜けると、巨大な石造りの門が現れ、その向こう側に大勢がいる気配がした。神殿の門は、白大理石の柱を並べただけのもので、扉は設けられていなかった。その門を閉じているのは、目に見えない神殿の権威だ。  門の側には僧兵が立っていたが、事情ののみこめていない彼らは、高位の神官の衣装をつけたシュレーが通りすぎるのを、呆然と眺めている。 「オルロイ、いないのか!?」  門の前で立ち尽くしている多くの部族の者たちを見渡して、シュレーは山エルフの金髪を探した。それらしい人影は見当たらなかった。 「……ブラン・アムリネス様」 「天使様……」  ざわめく信徒たちの声が、かがり火に照らされた闇のあちこちから湧いた。石畳の上に座っていたものたちが立ちあがり、自分の姿を見ているのを感じたが、立ち去った山エルフたちの姿を探して苛立っているシュレーには、その意味が分からなかった。 「猊下……ま、誠に、ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下でいらっしゃいますか?」  うろたえた門兵たちが、シュレー遠巻きにしたまま問いかけてきた。 「そうだ。山エルフ族族長、ハルペグ・オルロイ・フォーリンベルグを探している。誰か、行方を知っていたら、聖堂へ……」  わっと湧きあがった大声に、シュレーは驚いて言葉を呑みこんだ。  門の前につめかけていた信徒たちが、立ちあがって口々に叫んでいた。意味のわからない様々な言葉が、嵐のように押し寄せてくる。門前の灯りの中に見えていたより、はるかに多くの者たちが、神殿の前で息をひそめていたようだった。  数え切れないほどの足音が、いっせいに近づいてくるのが感じられた。シュレーは動揺して、闇の中を見まわした。 「猊下っ、お戻りを………」  シュレーの前に走り出ようとした僧兵が、走り寄ってきた信徒に乱暴に押しのけられた。門を守っていた僧兵たちは、次々に押し寄せてくる信徒たちを押し返そうと、必死になっている。  その光景に唖然としていたシュレーの外套が、思わぬほうから引っ張られ、シュレーをぎょっとさせた。 「-----------!!」  シュレーの外套にすがりついている者たちは、口々にわけのわからない言葉で喚いた。彼らの、涙ながらに何かを訴えようとしている姿は、シュレーをますます混乱させた。 「よせ…お前たちの言葉は私にはわからない……!!」  あとずさって、シュレーはすがりついてくる者たちを杖で押しのけようとした。しかし、その白羽の杖にも、次々と様々な肌の色の手が取り付いていく。 「猊下、どうか我が部族に今一度のお慈悲を!」  杖を握り締めた老人が、公用語で叫んだ。  はっとして、シュレーは老人の顔を見た。見覚えがあった。 「カ…カスガルの……」  今朝方、ブラン・アムリネスに慈悲を求めてやってきた、辺境の小部族の者たちだった。ほんの何刻か前、ノルティエ・デュアスが、彼らを呪いによって絶滅させると決めたばかりだ。 「大神官台下に、今一度ご嘆願なさってください。我が部族が先祖伝来に守りつづけた土地が蹂躙されるのを、神殿はお見捨てになるのですか!」 「侵略者たちでなく、なぜ我々に呪いなど……代々、我が部族の民は神聖神殿に忠誠を尽くして参りました!!」  他の信徒に引き戻されそうになる老人を守るように、シュレーとさして歳のかわらない少年が立ちはだかり、シュレーの白金の杖を掴んだ。少年は、いくらか浅黒い肌に、淡い栗色の髪と黒い瞳を持っていた。内陸の民の容貌だった。カスガル族の首長がシュレーのもとを訪れた時に、この身形のいい少年も付き従っていた。 「そなたは……」 「私はカスガル族の継承者です。兄たちは皆、侵略者たちに殺されました。だから、私が部族を継承するのです。あなた方が呪いによって滅ぼす部族を、私が継承するのです!」  内陸の王子は、迷いのない目つきで、シュレーを睨み付けてきた。彼が自分のことを憎んでいるのが感じられた。どんな事情があろうと、神殿の外から眺めれば、シュレーはまぎれもなく神殿種の一人であり、呪いと恐怖によって世界を支配する竜(ドラグーン)の末裔だった。 「もう一度お考え直しを」  王子は、年老いた族長の肩を抱き、強い口調で訴えかけてきた。 「息子の非礼をお許しくださいませ、猊下、どうか我が部族に今一度、御名にふさわしいお慈悲をお示し下さい」  かろうじて姿勢をたてなおして、老いた首長はシュレーに低頭した。  意味のとれない怒号が続いていた。天使ブラン・アムリネスの衣に触れ、その慈悲を受けようとするものたちが、飢えた獣の群れが獲物を食い散らかす様に、シュレーの豪華な外套を、手に手に引き千切っていった。 「どうにもしてやれない……」  内陸の王子の顔を見つめ、シュレーはうろたえた声で応えた。 「逃げろ、呪いがやってくるまでには一月はかかる」 「祖先の土地を捨てては逃げられません。どこへ行けというのですか!」  老王が堪え切れずに涙を流し始める。シュレーは思わず目をそらした。 「お慈悲を、猊下、伝説の中でそうなさったように、我が部族と運命をともになさってください」  シュレーの神官服の胸元を掴んで、内陸の王子は言った。それは、他の者たちの懇願とは違っていた。やれるものならやってみろ、と、年上の少年の強い目が挑戦していた。 「大陸にいくつの部族があるか知っているのか。私が何度死んでも、この神殿があるかぎり、そなたたちは救われぬ。神殿はいずれ私が滅ぼす、それまで耐えよ。そなたたちの恨みは、すべて私が呑んでゆく」  シュレーの喉の奥から、思いもしなかった言葉が流れ出た。神官服の胸元を掴んでいた少年の手から力がゆるんだ。  自分の言った事の意味が、シュレーには良く分からなかった。自分がなぜそんなことを口走るのかも。 「猊下……どうか、私たちのことをお忘れなきよう」  呆然と、カスガル族の少年がつぶやいた。  突然、あたりに異様な白い光が次々と灯り始めた。  門の上に、巨大な白い翼を広げた神殿種の兵が、数十人も群がっていた。その翼が放つ白い光と、耳を裂くような音なき声に、あたりに詰め掛けていた群衆が苦しみはじめる。シュレーも、腹の底から湧きあがるような吐き気を感じた。  襲ってきた目眩のせいで、足元がふらつき、シュレーは無意識に白羽の杖によりかかった。頭が朦朧とする。  シュレーの脳裏に白日夢のような脈絡のない光景が浮かび、現実の風景の中に、切れ切れになって割りこみはじめた。  今と同じように、目の前で大勢が苦しんでいる姿を見た事がある。  空には異様な白い光が浮かびあがり、太陽の光を覆い隠すほどの明るさに見えた。多くの大陸の民が苦しみ悶えながら地面に倒れ伏している。その中で、自分は何も出来ずに立ち尽くしていた。  最後の力を振り絞って、まだほんの少女のような女が立ちあがり、弓に矢をつがえ、弦を引き絞るのが見えた。夢の中のシュレーは逃れなかった。音高く弓弦が鳴り、自分の胸に深々と矢が突き立つ。  その痛みと衝撃が生々しく体を走り、シュレーは仰け反って目を見開いた。 「ブラン・アムリネス」  厳しい声が飛び、何者かがシュレーの腕を後ろから引いた。 「ノルティエ・デュアス……」  ふりかえり、シュレーはそこに立っていた天使の名を呼んだ。  蔑むような表情を浮かべた冷たい灰色の目で、ノルティエ・デュアスがシュレーを見つめていた。 「正神殿に戻れ。なんというザマだ。それが天使の名を帯びるものの姿か……見苦しい。お前は面倒ばかり起こす」  無残に引き千切られたブラン・アムリネスの外套を眺めて、ノルティエ・デュアスは小さく首を振った。  門柱から翼を広げた神殿種たちが舞い降りてきて、あたりに倒れている者たちの一人一人に、その翼の先を触れさせてゆくのが見えた。ああやって、一人一人に暗示をかけてゆくのだ。この人数では、その作業だけでもかなりの時を要することだろう。 「明日には皆忘れている。神殿の外に出るのが、どの程度の罪かは知っているのだろうな」 「……知っています」  痛みの残る左胸を押さえて、シュレーは冷や汗の浮いた顔をノルティエ・デュアスに向けた。ノルティエ・デュアスはかすかに眉をひそめた。 「幸い、処罰は軽い。忘却処理によって不問に処すと、大神官台下は仰せだ。この足でディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレに会いに行け。ヴィジュレがお前の記憶を封印する」 「……他の罰ではだめなのですか」  シュレーは無駄だと知りつつ尋ねてみた。前を進み始めていたノルティエ・デュアスが足を止め、意外そうな表情を浮かべて、こちらを振りかえった。 「さあ? 地下牢で鞭打たれたいなら好きにしろ。しかし台下がお許しになるまい」  ノルティエ・デュアスの言葉は淡々としていた。  彼の言う通りだった。大神官に二言はない。問い返す方が間違っているのだ。  ふと気づくと、遠くで混声合唱の声が聞こえていた。ずきずきと頭が痛む。見えない手で頭の中を掻きまわされているような気分がする。  シュレーは頭を抱え、そばの壁によりかかった。磨きたてられた白大理石の壁は、汗で濡れたシュレーの指をうまく受けとめず、つるりと滑って数歩よろめかせた。手を離れた白羽の杖が、けたたましい音をたてて大理石の床を転がっていく。  混声合唱に混じって、自分の荒い息の音が高い天井の下の空間に響きわたるように感じられた。シュレーは朦朧とする目で広間の天井を見上げた。  目が眩むほどの高い天井には、たくさんの灯がともっている。すすけて薄暗く、くもった黄金がぼんやりと輝いている天井。見覚えのある、赤の聖堂の大天蓋だった。 「猊下、杖を落とされました」  目の前に差し出された杖に目をおとし、それから、杖を差し出した老神官に、シュレーはゆっくりと目を向けた。絹の手袋で覆われた老人の手は、布越しにも、しなびて骨ばっているのがわかった。 「……ここは赤の聖堂か」  言葉は、シュレーの喉で引き絞られ、苦しみながら出ていった。  老神官は、答えるかわりに、大きく頷いてみせた。 「つい先刻、そなたと会ったな」 「懺悔室にご案内をいたしました」  シュレーが白羽の杖を受け取ると、老神官は恭しく、一歩後ずさった。  懺悔室へ。  シュレーは聖堂の行き止まりにある、黒檀の扉を遠目に見た。長い廊下が続き、竜(ドラグーン)の像が幾つも並んでいる。壁には天使達の肖像が、大理石を磨いて浮きあがらせた、精緻な浮き彫りにされている。巨大な天使の姿が、向かい合う壁に一人ずつ。  シュレーのもたれた壁には、両耳に手をあてて目を伏せ、耳をすましている仕草の天使が立っていた。ノルティエ・デュアスだ。「星々の声聞く者」と称される天使。今の彼とは似ても似付かない柔和な姿をしている。  この廊下の奥へ、今日も歩いたことは憶えている。今日に限らず、昨日も、その前も、自分は毎日この道を進み、暗闇のなかで大勢の罪の告白を聞いている。そして、その全てを許してやり、この道をまた戻ってくる。そうすれば、翌朝目がさめるまでは、もう誰の懺悔も聞かなくていい。  ありきたりの事だ。今日も何事もなく終わった。  そのはずだ。  だが、シュレーは自分がなぜここにいるのか、憶えていなかった。 「私は、どこへ行こうとしているんだ」 「本日最後の懺悔者を許されたのち、房へ戻られる途中に、ご体調を崩されたのです」  紙に書かれた言葉を読むような、抑揚のない口調で、老神官は説明した。 「最後の懺悔者は、誰だったか……」 「懺悔者が何者かご存知ないことは、珍しいことではありますまい、猊下」  無表情に、老神官は告げた。シュレーの額から、汗が雫になって顔を伝い落ちた。目を細め、シュレーは老神官の顔を見つめた。燭台を持って近寄ってきた、この神官の姿を憶えている。そのとき、この者はなにかを忠告した。  なんと言ったのか。  たしか、日没が近いから、手短に、と…………。 「急がないと…もう日没ではないのか」  杖にすがって姿勢を起こし、シュレーはうつろな声で尋ねた。戒律では、日没までには房へ戻ると決められている。 「なにを仰っておられるのですか。本日はご体調がすぐれないので、午後のご予定を中止して、お部屋へ戻られるのです。まだ日は高いのですよ、猊下」 「……日没が近いから急げと言ったのは、そなただ。憶えていないのか」 「そのようなことは、申し上げた憶えがございません」  きっぱりとした態度で、老神官はシュレーの言葉をはねつけた。  黙りこみ、シュレーはあたりの壁を見まわした。沢山の天使。沢山の竜(ドラグーン)。純白の壁の中で、ノルティエ・デュアスは星の音を聞いている。そんなものが聞こえるはずがないと、シュレーはぼんやり考えた。眠らずに一晩中息を殺していても、星々の声は聞こえなかった。それとも、ノルティエ・デュアスには、なにか聞こえるのだろうか。  ノルティエ・デュアスの彫像が浮きあがる向かいの壁には、別の天使の姿が彫られている。胸に矢を受けて、あお向けに倒れこむ天使の姿が、巨大な白い浮き彫りとなって聖堂の壁を飾っている。  あの天使の名は、ブラン・アムリネスだ。静謐なる調停者、ブラン・アムリネス。赤の聖堂のあるじで、誰もが見捨てた罪人も許すという、その慈悲深い心によって人々に知られ、崇められる神殿種。  あの天使は、営々と転生を繰り返し、いまは、シュレーの中に収まっている。そのように人々は信じている。シュレーが、あの、大陸の民を救うために命を投げ打つような、慈悲深い天使の記憶を継承し、その心を再現するものとして生きて行くと、信徒たちは期待している。  だが、シュレーはそんな古い神殿種の記憶など、心当たりがなかった。それどころか、ほんの半刻前の自分が、どこで何をしていたのかすら思い出せない。懺悔者の話を聞き、その者の罪を許したというが、それがどんな罪であったのかも憶えていない。  それでは、何によって自分はその者の罪を洗い流してやったのか。  伝説の中のブラン・アムリネスは、自分の心臓から流れ出る血によって、大陸の民の反逆罪を洗い流してやったというが、自分にはそんなことをする力はないと、シュレーは思った。形ばかりの許しを垂れるほかに、この神殿の中で、なにひとつできる事がない。  シュレーは、この城に満ち溢れる欺瞞の中でも、自分が日々生み出しているものが、もっとも恐ろしい嘘のような気がした。ブラン・アムリネスは多くの者の救いがたき罪を許しつづけるが、ブラン・アムリネス自身の欺瞞の罪は、いったい誰が許すのか。  自分にできることがあるとすれば、それは、ブラン・アムリネスとしての運命ではなく、詩篇の警告する、世を滅ぼすという者の役回りだけのように思えた。神殿を滅ぼし、全ての神殿種を殺し尽くす、世に数知れぬ災いをもたらす者。  見上げると、彫像のノルティエ・デュアスが相変わらず耳を澄ませていた。それは、星の声を聞くというより、まるで、向き合っているブラン・アムリネスがたてる瀕死の息を、ほくそえみながら聞いているように見えた。  シュレーは自分の妄想に耐えられず、ずきずきと痛む頭を抱えた。ブラン・アムリネスの紋章を飾った僧冠が、絨毯の上に転がり落ちる。どこからか音高く響き続けている混成合唱が、うるさく耳につき、ますます頭痛をひどくした。 「猊下、お顔の色がすぐれません。早く房に戻ってお休みを」  シュレーの僧冠を拾って、老神官がやんわりと急かした。 「……歌がうるさい。あれはなんだ。今ごろなんの祭祀だ」  鉛のように思い体を引きずって歩きながら、シュレーは老神官に尋ねた。 「黒の聖堂での、葬儀でございます。とある部族の絶滅を悼んでのことです」 「絶滅……黒の聖堂、また、ノルティエ・デュアスか……呪いばかりで、いやになる…こんどはどこを滅ぼしたのだ」  シュレーは心臓のあたりに鋭い痛みを感じ、胸を押さえた。 「カスガルとか申す、小部族でございます。お気にとめなさいませぬよう。致し方のないことでございます。慈悲深きお心をお持ちの猊下には、それさえお心苦しく思し召しやもしれませぬが」 「買かぶりだ……名も知らぬ部族の死を悼む気にはなれない」  シュレーは苦しみのために低くうめいた。老神官はシュレーにその骨ばった肩を貸し、かすかに笑った。 「それは、良うございました」  混声合唱は、うねる波のような激しい抑揚で、不吉な鎮魂歌を歌い続けている。それはまるで、呪いに満ちた断罪の声のように、シュレーの耳を苦しめた。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」(1) -----------------------------------------------------------------------  ふと呼ばれた気がして目を開くと、シェルは姉たちの合間で眠っていた。  優しく巻いた金の髪が、白い絹の敷布に流れ、温かい感触のある広々とした明るい寝床の上で、それぞれ軽く身に巻き付けただけの掛布を握りしめ、幸福そうな微笑を浮かべて、幼い姉たちは皆、静かな寝息を立てていた。  彼女たちと眠るのは、幼い頃からのシェルの習い性で、強い感応力を持って生まれた最後の弟を、姉たちが守ろうとするせいだった。  家族の労りと愛に包まれていないと、人の心を読む弟が、簡単に傷つき、崩れ落ちるのではないかと、皆が恐れていた。  優しい兄弟たちは、いつも入れ替わり立ち替わり、シェルのそばにいて、他愛もないお喋りや、ちょっとしたからかいや、時にはただ微笑むだけの沈黙で、貴重な壊れやすい物のように、弟を包み込んでくれた。  それでも年かさの順から、兄も姉も姿を消し、旅立っていった後だ。  今も残る年頃の近い姉たちだけが、シェルのための寝床を作っていた。生まれたてのひな鳥が身を寄せ合うように、あるいは冬越しの虫たちが石の下で引きこもるように、幼い体で寄り集まって、一夜を越えて眠るのだ。  シェルは時折、自分のものではない夢を見た。眠りながらでも、感応力が働き、傍で眠る姉の誰かの、夢の欠片を拾ってくるようだった。  せめてそれが止まねば、ひとりで眠ってはなりませんと、母は教えた。  姉たちはみな、夢の躾けがすんでいて、恐ろしい夢を見ない。もしも、たまたま見たとして、お前たちのことは、いつもわたくしが守っています。だからそんな夢が、もしも深い夜の底から立ち上ってきたとしても、わたくしの優しい一角獣(ナールユールブ)が食べてしまうでしょう。  母はその時もどこか、夜を待つ森を駆け回っているはずの、一角を備えた巨大な馬のような、彼女の相手である守護生物(トゥラシェ)の名を、愛しく頼もしいものとして呼んでいた。  シェル・マイオス。お前はわたくしの大切な最後の息子。ナールユールブの縄張りを離れて、ひとりで眠ってはなりません。お前自身の守護生物(トゥラシェ)が、お前を呼び寄せる夜が、やってくるまでは。  そう言う母の言いつけを、シェルは破ったことがなかったが、さすがにもう十二ともなると、姉たちの柔らかな腕や脚に埋もれて寝るのは、恥ずかしかった。  それをぼやくと、兄たちは、恥ずかしいのはそのことより、未だに感応力を制御できないことのほうだと、シェルをからかった。そんな人聞きの悪い不始末で、十二にもなった男子が、姉上たちと眠るとは、寝小便でも垂らしたほうがまだましだ。  早い者ならもう、呼び声を聞く年頃だった。遠い森の奥底から、我を見いだせと啼(な)く、孤独で寂しい守護生物(トゥラシェ)の、相方を求める声なき声を、夜の静寂(しじま)に聞き、はっと目が覚める時期なのだ。  そして旅立ちの朝が来る。  家族のもとを去り、自分だけの守護生物(トゥラシェ)を見つけて、それと契約を結び、真の森エルフとして、ふたたび戻るための道のりを、勇んで始めるための朝が。  まだささやかな木漏れ日の射す早朝に目覚め、シェルは自分にもとうとう、そんな声が聞こえたのかと思った。呼び声は夜聞くものだと皆は言うが、とにかく何かに呼ばれた気がして、ふと目が覚めたのだ。  それは声ではない声だった。感応力の拾う、言葉とも言えぬ言葉で、それは呼びかけていた。愛しいものに。まだ手も触れぬ、遠くにあるものに、せめてもうあと一歩、近づいてはくれぬかと。  微かだが、シェルにははっきりと感じ取れるその気配に、眠る姉たちは全く気づかぬようだった。すやすやと眠る姉たちの、白い体の合間から、シェルはそっと這い出して、彼女たちを起こさぬように、静かに寝床から下りた。  そして昨夜のうちに用意されていた、日用のための長衣(トーガ)を頭からかぶり、眠る間も身につけたままだった、いくつかの首飾りが、服の下にもぐったのを、指で引っ張り出して整えた。  そのうちの一つは、ある朝旅立っていった姉が、涙ながらにくれたものだった。  さようなら弟よとシェルを抱きしめて、姉は打ち明けた。わたくしはもう、ここへは戻らないと思います。  昨夜わたくしを呼んだ者は、どうやら足がないようで、少しも動く気配がしない。だからその守護生物(トゥラシェ)と相まみえれば、私はもう、どこへも行くことができない。ここへ戻ることも、きっと無理でしょう。  だからお前にこの首飾りをやって、お前の持っているのを私がもらい、可愛い弟を思い出す縁(よすが)にしましょう。お前も時々はこれを見て、わたくしを思い出してちょうだい。そういう姉がいたことを。そして、いつも遠い森のどこかで、お前たちを愛していることを。  その朝、姉は旅立ち、そして本当に戻らなかった。皆、身も世もなく泣いて別れを惜しんだが、出ていく姉を止めはしなかった。守護生物(トゥラシェ)の呼び声に逆らうことは、誰にもできないからだ。  姉上はいったい、どんな守護生物(トゥラシェ)と出会ったのかと、シェルはときどき想像してみた。きっと樹のようなのだろう。動けないというのだから、静性の守護生物(トゥラシェ)を得たのだ。そして、それと生涯をともにする。  自分にはどんなのが、呼びかけてくるのかと、シェルはいつも想像してみた。今は思いもつかないけれど、できれば自分にも、動かないのが呼びかけてくればいい。そうすれば、戦いにいかずに済むからだ。  自分たちが、守護生物(トゥラシェ)の呼び声に、逆らうことができないように、動くことができる守護生物(トゥラシェ)は、遠い戦線から鳴り響く、戦いの呼び声に、逆らうことがなかった。  どこか遠い森の果てから、侵略を、あるいは復讐を叫ぶ声がすると、守護生物(トゥラシェ)の銀の目は、それが聞こえる方向へと向けられた。その身の内に燃える戦意は、戦線を目指して移動をはじめる巨獣たちの乗り手にも伝染し、そうなれば誰しも、戦うのを拒むことがないという。  家族を捨て、恋人を捨てて、兄弟たちは戦いに憑かれ、森を出ていった。  そして戻らない。後にただ、喪失の嘆きを残していくのみだ。  自分にもそんな時が来るとは、シェルは思いたくなかった。  動かない守護生物(トゥラシェ)は、遠い戦線を見つめはするが、それでもじっとしている。その乗り手は生涯、戦いに赴くことはない。森に留まって、それを守るのが仕事になる。そこにある木々と、そこに棲む生き物と、そして、そこに住む、戦いを知らぬ民を愛し、慈しみながら。  そのほうがきっと、自分の性格に合っている。  だけどちょっと、寂しくもあった。森は好きだし、一日彷徨っていて飽きないが、できれば遠くまで旅をして、果てしない逍遙をする一生が良かった。まだ見ぬものを、はじめて聞くものを探して、いつも動き回っているほうが、楽しそうに思える。  問題はその、動き回る自分と、じっとしていたい自分とが、噛み合わないことだ。  ため息をついて、シェルは葉陰の濃い窓の外の、朝の森を見た。  不思議な呼び声は、まだ続いていた。  愛しい目よ、愛しい顔よと、それは深い愛に満ち、それでいて悲しみに満ちて、朝霧の森のなかを漂ってきた。  いったい誰が、これを囁いているのかと、シェルは思った。  人の声のような気もした。  なぜそんなふうに悲しそうなのか、シェルは気の毒になった。  美しい朝が、始まろうとしているのに、まるで悲しい夜の続きのように、その声が泣いていたからだ。  行ってみようかと、シェルはふと思った。守護生物(トゥラシェ)を探すように、その声の出所を探して、森を歩き、もしもその誰かを見つけたら、泣かなくてもいいよと慰めてやれるかもしれない。あるいは一緒に泣いてやれるかも。  どちらにせよ、それは好奇心だった。  いつも姉たちに守られているシェルにとって、悲しみや嘆きは、恐ろしくはあったが、見過ごしにはできない、珍しい感情だった。  自分には人より深く、相手に分け入る力があるのだから、それを得た者の義務として、悲しみを癒す義務があるのではと、シェルは時々思った。自分にだけ許される、偉大な大冒険として。  いつもはそれを諫める姉たちも、一角獣(ナールユールブ)を駆る母も、朝霧の中で、まだ眠っているはずだ。  にっこりと一人で微笑み、シェルは寝室を出た。裸足の足で踏む、緑華宮の床には、ガラスの天井を覆う蔓植物を透かして、ところどころ温かく、朝日が射していた。 ----------------------------------------------------------------------- 「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」(2) -----------------------------------------------------------------------  森の朝はすでに活動を始めていた。  朝の早い鳥たちはすでに起き出していたし、シェルはそれに教えられて、真っ赤に熟れた甘い実を、羽ばたく鳥たちのうす桃色の羽根にまじって、指でつみ取り、口に運んだ。  舌に拡がる甘酸っぱい味を楽しみ、指を染める赤い果汁を舐め取りながら、シェルはそれを朝食代わりにした。  呼び声の絶えないように、どことなく急いで腹を満たしながら、シェルは心の耳をそばだてていた。  ふらりと遊びに出る前に、まずは父に挨拶したいと思い、シェルはあと二つ三つの実をとって、鳥たちに別れを告げた。  心地よく湿った土を踏み分け、巨木の茂る森の道を行く道すがら、父上と呼びかけると、族長シャンタル・メイヨウは答えた。可愛い息子よと。  それはもちろん、肉声ではなかった。父はまだ遠く、森の奥にいた。感応力を使って、こちらは呼びかけ、向こうもそれで答えたのだ。  早朝というのに、眠くもなさそうな声で、父は話していた。  お前はもう起きたのかい。シェル・マイオス。  まさか悪い夢にでも起こされたのか。そんなはずはない。たくさんの優しい姉と、僕の愛しい人が、お前を守っているだろう。銀色の一角獣を駆る、勇ましくも美しい、我が妻オラトリオが。  母の名を呼ぶ父の声に、たとえようもない愛があるのを感じ、シェルはなんとなく気恥ずかしく微笑んだ。  母は長命の父にとって、何番目かの妻だった。それでも正式な妻だ。父は同時に複数の妻を愛しはしない。  族長である父は、部族を守護する最古にして最大の守護生物(トゥラシェ)と契約しており、その叡智と力によって、人並みはずれて長く生かされていた。そのため、前の妻と死別したのだ。  そして新しい妻として、シェルの母であるオラトリオと婚姻した。  母は父と愛し合い、彼にたくさんの子を与えた。その最後のひとりが自分だ。  父の守護生物(トゥラシェ)であるアシャンティカは、静性の精霊樹だった。動けない父に代わり、母は戦陣に立つことがあった。その前の父の妻も、その前のも、やはり母と同じように、戦う女だった。彼女たちは皆、父の名代で戦闘に赴き、そして戻らなかった。  そのせいか、父は、母が森を離れることを恐れていた。  あの奔放な一角獣(ナールユールブ)を繋ぎ止めておける頸城(くびき)が、僕の森にあればよいがと、父は時々嘆いた。  その嘆きに、シェルはいつも深い共感を覚えた。  母上がどこにも、行かなければいいが。もしも一角獣(ナールユールブ)の守りがなければ、僕は今夜、怖い夢にうなされるかもしれない。そんな息子を哀れんで、母が今日も明日も、この森に留まってくれればいいが。  そんな息子の相づちに、頷く父の心はいつも、言葉を越えて深い共感と理解を示した。そういった交感は、いつもシェルを安堵させた。姉たちと眠る夜の寝床に似た暖かさが、遠く離れた遣り取りの中にもあった。  父上、と、シェルは族長の声に答えた。おはようございます。  夢で目覚めたのではないですよ。何かが呼ぶ声がしたので、それに呼ばれて起きたんです。もしかして守護生物(トゥラシェ)かな。僕にもとうとう、旅立ちの朝が来たのでしょうか。  期待をこめた冗談で、シェルが話しかけると、父は笑ったようだった。  違うと思うよ、シェル・マイオス。  たぶんお前が聞いたのは、イアンカリスの嘆く声だろう。  あの守護生物(トゥラシェ)は昨夜ずっと、夜を振るわせて嘆き続けていた。可哀想な樹(き)よ。このところずっと、そんなふうなのだよ。  父はそれを夜っぴて慰めたが、イアンカリスは泣くのをやめなかったそうだ。  たぶんその乗り手が、流す涙を止めないからだ。  父はそう、残念そうに話を締めくくった。  シェルはその話に驚いた。イアンカリスの嘆く声を自分が聞いたのは、今朝が初めてだった。それでも父は、その守護生物(トゥラシェ)の悲しみは、ずっと前から続いているかのように話している。  それでは誰かが、今まで自分の耳を塞いでいたのだ。その手を今朝方とったのか、それとも、塞いだ耳にも聞こえるほどの強い嘆きで、イアンカリスが泣いたかだった。  いったいどうしたことかと、シェルは悲しくなった。  イアンカリスは、シェルの同腹の姉の守護生物(トゥラシェ)だった。  姉は名をサラシェネといい、繊細な顔立ちと、繊細な心をした、弱いけれど優しい人だった。  父とアシャンティカのいる、ごく近くの森の中に、戦わない守護生物(トゥラシェ)であるイアンカリスを得て、姉は本当に幸せなだったようだし、シェルは歩いてほんの半日しかかからない姉のところに、時折遊びに出かけていくことができた。  姉がいるのは、感応力を使えば、目の前にいるかのように話せる距離だが、それでも、手を握って目を見て話すほうが、ずっといいような気がしたからだ。顔を合わせると姉は微笑み、しばらく楽しく過ごして、宮殿に帰るシェルを見送るとき、その大きな緑色の目は、いつも寂しげに笑った。  手を繋いで帰り道を送ってくれる姉が、ここから先にはもう行けないという時、シェルは微笑む姉が泣いているような気がした。  姉の力はあまり強くはなく、動かない守護生物(トゥラシェ)を遠く後にして、歩き回ることはできない。イアンカリスと繋がった感応力の糸が切れないように、姉はいつも、自分の限界より何歩も手前で立ち止まった。そしてシェルを抱きしめ、微笑んで、さようならと言った。  あの気弱な姉上が、こんどは何で泣いているのだろう。契約した守護生物(トゥラシェ)が、こんな大声で嘆くほどの、どんな悲しいことが、この平和な森にあるというのか。 「父上、僕は姉上が心配なので、行ってみることにします」  その決心がゆるぎないことを示そうと、シェルは声に出して、父に語りかけた。  そうかい、と、父は答えた。  では行っておいで、優しい息子よ。動けない僕の代わりに、お前が姉の力になってやってくれ。  だけど夜にはお戻りよ。  守護生物(トゥラシェ)のいないお前が、森で夜を明かすのは、あまりにも危ないことだ。  森には悪戯な獣もいるし、悪い夢もある。日暮れには戻って、今夜も姉さんたちと眠るがいいよ。  もしも悲しむサラシェネがお前を引き留めて、帰りそびれてしまったら、勇ましい母上をお呼び。彼女の馬なら、森をひと駈けだ。  シェルは頷き、それを感応力で父に教えた。  行ってきますと伝え、それから、愛しています父上と伝えた。  するとシャンタル・メイヨウは答えた。  僕もだよ、頼もしい息子よ。お前を愛している。冒険をしておいで。  その声に送られ、シェルは旅に出た。姉の悲しみに泣き、父の愛に微笑みながら。 ----------------------------------------------------------------------- 「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」(3) -----------------------------------------------------------------------  靴をはいてくるべきだったなと、シェルは後から気づいた。  半日足らずの道のりとはいえ、着の身着のままの裸足で歩くには、道のりは遠く感じられた。  土にまみれた足指を見ると、どこかで切ったのか、かすかに血が滲んでいた。  しかしもう、だいぶ歩いて来た後で、戻るよりも、行ったほうが近い。  足が痛いなあと、困って呟くと、時々森から鹿やら栗鼠(りす)やらが現れて、いっしょに歩いてくれた。  遠くを逍遙しているらしい兄が、痛がるシェルの声を拾って、お前はなんで裸足で来たのかと、心配げに笑って訊ねてきたりもした。  靴をとってきてやるか。それとも、僕の守護生物(トゥラシェ)に乗せてやろうかと、兄は誘ったが、シェルは黙って首を振った。  まったく兄上はいつも僕を子供扱いだよ。靴を忘れたのは、確かに間抜けだったけど、それでも僕は裸足で行くからいいんです。兄上は僕をほっといて、愛しい人のところへ行くといいよ。  その片意地な答えを聞き、兄はまた笑って、頑固者の弟よと、からかうような返事を寄越した。気をつけていくがいい、何かあったら呼んでいいんだよ。確かに僕は愛しい人を訪ねていくところだが、お前も大事な弟だ。  愛しているよ、シェル・マイオスと、兄はこちらに別れを告げた。  そう言う兄の心が、どこか遠いところにいる愛しい女への想いで満ちているのを感じ、シェルは何となく焼き餅をやいて、なにも答えずにおいた。  昔はみんな、末っ子のシェルを何よりも大事に想ってくれたが、いつしか守護生物(トゥラシェ)だったり、戦いだったり、他に想う相手ができて、ひとりまたひとりといなくなった。  何かのついでのように、兄に助けてもらっても、シェルは嬉しくはなかった。  サラシェネ姉上も、ちゃんと守護生物(トゥラシェ)がいるというのに、いったいどんな不足があるというのか。この世でたったのひとりだけ、自分だけを愛してくれる相手がいるのに、どんな寂しいことがあるのだろう。  シェルはそれを知りたくて、歩いている自分を感じた。  守護生物(トゥラシェ)がいれば、それで完全な幸福が、自分にはやってくる。そんなふうな憧れがあって、それでは足りないという姉が、気の毒なほど貪欲に思えた。  イアンカリスも可哀想にと、シェルは遠くに呼びかけた。姉上のわがままな嘆きに付き合わされて、お前まで幾夜も泣く羽目になるなんて。  この世の中に、守護生物(トゥラシェ)では癒せない、いったいどんな悲しみがあるというんだろう。  それを見せておくれよ。いつも悲しみから守られている、この僕に。  そう呼びかけて、いくつかの樹木を行き過ぎ、シェルが美しく苔むした岩を巡ると、姉はそこに立っていた。  唐突に現れた姿に、シェルはびっくりした。  ここまで姉が来ると、想像もしていなかった場所だったせいで、感応力の糸を発して探すことさえ、まだしていなかった。  いつもなら、こんなところまで弟を送ったら、守護生物(トゥラシェ)との契約が途切れて死んでしまうと、姉が思っているような地点だった。  サラシェネは真昼の木漏れ日に照らされ、呆然としたように突っ立っていた。その薄汚れた頬は、涙に濡れていた。悲しみに乱れた長い金の髪は、頭を抱えている彼女の白い指を埋めて、まるで掻きむしられたようだった。  姉が引き毟ったらしい、首飾りや、腕輪の宝飾が、あたりに撒き散らされており、そのうちの一つは、かつての幸福そうな別れ際に、シェルと交換したものだった。  うち捨てられた愛の印を見て、シェルは一時、立ちすくんだ。それは、泣いている姉の姿よりも、ずっとシェルの心を傷つけた。 「姉上」  裏切られたような痛みにびっくりして、シェルは呼びかけた。  姉は涙に汚れた顔で、ゆっくりとこちらを振り向いた。頬にはりついた長い髪が、涙で濡れて、痛々しく見えた。 「どうしたんですか、姉上」  シェルを見つめた姉の目から、睫毛を濡らして、大粒の涙がぽたぽたと流れ落ちた。サラシェネは悲しみの漂う、真顔のような無表情で、ただ呆然と泣いていた。 「ごめんなさいね、シェル・マイオス。あなたが来たのに、気がつかなかった」  そう答えて、姉はやっと、悲しそうな顔をした。伏せかけた目から、新しい涙が頬を伝った。押し寄せてきた深い悲しみと苦悩を感じて、シェルはあわてて心を閉ざそうとした。それを察してうつむき、顔を覆った姉は、自分の両手に顔を埋めたまま、堪えるような嗚咽を漏らした。 「いったいどうしたんですか、姉上」  悲しくなって、シェルはもう一度訊ねた。顔を上げ、引きつったため息をついて、サラシェネは胸を喘がせ、それでも何とか声を出して、密やかに答えた。 「わたくしは、恋をしたのです」  姉が眉間に悲嘆の深い皺を刻み、はじめ見ていたほうへ顔を向けるのを、シェルは見守った。木々の茂る森の先を食い入る目で見つめる姉の視線には、全身全霊が籠められているように見えた。  その視線の先を、シェルはゆっくりと辿った。  森には何事もなかった。枝を伸べる木々にも、何の変哲もない。明るい陽の射す梢には、栗鼠が遊ぶのが感じられた。  羊歯(しだ)の葉が美しい、下草の茂るあたりに、薄暗く陽の届かないまばらな茂みがあり、その向こう側に、うっすらとした輪郭となって、誰かが立っているのが見えた。目を懲らせばそれが人で、こちらを見つめているのが見て取れた。  姉上を見ている。  その人影は、まぎれもなく森の同族で、まっすぐな長い金髪をしていて、ずいぶん長身の、まだ若い男だった。彼は杉の若木のように、すらりと立っていた。  黙って姉を見る目は、姉が彼を見つめるのと同じ、食い入るような視線だった。遠目でよく見えなくても、シェルには相手が姉と同じく、ひどく憔悴しているのが分かった。  いつからこうして、ふたりは見つめ合っていたのだろう。  なぜ、ただ見交わすだけで、近寄ってこないのかと、シェルは考え、向こうを見つめて、そして気がついた。  姉がここから、あと一歩も踏み出せないように、向こうもあそこから、一歩も進めないのだ。たぶん、それが彼の感応力の及ぶ限界で、さらに一歩進めば、動けない守護生物(トゥラシェ)との契約の糸が途切れてしまうのだろう。  ここから向こうまで、シェルが走って、ほんのちょっとの距離だった。叫べば声が届くような近さだ。 「姉上、どうして叫ばないの。名前を訊いたらいいよ」  シェルはサラシェネに問いかけた。姉はもう、こちらを見はしなかった。 「それならもう、とっくに訊いたわ。あの人の名はミゲルよ。守護生物(トゥラシェ)はギュスタールというの。わたくしの森の、北にある森を、治めている人よ……」  姉の答えを聞いて、シェルは再び、離れたところに立つ男を見やった。  ギュスタールの乗り手のミゲルを。  シェルの知らない名だった。領地を持った守護生物(トゥラシェ)に乗っているということは、為政者だったが、たぶん王族である姉や自分から見て、名を知っているような高い身分の相手ではないのだろう。  歳を経て守護生物(トゥラシェ)は成長し、だんだん賢く老獪になってゆき、初めは領地を持たなかったものが、新しい森を分け与えられることがある。彼が治めているのは、そういう小さな森ではないかと、シェルには思えた。 「彼はこっちには来られないんですか」 「動けないの」  姉は呆然と答えた。 「わたくしも、あの人も、もうこれ以上先へ行けないの」 「それでずっと、ここに立っていたっていうの、姉上」  サラシェネは目を伏せ、涙をこぼして、弱々しく首を横に振った。 「あの人は時々いなくなるわ。施政があるのよ」 「姉上にだってあるでしょう。この森を治めているのは姉上なんだもの」  目を伏せたまま、姉は力なく頷いた。しかしそれは、分かっているという意味で、やむをえず頷いたようで、サラシェネはひどく、苦しそうだった。 「この場を離れる、勇気がないのです。あの人が戻ったときに、わたくしが居なかったら、諦めたのだと、思われそうで」 「約束すればいいじゃないですか。いつ戻るか、いつ会うか二人で相談して、決めた時に約束を守って、ここで会えばいいよ」  シェルが提案すると、姉は目を伏せたまま微笑した。そうして頷く様子は、なおいっそう悲しげなようだった。 「そうね。あなたの言うとおりです。わたくしはただ、一歩でもあの人の近くに、いたいだけなの。それで何もかも放り出して、ここに立っているのです」  姉が森を守ることを放棄していると悟って、シェルは衝撃を受けた。  領地を支配する守護生物(トゥラシェ)と契約したものは、それを乗りこなして、森に住む平民たちと、それと契約しているものたちを、束ねて守っていく義務を負っていた。森の守護者から切り離されてしまうと、皆どうしていいか分からないだろう。孤独と不安に苛まれて、困っているに違いない。 「姉上、イアンカリスはどうしているんですか」  サラシェネの守護生物(トゥラシェ)のことが、シェルはきゅうに心配になった。嘆く声がするほかに、それが何か言葉を発する気配はなかった。 「イアンカリスは……どうしているかしら」  呆然と興味のないふうに、姉は答えた。そしてまた、遠くにいる者をじっと見つめた。  姉の視線を受けて、彼は苦しむふうに首を垂れた。それは、挨拶したのかもしれなかった。あるいは疲れ果てたのか。  項垂れた首を起こすのかと思ったら、茂みの向こう側にいるミゲルは、そのままこちらに背を向けた。森の薄暗がりに歩み去る男の背を見て、姉が口を覆い、細い悲鳴のような嗚咽をあげるのを、シェルは聞いた。  それでも目を開いたまま、立ち去る後ろ姿を見る姉のところへ、彼は呼びかけてきた。  きっとまた戻りますと。  それはシェルにも聞こえた。その一言にこめられた、彼の強くゆるぎない想いとともに。  姉がその場に頽れるように座り込むのを、シェルは慌てて支えようとした。しかし嘆く姉の体を支えてやるのは、シェルには無理だった。涙で濡れたような、湿った土を掴んで、姉は身を搾るような細くこらえた泣き声を上げた。  どうしたらいいのと、姉の声がした。  ああ、せめてあと少しでいい、わたくしに力があれば。あの人の目の前にいって、僅かに指先だけでもいいの、触れあうことができたら。  そう言う姉が、それを諦めているのが、シェルには分かった。  イアンカリスは動かない守護生物(トゥラシェ)だった。姉はそれをよく知っていた。感応力の及ぶ領域を越えて、イアンカリスを後に残し、進んでいくことはできない。  姉はいつも、その一線のずっと手前で、さようならと言った。寂しく微笑みながら、いつも自分から、立ち去るシェルの手を離した。  だけど今はこうして、引き留める糸を張りつめさせて、領地の果てるところまでやってきた。そして諦めきれず、この場から離れて戻ることもできずにいる。  シェルはサラシェネの想いの深さを悟った。  確かに姉は恋をしたのだった。さっきまで姉を見つめていた、あの男に。  そして治める森も、守護生物(トゥラシェ)も、懐かしい家族との愛も、彼女にとっては意味のないものになってしまった。  姉がここで泣いているのは、ただ、最後の糸を切って、あの背中のあとを追う勇気がないせいだ。彼がまた戻ると言って去ったのは、そんな姉に後を追わせないためにだろう。  あの一言に縋って、姉は待っている。何もかもを投げ打つ、一歩手前で。  それを裏切りと思うには、姉の想いは純粋で、あまりにも強すぎた。シェルは姉が、気の毒になった。そこまでの強い想いがありながら、諦めるしかないと苦しむ姉のことが。 「姉上……」  隣から呼びかけて、シェルはサラシェネの手を握った。 「姉上、イアンカリスは」  聞いていないふうな姉の耳に、シェルは呼びかけた。 「本当に動けないんですか。ほんのちょっとも、姉上のために、動いてはくれないの?」  シェルの問いかけに、サラシェネは苦悩する顔を上げた。  そして首を横に振り、姉は答えた。 「私のイアンカリスは樹(き)なのよ、シェル。樹がどうやって動くのですか」 「樹だって動きますよ。ほんの少しなら。姉上、あの人がそんなに好きなら、イアンカリスに頼んでみたらいいよ。動いてくれって」  サラシェネは涙に潤む疲れ切った目で、こちらを見つめていた。 「何年かかるか、わからないけど、あとほんのちょっと近づくために、一生かけてもいいじゃないですか。諦めるよりそのほうが、ずっといいよ。姉上がこの先ずっと、ここで泣いているなんて、僕は悲しいです」  泣きつかれて、嗚咽に喘ぐ肺に息を吸い、姉は考えているようだった。  シェルは黙って、姉が考えるのに付き合った。 「父上はそうは仰らなかったわ。母上も……」  サラシェネは荒い呼吸をして、そう答えた。 「可哀想だが、お前は森を守らなければと、父上はわたくしを慰めておられたわ。母上は、このままではイアンカリスは消耗して、わたくしとの契約を放棄するしかなくなると、叱っておられたわ」  シェルは姉の隣で膝を抱えた。繋いだ手を、サラシェネはしっかりと握っていた。 「姉上、試しにイアンカリスを、引っ張ってみたらどうでしょう。姉上の気持ちがわかるなら、きっと動いてくれますよ」  恐る恐るシェルが話すと、サラシェネはしばらく、ぼんやりとしていた。  それから姉は、ふらりと立ち上がった。  後を追う目をしていた。茂みの向こうに消えた背中を。  しかし姉はもう、諦めているのではなかった。  ただじっと立っているだけのように見える姉の顔に、今までとは違う苦悶が浮かぶのを、シェルは見つめた。  いつも弱気だった姉が、動くはずのない樹(き)を、渾身の力で引っ張りはじめたのを。  握られた手が、痛いほどだった。それでもシェルはそれを振り払う気がしなかった。  そうやって、直に手を握っていると、持ち前の強い感応力が、姉の気持ちを克明に拾いあげ、シェルに伝えてきた。  しかし、姉はさっきの男が好きなのだという事に、深い納得は湧くものの、その気分の正体が、シェルには理解できなかった。  家族でもないし、友達でもない、ちょっと前に出会って、ただ遠目に見ただけの相手が、姉上はなぜそんなに好きなの。  好きなものは、しょうがないけど、どうしてそれは、他の何もかもを、捨てられるような愛なの。  いつも自分から、さようならと言う姉が、今は男の背を追いかけていた。  必死の汗をかき、苦悶の涙を流しながら、姉は遠くに呼びかけていた。愛しい人よ、あなたの近くに行きたいわと。  その声にこもる気持ちは、今朝方シェルが聞いた、父の声と同じだった。母上の名を呼ぶときの、その声にある愛と。  悲しくなってきて、シェルは泣いた。  いつも沢山の愛に包まれて、守られているのに、なぜか今、自分がたったひとり、孤独なような気がした。  僕にも姉上のように、必死になって追える人が欲しいな。愛しい者よと呼びかけられるような、そんな相手が。守護生物(トゥラシェ)でもいいし、他のものでもいい。別になんでもいいから、今感じている、この孤独を癒してくれるような、何かが。  サラシェネの手を握り、シェルは励ました。  そんな愛を得た時、きっと僕にも、今の姉上の気持ちが、本当に良く分かるだろう。  姉が目を伏せ、大粒の涙をこぼした。  その時、動かないはずの樹(き)が、かすかに動いたようだった。  姉の泥にまみれた小さな爪先が、ほんのわずか、前に出た。  シェルはそれを見て、今夜はもう、帰れないと思った。この姉を一人この場に置いて、どこへも行くことができないと。  姉は奇蹟のような力で、動かないイアンカリスを引き寄せ、彼女の忠実な守護生物(トゥラシェ)が、それに応えようと、懸命にもがいているのが感じ取れた。 ----------------------------------------------------------------------- 「ギュスタールとイアンカリスの婚姻」(4) -----------------------------------------------------------------------  夕日の射し始めた森の向こうから、母は現れた。  確かに父の言うとおり、一角獣(ナールユールブ)を駆る母オラトリオにとって、歩いて半日の距離など、ほんのひと駈けのようだった。  母は自分だけでなく、いつもシェルがいっしょに眠っている年若い姉たちを、自分の守護生物(トゥラシェ)の取り巻きの馬たちに乗せて、たくさん引き連れてきていた。  今夜はどうも宮殿には戻れそうにないと、シェルが母に知らせたせいらしい。  夕刻にさしかかっても、戻る気配のしない末っ子を案じ、母が呼びかけてきたのだ。  可愛い息子よ、お前は太陽が森の上を駆け抜けたのに、気がついていますか。今すぐ戻り初めないと、お前は陽が落ちるまでに、姉たちのもとに辿り着くまい。いったいどこで眠るつもりなの。  心配げな母の優しい叱責に、シェルは答えた。  サラシェネ姉上の傍にいたいので、戻るに戻れませんと。  すると母は、自分がそこへ行くと言い、馬たちに森を駈けさせたのだった。  姉と手をつないで立っていたシェルを、母はじっと厳しい目で見つめてきた。  巨大な、銀色に近い肌色をしたナールユールブは、その見事な角が、木々の梢に触れるような大きさだった。  その額のあたりの、白い角の脇に、母はそれと抱擁するようにして、美しい白の鬣(たてがみ)の中に埋もれて座っていたが、こちらの姿を目にすると、ナールユールブに首を垂れさせ、ひらりと森の地面に飛び降りた。  やや遅れて辿り着いた姉たちの馬も、目にした有様に驚いたふうな乗り手たちを、母のそばに運んで、その場に降り立たせた。  なにをしているのですか、サラシェネと、母は姉に尋ねた。  姉は苦悶する顔のまま答えた。  わたくしの守護生物(トゥラシェ)を引っ張っているのです、母上と。  そんなことをして、何になるのですか。お前のイアンカリスは、動けはしませんよと、母は姉を哀れむように教えたが、姉には答える余裕がないようで、黙っていた。それでシェルは彼女に代わって、母に首を横に振ってみせた。  動きました、母上。さっき、一度きり、ほんのわずかだけど、イアンカリスは動きましたよ。きっと姉上の心が、あの守護生物(トゥラシェ)には、良く分かっているんでしょう。  そう教えると、母はますます心配げな、険しさのある表情になった。夕刻の風が木立を吹き抜けるのに、母のとても長く美しい金の髪が、さらさらと舞った。  同じ風に吹かれる姉の髪は、母とそっくりに、ゆるやかに波打つ綺麗な金髪だったが、今は汗と泥にまみれ、見る影もない。それでもシェルは、サラシェネ姉上は、こんなに綺麗な人だったかと、その必死の姿を、間近に見上げて思った。  姉は母が止める目をしているのにも気づかず、そういう心の声にも、耳を傾けなかった。頑張ってと呼びかける、シェルの手だけを握り、サラシェネは歯を食いしばっていた。  そしてまた少し、姉は足を進めた。  ほんの僅かのその動きに、母が驚いたのが、シェルには感じ取れた。  やっぱりイアンカリスは動いているんだろうなと、シェルは思った。そうでなければ母上は驚いたりしないだろう。ほんのちょっとずつだけど、姉上は前進しているらしい。あの、戻ると約束して去った、愛しい人に向かって。  あの人はいったい、いつ戻ってきてくれるんだろう。  まさかずっと先にしか、戻らないつもりかな。  そんなふうに心配をして、シェルが姉の手を握っていると、ふとサラシェネが、弾かれたように瞼(まぶた)を開いた。姉の大きな緑の目が、茂みの向こうを見るのを、シェルはぼんやりと見上げた。  姉は森の奥から、走ってくる男を見ていた。それでも必死でいる姉は、微笑みもせず、顎から滴らせた汗を、ぽとりと落としただけだった。  男は茂みの手前まで、息をきらせて走ってきたようだったが、腰より低い灌木の硬い葉をした枝を、差し出そうとした右手で掴んだところで、見えない糸に背を引かれたように、ぴたりと足を止めた。  動けないのと、昼間答えた姉の言葉を、シェルは思い出した。彼の名はミゲル。守護生物(トゥラシェ)の名はギュスタール。そして彼は、あの茂みよりも先に踏み出して、姉上のところに来ることができない。  足を止めた若者を、母は胸を張って眺めた。彼女が産み落とした、今はまだ旅立ちの時ではない小さな姉たちも、同じようにして見つめていた。  若者よと、母は誰にでも聞き取れるような、はっきりとした声で呼びかけた。  わたくしはこの娘の母です。  娘はお前に恋をして、そちらへ行きたいそうです。それでこうして哀れにも、動きもしない樹(き)を引っ張っているそうです。  娘の守護生物(トゥラシェ)はそれに応えました。愚かなサラシェネの真(まこと)の愛に共感し、イアンカリスは動くことにしたようです。  お前はわたくしの娘を愛しているのですか。  もしもそうなら、お前もこちらへ来られるはずです。いかに時を経ようとも、動かぬものを動かして、ここへ辿り着けるでしょう。  それが無理なら、今すぐ立ち去りなさい。そんなお前は、わたくしの可愛いサラシェネに、ふさわしい男ではありません。  娘に背を向けて、とっととお退がり。  この娘(こ)はわたくしと、族長シャンタル・メイヨウの大切な娘です。それを奪おうというなら、お前は命をかけなさい。  誇り高く、そう命じる母は、自分が誰かを名乗らなかったが、そんなことを言うまでもなく、彼女は森の正妃のほかの、何者にも見えなかった。  そんな姿を自分は知らないが、きっと母は戦場に立つとき、こんな顔をしているのだろうと、シェルは思った。挑みかかるような、強い瞳を、母はしていたからだ。  勇ましいオラトリオと、父上はいつも母のことを呼ぶ。いつも労りに満ちて優しい母の、一体どこが勇ましいのか、今までシェルにはよく分かっていなかったが、確かに母は勇ましいようだった。  それに挑まれ、遠目に見るミゲルは、どことなくたじろいだ風だった。  しかし彼は、とっとと退がりはしなかった。まったく動かないでいる若者が、茂みの枝を握る手に、姉と同じような、渾身の力をこめたのが、感じられた。  ああ、あの人はきっと、姉上のところに来るなと、シェルはそういう予感を覚えた。  彼は姉の名を呼ばず、愛しい者よと呼びかけてはこなかったが、じっと見つめる目と、こちらに向けた言葉にもならない想いの中に、姉を掻き抱くような、強い愛情があるのを、シェルは感じ取っていた。  それは自分が、夜中にふと目が覚めて、ひとりで起きているのが怖くなり、目の前にある姉たちの腕や足に縋るようなのとは、まったく別の抱擁だった。  確かに兄たちのからかうように、姉上たちに埋もれて眠るのは、ずいぶん恥ずかしいことだ。自分にはまだそれが必要で、どうにも仕方がないけれど、いつかはあの茂みに立つ彼のように、ただ一人愛しい者だけを抱いて、眠るのが本当じゃないか。  そんな相手が僕にも、いつか現れればいいがと、シェルは姉と向き合っている男を、微笑んで見つめた。彼が姉上の愛しい人で、自分にとっては家族なのだと思ったからだ。  握った姉の手に、それを伝えると、サラシェネはぽろぽろと、涙をこぼした。  でももう姉は悲しくて泣いているのではなかった。それを証すように、遠くからずっと聞こえていた、イアンカリスの嘆く声は、もう聞こえなかった。  見つめ合う二人の、ひどくゆっくりとした前進は、一昼夜ではすまず、何日も、何日も続いた。  母はあきらめたふうに腰をすえ、彼女に仕える民に呼びかけて、この場で幾日も過ごすのに必要になる水や食べ物や、夜の冷えを凌ぐための上掛けを運ばせた。  宮殿の外で眠る夜は寒く、暖をとるために焚かれた火の熱さが、シェルには物珍しかった。ここでもやはり、姉たちと身を擦り寄せて、母の膝元に抱かれて眠り、シェルはうとうととまどろみながら、戦うサラシェネの姿を見つめた。  夜が明け、朝になり、昼が来て、また陽が沈んだ。  そうして二人が戦う間、シェルは小さな姉たちと一緒に、サラシェネや、向こう側の男のところに、水や食べ物を運んでやり、ふたりが何とか生きていられるように、何くれとなく世話を焼いてやった。  ふて腐れたような母のご機嫌もとらねばならず、シェルは普段よりずっとにこにこして、出来る限り母の膝元に座っていた。  だが、やがて灌木の茂みを乗り越えてきた相手の男のところに、水を持っていってやるときには、自然と笑みがこぼれた。水を入れた木の椀を捧げ持って、転ばぬように歩いてきた自分を、静かに眺めるミゲルの顔は、苦悶にやつれているものの、どこか満ち足りたように、優しく微笑みかけてきたからだ。  シェルは彼に水をやりながら、時には言葉で、時には感応力を使って、姉の話をしてやった。  サラシェネ姉上は、うちにいるとき、もっとずっと弱い人だった。あなたが姉上の愛しい人になってから、あんなに勇気のある、強い人になっちゃったんですよ。  姉上も結局、あの母上の娘だったみたいです。  父上は勇ましい母上の、強いところが好きだって。あなたもそうですか、僕の姉上の、強いところが好きなんですか。  シェルが好奇心に光る目で、そう訊ねると、水を飲んでいる男は、真面目に答えてきた。  私は、殿下の姉上の、強いところも、弱いところも、全てが好きですと。  その返答が、シェルは心底嬉しく、そして気恥ずかしくなり、からになった椀をもらうと、母のところに走って戻った。  静かな戦いは幾日続いたのだったろうか。  シェルは途中で数えるのを止めた。  やがて姉と若者は、明るい木漏れ日のさす中程のところで出会い、お互いに手を差し伸べるのを堪え、そのまた幾日か後に、固く抱き合った。  気の利く幼い姉たちが、ふたりの髪を梳(くしけず)り、森が与えた花々を、美しく挿してやったので、愛しい人と抱き合うサラシェネ姉上とミゲルの姿は、まるで一枚の絵のようだった。  幼い姉たちはそれに立ち会い、感激してわんわん泣き、遠目に見ていた母は、なぜかひどく悔しがって誇り高く顔を上げたまま、むせび泣いた。  やや離れて立ち、シェルだけがひとり、微笑んでそれを眺めた。  どこか遠くの森で、ミゲルの相方の、守護生物(トゥラシェ)が歓喜の声で啼(な)いている気配がした。それは、こちらの森に響く、イアンカリスの喜びと共鳴しあい、いつまでも絶えずに、幸福な残響を漂わせた。  たぶん、この日、姉とその愛しい人によって結びつけられた二つの森は、広大な部族領の中で、もっとも幸福な場所となったでしょう。  僕はそう思うのですがと、シェルはうちで待っている、動けない父に語りかけた。  族長シャンタル・メイヨウの答える声は、幾分遠かったが、それでもシェルには難なくそれを聞き取ることができた。  父は笑っているようだった。  いかにも、そうだと、父は応じた。お前の言うように、歓喜するふたつの森が、ここからでもよく見えるよ。ずいぶん長い冒険になったようだが、お前はいつ僕のところに帰ってくるんだい、シェル・マイオス。僕と、勇ましいオラトリオの、大切な息子よ。  そう問いかける父に、今夜には戻りますと、シェルは答えた。  それから、愛しています父上と告げた。それに応える父の声は、全ての森を統べる慈愛に満ちて響き、愛しい子よと言った。  一片の悲しみもない森の空気の中に立ち、惜しみない愛に包まれて、シェルは微笑し、いつか自分にも訪れるであろう、旅立ちの時を、甘く美しいものとして、夢に描いた。  その時が、僕は待ちきれない。きっと素晴らしい冒険が、僕を待っているのだろう。  早く呼んでおくれよと、シェルは虚空に呼びかけた。  僕の、愛しい者よ。  君が呼べば、僕はどこまでも君を、探しに行く。そして君と固く抱きあうだろう。奇蹟のような戦いの果てに、揺るぎない幸福を掴んだ、イアンカリスと、ギュスタールのように。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 「失楽園」 ----------------------------------------------------------------------- 「船(オルドヴァス)、月(レイナ)、星(パスハ)……」  赤銅色の壁にランプの明かりを寄せて、スィグルはそこに描かれている古びた絵を撫でた。ざらりとした手触りが、指に触れる。壁はしんしんと冷えている。  古い漆喰の匂い、壁を染めた赤い顔料の匂い。石畳の床に降り積もった、砂っぽい積年のホコリの匂い。  ずっと長い間、誰にもかき乱されたことのない深い地下の空気を吸い込むと、自分がこの地の静寂の中で、もう死んでいるような気がする。  ちらりと、ほんとうにそうだったらいいのに、とスィグルは思った。すでに死んだもののように、永遠にここから動かずにすむのなら、どんなに気楽だったろう。  ランプの明かりは、スィグルが手を伸ばした先ほどまでしか届かない。光の中にある世界にだけ、鮮やかな色合いがあり、その先は不吉な無彩色、そのさらに先は、完全な虚無だった。  濃密な闇の底に、小さく新しい世界が生まれ、その中に突然生み出された、最初の人になったような気分だ。 「森(ウィドラン)、砂漠(サラセン)……都(タンジール)」  ざらつく壁を指でなぞりながら、スィグルはそこに描かれているものの名を呼んだ。公用語ではなく、砂漠の部族が話す土着の言葉でだ。  壁画の中で、鬱蒼とした森から血の道が続き、黒い髪を長くなびかせた黒エルフたちが、涙を流しながら逃げてくる。彼らは、砂漠の渦巻きのなかに隠された、王都タンジールにたどり着くと、泣くのをやめ、美しい花が咲き乱れ、果実がたわわに実る、宝石で輝く楽園の中で抱き合い、体を丸くして眠っていた。  その中で、たったひとり起きていて、真冬の新月のように鋭い剣と弓矢を掲げ、同胞たちを守っている男がいた。額には燃えるような赤の額冠(ティアラ)。黒エルフ族最初の族長、アンフィバロウだ。眠る同族の者たちの何倍もの大きさに描かれた彼は、魔法を象徴する白銀に輝く蛇を、肩に巻いている。  彼の末裔として、その血を受け継いだ自分が負っている義務のことを、スィグルはよく分かっているつもりだった。  誰もがくつろいで眠っている間も、こうして起きていることだ。民が安心して眠れるように。  必要があれば真っ先に血を流し、命を落とす。それが王家の者の誉れだ。そうやって作られた血の道を踏んで、部族の民は楽園へと導かれる。  自分も、そのような一生を生きて行けるものと思っていた。なんの疑いもなく。今でも、そういう名誉を心底から望んでいる。  ランプを石造りの床にそっと置いて、スィグルはほこりっぽい地下通路にぺたりと座り込んだ。視界いっぱいに広がるくすんだ壁画は、覆い被さってくるような巨大さだ。  抱え込んだ自分の膝がふるえているのを、スィグルは大きく息をつきながら見下ろした。  明日にはここを出ていかなければならない。黒エルフの魂と結び付けられた、この楽園から放たれて、再び遠い異郷へ。  同盟を取り結ぶための人質が必要なのだという。山エルフの部族領にあるトルレッキオという土地へ、神聖神殿の求める人質として、自分が赴くことになっている。  同盟による和平が長続きするなどとは、誰も思っていなかった。そのうちどこかから約束ごとが破られて、また戦いが始まる。その時には、人質として差し出された者は見せしめのために殺されるだろう。  人質の命を惜しんで敵に媚びるのは、部族の恥だ。族長は息子の命を見限るだろう。  同胞たちに余計な気苦労をかけないように、いよいよの時には、自らすみやかに命を絶つことが、部族長の一族のものの作法だとされている。  長衣(ジュラバ)の飾り帯に提げていた短刀を抜いて、スィグルはその鋭い切っ先が揺らめく薄明かりに浮かび上がるのを見つめた。  職人たちが精魂をこめた刃は鋭く、触れただけで切れそうなほどに研ぎ澄まされている。  刃渡りはちょうど、スィグルが手を広げた親指から小指までの幅より少しだけ長い程度。それが心臓までの距離だと教えられた。自害するためだけに作られた高貴な武器だ。  刃先には塗りつけられた毒が乾いて、美しい虹色の薄膜を作っている。この短刀で胸を一突きすれば、傷つけられた心臓は止まり、2度と目覚めない眠りがやってくる。なにかの間違いで手元が狂っても、切っ先の毒が代わって役目を果たすだろう。  そのように説明して、宮廷に使える医師たちが、スィグルにこの短刀を渡したのだ。お苦しみになるのは、ほんの一瞬です、と彼らは言った。  スィグルは試しに、自分の心臓をねらって、短刀を構えてみた。  宝石で装飾された短刀は、とても美しい。異民族の下品な武器で命を奪われるよりは、ずっとましだ。  しかし、見下ろした切っ先は無様に細かく震えていた。  もし本当に、これを胸に突き立てる時がきたとして、自分はうまくやれるだろうか。誇り高い、アンフィバロウの子孫として、笑って死ねるか?  虹色の刃先を見つめていると、眩暈がして息があがった。地下の空気は土臭いカビの匂いを漂わせている。いくら息を吸っても、胸が苦しい。  不意に視線を感じて、壁画のアンフィバロウに目をやり、スィグルは握っていた短刀を取り落とした。床の岩盤を叩く硬質な音が闇にこだまする。  絵の中の部族民が、自分を見ているような気がしたのだ。白い蛇に抱かれたアンフィバロウが、金色のするどい眼差しでこちらを見ている。  厳しい眦(まなじり)が冷ややかな、鋭く端整な顔立ちは、どこか父・リューズに似ていた。タンジールの都を守護する、力強い族長。民を守り、労り、富を与える部族の家長。父は卑怯者を許さない。族長は、いつも正しくあらねばならないからだ。 「…………スィ……グル……」  遠くから幻のような声が、名前を呼んでいる。スィグルは恐怖にとりつかれて、冷たい石の床をあとずさった。 「スィーーーグーーーーーール?」 「今度はちゃんとやるよ……約束するから……!」  真っ暗な天井を振り仰ぎ、スィグルはか細い声で答えた。  見つめると、どの絵も安らかに眠っている。楽園のような都で。しかし誰も彼も、眠ったふりをしてほくそ笑んでいるようだ。目をそらせばまた元通り、嘲りの目でスィグルの背中を見つめているのだ。そうに決まっている。  耳をふさいで、スィグルは床にうずくまった。 「ちゃんとやれる、僕は、臆病者じゃない。ちゃんとやれる、ほんとに……命なんて……惜しくないんだよ!」  恐怖から逃れる呪文のように、スィグルはうわごとのような言葉を口走っていた。  心にもないことだ。父祖たちの鋭い視線は、胸の奥に隠した臆病心を見とおしているに違いない。そう思って、スィグルはますます、深い恐怖に心を奪われた。  不意に肩を突付かれて、スィグルは悲鳴を上げた。  飛び起きてあとずさると、遠くの壁に悲鳴がこだまする残響がいくつも聞こえた。 「スィグル」  目の前の床に片膝をつき、ランプをかざした誰かが、スィグルの顔をのぞきこんできた。  淡く暖かい色の明かりに、金色の目が爛々と輝いている。暗闇に白く浮かび上がる顔は、たったいま壁画から現れ出たように鋭く端整だ。  彼が連れているはずの白い蛇がどこにいるのかを、スィグルは無意識に目を走らせて探していた。そうして少したってから、自分がなにをやっているのか不思議になった。 「……父上」  自分の長衣(ジュラバ)の胸元を掴み、スィグルは激しく鼓動を送ってくる心臓の場所を確かめた。  身をかがめ、こちらを覗き込んでいる顔は、確かに父・リューズのものだ。身につけた長衣(ジュラバ)は闇に溶け込みそうな黒で、普段着のための質素なものとはいえ、つややかな絹糸で見事な刺繍がほどこされている。 「父上」  かすれた小声が届かなかったのかと不安になって、スィグルはもう一度つぶやいた。 「もうすぐ宴がはじまるので、侍従や女官たちがお前を探していたぞ。戻って着替えなさい。今日は特に、お前の好きなものを作らせた」  うずくまっているスィグルの腕を引いて立たせ、リューズは穏やかに言った。 「それとも、宴は飽きたか?」  床に転がっていた短刀を拾い上げ、父がそれを灯りに透かしているのを、スィグルはまともに見られない気持ちで上目遣いに見た。 「そなたの母上の具合はどうだ」 「宴には出席なさいませんが、だいぶお元気になられたようです」  早口に答えると、リューズはじっとスィグルの顔を見下ろしてきた。  スィグルの長衣(ジュラバ)の帯に挟んだ鞘に、注意深く短刀を戻して、リューズは髪をおろしたままのスィグルの頭に手を置いた。 「誰がお前に嘘をつくことを教えた?」  伏目がちにこちらを見つめる、父の厳しい目を見上げて、スィグルは息を吸い込んだまま、なにも言い返せなかった。  ふと壁画を見上げて、リューズがスィグルから気をそらせた。 「船(オルドヴァス)……古い伝承だ」  ゆるく髪を梳いてすべり落ちてきた、父の手が肩を抱いた。族長の長衣(ジュラバ)からは、かすかに心地よい匂いの香が漂っている。  スィグルに灯りを拾わせ、寄り添ったまま、リューズはスィグルを促して暗い地下通路を歩きはじめた。スィグルはおとなしく、父が歩くのについていった。  父と二人きりで口をきくのは、本当に久しぶりだ。  子供のころは稀に、決まりごとの通りに母の部屋へ通ってきた父が、子供らを呼びつけて顔を見ることがあったので、たまには父のそば近くで話をすることもあったが、年齢があがって、母親とは別の部屋で生活するようになってからは、特に用事でもないかぎり、スィグルがリューズと二人きりになることはなかった。  宮廷にはべる誰もが、族長の目にとまりたいと躍起になっていた。ひとこと誉められるために、学問で目立ったことをしてみせたり、人が真似できないような魔法を身につけたいと、王子たちの全員が競い合っていたし、父は理由もなく誰か一人に目をかけることはしなかった。とても平等で、遠い存在だ。  並んで歩いているのが、嘘のようだ。スィグルはすぐ目の前にある父親のすらりとした体躯を見上げ、何度もまばたきした。 「お前はいつか、船を見つけるといっていたな。太祖アンフィバロウは、部族をこのタンジールという楽園に導いたが、お前が船を見つけることができれば、我が民はさらに幸福な楽園へとたどり着けるだろう」 「父上は昔、これは作り話だから信じるなと笑っておられました」  スィグルが言うと、リューズは淡い苦笑で顔をゆがめる。 「ひとが笑い飛ばして信じないようなことが、真実ということもある」 「月と星の船がどこかに?」 「タンジールも、元から楽園だったわけではない。父祖たちが築き、ここまでの都市に作り上げてきた」 「その血に恥じない者として、誇り高く死にます」  父の顔を見上げて言うと、リューズはまじまじとスィグルの目を見つめ返してきた。同じような金色の瞳だ。母ゆずりの顔立ちのなかに、たったひとつだけ、父に似たところがあるのが、スィグルには嬉しかった。 「タンジールも勇敢なお前を誇りに思うだろう」  ゆるぎない冷静な声で応える父の眉がかすかに曇るのを、スィグルは不思議に思った。 「客地では、ヘンリックの息子と会うことになる。知る者もなく心細いだろうから、お前が力になってやるといい。友というのは良いものだ。ヘンリックは信用に足る男、その息子も同じ血を持っているだろう」 「友達というのは、初めてです」 「そうか……」  スィグルが本心から言うと、リューズが笑った。父が少し照れているような気がした。  いくつかの曲がり角を折れて、複雑に入り組んだ通路を進んでいくと、広い一角に出た。そこには他の場所と違って、壁にある松明がちらちらと灯りを放ち、赤茶の壁の色と、ぐるりと一面に描かれた、風になびく金色の麦の穂の壁画を浮かび上がらせている。 「お前が生まれたのは、ちょうど稔りの季節で、タンジールの農業区には麦が金色の穂をつけていた。戦から帰り着いたら、ちょうどエゼキエラがお前とスフィルを産みおとしたところだった。勝ち戦のなによりの祝い……金色の麦の穂は我が部族の繁栄の証で、このうえない吉兆。スィグルというのは、そういう名だ。金の麦という意味を持った、アンフィバロウ家に古くから伝わる伝統的な名だ」  突然、説明する父の意図が、スィグルにはわからなかった。この話は、他の誰かからも何度も教えられた話で、別段目新しい話ではなかったからだ。父も以前、同じことを教えてくれたことがある。 「名誉ある名を、ありがとうございます」  戸惑いながら、型どおりにスィグルは礼を述べておいた。 「今年の稔りも見せてやりたかったが、収穫を待たずに行くことになるな」  ぼんやりと独り言のように、リューズが言った。スィグルは目を伏せた。  夏の盛りの季節がら、麦はまだ青々としているはずだ。  月がめぐり、秋になれば、水路をはりめぐらせた農業地区には、波打つ金の海原のような、豊かな稔りがやってくる。麦を刈り取るときの歌声があちこちから聞こえてきて、タンジールを包む。  いつだったか、ずっと昔、スフィルと二人で収穫間近の麦の畑を走りぬけたことがある。穂をかきわけて進む目の前は金色にそまり、乾いた麦のほの甘いような青臭いような香りがした。  ちくちくと頬をさす麦の穂の感触が面白く、声をあげて笑いながらどこまでも走って行く。それが自分の声なのか、双子の弟の声なのか、はっきりとしない。ただ漠然と幸せで、不安なことがなにもなかった。  大切な収穫を踏み荒らしたといって家庭教師たちに怒られ、下々のものたちのいる所を走りまわるなんてと、母上にはひどくお説教されたが、きっとまたいつか、同じことをしよう弟と目配せをした。それだけで心が通じ合っていたのだ。  まるで楽園のような午後。もう2度とそんなことは起こらないだろう。 「僕も金の麦を、見たかったです」  父の話に相槌を打っただけのつもりで、スィグルは応えた。  しかし、口に出すと無性に寂しく思えた。  せめてもう一度だけでも、あの黄金の波を見ることができたらいいのに。 「父上、僕が死んだら、金の麦の壁画がある部屋に戻ってくることにします。いつか、会いに来てください」  今まで歩いてきた地下通路を振り返って、スィグルはリューズに頼んだ。  タンジールの地下深くにある、この通路は、代々の王族を葬るための墓所だった。黒エルフの王族はみな、どこで命数が尽きようと、心はこの場所へ戻ってくると信じられている。遺体のないものも、あるものも、この墓所で眠るのだ。壁画は死者の魂を慰めるための絵だと聞いている。それぞれ、自分の魂がもっとも安らぐところで、ゆっくりと長い沈黙の時を過ごすのだ。  父親が振り返る気配を見せないので、スィグルは不安になって、リューズの顔を盗み見た。 「……俺も、死んだらそこへ帰ろう」  穏やかに答える父の、スィグルの肩を抱く手が痛いほどの力を持った。 「そなたとは、話してみたいことが数々あったが、結局果たせなかったな」  スィグルは、父の顔を見つめて、にっこりと微笑んでみせた。  父・リューズはそれ以上なにも言わず、ただ淡く、優しい微笑みを返してくれた。  鳥が鳴くような甲高い声を上げて、女たちが出立してゆく隊商(キャラバン)を送り出す儀式をしている。鼓膜に響く女たちの奇声は、喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも聞こえる。  スィグルは、華やかな鞍をつけた砂牛にまたがっていた。  湾曲した砂牛の二本の角には、細かな彫刻がほどこされ、溝に赤い染料が埋め込まれ、はみにも鞍にも、豪華な毛織物や糸を編んだ華やかな飾りがつけられている。  通りを抜けるときには、街のものたちが夏のオアシスに咲いた睡蓮の花びらを、次々の雨のように撒き散らして出立を祝った。シンバルを鳴らすにぎやかな音楽が、道中の無事を祈る歌とともに、タンジールの通りを満たす。  巨大な街を行き過ぎ、砂漠へと出て行くまでには、いくつもの通りを抜けてゆかねばならない。  すれ違う街の男たち、女たち、通りを飾る店、そびえる尖塔、破風を飾るモザイク画、飛び交う鳥と蝶、甘い蜜の香り、吹きすぎる風。すべてが美しい、まるで楽園のようだ。甘い歌声も、かき鳴らされる楽器(シタール)の音色も。すべてが輝くように美しい。  なにもかも目に焼き付けてゆこうと、瞬きもせずに街を見渡すと、故郷への想いで気が狂いそうになる。ゆっくりと進む行列の足並みですら、無慈悲な速さに感じられる。  スィグルは朦朧として、砂の香をかぎ、鳴り響く音楽を聴いた。  楽園が遠ざかる。  稔りの風に波打つ、豊かな金の穂。  舞い飛ぶ花にかすむ人並みに折り重なるように、いつか見た豊かな風景の幻が見えた。  どこへも行きたくない。  笑いながら走りぬけるスフィルの声が耳元によみがえった。  懐かしいタンジール、愛しい黄金の楽園、甘い蜜のような深い深い夜の安らぎ。通りすぎる顔のどれでもいい、いつか帰っておいでと言ってくれれば。  晴れやかに微笑んだまま、スィグルは都の城門をくぐった。  その様子を伝え聞いた父や母が、誇らかに出ていった息子のことを自慢に思ってくれればいいと思ったが、王宮は遠ざかるタンジールの奥深く、そこにいる愛しい人々がなんと言ったか、楽園から去りゆくスィグルには知りようもなかった。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(1) -----------------------------------------------------------------------  鈍い赤に彩られた広間には、息を呑むような沈黙が満ちていた。  常日頃には、どこか気楽なざわめきや楽の音が、いずこからともなく漏れ聞こえているものだったが、今は全てが身をひそめたように静まりかえっている。  宮廷序列によって決められた席に、一族の者たちが座しているのを、リューズは見渡した。  両翼には血を分けた息子たちと、今日ばかり特別に許されて背後に座っている、それらの母親たちが、抱き合うようにしてこちらを凝視していた。  リューズは末席に座る、小柄なひとりに目を向けた。  スィグル・レイラスは生真面目な無表情のまま、ひとりでそこに座っている。  その背後を守るべき母エゼキエラは、病身のため、この一年というもの、ついぞ広間に姿を現したことがない。  廷臣の席にも、末の息子たちを守るための外祖父が不在であることを、見やるまでもなくリューズは承知していた。エゼキエラの生家は領境を治める地方伯で、他ならぬリューズ自身が、居残って敵地との境を防衛するよう命じていた。  なぜ、そういうことになったのか。  リューズは一時、自分の手のなかにある、紙片に目を移した。  そこにはスィグルの名が書かれてあった。  停戦のための人質を実子の中から差し出すよう、神殿から白羽の紋章を帯びた命令書が下され、リューズはそれに署名をした。しかしそこには、誰を差し出せとは記されていなかった。  リューズには、即位してすぐに娶った妻たちに産ませた息子が十七人いた。みな似たような年頃で、死地に赴かせるには、どれも似たように幼かった。  それで籤(くじ)で選ぶことにしたのだ。  全員の名が記された籤は、大仰な宝飾で飾り立てられた箱に入って、玉座まで運ばれてきた。華美を好むのは、この部族の習わしであるから仕方がないが、リューズはその趣向に心底うんざりとした。  もう一度、居並ぶ子らの一人一人を、リューズは見つめた。  母親に抱かれ、怯えた目でこちらを見返す息子たちは、父親が自分を選ぶのではないかと、哀れなほど青ざめていた。  紙片を握りつぶして、リューズは玉座から立ち上がった。  そこはあまりに窮屈だった。  広間を取り仕切る侍従が、慌てて族長の退出を告げている。  震えるふうでもなく、スィグルはただじっと、こちらを見つめ返していた。  リューズは手の中にある名前の筆跡を思い返した。それは他ならぬスィグル自身のものに思えた。 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「不正は許しがたい」  怒鳴りたいのをこらえ、リューズが押し殺した声でうったえると、エル・イェズラムは長煙管をあげて、ぷかりと煙を吐き出した。その気のない態度に、リューズはますます腹を立てた。  非公式とはいえ、族長の来訪に立ち上がる気配もなく、億劫げに座しているのも気にくわなかったが、それは生憎いつものことだった。  エル・イェズラムはリューズとは同じ乳母の乳で養われた間柄だ。ただの気安い乳兄弟であれば良かったが、イェズラムは今や竜の涙の長老のひとりで、彼の頭部を覆う深い紫色の石も、英雄然としてこれ見よがしだった。  石に奪われなかった左目だけで、イェズラムはあきれたふうに、こちらを見上げてきた。 「座ったらどうだ」 「いいや、座るまでもない。話し込んでいる時間はないのだ」 「では立っていろ」  兄の口調で、イェズラムは命じた。リューズは自分の目元が苛立ちで痙攣するのを感じ、気を落ち着かせようと深い息を吸った。 「ちょうど俺も話があったところだ。お前が来たので、正装する手間が省けた」  脇息にもたれて煙管を吸っているイェズラムは、彼が言うように、ごく質素な平服を身につけていた。  リューズに会うには、正装して広間に行かねばならないし、本題に入る前に、宮廷儀礼に従った口上を述べなければならない。イェズラムはいつもそれを億劫がって、用があれば、竜の涙の若い者を使いに寄越して代弁させ、リューズのほうに用があって、広間に呼びつけようとすると、もはや竜の涙による病状が深刻で、自力では立ち上がることもできないと嘘の返事を寄越した。  その癖、気が向けばいつまでも、広い王宮のなかをぶらぶら散歩している。  即位間もないリューズを助け、緒戦でめざましい活躍を見せた彼は、押しも押されぬ部族の英雄だった。いつも若い魔法戦士たちを取り巻きとして連れており、リューズとすれ違っても、挨拶もしようとしなかった。そんな彼の尊大を許さねばならぬのは、リューズにとっては癪だったが、竜の涙たちに強権を与えるのは先祖代々の伝統であり、民は彼らの奔放さを愛している。 「それで、リューズ。お前が先に話してもいい。どうせ他人の話をおとなしく聞けるような気分ではないのだろう」  その通りだった。リューズは目元を揉んで、長いため息をついた。  イェズラムの居室の外には、予定を管理している侍従を待たせてあった。いらいらと足踏みをしている姿が、ありありと想像できる。 「座ったらどうだ」  煙管をくわえて、イェズラムが薄く笑いながら言った。  あきらめて、リューズは客のための円座にどかりと腰をおろした。  イェズラムの部屋は、昔、乳母にあやされて遊んだ頃と同じだ。宮廷での権力に見合った居室に移ることもできるのに、イェズラムは面倒がって、いつまでもこの部屋で寝起きしているのだった。 「籤の話か」 「そうだ。籤にはスィグルの名が本人の筆跡で書かれていた。箱を管理していた官吏を内々に詮議させたら、俺の妻たちに脅されて籤を次々入れ替えたというのだ」 「そうか、ありそうな話だ」 「そのような不忠者は処刑しなければならない」  リューズが断言すると、イェズラムは、やれやれという声が聞こえてきそうな仕草で、煙管の灰を盆に打ち落とした。 「それでまた籤引きか。そしてまた不正。そして処刑。そしてまた籤。不正。処刑。籤。お前も暇だな」  イェズラムはのんびりとそう言って、しどけなく脇息にもたれかかり、あくびをした。 「籤引きで人質を決めるなど馬鹿げたことだ。お前が自分で選べば済む話だった」 「どうやって選べというのだ。どの子を生け贄にするか、俺に選べというのか」  リューズの声を聞きながら、イェズラムはうなだれて顔をこすった。  彼の右反面を紫色の石が覆っており、イェズラムは隻眼だった。表情のない石の反面を向けられると、リューズはなにか薄ら寒い気持ちに襲われた。 「族長ともあろう者が、ずいぶん甘っちょろいことを言うじゃないか。黒い悪魔が聞いてあきれる」  疲労したふうなイェズラムの声は、こぢんまりとした部屋にくぐもって響いた。 「とにかく……」  リューズは口ごもった。  イェズラムが族長の呼び出しを蹴るのは、面倒だからだと思っていたが、どうも本当に具合が悪いようだった。忙しさにかまけて、しばらく見舞っていなかった。 「人質選びは、やりなおさなければ」  力ない小声で、リューズは話を閉じた。 「その話のどこに、俺への相談事があるのだ。愚痴じゃないか」  小言のように、イェズラムが指摘した。リューズは面目なかった。 「何度やっても同じだ。本人が行くというのだから、行かせてやったらどうだ」  投げ遣りに、イェズラムは言った。リューズは顔をしかめた。 「スィグル本人が行くと言ったわけではない」 「すっとぼけるな。お前の息子は、わざわざ不正をしてまで、籤に自分の名前を書くほど馬鹿なのか。俺なら自分がいちばん憎いやつの名を書いてやる。死んでも惜しくないようなやつの名をな。お前ら王族が仲良し兄弟か? 継承争いの敵だろうが」  リューズは沈黙した。  スィグルは昔から、利発な子だった。どこか奇矯なところがあったが、それは自分に似たのだとリューズは思っていた。母親がしたお伽話をいつまでも本当の話だと信じていたり、博士たちの講義をさぼって、宮廷の扉の絵を山のように描いてまわったりと、年齢にふさわしくない自由奔放さはあっても、博士たちは口をそろえてスィグルを利発だと言った。  一度、皆の前で絵をほめてやったら、毎日なにか描いて届けてきた。子供にしてはひどく上手いような気がしたが、それも親馬鹿だったのか。  今となってはもう、昔の話にすぎなかった。スィグルはもう絵を寄越してこなくなったからだ。 「薬缶(やかん)の絵の子だろう」  新しい薬を煙管に詰めながら、イェズラムがぼんやりと訊ねてきた。リューズは回想に沈みかけていた自分から、我に返った。 「……ああ、そうだ」  昔イェズラムに見せたスィグルの描いた絵は、薬缶の絵だったのだ。スィグルは何かの気の向きで、決まったものばかりを描き続ける癖があるようで、一時期届く絵は全て薬缶ばかりだった。毎日違う薬缶が描かれてあるのを見て、リューズは宮廷にはこれほど様々な薬缶があるのかと呆れたものだった。 「人懐こい子だったがな」  過去形で言って、イェズラムは煙管に火を入れた。  スィグルは薬缶に飽きると、宮廷にいる者を片端から描くようになった。その絵はどれも驚くほど似ていた。おそらく見たものを憶えて、そのとおりに描く才があるのだろう。  かつてイェズラムは、昼寝しているところをスィグルに描かれたことがあった。彼は案外その絵が気に入ったようで、大人になったら絵師になればリューズが喜ぶだろうと、スィグルに感想を述べたそうだ。それでスィグルは王宮の壁に壮大な落書きをして、母親を消沈させ、リューズを笑わせた。 「籤引きというのは、案外、賢明だったのではないか。不正も含めて。兄弟たちが争った結果、この宮廷で、もっとも力のない者が選ばれたのだ。誰も文句を言うまい」  イェズラムの言うとおりだった。リューズは重くなった頭を支えようと、額に手をやり、そこにある族長冠に触れた。 「官吏を殺すなよ。不正はその者の責任ではない。お前が優柔不断だからいけないのだ」  煙管をふかすイェズラムの顔を、リューズはうつむきがちに眺めた。  昔は指図がましいこの男の口ぶりが嫌でたまらないこともあったが、誰一人として自分に命じる権利のなくなった今となっては、その尊大さが有り難かった。 「そちらの話はなんだったのだ、イェズ」  鬱陶しくなり、リューズは族長冠を引き剥がした。  眠たげな顔をしたイェズラムが、ごろりと身を横たえた。 「今度にしよう。今話したところで、どうせお前は失念する。俺は寝る」  紫煙を吐きながら、寝心地の良い場所をごそごそと探している英雄を、リューズは背をまるめて見下ろした。 「吸いながら寝ると焼け死ぬぞ」 「それはそれで何かの報いだろう」   ぼんやりと眠りに落ちる声で応え、イェズラムは腕を枕にした。  彼は火炎を使う魔法戦士で、戦場では幾多の敵兵を焼き殺してきた。戦場に踊る火炎は、いつもリューズを勇気づけた。そこでイェズラムが戦っていたからだ。  だが近頃の戦場では、それを見ることもなくなった。イェズラムはすでに蓄えた英雄譚(ダージ)にすっかり満足して、参戦もせず、宮廷で昼寝しているほうを選んでばかりいるからだ。臆病者の誹りなど、イェズラムにはどこ吹く風だった。彼が臆病でないことは、幾多のダージが証明している。  かつて心強く支えてくれたものが、永遠にそうであるとは限らない。なにもかも過ぎ去っていく。イェズラムは戦わなくなり、スィグルは絵を描かなくなった。  息子が永遠に薬缶の絵を描いていればよかったのだが。  リューズは手をのばして、もう寝息をたてているイェズラムの指から煙管をとりあげ、盆の上に移してやった。  扉の外では、今ごろ侍従が泣いているだろう。  玉座に戻って、待たされた者たちの激怒をなだめてやる頃合いだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(3) -----------------------------------------------------------------------  のろのろ歩いているイェズラムを見かけたのは、夕刻だった。  侍従が、晩餐にそなえて族長を着替えさせるというので、足早に居室に戻るところだった。  広間へ向かう道すじを、数人の竜の涙たちが連れだって歩いていた。宮廷を行くにしては簡素で、武人然とした彼らの着衣は、この場にゆるされるぎりきりのものだった。どうもそれが当世の流行らしく、リューズは彼らの中心にいるイェズラムに目をやった。  いつも飾り気のない格好をしている。イェズラムがそうなのは、ただ面倒なだけだろうが、他の者は、そういう彼の真似をしているのだろう。  イェズラムは珍しく立ち止まり、他の者たちは行き過ぎようとしているリューズに黙礼をした。  侍従がリューズも立ち止まらぬよう、殺気だって無言のうちに急かすので、軽く答礼するだけでそのまま行こうとしたが、リューズはイェズラムが手をひいて連れている小柄な姿が目につき、思わず足を止めていた。  赤い服を着た、十かそこらの女児を、イェズラムは連れていた。女児の痩せた顔には、どこかぼんやりした表情が浮かんでおり、怯えてじっと疑わしげにこちらを見る目つきには、リューズになにかを思い出させるものがあった。  あの双子も、戻ってすぐには、こういう目をしていた。飢えて、人を恐れる目だ。 「エル・イェズラム。それはお前の隠し子か」  挨拶代わりに軽く問いかけると、イェズラムの取り巻きの者たちが楽しげに笑った。リューズに服従して付き従っている、こちらの列の侍従たちと違って、彼らはどれも頭が高かった。 「いいや、これは俺たちの一番新しい仲間だ」  リューズが女児の頭部にあるはずの竜の涙を見ようと、彼女の顔に目を向けると、女児はぱっとイェズラムの帯を掴んで彼の背後に隠れようとした。  そうして見る限り、女児はどこにも石を持っていないように見えた。 「新しい英雄(エル)は、なんという名だ」  竜の涙に新入りがあったという話を、リューズは聞いていなかった。それに、王宮にやってくる新たな竜の涙は、赤ん坊か、少なくとももっと幼い子供で、自分の足で立って歩き回っているようなのを見ることは、ついぞない。  身分のある者とも思えず、その女児は市井にいる平民の子が、なにかの間違いでここに連れてこられたように見えた。 「そのことで話があったのだ」  イェズラムは自分に取り付いている女児をやんわり引き離して、帯の煙草入れから煙管を取り出した。膝を折って、女児と視線の高さを合わせ、イェズラムは煙管をくわえた。 「カナ、俺に火をくれ」  宮廷で用いられる大陸公用語ではなく、部族の言葉で、イェズラムは女児に話しかけた。  女児は澄んだ青い目で、イェズラムの片方だけの金眼を見つめ返し、長煙管の先に人差し指を触れさせた。ぼうっと小さな音を立てて、煙管に火を入れるにしては大きな炎が現れた。 「熱い」  自分の鼻に触れて、イェズラムが笑った。  それを間近に見つめていた女児は、にこりともしなかった。火炎の魔法を使うようだ。  カナと呼ばれた娘は、煙管をふかしながら立ち上がったイェズラムの指を慌てたふうに探し、自分と手をつなぐように促した。 「まだ名前がない。英雄(エル)としての名を、この子にやってくれ」  煙を吐き、こちらに向き直るイェズラムの両脇に、若い竜の涙たちが守るように立っている。序列のない彼らは、お互いを兄弟として認識しているようだが、魔法戦士たちをまとめる役割を果たす最年長者のひとりであるイェズラムは、彼らにとって兄であると同時に、父親のようなものらしい。傍らに立つ若者たちは、彼のそばにいれば安心だという顔つきだった。 「習わし通り朝儀で謁見しろ」  身も世もなく焦れ始めている侍従の怨念を背後に感じながら、リューズは話をいったん引き取ろうとした。 「それは無理だ」  さも当然のごとく呟いたイェズラムに、歩き出しかけていたリューズは、むっとして足を止めた。 「なんだと。お前はいつから朝儀に出ていない。俺への反逆か」  族長の不機嫌に、侍従たちは身をすくめ、竜の涙たちは一様に困った顔をした。しかしイェズラムは痛くも痒くもないように、また、ぷかりと煙を吐き出した。 「俺ではない。この子は朝儀には出られない。異例とは理解しているが、儀式は抜きで名前だけやってくれ」  そんなことは通らない。竜の涙は、部族の代表者である族長によって宮廷に迎えられ、部族に身を捧げる証として、皆の見ている前で英雄(エル)の名を与えられねばならない。彼らは膨大な俸禄を食んでいたし、それは部族民から徴収された血税で賄われている。いいかげんなことは許されないのだ。 「借りは返す、リューズ」 「話にならん。後で顔を出せ」  広間に、というつもりだった。族長の晩餐には、竜の涙なら誰でも列席できる。彼らは王族にとって家族の扱いで、家族は家長とともに食事をするのが礼儀だからだ。  しかしイェズラムはそこにも顔を出さない。礼服を着るのが面倒だからだろう。  そんなことはリューズにしても面倒には違いなかった。なんでわざわざ飯を食うためだけに着替えに戻らねばならないのか。戦場の略礼に慣れきったリューズには、宮廷での暮らしは窮屈だった。  日頃はイェズラムの欠席を咎めはしない。自分も竜の涙の長としてのイェズラムに、相応の敬意を見せているのだから、お前も族長に、それ相応の儀礼を尽くすべきだと、リューズは言ってやったつもりだった。  リューズが再び歩き出すと、侍従は哀れなほど安堵したため息をもらした。  行き過ぎるリューズの背に、イェズラムも長いため息を送ってよこす。腹が立ったがリューズは無視した。 「エル・ジェレフ」  取り巻きにいた一人に、イェズラムが小声で話しているのが聞こえた。 「族長についていけ」  それに返事をして、こちらの行列についてくる若者を、リューズは振り返るとなく認めた。イェズラムは、また別の者に話をさせるつもりらしかった。  お前がついてこいと、リューズは内心で毒づいた。  しかしイェズラムは、のんびりと女児の手をひいて、散歩の続きと決め込む様子だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(4) -----------------------------------------------------------------------  イェズラムの遣いの者は、居心地悪そうに族長の居室まで付き従ってきた。  リューズはイェズラムがこの若者を選んで寄越した理由を、重々承知していた。  彼は優秀な治癒者で、まだ二十歳を超えたばかりの年頃だが、戦場でも華々しい活躍を示していたし、リューズは彼に個人的な借りもあった。  敵の虜囚となっていた妻子を、半死半生で救い出した折、その治療をしたのが、この若者だった。名はエル・ジェレフだ。頼み込んだわけではなく、リューズの窮状を察して、彼が勝手にやったことだったが、それだけに恩は大きかった。 「時間がないので、話は着替えながらだ。俺がいかねば皆食事にありつけない。一族を餓死させるわけにはいかないからな」  せかせかと慌ただしい侍従たちに命じて、リューズは着替えの衣装をとりにやらせた。女官たちが、やたらと何着も華美な長衣(ジュラバ)を持ってあらわれ、選べというように示すので、リューズは苛立って癇癪を起こしそうになった。  そんなものは、どれでもよかった。リューズは身につけるものに、全く興味がなかったからだ。  しかし族長たるもの、それしきのことで怒鳴るわけにもいかなかった。宮廷に納められる族長の衣装は、部族の職人が丹精したもので、場合によっては、その一着に何者かの生涯がかけられているかもしれないのだ。  リューズは選んだふりをして、適当な一着をさも気に入ったふうに指さした。  宮廷というのは、馬鹿げた場所だった。  説得にやってきたのがジェレフなら、リューズも邪険に追い払えはしないだろうと、イェズラムは読んだのだろう。腹立たしいが、その通りだった。  もしかすると、あの道をこの時刻にリューズが通ることを見越して、わざわざこの若者を連れ、たまたま通ったような顔をして、リューズを引き留めたのかもしれなかった。そこまでして朝儀に参列したくないのかと、向かっ腹が立つ。  なぜイェズラムが正式な場での面会を嫌うのか、リューズは分かっていた。あの男はリューズに跪くのがいやなのだ。宮廷では、廷臣は族長を跪拝しなければならない。  時代を追うごとに大仰になっていた叩頭礼を、リューズは即位後にかなり簡略化したが、それでも臣下は恭順を示すため、膝をついてリューズに頭を下げねばならない。竜の涙たちは厳密にはリューズの臣下ではなかったが、リューズは彼らにも略式の叩頭を要求していた。どちらが上か、それを示す必要があったからだ。  イェズラムはリューズが幼髪を垂らした、兄たちのおまけのような、取るに足らない王族のひとりだった頃からの幼馴染みで、長い間、宮廷での序列は、英雄譚(ダージ)を持った竜の涙である彼のほうが上だった。向こうにすれば、俺がお前を族長にしてやったのだから、もっと敬えとでも思っているのだろう。 「あの娘はなんなのだ、エル・ジェレフ」  口火を切りかねている若者に、リューズは話すきっかけを与えてやった。 「竜の涙です。居住区で火災があり、あの娘が火元でした。頭の中のほうに石があって、これまで見いだされなかったようで。火炎を使いますが、力の制御が上手くできません」  女官たちが猛烈な手際で着替えさせていく族長の姿を、エル・ジェレフは話しながら、どこか興味深そうに見ていた。それはそれは可笑しいだろう。宮廷でのリューズは、この女たちの着せ替え人形のようなものだった。 「火災を起こした時に、家族も含めて近隣の者をすべて焼き殺したようで、娘は参っています。透視者の見立てでは、娘の石は内部に向かって育っていて、状況は思わしくありません。エル・イェズラムは娘に火炎の制御を教えようとしていますが」  煙管に火をつけさせていたイェズラムのことを、リューズは思い出した。あれは訓練か。  竜の涙たちは、魔法を使うごとに石が成長するので、その力を浪費することは避けねばならなかったが、それでも実際に使わなければ、制御法は身に付かない。  子供時代の育ちぶりを見て、力を御しきれそうにない者は、早いうちに命をとりあげられる習いだった。彼らの強大な魔力が暴走すると、部族に大きな被害を与えるからだ。惨い仕打ちだったが、それは慣習だった。彼らは守られるためではなく、監視されるために、ここへ来ている。 「娘は墓所に名前を記されていません。名前が必要です、族長」  言いにくい話を、押しつけられたようだ。エル・ジェレフは淡々と説明していたが、内心複雑そうだった。彼が示唆しているのは、娘が結局、竜の涙としては認められずに、近々葬られる可能性だった。 「なぜ朝儀に連れてこられないのだ。赤ん坊でも儀式のために出廷するのだぞ」 「カナは我々のことは仲間と認めたようですが、石のない者を警戒しています。一人にすると、誰彼かまわず攻撃しようとするので、公の場には……」  廊下で行き会った時の娘の目つきを、リューズは思い返した。  朝儀の広間を火の海にしかねない娘を、王族全員も居並ぶ状況で、玉座に近づけることを考えると、それは無理だと言うイェズラムの言い分も納得がいった。 「先程のように、お前たちが付き添ってもいい。エル・イェズラムに後見させろ」 「はい……しかし……」  ジェレフはやむを得ず頷いただけというふうに、渋々返事している。  この宮廷で、リューズに真っ向から逆らえる者は稀だった。族長が白と言えば白、黒と言えば黒だというのが、この部族の習わしだ。強い独裁が、この宮廷では古から許されており、リューズは即位した折りに、自分に反逆する者はすべて粛正した。そうしなければ治世が立ちゆかなかったからだ。  敵の軍勢が版図深くにまで侵略しており、あわやタンジールに迫ろうかというときに、先代は病床にあり逃げるように死のうとしていた。兄弟たちは愚かに相争うのに忙しく、誰かが受け継ぐ前に、玉座が消え失せるかもしれない心配があった。  とにかく父はリューズを指名し、族長冠を引き渡した。意外な人選に皆驚いたが、いつまでも意外がっている宮廷をそのままにはできなかった。反逆しようとする者からは命を奪い、服従する者だけを連れ行くしかない。シャンタル・メイヨウはこちらの兄弟げんかが終わるまで、おとなしく座って待っていてはくれないからだ。  その時代から、リューズは反逆する者を殺す族長なのだという印象が、宮廷には強く残されていた。実際には多くの意見を聞き入れ、反論する自由を皆に与えているはずだが、族長に異をとなえる者の顔色は、今もおしなべて優れない。  自分は敵にだけでなく、味方にとっても、残酷な男として知られているのかもしれなかった。 「エル・ジェレフ。そなたが返事をする必要はない。イェズラムに答えさせろ」  髪を結うために座って欲しいと女官が言うので、リューズは大人しく用意された腰掛けに座った。  ジェレフがひどく安堵したようだったので、リューズはため息をついた。  族長位と対等とまで言われる地位を与えられた竜の涙たちでさえ、即位後に長じた者たちは、リューズを畏れ、崇めていた。彼らが新しい族長に心酔できるよう謀ったのは自分だが、実際にそうなると、どこか重荷だった。名君を演じる自分の嘘が、勝手にどこまでも一人歩きしているようで。 「族長」  部屋を去りかけていたジェレフが、迷ったすえに話を向けてきた。リューズは視線だけで彼のほうを振り向いた。髪結いの女が、頭を動かすことを許さなかったせいだ。 「人質の件ですが。スィグル・レイラス殿下をお遣りになると聞きました」 「誰から聞いたのだ」  誰だか分かり切っていたが、リューズは思わず早口に聞き返していた。自分の耳で聞いても、それは質問ではなく叱責だった。 「エル・イェズラムです」 「おしゃべりなやつだ」  リューズは小声で吐き捨てた。イェズラムが噂を垂れ流している意図は分かり切っている。彼は籤引きでの人選を宮廷中に漏らして、それを既成事実にしようとしているのだ。そうでもなければ、本来は石のように口の堅い男だった。 「申し訳ありません……でも、そのことでお話が」  口ごもるエル・ジェレフの淡い紫の目が、ちらりと部屋の女官たちを見回した。人払いしてほしいらしい。  リューズが、時間はあるかという意味で、予定を管理している侍従に目をやると、視線を受けた彼は、これ以上遅れるなら、いっそ殺してくれというような顔をした。リューズは天井を見て、顔をしかめた。 「そなたたちは、しばらく退出しろ。ジェレフと話がある」  そう命じながら、リューズは侍従が哀れに思えてきた。彼が大人しく服従して、すごすごと部屋から退がっていったからだ。女官たちも、あらかた仕上がった族長の着替えをそのままにして、音もなく引き上げていった。 「伝承では、幼いうちに双子を引き離すのは不吉だと」  話の糸口として、ジェレフは部族の者なら誰でも知っている言い伝えを話した。彼が言っているのが、スィグルとスフィルのことであるのは明白だった。ふたりの息子はエゼキエラがいちどきに産み落とした双子で、他の例に漏れず、赤ん坊のころから常に一緒にいた。 「やむをえない」  リューズは答えた。  人質に差し出すのは一人だけだ。双子ではない息子だけから選ぶというのでは、不公平だった。  傍目には、引き離される双子は悲劇なのかもしれないが、自分自身が双子ではないリューズは、そういう者たちの気分は理解しかねた。仲のいい兄弟を引き裂くのは双子でなくても不幸なことだし、それが双子であれば不吉だというのは、迷信だ。 「スィグルがいなくなれば、スフィルは死にます」  そう断言するジェレフに、リューズはあぜんとした。彼がどういう意味で言っているのか、とっさには判断しかねたからだ。 「なぜ、そう思うのだ」 「スフィルはスィグルの手からでないと、食事をとりません」 「そんなものは、もう治ったはずだ」  スフィルはリューズにとって、いちばん末の息子だった。母のエゼキエラに似て、物静かで気弱な風情のある子だ。リューズはいつも、ひ弱そうなスフィルのことを心配し、守り役たちには強く育てるよう命じていた。  虜囚の身から救い出され、母親同様、スフィルの心の安定が失われているという侍医たちに、なんとしても治せと命じたはずだ。あれから一年も過ぎている。生ける屍のようなのは、エゼキエラだけで十分だった。  弟はもう治ったと、兄のほうは言っていた。まだ本調子でなく、広間に列席するのは遠慮しているが、そのうち一緒に連れてくると、スィグルはそう言っていた。  あの子は父親に嘘をついたのだ。 「治っていません」  戸惑ったように、ジェレフの声は小さかった。 「お会いになったことは」  訪ねるたび、スフィルは深く眠っていた。昼となく夜となく。  そういえば、おかしかった。  よく眠っているなと安易に納得したものだったが、なぜいつも寝てばかりいたのか。その傍らにいたスィグルの機嫌がよく、いつもにこやかだったので、あれの口から近況を聞き、それを鵜呑みにしていた。  リューズは腰掛けから立ち上がった。 「スィグルは広間にいるのだろうな」  尋ねると、ジェレフはどこか表情を曇らせた。 「おそらく」 「スィグル・レイラスはお前にも嘘をつくか」  リューズはエル・ジェレフに確かめた。  あの子が嘘をつくのは、自分にだけで、卑怯だからではない。父親を喜ばせたかったのだ。そう思いたかった。  ジェレフはほんの少しの間、言いよどみ、そして口を開いた。 「殿下は、嘘をついているわけではなく、願望を口にしているだけです。それがあの子の心の支えなのです」 「民を支配しようという者が、己に都合のいい嘘に浸ろうというのか」 「スィグルはまだ十三才です、族長」 「王族は、産み落とされた瞬間から支配する責務を負っている」  それより先の反論を、ジェレフはしなかった。それでも彼が納得したわけではないことを、リューズは理解していた。  それは無理だ、と、自分もしれっと言うべきだろうか。イェズラムがあの女児をかばっているように。我が子は幼く、傷ついているので、人質にやるのは無理だ、と。  他の子を選ぶのも無理だ。みなまだ幼く、虚弱で、敵地に遣られると想像しただけで母親の腕に逃げ込もうとするような、意気地のないものばかりだ。だからどうか、同盟は人質なしでやってくれ。他のことなら何でもするから、我が子を傷つけないでくれ。  深く息を吸って、リューズは支配者らしい態度を保とうとした。  こちらを畏れているらしいジェレフの目を見れば、自分がそれらしい顔をしていることは想像がついた。 「息子に会いに行ってみることにする」  僅かに裾を引いた長衣(ジュラバ)を重く感じながら、リューズは歩き出した。衣装は芸術ともいえる出来映えで、こんなものを着て歩く者がいるのが信じられないほどだった。  この服を作ったやつは馬鹿だ。自分が着て歩いてみたことがあるのか。華美なばかりで、ろくに歩くこともできない。  ずかずかと大股に部屋を出てきたリューズを見て、待ち受けていた侍従たちが慌てて付き従おうとした。 「ついてくるな」  面と向かって、そう命じると、侍従たちは捻子(ねじ)のきれた人形のように、その場に立ちすくんだ。 「どちらへ……、先触れを」  やっとのことで問いかけたのだろう、振り返ると侍従は明らかに震えていた。  リューズはこらえずに怒鳴った。 「必要ない。さっさと行って、広間にいる連中に飯を食わせろ。俺より先に食ったぐらいで、首を刎ねたりしないと言ってやれ」 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(5) -----------------------------------------------------------------------  荒れ果てた部屋を片付けようとしていた女官たちが、現れたリューズの姿を見て、凍り付いたようにその場で静止した。  宮廷内では、族長の来臨は先触れによってあらかじめ知らされることになっている。ふさわしい儀礼をとるために必要だからだ。  リューズが知っている末の双子の居室は、いつも居心地良く整頓されており、王族が住まうにふさわしい場所に見えていた。  床に散乱している無数の紙切れを、リューズは開いた扉に手をかけたまま、じっと見つめた。その一枚一枚には、黒い筆跡(ふであと)も緻密な、黒一色の絵ばかりが描かれていた。  女官たちが拾い集めようとしていたそれを、リューズは一枚拾い上げた。  隅から隅まで隙間無く描かれてある絵には、なにかしらの呪詛が籠められているように思える。そこに描かれてあるものが何なのか、リューズは良く知っていた。 「守護生物(トゥラシェ)……」  自分のうめく声を、リューズは聞いた。  暗黒の洞穴のなかで、巨大な地虫のような姿をしたものが、人を食らっている絵だった。それは絵というより、一瞬目にうつった光景を、そのまま写し取ったように精密で、それ故に冷淡な恐ろしさがあった。  スィグルが描いた絵に違いなかった。  足元を見渡すと、ほぼ同じような絵が、何枚もまき散らされている。わずかに異なるだけの絵は、瞬きごとの一瞬一瞬を、漏らさず描いたように見えた。  スィグルはもう、絵を描くことに興味がなくなったのだと思っていた。のんきに薬缶の絵を描いてまわっていた子が、今では人を食う怪物ばかり描いている。  あの子はどこで、守護生物(トゥラシェ)を見たのか。  リューズはスィグルが、実際に見たことがあるものしか描けない事を知っていた。他の子供がするように、頭の中で空想したありもしないものを、楽しげに描いてみせることが、ついぞなかった。  闇の中から救い出したとき、双子は痩せさらばえ、錯乱していた。敵は虜囚に食料を与えなかった。それは一種の拷問なのだと、リューズは憎しみとともに理解していた。  だがそれは考え違いだった。  やつらは息子たちを飢えさせたのではなく、この怪物たちの生き餌にしたのだ。  リューズの手から、絵が舞い落ちた。見回した部屋には、墨の香りが立つほどの、数知れない黒い絵が散らばっていた。 「族長……」  あとを追ってきたエル・ジェレフが、こちらの顔を見て、困り果てたような表情をした。 「これは、いつから描いているのだ」 「健康を回復してからです」  ジェレフは曖昧なことを言った。リューズには、このような絵を日がな一日描き続けている子供が、健康とはとても思えなかった。 「なぜ俺に知らせなかった」 「知らせるなと」  ジェレフはそれだけ言って、口をつぐんだ。リューズはまっすぐにこちらを見つめている若い目を見つめ返した。  イェズラムか。  まっすぐ立っている若者は、正しいことをしたという顔をしていた。その姿を一言で現すなら、忠節だった。父に従う息子の顔だ。  イェズラム。リューズは内心で、長年苦楽をともにした友に呼びかけた。  それで俺を、操ったつもりか。英雄ぶった兄貴面をして、族長である俺を虚仮にしている。竜の涙たちを支配して、この宮廷に、もうひとつの玉座を作りあげ、今ではそれのあるじ気取りか。  はらわたが煮えくりかえるようで、リューズは言葉もなかった。 「なぜだ……」  それだけやっと、絞り出すように問うと、若い竜の涙は暗い表情を浮かべた。 「閣下が逆上なさるからと。それに……」  言いかけて、ジェレフは舌が痺れたように押し黙った。 「言ってみろ」  リューズは、自分はもう、族長の顔はしていないだろうと思った。体面や儀礼など、もはやどうでもいいことだ。十も年下の、なんの責任もない者を相手に、凄んでみせるとは。 「閣下は王族としての義務を強いるので、治ったふりをさせたほうがましだと」  リューズは目を細め、首をかしげた。なんともいえない疲労感が、頭の芯から押し寄せてきた。  弱い者が、この宮廷で生きていけるのか。この大陸で。蛇蝎のごとき敵と相対して、戦う力がなければ、この部族はふたたび隷属することになる。それを目前にした時代の弱さから、這い上がってきたのではないのか。血と骨を踏み越えて。  その物語の続きを押しつけられる子供らを、虚弱なまま遺していけというのか。 「どこにいる」  リューズは目を伏せて、深い息とともに問いただした。 「どこ、とは……」 「スフィル・リルナムだ。顔を見る。眠っているなら叩き起こせ」  ジェレフは険しい顔で寝室への扉を見やった。立ちふさがっているふうな彼の肩を押しのけて、リューズは大股に部屋を横切り、双子の寝ている部屋の扉を開いた。  中は暗闇だった。  予想もせず、暗視に切り替わった視界に、リューズは戸惑った。  双子は闇を恐れ、リューズが訪れた時にはいつも、煌々と明かりを灯させていた。  真っ暗な寝室のすみに、うずくまるようにして丸く座り込んでいる息子の体を、リューズは見つけた。  寝息を立てていないスフィルを見るのは、彼らを救い出して以来、はじめてのような気がした。  スフィルは追いつめられた獣の子のように、目を見開いてこちらを睨んでいた。薄青い目は母親ゆずりで、なにを考えているのか量りかねる透明さだ。壁の中に逃げ込もうとしているかのように、スフィルはぴったりと体を漆喰壁に押しつけている。 「兄上……兄上……」  助けを求めるような小声で、スフィルは呟いていた。その声の震えに、リューズは顔を曇らせた。 「お前の兄は、晩餐のために広間にいる。スフィル、お前も来るといい。腹が減っているだろう」  手を差し伸べて、リューズは出てくるように促した。  眠っている姿も、震えている今でさえ、スフィルの姿はもう健康なように見えた。いくぶん痩せすぎではあるが、宮廷を平気で歩き回っているスィグルと、その瞳の色のほかには、なんの違いもない。 「助けて、父上」  か細い声で、スフィルは譫言のように言った。その言葉はリューズの胸を深く抉った。 「助けて」  同じ言葉を、呪文のように繰り返しているスフィルに、リューズはゆっくりと歩み寄った。スフィルは闇の中の凝視する瞳で、恐怖におののきながら、じっとリューズの顔を見上げている。 「どうした。俺はここにいる」  震えている息子をなだめようと、リューズはスフィルの体に手を伸ばした。スフィルはまるで小さな子供のようで、そうすれば自分の手に甘えてくるのではないかという気がした。  しかし指が痩せた肩に触れた刹那、スフィルは人の声とは思えないような激しい絶叫をあげた。めちゃくちゃに暴れ、殴りかかってくる息子に呆然とし、リューズは飛びかかってきたスフィルに押されるまま床に倒れ込んだ。 「族長」  鋭く呼びかけるジェレフの声が戸口で聞こえたが、リューズは自分の着衣を引きちぎる勢いで、喉もとに強ばった指を伸ばしてくるスフィルの顔を見つめるのに精一杯で、なにも答えを返さなかった。  息子がなにをしようとしているのか、リューズにはまるで分からなかった。スフィルは、十三才の華奢な子供とは思えない力で、リューズの顎を押し上げ、仰け反らせた首に噛みついてきた。  歯が食い込み、血があふれるのが分かった。  その痛みに、リューズはやっと我に返り、スフィルを引き剥がそうとした。  必死で抵抗するスフィルの両肩を掴んで抱き上げようと試みてから、リューズはふと気付いて、痛みを忘れた。  スフィルが噛み傷からあふれた血を、舐めていたからだ。赤い舌を出して、スフィルはいかにも美味そうに、リューズの血を啜っていた。乾きを癒やそうとする猫のような、その無我夢中の仕草に、リューズは争う気が失せた。  するとスフィルは、殴りかかるのをやめ、どこか縋り付くように、刺繍で飾りたてられた族長の衣装を握りしめた。 「お前は日頃、なにを食っているのだ」  哀れになって話しかけると、スフィルは低く呻いた。なにを言っているのか、良く分からなかった。 「父上」  傷口を貪りながら、どこか遠くにいる者に呼びかけるような、茫洋とした呼び声で、スフィルは時折囁いた。 「助けて」  救いを求める息子の体を、リューズは抱きしめた。甘酸っぱいような、幼い汗の臭いがした。 「助けて……」  飢えて喘ぐ小さな舌が、血に染まった唇を舐めた。  すでに救い出したつもりだった息子は、まだ闇の中にいた。 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(6) -----------------------------------------------------------------------  通された寝室に入ると、イェズラムはまだ布団の中にいた。  夜着のまま身を起こしてはいたが、寝ぼけたような顔をしていた。  それもそうだろう。まだ早暁だった。  リューズは持ってきた巻物を、イェズラムの鼻先に差しだした。竜の涙はそれを、片方だけの目で、しばらくじっと見つめてから、リューズの顔に目を戻した。 「名前だ」  リューズはそれだけ告げた。  金糸で装飾された綴れ織りの巻物は豪奢なもので、部族の英雄たちに授けられる命名の儀式で使われるものだった。イェズラムも自分の名が書かれた同じものを、この部屋のどこかに持っているはずだ。  イェズラムは何度か瞬く間、押し黙っていた。 「儀式はいいのか」 「人前を嫌うなら、無理に引き出しても哀れだからな」  投げつけるように答えると、イェズラムは納得したのか、手をのばして巻物を受け取った。 「どうしたリューズ。そんな形(なり)で、亡霊のような顔をして」  紐を解いて、巻物の中にある名前を見ながら、イェズラムは問いかけてきた。  リューズはいつものような族長の衣装ではなく、簡素な藍の長衣(ジュラバ)を身につけていた。スフィルがつけた傷が擦れて痛むので、襟もはだけたまま、朱く腫れた傷痕もそのままだった。 「衣装係の女官に、華美な服はいやだと駄々をこねてみたら、案外話のわかる女だった。朝儀までの間だけという約束だがな」 「あの女はよくやっているのではないか。いつもお前は族長らしく見える」  内実は違うが、という含みをイェズラムの言葉に感じて、リューズは力なく苦笑した。 「その傷はどうした。蔑ろにしてきた奥方たちに襲われたのか」  治そうか、という意味合いの質問だった。イェズラムは治癒の力もいくらか持っていて、簡単な怪我なら治すこともできた。  リューズは首を振って拒んだ。  竜の涙たちの力を使わせるのは嫌いだった。部族を守る戦いのためなら仕方がないが、怪我は放っておいても治る。ジェレフにも同じ事を言った。多くの時間が必要でも、自分の力で治せるものは、魔法で帳消しにしないほうがいい。 「スフィルに会った。エル・ジェレフは、あの子は兄がいなくなれば死ぬのではないかと言っていた」  お前はそれを知っていたのだろう?  なのになぜ、スィグルを人質に遣るのを止めなかった。  皆まで言わずとも、イェズラムは分かっているだろう。なんでもお見通しなのだからな。  リューズが多少の悪意をこめて見つめると、考え込むように、イェズラムは眠たげな鈍い瞬きをした。  激しい戦いのあとで、石のために片目を失ってから、イェズラムは参戦を嫌うようになった。彼の痛みは激しく、リューズはイェズラムがそのまま死を選ぶのではないかと思った。  それでもやむをえない。それが英雄たちの生き方だからだ。  結果として、イェズラムは生きながらえたが、次の戦が彼の最後の英雄譚(ダージ)となることは間違いがないように思われた。しかしイェズラムは参戦を拒み続け、同盟が成立し、この先のことはまるで分からない。  即位前の自分を知る気心の知れた者が、今も生き残ってくれていることは、長らくリューズを安堵させていた。  しかし、族長冠に屈服しないこの男を、自分はもっと早く殺しておくべきだったのではないか。反逆者としてではなく、戦場に散る英雄として。名君としての嘘を完結させるために。 「あの兄弟は、引き離しておいたほうがいい。たとえ片方が死んでも、もう片方が生き残るように」  寝台のそばに佇んでいるリューズを見上げて、イェズラムは淡々と答えた。リューズはもう、それに何も感じなかった。 「お前にとって、どちらが死ぬ片方だ」 「そうなってもお前は耐えられる」  どこか励ますように、イェズラムは救いのないことを言った。 「そりゃあ耐えられるだろう。俺は族長だからな。こういう時のために十七人も息子を産ませたんだ。ひとりふたりはものの数ではない」  期待される答えを口にすると、頭の芯が重く痺れた。  傷が痛むような気がして、リューズは目を伏せた。 「お前になにがわかる。子もいないくせに」  耐え難くなって、リューズは小声でイェズラムをなじった。  そして気付いた。彼が寝ている布団の中に、もうひとつ小さな体が潜り込んでいることに。  かすかな寝息ひとつ立てず、小さな女児の指が、イェズラムの手を握っていた。  その顔は安心しきったようだった。薄く唇を開いて、娘は死んでいた。  リューズは虚脱して、イェズラムの眠たげな顔を見つめた。  イェズラムはしばらく沈黙してから、与えられた巻物に目を戻した。 「エル・シャレンドラ? ご大層な名だな」  皮肉めかせてイェズラムは感想を述べたが、気に入ったらしかった。  竜の涙たちの名は、古い伝承に基づいた命名簿から選ばれる習わしだった。宮廷の博士たちに命じて、娘のための名を選ばせた。地下深くに眠っている宝玉を意味する名らしい。なかなか良い響きだろう、と、リューズは口に出さなかった。 「結局な……この子は力を御しきれなかったのだ。昨夜、ひどく苦しみだして、東の回廊を焼き尽くしたので、お前の侍従が俺にさんざん嫌みを言っていた。伝来の敷物や壺ぐらいが、なんだというのだリューズ。お前から取りなしてくれ」  平素と変わらないふうに喋るイェズラムに、リューズは黙って頷いた。 「俺が薬をやったんだ。一緒に寝たいというので……」  そこまで言って、イェズラムはなにを言いかけたのか忘れたというふうに、また沈黙した。その沈黙は、ひどく長く続いた。  イェズラムはいつも、影のような男だった。リューズを族長に選ぶ前は、死んだ兄に仕えていた。  かつて次代の族長位を争っていた兄は、幼かったリューズから見て、伝説の中から抜け出てきたような輝きを持った人物だった。イェズラムは神のような兄の使役に黙々と応え、石と名を肥やした。兄の不慮の死のあとに、宮廷内の派閥を受け継ぐ者として、リューズをはじめに名指したのはイェズラムだ。  リューズが癇質の兄の不興を買うと、イェズラムはいつもかばってくれた。  小言と皮肉ばかりが板に付いているが、面倒見のよい男だ。文句も言わずに、汚れ仕事を引き受ける。  即位したとき、ぽっと出の王族だった自分が、曲がりなりにも族長のような顔をしていられたのは、彼をはじめとする竜の涙たちの服従を得られたからだ。  嘘はやがて本当になり、民はリューズを名君と讃え、宮廷は命じなくても跪くようになった。  イェズラムがリューズに膝を折らなくなったのは、そうなってからのことだ。  いつも誰かの影の中に立って、時代を傍観している。かつては兄の、今は自分の。 「リューズ、お前の息子のな、双子の兄のほうだが」  イェズラムは娘の手を握ったまま、訥々と話し始めた。 「あれはお前に似たようだな」  リューズは黙って、イェズラムの話に耳を傾けた。 「派閥の勢力からいって、自分か弟が選ばれるのは、分かっていたのだろう。全ての籤に弟の名を書くこともできた。それでも、そうせずに、お前に自分を選ばせたのだ。そんな勇気を持てるのは、ものすごい馬鹿か、まことの勇者だな。もしくはその両方を兼ね備えた者だ、お前のように」  こちらを見上げたイェズラムの顔を、リューズは眺めた。 「不正のことはな、気付かなかったふりをしていろ。お前は知らなかった、そう思わせてやれ。あの子はたまたま、運が悪かったのだ。愚かな父親だが、息子を愛している。見捨てたのではない」 「そんなものは欺瞞だ。俺はスィグルを敵の中へ二度までも投げ捨てる」 「そんなことはないさ、お前が自分の子を捨てたことなどあったか」  イェズラムは娘の手を撫でて、布団の中に入れてやった。 「お前の息子は、俺が守ってやる」  虜囚となって、死んだものと思われていた双子を見つけ出してきたのは、イェズラムに命じられた竜の涙の遠視者たちだった。まだ生きていると、遠視者たちは毎日リューズに告げた。その場所を制圧するため、リューズは軍を進めた。あのときの自分は、敵の目にも、味方の目にも、まさに悪鬼だっただろう。  侵略されていた版図は回復した。しかし、それが目的だったわけではない。 「俺の私情のために、お前たちを浪費することは許されない」  そのときと同じ事を、リューズは答えた。  イェズラムは、淡く笑った。 「俺は部族ために戦い、最後の戦で、もう死んだ。あとは好きなように生きる」 「それがお前の英雄譚(ダージ)だというのか」 「ダージか」  リューズがとがめるように言うと、イェズラムは皮肉めかして呟いた。 「俺には昔から、ダージなど、どうでもいいのだ。知らなかったのか」 「知らなかった」  驚きはしなかったが、リューズには意外だった。誰よりも華々しい英雄譚(ダージ)で、これまでの生涯を飾ってきた者が、それを言うのかと。 「俺が夢見たのは、名君の時代だ。戦いもなく、俺たちが用済みになるような。俺はお前の次の星がのぼるのを見たい。この夢が一代限りの幻ではないと、見極めてから死にたいんだ」 「それはあまりに強欲ではないか。竜の涙のくせに、三君に仕えたいとは」  彼らは族長に仕えているのではない。イェズラムがそう言うかと、リューズは思いながら、英雄の答えを待った。 「俺が仕えたのはお前だけだ」  イェズラムは面白そうに、そう言った。 「ジェレフがお前の妻子を救うことにしたのは、戦場では悪魔のようだったお前が、双子を救い出した時、餓鬼のようにぴいぴい泣いたからだそうだ」  その時のことを、リューズはあまり詳しく憶えていなかった。救い出された息子たちを抱いて、確かに自分は泣いたかもしれない。  部族の家長として、そのような姿は醜かっただろう。でもその時には、どうでもよかった。ジェレフは自分のすぐ後ろにいて、弱っている双子を引き取ろうとした。自分はその手を、振り払ったような気がする。 「悪魔ではない、ありきたりのお前が、苦痛に耐え、それでも胸を張って立っている姿を見て、皆、お前を助けて、ついていこうと思うのだ。リューズ。新しい星が継ぐまで、そのまま走り続けろ」  新しい星か。  リューズは自分が指名しなければならない継承者のことを考えた。  その名はまだ定められていない。息子たちはどれも皆似たように幼く、軟弱で、族長冠をかぶせられたら、その重みに耐えかね、立っていることもできないのではないかと思えた。  とても無理だ。  しかし、かつて即位する自分のことを、宮廷じゅうがそう危ぶんだ時にも、イェズラムは同じことを言った。お前は闇夜に放たれたばかりの新しい星、今はまだその光輝に気付かない者も、いずれはお前を眩しく振り仰ぎ、跪くことになる、と。 「お前は予知者か。もっともらしいことを言って」  毒づいて、リューズは英雄の言葉を受け入れた。 「いいや、お前らと違って、先見の明があるだけだ」  イェズラムはそう言って、あくびをした。 「お前は朝儀の準備だろう。俺は寝直す、エル・シャレンドラと」  布団にもぐりこんで、イェズラムは横たわっている娘の体を抱いた。こちらに背を向けている彼が、どんな顔をしているのか、リューズには見えなかった。  たぶん、餓鬼のようにぴいぴい泣くのだろう。  そうであるべきだ。  リューズは眠る英雄たちの邪魔をしないよう、静かに部屋を立ち去った。 ----------------------------------------------------------------------- 「新星の守護者」(7) -----------------------------------------------------------------------  エル・シャレンドラの葬儀は、ひっそりと行われた。  幼いうちに葬られる者たちの葬儀はいつもそうだった。  部族のために命を捧げた幼い英雄であったと、彼らのための唯一の英雄譚(ダージ)が、やりきれない静けさのなかで短く詠われるだけだ。  決まり切ったその内容を聴くため、リューズも葬儀に列席したいと言った。知らなかった事とはいえ、小さな英雄の安らかな死を乱した気がして、改めて彼女の死を悼んでやりたかった。  しかしイェズラムは来るなと言った。族長がやってくると、みな正装しなければならないからだ。  リューズは腹が立ったが、おとなしく受け入れた。竜の涙たちのやることに、干渉することはできない。  エル・シャレンドラの名は、彼女の石とともに眠るため、王宮の墓所に刻まれた。  借りは返すと、イェズラムは約束していた。  リューズは何の期待もしなかったが、イェズラムは約束を果たした。  どんなに引っ張り出そうとしても、自分の部屋から出てこなかった男が、タンジールを出て敵地へと赴くスィグルの、先導役を買って出たのだ。  出立の日、イェズラムは竜の涙の長たる者にふさわしい、贅を極めた紫紺の長衣(ジュラバ)を着て現れ、リューズをあぜんとさせた。  そしてリューズが即位後に禁じたはずの、古式にのっとった、三跪九拝礼をもって族長への服従を大仰に示し、同盟による停戦と、それによる平和を部族にもたらしたリューズを、言葉を極めて褒め称えた。  これまで、我が子を人質にとられてまで、停戦を選んだ族長のことを、陰であれこれ言う者もいた。部族の者たちにとっては、複雑な気分だっただろう。快進撃の突然の静止を、納得できない者がいても当然だった。リューズはそれに何も反論しないできた。理解されなくても無理はないと思っていたからだ。  しかし宮廷というのは、つくづく浮かれ女のようなものだった。  部族随一の英雄が、凛々しい姿で久々に颯爽と現れ、弁舌爽やかに、とにかく平和になったのだと褒め称えれば、そういうものも良いかもしれないという気になったらしい。  沈痛な空気を打ち破って、スィグルを見送る行列は、ひどく晴れがましく王宮から出て行った。艶やかに着飾った大勢の英雄たちに見送られ、花を撒く熱狂のタンジール市街を抜けて、あたかも戦勝の祭りのように、行列は都市を旅立ったという。  リューズはそれが恨めしかった。  許されるものなら、勢力の及ぶ領境まで、一緒についていってやりたかった。  だがその役目は、イェズラムに託すしかない。 「あの男は結局、なんの欲もないような顔をして、美味いところは自分が食わねば気が済まないのだ」  リューズが肉を差しだして愚痴ると、象牙の止まり木にいる銀の矢(シェラジール)はピュイと高い声で相づちを打った。  忠実な若い鷹の、長旅にくたびれた翼を、リューズは撫でてやった。  その膝の上で、スフィルはじっと鷹の目を睨んでいる。 「お前も食うか」  鷹のために用意された新鮮な生肉を、リューズが摘んで口元に持っていってやると、スフィルは唐突にぱくりと食いついてきた。 「指を食うな」  噛まれかけてとっさに手をどけたが、指先には、しっかりと歯形がついていた。スフィルは悪びれる様子もなく、鷹の目を睨んだまま、黙々と肉を噛んでいる。  餌を奪われた銀の矢(シェラジール)は、どことなく情けなそうに首をかしげて見せた。 「これは、銀の矢(シェラジール)が運んできた、お前の兄からの手紙だ」  鷹の足には、鷹通信(タヒル)のための小さな銀色の筒がくくりつけられている。使いの者を送れないようになっても、王都と連絡がとれるよう、スィグルには銀の矢(シェラジール)を連れて行かせた。見知らぬ山国からの長旅を、銀の矢(シェラジール)はこともなげに何度も往復していた。  丁寧に折りたたまれた薄紙を、リューズはスフィルの目の前で広げて見せてやった。  そこに描かれたものを、スフィルの頭越しにのぞき込み、リューズは声もなく笑った。  薬缶が描いてあったのだ。  見知らぬ様式の竈(かまど)の上に、飾りけのない薬缶が乗っており、もうもうと湯気をあげている。その周りに、食事を作っているらしい少年たちが描かれ、矢印をして彼らの名前が書かれてある。  同盟の子供たちだった。  彼らは、どこにいでもいる子供の顔でくつろぎ、こちらを見つめていた。 「兄上」  そこには描かれていないスィグルのことを、双子の弟が呼んだ。 「そうだな。お前の兄は、元気にやっているようだ」  リューズは目を細めて答え、自分に固く抱きついている息子の華奢な体を、強く抱き返してやった。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 「花窓」 ----------------------------------------------------------------------- 「人質? 人質ですって? どうしてアンタが、そんなもんにならないといけないのよ?」  歯切れのいい早口で、女の声が言った。部屋の奥から聞こえてくるその声を、イルスは窓から夜の町を見下ろしながら聞いていた。  大通りに面した大きな出窓は、細かい装飾が施された白漆喰の屋敷の三階にあり、真南に海を望むことができた。見下ろすと、色とりどりの花を溢れるほどに飾りつけたたくさんの窓と、それを照らす暖かなランプの光が、光の川のように眺められた。  その光の川の中を、笑いさざめく人並みがゆっくりと行き交っている。絶え間ないざわめきは、少し離れた窓から聞くと、波の穏やかな海が奏でる潮騒に似て、耳に心地のいい。  背もたれのない椅子を持ち出して腰掛け、出窓の張りだしに持たれかかったまま、イルスはもう、かなりの時間をここで過ごしていた。窓辺に腰掛けた時には、まだ、東の岬から顔を出したばかりだった月が、今ではもう空高く上っている。イルスは何度目かの欠伸をかみ殺した。 「大体何よ、あんたもう、海都の王宮とは縁がないんでしょ。師匠に頼んで、断ってもらいなさいよ」  長い髪を結い上げていた金の髪飾りを外し、ほどけた髪を振りほぐしながら、部屋の奥に引っ込んでいた女が戻ってきた。彼女が部屋の中をうろうろすると、彼女の栗色の髪や褐色の肌に塗りこめられた、甘く香ばしい香料の匂いが漂った。 「聞いてるの、ボウヤ」  イルスの襟首をぐいっと引っ張って、女は意地悪く言った。傾いた椅子から落ちそうになりながら、イルスはあわてて出窓の出っ張りを掴んだ。見上げると、真上から自分の顔を覗きこんでいる女と目が合った。鮮やかな青い瞳を引き立たせるため、女は目尻に金の粉で化粧をしていた。まつげの豊かな大きい目は、好奇心の強そうな勝気な笑みを浮かべ、面白そうにイルスを見下ろしている。 「師匠は?」  襟首を掴まれたまま、イルスは不満げに尋ねた。女が、ふふんと思わせぶりに微笑した。 「まだウルスラの布団の中よ。決まってるでしょ。あんた、眠いんだったら、変な意地張ってないで寝なさいよ。いくら待ってたって、今夜は帰れやしないんだから」  声をたてて朗らかに笑い、イルスの髪をくしゃくしゃに掻き回してから、女はイルスを出窓に押し戻した。憮然として、イルスは髪をなでつけた。 「エレン」  苛立ちで低くなった声で、イルスは女の名前を呼んだ。鼻歌を歌いながら、部屋の中央にあるテーブルに歩み寄り、女はそこに置いてあった水差しから酒盃に水を注いだ。そして、思い出したように、なあに、と答えた。 「仕事はどうしたんだよ」 「今日はもう店じまいよ。残念。いい男だったのに。あたしったら、急に月の物がきちゃって、たまらないわ」  水を飲みながら、エレンは切れ切れに説明した。イルスはため息をついた。  師匠はなぜ、こんなところに入り浸るのだろうかと思い、イルスは忌々しい気分で、窓の下を走る通りに目をやった。色とりどりの瑞々しい花で飾り立てた美しい窓のひとつひとつには、華やかな化粧で褐色の肌を飾った半裸の女たちが座っている。笑いさざめきながら、女たちは通りをゆく男たちに歌いかけていた。そんな通りが延々と続くこの界隈を、地元の者は「十字の娼館」と呼び習わしている。それは、この館が、交差する二本の大通りに面して建てられた、大きな十字の形をしているからだ。 「アルマが終わる前に、誰かいい相手をみつけないと、ちっとも箔がつかないっていうのに、あたしも、どこまでツイてないんだか」  苦笑しながら言って、エレンはまた、窓辺に歩み寄ってきた。窓枠の張り出しに頬杖をついているイルスのすぐ横に、エレンはひょいと身軽に腰掛け、恨めしそうに窓の下の通りに目をくれる。 「ねえボウヤ、どうしてあんたたち男は、アルマ期にしか恋をしないの? 4年に一度だけなんて、あんまりだわ。今年を逃したら、次はまた4年先。その頃には、あたし、21になってる。そんな歳になっても、決まった旦那のいない娼婦なんて、ろくでもないと思わない?」 「知らねえよ」  憮然として、イルスは答えた。エレンが今17歳なのだということを、イルスはぼんやりと計算していた。師匠の供で十字の娼館に連れてこられる度に、エレンと顔を合わせることになるのは、この娼婦がいつも客にあぶれているからだ。  ちらりと横目で、イルスはエレンの横顔を盗み見た。窓辺のランプのぼんやりとした明かりと、青白い月明かりの中に浮かび上がるエレンの顔は美しかった。悔しそうに通りを見下ろす青い瞳は、真夏の海のように鮮やかだ。  客を引くために窓辺で着飾っている時のエレンは、ほかの女たちよりもずっと、瑞々しい美しさをしているように見えた。彼女に客がよりつかないのは、娼婦にしては気位が高すぎる勝気な性格のためだ。  エレンには、どこか、人を小馬鹿にしたようなところがある。エレンのあっけらかんとした雰囲気のおかげで、腹が立つというほどではないが、いつまでもボウヤと呼ばれるのには、正直言って辟易してしまう。 「ねえ、ボウヤ、あたしって綺麗じゃないのかしら」  イルスに視線を向け、エレンは至極真剣そうな面持ちで言った。 「あたし、少し鼻が高すぎるんじゃないかって、年上の姐さんたちにからかわれるの。でもね、あたしは、そんなことないと思うのよ。あたしはこれでも、自分の顔を気に入ってるの。けど、男の人の好みって、女の考えるのとは違うらしいじゃない。あんたは子供だけど、一応男の端くれなんだから、どう思ってるのか聞かせてよ」  イルスはあっけにとられてエレンの顔を見上げた。 「俺は子供じゃない。もう14だ」 「アルマも知らないくせに、なに生意気なこと言ってるのよ」  素早くイルスの頬をつまんで、エレンは意地悪く笑った。あわてて体を退いたので、イルスは椅子から転げ落ちそうになった。 「海エルフの男は、アルマを知ってはじめて一人前なのよ。まともな男なら、今は子供を作るのに精出してるのが普通じゃない。あんたみたいに、廓に来ても、ぶすっと面白くなそうな顔してるのは、まだ子供だって証拠よ! ほら、外を見てごらんなさいよ。男はみんなアルマのせいで面変わりして、すっかり凛々しくなってるじゃない。なのにあんたは、いつもと少しも変わりゃしないわ」  けらけらと面白そうに笑って、エレンはイルスを指差した。イルスはまるで面白くなかった。 「ねえ、それより、あたしの事どう思うのか答えてよ、ボウヤ」 「エレンは不細工だ。だから客がつかないんだ」  仕返しのつもりで、イルスは憎まれ口をきいた。すると、エレンが急に笑うのをやめて顔をしかめ、彼女に似合わない気の弱さを見せた。 「そんな言い方ってないわ…。ちゃんと、可愛いって言ってくれたお客だっているのよ」 「そいつは目が悪かったんだろ」  眉を寄せて自分の顔を覗き込んでくるエレンの視線から逃れて、イルスは言った。本心ではなかったが、エレンがあんまり癪に障ることを言うので、慰めてやる気にならなかったのだ。  「ひどい。あんたなんか、山の連中に殺されちゃえばいいのよ」  悪態をつくエレンの声が泣いていた。ギョッとして、イルスは顔をあげた。窓枠に腰掛けたまま、エレンは悔しそうに歪められた顔を隠しもせずに、睫の濃い大きな目から、ポロポロと涙をこぼしていた。 「な…泣くことないだろ!?」  動揺して、イルスは椅子から立ちあがっていた。エレンは涙をあふれさせたままの目で、キッとイルスを睨み付けてきた。 「顔で商売してるあたしに、不細工だなんて、よくもそんな事が言えるわね。あたしが客を逃がして落ち込んでるっていうのに、少しは人の気持ちも考えたらどうなの? あんただって、自分の剣を侮辱されたら悔しいでしょう? それと同じよ。そんな簡単に言わないで!」  エレンの声は強気だったが、ときどき嗚咽で震えていた。 「エレン…ごめん」  目のやり場に困って、イルスはうろうろと視線をさまよわせた。  怒って興奮したエレンの体からは、ますます甘い香油の匂いが漂ってきた。結い上げていた時に彼女の髪に挿されていた大輪の白い花が、髪をほどいた今では、すっかりずり落ちて肩のあたりに留まっている。膝丈の裳裾からのぞくエレンの足は、飾り気のない素足だった。そのつま先が、時折かすかに震えるのを、イルスはただ見下ろしていた。  「いいのよ、ボウヤ。あたし、なんだかイライラして、やつあたりしちゃった…」  少し経ってから、エレンが言った。鼻をすすりながら、エレンが涙で濡れた目をこすると、彼女の手のひらに、目もとを化粧していた金の粉が移って、きらきらと光った。 「あたし、ここが嫌いなの。早く、誰かの子供を孕んで、ここを出て行きたい」  髪に挿していた白い花を抜き取って、エレンは、腰まで届く長い髪に、指を漉き入れた。明るい褐色の髪からも、甘い匂いがこぼれる。 「あたしね、これでも、生まれは貴族なのよ。でも、都がバルハイから海都サウザスへ移った頃から、家が傾いて、お金に困ったお父さんが赤ん坊だったあたしを、娼館に売ったの。もし、あたしの運命がもうちょっと違う風になっていたら、今ごろ、貴族の姫様だったのよ。あたし、つらいときは、自分が本当は湾岸の大貴族の娘なんだって想像してみるの。きれいなドレスを着て、毎日、夜会に出るのよ。素敵な剣士と恋をしたり、外国の商人と話をしたりね」  涙に濡れた顔で微笑んで、エレンは冗談のように言った。  イルスは憂鬱な気分になった。エレンの想像するような夜会が、海都サウザスでは、今夜も催されているのかもしれなかった。その夜会を開いているのは、イルスの父である族長、ヘンリック・ウェルン・マルドゥークだ。古都バルハイから海都へ都を移し、数知れない貴族たちを切り捨ててきたのも父のやり方だ。父は貴族を嫌っている。イルス自身も、居丈高な湾岸の大貴族たちが嫌いだった。  でも、その父のやり方が、多くの没落貴族を生み出し、エレンのような娘を数知れず娼館へと送りこんできた。エレンは、イルスが何者なのかを知っている。イルスは、エレンからいくら恨み言を言われても、自分には文句う権利がないような気がした。 「海都の夜会に出たことがある?」  涙を拭きながら、エレンが微笑んだ。イルスは首を横に振った。 「あんたも可哀想な子よね、ボウヤ。あたしの方が、まだ幸せなのかもしれないわ」  照れくさそうに笑うエレンを眺めて、イルスは肩をすくめた。  イルスは今まで、自分が可哀想だと思ったことは、一度もなかった。師匠からはいつも、何かにつけ、お前は強運な子だと言われ続けてきた。師匠にそう言われると、確かに運は良い方だという気もするし、エレンに哀れまれると、それなりに自分は哀れなような気がした。結局のところ、自分の運の良し悪しなど、イルスには興味がなかった。 「ねえ、ボウヤ、あんた踊れる? 今日のお客はね、踊るのが好きだっていって、あたしに教えてくれたの。楽しかったわ。あたし、もうちょっと踊りたいの。あんた相手になりなさいよ」 「音楽もないのに?」  うんざりして、イルスが椅子に戻ろうとすると、出窓に座ったままのエレンが、悪戯っぽく笑って椅子を蹴倒した。 「あたしが歌ってあげる。それでいいでしょ」  出窓からぽんと身軽に離れ、エレンはイルスの目の前の床に飛び降りた。楽しげに笑いながら、エレンはイルスの返事などお構いなしに手を掴み、気持ち良さそうに歌い出した。  呆然とするイルスの手を握ったまま、エレンはひとり勝手に陽気になり、歌いながらくるくると舞った。色鮮やかなエレンの裳裾が、浜辺で開く大輪の花のように浮き上がり、乾いた甘い匂いのする褐色の髪が、エレンの頬に乱れ掛かった。臆面もない大声で歌うエレンは、まるで酔っているように見えた。実際、少しは酔っているのかもしれなかった。イルスが知っている娼婦たちの大半は酔っていて、素面の時を見ることなど殆ど無い。  裸足のつま先でくるりと舞って、エレンは歌いながらイルスの腕の中におさまった。間近で目があうと、エレンは子供のように笑って屈みこみ、ちょっとだけイルスの鼻に自分のそれをくっつけた。イルスが驚いて体を退こうとすると、エレンは意地悪く笑って、イルスの腕を引き戻した。 「あんたじゃ背が足りないわ、踊りの相手にもなりゃしないじゃない」 「うるさい。そのうち育つって師匠が言ってた」  むきになって、イルスは反論した。少しは気にしていたことだった。女にしては背の高いエレンに言われると、余計に腹が立つ。 「あんたって、何でも師匠の受け売りなのね。師匠が何でも知ってると思ってるの?」 「師匠は何でも知ってる」 「あら、そうよね。なんにも知らないボウヤよりは、ずっとね!」 「俺がなんにも知らないって言いたいのか?」 「なによ、あんたが知ってることなんて、剣の使い方だけじゃない」  楽しそうに笑って、エレンはイルスの眉間を人差し指で強く突ついた。憮然とそれを避けながら、イルスは無性に気まずかった。エレンの胸元からは、猛烈に甘い香油の香りが薫っていた。普段は鼻につくその匂いが、今はなぜか心地よかった。 「それだけ知ってれば十分だって師匠が言ってた」 「また師匠?」 「うるさいな、今日にかぎって、なんでそんなに絡むんだよ!」  エレンの腕を振り払って、イルスは声を荒げた。なんとなく馬鹿にされているような気がして、じりじりと腹が立った。 「だって、あんた、ちっとも寂しそうな顔しないんだもん。憎たらしいのよ」  きゅうに肩を落とし、エレンは無理に笑っているような顔をした。 「……………」  なにか言い返そうとして口を開いたまま、イルスはしばらくの間、進退極まっていた。予想もしていなかったことを言われて、返事のために用意した憎まれ口が使えなくなってしまったのだ。 「元気でね、ボウヤ。厭な事があったら、ここへ逃げてくればいいんだから。あたしはどうせ、ずっとここにいるに決まってる。だって、ちっとも旦那がつかないんだもの」  紅で染まった唇で、エレンは綺麗に笑った。そして、甘い匂いのする指で、イルスの耳を引っ張った。 「俺、逃げたりしないよ。エレンには分からないかもしれないけど、人質が逃げたら、大事になるんだぞ」  耳を引っ張られながら、イルスは抗う気もせず、ぽつりと答えた。 「そんなの、あんたの知ったことじゃないでしょ。海都の夜会にも呼んでもえないのに、人質がなによ、そんなもん糞食らえってもんじゃない?」  おどけて目配せするエレンに、イルスは苦笑した。 「戦になるぞ」 「それがなに? 腹の立つ敵なんて、あんたの剣でみんな倒しちゃいなさいよ」 「親父殿が困るだろうな」 「そりゃそうよ」  うふふと笑うエレンの顔は、とても楽しそうで、化粧がすっかり崩れていても、今までイルスが見た女の中で、一番綺麗だった。 「エレン」  首をかしげて、イルスは微笑むエレンの顔を見上げた。 「化粧してないほうが綺麗だ」  エレンが憎たらしそうに笑い声をたてた。 「あんたってズルイ」  きゅうに笑い止んで、エレンがぽつりと言った。なんのことを言われているのか、イルスにはわからなかった。  エレンの長い指が、イルスの肩に触れ、しなやかな腕がイルスの背を引き寄せた。 「死んじゃイヤよ、イルス。ちゃんと無事に戻ってきて。みんな待ってるから。あたしも、待ってるからね。あんたが帰って来るところは、ここよ。あんたにはちゃんと、帰って来る場所があるんだからね!」  イルスを抱きしめて、エレンは密かな声でしっかりと言い聞かせるように言った。  イルスは何も考えられず、ぼんやりと、天井の漆喰がまだらになっているのを見上げた。どこか遠くから、賑やかな音楽が聞こえ始めた。いくつもの弦をかき鳴らす、心が浮き立つような音に合わせて、力強い太鼓と銅鑼の音が流れてくる。だが、それも遠くに聞くかぎりは、どこか気だるく、夢の中で聞く音楽のようにおぼろげだった。 「エレン…」 「なあに?」 「ほんとは寂しいよ」  柔らかなエレンの肩に頬を押し当てて、イルスは目を閉じた。  エレンの温かい手が、イルスの髪を撫で、背中を撫でた。イルスがエレンの背に腕を回すと、エレンはイルスの耳に彼女の頬を優しく擦り付けた。エレンの体は温かく、眠気を誘う甘い香りがした。エレンの長い髪が、イルスの背に落ちかかり、さらさらと乾いた音を立てた。 「エレーン、エレノア! お師匠がお帰りよ。ボウヤに教えてやって」  部屋の外から、女の声が廊下伝いに聞こえてくるのが分かった。  イルスは薄く目を開いた。遠い音楽とざわめきに混じって、軋む階段を降りてくる足音がいくつも聞こえた。 「もう行かないと」  去りがたい思いのままイルスが告げると、エレンは顔を上げ、華やかに微笑んだ。淡い金色にかがやく目元も、大きな蒼い瞳も、白い歯を見せて微笑む唇も、全てが美しく思えた。それはまるで、夜の窓辺を飾る、華麗な花のようだ。  花窓を見上げる遠くの路地裏で、音楽は、まだ続いてた。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「さよなら」 ----------------------------------------------------------------------- 「あいも変らぬやつだ…」  苦笑しつつ、マードックは海都から届いたばかりの文書を、読むともなく読み返していた。  昼時が過ぎる頃、港からわざわざ早馬を寄越して届けてきたものだ。  隣大陸からの渡りの品らしき質のいい紙には、かなり急いで書きつけた様子の愛想の無い文書が連ねられている。引き寄せられたように右肩のあがる独特の筆跡は、マードックには見覚えのあるものだった。  悪筆の部類に入るものかもしれぬが、妙な味がある。手紙の終わりに捺されてある、ご大層な族長の印璽(いんじ)にも、不思議と見劣りしない。  印璽に象(かたど)られてるのは、竜(ドラグーン)だ。  長い首と頭が三つある竜が、剣を抱いている。名はマルドゥークという。  かつてこのあたり一帯の海に棲み、初代の海エルフ族長と契約を結び、この部族の守護竜となったという、伝説上の生き物だ。  しかし竜はかなりの気まぐれだったという。なにしろ頭が三つもあるのだから、自分自身の考えも三つに分かれてばかりでまとまらない。  あの弟子(ヘンリック)にふさわしい。  ずいぶんと身に合ったものを手に入れたではないか。  マードックはひとり笑って、手紙をぶらさげたまま、卓上にあった酒盃から一口すすった。火酒の酒精が喉にひどく熱く感じられる。 「あの星は、竜の目(アズガン・ルー)というのだ」  かすかな声でひとりごちて、マードックは杯を戻した。  昼をすぎた庵は静かで、潮騒の音がきこえてくるばかりだ。  独り言が板についたものだと、マードックは思った。考えてみればもう、人生のほとんどをこの庵で過ごしている。  つねに誰かが身近にいたようでもあるが、一人で生きてきたようにも思える。  この世で生きることは、別れ、失い、忘れ去ることの繰り返しだ。 「……いかん、酔ったようだの」  マードックは自嘲して、ぴしゃりと自分の額を叩いた。  もう何年も昔のことになった。  海都から連れてこられた子供の名は、イルスといった。  同じように、引きつれた独特の文字で綴られた、そっけない手紙がやってきたと思えば、それと先を争って旅路を急いできたかのような矢継ぎ早で、子供を乗せた馬車が庵に辿りついた。  手紙には印璽どころか、それを書いた者の名も記されてはいなかった。  お師匠、しばらくの間、イルスを頼む。  たったそれだけ書きつけた文字が、惨めに震えているのを見て取ると、マードックはもう、何も訊ねる気にならなかった。  見下ろすと、子供も震えていた。自分の身に何が起きているのか、分かるはずもないようなあどけない顔をしていたが、マードックには、子供が自分の境遇を悟っているように思えた。  ヘンリックは、血を分けた息子を投げ捨てたのだ。  いくら気をつかってやってもイルスは庵になじまず、夜中にふらりといなくなっては、マードックの肝を冷やした。子供はたいてい、打ち上げられたもののように浜辺で丸くなって眠っていて、連れ帰りに行ってやると、おとなしくついてきた。  帰るところがないと知ってはいるが、どこかへ行きたかったのだろう。  あるいは、誰かが自分を連れ戻しに来ることに味をしめていたのか。  その両方かもしれない。  都を去るのは、つらいものだ。何があるわけでもない、ただ漠然とした人の賑わいや、慕わしい人々の声が、懐かしく思い出されていたたまれないことはある。  喧騒が懐かしいわけではなかろう。  そこで味わった幸福な日々を思ってのことだ。  マードックには、その気持ちがよくわかった。  のんびりと追いたてながら庵に帰るとちゅう、子供が涙をこらえるために何度も星空を見上げるので、教えてやった。  あの星は竜の目(アズガン・ルー)というのだ。  子供はその星の名前をおぼえ、いつのまにか泣かなくなった。今ではすっかり、この庵に居ついて、マードックの弟子のように振る舞っている。  そしてまた、紙切れ一枚で別のところへ遣られようとしている。  手元にある手紙を見つめて、マードックはぼんやりとした。  手紙の文字は、もう震えてはいなかった。  勢い良く扉が開かれ、野菜を抱えた少年の後姿が押し入ってきた。 「お師匠、市で同盟の話を聞いてきた」  こちらを見もせずに、興奮した大声で言い、少年はずかずかと奥の台所に荷物を置きにいこうとしている。マードックはそれを、ちらりと見遣った。  表はまだ暑いのだろう。袖のない簡素なシャツには飾り気もなく、伸び始めた栗色の髪を無造作に束ね、大荷物を抱えている姿は、とても王族の者とは思えないなりだ。 「北の戦線では、もう戦はしてないらしい。北から戻ってきた商人たちが噂してた。森エルフが軍を退いていったってさ」  台所の奥から、大声で話しかけてくるのが聞こえる。ばたばたと物を動かす音がする。それが止むと、軽快な足音がこちらに戻り始めた。 「お師匠、どうして黙ってる」  居間に戻ってきた少年は、難しい表情をして、マードックの斜向かいの席に腰掛けた。話はじめようとして、イルスがむっとしたように匂いを嗅いでいる。 「酒臭ぇ」  顔をしかめて、イルスが唸る。  マードックは深い息をつき、にやりと人の悪い笑みを作った。 「そなたは鼻が利くのう」 「誰だってわかる。昼間からいい身分ですね、お師匠」 「里の者たちは、同盟のことをどう言っていたのだ?」  はぐらかして、マードックは尋ねた。 「戦ったほうがいいって言ってる。同盟なんて、くだらねえって」 「その他には?」 「族長が決めたことだから、従うと言ってる連中も」  複雑そうな顔をして、イルスは付け加えた。マードックは思わず、本心からにやりとした。 「そなたはどうだ」 「俺は知らねえ。戦があろうが、なかろうが、ここでは関係ない」  弟子はふて腐れているようだった。 「気に食わぬようだのう。では朗報といえるかもしれぬぞ」  都から送られてきた書状をひらひらと振って見せて、マードックはイルスに笑いかけた。  印璽を認めて、取り澄ましたままのイルスの顔色が変わった。 「同盟には人質が必要だそうでな。ヘンリックはそなたを選んだようだ」  どんな顔をして説明してやればいいのか、考えあぐねていたのだが、意外なことになったものだ。 「……人質って」  イルスは強張った無表情で話を聞いている。 「海都へ行け。ヘンリックがお前と話すそうだ。船はもうこちらに向かっている」 「お師匠、俺の修行は?」 「道を極めぬまま行くことになるのう。残念なことだ」  しみじみと言うと、イルスがかすかに眉を寄せた。 「それとも断ってここに残るか。どうする、弟子よ。ヘンリックの息子など止めにする手もあるぞ」  イルスが、がたんと椅子を鳴らして立ちあがった。マードックが示した書面を見つめたままだ。大きな呼吸で、育ちきらない肩が揺れているのを、マードックは哀れみを隠した目で見守った。 「これ、親父殿の字か?」 「そのようだのう」 「わりと汚い字だ」 「そなたの父親だからの」  淡々と答えるマードックの顔に、イルスが目を向けてきた。  顔をしかめるイルスの鼻に、うっすらと細かい皺が寄っている。滅多に機嫌を悪くしない弟子だが、たまに拗ねると、きまってこういう顔をする。そして大抵、どこかへふらっと出ていって、半日ほどは戻らない。 「行ってやる、どこへでも」  気負った声でイルスは宣言した。 「師匠、それ飲んでいいか」  マードックの手元にあった火酒の杯を指差して、イルスが有無を言わせぬ口調になる。  杯を押しやってやると、イルスはそれを引っつかんで、きつい火酒を一気にのみほした。熱いため息をつきはしたが、まともな顔をしている。いい飲みっぷりだとマードックは関心した。  これもヘンリックの血であろう。イルスの母親のヘレンは、まるで飲めない娘だったからだ。それに引きかえ、ヘンリックは馬鹿のように飲んだ。酔うことを知らない体に生まれついたらしく、酒樽を相手にしても飲み負かすにちがいないと思えたほどだ。  どん、と杯を食卓に返して、イルスは口元を拭った。 「お師匠、俺が出てったら、ウルスラを身請けしてやったらどうですか」  意外な話題に心底驚き、マードックは唖然とした。  ウルスラというのは、馴染みの娼婦の名だった。子種のない「石の女」で、女盛りを過ぎようとする今になっては、娼館を出て行く希望も持っていないような、無欲な娼婦だ。 「なにを妙なことを」 「ウルスラに飯を作ってもらってください。それがいいよ」 「そなたが首をつっこむようなことではない」 「お師匠ひとりになったら、この庵はきっと、あっという間に豚小屋並になる」  否定しきれない話だ。  しかし、同盟の人質にされようかという正念場で、そんなくだらないことに拘るイルスが、マードックには情けなく思えた。自棄(やけ)になって父親に意地を張ってみせるのは見上げたものだが、愚かだ。 「それがそなたに何の害があるのだ。修行も半ばで出て行くのだろう。戻ることもない場所のことなど考えるな!」  マードックはふと気づくと声を荒げていた。  イルスがむっとしたように大きな息を吸っている。 「ウルスラがお師匠に酒を飲ませるなと言ってた。ちゃんと飯を食わせてやってくれって。俺はあの人と約束したんです。でもこうなっちゃどうにもならないから、本人になんとかしてもらってください」 「そなたいつの間にウルスラと話したのだ」  きゅうに疲れがきて、マードックはうつむき額をこすった。 「お師匠か大鼾(いびき)で眠りこけてる間にだ」 「なかなかやるのう……」  なにやら胃が痛くなるような話だ。いつのことを言っているのか確かめたいような気もしたが、あいにくそんな場合ではない。 「イルス……人質のことは、断ってもよいのだぞ」  無理に気をそらせて、マードックは話をもとの道筋に戻そうとした。 「俺が行かないかったら、誰が行くんだ」 「ヘンリックが勝手に代わりを決めるのではないか」 「たとえば兄上とか」 「そなたは馬鹿のくせに余計なことを考えすぎだ……」 「俺が行きます」  どん、と食卓を叩いて、イルスがマードックの言葉を遮った。  深いため息をついて、マードックは弟子の顔を見上げた。  いや……そうだった。  マードックは内心の憂鬱と戦いながら、思い改めた。  弟子ではない。ただの客分なのだ。出て行くというのを引き止めることなど、実際にはできない。  ヘンリックは、しばらくの間頼むと言伝てしてきただけだ。その「しばらく」が終わったというだけのことだろう。  マードックは可笑しいような気になって、短い笑い声をたてた。  ずいぶんと長い「しばらく」があったものだ。  歩くのも覚束なかったような幼子が、師匠の女のことにまで口を出してくるほど育ってしまったではないか。  そこらの浜辺で泣いているのであれば、ぶらりと酔いざましの散歩がわりに連れ戻しにも行ってやれるが、今度のはそれとは比べ物にならないほど遠いのだぞ。  マードックは誰にともなく恨みに思った。  いずれ放り出すつもりだったが、なぜわざわざ死の穴へ叩き落すような真似を。父親に劣らない剣士に仕上げて、自分の身を守れるようになったら、都へ帰してやろうと思っていた。  晴れがましく帰れるはずだったのだ。  いたたまれず、酒をあおりたい気になったが、手にとって見れば杯は空だった。  そういえばイルスが飲んでしまったのだ。 「飲みすぎです、お師匠。もうジジイなんだから、無茶しないほうがいい」  すかさずイルスが嫌味を言った。 「まったく……そなたは忌々しい弟子だのう!」  マードックは心底からため息をついた。 「そんなもんでも、いるだけマシだろ」  曇った声で言い、イルスが押し黙った。  マードックはうつむきがちな子供の顔を見上げて、呆然とした。  すねた心を隠して人にからむのに、懐かしい気配がする。  この子に何を教えてやれただろう?  馬鹿馬鹿しい、辛いばかりの剣の修行などに明け暮れさせて。いっそ、そこらの知恵の回らない坊主どもと同じように、好き放題遊ばせてやれば良かったのだ。  マードックがなにも答えられないでいると、イルスがふらりと部屋を出ていった。扉の閉じる音が聞こえたきり、庵にうつろな静けさが舞い戻ってきた。  お師匠。  回想の中の声が、よく似た拗ね方をしていた。  自慢げに生意気な口をきく、愚かな若者で、他人の女を寝取るのと、明日があるのを疑わない者の命をとるのが、なにより好きなごろつきだった。  金と力のある者の手元を渡り歩いてきたらしく、口先だけの追従でなだめれば、人を騙せると思いこんでいるようなところがあった。  マードックが初めてヘンリックと合間見えた時、十六かそこらの年頃だったはずだが、その歳よりもずっと若いように見えた。腕は立ったが、ただそれだけで、幼子の殻を脱ぎ捨てる間もなく、いびつに育ったようなところがある。  ヘンリックを育てていると、とんでもなく深い穴に、ひたすら水を汲み入れ続けるような気分がしたものだ。  必死で水を汲んでも、ヘンリックは怪物のように全てを飲み干した。  真夏の砂地のように、貪欲な渇きを示して、マードックの持っている技の何もかもを、飲み下し、貪り食い、最後のひとかけらまで食らい尽くして、出ていった。  ヘンリックは、マードックのことを憎んでいたようだった。  のどの渇きを覚えて、マードックはごくりと唾液を飲んだ。  じわりと表の暑さが感じられる。額にうっすらと汗がにじむ。  酔いのために腫れぼったく感じられる目蓋を閉じると、潮騒の音がいやに耳につく。  お師匠……マードック。  あんたは俺を仕上げたつもりかもしれないが……  空耳のように、回想の中からの若い声が蘇ってくる。  薄目を開いて、マードックは卓越しにある向かいの席を見遣った。  ヘンリックはいつもそこに座っていた。  今にして思うと、異常なほどの無口で、めったに口を開かなかったが、たまに話し出すと、別人のような饒舌で、気味が悪くなる。庵で最後の食事をとったあと、発作のような饒舌が、とつぜん始まった。  俺はまだ食い足りない。 「あんたは肝心なことは何も、俺に教えなかった」  空になった酒盃を手の中で弄びながら、ヘンリックは薄笑いを浮かべていた。  湾岸の大貴族、バドネイル卿の後援を受けて、バルハイの都で族長に挑戦(ヴィーララー)する手はずになっている。長年の安穏に酔いしれた宮廷の連中にとっては、古式に則った族長交代の儀式は寝耳に水だろう。  バドネイル卿は、古めかしい伝統の復活に酔いしれ、族長位を覆す野心に酔いしれ、ヘンリックの剣技に酔いしれていた。  ヘンリックの鋭く暗い青い瞳と、痩せた頬と薄い唇、ほりの深い目鼻立ちは、部族の特徴を典型的に顕わしている。  隣大陸(ル・ヴァ)の種族との混血が進んで、古来からの血筋が取り紛れはじめた世相にあっては、屈強ななかにもエルフらしい細身の印象を持ったヘンリックは、見目も悪からず、伝統の復活のために投じる一石として、バドネイルの陶酔的な理想に近かったのだろう。  積極的に隣大陸(ル・ヴァ)との交流を進める上流階級ほど、海エルフ特有の容姿から遠ざかっている者が多い。狂信的に純血を求めるバドネイル自身も、どことなくまろやかで温和な容姿をしており、異民族との混血の徴(しるし)を示している。  異民族との混血は、代々の族長たちによって推し進められてきた政策の一環で、狂乱の血と、繁殖能力が年毎に揺らぐ不安定な体質を解決するための試みだった。そのお陰で、上流の者たちは誰でも長命で、精神的にも安定した者が多い。  狂乱の戦士の心は失いつつあるかもしれぬが、それが悪いことだとは、マードックには思えなかった。  腕の立つ者を崇拝の目で見る体質は、部族の血筋として残るだろうが、一人の剣士が他よりいくらか強いことが、国家の利益に関わるわけではない。狂乱の血などなくとも、部族の敵たちは充分に好戦的に戦っている。古い血を呼び起こしても、巷の秩序が乱れるだけだ。 「マードック。あんたを殺りてぇ……」  薄笑いして言う、古い血を持った若者に、マードックは油断のない眼差しを向けた。アルマの狂乱に憑かれたヘンリックは、獲物をつけねらう獣の目つきをしている。 「それは、そなたの血のせいだ。己を抑えられなくて、どうする」 「好敵手(ウランバ)の血を欲しがって、どこがおかしいんだ」  楽しげに、浮かれた笑い声を喉に響かせ、ヘンリックが立ちあがった。  腕組みをしたまま、ちらりと眼差しだけを動かして、マードックはヘンリックが帯剣していないのを確かめた。 「餓鬼の遊びみてぇな戦いの真似事で、いつまで誤魔化してるつもりだ。俺はもうじき死ぬんだぜ。族長に勝っても負けても、命はないって、そういう約束なんだろ、湾岸のクソどもと」  裸足で歩く、かすかな足音がする。  気だるげに脇に立って、ヘンリックは卓の端にあった酒壷をとり、腰掛けているマードックの顔を覗きこんだまま、とろとろと濃厚な酒を杯に注ぎたした。  夏場の蒸れた空気に、燃え立つような火酒の匂いがこもり、甘く香るアルマの臭気に紛れ込んでいく。 「お師匠、けりをつけずに、逝ってもいいのかよ?」 「そなたの好敵手(ウランバ)になった覚えはないが」  あっさりと返すと、ヘンリックはしばし、意味を理解できていないように笑みを崩さず、じっとしている。  やがて、鍛錬とアルマで肉のそげた顔に、ふと気がそれたような無表情がおりた。 「へぇ。そうかよ。またひとつ、賢くなったぜ」  ふざけたように言う声が、不吉な拗ね方をしていた。  ヘンリックが臍を曲げるときの、お定まりの兆候だ。 「あんたさぁ……幾らで俺を売ったんだ」 「知ってどうする」 「俺は、立って歩きはじめた時から、銅貨3枚で剣闘試合をやってた。餓鬼のころから、自分の値段は知ってんだ。だから、教えてくれよ……俺の命の値段てやつを」  卓に腰を預けて、ヘンリックは酒盃に手をのばしたマードックに、身を乗り出し、甘えたような声で話しかけてくる。 「お師匠、幾ら貰ったんだよ?」  マードックはため息をついた。 「年毎に金貨で百枚ずつだ。諸々の祝儀を含めて、そうだな。五百枚も受け取ったかな」 「ふぅん……俺もずいぶん高くなったもんだ」  納得した様子で、ヘンリックが体を起こす。 「バドネイルは気前がいい。金離れも抜群で、うまいもの食わせるし、野郎の娘だってタダで抱けるんだぜ。至れり尽せりじゃねえか」  ぎょっとして、マードックはヘンリックの顔を見上げた。 「バドネイルの娘?」  思わず声を荒げると、ヘンリックがにやっと笑った。 「そう……貴族女にしちゃ、いいほうだったぜ。生娘だったしな」 「どういうことだ」 「どうって……知らねぇよ、晩生(おくて)なんだろ」 「そんなことは聞いておらん」  怒鳴りつけると、ヘンリックは子供のようにきょとんとした。 「お前が言っているのは、セレスタ・バドネイルのことか」 「そうさ」  あっさりと答えて、ヘンリックは退屈したように自分の爪を見ている。  バドネイル卿の邸宅で、おとなしく後ろに控えていた娘の顔を思い出して、マードックは胸がむかつくような落ちつかない気分になった。  大貴族の娘にしては大人しい箱入りで、バドネイルの溺愛を受けている。夜会ではいつも、人形のように飾り立てられて、うっすらと微笑を浮かべて座っているだけの娘だ。 「婚約者がいるはずだぞ。バドネイルが族長位に押し上げるつもりにしているはずだ。話が知れて、族長への挑戦(ヴィーララー)の前に決闘沙汰にでもなってみろ、計画がぜんぶ水の泡に……」 「その野郎なら、もう殺っちまったよ、お師匠」  けろりと得意げに、ヘンリックが言った。 「女連れでイキがってやがって、ムカついたんだよ。他のときなら我慢したけど、お師匠、しょうがねえだろ……アルマせいさ。血が見たくって、たまんねぇんだよ」  うっとりと笑うヘンリックの顔は、得体の知れない高揚にとりつかれている。  マードックは呆然とそれを見た。 「野郎を殺ったんだから、バドネイルの娘は俺の女(ウエラ)だ。そうだろ?」  マードックは、自分にとっても、否定とも肯定ともつかない唸り声で答えた。  確かに、部族には古来からそういった風習があった。  風習というよりは、体質といったほうがいい。  アルマがやってきて、男たちが諍(いさか)いはじめると、年頃の娘たちは誰も彼も、腕の立つ男の女(ウエラ)になろうと戦いの勝者に群がる。アルマ期の戦闘はもともと、女を奪い合う争いにすぎなかったのだろう。  バドネイル卿が陶酔的な美学として考えるような、強さを求める戦いの本能ではない。ヘンリックも大方、可憐な貴族の娘に気でもあったのだろう。それで相手の婚約者に嫉妬したのだ。  本来なら、湾岸貴族の娘に手が届くわけがない。  ヘンリックがやったのは、想いを遂げるための唯一の方法だ。  ただ単にアルマに狂っているのか、計算高いのか、よくわからない。この弟子にはいつも、考えの筋道を手繰りきれない得体の知れないところがある。 「……バドネイルは、知っているのか」  喉の震えを感じて、マードックは再び酒器に手をのばした。 「知ってるも知らねぇも……おっさんの夜会でやっちまったんだから。俺が気に食わなきゃ、ここに戻る前に、もう始末してるさ」 「なぜ、すぐ言わなかった!」  乱暴に酒盃を卓に戻すと、溢れて飛び出した火酒がヘンリックの手を濡らした。  にやり、と得意げに笑って、ヘンリックはのんびりと、手についた酒を舐めとっている。 「言うほどのことと、思わなかったからさ」  本心から言っているのではない。ふざけているのだ。  今この時になって白状するために、毎日、機会を待って押し黙っていたのだ。  マードックはくらりと眩暈が襲ってくるのを感じた。 「バドネイルは、なんと?」  空になった酒盃に、ヘンリックがまた酒を注いだ。 「お師匠、やつらをタラすのは、簡単さ。古き血の復活ってやつに酔って、とことんイカレてやがる」  ごとりと酒瓶を卓に戻し、ヘンリックは目を細めてマードックの顔を覗きこんでくる。人並みより目が悪いせいか、ヘンリックはやたらと顔を近づけてくる癖がある。確かめたことはないが、それでも実際にはほとんど、まともに見えていないのではないか。  それに最初に気づいたのはマードックではなかった。  庵で預かっている、あの娘。ヘレンだ。 「気取りきった貴族のオカマ野郎をさんざん弄(なぶ)ってやったら、お綺麗な夜会の広間が血まみれでさぁ。くたばるまで逃げ回って、そこらじゅう這い回ったんだぜ、あの野郎。いい年した親父どもが、俺の剣に惚れて、毛も生えねぇような娘っ子みたいに、うっとりきてたさ。バドネイルの娘もさ。ビビって震えてたけど、初めてにしちゃあ、食いつきが良くて……」 「もう良い、黙らんか」  マードックが鋭く制すると、ヘンリックは言葉を吸い取られたようにふっつりと黙り込み、そしてゆっくりと、満足げな笑いに顔をゆがめた。 「なぜだ、ヘンリック……」 「さあ。なんでかね。俺にも時々、自分のことが、さっぱりわからねぇのよ」 「そなたは、そのような、馬鹿ではあるまい」  マードックは本心から言った。  じっと横目にこちらを見下ろして、ヘンリックはマードックの酒盃をとり、ゆっくりと喉を鳴らして、火酒を一気に飲み干していった。  ふうっと深い息とともに、濃厚な酒精を吐いて、ヘンリックは空になった酒盃の底を見つめている。 「お師匠」  伏し目がちに言う、ヘンリックの目もとに隈が浮いている。  ここ何日も、ヘンリックは眠っていないようだった。  アルマがやってくると、精神の高揚がおさまらず、何日も眠気が訪れなくなる。身体は疲れを知らないわけではない。無理にでも眠るように言い渡してあったが、酔いもしない体質が、この弟子を何日も休ませないでいるのだろう。 「死ぬのってどんな感じだ、痛いだけか」 「怖いのか」  マードックは乾いた声で訊ねた。 「お師匠、あんたに勝てないことだけが心残りだ」  みょうなことを言うな、とマードックは不思議に思った。  ヘンリックの技はすでに完成されており、マードックを破ることも何度と無くあった。若い力にあふれている分、ヘンリックのほうが有利だといってもいいほどだ。  突然、扉が開く音がして、マードックの思考はかき乱された。  扉のほうを見遣ると、籠に入れた荷物を抱えた娘が、背中で扉を押し開き、部屋に入ろうとしているところだった。  質素な茶の短衣(チュニック)を着て、男のようななりをしているが、長くのばした髪を束ねて華やかな染付けの布を頭に巻いているのが、年頃の若い娘らしい可憐さだ。台所仕事をしていたらしく、袖を肘まで巻き上げた腕に、水滴がいくつも残っている。 「お酒臭いわ」  こちらを見るなり、娘はムッと顔をしかめ、咎める口調になった。  淡い褐色の肌が健康そうで、明るい青の瞳は真夏の海のように鮮やかだ。薄暗い部屋の中にいても、その瞳だけは日の光のもとにあるように思える。とりたてて美しい顔立ちではなかったが、生き生きとした若い瑞々しさが、娘に人懐こい魅力を与えていた。 「お師匠さま、お酒はほどほどにって言ったのに」  洗濯ものを詰め込んだ籠をどさりと足元に置いて、娘はつかつかとマードックのもとにやってきた。卓にある酒瓶を取り上げて、それが予想したよりも軽いことに気づいて、娘はさらに怖い顔をした。 「お師匠さまが一人で飲んだの?」  厳しい口調の質問を、娘はマードックではなく、横にいたヘンリックに浴びせた。ヘンリックは驚いたのか、一瞬きょとんとしてから、肩をすくめて首を振ってみせた。 「飲ませちゃだめ。お師匠さまは、あんたと違って大事な体なんだから」 「なんだとこのアマ……」  あきれているのか怒っているのか定かでない顔で、ヘンリックが凄んだ。しかし娘はけろりとした顔でいる。 「あたしが一人前の剣士になるまでは、病気になってもらっちゃ困るもの」 「お前が剣士になんかなれるかよ」 「なれるわ。お師匠さまは、あたしのことスジがいいって。ねえ?」  くったくのない笑顔で、娘はマードックに詰め寄ってくる。 「ヘレン……」  居心地が悪くなって、マードックは咳払いした。 「お師匠、こんなブスまで口説いてんのか、あきれるぜ」  ヘンリックが憎まれ口をきくと、娘はじろりとそれを睨んだ。 「誰がブスよ」 「お前だよ、お前。その可愛げのねぇツラ、立つもんも立たねぇな」 「あら、良かった。あんたに変な気おこされるなんて考えただけでゾッとするわ。頭空っぽの尻軽にちやほやされてイイ気になってる馬鹿男なんて、まったく笑っちゃうわよ」  腰に手をあてて胸を張り、ヘレンはさらりと言ってのけた。  マードックはまた咳払いをした。 「ヘレン、そなたも口を慎んだほうがよいのではないか。年頃の娘らしく」 「まあ、お師匠さま、ごめんなさい。この男があんまり馬鹿なもんだから、つい本当のことを言ってあげちゃったの」 「んのやろ……犯っちまうぞ、ヘレン」 「立たないんじゃなかったの? まったく、語るに落ちたってこのことね。自分の言ったことも憶えてられないなんて、ほんと馬鹿」  つんと済まして反撃して、ヘレンは呆然としているヘンリックの顔を見上げた。そして、なにか面白かったのか、きゅうに噴き出して笑った。 「やだ、怒ってる。あんたって気が短すぎよ、ヘンリック」  くすくすと笑うヘレンを、ヘンリックはまだ呆然と見下ろしている。 「都へ行くんでしょう? 市(いち)でみんなが噂してたわ。ミレンなんか泣いてたわ。あんたあの子にも手を出してたのね。ミレンの兄さんが、あんたを殺すって言ってたわよ。気をつけてね」 「こんなクソ田舎の野郎に俺が殺られると思ってんのかよ」  ヘンリックはいやにしゅんとして言った。 「まさか。あんた強いもの。お師匠さまの次にだけど」  気さくにぽんぽんとヘンリックの胸を叩いて、ヘレンは笑い声を立てている。 「お土産買ってきなさいよね。忘れたら承知しないから」 「欲しけりゃ師匠に頼め、ブス」  ヘレンの手をひょいとよけて、ヘンリックは足早に、部屋を出ていった。 「なぁによ、あれ。感じ悪い!!」  口を尖らせて、ヘレンは無邪気に文句を言った。  マードックは娘の横顔を見遣り、ヘンリックが消えた扉を見遣った。 「お師匠さま、都のお土産に、あたしにも剣を買ってきてください」  気をとりなおしたようにマードックに向き直り、胸の前で手を握り合わせて、ヘレンはまじめにねだってきた。マードックは嘆息して、ヘレンから目をそむけた。 「ヘンリックはそなたに何も話しておらんのか?」 「話ってなにをです?」 「あ奴は戻って来んよ」 「ええ、市でもみんながそんなことを。士官の話でもあるんですか? あんなに頭が回らなくて子供っぽいのに、都でお勤めなんてできるのかしら、あやしいわぁ」  自分の言葉に苦笑して、ヘンリックの心配をするヘレンは、年下のくせにヘンリックの姉か伯母のような口ぶりだ。 「奴は死ぬのだ、ヘレン。湾岸の貴族がヘンリックの命を金貨で買った」  ヘレンは笑ったままで、マードックの肩をはたいた。 「お師匠さまったら、そんな冗談、ほんとうかと思っちゃうわ」 「ほんとうだ」  苦い思いで、マードックは言った。 「うそ」  ヘレンが鋭く否定する。 「嘘ではない」 「嘘です。だってヘンリックは都にいって出世するんだって……」 「あ奴がそう言ったのか?」  やんわりと問いただすと、ヘレンはどこかに心をさ迷わせたままの顔つきで、何度か小さく頷いた。 「あ……あたし、ミレンに教えてあげなくちゃ……それから……他にも…………お師匠さま、あいつったら手当たりしだいなんです。お説教してやってください。でも死んでもいいほどのひどいことなんて、してないわ!」  両手で口元を覆ったヘレンの眉間に、深い皺が刻まれている。 「ヘレン。あ奴には想う女はいるのか、知らぬか。せめても、別れを惜しませてやらねばならぬ」  マードックに訊かれて、ヘレンはさらに思案するように顔をしかめた。ちろちろと視線を惑わせて考えをめぐらせているらしいヘレンは、なかなか答えを口にしなかった。 「わからないけど、港か村の誰かじゃないかしら。ヘンリックに惚れてる娘はいっぱいいるんですよ、お師匠さま。本人にきかなくちゃ、あたしには分かりません。お師匠さまじゃ訊きにくいでしょうから、あたしが訊いてきます」 「ヘレン……よしなさ……」  マードックは慌てて止めた。しかし、ヘレンは矢のように飛び出していった。  つい怯んだのと、酔いのためと、成り行きに期待をかけたのとで、マードックはすぐにはあとを追えなかった。  ヘレンの足音が消えて、ほんのしばしの間、庵のなかに張り詰めた沈黙が降りた。マードックは息をつめて耳をすました。  このまま静かに時が過ぎるようであれば、しばらく留守にしてやるかと考えはじめた頃、なにかが盛大に転がり落ちる音とともに、けたたましい怒声の応酬が始まった。 「どうして好きな女の一人もいないのよ、この甲斐性ナシ!!」 「うるせえ、出てけ、このクソアマが! 勝手に俺の部屋に入ってくるんじゃねえ!!」 「いやよ、あんたが答えるまで、ここにいてやるわ!!」  港まで筒抜けなのではないかというほどの大声で叫びあうのが止むと、大またに歩いてくる足音がやってきて、居間の扉を蹴り開けた。  入ってきたヘンリックを、マードックはため息がちに気まずく見つめた。 「ジジイ、余計な気を回しやがって」  ヘンリックの右手には、抜き身の長剣が握られていた。マードックは一瞬、ひやりと冷たいものが背筋をかけおりるのを感じた。 「わしを殺してもヘレンはお前の女(ウエラ)にはならんぞ」  マードックが小声で忠告すると、ヘンリックは大きく息を吸い、食卓を蹴倒した。上にあった酒瓶や酒盃が、派手な音を立てて床に叩きつけられ、粉々になった。 「どういう意味だ」  マードックの座る椅子に脚をかけて、ヘンリックが詰め寄ってくる。襟首を掴んでくる弟子と、マードックは間近に睨み合った。  ヘンリックの暗い色の目には、戦意が燃えていた。  わけのわからない、この弟子の対抗心の意味を悟ってしまうと、マードックには、これまで疎ましく思いさえしたものが、果てもなく哀れに思えた。 「ヘレンはほかの娘たちとは違うのだ。腕っぷしの強さを見せれば靡(なび)くと考えるなどと、浅はかだぞ、ヘンリック。そなた、目の前にいる娘が自分を見ないのが気に食わぬだけではないのか」  かまをかけるつもりで、マードックは弟子の気持ちが浮ついたものであると決め付けるふうなことを言ってみた。  ヘンリックは顔色を変えなかった。  かすかに目蓋が震えただけだ。  がつんと重たい音を立てて、ヘンリックが長剣を床に突き立てた。 「お師匠さま、ご無事ですか!?」  裏返ったヘレンの大声に驚かされて、ヘンリックの肩がびくりと揺れた。  首をめぐらして見遣ると、戸口に熊手を構えたヘレンが立っていた。長柄のついた鋭い鉄鉤が4本。厩(うまや)まで取りに行って戻ってきたらしく、ヘレンの短衣(チュニック)の尻のあたりには、馬草(まぐさ)が一本くっついていた。  マードックはとっさに呆れてしまったが、ヘレンの顔つきは至って真面目だ。 「ヘンリック、お師匠さまに手をかけたら、あたしが承知しないから。あんただって後悔するわよ。こんなときなんだから、大人しく白状して、お師匠さまのお慈悲にすがったらどうなの。照れ隠しに暴れるなんて、子供じゃあるまいし。だいたい、あんたみたいな女ったらしが、いまさらなにを照れるっていうのよ」  強気な声で責め立ててから、ヘレンはふん、と興奮した息をついた。 「さあ、言いなさいよ。言いなさいったら!」  熊手を構えて脅す割に、ヘレンが必死になっているのは親切心からのことだろう。マードックは、この鈍い娘の心優しさが好きだった。若い娘が一人いるというだけで、戦い荒んだこの庵にも、素朴な華やぎが感じられて、心が休まる。  そう思っていたのは、なにも自分だけではないということだろう。  改めて考えれば当然のことかもしれぬが、この捻(ひね)くれた弟子に限っては、そんなことはありえないと思いこんでいた。 「ヘレン、ヘンリックはそなたに惚れておるのだ」 「お師匠さま、そういう冗談は今度にしてください!」  噛みつくようにヘレンがマードックを遮った。 「冗談なのか、ヘンリック」  マードックは当の本人に話を押し付けた。  ヘンリックは押し黙って何も言わないままだ。口篭もるというよりは、おそらく本人にも良く分からないのだろう。  この弟子が困惑する顔を初めて見た。  ヘンリックはマードックの喉元から手を放し、かすかな狼狽を押し隠した様子で、ヘレンに向き直った。  いきがって胸を張ってはいるが、細身の背中はまるで、初めてアルマの声をきいてうろたえた子供のようだ。  案外ほんとうに初めてなのかもしれぬ。  背をむけているヘンリックが、どんな顔でヘレンと向き合っているのか、マードックには見当もつかなかった。 「うそよね、ヘンリック」  珍しく深刻な声で、ヘレンが強く問いただした。  ヘンリックは、うんともすんとも、答えようとしない。 「……あたしが好きだっていうの?」  速まった呼吸で胸を上下させながら、ヘレンは卒倒しそうな顔をしている。 「うそよ、うそ……うそ……」  混乱しきった顔で、ヘレンはおどおどと独り言を言った。 「ひどいわ」  ヘレンの手を離れた熊手が、がらん、と床に転がった。  家事で荒れた手で顔を覆って、ヘレンがうつむいた。 「お師匠さま、あたしヘンリックには話してません」  打ちひしがれた涙声で、ヘレンがか細くうったえてくる。  ヘレンには秘密があるのだ。  ため息をつくマードックが、その秘密を共有しているのを悟ってか、ヘンリックがちらりと横目でこちらを睨んだ。 「お師匠……」 「ヘレンはな……」 「言わないで!」  折り重なった声を引き裂くように、ヘレンが悲鳴をあげた。  ヘンリックが向き直って、ぴくりと背中を強張らせた。  マードックは目を細めて、弟子の肩ごしにヘレンを見つめた。 「あああ、あたし、自分で言えます、お師匠さま」  髪を覆って頭に巻いていた飾り布を、ヘレンは乱暴にひき下ろして、額にある秘密を男たちに見せた。 「ヘンリック、あたし竜の涙なの」  いつも陽気に微笑んでいるヘレンの額で、薄青い涙が小さく煌いている。  じりっと半歩引き下がりかるヘンリックの背中を、マードックは拳で押し留めた。どしんと指の骨につきあたった背筋が、硬く引きつっている。  竜の涙の主を忌み嫌う迷信に、部族の者たちと同じく、この弟子も取りつかれているのだ。疫病のように恐れられているこの石を、生まれつき備えた者は産屋の中で叩き殺され、成長とともに顕わした者も、見つかれば同じような運命をたどることになる。  ヘレンがここにいるのは、未来を見る力のあるマードックを頼って、ここへ逃げ込んだからだ。ヘレンも同じように、未来を見る力を石から与えられている。  それを匿う者にも、恐れや嫌悪が差し向けられるが、マードックは魔法の力を修めた都からの流れ者として、特殊な立場に置かれていた。この庵はヘレンにとって、都合の良い隠れ家なのだ。 「この石を見たら、立つもんも立ちゃしないわ、そうでしょ。それでいいのよ、別に。あたしはそんなこと誰にも期待してないもの。あんたなんか願い下げなのよ!!」  地団駄を踏む子供のように泣き喚いて、ヘレンは庵を出る扉にむかって、逃げだすように駆けていった。  ぽかんと立ち尽くしているヘンリックの背を、マードックは軽く蹴飛ばした。 「追わぬのか、うすのろな弟子め」 「お師匠」  振りかえったヘンリックの顔は明らかに動揺していた。 「明日にも死のうというやつに、怖いものなどあるものか。せめて別れを告げて来い」 「ヘレンは俺のこと……」  見知った弟子とは別人かと疑うような頼りない声色で、ヘンリックが尋ねてきた。 「あの娘は誰にも惚れんよ。心を鎧(よろ)っておるのだからな。遊び半分なら引き下がれ。そなたにもヘレンにも深すぎる痛手であろう」  忠告すると、ヘンリックはしばし俯(うつむいて)いて、考え込んでいた。  そして不意に、床に突き立てた長剣の柄に手をやり、何度かこつこつと迷うように柄を爪で叩いた。  ヘンリックが長剣をひき抜くまで、マードックは弟子の手元を眺めていた。  抜き身の剣を引きずりながら、ヘンリックは何かこの世とは別の声に操られている者のような頼りない足取りで、ふらふらと庵を出ていった。  歩みは弱々しくとも、行き先には迷いがない。どこへ行けばヘレンがいるのか、ヘンリックは知っているようだった。  扉がこそりと閉じられる音を聞きながら、マードックは散らかりきった居間を見渡した。  食卓は倒れ、食器や酒盃が粉々になって床に散らばっている。惨憺(さんたん)たる有様だ。ヘレンが毎日きちんと片付けても、晩には滅茶苦茶に散らかっていることは珍しくない。  気さくな娘の甲斐甲斐しさに甘えて、マードックもヘンリックも、食器のあげさげにすら頓着しなくなっているせいだ。  マードックのため息に応えるように、庭先にある厩から、ものすごい喚き声が聞こえてきた。遠巻きで、何を言っているのかは聞き分けられないが、耳慣れた男女の声が、身も蓋もなく罵り合うような声だ。  何度か厩(うまや)の壁と柱が拉(ひし)ぐような、けたたましい騒音も聞こえてきた。  元気なことだ。弟子も今夜はよく眠るだろう。  マードックは億劫に思いながらも立ちあがり、横倒しになっている食卓を起こしにかかった。  馬が騒ぎに気を高ぶらせ、怒っているとも怯えているともつかない、迷惑そうな嘶(いなな)きを立て続けに上げている。  だが、マードックが床に飛び散った食器の欠片の、目だった破片を拾い集め終わるころには、馬も諦めたように大人しくなり、争う声も、すっかり絶え果てたようだった。  今夜は潮騒に耳を澄まさぬことにしよう。  欠伸をして、マードックは細かな破片でざらつく床を靴底で擦りながら、庵の奥まった場所にある、自分の寝室に引っ込んだ。  遠く過ぎ去った別の夜のことだ……。  世の中から逃れるためにこの庵にやってきた者たちは皆、結局ここを出て、別の未来へと出ていった。  ここに閉じ込めておけるものなど一つもないのだ。  誰も彼も、運命の手によって乱暴に引き毟られるようにして、ここを出て行く。  泣きながら別れを告げていった者を、無理にでも引きとめてやれば良かったと後悔したことがあっただろうか?  マードックは立ちあがって、酔いの抜けない足取りで庵を出た。  昼下がりの海辺は凪(なぎ)を終えて、夕刻の陸風に変わろうとしていた。  庵の前から続く、土を踏み固めた道の脇で、細長い雑草が揺れて、青い草いきれを立ち上らせている。  草を踏み分けてマードックが行くと、かしゃかしゃと低い音を立てて後足の長い飛蝗(ばった)が跳んで逃げた。  昔から庵の脇にある厩(うまや)には、最近新しく飼いならしたばかりの若馬が、のんびりと飼い葉を食っており、ひくひくと耳を動かして、厩の奥の物音を聞いている。 「イルス」  横木をくぐってマードックが薄暗い厩に入ると、熊手を抱えたイルスがむすっとした顔で振り向いた。 「掃除か」  古い敷き藁(わら)を厩の隅に寄せる仕事をしながら、イルスはしばらく何も答えなかった。  居候(いそうろう)の少年が床の汚れ物を隅に片付けて、新しい藁(わら)を敷いてやるのを、若馬はぶるぶると鼻をならし、それとない横目で見守っている。それに倣(なら)って、マードックもただ黙って、イルスの仕事ぶりを見つめた。  そこらじゅうを片付け、馬の水を変えてやると、すっかり納得したのか、イルスは桶に汲んだ水に肘までつけて、丁寧に自分の手を洗い始めた。 「お師匠」  濡れた腕をふるって水気をとばしながら、イルスがぽつりと口をきいた。 「お世話になりました」  マードックはにまりと微笑んだ。 「晴れがましく行くがよい。ヘレンはそなたを、自慢の息子だと言うておったぞ」  イルスは頑固な性分を隠さず、むっと複雑そうに顔をくもらせて、厩(うまや)の奥に顔をそむけた。  いつも意地を張っているあたりが、母親に良く似ている。あの娘に。  結局最期まで、つらいとも苦しいとも言わなかった。  あたしは幸せだわ。幸せな一生だった。  お師匠さま、あたしの自慢の息子たちです。  さよなら。あたしは行きますけど、  あたしがどんなに幸せな女だったか、この子たちに伝えてください。  ヘンリック、あのひとは馬鹿だから、きっとそんなことも分からないのよ!  つらいと言って泣けばよかったのだろうが。  縋り付いて泣く子供を抱き寄せて、ヘレンは声をあげて笑った。  笑って、イルスはいい子ね。あんたは強い子よ、あたしの息子なんだから。  つらいときでも、笑うのよ、あんたは強い子なんだから。  見なれたものと変わらない、闊達(かったつ)な笑顔で幼いイルスをあやすヘレンの手は、血まみれだった。 「お師匠、俺はまだ死なねぇと思う。俺の死に場所は、べつにあるだろ」  まっすぐ顔をあげて、イルスが真面目にそう言った。厩の横木に背をもたれかせさせ、腕組みして、マードックは何も答えず、微笑しつつ首を傾けた。 「さよなら、マードック先生」  ヘレンと同じ、未来を見とおす明るい青の瞳で、真夏の日を受ける草むらを見つめたまま、イルスは不意に、にやっと笑った。  鮮やかな驚きとともに、マードックは少年の横顔を眺めた。  イルスはヘンリックにも似ているようだったし、ヘレンにも似ているようだった。  あの二人の血を受けた子供なのだ。  かつてここにいた者たちや、今ここにいる者、そしてこれからここを訪れる者たちのことを、マードックは心から愛しく思った。 「さらばだ、弟子よ。汝、死を恐れるなかれ(アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ)」  ヘンリックを送り出したときと同じ言葉で、マードックはイルスを送り出した。  胸の前で拳を合わせ、深深と頭を垂れる正式な礼をしてみせて、イルスは神妙に別れの挨拶を寄越してきた。  時を越えて、死んだ母親が息子を見たら、なんと言ったろうか。  お師匠さま、あの子があたしの、自慢の息子なんですよ。  ヘレンはおそらく、娘のころと変わらない陽気さで、得意げに微笑むにちがいない。  あらゆる絶望をはねのける、あの娘のことだから。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「風の岬」 -----------------------------------------------------------------------  真夏の陽射しに焼けた白い砂の上に放り出すと、極彩色の魚たちはそれぞれ苦しげに身をよじって飛び跳ねる。首を振って、海水で濡れた髪から水気をとばすと、イルスは足元に落としてある今日の獲物を見下ろした。  鮮やかな青と黄色のマダラ模様の魚が3匹と、派手な赤のヒレをつけた黒いのが2匹、そのどれもが、横腹に銛(もり)で突かれた痕がある。すぐそばの砂に突きたてた銛(もり)を引きぬくと、イルスは細い葉を編んで作った魚篭(びく)の中に、無造作に魚たちを放りこんだ。  この暑気だから、早く庵に戻らないと、魚が死んで味が落ちるだろう。今夜の食卓には、とくに新鮮なものを並べたいとイルスは算段していた。  最後に掴んだ黒い魚は、つい今しがた息絶えていたらしく、ぐったりとして抵抗しなかった。  死(ヴィーダ)。イルスは小声でつぶやいた。  死んだ魚は、晩飯の材料になる。自分が死んだら、何になるのだろうかと、イルスは思った。少なくとも、誰かの晩飯でないのだけは確かだ。  濡れたまま服を着たので、体からは潮の匂いがした。振り返ると、海は晴れ晴れとした青だ。  ふと、波間に淡い黄色の花が浮いているのが見えた。  どこかから、風に乗ってやってきたのだろう。波に揺られ、何度か浜近くをさまよったあと、花は大波にさらわれて、再び海へと旅立っていった。  走って戻ると、庵の前には何頭かの馬が繋がれていた。桶に水をもらって、首を垂れている馬たちは、どれも立派な鞍をつけた軍馬だ。そこらで荷車を引いてるような、見慣れた馬たちとは毛並みが違う。  古い岸壁のあとをくり貫いて作った庵は、外から見ると、洞窟のような陰気さがある。不足な壁だけは、集落の建物と同じように白漆喰で塗られたものが作り足されていて、黒々とした岩盤と見比べると、目がくらむほど眩しい。ついこの前、近隣の集落の好意で塗りかえられたばかりだ。それまで壁を這っていた蔓植物も一掃されて、真新しい白さがいやに目に付く。  日ごろ、滅多に人の出入りのない庵に、今日にかぎって、そこはかとない活気があった。こういう雰囲気は、壁の塗り替えの時以来だ。  イルスは馬の体に触れてみた。どれもまだ、うっすらと汗をかている。つい先刻、足を休めたばかりだ。  どうやら、予定の来客が、約束より早く着いたらしい。  イルスが触れると、馬たちは迷惑そうに耳を震わせたが、よく躾られてて、抗う気配もなく、相変わらず大人しく水を飲んでいる。イルスは笑いを浮かべて馬の肩を軽く叩いた。  軍馬に乗れるのは、軍の正規兵のなかでも、それなりの階級のあるものだ。中でも、庵の一番近くに繋いである茶斑の馬は、かなりの名馬のようだった。身分のある客が来ているのだ。  イルスが通りすがりに首を叩くと、茶斑の馬は、穏やかな深い瞳をイルスに向けた。  その馬の鞍に、黄色い花が一輪、ガクから先だけになって留まっているのに、イルスは気づいた。馬の乗り手が、通りすがりに見つけて摘んできたのだろうか。浜辺でみた波間の花に、良く似ている。  この季節、たまに風にのって花や種が飛んでくることがある。客人にはそれが珍しかったのだろうか。軍馬の背に花が飾ってあるのがおかしく、イルスは薄く笑った。  立てつけの悪い庵の扉を開くと、木の軋むいやな音がして、中の薄暗がりが口をひらいた。磨り減った丸太の敷居を飛び越え、イルスは中に入っていった。  暗さに眼が慣れる前に、イルスは甲冑の擦れ合う音を聞きつけて、緊張した。眼を細めて玄関の土間を見回すと、金属と黒光りする革で身を鎧った、屈強な兵たちの、訝しげにこちらを見上げている視線とぶつかった。  兵たちは、土間の壁に凭(もた)れて座っていた。暑気にうんざりした顔が、闖入者でも見るような目で、イルスを見上げてくる。だが、すぐに兵のうちの一人が、イルスの額に額冠(ティアラ)があるのに気づき、弾かれたように立ちあがった。 「殿下に敬礼!」  6人いる兵たちは、次々と立ちあがって、右の胸板を拳で軽く叩き、軍靴の踵(かかと)を打ち鳴らした。イルスは思わず、たじろいだ。抱えた魚篭(びく)からは、潮の匂いと魚の血が、生臭く臭っている。まだ生き長らえていた魚が、ビクビクと跳ね回るのが感じられた。 「ご無礼の段、深くお詫びいたします。何卒お許しください」  敬礼したまま、兵士のうちの一人が言った。イルスは答えに困って、ただ苦笑した。  見た目にもどうということのない普段着で、しかも魚くさいときたら、誰がみてもこの辺りの漁師の子とでも思うにちがいない。イルスは、そう思われても別にそれで良かった。兵たちが自分に敬礼する理由など、何一つ無い。額冠(ティアラ)を着けているのは、そんな事のためではない。 「イルスか?」  庵の奥から、機嫌の良い師匠の大声が聞こえた。 「戻りました」  少しほっとしながら、イルスは応えた。 「奥へ来い、客人に釣果を見せろ」  師匠の声に促されて、イルスは玄関を抜け、庵の奥へと入っていった。  庵の居間には、砂岩の床を覆うための古びた絨毯が敷かれ、その上に質素なテーブルと戸棚が一つ二つあるほかは、これと言って何もない。どれもこれも地味で目立ったところのない部屋の中で、師匠と向き合って座っている客人のまとう、鮮やかな青い絹の軍服は異様なものに見えた。 「イルス、元気そうだ」  椅子から立ちあがって、客人は微笑んだ。日に焼けて、もともとよりも浅黒くなった肌のいろに、明るい青の瞳がよく映えていた。屈託なく笑う目の奥に、人を引きこむ力がある。延びすぎた褐色の髪を、無造作に後ろで一つに束ね、まとっている軍服は略装だったが、堂々した気風には、身分のある者ならではの、物怖じの無さが感じられた。 「ああ…ええと、元気です」  公用語で話しかけられたので、イルスはとっさに、慣れない言葉で応えねばならなかった。それを見て、軍服の客人は、にやっと笑った。 「公用語が喋れないと、海都に帰った時に困るぞ。湾岸の貴族連中は、みんなお高くて、わざわざ神殿の言葉で喋るからな」  今度は、聞きなれた母国語が流れ出た。客人のいたずらっぽい青い目は、親しげに微笑んでいる。イルスはやっと、満面の笑みを浮かべることができた。 「兄上!」 「1年見ないうちに、ずいぶん背が伸びたな。でも相変わらずお前はチビだ」  イルスを髪をぐしゃぐしゃと掻きまわし、身長を確かめると、客人は声をあげて笑った。 「魚採りはかなり上達したらしい」  魚篭(びく)の中をのぞいて、客人は誉める口調になった。イルスは苦笑した。 「上達したのは、それだけじゃない」 「それなりに、剣も使うか」  微笑んでいる割に、いやに真面目な口調で言い、客人はイルスの顔をじっと見下ろした。 「マードック先生」  客人はイルスの頭から手をどけて、テーブルの向かいにいる師匠に顔を向けた。  着古しの質素な短衣(チュニック)姿で、師匠は、わずかに老いの気配のある浅黒い顔に、意味ありげな苦笑をうっすらと浮かべていた。腕組みしているのは師匠のいつもの癖だ。イルスは師匠のいつになく困ったような素振りを不思議に思った。 「イルスを海都に同行させたいのですが、お許しいただけますね」  挑むような口調で、客人は師匠マードックを問いただした。イルスはぽかんとして兄の顔を見上げた。 「ジン・クラビス殿下、何度も申しましたように、わたしの弟子はまだ修行中の身」  師匠が恭しく兄の名を呼ぶのを聞き、その宮廷風の言葉の響きに、イルスは一人だけ取り残されたような不安を覚えた。 「永遠にここへ戻らないわけではありません。母上の墓参のためと…イルスも、もう14です。海都の面々に挨拶もなしでは通らないでしょう。それが済めばお返しします」  兄は穏やかな口調で説得している。だが、その声の奥には、強い意思があるのが、ありありと感じられた。師匠が、深いため息をつく。 「イルス、お前は奥にいろ。客人にふるまう食事の支度をしておけ」  イルスは仕方なく頷いて、居間を出ようとした。ここで話を聞いていたかったが、師匠の言い付けでは仕方ない。 「里に兵をやって、身の回りのお世話をする女たちを寄越すように頼みましょう。港に到着した折に、里の長に話をつけてあります」  師匠の言葉をやんわりと遮って、兄はイルスの背を引きとめるような口ぶりで言った。 「…ご厚情には感謝いたしますが、余計なことです、殿下」  師匠がやはり穏やかに応える。 「なぜです。こんな庵で、女手もなく、ご不自由でしょう」  兄が微笑んでいるのを、イルスは扉に手をかけたまま、自分の肩越しに眺めた。師匠が、「行け」というように、手で押しやる仕草をする。 「兄上、また後で」  なぜか兄に済まないような気がして、イルスは意味のない言葉をかけた。それに苦笑で応えたジン・クラビスは、なにも言わずにイルスを見送っていた。 「なぜですか」  イルスが出ていった扉を見つめたまま、ジン・クラビスは苦々しい様子で同じ質問を繰り返した。  あきらめてため息をつき、ジンが仕方なく椅子に腰をおろすと、腕組したままの剣豪マードックは、かすかに笑っている目でこちらの顔を見つめている。困ったやつだと言いたげなその視線を浴びるのは、なかなか居心地のわるいものだった。 「イルスがここにいるのは、族長の意向なので仕方ありませんが、先生の小間使いのために置いているわけではありません」 「毎年のことながら、あいもかわらず憤慨なさっておいでだ」  マードックは喉の奥で低い笑い声をたてている。ジンはあきれて首を振った。 「当たり前だ。弟はれっきとした王族です。こんなところで魚を採ったり、カマドの世話をして生きるような身分ではない。先生はイルスをこの田舎の漁師にでも仕立てるおつもりなのか」 「あれが望めば、それもまた、良い人生…」 「馬鹿な!」  ジンはテーブルを叩いて立ちあがりかけていた。すぐに反省して、非礼を詫びると、マードックはにやりと笑った。  座りなおして、ジンは唇を湿らせた。こじんまりとした居間には、これといった調度品もなく、いたって簡素だった。それなりに掃除が行き届いているせいか、住み心地は良さそうだが、海都の王宮にくらべると、どうしても、みすぼらしく思える。 「マードック先生、わたしが海都へ戻れるのも、母の墓参をゆるされている、この短い期間だけです。イルスにはそれもない。あんまりだとは思われませんか。わたしは、このまま辺境の国境線を護るのもいい、それには不満はありません。ですが、イルスへの処遇はあんまりです」 「あれには別の事情がありましょう」  組んでいた腕をゆるりと解いて、マードックはうっすらと皺の寄り始めた額の中央を、こつこつと叩いて見せた。  ジンは思わずムッとした。イルスの額にある「竜(ドラグーン)の涙」のことを言っているのだろう。人格者として知られるこの剣豪も、これでは、たかが知れている。 「そんなものは迷信だ。イルスが側にいて、不幸に見舞われた者が何人いるというんですか」 「殿下の母上は、いかがか」  マードックが自分を試そうとしているのだと、ジンは悟った。すると余計に不愉快だった。 「母上は謀殺されたのです、イルスとは関りの無いことだ」 「イルスはそれを未来視した。不吉な死の予言を吐く者にいい顔をする者がいようか」  マードックは淡い青の目を細め、ジンの顔をよく見極めようとしているようだった。日焼けした浅黒い顔は、どこにでもいる初老の男のものだが、笑っている目の奥に、油断のならない光が潜んでいる。 「族長はイルスの予言を無視した、だから母は死んだのです。イルスの言葉を聞き入れていれば、母は死なずにすんだ。命を削って未来を見るのがイルスの運命だというなら、それを無駄にしないのが、せめてもの報いというものでしょう。未来を知ることには罪がない、母を見殺しにした者のほうに咎があってしかるべきだ」  憤慨を押しこめながら、ジンは言った。 「ヘンリックはイルスが未来視したことを知らなかった。あれが予言を知ったのは、ヘレンが息耐えた後の事」  意外な話だった。ジンは言葉を失って、マードックの顔を見つめた。 「…殿下は18ですな」  マードックは、別の誰かを重ね見るような目で、ジンの顔を見返してくる。 「あなたは、ご自分の父上のことを、何一つとしてご存知ないようだ。ヘンリックも、殿下と同じ年のころ、そこに座っていた」 「…族長が?」 「そのころはまだ族長ではない。分別のない、気の短い、ただの若造だ」  マードックは含み笑いした。剣豪の顔に、過ぎ去った日を懐かしむような気配が浮かんだ。 「あれは自分の持つ剣技を持て余していました。誰彼かまわず食ってかかるほかに能の無いような若輩者…私はそのヘンリックが額冠(ティアラ)を掴むのを未来視した。だからそれを教えてやったのです。殿下が座っておられるのと同じ、まさにその席で、族長になどなれるわけがないとヘンリックは弱音を吐いておりました。私がそれを教えなければ、あの男は今ごろどこの何者であったろうか……? 今も都はバルハイにあり、貴族達の栄華は変わらず続いておったでしょう。それを大貴族たちに知られれば、このマードックも、仇を持つ身になりましょうなあ」  ジンは海都での父の権勢を思った。平民からのし上がってきた、軍人あがりの男。成り上がり者と陰口をきく大貴族達。民を困苦から救う英雄と父を称える者たち。母を見殺しにし、自分たち兄弟を中央から追放した男。知っているのは、それだけだ。父が笑っている顔を、見たことがない。  ジンの顔を覗きこんで、マードックはにやあっと笑った。 「イルスが何を未来視したのか、殿下は本当にご存知かな」 「母上の死ではないのですか」  吐き捨てるように尋ねると、マードックは腕を組みなおして、じっとまっすぐにジンの目を見つめてきた。おそろしく剣の腕の立つという、この老い始めた剣豪に見据えられると、言いようのない怖気が腹の底から湧いてくる。 「イルスが視たのは、毒杯だ」 「…毒杯?」 「イルスは、それをヘレンに話した。夜会の杯には毒が入っている、今宵、それを飲んで誰かが死ぬ、だから夜会に行ってはならぬ、と」 「母上に…?」 「ジン・クラビス殿下、予知者が運命を決めるのではない。未来を知った者が、どう振舞うかが、運命を作るだけなのだ」  マードックはいったん言葉を置いて、ジンの顔色を楽しむ様子を見せた。  いま、マードックが打ち明けようとしていることの先行きが、ジンにはもう、読めていた。ただ、それを知りたくない思いで、剣豪の言葉を促せなかった。 「ヘレンは、その毒杯を、ヘンリックが飲むものと思ったのだろう。だから、その運命を変えたのだ」  マードックははるか昔、神話の中のことでも話すように語る。 「イルスがヘレンにではなく、ヘンリックに話していれば、また別の運命もあったろうか。そう思われますかな、殿下。母上は生きながらえたと?」  ジンは答えを持たなかった。イルスが見たという毒杯の未来視が、もともと誰の死を予言したものであったのか。マードックが言うように、母が族長の死を、身代わりに呑み込んだのか、それとも、もともとあれは、母の死を謀っての策略であったのか。  それは誰にもわからない。イルスはそれを、知っていたのだろうか? 知っていて、母にだけ話したのか。なぜそんな事を。誰か別のものに話していれば、違った結果もあったかもしれないのに。 「ヘンリックも、あなたが思ったのと同じように考えないはずがあろうか、殿下」  ジンが答えあぐねて体を引くのを、マードックは面白そうに見守っている。 「そのような苦悩を幼子に与えるのは哀れ、と思われませぬか。未来を見る者の身の振りようは、凡夫のそれとはまた格段に違っております。政略に関るには、イルスは目が見えすぎ、また、分別が足りないのです。関らぬでもいいものに首を突っ込み、自分の首ごと切り落とされる、あれはそういう性(さが)の子供です」  きわめて穏やかに言い終えて、マードックは息をついた。そして、心持ち顔をあげて、部屋に漂う匂いをかぐ。 「晩飯の匂いがしますな。弟子はなかなか料理の修行も怠らぬ様子で、海都の宮廷には及ばぬでしょうが、今夜は殿下の舌を楽しませるものを作るでしょう」 「マードック先生…」  ジンは暗い気持ちで呼びかけた。 「わたしは、弟に日の目をみせてやりたいのです。それだけです。母の死のことで、族長がイルスを恨んでいるのかと…それは、惨い仕打ちだと思っただけです」 「心配なさることはない。弟君のことも……殿下ご自身のことも。ヘンリックはあなたがたを見捨てたのではない」  居たたまれなくなって、ジンは席を立った。マードックは、それを引きとめなかった。  台所に誰か入ってくる気配がしたので、てっきり師匠が料理に口をはさみにきたものと思いこみ、イルスはうんざりした顔で振りかえった。 「お師匠、食い意地もほどほどにと自分で………」  咎める視線を向けた先に、兄がいたので、イルスはギョッとした。客人が台所に入ってくるとは、思いも寄らなかったのだ。 「兄上もつまみ食いか?」  あきれて問いかけると、兄は面白そうに笑い声をたてた。 「お前の顔を見に来ただけだ」 「驚かすなよ。師匠との揉め事は終わったのか、兄上」  ジンは苦笑を見せた。イルスは首を傾げた。しかし、魚を使ったスープが煮え立っているので、あまり真面目に付き合うことができない。 「海都へ帰りたくはないか、イルス。ここよりずっといいぞ。飯の支度なんかしなくていいし、王族らしい暮らしができる」 「兄上はどうするんだ?」  燃えすぎているカマドの薪を火掻き棒で突きほぐしながら、イルスは尋ねた。 「俺は当分、辺境警備さ。向こうには気心の知れた部下もいる。いい連中だ…」 「軍人暮らしって、いいものか? 兄上も、たくさん敵を斬ったのか?」  真面目に聞いたつもりだったが、兄はなぜか吹き出した。 「そうだな」  笑いながら、ジンはイルスの手から杓子を奪って、鍋の中で煮えている魚をつまみ食いした。 「海都で貴族どもの話し相手をやってるよりは、ずっといいさ。うん、うまい。お前、けっこう料理がうまいな」  イルスはかすかにムッとした。料理を誉められても嬉しくはない。 「俺も、師匠から免許皆伝をもらったら、兄上の軍で働こうかな」 「料理番としてか?」  意地悪く笑った目で、ジンはイルスを見下ろしてきた。 「ちがうよ、兵としてだ、当たり前だろ?」  イルスは兄の手から、杓子を奪い返した。ジンが面白そうに笑い、そのへんにある皿や鍋をいちいち手にとって眺めながら、物珍しそうにしている。  相手にしているのも、馬鹿みたいだ。イルスは肩をすくめて、料理に戻った。海からとってきた魚たちは、みんな晩飯に化けた。あとは、適当に皿に盛って、食卓に運ぶだけだ。師匠もそろそろ匂いを嗅ぎ付けているだろうし、いい頃合のはずだった。  毎年、ジンはこの季節になると庵を訪れてくれる。そのたびに辺境あたりの面白い話を聞かせてくれるのを楽しみにしていたのだが、今は兄にはその気がないようだ。  大方、師匠になにか腹の立つような事でも言われたのだろう。師匠の話はいちいちもっともだが、聞いたその場では腹の立つことのほうが多い。 「イルス…」  壁にもたれて料理の手を見ていたジンが、ぼんやりと呼びかけてきた。 「なんだよ?」 「母上が亡くなった夜のことを、憶えているか?」  兄は真面目な顔をしていた。無理に笑おうとしているのが、イルスには分かった。 「…いいや、ほとんど覚えてないけど………兄上は?」 「俺は、族長が泣いているのを見た」  戦利品を見せびらかすような雰囲気で、兄は言った。イルスは驚いて目を見張った。 「え、ほんとに? 俺も見たかったよ」 「お前もいたんだよ。お前も泣いていた。あの夜はみんな悲しんだんだ。母上が亡くなって」  イルスは、その夜のことを、うっすらとしか憶えていなかった。暑い夜だったことを憶えている。騒ぎ立てる大勢の声と、血に染まった母の夜会服…自分を抱きしめる兄の腕が、がたがた震えていたこと。 「兄上は泣いていなかった」  薄れた記憶の中にある、まだ子供だったころの兄の顔を思い返して、イルスは言った。 「兄上は、あのとき、母上が死んだのは親父殿のせいだと言ったよな。そうじゃなかったか?」  イルスが問いただすと、ジンはやんわりと苦笑した。 「少し違うな。俺は、族長に、"お前が母上を殺したんだ"と言ったんだ」  イルスはかすかに驚いていた。気の優しい兄が、そんなことを言っていたとは。 「親父殿はなんて?」 「そうだ、と言っていた」  なにもない宙を見つめて言い、ジンはふいに視線を落とした。 「イルス、母上の墓に一緒に行きたくないか? おまえ、1度も行ったことないだろう。海都から少し離れた岬に、母上の墓が作ってある。ついでに海都にも寄れるし、しばらく羽根をのばしたらどうだ」  イルスには、兄が、一緒に来て欲しがっているのが感じられた。海都に行ってみたい気はしたが、師匠は駄目だと言っていた。イルスはため息をついた。 「師匠の許しがなければ行けない」 「マードック先生には俺が話をつけてやる」 「無理じゃないのか。師匠は一度駄目だと言ったら、絶対に譲らないから…」  首を振って、イルスは夕食の盛りつけに戻ろうとすると、ジンが突然、イルスの肩を掴んで、向き直らせた。 「お前も、もう、海都のことを知ったほうがいい。いつまでも子供じゃないんだぞ。そうやって、ぼやぼやしてるうちに、あっという間に年を食って、ここで死ぬのか、イルス。それで幸せなのか、お前は……それでも、かまわないっていうのか? お前、なんのためにこの世にいるんだ?」  強い口調で問いただされて、イルスは絶句した。  兄が何かに追いたてられているのが感じられた。でも、それがなんなのかは理解できない。この先どうするかなど、イルスは考えたことがなかった。剣の腕をあげることだけで頭がいっぱいで、それを成し遂げるだけでも、自分の一生には時間が足りないと思っているくらいなのだ。 「兄上の言ってる意味が、俺にはわからない」 「お前は、この辺りの海で暮らす連中とは立場が違う。ここにいても分からないだろうが、お前には沢山の敵がいるんだ。何事もなく生きていくことは、できないんだぞ、イルス。覚悟を決めろ。額冠(ティアラ)をつけて生きている限り、俺達が成し遂げないといけないことは決まっている」  イルスの額を飾っている金属の輪に触れて、ジンは顔を曇らせた。  イルスは兄を見上げたまま、額冠(ティアラ)を外した。額に落ちかかる前髪をかきあげると、兄の視線が自分の額の中央に向けられるのが感じられた。 「兄上、俺が額冠(ティアラ)を着けているのは、そのほうが気が楽だからだ」 「イルス…」  兄の指が額にある竜(ドラグーン)の涙に触れようとするのがわかった。イルスはひょいと後ずさって、それをかわした。 「触らないでくれ。直接触ると、そいつの死を未来視するみたいなんだ。俺も自分の死(ヴィーダ)を見た。兄上はそんなものは知らないほうがいい」 「…お前の死?」  ジンの顔がゆっくりと引きつる。 「誰の未来を見るかは、俺には選べないんだ。身近にいるやつの未来を、片っ端から見ちまうんだよ。だから俺は、あんまり人のいないところで暮らすほうがいいって、師匠が言っていた。そのほうが長く生きるだろうって」 「…長く? お前は……いつ死ぬんだ…なにを見たんだ?」 「自分が戦場で死ぬのを。まだ先の話だよ。いくらなんでも、兄上ぐらいの年までは生きられるんじゃないかな。でも、そんなに長い人生じゃない。いつかきっと、本当にそんな日が来るんだと思う。俺の未来視は外れたことがないから」  イルスはなにか済まない気持ちで兄の顔を見つめた。 「師匠は、ひとは未来を知ってはならないと言うんだ。知らなければ、運命なんてものは存在しないんだってさ。だから、未来視しても、それを誰にも教えるなって…」  師匠マードック自身も、未来視の力を持っている。それを知る者が、自分の未来を求めて庵にやってきても、師匠は滅多に未来を教えたりしない。その者の未来が明るくても、暗くても、師匠は何も教えてやらないのだ。たとえ、その者が明日に死ぬ定めであっても、それを告げ知らせることがない。 「でも、俺は何とかしたいと思うんだ、いつも…いつもそう思うけど…………兄上、俺は母上の運命を変えられなかった…ごめん、兄上……俺がもっとうまく話せば、母上はあの夜、夜会に行かなかったかもしれないのに。母上を殺したのは親父殿じゃなくて、俺なのかもしれない」  ジンは物言いたげにイルスを見つめてから、目を閉じてうな垂れた。そして、そのままイルスの頭を掴んだ。イルスは、ジンの手が竜(ドラグーン)の涙に触れるのではと気が気でなかった。しかし、兄はそんなことは気にならない様子で、ぐしゃぐしゃとイルスの髪をかき回し、それに飽きると、無造作にどんと突き放した。 「お前は、生意気だ」  ため息とともに言い、ジンは細めた目でイルスを見つめている。 「なんとかできると思っていたのか? 昔から、自分一人でなんとかしようとするのが、お前の悪い癖だ。ちっとも変わってないんだな。餓鬼の頃も、宮殿の遣り水に落としたものを拾おうとして海まで流されたり、族長の忘れ物を届けようとして勝手に抜け出した挙句、道に迷って3日も帰らなかったこともあったんだぞ。憶えてるか? みんなどんなに心配してたか…」 「憶えてない。…いや、排水溝に流されたのは憶えてるような気がする」 「馬鹿! その性格、マードック先生に叩きなおしてもらえ」  イルスの手から額冠(ティアラ)を奪って、ジンはそれを乱暴に頭に填めさせた。イルスはとっさに台所から出ていこうとする兄の背中をつかまえた。 「兄上、せっかく来たんなら料理を運ぶのを手伝っていけよ!」  振り向いたジンの顔は、大いに呆れていた。 「この庵じゃあ、客をこき使うのか? どういう礼儀だ…まったく!」  怒りながら、ジンは腕まくりをしはじめた。 「いいじゃないか、どうせ兄上も食いに行くんだろ?」 「わかった、わかった」  イルスから皿を受け取って、ジンはしぶしぶと頷いた。 「あ、そうだ、兄上、いい馬に乗ってるな。戸口にとめてあった、鞍に花をつけてる馬、あれは兄上のだろ?」  機嫌よく、イルスは問いかけた。ジンがしばし不思議そうな顔をする。 「ああ、花ってあれか。いつもつけてる訳じゃないぞ。通りすがりに何度も飛んできたんで、面白いから持ってきただけだ」 「珍しい花だよな」 「隣大陸の花だ。お前は、こんな田舎に引きこもってるから知らないだけだ」  ジンはぽつりと言い置いてから、皿を運んでいった。 「弟子よ、海都へ行きたかったかな?」  見送った兄の一行の姿が消えた頃、剣豪マードックはイルスの横で腕組したまま、面白そうに尋ねてきた。横目で師匠を見上げて、イルスはムッとした。夜の熱気が肌を舐めるようだ。 「行きたかった」  馬影が消えたあたりには、月明かりに照らされて、まだうっすらと砂煙が残っている。それを見つめていると、なにやら切ないような気がした。 「なぜ兄に同行しなかった」  夕食の酒のせいで上機嫌のマードックは、至極しれっとして言った。 「師匠が駄目だといったんだ!」  あっけにとられて、イルスは師匠に向き直った。 「そなたに行ってはならぬなどとは言っておらん。クラビス殿下がそなたを同行させたいと仰るから、それは許すわけにはいかんと申し上げただけだ」 「同じ事じゃないか」  また師匠の繰言が始まったと思って、イルスはうな垂れた。 「違うな、まるで違う」 「同じです」 「いや、違う。そなたの兄上は、そなたをダシにしたがっておられた。もし、そなたを連れて行けたとしても、そう都合良くは運ぶまいがな…ヘンリックはそなたたちより何倍も頑固だ」  庵の戸口にもたれ、マードックは月を見ている。 「ダシってなんだよ」  イルスは首をかしげた。 「わからんのか?」 「わかるように言ってください」  イルスはとっさの癖で、師匠の真似をして、腕組をした。マードックはそれを見て、じわりと笑った。 「そなたは頭が悪いのう」 「だったら尚更、馬鹿にも分かるように言ってください」 「ああ、いい月だ。こんな夜はむさくるしい庵にこもったりせず、可憐な花とでも戯れたいものだ」 「師匠、娼館通いもほどほどにしてください」 「嬉しいくせに、この弟子は何を言うやらだ。イルス、馬を出せ、出かけるぞ。可愛いウルスラがわたしを待ちわびているだろう」  豪快に笑ってマードックは厩を指差した。 「俺は行かない、お師匠は好きにすればいいさ!」  イルスがわめいても、マードックはにやにや笑っているだけだ。 「……畜生、勝手だ!」  吐き捨ててから、イルスは厩に繋いである馬を引き出しに行こうとした。  すると、不意に風が舞って、月明かりの夜空から、なにか舞い降りてきた。風に運ばれて、袖口にはりついたそれを、イルスは摘み上げた。  黄色い花だ。  たしか、これと同じものを昼間、浜辺で見付けた。 「風に乗ってきたか…」  ほう、と感心して、マードックが呟いた。 「昼間も、海辺で同じものを見ました。毎年、これくらいの季節になると飛んでくる…見たことない花だ」  イルスが師匠に花を手渡すと、マードックは花のガクをつまんで、クルクルと回し、皮肉な微笑みの浮かべた顔で、それを見下ろした。 「これは、そなたの母上だ」 「…はぁ?」  イルスは声を裏返らせた。いくら酔っているにしても、師匠の言うことは訳が分からない。 「わかるように言ってください」 「いかに遠くとも忘れ得ぬ者を見捨てはしない、と、いうことだ。貿易風の粋な計らいであろう」  イルスに花を返しがら、マードックは言い、庵の中へと歩み去った。 「わけがわからない…」  花を弄びながら、イルスは呟いた。 「すまないな、ヘレン。滅多に顔を見せられなくて。俺も一応忙しい」  1年ですっかり蔓に埋もれてしまった墓石に触れて、ヘンリックは微笑した。  腰辺りの高さがある墓石は、岬の上にあり、遠く外海を見晴らす場所に置かれている。墓を飾るために植えられた草花が、数年をかけて生い茂り、淡い緑色の蔓を張り巡らせて、その枝枝に沢山の小さな黄色い花をつけていた。  この花は、ヘンリックが族長位について、初めて到着した隣大陸からの貿易船が積んできたもので、まだこの大陸での名前がないものだった。異国の使者は、新しい族長の機嫌をとろうとでもしたのか、ヘンリックの愛妾の名をとって、この花をトゥランバートルと名付けて贈ったのだ。素朴な黄色い花は、いくらか、ヘレンに似ているような気がした。ヘンリックは、それをヘレン本人に言ったことがない。照れくさいような気がしたのだ。多くのことを聞かないままに、恋人は逝ってしまった。  その後も、花は皮肉なほど繁茂した。風に乗って花と種を飛ばすので、貿易風が吹き付ける海都では、一夏であっというまに広まり、翌年には街のあちこちで同じ花が咲くようになった。  風がやってくるたびに、花は枝を離れ、くるくると舞って運ばれていく。海都を出港する船が満帆に風をはらませているのが、岬の上から眺められた。  墓石はまるで小さな船のように見える。遠く外海を目指し、海原を自由に行き来する帆船のようだ。  蔓をかき分けると、大理石の船の上には、死んだ女の像が横たわっている。穏やかな顔で目を閉じ、花で飾られて眠っている様に見える。  こうしていると、まるで、この上なく大人しい女のようだとヘンリックは思った。うっすらと腹が立ち、おさまりかえって横たわっている像の鼻をつまむ。 「生きている間に、本物の船に乗せてやればよかったな。隣大陸では女も船に乗るそうだ。お前もこんな土地じゃなく、もっと別な世界に生まれれば良かったんだ」  墓石にもたれ、ヘンリックは一人で水平線を眺めた。ひどくゆっくりと船が行く。  航海を始める船を祝うように、盛大な貿易風がそれを追って行った。風は海に向けて花を舞いちらせ、ヘンリックの短衣(チュニック)をはためかせた。 「ヘレン、子供たちには自由をやろう。お前が望んだ様に、外海へ漕ぎ出すのもいい。まるで別の夢でもいい。俺を殺して族長になるのでもいい。なんでも好きにするがいいさ。その時は盛大に殺されてやるよ。俺にできるのは、それくらいだ。それまでに、この部族を少しはマシなほうへ変えておこうと思うんだが、これがなかなか難しくてな…俺はもう死にたいよ」  苦笑しつつ、ヘンリックは一人ごちた。  別の方角から、快速船が海都の港をめざしてやってくるのが見えた。目を細めて、ヘンリックはその船の掲げる旗を見やった。ごく近くにやってくるのを待つと、その旗に剣と月の紋章が描かれているのが見て取れた。ヘレンが生んだ最初の息子、ジン・クラビスの紋章だった。 「お前の息子が帰ってきたぞ」  彫像の頬をひたひたと叩いて、ヘンリックは苦笑した。その場を去ろうとすると、袖口に花の蔓がからみついている。ヘンリックは一瞬、歩みをとめた。  振りかえり、花に埋もれた墓石を見やると、女の彫像はうっすらと笑っているように思えた。 「おい、へんな期待をさせるなよ」  蔓をはずして、ヘンリックは岬を下っていった。  ふたび風が舞い、小さな黄色い花が群れを成して海上を飛び去って行く。自由に舞い遊ぶ花を眺めると、わけもなく心地よかった。  快速船の着岸を継げる銅鑼の音が、海都の港から、かすかに流れてやってくる。この場所にはもうじき、血を分けた者が訪れることだろう。母を悼むために。  風に乗って、小さな黄色い花が次々と追いすがってきた。肩に留まる花に触れ、ヘンリックは、誰に笑いかけるでもない苦笑を浮かべた。       ---- 完 ---- ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(1) -----------------------------------------------------------------------  夕凪に入った湾岸の街には、夜を待つ熱気が籠もっていた。  あと一点鐘もすれば、風は戻り、街にたれ込めた熱気を海へと吹き払っていくだろう。  そうすれば夜会が始まる刻限だ。  そのときに遅れないよう、すっかり着飾ってから、レスリンは親友の屋敷を訪れた。  このところ、しばらくの間、流行り風邪にひどくあたってしまったせいで、郊外の屋敷に引っ込んでの療養生活が続いていた。その間、ひと月ばかりもご無沙汰したろうか。  親しかったはずのセレスタ・バドネイルは文も寄越さなくなり、レスリンは気を揉んでいた。  セレスタは湾岸に君臨する大貴族、バドネイル家の一人娘で、すでに十七歳にもなった娘盛りの今、ほかに兄弟もいないとあっては、まず間違いもなく、彼女の父親の莫大な財産と権力を、相続する者だと見なされている。父親の溺愛を受けて、おっとりと鷹揚に育っている娘だが、いくらなんでもその事実に気付かないわけはない。  友達を選んでいるはずだ。  父親同士の付き合いがあったせいで、レスリンはセレスタとは幼馴染みだったが、それでも時々、戦々恐々とした。いつかセレスタが自分に飽きて、街への遊びや、芝居見物は、もっと他の、彼女の身分に匹敵するような、大貴族の娘とだけ行くわと、言い出すのではないかと。  レスリンの家系は、格式張って古くはあったが、ここ数代の権勢は、どちらかといえば落ち目であった。セレスタと出かける時には、自分の身を飾る先祖伝来の古い宝石が、親友の胸に輝く大粒の青玉(サファイア)や真珠に比べ、とりかえしのつかないほど見劣りがするのではないかと、不安を覚えずにはいられない。  だからもう、かつては数日とあけずに届いていた、他愛もない文が、さっぱり届けられなくなったことには、到底耐え難かった。  バルハイに戻ってから、とんでもない噂も聞いた。  バドネイル卿が愛娘セレスタのために選び抜いていた、彼女ご自慢の、姿も血筋も良い婚約者が死んだという。  なんでも、夜会の席で手合わせ(デュエル)をした、その相手に惨殺されたというのだから、腰の抜けるような話だった。  夜会に居合わせたという友人に、前もって噂話を聞き出そうとしたが、なぜだか、むっつりと口を噤んで、決して教えてくれなかった。  仕方なく、レスリンはセレスタのところに直に乗り込む他はなかった。  裾を長々と引いた、絹の夜会服をからげて、レスリンはセレスタの住む、壮大なバドネイル邸の最後の入り口を足早にくぐった。  ご機嫌伺いのために、先触れの遣いをやったところ、セレスタは元気で、喜んでレスリンと会うという話だった。  郊外の屋敷から、今朝方、早馬で送らせた土産の花を従僕に持たせ、レスリンはセレスタの部屋を訪れた。  見慣れたその豪華な部屋の中で、セレスタはなぜか着飾りもせず、病人のように、ゆったりした白いモスリンの服を着て、椅子に腰掛けていた。  レスリンはその姿に、一瞬、親友が婚約者を目の前で失った衝撃のあまり、日々伏せっているのだろうと思った。  しかし、セレスタはレスリンが知る普段の彼女よりも、いくぶん血色のいい頬をしており、座っていた椅子からぴょんと跳ねるように立ち上がって、自分を出迎えてくれる様子は、妙なふうに浮かれていて、まるで小さな子供のころのようだった。 「レスリン、ようこそ、来てくださってありがとう。ご病気だったのですってね。知らなくてごめんなさい。お見舞いにも行かず、失礼だったわ」  入ってきたレスリンの手をとって、セレスタは早口にそう挨拶をした。優しく微笑んでいるセレスタはどことなく幼い顔をした美人で、彼女の青い目は陽を浴びた海のようにきらめいて見えた。  セレスタは知らなかったのか、とレスリンは意外だった。一ヶ月もの間、ずっと会う機会もなく、療養しているから会いに行けなくて寂しいと、こちらからは文を送ったのに、彼女はそれを読んでいなかったのか。  やはり、それだけ婚約者の死が衝撃だったということかしら。  レスリンは親友と向き合う顔に、同情する表情を浮かべた。 「私、具合が悪くて、バルハイのことは風の便りにも知らなかったのだけど、とてもつらい目に遭ったのですってね、セレスタ。先だって戻ってきてから知って、とにかく貴女が心配でたまらなくなって、お見舞いに駆けつけたのよ」 「ありがとう」  礼を言いながら、セレスタは一抱えもある花束を従僕から受け取った。  その中に顔を埋めて、みずみずしい香りを嗅いでいるセレスタは、とても不幸なようには見えない。  ありがとうという礼の言葉も、レスリンが駆けつけたことにではなく、花をもらったから、礼儀として無意識に言った言葉のように聞こえた。 「大丈夫なの、セレスタ……?」  本当の彼女なら、大丈夫なはずはなかった。今頃、寝床で泣き暮らしている。  幼馴染みが、嘆きのあまり、そういう時点を通り越してしまったのではないかと、レスリンは背筋が寒くなった。 「平気なの。レスリン、私ね、好きな人ができたの」  うっとりと顔を赤らめて、セレスタが囁くような声で告白した。  レスリンは唖然として、それを聞いた。  セレスタは、婚約者のことを、愛していると言っていた。ちょっと前まで。郊外にある屋敷に行く前に、しばしの暇の挨拶をしにきた時には、心から彼を愛していると言っていた。  セレスタが婚約していたのは、彼女よりも少々序列は落ちるものの、名家の生まれの、背が高く、貴族らしい穏やかな顔立ちをした、優しげな男で、頭が良く、歯切れもよく、乗馬と剣が得意だった。セレスタが夜会で彼と踊るのを、レスリンはいつも羨望の眼差しで見てきた。  セレスタほどの大貴族の娘ともなると、自分より位の高い結婚相手を見つけるのは難しい。競合する家名の者は政敵であることがほとんどだからだ。バドネイル卿は愛するひとり娘のために、自分が支配できる家々の中から、もっとも優れた相手を選び出していた。  そんな恵まれた境遇の中で、セレスタは掛け値無しに幸せそうだった。レスリンから見たら、彼女はお伽話の中のお姫様そのものだったのに。 「良かったわね……」  レスリンは、出遅れた祝いの言葉に、声を掠れさせた。すかさず祝うべきだった。どんな恋かは知らないけれど、とにかくセレスタが喜んでいるのだから。 「どんな人なの。素敵な人なんでしょうね」  きっとバドネイル卿が、ひとり身になった娘のために、さっそく新しい男を見繕ったのだろうと、レスリンは見当をつけた。  今度はどんな家の男なのだろう。バドネイル家の跡継ぎであるセレスタを狙う者は、湾岸にはいくらでもいたので、彼女の婚約者の死は、そういった者たちにとって、祝い事だったに違いない。きっと、次が決まるまでの間、夜会の席ではさぞかし、セレスタは入れ替わり立ち替わりする男たちにもてたことだろう。 「会わせるわ」  花を部屋付きの侍女に引き取らせて、セレスタははずむような声で言った。  レスリンはぎょっとした。自分は間の悪い時に来たのではないかと。  新しい婚約者との蜜月を邪魔したら、セレスタはご機嫌が悪いだろう。 「いらしてるの?」 「ここに住んでるの」  それが途方もない自慢だというように、セレスタは答えた。  もう結婚したの、と、レスリンは訊こうとして、それを口に出せなかった。  セレスタが自分の知らない間に結婚しているわけがない。なんの連絡もなく。  もし彼女が招待状を送るのを忘れたとしても、湾岸の大貴族バドネイル家の婚礼の噂は、たとえ田舎であっても、自分が療養していた荘園まで聞こえたはずだ。第一、婚礼のための支度には、たぶん何ヶ月もかかるはず。  それを待たずに、あっさりと神殿で宣誓だけしてしまったというの。そんなのありえない。平民の娘か、お伽話の気の毒なお姫様じゃあるまいし。  セレスタは侍女を呼びつけ、せっつくように命じた。 「どこにいるのか探してきて。部屋に来るよう言って。いいえ、やっぱり私が行くから待っているよう伝えて」  セレスタは彼女にしては珍しい早口でせっかちに話し、落ち着かないのか、うろうろとそこらを歩いた。 「ああ、やっぱりいいわ、お前は残って。私が自分で探しに行くわ」  決心したように言い、セレスタはレスリンの手を握った。 「行きましょう、レスリン。私、彼がどこにいるか、ちゃんとわかるの」  セレスタは誇らしげにそう教え、こちらの都合も訊ねることなく、レスリンが今来たばかりの扉から連れだそうとした。  私、まだ椅子も勧められてないわ。  そう戸惑いながら、レスリンは走るように廊下を行くセレスタに遅れないよう、必死で夜会服の裾を捌いてついていった。  握って手を引くセレスタの指は、燃えるようだった。  いつも流行の髪型に結い上げている、細かな縮れのある明るい色合いの褐色の髪を、セレスタはただゆるく束ねただけで、そこに一輪の花すら飾っていない。本当にまるで病人のよう。  幼いころから良く知っているはずの友が、まるで別人のようで、レスリンはきゅうに怖くなった。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(2) -----------------------------------------------------------------------  セレスタは夜会が開かれる大広間を抜けて、まだ明るい夕景の広がるテラスへと、小走りにレスリンを引っ張っていた。  夕凪はまだ続いていた。  むっとするような熱気が、テラスから広間に押し寄せてきている。  バドネイル邸はバルハイの内海を望む高台にあり、テラスからは海が見渡せた。色鮮やかな夕日へと移り変わっていく途中の青空は、美しい景色だった。薄黒い雲がところどころ夕日に赤く輝いており、その灰色と、赤と、暗い青の混然とした空模様には、なにか異様なものがあった。  海猫が鳴いていた。寝床に帰る途中にたまたま行きすぎるにしては、随分多くの鳥が、白に灰色のまじった翼をはためかせて、飛び交っている。  それを認めて、セレスタが満面の笑みを浮かべた。  彼女はレスリンの手を引くのを忘れたように、指をふりほどいて、テラスを抜け、その先にある石段を下りていった。  一体どうしたのかと思いながら、レスリンはその後を遅れて追った。  石段を下りた先は、ちょっとした部屋ほどの広さの崖だった。  その中程に、セレスタは立ちどまっていた。  海猫の飛び交う中に、男がひとり立っているのを、レスリンは見つけた。  男が長い腕を掲げると、海猫が舞い降りてきて、その手からなにかを奪っていった。争うように、海猫たちはやってくる。みゃあみゃあと鳥はうるさく鳴いていた。その声に、耳を聾されて気付かないでいる男の後ろ姿を、セレスタはじっと、食い入るように見つめていた。  レスリンもそうだった。少し離れたところから見下ろしても、ひどく姿のいい男だった。  すらりと痩せた肢体は、均整がとれていた。しかし彼は彫像のようではなかった。近寄りがたい何かが、その後ろ姿から滲み出ている。  それなのに、今すぐ近寄っていって、その背に触れてみたい衝動にかられ、レスリンの背は粟立った。  男は平民が着るような、白い質素なシャツに、暗い青の短衣(チュニック)を重ね、黒い簡素な袴(ずぼん)をはいていた。どうと言うこともない格好だった。腰に剣を提げている。まるで従僕のようだわと、レスリンは思った。しかしその背を見て立つセレスタの、白いモスリンをまとった簡素な姿は、その男と並んで立つのに、ぴったりだった。  レスリンは思わず渋面になった。  そして、幼馴染みを追って、石段を下りた。 「セレスタ」  レスリンは呼びかけた。  その声に気付いて、男はゆっくりとこちらを振り返った。  部族の者なら当たり前の青い目で、男はセレスタでなく、こちらを見つめた。彫りが深く、するどく鼻梁の通った、どこか尖った印象のある顔立ちだった。とても古い、狂乱する戦士の血を感じさせるような。美しい、というには、どことなく凶暴そうな顔だった。  薄い唇を歪めて、男はその端正な顔に、微かに笑みを浮かべた。セレスタのほうを向いて。 「ヘンリック」  感極まったような小声で、セレスタが呼んだ。  答える代わりに、男は問いかけるように首をかしげて見せた。その仕草に、レスリンは胸を締め付けられた。  まさかこの男が、セレスタの新しい相手だなんて、そんなはずはない。そうでないといい。もしもそうだったら、どうしようかと、レスリンは思って、握りしめた夜会服の裾を、さらに強く握った。  セレスタは足取りも軽く、彼の前に進み出た。 「セレスタお嬢さん」  低く響く声で、彼は言った。海猫の声がうるさく、彼の声を掻き消していた。  その声がもっとよく聞き取れるように、レスリンはセレスタを追って、彼女のすぐ後ろへと足を進めた。 「この方は?」  レスリンを見つめて、男が訊ねた。ヘンリック。どこかで聞いた名前だと、レスリンは思ったが、じっとこちらを見ている男の目と見交わしていると、それが誰だか、思い出せない気がした。 「私のお友達よ。レスリンというの。あなたに会わせたくて、連れてきたの」 「光栄です」  男はほとんど動かなかったが、一礼したように見えた。レスリンはとっさに、裳裾を持ち上げて腰を折る、正式なお辞儀でそれに答えていた。考えてみれば、それは妙なことだった。相手はどう見ても貴族ではなかったし、身分のある自分が、そこまでの礼儀をもって挨拶をする相手ではなかった。 「綺麗な人ですね」  ヘンリックはセレスタにそう言った。すると友人は、まあと叫んで顔を赤らめた。 「レスリンが好きなの?」  妬いているふうなセレスタに、レスリンはぎょっとした。男はどこか意地悪く笑い、首をかしげて、セレスタの顔をのぞき込んだ。 「いいえ」  はっきりとそう、男は答えた。  自分の胸に、なにか暗いものが湧くのを、レスリンは感じた。 「レスリンにはちゃんと、婚約者がいますから。好きになっても駄目よ」  つんとして見せて、セレスタは彼に忠告をした。レスリンはうつむいて、視界から逃れた。  婚約者は確かにいた。父が政治的な都合で婚約を取り交わしてきた、レスリンよりずっと年上の貴族だ。すでに死に別れた妻がいて、レスリンは二番目の妻だった。  部族の男なら、妻の死には殉じるものではないかと、レスリンは思っていた。愛する女(ウエラ)の死に、男は耐えられないのではなかったのか。  しかし後添いを求める年上の男は、そんな気配もなかった。もともとの海辺の部族の血に、その狂乱を鎮めるためといって、貴族たちは長年、少しずつ穏やかな異民族の血を混ぜ込んでいた。自分もそうだが、ある一定以上の位にある貴族たちは、たいていが皆、その混血によって、穏やかな性格と、定期的にやってくるアルマの影響も、さほど受けないようになってきている。  もしや自分たちはすでに、この海辺の部族とは別々の血に分かれているのではないか。レスリンにはそんな気がした。目の前にいる、この男の姿を見ていると、夜会の席で出会う男たちは、まるで戦士とは言えない。そんな気がする。 「レスリン、私、彼と結婚するの」  セレスタが両手を差し伸べると、男は片手だけで彼女の手をとった。もう片方の手には、なにかを握っているようだった。  ぽかんとして、レスリンは手を繋ぐ二人を見つめた。 「結婚?」  理解できない話だった。男はどう見ても貴族ではないようだったし、セレスタには不釣り合いだった。彼女の身分にはとても、釣り合わない。 「冗談よね」  おめでとうと、言うべきなのに。レスリンの口を突いて出たのは、全く違う言葉だった。 「いやだ、本当よ、レスリン。私、ヘンリックを愛してるの。お父様が彼を、夜警隊(メレドン)に士官させて、それから貴族にするって約束してくださったわ。そうしたら私と結婚できるから」  夜警隊(メレドン)は剣の技に優れた男たちを取り立てて組織される、族長のための親衛隊だった。そこには貴族でも平民でも、腕があれば入ることができた。  しかし、その大半は平民で占められていると聞いている。貧しく生まれついた者たちが出世するには、都合のいい場だからだ。  その中から族長によって、貴族の位を与えられる者もいるらしい。でも、それは、一番低い位の貴族で、世襲もされないような、その場しのぎのご褒美だ。  それでも確かに、貴族どうしであれば、結婚が許されるかもしれなかった。  レスリンは、幸せそうに男の手を握っているセレスタを見つめた。  でも、あなたには相応しい相手とは言えないわ。だって、あなたは湾岸の大貴族のひとり娘で、どんな男もよりどりみどり。これ以上はない家柄の、立派な貴族の若者を、いくらでも好き放題に選んで、結婚できるじゃないの。  それなのになぜ、こんな男を選ぶことにしたの。  うっすらと湧いてきた憎しみを感じならが、レスリンは友達の顔を見た。その幼く見える綺麗な顔が、恍惚とした表情を浮かべているのを。 「夜会には出ないのですか、セレスタお嬢さん」  男が不意に、話を変えたようだった。  セレスタは、はっと我に返ったように、自分の着ているものを見た。 「そうだわ、私ったら。着替えるのを、忘れていたわ」 「今夜は俺が中央広間(コランドル)で踊ります」  それを聞いて、セレスタは泣くような顔で笑った。  レスリンは彼が言うのが、ダンスのことかと初めは思った。セレスタと踊るのかと。 「大丈夫かしら。ヘンリック。私、とても心配なの、いつも。あなたが死んだり、怪我をするんじゃないかと」 「まさか」  笑って、男は答えた。 「あれは遊びです、セレスタお嬢さん。貴女のお父さんは、俺を勝たせるような相手だけを選んでいるんです。心配いりません」  男が言っているのが、ダンスではなく、広間で行われる剣闘試合のことだと、レスリンは気付いた。この男は、ただの従僕ではないのだわ。剣を使う。そのためにいるらしい。 「そうね……」  セレスタは握った男の手を見つめ、それから彼の顔を見上げた。 「あなたはとても強いんだもの」  彼女の言葉に、男はなにも応えず、ただ薄く笑って見せた。  名残惜しげに、セレスタは彼の手を離し、やっとレスリンを見た。 「私、着替えに戻らなくてはいけないわ。まだ髪も結っていないし、きっと時間がかかると思うの」  レスリンは頷いた。セレスタが夜会に出るつもりだというほうが意外だった。  彼女はそういう席をあまり好まなかったし、自邸で開かれる豪勢な夜会にも、欠席することが度々あった。  もうすぐ夜会だというのに、寝間着のような姿だったので、レスリンは今日も、セレスタは出ないのだと思いこんでいた。 「どうしましょう、レスリン。退屈でしょうけど、私の部屋で待っていてくれる?」  セレスタは一緒に戻るつもりのようだった。  レスリンは彼女についていくため、夜会服の長い裾を切り返そうとした。 「ここで俺が話しています」  男がさも当然のように、そう言った。  レスリンは振り返って、彼を見た。男は微かに、こちらに微笑みかけていた。 「でも……ずいぶん時間がかかると思うわ」  セレスタは渋った。  レスリンは彼女に付いていくべきだと思った。  ここで待っていれば、夜会はどうせこの同じ場で始まるだろうが、この男とふたりきりで、ここにいるべきでない。  そんなことをしたら。 「かまいません」  男が静かに断言するのを、レスリンは聞いていた。  微笑む男の顔と、レスリンは見つめ合った。 「そうですよね?」  男が問いかけてくるのに、レスリンは唇を開いた。  彼の背後には、今もまだ、海猫が戯れていた。みゃあみゃあと甘ったるい声で、鳴き交わしている。  男はなにかを手の中に持っていた。もしかすると、鳥にやる餌だったのではないか。彼はここで、海猫に餌をやっていたのだろう。 「いいかしら……レスリン」  ついてきてほしいという声色で、セレスタが訊ねてきた。  レスリンは、身分のある幼馴染みのほうへ、また向き直った。 「かまわないわ、私。ここで貴女を待つことにするわ」  レスリンは答えた。それを口にすると、ほっとした。セレスタは困ったように、こちらを見ていた。 「そう。じゃあ、なるべく急いで戻るわ。ごめんなさいね、レスリン」  足早に、セレスタはほとんど小走りに、この場を去っていった。  大急ぎで着替えをさせる彼女の姿が、すでに目に浮かぶようだった。  おっとりと鷹揚だった彼女が、侍女たちを叱りつけてせかし、豪華な夜会服と、きらめく宝石で着飾っていく有様が、ありありと想像できる。  その間に私はここで、この男と話しているのだわ。  そう思うと、ひどく気味がいい。  裳裾を捌いて、レスリンはもう一歩だけ、男に近づいてみた。 「鳥になにをやっていたの」  顎を上げて、貴族の娘らしく、レスリンは訊ねた。  男は握っていた手を開いて、持っていたものをレスリンに見せた。それは生の肉だった。 「海猫がこんなものを食べるの?」 「食べます。やつらはなんでも食べます。気をつけないと、貴女も食べます」  真顔で男はそう答えた。  レスリンは一瞬、どう思っていいか、分からなくなった。  すると男は面白そうに、意外と人懐こく笑った。 「餌をやってみますか」  みゃあみゃあと喚く鳥を、レスリンは見上げてみた。その嘴(くちばし)は鋭いように見え、黄色く輝いている目は、睨み付けてくるようだ。 「怖いわ」  口に出してみると、それは、甘えるような声だった。 「怖いですか」  首をかしげて、男は聞き返してきた。笑う青い目が、なにかを促していた。 「でも……あなたが一緒なら、平気かもしれないわ」 「そうですね」  答えて、男はレスリンの手をとり、そこにまだ血の滲む生の肉を握らせた。それは男の手の体温に温められていて、気味の悪い生ぬくさだった。  男はレスリンの手を引いて、崖のはしまで連れて行った。打ち寄せる波濤の音が、足元から響いてくる。  凪が唐突に終わった。  海風が吹き付けてきて、たっぶりとしたレスリンの夜会服の裳裾を翻した。  とばされそう。  レスリンが恐れると、手を取っていない方の腕で、男がレスリンの腰を背後から抱いた。  その力強い腕に身を預けて、レスリンは肉を持った手を掲げてみた。  海猫たちは旺盛な食欲を示して、風の中を舞いながら、群れをなしてこちらにやってきた。  指をつつく嘴(くちばし)が、かすかな痛みを持って感じられる。 「手が痛いわ」  後ろにいる男に、レスリンは文句を言ってみた。喉を鳴らして笑う声が、すぐ近くで聞こえた。 「我慢しないと」  そうねと答えて、レスリンは我慢した。  手を掴んでいた男の腕が、撫でるように滑りおりて、まだ血のついた指で、レスリンの顎に触れた。その指が自分を振り向かせて、男が唇を奪おうとしていた。  その異様な出来事を、レスリンはなんの疑問もなく受け入れた。  男の腕は、きつくレスリンの腰を抱いている。その力強さは切なかった。  すでに体の中まで押しひしぐような強さを持った力なのに、もっと強く抱いてとレスリンは願った。  貪る肉が尽きて、鳥たちはうるさく、わめき立てている。  掲げた手から力が抜け、レスリンは向き直らされるまま、男と正面から抱擁した。接吻を与える、男の首筋からは、甘い汗の匂いがした。アルマの到来を告げる、海の部族の男が纏う香りだった。  湾岸の貴族たちは、薄まった血を補うために、これとよく似た香りの香油を、肌に擦り込んでいる。しかしあれは、偽物。全くの偽物なのだわ。男が漂わせる、ほのかな、しかし強く鼻を襲う甘い匂いを嗅ぐと、レスリンにはそうとしか思えなかった。  これが本物の男で、ほかは全部偽物だったのよ。  接吻を終わらせて、男は間近にレスリンの顔を見た。 「貴女は綺麗な人ですね」  先程も言ったことを、男はまた言った。レスリンは目を細めた。 「セレスタのほうが美人だと思うわ」 「そうかもしれませんね」  彼が悩まずそう答えたので、レスリンは悔しかった。 「あなたは本当にセレスタと結婚できるつもりなの? だったらとんだお馬鹿さんよね」 「俺は剣奴隷です、レスリン様。貴族の姫君と結婚なんかできません。本当なら手も触れられません」  自分を抱く腕を見下ろして示し、男はそう言った。 「セレスタ様は、いっときの遊びです。いずれ飽きます。その時は、あなたが俺を買い取ってください」  男が話すその商談に、レスリンはごくりと留飲した。  この男が誰だったか、ヘンリックという名をどこで聞いたか、レスリンは思い出した。  バルハイ中心市街の闘技場でだ。  箱入りのセレスタは知らないだろうが、闘技場での試合見物は、芝居や買い物に飽きた貴族の娘たちの、ちょっとした冒険だった。絹の椅子のある高覧席から、男たちが殺し合うのを眺めるのだ。強い酒も飲むし、強い麻薬(アスラ)もこっそりと楽しむ。  もっと財力と勇気のある者がいれば、試合を終えた剣奴隷を買うこともできる。ほんの一時だけだけど、大観衆の前で死闘をした男を、自分のものにすることができる。  確か、いつぞや出かけた時に、打ち負かした相手の哀れな首を切り落とす剣闘士がいて、ヘンリックという名だった。遠目に見ても、ひどくいい男で、途方もなく強いように見えた。  あれを買いましょうよと、一緒にいた誰かが言った。みんなであの男を、弄んでやりましょう。  しかし剣闘士の値段は競りで決まるもので、そこにつけられた値段は、さしたる財力もない小娘たちにとって、ほんの一点鐘でも目が飛び出るような気がした。あれは大貴族の玩具だ。そう納得して、去るほかはなかった。  あの時いったい誰が、首切り男を買ったのかしら。 「私にはそんな、財力はないと思うわ」  正直に、レスリンはそう言った。泣きたくなった。 「それは残念。この素敵な首飾りを売り払ってみては。それとも、貴女のお屋敷にあるほかの何かを。それでも無理なら、貴女の大貴族の友人に、泣きついてみては。今、俺を所有している、あの女に」  セレスタがあなたの持ち主なの? 彼女があなたを、支配しているの?  小声で問いかける唇に、首切り男はまた口付けをした。 「いいえ」  薄笑いして、男は答えた。 「俺を支配しているのは、あなたです」  接吻に濡れた唇を開いたまま、レスリンは呆然とした。本当に、そうだったらいいのに。  男がうっとりと目を伏せ、レスリンの首筋に頬を擦り寄せた。その抱擁は甘く、脳をとろかすようだった。  愛のことを、レスリンは考えた。  今まで自分は誰かひとりでも、男を愛したことがあったかしら。  夜会の席で繰り広げられる、恋のさや当ては、今までにいくらでもあったわ。  お互いの身分や序列を気にしながら、あの男はどうかしら、あれは私に近寄るほどの身分もないわ。そんなことを考えながら、扇の影から微笑みかわすような、硝子細工の恋だった。  だけど、あんなものにどんな価値が。今、この身を抱く男の腕の力強さに比べたら。  あんなもの、塵(ごみ)だったわ。  そう思って、レスリンが抱擁を貪ろうとしたとき、不意に男が、体を引き離した。  そうすると、吹き付ける海風が、ひどく冷たいように感じられ、レスリンは震えながら立った。 「楽しいお喋りでしたか」  男は訊ねた。  貴女の持ち時間はここまでだと、男が言っているような気がした。  あたりは暗くなり始めていた。テラスに篝火が焚かれているようだった。  みゃあみゃあと鳴きながら、海猫たちが引き上げようとしている。  男も去ろうとしていた。 「あなたは、セレスタのことを、愛しているの」  すがりつく思いで、レスリンは訊ねた。  歩み去ろうとしていた男は、テラスにあがる石段のはじめで、立ち止まって振り返った。  首をかしげて、男は面白そうにこちらを見ていた。  彼の唇が答える言葉を、レスリンは祈りながら聞いた。 「いいえ」  秘密めいた小声で、しかしはっきりと、男は答えた。 「ヘンリック」  その名を呼ぶと、レスリンの胸は締め付けられるようだった。 「私を愛して」  風に嬲られる我が身を抱きしめて、レスリンは頼んだ。  男また、こちらを見て笑った。 「いいですよ。あなたが秘密にするなら」 「秘密にするわ。誰にも話さない。約束する」  叫ぶように、レスリンは答えた。その声を、海風が掻き消していった。 「それじゃあ今から」  甘く答える男の声も、風が掻き消していく。 「あなたが俺の女(ウエラ)だ」  そう言い残して、男は背を見せた。石段を上がっていく後ろ姿を、レスリンはただじっと見上げた。  あれは私のものよ。  そう思って見つめると、男の背は甘く、深い愛で応えるような気がした。  風に揉まれながら、レスリンは呆然と立ちつくしていた。  上では夜会が、始まろうとしていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(3) -----------------------------------------------------------------------  セレスタ・バドネイルはレスリンが想像していたよりも、ずっと豪華な夜会服で現れた。  淡い青の、薄く透けるような絹を幾重にも重ねた衣装は、いかにも繊細で、彼女の娘らしい華奢な美しさを引き立てて、嫌みのない華麗さを生み出していた。  しかしその、大きく開いた襟元からは、いつもの彼女らしくない、見せつけるような淫靡さが漂い出ていた。渦巻くような真珠に飾られ、これまで意識したことのなかったセレスタの乳房の豊満が、広間の対岸から見つめるレスリンの目についた。  セレスタは広間の一角にすえられた、一段豪華な長椅子のあるところに、彼女の父親と並んで横たわっていた。飲み物を置いた小卓ごしに、セレスタは立派ななりをしたバドネイル卿と、手を握り合ってお喋りしている。  なにを話しているのか、娘は頬を染めて、早口に父親と語り合っていた。セレスタは、どうもなにかをねだっており、それを父が受け入れたように見えた。  バドネイル卿は、強烈な権力により湾岸から支配権を切り取っていくやり手の大貴族だったが、娘の前では甘い父親だった。一人娘のセレスタがねだれば、彼が娘に与えないものは、何もないのではないかとレスリンには思えた。  セレスタは衣装も宝石も靴も、いったいいつ身につける暇があるのかと不思議なほど沢山持っていたし、自分のための荘園や、内海を遊覧するための帆船までも、数隻与えられていた。自分ではろくに乗れもしない名馬や、それに乗ってポロをさせるための従僕も、見栄えのいいのを数十人、入れ替わり立ち替わり与えられている。  その挙げ句が、あれなのだから。  レスリンはじっと、羨望のまなざしで、セレスタの脇の長椅子に腰を下ろしているヘンリックを見つめた。  彼はどこか、バドネイル親子に背を向けるようにして、本来は寝そべるための革張りの長椅子のはしに、退屈げに腰をかけていた。着替えてくるものと思っていたら、先程、海猫と戯れていた時と同じ、簡素な服装のままだった。  腰には剣を帯びており、夜会に集まった貴族たちを眺め渡すような視線をして、ヘンリックは杯から酒を飲んでいた。  気泡の入った硝子(がらす)の杯は、どことなく無骨さもある品物だが、バドネイル邸ではなじみのある一品だ。この家の者が代々支配する荘園のひとつで作られる特産品で、部族に昔から伝わる伝統のある物とのことだった。  今ではそれが普通となった、透明に透ける薄い硝子と違って、気泡硝子には少々の厚みがあった。その縁に酸味の強い果実を擦りつけ、そこに塩をまぶしたものに、喉が焼けるような味のする酒を満たし、ヘンリックはそれを舐めるように飲んでいた。  彼が時折、酒杯のふちからこぼれ落ちた塩を、指のうえから舐めるのを、レスリンはじっと逃さず食い入る目で眺めた。  父親との話がついたのか、セレスタがヘンリックを呼んだようだった。  それまで退屈そうにしていたヘンリックは、彼の女主人が腕をとって話しかけてきたのに、レスリンの知らない顔で微笑み返している。  その鋭い顔立ちに、満面の甘い微笑みを見せるヘンリックは、まるで優しい男のように見えた。それはきっと、ぴりっと胡椒をきかせ、砂糖と果実をたっぷり入れた、甘い葡萄酒みたいなもので、無害そうな味にだまされがぶがぶ飲むと、いつしか深く酩酊し、足腰立たなくなるようなものだった。  傍目に見ると、それがはっきりわかるのに、セレスタは気にせず飲んでいるらしかった。  嬉しそうにヘンリックの腕をとるセレスタの顔には、なんの悩みも、一片の躊躇いすらもないようだ。  たぶん彼女には本当に、怖いものなどないのだろう。絶大な権勢を誇る父親に愛されていて、セレスタにはこの世で手に入れられないものはない。愛する男が貴族でないなら、彼のための貴族らしい名前を父親に強請ることが出来るし、バドネイル卿にとっては、その望みをかなえるのは造作もないことだ。  しかし問題は彼が、どこの馬の骨ともしれない剣闘士に、本気でひとり娘をくれてやるのかという事のほうだ。セレスタと結婚した男は、バドネイル家の跡取りになるのだから。  まさかバドネイル卿ともあろう者が、この大所領を、卑しい剣闘士ふぜいにくれてやるおつもりか。  皆そう思うはず。それが常識というもので、レスリンだけの考えではないはず。  セレスタがヘンリックと結婚できるわけは、ないはず。  そうだと言ってほしくて、レスリンは夜会の広間を見渡してみた。  着飾って集まった人々は、思い思いの場所で談笑にふけっていた。用意された酒食の美味を楽しむ者たちもいたし、出し惜しみしないバドネイル卿が振る舞う、貿易船によってもたらされた、隣大陸(ル・ヴァ)産の強力な麻薬(アスラ)に、早くも酔っている者たちもいた。  湾岸にはもうアルマの潮が押し寄せているはずだが、貴族の中には混血のため、それに酔えない者も多くいた。そういう者たちは麻薬(アスラ)を使った。あたかも狂乱しているように見せかけるためだ。  血の中にある毒に酔うのも、麻薬(アスラ)に酔うのも、結果としては同じ事。要は酩酊したようになって、戦いを求める血に火を焚き付け、剣を握って向き合い、中央広間(コランドル)での優劣を決めればいいのだ。それがアルマの真相であって、大して複雑なことではない。  夜会の男たちは、いつもそんなふうに話していた。  挑戦(ヴィーララー)なんてものは、卑しい者のやることですよ。太古の昔ならいざ知らず。男が序列を決めるのに、血を流す必要はないのです。貴族らしく優雅な典礼にしたがって、手合わせ(デュエル)をすれば十分です。ひとかどの剣士というのは、なにも実際に剣を抜かずとも、ただその瞳を見るだけで、相手の技量を推し量れるもの。真の手練れにとってみれば、実際に戦う必要さえないのです。  女の貴女には分かるまいが。  そんなふうな話を男がするのを、レスリンはいつか枕辺で聞いたことがある。  そんな素敵なことがあるのねと、感激していたものだった。  しかしそれが本当に、正しかったのだろうか。狂乱する部族の男として、真に高潔な姿だったか。  今、私は、あの男が狂乱して、戦うのを見たい。いつか闘技場で遠くから見たような、血で血を洗う戦いをするのを見たい。  そう思って、ひたすら見つめたからだろうか。ヘンリックはふとした瞬間に、レスリンのほうを見た。彼はもう長椅子に寝そべり、セレスタと顔を向き合わせていた。セレスタは広間の侍従が差しだした銀色の大皿から、黒い殻を持つ赤い身をした貝をひとつ、取り上げようとしていた。  それを待つ隙に、ヘンリックはこちらを見たのだった。  ちらりとほんの一瞬。じっとこちらを見た目に、自分との秘密があるのを、レスリンは確かめた。その一瞥によって、お前は俺のものだと、彼は言っているような気がした。  セレスタが呼ぶと、ヘンリックは彼女のほうへ向き直った。貝を差し出す娘の手から、ヘンリックは笑い、赤い血のような肉を食った。噛むと弾ける貝の身に、まぶされていた薬味がこぼれかけ、ヘンリックはそれを受けようと手で口を覆った。  そんな彼の仕草を、バドネイル親子は、いかにも嬉しげに見ている。セレスタはもちろん、バドネイル卿もだった。  がっしりとした体格に、厚い胸板をした壮年の大貴族は、金糸で飾った大仰な夜会服を身につけており、やはり金無垢の拵えのある剣を、愛するもののように脇に抱いている。その顔立ちは、彼がセレスタの源であることを納得させるような、どことなく穏やかなものだった。しっかりと力強い眉間には強い意志が宿っていたが、それらはどこか角のないまろやかさがあり、やはり彼も混血の挙げ句に生まれた狂乱しない男だった。  ヘンリックはそんな大貴族を、へつらうでもない、くつろいだ目で見つめている。  ふたりは、事情を知らずに眺めれば、すでに家族のように見えた。息子が父と語り合うように、ヘンリックはバドネイルに話し、それに応える大貴族の家長は、ひどく満足げだ。  そして、そんな剣奴隷と父を見つめるセレスタは、この上なく幸福そうに見えた。  どうしてなの。  どうしてそんなふうに、あの人たちと話すの、ヘンリック。  あなたは私のものなんでしょう。  レスリンは上の空で持った酒杯を揺らし、それを口元にもっていった。  バドネイル卿が、セレスタの手を軽く撫でるように叩き、そして立ち上がった。  広間にいた客たちは皆、この夜会でもっとも重要な人物が話し始めるのに、話す口を休めて注目した。 「諸君」  胸のあたりで、片手を宙に浮かせ、バドネイル卿はなにかを探るような仕草とともに皆に呼びかけた。 「我が娘の婚約者であったアシュレイが、この広間で死んだことは、皆の記憶にもまだ新しいだろう」  その話に、レスリンは軽い驚きを覚えた。  夜会の席で死んだという話は噂で聞いていたが、まさかこの場でとは、思っていなかった。  レスリンは改めて、広間の中央に目を向けた。  そこは艶やかな白大理石で床が敷かれ、長椅子や料理を乗せた卓が置かれている周りの床とは違い、いっさいの装飾がなかった。真っ白な紙を敷いたような、なにもない空白の場所だ。  レスリンは、そこで死んでいる、かつてはセレスタの自慢だった男のことを、想像してみたが、彼がどんなふうに死ぬのか、見当もつかなかった。レスリンが知っている剣士の死は、闘技場で何度か遠目に眺めたことのある、現実離れして凄惨なものだけだったからだ。  それは特殊で、体が痺れるような刺激を持った経験で、闘技場の中でだけ起きる悪い夢のようなものであり、現実にいる者の身の上にふりかかる出来事とは、レスリンには思えなかった。 「アシュレイは立派な剣士であった。しかし、より強い者に敗れたのだ。敗北ではあるが、部族の剣士として、ひとつの本懐と言える最期であった。正々堂々と力を尽くし戦い、そして敗れたのだから」  彼を倒したのは、いったい誰だったのかしら。  レスリンは、広間でバドネイル卿の話を聞いている男たちの顔を見渡した。彼らはどことなく、切羽詰まった表情をしていた。レスリンが最後に目を向けたヘンリックだけが、いかにも退屈そうに、バドネイル卿の背を見つめていた。 「古式にのっとり、我が娘セレスタは、アシュレイを倒した男の戦利品である。ヘンリック」  振り返ったバドネイル卿と、ヘンリックはまっすぐに目を合わせていた。その彼の手を、セレスタが握り、ヘンリックが握り返したようだった。 「娘はお前のものだ」  誤解しようもなく、明らかなことを、バドネイル卿は皆に宣言していた。  レスリンは自分の握る酒杯がどうしようもなく震えているのを眺めた。  アシュレイを殺したのは、ヘンリックだったのだ。ではまさか、彼はアシュレイの首を、この場で切り落としたの。セレスタはそんな男と結婚するつもりなの。 「私は、この者を、我が娘の婿とすることを決めた。それに不服の者は名乗り出よ。我こそはと、娘セレスタを勝ち得たいと望む者がいれば、ヘンリックは喜んでその挑戦(ヴィーララー)を受けるであろう」  真顔の上目遣いで、ヘンリックは他の男たちを見渡していた。  その剣闘士を両手で指し示すバドネイル卿は、なにかに酔っているように見えた。酒か、麻薬(アスラ)か、あるいはもっと強いものに。 「しかしまずは、お前の力を皆に見せよ、ヘンリック」  命じるバドネイル卿に、ヘンリックは表情を変えなかったが、ため息をついたように見えた。  彼はセレスタの手を返して、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(4) -----------------------------------------------------------------------  広間の扉が開かれ、なにか大がかりな物が運ばれてきた。  レスリンの目には、それは猛獣の檻のように見えた。鉄格子で組まれた箱の中に、なにかがうずくまっている。従僕たちは、おっかなびっくりそれを中央広間(コランドル)まで運び、やや離れたところに控えた。  そこまでやってくると、レスリンにも檻の中身がよく見えた。若い男が四人、中に入っていた。朦朧としたように、座り込んでいる彼らは、粗末な衣服をまとっており、レスリンには、それが人とは思えなかった。  バドネイル卿が頷くように目で命じ、従僕たちは四方の鉄格子を取り払った。その中に閉じこめられていたものと、広間とが一続きになった。  そんな馬鹿なとレスリンは思った。  夜会の席で、余興として剣闘試合が行われることが無い訳ではない。でも、そういうときには、客に危険が及ばないように、中央広間(コランドル)には鉄格子の囲いがかけられるものだった。  このままでは、あの獣のような男たちが、客にも危害を加えられるのではないか。 「やつらに麻薬(アスラ)を与えましたか」  どことなく暗い声で、ヘンリックがバドネイル卿に訊ねた。 「酔わせるよう命じた」 「酔わせすぎです。狂乱するのに麻薬(アスラ)は必要ありません」  淡々と説明するヘンリックの声は平静だったが、どこか苛立っているようでもあった。 「それに剣を持っていません。やつらに剣をお与え下さい」 「そんなものが必要か。卑しい奴隷だ。お前の剣の鋭さを、皆に見せるために用意させた」  気にする必要はないと、鷹揚に許す声で、バドネイル卿は話していた。  ヘンリックはひどく険しい表情で、うずくまる奴隷たちを睨んだ。 「部族の男には、剣を握る権利があります。たとえ卑しくても」 「この獲物では不満なのか、ヘンリック」  困ったやつだと言うように、バドネイル卿は言った。 「いいえ。お望みなら俺は誰とでも戦います」  従順にそう答えてから、ヘンリックはわずかの間、黙り込んだ。  それから、やや言いよどんだような気配の後に、彼は続けた。 「ですが、アルマが狂乱するのは、殺戮にではなく、戦いにです。やつらに剣をお与え下さい」  くりかえし求めたヘンリックの望みに、バドネイル卿の心は動いたようだった。  従僕に命じ、バドネイル卿は奴隷たちに剣を与えた。  運ばれてきた剣は、レスリンの目にも、ごくありきたりのもので、従僕たちは近寄るのがいやなのか、束にした剣を、うずくまる男たちのそばの床に、投げるようにして放り出していった。  それにヘンリックが眉をひそめるのを、レスリンは見た。  彼は腰に帯びていた剣を、剣帯ごと外し、おもむろにその刀身を抜きはなった。白刃が現れた。  すぐ傍で、怯えたふうに見上げているセレスタに、ヘンリックは帯と鞘とを押しつけた。  抜き身の剣だけを提げて、ヘンリックは広間の中央へと、ゆっくりと歩いてきた。彼には、うずくまる男たちを恐れる様子が丸でなかった。 「時間をかけるな、ヘンリック」  バドネイル卿が、そう命じた。ヘンリックはそれに、ただ頷いて答えた。  レスリンは彼が、こちらを見るかと期待して、獲物の前に立っているヘンリックを見つめた。  しかし彼は、ゆっくりと息をしながら、握った剣の柄を、拍をとるように指でかすかに叩いているだけで、何も見ていないような目をしていた。たぶん、なにかを考えているのだろう。  やがて青い目で、ヘンリックは、うずくまったまま動かない四人の対戦相手を見下ろした。 「立て、剣を選べ」  そう告げるヘンリックの声は、静まりかえったようだったが、広間にいる誰の耳にも、はっきりと届いた。  しかし彼の前にいる男たちは、その声が聞こえていないふうだった。  黒い革の長靴(ちょうか)を履いた爪先で、ヘンリックが一人の背中を軽く蹴った。 「目をさませ、戦うぞ」  蹴られた男は、それでやっと顔を上げた。乱れた髪からヘンリックを見上げた顔は、寝ぼけたような目をしていた。 「立てよ。聞こえねえのか」  明らかに苛立った調子で、ヘンリックが別の男に囁いた。  その声が含む怒りに、レスリンの肌は粟立った。  選んだ一人の胸ぐらを、ヘンリックが掴んで立たせた。その男は促されるまま、意識のない人形のように突っ立った。  仲間が立ちあがったのを、残りの三人が、ぼんやりと目で追っている。その目のどれもが、虚ろに見えた。 「見ろ。戦わないやつが、どうなるか」  立たせた者を指して、ヘンリックは残る者たちに告げた。  そしてヘンリックは両腕で剣を構えた。  彼が一呼吸するのを、レスリンは見守った。  一瞬の出来事だった。  ヘンリックが片足で半歩踏み込み、剣を振るった。  白刃が空を切る音が、微かに鳴ったような気がした。  鈍い音がして、立っていた男の首が消えた。  首を失った体から、噴水のように血が噴き出し、落とされた首が、白い床に墜落してきた。  悲鳴は案外、遅れて上がった。  客たちは、恐怖より驚きの声を上げた。それはどこか歓声に近いものだった。  その声を聞き、仲間の血を雨のように浴びた奴隷たちは、さらに遅れて、押し殺した低い呻きをあげた。それまで虚ろだった彼らの目が、食い入るように、死んだ仲間を見つめた。  ヘンリックが、床に転がされていた剣を蹴る音が、突然けたたましく響いた。 「剣をとれ」  彼は男たちに怒鳴った。 「戦え。でなきゃ、てめえらも犬みてえにぶっ殺してやるぞ」  ヘンリックがふたたび剣を構え、男たちは足元の剣を見下ろした。  彼らが剣を拾うのを待たず、ヘンリックはすぐ近くにいた一人の、柄をにぎろうと飛びついてきた懐に踏み込んだ。ヘンリックが剣をなぎ払うと、腹を斬られた男の体が、床の上に倒れた。  苦痛の声をあげて床に這った、その男の手には、剣が握られていた。  ヘンリックは血糊のついた剣を提げ、足早にその男を追った。  傷をおさえて床を逃げる男のあとに、赤い血の文様が描かれる。迷わずそれを踏んで後を追い、ヘンリックがまた剣を構えた。傷のある男の腹を狙い、彼はまっすぐに剣を突きおろした。突き刺さる刃を見つめ、男はものすごい悲鳴のような絶叫をあげた。苦悶する男の顔を、ヘンリックは真顔で見下ろし、床をのたうつ男の肩に足をかけた。  男の悲鳴は長く続いた。  人がそう簡単には死なないものなのだと、レスリンは初めて知った。  震える酒杯からこぼれた酒が、夜会服を濡らしていたが、それを気にする余裕はなかった。  あっと言う間の僅かな時間で、ヘンリックは男の体をめった打ちに傷つけた。やがて悲鳴が止むまでの間、広間の誰もが微動だにせず、その光景に目を奪われた。  すでに返り血を浴びて、ヘンリックの衣装は赤く染まり、その顔にも血飛沫が飛んでいる。それを気にもせず、ヘンリックはまた、剣を振りかぶって見せた。  床に這う男の体は、もう動いてはいなかった。それでも剣を握っている体を、ヘンリックは一瞥して確かめ、一気に最後の一撃を与えた。  男の体が震え、切り落とされた首が、床を転がった。  奴隷よと、レスリンは自分が心の中で叫ぶのを聞いた。あれは奴隷よ、だから殺してもかまわない。  でもあなたは、アシュレイのことも、こんなふうに殺したの?  セレスタはそれを、見ていたの?  白亜の床のうえに、血と肉をまき散らして倒れている男の死骸に、あの穏やかだった青年の顔を重ね合わせて思い出すと、レスリンの体はどうしようもなく震えた。  ああ、そんな馬鹿な。剣奴隷が貴族を殺すだなんて。  剣を退いたヘンリックが、残っている二人の獲物と向き合った。  ヘンリックは剣を握る右腕を、だらりと脇に垂らして立った。  その目と見つめ合う男たちは、はっとしたようだった。  二人はあたかも示し合わせたように、同時に剣を構えた。  それを見て、ヘンリックが笑った。  にやりと彼の顔を覆う笑みが、その端正な顔を、別の男の形相に変えた。  レスリンは抑えきれずに小さく喘いだ。その顔が、ひどく素敵に見えたからだった。 「そろそろ踊ろうか、俺と」  首をかしげ、二人を見比べて、ヘンリックがそう誘った。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(5) -----------------------------------------------------------------------  まさに踊るがごとくの足捌きだった。  手のひらについた血を、片方ずつ短衣の裾に擦りつけて拭いながら、ヘンリックは軽々と剣を持ち替え、構えて立つ二人の男のいるほうへと、ゆっくり歩を進めた。  どちらの手で握るか、決めかねているような仕草で、ヘンリックは自らの手から手へ、使いなれた風な剣を投げ渡し、弄んでいる。そうする間も、彼の目は、じっと獲物を見つめていた。それもどこか、どちらを食うかと目移りする視線でだった。  結局右手で、ヘンリックは柄を握った。彼は意を決したようだった。  中段に構えた剣の切っ先は、どちらでもない、二人の男に向けられた。 「まとめて行くか、どうせなら。待たせちゃ可哀想だから」  淫靡にそう言うヘンリックの提案に、男はどちらも答えなかった。真剣そのものの顔つきで、構えた切っ先ごしに間合いを計っている風な二人の敵を、ヘンリックは首をかしげ、軽くしかめた顔を作って見返している。まるで、無粋をとがめるように。  その膠着しかけた間合いを、唐突に打ち破り、ヘンリックが最初の一手を打ち込んだ。剣を握って舞う彼の足取りは、やはり踊るように軽やかだった。  男たちは戦うことを、いつも秘密めかせて、中央広間(コランドル)で踊ると言うが、それは本来その場で行われる男女の舞踏に、剣と剣との戯れあうのを重ね合わせての言い方だった。  しかし、これまでレスリンには、戦う男たちが踊っているように見えたことは一度もなかった。貴族の男らは、いかにも優雅なふうに、一手打ち込む合間にも、気さくに喋ってみせたりと、それは戦いというよりは、ただの剣を握った社交の一部だったのだ。  ヘンリックは一言も、口をきくような気配はなかった。次から次へと、二人を互角に相手にして、ついばむような巧みな一撃を繰り返し、相手の剣にそれを受けさせ、少しずつ彼らを後退させていた。  ヘンリックの剣捌きは華麗でいて、どこか相手をからかうような、意地の悪い太刀筋だった。初(うぶ)な小娘をあしらうように、彼は剣を振るい、二人の男に公平にそれを迎撃させた。その打ち込みの素早さは、彼らに一切の反撃をゆるさない。  乱れたような攻撃に、一定の波打つような拍があった。弱く強く、寄せては返す波のように、ヘンリックは時には踏み込み、時には相手に踏み込ませた。  その波はしだいに、広間を包み込んだ。  自分の身にも、その波濤が押し寄せ、胸を震わす興奮が湧くのを、レスリンは感じた。それは酒精や麻薬(アスラ)に似た酔いだったが、もっと深いところから、レスリンを酔わせた。  おそらくは、この戦いを見ている誰もが、同じ酔いを感じている。それを証すように、凪いだように静まり返り、息を呑む広間からは、かすかに甘い汗の匂いが立ち上ってきた。それは部族の男たちが、アルマによって流す、独特の汗の匂いだ。  ヘンリックが不意に、攻撃の手を止めた。  彼は急激に静止して、くるりと敵に背を向けた。  振り返った男が、自分のほうを見たのを、レスリンは確かに感じた。  戦いの高揚を底に沈めた青い目が、一瞬じっと、自分のうえを嘗めていった。  隙を見せられ、二人の男は迎撃の構えのまま、ぎくりと動きを止めた。唯一やってきた、反撃の機会だった。  右にいたほうの男が、わずかに早く、攻撃に転じた。剣を振りかぶり、彼らはヘンリックに襲いかかった。  その気配を察したのか、ヘンリックはそれに背を向けたまま、鮮やかな微笑を閃かせた。  斬られると、レスリンは怖気だって彼を見つめた。  しかしヘンリックの体は、斬られるより一瞬早く、目にも止まらぬような回旋を見せた。その手に握った剣に、身を翻す勢いと、全体重を乗せた一撃が、二人の男を同時に見舞った。  一刀のもとに、胸を一閃されて、二人の男は血飛沫を散らせた。  先に攻撃に出た者のほうが、半歩の優勢を裏目に受け、深い傷を負った。  男たちは床に倒れ、ヘンリックが振り抜いた剣の切っ先から散った血飛沫は、レスリンの席まで飛来した。自分の頬を打つ生暖かい滴に、レスリンは震えた。  いくらか浅手で逃れた左の男は、よろめく足で体制を立て直し、ヘンリックから後ずさって、間合いを確保しようとした。目に見えて呼吸の荒い男の背が、こちらに近寄ってくるのを、レスリンは呆然と見つめた。  それを追うヘンリックは、ゆっくりと着実に相手を追いつめる、獰猛な足取りだった。まるで彼が自分を殺しに来るかのようで、レスリンはその姿に我が身の奥底が痺れるようになるのを感じた。  追いつめられた男からは、滝のように血が滴っていた。それは衣服を赤く濡らし、足を伝って床を塗らした。前屈みに身を折って、辛うじて剣を構える男の死が、もう間近にあることは、レスリンにもわかった。  血を失って。あるいはヘンリックによって、その首を失って、男は死ぬ。  私が見ている、この目の前で。  戦慄く震えの中で恐怖しながら、レスリンはそれから目を離せなかった。  切っ先の届く間合いで、ヘンリックは立ち止まり、目を眇(すが)めて、敵の顔色をうかがっているようだった。彼のその目は、問いかけるようだった。お前はもう、これで終わりかと。  うなずくように、男は項垂れ、両手で剣を握りなおした。  彼は最後の一撃に、渾身の力をこめた。そのように見えた。  怪我をした者の振るう一打とは思えないような強撃を、男はわずかの跳躍とともに、ヘンリックに浴びせた。  まともに受ければ、それは深手を与える一撃と思えた。  しかしヘンリックは、かすかに身を捩るようにして、それを避けた。振り下ろされる切っ先は、ヘンリックの短衣(チュニック)を、軽く引っ掻いたようだった。  それさえ予定のうちという風に、身をかわしたヘンリックは男を見つめ、薄笑いしてみせた。どことなく、優しさのこもる笑みだった。  それで力の尽きたらしい男は、頽(くずお)れようとしていた。  ヘンリックが剣を構えた。  それが留(とど)めの一撃であることを、見守る誰もが理解していた。  ヘンリックは剣を振るった。風音を立てて刃が空を裂き、ただの一刀であっけなく男の首が飛んだ。  声にならない高揚が、広間から湧き上がった。  飛ばされた生首が、自分に向かって飛んでくるのを、レスリンは恍惚と恐怖して見守った。それは殴りつけるような衝撃とともに、もがくレスリンの夜会服の膝へと、まっしぐらに弧を描いて飛び込んできた。  思わぬ絶叫が自分の喉からほとばしり、レスリンはその恐ろしいものから逃れようと、長椅子の上でもがいた。男の首は、腰を抜かしたレスリンの脚の間に落ち込み、華麗だった夜会服を、見る間に血の色に染め変えていった。  じたばたと足掻くうちに、いつのまにかレスリンのすぐ目の前に、血まみれの剣を提げたヘンリックが立っていた。  彼は近づき、腕をのばして、恐慌するレスリンの裳裾から、男の首を取り上げた。その髪を掴んで首を提げたまま、ヘンリックはじっと間近にレスリンの目をのぞきこんだ。  震えながら見目返して、レスリンは彼が小声でなにか囁くのを、朦朧とする頭で聞いた。  後で、と、淡く笑ったような彼の唇は言った。  後で、外へ、と。  それきり身を起こし、ヘンリックはまるで塵(ごみ)でも投げ捨てるように、白い 中央広間(コランドル)の床に、生首を放った。もとの持ち主であった死骸のそばに、首は転がっていき、そこを懐かしむように見える仕草で、もう死んでいる肉体の肩口に、青ざめた頬をすり寄せた。  ヘンリックは残る一人の元へ、足早に戻っていった。  胸を斬られて倒れた男は、そのままの場所でうつぶせになって、まだ死にきれずに苦しんでいた。ヘンリックはその傍に佇んだ。男は顔を上げて、ヘンリックを見つめた。彼は男の死の天使だった。 「旦那様」  ヘンリックがそこで口を利くのが、唐突とも思えた。  呼びかけられたバドネイル卿は、元の長椅子に横たわっていたが、呆然としているように見えた。 「獲物がまだ生きています」  なにかを促す口調で、ヘンリックは言った。それを聞くバドネイル卿も、広間のほかの者も、言葉を失ったままで、何も答えはしなかった。 「俺に歓声を」  バドネイルに話しかけるヘンリックの声は、静かに諭すようだった。 「なんと……」  掠れた小声で、バドネイルが尋ねた。 「殺せ(ヴェスタ)、と」  ヘンリックは淡々と答えを与えた。  それは客が剣闘士を囃すための、伝統的で、ありきたりのかけ声だった。闘技場ではその声が、嵐のような渦となってあたりを満たし、戦いを盛り立てる。いつかレスリンが、闘技場で遠目に眺めた首切り男も、あの時、押し寄せるようなその声の渦に包まれていた。  教えられて、バドネイル卿はうなずいた。 「殺せ(ヴェスタ)」  まだどこか掠れた声で、大貴族は命じた。 「それじゃ足りません。もっと大きな声で、ほかの皆様も、俺のアルマが熱く燃えるように」  眺め渡し、歓声を乞われて、広間の客たちは一時、息を押し殺したように静まりかえったが、やがて誰からともなくその歓声は起きた。  殺せ(ヴェスタ)と。  しだいに高まる声の波を背に受けて、ヘンリックは時を待つように、倒れた男に目を戻した。両手で抱くように剣の柄を握って、ヘンリックは死にゆく獲物の目と、静かに見つめ合っていた。  彼らはなにも言葉を交わさなかったが、声ならぬ声で、語り合うように見えた。  そろそろいくかと、ヘンリックは尋ねたらしかった。  俺に敗北するか。  その目を見上げ、静かな断末魔にいる男は、恐れもせず待っていた。その瞬間がやってくるのを。ヘンリックが剣を振るい、自分の首が断ち落とされ、命が終わる時を。  誰かが殺せ(ヴェスタ)と叫んだ。  ヘンリックは長剣を振るった。それが床を打つけたたましい音が聞こえた。  獲物は首を落とされ、その場で屠られた。  歓声はあたかも、あふれる血を呑み育つ怪物のように、高揚して荒れ狂った。すでに死んでいる獲物を前に、なおも殺せ(ヴェスタ)と観衆は叫んでいた。  ヘンリックはしばらく、歓声を浴びて死体を眺めていたが、ややあってから喝采する広間に向き直り、剣を背に隠して、剣闘士が客に見せるような、胸に手を添え深々と腰を折る華麗な一礼をしてみせた。 「見事だ、ヘンリック」  長椅子から立ち上がって、手を打って喝采しながら、バドネイル卿は褒めた。感極まったような声色だった。広間がそれに倣い、拍手を始めた。  レスリンはその横の席にいるセレスタが、長椅子にあおむけに倒れ、失神しているのに気づいた。ヘンリックの鞘を抱いたまま、薄青い夜会服の裳裾を波打たせて、令嬢は気を失っている。 「ありがとうございます」  息も乱れぬ平静さで、ヘンリックは判で捺したような型どおりの答礼を口にした。  傍目にも異様なほど興奮しているバドネイル卿と向き合って口をきくには、ヘンリックはなにか不思議なほど平静だった。まるで、たったいま死闘をしたのはバドネイル卿で、ヘンリックはただそれを傍観していただけのようだ。 「お前こそ部族の真の戦士だ。最強にして華麗だ」  言葉を極めて褒めるバドネイルの赤い顔に、ヘンリックはただ薄く笑ってみせた。それはどう見ても作り笑いだった。死にゆく獲物に笑いかけた時の、ほんの半分だって優しくはなかった。 「皆、聞くがいい」  拳をふりあげ、バドネイル卿は憑かれたような熱い演説を始めた。 「我々はあまりにも異民族の血に冒されすぎた。今こそ古(いにしえ)の狂乱の血を取り戻すべき時だ。私は皆にも奨励する。古い部族の血を、血筋に取り込み、一族を栄誉ある家名にふさわしい本来の姿に立ち返らせるのだ」  熱弁をふるうバドネイル卿の横を、ヘンリックは静かに歩き過ぎていった。自分の弁舌に酔っている大貴族は、まるでそれに気づかないらしかった。  ヘンリックは気を失っているセレスタのそばへ行って、うっとりと仰け反っている彼女の顔を、不思議そうに覗き込んだ。  セレスタは絵の中の裸婦のように、絹の長手袋につつまれた手を、のけぞった自分の額に乗せ、身をよじる姿勢でいた。まるでたった今、誰かに抱かれて、それが良すぎて気絶したみたい、と、レスリンは呆れて友を見た。  案外そうなのかもしれなかった。膝の震えるような高揚が、今でもまだ、レスリンの体にも残されている。やり場のない高揚を、ヘンリックはその剣によって、広間にいる全員に与えていった。  広間がバドネイル卿の熱弁に酔う中、ヘンリックが血脂にまみれた自分の剣を、人知れずセレスタの夜会服の長い裾で拭うのを、レスリンだけが見ていた。それはなにか、ひどく酷薄な仕打ちだった。  女の手から、預けた鞘をとりあげ、ヘンリックは剣をそこに納めようとしていた。  本当ならセレスタが、ちゃんと目覚めて待っていて、彼に鞘を差し出すべきだった。そのためにヘンリックはセレスタに大切な鞘を預けていったのだから。  なんて情けない女なの。  レスリンは内心でそう、幼なじみを罵った。  私なら。ちゃんと彼に鞘を返すわ。そうして戦いを終えた男を労う。それが部族の女として、当然の務めじゃないの。  貴女は彼に、ふさわしくない女よ。  弱くて、わがままで、無邪気すぎるのよ。  私なら、と、レスリンは願った。  私なら彼の鞘を預かれる。彼を待つ女(ウエラ)として。 「私は我がひとり娘セレスタに、この最強の血を持った子を産む名誉を与えることにしたのだ。私の孫は、いずれ、狂乱の戦士の血を持って、皆の前に現れるだろう。そういう者こそ、部族の次代を担うにふさわしい。真の戦士なのだ」  そうだ、と客たちはバドネイルの熱狂を囃した。  みんな、自分たちが何を言っているか、分かっているのかしらと、レスリンは醒めた目で、広間の男たちを眺めた。  馬鹿みたい。なにが狂乱の戦士よ。薬を使わないと、アルマに酔えもしない、虚勢馬みたいな連中のくせに。  崇める目で、レスリンは広間を出て行こうとしている、血まみれのヘンリックを見つめた。すると彼も、じっと見送るように、レスリンを見つめ返していた。  小さく首を傾げるようにして、ヘンリックはレスリンを促した。外へ、と。  ああそうだったわと、レスリンは狂喜した。私は彼と、約束があったんだった。  果てしなく熱弁の続く広間を、レスリンは血に酔って気分を悪くしたふりをして、よろめきながら退出した。そんな演技をしなくても、レスリンの脚は本当によろめいた。血に染まった夜会服の裳裾は重く、べったりとレスリンの脚にからみついたからだ。  扉をくぐると、ヘンリックはそこで待っていた。  彼に跪きたい気持ちを抑え、レスリンはその傍に、控えめに向き合って立った。 「どうでしたか、俺は」  答えをもう知っている顔で、ヘンリックが尋ねてきた。 「素晴らしかったわ」  そう答える自分の息が熱いのに、レスリンは恥じらった。 「セレスタ様が眠ってしまったので」  血の滑る指で、ヘンリックはレスリンの手をとった。自分が夜会用の長手袋をしているのが、ひどい間違いだったとレスリンは後悔した。こんなものを着けていなければ、彼の指が私の肌に触れるのを、感じられたはずなのに。 「貴女が俺の相手をしてくれませんか。女の肌を感じて、血を鎮めたいので」  誘うヘンリックに、レスリンは考える間もおかず頷いていた。 「なぜ訊くの。私はあなたの女(ウエラ)なんでしょう」 「そうでしたね」  やっと笑った顔になって、ヘンリックは言った。レスリンはそれに、込み上げた嬉しさを隠せず、満面の笑みで応えた。  レスリンの手を引いて、女の身にはほとんど走るような早足で、ヘンリックは貴族の屋敷の廊下を行った。  夜会の間から、やや離れたところで角を曲がり、そこにあった花を飾るための壁の窪みに、ヘンリックはレスリンの体を押し込んだ。  彼が躊躇いもなく夜会服の裾をめくり、自分の脚を露わにするのを恥じて、レスリンは仰け反って目を閉じた。  こんなところでするの、とレスリンは尋ねた。誰かが来たら、どうするの。  夜会の間に響く、熱狂した男たちの声が、まだかすかに耳につくような近さなのに。 「もし誰か来たら、悲鳴をあげてください」  笑いながらそう言って、ヘンリックはレスリンを抱いた。  彼が自分の脚を抱え、腿を割ってくるのを、レスリンは内心の悲鳴とともに受け入れた。それは悲鳴ではなかったかもしれない。男に抱かれるのは初めてではないし、それに倦み始めてさえいたはずが、ヘンリックに押し開かれるレスリンの内奥は、かつてないほど熱く濡れていた。  まだ何もされてない、ただ戦いを見ただけなのに。  ああ、私、恥ずかしいわ。  そう訴えて、思わず首にすがると、剣闘士は笑っていた。さざめくように笑いながら、ヘンリックは気遣いのない激しさで、レスリンを貪った。  それでも、ただ突かれるだけで、レスリンには快感があった。  すぐに感極まってきて、レスリンは喘ぎ、声を押し殺した。  夜会の間から、誰かが出てくる気配がしたからだった。  やめないで、とレスリンはヘンリックの耳に囁いた。  やめないで、私、見られても平気だから。あなたが私のものだって、皆に教えてやりたいくらいよ。  通路をやってきた一団を、待ちかまえるように、レスリンは行為の熱にうかされた目で見つめた。  失神したセレスタを、部屋で介抱するため、運んでいく侍女たちの群れだった。  曲がり角の向こう側を、あわてふためいて通り過ぎていく女たちは、ほんのわずかも、こちらを見なかった。  見ればいいのにと、レスリンは思った。  ぐったりと運ばれていくセレスタの姿を見ると、レスリンはもう我慢ができなかった。  声を上げかけるレスリンの口を、ヘンリックが手で塞いだ。その指からは鼻をつく鉄くさい血の臭いがした。  そのままヘンリックはレスリンに留めを与え、さしたる間も置かずに彼も後を追ってきた。その瞬間だけ、ヘンリックは無防備に見えた。激しく自分にすがる男の、どこか苦悶したような顔を、レスリンは両腕で抱きしめた。  そうすると男は、自分のもののように思えた。  私たち、これ以上はないくらい、お似合いなんじゃない。  そう感じられて、レスリンは嬉しかった。  やがてため息をつき、ヘンリックはじっと、抱え上げたレスリンの顔を見つめてきた。その表情からは、先ほど広間で戦っていた、狂乱するアルマの男は消えていた。 「俺は風呂にいきますけど、貴女は戻ったほうがいいですよ」  男の言葉は、ひどくあっさりとしていた。  レスリンは目を瞬いて、まだ抱き合っている相手の顔を見た。 「私を置いていくの」 「夜会はまだ続いていますから。貴女は貴族で、旦那様の客でしょう。話を聞かなくて、無礼と思わないんですか」  彼の言うことは、至極もっともだったが、それだけに、受け入れがたい狡さがあった。 「そうね……」  上ずった声で、レスリンは応えた。  ヘンリックは執着のない引き際で、レスリンの中から出ていった。  彼は自分の着衣は直したが、乱したレスリンの裳裾のことには、少しも頓着しなかった。  やむなくそれを自分で整え、それからレスリンは息を整えようとした。長い夜会服に隠された内腿で、べったりと冷えた血が滑り、体の芯はまだ、熱いままだった。 「セレスタと、私と、どっちが良かったかしら」  顔を見ていられなくなって、レスリンはうつむき、男の爪先に問いかけた。  ヘンリックの足は、立ち去ろうとしていた。 「貴女です」  いかにもそれが当然というように、あっさり彼は答えた。  その言葉には希望があった。  顔を上げて、レスリンは自分に向けられているはずの、ヘンリックの視線を探した。  しかし男は曲がり角の向こうにある通路の、ガラス窓の外を見ていた。  バルハイの聖堂が打つ、鐘の音が聞こえてきていた。それは時報で、まだまだ夜は序の口だと人々に教えていた。  だがレスリンの耳には、それは別のことを言っている。  今夜の、私の時間はもう終わり。 「あなたはセレスタと、本当に結婚する気なの」 「旦那様はどうも本気のようです」  他人事のように、ヘンリックは答えた。 「それで平気なの。ほかに……ほかに女(ウエラ)がいるのに」  レスリンが問いかけると、ヘンリックは確かに、それは困ったことだという顔をして、血飛沫の乾き始めた顔を拭う仕草をした。 「俺に選ぶ権利があるでしょうか、レスリン様。旦那様は俺の主で、金を払った正当な所有者(パトローネ)です」 「あなたを種馬にしようというのよ」  そう教え、レスリンは自分の言葉に耐えきれず顔を覆った。  ヘンリックにも耐え難いだろうと思った。たとえそれが事実でも、彼にひどいことを言った。  しかし、それに答えるヘンリックの声は、淡々としていた。 「剣闘士よりましですよ。どうせ似たようなもんです。中に出していいか、いちいち訊かなくていいだけましでしょう」  極めて、あっさりと言うヘンリックの口調には、悪びれたところも、悔やむふうもなかった。彼にはそれは、日常茶飯事のようだった。  やっとレスリンに向き直り、ヘンリックは言った。 「お嬢様、俺はもう行きます、さようなら。どうか楽しい夜を、お過ごしください」  かすかに一礼してみせて、それきり振り返りもせずに、剣闘士は去った。  レスリンは、誰もいない廊下に、ゆっくりと座り込んだ。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(6) -----------------------------------------------------------------------  バドネイル家が婚礼の支度をしているという噂は、突風のような駆け足で、バルハイじゅうを通り抜けていった。  市井の平民たちまでが、そのことを知っているようだった。  婚礼支度に必要そうなものや、あるいは何の関係もないものまで、この機に羽振りのいい大貴族に買い受けてもらおうと、バドネイル邸の外門のあたりには、商人らしい者たちの馬車が連日詰めかけ、ごったがえしていた。  それでも一応、その話はセレスタにとっては、秘密らしかった。  レスリンに婚礼の予定を打ち明けるセレスタのひそひそ声は、少女の頃に話した時の、浮き立った喜びを含んで、レスリンの耳に届いた。 「だから、正式には婚礼がいつになるか、まだ分からないの。きちんと決まるまで、話は内々にすると、お父様がお決めになったから、仕方がないけど。でも、貴女は私の親友なのですもの、知っておいてもらいたかったの」  並んで長椅子に腰掛け、セレスタはこちらの手をとって、親しげに打ち明けていた。  セレスタの豪華な居室には、明るい陽が差し込み、活けられた大輪の白い花々から、かすかに甘い香りがしていた。  そんな自分たちを、小卓をはさんだ向かいの肘掛け椅子から、ヘンリックが見つめていた。足を組み、肘掛けに片腕を預けて、彼はどこか見比べるようにして、こちらを眺め、かすかな笑みを口元に浮かべていた。  それは自分の花嫁を見つめる男の目なの。それとも、あなたは私を見ているの。  レスリンは複雑な気分で彼の視線を身に受け、それを気にしないそぶりを続けた。  夜警隊(メレドン)の制服に身を包んでいるヘンリックは、その紺色に微かな文様の染めぬかれた短衣(チュニック)を纏うと、いつか見た彼の質素さとは縁遠い晴れがましさで、急な出世を満喫しているようにも見えた。  夜警隊(メレドン)は族長の親衛隊で、準貴族だった。奴隷身分の地位ではない。男が剣一本でのし上がれる、ひとつの頂点だった。  バドネイル卿は彼を剣闘士の奴隷身分から解放し、平民としての身分と、夜警隊(メレドン)の制服を与えたが、それだけでは飽きたらず、族長と政治をして、一代限りのものとはいえ、彼に貴族位を与えるよう求めたそうだ。  その話はバルハイの夜会を駆けめぐっていた。  噂に眉を顰める者と、妙な納得をする者とがいた。  とにかく今や、ヘンリックの名を知らないものは、バルハイの社交界にはいなかった。  大貴族の総領であるバドネイルを発狂させた男として、彼は知られていた。  バドネイルは、どこへ行くにも護衛と称して、夜会はもちろん、昼間に通う政治の場にまでも、ヘンリックを連れ歩いた。  そして機会があれば、ひっきりなしに、ヘンリックとの手合わせ(デュエル)を人にすすめるので、恐れられていた。相手が貴族でも、誰でも、ヘンリックが手加減をしないことが、すでに常識として知られているせいだ。  彼はさすがに首を切ってもいい相手を選びはしているようだが、対戦相手が守っている、男としての名誉を叩き潰すことについては、罪がないと思っているらしい。  彼は今も、後見人(パトローネ)の望むまま、最強の剣を誇示することを、躊躇いはしないのだった。 「だけど、セレスタ、それはあまりにも、夢のような話じゃないかしら」  供されたお茶を磁気の入れ物から飲みながら、レスリンは友を諌めようとしていた。あまりの話に、磁気の器は手の中で震え、花の形をした受け皿と打ち合った。 「族長への挑戦(ヴィーララー)だなんて」  内心の震えを押し込め、レスリンは向かいで薄笑いしている男を見やった。 「彼が強いのは、よく分かるけれど、でも、族長への挑戦(ヴィーララー)だなんて。正気と思えないわ。あれは大昔に廃れた習わしでしょう。もう伝説のような過去の時代の話なのよ、セレスタ」  なんとか友を説得しなければと、レスリンは思った。  しかしセレスタは少し困ったような顔で微笑しているばかりだった。 「ええ、そうね、レスリン。でもお父様は本気なの。彼なら、族長を破って、族長冠を奪えると信じていらっしゃるの。元々そのつもりで、彼をうちに引き取ったんだとおっしゃっていたわ。彼を使って、族長を倒させて、それからアシュレイを族長にするおつもりだったのよ」  レスリンは座ったまま椅子から飛び上がるような気分だった。  男どもの野心というのは、いったいどこまで、馬鹿なことを考えるものなのか。  政権の転覆をもくろんで刺客として買い入れた剣奴隷が、肝心の娘婿を殺して、その後釜に座ったとは。そしてそれを、手もなく喜んでいる大貴族と、その愚かな娘がいるとは。  それは本当の話なのと、レスリンは口をあんぐり開けたまま、ヘンリックを見つめた。彼はそれに答えるように、にやりと一瞬笑った。セレスタの話が、可笑しくてたまらないという気配で。 「彼が何人と戦うことになるのか、貴女は知っているの、セレスタ」  おっとりと平気そうでいる友に、レスリンは思わず強い口調になっていた。セレスタは答えず、ぽかんとして見えた。レスリンは焦れて言葉を継いだ。 「族長が挑戦(ヴィーララー)を受け入れたとして、対戦する前には、夜警隊(メレドン)の手練れとの対戦を、まず勝ち抜かないといけないのよ。あなただって、部族の黎明の物語はよく習って知っているのでしょう」  セレスタは素直に頷いて答えた。知っているのだった。 「何人だったかしら、ヘンリック。私は数字はだめで、何度聞いても忘れてしまうの」 「六十八人です、セレスタ様。現時点では」  自分の首を撫でながら、ヘンリックはまるで、さしたることではないように答えてやっている。 「それは多いのかしら、あなたにとって」  尋ねるセレスタの口調が、あたかも今はじめて訊くようだったので、レスリンは震えた。 「多いです、とても。実際の戦闘は、一対一での連戦で、日数をかけて順次行うらしいですが、それでも向こうは多勢で、俺は段々疲れますので、大変な戦いになりそうです」  ヘンリックは穏やかに、セレスタに説明してやっていた。  なにが大変な戦いよと、レスリンは思った。それは死闘じゃないの。  どんなに強い者でも、次から次へと休む間もなく強敵と対戦させられたら、どこかでつまずく。挑戦者を始末するために用意された関門だということは、明らかなのに。それにあえて挑もうというの。  あなたは、馬鹿なの。  それとも、バドネイル卿が求めれば、奴隷であるあなたは、それを拒めないからなの。  まさか本当に、族長冠が欲しいわけじゃないんでしょう。  底辺からのし上がってきて、夜警隊(メレドン)の制服を着て、貴族の娘を抱くだけでは、まだ足りないというの。 「勝てるのよね、ヘンリック」  初めて不安になったように、セレスタは身を乗り出し、ヘンリックに尋ねた。  ヘンリックは、彼女に小さく頷いてやっている。 「大丈夫です。セレスタ様が心配されるような事ではないです。婚礼衣装のことでも悩んでいてください」  そう許されて、セレスタは本当に嬉しそうに頬を染めた。  彼女はちょうど、何着あるやら知れない婚礼衣装の仮縫いをしている真っ最中だからだった。  レスリンは今日、神殿での宣誓式のときに、どんな衣装を身にまとえばよいかの相談相手として、セレスタに呼ばれたのだ。  花嫁がどんな衣装で着飾っていてほしいか、ヘンリックに尋ねたが、彼は分からないと言うのだと、セレスタはぼやいていた。 「そうだったわ、レスリンに相談しなくちゃ。私は昔から、華やかな服が好きでしょう、レスリン。だから花嫁衣装も、そういうものにしたいって、子供の頃から思っていたけど、ヘンリックは飾り気のないのが好きなのよ」  まじめに問いかけてくるセレスタにとって、挑戦(ヴィーララー)に続く死闘の話題は、もう過去のものらしかった。  レスリンは、すぐには友に返事をしてやれなかった。 「俺の好みは気にせず、自分の好きなものを着たらどうですか。貴女の婚礼なんですから」  優しいのか、興味がないだけか、どちらにも聞こえる言いようで、ヘンリックがセレスタに言った。セレスタをそれを、彼の優しさと受け取っているらしかった。 「私は、あなたの好みの女でいたいのよ」  にっこりと微笑むセレスタは、確かにヘンリックが好みそうな、簡素な普段着を身につけていた。飾り気のない薄紅色の平服は、セレスタの顔色によく映えたが、レスリンには、彼女はもっと、本人の好むような華やかなひだ飾りのある服を着たほうが、可愛らしいのではないかと思えた。たとえそれが、ヘンリックと並んだときに奇妙に派手に見えたとしてもだ。  ふとした沈黙をついて、居室の扉が叩かれ、セレスタの侍女が現れた。衣装係が仮縫いをしたいので、差し支えなければ来てほしいと、侍女は丁重に女主人を促した。  セレスタはすぐ立ち上がったが、去りがたいのか、もじもじしながらヘンリックを見つめた。 「お父様にご相談したの。そうしたら、宣誓式の衣装は、簡素なのと華やかなのと、両方縫わせてみて、着てみてから考えればいいっておっしゃったのよ」  そう説明するセレスタの話は、要するに、一着あれば足りる服を、二着作らせているという意味だった。一度しか着る機会はないのに、全くの無駄だ。  ヘンリックは少し、驚いた顔をして、頷いていた。 「それは旦那様らしい名案ですね。では宣誓式も二回やったらどうですか」  ヘンリックが本気か冗談か分からない口調だったので、セレスタははにかんで笑った。 「それは、あなたらしい名案ね、ヘンリック。考えてみようかしら」 「どっちの服にするか決心がつかなかったら、そうしてください。俺は二回でも百回でも、つきあいますから」  その茶番に。とは彼は言わなかったが、レスリンにはそう聞こえた。  しかしセレスタは別の意味に受け取ったようだった。  自分が求めさえすれば、彼が、たとえ百回でも、天使の前で永遠の愛を誓うつもりなのだと。  おかしなものだった。だまされている女というのは。  セレスタはそれで安心したように、婚礼の支度のために部屋を出て行った。  その気配が遠ざかるのを待ちながら、レスリンは器に残されていたお茶を飲み干した。喉が渇いていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(7) ----------------------------------------------------------------------- 「セレスタに、どちらの服が好きか、言ってあげればいいじゃない」  目を合わせてそうなじると、ヘンリックはまた、にやりとした。 「どっちでも同じですから。縫わせたところで、どうせ着られません」  しれっとして彼が答えた話の意味を、レスリンは計りかねた。なんとなく不吉な気分に落ち込んで、レスリンは眉を寄せた。 「どうしてそんなことを言うの」 「セレスタ様は妊娠しています。宣誓式の時には、もっと腹が大きいはずだから、今縫った服が着られるはずありません」  そう教えられ、レスリンは頭を後ろから殴られたような気がした。一瞬、意識がくらりと揺れた。 「そんな話、聞いてないわ」 「たぶんまだ本人も知らないんです」 「なのにどうして、あなたに分かるのよ」 「匂いで」  答えて、ヘンリックは目を伏せ、匂いを嗅ぐふりをした。  レスリンは彼がふざけているのかと思い、思わず怒る顔になっていた。 「本当ですよ。俺は鼻が利くほうなんです」 「犬みたい」 「そんなようなもんです」  ヘンリックは笑って答えた。  レスリンは仕方なく、その笑みに引き込まれた。  しかし言いしれない寂しさが胸を襲い、苦しかった。 「あなた、セレスタとも寝てるのね。当たり前よね。結婚するぐらいなんですもんね。いったい、セレスタを抱くとき、あなたが何を考えてるのか、知りたいものだわ」  皮肉に隠して、レスリンは文句を言った。もしも誇りがなければ、泣き叫んでなじりたいような気持ちが、胸の奥底のほうでしていた。  「そんなこと本当に知りたいんですか」  ヘンリックは真顔でそう訊いてきた。挑まれている気がして、レスリンはむっとした。 「知りたいわ。言ってごらんなさいよ」  胸を張って椅子に座り直し、レスリンは身構えた。 「俺がそのとき考えているのは」  思い出すような顔をして、ヘンリックは答えた。 「俺が本当に愛している女(ウエラ)のことです」  そう言って、自分をまっすぐ見つめてくるヘンリックの言葉には、一片の嘘もないように聞こえた。レスリンは震え、そして顔を赤らめた。  その様子が面白かったのか、ヘンリックがふと笑いを見せた。 「貴女は案外、純真で可愛い人なんですね」 「どんな女だと思っていたの」  ヘンリックは笑うだけで、答えをくれなかった。  代わりに、花の描かれた、セレスタらしい少女趣味の茶器から、お茶をの飲み干して、ヘンリックは、さてと言うような顔をした。 「セレスタ様はすぐには戻らないと思います」  その言い方はとても事務的だったが、彼があることを誘っているのだと、レスリンは理解していた。それは、他に誰もいない部屋にいる男と女が、二人きりでやるようなことだ。 「急に戻ってきたら、どうするの」 「困りますね」  答えながら、ヘンリックは困ったなという顔を作ってみせた。 「だから大急ぎでやりましょう」  レスリンは苦笑した。いつもそうじゃないのと思ったからだ。  いつもセレスタの目を盗んで、こそこそ隠れて大急ぎでやるんじゃないの。  そうやって、近寄ってくる足音の予感に震えながらヘンリックに抱かれると、レスリンはいつも、ひどく興奮した。いまだかつて、夜会で出会ったどんな高い身分の男も、自分にそこまでの愉悦を与えた者はいない。  腰に帯びていた剣帯をはずして、ヘンリックは立ち上がり、すたすたと歩いて、レスリンの座る長椅子の隣に腰をおろした。レスリンは間近にある彼の顔を見つめた。  いつ見ても、いい男だった。  ふざけているのか、ヘンリックはくんくんとレスリンの喉もとの匂いを嗅いだ。 「私はどんな匂いがするの」 「百合の香油の匂いです」  彼の言うとおりだった。バルハイで流行り始めた新鮮な香りだ。彼に会うので、特別に買い求めて身につけてきた。男がそれに気付いたらしいことに、レスリンは喜んだ。 「妊娠した匂いはしないかしら。私もあなたの子供を産みたいわ」 「その匂いはしませんね」  間近に見つめ合うと、ヘンリックの目は、いつもとても無表情に見えた。 「貴女はたぶん妊娠しません。石の女です、レスリン様。俺にはそれが、匂いでわかります。百合の香りに紛れても」  はっきりとそう断言するヘンリックの言葉に、レスリンは淡く微笑みを浮かべた表情のまま、硬直した。彼は自分のことを不妊だと言っているのだった。  それは部族の女にとって途方もない恥だった。  愛する男の子供を孕めなければ、彼をアルマの後半に導くことができず、その愛は結実せずに腐る花のように、次第に緩んで消えていく運命にある。  そういえば彼は一度も訊かなかった。妊娠するかもしれないが、いいのか、とは。  愛しているからだと思っていた。 「嘘よ」 「確証があるわけではないです」  レスリンの否定を、彼はうやむやに受け入れた。  それでもレスリンは、彼に捺された石の女の烙印が、今でも自分の胸に残されているような寒気を感じた。 「やりますか、今日も。犬みたいに」  ヘンリックはいかにも平静そうな顔で尋ねていた。  なぜいつも、私に訊くの。レスリンは夜警隊(メレドン)の男の目を覗き込んだ。  あなたが私を望んでいるのではないの。  たとえそうでも、彼は許可を求めざるを得ないのだろう。レスリンより身分が低いのだから。夜警隊(メレドン)に出世した今でも。 「抱いて、ヘンリック。私にも、あなたの子を産ませて」  求めると、彼はなにも答えず、ただレスリンを長椅子に押し倒した。  ヘンリックはレスリンの服を脱がせはしなかった。そんな時間はないからだった。 「私、怖いわ。挑戦(ヴィーララー)なんて。あなたが敗北して死ぬところを、見たくないわ」  レスリンは苦しみ悶えながら、男にそう訴えた。 「つらいなら、見に来なければいいだけです」  そう答えるヘンリックは、死ぬつもりなのかもしれなかった。  彼が、女(ウエラ)として死を看取れと強要しない優しさを示したことに、レスリンはほっとした。そして彼が与える愉悦に身を任せた。仮縫いの針に身をすくめ、幸せそうでいるセレスタのことを想像しながら。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(8) -----------------------------------------------------------------------  挑戦(ヴィーララー)は行われた。  それが現実のことだとは信じがたく、レスリンは抗ったが、バルハイの街に日毎に満ちていく戦いの熱気は、逃れようもなくレスリンの身にも迫ってきた。  夜警隊(メレドン)を相手に戦う男の話で、市井は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。  賭をして一山あてようとする者。英雄を作ろうとする者。ただただ熱狂する者。  族長を支持する貴族と、剣奴隷を支持する民衆とが、お互いを睨み合って、じりじりとした、いつまでも眠れぬ夜を過ごした。  最初の戦いが三日後に迫った日、レスリンはとうとう都市の興奮に耐えきれず、田舎の荘園に逃げ込むため、バルハイを後にした。  ヘンリックとは、セレスタの妊娠を知らされた日から、一度も会っていなかった。  会いたい気持ちは狂うほど募ることもあったが、顔を合わせれば、無謀な戦いなどやめてくれと泣き叫び、彼にすがりつきそうな自分が予感され、恐ろしくてできなかった。  男には、名誉のためや、女(ウエラ)のために、死ぬとわかっていても戦わねばならない一戦がある。女の口から、その戦いから逃げろと求めるのは、この部族の男にとって、耐え難い裏切りだ。  たとえその男が敗北して死ぬとしても、全力を挙げて戦った結果であれば、その死は無駄ではなく、名誉なことだった。女(ウエラ)はそれを看取らねばならない。  そして勝者となった男の戦利品となる。  古来から続く、この狂乱する戦士の一族の習わしだ。  それは文化ではない。血の中にある、体質だ。  混血によって血の薄まったレスリンには、確信することまではできないが、そういう気分が、理屈ではなく、腹の奥底から湧き上がるものなのだということは、うっすらと予感できた。  その血は、この部族の女の中にある。婚約者だったアシュレイを惨殺した男に、セレスタが惚れたようにだ。  では、ヘンリックが敗れて死ねば、自分はその時、誰のものなのだろう。  ふとそう気づくと、レスリンには奇妙な気がした。  自分がヘンリックの女(ウエラ)だということは、ふたりの秘密で、ほかの誰にも知られていなかった。誰も知らないのに、いったい誰が、彼から自分を奪えるだろうか。  もしかして、自分は、たとえヘンリックが死んでも、永遠に彼のもののままなのではないかと、レスリンは気づいた。  それを見越して、あの男は、死を看取りにくるなと言ったのではないか。  その考えは、レスリンの胸を灼けた炉のように熱くさせた。  自分の中にあるその愛が、他の誰かによって打ち消されるのが、レスリンは嫌だった。永遠に、あの男のものでいたい。ずっとあの瞳と見つめ合って、あの腕に抱かれて、生きていたいのだ。たとえ血の中にあるアルマの呼び声が、それを禁じても。  荘園の古びた屋敷に籠もり、レスリンは震えながらヘンリックの訃報を待った。  しかしそれは、戦いが始まって何日たっても、聞こえてこなかった。  伝令の語る、壮絶な戦いの模様に、レスリンは悶え、寝床の中で震えて、時には死んだようになった。  見に行けばよかったのかと、気の狂いそうな苦悩が湧いた。  民衆の眺める中、闘技場で夜警隊(メレドン)と戦う男の姿を、自分もその興奮の渦の中に立って、見守るべきだったのではないか。  殺せ(ヴェスタ)と叫ぶ人々の声が、心臓を刺すようでも、自分も彼とともに苦しみ、目には見えない血を、流すべきだった。  彼の鞘を、しっかりと胸に抱いて。  それが女(ウエラ)としての、あるべき姿だったのではなかったの。  髪を振り乱す幾日もが過ぎ、その知らせは、レスリンのもとにやってきた。  ヘンリックが勝ったのだった。  レスリンは腰を抜かした。  ヘンリックは、迎撃する夜警隊(メレドン)の手練れを全て倒し、その後に待っていた族長との死闘をも勝ち抜いたという。  あの剣奴隷が、族長になったのだ。  族長になった。  バルハイで。  戴冠したという。  にわかには信じがたい話だった。  レスリンはおろおろと、その後の何日かを屋敷の中を彷徨って過ごし、やがて気づいた。一刻も早く、バルハイに戻らねばならない。  彼は待っているはずだった。  私を。彼の、本当の女(ウエラ)を。  今や族長となった男には、バドネイル卿を旦那様と呼ばねばならない義理はないのだ。バドネイルは彼の臣下になった。  セレスタのご機嫌をとる必要もない。  愛する女(ウエラ)を公然と抱けない理由は、もうヘンリックにはないのだ。  馬車を仕立てて、レスリンは荘園を発った。  道のりは果てしなく遠く思えた。揺れる座席で頭を抱えたまま、レスリンは日に夜を継いで、馬を駆けさせた。  朦朧と辿り着いたバルハイの、狂ったような街を駆け抜け、闘技場の前を通ると、信じられないことに、マルドゥークの旗を掲げるための見上げるような柱に、族長の死骸が晒されていた。今や、先代となった、過去の男だった。  王宮の夜会で、見たことがあったその姿が、見る影もなく切り刻まれているのを、レスリンは恐れながら見送った。  首は、もちろん切り落とされていた。  死骸を括り付けた旗柱の先に、その首は突き立てられ、その眼窩はじっと、かつて支配した狂乱の街を眺めていた。今では別の男の戦利品となった、バルハイを。  その醜悪なものを目にして、レスリンにはやっと実感が湧いた。  首斬り男は勝利した。  かつては、自分が売り買いされていた闘技場で。彼はとうとう、最強の男になったのだ。  強烈な喜びが、レスリンの身の内に淀んでいた、これまでの怖れを打ち払っていった。  ふと気付くと、ひどい形(なり)をしていた。  髪は乱れ放題で、肌からは嫌な汗が匂う気がした。衣装の裳裾も乱れて皺になっている。とてもこんな姿で、彼のところへ行けるわけがない。  レスリンは馬車をバルハイ市内にある、自分の家族の屋敷へと向かわせた。  セレスタの住む大邸宅と比べると、ずいぶん見劣りのする古い屋敷だが、家名にふさわしい壮麗さが、いまだに残っているはずだ。それに自分はもうすぐ、この部族で随一の女になるのだから、この血筋の家格も、一気に高まることだろう。  族長位の権力を持ってすれば、家族に名誉を与えるような、新しい邸宅を建ててやることもできるだろうし、なにしろ自分はきっと、あの壮麗な王宮に住むことになるのだ。  どんな望みも思いのままに。愛しい男のものになって。彼の子を、幾人も産んで。悔しがる女たちの羨望の眼差しを浴びながら、純白の中央広間(コランドル)で踊る。彼の、第一の女(ウエラ)として。  発狂したようなレスリンの有様を見て、家族たちは心配をした。  大丈夫よ、心配しないでと、レスリンは答えた。  もう何も心配いらないわ。本当に何も、何もかも、大丈夫になったのよ。  王宮に行って、新しい族長に謁見したいと言うと、家族は今夜も夜会があると教えてくれた。バルハイの宮殿では、毎夜、新しい支配者を祝う祭りが行われているのだそうだ。  ああ、では、そこへ行かなければ。最高に着飾って。  レスリンは家に伝わる古いものを数々売り払わせて、素晴らしく美しい夜会服や、身を飾るための宝石を手に入れた。特にと宝石商がすすめた、青い石を取り混ぜた真珠の首飾りは、ここしばらくでやせ衰え、華奢になった自分の首筋に、ぞっとするくらい良く似合った。  セレスタだって、こんな素晴らしい首飾りをしていたことはない。  レスリンはその品の価格を尋ねなかった。  たとえ屋敷を売り払うほどの金貨が必要だったとして、それがなんだというの。私にはもう、どんな贅沢だって、許されるのよ。  いつぞや男が好きだったらしい、百合の香りをつけて、レスリンは買い集めた最高の衣装を身に纏った。  馬車も新調したかったが、時間がなくて、そこまで手が回らなかった。  とにかく一刻も早く、王宮へ馳せ参じなければ。  その思いがあまりに強く、とても待っていられなかったのだ。  バルハイの街を、すでに夕凪が包み込んでいる。夜会の始まる時刻まで、あと少しだった。  その時を待たず、レスリンは馬車を駈けさせた。  夜会はまだ始まっていなかったが、誰も皆、同じ思いなのか、待ちきれずに早々とやって来た者たちが、まだ陽も燦々と射しているというのに、夜の格好をして、王宮にいた。  王宮の侍従に、族長はいずこにおいでかと、レスリンは胸を張って訊ねた。  美しく豪華に着飾ったレスリンを、皆が驚いたように見ていた。  まるで、正妃もかくやという、序列を無視した華麗な出で立ちだったからだろう。  中央広間(コランドル)にいると、侍従は気圧されたように教えた。  波打つ波濤のような、たっぷりと長い青い裳裾を引いて、レスリンはそこを目指した。  歩いていく道のりは長かったが、レスリンは、大理石と金で飾られた通路の装飾や、そこで行きすぎる高位の貴族たちの着飾った姿を、我がものとしてうっとりと眺めながら、踊るような足取りで歩いた。  やがて中央広間(コランドル)のある、王宮の夜会の間に辿り着いた。  族長は、そこにいた。  青玉(サファイア)を飾った族長冠を着けて。  よく見知った男が、初めて見る、華麗を極めた支配者の大礼装で。  その姿に感極まって、レスリンは一瞬、失神しかけた。  ヘンリック。  そう呼びかけたかどうか、混迷のあまり、良く分からなかった。  ほとんど走るように近づいてくる自分を、彼はゆっくりと向き直って見つめた。  そのまま抱きつきたい衝動にかられたが、あと一歩の距離で、レスリンは踏みとどまった。  それは自分の中に最後に残された誇りだった。  自分から男に抱きつくなんて。無様だわ。  彼が私を抱くべきよ。愛する女を。  ヘンリック、いまや誰に憚ることもなく、私を我がものとする時よ。  熱い目で、そう語りかけるレスリンの顔を、族長になった男は、ただ淡泊に見つめた。 「ごきげんよう、レスリン嬢。ご大層な首飾りを買ったようだ」  レスリンの夜会服の襟元に目を落とし、ヘンリックはそう言った。  淡々と響く、どこか呆れたような声で。  レスリンは目を瞬いて、彼と見つめ合った。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(9) ----------------------------------------------------------------------- 「よくお似合いだが、少々派手だ。貴族のそんな贅沢も、今は仕方がないが、いずれは廃するつもりだ」  いつもの首をかしげる仕草をして、ヘンリックはやっと、口元に笑みを見せた。しかしそれは、酷薄な微笑だった。  そんな笑い方をする男は、ひどく近寄りがたかった。  目の前に立つこの位置さえ、どうしようもない非礼だという気がして、レスリンはたじろぎ、無意識に半歩後ずさった。  彼が怖かったからかもしれない。  冷たいだけでなく、その視線はまるで、レスリンを憎んでいるように見えた。  ヘンリックは腰に、以前と変わらない、エナメル細工の剣を提げていた。大礼装には不釣り合いに見えたが、彼は、そんなことは全く気にしていないらしかった。  お飾りの剣じゃないから。いざとなったら、これで戦って、彼は並み居る敵の首を、今でも遠慮なく切り落とすつもりでいるのだろう。  もはや、相手が貴族だろうと、思いとどまる理由がない。 「レスリン」  背後から呼ばれて、レスリンははっとし、振り返った。  セレスタが立っていた。  彼女は贅沢をしていた。  しかし、セレスタがその身に纏っているのは、かつての彼女がそうだったような、娘盛りをひきたてる可愛らしい趣味の服ではなく、波打つ控え目な飾りひだが、どことなく妖艶な気配を醸し出す、薄紫の夜会服だった。  セレスタよりヘンリックが派手な服を着ていることに、レスリンはどうしようもない違和感を覚えた。  しかしセレスタは決して、この夜会の間にいる誰にも見劣りはしなかった。  その額を飾る、正妃のための冠と、薄紫の夜会服に包まれた、赤子を孕んだ大きな腹が、なによりの名誉として、彼女を飾り立てていた。  その腹にそっと手をそえる仕草をして、セレスタはヘンリックの隣に立った。彼の腕に触れる距離で。 「ご無沙汰だったわね。いったいどこにいたの。婚礼の招待状を送ったけれど、あなたは来なかったわ。私の晴れ姿を、ぜひ見てほしかったのに。まさかまた、病気でふせっていたのかしら」  どことなく暗い無表情で、セレスタはにこりともせずに、そう挨拶した。 「私の夫を紹介するわ。ヘンリック・ウェルン・マルドゥーク閣下よ。族長なの。これから私のことは、いつもみたいに呼び捨てにせず、セレスタ様と呼んでちょうだい。私はもう、彼の正妃として、この部族の母になったから」  セレスタは、こんなにしっかりと喋る子だったかしらと、レスリンは思った。  友は淡々と、勝利を宣言していた。  大貴族の姫君らしい、鷹揚なおとぼけではなく、セレスタははっきりと、そういう意味で話していた。  そして白い絹の手袋をした指で、ヘンリックの腕をとり、セレスタは彼に自分の背を抱かせた。それに抗う気配もなく、ヘンリックはただ労るように、子を孕んだ女の体を抱き寄せてやった。 「私、今夜は踊れそうにないわ、ヘンリック。胎動がすごいの。足がふらふらするわ。だから代わりにレスリンと、踊ってあげてもいいのよ。考えてみれば彼女、ずっと前から、あなたと踊りたそうだったわ」  じっとこちらを見つめたまま、セレスタはそうすすめた。  濃い睫毛で縁取られた、どこか濡れたような、大きなセレスタの目に、挑むような光があった。  レスリンはじっと、その光と見つめ合った。 「いいや、残念だが彼女は帰らないといけない。服装がまずいから」  小声でセレスタに教えているヘンリックの言葉に、レスリンはぎょっとした。ヘンリックが女の服のことを、どうのこうの言うなんて、想像もしていなかった。 「まずいって、何がまずいのかしら。あなたのために、最高に着飾ってきたわ」  レスリンは耐えきれず、思わずそう問いかけていた。  必死の真顔でいるこちらを見つめ、ヘンリックとセレスタは、どこか困ったような微笑を浮かべた。 「夜会では誰も、正妃である私より、豪華な服を着てはいけないのよ、レスリン。それが常識なのよ」  ヘンリックの手を握って、セレスタが教えた。 「夫がさっそく、貴族たちに倹約令を出したの。この人はけちなの。貴族たちが奢侈に明け暮れるのが、我慢ならないのよ。私にも、駄目だというの。お洒落をするのが、そんなにいけないことかしら。ひどい話だわ。結婚する前は、あんなに寛大だったのに」  でも、男って、そういうものらしいわよと、セレスタは訳知り顔で、レスリンに諭した。  その話を聞きながら、なぜかレスリンは自分の身が震えるのを感じた。  彼は私のものよと、セレスタは語っているのだった。  私は彼と結婚したのよ。正式な妻なの。子供だって産むわ。夫の性癖に愚痴だって言う。それでも平気なのよ。彼が愛してるのは、あなたじゃなく、この私。  セレスタは、そうは言わなかったが、レスリンの耳には、そう語る友の声が聞こえるかのようだった。  眉を寄せ、きつく両手を握り合わせて、レスリンは食い入るように二人を見つめた。  お似合いの族長と正妃に見えた。  自分が立つはずの場所に、セレスタが立っていた。子まで孕んで。  それに引き替え、私はどうして孕まなかったの。 「ヘンリック……」  縋る目で、レスリンは男の顔を見た。 「呼び捨てはだめなのよ、レスリン。せめて閣下とお呼びしなさい」  割り込むセレスタの声に阻まれ、レスリンは口を噤みそうになったが、なんとかそれを押しのけ、言葉を継いだ。 「私があなたの、本当の女(ウエラ)じゃない。どうして、迎えに来てくれなかったの。私ずっと、待っていたわ。あなたのことを」  血を吐くような早口が、唇から洩れた。  そんなレスリンを眺め、ヘンリックは不思議そうに、首をかしげた。 「誰が本当の女(ウエラ)だって?」  とぼけたような言い方だったが、ヘンリックは本気で言っているらしかった。 「私よ。約束したわ」 「そうだったかな。俺にはそういう約束が多すぎて、もう忘れたよ」 「そんな馬鹿なことってあるかしら」  身を折って、レスリンは叫んだ。  ヘンリックが、うっすらと笑った。まるで、可笑しくてたまらないというように。  そんな男を、セレスタは大きな腹をなだめるように撫でながら、そっと見上げた。彼女の目は、静かに澄んでいて、そして冷たかった。 「恥に思うことないわ、レスリン。彼はひどい男なのよ。騙されていたのは、あなただけじゃない。みんな、自分こそが彼の愛しい女だって、信じていたのよ」  じっと自分を見上げているセレスタの顔を、ヘンリックがのぞき込んだ。その時も彼は、やはり可笑しそうな表情をしていた。 「セレスタ……そうやって勝ち誇っているつもり? あんただって騙されてるわ。その男が自分を愛してるなんて、まさか思ってないでしょうね」  堪えきれない怒声で、レスリンはセレスタに喚いた。  わずかに苦しげな表情が、セレスタの眉を動かしたが、正妃は気高いふうな無表情を維持した。 「大丈夫、思っていないわ、レスリン。彼が愛しているのは、別の女よ。ずっとそうだったの。馬鹿な私でも、いくらなんでも気付くわ。自分と同じ日に、夫が別の妊娠した女と神殿で婚礼をあげれば……綺麗な嘘から、目がさめるわ」  胎動がひどいと言っていた。その言葉は本当だったようで、セレスタは腹を撫で、苦しげな顔をした。  レスリンは彼女の話に、また腰が抜けそうになった。 「その女は、離宮に住んでるわ。ヘンリックの女(ウエラ)よ。ずっと我慢していたのよね、ヘンリック。でも婚礼は私のほうを先にしてくれて、本当に良かったわ。それで私の正妃としての面子も立つというものよ。だけど、どうせなら、せめてあと一日くらい我慢できなかったの。婚礼を終えた花嫁を、その場で放り出して、次の女を抱くなんて、いくらなんでも、あんまりよ」  セレスタはヘンリックを静かに詰っていたが、その話は彼らには了解済みのことのようだった。彼女はわざわざ、自分に聞かせるために話しているのだ。  いかに深く、この男に騙されていたのか、悟らせるために。 「悪いな、セレスタ。でも俺にも、どうしようもないことなんだ」  心底すまないという声で、ヘンリックはセレスタに詫びている。  それも嘘とは思えなかった。どう聞いても、ヘンリックの話は本音に聞こえた。 「ヘレンを愛してるんだ。あの女がいないと、俺は駄目なんだ。あいつは妾妃で、お前は正妃なんだから、それでいいだろ。折り合いをつけて、どうにか我慢をしてくれよ。アルマはなにも、これが最後じゃないだろ。次の潮はお前を、選ぶかもしれない」  そんな無茶な話を、セレスタは受け入れるだろうという口調で、ヘンリックは話した。その顔は、悪気のないふうに、微笑んでいた。  何もかも知ったうえで眺めても、愛おしい男の顔だった。  その顔と見つめ合い、しかたない人ねと、セレスタは答えた。優しく答えるような、微笑みさえ浮かべて。  しかし彼女は寂しげだった。それしか選べる道がないようだった。その寂寥は、少女のようだった彼女の顔に、大人の女の美しさを与えていた。  レスリンは自分の足から力が抜けるのを感じ、気付くとその場にへたりこんでいた。  どういうことなの。一体、どういう。 「レスリン、もう帰ったほうがいいわ。屋敷でゆっくり休んで、正気に返るまで、王宮に来ないほうが、貴女のためよ」  心配げな囁き声で、セレスタは労り、レスリンの肩に触れた。まるで友達みたいに。  その指が自分に触れるのに、耐え難い何かを感じ、レスリンはうずくまって、低く呻くような悲鳴をあげていた。 「触らないで、私に」  手を振り払うと、セレスタはよろめいた。転びかける彼女を、ヘンリックが支えた。  セレスタはひどく焦った顔をして、確かめるように自分の腹を撫でた。彼女が腹の子を気遣っていることに、レスリンは猛烈な怒りを覚えた。 「孕んだからって、偉そうにしないで。正妃だからって、それが何よ。彼は私のほうが良かったって言ったわ、あんたより、私のほうが!」  唐突に暴露するレスリンの絶叫を聞きながら、ヘンリックは初めて、参ったという顔をした。その声は隠しようもなく、夜会の間に響き渡っていた。  セレスタも、さすがに、まあという非難の目をした。そして夫の顔を咎める目で見上げた。 「あなたったら、そんなことを言ったの。それは本当の話なの」 「そんなこと言ったかどうか忘れたよ」  渋面で答えるヘンリックは、本当に忘れたらしかった。 「じゃあ、今考えてみて。私とレスリンと、どっちが良かったか」  問いつめる口調のセレスタを、ヘンリックは苦笑して見つめ返した。 「そうだな、彼女かな」  そう答えるヘンリックの胸を、セレスタが絹の手袋をした拳で、軽く打った。 「ひどいわ。正直な人ね」 「そんことで妬くなんて、どうかしてる。お前は正妃で、向こうはなんでもない女なのに」  笑いながら、ヘンリックは答えた。  なんでもない女と、彼の口が言った。  自分を支えていた糸が、ふつりと切れるのをレスリンは感じた。  自分はこれまで、彼に操られていた。愛という、妄想の糸で。男は自分の愛を、軽々しく見くびっていた。そして裏切ったのだ。これ以上なく、手ひどい形で。  そんなことが、許されるだろうか。 「……呪ってやるから」  うずくまったまま、顔を覆って、レスリンは呻いた。手袋からは、百合の香りがした。  身につけた華麗な衣装も、素晴らしい首飾りも、全てが虚しかった。 「私は、あきらめないから」  もう一度、彼の微笑みが見たくて、レスリンは族長冠を着けた男の顔を見上げた。  私に笑いかけて、ヘンリック。愛しい女を見る目で。あなたはそのとき、どんな顔の男なの。 「あなたが私を愛するようになるまで、絶対にあきらめないから。呪ってやるわ、セレスタ、あんたが妊娠しなければ、彼のアルマは私を選んだ。そうに決まってる。あんたの腹の子なんか、死ねばいい」  恨む目で睨むと、セレスタは顔をしかめ、レスリンの視線から腹をかばうように背を見せた。  逆恨みだと思った。それでも、誰を憎めばいいか、分からない。男を恨むべきかもしれなかった。そうとは思っても、ヘンリックを見つめると、目の前の男は以前と変わらず愛しかった。 「なんてえ様(ざま)だ、もっと賢い女だと思ったが」  呆れた風に、愛しい男は言った。  彼は指で背後を差し招いて、誰かを呼び寄せた。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(10) -----------------------------------------------------------------------  わずかの間を置いて、忍び寄る影のように、どこかからともなく、青い服を着た男たちが数人、レスリンの周りに立った。彼らは夜警隊(メレドン)の制服を着ていた。  先代の族長に仕えた腹心の者たちは、すべて闘技場で屠られたはずだった。だから、今も生き残っている夜警隊(メレドン)の男は、ヘンリックのための猟犬だ。  確かに、物静かで忠実な犬のように、彼らは族長の言葉を待っていた。 「紙を出せ、セリス」  ヘンリックに呼ばれた男は、部族の者にしては珍しく、いくぶん長い黒髪をしていた。その鋭く切れ長の目尻に、入れ墨のような青い一線が見える。彼は古い貴族の出だと、レスリンはぼんやり思った。  かつて自分たちとは別の異民族と、混血を試みた時代があった。彼はそのころの血筋を持った男だ。湾岸の男たちと、同じように狂乱する。しかしその酔いはもっと深い。彼を従わせるには、たぶん、たくさんの血が必要だろう。きっと、幼げな顔に似合わず恐ろしい男で、ヘンリックと気が合うのだろう。  その男は黙ったまま、折りたたまれた革の書類入れを開いて、いつも持っているらしい書面を、ヘンリックにさしだした。 「そこまですることないわ、ヘンリック」  微かに震えた声で、セレスタが囁いた。それにヘンリックは首を横に振った。 「この女はお前を侮辱した。夜会の間で、皆が聞いている前で」  ヘンリックは面白くもなさそうに、渡されたペンを使って、さらさらと署名をした。 「レスリンは私の親友なのよ」  どこか疲れた口調で懇願するように言うセレスタの言葉を、レスリンは呆然と聞いた。そうだったかしら。彼女と私は、親友だったことがあったかしら。 「お前もつくづくお嬢さんだな。この女はお前を出し抜いて喜んでるような、どうしようもない貴族女だぞ。そんな素敵なお友達がなんの気休めになる」  横目にセレスタを見るヘンリックは、彼女の言うことに一切取り合う気配もなかった。 「あなたのお友達は、さぞかし頼りになるのでしょうね」  取り囲む夜警隊(メレドン)の男たちを眺めて、セレスタは言った。皮肉らしかった。セレスタが皮肉を言うのを、レスリンは初めて聞いた気がする。  おっとりと愚かしいお嬢様だったが、セレスタは人を悪し様に言うような娘ではなかった。いつもにこやかで優しかった。わがままで独りよがりだったけれど、子供のころからずっと、一番の友達だったのに。  なにもかも滅茶苦茶よ、この男が現れたせいで。 「ご自邸にお連れいたします」  黒髪の男はそう言って、レスリンの腕を引いた。言葉は貴族らしく優しげだったが、立たせようとする力は容赦がなかった。 「いやよ、帰らないわ」  レスリンは力なく、抵抗する言葉を呟いてみた。  夜警隊(メレドン)の男たちはお互いに目配せをして、その視線でなにかを語り合ったらしかった。そのうちの一人が、なぜか剣の柄に手をかけ、その指を黒髪の男がすかさず覆って、彼が剣を引き抜こうとするのを止めた。 「お連れします。今ならまだ、場所を選べます。貴女にも誇りがあるでしょうから」  真顔でそう教える黒髪の男を、レスリンはぼんやり見つめた。  この男はなんの話をしているの。  そして、答えを求めて、レスリンはヘンリックの顔を探した。  彼は、どことなくぐったりとしたセレスタを抱き寄せて、その背を撫でながら、こちらを見ていた。項垂れたセレスタは、彼の胸に顔を埋めていた。 「ヘンリック、私、あなたを愛してるわ」  それだけは憶えておいて。レスリンはなんとか伝えようとした。自分の中にあふれている感情を。 「いいや、お前は愛がどういうものか、知らない女だ。もし本当に俺を愛していたら、闘技場にやってきたはずだ。セレスタですら、俺が戦うのを泣き叫びながら見た。そのときお前は、どこにいた」  自分の寝床で震えていたわ。 「お前に俺の正妃を侮辱する権利はない。小賢しい貴族のあばずれめ」  囁く声で、男は笑い、そう言った。その目の奥にある表情を、レスリンはよく憶えていた。見つめ合うとヘンリックの瞳はいつも、無表情なように見えた。  彼はいつも何かを押し殺していたのだ。  憎しみを。  嘘の覆いが取り払われると、彼のその青い目に宿っているのは、燃えるような憎しみだった。  あの男を弄んでやりましょうと、いつか闘技場で、遊び仲間が言った。そのことが不意に思い出された。あの剣闘士をみんなで買いましょう。  だけど競りで取り交わされる金貨の数は、驚くようなもので、とても手が出なかった。残念だったわ。ほんの一点鐘でも、あなたはとても高かったの。  無料(ただ)で十分遊んだかしら。胸のときめくような優越にひたる時を。  あなたはそのことに気付いていたの、ヘンリック。  そして私を憎んでいたのかしら。  あんまりだわ。  確かにお金は払わなかったけれど、その代わりに、私はずいぶん、目の飛び出るような代価を支払ったのに。 「連れて行け。レノン、お前がやれ」  ヘンリックに命じられて、剣を抜きかけていた男は、にやりと笑った。そして黒髪の男の顔を間近から見つめて、書類をひったくった。 「貴族野郎」  甘く噛みつくような声で同僚をそう詰(なじ)ってから、男はレスリンの腕を奪い取った。眉をひそめる黒髪の男は、獲物をとられた顔をしていた。  ほとんど引きずるようにして連れ出されるレスリンの姿を、夜会の間にいた者たちが、呆然としたように見守っていた。  彼らは皆、追いつめられた顔をしているように見えた。まるで、この次に引き出されるのが自分自身であるかのように。  以前この王宮の夜会の間は、華麗だった。あたかも夢のようだった。皆で享楽し、踊って朝まで時を過ごした。  しかし今ここを支配しているのは、あの首斬り男が織りなす、冷たい悪夢だった。  殺せ(ヴェスタ)と叫ぶ声が、中央広間(コランドル)に渦巻く。そんなような夢だ。  そこで彼は最強の剣をふるうのだろう。まるで、踊るように。  それはきっと暗く、美しいだろう。  禍々しく、むせ返るような、血と、甘い汗の臭いがする、バルハイの新しい夜だ。  レスリンはそう思った。 ----------------------------------------------------------------------- 「海猫の歌」(11) -----------------------------------------------------------------------  夜警隊(メレドン)の男たちは、王宮の馬車でレスリンを自邸まで連れ帰った。  灰色の馬たちは、むっつりと押し黙って、暗雲のように駈けた。  レスリンを与えられた男は、一言も口をきかず馬車の向かいに座り、剣帯から外した剣を床について、口付けるようにその柄を抱き、嬉しげに苛立っていた。  彼はじっと、レスリンの顔を見ていた。  どうしてくれようかと思いめぐらすような表情だったが、その目には好色な気配がしなかった。  男がなにをするつもりか、分かる気がして、レスリンは絶望して彼と見つめ合った。  やがて馬車は屋敷に到着し、家族は突然現れた夜警隊(メレドン)の男たちに仰天した。 「夜警隊(メレドン)の者です。レノンと申します」  男は口をきくのも億劫だという、ぞんざいな早口で、慌てて迎え出たレスリンの父にそう告げた。そして、捕らえられている娘に動揺する父の目の前に、ヘンリックが署名していた紙切れをかざして見せた。 「反逆罪です。一親等までの全員を処刑し、家財を没収します」  淡々と教える男に、父は不吉な荒い息をした。父が卒倒するのではないかと、レスリンは思った。しかし、駆け寄って助けようにも、自分は両腕を後ろ手に掴まれていて、身動きもとれなかった。  心配だったが、すぐにその必要はなくなった。  夜警隊(メレドン)の男が、にわかに剣を引き抜き、目の前にいた父を斬り倒したからだった。  目にもとまらぬ一刀で、父は腹から喉もとまで斬られ、血の泡をふいて仰向けに倒れた。そして、そのまま動かなかった。男の一撃が、気弱な父を即死させたらしかった。  レスリンは絶叫していた。まるで他人の声のように、その悲鳴を聞いた。  男の耳にも、もちろんその声は届いたろう。血脂に曇った剣を握ったまま、夜警隊(メレドン)の男はゆっくりと、レスリンに向き直った。 「他はお前らが食え。女は俺がやる。族長に手みやげを持って帰る」  連れに采配して、一歩踏み出してくる男から、レスリンはなんとか逃れたいと思った。縛めを振りほどこうとするレスリンを、夜警隊(メレドン)の男たちは、捕らえておこうとはしなかった。  急に自由にされて、レスリンはよろめいた。夜会服のすそが、足に絡まったのだ。 「逃げろ。追うから」  血染めの剣を見せて、レノンと名乗った男は命じた。  命令しないで、身分を考えなさいよと、ほんの少し前の自分なら、そう怒ったかもしれない。  しかし今では彼が支配者の側で、レスリンはその言葉に震えた。  足がすくんで、逃げられないでいるレスリンの喉もとを、男の剣が一閃した。渦巻く泡のような首飾りが、糸を断たれて、数知れない真珠と青玉(サファイア)を、床にまき散らした。  悲鳴とともに、レスリンは放たれたように走り出した。  裳裾に躓き、何度も転んでは起きあがるレスリンを、男はゆっくりと歩く足取りで、着実に追いかけてきた。  住み慣れた屋敷が、殺意に追われて駆け抜ける目には、まるで知らない場所のように見える。隠れる場所もない。こんなに狭い家だったかしら。いつも私を守ってくれたのに、もうここには逃げ場がない。  逃げまどいながら、レスリンは結局、家の南に位置する広間へと出てきてしまった。そこは行き止まりだった。  貴族の屋敷は、だいたいどこも、南に向かって夜会をするための広間を設ける。その先には、バルハイの海が臨める。美しい断崖からの絶景を眺めて、くつろぐことができるし、夜には色とりどりの行燈(ランタン)を灯して、波濤を聞きながら、踊ることもできる。  そういえばもう長いこと、この屋敷では夜会が開かれていなかった。この床で踊る者もいなかった。たぶん、自分がその最後の一人だ。夕凪の熱気の中で踊る、気の早い踊り手になる。  レスリンは古びた中央広間(コランドル)に倒れ伏した。もう走れなかった。  追いついてきた男は、追うのに飽きたのか、意を決したふうに剣を構えた。 「殺さないで、お願い、殺さないで……」  思わず命乞いすると、レスリンの目からは涙があふれた。  まさか這いつくばって泣き崩れながら、男に懇願することになるとは。どうせこうなるなら、はじめから、ヘンリックにそうすればよかった。彼が族長と戦う前の、あの時に。  もしもあの時そうしていれば、これとは違う時が流れていたかもしれないのに。 「愛してたの、私なりに。それだけなのよ。お願い、もう彼の邪魔はしないって、約束するから、どうか彼に取りなしてください。愛してくれなくていいの、せめて見逃して」  泣き伏すレスリンを見下ろす夜警隊(メレドン)の男の目は、とても冷たかった。感情のない獣のような瞳で、男はこちらをじっと見ていた。 「手遅れです、令嬢。お気の毒なので、話しますが」  寸分の揺らぎもなく剣を構えたまま、男は木訥に語った。 「族長は、憎んでいます。湾岸の貴族たちを。夜警隊(メレドン)にいた時、俺は訊ねられました。制服を着たのはいいが、夜会で満腹した貴族たちが、次の皿の料理を食うために、吐くのを見て、思い出さないかと。子供のころ、貧民窟(スラム)で、一飯にありつけず、飢えて死んだ友のことを」  ふと回想するように、男は遠い目をした。 「そして、そうなるかもしれなかった、自分のことをです」  静かにそう話し、男はまた、ひどく冷たい目でレスリンを見た。 「俺は、思い出します。だからあの人に、ついていくことにしました。貴女は貴族で、族長の愛を得るには、生まれた時から、すでに手遅れだったのです」  そうだったのねと、レスリンは男の話に納得した。  じゃあ、初めから、彼は、私のことが嫌いだったのね。だからこんな、ひどいことが、平気でできるのよ。  男が剣を握る手に、力をこめるのが見えた。 「反逆者に死を」  そう告げる男の声には、憎しみがこもっていた。  振り下ろされた男の剣は、レスリンの首を狙った。  しかし一刀では、首は落ちなかった。  悲鳴は出なかった。もう声が出なかったからだ。  代わりに吹き出した血が、青かった夜会服を染め変え、レスリンは悶え苦しむような舞踏を踊った。  男は舌打ちして、もう一度剣を振り上げた。  そのとき唐突に、夕凪が終わった。  吹き込む海風とともに、甘い声で鳴く海猫たちの歌声が、レスリンの耳に届いた。  はじめて会った時、ヘンリックはあれに餌をやっていた。思えばあの姿を見た瞬間、私は恋に落ちていたわ。彼の手から餌をついばむ、鳥になりたかった。  風鳴りとともに、男は渾身の剣を振り下ろした。  自分の首が、古びた白い床のうえを転がっていくのを、レスリンは最後に感じ取った。  そのあとに続くのは、突然の静止だった。  私、死んだのだわ。なんてことかしら。  不意に引き離された自分の、首を失った体が、眼下に見えるのを、レスリンは感じた。  血を浴びた男は、顔に飛んだ返り血を拭いながら、レスリンの首を拾いに行った。彼がそれを、ヘンリックのところに持っていくつもりなのだと、レスリンには分かった。  私の死に顔は、美しかったかしらと、レスリンは心配になった。随分泣いてしまったし、きっとお化粧も崩れて、ひどい顔をしているのだわ。  恥ずかしいわ。  せめて死に化粧をしてと言いたくて、レスリンは男に追いすがろうとした。  しかしその場に釘付けになったように、レスリンは動けなかった。  みゃあみゃあと甘く鳴き立てる海猫の声が、ひどく耳についた。  そうだわと思いついて、レスリンは鳥に呼びかけた。  海猫よ、私を食べて。骨まで全部、お前たちのものにして、その翼で、あの人の所に、私を連れて行って。  すると夜の風に乗って、海猫は羽ばたき、テラスを抜けて、血に染まった夜会の広間に舞い降りてきた。  やつらはなんでも食べます。気をつけないと、貴女も食べます。  あの時ヘンリックはそう言った。冗談なのか、本気なのか分からない、真顔で。  そして微笑んでくれたわ。あの時のあなたの顔、とても素敵だった。私ほんとうに、嬉しかった。  あの人はお前たちにも、微笑みかけることがあるのかしら。  レスリンは自分の身をついばむ海鳥たちに、ぼんやりとそう問いかけた。  もしそうなら、私もお前たちの仲間に生まれればよかった。  満腹して飛び立つ翼に連れられて、レスリンはバルハイの海へと舞い上がった。  血筋の死に絶えた屋敷から、灰色の馬が引く馬車が、走り出ていくのが見えた。王宮へ帰る者たちだった。  駿馬たちは風のごとく駈けたが、海猫の翼にとって、王宮への道はほんのひと飛びだった。  レスリンの首を持った男は、夜会で踊る人々の間を抜け、並み居る貴族たちを避けもしない、まっすぐな足取りで、壮麗なテラスで待つヘンリックのもとへ急いだ。  夕景の海を背にして、ひとりで待っていたヘンリックに、男はレスリンの首を差しだした。  ああ、見ないでと、レスリンは呼びかけたが、首をかしげて眺めるヘンリックの目は、じっと無遠慮に女の死に顔を眺めた。 「うまくいきませんでした」  怒ったように、夜警隊(メレドン)のレノンは報告していた。 「一刀でやるには、力より、思い切りがいるさ」  レスリンの首を見つめたまま、大礼装のヘンリックは教えていた。 「次はうまくやります。誰をやればいいですか」  せっつく口調で、レノンは訊ねていた。ヘンリックはそれに、苦笑していた。 「そう、がっつくなよ。お前もよくよく好きだな」  そう言って、ヘンリックは群れ飛ぶ海猫のほうへ、手を差し伸べた。その指には、血の滴るような肉が握られており、レスリンは深い食欲を覚えた。  舞い降りて、その指をつつく勢いで餌をはむと、それを見つめて、ヘンリックが薄く笑った。その目には憎しみはなかった。ただの、くつろいだ表情だけが、彼の顔を覆っていた。 「お前らに餌をやる俺も、大変だよ」  同じ笑みを、夜警隊(メレドン)の男に向けて、ヘンリックはぼやいた。  そして、また、自分の首を見つめる男を、レスリンは見下ろした。  私を憎まないで。  一番でなくていい。少しでいいの。私を愛して。  そう呼びかける声は、みゃあみゃあと鳴く、甘い海猫の歌だった。 「この女も、貴族でなければな。綺麗な女だったよ」  どういう意味か、ヘンリックは独り言のように、そう言った。  それはどういう事なのと、レスリンは問いただしたかった。  しかし遠くから、バルハイの聖堂が鳴らす時報の鐘が聞こえ始めた。  ふとそれに気づき、ヘンリックが目をそらした。彼の目は、打ち寄せる波濤に向けられた。  レノンは気が抜けたのか、首を捧げ持っていた腕を、だらりと下ろした。  海猫たちが甘くねだる声で鳴いても、もうヘンリックは餌をくれなかった。何かを思うように、ただ遠くの水平線を、彼は見ていた。  やがて、風にかき乱されて聞こえてくる鐘が、そっと鳴り止んだ。  ああ、そうねと、レスリンは目を伏せた。  私の時間は、もう終わりなのだわ。  楽しいお喋りでしたかと、いつか彼は私に尋ねた。  憎い男だった。  でも、あなたといるときは、いつも楽しかったわ。  そんな男を、どうやって恨めばいいの。本当に、こんなの、あんまりだわ。  私はもっと、ちゃんとあなたを愛せばよかった。その機会がまだ、与えられていた時に。  でももう、さよならなのね。  ヘンリックは振り向き、レノンの手からレスリンの首をとりあげた。彼はもう一度、じっとその顔を見た。そうひどい死に顔ではなかった。レスリンはほっとした。 「さようなら、レスリン様」  小声で話しかけてから、ヘンリックは首を波濤の先へと投げ捨てた。  波打つ海に呑まれながら、レスリンは消え失せた。  海猫たちは、甘く歌いながら、ねぐらへと飛び去っていった。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 「木剣の時代」 ----------------------------------------------------------------------- 「名前を考えた?」  どことなく、呆れたふうなヘレンの声でそう問われて、ヘンリックは口に入れかけていた夕食の肉を宙に浮かせた。  その晩の料理は、蒸し焼きにした鳥に、豆と何かの入った赤いソースがかかったもので、何なのか分からないが美味かった。ヘレンが時折作る料理で、女(ウエラ)が言うには、ヘンリックの好物だった。 「名前? お前の腹の子の?」  訊ねると、すぐ隣の椅子に横様に腰掛けていたヘレンは、また呆れたように目を閉じて頷いた。  浅く腰を掛けたヘレンの腹は、ぱっと見にも大きく膨らんでおり、ゆったりとした青緑色の服を着ていた。癖のある長い褐色の髪を、ひとつに束ねて背に垂らし、額には王族であることを示す額冠(ティアラ)をつけている。  それでも女はお高くとまるところもなく、以前と変わらず素朴な表情をしていた。小さなその膝の上で、大人しくその手をヘンリックに握らせ、なんとなく退屈そうに座っている。 「産まれるのは半年ぐらい先だろ?」 「いいえ、違うわ。ヘンリック。出産は再来月よ」  子供に諭すように、ヘレンは嫌みったらしく言った。 「このまえは半年後だって言ってたろ」 「それは、四ヶ月前のことだからじゃないかしら」  そうだったろうか。  ヘンリックは曖昧な記憶に頼るのをやめ、鶏料理を口に入れた。考えても分からない。ヘレンがそう言うのだから、再来月産むつもりなのだろう。 「それで、考えたの? 名前を何にするか」  根気強い声で、ヘレンがまた同じことを訊ねてきた。ヘンリックは口の中の食い物を咀嚼して呑み込むまで押し黙っていた。それから、鶏の脂のついた指で卓上の酒杯をとり、半ばまで残っていた酒を喉に流し込んだ。薄い透明なガラスでできた杯が、白濁した脂でべったりと曇った。  それは不愉快だったが、食事に使っていないほうの手は、ヘレンの手を握っていたので、仕方がなかった。 「考えてないなら、考えてないって言ってくれない? 話が進まないから」 「考えてない」  正直に返事をしてやると、ヘレンは苛立ったような鼻息でため息をついた。  ヘレンはもともとカッとしやすい女だが、妊娠してから、さらに気が短くなっていた。 「男の子だと思うから、男の子の名前を考えればいいのよヘンリック。ジンのときは私が決めたから、二番目はあなたが決めなさい。私のお腹にいる、あなたの息子の名前なんだから」  あなたの、というところを、ヘレンは二倍くらい強い声で言った。  そんなことは念押しされなくても知っていた。アルマがやってきて、ヘレンを抱いたら、女(ウエラ)はまた妊娠して、今に至っている。他の男が自分の目を盗んでヘレンを抱いたとは思えなかった。そんなものがいたら、とっくに殺している。  大きな腹を抱えて隣に座っている女のことが、ヘンリックには片時も脳裏を離れないほど、愛しくてたまらなかった。しかしそれはヘレンが妊娠する前に感じた愛情とは、どこかしら違ったものだった。  まるで自分が首輪をさせられていて、女が握った引き綱が、それに繋がっているような感覚だ。それが繋がっている限り、どこへも行くことができないような不自由さがあった。そうなる以前の、身を焼くような激しい恋情のことが、ヘンリックは懐かしかった。あの頃は深く考えず、ヘレンを抱いていれば良かった。  ヘンリックは黙々と食べた。腹が減っているわけではなかったが、とにかく毎日ヘレンの手料理を食うのが日課だったからだ。 「お前が決めてくれ。俺は思いつかないから」 「考える時間はあったわよね。半年前から時々頼んでたわよね?」 「つまんないことで怒るな」  くどくどうるさいヘレンを、ヘンリックは可愛げがないと思った。  顔を合わせれば、ヘレンは子供の話ばかりだった。腹の中にいるほうのこともあれば、外に出ているほうの話のこともあった。  小さくぱたぱたと走る足音がして、向こう側から何かが机の下をもぐる気配がし、自分たちが座る二つの椅子の間に、ぽっかりと褐色の髪をした子供の頭が現れた。その子供は、ヘレンの手を握っているヘンリックの左腕に、遠慮会釈なく体重をかけてぶら下がってきた。  前のアルマのときにヘレンが産んだ息子で、名前はジンだった。 「遊んで」  まだ舌足らずな言葉で、しかし明解に、ジンは要求してきた。ヘンリックは自分に良く似た息子の青い目とみつめあった。 「まだ飯を食ってる」 「ジン、いま大事な話をしているの」 「遊びたい」  機嫌を悪くするふうもなく、息子は反論し、ごそごそと強引にヘンリックの膝に登ってきた。なぜ登ってくるのかと不思議だったが、振り落とすわけにもいかないので、ヘンリックは机と自分の腹の間に体をつっこんでくる小さい息子に揺さぶられながら食事を続けた。 「ヘンリック、俺も食う」  息子がそう言って口をあけるので、ヘンリックは食べようとしていた豆を口に入れてやった。肉でなかったのが嫌だったのか、ジンは口に入れられた食べ物を乗せた舌を、べろりと出した。 「ちゃんと食べなさい。それから、ヘンリックじゃなくて、父上でしょう、ち・ち・う・え!」  眉間に皺を寄せ、ヘレンがジンに怖い口調を作ってみせた。こんなふうに喋る女じゃなかったがと、ヘンリックは女(ウエラ)の顔を横目に見た。  豆を吐き出そうとしている息子の口に、ヘンリックは千切った蒸し鶏を豆ごと押し込んでやった。食い物をえり好みするとは、食うに困ったことのない餓鬼のやることだとヘンリックは思った。  それも当然で、ヘンリックは息子に不自由させたことはなかった。王族にふさわしい家に住ませ、絹を着せてやり、ジンが欲しがったので、玩具の木剣も作らせた。  ついこのあいだ立ち上がって歩いたばかりだと思っていたが、木剣を握ると、一丁前に打ちかかってくるので、そんなものをジンにくれてやるのではなかったと、ヘンリックは後悔していた。ヘレンの部屋に来るときぐらいは、剣を脇に置きたかったからだ。  実際、ここに来るまで剣帯に吊していた、エナメル細工の拵えのある愛用の剣は、そこから外され、食卓からやや離れたところにある長椅子の上に放ってあった。一日のうちで、ヘンリックが剣を体から離すのは、こうしてヘレンのところで晩飯を食う時だけだ。 「ヘンリック、剣の相手して」  そうせがみながら、ジンはなぜか、ヘレンの手を握っているヘンリックの手を、ぐいぐい引っ張っていた。それに引き離されまいと、さらに強く握るヘンリックの指が痛かったのか、ヘレンが苛立ったため息をついて、手を振り払ってきた。 「もう。食べてからにしなさいよ。あんた、寝なくていいと思ってるんじゃないでしょうね。何時だと思ってんの。父親とそっくりな顔して、あたしの言うことを無視するんだから、ほんとにいやんなる」  ヘレンが愚痴ると、ジンは急に鞍替えして、ヘンリックの膝を蹴って飛び降りると、母上と猫なで声を出し、椅子を立ってどこかへ歩み去った母親の後追いをした。やれやれとヘンリックは思った。なんという変わり身の早さ。  ヘレンは笑いながら、ああいやだいやだと、ふざけた口調を作って、ジンを引き連れていき、隣の部屋に消えた。  繋いでいた左手のやり場を失って、ヘンリックは指を握った。  食事はあらかた食い終わっていた。のんびりしていたかったが、それほど時間はなかった。  用事を済ませたら迎えに来るように、夜警隊(メレドン)の腹心たちに命じてあったし、外には、すでに彼らがいるような印象があった。見えるわけでも、聞こえるわけでもないが、強いて言うならなら匂いでわかる。まさか本当に匂うわけじゃないだろうが、何とはなしに張りつめた空気を、ヘンリックは戸口から感じていた。 「ヘレン、俺はもう行く」  どこにいるのか姿を消している女(ウエラ)に、ヘンリックは呼びかけた。ややあってから、ばたばたと走る子供の足音がして、上半身素っ裸のジンと、その後ろを服を持って走ってくるヘレンが現れた。  着替えから脱走したらしい息子を、ヘンリックは捕まえた。肩の上に抱え上げられて、ジンは歓声をあげ、手足をばたつかせた。 「走るな、ヘレン。餓鬼の面倒なんか、誰かに見させろ」 「いやよ、私の子をとりあげないで」  間近に向き合った鼻先からにらみ返し、張り合う口調で言われ、ヘンリックは思わず仰け反った。  その隙をとらえて、ジンが肩を蹴って飛び降りた。予想していなかった出来事に、ヘンリックは驚いて、振り返った。ジンが猫のように、ひらりと床に着地したところだった。子供ながら見事な跳躍だった。  こいつ、なかなかやるなとヘンリックは思った。天性の身のこなしだ。いずれはあの手に剣を握って舞うようになるだろう。  ジンは脱兎のごとく逃走した。  きいっと怒って後を追おうとするヘレンの腰を、ヘンリックは捕まえた。 「ほっとけ。裸でも死ぬわけじゃない」  自分が生まれ育った横町では、あれくらいの歳の子供は半裸でうろうろしているものだった。湾岸の街は冬でも寒いというほどではなく、それが救いだ。  しかしジンは自分と違って、貧民窟(スラム)で育つわけでなく、王宮で生きるのだから、確かにあれではまずいだろうが、今のヘレンにあの息子を捕まえられるとは思えなかった。ずいぶん、すばしっこい。自分でも、あれを捕まえようと思ったら、それなりの本気は出さねばならないだろう。  身重の女は走らないものだった。ヘンリックはヘレンを走らせたくなかった。  言っても聞かないだろうから、ヘンリックはなにも言わないまま、ヘレンを抱き寄せて口付けをした。女(ウエラ)は拗ねているのか、甘くとはいかなかったが、とにかく抱擁に応えた。  固く抱き合うには、ヘレンの腹が邪魔だったが、華奢な肩を壊すような強さで抱きしめると、女の肌の匂いがして、そこには深い安らぎがあった。扉が自分を呼んでおり、もう行かなければと思ったが、ヘンリックはヘレンを手放しがたく、ずるずると抱擁を引き延ばした。  ヘンリック、と唐突に子供の声が叫んで、剣が鞘走る音がした。  その音に衝撃を感じて、ヘンリックは思わずヘレンを身にかばい、音の出所を見た。  椅子のうえに放ってあった自分の長剣を、ジンが半ばまで引き抜いていた。研ぎ澄まされ黒みを帯びた銀の刃を持った刀身には、血脂が浮いていた。息子を叱りつけようと口を開いたヘレンの、明るい青の目が、無表情にそれを見て、彼女は沈黙した。 「ヘンリック、遊んで」  甘える口調で、ジンは言った。得意げに微笑む息子の顔は幼かった。  ヘレンをその場に残し、ヘンリックは息子の手から剣を取り戻しにいった。  自分の許しを得ずに、この長剣に無断で触れた男は過去にひとりもいない。  ヘンリックは柄を握るジンの小さな二つの手を、指をもぐ勢いで振りほどき、剣を奪った。  叱らねばと思って、ジンのこめかみに拳骨を食らわせた。  手加減したつもりだったが、ジンはまず驚きに顔を歪め、こちらを恨んだような目で見上げてから、これ見よがしに声をあげて泣き始めた。 「どうして殴るの!」  ヘレンの火がついたような怒声が背後から聞こえた。 「俺の剣を盗んだからだ」  振り返らず、ヘンリックは天を振り仰いで泣いている息子を見下ろした。 「まだ四歳なのよ! 殴るようなことじゃないわ」  何歳だろうが他の男の剣を盗んでいいわけはない。それは剣士の魂だからだ。 「本物の剣に触れていい歳じゃない、言ってわからないなら体に教えろ」  向き直って、ヘレンに言うと、彼女は大きな自分の腹を、しっかりと両腕で抱くようにして立っていた。 「こんな幼い子が、なぜ殴られたか理解できるわけないわ」 「俺は理解できた。お前が甘やかすから、こいつはお前をなめている。生意気な餓鬼は殴って躾けろ」  ヘンリックは心底から本気で答えていた。自分が育ったところでは、重要なことは殴って教えるものだった。幼い子供でも、大人にでも。  ヘレンは話を聞いているのか、いないのか、とにかく怒った顔でじっと立っていた。  もう行かなければと、ヘンリックは何度目かに思った。ぎゃあぎゃあと泣き叫んでいるジンの声が耳をつんざくようだった。うるせえ餓鬼だと、ヘンリックは思った。  自分も子供のころに、ここまで泣いただろうか。赤ん坊のころならともかく、そんなような記憶はなかった。泣いてみせても聞く者はいなかったし、腹が減るだけだ。泣いたら負けだと悟りながら過ごした子供時代だった気がする。  ジンが泣くのは、ここで幸福だからだ。  放っておかれているのが余程気にくわないのか、ジンは足を踏みならして暴れながら泣いていた。ヘンリックはそれを、ただ見下ろした。  不意にヘレンが歩いて、またヘンリックの間近に立った。腹を抱くようにして身にからめていた、その腕をほどき、ヘレンは突然、拳をふりあげてヘンリックの頬を殴った。あまりのことに、思わず避けるのも忘れ、ヘンリックは大人しく女(ウエラ)に殴られた。 「いてえ! 何のつもりだ!」  腹が立つより唖然として、ヘンリックはもう一発殴ろうという素振りのヘレンを止めた。 「ほら、やっぱり何でか分かんないでしょう」 「分かるかよ、いきなり殴りやがって!」 「あんたが生意気だから殴って躾てんのよ」  こちらを睨むヘレンはどう見ても怒っていて、もう一発ぶん殴ってやるという顔をしていた。とても自分を愛している女と思えず、ヘンリックは開いた口が塞がらなかった。 「馬鹿にしてんのか、ヘレン」 「子供だって、まっすぐ目を見て根気強く話せば、いつか理解するわ。殴ればいいなんて、そんなの逃げよ。あんたの子なのよ。ちゃんと抱いてやって」  未だにぴいぴい泣いているジンを激しく何度も指さして、ヘレンは厳命するように言った。いまここでジンを抱けと言っているらしかったが、何のためにそんなことをさせられるのか、ヘンリックには皆目見当もつかなかった。  しかしアルマのあとに孕んだ女(ウエラ)は特別な存在だった。部族の男なら、そんな女が馬を呑めと言えば、本気でそうしようとするだろう。  ヘンリックは悔しくなって、ため息をつき、小さく首を振った。  そして、どう見ても、もう半ば意地で嘘泣きをしているとしか思えないジンのそばに、片膝をついた。まだ背の小さい息子を抱くには、そうするしかなかったからだ。  涙を垂らしている息子の背を、ヘンリックは両腕で自分の胸に引き寄せた。ジンは話を聞いていたらしく、飛びつくようにして抱かれた。 「ヘンリック、遊んでよ」  まだ泣きわめきながら、ジンは駄々をこねた。眠そうな声だった。それもそのはずで、もう子供なら寝ているのが普通の時刻だった。  訳あって遅れたヘンリックを、ねばって待っていたらしい。 「また今度な」  ヘンリックは適当な相づちを打って、ジンを離そうとした。しかし子供はヘンリックの腹に食らいついていた。 「父上でしょ、ジン。ち・ち・う・え! ちゃんと謝りなさい、危ないものに手を出しちゃだめでしょ」  またヘレンが説教をしている。 「遊んでよ、ヘンリック、遊んでよ! 帰らないでよ」  母親の言いつけを無視して、ジンはまた喚き始めた。  やれやれとヘンリックは思った。ジンが自分のことをヘンリックと呼ぶ訳を知っていたが、ヘレンには知られたくなかった。  ジンがいつの間にか人の言葉を話すようになっていて、驚いた日があった。赤ん坊だったのに、どういうわけだと本気で思ったが、よく見れば息子はもう喋ってもおかしくない年格好をしていた。  誰に教えられたのか、まるで王族のような取り澄ました口調で、ジンはヘンリックのことを、父上と呼んできた。どうして俺が父親だと知っているのだろうかと、その時は不思議だったが、当たり前のことだった。ヘレンが教えたのだろう。  しかしどうにも気持ちが悪く、今よりさらに幼かったジンに言ってやった。俺のことは、ヘンリックと呼べと。  ジンがこちらの言っていることを理解できると思っていなかったので、本気のような、冗談のようなつもりだった。  それなのに、次に会った時から、ジンはどことなく得意げに、ヘンリックと呼んできた。慕わしげな、笑みを浮かべた顔で。 「ジン、お前な、ヘレンの言うことをきけ。あんまり悪餓鬼だと、森の守護生物(トゥラシェ)に食わしちまうぞ」  静かに脅しつけると、ジンはぎょっとした顔で大人しくなった。  海辺の子供なら、何度となく言われる脅し文句だ。  部族領の北の戦線には、森からの侵略軍がたびたび押し寄せており、そこでの防衛戦のために大勢の男たちが駆り出されている。守護生物(トゥラシェ)は敵が使役する見上げるような怪物で、戦いの中で時折、人を食らった。それは屈強な男でも足のすくむ光景だった。  話は人の口づてに伝説のように尾ひれがついて広まり、戦線からはるかに遠い湾岸の街でも、子供をびびらせるのに十分な力を持っている。  王宮に住んでいる子供でも、同じらしかった。  ジンはおとなしくなった。しゅんと黙って、まだ腹にしがみついていた。息子が頭を押しつけたあたりが、熱を持って感じられ、ヘンリックは自分と同じ髪の色をした、小さな頭を抱いてみた。それは幼く、一捻りで命を奪えそうな弱さで、守ってやらねばならない気がした。 「誰を斬ったの」  小声でヘレンが、ぽつりと訊いてきた。刀身にあった脂の曇りを、やはり見とがめていたらしい。 「誰でもない。お前の知らないやつだ。心配するな」 「ここに来る、すぐ前のことだったんじゃないの。そうじゃなかったら、あんたは剣を取り替えてから来たはず」  逃がさないわよと、女の口調が告げている。  ヘレンの言うとおりだった。なんでもお見通しなんだなと、ヘンリックは内心で舌打ちをした。剣を使ったのが直前のことだと察しをつけたのはともかく、日頃、剣を取り替えていることまで、どうやって見当をつけていたのだろう。勘の良いやつだ。  ヘレンの飯を食いに来る途中、男が斬りかかってきた。だからそれを返り討ちにしたのだ。ヘンリックにとっては、それは大した話ではなかった。ヘレンに話すようなことではない。  アルマはまだ続いており、族長に挑戦(ヴィーララー)を仕掛けようという者がいても、何ら不思議のない時期だった。ヘレンも湾岸の女なのだから、それは弁えているはずだ。  争っても、牡蠣(かき)のようにへばりついているジンを引き剥がすのをあきらめ、ジンは息子を腕に抱き上げて立ち上がった。 「ヘレン、夜会があるから、もう行かないとまずい。今夜は大事な話し合いがあるから」 「どうせまた、どの貴族を吊すかの相談なんでしょ。あんたの大事な猟犬たちと」  ヘレンは皮肉たっぷりに言ったが、彼女の顔は悲しげだった。女(ウエラ)が悲しむ顔をしているのが、ヘンリックにはつらかった。  都が旧都バルハイにあった頃、湾岸の貴族たちは、家名の大小を問わず、おしなべて腐敗していた。利権をむさぼり、民を搾取してきた。貧民窟(スラム)の底から見上げると、ヘンリックの目に、彼らは悪そのものに見えた。だから、一気に粛正することにしたのだ、族長冠を手に入れ、都を新たに建設したサウザスに移した今。  個人的な怨念だと言われれば、そうかもしれないが、それは部族の民の多くが抱えているのと同じ怨念だ。貴族層との敵対は日ごとに深まっても、族長を讃える民の声は、それをさらに越えて高まっている。俺は正しいことをしていると、ヘンリックは信じていた。  なのに俺の女(ウエラ)はそうではないのか。俺のことを誇りに思っていないのか。 「ヘレン」  俺を愛していないのか。そう問いかける声で名を呼ぶと、ヘレンは深い息をもらした。  女は、子供を抱いていないほうのヘンリックの腕を、両手で掴んで引き寄せ、自分の膨らんだ腹に触れさせた。  どん、と突き上げるような胎動が、唐突に掌に感じられた。驚きと怖れで、ヘンリックは手を引きそうになったが、ヘレンがそれを引き留めた。  あとたった二ヶ月で生まれ出てくるという赤ん坊には、まだ名前がなかった。  ジンは眠気に勝てなくなってきたのか、どことなく、とろとろとしながら、ヘンリックの耳を弄っている。こんなのがもう一人、女の腹から出てくるらしい。また昼となく夜となく泣き叫び、いつの間にか走り回るようになり、父上と舌足らずな声で、俺を呼ぶ。  木剣をもう一振り、作らせないといけない。一人に一つでないと、兄弟げんかをするだろうから。 「子供が生まれる時期なのよ、ヘンリック。アルマはもうすぐ引き潮で、孕む女たちは、もうとっくに孕んで、もうすぐ産屋にこもる時よ。そういう時に、あんたは毎夜、人を殺す相談ばかりしているのね。あたしたち女が、どんな苦労をして子供を産んでいるか、男のあんた達にはわからないのよ」  ヘレンが粛正のことを批判しているのだと、理解はできるが、納得はできなかった。ヘレンは階級こそ平民と大差なく低いとはいえ、曲がりなりにも貴族の出身だった。だから許せないと思っていたのだろうか。 「これは掃除だ、ヘレン。人殺しじゃない」 「あんたには、そうなんでしょうよ。でも私は心配なの。誰かがあんたを掃除しようとするのが」  恨めしそうに言ったヘレンの言葉に、ヘンリックは自分が笑うのを感じた。ヘレンは、こちらの身を心配しているだけだった。その事実に安堵して、ヘンリックは微笑み、うつむきがちなヘレンの頬を撫でた。 「心配いらない、俺は大丈夫だから」 「名前を考えておいて。もうすぐ産まれるわよ」 「あと二ヶ月あるんだろ?」  ヘンリックが訊ねると、ヘレンは頷いた。 「あんたにとっては、きっと一瞬よ。産まれたら、アルマも終わりね。そうなっても毎晩、あたしの料理を食べに来るかしら」 「お前は族長の女(ウエラ)なんだぞ。自分で飯を作る必要なんかない。贅沢をしろよ」 「家族そろって食事をするのが、あたしには一番の贅沢なのよ」  そう話す女の唇を、ヘンリックは指でなぞった。愛おしい顔だった。 「それがお前のこだわりなのか」  ヘンリックには、そのことが良く分からなかった。これまでの生涯で、家族といえるようなものには巡り合わせなかった。腹が減ったら飯を食うだけで、そこに補給以上の意味はなかった。 「違うわ」  口付けしようと顎を引き寄せるヘンリックの手に、ヘレンはされるがまま許した。  唇が触れる前に、ヘレンは囁くように、しかし強い声で教えた。 「あたしと、あんたの、二人のこだわりよ。家族で助け合って、生きていくのよ、ヘンリック」  お前は妙な女だよと答えて、ヘンリックはヘレンに熱い口付けをした。  不思議な女だった。取り分け美しいわけでもなく、しとやかなわけでもなく、可愛げさえない時すらある。それなのに、この女がいなければ生きていけなかった。  ヘンリックの肩にうつぶせて、もう泥のように眠っているジンは、長い口付けを邪魔しない。左腕に息子を、右腕には女(ウエラ)を抱いて、ヘンリックはしばし立ちつくした。体に触れるヘレンの腹の中で、まだ生まれ出ない息子が胎動を繰り返していた。 「また明日来る。俺は毎日来る、お前の飯を食いに」 「じゃあそうしましょう。この先もずっと」  耳元に囁くと、ヘレンは静かに答えた。  ヘンリックはそれに頷いて答え、眠る子供を母親の腕に返して、ひっそりと部屋を出た。  ヘレンの居室を出て、通路に続く扉を開けると、そこにはやはり、猟犬たちが待っていた。  夜警隊(メレドン)の制服を着た数人の男たちは、それぞれ多かれ少なかれの返り血を浴びており、ぐったりと頽(くずお)れた、ぼろきれのような男の両脇を抱えて立っていた。 「族長」  出てきたこちらに気付いて、彼らは口々にそう呼びかけてきた。熱のある、密やかな声だった。 「口を割ったか」 「ベラニカス」  こちらの質問に端的に答える男の口調は、極端に口数の落ちるアルマの兆候をまだ残していた。その鋭い表情を見返し、ヘンリックは男の顔に、少し前まで自分の顔の中にもあった何かを認めた。  女(ウエラ)が孕んで、アルマが成熟期に入る前なら、皆このような、飢えた顔をしている。この男は子をもうけなかったのだろう。女が孕まなかったか、孕まない女を選んで抱いたかだ。  ベラニカスは湾岸に侍る貴族の姓だった。期待していたとおりの名を得て、ヘンリックは満足した。  夜警隊(メレドン)の者たちが抱えている男は、すでに自分の足では立っていなかった。生きているのかも怪しく思える、満身創痍の風体だった。その胸を一閃する傷は、はじめにヘンリックが与えたものだった。通りすがりに斬り込んできたので、それを避けて、斬りつけた傷だ。  その後、挑戦(ヴィーララー)の訳を尋ねさせるため、猟犬たちに与えた。殺していいとは言わなかったが、生かしておけとも、言わなかった。  血まみれで、形相もよくわからない顔を、顎を押し上げて仰向かせ、ヘンリックは訊ねた。 「お前のアルマはもう戦いの相ではなかったろ。なぜ俺に挑戦した」  ヘンリックは訊ねてみたが、死相の浮いた顔は、なにも答えなかった。かすかに唇が喘いで、名前のようなものを口にした。  斬りかかってきたとき、男は挑戦(ヴィーララー)とは囁かなかった。そう告げるはずだ、挑戦するつもりなら。それは本能で、理屈ではないからだ。男は手練れのようだったが、女(ウエラ)がいるように見えた。返り討ちにした傷は、ほぼ致命傷のようだった。死を覚悟したらしいこの男は、女の名を呼んだ。 「なにか話したか?」  脇を支えて立っている猟犬たちに、ヘンリックは訊ねた。彼らは肩をすくめた。 「いいえ。でも大方、女(ウエラ)を人質にでもとられたか、そんなところです」  その女を取り戻すためには、何でもする。それが湾岸の血の空しさだった。  ヘンリックは頷いた。それは、どうでもいいことだった。 「ベラニカスに遣いを。俺を殺したければ、夜会の中央広間(コランドル)で自分で戦えと」  猟犬たちを見回して、いちばん多く返り血をあびている一人を、ヘンリックは指さした。 「レノン、お前が行け。そのまま。お前は血を浴びてるときが一番見栄えがするな」  誉めるとレノンはどこか嬉しげに鼻で笑った。  彼は一礼もしなかったが、こちらを見つめる目に独特の表情が浮いていた。好敵手(ウランバ)を見る目だった。自分を打ち負かした好敵手を、崇拝する眼差し。忠実という点で、レノンに間違いはない。  彼らを従えるには、剣を振るえば良かった。  長靴(ちょうか)の靴音を鳴らして、レノンは足早に通路を行った。その後ろ姿には、陽炎のような熱気がこもって見えた。 「待て」  ヘンリックは剣帯に吊した長剣を引き抜いた。その刀身には目の前で力なく抱えられている男を斬ったときの血が残っていた。  剣を構えるヘンリックを、立ち止まったレノンの熱のある青い目がじっと見つめた。  振り上げた剣を、うなだれた男の首に振り下ろすと、風鳴りがして、そのつぎに骨を断つ鈍く重い音がした。水音をたてて、血が床に散った。  足元に転がってきた首を、立ち止まり半身だけ振り返っていたレノンが、じっと見つめている。 「手みやげに、持っていってやれ。泣いて喜ぶだろう」  命じると、レノンはなぜか、くすくすと笑い声をたてた。落ちている首の、血と汗に濡れた髪を掴んで、レノンはそれを拾い上げ、ぶらぶらと揺すりながら、ゆっくりと歩いていく。  ヘンリックはそれを見つめ、猟犬たちはヘンリックを見つめていた。  レノンの姿が通路の闇にとけ込んだ後、ヘンリックはふと、自分が握っている長剣に目をやった。また、研ぎに出さなければいけない。  この柄を握っていたジンの小さな手のことを、ヘンリックは思い出した。あの手にはまだまだ、本物の剣は重すぎる。  湾岸の剣士は、お遊びの木剣から始めて、やがて父親から本物の剣を与えられる。それは子供用のものではなく、やがて大人の男になった時に振るうための、正真正銘の本物だ。  身の丈にあまる武器を必死で振るいながら、一人前の男になる。小童(こわっぱ)の初めての好敵手(ウランバ)は父親だ。  ヘンリックには、そのような相手はいなかった。父親は不在で、娼婦である母にたかる親父面をした男がいることはいた。生まれて初めて斬った相手はその男だった。  使った武器は、その男がどこかから盗んできたらしい、一振りの見事な長剣だった。  不思議なもので、その剣は今もこの手の中にある。指に馴染み、よく働く剣だった。  しかし、おそらく呪われている。  そうでなければ、こうも日々、血を吸ってばかりいるだろうか。  この剣が欲しいというなら、息子にくれてやっても良かったが、はじめは木剣がふさわしい。明日、もしもまだ自分が生きていて、早めに夕食に戻ることができたら、あいつに剣の稽古をしてやろうか。もちろん遊びで、真剣には触れさせずに。  今夜の跳躍を見て、急にそんな気が起きた。鍛えれば、あいつは華麗に跳ぶだろう。そういう姿を、いつか見てみたいものだという気がする。  だが、しかし、とヘンリックは思った。  あいつが俺から学べる事は、何もない。一刀で首を落とす技を、もしもジンに教えたら、きっと俺はヘレンに殺されるだろう。そういう気がする。もしも息子が俺のような男になったら、ヘレンは悲しむだろうから。  新しい息子も、俺が名付けるべきでない。ヘレンが名前を与える。そうでなければ他の誰かが。とにかくヘンリックには、生まれ出てくる新しい子供が、どんな名によって生かされるべきか、まったく見当もつかなかった。 「夜会へ行くか」  鞘に長剣をおさめて、ヘンリックは猟犬たちを誘った。  外套を預けていた男が、それを拡げて、ヘンリックの肩に着せかけた。薄地の絹で仕立てられた、族長にふさわしい、その深い青の布地には、べったりと赤黒い返り血がついていた。  しかし今さら着替える必要はない。もうヘレンは息子達とともに眠っただろうから。 「廊下を掃除させておけよ。俺の女(ウエラ)が血を見ないように」 「湾岸の女は血を見れば燃えるもんですよ、族長」  死体を抱えている男が、軽快な軽口で、そう応じてきた。ヘンリックはその猟犬の顔と見つめ合った。 「俺のウエラは、腹に子がいる。もしヘレンがこれを見て、子が流れでもしたら、お前を殺す。四肢をばらして、生きたまま魚に食わしてやる」  笑って話したつもりだったが、見つめ合う猟犬の目から、笑いが消えた。 「わかったか?」  問いかけると、彼らは頷いた。従順に。 「ベラニカスは夜会に現れるだろうか。まさか俺をすっぽかしたりしないだろうな」  歩き始めながら、ヘンリックは背後をついてくる男達に訊ねた。 「族長を振るなんて、もったいない」 「でも来ないでしょう」  そうだろうなとヘンリックは思った。 「では反逆罪で吊せ」  王宮で繰り広げられる夜会に出向くため、ヘンリックは離宮を出る通路を行った。  夜会に出るのに着飾る必要はなかった。湾岸貴族の、贅を競う衣装倒錯には反吐が出る。そういうものは全てバルハイに捨ててきた。  返り血をあびたこの姿が、なにより華麗な宮廷衣装だ。猟犬たちに君臨する族長に、もっとも相応しい。  夜警隊(メレドン)は尻尾を振ってついてきた。新しい獲物が与えられたからだった。  ベラニカスを屠ったら、次は誰にしようか。身ぐるみ剥いで、海に浮かべる。  ヘンリックはそれを考え、くすくすと笑いながら歩いた。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 「海より来たる者」(1) -----------------------------------------------------------------------  気がつくと、うとうとと眠っていた。  ふと何かの気配を感じ、目がさめて、ヘンリックは自分の隣で眠っているヘレンの背中を、やんわりと抱き直した。  ヘレンは夜会から戻った礼服のままで、いつも彼女が子供たちと寝ている寝台のうえに、横になっていた。  どことなく苦しげな寝息をたて、昏々と眠っている女(ウエラ)の首筋から、独特の汗が微かに匂った。首飾りを外した、ほのぬくいヘレンの首筋に鼻をよせて、ヘンリックは彼女の匂いを嗅いだ。そこからは妊娠した女(ウエラ)の匂いがした。激昂するアルマを反転させ、女の奴隷として鎖に繋いでおくための匂いだった。  しかし、ヘレンのそれは甘い匂いだ。頬を擦り寄せて息を吸い込むと、ヘンリックの心は安らいだ。  その安らぎにぼんやりと身を任せ、ヘンリックは横たわるヘレンの腹を手探りした。そこはまだ、かつて子を産む前にそうだったようには、大きく膨らんではいなかった。普段とそう変わらないような、柔らかく温かい肌が、絹を透かして感じられるだけだ。  まだまだ先よと、ヘレンは言っていた。満ち潮のように、女の腹が小さな海で満たされてきて、その中に子供がぷかぷか浮かんでいるのだという。その中で泳ぎ回り、十分に納得がいってからしか、赤ん坊は出てこない。  その話は、いつ聞いても、ヘンリックにはぴんと来なかった。  この中にすでに何かがいるのだということも。  そう思いながら、ヘンリックはヘレンの腹を撫でてみた。  別に子供が欲しくて、彼女を抱いたのではなかった。気がつくといつのまにか、ヘレンが妊娠していて、男に安らぎと隷属を与える匂いをさせていた。  本人も気付いていないその事実に、ヘンリックのほうが先に気付いた。  毎夜訪れて見るヘレンの顔は、その夜も相変わらず愛しかったが、彼女を守ってやらなければと唐突に強く思った。そうなるともう、ヘレンを抱こうという気が起きず、なんだかひどく気が抜けた。  情けない話だった。毎度その夜は、なにか耐え難い気恥ずかしさがあり、男としての面目がないような気分になった。  ため息をついて、ヘンリックはそっと身を起こし、眠るヘレンの横顔をのぞき込んでみた。かすかに苦悶する表情のまま、ヘレンは汗をかいていた。  夜会の途中で、悪阻(つわり)がひどいと青い顔をするので、そのまま連れて戻ったのだった。  女(ウエラ)が孕んだようなのでと言えば、早々に連れて帰ることに不思議がる者はいない。おめでとうという祝いの言葉を、行き合う顔という顔が口にした。別に何もめでたくはない気がしたが、ヘンリックはとりあえず頷いておいた。  アルマがやってきたときに、子供ができないよりは、できたほうがいい。それが一番わかりやすく、自分がこの女を所有しているという証だったからだ。  しかし、これ以上、餓鬼が増えるのはどうかなと、ヘンリックは正直辟易した。  二期前に生まれたジンは、すでに木剣を振り回す利かん気の暴れ者で、前のアルマが連れてきた二番目の息子は、ヘレンが青い竜(イルス)と名付けたものの、そんなご大層な名前に見合うほどの覇気がある男になるとは見えなかった。  ジンも大概うるさいが、イルスは兄貴に連れ回されて、いつもぎゃあぎゃあ泣いてばかりだ。ジンがヘンリックに付きまとうので、成り行き二人の餓鬼がいつもヘンリックの足元をうろつくことになり、うるさくて敵わない。  三人目なんて、要らないのじゃないか。そう思うが、ヘレンには恐ろしくて言えなかった。孕んだと知って、女(ウエラ)は嬉しいらしかったからだ。  げろげろ吐いても、それでも嬉しいもんか。  心持ち痩せてきたヘレンの寝顔を見ながら、ヘンリックは内心、彼女に問いかけた。  今回のは悪阻(つわり)がひどく、ヘレンはすでにふらふらだった。飯も食わずに吐いてばかりいるので、彼女が死ぬのではないかと、ヘンリックは心配していた。  赤ん坊というのは、途中で産むのをやめる方法はないのか。ヘレンが苦しんでいると、ヘンリックは時々そういうことを、本気で考えた。  やめてもいいぞ別に、俺は子供なんか欲しくないから。そう言ってみようかと思うが、それはそれで、やはり恐ろしくて言えない。言ったら、たぶん殺される。もっとひどけりゃ、捨てられるかも。  やれやれと、自分の想像に困ったところで、どこから入ってきたのか、ジンが寝台の横から、ひょっこりと頭を出した。いつもこの息子は神出鬼没だった。 「ヘンリック」  どことなく強ばった表情で、ジンはこちらに小声で呼びかけてきた。息子もすでに十歳に近づき、人並みの頭ができてきた。やっと休んだ母親を、起こしてはまずいと思っているらしかった。  側臥した背後にいるジンを、ヘンリックは身をよじって振り返った。寝室の小さな灯火に照らされて、薄闇にうかびあがった息子の顔は、いつ見ても自分によく似ていた。 「どうした」 「イルスがいねえんだよ」  近頃とみに、こちらの口調まで盗み始めた息子を、ヘンリックはじっと見下ろした。 「いるだろ、どこかに。ほっとけ、いないほうが静かだから」  そう答えて取り合わないでいると、ジンは困った顔をした。息子がなにかを隠していることを、ヘンリックは気付いたが、正直に言わないのなら、あえて取り合う必要もないように思った。 「いいから、早く来てよ。頼むから。母上が起きちゃうよ」  ひそひそ話す声で、確かにヘレンは低く呻いた。眠りが浅いらしかった。  ちっと軽く舌打ちをして、ヘンリックは彼女の体から離れ、寝台に腰掛けた。  まったく、まだちびっこいくせに、ジンは頭の回るやつだった。どうすればヘンリックが自分の話を聞くか、よく知っている。  母親のことを持ち出せば、俺が無視できないだろうと、足元をみてやがる。  足早に寝室を抜け出していくジンをゆっくりと追って、ヘンリックは静かに部屋を出た。 ----------------------------------------------------------------------- 「海より来たる者」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「あのさ、ヘンリック、イルスが見つからないんだ。水路に落ちたんじゃないかと思うんだ」  部屋を出るなり、ジンは堪えていたらしい早口で、噛みつくように訴えかけてきた。  ヘレンと息子を住まわせている離宮には、サウザスを貫く川から引き込んだ水が、水路になって巡らせてあった。設計した者の言い分では、水路があれば見た目も良いし、冷房にもなるからという話だったが、ヘンリックにはどうでも良かった。家の中に橋があるのは、妙ではないかと思ったが、ヘレンは初め、美しいと言って喜んでいたし、それで自分も満足だった。  しかし彼女が水路のことで文句を言い始めるまでには、そう長い時間はかからなかった。住み始めた時に、まだヘレンの腹の中にいたジンが外に出てきて、うろうろ這い回るようになってからは、子供が水路に落ちるから危ないと言って、ヘレンは時々愚痴っていた。  水を抜いてもらえないかとか、水路になにか囲いをつけてはどうかと、いろいろ提案してくるヘレンにうんざりして、ヘンリックは取り合わなかった。お前は餓鬼のことばっかりだなと、つくづく嫌だった頃だったせいだ。  こちらの不機嫌を悟って、諦めたのか、ヘレンはその後水路のことでケンカを売ってくることはなかったが、とにかく気にくわないでいることは確かだった。  イルスが水路に落ちたって?  ヘンリックはうんざりして、天井を仰いだ。ジンが嘘をついているとは思えなかった。こいつは駆け引きをする餓鬼だが、嘘はつかない。  昔、言葉を操るのに慣れたころ、ジンがこちらの気をひこうと、生意気に嘘をついたので、ヘンリックが怒鳴りつけたからだった。以来、ジンは俺に嘘はつかない。ヘンリックはそう信じていた。 「なんでそう思うんだ。お前が突き落としたのかよ」 「そんなことしねえよ! イルスが勝手に入ったんだよ」 「見てたのか」 「見てたら止めるよ!」  びっくりしたように、ジンは反論してきた。  確かにそうだろうと思った。水路は深かったし、水は流れている。イルスは泳げるだろうが、なんせまだ走れば転ぶような幼さだ。急流下りに挑むには、まだ少々早い。お前と違ってなあ、冒険野郎と、ヘンリックはジンの顔を見下ろした。 「なんで入ったんだ、お前の真似か」 「違うって、そんなのどうでもいいから、とにかく探してくれよ」  そう叫ぶジンはそうとう焦っていた。ヘンリックに嫌な予感がしたのは、その時になってやっとだった。 「どこだ」  訊ねると、ジンは振り返りもせずに、脱兎のごとく走り始めた。息子の足の速さに、ヘンリックは驚いたが、とにかく走って追うしかなかった。  いくつか部屋を超えた、水路にかかる橋のあるところで、ジンは水際に膝をついた。確かにそこには、脱ぎ捨てられた子供用の服と、イルスの額冠(ティアラ)がほったらかされていた。  ヘンリックはそれに、顔をしかめた。  あいつ、額冠(ティアラ)を外すなと、何度言ったら分かるんだ。  その環は王族としての血を証すためのものではあったが、イルスにとっては、額に現れた竜の涙なる呪われた血を隠すための必需品だった。  ヘレンが侍女や乳母を嫌って、子供を自分の手で面倒みようとするのは元々だったが、離宮からできるかぎり人払いするようになったのは、イルスが生まれてからのことだ。  ヘレンは竜の涙だった。それは部族の者にとって、唾棄すべき呪われた身の上であり、ヘンリックも彼女を愛しているのでなければ、到底受け入れがたかった。  その石は頭の中から生えていて、周囲に不幸をもたらすと信じられている。死や、病や、敗北、破産に、不妊に、ほんのちょっとした身の上の不運まで、大小のありとあらゆる不都合なものごとが、そういった者のせいにされたし、見つければ赤子であろうと撲ち殺すのが、この海辺での習俗だった。  石が親から子へ伝わるという説を聞き、ジンが生まれる時には震え上がったが、幸い、初子は難を逃れた。そのときの安堵が深かっただけに、二度目の産屋で、ヘレンが抱く赤ん坊の額に青い石がついていた時には、ヘンリックは生まれて初めて卒倒するような衝撃を覚えた。  こんな子なら、生まれてこなければよかったと、心底から不運を呪った。  しかし、現に生まれたものは、どうしようもない。ヘレンが抱いて片時も離さないので、まさか彼女の腕の中にいる赤ん坊を、撲ち殺すわけにもいかなかった。  産んだばかりの子が殺されれば、女(ウエラ)は狂うだろう。そうなったら自分も、生きてはいけない。  殺すのは、いつでもできるからと、内心にそう言い聞かせ、ヘンリックはその時を耐えた。  そして、恐ろしい秘密を抱えた子供が、二番目の息子になった。  イルスが落ちたという水の中を、ヘンリックは見下ろした。  水路は大人の腰ほどの深さだった。涼しげなタイルで装飾され、水は案外速く流れているように見えた。見渡してみたが、どこにもイルスがいるようには見えなかった。 「助けてよ、ヘンリック」  哀れなほど焦れたジンが、こちらの腰に締めた礼服の帯を叩いてきた。 「ほっとくのかよ。だったら俺が行く」  服を着たまま水に飛び込もうとするジンを、ヘンリックは肩をつかんで引き留めた。離せと喚く息子は、どうも泣きそうな顔だった。 「焦るな、待ってろ」  水路の流れを追って、ヘンリックはイルスが流されたであろう方向を探った。  離宮の中には幾筋かの流れが作られている。それはいずれ束になって、海へ注ぐ排水溝へと続いているはずだった。  離宮が建設される前に、ヘンリックはこの建物の図面を見たことがあった。  排水溝は屋敷の地下にもぐり、石壁で固めた大きな丸い管の果てにあり、最後には、海からの侵入者防ぐための格子が五枚かけられている。  もしも水路にいないのなら、その最初の一枚に、イルスは引っかかっているはずだった。  それが生きているか、すでに死体かの違いはあっても。  離宮を出て行く、水路の終わりを壁の中に見つめて、ヘンリックは顔をしかめた。  ここにも格子を掛けりゃ良かったんじゃねえか。それだけの話じゃねえのか。もしそういう作りになってたら、イルスはここに引っかかって藻掻いていただけで済んだ。  どうしてこんな、危ない作りになってるんだ。  大人なら、これは大した流れじゃないが、子供なら吸い込まれるだろう。花で飾って誤魔化してる場合じゃねえだろ。  そのことに、今はじめて気付いた自分に、ヘンリックは嫌気がさした。ヘレンは怒るだろうな、だからあの時、何度も相談したのに、あんたは聞いてなかったわと。  ああ。  聞いてなかったさ。 「どうしよう、ヘンリック」  排水溝に飲まれる水の流れが強いのを見て、ジンが青い顔を、さらに青くした。  ヘンリックは礼服の上着を脱ぎ捨てた。水中で邪魔になるものは、服も靴も、とにかく脱いでいくしかない。 「どうしようって、泳いでいって拾ってくるさ」 「イルスが死んでたらどうしよう」 「落ちたのはさっきだろ。死なねえよ、あいつも部族の男だろ。まだ息が続くさ」  そう言ったものの、ヘンリックはすでに一刻の猶予もないような焦りを、唐突に感じた。自分の額にある族長冠をはいで、泣きそうにじたばたしているジンの手に、それを押しつけた。 「ここで持ってろ。なくしたら、お前も水路に投げ込むからな」  そう言い渡して、ヘンリックは泉に入った。水は冷たかった。  深く息を吸いながら、ヘンリックはこちらを食い入るように見ているジンの顔を見つめた。 「ヘンリック」  縋るような声で、ジンが名前を呼んできた。こいつは案外、可愛いげがあると、ヘンリックは思った。  そして、水の流れる先に潜った。 ----------------------------------------------------------------------- 「海より来たる者」(3) -----------------------------------------------------------------------  水路の中は、暗かった。  速く着実な水流は、その先に待つ海に向かって、一気に流れ込んでいた。  離宮は岬に建っている。水路はわずかに傾斜していた。勢いづく流れは、泳ぐヘンリックの体を、思うより速く運んでいた。  戻れんのかなと、ヘンリックは泳ぎながら、漠然と考えた。  目を開いていても、視界は暗く、石壁がかすかに見える程度だった。  思い切って、目を閉じ、耳を澄ますと、石壁を打って囂々と流れる水の気配と、その先に続く水路の形が、ばくぜんと感じ取れた。  海エルフの血筋に備わった、水中で動くための力だ。平素はまったく感じないその血の利点を、ヘンリックは感じ取った。  どこかから、自分を呼ぶような気配がしたからだ。それは声ではなく、気配としか言いようのないものだった。  イルスに違いないと、ヘンリックは思った。か細いような震える気配が、流れる水の先から、ヘンリックを呼び寄せていた。まるで海の底にいる魔物のように。  なあんだ死んでなかったのかと、ヘンリックは思った。  水を掻いて進む脳裏に、ふと産屋のことが思い出されてくる。  イルスは難産でヘレンを苦しめた。臍の緒がひっかかっているとかで、なかなか生まれてこなかった。  場合によっては、赤子が母親までも殺すかもしれないので、その場合はヘレンを救うために、赤子をばらして取り出すと、産婆が許可を求めてきた。ヘンリックは迷わず許した。  そのときは、子供を殺していい。もしも迷って、手遅れになったら、その時はお前の命もないと思え。  そう言い渡されて、戻っていく産婆の弟子は、咎める目をしていた。女だったからだろう。  それから何時間か、果てしなく思える時が流れ、産声が聞こえた。  ほっとしたのも束の間、お次の難題は竜の涙だ。ヘレンは出産の苦痛のあとで、血を失って蒼白な顔をしていた。疲れて生まれた赤ん坊は、どこか弱々しい産声を聞かせ、ヘンリックのアルマを終息させた。  この息子は始末しなければならない。族長である自分に、こんな呪われた子がいてはまずいから。難産だったので、死んで生まれたと言えば、誰もお前の恥とは見なさないだろう。  ヘレンにそう話すと、女(ウエラ)は烈火のごとく怒り、まだ名前のなかった赤ん坊を抱いて泣き崩れた。そして叫んだ。この子の名前はイルスにするわ、強い子に育つように、と。  名前をつけたのは、まずいなあと、産屋に来ていたリューズが言った。ヘンリックは、その時を狙い澄まして海辺に現れた同盟者の顔を、暗い水の中に思い返した。  あいつはジンが生まれるときにも、死体を狙う禿鷹のように、サウザスに現れた。  ヘレンが竜の涙だと知っていたので、その子にも、石の呪いがかかっているものと、あいつは期待していたのだろう。一度目は不発だったその期待が、二度目には無事に果たされて、リューズはどこか満足げだった。  彼の治める宮廷には、竜の涙を持ったものを集めて、魔法戦士として育てる習わしがあるとのことで、なんなら、預かってやってもよいがと、恩着せがましくリューズは言った。殺すのが惜しければ、俺がこっそり育ててやってもいいが。  餓鬼の遣いのように、リューズが言ったその話を産屋に持ってきたヘンリックを、ヘレンはただ一喝した。あんたがイルスを捨てたら、あたしはあんたを捨てるから。  それを言われたら、考えるまでもなく、もう破談だった。  あとから冷静に考えてみれば、自分の血筋を与えた息子をリューズにくれてやるなど、狂喜の沙汰だった。あとからどんな用途に使われるか、わかったものじゃない。あいつは小綺麗な友達面で現れるが、その化けの皮を一枚剥げば、計算ずくの砂漠の蛇だった。いつもなら引っかからない俺が、産屋で弱ったところなら、罠にかかるのではないかと、狙ってやってきただけだ。  子煩悩なあいつは、俺が子殺しにびびると思っていたのだろう。  そんなわけはない。  ヤワなあいつと違って、俺には赤ん坊のひとりくらい、始末するのは簡単なことだった。  問題はヘレンが泣くのに耐えられないことのほうだ。  イルスが死んだら、ヘレンは泣くだろう。あのときも、今も、それは何ら変わらないだろう。  ヘンリックは暗い水の奥から自分を呼ぶ気配を、いつしか必死に辿っている自分を感じた。待っていろ、今行くからと呼びかけるように探すと、それは答えた。もう、間近だった。  水路は重々しい鉄の格子で果てていた。それに取り付き、押し流されてくる水圧に耐えながら、ヘンリックは自分を呼ぶものがいるほうを手探りした。  指がなにか、やわらかいものに触れた。  絹の肌着を着た、まだ小さな子供の体だった。その首根っこらしいところを、ヘンリックは掴んだ。  イルスと呼びかけ、顔を見ようと引き寄せたが、暗くてなにも見えはしなかった。  しかし子供は確かに生きている腕で、がっちりとこちらの腕に抱きついてきた。  もはや梃子でも動きもしない、ちっぽけな体を抱え、ヘンリックは戻ることにした。  それには思った以上の力が必要だった。水は自分たちを押し流そうとしていた。  自分ひとりが泳いで戻るのであれば、らくらくとは言えないまでも、何とかなったことだろう。しかし子供ひとりを抱えて泳ぐのは、想像もしなかった難題だった。  息が続くかと、気ばかり焦って、自分がうまく泳いでいないような怖れを、ヘンリックは感じた。  イルスはなにを考えているのか、微動だにしなかった。しがみつけるのだから、生きているのだろうが、じっと抱きつき、おとなしくしていた。  そのほうがいい、まだしも泳ぎやすいから。しかしこいつは、こんな子だったか。陸(おか)ではぴいぴい泣いてばかりで、根性無しだと思っていたが、こんな目にあって、恐慌もせず、ただじっと水圧に耐えている。  案外、強いやつなのか。こいつもヘレンの子だからな。  自分よりも、彼女に似た顔をして生まれた息子を、ヘンリックは抱きしめた。今さらまた流されたら、拾いに戻る気になれそうにない。とにかくしっかり抱いて、連れて戻らなければ。  ほの明るくなってきた水の色に、ヘンリックは安堵した。あと僅かの距離を、生き延びさせればいいだけだった。  そう思った矢先、薄明かりに見えたイルスの顔が、がぼっと泡を吐いたので、ヘンリックは驚いて、自分も息を吐きそうになった。  とにかく口を覆って、ヘンリックはイルスを水面に押し上げた。  突然戻ってきた父親と弟に、泉のほとりで待っていたジンが腰を抜かしたようだった。  座り込んでいる息子に、ヘンリックはイルスを押しつけた。  猛烈に疲れ、這い上がる気もしなかった。 「息してない、ヘンリック、イルスが息をしてない」  水に落ちたほうより、よっぽど恐慌した声で、ジンが喚いた。  驚いて、びしょぬれでぐったりとしているイルスの顎を掴むと、確かに堅く口を閉ざして縮こまっていた。  ヘンリックはイルスの頬を叩いた。 「息をしろ、もう水から出た」  何度かそう、叫ぶように呼びかけると、幼い息子は、突然ふはあと息をした。  そのまま、ぜえぜえと荒く息をつく子供の横で、ヘンリックはくたびれて脱力し、泉の岸に引っかかっていた。  よかったな、よかったなと、ジンが何度も弟に話しかけている。  その声は、深い安堵感とともに、ヘンリックの腹によく響いてきた。  何が良かったなだと、ヘンリックは悪態をついた。お前らなんで水に入ったんだ。馬鹿野郎。  するとイルスが、小さな手で、こちらに何かを差しだしてきた。  貝だった。二枚貝の片割れ。  それはつややかな白いエナメルで塗られ、真珠で飾られていた。  いつもヘレンの枕元にあったものだ。 「落としたから」  まだ掠れている声で、イルスがそう説明した。ヘレンとそっくりな青い目で、イルスはこちらを真顔で見つめていた。怒られるんではないかという、どこか怯えた顔だった。  その一言を聞いたジンが、気まずいというふうに顔をしかめた。 「ジン。お前、知ってたな。俺に言い訳をしろ」  叱りつけるように命じると、ジンはイルスを膝に抱いたまま、がっくりと項垂れた。 「イルスが……母上が可哀想だというから」 「可哀想だと? ヘレンのどこが可哀想だっていうんだ」  腹立ちを隠さず、ヘンリックはジンを急かした。  ヘレンにどんな、可哀想なところがあるというのか。今や族長の女(ウエラ)で、どんな望みも思いのままのはずだ。欲しがっていた子供も二人も与えたし、平民の女のように、水仕事や育児で手を荒らしたいというから、それだって自由にさせてきた。  何が不満だ。正妃じゃないということか。王宮でなく、この離宮に住ませているからか。俺が一時来るだけで、ここで眠らず、飯を食ったら帰ることがか。  情けなくなって、ヘンリックは顔を流れる水を拭った。 「赤ん坊かできてから、母上はずっと具合が悪いだろ。だからイルスが心配して、母上は病気なのかって、毎日何回も俺に聞くんだ」  自分も弱っているのだという口調で、ジンは早口に説明してきた。 「違うって、母上は孕んでるだけだって、教えてやったら、どうしてそんなことになったのかって」  泣きそうなように言うジンの顔を、ヘンリックはぎょっとして見上げた。息子は、たぶん自分以上に、今、ほとほと情けないという顔をしていた。 「だから俺、貝があるせいだって、言ったんだ、こいつに」  じっと兄の話を聞いているイルスの手には、装飾を施した貝殻が、まだしっかりと握られていた。  それは部族の男が自分の女(ウエラ)に贈る伝統的な品で、もとはちゃんと合わさった二枚貝の形をしている。それを二人で断ち割って、片方ずつ持ち、このアルマが去って次の潮がやってきたとき、再びお互いを選ぶという約束のために、取り交わすものだった。  ジンを生んだあと、ヘレンがどこか不安げにしていたので、気の利いた贈り物のつもりで、買い与えた。  受け取ったヘレンは、強面(こわもて)のあの性格に似合わず、なぜかめそめそ泣いた。ヘンリックには、政略のために娶った大貴族の女が正妃としていて、あちらにも一人目の息子が、ほぼ時期を同じくして生まれていたからだ。  ヘレンは最初からそれを知っていたが、どうして今さら泣くのか、ヘンリックには良く分からなかった。  あの女は役に立つから抱いただけで、愛しているのはお前だけだからと、彼女に正直に話した。でもそれも、女の耳には言い訳めいて聞こえるらしかった。  それとも、本当に、ずるい男の言い訳なのか。  ヘレンは、不安だったのだ。夜離(が)れが。俺がやってこなくなることが。  以来、その貝はヘレンの枕元にあり、その事実はいつもヘンリックの心を満たした。この女は俺を必要としている。俺が来るのを、待っている。どんな憎まれ口をきいても。俺を愛している。 「母上は、大丈夫かな、ヘンリック。赤ん坊が、母上を、死なせたりしないかな。イルスはそれが心配なんだ」  そう話すジンの顔は、まだ男の面構えとは言えなかった。不安げで、いまにも泣きそうな気弱なチビだった。 「心配なのは、お前なんだろ。俺のせいで、ヘレンが死ぬんじゃねえかって、腹の底で恨んでんだろ」 「だってそうだろ、ヘンリック。イルスが要らねえなら、なんで母上のところに来たんだよ。新しい赤ん坊だってそうだろ。俺はもう兄弟なんかいらねえよ、イルスがいるもん。いやなら来なきゃいいじゃねえかよ!」  噛みつくように吠えて、ジンは守るようにイルスを抱いていた。イルスは大人しく兄貴の膝に座っている。しかし貝を握ってじっとこちらを見つめる目は、兄のそれより、しっかりとしていた。訳が分かっていないせいか、兄貴の怒鳴る話の意味が、まったく分からないからか。 「族長なんか、やめてよ。俺はべつに、額冠(ティアラ)なんかいらねえし。みんなで、どっか遠くにいって、暮らそうよ、ヘンリック。そしたら夜も、王宮に帰んなくて、いいだろ」  預けた族長冠を、排水溝に投げ込む素振りをするジンを、ヘンリックはただ横目に眺めた。  こいつはほんとに、駆け引きを知っているやつだ。勘が良くて、心弱くて、ずるい。紛れもなく、俺の子だ。 「てめえは誰のおかげで飯を食ってるつもりだ。何の取り柄もねえくせに、ここを出て、どうやって食っていく気だ」  半ば本気で怒って、ヘンリックはジンに問いかけた。  俺とそっくりなツラで、何の苦労も知らずに育っているこいつが、俺は時々猛烈に憎い。 「なんとかなるって、母上が言ってた。家族がいれば、なんとかなるって。……だから、そうしようよ」  消え入るような小声で、ジンがかき口説いてきた。本気なのだなと思って、ヘンリックは答える言葉もなかった。  なんとかなると、そんなことを、十にもならない餓鬼が、思いつくはずがない。この離宮の外にも世界があるとは、思いつきもしないような、まだほんの小さな息子たちなのだ。だから、その話をこいつにしたのは、ヘレンなのだと、考えなくても分かる。  腕を伸ばして、ヘンリックが族長冠を掴むと、ジンはびくりと体を震わせた。  一瞬、息子が抵抗して暴れるのではないかと、ヘンリックは思った。しかしジンは、ほんのわずか、引き留める力をかけただけで、おとなしくそれを返した。 「どうして、だめなの」  訊ねてくる息子の声は微かだった。 「ジン、お前も男なら、覚悟を決めろ。お前もその輪っかを被せられたからには、この道から逸れたら、負けなんだ。死ぬ以外の方法で、ここから逃げられやしねえんだよ」 「どうして。何でそんなことになったんだよ。俺は別に、こんなのいらねえのに」  何がそこまでうとましいのか、ジンは自分の額冠(ティアラ)を外して、こちらに突きつけてきた。それは自分がジンに与えた血筋の証であり、何よりの恵まれた境遇のはずだった。 「がたがた言うな。しょうがねえだろ、お前は俺の息子なんだから」  諦めて教えると、ジンはきゅうに、怒ったのか、泣きたいのか、よくわからない顔をした。 「だったらさ、ヘンリック。だったらお前も、親父らしいことをしろよ」  そう言うジンと、ヘンリックはしばし、ただ黙って見つめ合った。  ジンは泣きそうな顔をしていたが、すでにもう、ぴいぴい泣きわめくような、小さい餓鬼ではなかった。ただじっと、額冠(ティアラ)を握って、何かを堪えている息子を、ヘンリックは見つめた。  ジンがなにをしろと言っているのか、実のところ、ヘンリックはまったく思いつかなかった。たぶん何かを要求されているのだろうが、それが何か、見当もつかない。  もしここに、ヘレンがいれば、自分がいま何をすればいいか、教えてくれたかもしれなかった。しかし彼女は寝室で悪阻(つわり)にふせっていて、自分が孕ませた新しい赤ん坊に、うんうん唸らされている。  どうしてほしいか、言わなきゃわからねえよ。そういう目でヘンリックはジンを見たが、向こうは頑固に押し黙っていた。察しをつけないのなら、絶対に許さないという顔で。 「これ」  唐突にイルスが喋ったので、ヘンリックはぎょっとした。そういえば、こいつもいたんだった。  白く塗られた貝のお守りを差しだして、イルスは鼻をすすった。そういえばこいつは冷たい水にずぶ濡れで、寒いのではないかと、ヘンリックはやっと気付いた。自分も寒かったからだった。 「これ、かえす。やっぱり」  そう断言するイルスを、ヘンリックは見た。やはり寒いのか、イルスは小さくなっていたが、その顔はいかにも平気そうだった。 「いいのかよ。貝があったら、お前の母上はこの先もずっと、孕んでげえげえ吐くんだぞ」  年の割に言葉数の少ない息子に、ヘンリックはあえて早口に話しかけた。得たいの知れないイルスが、ヘンリックにはうとましかった。竜の涙を持っていると、性格や能力の点で、どこか常人より劣ることもあると、リューズは警告していった。こいつの口が重いのも、そのせいじゃないのか。  イルスはヘンリックが貝を受け取らないので、困ったらしかった。  しばらくそれを持てあましていたが、兄に渡そうとしても、受け取ってもらえず、イルスは弱ったふうに立ち上がった。  そしておもむろに、幼い手で、まだ泉のふちに捕まったままでいたヘンリックの腕を掴み、引っ張り上げようとした。もちろんそんなものは、何の足しにもならず、ヘンリックは自分を助けようとしているらしいイルスを、あっけにとられて眺めた。 「父上」  あんまり熱心に引っ張られるので、ヘンリックはやむをえず自力で泉からあがった。濡れそぼった肌着から、水が滴り落ち、ただでさえ濡れ鼠のイルスに、激しく降りかかった。  よけろよと思いながら、まとわりつこうとするイルスを振り払ったが、意外なしつこさで、イルスは脚にとりついてきた。日頃は自分を遠巻きにしているイルスが、こうまで食らいついてくるのは、異様に思え、ヘンリックは意地になって、小さな手から逃れようとした。  しかしイルスは諦めなかった。ねばり強く争って、とうとう根負けしたヘンリックの足に、がっちりと抱きつき、そして言った。 「ごめんなさい」  イルスがなんのことを詫びているのか、ヘンリックには一瞬分からなかった。  脳裏になぜか、産屋でヘレンに抱かれていた赤ん坊のころのイルスのことがよぎった。  あの時、呪われて生まれてきたこの息子が、許せない気がして、このやろうと内心思った。お前のせいで、なにもかも滅茶苦茶だ。ヘレンと、ジンと、三人で、そこそこ上手くやっていた。お前が産まれてくるまでは。  あの時、そういう目で、まだ生まれて何時間もしないイルスを見た。  なぜか今、息子がそのことを詫びているような錯覚がした。  しかし、そんなはずはない。たぶん、水に落ちたことを、こいつは言っているのだ。 「もういい」  くたびれて、ヘンリックは言った。 「兄上と」  こちらの足を抱いたまま、イルスが顔を見上げてきた。なにを言うのかと、ヘンリックは思った。 「けんかしないで。これ、かえすから」 「なにを言ってるんだよお前は……」  子供の話す論旨が、ヘンリックには全く理解できなかった。  しかし、それを聞いていたジンは、低く呻くような短い声をたてた。  何か知っているらしかった。  それを隠しておくつもりはないらしく、ジンは暗い声で、弟の話を継いだ。 「俺が捨てたんだ、貝を」  目を瞬いて、ヘンリックはジンを見た。 「イルスが落としたのを、ほうっておいたんだ。まさか拾いに行くと、思わなかったんだ」  ジンは、額冠を握りしめたまま、途方に暮れたように座り込んでいた。 「お前なんか、もう来んな。ヘンリック」  ジンが叫ぶように言うのを聞いて、イルスが驚いたふうにこちらを見上げた。 「うそだから」  諭すように、イルスは言った。 「うそだから」  聞こえていないと思ったのか、イルスはもう一度、同じことを言った。  ヘンリックは、どうにもしかたなく、それに頷いて答えた。  嘘か。 「嘘じゃねえよ、馬鹿! ヘンリックはなあ、お前がいらねえんだぞ、殺そうとしたんだぞ、それでもいいのかよ」  ジンが堪えきれないというように、弟に怒鳴った。  しかしイルスは、それも聞き流し、じっとヘンリックと睨み合っていた。 「うそだから、父上」  嘘じゃねえよ、馬鹿。その幼い目に、ヘンリックはそう答えようかと思った。  いつかその話を、イルス本人が知るのではないかと、考えたこともなかった。おそらく、勘も良く、耳ざといジンが、人の口からでも漏れ聞いて、イルスに吹き込んだらしかった。  何を根拠に、こいつはその兄の話が嘘だと思っているのだろう。実際には、動かしがたい事実なのに。これまでずっと、たぶん自分はこいつを始末する機会を狙ってきた。つい先程も、水の奥でイルスがすでに死んでいる可能性について、ずっと考えていた。  もしも死体を引き上げて戻ったら、ヘレンは悲しむだろうと思った。しかし、子供ならまた生まれる。こんな厄介な呪われた子ではなく、どこに出しても問題のないようなのが、次には生まれるかもしれない。ジンには何の問題もなかったのだから。  死ねば忘れるだろう、ヘレンは。こいつがいたことを。自分も、きっと忘れる。  しかし、見交わしたイルスの目は、一見すれば忘れがたいような青をしていた。ヘレンの目と、同じ色だった。  その目をたまにはまともに見てみようと思い、ヘンリックはイルスを抱き上げてみた。同じ高さでこちらを睨み、イルスはまた、ぽつりと言った。 「うそだろ」  イルスは、そうだと言えという口ぶりだった。ヘンリックは黙っていた。嘘をつくのは卑怯に思えたからだ。 「俺、いらないの?」  顔をしかめて、イルスは訊ねてきた。おそらく、渾身の問いかけなのだろう。幼い言葉にしては。 「いらなかったら助けにいかねえよ。もう水路に入るな」  その返事は、これといった引っかかりもなく、ヘンリックの口を突いて出た。本気でそんなことを思っているのかと、自分が疑わしく、ヘンリックは己の腹を探ってみたが、そこには嘘の気配はしなかった。  不思議だと思った。こうして抱きかかえてみると、イルスはなんということもない、ジンと同じような、ただの子供だった。 「嘘だ。嘘つきだ。ヘンリック」  ねちねちと文句を言うジンのそばに、ヘンリックは歩いていって、裸足の爪先で軽く蹴飛ばしてやった。 「いてえよ!」  ジンがまだ文句を言っている。 「てめえも嘘をついたんだろ。このやろう」  イルスを抱きかかえたまま、ヘンリックは厭がるジンをこづき回した。痛がる兄貴の姿が面白いのか、それを見下ろしてイルスがけらけらと笑った。こいつも笑うときは笑うのかと、ヘンリックは感心した。 「なにかもう来んなだ、甘えやがって。俺がお前に会いにきてると思ってんのか、馬鹿」 「やめてよ」  小突かれる頭をかばって、ジンが泣き言を言った。 「額冠(ティアラ)をしろ。いらねえんなら、そこらの餓鬼にくれてやるから返せ」 「俺のだろ!」  盗られかけた白銀の輪っかを、ジンは慌てて奪い返し、自分の額に戻した。ヘンリックは薄笑いして、それを見下ろした。  額冠(ティアラ)をもたもたと直しながら、ジンが抱き上げられているイルスを見上げて、物欲しげな顔をしていた。  ああ、そうかと、ヘンリックは思い当たった。  昔、ジンがまだイルスぐらいの年格好だったころ、こいつはよくまとわりついてきて、抱き上げるようにせがんでいた。図体がでかくなったので、面倒になってほうっておいたら、そのうち求めてこなくなったが、中身はひょっとすると、あの時のまんまなのではないか。  しかし、二人っていうのは、きついなとヘンリックは思った。抱いて抱けなくはないが。骨の折れる話だった。特に海のとば口まで行って、そこへ戻りかけていた息子を返してもらった後では。  だがもうこの際、一人も二人も同じだ。そう思って、背をかがめ、ヘンリックはジンの腹のあたりを二つ折りにして抱え上げた。  ジンはそれがよほど予想外だったのか、ぎゃあっという物凄い悲鳴をあげた。 「何するんだよ、おろせ! おろせよ!」  叫んで暴れるジンを、イルスが面白そうに見下ろし、笑いながら教えてきた。 「うそだから」  そうなのか。ヘレンと同じ顔が教える話を、ヘンリックは真に受けた。  イルスを着替えさせなければいけなかったので、ヘレンを起こそうかと、ヘンリックは迷いながら、彼女のいる寝室に向かって歩いた。せっかく寝ているのだし、誰か他のものを呼びつけて子供たちの面倒を見させるほうがいいか。  しかし、笑っているイルスの額を見ると、その石はまぎれもなく、そこにあった。  何を言うやら知れない赤の他人に任せるのには、危険すぎる子供だ。せっかく、納得してヘレンの腹から出てきたというのに。  思えば、あの難産は、生まれるかどうしようかの苦悩のすえ、やっと踏ん切りをつけるまでの、こいつの戦いだったのではないか。あのまま死ぬこともできた。それでも諦めずに、生まれ出てきたのではないのか。  途中、橋のあたりに落ちていたイルスの額冠(ティアラ)を、ぶら下げていたジンに拾わせ、イルスの額に戻させた。イルスは幼児なりのこだわりがあるのか、兄が無造作にはめたそれを、自分の手で調節したりしていた。 「イルス」  自分の額を見上げている息子に、ヘンリックは呼びかけた。するとイルスは肩の上から、こちらを見返してきた。 「その輪っかは、いつもつけてろ。お前が、俺の血を引いているという印だから」 「かくすためだよ、父上」  イルスがけろっとそう言ったので、ヘンリックはその話の出所を察して、抱えたジンの腹を締め上げた。ジンは苦しいらしく、押しひしがれたような呻きをあげた。 「いいや、王族の印だ」  教えてやると、イルスはふうんと言った。意味がわかっているのかどうか、怪しかった。まだ物心つくかどうかという年頃だから、それも仕方ないのかもしれなかった。ヘンリックは自分の子供時代を思い返してみたが、イルスぐらいの年頃の記憶らしいものは、全く無かった。だからきっと、今話しても、こいつは忘れるだろう。くりかえし言って聞かせないと。ヘレンが教えるように。 「どうしたの、その有様は……」  寝室を出たところで、ヘレンは華麗な礼服のまま、髪を振り乱し、蒼白の顔で突っ立っていた。たった今、吐いてきたというような顔だった。 「びしょぬれじゃない。何があったの。正直に言いなさい」  誰にともなく、ヘレンはいきなり説教をする口調だった。黙っておこうかと、ヘンリックは思った。妊娠中の女には刺激の強すぎる話ではないかと。 「イルスが排水溝に吸い込まれたから、ヘンリックが助けにいったんだ」  そう決めた矢先に、ジンがぺらぺらと話した。それを聞くヘレンの形相が変わった。  このやろうと思い、ヘンリックはまたジンを締め上げた。息子はひいひい喚いて暴れた。 「イルス」  腰が抜けそうなのか、ふらふらと近寄ってきて、ヘレンはヘンリックから下の息子を抱き取り、ぎゅっと抱きしめた。イルスは母親が起き出してきたのが嬉しいらしく、大人しくその胸に甘えていた。  その姿を見て、ジンが微かに呻いた。  ヘレンはイルスが不憫なのか、どうもジンより甘やかしているらしい。  ジンはイルスの面倒をよく見る兄貴のようだが、その自分を見捨ててイルスが母親に甘えるのも気にいらなけりゃ、母親が弟のほうを可愛がるのも、むかつくらしかった。悶々とした顔をするジンを見て、ヘンリックは息子のその嫉妬深い姿に苦笑した。 「どうして落ちたの、水路に近寄っちゃだめなのよ、忘れたの?」  お前はそんな声が出せたのかという甘い声で、ヘレンはイルスに尋ねている。 「これ、落としたから」  ヘレンに貝殻を見せて、イルスは済まなさそうに答えた。  それを受け取りながら、ヘレンはやっと、安堵したような息をもらした。 「こんなもの、あんたの命にくらべたら、大事でもなんでもないのよ」  こんなものかよ。ヘンリックは思わず呻いた。 「どうして、こんなの持っていったの?」 「ジンが、貝のせいで、母上が病気だって。だから捨てるの」  ヘレンはじろりと、ヘンリックに抱えられているジンを睨め付けた。ついでに自分まで睨まれた気がして、ヘンリックは怯んだ。 「あら、そう。あんたのお兄ちゃんはね、焼き餅焼きなのよ。それにずるいの。誰かに似てね。もう騙されないで。あんたぐらいは、いい子でいてね」  イルスに頬ずりして、ヘレンはそう言った。イルスはそれに、猫のように甘え、いい子でいると請け合った。  それを眺め、やっばり殺せばよかったかと、ヘンリックは苦笑した。この分ではこいつに、ヘレンを盗られる。 「ジン」  いくらか厳しい声で、ヘレンが呼びかけてくると、ジンはじたばたと無様に、ヘンリックの背に隠れようとした。ヘレンが怖いことにかけても、こいつは俺に似たらしいと、ヘンリックは思った。 「赤ちゃんも、あんたの兄弟なのよ。焼き餅焼かないで。あんただって、おんなじように、あたしのお腹にいたんだから。順番でしょ」 「俺の時はらくだったって、母上言ってたじゃん」  言い訳のように、ジンは答えた。 「そうだったわよ。あんたは悪阻もなくて、産屋でもさらっと済んだわ。だけど生まれた後はあんたが一番大変じゃないの」  非難される息子がおかしく、ヘンリックは思わず笑った。ジンは悪餓鬼だった。 「弟をけしかけたりして、悪い子ね。反省して」  怒ったふりをして、ヘレンはジンに言い渡した。しかしヘンリックには、彼女が少しも怒っていないことは、見れば分かった。それが子供には分からないのか、ジンは身をすくめていた。  苦笑しながら、ヘレンはこちらを見た。ヘレンの青い目と、ヘンリックは見つめ合った。 「ジンを叱ってやって。あたしはイルスを着替えさせるから。それから食事を作るけど……」  こちらをじっと見つめながら、ヘレンはどことなく不安げな顔をし、それから、それを隠した。 「もう遅いわ。あんたは戻る時間ね」  自分と向き合って、のんびりと言う女(ウエラ)を、ヘンリックはまだ黙って見つめていた。  ヘレンはさほど美しい女ではなかった。醜くもなかったが、どうということもない、普通の女だった。これまでヘレンよりも数段にも格段にも美しい女が、自分の周りにいはいたし、現に今、王宮で自分の帰りを待っているはずの、大貴族の箱入り娘だった正妃は、ヘレンよりも美人だった。育ちの良さも、しとやかさも、ヘレンとは比べものにならない、上品な女だ。ヘレンのように、冷たくもない。  あの女は、俺を愛している。待っている顔を見れば、それは分かる。今宵の夜会の席で、悪阻に青ざめるヘレンを連れて去る俺を見て、あの女は泣きそうな顔をした。その理由を、ヘンリックは知っていた。向こうも孕んでいたからだった。それによって、ヘレンに勝ったと、あの女は思っていたのだ。  愚かなことこだと、ヘンリックは済まなく思った。自分に愛を求めてくる女の顔は、愛しくないわけではなかった。しかしヘレンの目と見つめ合う時の、他にはない感情を、あの女の顔を見て、感じたことが一度もない。  この女を守ってやらなければ。たとえ自分は死んでも、ヘレンと、ヘレンが産んだ俺の子を、なんとしても守り抜かなければと、ヘンリックは思った。それは意志ではなく、アルマが与える本能的な感覚だった。今期のアルマも、結局ヘレンを女(ウエラ)に選んだ。  なぜだろうかと、なにが違うのかと、ヘンリックには不思議だった。  不都合なことだった。自分にとって、この女を愛し続けるのは。なんの利益もなく、危険があるだけだ。呪われた血を持った女で、呪われた息子を産み落とす小さな海を、腹の中に持っている。  本当なら、自分にとってこれまで不都合だった者たちにしたように、剣の血糊に変えて、海に帰すべきだった。  だが、そんなことが、自分にできるわけもなかった。  できるわけがない。  ヘレンが死んだら、俺も死ぬ。きっとそうなる。  離宮を去る刻限をとっくに過ぎた自分を、抱きかかえた初子が、逃がさないというように、固く抱き返してくるのが感じられた。ジンは我が儘な奴で、物心つくやいなや、一時の逢瀬から引き上げようとする自分を、いつも引き留めた。  口がきけるようになったばかりの頃から、すでにこいつは、帰らないでと言って、俺を苛立たせた。その言葉は、子供の声で話したが、それがヘレンの心を代弁しているのだということは、ずっと分かっていた。  こいつもヘレンの中からやってきた、彼女の一部で、母親を愛している。ヘレンを守ろうと、いつも必死だ。 「ヘンリック、もういいじゃん。今日は、帰らなくても」  どこか縋り付くような声で、ジンがそう言った。息子はヘンリックに抱えられたまま、その背にしがみついていた。その様はまるで、船の男を海に引きずり込むという、海の魔物のようで、ジンのまだ小さいはずの体は、ずっしりと重く感じられた。 「飯も食ってねえし。一緒に食っていけよ。母上が飯を作る間、俺に剣を教えてよ。イルスも最近、ちょっとは使うようになったんだぜ。俺が教えたの」  それを褒めろというように、ジンは話した。そうかと答えるのが、今はやっとだった。  ジンが誘う話は、ひどく魅力的に、ヘンリックの耳に聞こえていた。  このまま居残って、このうるせえ餓鬼どもと戯れていようか。  そしてのんびりヘレンの手料理を食って、酒でも飲んで、ぐったりしてから、一度も泊まったことのない、あの寝室の寝台で、餓鬼に蹴られながらヘレンを抱いて眠ろうか。朝までずっと。  そうしてほしいと、自分を見つめる女(ウエラ)は望んでいる。その唇は決して、そんな我が儘を言わないが、彼女がそれを求めていることは、ずっと昔から知っていた。よく知ったうえで、知らないふりをしてきた。それがあまりに、不都合だったので。  彼女は族長の情婦で、神殿の許しを得て正式に結婚した正妃のほうを、ヘンリックは尊重すべきだった。ヘレンは何の地位も後ろ盾もない女で、湾岸に勢力を誇る実家を持つ正妃の力に比べれば、なんの助けにもならない、ただの無力な女だ。  それが世間の目だ。正妃との婚姻がなければ、ヘンリックはただの貧民出の娼婦の息子で、族長冠をかぶっただけでは、湾岸の貴族たちを動かすだけの力がなかった。  今までは。  そうだった。  ヘンリックはそう考えた。  しかしもう、俺は力をつけた。逆らうものは、あらかた屠った。内外の戦を、戦い抜いた。その争いは、まだ続いていくだろうが、俺が負けるはずはない。この部族で最強の男になったのだから。 「だめよ、ジン。みんなを待たせちゃ悪いわ」  決然として、ヘレンはそう言った。  夜警隊(メレドン)の連中が、出てくる族長を待って、居室の外にいることを、ヘレンは知っているからだった。  ここにいるのは、遠くサウザス市街にある大聖堂の鐘が二つ鳴るまでと、ヘンリックは決めていた。二つ目の鐘を聞くとき、俺は族長なのだったと、無理にでも思い出すようにしていた。  しかし今夜、鐘はいつ鳴ったのか。水の中にいた時か。その音は全く聞こえた気がしなかった。暗い水の中で、聞こえていたのは、イルスが自分を呼んで、助けを求める気配だけだった。 「ジン」  抱きかかえていた息子を、床に立たせて、心持ち身をかがめて見下ろし、ヘンリックはその名を呼びかけた。  ジンは恨めしげに、こちらを見上げた。 「外へ行って、誰か夜警隊(メレドン)の者に、伝えてこい。俺は今夜、ここに泊まるから、サウザスに戻って、王宮にそう連絡してこいと」  言いつけられながら、ジンは呆然とした顔をした。なぜそんな顔をするのか、ヘンリックには良く分からなかった。  お前の我が儘を、聞いてやったんじゃねえかよ。お前が俺に、親父らしくしろというから、そういうふりを、してみようっていうんじゃねえか。  身を起こして、ヘレンを見やると、女はひどく険しい顔をして、いつになく機嫌のいい、ずぶ濡れのイルスを抱いていた。 「そいつの着替えは?」  ヘンリックが促すと、ヘレンは、そうだったという顔になった。そしてなぜか、イルスを床におろし、こちらに近寄ってきた。  着崩れた礼服を着た女(ウエラ)が、自分の首を抱くのを、ヘンリックはただ驚いて見守った。  ヘレンは悪阻(つわり)のせいで、ひどく痩せており、強く抱きついてくる女の腕は、吐き気にのぼせたような、哀れな熱を持っていた。珍しく、彼女のほうから求めてきた抱擁に、ヘンリックは黙って応えた。  子供の前ではやめてよと、いつもは渋い顔をするくせに、ヘレンはそのまま、せっつくようにして接吻をさせた。拒む理由も、自分にはなかったので、ヘレンの求めるまま、ヘンリックは彼女の唇を自分のそれで塞いだ。女の首筋から、微かに甘く、自分を縛る匂いがしたが、それはやはり、ひどく心地よくヘンリックを包んだ。  ジンがイルスの手を引いて、扉を開けて出ていった。  たぶん言いつけどおり、夜警隊(メレドン)に伝えにいくのだろう。  あるいはこの、あの嫉妬深い息子には耐え難い光景から逃れようと、弟とともに逃げ出したのか。  しかしあいつも、諦めるしかない。ヘレンは俺の女だから。  そう思って、ヘンリックは誰にも心おきなく、愛しい女を抱いた。  離れがたく触れあった体の、女の腹のあたりで、小さな海が満ちてくるのを、ヘンリックは想像した。たぶんそれは、温かい真夏の潮のようなものだ。その中で、新しい子供が育っている。  次は娘がいいと、戻る馬車の中で、ヘレンは言っていた。不安げな青い顔をして。  その時は、何も答えてやらなかった。それとも、もう餓鬼はたくさんだという顔を、自分はしたかもしれなかった。  だが、あの海からの呼び声を聞いて、急に気が変わった。  確かに次は、娘だといい。  小うるさい息子どもは、もう二人いれば十分だ。  次はヘレンのような、あるいは自分のような、二人のどちらにも似たような、おとなしい娘だといい。  いや、それは無理かと、ヘンリックは思い直した。どちらに似ても、それは無理だ。  とにかくお前ぐらいは、あんまりヘレンを苦しめるなよと、ヘンリックは腹の子に、ひっそり語りかけた。すると愛しい女の身のうちから、小さく自分に答える気配が、聞こえたような気がした。  三人目の魔物の声が。甘く誘うように、心細げに。それは切なく、ヘンリックの胸に響いた。 ----------------------------------------------------------------------- 「海より来たる者」(4) ----------------------------------------------------------------------- 「すみません、来ちゃまずいとは思ったんですが」  ヘンリックが居間で酒を舐めていると、ジンに連れられて、夜警隊(メレドン)のレノンが現れた。  連中には居室には入ってくるなと命じるともなく命じてあった。  ヘレンは厨房で飯を作ると言っていた。あのあと戻ってきたイルスを着替えさせ、自分もこざっぱりした普段着に着替えると、女は髪を結わえて、さっさと何事もなかったように、つれなく姿を消していた。 「族長。王宮から返信があります」  気まずげに、レノンは話した。  寝そべった長椅子の足元に立っているレノンは、アルマの潮が押し寄せる最中だというのに、なんとなく落ち着いた面構えをしていた。  ヘンリックが即位して間もない頃には、夜警隊(メレドン)の誰よりも血に飢えていて、愛用の剣に血を飲ませることにしか興味のないような奴だったのに。 「いっしょに飲むか」  なんとなく誘うと、レノンは拳骨で頭を殴られたような、ぎょっとした顔をした。 「いいんですか」 「やることがないんだ、ここにいても」  正直にそう話すと、レノンはこれから水にでも潜るように、深い息を吸った。そして、隣に空いていた長椅子に、思い切ったように、どかりと腰をおろした。彼が剣帯に吊したままでいた古い剣が、鞘の中で、小さく鳴った。  ヘンリックは伏し目に、自分のすぐそばにあるエナメル細工で拵えられた長年の相棒の剣を見つめた。  レノンが襲ってくるとは思わなかったが、武装した相手と丸腰で話すのは、気が引ける。  使っていた杯を一杯に満たしてから、ヘンリックはそれをレノンにやった。そして自分は、色鮮やかな硝子細工の瓶から、直に飲んだ。  火酒を飲み干す喉を見せる、レノンの飲みっぷりは上々だった。 「返信はなんと?」 「理由を聞きたいそうです。なぜ戻れないのか」 「適当に言っとけ。酔いつぶれたとか、風邪ひいたとか」 「そんなことは勝手には言えません」  むっとして答えるレノンは、その返信を受け取った張本人のようだった。誰がこの融通のきかない馬鹿を伝令に出したのか。  レノンは忠実だった。言われたことを、どんなことでも、そのままやった。女でも老人でも、湾岸の貴族だろうと、ヘンリックが殺してこいと命じれば、嬉しげにとんでいって斬った。  それでこそ、好敵手(ウランバ)に敗北した狗(いぬ)というものだった。  夜警隊(メレドン)の連中は、腕に覚えがあって志願した者ばかりで、それぞれに厳密な序列が決まっていた。それは剣によって決定される力関係だ。ヘンリックは彼らのうちの主立った者たちを、すべて一度なりと、足腰立たないほど叩きのめしたことがあった。もちろん屈服させるためだ。  ひとたび自分を完膚無きまでに撃破した相手に、湾岸の男は一生の敬意を払う。その集大成といえるのが、この部族における族長位だ。 「何も返事する必要はない。俺が行かないと言ったら、行かないんだ」 「そうです。でも奥方が泣いて訊ねられるので」  俺もほとほと弱りましたという話を、レノンは話した。湾岸の男は女の涙には弱かった。平素ならともかく、この時期に、女が自分に縋って泣くのを、見過ごせる者はいない。  特にレノンは深情けだから。  ヘンリックは呆れて、自分の頭を掻いた。 「ほっとけ。後で埋め合わせればいい。なんならお前が行って励ましていいぞ」 「勘弁してください、俺には女(ウエラ)がいます」  ぎょっとして、レノンは吠えた。ヘンリックは笑った。やっぱりそうかと思って。 「お前もとうとう終わりだな」 「しくじったんです。俺は騙されたんです。石の女だっていうから信じて抱いたのに、孕みやがって」  よくある話だった。ヘンリックは悔しがる部下を眺めて、微笑した。 「まあいいだろ、お前もいい歳なんだから」 「俺は嫌なんですって。いつも、研ぎ上げたばかりの剣のようでいたいんです」  やけっぱちのように言って、それからレノンは、こちらを伺うように見た。 「族長が以前、そうだったようにです」 「今の俺はなまくらか」  率直なレノンに、ヘンリックは微笑みかけた。率直なのと、身も蓋もないのが、この男の良いところで、かつてはそれを気に入って取り立てたのだった。  レノンは自分が言ったことに困ったらしく、空になった酒杯を弄んで、うなだれた。 「族長」  消沈した声で、レノンは結局言ってしまうというような顔で話し始めた。 「二股かけるのって、どうやってやってるんですか」  あまりの質問に、ヘンリックはさすがに耳を疑った。  とんでもない場所で、とんでもないことを訊くやつだ。それが可笑しくなり、ヘンリックは喉をそらせて笑った。 「お前も試すのか」 「それは無理です。そういうものでしょう。自分が女に捕まってみて、はじめて分かりましたけど。いっぺんに二人は無理です。女(ウエラ)が決まる前なら別に、二人でも十人でも俺には同じだったけど、今は無理だと思います」  のろけやがってと、ヘンリックは小さく返事をした。レノンは困ったような、短いため息をついた。 「族長、たまには息抜きしたほうが、よかないですか。離宮に通って長いです。もう三期目だし」 「そうだなあ」 「ずっと同じ女にすると、抜けられなくなるから、次は別のにしろって、俺は言われました。そんなことできると、今は思えないけど、女(ウエラ)が産んだら、ちゃんと正気に返れるからって。そういうものなんですか」  忠告しているのか、相談しているのか、はっきりしない話しぶりで、レノンは訊ねてくる。ヘンリックはそれを笑って眺めた。こいつはほんとに、初めてらしい。 「そういうもんだろ。餓鬼の産声を聞けば、アルマの呪いは解けるんだ」 「じゃあどうして、族長の呪いは解けないんですか」  いきなり核心を突かれて、ヘンリックは真顔になった。  こいつの話し方は、太刀筋と同じだなあと、そんなことがふと、頭をよぎる。奔放にちまちま突っついてくるかと思えば、突然、必殺の一撃を見舞ってくる。それを軽く避けられた時の、こいつの顔といったら。いつ思い出しても、いいツラだった。 「さあ、なんで解けないんだろうな……」  ヘンリックは答え、空になっていたレノンの杯に、酒をついでやった。  ばたばたと走る音がして、イルスを引き連れたジンが現れた。大人の話を邪魔するべきでないと躾けられていないのか、ジンは気兼ねなく、ヘンリックとレノンの椅子の間に腰を落ち着けた。イルスは連れられた子犬のように、兄貴に従って、そのすぐ傍に座る。  息子たちは木剣を握っていた。どこかで退屈しのぎに、剣術ごっこでもやらかしてきたらしかった。汗をかいており、髪も引っかき回したようにぼさぼさだ。  これが王族の子かと、ヘンリックは思ったが、それも仕方がなかった。結局は血筋なのかもしれず、自分やヘレンのような卑しい出の血しか与えられなければ、宮殿に住んで絹をまとっても、猟犬の子は猟犬になる。  王宮で侍女たちに育てられている、正妃の息子たちを見れば、その差は歴然としていた。  しかしもう、それはどうでもいい。ジンには野心がないらしいから。  族長位を狙わないのであれば、野犬のように転がり回って、心おきなく遊んで暮らせばいい。 「レノン、遊んで」  にこにこと愛想よく、ジンは木剣を見せ、夜警隊(メレドン)の男に指南を求めた。  それを見て、レノンは微笑していた。 「いいですよ。でも折角だから、族長と対戦したらどうですか」 「ヘンリックは、手加減するからつまんねえよ」  口を尖らせて言う息子の言葉に、レノンはどこか、ぽかんとした顔をした。それから自分のほうを見るレノンを、ヘンリックは何となく、気まずく見上げた。 「はあ。そうなんだ。族長でも、手加減できるんですね。俺、知らなかった」  レノンは嫌みを言っているわけではない。ただ驚いているのだった。  手加減を知らない男ということで、ヘンリックは通っていたし、実際そうだった。気が乗ってくると、それがただの手合わせ(デュエル)であるとか、ちょっとした肩慣らしであるとか、そういうことが頭から抜け落ちる。つくづく好きなのだということだろう。  しかし子供相手に本気になるほど、頭がいかれてはいないらしい。  少なくとも自分の息子には。  その事を確かめたのは、ここ最近のことだが。 「いいなあ、そりゃあ」  頭を掻いて、レノンは呟くように言った。 「俺の子も、男だったらいいなあ」  イルスから奪った木剣を、ジンはレノンに握らせた。  息子と部下が遊びの剣に興じるのを、ヘンリックは眺めた。  木剣をとられたイルスが、愕然という面持ちで、ふたりを眺めている。  まったく他人の剣を盗むなと、ジンには昔、よく教えたはずなのに。ちびっこいとはいえ、弟のほうにも、男としての面子があるだろうに。ひでえ兄貴がいたもんだと、ヘンリックは呆然としているイルスの立ち上がった姿を見つめた。 「イルス」  呼びかけると、小さい剣士は泣きそうな顔でこちらを振り返った。 「気の毒だったな。あれが戻るまで、俺の剣を貸してやるよ」  そう言って、エナメルで飾られた長剣を差しだしてやると、イルスは初め、歯を食いしばったような無表情でいたが、やがて理解ができたようで、小走りに剣にとびついてきた。  息子の手に剣を奪わせながら、ヘンリックはそれを、微笑んで見つめた。  イルスは長椅子のそばに腰を下ろし、いかにも大事そうに、身に不釣り合いな長剣を抱きしめた。  いずれこいつが本物の剣を与えられる頃、いったい自分はどうしているのだろうかと、ヘンリックは思った。そのときもまだ、ちゃんと生きているのだろうか。一人前の男になるこいつらに、手加減しなくてもよくなる時が、いつかはやってくるのだろうが、今はその日が想像もつかない。  まだまだ時はあるのだから、世間の親父どもがやるように、息子の剣に刻む銘でも嬉しげに考えながら、過ごせばよいのかもしれない。  しかしそれさえ、ヘンリックには見当もつかない。  自分の剣には銘がなかった。盗まれてきたものを、さらに盗み取った剣で、それにはまだ銘が刻まれていなかった。誰かが与えたわけでもない剣に、自分で銘を刻むようなことは、ヘンリックは過去に一度として思いつきもしなかった。  剣になにか書いてあることに、意味があるとも思わなかったからだ。  そのよく斬れる無銘の剣で、ひたすら血を浴びてきた。  息子たちの一生が、そのようなものとは全く違えばいいのにと、ふとそう思えた。  ではそれを願って、そのような銘を刻めばいいのか。  そんなものは俺らしくないと、夜警隊(メレドン)の連中は爆笑するだろうが。  それでもいいような気が、今夜ばかりはする。 「父上」  ヘンリックの剣を眺めて、イルスがふいに話した。 「きれいな剣だな」 「そうか?」  急にそうしたい気がして、ヘンリックはイルスの頭を撫でた。 「俺もほしいな、自分のが。父上がくれるの?」  それは湾岸の男として当然の願いだった。ヘンリックは瓶から酒を飲んだ。 「ああ、いつかお前にも本物の剣をやるよ。お前が名前に見合った強い男になったらな、イルス」 「うん、じゃあ俺、青い竜になるよ」  微笑んで、イルスはそう言った。ヘンリックはそれに、薄く微笑んで答えた。  初めからそうすればよかったと、後悔が湧いた。  こいつが小さな海から最初に上がってきた時にも、そうしてやればよかった。  あれから随分時が過ぎたが、今夜また海から生まれ直したのだということにして、それで勘弁してもらうわけにはいかないか、ちびっこい青い竜よ。  そう訊ねる目で見つめると、イルスは無邪気に父親の剣を抱いた。  そして別の部屋から、ヘレンが呼ぶ声がした。  ごはんよと。  さあみんな、こっちに来て、いっしょに食べましょう。  家族揃っての、遅い夕食だった。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「湾岸の鍼治療師」(1) ----------------------------------------------------------------------- 「アズミールが来ました」  戸を叩く従僕の子供の声で、ふと目が醒めた。  耳をそばだてながら眠っていた。  薄く目を開け、ヘンリックは俯せのまま横たわっている自分の顔の下の、絹の枕に描かれた複雑な染め柄を、間近に目で辿った。  深くぐっすり眠ったことが、ついぞない。泥のようにぐったり眠ったことなど、一生のうちに数えるほどしかないのではないか。  子供の頃は子供の頃で、昼より夜のほうがけたたましいような、貧民窟《スラム》の娼婦街に育ち、自分の寝床と言えるようなものもなく、物陰で大人を避けて眠ったし、その後は剣奴隷として、檻の中だった。とにかく常に寝るときは、物音に耳を澄まして、何かあれば飛び起きられるような支度をしたまま眠っていたような気がする。  それに生来、寝付きが悪い。頭の芯が高揚していて、気が昂ぶって眠れないのだ。  戦士としては、それで好都合だったかもしれないが、時折疲れ果てる。これでも昔はまだ、離宮にヘレンのいた頃であれば、あの女の寝床で一時深く眠ったような気がするが、それももはや昔のことだった。  離宮の女が腹に子を抱いたまま死んで、それによって呪われたような気がする。それまで斬り捨ててきた負け犬どもの、募る恨みが一気に押し寄せでもしたのか、その時以来のアルマの不眠が、一向に醒めない。  休まる時なく働き続けて、疲れ果てると、しばしば思った。死んだ方がましだと。  そういう気がした時には、アズミールを呼ぶことにしている。  砂漠から来た男だった。黒エルフで、年の頃は、良く分からない。若いような気もするが、実はそうでもないのか。大体において、砂漠の連中は年齢不詳に見えた。歳を訊かねばわからないが、訊く必要もない。  アズミールは鍼治療師《ジェドゥワ》で、族長リューズ・スィノニムからの贈り物だった。黒エルフには奴隷はいない。だから贈り物というのでは、気位のあるリューズは怒るだろうが、アズミールは最下層の身分の出らしい。家族らしい家族もおらず、実質、貴人の好き勝手で右に左に遣わされ、果てはこの湾岸まで来たわけだ。  そういう立場の者のことを、湾岸では奴隷と呼んでいる。給金を与えているから違うとリューズは言うが、奴隷身分でも貴人に仕えれば絹を着て、小遣いめいた金銭や、時には家屋敷まで与えられることもある。  どちらでもいい。話していると果てしない。奴隷身分か自由民かは、どうでもいいことだ。肝心なのはアズミールが腕のいい鍼治療師《ジェドゥワ》で、湾岸にはない鎮痛の技術を持っているということだった。  昔、戦で負った右肩の古傷が痛むので、それを癒やすためということで、リューズが寄越した一種の賄賂だった。  傷は今でも、天候しだいで時折痛む。  元は両利きで、剣を握る手は主に右だったが、負傷して右肩が痛むようになってからは、いつの間にか左利きのヘンリックと呼ばれるようになっていた。  そこはかとなく、忌々しいようなその渾名も、今ではすっかり馴染んでしまい、悪気無く呼ぶ者さえいるようだ。  そうなってはもう、敢えて右手で剣をとる必要もあるまいが、施療によって、一時でも右肩から痛みが消えれば、それはそれで爽快だった。  それがまず、アズミールの第一の価値だ。 「お待たせいたしました」  雨中を来たらしい、濡れた布地の臭いをさせて、鍼治療師《ジェドゥワ》アズミールは現れた。ヘンリックは寝たまま起きあがらなかった。どうせまた寝ることになる。鍼治療師《ジェドゥワ》は背中に針を刺すため、俯せに寝ろと言ってくるからだ。  身分が低いせいかどうかは分からないが、アズミールはいつも単身訪れる。施療のための、銀色に光る細い針を、ずらりと刺した紺色の布や、薬剤を入れた瓶や、その他細々としたものを入れた包みを持って、ひとりでふらりとやってくる。  もう十年来サウザスにいるはずだが、着ているものは相変わらずの黒エルフの長衣《ジュラバ》で、髪も長く伸ばした黒髪を、首の辺りで束髪にしていた。  ヘンリックの知る限り、リューズやその連れの廷臣たちは、公式の場では髪を高く結い上げていた。髪に挿す装飾も凝ったものだったし、結い方にも芸術的ともいえる複雑さがあり、その時々の流行もあるようだった。  そうでなければリューズはだらけた垂れ髪で、宮廷服は簪《かんざし》が重くて肩が凝ると、愚痴を垂れていた。  髪をどうするかには身分が現れるものらしい。アズミールはいつも質素な形《なり》をしていた。俸給も与えているはずだが、衣装に凝るということもない。  その貧乏性のようなものが、ヘンリックには居心地がよかった。自分が卑賤の生まれのせいか、身分の高い連中といると、肩肘張って息苦しい。誇れぬ程度の出自の者のほうが、どうしても気安かった。 「ひどい雨です。鎧戸を閉めさせなくてよろしいのですか」  勝手知ったるもので、アズミールは長々しい口上は省いた。長椅子に寝ているこちらの脇に来て、用意されていた小卓のうえに、持ってきた施術道具を取り出しながら、広々とした王宮の居室の、テラスに続く漆喰の飾り窓を見て、そう訊いた。  外では、夜半の海都サウザスに、殴りつけるような雨が降り続いていた。風もいくらか吹いている。部屋を照らす、紙の覆いがかけられた行燈《ランタン》が、揺らめく灯りを投げかけている。  アズミールは用意してきた蝋燭に、指先からふっと火を灯した。火炎の魔法を使う男で、それで戦えるほどではないが、火種には不自由しない生涯らしい。  灯された蝋燭の火も、頼りなくちらちらと揺れていた。 「風があるほうがいいんだ。閉じこめられると気が滅入る」  寝たままヘンリックは気怠く答えた。  夜会から戻り、正妃は具合が悪いというので、今夜は気楽な独り寝だった。セレスタと眠るのが、別に苦痛ということはないが、何とはなしに気が張って、眠りが浅いような気がする。  近頃とみに体調が芳しくない時があるようで、そういう時には決まってセレスタは、鬱々として癇癪を起こす。そうなると、訳の分からない理由で罵られたり、泣き喚かれたりするものだから、具合の悪いときにはお互い近寄らないようにしていた。  罵られるような理由はいくらでもあるのだろうが、こっちも疲れている。丸一日の政務から戻り、そこで癇癪女の相手をさせられるのでは、身が保たないような気がする夜もある。時にはこちらも気を抜かないと。  くたびれているなとでも思ったのか、アズミールは笑ったようだった。枕に俯せていて目を閉じているので、見えはしないが、微かに漏れる息の音が聞こえた気がした。  俺を笑うなと凄んで見せる気はしない。アズミールは気安くはあるが、身分は弁えていた。どちらが偉いか、よく知っている。  それにどうせ、顔に似合わず底意地の悪い、砂漠の異民族だった。いちいち咎めていては事が進まない。リューズからしてそうだ。なよやかなように見えて、根性悪で、アズミールはどことなくリューズと似た面差しだった。きっと性根も似たようなものなのだ。 「始めてよろしいでしょうか」  訊ねられたが、億劫だったので、ヘンリックは答えなかった。施術のために来たのだから、それを訊くのは無駄口というものだ。一応、頷いたつもりだが、見えたかどうか。  それでもとにかく、始めようかということだろう。  鍼治療師《ジェドゥワ》アズミールはヘンリックの夜着の襟首に手をかけた。背を出させるためだ。その右肩には傷がある。かつて山の者どもの戦斧でやられた傷だ。その傷痕は今でもそのまま古傷になって残されている。  夜着は前開きの、丈の短い部屋着《ガウン》のようになっており、後ろ襟を引けば着崩れて、裸の背が露わになった。  これも砂漠の装束だ。湾岸には寝間着というものがない。肌着で寝るか、それともいっそ裸で寝るかだ。奴隷や平民は言うに及ばず、貴族や王族であってもそうだった。それで何の不足があるかという事だが、リューズはそれを野蛮だと蔑み、わざわざ仕立てて自国の夜着を送りつけてきた。  柔らかに練られた絹地でできていて、上は前開きの、砂漠の民が着ている肌着に近い形の服で、下には同じ布地でできた袴《ズボン》を着ている。はめられたと思うが、着て寝ると心地よいので、余計なお世話だと言い切れない。  交易しているのだから、異国の趣味や習俗が、入ってくるのはやむを得ない。向こうも時折、海洋趣味が流行るとか。だからこれはお相子だと思うが、用事にかこつけて、わざわざサウザスを訪れていた向こうの族長が、新たに拓いた海都サウザスを眺め、なんと野蛮な街よとしみじみ感嘆するのには、さすがに、ぴくりと来る。  確かに湾岸は文化面で劣るようだ。リューズが言うように。夜は獣《けだもの》のごとく裸で寝ているし、手づかみでものを食い、鍼治療師《ジェドゥワ》のような治療師もいない。  それではお前があまりに哀れと、そんな親切心で、我が友リューズ・スィノニムは、湾岸の王宮にアズミールを寄越し、寝間着を寄越したらしい。お節介なのだ。  ヘンリックは笑うリューズのしたり顔を思い出し、深くため息をついた。アズミールが寄越されて、もう十年以上経つというのに、それについて通り一遍以上の礼状や返礼の品を送ったことがない。それではまずいのだろうが、わざわざ使者や鷹通信《タヒル》をやって、気に入ったと言うのも、独特の気恥ずかしさがあった。  ほの温い指が、右肩のあたりを揉んでいた。強すぎず弱すぎず絶妙の力加減だ。いちいち申しつけずとも、アズミールはこちらのどこがどう痛むのか、もうよく知っていた。それに、言われなくとも、触れれば分かるものらしい。指先に職業柄独特の魔法でもあるのか、海辺の者の褐色の肩を揉む白子のような異民族の手は、撫でさするだけで、疲労の溜まったところをいつも探り当てた。  痛いような気持ちいいようなだ。思わず嘆息しかけるのを堪え、難しい顔になると、それにも鍼治療師《ジェドゥワ》は笑ったようだった。  妙なものだ。人を喘がすのには慣れたものだが、喘がされるのには抵抗がある。しかし、まあ、アズミールも一種の、客を喘がす商売で、それゆえ身分が低いらしい。  砂漠の連中は身持ちが堅いのか、人の素肌に触れる仕事を蔑視したがるきらいがあるとかで、鍼治療師《ジェドゥワ》は元来、低い身分の者が就く職業らしい。貴族の鍼治療師《ジェドゥワ》はありえない。そのくせ、貴族の医師はいるのだし、奴らが有り難がっている、竜の涙の英雄たちにも、治癒者とか呼ぶ魔術医がいる。イルスの治療のために何度か訪れていた若い英雄、エル・ジェレフも、そういう類のものらしい。  あれは尊くて、鍼治療師《ジェドゥワ》は卑しいというのが、どういう区別なのか、ヘンリックには分かるような分からないようなだ。アズミールを選ぶ時、リューズは謁見しなかったらしい。族長がわざわざ顔を合わせて、送辞を述べてやるような身分の者ではないからということらしい。  アズミールはリューズの顔を知らないと言っていた。少々似ていると言うと、畏れ多いと謙《へりくだ》って、その話を拒み、拝謁したことがないと言った。  しかし本当に似ているのだ。血が繋がっているようだとか、目鼻立ちが同じというわけではない。リューズの目は金色で、アズミールは薄い茶色をしていたが、眦《まなじり》鋭く冷たいような、きつい感じが似ているし、他にも何とはなしに似た気配がする。どちらかというと地味な容貌で、金襴装飾付きのようなリューズの顔の、突き抜けた華やかさはないが、それでもヘンリックはアズミールと面と向かうと、いつも自分の同盟者のことを連想した。  それはおそらく、系統的に同じということだろうと、鍼治療師《ジェドゥワ》は遠慮がちに話していた。  黒エルフの連中は、容貌にいくつかの系統があるらしい。それにいちいち名前がついている。リューズは王家の血筋を引いていて、その容姿も王家のそれを受け継いでいるが、そのアンフィバロウ家はもともと、枯れ谷《アシュギル》という系統に属しているとのことだ。  そしてアズミールも同じその枯れ谷《アシュギル》なる系統に属する容姿であるらしい。だから似ているような気がするのだろうと、そういう話だった。  政略によって血を混ぜることの多い貴人はともかく、平民以下では、同じ容姿の系統の相手としか婚姻しないものらしい。貴人でも、直系の血を残すためには、なるべく同じ系統の女を選ぶ。族長もただ名君であればいいというのではなく、皆が知る、最初の族長アンフィバロウに似た容姿をしていることが、暗に大事で有り難がられるものらしい。まずは血筋がものをいう。そういう世界のようだ。  まるで名馬か名犬か、そんな血統主義に聞こえるが、それはさすがに言うべきではないかと思い、リューズはもちろんだが、アズミールにでも、言ってみたことはない。言えばたぶん動揺するか、内心むかっと来たりして、うっかり手元が狂ってしまい、痛いところに針を刺される。  ちくりと最初の針を刺されて、ヘンリックは寝たまま微かに身構えた。それ自体は大した痛みではないが、その後に来る疼痛を思って、緊張したのだ。  針は髪の毛のような細いもので、刺されることには、さしたる痛みはない。ぼけっとしていれば気がつかないようなものだ。しかしアズミールはその針を深く刺す。肌の下にある、神経の流れを捕らえるまで、そうっとゆっくり押し入れて、それに触れると針先を止め、小さく針を回す。  それが強烈だ。痛いというのとも違う。むず痒いような。思わず呻きたいような。肩に力が入るが、どうぞお楽にと言われて、それもできない。歯を食いしばりたいのを堪えて枕の端か敷布でも掴んで耐えるしかないような、良く分からない感覚だ。  しかしこれが慣れると、妙に気持ちいい。ここにしかない妖しい快感で、癖になる。その感覚そのものが好きというよりは、その後に楽になる右肩の軽さに、填《はま》っているのだろうが、まさかこれも好きなのかという気がする時もある。  人には言えない気恥ずかしさだ。  リューズも不眠に悩み、虚弱の気もあるので、時折、鍼治療師《ジェドゥワ》を使うらしい。だからこの感覚を知っているわけだ。そういうあいつに、気に入ったとは返事しにくい。にやっとされるのが目に見えている。喜び勇んで送られてくる返信で、なんと言われるかわかったものじゃない。 「耐え難く、痛むようでしたら、おっしゃってください」  礼儀正しくアズミールはいつもの事を言った。  どのあたりから耐え難いのか、分かるわけがない。毛ほどの針を刺されたぐらいで、族長ヘンリックともあろう者が、痛い痛いと呻くわけにもいくまい。こちらにも面子があるのだ。  まして相手は剣をかけて渡り合えば、一刀で倒せそうな柔《やわ》な異民族の若造で、にこにこリューズに似た顔で微笑んでいる。負けるものかと、つい思う。  わざと選んだのではないか。リューズはアズミールの顔を見ていなくても、血筋の系統を訊くくらいはできただろう。それが自分と同じだということは、知った上で送ってきたのではないか。  それぐらいの嫌みは効かせる。あいつはそういう底意地の悪い男だ。自分に似た顔をした鍼治療師《ジェドゥワ》に、我が友ヘンリックが針を刺されてひいひい言っていると想像すると、たぶん笑いが止まらないのだろう。  恐らくそんな目論見もあったのだろうが、十年もの間、梨の礫《つぶて》で、当てが外れたと思っていることだろう。  非礼だが、黙っておいてよかったと、背骨のあたりに針を刺されながら、ヘンリックは思った。怖気立つような感じが背筋に添って走ったからだ。針で直に神経を刺激しているらしいが、よくも砂漠の連中は、そんなことを思いつくものだ。これが体に良い刺激で、針で突くだけで薬効のようなものがあるらしいが、それにしても、最初にやってみた奴は凄い。一体どういう気の迷いで、体を針で突いてみたのか。 「アズミール」  汗が出そうな気がして、ヘンリックは鍼治療師《ジェドゥワ》の手を止めさせ、目元を覆った。 「効きすぎましたか」  ちらりと見ると、異民族の若造は素知らぬ顔で、次に使うつもりだったらしい、やけに長い針を、慣れた手つきで蝋燭の火に炙らせていた。 「お前たち砂漠の民は、一体いつからこんな妙なことをやっているんだ?」  息継ぎしようと思って、ヘンリックは訊ねた。話している間は鍼治療師《ジェドゥワ》も針を刺すまい。 「鍼《はり》のことですか?」  それのどこが妙かと、意外そうな声で、アズミールは答えた。 「存じませんが、大昔からです。鍼《はり》での治療には、高価な薬も要りませんので、民間では医術よりも浸透しております。医師は値が張りますが、鍼治療師《ジェドゥワ》はさほどでも」  話しながらでも、鍼治療師《ジェドゥワ》は容赦がなかった。ちゃんと寝ろという仕草で長椅子に戻され、しっかり針を刺された。ぐっさりと。  さすがに呻いた。左肩なら心臓まで突き刺さるのではないかという深い針に思えた。それがねじねじ神経を弄るのだから、それでも平気だという奴がいるなら顔を見たい。  しかし、痛いといえば痛いそれによって、右肩の奥に常に居座っている固い凝りのような痛みが、熱くほどけていくようなのが感じられ、心地よいような居たたまれ無さだ。 「祖先が始めたのは、おそらく奴隷時代ではないでしょうか。詳しい文献などはないようですが、文献がないということは、そういうことです。部族では、太祖の王朝以後であれば、なんにでも文献はあります」  太祖というのは、リューズの祖父の祖父の祖父の、とにかく血筋の始めにいた族長アンフィバロウのことだ。黒エルフどもは何でも記録を書いて残す。膨大な書きつけがタンジールの王宮には残されているらしい。筆まめなのも血筋なのかもしれない。どうでもいいようなことでもリューズは鷹通信《タヒル》を送りつけてくるし、蛇眼の連中は口約束を嫌う。とにかく書面に、そして判子《はんこ》だ。  使者も商人も、こちらが書く返答の書に、印璽《いんじ》を捺せとうるさくせがむので、もともと湾岸にそんなものはないというのに、うるさくなって、ヘンリックは判子を作らせた。書状に朱墨の跡がないと、わなわな震えそうだという奴には、これでよかろうと捺してやることにしている。  湾岸では署名でいいのだ。たとえ口約束でも、証人を立てればそれでいい。約束を守らない奴は男ではない。それがこの地の文化なのだから。言質を与えるのに書き付けなどいらない。いちいちそんな、せこいことを言うあいつらは、やっぱり女の腐ったような連中なのだ。  ぺらぺら饒舌だし、気位が高く、ご機嫌をそこねると癇癪を起こす。親玉からしてそうだ。リューズの癇質は、正妃セレスタの比ではない。あれでも男だ、泣き喚いて詰りはしないが、通商や軍事同盟の条件が気に食わんとか、うっかり何か口が滑って、部族の誇りを傷つけたとでも思われたら、これは侮辱かヘンリックと冷たい声で言われ、粘質な嫌がらせも辞さない。それでも会うとにこやかに、会いたかったぞ我が友よと握手なんぞ求めてくるのだから、いい面の皮だ。  優しげな容姿に油断していると、あいつには時折、酷い目に遭わされる。この鍼治療師《ジェドゥワ》の派遣からしてそうだ。治療と称して今も情け容赦なく人の神経をほじくり回しているが、たとえこちらが男でも、できる我慢とできない我慢はある。 「痛い」  さすがに言うしかない段階に至り、ヘンリックは忌々しく呟いて教えた。 「もう終わりでございます」  にこやかな作り笑いで答え、アズミールは恭しい会釈を返してきた。 「もうしばらくしましたら針を抜いてまいりますので、それまでお楽に」  じっとしてろと説教されて、ヘンリックはしぶしぶ、起こしかけていた身をまた長椅子に戻した。ため息まで漏れた。  アズミールは退室の支度か、拡げていた余分の針を刺した布きれを、物静かに畳んで片付けているようだった。 「族長。相変わらず、不眠にはお悩みですか」 「持病だ」  苦々しく、ヘンリックは答えた。 「そちらの施術もいたしますか」  まだまだ針を突き刺したいのか、アズミールはいかにも親切そうに訊いていた。  よろしく頼むと、言うしかなかった。なんせ、ここからがこの男の第二の価値で、近頃そちらが本命だ。  足からいくらしい。いきなり裸足の足を掴まれて、土踏まずを押す指のくすぐったさに、ヘンリックは渋面で耐えた。痛いというのも恥と思えるが、くすぐったいと言うのも、それはそれで、ふざけたようで嫌だった。どこぞの女の寝床でやるなら、そんな軟派もひとつの睦言だろうが、なんでまた、こんな異国の針刺し男に足を揉まれて笑わねばならんのか。 「気苦労が多くていらっしゃるのですね、族長閣下も」 「うるさい、黙ってやれ」  まさか考えを読まれたわけではあるまいが、鍼治療師《ジェドゥワ》は絶妙のことを言っていた。それに噛みつく自分も、年に似合わず餓鬼臭く、少々痛みが伴った。人を痛い目にあわせるのも、こいつの性分なのか。寡黙な割に、時折、余計なことを言う。 「少々、薬を使います」  畏まって一礼してから、恐縮してはいないふうに、アズミールは言った。それは意向を訊いているわけではない。何も言わずにやると非礼だからという程度のことだろう。  むかむかしながらヘンリックは針を待った。  先程、肩に打っていたのよりは、ずいぶん小振りな銀の針を蝋燭の火にかざし、アズミールは薄い茶色の蛇眼で、その針先をじっと見ていた。  そして、熱し終えた針を、小卓の上にある硝子《ガラス》の小瓶に浸すと、じゅっという小さな音がしたような気がした。  滴る薬液を、清潔そうな綿布の小片で拭き取り、アズミールはおもむろに、その針をヘンリックの首の後ろの、耳よりいくらか下のあたりに、ついと刺した。  ちくりとした。そして、少々の後、ことりと唐突な眠りがやってきた。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「湾岸の鍼治療師」(2) -----------------------------------------------------------------------  針で刺すと、眠りを誘う場所があるらしい。しかし、それだけで、ことりと眠りはしない。アズミールは薬も使う。薬師《くすし》としての知識も持っているらしい。しかし薬師や医師として働くには、能力は足りても、身分に不足があるらしい。  愚かしいと、リューズはそれについて批判めいた愚痴を述べていたが、名君の誉れ高きあいつも、自分の玉座がある場所では、独裁者ではない。部族の伝統を破壊して、何事も我が儘に推し進めるというのは無理なものらしい。  俺はお前のような、我が儘勝手な暴君ではないからなと、リューズは恨めしげな流し目で睨み、異国の都サウザスで、愚痴愚痴と話していった。我が宮廷には太祖の昔より、厳然とした序列がある。それに従った、分相応というものがある。最下層の任にある者も、玉座に座す族長も、自分の序列に準じた箱から出てはならないというのが、厄介ではあるが、やむをえぬ秩序というものだ。  秩序。忌々しいが、極めて重要なこれを、決して乱さぬように、それでいて、諸悪の根源となる病巣を、患者を生かしたまま切り取る手練れの医師のように、改革は行われねばならない。野蛮な長剣でなぎ払い、ぶった切るような、お前のやり方は野蛮なのだ。  ヘンリック・ウェルンは野蛮な男だ。蛮勇ばかりが異郷に聞こえ、人は皆お前のことを、交渉よりも剣と血で、物事を推し進める野卑な男と思いこんでいる。左利きのヘンリック。お前も秩序に添って事を進める手際を学ばねば。きっとまた、泣き所を突いてこられる。孕み女を殺されて、その次は誰か。可愛い遺児の手足の指を、一本ずつもがれるような事にならねば良いが。  お前が自分で信じていたように、そうなっても顔色一つ変わらない、非情な男であればいいがなあ、我が友マルドゥーク。俺もかつては自分のことを、血も涙もない王宮の毒蛇と、勘違いをしていたが、妻子を虜囚にとられ、もしも敵の獄吏が間違えず、切って落として送りつけてきたのが、可愛い息子の指のほうだったら、きっと正気ではいなかっただろう。発狂していた。なにしろ高貴で繊細な神経の血筋なのでな。  お前は野蛮な奴隷の出だから平気だろうか。それが本当だかどうだか、試してみることにならねばよいが。なんせ死んだらそれっきり、たった二人しかいない息子なのだろう。俺には息子が十七人もいて、それでも二人も死んだらつらい。それで全部のお前には、きっともっとつらいのだろうなあ。  しかし安心しろヘンリック。お前の息子はまだ死んでない。母が死んでも平気で生きている。寄る辺はなくても命があれば、子供は勝手に育つ。それでも誰か守る者はいてくれたほうが、何倍も気楽だ。お前もまだ、発狂している場合ではないのじゃないか。  にやにや心配げに苦笑して、目の前にしゃがみ込み、頬杖をついて話すリューズの長広舌が、夢に出てきた。  悪夢の類だろうかとヘンリックは思った。  離宮でヘレンが毒死して、その後、どれくらい経った後か、呆然と過ごしていると、リューズが現れて、ぺらぺらそう喋った。そして、堪えがたいというように、さらに苦笑し、持っていた絹の布で、口元と、白い鼻先を覆って言った。女を墓に埋めてやれと。  あれはもう、死んでいる。寝ているのではない。死体だ、ヘンリック。見て分からないのかと。  分からないなら、それもやむを得ない。お前はもう正気じゃないのだろう。しかし見せるな、子供には。子供は俺が貰っていってやる。それが嫌なら、早々に正気に返れ。さもないと、譲位することになるぞ、ヘンリック。族長冠と首を奪われる。そうなったら、お前の子らはどうなるんだ。  俺はもう帰るが、よく考えろ。俺も新しいマルドゥークが好きとは限らん。  さらばだ友よ。また会おう。そう遠くない、いつかの日に。  信じているぞと励ますような、苦々しい笑みを残して、立ち去る様子のリューズの姿は、一時《いちどき》に見たものではなかった。時が交錯している。過去に見たことがあるリューズ・スィノニムの記憶のごった煮のようなものだった。  離宮でヘレンが死んだのは、やつの息子が虜囚にとられたのよりも、ずいぶん前のことなのだから、それを同時に話しているわけがない。  だからこれは夢なのだろうが、まるでその場にいるようだった。真っ暗な闇だけの中に、その闇から生まれ出たような黒髪と、黒衣のリューズが立っていて、もう立ち去りそうだった。  いつだったか、何でもない用件にかこつけて湾岸にふらりと物見遊山に現れて、ではまた会おうと、いつも通りに帰っていったが、それが本人を見た最後で、あれから何年も、一度も海辺に現れていない。使者や手紙は頻々と送ってくるが、それだけだ。  かつては玉座を留守にしても、代わって宮廷を切り回していた乳兄弟の兄がいたが、それが死んでしまって、もういないので、代わりの留守居を決めかねて、旅に出るにも腰が重いのだという話だ。  たぶん、さしものリューズも歳を食ったのだろう。四十路も間近ともなると、玉座を蹴って物見遊山に出るという気も薄れたのだろう。  たまには来いとタンジールに呼ばれてはいても、ヘンリックは戦《いくさ》以外の理由で、サウザスを留守にしたことはない。それが普通だ。族長冠をかぶった頭が、ふらふら三月《みつき》も四月《よつき》も、気まぐれで旅をするということは、普通ではない。  あいつもやっと大人になったのだ。口うるさい兄貴が死んで。守ってくれる者がいなくなったので、実は自分が家長だということに、突如として気がついたのだろう。  だが、しかし、また会おうと別れて、それきり今生の別れというのでは、あまりに愛想のない話だ。またどこかで、会う機会もあればいいが。離宮に激励に来た件の礼も、そういえば言ったことがない。実は何かと、返していない借りがあるのだ。  いつか言うからと、立ち去る黒衣の姿を眺めると、リューズはこちらを振り返り、にやりと人の悪そうな笑みを、白い顔に浮かべた。  それきりだった。  どれくらいの間か分からない。そのまま深く眠った。ぐっすりと深い、泥のような眠りで、もう夢も見なかった。  ごう、と風の鳴る音がして、それに煽られた何かが、けたたましく窓辺で転がり落ちた。びくりとして目を醒ますと、長椅子の脇に腰掛けを持ち出してきて座っていた鍼治療師《ジェドゥワ》が、少し驚いた顔をして、物音のした窓辺のほうを眺めやる横顔をしていた。  小卓に置かれていた蝋燭が、まだ火のついたままで、砂漠の趣味で作られた浅い真鍮の燭台の中で、もうじき燃え果てようとしていた。ゆらゆら揺れる灯火が風にくすぶるきな臭い臭いに混ざり、蝋《ろう》に練り込んであるらしい、涼やかだが濃厚な、麝香《じゃこう》のような芳香が漂っている。  深い眠りから醒めた気怠さと、深く眠った爽快感の両方が、体に残っていた。  ヘンリックが長椅子に身を起こすと、アズミールはこちらを見たが、起きあがるなとはもう言わなかった。とっくに針は抜いてあったらしい。着衣も直され、肌かけらしい綿布が、いつの間にやらヘンリックの体にかけられていた。  たぶんアズミールが側仕えの従僕を呼んで、持ってこさせたのだろう。眠りこけた族長ヘンリックが、風邪でもひいたらまずいということで。  生来、殴っても死なない質だ。居眠りしたぐらいで風邪などひくまいが、それも人の心遣いだろう。破れた屋根からの雨垂れに打たれるまま、びしょ濡れで眠っていた子供時代とは違う。今ではもう、うたた寝すれば布団をかける者がいるような、人並みのいいご身分だ。 「良くお休みで」  それで良かったという口調で言って、アズミールはそれでも、待ちくたびれたような顔をしていた。  椅子に腰掛け、手には薄煙を上げる煙管を握っている。  煙管を使って喫煙するのは、砂漠の民には普通のことだが、よくも異国の王宮の、族長の眠る部屋で、暇つぶしに煙をふかしたりするものだ。謙譲し、身分を弁えているようでいて、アズミールは案外ふてぶてしかった。それをやっても許されると考えている。  そして実際許されている。ヘンリックには、咎めようかという気は起きなかった。何とはなしに、この鍼治療師《ジェドゥワ》には、頭の上がらないようなところがある。 「ぐっすり眠った。久々に」 「薬が効きすぎたかと焦り始めたところでした。お疲れのようで。どうしてお疲れなのに眠れないのか不思議です」  遠慮する気配もなく、煙管をふかして、アズミールはゆっくりと、淡く灰色がかった煙を吐き出した。それには、甘いような芳香があった。  その匂いには、覚えがある。鍼治療師《ジェドゥワ》は麻薬《アスラ》を吸っていた。湾岸に来てから覚えた妙味らしい。  サウザスは内海に臨む貿易港でもあり、隣大陸から良質の麻薬《アスラ》が流入していた。繁殖期《アルマ》の頃に、血の力だけでは酔えないような、狂乱の血の薄い貴族層が好んで用いるし、価格によっては市井でも、普通に流通していた。  麻薬《アスラ》と言っても様々だ。深く脳の随まで狂わすような、悪質なものもあれば、酒か茶でも嗜むのに似た、ほんのちょっとの気晴らし用のものまで、様々ある。  それも貴重な貿易品で、アズミールの故郷の黒エルフ領にも、隊商に積ませて運び込まれていく。かつては砂漠が煙りに霞むほど、大量の麻薬《アスラ》が消費されていたらしいが、それで湾岸の商人たちが、がっぽり稼げていたのも、族長リューズが即位して、しばらくの間までだった。  リューズが市井での麻薬《アスラ》の使用を禁じたのだ。薬害による頽廃が極まるところまで極まって、市井も軍も、宮廷の玉座の間にまで、今にも崩れ落ちそうな腐敗が迫り来ていたらしい。リューズはそれを腹に据えかねて、叛けば斬首とまで命じ、民に禁令を徹底させた。  今では奴の英雄たちが鎮痛のために使う麻薬《アスラ》が、粛々と護衛された隊商に運ばれ、タンジールに向かうだけだ。ぼろい商売を失って、湾岸の商人は内心、族長リューズを恨んでいるだろう。  しかし湾岸では今も変わらない。酔いたい者は煙に酔っている。それがたとえ、禁令厳しきタンジールから送り込まれた、白い顔に蛇眼を光らす、族長リューズに仕える建前の鍼治療師《ジェドゥワ》でもだ。 「実は閣下。先頃、本国より命令書が参りまして、我が玉座の君が、閣下が鍼治療師《ジェドゥワ》にご興味なきご様子なので、お前の仕事ぶりに不足があるのだろうと、ご不満とのことです。ついては無駄飯食らいを異国の宮廷に預け置くわけにいかぬので、早々に戻ってまいれと命じられました」  アズミールは淡々と話した。  送りつけてから十年を越え、リューズも焦れたのだろう。こちらがあまりにも無反応なので。それで、最後に駄目押しと、揺さぶりをかけてきたのだろう。 「お暇《いとま》を頂戴できるかどうか、族長閣下にお尋ねするよう、申しつかっております」  ふはあと煙を吐いて、鍼治療師《ジェドゥワ》は酔ったような目だった。おとなしそうで地味ではあるが、それでも砂漠の麗質をした顔が、うっとり寛いだようだった。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「湾岸の鍼治療師」(3) -----------------------------------------------------------------------  枯れ谷《アシュギル》か、と、ヘンリックはその顔をじっと眺めた。やはり、どことなくリューズに似ている。ほんの、ちらりと目の迷い程度だが。それが懐かしいような気さえする。  いくつか系統があると言っていたが、一体、砂漠の連中の美貌には、どれくらいの数の系統があるのだろうか。ずらっと並ぶと壮観なのだろう。こんなのばかりが絢爛に着飾って、うようよいるような宮廷は、さぞかし壮麗だろうが、少々不気味でもある。この世のものとも思えないし、まるで悪い夢のようだ。  リューズと連合して、戦場で相まみえたことはあるが、奴が玉座の間《ダロワージ》と呼ぶ、絢爛らしい王宮の広間での様子は見たことがない。イルスは訪れたことがあり、それは美しいものだと話していたが、ヘンリックにはどことなく気味が悪く、魔術的なものとしか想像がつかなかった。  迷信深い性分で、砂漠の魔法というのに偏見があるからだろうか。とにかく魔導師たちは油断がならない。その親玉も油断がならない。  今さら突然、昔くれてやった鍼治療師《ジェドゥワ》を返せとは、一体どういう目論見だ。  ああ、もう、参ったとヘンリックは思った。  疲れ果てるごとに、これに依存して十年だ。もはやこの鍼治療師《ジェドゥワ》無しでは腕も上がらず首も回らないだろう。時々深く眠らされる、あの熱く滴る針の効果も捨てがたい。  身を起こしてみた体の中で、連日の激務で募りに募っていた疲労が、とりあえず明日も生きようかと思う程度には引き潮になっていた。 「どうあっても返せという話だったのか?」  寝ぼけて曇るような目を指先でこすり、長椅子の上に胡座をかいて、ヘンリックは渋々訊ねた。 「いいえ。閣下がご不要と判断された場合は戻れということです」 「不要ではない」 「そのようで」  薄笑いで同意して、アズミールは、煙管を宙に持ったまま、ゆっくり深い息をついた。腰掛けに座る姿勢はすらりと背筋が伸びて、堂々として見えた。出自卑しい者には見えない。あたかも玉座に座す、族長リューズもかくやと言ったところだ。  どうせ、この若造は、増長しているのだろう。俺のお陰でお前は生きていられるんだぐらいの事を思っているのかもしれない。それもまあ、そう思いたければ、思えばいい。あながち嘘でもない時はある。 「引き続き、サウザスでお仕えしてもよろしいでしょうか」 「好きにしろ。どうせ戻れば斬首だろう、お前は」  面憎いと思って、ヘンリックは嫌みを言ってやった。  すると鍼治療師《ジェドゥワ》は笑い、痛いところを突かれたという顔をした。 「いえいえ。閣下の都サウザスへの愛着断ちがたく、かくなるうえは、このまま生涯お仕えして、渚の砂に骨を埋めようかと」  鍼治療師《ジェドゥワ》はぺらぺら滑らかに喋っていた。 「口が上手いのも、枯れ谷《アシュギル》とやらの特徴か?」  言葉巧みで調子がいいのもリューズ・スィノニム的だと、ヘンリックは辟易した。 「さあ。それは聞いたことがありません。畏れ多くも玉座の君と、遠く及ばず、この私だけではないでしょうか」  薄笑いして言う鍼治療師《ジェドゥワ》に答えるように、深夜の空に盛大な稲光が閃き、間断ない素早さで雷鳴が轟いた。雨はさらなる豪雨になっていた。  これではサウザス市街の石畳は、流れる川のごとくになっているだろう。とっくに夜会もはねる時刻で、車輪が滑るのを恐れる御者は、馬車を出すのを嫌うだろう。  アズミールには市井に家を与えてあったが、そこまで徒歩で帰れとも言いがたい。雷鳴轟く水浸しの街道で、馬車が横転でもして、鍼治療師《ジェドゥワ》の腕が鈍るような怪我でもされたら大事だ。  もう一人送れとリューズに泣きつくのは格好がつかない。 「王宮で、朝まで寝ていけ。雨が止むまで。従僕に声をかけて、部屋を用意させろ」  上掛けの綿布をうるさく長椅子に放って言い渡し、軽く申し訳程度の一礼をする鍼治療師《ジェドゥワ》を残して、ヘンリックは裸足のまま、窓辺に雨を見に行った。海上から来た嵐のようだった。港の船も沖に逃げた頃だろう。  野分《のわき》の風が吹き荒れて、王宮の庭には見る影もなかった。風に嬲られたテラスの行燈《ランタン》が、すでに火も絶え、雨に打たれて踊り狂っている。  これでは鷹も飛ぶまいと、ヘンリックは思った。  嵐が過ぎていってからでいいだろう。リューズに鷹通信《タヒル》を送るのは。  鍼治療師《ジェドゥワ》は大変気に入っているので、召還しないでもらいたい。お前の気遣いには感謝している。お陰で痛みも紛れるし、時にはぐっすり眠れると、なけなしの言葉を尽くして口下手が、喜んでみせねばならないだろう。  それで砂漠の黒い悪魔も、いい気味だと満足をして、鍼治療師《ジェドゥワ》を留め置くことにするだろう。針が好きかと、ちくりと皮肉は言うだろうが。  のんびり道具を片付けて、アズミールは部屋を出るらしかった。吹き消された蝋燭と、消え残る甘い煙の匂いがする。また盛大に雷鳴が轟いた。  セレスタは、眠れたろうかとヘンリックは思った。あの、近頃とみに神経質な正妃は。  眠れぬようなら、あいつも一刺し、ちくりとやってもらえばいい。鍼治療師《ジェドゥワ》アズミールに。  その針で、あの癇癪がおさまるようなら、俺もいくらか気が楽なのだが。アズミールの針は、そういうものには効かないものか。セレスタは、異国の鍼治療師《ジェドゥワ》を気味悪がって傍へ寄せないので、確かめようがない。  それでもまあ、結果的には同じことだ。時折、族長ヘンリックの気が晴れれば。  嵐はその夜、翌日の昼近くまで続いた。鍼治療師《ジェドゥワ》は飽きもせず、王宮の部屋で煙を燻らせていたらしい。  野分明けの空にヘンリックは鷹通信《タヒル》を放った。それは逞しい翼で砂漠の都へ向けて飛び、やがて、読んですぐに書かれたらしい、リューズ直筆の返信を持った鷹が飛来した。  そこには一文、流麗な書によって、こう記されていた。  友よ、汝が鍼治療師《ジェドゥワ》の快美を好むと聞き及び、我、極めて愉快なり。 《おしまい》 _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2010 TEAR DROP. 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