掲載サイト:TEAR DROP. ( http://www.teardrop.to/ ) _______________________________________________________ =================================== カルテット 番外編 =================================== ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(1) -----------------------------------------------------------------------  砂丘を越えた先に、白い幻のような四つの尖塔(ミナレット)が姿を現すと、隊列のそこかしこから、フラ・タンジールと歓呼する声が聞こえた。  麗しの(フラ)タンジール。  あの都市に棲む黒エルフの民が、故郷を讃えるため唱える祈りのような言葉だった。  意味を知ってはいるが、イルスはその言葉を口にしたことはない。よそ者である自分が、彼らがこの都を思う気持ちを理解できるはずがないからだ。  港の水先案内人のように、近隣の中継都市で待ち受けている隊商(キャラバン)の案内を受けなければ、この都市に異民族が入ることはできない。都市の場所が秘されているからだ。  砂丘から突きだした塔は、巨大ではあったが、ただの空洞だった。辺りにはその他に、人の手によって築かれたようなものは見あたらない。そこにあるのは都市の入り口だけで、街は砂漠の地下にあるからだ。  誰もいない砂の中に、うつろな闇へと続く入り口だけが待っている。  そのはずだった。  白砂は明け方の光を受けて輝きはじめていた。  砂まじりの風をよけて、目深にかぶっていたフードを、イルスは都市の入り口を見るために少しだけ引き上げた。  闇に濡れたような漆黒の馬が首を垂れて立っており、それにもたれるようにして、黒衣の人影が見えた。腕組みをして、くつろいだふうに立っている。  やってくる隊列の中にイルスの姿を認めると、人影は組んでいた腕をほどき、一歩進み出て、こちらを見つめた。  顔は見えなかったが、スィグルだと思った。  この都市の者は大抵が皆、引きこもりがちで、外気に触れるこの場所にとどまるのを嫌うからだ。好きこのんでタンジールを出て、入り口に突っ立っているような酔狂な黒エルフといえば、スィグルに違いなかった。  星を見にやってくるのだ。  西の空には、まだ、ひそやかな夜の残り火が、かすかに灯されている。  到着した隊列が、砂牛の脚を休ませると、スィグルはのんびりと砂を踏んで、慣れない騎獣にまたがるイルスのところへやってきた。  白い顔に、金色の瞳がぎらつくようであり、正装のときのように結い上げていない黒髪が、腰のあたりまでを長く覆っている。身につけている黒い長衣(ジュラバ)には飾り気がなく、散歩のついでにふらりと出てきたもののようだった。 「よく来たな、友よ」  芝居がかった口調で、スィグルは歓迎の言葉を述べた。  砂漠の水先案内人たちは、額冠(ティアラ)をつけたスィグルに、族長の血族に対するにふさわしい儀礼で、恭しく腰を折った。 「鷹通信(タヒル)が知らせをよこしたから、迎えに出た。久しぶりだね、イルス」  長らく会っていないような気はしたが、どれくらいか数えたことはなかった。顔を合わせれば、気安さは、学寮で過ごした昔のままだ。  だがスィグルは、イルスの見知っている昔の姿から、いくらか面変わりしていた。背が伸び、髪が伸び、顔立ちが鋭くなっている。相変わらずの痩身ではあるが、初めて会ったころの、骨ばかりのやせっぽちだった少年ではない。あと一歩で一人前の大人になろうとしている黒エルフの、油断ならない顔をしている。  それもそのはずだ。自分が十八歳になったのだから、スィグルは十七歳のはず。  だが、自分が年をとるのは当たり前でも、子供時代を知る友人が大人になっていくのは、イルスには何か奇妙に思える。  こちらに横顔を見せて、スィグルは隊商の積み荷を眺めていた。 「塩と紙か」  確かめるように呟き、スィグルはこちらに目を戻した。 「それから通商条約更新のための契約書だ」  イルスは付け加えた。 「遠方からわざわざご苦労だね」 「俺もタンジールは懐かしかったからな」 「この街に、あんまりいい思い出はないんじゃないの」  酷薄な笑みをうかべたような、スィグルの目を見つめ返して、イルスは何も答えなかった。黒エルフは相手の目を凝視する。こちらが目をそらさない限り、向こうが視線をそらすことはない。 「王宮へ」  背を向けて、スィグルは自分の馬にまたがった。手入れの行き届いた黒い馬の毛並みは、輝くようになめらかだ。  王宮は、タンジールの最深層にある。これからがまだ、長い道のりだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「螺旋貫道に酔わなかったかい」  王宮内の一室が、滞在用に用意されていた。そこで身なりを改めて、イルスは正装していた。  長旅のあとで、本音を言えば、しばらく休みたいところだったが、朝方到着した関係上、王宮の朝儀で、族長リューズ・スィノニムに謁見しないわけにいかなかった。父である族長に派遣された大使として、この街を訪れているわけだから、眠いから寝ますでは話にならない。  部屋に顔を見せたスィグルも、朝儀に列席するために、出迎えに現れた時とは打って変わった、きらびやかな黒エルフの正装に着替えていた。長い髪を金銀の簪(かんざし)で結い上げ、精緻な刺繍のほどこされた長衣を纏い、絹糸で拵(こしら)えた曲刀を帯にさしている。  そうやって着飾っていると、スィグルは他の黒エルフたち同様、血の通っていない作り物のような美しさで、どことなく気味が悪かった。 「あれをぐるぐる回って王宮まで降りてくると、気分が悪くなるのもいるらしい」 「相変わらず、すごい街だ」  イルスは素直に感嘆を表した。  地表にあらわれている入り口から、螺旋貫道と呼ばれる、都市を最下層まで貫く螺旋状の道が続いており、その道にからみつくようにして、地下七層の都市が広がっている。地下にあるにも関わらず、タンジール市内は明るい光で満たされており、上層には農地までもが拓かれている。  魔法で作り出された太陽が、都市を照らしている。と、かつてこの都市を初めて訪れた時に説明された。その時は、あまりに突飛な話に、開いた口が塞がらなかったが、それを知った上で改めて訪れた今でも、螺旋貫道から垣間見える階層状の都市の光景は、おかしな夢を見ているように感じられた。 「そのことは、謁見のときに父上に言うといい。皆にうけるから。黒エルフはこの街を誉められるのが、三度の飯より好きだ」  にっこりして、スィグルが助言した。そんなふうに微笑むと、スィグルは十四歳のころとあまり変わらない表情になった。 「悪いが、大使の口上は丸暗記したのを言うだけだ。今さら新しい話を付け加えるのは無しだ」 「そんなこったろうと思ったよ」  ふふふ、と面白そうに笑って、スィグルは上機嫌になった。 「念のため確認だが、お前の身内に変わりはないな。非礼があると、まずいから」  訊ねると、スィグルは笑った表情のまま、しばらく押し黙っていた。そして、唇を開き、また、ややあってから答えた。 「イルス、母上が死んだ」  スィグルがうち解けた笑顔のまま言うので、イルスは思わず絶句していた。  スィグルの生母エゼキエラは、族長スィノニムの側室のひとりで、その死は、大使が口上をのべる際に省いて良い話題ではない。しかし、そんな連絡は受けていなかった。  スィグルはその話をしに、朝儀に先んじて、会いに来たのだろうとイルスは思った。 「……スィグル、大丈夫か?」  まずは同盟部族の王族どうしとして、儀礼にかなった弔意を示すべきかもしれないが、イルスの口をついて出たのは、友を案ずる言葉のほうだった。 「謁見のときには、大使はその話題に触れなくていい。族長はまだ、母上の死をご存じない」 「いつ亡くなったんだ」 「一昨日」  スィグルはまだ、張り付いたような笑顔を浮かべている。イルスはそれに、違和感をおぼえた。  スィグルの母エゼキエラは、かつて敵の虜囚となった際の苦難がもとで正気を失い、救い出された後も、病状は思わしくなかったはずだ。スィグルは共に囚われていた母のことを、常になによりも気にかけていた。  その死は、笑って語られるような軽いものではありえない。 「なぜ亡くなったんだ」 「さあ……わからないんだ。術医が言うには、母上は、生きていくのをやめたんだ。とにかく死んだ。最期まで、僕のことは誰だかわからないようだったよ」  イルスはやっと、型どおりの弔辞をのべなければという気になった。しかし、口を開きかけるイルスを制して、スィグルが早口に割り込んだ。 「もういいんだ。大したことじゃない。母上は虜囚時代にとっくに死んでた。戻ってきたのは魂のない抜け殻みたいなものさ。いっそ死んでくれて気がらくだよ。もう僕は母上に関して、どんな心配も期待もしなくていいんだから」  まだ、うっすらと微笑みを浮かべているスィグルの口元に、嘘の気配がしたが、イルスはそれを問いただすことはできなかった。たとえどんな有様であろうと、スィグルは母親を愛していたはずだ。回復を願っていた。 「族長にお知らせしなくていいのか」 「しないといけないだろうね。いちおう、父上の妻だからね」  スィグルは、困ったなという表情をした。書きかけの大切な書類のうえに、葡萄酒をこぼしたような顔だった。 「でも、いやなんだ。母上が死んだのを聞いて、父上や皆が泣くのを見るのが」 「それは仕方のないことだろ。早く知らせたほうがいい」  スィグルの顔を見つめ、イルスは注意深く忠告した。友人の中で、ひどく張りつめている不吉なものが、ともすれば弾け飛んで、取り返しのつかない事になるような気がした。 「イルス」  静かな微笑みを浮かべ、スィグルはひそやかに呼びかけてきた。 「誰も母上の死を、悲しんでなんかいない。僕ですら悲しんでいない。話を聞けば、皆涙を流すだろうけど、それは、そうするのが礼儀だからだ。涙が乾けば、皆忘れてしまう」  スィグルは相づちを求めるように言葉を切ったが、イルスは何も答えてやることができなかった。 「イルス、君が死んだら僕は悲しい。他にも大勢悲しむだろう。君はそういう男だよ」  虚ろに話して、スィグルは眠気をこらえるように、深く瞬いた。 「でも母上は、いったいなんのために生まれてきたんだろう」 「お前を産んだ女(ひと)だろう」  イルスが教えると、スィグルはうつむきがちに目を開き、射るような上目遣いで見つめ返してきた。 「それになにか意味があるのかい」  そう答え、黙り込むスィグルの顔には、見覚えがなかった。  こんな目をするやつではなかった。 「行こう、朝儀の時間だよ」  くるりと背を見せ、スィグルは部屋の扉を押した。イルスはそれを、すぐには追えなかった。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(3) -----------------------------------------------------------------------  タンジール宮廷の朝儀は極めてきらびやかだった。  族長の好む鈍い赤で装飾された室内には、精緻な文様の絹の絨毯がしきつめられ、灯火を透かして輝く色とりどりの宝石、あたりの空気にたちこめる高価な香の煙のさわやかに甘い香り、何にもまして、広間に集められた宮廷人たちの、判で押したように整った美しい顔の群れ。  美貌はこの部族にありふれた特徴で、それについて言及してはならないと、大使のための指南書には書かれてあった。この宮廷では、容姿の美しさについて相手に伝えることは、非礼なことなのだ。  なぜそのような文化が生まれたのか、イルスには理解しがたかったが、今改めてこの場に立たされると、なんとなく呑み込めるような気がした。  日々こうして、お互いの際だった美貌を目にしていると、それに倦んでくる。  歴史を紐解くと、黒エルフ族の源流は他の民族の奴隷で、その容色は薔薇や馬の交配を繰り返すようにして生み出されたものだという。彼らにとって、自らの麗しさは恥なのかもしれない。  それでも、猫のように鋭く細い瞳を備えた彼らの目で、いっせいにじっと見つめられると、それに圧倒され、なんという綺麗な連中だと思わずにいられない。その中に立っている自分は、多少身なりを整えてみたところで、まるで絢爛な花園になぜか野菜が生えているようなものだ。  イルスはいっそ居直って、族長のまえで、丸暗記してきた挨拶の口上を述べた。  玉座にくつろいでいる族長リューズ・スィノニムは、たしか父と大差ない年齢のはずだが、一見しただけでは、そんな年とは思えず、まだ若者のようにさえ見えた。 「そなたの父上とは長年の盟友だ。まして息子の友でもある。堅い儀礼は抜きにして、のんびりと長旅の疲れを癒すがいい」  気さくに微笑んで、族長リューズ・スィノニムは、イルスの長口上を労った。こういったことは苦手で、いくら経験を積もうが、どうも身が入っていないらしく、自分で聞いていても白々しい挨拶だった。族長はそれを、面白そうに苦笑しながら聞いていた。 「ありがとうございます」 「ヘンリックは息災か」  父の名を親しげに呼ぶ族長は、異民族から「砂漠の黒い悪魔」の異名をとる、残酷な戦上手だと聞いているが、いざ目の前にして口をきいてみると、そんな人物には思えない。顔には人懐こい笑みがあり、自分の父親よりも、よほど話しやすいくらいだった。  世間話に答えながら、イルスはこの族長が、妻の死を息子に隠されていることを思った。今ここで自分が暴露するような事ではないが、宮廷が服喪していない様子を見ると、スィグルは確かに母エゼキエラの死を誰にも伝えていないらしい。 「スィグル、息子よ」  玉座の両翼に並ぶ血族の席に、族長は目を向けた。  スィグルが恭しい儀礼をもって立ち上がった。 「そなたの友をもてなすがいい。大使は眠いに違いない」  薄く微笑んで深い一礼をすると、スィグルは自分の席を離れた。  どうやら今すぐ退がって寝ていいらしい。イルスは破格の扱いに内心驚いた。自分の株はずいぶん高く買われているようだ。  そんなことで通商大使がつとまるのかと思ったが、公の場は苦手だった。さっさと退散して休めるのなら、おとなしくその好意に甘えることにしたい。  朝儀の広間を抜ける大扉の前で、スィグルが退出してくるイルスを待っていた。その脇に、スィグルと口をきいている、もう一人の黒エルフがいる。  イルスがやってきたのを迎えると、もう一人の男は宮廷人らしい優雅な一礼をした。見知った顔に、イルスは思わず微笑みかけていた。 「エル・ジェレフ」  一礼を返しながら、イルスは相手の名を呼んだ。  スィグルより頭ひとつ背の高い黒エルフの青年は、やはり長い黒髪をしており、それを簡素に結い上げている。その頭の片側を華やかに覆うように、淡い紫色の宝石が飾られている。まるで紫水晶の原石を断ち割って、その中に隠された結晶を見ているように、その石はエル・ジェレフの頭部を固く覆っていた。  それは装飾ではなく、竜の涙だ。彼の頭部に巣くっている病魔だった。  その石のために、彼はこの宮廷で、英雄(エル)・ジェレフと呼ばれている。命を吸い上げ、脳を押しひしぎながら育つ代わりに、強大な魔力を宿主に約束する石だ。その力のゆえに、彼は魔法戦士として部族に仕えている。 「やあ、殿下。いまにも死にそうかい」  竜の涙は、石と同じ淡い紫の目でイルスを見つめ、軽快に挨拶した。 「あいにく元気だよ」  苦笑して、イルスは答えた。ジェレフは治癒の力を授かった術医で、スィグルに依頼され、何度かイルスの診察をしていた。この魔法戦士を冒しているのと同じ竜の涙が、イルスの額にも眠っているからだ。 「それはよかった。そちらまで診にいく機会がしばらくなかったんで、気になっていたのさ」 「俺の石はおとなしい」  イルスは自分の額冠に隠れている青い石のことを、なるべく意識しないようにして生活していた。考えれば恐怖にとりつかれる。いずれはこの石に殺される己のことを、忘れられる限りは忘れていたい。 「そう安心しなさんな。透視のできる者に診させよう。ちっこい石でも、当たり所が悪ければ、ころっと逝くこともある。分かったところでどうしようもないが、自分があとどれくらいで死ぬかは知りたいのが人情だろう」 「知りたくないね、俺は」  笑って、イルスは正直に答えた。  黒エルフ宮廷には、竜の涙、と、その病魔と同じ名で呼ばれる魔法戦士たちがいる。彼らは母親に産み落とされた瞬間から、いずれは部族を守って戦う英雄であり、強大な兵器として、丁重に宮廷に迎えられ、王族と対等に口をきける身分として育てられる。  竜の涙たちは、死を恐れないと言われている。その死が実際に凄惨でも。彼らは宮廷詩人たちの詠い上げる英雄譚(ダージ)によっておくられ、華麗な英雄として死に際を飾る。自らの美化された死を、彼らは何よりの誇りとしているのだ。  それゆえ彼らは気軽に己の死を口にする。同じ境遇にある相手の死についてもだ。日常のなかに死を置き、ダージの実現を待ち望むことで、彼らは恐怖を帳消しにしようとする。 「心構えがなってないね、青い殿下は」 「イルスはダージよりも、じたばたして一日でも長く生きているほうが好きなのさ」  スィグルが面白そうに、エル・ジェレフに解説した。ジェレフは片眉をあげて、感心しないなというような表情をイルスに向けた。 「それじゃあ、さぞかし自分の石が怖いだろう」 「怖いよ」  イルスはうなずいた。 「そんな話はこの場にふさわしくない。臆病者はさっさと連れて出よう」  扉の向こうを指して、エル・ジェレフがおどけたふうに顔をしかめて見せた。  確かに彼の言うとおりだった。この宮廷には、ダージのために命を捧げた者がいくらでもいる。今日か、または明日に死ぬ者に対して、怖くないのかと問うのは、あまりに残酷すぎる。  イルスは二人に続いて部屋を辞しながら、ふと気付いた。  エル・ジェレフの黒髪に映える紫色の石が、以前会ったときより、ひどく大きくなっていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(4) -----------------------------------------------------------------------  石のない者は出ていけといって、エル・ジェレフはスィグルを部屋から追い出した。 「長旅で疲れているところに悪いけど、俺はあんまり時間がないんでね。さっさとやらせてもらうよ」  イルスに与えられた居室に、エル・ジェレフは彼の弟子か部下らしい者を何人か連れてきていた。彼らに運びこまれた荷物からは、なにか独特の清々しい香りがした。 「吸っても?」  イルスの目の前に、短い銀の煙管(きせる)を振ってみせて、エル・ジェレフが確かめた。イルスは頷いた。  ジェレフは、イルスの知る限り、煙管を手放せない質で、思い返すといつも、さまざまな香りのする薄煙をくゆらせていた。小柄な黒エルフにしては長身で、涼しげな切れ長の目をした彼には、けだるそうに煙管をくわえている姿が、ひどく様になっていて、煙をまとっていないと、なにか物足りないような気さえするほどだ。  常に持ち歩いているらしい火種から、煙管につめたものに火をつけて、ジェレフはそれを口のはしに銜えると、はじめの一息を、いかにも美味そうにふうっと吐き出した。細くたなびいた煙は、薄く紫がかっていて、甘ったるい臭いがする。 「煙たいだろう。でもこいつが俺の命綱でね」  端麗な細面で微笑み、ジェレフは器用に、火のついたままの煙管を指先でくるくると回してみせた。 「さっそくだけど、殿下。最近、石の力を使ったかい」 「いいや」  イルスは即答したが、ジェレフは疑わしそうな表情を作ってみせる。 「殿下の力は未来視だろう。それっぽい幻覚や、予知夢を見たりしなかったかい」 「ないと思うが……自分の夢にまで責任持てないな」 「自分では制御できない種類の力というのは、竜の涙にとっては、とても危険だよ」  何度も繰り返し聞かされた話に、イルスは思わず渋面になった。言われたところで、どうしようもない。眠らずにいるわけにはいかないし、突如として見る白昼夢のような未来視を、自分ではどうすることもできない。 「殿下は、発想を変えたほうがいいと思う」 「どういうふうに」 「死なないようにしようとするから、この石は恐ろしいんだ。どうせ死ぬ、諦めろ。大切なのは、限られた生きているときを、楽しく有意義に過ごすことさ」 「そりゃそうだろうけどな」  いかにも軽薄に言うエル・ジェレフがおかしく、イルスは向き合って床の座にあぐらをかいてる彼に、苦笑を向けた。 「最近、頭痛は」  訊ねてから、煙管を吸い、ジェレフは紫煙を乗せた長い息を吐き出す。 「無いとは言わないが、困るほど増えてはいない」 「殿下は痛みを我慢してるのかい」 「ほかにどうする」 「その痛みは、いずれ我慢できなくなる」  イルスのぼやきに被せるように、ジェレフが言った言葉は鋭かった。彼は微笑んでいたが、その目は笑ってはいない。イルスが答えないでいると、ジェレフはまた深く煙を吸い込み、どこか官能的な気配のする表情で、ゆっくりとそれを吐き出した。 「運良く苦痛の少ない者もいるが、大抵の竜の涙は最終的には痛む。その痛みは、堪えて堪えられる種類のものではない。運が悪ければ、血反吐を吐いて七転八倒だ」  ジェレフの話しぶりはまるで他人事のようで、あっけらかんとしていた。イルスは黙って聞いていたが、自分の手が汗をかいているのを感じた。いやな気分だった。 「有意義に生きていたければ、痛みを抑えるしかない。毎日頭を抱えていても仕方ないからな」  にっこりと笑みを見せて、ジェレフは話を締めくくった。彼が指で差し招くと、後ろに控えていた者たちが、持ち込んでいた荷物をほどいて、二人の間に広げてみせた。  中には、薬草のようなものが幾種類か、丸薬のように練ったものや、円盤状に突き固めたものなど、様々な形でおさまっていた。それらに混ざって、何本かの煙管が転がっているのに、イルスは気付いた。  目を上げると、伏し目がちにこちらをうかがっていたエル・ジェレフが、ふうっと紫煙を吐き出したところだった。 「麻薬(アスラ)だよ」  頷くような目配せをして、ジェレフがイルスの読みを肯定した。 「殿下、経験は?」 「ないな」  イルスは端的に答えた。 「無い? 試そうと思ってみたことも無い?」 「ない」  イルスは断言した。ジェレフは首をかしげ、珍しいものを見るように、こちらを見つめていた。 「いずれ必要になる」  白い額を掻いて、ジェレフはくすりと鼻をすすった。 「これは白煙光(ダーダネル)、鎮痛効果がある。口の粘膜から吸収するから、ただ舐めればいい。不味いけどね。そしてこっちは暗闇茸(デディン・ミル)、これも経口。鎮痛効果が強いのが取り柄だが、使いすぎると目の前が真っ暗になる。でもまあ失明するわけじゃないから、一時的なもんだ。これも効かなくなったら、これを使え。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)。燃やした煙を吸うんだ。とても効く。煙管を使うといい」  言い終えて、ジェレフは小さくため息をつくと、煙管から深く吸い込んだ。イルスは、彼の白い額が汗で濡れていることに気付いた。 「エル・ジェレフ、大丈夫ですか」 「ああ、蝶が見える」  どこか茫洋とした口調で、竜の涙は答えた。イルスは目を細めた。部屋にはもちろん、蝶などいなかった。 「殿下、紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は強い薬だ。鎮痛効果はとても強いが、幻覚をともなう。紫の蝶が、ひらひら飛び回るのが見えるんだ。その蝶は別に害はないけど、この薬には常習性がある。体に耐性がつくと、薬効が薄れるから、使用量もじょじょに増えて、蝶もたくさん、ひらひら……」  目に見えない蝶を、エル・ジェレフの紫の目が、ゆらゆらと追いかけている。  ふと笑って、イルスに目を戻し、ジェレフは燃え尽きた煙管を、帯にかくしてあるらしい煙草入れに仕舞った。 「痛みが耐え難く続くようになったら、いちばん弱い白煙光(ダーダネル)から使ってみるといい。これは白い光が見えるが、そんなの大した問題じゃないだろう」 「今も痛むんですか」  イルスは居心地が悪く、そういうときの癖で、意味無く髪をかき上げて、エル・ジェレフに訊ねた。 「ん? 俺のことか? 痛いよ。薬がないと、こうやって殿下とのんきに話していることもできない」 「休んだほうが」  イルスがすすめると、エル・ジェレフは面白い冗談を聞かされたように、けらけらと爽やかに笑ってみせた。 「休んで治るもんじゃないだろ。俺は術医として部族に仕える身だ。病んで苦しむ気の毒な民を救わねば、ただの無駄飯食らいだ。この薬だって、目が飛び出るほど高価なんだよ」 「もし、この蝶の薬も効かなくなったら?」  イルスが箱の中の黒く突き固められた円盤を視線で指し示すと、エル・ジェレフは涼しげな伏し目で、同じものを見つめた。 「紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は、竜の涙にとって終着点だ。蝶々でも太刀打ちできない痛みに到達したら、これを使う」  帯から、宝石で飾られた小さな箱を取り出して、エル・ジェレフはそれを開き、中におさまっていた小さな黒い丸薬を見せた。 「口に含んで噛み砕けば、すぐ死ねる。結局のところ、死ぬのが一番らくなのさ」  イルスは、その話を黙ってきいた。 「悪いけど、殿下にはこれはあげないよ。こういうのは皆、自分で準備するものだからね」  脳裏に、竜の涙に半面をゆがめられた女の顔が蘇った。ヨランダ。あの女も、愛しげに毒を身につけていた。 「俺はもうすぐ、これを使わないといけなくなりそうだ」  手のひらのうえの薬箱をじっと見下ろして、エル・ジェレフは淡々と言った。 「だから、殿下には幸いまだ早いだろうけど、この薬はちゃんと持って帰ってくれ。まだ生きられるうちに、殿下に病苦で首でも吊られたらかなわんからね」 「俺はそんなことしない」 「そうだろうか」  薬箱を閉じ、帯のなかに戻しながら、エル・ジェレフは冷たく答えた。その言葉は、あっさりと響いたが、のみこむと、重く胃の腑にのしかかってきた。 「殿下の部族では、石を持って生まれた子供は、産屋のうちに殺してしまうらしいね。それは野蛮だけど、案外、優れた方法かもしれない。殿下はまだ、そう思わないだろう。でも、蝶々がたくさん飛び回るころには、考えも変わる。恐怖に震え、苦痛に耐えて、挙げ句悶死か。俺は何のために生まれてきたんだ。赤ん坊のうちに殺してくれてたら、こんな目にあわずにすんだのに、って……」  いつも軽快なはずの、エル・ジェレフの声が、ねっとりと重い恐怖を含んで沈んでゆくのが、イルスには耐え難かった。この男が死ぬという事実にも、耐え難い苦痛をおぼえた。人の死はたいてい悲しいが、竜の涙を持った者の死は、イルスに自分の運命を思い起こさせる。 「殿下、ダージが必要だ。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)が効かない痛みがやってきたときに、最後に竜の涙を支えるのはダージだ」  長衣の裾をさばいて、エル・ジェレフは立ち上がった。彼の衣からは、涼やかな甘い香りがした。 「俺は部族の英雄で、俺の短い一生は英雄譚(ダージ)となって永遠に詠い継がれる。俺の生涯に価値がないというなら、他の者の一生なんて牛のクソ以下だ」  にっこりと微笑むエル・ジェレフの表情は、彼のまとう紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の香りに似て、爽やかで甘かった。 「心配いらない、殿下。誇りを保って、良い生涯を生きられる。詩人がダージに詠むような」  小さく黙礼して、エル・ジェレフは部屋を辞そうとしていた。  イルスは立ち上がり、答礼した。  扉の前でふりかえった英雄が、わずかに逡巡し、そして密やかに口を開いた。 「スィグルに言ってやってくれ。後悔する必要はないと」  意味はわからなかったが、イルスは頷いた。必ず伝えなければならない。  それが竜の涙の遺言なのだということが、イルスには分かっていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(5) -----------------------------------------------------------------------  イルスは深く眠った。  タンジール王宮の居室は、住み慣れた故郷のものとは違っていたが、快適さでは非の打ち所がなく、暑くも寒くもない。豪華すぎる部屋では落ち着けないイルスの性分に合わせてか、部屋に置かれた調度品は贅沢だが簡素なもので、目のくらむような宮廷の中にあっても、安らぎをおぼえることができた。  寝具には安眠をさそう涼やかな香りが、かすかに香らせてある。  タンジールの文化は、大陸でも他に例を見ないほど、高度に洗練されていた。  かつて山の学院に人質としてやってきた時のスィグルが、あの古く冷たい石造りの建物を、野蛮だと蔑んでいたのも、この宮廷で過ごしたことのある者ならば、当然と思えた。  この街では、水を汲みに行かなくても、部屋に引かれた泉から、いつでも冷たく澄んだ水が湧いている。  顔を洗って、イルスはまだどこか寝ぼけたような表情をしている自分の姿を、玻璃細工で美しく装飾された壁の鏡の中に見た。額の竜の涙は、青く、澄んだ色合いをしており、まだ小さかった。  石の力を使わずにおけば、竜の涙はゆっくりとしか成長しない。運があれば、四十年ほどは生きられるという。それだけ生きられれば普通と変わらない。長く生きたとは言えないかもしれないが、竜の涙でなくても、早々と世を去らねばならない者は、いくらでもいるのだから。  それなのになぜ、黒エルフの竜の涙は、惜しげもなく力を使うのだろう。  激しい戦闘が続いていた頃、彼らには選択の余地がなかった。物心つけば宮廷で育てられており、将来は戦場で華々しく散るのだと教えられ、それ以外の生涯はない。  しかし同盟によって戦いの止んだ今、自分の身を守ってもいいはずだ。  イルスは、エル・ジェレフの、いつも軽快な微笑を浮かべていた顔を思い出していた。  自分たちより、ひと世代上の彼は、同盟以前の戦闘を経験している。スィグルの依頼で自分を診にやってきたとき、戦いが終わって、今は暇でしょうがないと言っていた。  ジェレフは厳密には戦士ではないかもしれないが、いつも激戦の先陣に立って、攻撃に傷つき倒れる味方を彼の魔法で癒し続けていたという。彼が守護するのは、いかなる攻撃をもってしても死なない精鋭軍で、兵は倒れても立ち上がり、致命傷を負っても、そこから蘇ってきた。エル・ジェレフは味方の将兵に、自らの命を削って分け与えていたのだ。  まぎれもなく、彼は部族の英雄だった。  戦いが終わっても、彼はそれを続けている。この都市で。戦いに傷ついた兵士ではなく、ただの市民を、気安く癒しているという。  スィグルは以前それを、枯れた麦に水を撒くようなもの、と言っていた。  そうかもしれなかった。際限のないことだ。  イルスは宮廷をうろついても、衛兵につまみ出されない程度に身なりを整え、部屋を出ることにした。スィグルのことが気になった。  通されたスィグルの部屋は、やはり目もくらむような豪華な輝きで満たされていた。  楽師を呼んでいたのか、かきならされる多弦の琴の音が、あでやかに部屋の空気をふるわせている。  だがそれは、喪に服している者が聴くには、あまりにも華やかすぎる音楽だった。通された部屋に踏み入ったイルスは、こちらを振り向いたスィグルと目を合わせて、絶句した。  彼が半裸で何人もの美女を侍らせていたからだった。 「なにやってんだお前」  あきれて、そんな言葉しか出てこなかった。  イルスが話しかけても、女の一人は鳥がさえずるような美声で歌い続けている。 「まだなにもしてない。君が起きてくるのを待ってたんだよ」  絹の円座から身をよじるようにして、こちらを見、スィグルは手に持っていた細長い煙管から、ぷかりと一息吸って、自分の顔をのぞきこんできた側女の顔に、白い煙をふうっと吐きかけた。  その仕草は、どこかエル・ジェレフのそれを思い返させ、イルスは我知らず不機嫌な顔になった。 「座りなよイルス」 「どこに」  険のある口調で、イルスは訊ねた。部屋は雑然としており、酒杯や楽器、女達のものらしき衣服がそこかしこに散らかっていて、床の絨毯は虫干しの日のようになっている。 「お前ら邪魔だ、あっちにいってろ」  女達を邪険に追い払い、スィグルは自分の向かいに設えられていた客用の座をイルスに示した。床に直に座るのがこの部族の習慣で、椅子の生活に慣れているイルスは、どうもそれに慣れない。 「休めたかい。ジェレフはなんて言ってた」  起きたところなのか、これから寝るのか、判然としない眠たげな顔を、スィグルはしていた。人工の灯で照らされるこの街には、昼も夜もない。もともと怠惰な性分のスィグルが、その気になれば、いくらでも自堕落に暮らせるだろう。 「さあ。そういえば病状のことは何も言ってなかったな」  しぶしぶスィグルの向かいに腰をおろして、イルスは答えた。 「臆病な君が、自分の余命は知りたくないって言ったから、死ぬのが明日だとは言えなかったんじゃないの」  ふふふ、とたちの悪い冗談でいかにも面白そうに笑い声をあげて、スィグルは煙管を吸い、細い煙を吐いた。 「お前、それやめろ」  スィグルがなにを吸っているのか分からなかったが、イルスは今にも彼が、目には見えない紫の蝶を追う視線をしそうで、いやな気分だった。 「これはジェレフがくれたんだよ。別に変なもんじゃないよ。殿下のお心を安らかにするお薬さ」 「麻薬(アスラ)か?」 「違うよ。ただの気鬱の薬だよ。頼んだところで、ジェレフが麻薬(アスラ)なんか僕にくれるわけない。それに言わせてもらうけど、歴史的に麻薬(アスラ)は君んとこの密貿易品で、僕の祖父の代には高値で売りつけられたうえ、宮廷から市井まで足腰ふらふらにさせられたんだぜ。父上がどんなに苦労して浄化をなさったか。今さら自分だけ汚れないみたいな顔で僕に説教しようとするなよ」  よくそんな、すらすらと文句を言えるものだと、悪意があるときのスィグルの舌の滑らかさにイルスはげんなりした。 「宮廷で麻薬(アスラ)を使うことが許されているのは、竜の涙だけだよ」  気が萎えたように、スィグルは煙管の灰を用意されていた盆に打ち落とし、放り出した。 「ジェレフがいつも、吸っているだろう。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)」  櫛をいれていないらしい、もつれた黒髪を、スィグルはうるさそうに手で払いのける。 「ジェレフは君にはなんか言ってなかったかい。あいつはもうすぐ死ぬんだ」  ごろりと仰向けに横になって、スィグルは金銀で刺繍された脇息に、頭を乗せた。 「そこらへんの餓鬼や年寄りまで癒してやるのは止せって言ってるんだ。人が死ぬのは運、不運だろう。それをいちいち助けていたら、きりがないんだ。戦場で兵を救うなら英雄でも、出産で死にかけた貧民の女を助けてやったところで、ダージのねたにはならない」 「でも尊い仕事だ」  イルスは心底から、そう言っていた。  数えるほどしか会ったことはないが、イルスはエル・ジェレフを信頼していた。同胞、海エルフ族には、竜の涙は忌避されていて、病ではなく呪いだと考えられている。医者に診せるどころか、人に知られれば、それを理由に命を奪われる恐れもあった。偏見に満ちている。  イルスの青い石を、憎みもせず、不安げに顔を曇らせもしないで見つめ、心配ないと笑って言ってくれるのは、エル・ジェレフだけだ。  心配ない。そう。たかが死だ。 「ジェレフは母上を癒せなかった」  天井を見上げ、なにかを遠望するような顔をして、スィグルがぽつりと話した。  イルスは友の白い顔を、しばらく黙って見下ろしていた。 「それは、仕方のないことじゃないのか。ジェレフは術医で天使じゃない」 「天使だって母上を救えなかっただろう」  横になったまま、スィグルは腹をふるわせて笑っている。 「僕にはそれが分かってた。なのにどうして、ジェレフに母上を助けるよう頼んだんだろう。仮に救えたところで、あれは何の役にも立たない人だったよ。ジェレフを死なせてまで、助ける価値があったと思えない。助かりゃまだしも、結局死んだんだから、なにもかも無駄だったんだ」  それだけ早口に言って、スィグルは顔をかきむしるように擦った。  イルスには、ジェレフがスィグルに伝えるように言い残していった言葉の意味がのみこめた。 「ジェレフが昔、言ってたよ。生きよう、助かろうという意志のある者しか、ジェレフの力では癒せないんだ。治してるんじゃなく、治ろうとする体を支えてやる魔法なんじゃないかって……」  大きなため息をついて、スィグルは無気力そうに大の字に寝転がっている。 「虜囚の身から救い出されて、死にかけで戻ってきた僕らを、助けてくれたのはジェレフだ。僕は死にたかった。生きて戻ったのが恥ずかしかったんだ。でもジェレフは、僕の体は生きようとしていると言った。母上も、弟(スフィル)も……皆それぞれ戦っているのだから、僕ひとりが逃げてはいけないと」  蕩々と語るスィグルは、いかにも眠そうだった。それは先程の薬の効果かもしれないが、イルスは、スィグルがあまり眠っていないように思えた。 「でも実際どうだったろう。戦っていたのは僕だけで、ジェレフの助けを借りても、母上も、スフィルも、結局どうにもならなかった。ジェレフの命を、無駄に喰らっただけさ」  言いながらスィグルは、両手で隈の浮いた目元を抑えた。 「母上は生きるのをやめたんだ。そんなやつを、助けられる魔法なんか、この世にはないんだ」  悔しそうに言って、スィグルは押し黙った。  言いたかったことを、あらかた吐き出したらしかった。  昔からスィグルは、言葉を腹にためこむ質で、彼が苦しんでいるときには、とにかく黙って話をきいてやるのが一番だった。話して体が軽くなれば、スィグルは自力で立ち上がってくる。 「族長には訃報を伝えたのか」  気になっていたことを、イルスは訊ねた。 「まだ」  スィグルは顔をかくしたまま、きっぱりと答えた。 「遺体は……」 「うるさいな。久しぶりに会ったのに説教ばっかすんなよ。どうせみんないつかは死ぬんだ。大したことじゃない。ほっときゃいいんだよ。母上も、ジェレフも、お前も、僕がどんなにじたばたしようが、さっさと死んでしまうんだ。生きてるうちは楽しそうにしてろ。僕の気が晴れるような話をしろよ」  驚くような勢いで起きあがって、スィグルはイルスの眼前で、一気にそう喚いた。 「……お前、おかしいぞ」 「僕はいつだっておかしいよ。そんなのよく知ってるだろ」  あらわになっている白い首を垂れて、スィグルは駄々をこねるような小声で答える。 「エル・ジェレフが、お前に、後悔しなくていいと伝えてほしがってた」 「後悔?」  乱れた黒髪の間から現れたスィグルの顔は、強ばっていて、怒っているようにも、泣き出しそうなようにも見えた。 「してないよ、そんなもん」 「お前の話は、いつも嘘ばっかりだな、スィグル」  イルスが静かに非難すると、スィグルは悲しそうに笑って、肩を落とした。 「昨日、外で星を見てたんだ、一晩中」  やってきた自分たちの隊列を、タンジールの入り口で出迎えたスィグルの姿を、イルスは思い出した。一夜をあの場で過ごしたとは思っていなかった。あの格好では、さぞかし寒かっただろう。 「月と星の船って、どこにあるのさ。本当に皆、死んだらそれに乗るのかな。僕も死んだら、その船に乗れて、母上も、ジェレフも、君もいるのか」 「さあ。そんなこと俺にはわかんねえ」  イルスの気の利かない答えに、スィグルは情けなそうに口の端で笑った。 「僕は、月と星の船の伝承は、ほんとうは史実で、僕らの祖先がこの大陸に乗ってきたというその船は、実在するんじゃないかと夢見ていた。でも今日は、あの話が実はただのお伽話で、死んだら皆でその船に乗っていけるんだって、信じたい気持ちがわかるような気がするよ。皆、僕を置いて逝ってしまうし、寂しいんだ」 「そうだな……」  ふらふらになって突っ立っているスィグルが哀れに思えたが、イルスにはどうしてやることもできなかった。  スィグルもエル・ジェレフを、頼りにしていたのだろう。母親を失い、今こそあの軽口で励ましてほしい相手なのに、自分のせいで死なせるような自責をスィグルは感じて、耐えられないのかもしれない。だが、それに、生半可な同情で、気にするな、気を楽にしろと慰めたところで、何にもならない。余計に惨めになるだけだ。  からん、と、床に並べて置かれていた銀の酒杯が、涼やかな音を立てて小さく打ち合った。  うなだれていたスィグルが、音に気を引かれたように、そちらを見て、かすかに震えている酒杯を眺め、やがてはっとしたように上を見上げた。 「揺れてる」  イルスも、スィグルに習って天井を見上げてみた。確かに、天井を装飾している色とりどりの揺(よう)が、ゆらゆらと揺れていた。 「……落盤だ」  叫ぶように言って、スィグルは明らかな動揺を見せた。 「落盤?」 「ジェレフが行ってしまう」  一瞬、おろおろと惑う気配を漂わせ、それからスィグルは部屋を出ていこうとする。 「待て、どこかへ行くなら、まともな格好をしろ」  イルスが忠告で引き留めると、スィグルは苛立って噛みつきそうな顔をこちらに向けたが、自分の格好を見て、すぐに納得した。悪態をつきながら、床に散らばる服をあさり、自分が着ていたものを探すスィグルを、あきれながら見守り、イルスは立ち上がった。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(6) -----------------------------------------------------------------------  王宮の門には、すでに物々しく兵士が集められていた。  スィグルは、資材の運搬を指揮していた若い将をつかまえて、無理矢理何かを問いただしている。迷惑さに首をすくめて答えた男を、スィグルはぽいと放り出して、こちらに戻ってきた。 「第二層」  ひらりと黒馬にまたがって、スィグルはそれだけ告げた。馬上で待っていたイルスは、何の説明もせずさっさと出ていくスィグルの後を、追いかけるべきか、一瞬迷ったが、ついていかなければ後で何と言われるかわかったものではなかった。  イルスは乗り慣れない馬に鞭をくれて、都市を登る螺旋貫道を駆け上がっていくスィグルの騎影を追った。スィグルの持ち物だという栗毛の馬は、気味の良い出足を誇る名馬だった。 「どこへ何しに行くんだ!」  スィグルの背後につけて、イルスは叫んだ。  束髪をなびかせて、スィグルがこちらをふりかえった。 「第二層で落盤が起きたんだ。数日前から予知されていたけど場所が特定できていなかった」  叫び返して答え、スィグルは向き直って、さらに馬に鞭をあてた。 「この都市の上層は、後から掘り進んだ増築部で、構造がもろい場所がある。老朽化して落盤するんだ」  イルスは思わず、流れ去っていく天井を見上げた。  王宮は第七層にあり、蒼天のかかる地上から、はるかに深い地下だった。このまま生き埋めになって、二度と空をおがめないというのは、ぞっとする話だった。 「農耕区が埋まった。竜の涙が救援に出ている。ジェレフも行ったはずだ」  スィグルは切迫した声で語り、馬を急かせた。乗馬の腕はイルスのほうが上で、慣れない道のりでも、それについていくのは難しくはなかった。 「行ってどうするんだ、スィグル。お前がいたって、何もできない」  迷ってからイルスが呼びかけると、スィグルが睨むようにこちらを振り向いた。落馬するのではないかと、イルスはぎょっとした。 「ジェレフは死ぬぞ。今日死ぬんだ。戦場じゃない、ただの落盤で。それがあいつの最後のダージだっていうのか! そんなもん……」  スィグルは、イルスには分からない、黒エルフの言葉で、煮えたぎるような悪態をついた。  彼が何に駆り立てられているのかは、イルスには想像がついた。その場にかけつけて、エル・ジェレフを止めようというのだろう。  だがイルスは、自分がジェレフにすでに別れを告げられていたことを思い出した。  もしかすると、今日がその日と、ジェレフはあらかじめ知っていて、昨日のうちにイルスと会見したかったのかもしれない。  ジェレフはスィグルに別れを告げなかった。もし何か話していれば、あの伝言は自分で伝えたに違いない。  勘が良く、そして我が儘なスィグルに、今生の別れめいた言葉を伝えれば、面倒なことになるに決まっている。ジェレフはそう思ったのかもしれないし、その気持ちはイルスにもわかった。  もし明日死ぬとわかっていたら、自分もスィグルに別れは告げないだろう。彼に、穏やかに送られたければ。  第二層への入り口らしき明るいアーチが、螺旋貫道に現れた。それをくぐり抜けると、唐突に広大な空間が現れ、幾何学的に耕された麦穂のなびく美しい耕地が広がっている。  信じがたい光景だった。  この世にこんなものが。  イルスは自分の目が見たものに圧倒され、一時、他事を忘れた。  しかし、遠目に見える落盤の形跡が、イルスを我に返らせた。はるか上にある天井が崩れ、ぽっかりと穴があいている。崩れた岩盤が耕地に突き刺さり、土煙をあげていた。  スィグルはまっすぐに、そこを目指して馬を走らせている。  すでに到着していた救援隊が、砂糖にむらがる蟻のように、身の丈ほどもある瓦礫と格闘していた。  目的地を失って、スィグルは馬の脚をゆるめ、うろうろとその場をさまよわせている。  上層から崩落してきたらしい物の中には、明らかに人家と思えるものの断片が紛れ、岩に粉砕されて下敷きになっている。泥にまみれた衣服の切れ端を目にして、イルスは顔をしかめた。  工兵らしい者たちが、道具を使って岩盤を押し上げようと必死になっていると、その岩が急にふわりと浮き上がった。イルスは驚きで思わず手綱を引いてしまい、馬がいなないた。  浮き上がった岩の下に、押しつぶされた荷車と粉をひく風車のようなものがあり、岩の向こうには、長い黒髪を結わずに垂らした美しい女が立っていた。冷たい無表情をした女の額には、赤い竜の涙が広がっており、イルスはそれに目を奪われた。 「エル・メッシナ。ジェレフを探している」  スィグルは早口に、女に呼びかけた。女は横目でちらりとこちらを眺めてから、大岩を横の農地にふわりと下ろした。その岩を、女が操っているのだということは、なぜか疑問の余地無くのみこめた。 「殿下、エル・ジェレフの最期を乱してはいけないわ」  彼女の冷静な声に、スィグルが内心激昂するのが、イルスには分かった。 「ダージにふさわしくない」 「彼のダージは、彼が選ぶわ。あなたには意見する権利がない。誰にも」 「とにかく会わせてくれ。会いたいんだ」  スィグルは首を振って、女に懇願した。彼女に対するスィグルの態度は、子供っぽく苛立ってはいたが、丁重だった。  彼女は竜の涙なのだろう。女もいるのだということに、イルスは何か胸苦しい思いがした。エル・メッシナは、自分たちと大差ない年頃に見えた。 「わがままなのね」  さらりと、彼女はスィグルの性格を批判した。感情のこもっていない声が、それだけに痛烈だった。 「瓦礫から掘り出された、まだ死んでいない者に、ついていくといい。エル・ジェレフは、彼らを癒すために来ているから」  結局、スィグルが望む答えを与えて、女はため息をついた。  そしてふと、彼女はイルスのほうを見た。  明るい茶の瞳で、一時じっとこちらを見つめ、女は不意に、にやりと笑った。そして、白く細い指で、メッシナは自分の赤い石で覆われた額を指差し、同じね、と言うように、額冠で隠されたイルスの石を指し示した。  同じものと戦っている同士に向ける、親しいが、意地の悪い笑みだった。 「イルス!」  スィグルの声で呼ばれて、イルスははっとし、スィグルの指し示す方向へ顔を向けた。瓦礫の中から救い出されたらしい、若い母親と幼い子供が、板に乗せられて運び去られようとしていた。  女は一見して重症で、血にまみれ、もう死んでいるように見えた。その体にすがりつくようにしている子供は、激しく泣き叫んでおり、まだ生きている。 「ひどいわね。今の竜の涙には精度の高い予知者がいなくて。分かっていれば、逃がしてやれたのに」  エル・メッシナが、無感動に言った。イルスは、女が自分に言っているのだということが、わかっていた。彼女はおそらく、イルスのことを知っているのだ。未来視の力のことを。 「兄弟、あなたのダージは、まだないの?」  挑むように微笑むメッシナの顔を、イルスはまじまじと見つめ返した。  運ばれる負傷者の母子を追っていくつもりらしい、スィグルの後ろ姿が遠ざかるのに気付いて、イルスは引き留める力を感じながら、自分の馬の腹を蹴った。  振り返ると、エル・メッシナは静かな足取りで、次の役目を求めて歩み去ろうとしていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(7) -----------------------------------------------------------------------  掘り出された生存者が運び込まれ、命を落とした者が運び出されていった。  救護用に張られた簡単な天幕の中に、毛織物で床が敷かれ、苦しみ悶える人々が横たえられている。その間を、医師や術医たちが忙しく動き回っていた。  大勢いる術医のうち、ほとんどは竜の涙を持たない、ごく普通の黒エルフだった。彼らは時間をかけて、ひとりひとりの負傷者を癒していたが、魔法のように、と言うには、彼らが促せる回復はゆっくりで、運ばれてくる負傷者の数は多かった。 「もたもたすんな! 死にそうなのから、こっちによこせ!」  血の臭いに蒼白になっていたスィグルが、聞き慣れた声を耳にして、はっとした。  白い幕一枚で区切られた奥から、その声は怒鳴っている。エル・ジェレフの声だった。 「ジェレフ」  スィグルはずかずかと天幕を横切り、吊されていた白い幕を勢いよく払いのける。  その向こう側にいた数人が、顔をあげた。  彼らは皆、頭部にそれぞれの色をした石を生やしていた。竜の涙の治癒者だった。  エル・ジェレフは、重傷者の間を渡り歩いて働く彼らを従えるように、その中央に座っていた。 「死にそうでないやつは帰ってくれ」  彼らしい軽口で、ジェレフはスィグルを追い払おうとした。  スィグルを無視して、ジェレフは膝の上に抱いていた子供の傷に触れた。押しつぶされて崩れていた子供の脚が、見る間に傷を塞ぎ、元通りの白い肌に戻っていく。これこそ、魔法のように、だ。  入り口の明かりの中に立って、イルスはそれを遠目に見ていた。  ジェレフはすでに回復させた子供を、脇で控えていた者に渡し、次のをよこせというように、手で差し招いた。 「エル・ジェレフ」  スィグルが声を強めて、自分を無視している竜の涙の名を呼んだ。  イルスは天幕の中に入り、立ちつくしているスィグルの背中に近づいた。 「青の殿下、ちょうどいいとこに来た。こいつをつまみ出してくれ。うるせえよ。俺は頭が痛いんだ」  荒げた声で頼むジェレフの顔は憔悴しており、血で汚れた顔には、滴るほどの汗が浮いている。いつもなら涼やかに微笑んでいる顔の、疲れで落ちくぼんだ目は、白眼が赤く充血し、生彩がなかった。それがただの疲労ではないことは、見ればわかった。  口元をおさえて、かすかに体を傾がせるエル・ジェレフのもとへ、先ほど運ばれていた母子が連れてこられた。子供は相変わらず泣き叫び、断末魔の痙攣にふるえている母親にすがりついている。 「やべえなこれ、生きてんのか」  ふふふ、と笑い声をあげて、エル・ジェレフは女の頬を手で包み、血に濡れてからまった黒髪に覆われた、彼女の額に自分のそれを押し当てた。 「死ぬんじゃない、帰ってこい、お前の餓鬼がうるせえよ」  女に囁きかけながら、ジェレフは彼女の体を抱いてやった。  死の痙攣にふるえていた女の指が、しだいに穏やかになり、ぐったりと全身が弛緩する。イルスは彼女が、死んだのではないかと思った。しかし、その変化はやがて劇的に始まった。傷つき破れていた皮膚が、みるみる元の姿を取り戻し、女はゆっくりと大きな息をつく。安定した呼吸をはじめた女の顔を、ジェレフは身をかがめたまま、じっと見下ろしていた。 「ああ……まあまあ綺麗な女だ……」 「ジェレフ」  スィグルが膝をつき、女を抱いたまま動かないエル・ジェレフの顔をのぞき込んだ。  けだるく顔をあげ、虚ろな半眼で、ジェレフはスィグルの顔を見つめ顔した。彼の鼻から、ぽたぽたと大量の血が流れ出てきた。ジェレフはそれを袖でおさえ、なぜか肩をふるわせて笑った。 「もうおしまいだ」 「ジェレフ、薬は。いつもの、持ってるだろ」  スィグルが震えた声で訊ね、いつもジェレフが煙管をおさめている煙草入れを彼の帯の中に探った。 「蝶々はもう見飽きたな……」  荒い息でそう呟いて、エル・ジェレフはただ立ちつくしていたイルスのほうを見上げた。 「もっと強いのがいる」  エル・ジェレフがなにかを堪えていることが、イルスには見て取れた。痛みだ。彼は苦痛をこらえている。石が脳を押しつぶす苦痛を。  すでに回復している母親にすがりついて、子供はまだ泣き続けていた。  億劫そうに、血に濡れた手をのばして、エル・ジェレフは子供の頭を撫でた。 「泣くな坊主、うるせえよ。お前の母親はもう死なないんだから、泣くことなんか、なにもないだろ」  なだめるように話しかけて、ジェレフは子供の手をとった。子供の腕が切れて、血が流れていた。 「あぁ……なんだ、これか。ちょっと怪我しただけだろ。痛くない。ほら……」  エル・ジェレフが握ったところから、子供の怪我は、魔法の布で拭き取るように消えてしまった。それで痛みも消えたのか、子供は少し泣きやんで、不思議そうに自分の腕を見た。 「もう……痛くないだろ」  かすかな掠れ声で、そう言って、ジェレフは子供を押しのけた。そうして彼が自分の頭を抱えるのを、スィグルは身動きもせず、呆然と見ている。  エル・ジェレフはうめいた。低い声だった。地の底から響いてくるような、深い苦痛の声だ。  彼が頭をかきむしるので、結われていた長い黒髪がほどけて、血と土埃で汚れた長衣に乱れかかった。倒れるジェレフを、スィグルが抱えようとして、支えきれず、ともに天幕の床に座りこんだ。  立ち働いていた竜の涙や術医たちは、はっとしたように横目にその姿を見やったが、彼らは仕事の手を休めはしなかった。ジェレフがそのように、指示していたのではないかと、イルスは思った。  スィグルから、イルスは苦しむ竜の涙の体を引き取った。  確かジェレフは、帯の中にあの薬箱を仕舞っていた。その場所を探ると、持ち主の体温で温められた、宝石で飾られた小さな箱があった。 「エル・ジェレフ」  箱を開いて、イルスは半ば意識のないジェレフを抱え起こした。 「薬だ」  耳元で呼びかけると、ジェレフは瞼を開いて淡い紫の瞳を見せた。一瞬、朦朧としたその目が、差し出された薬を見つめ、それからイルスの顔を見上げた。 「気が利くな、殿下」  小声で言うジェレフが、かすかに笑ったような気がした。 「だめだ」  鋭い勘で察しをつけたらしいスィグルが、イルスの手ごと、薬箱をつかんだ。スィグルは必死の目をしていた。 「ジェレフ、休めば治るかもしれない。諦めないでくれ」 「スィグル、手をはなせ、ジェレフが決めることだ」  振りほどこうとしても、スィグルの手は恐ろしい強さで薬箱を押さえていた。 「勘弁してくれ……最期はあっさりいくつもりだったのに、俺のダージが喜劇になっちまう」  引きつれた笑い声をたてるジェレフの頬に、白い女の手が触れた。驚いて、イルスはいつのまにかすぐ傍に立っていた、華奢な女の姿を見上げた。 「こんなことだろうと思ったの」  エル・メッシナが、場に不似合いな無感動な口調で呟いた。 「エル・ジェレフ、私でよければ手伝うわ」  頬に触れた手を、撫でるようにジェレフの額にすべらせて、メッシナが言った。 「メッシナ……お前はほんとに、いい女だな」  ほっと深い息をもらして、ジェレフは彼女の小さな手に身をゆだねた。 「さよなら、兄弟」 「やめろ、メッシナ」  彼女が囁くのと、スィグルが叫ぶのは、ほとんど同時だった。  鈍く何かが弾ける音がして、抱きかかえていたエル・ジェレフの体が震えた。長い髪を伝って、おびただしい量の血が、ジェレフの体から流れ出た。その命とともに。 「……メッシナ」  金色の目を見開いて、スィグルは目の前の女の名を呼んだ。 「ジェレフを殺したな」 「ええ。そうよ。本当は、あなたがやるべきだった」  メッシナが白い手を退くと、エル・ジェレフの額は無傷だった。彼の顔は、疲れ果てて眠っているようだった。 「彼を王宮の墓所に連れて帰ってあげて。頭から石を取り出すの。それがあなたにできる、いちばんの弔いよ」  諭すように、スィグルに言って、メッシナはジェレフの遺骸を抱いているイルスの肩に触れた。 「あとのことは、お願いね」  茶色の瞳で瞬く女に、イルスはうなずいてみせた。彼女はどこか、よろめきながら出ていく。与えられた力を、ダージに捧げるために。 「ジェレフ」  血のしたたる黒髪に触れて、スィグルは呼びかけた。 「ジェレフ、死なないで……」  消え入る声で眠る英雄に囁きかけ、スィグルはすがりつくように遺骸を抱いた。その手から、奪い取った小さな薬箱が落ちて、床を転がり、中におさめられていた最後の薬が、天幕の慌ただしい喧噪のなかに失われていった。 ----------------------------------------------------------------------- 「紫煙蝶」(8) ----------------------------------------------------------------------- 「ジェレフの石だよ」  そう言って、スィグルは白絹にくるまれた、透明な紫色の石を見せた。その形の一部には、見覚えのある輪郭があった。エル・ジェレフの頭を飾っていたのと、同じものだ。 「お前がやったのか」  イルスが訊ねると、スィグルは小さく何度か頷いた。彼の顔は、紙のように蒼白だった。  竜の涙が死んだとき、その苦痛を癒すために、遺骸から石を取り出すのが、この部族での習わしだという。遺骸は葬られ、石は王宮のさらに地下にある墓所で保存される。  墓所には無数の竜の涙が眠っているという。  エル・ジェレフも、その石のひとつになって、この街の奥深くで永遠に眠るのだろう。  この石は、彼を苦しめてきた病魔なのに、イルスにはこの淡い紫をした結晶こそが、エル・ジェレフの生涯そのものであり、形見のように思えた。 「イルス。僕らは同盟によって戦いを止めたけど、それは本当に正しいことだったかな」  スィグルの声は震えてはいなかったが、彼の心がゆらめくように傾いでいるのが、イルスには見えた。 「もしも戦いが続いていたら、ジェレフは竜の涙らしく、戦場で華々しく散っただろう。ジェレフは……悔しかったろうか」  手の中の紫の石をじっと見つめながら、スィグルはそれに問いかけるように話していた。  石は答えはしない。 「戦いを止めることが、お前のダージだっただろう」  イルスが答えると、スィグルは顔を上げ、じっと目を見つめてきた。  黒い卵も、白い卵もない、はじめは全ての部族が、ひとつの船に乗っていたんだ。傷つけられれば痛い、そんな簡単なことが、どうして誰にも分からなくなってしまったんだろう。  まだほんの子供だったころ、そう言っていた時のスィグルの目を、イルスは思い出した。彼の黄金の目には、今もまだ、その時に見た光が残っているはずだ。 「後悔するな、スィグル」  ジェレフの遺言を、イルスは伝えた。  スィグルはなにも答えなかった。  彼はただ労るように、手の中にある石を、大切に白絹でくるみ直した。 「宮廷は喪に服す。今夜、ジェレフの英雄譚(ダージ)が詠まれる。イルスも聴いてやってくれるだろ。公用語じゃないけど……」 「気にしないよ」  イルスは答え、スィグルをもう黙らせてやった。  彼がもう子供のころのようには泣かないことに、イルスは確かに流れた歳月を思った。  これから墓所に石を納めに行くのだと、スィグルは言っていた。生まれ落ちて宮廷に引き取られた時から、エル・ジェレフのための場所は墓所に用意されている。  死後の自分の落ち着き場所が決まっているというのは、どういう気分だったろう。  彼が大勢の仲間と眠る場所がどんなか、イルスは見てみたい気もしたが、そこは黒エルフの王族と、竜の涙にしか立ち入ることが許されない聖域なのだと、スィグルは済まなそうに言った。  イルスは、黙然と立ち去るスィグルを見送った。  宮廷の広間では、服喪のための黒い布が、そこかしこに掲げられていた。鈍色を加えても、宮廷の絢爛さに変わりはなかった。この、きらびやかな広間で、笑って軽口をたたくエル・ジェレフに迎えられたのは、ほんの昨日のことなのに。  あの、口の端に煙管をくわえて、いつも涼しげな笑みをたたえていた男が、この宮廷のどこにもいないというのが、なにかひどく間違ったことのように思える。  今にもふと、その柱の陰からでも、ふらりと現れそうだ。やあ殿下、と、紫煙を燻らせながら。  そう思った矢先、不意に甘ったるい煙の臭いを嗅いで、イルスは振り返った。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)、いつもジェレフが身に纏っていた、あの薄煙。  その出所を探して歩くと、回廊にしつらえられた石造りの椅子に、女が腰掛け、象牙の煙管で紫煙を燻らせているのを見つけた。早足に現れたこちらに気付いて、女はけだるげに目をあげた。 「エル・メッシナ」  呼びかけると、女はにこりともせずに、ふうっと長い息に乗せて、甘い香りのする煙を吐き出した。 「墓所へは行かなかったの?」  どこか親しげに、メッシナは言った。 「俺にはそこへ入る権利がないから」 「そう?」  さらりと聞き返すメッシナの言葉には、どこかしら毒が効いていた。お前も同じ竜の涙じゃないかと、彼女は言っているのだろう。答えを求める問いではない。イルスは黙ったまま、数歩の距離をはさんで、女戦士と向き合った。 「吸う?」  自分の白い煙管を持ち上げて示し、メッシナが誘った。イルスは首を横に振った。  メッシナは淡く微笑み、自分のとなりの席へ、やんわりと首をめぐらせ、そこへ座るよう促した。  イルスはそれを断る気にはなれず、彼女の隣へ腰をおろした。 「これ、あげるわ」  懐から取り出した銀色の短い煙管を、メッシナはイルスに差し出した。それには見覚えがあった。 「ジェレフのよ。形見に」  受け取るように、メッシナは促したが、イルスは手を出せなかった。それはもっと、彼を身近に見知っていた仲間が持っておくべきものではないかという気がしたからだ。 「どうせなら、スィグルにやってくれ」 「だめよ。こういうのは、持っていると悲しいから」  メッシナは半ば押しつけるように、銀の煙管をイルスの手に渡した。  これを指でくるくると回していたエル・ジェレフの仕草が、ふと思い出された。 「あの子がジェレフを止めてくれて、私は嬉しかった」  メッシナがスィグルのことを言っているのだと気付いて、イルスは意外に思った。メッシナは、ジェレフの死を引き留めようとしたスィグルを、良くは思っていないだろうと信じていたからだ。 「私たちには言えないわ、諦めるな、なんて。潔く諦めるのが私たちの誇り……そうでしょ」  長い睫毛のかげを頬に落として、メッシナはイルスの手の中の銀の煙管をじっと見つめていた。 「でも私も、自分が死ぬときには、あんなふうに誰かに惜しまれてみたい」  メッシナはまた自分の煙管をくわえ、くつろいで深い息を吸い込んだ。彼女の赤い唇から吐き出される、細い煙の帯が、ゆっくりとたなびいて消えるのを、イルスは目で追った。 「蝶が見えるか」 「見えるわ、たくさん飛んでる」  メッシナは蝶を追わず、ただ伏し目になって、うっすらと汗のにじむ額を指でぬぐった。 「ジェレフは勇敢だったわ」  どこでもない宙を見つめて、静かに話しているメッシナの横顔は、白く整っており、まるで人形のようだった。額の赤い石さえ、華やかな冠のようだ。 「だいたいの人は、もっと早くにけりを付ける。石に殺される瀬戸際まで生きているなんて、エル・ジェレフは怖くなかったのかしら」  不思議そうに言って、メッシナは懐を探り、花の象眼がされた小さな薬箱を取り出して、イルスに見せた。 「私も持ってる。毎晩思うの、もう今夜これを使ってしまおうか、って」 「……でも生きてる」  イルスが言うと、メッシナは大きな茶色の目を瞬かせた。 「そうね」  小さな手の中の薬箱を、メッシナはしばらく見下ろし、それから大切そうに懐に仕舞った。 「私も欲しいの、自分のダージが。なんでもいい、英雄らしい物語じゃなくても。自分が生まれてきたことに、意味があったと思えるような何か」  自分の膝にほおづえをついて、メッシナは細く、紫煙を吐き出した。ぼんやりとどこかを見ている彼女の目は、ひらひらと舞い飛ぶ蝶を眺めているようだった。 「……ジェレフはもう、船に乗ったかしら」  そういう女の目から、大粒の涙がつぎつぎとこぼれ落ちた。彼女はまるで自分が泣いていることに気付かないように、ゆっくりと甘い煙を吐いた。  ダージが支える。  最期に。  竜の涙を支えるのは、ダージだ。  手の中の、銀色の煙管を見下ろし、イルスは彼の言葉を思い出した。そのために死んでも構わないと思えるものが、自分にはあるだろうか。短く燃え尽きる命を捧げるダージが。  広間から、弦をかき鳴らす絢爛とした楽の音が響き、詩人たちが詠いはじめるのが聞こえた。  それは異国の言葉で語っていた。  多くの痛みを癒した、ある英雄の物語(ダージ)を。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「深淵」 -----------------------------------------------------------------------  墓所には無彩色の闇が広がっていた。  迷宮のように曲がりくねる通路が、いくつもの部屋を結び、一点の光明もない地下の真の暗闇の中を、蛇のように這い回っている。  ランプの頼りない光に浮かび上がる漆喰壁は、赤銅色の染料で染められ、その上を隙間無く埋め尽くす壁画が飾っていた。父祖たちがいにしえの昔、この都タンジールへ到達するまでの、苦難の道のりを描いた壁画だ。  墓所の暗闇の中で、古代の絵師達が技巧の限りを尽くした極彩色の絵画が、部族の歴史を語り続けている。  それを聞いているのは、骨と、石だ。  部屋には石造りの台座がずらりと並び、その上には様々な彩りの透明な結晶が安置されていた。竜の涙だった。  墓所には代々の王族と、部族のために命を捧げた竜の涙の魔法戦士たちが眠っている。台座には骨が。その上には冠が。あるいはその死者を死に至らしめた竜の涙が、静かに置かれ、年々の埃をかぶっている。  いくつもの通路を経て、ジェレフはまだ真新しい部屋へと踏み込んだ。掲げた灯火に浮かび上がる壁は、赤銅色もまだ鮮やかで、まるで一面に血を塗りたくったかのようだ。壁画の中には、その血の色にふさわしく、激戦をくりひろげる部族の戦士達の姿が描き出されていた。  絵の中のひとりが、こちらを見つめているような気がして、ジェレフは灯火を掲げなおし、目を細めてみた。  確かにこちらに顔を向け、鋭い黄金の蛇眼で見つめ返してくる者がいる。その白い顔をしばらく眺めてから、ジェレフはランプを捧げ持っていた手をおろした。  それは絵ではなかった。 「族長」  幻に呼びかけるような思いで、ジェレフは呼びかけた。  族長リューズ・スィノニムが、彼の治世を描いた壁画の前に佇み、自分を待っていた。 「明かりをお持ちにならなかったのですか」  軽い驚きを隠さずに訊ねると、リューズは薄い笑みを見せた。  部族の蛇眼は暗闇でもものの形を見る力を持っているが、それによる視界はごくわずかだった。曲がりくねる迷宮を歩くには、明かりがなければ心許ないはず。 「墓所は俺には庭のようなものだ」  この場所は、聖域だった。  王族と、竜の涙のほかに立ち入ることを許される者はいない。  誰の許可も必要なかったが、ここには何かしら神聖な結界が張られてあるように、日頃好きこのんで入り込む者はいなかった。  ジェレフも、ここに族長がいることを知らされたのでなければ、わざわざ足を踏み入れたくはなかった。 「話があるとか、エル・ジェレフ」  首をめぐらし、リューズは壁画を眺めているようだった。  それを真似て彼の視線をたどると、壁には数知れない敵兵の首を切り落とし、流れ出た血を砂牛に飲ませている光景が描かれている。族長リューズ・スィノニムの戦歴の中で、敵にはその残酷さを、部族の者にはその英断をもって知られる逸話だ。  水を絶たれ、騎獣に飲ませてやる飲み水がなくなったので、リューズは捕虜の首を切らせて、その血を飲ませ、砂牛をタンジールまで連れてもどった。  この人はなぜ、そんなことをしたのだろう。  砂牛は屠ってしまえばよい。捕虜は捨ててゆけばよい。騎獣を失っても、兵は歩くこともできる。 「エゼキエラ様のことで」  話さずに済ますわけにはいかないだろう。ジェレフはこの二日、後ろめたく隠してきたことを、族長に知らせてゆくつもりだった。  族長の側室エゼキエラは長年の療養も甲斐無く、衰弱のため息を引き取った。母を失ったスィグルは随分取り乱したようで、その事実を族長に知らせないようにジェレフに口止めをしたのだった。  自分が伝えるからと、スィグルは言っていた。  しかし宮廷に服喪の気配もない所を見ると、スィグルはまだなにも伝えていないに違いない。族長にとって、政略のために娶った亡霊のような妻だとはいえ、死ねばそれなりの形はとるはずだ。 「俺も話がある、エル・ジェレフ。そなたには礼を言わねばならない」  こちらに向き直って、リューズは古代の壁画に描かれていたのと、ひどく似た面差しに、微笑を浮かべた。 「妻の死を看取ってくれたそうだな」  小さく頭を垂れる族長に、ジェレフは言葉を失って、やむなく自分も答礼をした。  知っていたのか。  かすかに肝(きも)が冷えた。  族長には竜の涙に服従を求める権利はない。だがジェレフは、目の前にいる優しげな姿をした男が、見かけによらず残虐なのだということを、身にしみて知っていた。  彼とともに戦ったことがある者なら、誰しもそれを知っている。  側室の死を隠したことを、反逆と受け取ったとしても、もっともな話だ。 「ご存じだったのですか」 「俺は自分の宮廷のことなら何でも知っている。そなたが明日、最期の英雄譚(ダージ)を詠まれることも」  ごくり、と自分の喉が鳴るのを、ジェレフは聞いた。  その事実を突きつける族長の顔は、哀れむようでも、讃えるようでもなかった。 「そなたには詫びねばならない」  墓所の空漠に眼をやって、リューズはそう言った。なんのことを言われているのか、ジェレフには見当がつくようでいて、分からず、ただ戸惑うばかりだった。 「この玄室に眠っているのは、我が治世のうちに死んだ者たちだ」  リューズが示す先には、多くの竜の涙が安置されていた。  台座の白い石には、その持ち主の名が、英雄(エル)の敬称を添えて、黄金で象眼されてある。  どれもこれも知った名だった。即位したての族長とともに、侵略者と戦った勇猛な彼らの英雄譚(ダージ)は、今でもタンジールで折々に詠われ、敬意を払われている。  歴史の中の、あるいは華やかな物語の中の人物として見聞きし、尊敬してきた名前が、この玄室の中では、生々しい骸を晒して眠りについている。彼らは確かに生き、戦い、そして死んだのだ。 「皆、俺の戦友だった。部族のために戦い、ひとりまたひとりと死んでいった。俺が与えたダージに満足して逝ったものもいるが、皆がそうとは限るまい。勝ち戦で散った者もいるが、敗走する軍を救うため身を捧げた者もいれば、未熟な俺の失敗から浪費された者もいる」  族長は並ぶ墓碑に歩み寄り、親しい友の肩を抱くように、並んだ石に触れ、それを覆っている薄い埃を、静かに指で拭い落とした。  族長がなにをしに、時折この場へ来ているのか、ジェレフには分かったような気がした。 「そなたのための場所はあれだ、エル・ジェレフ」  リューズが指さした先を、ジェレフは見てしまった。  からっぽの台座には、やはり黄金の文字で、こう書かれていた。英雄(エル)・ジェレフ、と。  その墓碑には、没年がまだ刻まれていない。台座の上の空白を見つめて、ジェレフは自分の身が縮みあがるような感覚をおぼえた。  明日、あの場所を、自分の骨と石が埋めているのかもしれない。  それはおそらく恐怖なのだろう。  すでに感覚が麻痺して、なにも分からない。だが、微かに震え始めた指を、ジェレフは拳を握って隠さねばならなかった。 「俺になにか、言いたいことはないか」  亡き戦友たちの傍らに立ったまま、族長はじっとこちらを見つめていた。  言いたいことなど、なにもなかった。  自分は名君に恵まれた。  先代は罪深い凡庸さで、部族を窮地に追いやり、多くの版図と命が失われていったが、この人が即位してからの歳月は、苦しくとも、ひたすら続く華々しい反撃の日々だった。その中で英雄らしい戦いの場を与えられた自分は、そうでなかった者たちよりも、幸いだったのだ。 「感謝しています、族長」 「そうか」  通り一遍の言葉に、リューズ・スィノニムは、実にあっさりとした相づちを打った。ジェレフはそれに、自分が衝撃を受けるのを感じた。  竜の涙は部族に仕えているのであって、族長の支配を受けない。いわば自分たちは、同じく部族に仕える者どうしとして、対等の立場だった。それでも族長に対して生意気な口をきく気にはなれないが、限られた命を惜しみなく捧げて戦ってきた者には、族長も、もう少し深い敬意を示してくれるものと思っていた。 「この石の持ち主は、エル・シャロームだ。えらそうで鼻持ちならんやつだった」  灰緑がかった美しい造形の石に手を触れて、リューズは人の顔をのぞき込むように、その竜の涙の透明な結晶を透かし見た。 「死ぬ間際に、俺のことを寝小便垂れと言った。とんだ言いがかりだ」  英雄シャロームは敗走する軍を救った魔法戦士だった。味方を逃がして敵陣にひとり消える彼のダージは、詠む詩人すら涙ながらに弦を掻き鳴らす名作だ。その詩の中では、シャロームはリューズに鮮やかな一礼をして、フラ・タンジールと言い残し去ったことになっている。 「本当にそう言った。この寝小便垂れめ、お前のようなひよっこが族長冠をかぶっているから、軍が敗走するのだ、と言った。皆の前で大声でそう言った。一万五千の兵がそれを聞いていた。あいつは皆に聞こえるように、できるかぎりの大声で言ったのだ。そういう嫌みな性格だった」  おそらく一語一句憶えているのだろう、族長はどこか恨みがましい口調で話していた。 「俺はすっかり頭にきて、……悲しかった。あいつは死ぬ覚悟を決めたのだ。シャロームはいつも悪態ばかりついていたが、それもあれで聞き納めだった。シャロームは戻ったが、もう口がきける状態ではなかったからだ。なにか言いたそうだった。俺に、さらになにか悪態をつきたかっただけかもしれないが、それでもいいから俺は聞きたかった」  エル・シャロームの石の傍らに立つリューズは、まるで死者の声に耳を澄ましているように、少しの間、目を伏せていた。  やがて目を開いた族長は、またじっと、何かを促すように、ジェレフを見つめた。 「エル・ジェレフ。そなたも何か俺に、言いたいことがあるのではないか。何でも言ってかまわないのだ。どうせここには詩人もいない、聞いている者もいない。たとえいたとしても、ダージが語るのは美しい話だけだ。そなたたちがシャロームの最期の言葉を知らないように」  一万五千の兵は、なぜ口をつぐんでいたのだろう。竜の涙が族長を罵倒した、そんなものを目の当たりにした、一万五千もの口が、タンジールでは沈黙していた? 「感謝の言葉のほかに、言い残すことは、ありませんが……ひとつだけ、お聞きしたいことがあります。些細なことかもしれませんが」  ジェレフが告げると、族長は小さく頷いた。 「予知者のことです」  まだどこかに体の震えが残っていて、ジェレフは拳を握りしめたままでいた。その手に持った灯火が、小刻みに震えながら、玄室を照らしている。 「落盤が起きるのが明日だというのは、突き止められました。でも、どうしても場所がわかりません。タンジールのどこかです。それではあまりに広すぎます。漠然としすぎていて、民を逃がすこともできない」  リューズはジェレフを喋らせ、自分は微かに頷くばかりだった。  竜の涙には様々な能力を持った者がいるが、その中でも予知者は稀だった。当代には未来視を専門にする者がおらず、石を持たない予知者に頼るほかない。彼らはタンジールを近々襲う災害を予知したことはしたが、その内容はあまりにも不完全で、もどかしかった。  それについては族長も、よく知っているはずだ。 「落盤の起きる場所と規模を、予知することができれば、多くの市民が救われます」 「そなたの言うとおりだ」 「可能性は低いですが、王宮で落盤が起きることだってありえるのです」  他人事のように頷くリューズに焦れて、ジェレフは族長に、彼のすぐ頭上で起きるかもしれない厄災について言及してやった。 「そなたの焦りは分かるが、予知者がいないものは、どうしようもない」 「います」  性急に言いつのるジェレフを、リューズは微笑みながら見ている。 「俺の宮廷には竜の涙を持った予知者はいない、残念なことだが」 「イルス・フォルデス殿下が」  その名を挙げてから、ジェレフは一時言葉に詰まった。  スィグルの友人だという、あの少年のところへ、治療を頼まれて出向いて行き、彼が基本的な竜の涙のふるまい方も知らないことに驚かされた。魔法を知らない部族に生まれた哀れさというべきか。自分を襲う恐怖のことは知らされていても、自分が振るうことのできる力のことは、あの少年は何も知らなかった。  彼が予知者だと聞いて、ジェレフは動揺した。タンジール宮廷の竜の涙たちの誰もが、その話に動揺しただろう。自分たちがいかに望んでも得られない力が、他国で無為のまま放置されている。 「なぜ、族長から、殿下に申し入れていただけないのでしょうか。明日の落盤の場所を未来視するように」  ジェレフは族長の返答を待って、沈黙した。  リューズは何か考え込むように、かすかに視線を泳がせた。 「訓練されていない者が、ねらった物事を予知できるのか」 「難しいかもしれませんが、できないとは断言できません。話を聞く限り、殿下は意図したものを予知している事が多いようです。訓練されていないだけで、高い精度を持っているかもしれません。未来視のできる者に、力の使い方を教えさせれば……」 「それで、死んだらどうするのだ」  ジェレフの言葉をさえぎって、族長がぽつりと口をはさんだ。  率直にすぎる族長の言葉に、ジェレフは口にしかけていた言葉を詰まらせた。だが、回りくどい言葉でとりつくろったところで、誰にでも明らかな、問題点はそこだった。 「ヘンリックの息子に未来視させて、それがもとで死んだとしたら、お前はどう責任をとる? 同盟部族の、族長の子息だぞ」  反論すべき言葉を求めて、ジェレフはかすかに喉を喘がせた。  もしも落盤を正確に予知できたら、救われる。 「閣下は、ご自分の民が救われるかもしれない可能性に、賭けようとは思われないのですか」 「賭けている」  真顔でリューズが答えたことの意味が分からず、ジェレフは顔をしかめた。 「そなたに賭けている、エル・ジェレフ。そなたは我が治世において比類のない治癒者だ」  族長が自分を褒め称えるのを、ジェレフは震えながら聞いた。  待望していたはずの言葉が、今は自分の喉頸を静かに締め上げていた。  救われる。タンジールの民が?  そうではない。救われたいのは自分だ。残り少ない命と頭では理解していても、体は明日一日を生き延びたがっている。 「民を救えば、そなたの命は明日尽きるだろう。恐ろしければ行かなくてもいい。治癒者はほかにもいる。別の者にお前のダージを譲って、王宮で震えていればいい」  族長はどこか、労るように言った。だがそれは、明らかな死の宣告だった。  目眩がして、ジェレフは自分の視界から、いつのまにか舞飛ぶ紫の蝶が消えていることに気付いた。薬を継がなければ、じきに耐え難い痛みが襲いかかってくるだろう。それを思っただけで、にわかに額に汗が浮いた。 「ジェレフ。これは政治的な問題だ。そして誇りの問題でもある。このような危機は何度となく起きるだろう。そのたびにあの子を呼びつけて、未来視しろと頼むつもりか。ダージもなく、この墓所に名前の記されていない者に、俺の民のために命をかけてくれと?」  リューズが静かに歩みより、すでに明らかに震えているジェレフの手から、ゆらめく灯火を引き取った。明かりに浮かぶ族長の顔は、壁画に描かれていた太祖アンフィバロウの顔そのものだった。  父祖たちは奴隷の身から逃れて、命からがらこの都市へたどりついた。生き延びるには、魔法の力が頼りだった。火に薪をくべるように、竜の涙たちは消費されてきた。民のための生け贄だからこそ、竜の涙は英雄になれたのだ。  明日には屠られる羊のように、哀れに震えている自分が、英雄だったことが一度でもあったとは、ジェレフにはもう信じられなかった。自分は死を恐れなかったのではなく、死ぬとは信じたくなかっただけだ。 「恥じることはない。シャロームも死ぬときには震えていた」  族長はジェレフの帯の隠しから煙草入れをとり、煙管に火を入れると、一息ふかして、甘い臭いのする煙吐いた。袖で吸い口を拭ってから、銀の煙管を自分に差し出す彼の仕草を、ジェレフはどこか朦朧としながら眺めた。  頭痛が襲い、脂汗が額を濡らしていた。しかし麻薬(アスラ)の使用を民に厳禁している族長の前では、喫煙を申し出にくく、ジェレフは族長は察しの良い人だと思った。遠慮している余裕もなかった。痛みと恐怖が紫の蝶を求めている。 「紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)か……」  石を眺めながら、リューズは回想するように言った。  ジェレフは銀の煙管から深く吸い込んだ。甘い煙が肺を満たす。 「世には、それよりさらに強い効用を持った麻薬(アスラ)もある。だが、それらはお前たちの尊厳を蝕む。かつては石でなく麻薬(アスラ)に殺される竜の涙もいた。醜い死だった。父の治世のころだ」  族長はジェレフの知らない時代のことを話していた。そのころには自分もすでに宮廷で育てられていただろうが、記憶している宮廷の玉座には、もう目の前にいるこの男が座っていた。 「俺はそなたたちに堕落を禁じた。英雄として生きることを強要したのだ。民は希望を求めていたし、お前たちの華々しい物語は、敗戦に疲れた民の戦意を高揚させるために都合がよかった。胸の沸き立つ勝利の物語、血をたぎらせる残酷な復讐の物語、そして、英雄たちの献身的な死の物語だ」  見慣れた紫の蝶が、墓所の暗闇のなかから、ひらひらと舞うように現れ始めていた。 「それは民にとっても、そなたたちにとっても、麻薬(アスラ)以上に深く酔えるものだった」  紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は強い薬で、一息でも吸い込めば、その効果を示すはずのものだ。しかしジェレフには族長が酔っているようには見えなかった。微かに揺らめいている視線を見れば、彼の視界にも蝶がいることは確かだったが、初めてそれを吸い込んだ者が感じるはずの深い酩酊を、族長は顕さない。  慣れがある。煙を吸い込む仕草にも。  かつてこの宮廷には、麻薬(アスラ)が蔓延した。侵略者が与える恐怖を癒すために、貴賤の別なく酔い痴れて過ごした時代があった。この人が少年時代を過ごし、やがて打ち砕いたのは、そういう時代だ。 「そなたたちを強い薬で酔わせた俺が、かつての宿敵と同盟を組んで戦をやめるという。民は結局のところ平和を喜んでいる。俺はそれでよかったと思う。だが、我が英雄たちは違うだろう」  墓所の暗闇の中には、音ならぬ英雄譚(ダージ)が満ちあふれている。栄光に彩られた死。語り継がれる名。名君の時代。  敵の首を落とせと命じる残酷なこの人に、兵は酔い痴れただろう。  なぜこの人はそんなことをしたのだろう。自分には参戦のかなわない過去の戦いで。  今、この目の前で、そのような戦いをしてくれたら、いつでも惜しまず命を投げ出したのに。 「戦で死にたいか、エル・ジェレフ」  静かに問いかける族長の言葉に、ジェレフは素直に頷いた。ここで震えて死ぬよりは、その高揚の中で、酔っていたかった。 「そなたには詫びねばならない。俺はもう、シャンタル・メイヨウとも、ハルペグ・オルロイとも戦わぬ。そなたたちのための戦は、もうないのだ」  穏やかに断言して、リューズは燃え尽きた煙管を宙に浮かしているジェレフの手から、それを取り上げた。 「明日、俺の民を救って死んでくれ。それが今、俺が与えてやれる唯一のダージだ」  見つめ合った族長の姿に群がるように、紫の蝶の幻が飛び交っていた。彼の背後には数知れない英雄たちが眠っていた。死に場所に彼の戦を選んだ。それはどんな人々だったのだろう。幸せな連中だ。 「……どうすれば勇気を、持てるのでしょうか」  ジェレフはやっと、それだけ訊ねた。声は掠れていた。  リューズ・スィノニムは、かすかに首をかしげ、不思議そうにこちらを見た。 「勇敢にふるまうのに、勇気などいらぬ。それが必要とされる場所に、ただ立っていればいい。そなたは戦うだろう」  にっこりと 、人懐こく族長は微笑んだ。そして彼は銀の煙管をジェレフの煙草入れに仕舞い、帯の上からぽんとそれを叩いた。 「もう行くがいい、我が英雄よ。明日まではまだ間がある。やり残したことはないのか」  ジェレフは小さく首を横に振った。 「なにもかも片付けてきてしまいました。何か残しておけばよかった」  別れを告げるべき相手には、すでに挨拶をした。居室にあった物も全て始末をつけ、手紙や手記の類もみんな燃やした。明日そこへ戻るときには自分はもう骸になってる、そういう覚悟をつけたつもりで。 「それでは広間(ダロワージ)で新しい恋でもしたらどうだ」  族長が本気らしい口調で言うので、ジェレフは堪えられずに笑った。  それは良い考えだった。残された夜が尽きるまでの時を、夢中になって生きるには。 「もう、そんな気には。抱いた女に、なぜ震えているのか聞かれるのも不名誉です」 「そんな無粋な美姫しか我が宮廷には侍っておらぬのか」  ふん、と皮肉な笑い声をもらして、族長は首を巡らし玄室を振り返った。  天井まで覆い尽くす鮮やかな絵画が、彼を包んでいた。  かつては生きていただろう人々の肖像、波打つ金の麦、タンジールの夕景。族長が絵師に描かせた彼の治世は、凄惨な戦いと、そこから帰る者を待つ人々の顔だった。血を流す男たち、待ちわびる女たち。ここに眠る竜の涙たちは、それを見上げて悟るだろう。自分たちが何のために死んだか。  麗しのタンジール。麗しのタンジールだ。 「夜明けまで、ここにいてもいいでしょうか。絵を見ていたいのです」  縋る目で頼むと、族長は許すように薄く微笑んだ。 「ジェレフ。そなたは戦場の奇蹟だった。我が民はそなたのことを、永遠に忘れないだろう」  ジェレフは無理に微笑み返した。  我が英雄よと呼びかけるこの人の目に映る、最後の自分の姿が、無様に見えないように。 「俺も忘れはしない」  励ますように、握ったジェレフの肩を小さく揺さぶって、族長は玄室を去る気配を見せた。  無灯火の墓所を、族長はゆっくりと行った。  彼の後ろ姿は薄闇の中へ、やがて無彩色の闇へとけこむ輪郭線となり、ついに見えなくなった。 「やはり行くのですか、エル・ジェレフ」  長い巻物に書かれた装飾文字を眺めるジェレフに、くたびれた藍色の長衣(ジュラバ)をだらしなく着ている宮廷詩人が呼びかけた。  彼のところに、ジェレフは自分のダージを読みに来た。  要約されたそれには、自分の長くもない生涯のことが、美々しい言葉を極めて書き連ねられていた。 「今朝まで徹夜で仕上げましたけど、まだ納得いかないな。特に出だしがです」  顔をしかめて唸っている詩人を、ジェレフは巻物から視線をあげて眺めた。  ジェレフには芸術は理解できなかった。竜の涙の中には、自分のダージをああしろこうしろと、うるさく口を出す輩もいるらしいが、ジェレフはいつも黙って聴くだけだ。 「せめてあと一日ほど、生きていてくれませんか。最期のダージを今夜までに仕上げろなんて、惨いです」  彼が惨いといっているのは、死のことではなく、寝不足のことだった。ジェレフは面白くなり、あくびをする詩人を笑った。 「もっと修辞をこらしましょうか。僕はすっきりしたのが好きだけど。あなたのダージなんだから、あなたの好みで」  ジェレフは肩をすくめ、巻物をもとどおり巻き直した。中に書かれているのは、確かに英雄の生涯だった。ジェレフはこの詩人の、あっさりと嫌みのない筆が好きで、彼に自分の最期のダージを任せることにしたのだ。 「このままでいいよ。俺も最後まで聴きたかったな」  冗談めかせて言うと、詩人は笑った。冗談のわかる男だった。 「ひとつだけ注文を聞いてくれるか?」  ジェレフが頼むと、詩人は何なりとと言うように大きく頷いた。 「出だしのところに、こう書いてくれ。俺が生きたのは、族長リューズ・スィノニムの御代だったと」  詩人はどこか、ぽかんとした顔で、ジェレフの注文を聞いていた。 「そんなこと誰でも知ってますよ。ダージは年代順に管理されるし、あえて書かなくても」 「書くとまずいのか」  どこか渋っているふうな詩人に、ジェレフは訊ねた。 「まずくはないですが。普通は書きません。竜の涙は族長にではなく、部族に仕えているからです。書けば僕も非常識だって思われますね」 「そうか」  それは済まない気がして、ジェレフは困った。ダージは竜の涙の生涯を語るものだが、それを詠む詩人にとっても、彼らの生涯をかける仕事であるからだ。 「理由を聞いてもいいですか」  次第によっては、書いてやってもいいという表情を、詩人の隈の浮いた顔が浮かべていた。  ジェレフは理由を考えたが、とっさに明解な答えは浮かんでこなかった。  朝になって、突然そう思い立ったのだ。そうでなければ、葬儀のために編纂される自分のダージを読みに来ようなどとは思わなかった。  ジェレフと顔を合わせて、詩人が仰天したふうだったことからも、死を前にした竜の涙が自分の詩を見に来るのが稀なことはうかがい知れた。  よほど自己愛の強い、自惚れたやつだと思われただろう。  しかし、昨夜、墓所を立ち去るリューズ・スィノニムの後ろ姿を見て、ふと心配になったのだ。民は自分が英雄だったことを忘れないでいてくれるかもしれないが、それが名君の時代の出来事であったことは、忘れるかもしれない。 「自分でも良く分からないんだが。いずれお前の詩が世に残って、皆の前で詠まれることがあったとしてだ。これは族長リューズ・スィノニムの御代のことだったという一節があれば、民は喜ぶような気がする。皆そこで喝采してくれるような気が」  ジェレフが説明すると、詩人はかすかに唇をとがらせ、脳裏にその情景を思い描くような顔をした。何度か深い呼吸をし、手に握っていた筆をこつこつと指で弾いてから、詩人はまたこちらに目を戻した。 「それはいいですね」  詩人はどこか興奮したような目をした。 「それはいい。きっとそうなるでしょう。あの方は名君だから」  言いながら、そばにあった紙片に、詩人は部族の文字でさらさらとなにかを書き付けた。そしてその書き付けをジェレフの眼前に見せたが、なにが書いてあるのか、ジェレフには判読できなかった。字の汚い男だった。 「あなたのダージは部族の戦史だけでなく、文学史にも残るかもしれませんよ」 「それは大変な名誉だな」  意気揚々として作業をしはじめた詩人の背を見守って、ジェレフは苦笑した。  彼らはどこか浮世離れしており、自分が詩に詠む相手が生きようが死のうが、どうでもいいのかもしれなかった。竜の涙が紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)に酔うように、詩人たちは己の紡ぎ出す言葉に酔っている。  詩作の邪魔をせず、立ち去ろうと決めて、ジェレフは出ていこうとした。 「英雄(エル)・ジェレフ」  片腕に琴を抱いたまま、詩人は呼び止めた。  扉までびっしりと書き付けの貼られた詩作部屋の出口で、ジェレフは立ち止まった。 「あなたのダージを名作にします」  詩人はそう約束した。  微笑んで、ジェレフは扉をくぐって出ていった。  部屋からは琴の音が流れ、詩人が詠っていた。  それは族長リューズ・スィノニムの御代のことだった。族長リューズ・スィノニムの……。  いくつもの旋律を試す声が王宮の通路に響いている。  その美しい声を聴きながら、英雄は宮廷を去った。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「流星群」 -----------------------------------------------------------------------  次代を担うべき継承者のことを、新しい星に喩えるのは、この部族での古くからの伝統らしい。それが誰と目されているかを隠すために、長老会に属する最年長の魔法戦士たちは、その人物ことを、常に新星と呼んでいた。  しかしエレンディラは、それが誰であるかをよく知っていた。  たぶん、このタンジール王宮にいる竜の涙で、星の正体を知らない者はいない。  アズレル様よ。  長老会が押し立てている王族の名を、エレンディラは、深い誇りとともに胸に呼び起こした。  ここ何日も、長老たちは部屋(サロン)に籠もって談義していた。いったい誰に、新星を与えるべきか。  エル・エレンディラか。  あるいは、エル・イェズラムかだ。  自分たちの運命について話す、長老たちの声と、彼らが吐く紫煙に取り巻かれながら、エレンディラは自分が養育されてきた長老会の部屋(サロン)のすみに胡座していた。  そこは薄暗い部屋だった。  長老の中に、強い光を嫌う者がいたからだ。灯りを見ると頭痛が絶えないのだそうだ。  頭を寄せ合って話す大人たちは、誰も彼も、たっぷりと誇らしげな竜の涙を頭に飾り付けていた。それは彼らの死期が近い事も意味しているが、彼らが歴戦の勇者であることも意味している。  それに比べて、エレンディラの石はまだちっぽけなものだった。  血の雫のような赤い石が、額にぽつりと浮き出ているだけだ。  石に冒されるのは恐ろしい気もしたが、エレンディラは早く、英雄譚(ダージ)に詠われる英雄たちのような、冠のごとく髪を飾る竜の涙を自分のものにしたかった。  きっと晴れがましいだろう。女神のごとく戦場を駈け、魔法に満ちた雷撃を操り、そして新星を我がものとする。  与えられていた紙に書きつけるエレンディラの指は、ずっと休んだままだった。自分の想像に動悸がして、気が気でない。  それなのに、目の前にいる少年は、黙々と何かを書いていた。  待つ間に終えるよう、長老たちに与えられた課題の、暗号文への翻訳だった。  よくそんな平気そうな顔をしていられることね、エル・イェズラム。  むっとして、エレンディラは自分よりいくらか年上の少年の、無表情な横顔を睨んだ。  その額には紫色の竜の涙があった。  彼の石は年齢の割には大きいように見えた。  それは戦場でご活躍だから。  彼は火炎術を用いる魔法戦士で、アズレル殿下の一番のお気に入りだった。  殿下は派手なものと、忠実なものと、有能なものと、従順なものと、そして赤いものがお好みだった。  イェズラムの魔法と彼自身とは、その全てを網羅している。  もしも彼の額にある石が、エレンディラのそれのように赤い色をしていたら、きっともっと完璧だったろうに。  アズレル様は、わたくしの石を美しいとおっしゃった。  でも、それだけ。  有能でも、忠実でも、従順でも、わたくしは二番目。  それは単純に、石が与える魔力が、イェズラムのほうが強いからだった。  努力で何とかなるものでもない。  でも、イェズラムは不調法で、宮廷での腹芸はしないのだから、ひょっとすると長老たちは、新星の補佐役として、わたくしを選ぶかも。わたくしのほうが若いし、きっとイェズラムより長生きする。  頭だっていいはずよ。  宮廷の博士たちは、こぞって私を才知にあふれていると誉めた。  ふと目の前の少年が筆を置くのが見えた。それにエレンディラはぎくりとした。  自分のほうは、すっかり手がお留守になり、まだ途中だったからだ。  慌てて翻訳に戻ると、イェズラムが紫色の蛇眼で、じっとこちらを見た。  彼は笑わなかったが、エレンディラは嘲笑された気がして、その悔しさで頬が熱くなった。 「ふたりとも、こちらに参れ」  急に呼ばれて、エレンディラははっとし、筆を落とした。床の敷物にインクの黒い染みが点々とついた。  長老会が談義を終えたらしかった。  では結論が出たのだ。  エレンディラはきゅうに胸が苦しくなった。  そのまま脚が竦んで立てずにいると、ゆるりと立ち上がったイェズラムが、長衣(ジュラバ)の裾を直していた。  それと目が合うと、行こうと誘うような顔を、イェズラムはした。  エレンディラは紙を置いて立ち上がった。  そして車座に座る長老たちの間に、ふたりで並んで立った。 「エレンディラ」  深い青の石を持った、長老会の長が、どこか嗄(しわが)れた声で優しく呼びかけてきた。 「そなたはよく頑張った。偉大な英雄になれる」  エレンディラはその話を、項垂れて聞いた。隣でイェズラムがいつも変わらず、胸を張って立っている。 「新星はイェズラムに与えることに決まった。そなたは退出してよい」  その話を横で聞いているはずの少年は、驚きも、喜びもしなかった。  まるで当然の話を聞いているみたいだった。  頭の奥が、かっと熱く燃えるのを、エレンディラは感じた。 「なぜですか……」  思わず、言うべきでない言葉が唇をついていた。言葉を返すエレンディラを、長はかすかに微笑んで見つめていた。 「わたくしが、女だからですか」  言ってはだめだと諫める自分の声が脳裏に響いたが、エレンディラは自制できなかった。  かすかにイェズラムがこちらを見たような気がした。 「そなたは男子だ、エレンディラ。竜の涙に女はいない」  頷きながら、長はそう教えた。言わずもがなの話だった。  エレンディラは訊ねた己を恥じた。  力及ばなかったから、敗北したまでのこと。それ以外の理由などないわ。  エレンディラはきつく目を閉じる自分の顔を隠すため、膝をついて長老たちに深く平伏した。  そしてそのまま、逃げるような早足で、長老会の部屋(サロン)を出た。  エレンディラは、そのまま、まっすぐ自室に戻ろうと思っていた。  誰とも顔を合わせたくない。  自分とイェズラムが長老会の部屋(サロン)で養育される面子の最後の二人だということは、誰でも知っていたし、今後はそれが、イェズラムだけになることは、誰の目にも明らかに分かることだろう。  だけど今はまだ、部屋の外にいる者で、それを知っているのは自分だけだった。たった今、自分がそこから追い出されたことを知っている者は、他にはいない。  だから、せめて今くらいは、平気な顔をして歩いていってやろう。  そう決心して、長衣(ジュラバ)の裾を翻す勢いの早足で、王宮の通路を行こうとした矢先、エレンディラは壁のくぼみに誰かが座っているのを見つけた。  そこには蛇の文様を銀糸で織り込んだ、古い織物が飾られており、 床から一段高くなっているくぼみの底部に、赤みがかった鈍色の長衣(ジュラバ)を着た子供が、ちんまりと腰掛けていた。  幼髪をしており、額には額冠をしていた。王族の子だった。  あれはたしか、イェズラムの弟分(ジョット)だと思い当たって、エレンディラはなんとなく険しい顔になり、その傍に行くにつれ、歩調をゆるめた。  通りすがり様に視線が合った。  向こうはこちらを凝視してたし、こちらは向こうを凝視していたからだった。  子供はまだ十にもなっていないように見えた。  黄金の目をしていて、壁のくぼみで膝を抱えたまま、エレンディラが立ち止まると、その、どことなくぎらりとした目を、ぱちぱちさせた。  たぶんイェズラムが出てくるのを、ここで待っているのだろう。  そう思うと、なんとなくその子供が憎たらしくなり、エレンディラは冷たく見つめた。  その目をしばらく見返してから、子供は唐突ににっこりと微笑んだ。可愛い子だった。エレンディラは思わずつられて、気まずく微笑み返した。 「イェズを待ってるんだよ」  顔によくあう可愛げのある声で、王族の子供は言った。 「しばらく出てこないと思いますわ、殿下」  王族がたくさんいるせいで、エレンディラには、その子の名はすぐにはぴんと来なかった。しかし王族というのは便利なもので、殿下と呼べば、それで済む。  しかし子供は名前をごまかされたことに、気がついたらしかった。 「俺はリューズ・スィノニムだよ、エル・エレンディラ」  気を悪くしたようでもなく、子供は気さくに教えてきた。自分の名を知られていたことに、エレンディラは意外な気がした。この子と、どこかで縁があっただろうか。  真面目に見つめてみると、リューズと名乗ったその幼い男の子の顔を、どこかで見たことがあるような気がする。  そういえば、この子は、誰かに似ている。  ああ、そう。  たぶん、アズレル様だ。  新星と良く似た面差しで、男の子は、本物の星のほうには無い、屈託のない笑みを惜しげもなく浮かべている。  その表情は明るかったが、なんだか、痩せた子だった。宮廷着の袖から出ている手首が、やけに細いのが、エレンディラには気になった。どことなく飢えている印象のする子だ。  それが可哀想に思えて、エレンディラは胸が寂しくなった。 「わたくしの名を知っているのね」 「俺はみんなの名前を知っているよ」  得意げに微笑んで答える子供の顔は、人懐こかった。  エレンディラは微笑んだ。 「どうして泣いてたの」  満面の笑みのまま、子供は唐突にそう訊ねてきた。  エレンディラは真顔になった。  泣いてなどいなかったはずだ。敗北した悔し涙なんか、死んでも流すものか。 「泣いていません」 「イェズはいつ出てくるんだろう。おやつをくれる約束なのに」  凄んでみせても、子供は相変わらず満面の笑みだった。そして、するりと掴み所無く、話を変えた。  この子は少し、おかしいのではないかしらと、エレンディラは気味悪くなった。  どうしてずっと、笑っているの。 「エレンディラ」  不意に手をのばしてきて、子供がエレンディラの長衣(ジュラバ)の裾を握った。 「イェズが来るまで、いっしょにいてよ」  猫が喉を鳴らすような甘さのある口調で、子供は言った。  強い力で、子供は裾を掴んでいた。なんだかこのまま、壁の中に引っ張り込まれそう。  子供の顔を覆っているのは、そんな怪異じみた笑みだった。 「わたくしはイェズラムの代わりはいたしません」  思わず叱りつけるような口調になってしまった。  無関係のこの子に八つ当たりした気がして、エレンディラはすぐに気が咎めたが、子供はそんなことは気づきもしないように、相変わらずにこやかだった。 「イェズが嫌いなのか」 「嫌いです」  問われるまま、エレンディラは小声で吐き捨てた。  すると子供はきゅうに、にやりと笑った。もともとの笑みが偽物だったみたいに。 「俺もだよ」  その声がなんとなく大人びて響き、エレンディラは驚いた。 「イェズは意地悪だよ。いつも偉そうで。だから嫌いだ」  じっとこちらの目を見つめて、笑いながら言う子供の声は、まるで自分の気持ちを代弁しているかのように、エレンディラには聞こえた。  共感する気分が、しだいに胸に湧いてきて、エレンディラは裾を掴んで待っている子供の顔を、まじまじと見つめてみた。  王族は、新星が昇れば、死ぬ運命にある。だから、この子ももう、そう永くないのだ。  アズレル殿下はほぼ成人に達しており、何より、気弱な族長が病がちだった。継承の時は近い。  並み居る王族たちは華麗であっても、結局は流れて燃え尽きる流星群のようなもの。  継承者が指名されれは、他の者は縊(くび)り殺される。大抵は親しい者が、それをやる。せめてもの情けだ。  だからこの子を始末するのは、イェズラムかもしれない。乳兄弟だったはずだから。  そんな予感があって、イェズラムが嫌いだというのなら、もっともな話だわ。  いい気味だわ、イェズラムと、エレンディラは思った。世話してやっている弟(ジョット)から嫌われるとは。  そう思うと、目の前の子供はずいぶん可愛く感じられてきた。 「わたくしもお腹が空きました。晩餐まで間があるし、ごいっしょに甘いものでも召し上がりますか、殿下」  視線を合わせようと、エレンディラは子供の前に片膝をついた。  すると子供は握っていた裾をぱっと手放し、座っていたくぼみから跳びはねるような勢いで立ち上がった。その顔は嬉しそうだった。  痩せた両腕を拡げて、子供は突然、エレンディラに抱きついてきた。  予想していなかった出来事に動揺し、エレンディラは目を白黒させた。 「ありがとう、エレンディラ。一緒に行くよ」  にこにこ笑っている子供の仕草は、明らかに、抱き上げろと促していた。  抱いて運ぶような年頃の子とは思えない。  それでも逆らえない気がして、エレンディラは、てらいなく首に抱きついてくる男の子の体を抱き上げた。  拍子抜けするほど軽かった。  子供はすぐに部屋に馴染んだ。  いつも自分が入り浸っている派閥の部屋(サロン)に伴えばよかったのかもしれないが、なぜか恥ずかしい気がして、エレンディラは彼を自分の居室に連れて行った。  女官に甘い砂糖菓子を沢山用意させ、飲み物にと果実水を注文した。  子供とはいえ王族なのだからと、客用の円座を上座にしつらえさせたが、子供はそこには座らず、エレンディラの膝に座った。  それはおかしいと思いはしたが、止め立てする気が不思議と起きない。  他人のふところに、するりと入る技を、この子は持っているらしかった。  そうして行儀よくちんまり座っていると、まるで子猫かなにかのようで、エレンディラは子供の可愛さに心を癒やされた。 「殿下、お菓子をお召し上がりください。ですが晩餐に障りますので、ほどほどになさってくださいね」  美しく菓子を盛りつけた盆を、膝の上にいる童子にさしだしてやると、彼は少し迷ってから、ひとつ選んで口に入れた。菓子を噛み砕く音が聞こえた。 「俺は晩餐にはいかないよ」  通路で見た時と同じように、笑っているのだろうと思えるにこやかな気配の声で、子供は言った。 「まあ、なぜでございますか」 「兄上が行ってはならぬと仰せだから、行ったことがない」  どこか舌足らずな声で、子供は宮廷人らしい敬語で喋った。  エレンディラは顔をしかめた。そう言われれば、この子を晩餐の広間(ダロワージ)で見たことがない。  でも、そんなおかしな事があるだろうか。王族はみな、あの席に自分のための場所を与えられていて、そこで食事をとるものだ。朝も昼も夜も。  あるいは、この子は病気なのだろうか。公の席に出られないような。  お菓子をあげて平気だったかしらと、エレンディラは心配になった。 「お菓子は包んでさしあげますから、殿下の兄上様に、召し上がっても平気かどうか、お尋ねになってからになさってはいかがでしょうか」  子供の手から、菓子の盆を遠ざけて、やんわりとエレンディラは止めた。  子供は首をかしげて、こちらを振り返った。その顔はにこにこしていた。 「訊けば兄上は、食べてはならぬと仰るだろう。今はそういう時期なのだ」 「そういう時期とはなんでございますか」 「俺が何日絶食できるか、試しておいでだ」  にこやかに語られた子供の話に、エレンディラは唖然とした。  膝の上にある子供の脚が、痩せていた。 「それは、また、……なぜですか」  エレンディラは思わず訊ねた。すると子供は、笑って答えた。 「俺が飢えるのが、おもしろいからだろう」  子供はにこにこと、こちらの様子をうかがっているような顔をしていた。 「食べてもよいか、エレンディラ」  許しを待っている口調で、従順そうに子供は訊ねてきた。だめだと言えば、諦めるというふうに。 「どうぞお召しか上がりください」  逡巡する自分を感じながら、エレンディラはほとんど無意識にそう答えてやっていた。  子供は機嫌良く、盆に向き直り、ふたつめの菓子を噛み砕いた。 「殿下の兄上様は、どなたでしょうか」  肩の下までで切りそろえる幼髪をした、黒々とした子供の髪を、エレンディラは見下ろした。 「お前たちの新星だ」  そう答える声は、深く斬り込んでくるようだった。  アズレル様。  自分が掴み損ねた星の名を、エレンディラは反芻した。  この子はアズレル様の同腹の弟なのか。いや、アズレル様には弟はいないはず。  ではなぜこの子は、アズレル様を兄上と呼ぶのか。単に王族で、自分より年上だからか。  エレンディラはアズレルを擁する派閥に属している建前だったが、女の身であるため、なんとなく男ばかりが群れ集うアズレルの派閥の部屋(サロン)には近寄りがたかった。連中はいつも強い麻薬(アスラ)か、心酔しているアズレルの論説に酔っていて、どことなく妙なのだ。  だから余程の事がない限り、エレンディラは、自分の面倒を見てくれる兄(デン)のいる、女ばかりの部屋にこもっているほうが、安心していられた。  そんなことだからイェズラムに出し抜かれ、アズレル殿下のおぼえ目出度からずで、あっさりと敗北したのかもしれないが。  だけどあそこは怖いのだ。アズレルが支配する、赤い扉の向こう側は。  だが、もしもいずれ、アズレル殿下が新星として昇る日には、あの扉の向こう側の世界が、その外へと漏れ出てきて、この宮廷を包み込む。  そうなったら、どこへ逃げればいいかしら。  エレンディラは、ふと真面目にそう思った。  そんな場所があるはずはない。宮廷と、玉座の間(ダロワージ)は、竜の涙である自分にとって、世界の全てだ。戦場で戦う時を別にすれば。  その考えに至った時、ふと、意気揚々と出陣していくイェズラムの姿が思い出された。タンジールに戻るとき、彼は命を失うかもしれぬ戦地に赴く時より、暗い目をしていた。  武功を上げられる戦が好きで、宮廷での気の向かない権謀術数が、嫌いだからだと思っていたわ。  膝の上の子供は、機嫌よく、こりこりと音を立てて菓子を食べていた。  その仕草は行儀がよく、とても飢えているようには見えなかった。  きっとこの子は嘘をついているのだろうと、エレンディラは自分をなだめた。  子供のころには、よくあることですもの。  そうでないと、お気の毒。  内心に独りごちて、エレンディラが子供の髪を撫でてみようとした時、不意にこつこつと、扉を叩く音がした。  女官が入ってきて、来客を告げた。  許可を待つ気もなさげな図々しさで、来客は踏み込んできた。  エル・イェズラムだった。  いつも無表情でいる少年の顔が、怒ったように眉間に皺を寄せていた。  ぽかんとして、エレンディラは自分たちの前に立つ彼を見上げた。  挨拶くらい、したらどう。 「なぜリューズを連れていったのだ、エル・エレンディラ。長老会のそばで待たせてあったはずだ」 「お腹が空いたとお困りだったので、間食などさしあげようと思っただけです」  半ば嘘だったが、結果的にはそういうことだった。  エレンディラは、不機嫌らしい好敵手の顔をまっすぐ睨んだ。 「殿下はあなたがお嫌いだそうです、エル・イェズラム」 「連れて帰る」  話に乗らず、イェズラムは静かに断言した。  膝の上にいる子供は、じっと顔をあげて、イェズラムを見ているらしかった。  その顔が、まったく微笑んでいないような気がして、エレンディラは薄ら寒くなった。 「ご自由になさって。ただ、わたくしは今夜、あなたに敗北したのがあまりに屈辱的で、つらいので、晩餐には出向かないつもりです。この部屋で食事をとります」  淡々と切り出すと、イェズラムは、この女はなにを言うのかという目で、こちらを見下ろしてきた。 「もしも殿下が晩餐の明けるまでここにいらして、私の膳から召し上がっても、たぶんわたくしは気付かないでしょう。なにしろ、今夜はぼんやりしておりますから」  そう提案すると、イェズラムは顔をしかめた。  彼が悩んでいるらしいことは、エレンディラには読み取れた。  なにを迷うことがあるのだろうかと、エレンディラには不思議だった。  やがて、ひとつため息をもらしてから、イェズラムは懐にあった紙と筆を取り出した。  先程、長老会の部屋(サロン)で、暗号文を書かされていたものだった。  すでに書き付けられた裏を使って、イェズラムはなにかをさらさらと書き、エレンディラに示した。  それは暗号文だった。  しかしエレンディラはそれを読むことに精通していた。  たぶん、あんな場でなければ、イェズラムよりも早く、解読も翻訳もできたのだ。  そこにはこう書かれてあった。  アズレル様は本当に新星か。お前はどう思う。  それを読んで、エレンディラは思わずにやりとした。  あなたでも迷うことってあるのですね。 「わたくしの知ったことではありません。新星を玉座に導くのは、あなたの仕事でしょう、エル・イェズラム。意見を聞いてどうするのですか」  皮肉たっぷりに突き放してやると、相手はますます難しい顔をした。 「お前はいやな女だな、エレンディラ」  それが負け惜しみのようだったので、気味がよくなり、エレンディラは小さく高笑いした。 「そんなことはない、イェズ。この人は、優しい人だよ」  口を挟んできた王族の言葉に、イェズラムがまた、さらにむっとした顔をする。 「お前は黙っていろ、リューズ」  頭ごなしに、イェズラムは子供を叱りつけた。膝の上で、子供が肩をすくめるのが分かった。しかしそれは怯えているわけではなく、どうも呆れたらしかった。 「晩餐の、終わる時刻より前に、こいつを帰らせてくれ、エレンディラ。食うのは程々にしておけよ、リューズ。アズレル様に、ばれるから」  早口に指示するイェズラムの言葉に、子供はなんども小さく頷いてみせている。うるさいなと言わんばかりの仕草だった。 「さっさと行けよ、イェズ。大丈夫だから」  そう請け合う子供の生意気な口調に、イェズラムはうんざりしたような顔をしたが、書き付けた紙を乱暴に懐にしまうと、そのままさっさと立ち去っていってしまった。  まあ、とエレンディラは思わず言った。 「戻るときも挨拶なしでしたわ。なんて失礼な男でしょうか」  憤慨を隠さずそう文句を言うと、膝の上の子供は、気味がよさそうに、ふふふと喉で含み笑いした。どうもそれが、この子が本当に可笑しいと感じた時の笑い方らしかった。 「ああいう奴なのだ。でも根はいいやつだよ」 「そうでしょうか殿下。わたくしには、これっぽっちもそうは思えません」  エレンディラは正直にそう答えた。  ついさっき、自分を打ち負かしたばかりだというのに、挨拶のひとつもない。  幼い頃から長年かけて、熾烈に争ってきた間柄だというのに、勝ち誇る言葉も、あるいは労いの言葉のひとつもないとは。 「お前はイェズに新星をとられたから、それが悔しいのだろう」  エレンディラは子供の大人びた口調にたしなめられた。 「だけど玉座のもとに力を合わせないといけないよ、英雄たちは」 「さようでございますね、殿下。ですが、わたくしは自分の星が欲しかったのです。そのために学び、戦ってまいりました。それが全て無駄だったとは、思いたくないのです」  不満をのべると、子供は考え込むように首をかしげた。その痩せた背を、エレンディラは伏し目に見下ろした。 「それはしかたないよ。星はひとつしかないから、イェズと半分こするわけにいかないだろう」  真面目に答えているらしい小さな王族の言葉が、エレンディラには面白く、可愛かった。 「殿下がわたくしの星になってくだされば、それで心が安まりますが」  こちらを見ていない背に微笑みかけながら、エレンディラは求めてみた。すると子供はさらに考え込むように、反対側に首をかしげる。 「それで一飯の恩に報いてもよいが。俺はどうせ燃え尽きる星なのだ。それでもよいか、エレンディラ」  そう言って、こちらを見上げた子供の顔は、張り付いたような笑みだった。  ああ、そうだと、エレンディラは思い出した。  この子は流れ星。  一瞬輝いて、墜ちる星だ。  新星に玉座をとられて。  でも、それをわたくしは、どう思うのかしら。  それをイェズラムはどう思うのかしら。  アズレル様は本当に新星か。  エレンディラは、幼い星の痩せた体を、やんわりと抱きしめてやった。 「それでも結構です。星が燃え尽きるまで」  エレンディラが請け合うと、子供はどこか安心したように、膝に甘えてきた。  にっこりと顔を見上げて、リューズは感想を述べた。 「そうか、あなたは、妙な人だなあ、エル・エレンディラ」  そう言う瞳は、黄金で、あたかも闇夜に駆け上る星のごとく、まばゆく鋭い輝きを放って見えた。 《おわり》 ----------------------------------------------------------------------- 「発火点」(1) -----------------------------------------------------------------------  リューズがなかなか寝付かないので、イェズラムは枕元に座り、しりとりをしてやっていた。  王族の者たちには生来の癇質のためか、気が昂ぶって寝付きが悪い者が多いらしく、リューズもその例に漏れず、寝床に入ってからずいぶん経っても、一向に眠る気配がしない。  それでもまだ十やそこらの子供のことで、しりとりで済むのがいいところだと、イェズラムは思った。  アズレル様は今夜も深夜まで酒宴を張るという。眠れないなら、いっそ眠らず騒ごうというのが、この主のいつもの考えだった。  リューズの異腹の兄で、次代の族長位を継承すると目されている王族のことを、イェズラムは漠然と焦れて思い描いた。  アズレル様も癇癪がひどく、いったん苛立ちはじめるとリューズの比ではない。見た目にも分かりやすく、泣きわめいて駄々をこねる子供とは違って、アズレル様は優雅に微笑んだ顔で人を刺す。  だからあまり遅れたくないと、イェズラムは中々寝付かないリューズを横目に見下ろした。  リューズは寝床の中で丸くなって目を閉じ、夜具を被っていた。不眠に苦しんで何度も寝返りを打つので、幼髪に切りそろえてある髪が乱れ、王族の子らしい気品など、欠片もないような寝姿だった。  思いつかない次の言葉を、リューズは悶々と考えるような横顔をしていた。その瞼に眠気があるのをやっと認めて、イェズラムはほっとした。これなら遠からず眠るだろう。  できればリューズが寝た後に、宴席に出向きたかった。行くのを気取られると、リューズは自分も行くと言って聞かないだろうから。 「イェズラム」  ぼそりと眠そうな声で、リューズが呼びかけてきた。 「どうした、降参か」  膝の上に持っていた書類の下書きに朱墨を入れながら、イェズラムは尋ねた。曖昧なうなり声がそれに答えてきた。 「降参ではないが、思いつかない」  そこはかとなく悔しげに、リューズは言った。 「明日にしたい……」  自分からそう言ってきたリューズに、イェズラムは頷いた。そして、書類を脇へ置き、寝床で目をこすっているリューズに夜具を着せなおしてやった。  そして、眠るまではと用心をして、書類をまた手にとったが、痛恨の表情で寝入ろうとしているリューズの顔を見て、自然と苦笑が湧いた。どうせ部屋は薄暗く、書類の文字はよく見えなかった。あくまで今夜は、部屋で仕事をしているというふりをするための、見せかけの小道具で、さほど筆が進まなくても、別にかまわない。リューズがその嘘を信じるのであれば、それで良かった。 「どこかへ行くのか、イェズラム」  ぼんやりと訊いてくるリューズの声は、それでも鋭かった。 「行かない」  イェズラムは嘘をついた。 「俺に嘘をつくなよ。ついても分かるんだからな、イェズラム。俺に勝てると思うなよ」  半分寝言のような、うろんとした声で、リューズはそう言い、それを最後にして、押し黙った。たぶん眠るのだろうと思い、イェズラムはただ頷くだけにした。  お前には、敵わない。そう思えてきて、可笑しかった。  大人しいようでいて、リューズは負けず嫌いだった。日頃じっと、石のように押し黙って従順なそぶりだが、勝負事となると、それがたとえ大人相手でも、なんとか勝とうと必死のようである。  そんな様子が王族らしからぬ、品がないといって、アズレル様は好まれず、お前の躾が悪いのだ、俺の弟に自分の頑固をうつしているといって、いつもイェズラムのせいにした。  しかしこれは血筋ではないかと内心では思う。リューズを品がないと罵るものの、アズレル様も傍目に見れば、十分に負けず嫌いだ。主の癇癪を恐れて口には出せないが、双方見比べてみて、リューズの性格はアズレル様とそっくりだと、イェズラムは時々思った。  アズレル様とリューズは母違いの異母兄弟だが、それが何かの間違いかと思えるほど、どちらも父系の血筋を顕して、歳が同じなら双子かと思えるほどに、よく似た容姿をしていた。見た目が同じなら、性格までよく似ているようで、どちらも我が儘を押し隠した癇癪持ちで、時折、火中の栗が爆ぜるような猛烈な癇癪を起こした。  そんな異母弟を見て、我が身を省みてくださればよいのだが、アズレル様はあいにく、愚かなのはリューズだけだとお思いだ。  良く似た風貌を面白がって、自分と揃いの服まで着せてやり、リューズを可愛がるかと思えば、その一方で、お前は頭のおかしい女から生まれたせいで、どうも馬鹿のようだと、弟を哀れむような口ぶりで事あるごとに言った。  リューズは尊崇する兄にそう言われ、素直に自分は馬鹿だと信じているらしい。  確かにリューズの母は心を病んだ女だった。  後宮での熾烈な争いを何とか勝ち抜いて授かった我が子が、期待したような魔法の素養を持って生まれなかったことに業を煮やし、リューズを虐待した。それだけでも十分に頭が変だとイェズラムには思えたが、彼女は挙げ句に息子を殺そうとした。  縊死させようとして首を絞めているところを、乳母に見とがめられ、ふたりで争ううちに、一人では事を収めきれないと思った乳母は、彼女が唯一使えた魔法である念話で、イェズラムを呼んだ。  慌てて駆けつけ、助けようとしたが、狂女の腕は恐ろしい強さで我が子を抹殺しようとしており、気がつくとやむなく、イェズラムは彼女の腕を、身に帯びていた剣で切り落としていた。  リューズは助かったが、生母は斬られた傷からの出血のため、間もなく死んだ。そして乳母は、それを自分がやってのけたことにして、引責して死んだ。  乳母が呼んだのはイェズラムだけではなく、彼女の念話は辺りの大勢に呼びかけていたのだ。それを聞きつけて、アズレル様もやってきた。そして血まみれの有様を目にして、これは誰の仕業かとお訊きになった。  見れば分かることを、なぜ訊ねたのか。あの時自分は、返り血を浴びた血まみれで、血脂に曇る抜き身の剣を提げたまま、助け上げたリューズに抱きつかれていた。乳母はそれを、傍らで見ていただけだったのに。  それでも彼女は、わたくしがやりましたと平伏して答え、アズレル様はそれに、大儀であった、父上の妻を殺めるとは、大逆であるゆえ成敗すると、お答えになった。そして、リューズや自分が見ている目の前で、乳母を斬ったのだ。その太刀筋は見事なもので、一刀のもとに乳母は絶命した。  もしかすると、リューズは運良く気を失っていて、見ていなかったのかもしれない。  リューズの母は公には、乱心した乳母が息子を殺そうとするのを見つけ、我が子を救うべく争って死んだことにされた。烈女であったと、アズレル様は皆に仰せで、誰もそれには異論を唱えなかった。  なぜ後宮の女が、そこを女官に化けて抜け出してまで、リューズの危機を救えたのか。気づくはずもなく、気づいても間に合うはずがない、その矛盾を、誰も指摘はしなかった。アズレル様がそれだけの力を、お持ちだったので。  そなたはこれで、生涯俺に仕える気になったろうなと、アズレル様は俺に仰った。確かにその通りだった。  五つになるかならないかの頃合いだったリューズは、なんとか息を吹き返し、兄の教えた嘘を、おとなしく信じた。生母の死によって王宮での後見を失ったリューズの身柄は、異母兄であるアズレル様の預かりになり、その主に、そなたが死にそこなわせたのだ、弟の世話をしろと命じられるまま、イェズラムが養育を任された。  だからリューズは何も知らず、嘘に騙されて、実は親の敵である俺を、あくまで頼りがいのある相手と信じて懐いている。それを見て、馬鹿なやつよとアズレル様は時折仰るが、そうだろうか。  確かに馬鹿だと、イェズラムにも思えた。何も知らずに無邪気なもので、アズレル様と俺と、ふたりの母殺しに喜んで育てられているような、哀れな愚か者だ。  しかし、舌足らずに話す年頃から、リューズを育てさせられた立場としては、親馬鹿のような気持ちもある。こいつは馬鹿ではないと、少なくともアズレル様の言うような白痴ではないと、イェズラムは腹の底では悔しかった。  知ってか知らずか、リューズは誰のことも恨んではいない。自分を殺そうとした狂った母親のことも、慕わしく思っているようだ。命日に墓に参らせると、母上はお気の毒と、幼いなりに神妙な顔をする。自分を殺害しようとしたと聞かされている乳母の墓にさえ、それでも俺に乳を飲ませてくれた女だし、優しかったと言って、死を悼む黙祷を捧げている。  馬鹿かもしれないが、人を恨まないのが、リューズの良いところだ。それをアズレル様のように、愚か者よと嘲るような気は、イェズラムには全く湧かなかった。ただただ幼子に済まなくて、何があろうと、この罪滅ぼしに、お前を守ると心で詫びるだけだ。  しかし他でもない、新星の言うことだ。敢えて反論したことはない。  確かに人は悪いが、アズレル様は頭脳明晰で、人望も篤く、次代の族長として申し分ない器と、王宮の皆が期待していた。その負けず嫌いと意地悪も、それによって熾烈な継承争いを勝ち抜いてきた武器と思えば、一概に悪とも言い切れなかった。  新星のお人柄にもし難ありとして、それを補ってお仕えするのが、射手であるそなたの役目と、長老会の重鎮(デン)たちは、口をそろえてイェズラムに命じていた。  だったら、そうだと割り切るしかない。長老会の決定は絶対で、それに異を唱えることは、反逆を意味する。王朝を維持するうえで、もっとも重要なのは、忠誠心だった。各自が己の一存で動き、上に従わないのでは、玉座の間(ダロワージ)の秩序が崩壊する。  それゆえ、そなたに求められるのは、忍従することだと、長(デン)はイェズラムを戒めていた。そなたは時々、ひどく生意気な目をする。新星がご不快なのは、恐らくそこで、そなたは悪心を抱いた時には、普段よりなおいっそう深く平伏するようにせよと、苦笑して言われた。そうすれば、そなたがどんな顔をしていても、誰にも見えまい、と。  射手に選んだものの、アズレル様と俺との、隠れた相性の悪さを見抜いて、長(デン)は後悔しているのではないかと、イェズラムは恥じていた。  皆が心酔している次代の星に、なぜか自分だけは、陶酔的な夢を抱くことができなかったからだ。これこそ名君の器と、まず誰よりも自分が信じるべきなのに、それが難しいのだ。  理由には見当がついている。  馬鹿げた理由かもしれないが、アズレル様がリューズを虐めるからだった。  アズレル様は人の才能を見抜く目があり、優れた者なら分け隔てなく取り立てて近従させる度量がおありだが、自分が愚かと思った者には、猛烈に冷たい。ただ冷たいだけなら構わぬが、時として執拗に虐めることがある。  何が憎いのか、アズレル様は近頃、リューズに玉座の間(ダロワージ)への列席を許さず、そこでの三食にもありつかせなかった。元服もまだのような子供を相手に、なぜそこまでやるのか、イェズラムにはどうしても理解できなかった。  さすがに見かねて、そんなことをすべきでないと苦言を呈すると、アズレル様はその場では、そうだろうかなあと受け入れたような、拒否するような、曖昧な言葉で応じるばかりだが、その後決まって、リューズは原因の分からない事故のようなもので、大怪我をしたりして、ひどい目に遭っていた。そこに苦言との何かの関連があると思わずにおれず、イェズラムはもう、恐ろしくて忠告めいたことは言えなくなってきていた。  あなたのせいではないかと、アズレル様に訊いてみる勇気は湧かない。  遭難してリューズが怪我に伏せると、アズレル様はいつも、まるで優しい実の兄のように、寝床のリューズに山ほどの甘い菓子やら玩具やらを与えて、足繁く見舞いにきた。  リューズはそれを、日頃はかまってくれない兄の好意と思って、素直に喜んでいるようだが、それも馬鹿としか思えなかった。  それとも、子供だから分からないだけか。  だがリューズは先日、怖い夢を見ると言っていた。暗い王宮の通路で、アズレル兄上を見つけて、近寄っていくと、兄上が蛇の群れに変わるのだと、リューズは深夜に飛び起きて、震えながら話していた。  その時のリューズの手足には、まだ生々しい蛇の噛み傷が無数にあった。  リューズを笑って罵るアズレル様に、イェズラムがつい咎める目を向けた日の夜、どこを探してもリューズの姿が見あたらなくなり、何日も王宮を探し回ったところ、途中で行き会った侍女が、穴の中から子供の声がすると、青い顔をして耳打ちしてきた。  女が言う穴とは、禁を犯した者を懲罰するための、営巣のことだった。それ専用の部屋の床に掘られた、浅い井戸のような穴蔵で、普通は鉄格子で蓋をされ、子供が誤って落ちるようなものではない。一種の牢なのだ。リューズがそんなところに行くとは思えなかった。  しかし、間違いなくそれだという予感のようなものがして、血相を変えて駆けつけると、確かに穴の底から、子供の声がした。助けてくれと泣き叫ぶような絶叫で、紛れもなくリューズの声だった。  鉄格子にとりついて、その下の穴を覗くと、大人ふたりぶんの背丈ほどの深さの縦穴の底に、無数の蛇がいた。そしてその極彩色の蛇体に埋もれるようにして、子供の白い手と、乱れた黒髪をした頭が見えた。  リューズと呼びかけると、子供は必死の形相でこちらを見上げてきた。  そして、助けてくれイェズラムと、悲鳴に枯れた声の限りに叫んできた。  どうやって助けたか、よく憶えていなかった。とにかく穴から引っ張り出すと、リューズは蛇に噛まれていたし、助けに入ったイェズラムも、相当に蛇の牙を受けていた。しかし蛇たちは毒を作る腺を抜かれており、人を殺す力はなかった。  それが不幸中の幸いだったなあと、アズレル様はリューズを見舞って、そう励ましていた。そして、リューズの頭を撫でてやりながら、お前はなぜ罪人を拷問するための穴なんぞに落ちたのだ。馬鹿ではないのか、今後は気をつけろ、ちょっとした不注意で、ただでさえ短い一生が、さらに短くなってしまうぞと言った。  なあ、そうであろうイェズラムと、主に話を向けられたが、イェズラムは黙ってそれを聞いていた。ものを言うのも恐ろしかったのだ。何かもっと、恐ろしいことを招くのではないかという気がして。  リューズはアズレル様が無数の蛇に変わる悪夢を見て、なぜ俺はそんな夢を見るのかと、イェズラムに訊ねてきた。リューズには、なぜなのか理由が分からないらしいのだ。  イェズラムには、夢解きをするまでもなく、その悪夢の意味が分かったが、リューズには、俺にも分からないと答えた。そして、それ以来、怖いので眠るまで側にいてくれというリューズの頼み事を、ただの我が儘とは思えなくなった。  自分の膝の上にある書類仕事が、すっかりお留守になっていたことに、イェズラムは気付いた。筆の朱墨が、もう乾いて固くなっている。  しかし、もういい。どうせ、今夜には仕上がらない。アズレル様の酒宴があるので、これから顔を出さないと、お前は愛想が悪いと、ご機嫌が悪いのだ。  ふと覗くと、リューズはもう眠ったのか、丸くなったまま静かな呼吸をしていた。  寝たのかと、イェズラムは夜具を治してやるついでに、リューズの寝息をうかがった。  寝ているようだと、その場を離れようとした時、リューズが突然、寝言のように口をきいた。 「死なないでくれ、イェズラム」  その早口な声に、心底ぎょっとして、イェズラムはその瞬間、背に冷や汗が湧くのを感じた。寝ぼけたような顔で、リューズが目を開いた。  寝入りばなに、夢でも見たらしかった。リューズは横になったまま、これは夢か、それとも現かというような訝しむ顔で、寝室の薄暗がりをさっと眺めた。  そして、その中にイェズラムの姿を認めて、リューズは目を瞬いた。薄闇に燐光を放つような金の瞳が、夜に出くわした豹(ひょう)か何かのようだった。 「夢か……。お前が死んだ夢を見たんだよ」  リューズは無表情に目を見開いたまま、じっとこちらを見て、そう教えてきた。イェズラムは黙って頷いておいた。確かに、そうなのだろうと思って。 「イェズ、お前が死んだら、俺はどうなるんだろう」  誰が自分の面倒をみるのかと、リューズは訊いているつもりのようだった。  たとえば、うっかり蛇の穴に落ちたとき、他に誰が助けにきてくれるのかと、リューズは心配なのだろう。そんな者が、他にいるだろうかと。  いないだろう。おそらく。乳母が念話で助けを求めた時、駆けつけたのは俺とアズレル様だけだった。そのアズレル様がお前を虐げるというのなら、それに背いてまでお前を救おうという愚か者は、俺をおいて他にいるはずがない。アズレル様はあまりに、恐ろしすぎるお方なので、今後も宮廷で生きようという者が、楯突くのは到底無理だ。きっと皆、アズレル様に殺されてしまう。  俺も射手でなければ、たぶんとっくに死んでいたのだろう。実は今も、ゆっくりと死ぬ途中かもしれない。アズレル様は戦場で、俺の魔法を執拗なまでに乱費しているので、このままではいずれ遠からず石に殺される。  射手は戴冠するまで生きていれば、それでよいと、お思いなのだろう。長老会が差し向ける英雄ディノトリスは、英雄譚(ダージ)では太祖アンフィバロウの株を奪う人気者で、玉座にとっては煙たい相手だ。だから死んでいるに限ると、そういうお考えなのだ。精々、華々しい死を与え、忠節を尽くした英雄として葬ってやるのが一番と。戴冠したばかりの新星にとっては、命懸けの忠誠を捧げた射手の英雄譚(ダージ)が、何よりの祝い歌になる。  それがいつかが、問題だった。戴冠のときが、いつやってくるのか。俺にとっても、リューズにとっても。それがお互い、命数の尽きる時なので。  それを思うと、イェズラムは虚しかった。  俺は別に、それでもいいが、リューズはあまりに哀れと思えた。せっかくこの世に生まれ落ちてきて、何ら罪は犯していないのに、虐げられるばかりの短い一生で、たぶんその時こいつはまだ、大人にもなりきらぬような年頃だろうに。正常の者ならば、十六、七は若さの盛りで、そこから先の生涯に、大望を抱く時代だ。そんな時にこいつは、新時代への生け贄として、潔く死なねばならないとは。  アズレル様が生きて新星として昇り、こいつが愚かな星屑として散らねばならない理由が、俺には良く分からない。どこが違うというのだろう。  同じ太祖の血を受けて生まれ、同じような顔をしている。アズレル様にあって、リューズに無いものが、一体どれだけあるというのだ。こいつが生き延びてはまずい、どんな妥当な理由が。  俺の目には、リューズのほうがよほど、名君の器に見える。親代わりのつもりの立場から見た、ただの欲目だとは思うが、人を虐げ恐怖によって支配するアズレル様より、人を恨まずにこにこしている愚かなリューズのほうが、一命を賭して尽くす甲斐のある相手に思える。  たぶん、ただ単に、哀れっぽく、可愛げがあるからだろう。ただそれだけのことで、新星は勤まらぬというのが長老会の判断というのは、敢えて問うまでもなく良く分かるが、しかしそれでも、こいつを残して死ぬのだけが、俺にはひどく心配で、心残りなのだ。 「イェズラム、どうしたのだ。なぜ黙っている。まさかもう、死にそうなのか」  リューズが眠気の覚めた顔で、焦れて問いただしてきた。イェズラムは首を横に振った。 「大丈夫だ。俺はそんなにすぐには死なない。しぶといから」  イェズラムは、リューズを安心させようと思って、そう請け合った。本当にそうか、自分でも自信はなかったが、安請け合いしても後悔は湧かなかった。 「俺より後か」  リューズはまだ、恐れにとりつかれたような青い無表情で、確かめるように訊き、こちらをじっと見ていた。 「お前より後だ」  このままだと、そうなると思って、イェズラムは頷いて答えた。  アズレル様が即位したら、リューズは継承権を持った王族の男子として、先代に殉死する名目で、死を賜ることになる。自分はアズレル様の射手で、その戴冠と初期の治世の補佐を行うのだから、ものごとの順番からいって、リューズが死ぬのを見るはずだ。  もしかしたら、自分のこの手でリューズを絞め殺すことになるのかもしれない。こいつには他に、縁のある者がいないのだから。暗君が臨終の床で後継者を名指す指名式の場で、名を呼ばれなかった者のひとりとして、縊り殺されるリューズの、その首を締め上げる絹布を握っているのは、自分の手なのだ。  そう思うと、何か耐え難かった。  どうせ殺すのに、なぜ俺は今までこいつを、守ってきたんだろう。いっそ、さっさと楽に死なせてやったほうが、親切だったのではないか。  そういう機会は今までに何度でもあった。度々襲ってくる不慮の事故から、助けなければ良かっただけだ。あるいはたった今でも、苦しまずに一瞬で死ねるよう、こいつの心臓を、狙い澄ました火の魔法で焼いてやってもいい。  だがいつも、助けてくれとリューズが言うので、助けなければと思う。  もし、たとえばあの暗い蛇の穴の底で、誰にも助けられぬままこいつが死ぬのを、平気で見捨てられるようになったら、俺はもう人ではなくなるような気がする。  こんな幼い者が、助けてくれと泣き叫ぶ声に、なにも感じなくなったら、もう人ではない。アズレル様は新星かもしれぬが、人ではない。あの方はもう、宮廷の闇に棲んでいる獣(けだもの)で、人ではないのだ。  そんなものに戴冠するという俺も、ずいぶん馬鹿だと思えるが、それでも少なくとも、人ではいたいのだ。残り少ないらしい生涯を、自分は獣(けだもの)ではないと信じて、生きていきたいのだ。 「なあイェズラム、俺は死んだら、どこへ行くんだろう」  それが大した話ではないように、リューズは興味深げに訊いてきた。イェズラムは薄闇の中で、訊かれた話があまりにつらく、渋面で目を閉じた。 「冥界だ」  神殿の者たちは、そう教えている。イェズラムは信じるともなく信じていたが、興味がなかった。どうでもいい、死後のことなど。肝心なのは、生きている時のほうだ。しかしリューズは、怖いのだろう。死んだ後にも、生きている時の苦痛が続くのかどうか。 「冥界では、善人は楽園に、悪人は煉獄に行くと言われている」  神殿の者たちが話すことを、イェズラムは教えてやった。  リューズはそれを知らなかっただろうか。  公の席から締め出されているので、近年、礼拝にも列席できていない。だからリューズは神殿の教えにも無知だった。ただ聖堂にある天使像を、有り難く畏れ多いものとして仰ぎ見るだけで、それらが何と教えているかは、詳しくは知らないのだ。  聖典の中で、獣のごとく争うなと、天使たちは諫めている。獣のごとく憎むなかれ、隣人を虐げることなかれ、人を殺めることなかれ、汝らを人たらしめるものは、愛であると。  それに背いた者は、悪しき獣(けだもの)として、死後には煉獄に送られ、その業火によって永遠に焼かれることになる。その罪が、果てしない火刑によって焼き尽くされ、浄化されるまで。  その苦痛を恐れ、大陸の民は身を慎むだろうと、穢れ無き天使たちは思し召したのかもしれないが、民はそんなに、単純ではない。そうしたくないと思っていても、憎み合い、虐げ合い、殺し合っているではないか。  それを全て焼き尽くすような火が、冥界に燃えているというなら、それはきっと、俺がまだ見たこともないような業火なのだろう。案外俺の火炎術は、すでにもう半分そこへ送られたようなこの身から漏れ出てくる、煉獄の火なのではないか。  今は敵を焼いているその火が、いずれは自分自身を焼く時が来る。きっとそうなる。俺は悪人で、間違いなく煉獄行きだから。 「煉獄とは何だ」  リューズはぼんやりとして、それを訊ねてきた。 「火が燃えているところだ。天使たちが、そこで悪人を焼く」 「じゃあ俺も、そこへ送られるのかな」  リューズは恐ろしそうな顔をして、そう言った。なぜそう思うのか、全く合点がいかず、イェズラムは顔をしかめてリューズと向き合った。すると居心地悪そうにリューズは首をすくめる仕草をして、夜具の中で身を縮めて言った。 「なかなか寝ない悪い子だからな」  本気でそう言っているらしいのを見て、イェズラムは苦笑した。確かにそんな事を、言ったことが何度もある。お前はなかなか寝ない悪い子だなと。 「そう思うなら、いい子にして、楽園に行けるようにしたらどうだ。そこは乳と密の流れるところで、美味い物も食い放題らしいぞ」 「氷菓も食えるのか」  聖典の旨味のあるところだけ掻い摘んで教えてやると、リューズは案の定なことを訊いてきた。こいつは氷菓が好きなのだった。しかし滅多にありつけない。晩餐の膳からこっそり持ってきてやるには、溶ける氷菓は不向きだったし、それにリューズはよく腹を壊したので、冷たいものはなるべく与えないようにしていた。  しかし死後なら、腹が冷えるのを心配する必要もないだろう。 「食えるんじゃないか。盥(たらい)一杯でも」  思わず薄く微笑んで教えてやると、リューズはどことなく、うっとりとした顔をした。 「そうか、では良いところのようだな、楽園というのは。お前も死んだら、そこへ来るのか」  リューズはいかにもそれが妥当というふうに訊ねていた。 「……さあ、俺は多分、煉獄のほうだろうな」 「なぜだ」  眉間に皺を寄せて、リューズは言った。 「悪人だからだ」  自分には至極もっともと思えることを、イェズラムは答えた。口に出してみると、それにはいかにも説得力があった。 「どうしてそう思うんだ。お前は部族の英雄だし、皆を守って戦っているのだろう。それに礼拝にもちゃんと行っているのだし、厄介者の俺の面倒だって見てるんだ。お前が善人じゃなければ、いったい他の誰が楽園に行けるんだ」  真剣にそう言っているらしいリューズは、感謝したような目で、こちらを見ていた。その金色の眼は、正視に耐えない純粋な光に見えたが、それでもイェズラムは目を逸らすわけにはいかない気がした。見つめれば目が潰れるような光でも、それが寄り縋る幼子の頼る目なら、そこから目を逸らすわけにはいかない。親の敵の悪人でも、こいつは俺を兄と思って頼っているのだ。 「他の誰が行けなくても、リューズ、お前は楽園に行けるだろう」 「毎晩夜更かししてて、礼拝の日の懺悔にも行ってないのに?」  確かめてくるリューズに、イェズラムは笑って頷いた。 「今すぐ寝れば、まだ間に合うと思うぞ」  それにお前には、贖罪の天使に懺悔しなければならないような罪はないだろう。まだ子供だし、何の罪穢れもない。そう思ったが、イェズラムはそれを言いはしなかった。リューズはすぐ調子に乗る性格だから、下手に褒めるとろくなことがない。 「船に間に合うということか」  寝る気になったのか、リューズは夜具を被り直して、そう訊いてきた。イェズラムは笑みの残滓を残したまま、一時呆然としていた。 「なんの船だ」 「月と星の船だろ。死んだら皆それに乗るのだと、乳母が話していた。会いたい者は皆そこで再会して、また一緒に暮らせるのだから、何も心配いらないと。だからそれに乗って、楽園に行くということなんだよな?」  乳母は確かに、そんな話をしていた。女たちが寝物語に話す、お伽話のような古い民話だ。女たちは幼子に、煉獄の話をするのは気の毒だと思うらしく、そんな話を冥界の話の代用にしていた。  男子たるもの、長じれば神殿の教義に従うのが教養というもので、イェズラムはすでにその寝物語を忘れかけていたが、確かに子供のころには、乳母から話してもらったことがある。死んだら英雄はどこへ行くのか、次々と死んでいく兄(デン)たちが、どうなったのか、どうしても知りたくて、乳母に話を強請った。  皆様きっと船でお待ちですよと、乳母は優しく請け合い、いつも安心させてくれた。心の優しい女だった。だからあの人は、リューズにもその話をしてやったのだ。いずれ新星の到来を祝って、絞め殺される運命の、この哀れなやつにも。  そしてリューズはそれを、憶えていたのか。  その事実に、イェズラムは身の震えるような思いがした。  乳母が死んだとき、こいつはまだ五つにもならなかったのに。そんな話を憶えていて、生母が自分を虐げたことや、その女を俺が殺したことを、全く憶えていないというのか。そんなことが、ありえるのか。そんな辻褄の合わない、都合のいいことが。  それともリューズは、何もかも憶えていて、その上で俺を兄だと思うのか。  同じ年頃の、石を持った子らがそう呼ぶように、お前のことを兄(デン)と呼んでいいかと、リューズは何度か訊いてきた。それは駄目だと、イェズラムは答えてきた。リューズは王族で、竜の涙ではないし、それはおかしい。リューズから見て、兄として敬い慕われるような立場でもない。どちらかといえば、むしろ、こちらがお前に平伏するような間柄だ。許してくれと言って。  それでもリューズは平気なようで、自分はエル・イェズラムの弟分(ジョット)だと、得意げにそういう顔でいた。一片の魔法も持たないくせに、見習いの魔法戦士のような顔をして。 「俺も死んだら、その月と星の船で、お前を待っていようかな、イェズ。そのあと楽園へ行くのでも、煉獄へ行くのでも、俺はどっちでもいいよ。だってお前は炎の蛇だから、一緒に行けば煉獄の火でも、どうってことないんだろ。お前に従わぬ火はないと、詩人たちは英雄譚(ダージ)に詠んでいる」  自信満々に言うリューズの話に驚いて、イェズラムは唖然とし、それから笑い声をたてた。可笑しくて笑っているのか、苦笑しているのか、自分でも良く分からない。  ほんとにこいつは、調子のいい馬鹿で、とても敵わない。ものごとの都合のいいところしか、見えていないのか。それとも、見ないようにしているのか。どちらでも結果は同じだが、とにかくこいつがアズレル様より名君の器でないなんて、やはり俺には到底思えない。 「ゆっくり来ればいいよ、イェズラム。俺はお前を待つのは慣れてるし、のんびり船で待っていよう。兄上に忠義を尽くして、大英雄になってから来ればいいさ」  それから、できれば楽園へ行って、一緒に氷菓を食いたいと、リューズは死後の構想について、寝床で目を輝かせて話した。イェズラムは情けなく薄笑いして、その話を黙って最後まで聞いた。 「大英雄じゃないと駄目か。ただの英雄でよければ、そんなに待たせないつもりだが」  胡座した膝に肘をつき、額を支えた手で、そこにある石に触れてみて、イェズラムはリューズに訊いた。すると横目に眺めた弟は、むっと顔をしかめた。 「大英雄でないとだめだ。だってそのほうが、格好がいいだろう」  子供の我が儘そのものの口調で、リューズは要求を押しつけてきた。それを聞いてやりたくなるのが、リューズの不思議なところだ。たぶん、こいつの夢を壊したくないと、俺は思っているのだろう。あるいは母殺しの仇として憎まれるのでなく、大英雄として、尊敬できる兄として、こいつに格好がいいと思われていたいと。 「そうか。じゃあ、大英雄になれるか検討しておくさ。お前はお前で、楽園で氷菓が食えるよう、努力して、早寝できるようにしてみてくれ」 「分かった。任せておけ。今夜は楽園の夢を見よう」  にっこりと請け合って、リューズはぎゅっと目を閉じた。  まさか氷菓を食っているところを想像しているのかと、イェズラムは可笑しかった。  そんな些細なもののために、こいつは死を恐れない。すでにもう、自分は死すべきものと覚悟を決めている。いつからそうなのか、誰がそれを教えたのか。悩むまでもなく、アズレル様に決まっているが、なぜそんなことを恨まずにいられない。  まだ何も知らず、自分は永遠に生きられると思って、遊び暮らしていていい年頃だ。  そうではないのか。  まだ可能性はある。  アズレル様は即位したわけではない。ほんの僅かな可能性だが、その希望の光は絶え果てたわけではない。リューズはまだ生きているし、太祖の直系の末裔として、その玉座を受け継ぐための継承権を持っている。  だからまだ、希望はあるのだ。こいつが死なずに生き延びて、あの広間(ダロワージ)の玉座に座し、幸福な一生を送れるかもしれない可能性は。  楽園のようにとは、いかないかもしれないが。族長冠をかぶっても、生身で生きている限り、こいつは腹が弱いだろうし、氷菓を欲しいだけ食わせてやるわけには、いかないからな。  可哀想なやつだと思い、イェズラムはこちらに身を寄せて側臥し、小さく丸くなっている寝台のうえのリューズの頭を、やんわり撫でてやった。その細い銀の輪を締めた頭は、眠気を宿していて、いつもよりずっと温かかった。  髪を撫でていてやると、安心したのか、リューズは案外すぐに眠った。夢の中で、美味い物でもたらふく食っているのか、なんとなく、にやにやした口元をしており、勝ち誇ったようなその様子が面白く、可愛かった。  そろそろ行かなければと、イェズラムは思った。  ずいぶん夜もふけた。  とっくに酒宴は始まっており、現れない射手に、アズレル様は内心お怒りだろう。  どんな目に遭わされるやら、恐ろしい限りだが、それでも行かないよりはましだ。俺の宴席を蹴ったなと、なぜ来なかったのだと、明日になってから微笑んで言われたら、生きた心地がしないだろうから。  長老会に出す書類が、なかなか上がらなかったとでも、言い訳しておこう。指についた朱墨を見て、イェズラムは手を洗わずに行く決心をした。  アズレル様の業績を讃える文書を書いていたら、書くべきことがあまりに多く、紙が尽きて困ったと、真顔で嘘をついておけば、あの方は満足なさる。くだらぬ世辞を言うなと、叱責を受けるだろうが、そんな見え透いた嘘でも、蛇の毒牙をさける呪(まじな)いになるなら、安いものだ。  今夜は何とか、うなされずに寝付いたのだから、せめて朝まで、ゆっくりいい夢を見て、眠らせてやってくれ。  そっと物音をたてぬよう立ち上がりながら、イェズラムは何にともなく、そう祈った。天使にかもしれなかった。他に祈る相手を知らなかったので。  どの天使にだと、イェズラムは不思議に思った。  いったいどの天使が、こいつを守護してくれるというのだろう。  生まれた時からずっと、死の天使が枕元に、じっと座っている。いつ連れていこうかと、狙いすました鷹の目で、リューズの頭上を舞っている。  生まれた雛を守ろうとする親鳥が、我が身を食らわせて鷹の腹を満たすという話を、かつて読んだことがあるが、できれば何とか死の天使がそのようなもので、先に俺をついばむので、満足してはくれないものか。  順番からいって、それが妥当ではないか。兄のほうが先に生まれたのだから、先に死ぬのが自然だろう。崇高なる天使が、その道理を弁えてくださればよいが。  どうかご加護をと、額ずいて祈るしかないのか。罪深きこの身を生け贄にするのに、骨惜しみはせぬゆえと。案外聞き届けてくださるかもしれない。なにしろ神殿の死の天使の像は、じっと耳をそばだてる姿をしている。両方の手を、耳にあてて、静かに目を伏せ聞き取るような表情をしておいでだ。  あれは死人の最後の息の音を聞いているのだという者もいるが、天使が本当にそれにしか興味がないのか、試してみる価値はあるかもしれぬ。  祈るのだ。  リューズではなく、別の者に死を。その身代わりに、俺でもいい。あるいは、もっと別の者でも。もっと別の、決定的な誰かでもいい。  だが、おそらく、ただ祈るだけではだめだ。人事を尽くさなければ。  さあ、もう、行かなければと、イェズラムはまた思った。アズレル様のところへ。  そして寝室の扉を抜けて、主の催す乱痴気騒ぎへと、夜の王宮を歩いた。ひっそりとした通路を行き、回廊を経て、玉座の間(ダロワージ)を渡った向こう岸に、主の住む赤い部屋はある。そこで今夜もお気に入りを侍らせて、アズレル様はお楽しみだろう。  そこで皆の見る前で、俺に平伏しろというなら、跪きもしよう。あなた好みの赤い敷物に、石のある額をこすりつけもしよう。  しかしその時、誰からも見えない顔に、俺がどんな表情を浮かべていようと、それは自由だ。たとえそれが憎悪の顔でも、アズレル様はお気づきにならない。こちらが深々と、叩頭している限りは。  それとも実はお気づきだろうか。勘の鋭い方だから。それで俺やリューズを、腹いせに撲たれるのだろうか。  だが一体どうすれば、忠誠の顔ができるのか、俺にはどうしても分からない。どう頑張っても、嘘がつけない性分なので。だから今夜も、ただ平伏するほかはない。主がそれで、誤魔化されてくれればよいが。  赤い扉の前に立って、イェズラムは一呼吸した。そしてもう一度。さらにもう一度吸って、それから覚悟を決めた。  扉を叩くと、侍官が現れ、中から皆の高笑と、甘く香る乳香の煙が漏れ出てきた。それは赤い部屋の主が、皆を酔わせるために焚かせている麻薬(アスラ)の香炉の香気だった。  いずれ玉座の間(ダロワージ)を満たすという、その匂いを嗅ぎ、イェズラムは入室を許されるのを待った。くらりと目眩のするような強烈な酔いが、その部屋にはあった。それは新時代の陶酔というには、あまりに作り物めいて思えた。 ----------------------------------------------------------------------- 「発火点」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「遅かったではないか。長老会のディノトリス」  脇息にもたれかかり、肘をついた手で、けだるげに頭を支えているアズレルは、酷薄なようだったが、それでも目映いような王家の麗質を備えていた。  いつ見ても、まるで絵のような絢爛さを持った人物で、その太祖の再来と見まごうような姿だけでも、アズレルは人を跪かせる力を持っていた。  確かに頭脳明晰で、武勇にも優れたお方だが、アズレル様は八割方、見た目がものを言う君主ではないかと、イェズラムには思えた。もしもこのお方が目を背けるほど醜ければ、実は誰もひれ伏さないのではと、そういう気がすることがある。  しかし、とにかく、仰ぎ見るのも面映ゆいような怜悧な美貌で、アズレルは一段高い座席から、こちらを見下ろしていた。  本来なら族長にしか許されないような高座を、アズレルは自分の鈍い赤で彩られた居室にわざわざ作らせていた。さすがに玉座はないものの、そこに胡座していると、アズレルは神々しく見えた。 「申し訳ございません。書類がなかなか仕上がりませんでした」  大人しく平伏して、イェズラムは嘘をついた。 「不調法だな、イェズラム。そなたの仕事は俺のご機嫌取りだろう。書類なんぞ放っておけ」  くつろいだ垂れ髪の覆う首筋を、アズレルは大儀そうに自分の手で撫で、酔ったような顔だった。高座にも、宴席のそこかしこにも、空になった酒杯や、酒を満たしていたらしい、からっぽの水差しが転がっており、笑いさざめく人の群れが吸っている部屋の空気には、むっと強く甘い煙の匂いがたれ込めている。 「ずいぶん酔っておいでのようですが」 「当たり前ではないか。そのための酒宴だ。酔いつぶれて眠るまでは、まだまだ間がありそうだ。たまにはお前も、前後不覚になるまで酔っぱらえ」 「強いようなので」  思わず顔をしかめて、イェズラムは言い訳をした。  酒精には強く、煙にも耐性がついているので、イェズラムは中々酩酊しなかった。酔ってはいるのかもしれないが、アズレルの宴席では、いつもどこか頭の芯のあたりが、固く醒めたような素面(しらふ)のままだ。たぶん、芯まで酔った自分が何を口走るかと恐ろしくて、酔うに酔えない都合が、肉体のほうにも伝わるのだろう。  それを、お前はつまらぬと言って、アズレルはその時々の気の向きで、猛烈に強い酒やら、麻薬(アスラ)やらを与え、こちらがそれで酔って遠い目をするのを、面白そうに眺めたりする。それでもまだ、前後不覚というには足りないと言って、もっと酔えと、アズレルは飲酒喫煙を強要するが、確かにそれを憶えているのだから、前後不覚ではないのかもしれなかった。  それでもあまりに飲まされると、体が保たないような気がして、つい、どうかご容赦を頼んではみるものの、そうするとアズレルは大抵、それでは弟のほうに飲ませようと言った。リューズに酒杯を回そうというのだ。  あいつは下戸だから、すぐ酔って面白いと、アズレル様は本気の顔だが、リューズはまだ酒を飲むような歳ではない。アズレル様にはそれが分からないのか、分かっていて飲ませようというのか、どちらにせよ普通ではなかった。  大人しく自分が酔いつぶれたほうがましと思えた。 「酩酊するまで飲むには、朝までかかるかもしれません、アズレル様」 「別によかろう。そのまま朝儀に出ればよい。どうせ酩酊したのしか侍っていない、父上の玉座の間(ダロワージ)だ」  上機嫌に言って、アズレルは指先で酌をとる係の女官を呼びつけ、イェズラムのための酒杯に並々と注がせた。酒にはなにか混ぜてあるようで、つんと強く香る薬酒のような匂いがした。どうせ麻薬(アスラ)だと、イェズラムは思った。  アズレルは薬に耽溺する腑抜けの父の血を継いで、麻薬(アスラ)にひたる男だった。同じ薬を使っても、俺は父上とは違い節度があるので、差し支えがないというのがアズレル様の言い分で、皆も、それはごもっともと頷くしかなかった。  耽溺は王家の習いとかいって、皆はありがたがるが、結局のところ朦朧としているだけだ。アズレル様の即位によって、暗君の時代が本当に終わるのかどうか、保証がない。今の族長よりも、戦陣に立つ気概があるだけ、ちょっとはましかというだけではないのか。 「リューズはどうしたのだ、イェズラム。あの、ちびっこいのは。道化踊りの上手い俺の弟に、一指し舞わせて、皆の座興にしようかと思っていたのにな」  酒杯をあげろと、指で指してみせながら、アズレルは訊ねてきた。  答えるほうが先か、それとも先に飲むべきかと、主の顔色をうかがってから、イェズラムは白銀の酒杯を煽ることにした。それを一気に飲み干すと、強烈な酒精で喉が灼けるようだった。  一瞬、くらりと強く来た酩酊感に堪えて、イェズラムは目を伏せ、眉間に皺を寄せた。なんとか目を開くと、笑って見ているアズレルの顔が、ぼんやりと二重に見えたようだった。 「……子供ですので、もう休みました」 「惰眠を貪れて、羨ましい限りだ。俺はちっとも眠れず、苦しんでいるというのに、リューズは暢気なものよ」  まさか同じ酒ではあるまいが、アズレルは手に持った酒杯から、すでに酔ったような顔で、酒を舐めて言った。その言葉には罵倒の響きがあったが、それでも本気で羨んでいるらしかった。  確かにアズレル様は夜は宴席で寝付かれず、朝ともなれば期待される新星としての政治がある。眠る間もなく働いて、疲労するのは分かるが、それが人の上に立つということではないのか。そこに泣き言を言われても、イェズラムには言葉もなかった。 「俺の射手として、なにか言うことはないのか、イェズラム」  咎めて笑う顔で、アズレルは酒杯越しに訊ねてきた。  イェズラムはそれに、黙って頭を下げた。言える事は何もなかった。  するとアズレルは、面白そうに、くつくつと笑った。 「まったくお前は、不調法なやつよ。世辞のひとつも言えないとは。まったくもって、つまらん」 「申し訳ございません」  詫びて見上げると、小さく欠伸をするアズレルは、王族らしい気品のある袖口で、その口元を隠していた。 「申し訳など要らぬ。俺はなあイェズラム、役に立たぬ者は好かぬ。リューズが寝こけていて踊れぬというなら、今夜はお前が代わりに舞うがいい」  酔眼なのか、アズレルは爛々とした王家の金の目で、伏し目にこちらを見下ろし、薄笑いだった。  それと見つめ合って、イェズラムは悩む渋面になった。  リューズは仮面劇が得意で、子供ながらに、兄アズレルが仮面を与えれば、所望された舞踊をなんでも巧みに詠い踊ってみせた。しかしイェズラムにはそんな特技はなかった。 「案ずるな、お前の得意な面(めん)をとらせる」  いくぶん無造作と思える仕草で、アズレルは高座に持っていたらしい何かを掴み、こちら投げ渡してきた。  磁器でつくられた仮面を、イェズラムはとっさに受け止めた。  仮面を取り落とすことはなく、それは割れなかったが、手の中に現れたその面(おもて)を見て、イェズラムは一瞬、取り落とすのではないかと思った。  しかしできる限り平静に、仮面を投げ与えてきた主の顔を見上げた。  その手の中の面は、恐ろしげな怪物の顔をしており、大きなひとつ目の蛇眼で、じっと禍々しくイェズラムを見つめていた。  悪面(レベト)だった。死刑執行や拷問を行う刑吏が、顔を隠すための面だ。 「ある官吏がなあ、お前も憶えているだろう、俺がいつぞや言っていた男だよ。俺を陰で批判しているというのだ。族長の器ではないとな。まったく許し難い」  秀麗な顔を苛立ちにしかめて話すアズレルを、イェズラムは自分も眉間に皺を寄せて見つめた。 「今夜はそれに報いてやろうという気がしてな。お前を待っていた。あれの部屋に行って、その仮面を被ったお前の、炎の舞いを見せてやれ」  ものの哀れを理解した顔で、アズレルは命じた。哀愁を帯びたような、恍惚の表情だった。  アズレルは歌舞音曲を好み、芸術や文学にも精通していた。舞台上で演じられるものの情緒に、芯から陶酔する人物で、そんなアズレルにとっては、王宮で繰り広げられる悲劇も喜劇も、うっとりと眺めて楽しめる演劇のようなものらしい。  しかし、そこで流される血は本物だ。斬られる膚(はだ)にも、焼かれる肉にも、痛みを感じる心がある。 「どうか今夜一夜だけでも思いとどまりください」  そうすれば主の癇癪が少しは収まる希望もあると思って、イェズラムは求めた。するとアズレルは、優雅に見える王族の笑みをもって応えてきた。 「そうか? 妙案と思えたが。俺の命に逆らい、お前が舞わぬなら、退屈だなあ、イェズラム。代わりにリューズを叩き起こして、何か座興をやらせるか」  何にしようかと、思案するような視線を、華麗な色とりどりの揺(よう)で飾られた天井に向けて、アズレルは相談するような口調だった。アズレルの居間は、揺(よう)と玉(ぎょく)とで天井を絢爛に飾り立てられ、あたかも小さな玉座の間(ダロワージ)のようだった。 「あいつは今でも、蛇が嫌いか、イェズラム」 「存じません」  イェズラムは努めて、無表情に答えた。  リューズはもちろん今でも、蛇は嫌いだろう。訊ねたことはない。訊ねてみようと思うほうが、頭がおかしい。 「そうか、知らぬのか。それでは訊くが、蛇は案外、美味いらしいぞ。その血には魔力があるとかいう話も、文献にはある。そなたはその説を、読んだことがあるか」  イェズラムはアズレルの座す、高座の置かれた床のあたりを、じっと見つめて頷いた。 「ございます」 「そうか、そなたは博識だ。それでは、あの、何の魔法も持たぬ哀れな弟も、蛇の血でも飲めば、少しは魔法に目覚めるのではないかとは、思わぬか。いっそ生きたまま、丸ごと食わせてみるか。生き血が効くというのなら、そういう論も成り立つだろう」  酒杯から舐めながら微笑み、そういうアズレルの蛇眼はまさに、得物を狙う蛇の目だった。  イェズラムは畏れ入って、さらに頭(こうべ)を垂れた。 「アズレル様……」 「なんだ。どうしたのだ、我が英雄、炎の蛇よ」  嗤っているらしい声色で、アズレルが言った。嬲るような口ぶりだった。 「悪面(レベト)を拝領して舞います」 「そうか。最初からそう申せばよかったな。そなたは頑固で、懲りない男だ」  批判してくるアズレルに、反論のないことを示すため、イェズラムは深く平伏してみせた。それともただ、頽(くずお)れたいような気分だったからかもしれない。  しばしあってから、顔を上げると、膝元に置いた悪面(レベト)が、血走った目でイェズラムを見上げてきた。それは悪人の顔で、死人の最後の一瞥に秘められているという呪いを、面を被る者の身代わりになって受け、事後には叩き割られて厄払いをするためのものだ。  そんな面ひとつで、身に背負う罪の穢れが祓えるものなのか、疑わしいといつも思った。しかし他になにか、選べる道があっただろうか。こちらの弱みを知り抜いている主の求めに応じ、嗜虐の片棒を担ぐほかに。 「明日の朝儀でな、もしも俺が例の官僚の顔を見たら、分かっているだろうな、イェズラム。その責を負うのが、自分だとは思うなよ」  わかっていると、そう答える意味で、イェズラムは頷いてみせた。とにかくこの人の前では、喉が死んだように言葉が出ない。なにか言えばそれが、悪い魔法のように、次から次へと災いを呼ぶので、黙っているほうが賢いと、嫌が応でも学ばされてきた。 「いいかげん憶えたろうな、お前も。俺がどういう主君か。死ぬ気で仕えるがいい、お前は俺の射手(ディノトリス)なのだからな」  立てというように、アズレルが指を小さく振り上げてみせたので、イェズラムはそれに従った。一礼してから、与えられた面をとって立つと、アズレルは小首をかしげて、イェズラムの顔を見た。 「面を被ってみせよ」  もはや頷く気も起きず、イェズラムはただ、目を瞬いて答えた。逆らうはずのないものが、返事をする必要があるのか。  つややかな磁器の仮面を自らの顔に押し当てて、それに結ばれている絹の組紐を頭の後ろで結わえていると、まるでそれが、自分の本当の顔のような気がした。  普通、刑吏が用いる悪面(レベト)は、もっと淡泊な陶器でできているが、たぶんアズレル様がわざわざ俺のために、芸能で用いるような磁器の面を、職人に命じて作らせたのだろう。リューズに道化の面を与えて舞わせるように、俺には悪鬼になって舞えと、そういうご命令なのだ。  貴方には逆らわないと、そういう思いで、イェズラムは面の中から主を見つめた。こちらを見下ろすアズレルは、満足げな麗しい微笑でいた。 「なかなかの凄みだぞ。そのまま行って、俺の恐ろしさを皆に知らしめてやれ。そしてお前の忠誠を見せろ、イェズラム。俺を罵った馬鹿者を、お前の炎でゆっくりと焼いてやれ。そいつが仕えている、往生際の悪い、俺の兄弟の目の前でな」  高貴なる王宮のなかで、忌むべき同族殺しをやるのかと、情けなく思う心もどこかにはあるが、もはやそんなものは忘れたほうがよい。高貴な蛇たちの食らい合う深い穴のような、この地下深い闇の底では、そんな心など持っているほうが馬鹿なのだ。少なくともこの新星を、我が手で闇夜に放つつもりなのであれば。  稀代の凶星を放った射手として、未来永劫、名を呪われなければよいが。しかしこのお方が、民を安らがせる名君になるわけがないと、心底思ったうえで射手を勤めるのなら、たとえ呪われても、それは自業自得というものだ。  その罪を焼き払うには、千年かかるか、万年かかるか、煉獄の火を焚く天使たちも、きっと呆れてしまわれるだろう。  済まないことだと自嘲して、イェズラムは高座の主の御前を辞した。  話を聞いていなかったのか、もはや酔いつぶれて前後不覚か、酒宴に侍っていた者たちは、目も当てられぬような酔い痴れた有様で、出ていくイェズラムには目もくれなかった。ただアズレルだけが、崩れて昏睡している者の体を踏み越えて出ていくイェズラムを、じっと注視しているのが背に感じられた。  戸口で出会った女官が、悪面(レベト)の舞い手が出てきたのをみて、ひどく驚き、どすんと音が聞こえるほどの勢いで、壁まで退いて背を打ち付けていた。  そんなに驚くようなことかと、イェズラムは不思議に思った。女官は死に神にでも出会ったかのように、捧げ持った銀盆の上にある小さな瑠璃の杯たちを、かたかたと揺らして縮こまっていた。  仮面の下の顔が誰だか、この女は知っているのだろうかと、イェズラムはぼんやり思った。たぶん誰でも察しはつくのだろう。着ているものや髪型で、あれは長老会の男だと。それがアズレル様に使われて、刑吏の真似をしていると。  途方もない恥だ。そんな姿を晒して、もはや英雄(エル)を名乗れるわけはない。  名を悟られるのが、あまりに辛いと思えてきて、イェズラムは歩きながら、礼装に合わせて結い上げてあった髪から簪(しん)を引き抜いて通路に捨てた。元結いの絹糸を、力任せの指で引き毟ると、まだ新しい髪油の香る黒髪が、ばらばらと乱れて面にふりかかってきた。  まさに王宮の夜にさまよい歩く悪鬼の風体と、特に可笑しくもなく、醒めた気分でそう思えた。  しかしまさか、狂った夜とはいえ、王宮の通路を行くのに、自ら礼装を剥いで肌着になるわけにもいかない。死に装束らしい、肌着の白のほうが、様にはなるだろうが、それではあまりに、神聖な王宮を守ってきた祖霊に申し訳が立たなかった。  それに人の目もある。夜の回廊やか細い通路には、王族の宴席に侍る何だか良く分からない風体の者たちが、案外うろうろと行き来している。こちらの異様な姿を見ても、相手は一瞬怯えた顔をするだけで、何事だと驚く気配はなかった。  暗君の時代の麻薬(アスラ)の煙のせいで、王宮の風紀は乱れきっている。往来で平気で抱き合い、接吻する者までいる。それがアズレル様のご即位で、何か変わると思えない。痴態を晒す煙中毒の居座る横を、悪面(レベト)をつけた鬼が通り、それに誰も驚かないような、悲惨な時代がまた続くのだ。  アズレル様が族長の器ではないと、そんなことを言う勇気のある官僚が、まだいたのかと、イェズラムは恥じた。今夜その男を焼き殺して、自分は平気なのか。むしろその男の手をとって、俺もそう思うと言ってやりたいくらいなのに。  アズレルが暗殺を命じた相手の居室が、ずいぶん遠い官僚たちの棟にあることを、イェズラムは前々から確かめてあった。老臣で、いかにも頑固者という風体の、なんの風雅も理解しないようなやつだ。  もしも自分が竜の涙でなく、老境まで生きられたとしたら、そんな爺になるのではないかと思えるような、そんな男だった。数知れぬ王族の中に主(あるじ)を求めたが、宴席でお世辞を言い、ご機嫌をとるのが苦手だったのだろう。  アズレル様は彼が、誰かほかの兄弟たちにおもねっているとお思いのようだが、たぶんそういう訳ではない。ただ見るに見かねて、老臣は批判したのだ。獣(けだもの)のごとく争い、空虚な思想によって戦争の美学を叫ぶ若い王宮の者たちが、アズレル様の与える麗しい理想の絵図面に酔い痴れているのを、それは危険な道だと教えたくて。  そんな男が、こんな深夜に、馬鹿のように宴席で酒や麻薬(アスラ)を食らっているわけがない。まともな者は、部屋で寝ている。そういう時刻だ。  だからあいつを殺すなら、寝室に押し入るしかない。  辿り着いた扉を、イェズラムは叩かなかった。王宮の部屋の扉は、施錠されてはいない。そこは全て族長の持ち物で、中にいる何者も、その部屋を我がものとして閉じこもることは許されていない。  扉を押し開いて入ると、控えの間に侍従などはいなかった。極めて質実剛健な居間が続き、そこで宿直(とのい)のつもりか、年老いた侍従がうたた寝をしていた。たぶん、老臣に古くから仕えた忠義の者かと思われ、せっかく眠っているのを起こすのは悪いと、イェズラムは足音を潜めることにした。  しかし寝室の扉を押し開ける気配で、その侍従は、はっとしたふうに座ったままの居眠りから醒めた。  そして顔を上げ、悪面(レベト)をつけたこちらの姿を見て、ぎょっとして立ち上がった。 「旦那様」  とっさに叫んだその老人を、なんとか黙らせたいと思い、イェズラムは相手に駆け寄って、首を絞めた。殺すつもりはなかった。顎のすぐ下あたりにある血管を締めれば、人は簡単に気絶する。この侍従を殺せとは命じられていない。とばっちりで殺される者を作りたくはなかった。  老侍従はあっさりと気を失い、イェズラムが支える手を離すと、どさり床に倒れた。寝室でその音を聞いていた者が、咎める声で何事か言ってきた。  振り返って見て、イェズラムは白い夜着を着た、厳しい覚悟の目をした老臣と向き合った。  老いた男は小さな体をしていた。早鐘を打っているのかもしれない、その心臓の位置を、イェズラムはすぐに見て取れたが、じっと睨むように見つめられて、すぐに魔法を振るうべきかどうか、ぼんやりと迷った。  あからさまな猛火で焼くような、そんなことをしたくはなかった。相手も苦しむだろうし、王宮の部屋も焼けてしまう。それに辺りを焼き焦がす火のあとを見れば、この暗殺を誰が行ったのか、一目瞭然だ。  どうせ誰もが知っているのだろうが、目にも明らかな焼け跡を残していくのは、イェズラムには耐え難い恥に思われた。  それで指先に灯す小さな火のような、ほんの一点の灼熱で、この年老いた男の心臓を、一瞬で焼いてやるつもりだった。それなら苦しむのはほんの僅かの間だけで、炎で殺されたようには見えないだろう。 「恥を知れ、長老会の者が、こそ泥のように押し入ってきおって」  強い声で叱責され、言われたとおりだと思え、イェズラムは恥じ入って伏し目に顔を背けた。しかし悪面(レベト)のために、相手にはこちらが、どんな顔をしたやら、想像もつかないだろう。 「年寄りを殺して、お前に何の益がある。名君を見いだすのが、お前たちの役目ではないのか。それが狂った人殺しの手伝いをして、何が英雄譚(ダージ)の英雄か」  まともな声で怒鳴りつけられ、助けてくれと縋りたいような弱気が湧いた。何もかもお前の言うとおりだが、巧妙な蛇の罠でとらえられていて、抜け出すことができない。いったいどうしろというのだ。  お前こそ、そこまでの長命を貪っていて、もう死んだらどうだ。俺もリューズも、あと何年も生きられない。だからせめて、残る限られた夜は、安楽に眠らせてやりたいのだ。  そのために命を寄越してくれ。お前が明日も平気で生きていたら、リューズはアズレル様に、どんな目に遭わされるか、わからないのだ。明日の夜も生きていて、しりとりの続きをやれるのかどうか、そんな小さなことも分からないのだぞ。まだ幼髪をした、生っ白い餓鬼だというのに。  しかしそれが、手前勝手な話だということは、イェズラムには良く分かっていた。この老人は真っ当なことを言っている。リューズのために死ぬ義理もない。だから、この人を殺すなら、俺が悪人にならねば。 「なぜ黙っているのだ。殺すなら殺すがいい。老いぼれを一人食らう程度のことは、軽いものなのだろう、炎の蛇よ」  怒鳴りつけられたイェズラムの脳裏に、お前は炎の蛇だからと寝床で話していたリューズの話が、不意に蘇ってきた。だから煉獄の火など、どうってことはないのだろうと、あの弟は誇らしげであった。そして、いずれは大英雄にと、寝物語の勲(いさおし)の、楽しみでたまらない続きの話を空想するような目で、そう求めていたではないか。  どうってことはないと、そんなわけはない。火炎魔法が使えても、火に焼かれれば熱い。煉獄で千年焼かれたら、それは途方もない苦痛だろう。できるものなら俺だって、そんな目には遭いたくない。お前とのんびり楽園で、氷菓を食っているほうがいい。善良なる大英雄として讃えられ、死後までその名誉が続くような、そんな一生のほうがいいに決まっている。  だが、そこへ至る道が、どうしても見つからないのだ。それでどうしようもなく、凶星と知りつつ、それに魅入られてついていく者たちの群れを率いる立場に立っている。  名君たりうる新星が、他にあるなら教えてほしい。そんな者が、この暗い王宮のどこに隠れているのだ。長老会が総出で探しても、見つからなかったその星が、今さらどこに潜んでいるというのか。 「貴方が間違っているとは思いません。むしろ正しいのだろう」  沈黙に枯れていた喉からの声で、イェズラムは密やかに答えた。 「しかし批判するのは誰にでもできる。勇気は必要だが、思ったことを言うだけなら、俺にでもできます」 「では言ってみろ」  どうせお前には、考える頭などあるまいと、そう罵っているような声だった。それに怒りが湧いて、イェズラムは悲しくなった。俺も馬鹿ではない。日々考えてはいる。ただそれを、口に出すことができないだけで。自分が死ぬだけなら、お前のように何でも言っただろう。それで道理にかなったと、善人面していられたさ。 「貴方には誰か、アズレル様より相応しい人物の、心当たりがあるのですか」  俺にはないがと、そういう意味で、イェズラムは訊ねた。老臣は盛大に、蔑む顔をした。  たぶん悪面(レベト)の下にある顔が、アズレル殿下に心酔した狂信者の顔をしていると、そういうふうに思えたのだろう。 「それを探すのが、貴様らの仕事ではないのか。早々に死ぬ若造ばかりで、英雄を気取りおって、また暗君を戴冠させて、部族を苦しめるつもりか。次代の玉座などあるものか。その前に侵略を受けて滅亡だ。亡国を照らす星など崇めていないで、英雄らしく戦って死ね」 「言われなくても、そうします。身の内にある魔法の最後の火が尽きるまで、戦いぬいてやるが、それでどうなる。残された者たちは、どうなるんだ。そろって王都で全滅か。それではあまりに哀れだと、あんたは思わないのか。生きられる者は、生きなければならないのだ。そのために死ぬのでなければ、なんの大英雄だ!」  不意に激して怒鳴り返すと、磁器の面の中で、息がつまった。老臣は気圧された顔で、しかし険しい表情を保ち、こちらを見ていた。震える息で、イェズラムは面の紐を解き、悪面(レベト)に隠れていた素顔を晒した。  こいつの最後のひと睨みなど、平気で正面から受けてやる。それで俺が呪われるというなら、呪われればいい。そんなものはすでに山のようにある、数知れぬ呪いのうちの一つにすぎない。どうせもう悪人なのだ。今さら怖いものなど、なにもない。 「いないのだろうか。名君の再来のごとき、器を持ったお方は」 「いない。そんなものは、いないのだ」  悪面(レベト)を握ったままの手で、イェズラムは顔を覆い、身を折った。 「貴方に非がないのは、分かっているが、死んでください。貴方が明日も生きていたら、俺の弟がアズレル様に殺されるかもしれない」 「顔も知らぬような、貴様の弟のために、命をよこせというのか」  呆れたふうに、老人は訊ねてきた。イェズラムは頷いた。それは道理にかなってはいないが、押し通さねばならない話だった。 「貴方には顔も知らぬ相手だろうが、まだ子供です。俺のことを英雄だと信じている。俺には唯一の大義なのです。あいつを見捨てたら、俺はもうお終いだ。貴方を殺して、煉獄へ行くほうがましです。悪人でも、人は人だが、弟を裏切ったら、もう人ではない」  だから死んでくれと頼みながら、イェズラムは、自分が錯乱していると思った。たぶん、先程アズレル様の宴席で飲まされた酒のせいだ。俺は今、頭がおかしい。元々おかしかったかもしれないが、こんなことを人に喋るなんて、もう本当に気が狂っているとしか思えない。  もう何も言わず、何も考えずに、この男を殺して戻ろう。  そう決心して顔を上げると、老臣はまだ険しい顔で、目を瞬いていた。 「命が惜しい。なぜか急に、命が惜しくなった」  真面目な顔で、今さら老人はそう言った。 「殺すなら殺せと、そう言うつもりで、正直な批判をしたのだ。しかしお前の話を聞いていて、急に命が惜しくなってきた。取引をしよう」  小狡い官僚ならではの腹芸かと、イェズラムは眉をひそめた。結局は死ぬ勇気などない者たちだと。 「もはや私は宮廷での官職に未練はない。この足で王宮を去ることにする。そのついでに、お前の弟を、王宮から連れ出してやろう」  あぜんとして、イェズラムはその話を聞いていた。 「無理だ」  それについては、考えたことがある。リューズをどこかへ逃がしてやって、王族としてではなくても、とにかく生き延びさせてやれればと。  しかしリューズは嫌だと言った。俺にも太祖の末裔としての誇りがあると。  それにどんな工作をしたところで、アズレル様は魔導師を使うことができる。未来視や千里眼、過去視をする者を動員されて、読心術で尋問されたら、秘密を守りぬくことはまず無理だ。リューズは死にましたと、年格好の似た死体でも、こんがり焼いて差し出したところで、あの方は、それを真に受けて丸呑みにするような、甘い蛇ではない。  必ず見つけ出して、死ぬより悲惨な目に遭わされる。 「なぜ無理なのだ。竜の涙だからか」 「いいや。王族で、俺の弟だからです」 「王族?」  老臣は訝る目だった。なぜ竜の涙の弟分(ジョット)に、王族がいるのかと、それは極めて常識的な疑問だった。  ただでさえ多くの王子が王宮にはいて、リューズを直に知らない者もいるし、公の場に姿を現さないので、詳しく知らない者たちの中には、リューズ・スィノニム殿下は実はすでに死んでいると思っている者もいる。系譜にある名でしか、リューズを知らないからだ。  王族の男子は、玉座の間(ダロワージ)での朝儀や晩餐に侍り、幼いうちは後宮に、長じてからは広間(ダロワージ)の近隣に、自分の居室を持っているものだ。それどれからもあぶれているリューズは、王族としての存在感が希薄なのだ。あたかも生きている亡霊のように。  ましてリューズを継承権を持ったひとりとして取りざたすることは、アズレル様のご不興を買う。それは、新星に仕える誰もがよく知っている事実だ。  アズレル様はひとりでも多くの兄弟を抹殺したい。だから後見を失ったリューズを手の内に取り込んで、亡霊として飼うことにしたのだ。 「なんという、お名前のお方だ」 「リューズです……リューズ・スィノニム殿下」  問われるまま答え、イェズラムは吐き気がした。悪酔いしているのかと思えた。 「スィノニム殿下? 亡くなったのではないのか」  老臣は顔をしかめ、問いただしてきた。イェズラムは首を横に振った。 「なんということだ」  叱責する口調で言われ、イェズラムはなぜか肝が冷えた。とんでもないことをしでかしたと、老人に叱られた気がして。 「スィノニム殿下の外祖父は、すでに亡くなられたお方だが、侵略する敵と、孤軍になっても善戦された猛将だ。応戦虚しく敗北され、御領地も敵地に没したが、立派な知将だったのだぞ。その血筋を引いた王子がおいでとは」  敗北した者に名誉などないと、アズレル様はいつも、そう仰っていた。リューズのことも、負け犬の爺を持ち、狂女の母から生まれてきた、踊りが上手いだけの小猿だと、馬鹿にしてきたのだ。  しかしその馬鹿な小猿が、年端もいかない子供ながらに、見よう見まねで憶えた将棋で、アズレル様の部屋(サロン)に集う知恵者たちを、次から次へと打ち負かすのを見て、アズレル様はリューズを玉座の間(ダロワージ)から締め出した。飯も食わさず、お前は馬鹿だと哀れんだふうに度々話し、公の行事には決して列席させないようにした。  リューズは素直に、自分は馬鹿だと思いこんでいる。しかし、ただの馬鹿ではないと、イェズラムは悔しかった。腹の底では、これはいわゆる親馬鹿かと恐れつつ、この子には天与の才があるのではと、時折思うのだ。将棋の駒で対戦し、ふらふらと惑わすような謎めいた手を打ってきたあと、リューズが唐突に勝利を宣言してくるのに舌を巻き、盤上での二、三手先で、確かに敗北している自分を確かめて、それが可笑しいような気がするときには、特にそう思う。  アズレル様のご不興を買うので、あまり勝つなと、リューズを諫めつつ、それでも鮮やかに大人を打ち破るリューズの得意げな笑みを見るのが、イェズラムには楽しみだった。  アズレル様は決して、リューズとは対局なさらない。もしも負けたら格好がつかないと、きっとそうお思いなのだろう。だがもしも、そんな対局が実現したら、リューズが勝つのではないかと、そういう気がする。たかが将棋と、アズレル様は鼻で笑うことだろうが、それでもリューズにも、アズレル様より優れたところはあるのだ。アズレル様だけが、王族ではない。リューズだって、ちゃんと、アンフィバロウの血を引いている。継承権を持った王族の男子なのだ。 「お前は何歳だ、炎の蛇」  老臣に訊ねられて、イェズラムはなぜそんなことを訊かれるのかと思った。 「十八です」 「あまりに若すぎる」  早口にそう断言されて、イェズラムは身構えた。常人ならそうかもしれないが、竜の涙にとって、十八は壮年だ。もはや一生の半分を使い終えようとしている。十二で元服して、激戦の中を六年戦った。だから俺はもう大人だと、そういう自負があった。あるいは、もう大人でなければまずいという、そんな焦りが。 「その王子には、何か光るものはないのか。才能の発露のようなものは」 「ありません……。アンフィバロウのような、魔法も使えないですし、学問のほうもあまり……」  しかしそれは、アズレル様がリューズに教育を与えないからだと、イェズラムは内心で言い訳をした。普通なら王族の男子は、何人もの博士が仕えて、知識と教養を授けるというのに、リューズはろくに何も教えてもらえず、ふと気づけば、つい最近まで、字も読めなかったのだ。  それにイェズラムが気づいてからは、慌ててこっそり手習いをさせたが、それでもまだ読むのも書くのも億劫らしく、与えられた独学の本を読むよりも、広間(ダロワージ)で詩人達が伴奏とともに詠う英雄譚(ダージ)や戯曲のほうが好きで、さぼってばかりいる。こちらが心配して、馬鹿になるぞと脅しても、リューズは平気な顔をして、俺はもう馬鹿だと言うだけだ。 「何か特技くらいはあるのではないのか」  そんな無能は許せないという顔で、老臣が問いつめてきた。 「特技といっても……仮面劇と、あとは将棋の腕が立つくらいのもので」  それに老臣は、なんとと険しい顔で膝を打ち、叫ぶように言った。馬鹿にしているのかと、イェズラムは思った。 「書はどうだ。字がお上手ではないか、殿下は」  食らいつく勢いで、そう訊ねられ、イェズラムはうっと答えに詰まった。リューズは自分の筆跡は持っていない。文盲なのに衝撃を受けて、イェズラムが思わず拳骨を食らわせ、厳しく手習いさせたせいで、よほど怖かったのか、リューズはこちらが書いて与えた手本の筆跡を、丸写しに憶えてしまったのだ。だから今でも、なにか書かせればリューズは、イェズラムが見ても、自分が書いたものかと思えるほど、そっくりな筆跡で書く。  だから、上手といえば上手だった。イェズラムの字は、書に精通した長老会の長(デン)が見て、達筆であると褒めてくれるほどの手並みがあった。しかし、殴りつけられたからといって、それを丸ごと真似られるのだから、リューズにも素養はあったのかもしれない。 「上手いかもしれません」  曖昧なことを答えたイェズラムを見て、老臣は大きく頷いた。 「まさしく知将の孫だ。殿下はな、ザムリード候の孫君なのだ。だから知略に優れ、勇猛なご性格のはずだ。舞踊や書画を嗜まれ、明朗なお方だった。ただちょっと、時折羽目は外されたがな」  時折ではないと、イェズラムは内心震えた。リューズが羽目を外すのは、時折ではなく、しょっちゅうだ。日頃は居候の身に遠慮して、じっと我慢しているが、時々我慢がきかなくなるのか、信じられないような悪戯をすることがある。  イェズラムは、職務で疲れ果てて眠り、朝起きてみたら、顔中に落書きされていたこともあった。その時には、腹が立つのを通りこして、情けなくて、泣きたかった。なんでこんな馬鹿が、太祖の血を引いているのかと、ずっと悩んできたが、それは太祖の血ではなかったのか。 「それでは駄目なのか。その、スィノニム殿下では。長老会の者たちが駄目だというのか」 「長老会はリューズのことは詳しく知りません」  言い募られて、イェズラムは大人しく答えてしまった。  リューズは公の業績がなにもない。師事していないので、担当の博士からの評論もないし、朝儀での発言をする歳でもなく、その機会もない。出陣する歳でもないので、戦績もない。長老会の目に止まるような事は、リューズには何もないのだ。 「なぜお前が長老会に話さないのだ。殿下には知将の血筋が顕れていると」  そんなものが顕れてると、今初めて知ったのに、どうやって話せというのだ。そのようなことを、イェズラムは反論した。すると老人は鬼のような顔をした。それにイェズラムは、眉間に皺を寄せて応じた。 「今知ったなら、今話しに行け」  叱りつけるように、老人は言った。 「何の権利があって俺に命令するんだ」 「義を見たからだ。馬鹿もんが!」  眼前で怒鳴られて、イェズラムは唖然とした。今まで誰からも、怒鳴られたことが無かった。嫌みを言われたり、脅されたり、当てこすられたことはあるが、怒鳴られたことはないし、馬鹿だと言われたこともなかった。幼少のころから頭は良かったし、何をやっても人より優れているのに慣れていた。仕えた兄(デン)も、品があって物静かな質で、今では風雅に書を嗜む長老会の長(デン)に収まっている。必要に迫られて、派閥の弟(ジョット)たちに怒鳴ることはあったが、自分が怒鳴られたことはなかったのだ。 「声が、大きいです。夜中なのに」 「それが人を殺しにきた者の言うことか。官僚は声がでかくなければ勤まらぬのだ。そなたも人を従えるなら、もっと声が通るよう、喉を鍛えろ」  うるさい爺だと、イェズラムは思った。とっとと殺しておけば良かった。こんなに話した後ではもう、殺すのがつらい。殺意はまったく消えており、部屋を訪れた時には内奥に燃えていた火も、今ではすっかり消沈していた。 「生きて次代を見たくなったので、私は去ることにする。さらばだ炎の蛇。アズレル殿下への言い訳には、どこかで火葬を待つ死骸でももらってきて、ここで焼くがいい。若造でも、それくらいはできるだろう」 「しかし、そんなことをしても、ばれます。アズレル様は勘のいいお方なので……」 「お前の目がいかんのだ。その気の弱そうな目が。戦う前から負けているのだ」  老いた指に、間近で眉間を指さされて、イェズラムは蒼白になった。相手を指さすのには、侮辱の意味がある。初対面の爺に、そんなふうに愚弄される謂われはなかった。しかし、あまりのことに、咄嗟には言葉もない。 「嘘をつくときはな、それが真実と信じ切って話せ。お前は私を殺したのだ。そう信じて、主に報告をしろ。後の始末はもちろん抜かりなくやるのだぞ。自信がなければ、年長の者に相談をしろ。お前も魔法戦士なら、兄(デン)がいるのだろう」  竜の涙が義兄弟関係で養育を受けることは、部族民なら誰でも知っている。年少の者の後見を任された者は、必死でそれを守るのが勤めだ。自分もそうやって先人に守られてきたのだから、次の代を養って恩を返すのが、道理というものだった。  しかしイェズラムは人を頼るのが苦手で、あまり兄(デン)を頼ったことはなかった。何かを相談したこともない。特に兄(デン)が長老会の統率者となってからは、その弟分(ジョット)だから、いい目をみていると言われるのが何より悔しく、兄(デン)と俺とは無関係だという態度でいたかった。  兄(デン)は面倒を見た弟分たちに、新年には必ず新調した長衣(ジュラバ)と、一筆書いたものを与えていたが、イェズラムがもらう書には例年、『無愛想』と書かれていた。それを有り難く押し頂いて受け取り、趣味のいい兄(デン)が縫わせた長衣(ジュラバ)を着て、それが自分によく似合うのを見ると、また新しい年になったと実感したものだ。  あの人に、リューズが名君の器ではないかと、そんな話をして、そなたは馬鹿かと笑われたら、あまりにも耐え難い。たぶんそんな思いで、今まで口を噤んできたのだ。  それなのに、今さらあの人に、助けてくれと言うのか。 「さあ、そうと決まれば善は急げだ。侍従の介抱は頼んだぞ。落ち着いたら連絡を寄越すからと伝えておいてくれ。スィノニム殿下にもよろしく伝えていただきたい」  ばたばたと言いつけて、老臣はイェズラムの見ている前で夜着を脱ぎ捨て、気絶している侍従が朝のために用意していたらしい官服にてきぱきと着替えた。そして、居間の文机にあった文庫から、銀貨の袋らしきものを取り出して懐に仕舞うと、ではなと言って、居室を出て行った。  その後ろ姿を見て、イェズラムは呆然とした。  老人は付け入る隙もない身のこなしで、実はなにか武術に覚えでもあるのかと思えたが、そんなふうな体躯には見えなかった。たぶん、襲いかかれば一捻りの、虚弱な老官僚だったはずだ。  そんな爺が、すでにして百戦錬磨の俺に対し、戦う前から負けている、だと。  それを思い返すと、持ち前の負けず嫌いが湧いてきて、猛烈に腹立たしかった。すると苛々してきて、何もかも魔法の猛火で焼いてやりたいような気がしたが、そんなことをすべきではなかった。王宮は太祖の代から守れてきた神聖な場所だし、そもそも地下都市での火災は危険極まりない。そう思って平静を取り戻し、イェズラムは今、そんな冷静なことを考える自分が、つくづく嫌だった。  それどころではない。いったい自分は、どうするつもりなのか。  殺してこいと命じられた老臣を目の前で取り逃がし、こんな危機に立って、どの面提げてどこへ行くのか。このまま夜が明ければ、アズレル様とは朝儀の席で顔を合わせねばならない。その時、あの老臣は確かにいないのかもしれないが、それが殺したのではなく、ただ逃げられただけなのだと、表情から読まれないだろうか。  上手くやったと見せかけるための死骸も、どこから調達すべきか、いろいろ思いつきはするが、決心がつかなかった。  だが、とにかくやらねば。ぼけっと突っ立っているだけでは、どうにもならない。弟を守らないと。それが兄としての、自分の義務だから。  そう思い詰めていると、脳裏にどうしても、長老会の部屋でもらった、『無愛想』と大書された書と、それを真顔で差し出す長(デン)の顔がちらついて、消えなかった。  何かを頼りたい時に、頼れる相手が他にいない。乳母は死んだし、親はもともと誰だかわからない。最後に残っているのは、あの人だけだ。  しかし寝ているだろう、夜更けだからと、そう思ったものの、気がつくとイェズラムは、逃げるように空き部屋となった老官僚の部屋を出て、解いた乱れ髪がなびくような早足で、回廊を行き、広間(ダロワージ)を迂回して、竜の涙たちの居室がある区画へと、大急ぎで逃げ帰っていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「発火点」(3) -----------------------------------------------------------------------  長(デン)の部屋の戸を叩くと、眠たげな顔で侍女が現れ、いったん取り次いでから、再び現れて、イェズラムを中に通した。  長(デン)は、いかにも眠いという顔で、不機嫌な半眼をし、白い夜着のままで、居間の上座に胡座していた。  なんと挨拶していいか分からず、イェズラムはとにかく、長(デン)の前まで行って平伏した。 「なんという格好だろうなあ、エル・イェズラム。それに酒臭い。酔っぱらった勢いで、積年の文句でも言いに来たのか」  煙管に葉を詰めながら、長(デン)はずいぶんくだけた調子で言った。日頃、長老会の部屋(サロン)でしか顔を合わせないので、そんなふうに、肩肘張らない空気の長(デン)と話すのは、イェズラムにとっては珍しいことだった。 「いったい、何があったのだ。お前のような者が、髪振り乱して寝込みを襲うとは」  煙管に火を入れて、長(デン)は美味そうにそれを吸った。煙を吐く仕草にも、貫禄と気品があり、とにかく人を選ぶ質のイェズラムの目にも、長(デン)は完璧な男に見えた。  そうでなければ、俺はこの人に仕えることはできなかっただろうと、イェズラムは思った。子供のころから、小生意気な餓鬼で、人を馬鹿にしたようなところが、俺にはあったので、自分より賢いと思えるような相手でないと、素直に頭を下げられなかった。  この人はあまり、そういう序列を強要しなかったが、自然と頭が下がった気がする。とにかく何事にも秀でていて、王宮の内外の責務を完璧にこなし、武装していても、礼装していても、様子が良かった。だから負けるものかという気がして、あまり教えを乞うこともなく、ただ一心に、この人を凌ぐような英雄にと、それを励みに頑張ってきたようだった。  しかし現実には挫折の連続だ。現に今夜もこうして、馬鹿のような大失態で、まさか泣きつく羽目になるとは。  だがもうここに来て、醜態をさらしたからにはと、イェズラムは居直って、事態を話した。  アズレル殿下に暗殺を命じられたが、当の獲物に出し抜かれ、まんまと逃げられ、スィノニム殿下について、長(デン)に話せ、とにかく相談しろと言われたので、そうするしか仕方なくなり、その足で来たと。  煙を吸いながら、長(デン)は難しい顔で聞いていた。  話しながら、イェズラムは、もしや長(デン)は具合が悪かったのではと、そういう気がした。煙管を吸いながら、頭が痛いという顔をして、顔色もどこか悪いようだったからだ。長(デン)は決して苦痛を見せない人だったが、突然の夜襲では、そんな体面を崩させてしまったかもしれない。  だとしたら、無粋だったと反省したが、それももう、今さらだった。 「よく来たな、イェズラム」  ふうっと長い息に煙を乗せて、話を聞き終わった長(デン)は、唐突にそう褒めた。  内心ぽかんとして、イェズラムは渋面のまま、下座で押し黙った。 「そういうことは、度々あったのか。つまりアズレル殿下がお前に、気に食わぬ者を始末せよとお命じになるのは」  言葉に出すのが恐ろしい気がして、イェズラムはただ小さく頷いた。それを見て、長(デン)は微かに顔をしかめた。 「お前は知らないのか。竜の涙には、拒否権がある。道理にかなわぬ命令には、逆らってよいのだ」 「しかし……叛逆すれば、リューズに何事かあると、脅されますので」  長(デン)と視線を合わせる勇気がなく、イェズラムは膝元の床を睨んで答えた。 「叛逆ではない。アズレル殿下は族長ではないのだ。我々は王族とは対等の身分だ。射手と新星とは兄弟で、主君ではない。アズレル殿下はお前よりご年長ゆえ、兄(デン)かもしれぬが、ただそれだけだ」  しかし兄(デン)の命令も絶対ではないか。それこそ拒否権などないではないかと、イェズラムは内心思い、とっさのことで、思わず長(デン)の顔を見上げた。すると長(デン)は、呆れたような目をして、眉をひそめた。 「そなたは今、可愛げのないことを考えたであろう。俺の揚げ足をとろうとしたな」 「なにも言っておりません、長(デン)」 「目で分かる」  きっぱりと言い、長(デン)はまた、煙を吐いた。  反論するのも無礼なのでと、イェズラムはとにかく黙った。しかし自分のほうが正しいと思った。 「相談すれば良かったのだ。俺に。援護を求めればよかっただろう」  びしびしと叩くような口調で、長(デン)は諫めた。イェズラムは黙り込んだ渋面で、それを拝聴した。 「弟が危ないので、助けてくれと頼めば良かっただろう。そなたは、あくまで孤軍奮闘したいのか。それで負けたら、結局敗北であろうが。重要なのは、英雄性ではなく、勝つことなのだぞ」  とんとんと、膝元の床を叩いてまで、長(デン)は力説した。そんなことは、言われなくても分かっていると、イェズラムは思ったが、実のところ、分かっていないのかもしれなかった。確かに批判されているとおり、孤軍奮闘してきた。それで敗北していたか、そうは思いたくなかったが、そうなのかもしれなかった。 「誰も助けてくれませんでした」 「いつの話だ」  胡座した自分の膝を、思わず掴んで話しているこちらに、長(デン)はあっさりと、冷たいような問い方をしてきた。 「乳母が死んだ時です。誰も来ませんでした。アズレル様以外」 「それは、たまたまだ、イェズラム。その後お前は、誰かに相談したか。一度でも誰かに、助けを求めたことがあるか」  そんなことは一度もなかった。だから全部、俺に非があるというのか、この人は。  なんとなく呆然とし、イェズラムは相手を見つめた。それに苦笑して、長(デン)は鼻先を掻いた。 「俺も不注意だった。そなたはな、完璧なように見えたのだ。放って置いても勝手に育つと、そういうふうに見えた。構われたくないのだと思っていたのだが、それではまずかったな」  まずかったのかと、そう言葉に出されてみて、ひどい敗北感が湧いた。要するに長(デン)はやはり、俺に失望したと言っている。射手として不十分だし、選んで後悔していると。だからこれから、別の者に変えようと、長(デン)が言うかと思い、イェズラムはそれを覚悟して待った。 「ところでそれは、何を持っているのだ」  イェズラムが手に握ったままでいた仮面を視線で示し、長(デン)は訊ねてきた。見れば分かるだろうと思い、イェズラムはそれを、黙って差し出した。長(デン)は受け取り、目を見張るような、呆れたような表情をした。 「なんだこれは。悪面(レベト)か……」  煙管を口に持っていき、やんわりくわえたまま、長(デン)は顔をしかめて呟いた。 「確かに、そういう時もあろう。治世は甘くはないのでな」  面を返してきて、長(デン)はため息をついた。やむをえず、それを受け取り、イェズラムは押し黙った。頷きたくはなかった。仕方がないと長(デン)も思うなら、相談する必要などない。その結論なら、もう何年も前から、とっくに自分で出してある。仕方がない。諦めて耐えて、死ぬまで戦うしかないのだと、そう思って今まで、孤軍だったのではないか。 「だがな、イェズラム。爺がちょっと玉座の間(ダロワージ)で文句を言ったくらいで、いちいち殺していたら、王宮には誰もいなくなる。批判を受けるのも上に立つ者のつとめだ。それは金枝玉葉の御方でも、変わりはないぞ」  頷きたかったが、イェズラムはそれを堪えた。アズレル様を批判しないのが、根っから板に付いていた。それには不吉な事が多すぎて、考える前に恐ろしいと思えた。 「命じられても拒否するのが、射手として、お前のつとめだった」 「ではリューズがどんな目に遭っても、素知らぬ顔で見過ごせということですか」  さらりと批判する長(デン)に、どうしても堪えがたくなって、イェズラムは追い被せる早口に反論していた。長(デン)はそれに、煙管を吸う間、首を横に振って答えた。 「それとこれとは別の話だろう。考えてもみよ。その二つの事柄の間には、関連性がない。そなたがあると思っているだけで」  空中にある二つのものを指して話すように、長(デン)は手にもった煙管の先を翻してみせていた。  イェズラムはその煙に巻かれた気持ちで、しばらく思考した。しかし関連性がないとは、到底思えなかった。  アズレル様はこの上なく明らかに、俺を脅していた。命令を拒否すれば、痛い目をみるのはリューズだと。 「分からないのか、イェズラム。では有り体に言おう。お前がびびるから、弱みに付け込まれたのだ」 「俺が悪いと仰るのですか」  やはりそれかと驚いて、イェズラムは訊いた。自分の耳にも、どこか哀れっぽい声だった。 「お前がそれを、悪だと思うのならな。しかし誰でもびびるさ。身内を殺すと脅されれば。俺も例えばお前や、他の可愛い弟(ジョット)たちを質にとられて、殺すと言われたら、びびりもするさ」 「では同じではないですか、俺と」  むっとしてイェズラムが言うと、長(デン)は伏し目の真顔で煙管を振り上げ、それでイェズラムの額をこつんと叩いてきた。火が入ったままのそれは、一瞬、ぞっとするほど熱かった。それに石の傍を叩かれた痛みもあり、軽く撲たれただけとはいえ、イェズラムは愕然として、片手で額を覆った。 「えらそうな面(つら)をするな、イェズラム。俺を誰だと思っているんだ。長老会の長(デン)だぞ。お前を射手に選んでやったのも俺だ。そんな小童の分際で、この俺にガン垂れるなど、もってのほかだ」 「申し訳ありません」  不服だったが、イェズラムは頭(こうべ)を垂れた。言われたとおりで、逆らっても仕方がないと思えた。 「なぜ謝るのだ」  ぷかりと煙管をふかし、長(デン)はけろりと言った。混乱して、イェズラムは顔をしかめた。 「全然悪いと思っていないくせに、なぜ申し訳ないなどと言うのか、そのお前の不正直な心が分からんな」  飄々として、長(デン)はふざけたように言った。 「俺を嘲弄しておられるんですか」 「いいや。遅まきながら、お前に喧嘩のやりかたを教えているのだ」  種を明かす長(デン)の顔は、渋面のこちらを眺め、面白そうに微笑んでいた。 「怒ればいいのだ、イェズラム」  諭すように、長(デン)は言った。 「確かに事は単純ではないな。アズレル殿下は難しいお方だよ。それでも王族の中では戦績が良く、頭脳も明晰であられたし、人の集まりも良かった。だからあのお方が新星なのだ。しかし最終的に、殿下を戴冠させるのは、射手であるそなただ。納得がいかないのなら、納得のいく相手になるよう、そなたも殿下と戦わねば。難しく考えることはない、ただの兄弟喧嘩だよ」  励ます微笑で、長(デン)は言ったが、イェズラムはそれに頷くことはできなかった。  アズレル様が新星で、俺はその射手として、いずれは即位した星と、双子のごとくに力を合わせろというが、アズレル様にはそんなおつもりはない。あくまでアズレル様が主で、俺は下僕と、そういう立場を強調するばかりで、こちらの考えなど、全く意に介してもいない。  服従しろ、平伏しろ、忠誠を示せというばかりで、それに背けば、躾の悪い犬でも撲つように、陰湿に制裁してくる。それがアズレル様のお人柄で、これまでそうして、人を蹴落としてきた。付け入る隙もない。そんな相手とどうやって、心をひとつにするというのか。  俺の努力が足りないのか。忠誠心が足りなくて、こういう事になっているのか。 「俺では、勤まらないのかもしれません、長(デン)」 「もう諦めるのか、案外根性なしだな、そなたは」  びっくりしたという顔で、長(デン)は率直に詰ってきた。その言葉は、思ったより身に堪えた。 「俺の見込み違いか。そなたには根性があると思って、信頼したのだが、それも俺の親馬鹿みたいなものだったのか?」  訊ねる口調で言われたが、イェズラムは戸惑った。そんなことを本人に訊かれても困る。 「どうしても駄目か、イェズラム。それほど耐え難いのか、アズレル殿下は」 「……俺が至らないのだと思います」 「いいや、そなたは完璧だ。才知に優れ、努力家で、忍耐強くもあれば、誇りもある。生意気だが、結局上は敬うし、下への面倒見も良い。それに魔法も派手だしな。面(つら)も悪くない、背もまだ伸びるかもしれん」  何の話かと、イェズラムはさらに混乱してきた。背丈のことが、なんの関係があるのか。 「そなたは一種の理想型なのだ、次代の英雄として。そうならねばならぬし、それにかなり近くもあるだろう。そういう射手を相手にとって、アズレル殿下が敬意を払えぬというなら、どんな魔法戦士にも敬意は払えぬだろう」  燃える煙管の薄煙を眺めながら、長(デン)は話していた。 「それは、ひいては、どんな者も愛せぬし、敬えぬお人柄ということやもしれんな」  寂寥を漂わせて、長(デン)はそう言い、自嘲するように、うっすらと微笑んだ。 「俺はなあ、イェズラム。人を見る目がないのだ」  自分を射手に選んだ相手にそう言われ、イェズラムはうっと呻いた。 「シェラジムが当代を即位させるために、王族を皆殺しにしたときも、その前夜まで共に飲みながら、あれの悪心に全く気づかなかった。あいつは優男に見えたしな、そんな悪事を働くほど思い詰めていたとは、全く気がつかなかったのだよ」  エル・シェラジムは当代の射手で、暗君のそしりを受ける族長を即位させるため、他の継承者を全て暗殺する暴挙を行った人物だ。それゆえ他に選択の余地がなく、長老会は族長デールを新時代を照らす星として認めるしかなかった。だがその星の光は、あまりに弱く、ふらふらと迷走する星だった。  シェラジムは長老会の一員だったが、その部屋(サロン)で姿を見たことはない。族長の居室に詰めて、その近侍として片時も傍を離れないので、魔法戦士の群れから完全に孤立していた。向こうが求めても、たぶんシェラジムとの友誼に応じる竜の涙はいないと、イェズラムには思えたが、過去を話す長(デン)の顔は、古い友の話をするような表情だった。 「お前のことも、今夜こうして、顔面蒼白のざんばら髪でやってくるまで、気がつかなかったのだ。だから俺はどうも、馬鹿なのかもしれん。少なくとも、鈍い男だ」  長(デン)がそんな話をしてくるのは、初めてだった。えらそうに訓辞を垂れもしないが、身の上話をする人でもなかった。思えば無口な兄(デン)で、いつも黙って、弟たちを見守っているような人だった。 「イェズラム、そなたはもう大人だ。だから隠さず言うが、戦局は切迫している。敗北の挙げ句の滅亡も、ただの悪夢ではない。何の罪もないそなた達の世代に、なにもかもが降りかかろうとしている。不条理と思うだろうが、そなたは忍耐強く、道義心がある。それを見込んで、射手に選んだのだ。どうか道を過たず、皆と力を合わせて、部族を窮地から救ってくれ。若いそなたの目で見て、正しいと思える道を行けばよいのだ。俺もそれを、助けよう、命のある限り」  なんとしても、お前たちを守ってやると、そういう目をして、長(デン)は話していた。そういう目をした者のことを、イェズラムはもう一人知っていた。  それはかつて、自分を庇って死んだ乳母だった。  乳母はアズレル様に斬られる前、聖堂の天使像にでも祈るように、跪き、両手を合わせてイェズラムを伏し拝み、どうかリューズ様をお守りくださいと、繰り返し頼んだ。どうか、真の弟君とお思いください、どうか真の兄として、おふたりで助け合ってと、乳母は懇願しながら死んだ。  だからその遺言を、未だに律儀に守っているだけかもしれないが、あの時に必死の目で頼んでいた女の、一瞬の迷いもなく命を投げ与えてくれた愛が、今もまだ、自分の中の確かな火として、燃えているような気がする。この世には確かに、聖典の説く愛なるものがあり、それによって人は、人のために命を差し出すこともある。それこそ善で、真の英雄性であり、強さであると、言外に教えられた気がして、その灯を頼りに、いつも生きている気がする。  アズレル様にはそういう灯が、見えないのだろうか。だとしたら、気の毒な人だと、イェズラムは不意に思った。その灯の熱に耐えるだけの強さが、あの方にはないのではないか。本来なら自らが、眩しく明るく燃える新星として、燦然と輝き、皆の行く道を照らしてやらねばならないお立場なのに。  かつて太祖がそうだった。暗闇の奴隷時代を抜け、夜の砂漠を踏破するとき、太祖アンフィバロウは火炎術を用い、民の行く道を照らした。その火は人々が暖をとるための火であり、煮炊きして食べるための火でもあり、時には部族の敵を焼き払うための猛火でもあった。身の内に炎を宿した最初の星(アンフィバロウ)は、天空を駆け抜け、次代の星へと、その火を受け継がせてきたはずだ。  今、その火は、いったいどこで燃えているのだろう。目映く闇を照らす、導きの光は。 「スィノニム殿下は、そなたの目から見て、どうなのだ。その爺さんの言うような、隠れた逸材なのか」  長(デン)から問われて、イェズラムはほとんど無意識に、首を横に振っていた。 「リューズは、馬鹿です」  そう言ってしまってから、イェズラムは、自分も馬鹿だと思った。  たとえ嘘でも、長(デン)にリューズは名君の器と強く勧めておけば、万に一つでも、あいつが生き延びる可能性があったかもしれないのに。なぜ正直に、思ったとおりのことを言ってしまったんだ。 「確かに……将棋や歌舞の才があるのは、事実です。でも族長というのは、アンフィバロウの末裔だから即位するものなのですよね」  イェズラムがなんとか話を継ぐと、長(デン)は根気強く聞くような顔で、頷いてきた。 「あいつが太祖の血筋を示しているのは、顔だけです。それと、癇癪持ちなのと、夜寝ないことと……でもそれは、太祖の血かどうか、分かりませんよね。王家の特徴というだけで」 「誰にも分からんよ、そんなものは。太祖とお会いしたことがない。お姿は絵で、言行は英雄譚(ダージ)で伝えられているが、それだけでは人物の全容は分からない。問題は太祖と似ているかではなく、民を幸せに導ける星かということではないか」  そうか、そうかもしれないなと、イェズラムは思った。  それを言うなら、俺はアズレル様といて幸せだったことは一度もないが、リューズといると幸せな時はたまにある。たとえば、あいつが将棋で勝って、にやりと笑ってこちらを見た時や、好物を食って嬉しそうにしている時だ。しかしそれは、名君とは関係ないのではないかと、全く自信がなかった。  それは単に俺にとって、リューズが可愛い弟で、あいつが幸せなら自分も満足という、ただそれだけのことだ。全ての民を、幸福にする類のものではない。 「分かりません、それでは漠然としすぎていて。この際、民の幸福とは、戦に勝つことではないかと思うのですが」 「そうだな。それは大いに一理ある。だから戦勝を期待できる星として、アズレル殿下が選ばれたのだよ」 「勝てれば良いのですか。例えば、アズレル殿下よりも多く」 「そうだな。アズレル殿下と同等に勝ち、そしてアズレル殿下が勝てない戦いを、勝ち抜ける者がいれば、その星のほうが、より玉座に相応しいということになろうな」  分からない、それはまだ。リューズは出陣する歳ではないし、それに、アズレル様はリューズとは絶対に将棋は指さない。 「イェズラム、焦って考える必要はない。まだ時はある。当代がご健勝のうちに、次代のことを云々するのは不敬であるしな。そなたが胸の内で静かに考えよ。そうするうちに、しかるべき星が、明るく輝き始めるかもしれぬ」  長(デン)に頷き、しかるべき星かと、イェズラムは思った。  それがアズレル様でなく、リューズのほうだといいと、俺は思っている。それは正直な気持ちだが、ただの私情で、暗君を即位させたエル・シェラジムの暴挙と、どこが違うのか。  おとなしくアズレル様の猛威に耐えて、滅私の忠誠を尽くすのが、正しい道ではないのか。  分からない。考えたところで。何が正しい道なのか。 「今夜はな、もう何も考えず、部屋に戻って寝ろ。後の始末は、俺が手配しておいてやる」 「ですが……」 「ばれやしない。悪口を言う者は消えた。それで目的は果たされたのだ。悪面(レベト)を玉座の間(ダロワージ)で割っていけ。皆、予定どおり震え上がるさ」  苦笑の顔で、長(デン)は指示した。イェズラムはそれに、自信なく頷いた。長(デン)を頼ってよいものか、自信が持てなかったのだ。 「スィノニム殿下の身が心配だというなら、お気の向く時には、長老会の部屋にお越しになるといい。俺が将棋の相手でもしていよう」 「長(デン)がですか」  いやな予感がして、イェズラムは否定的な口調になった。それに長(デン)は気まずげな顔をした。 「何かまずいのか」 「いいえ。あいつが調子に乗るでしょう。甘やかさないでください。それから、冷たいものは食わせないでください。腹が弱いんです」  イェズラムは渋面で頼んだ。  リューズは英雄譚(ダージ)に出てくる魔法戦士に目がなくて、それなら長(デン)は折り紙付きだし、有頂天になるに決まっていた。それを相手に、もしも将棋で勝つようなことがあれば、大した英雄気取りで、手に負えなくなるに違いない。  それで菓子やら氷菓を食い放題で、いつでも大手を振って長老会の部屋(サロン)に出入りできるとなれば、それはもう、あいつにとって楽園そのものだ。  いい気になったときのリューズは、とんでもなく我が儘で、アズレル様とは別の意味で猛獣だ。それはそれで耐え難いと思って、イェズラムはむすっと悩む顔でうつむいた。  それに長(デン)は、くつくつと笑って答えた。 「いいんじゃないか、まだまだご幼少だ」 「そこでの評価に命がかかっているのに、ご幼少も糞もありません」  言っていて、イェズラムは腹が立ってきた。まったくその通りだ。業績がなくても、並み居る重鎮(デン)たちのいる部屋(サロン)で、目立った才能を示すことができれば、長老会の気が変わることだって、無いとは言い切れないのに。リューズはきっと、そこでただ遊んでいるだけだろう。 「案外と大器かもしれんよ。他の殿下がたが皆、なんとか生き延びようと戦々恐々とする中で、どうなる定めか知りながら、暢気に遊び暮らしていられるというのは」  まったくその通りで、リューズは遊び暮らしていた。自分がいない昼間、リューズが居室でなにをしているのか、知るよしもないが、どうせ昼まで惰眠を貪って、その後はふらふらと王宮を彷徨って、菓子やら食い物やらを与えてくれる者に、にこにこ擦り寄ってみたりしているだけだ。そうでなければ、玉座の間(ダロワージ)での詩人の詠唱に、柱の陰でうっとり聴き入っているか。イェズラムが、お前も学ぶべきだと与えた書物は、ちっとも読んでいる気配がしなかった。 「やはり、ただの馬鹿かもしれません、あいつは」 「人はみな、ただの馬鹿だよ、イェズラム」  悔やんで言うイェズラムに、長(デン)はたしなめるように、優しく言った。 「お前も俺も、アズレル殿下も、みんな馬鹿だよ。俺はそう思う。人より優れた者などいない。ただそれぞれが、正しいと思うことを、懸命にやっているだけだろう。誰が英雄で、誰が名君であったか、それはきっと後の世の民が決めてくれる。しかし我々は、自分が正しいと信ずることを、やるしかないだろう。英雄らしく、潔い命懸けでな」 「しかし、長(デン)……俺には何が正しい道か、分からないのです」  答えをもらえるかと、半ばまでは期待して、イェズラムは首を垂れ、長(デン)に訊ねた。これほどこの人に弱みを見せて、頼ったことは、今までにあったろうかと、イェズラムは思った。たぶん、これが初めてだ。子供のころから、派閥の虐めや抗争で、めったやたらと痛めつけられることもあったが、それでも独りで耐えてきた。助けてくれと、兄(デン)に縋るようなのは、男らしくないと思っていたのだ。だからきっと、これが初めてだっただろう。  長(デン)はそれを分かっているのかどうか、定かでないような淡い微笑で、ため息とともに最後の煙を吐いて、けろりとして言った。 「そういう時は眠れ。とにかく眠って、朝が来たら、また働け。どうすればよいかは、明日目覚めてから考えよ」  頷いて、そう教え、長(デン)は立てというように、手を振って促した。もう出ていけということだろう。朝までにはまだ、いくらか眠る間がある。長(デン)も休みたいのだ。それは当然のことだった。  長居をした自分の無遠慮を恥じて、イェズラムは平伏し、早々に退出しようとした。  しかし戸口を出るときに、長(デン)に呼び止められて、イェズラムは振り返った。  長(デン)は上座から、首をかしげて不思議そうに、こちらを見ていた。 「でかくなったなあ、イェズラム。いつの間に、そなたはそんなに背が伸びたのだ。ちょっと前まで生意気なちびで、泣きべそを堪えたような顔をして、黙って座っていたのになあ。俺も老けるわけだよ」 「長(デン)は老けてはいませんよ」  お世辞のつもりはなく、イェズラムはそう言った。長(デン)は面白そうに、ふふふと含み笑いした。そうやって人好きのする笑みを浮かべて、ゆったりと座していると、長(デン)はいい男ぶりで、英雄らしい貫禄がある。 「そなたは俺のことを、完璧な男だと思っているのだろう。しかしそれは、勘違いだ。むしろ逆だよ。俺は穴だらけの駄目な大人だ。だがお前らが、英雄を見る目で俺を見るので、仕方なく、そういうふりをしているだけさ。そんな情けない大人でも、人生経験において、お前より一日の長がある。だから困った時には、頼ってくるといい。必死で助けてやろう」  しれっとして言う長(デン)を見て、勘弁してくれと、イェズラムは思った。もうちょっとで、感激しそうだった。それで慌てて一礼して、イェズラムは長(デン)の部屋を辞した。  命じられたとおり、人気(ひとけ)の絶え果てた玉座の間(ダロワージ)に寄って、イェズラムは持っていた悪面(レベト)を床に叩きつけて割った。そして、それを誰も見ていなかったことに運を感じながら、自分の居室への近道を辿り、あの人は一体、どういう人なのかと、改めて不思議になった。  十二で元服して、戦績が良いということで、射手の候補者として養育すると、長老会の部屋(サロン)に毎日来るよう申しつけられ、しばらくした後、彼はやってきて、俺が今日からそなたの兄(デン)だ、何かあったら頼って良いと、あっさりと言い、それっきりだった。  アズレル殿下の派閥に属するよう言われ、どうせそれ以外に選ぶ余地はなかった。乳母の死の一件以来、アズレル様は俺に、身命を賭して生涯仕えるのだろうなという態度だったし、それで仕方ないと思っていた。だからアズレル様の気まぐれな我が儘にかかり切りで、他の者たちがそうするように、仕える兄貴分(デン)に言いつけられて身の回りの世話をするとか、雑用をこなすようなことは、ほとんどしたことがない。長(デン)にとっては、自分は沢山いる弟分の一人だったろうし、雑用なら他の者がやったのだろう。  俺は射手になるのだから、そんな些細な雑用などは言いつけられないのだという、妙な奢りのようなものもあった。そうなのかと訊ねたこともないし、長(デン)は、そうだとも、違うとも分かるようなことは、一切言わなかった。  ただ、戦場での極意であるとか、英雄としての品位を保つための振る舞いであるとか、着るものへの気遣いであるとかを、時折嫌みなく教えられるだけで、それに改まって感謝したこともない。無意識に、それが当然だと思っていた。長(デン)は俺の後見人で、世話をするのが仕事なのだから、俺が射手として役に立つよう、ものを教えるのは当然だと思っていた。それが礼儀であるから、序列に従って平伏することはするが、そこに意味を持たせたことはなかった。  さっきもなぜもっと、深い謝意を顕してこなかったのだろうか。とんでもなく厄介な仕事を押しつけておきながら、逃げるように去った。長(デン)は確かに俺の兄貴分で、世話する義理があったかもしれないが、とっくに独り立ちして、自分が兄(デン)と呼ばれるような立場だというのに、今さら世話をしてくれと頼むというのは、改めて考えると、おかしい。  それに気づくと、恥ずかしくなってきて、イェズラムは誰もいない抜け道を、両手で顔を覆って早足に通り抜けた。俺はなんという、恥ずかしいやつだ。十八にもなって、兄(デン)に泣きつくとは。老獪な爺にあっさり騙されて、言うなりに長(デン)の寝込みを襲ったりして。許し難い馬鹿だ。  しかし、相談してみて良かった。今夜はいくらか、心軽く眠れそうな気がする。  いつも泥のように疲れてくぐる自室の入り口を、イェズラムはなるべく静かに押し開いた。  寝室ではリューズが眠っているはずなので、なるべく物音を立てたくなかった。あいつが起きると厄介だ。せっかく眠っていたのに、またしりとりに付き合わされたら、目も当てられない。  それで、できる限り物音を立てずに寝支度をして、居間のほうに用意されていた夜着に着替え、イェズラムは寝室の扉をそっと押し開いた。  当然のように、リューズは寝台の真ん中で寝ていた。  居候のくせに、なぜいつも真ん中で寝ているのかと、イェズラムはむっとした。せめて端に寄るとか、それくらいの配慮があっても良さそうなものだが、しょせんは子供のやることだ。目くじらたてても仕方なかった。  だがリューズは寝相が悪く、しかも今日も、なぜか夜具の上で寝ていた。うろうろ寝返りを打つうちに、布団の上に出てくるらしいが、どうやってそんなことになるのか、イェズラムには見当もつかなかった。  腹が冷えるだろうと、こちらは腹が立ってきて、リューズが寝ころんでいる夜具を掴んで勢いよく引き抜いてやり、眠っている体をごろりと端に転がしてやった。 「狭いんだよ」  それでもまだ大の字でいる弟に、イェズラムは小声で鋭く文句を言った。四つ五つの頃ならまだしも、十にもなろうかという今では、図体もでかくなり、リューズは嵩張った。寝付きは悪いし、寝相も悪いし、眠りが浅く、時には悪夢に飛び起きたり、寝言を言ったりもした。そして寝起きまで悪い。なぜ自分の部屋の、自分の寝台で、こいつに虐げられて寝なければならないのかと、イェズラムは情けなかった。  そう思う矢先から、寝返りを打ってきたリューズが、握った手で顔を殴ってきた。嫌々それを避けたが、そうやって逃げてばかりいると、いつも端に追いやられている。こいつにも早く、自分の居室を見つけてやらないと、俺は安眠できない。  玉座の間(ダロワージ)の対岸の、王族のための区画に、小さくてもいいから、血筋に見合った居室を与えてもらえるよう、何とかしてやらないと。そうするとアズレル様のご不興は買うだろうが、いつまでも亡霊のままで、ここに居候されては、そのうち俺の寝る場所がなくなる。少なくとも、もう、夜具はとられた。また寝返りをして戻っていったリューズが、布団を巻き取っていくのを、イェズラムはむかむかしながら許した。  腹を蹴られないように背を向けて、そのまま眠ろうと決め込むと、わっと驚いたような小声が聞こえ、リューズが起きたようだった。それにイェズラムは思わず舌打ちをした。俺がお前の眠りが妨げられないよう、どれだけ苦労したと思っているのか。 「いつの間に帰ってきたんだ、イェズラム」  寝ぼけたような声で、リューズが訊ねてきた。 「今だ。もう寝ろ。起こして悪かった」 「お前、酒臭いぞ。酒宴だったのか。兄上のところか。どうして俺も連れて行ってくれなかったんだ」  畳みかけるように文句を言ってくるリューズに、イェズラムは背を向けたまま、顔をしかめた。 「うるさい。もう寝ろ」  思わず小さく怒鳴ると、リューズは身を竦めたようだった。しかしそれには、幾分ふざけた気配があった。すでに怒鳴られ慣れていて、リューズにとっては屁でもないらしいのだ。 「疲れたのか、イェズ。俺が子守歌を歌ってやろうか」  大人ぶったような、ませた口調で、リューズが言った。 「うるさい。もう寝ろ」  もう一度同じことを、イェズラムは今度は、小声で呟いた。  リューズはそれで、歌いはしなかったものの、手を伸ばしてきて、こちらの頭を撫でた。その、まだ小さな手が、執拗に髪を撫でつけてくるのを、イェズラムは苛々して耐えたが、振り払おうという気はしなかった。たぶんそれは、リューズなりの感謝の表し方で、大真面目にやってるのだと思えた。 「イェズラム、お前も大変だなあ」  しみじみと、リューズは言った。  何も知らないくせに、なんだか可笑しくなるような、もっともらしさだった。 「あのあと考えたんだが……」  まだ頭に触れたまま、リューズはぼんやりと言った。 「楽園に行くんだったら、お前は、俺がいないほうがいいのかなあ。そのほうが面倒も少ないし、お前は楽なのだよな」  そう訊ねるリューズは、少し寂しいようだった。そんなことはないと、言って欲しいのだろう。遠慮したふうな事を言いながら、結局我が儘なのだ。 「もう慣れたよ。お前の面倒には。それが未来永劫続くと思うと、うんざりするが、でも仕方ない」 「兄弟だものな」  ほっとしたように、リューズが得意げに、そう結論した。  そうだなと、イェズラムは渋々思った。兄弟だからな。仕方ない。お前が心配なのも、必死で守ろうとするのも、どうにも仕方なく身に染み付いた習慣みたいなものだ。  やむを得ない経過だったとはいえ、まだ幼くて、乳母が恋しかったお前から、俺はそれを取り上げた。本当ならあの人から、まだまだ受けられたはずの愛情を、お前から取り上げたのだからな。  せめてお前にも、もうしばらくは、心配して、甘えさせてくれるような誰かが必要だろう。俺では口うるさくて、すぐに怒るし、楽園のようにはいかないが、それでもお前が俺を頼っている限りは、お前の兄でいよう。  だが、いつか、お前が次代の星として、天空に駆け上る日が来たらいいと思う。今はまだ、寝床でじわりと温かいだけの、暢気な子供だが、いつか灼熱に燃える新星として、目映く闇夜を照らす。その時はきっと、火炎術で静かに熱せられたものが、突然の発火点を迎えて燃え上がるのに似て、唐突にやってくるのだろう。その時にはもうお前は、気楽に怒鳴りつけていいような、暢気な弟ではなく、平伏して敬うべき主君になっているはずだが、それは仕方ない。縊られて死んで、冷たい骸になるのを見るよりは、ずっとましだ。  お前が明るく燃える時を見たいな。皆がその灯を見上げて、お前を慕い、崇めるのを、この目で見たい。何とかそうなるように、してやれないものか。  寝床の中で目を開いたまま、イェズラムはぼんやり考えた。  目が冴えたのか、リューズは寝台の反対の端で、まだ目覚めているようだった。 「さっき、長(デン)のところにいた」  イェズラムが話しかけると、リューズは側臥して、こちらに向いたような気配だった。 「長老会の長(デン)のことか?」 「そうだ。長(デン)にお前のことを話した。将棋が上手いと言ったら、対局なさりたいそうだ。明日にでも、長老会の部屋(サロン)へ行ってみろ。長(デン)がお前に、氷菓を食わしてくださるそうだ」  リューズに食い物をやるのは、今の王宮では命懸けだった。それをやると、アズレル様に睨まれる。しかし腹ぺこの子供がふらふら彷徨っているのを見て、放置できないと思う者は、沢山ではないが、少なからずいるらしい。その証拠に、リューズはイェズラムが出陣していて不在の間でも、餓死したりはしていない。その間には、アズレル様もご出陣で不在だからというのも、あるだろうが。  それでもこいつに、命懸けで餌をやる者はいる。それがこの世に、愛のある証拠ではないか。長(デン)も平気でこいつに氷菓を食わせるつもりのようだし。だからきっと、こいつにも希望はある。もしかすると、俺が思っているよりもずっと、強い可能性として。 「行っていいのか」  長老会に出向いて、氷菓を食っていいのかと、リューズが許可を求める口調だった。それがなんとなく、わくわくしたような話し声だったので、イェズラムは苦笑した。 「いいんじゃないのか。食い過ぎるなよ」 「うんうん、わかっているよ。楽しみだなあ。ありがとう、イェズ」  にこにこしたような声で言い、リューズは嬉しそうに礼を述べた。なぜ礼を言われたのか、良く分からない話の流れだったが、リューズにそう言われると、とてもしっくり来た。世話をした甲斐があったと、報われた気持ちになる。 「わかったら、もう寝ろよ。昼まで寝てたら、長(デン)を捕まえ損なって、氷菓も食い損ねるぞ」 「うん、もう寝よう」  リューズは意気込んで、夜具の下にもぐり、丸くなって目を閉じたようだった。  イェズラムは自分が思わず薄く微笑むのを感じた。  リューズがいると、寝床は狭かったが、いつも温かかった。遅くに疲れ果てて戻ると、寝床はじわりと温かく、今日も生きていたと、ほっとする。それに励まされて眠ると、どんな疲れもとれた。  だからまあ、兄弟で、持ちつ持たれつというところなんだろう。  しかしそれを言うと、こいつは果てしなく調子に乗るだろうから、当面は黙っていよう。こいつがもっと大人になって、多少は分別がつくまで。  そんな日が、いつかやってくるのか、今は想像もつかないが、いつかやってくるといい。  そう思って、イェズラムは耳を澄まし、隣から寝息が聞こえてくるのを、じっと待った。リューズはなかなか眠りに落ちなかったが、やがてのんびりとした呼気が聞こえた。ゆっくりと安らいだようなその息をしばらく数えてから、イェズラムもいつの間にか眠りに落ちた。  また朝が来て、激動する新しい一日が始まるだろうが、それまでは眠り、力を蓄えよう。そして早暁を告げる玉座の間(ダロワージ)の鐘の音とともに飛び起きて、また戦うのだ。運命と、王宮の蛇と、あるいは弱い自分自身と。  こいつを名君にして、俺もできれば、約束したとおりの大英雄になれるといいなと、イェズラムは思った。それはあまりにも大それた野望で、生きているのもやっとの身で思うには、あまりにも欲深い夢に思えた。  しかし諦めればそれまでだ。かつて遠視した王都を目指して旅立ったディノトリスとアンフィバロウのように、どんなに遠い目的地でも、その地が必ずあると信じて、そこを目指して決死の砂漠行に踏み出さなければ、未来永劫、奴隷のままだ。  だからきっと、そこへ到達すると信じて、今日は眠ろう。  そしてイェズラムは、何かいい夢を見た。  はっきりと憶えていないが、おそらくは、族長リューズ・スィノニムの玉座の間(ダロワージ)の、絢爛として美しい、名君の治世の夢だった。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「ある陰謀の顛末」(前編) -----------------------------------------------------------------------  無口な男だと思っていたが、付き合ってみると、そうでもなかった。イェズラムは気が抜ければ案外よく喋った。日頃の沈黙の反動みたいに。  たぶん、普段ほとんど喋らないのは、迂濶なことを言って、相手に弱味を握られないためだ。  宮廷では、ささいな一言が身の破滅を招くことがある。それを良く知っている者は大抵無口で、貝のように口が固い。平気で秘密を呑んでいられる点において、沈黙の男エル・イェズラムの右に出る者はいない。  そして、たまに気が抜けて口をきいた時の人の悪さが、案外ひどいのも、エレンディラが知る限り、他の男でイェズラムの右に出る者はいない。  たぶんそれを自覚していて、黙っているのだろう。自分の性格の悪さを、玉座の間(ダロワージ)で自ら暴露しないように。 「お前はよく食う女だなあ、エレンディラ。いつまで食っているんだ。下手な男より大食らいなのではないか」  会食の膳から平らげていると、先に食べ終えていたイェズラムが、心底感心したらしい口調で、突然の余談を挟んだ。  そういう自分は、同じかそれ以上の量を平らげており、しかも早飯だった。  小さな事だが、それは重要な点だった。イェズラムは健啖で早飯。しかも、どこでも眠れるし、眠らなくても平気だった。  それにひきかえ自分はと、エレンディラはいつも我が身を引き合いに出した。  食事が遅い。朝は眠い。神経質なのか、戦陣では目が冴えて眠れない。  さっさと食い、さっさと戦い、さっさと寝る男が、宮廷でも戦場でも自分を出し抜くのを目の当たりにし、ほぞを噛みつつ考えてみると、エル・イェズラムは宮廷でも戦地でも、容赦なく勝つための闘争の申し子だ。  彼と同じか、それ以上に努力もし、能力もあるはずの自分が、この男に勝てないのは、案外こういう、食べるのが遅いというような、些細なものごとが響いているのではないかと、エレンディラは疑っていた。  それを証すように、イェズラムはもう、食べ終えて書面を読んでいる。  食いながら読むような自堕落を嫌い、この男が一緒に食事をする誰にもそれを許さないので、このわずかな時間差に、また一歩先へ行かれるわけだ。 「わたくしは大食なのではありません。ゆっくり食べたいだけです」  まだ食べながら、エレンディラは、つんと澄まして答えてやった。イェズラムは膳をはさんだ向かいで、書面を見ながら頷いていた。 「そうか。それでこの布陣図の件だがな、将軍が右翼を譲らないので困っている。リューズは魔法戦士隊を突入させたいらしいが、将軍が怖いらしい」  布陣図を見せて、イェズラムはとうとうと話した。わたくしはまだ食事中ですと、エレンディラは口を挟もうとしたが、相手が話を継ぐほうが、一呼吸早かった。 「それでな、エレンディラ。お前が部隊を率いて右翼へ行け。そして現場の判断で突っ込め。部隊にはお前の弟(ジョット)どもをそろえていい。成功したらリューズは報償を出すし、失敗しても責任は問わないらしい。どうだ、いい話だろう」  にこりともせずに、イェズラムは話した。  弟(ジョット)どもと言っても、エレンディラの派閥にいるのは、みな女戦士だった。宮廷での慣習に従い、男子のように遇されるだけだ。 「それで将軍は納得されるのでしょうか。魔法戦士がお嫌いなのに?」  将軍がお嫌いなのは、魔法戦士ではなく、イェズラムだ。卵と鶏で、どちらが先かは謎だが、とにかく貴族出身のその将軍が、長老会のイェズラムを敵視していることは誰もが知る事実だった。 「納得は、しないだろうが、あいつは女に弱いらしいから、お前なら許すだろう。戦闘で怖くなって混乱したとでも言って、涙のひとつも見せてやれよ」  食後の果物を口に入れかけたまま、エレンディラはあんぐりとした。 「わたくしは、女ではありません。あなたと同じ英雄です。泣き落としなどしません」 「化粧してるだろう」  まっすぐ目を見て、イェズラムは断言した。  確にしていた。エレンディラは桃を食べた。食事をして、紅が落ちているだろうと、不意に気になった。ゆっくりと果物を食べ終えてから、エレンディラは反論にとりかかった。 「それは私の趣味です。あなたにとやかく言われる筋合いではありません」 「とにかく、お前はせっかく綺麗な顔をしてるから、それを使え。必要なら将軍の夜の相手でもやってやれ。それで話が円滑に行くなら、安いもんだろう」  けろっとして言う相手に、エレンディラは目を瞬いた。イェズラムはこちらが同意するものと思い、返事を待っているらしかった。 「あのですね……」  口直しに水を飲み、エレンディラは杯についた紅を懐紙で拭い、ついでに口許もふいた。 「ひとつ問題がありますわ」 「なんだ、それは」  見当もつかないという顔を男はしていた。  この鈍い男の鉄面皮を、無口で渋いと思う馬鹿な小娘が、派閥の中にはいるらしく、そんな話をしてるのを耳にした事がある。  嘆かわしいことだと、エレンディラは思い、確かになんの甘さもない男の顔を見返して、答えを返した。 「わたくしは処女です」  エレンディラがきっぱりと伝えると、イェズラムはいっとき虚脱したような真顔になって、それから盛大に顔をしかめた。 「嘘だろう」 「本当です」 「何歳なんだお前は」  歳は知っているはずだった。子供のころから競い合ってきた間柄で、毎日、長老会の部屋(サロン)で顔を合わせていたのだ。  別に、誕生日ごとに歳を数え合うような、微笑ましいことは一切無かったが、イェズラムはずっとこちらの歳を知っていて、それでずっと年上風を吹かせてきた。  だからこれは質問ではなく批判だ。エレンディラも顔をしかめた。 「まずいぞ、それは。そんな体で行ったら、懐柔するどころか、なめられて、お前の負けだろう。なんで誰か適当なのと、さっさと済ませておかなかったんだ。何かにつけ後手だなあ、お前は」  どこから怒っていいやら、見当もつかない話だった。仕方ないので、エレンディラは質問の部分にだけ回答した。 「誰か適当なのがいなかっただけです」 「誰にも口説かれなかったのか」  余計なお世話だった。 「口説かれませんでした」 「お高くとまりすぎで、可愛いげがないからじゃないか。お前は昔から、長老会の絨毯を踏んだことのない者は、人ではないみたいな顔で、偉そうだったろ。それで男がその気になるわけがないだろう」  果てしなく余計なお世話だった。諭すように言うイェズラムの口調に、エレンディラは自分のこめかみが、ぴくりと震えるのを感じた。しかし相手はそんなことにはいっさい気付いていない様子だった。 「誰も来ないなら自分で口説けばいいだろ。小娘みたいにぼけっと待ってないで。お前は見た目はいいのだから、誘えば誰でもついてくるさ」  請け合うイェズラムの顔を、エレンディラは恨めしく見つめた。昔から時折、この男は自分に、お前は容色がいいという話をする。最初、お前は美しいなと言われた時、ぎょっとしたものだったが、それが事実だから言っているだけで、どうも深い意味はないらしかった。無礼極まりない話だった。  この男は平素から、人を誉めるのに衒いがないらしく、誰にでも、お前はここが良い、ここが優れていると、教えてやっているらしかった。それに自信を与えられるせいか、イェズラムの舎弟(ジョット)たちは、どうにも居丈高で、鼻持ちならない。兄貴分(デン)の権勢を笠に着て、エレンディラの派閥の娘たちにも手を出してきて、泣かされたり、じたんだ踏まされたり。まったく、ろくな男がいない。 「自分から誘うのも難しいのです、私の場合。まずい相手を選ぶと政治的な敗北ですから。どうしたもんかと思ううちに、ますます難しくなってきて、今に至っているのです」  心底唖然という顔をしているイェズラムを、エレンディラは睨んで話した。わたくしにだって、派閥の長(デン)として、面子があるのです。他の娘たちのように、しょうもない男にひっかかって、めそめそ泣いている姿など、誰にも見せられないのです。誰もが、さすがはエル・エレンディラと納得するような相手で、なおかつそれが、私の権威を高めるような男でないと、相手にしてやるわけにはいかないのです。  たとえばと、幾度かは絞り込んだことのある玉座の間(ダロワージ)の人物一覧を、エレンディラは頭の中で引っ張り出した。様々な逡巡と試行錯誤の朱墨が入ったその表で、最後に残る名前はいつも同じだった。  わたくしが敗北しても、新たな恥にならない男。そんなものがいるとしたら、それは、これまでの生涯でたったひとり、わたくしを打ち破った男。かつて最後まで長老会で競い、私の人生の全てと思えた、新星の射手の座を、さっさと持っていった男。それは今、目の前に座っている、この男。 「この際ですから、あなたでいいです。エル・イェズラム。どうせ秘密をばらしましたし、将軍の件もある。私にそんな話を持ってきた責任がありますわ。あなたが問題点を解決してください」  この数年来、先延ばしにしてきた提案を、エレンディラは持ち出してみた。  イェズラムは驚きもしない渋面のままだったが、しばし沈黙して、杯に残っていた水を飲んだ。 「眠気も一気に吹き飛ぶような話だ」  悔やむように言って、イェズラムは顔をしかめたまま伏し目に目をそらし、何か計算しているような面持ちになった。  眠かったのかと、エレンディラは驚いた。そういう風には見えなかった。いつものように、さっさと話を切り上げて、それじゃあ俺は寝ると、言わなかったではないか。 「あのな、エレンディラ。この際だから言うが、俺はこの三日ほとんどまともに寝ていない。いくら二十二年も処女だからといって、三徹明けの男とやろうというのか、お前は」  なんだか無茶苦茶な話だった。  現況を客観的に見ようと思い、エレンディラも渋面のまま首をかしげた。  なにをしていて三徹明けなのかは、詮索しても分かりかねるが、とにかく三日も寝ていない男が、初めての相手というは、なんとなく厭な予感がした。この男は本当に、暇ができればどこでも仮眠するし、それを誰が見ていようが、まったく気にしていないらしい。  いや、全くというのは不正確かもしれない。イェズラムは自分の敵の見ている前では眠らない。だから、どこでもという訳ではない。自分の見ている前では、よく寝ている。そんなような気が、エレンディラにはしていた。だから、わたくしの部屋の寝床でも、この男はぐうぐう寝るに違いない。  さっさと戦って、さっさと寝るのが得意技だから。  それは何とも。理想からほど遠い。きっと、わたくしは、惨めな気持ちになるのだわと、エレンディラは想像して、さっさと惨めな気持ちになった。 「いやならいいです。別にわたくしは、あなたに頼み込んでいるわけではありません。他をあたります」 「それだと話が堂々巡りしているだろう。お前は二十二年も他をあたって、誰もいなかったから、未だに手つかずなんだろう」  うっ、とエレンディラは呻いた。その通りだが、よくもそんな事が言える。 「二十二年も、と言われるほど、二十二歳は手遅れではありません。いやならいいと言っているのです。試しにちょっと提案しただけです。派閥も競合していないあなたなら無難だし、年も釣り合うし、どうせ秘密は話したし、秘密だけ渡して、わたくしの弱みと思われるよりは、都合がいいかと思いついただけです」  ぺらぺらと話し、エレンディラはまた水を飲んだ。  なんの話だったか。右翼から突入がどうのこうのだった。それで将軍がどうのこうの。困っているので、共謀したいといって、暇がないから昼飯時に。しかし広間(ダロワージ)では人の耳もあってまずいので、派閥の部屋(サロン)の一室で。半時しかないからと言って、慌ただしく呼びつけられて、慌ただしく食事をしたのだった。  そしてこんなことに。 「別にいやではない。お前は美しい女だし、うまい話だ。ただな……」  考える顔をして、イェズラムは一呼吸黙った。 「明後日……」  そしてまた一呼吸。 「いや、やっぱり三日後の……」  そしてまた言いよどみ、頭の中の予定表を繰る顔をして、イェズラムは目を閉じた。 「何時かわからんが、深夜でもいいか」  半時しかないから、急げといって、慌ただしく現れるのが、目に見えるような気がしてきて、エレンディラはあんぐりとした。 「わたくしは、夜は極力寝ます。肌が荒れるので。なぜ、あなたの予定につきあって、いつになるか判然としない深夜帯の来訪を、待たなければならないのですか」  内心ちょっと震えながら、エレンディラは訊ねた。 「お前が、俺を付き合わせてるんだ。だからお前が待つのは、当然だろ」  さも当然そうな真顔で、そう言われてみると、それが正論なような気がしてきた。それに、これ以上なにか身の毛もよだつようなことを、この男に言われたくなかった。 「わかりました。ではそれで手を打ちます」  渋々と、エレンディラは同意した。イェズラムはかすかに頷いた。 「右翼での強行突入の件は、それで借り貸しなしだな」  は、と端的に訊ね返す自分の声が、ぽかんと間抜けに響いて、エレンディラはさらにぽかんとした。 「なぜ、そうなるのです? あなたの頼みをきいて、無茶な突入をやろうというのですよ。その後始末のために、あなたとですね、その、一夜をともにしようと、そこまでやるわたくしに、あなたへの貸しはあっても、借りはないはずです。ましてですね、まして、わたくしは初めてなんですよ」 「それがどうした、それはお前の不始末だ」  いかにも大失敗みたいな言われようで、エレンディラはぎょっとした。 「二十二歳でも処女は処女ですよ。それをとっとと早食いして、一片のありがたみも責任も感じないような男なのですか、あなたは」  思わず疑問系で言った自分を、エレンディラは愚かだと気付いた。こいつはそういう男だった。もしも、それに有り難みや責任など感じようものなら、自分の弱みになる。そういう時には何も感じない。本当に感じないのか、感じていないふりをしているのかは、本人にしか分からないだろうが、とにかく傍目にはそういう男だ。 「都合のいいときだけ、女になるな、エレンディラ」  批判する口調で言われ、エレンディラはまた、ぐっと詰まった。 「俺とお前は同じ英雄で、対等なんだろ。処女がそんなに偉いのか。だったら俺だって童貞だ」  しれっとした真顔で、イェズラムは対抗してきた。 「よくもそんな見え透いた嘘を」  ぎゃっと叫びたい気持ちで、エレンディラは声を押し殺して答えた。  別に確たる証拠があるわけではないが、とにかくそれが嘘だというのは確かだった。小娘たちの部屋(サロン)の噂にのぼるような、出所の怪しい噂は、いくつも耳に入っていた。  しかし大声でなじるわけにもいかない。そんなことをしたら大恥だ。  なにしろここはイェズラムの派閥の部屋(サロン)で、隣室にはこの男の手下どもが、うようよいるのだ。こんな剣呑な話題に聞き耳を立てられないうちに、さっさと話を切り上げて、とっとと去らねば。 「どうして嘘だと分かるんだ。やってみても血が出ないからか。それっぽっちのことで俺の純情を踏みにじるとは、お前はそういう女だったと言いふらしてやろうか。しかも二十二にもなって……」 「もういいです! わかりました。借り貸し無しで結構。もともとリューズ様からのご依頼でしょう。あなたなんかどうでもいいです。わたくしは玉座のために身を挺してお仕えするだけです」  すっくと立ち上がって、エレンディラは出ていくための扉を睨んだ。 「帰ります。ごきげんよう」  慣習に従って男装した長衣(ジュラバ)の裾を払って整え、エレンディラは相手の返答を待たずに歩き出した。  こちらが聞いていないせいか、イェズラムは挨拶をしなかった。  聞いていないのだから、なにも言う必要はないし、言ってきたところで無視してやるが、それでも何も言わないのは無礼ではないのか。  そういう気がして、戸口で足が止まり、エレンディラはじろりと振り返った。  膳の前の席で、イェズラムが笑いを堪える顔をしていた。 「お前が、処女か」  それがたまらん冗談だというように、イェズラムはつぶやいて、突如として膳にがくりと項垂れ、一応こらえているつもりか、肩を震わせて笑いだした。余程耐え難く可笑しいらしかった。この男が声をあげて笑っているのを見るのは、滅多にないことだった。 「誰にも言わないでしょうね」  かっとして、エレンディラは思わず叫んでいた。イェズラムは笑いながら首を横に振った。 「誰にも言うか。言ったらお前の弱みにならないじゃないか。一生、俺だけの秘密にしておくよ」  そう言われて、エレンディラはざっくり突き刺さる矢を受けた気分がした。 「それにしてもお前が俺に惚れてたなんてなあ。まったく想像を絶する話だよ。俺も精々気合いを入れて行くから、お前も可愛い服でも着て待ってろ」  何がそこまで可笑しいのか、イェズラムはひいひい笑っていた。  これ以上の致命傷を負わされないよう、エレンディラは可能なかぎりとっとと去った。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「ある陰謀の顛末」(後編) -----------------------------------------------------------------------  結局、右翼での強行突撃は行われた。  族長リューズは起死回生の新戦法として、魔法戦士だけで組織された突撃部隊を敵の中央に切り込ませる作戦を、ちかごろ盛んに試していた。  しかしそれは旧来の戦い方を守る軍部の権力層には不評もあり、将軍たちの中には、あからさまな抵抗を示す者も少なくない。  それを絶対的な権力で押さえ込むにしては、族長はまだ若く、即位したてで、毎度相手がひれ伏すとは限らなかった。族長冠にも畏れ入らず、玉座の間(ダロワージ)か戦陣で、うるさく噛みつく輩もいた。  そんな熱のある反発をされると、族長は大抵、やんわりと笑って、そなたは怖いやつよと、からかうような軽口を与えるだけで、その場から撤退していた。しかしそれでは埒があかない。  そんなときにご登場なさるのが、その族長に戴冠させた張本人、武闘派の魔法戦士エル・イェズラムで、正面きっての戦闘から、夜討ち朝駈け、小狡い奇襲まで、あらゆる戦法を駆使して、族長の意向を通させる。  イェズラムは守護生物(トゥラシェ)の襲い来る敵陣よりも、味方の陣営のほうに、敵が多いと言われていた。守護生物(トゥラシェ)は彼だけを狙い撃ってはこないが、味方の中にはそういうのがいる。  乱戦のどさくさで、どんな矢が飛んでくるやらと、イェズラムはいつも冗談を言っていたし、彼の派閥の者たちは、そのきつい冗談に笑いながら、いつでもその長(デン)に複数の治癒者をはりつかせていた。  それが本当に使われているのかどうか、イェズラムは戦場ではいつも頑健で、負傷していても、していなくても、変わらずけろっとしているので、想像がつかない。どうせ、どこにいようが、自分が血を流すより、相手に流させるほうが、得意な男だ。  エレンディラは、負傷した自分を見舞いにやってきた男を、天幕の中の簡単な寝台に横たわったまま見上げた。  赤糸が血のような具足姿で、まだ髪も乱れたままのイェズラムは、どこか爛々とした目で、煙管を吸っていた。戦って、戻ったばかりとのことだった。この男は戦闘中、自分から最も遠い左翼を預かり、そこで自分と同じように敵陣に突撃したはずだった。 「勝ったぞ、エレンディラ」  端的に自軍の勝利を伝える相手に、エレンディラは頷いて見せた。 「そうですね。それで、族長はご無事で」 「ぴんぴんしている。玉座の間(ダロワージ)にいるときより顔色がいいくらいだ」  顔をそむけて、イェズラムは煙を吐いた。それからやっと、寝台のそばに用意された腰掛けに、腰をおろした。 「将軍はさぞかしお怒りでしょうね。泣き落としに参りましょうか」  苦笑を向けて、エレンディラは訊ねた。  傷はあるものの、痛みはなかった。戦闘後の魔法戦士には、麻薬(アスラ)が大量に与えられる。それで気だるくて、横になっていただけで、つらいわけではなかった。  逆に、酔いのせいで気分が高揚していて、今ならどんな芝居も打てるだろう。日頃ならありえないようなのでも。 「その必要はない。将軍は、名誉の戦死を遂げられた」  煙管から麻薬(アスラ)を吸いながら、そう教えるイェズラムの顔を、エレンディラは目を瞬いて見つめた。 「どうしてですか」 「喉に自軍の流れ矢を食らったらしいよ。急げば間に合ったろうが、右翼からお前が治癒者を根こそぎ連れて、突撃していった後だったからな。気の毒だが、仕方がないだろう。死ぬときは死ぬのが、人の定めだからな」  答えるイェズラムが、いやに饒舌なような気がして、エレンディラは彼が酔っているのだなと思った。 「まったくあの、うるさい爺が、喉を射抜かれて、一言も発せずに死ぬとはな」  気味が良さそうに言い、イェズラムは薄く笑っていた。  将軍は爺というほどの歳ではなかったが、イェズラムは、壮年以降の者を老境にあるように揶揄する癖があった。竜の涙である自分たちにとって、三十代は晩年で、四十代は手の届かない死の向こう側だった。それより先を生きていく者たちのことが、彼は無意識に許せないらしかった。 「その矢は、あなたが射たのですか」  エレンディラは試しに訊ねた。 「どうやって射るんだ。俺は左翼にいたし、敵陣に突撃していた。将軍の死を知ったのも、ついさっきだぞ」  そんなことは言われるまでもなく推察できる。  本人が射たかどうかという話ではない。  どうしてそんな無駄口をきいて、とぼけているのですかと、エレンディラは訊ねる目をした。  あの将軍は、長らくあなたには敵で、うとましかったでしょうし、この機に始末したのですか。せっかくの、この勝利感に、水をさされたくなくて。  あるいは、今さら、私の泣き落としを見るに堪えない気がして?  そういう目に応え、イェズラムは深いため息をついた。 「あのな、エレンディラ。お前の期待はわかるが、俺は自軍の将を戦闘中につけねらいはしないよ。それでもし敗北したら、どうやって責任をとるんだ。俺たちが争うのは、部族を勝利に導くためで、己が勝つためではないだろう」 「あなたがそんな殊勝なことを言うなんて、感銘を受けましたわ」  エレンディラは皮肉のつもりでそう応えたが、口に出してみると、案外本当のことだった。  イェズラムは争うとなると、鬼畜のごとく敵を撃つが、それは総じて玉座のためで、ひいては部族のためだった。 「将軍の死は、言うなれば、お前への死の天使の加護さ。王都に戻ったら、返礼の祭礼でも捧げろ」  冗談らしい口調ですすめ、イェズラムは余裕の顔で、煙管を吸っていた。その土埃に汚れた額には、汗が浮いていた。  それが、彼が苦痛をこらえているせいか、薬の副作用に酔っているだけか、ただの戦闘後の気の高ぶりか、何なのか分からなかった。 「損をしたな、エレンディラ。無駄な血を流して」  煙を吐くイェズラムは、顔をそむけるため、こちらから目をそらしていた。  エレンディラは考えた。  約束の日の深夜、ずいぶん遅くなってから、イェズラムは居室を訪れた。  事は上首尾だったが、思ったより血が出て、男は参ったらしかった。それしきのことで、とっとと帰るわけにいかなくなったのか、彼はしばらく居ついており、先に寝こけたのはエレンディラのほうだった。  よっぽど気まずかったのか、イェズラムは後朝の文を寄越してこなかったし、用件があって顔を合わせれば、忙しいと言った。 「別にかまいませんよ。わたくしも流れ矢に当たったと思って、我慢します」 「我慢」  煙管をふかして、イェズラムは感慨深そうに、そこだけ反駁して言った。 「痛烈だよなあ、お前の攻撃はいつも。お前に手を出そうという男がいないのも当然だよ」  深く納得したように、イェズラムが言うので、エレンディラは顔をしかめた。 「失礼な男ですね、あななたは。突然なにを言うのです」 「お前とそれらしい雰囲気になっても、しょうがないだろう。お前に俺に匹敵する自制心があるなら止めはしないが、やめとけ、お前は案外、可愛い女らしいから。化けの皮を脱がれて、俺は死ぬかと思ったよ。お互い血迷って派閥の運営に差し支えるようじゃ困るだろ。治世はまだまだ、伸るか反るかの正念場だぞ」  眉間に皺を寄せた顔で、独白めかして言い、イェズラムは椅子から立った。 「とにかく、今はお前の仕事はなくなったから、ゆっくり休養するといい。それで回復したら、化粧してもいいが、脇目もふらずに仕事をしろ、エレンディラ。お前は男で、派閥の長(デン)で、戦場では雷撃の英雄で、王宮では玉座を支える俺の共闘者。そうだろ?」 「そうですよ」  今更なんでそんなことを言うのだろうと、エレンディラは混乱して答えた。 「そうだよ。だったら俺がお前に無礼なのは、我慢しろ。俺は誰にでもこうなんだ。お前にだけ、他の顔はできないんだよ」  そんな不調法なと、エレンディラは思った。  しかし確かに、考えてみれば、エル・イェズラムはどこか不器用なようなところのある人物だった。  常勝不敗のような顔をして、常に居丈高ではいるものの、実際に不敗なわけではなかったし、単に執念深く勝つまで戦うだけだった。芯から武闘派で、懐柔するとか折れるとか、そういったことは滅多にできない。にっこり笑えばすむところを、持ち前の気位と鉄面皮が阻む。それで無駄な苦労をしている。  そんな愚かな有様が、彼を長(デン)として崇める若造や、うちの派閥の小娘たちには、渋いと思えるらしかった。なんて嘆かわしい、馬鹿な子たちと、傍目に見ていてエレンディラはいつも腹が立った。  しかし不思議なもので、長老会の部屋(サロン)で争っていた頃、ただひたすら憎かったこの相手が、ある日きゅうに、ふと思いついたように、お前は美しいなと言うので、その驚きに打たれて、エレンディラは気づいた。  そういえば、この男は頭も良いし、教養もあり、序列も申し分ない。それに見かけも悪くはないし、戦場でも、王宮でも、脇目もふらずによく働く。皮肉屋で、口は悪いけれど、目下の者には結局優しいし、食事は早いし、着ているものの趣味もいいし、それに背も高い。いいところばかりだと。  もし、ほんのちらっとでも、わたくしに微笑んで見せれば、おそらくは、それで完璧。これまで争ってきた確執も、憎しみも、全て甘く溶けて、わたくしは恋に落ちる。ほかの女たちが、いつもやっているという、なんとも甘く、時に切ないらしいその感覚に、どっぷり身を浸して酔える。それによって、この男に打ち負かされた敗北感から、癒されることができるかもしれない。  そういう予感がするものの、イェズラムは一向に微笑みはしなかった。こちらには勿論だが、他の誰にも、エレンディラの見る限り、そういう顔はしなかった。どこかよそでは、隠れてにこにこしているのかもしれないが、外面を見る限り、そんな姿が想像もつかない、むすっと不機嫌な顔ばかりだ。  日頃その顔と鼻を付き合わせており、時々ふと、この顔が誰か別の、意中の女には、余裕でにっこり笑うのかと思うと、エレンディラはなんとも腹が立った。都合の良いときだけ、お前は美しい女だなと言い、また別の都合がある時には、お前は男だろと言う。そんな身勝手を許してなるものかと思い、先だって部屋にやって来た時には、軽口を真に受けて、女の服を着ておいてやった。  それに相手か怯んだのを見て、それには勝算がある気がして、エレンディラは日ごろ鍛えた強気を引っ込め、痛いといって泣いてやった。実は本当に泣けたのだ。十五、六の小娘でも、みんなやっているような事なのだし、どうせ大したものではあるまいと、たかをくくっていたものの、実は大したことだった。  エレンディラの迫真の泣き落とし作戦の効果のほどは、かなりのものだった。イェズラムは難しい顔をして、何だかよく分からない汗をどっとかいていた。そして結局、ほとんど一言も喋らなかった。それはこの男が、相当に追い詰められたことを物語っていた。  しかし、結局それきり、にこりともしない。  同衾すれば、さすがのイェズラムも、優しげに笑うのではないかと思ったが、当てが外れた。男がみんな、そういう時に、にこにこ腑抜けた甘い顔をしているわけではないのかと、拍子抜けがした。 「あなたは一体、どういう女が好みなのですか、エル・イェズラム」  去りたそうな男に、エレンディラはものの試しで訊ねてみた。ここには他の者もいなかったし、戦陣の慌しさと気楽さが相まって、案外イェズラムの口も軽いのではないかと思えたからだ。 「そうだなあ……深く考えたことはないが」  あわただしい夜の天幕の外を見ながら、イェズラムは燃え尽きた煙管をまだ銜えたまま、考え込む難しい顔をしていた。 「もしかすると、頭が良くて、美しい顔をしていて、俺に敗北すると本気で悔しがる、だらだら飯を食うような女ではないかという、いやな予感がした夜はあったな」 「はあ……、それは、わたくしのことですか」  びっくりして、念のため、エレンディラは訊ねた。  するとイェズラムは首を横に振った。 「いや、もののたとえだ」 「そうでしょうか。まるで、自分のことのように聞こえましたが」 「それはお前の自意識過剰だろう。そうでなければ、初物を食わせてもらった礼だ。ちょっとばかり薹(とう)が立ってたが、それもまあ味のうちだったよ」  意図して嫌味を言っているのだと、考えるまでもなく分かったが、意図されたとおり、エレンディラはむかっとした。  それを隠さず顔に出すと、イェズラムは微かな短い息のような笑い声をもらし、照れたように笑った。  今まで見たことがない顔だった。 「それではな、女部屋の長(デン)、俺は今夜も寝る間もなく働くが、お前は綺麗な肌が荒れないように、極力眠るがいいさ」  親切にも休養をすすめるイェズラムは、すでに、エレンディラのよく知る意地悪そうな顔だった。さっさと態勢を立て直したらしい相手を、エレンディラはあきれて睨んだ。 「わたくしも働けます、大した負傷ではありませんでしたから」 「無理するな。少々気張ってみたところで、俺に勝てるわけではないから」  そう答え、男は寝ていろ寝ていろと宥めつつ、悠々と天幕を出て行った。  エレンディラは、寝台に座ったまま、あんぐりとしてその後姿を見た。  王宮での宮廷服姿もまあまあ良かったが、戦地での具足姿のほうが、もう一段、男前なようだった。  英雄たちが戦うと、派閥の娘たちはそれを戦友の顔をして眺め、陰ではいかにも尻軽にきゃあきゃあ言っていた。それを敵視し、男どもより強力な魔法を振るうわが身を誇りとして、つんと澄ましているものも中にはいるが、自分は派閥の長(デン)として、一体どちらに共感したものか。  エレンディラにはその双方の気持ちがわかった。  イェズラムの、守護生物(トゥラシェ)殺しは格好がいい。あの火炎術には心底痺れる。そういう小娘の気持ちも正直いってよく分かるが、しかし遠い左翼に燃える火を見て、こちらも突撃しなければとエレンディラは思った。  あいつに遅れをとってはならない。確かにわたくしの魔法では、一撃で敵の巨獣を屠ることはできないが、わたくしにはわたくしの戦い方がある。戦場に立つわたくしのことを、詩人たちはいつも、美しいと言った。  遠望した右翼に閃く、わたくしの雷撃を見て、あなたはそれをどう思った。さすがは我が好敵手よと、感嘆し、あるいは、己の権勢に迫る力に身が引き締まり、それとも、友軍の振るう力の強力さに、深い安堵を覚えたか。  そのどれだったろうかと、もしも訊ねれば、あの男はきっとこう言う。  ああ、すまないな。戦闘で忙しくて、見ていなかった。  そうでございましょうとも、と、エレンディラは想像の中の無粋な顔に、うなずきかけた。  しかし見ている。実際には。  そして、あなたがわたくしの雷(いかずち)を美しいと思い、俺も戦わなければと戦意を鼓舞されたなら、それでこそ、わたくしの敵。そうでなければ、争う価値がない。  この度の戦では、どちらが一本とられたかと、エレンディラは分析し、ちらりと思った。  今回はわたくしの負けかもしれない。  さっきの恥ずかしげな笑みは、大変良かった。  全然渋くはなかったけれど、見れば小娘たちも、きゃあきゃあ喜んだろう。  しかし多分いまのところ、あれは滅多にない見ものであり、今回のわたくしの戦利品。それに心行くまで勝ち誇っていられたら、多分、大勝利だったのだろうけど。  やけっぱちのため息をつき、エレンディラは枕を抱いて、ふて寝の構えに入った。眠いから寝よう。せっかくの大勝利なのに。  照れたふうなあの笑みを思うと、胸が切なかった。まるで、お前は可愛いと言っているようで。切なく胸が苦しい。  きっとお腹がすいているせいだわと、エレンディラは決め、目覚めたら何を食べようかと、夢中で思い巡らした。腹が減っては戦はできぬ。  夜っぴて騒ぐらしい男どもの声が、陣営にうるさく響いていた。  布団をかぶり、この馬鹿どもがと、エレンディラは呟いた。  そして寝付かれぬ一人寝のまま、戦場の夜は更けた。  慌しく、激しい、血の滾(たぎ)るような灼熱の夜だった。 《完》 _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2010 TEAR DROP. 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