掲載サイト:TEAR DROP. ( http://www.teardrop.to/ ) _______________________________________________________ =================================== カルテット 番外編 =================================== ----------------------------------------------------------------------- 「湾岸の風」(1) -----------------------------------------------------------------------  私の名は、テル。  私は風。  語るべき物語を、探し求めている。  血相を変えた男達に連れていかれた時、私は少女だった。  気付くと暑い砂浜に裸足で立っていて、潮風に吹かれた長い髪が、裸の背をやさしくなぶるので、自分がなにも着ていないのだと分かった。真昼の太陽に焼かれた砂に埋もれて立っている、白いくるぶしが、まだあどけない。  頭がぼうっとしていて、恥ずかしいという気が起こらない。貝殻混じりの白い砂浜は、甘い花の香りがして、あまりにも綺麗だった。  ここ、どこなんだろう。  のどが乾いて、座り込みたい気分になってきた時、彼らは馬に乗ってどやどやと慌てたふうにやってきた。  みんな褐色の肌と青い目をしていて、私を見ると、うわあどうしようという顔をした。私が裸だったからじゃない。私の額に、なにかまずいものがくっついているらしかった。  息を止めているような難しい顔をして、先頭にいた若い一人が、私のほうへやってきた。身につけていた薄地の外套を脱いで、彼は盗んだ彫像を隠すように、私の体をそれで包んだ。  私はぼんやりと彼の目を見つめた。海みたいな、吸い込まれそうな青だった。 「ここ、どこなんですか」  たずねてみてから、言葉が通じるかなと思った。  彼らはみんな、時代がかった服装をしているし、剣をさげていた。よく見れば耳までとんがっている。この場で私をとって食いはしないみたいだけど、あとから煮て食うぐらいは、するかもしれない。 「……サウザス」  私の額を見つめ、たっぷり迷ってから、青い目の男は答えた。  これって言葉が通じているのかな。自分より高い位置にある彼の顔を、私はじっと見上げた。ほかの人と違って、この人だけが額に宝石のついた輪っかをしている。さては偉い人だな。 「私、名前はテルです」  とりあえず名乗っとけ。お辞儀をして、ずり落ちそうになった借り物の外套を、私は慌てて押さえた。砂浜の空気と同じ、かすかに甘い香りがした。 「テル……」  疑わしそうに呟いて、彼はまた一呼吸迷った。それから、かすかな声で続けた。 「あなたは神殿種か?」  私は答えようとして、乾いた唇を開いたけど、答えるべき言葉を思いつかなかった。  自分の名前のほかには、ほとんど何も憶えていなかったから。  私は白紙だった。また白紙に戻っている。その一行目には、こう書かれていた。  私は小説の主人公だ。  だけど私の小説は、まだ書かれていない。  気付くと、私はどこか知らない世界にたたずんでいた。  私はその場で彼らに連行された。  素っ裸の女の子が、剣を持った男達数人に拉致されるなんて、考えてみれば大変なことだけど、あのまま砂浜に放置されていたら、私は熱射病にでもなって倒れて、下手すると命に別状ぐらいはあったかもしれないから、助けてもらったんだと思ったほうがいいかもしれない。  私に外套を貸してくれた男は、イルスと名乗った。イルス、なんとか、かんとかだ。長い名前が後に続いていたけど、そっちのほうは忘れてしまった。彼もそのことは全然気にしていないようだった。  連れて行かれた先は、りっぱなお屋敷で、どうやらそこはイルス・なんとか・かんとかの家のようだった。門のところで待っていた人たちが、彼に「お帰りなさいませ」と言ったからだ。  拉致ってきた娘っこを連れて入るにふさわしく、外套を私の頭からすっぽりと覆い被せたまま、彼は私を横抱きにして足早に門をくぐった。迎え出た人たちに、「水、風呂、着替え、それから食事を」と早口に言いつけた。言われた彼らは黙って頭をさげた。  やっぱり偉い人なんだ。イルス・なんとか・かんとか。  お姫様抱っこで廊下を突っ走られながら、私はそう思った。  ところで、どうしてこの人走っているんだろう。なにをそんなに焦っているの?  外套の端をめくって、ちらりと盗み見た彼の表情は、かなり必死だった。  爽やかな果物の風味のする水をたっぷり飲ませてもらいながら、私はまさにお姫様気分で、ひろびろとした浴槽につかった。侍女っぽい人たちが体を洗ってくれるし、いい香りのする油で顔のマッサージまでしてくれる。まるで天国。  爪まで磨いてもらって、すっかり生き返った私は、用意されていた白い裾の長い服を着付けてもらった。すらりと体の線の出る服で、大きめに開いた胸元に、花のような飾りがたくさんついている。綺麗だけど、どことなく子供っぽい服だった。  そういえば私、いま少女なんだった。壁にある大きな姿見にうつった自分を見て、だいたい十五歳くらいだろうかと、見当をつけた。  うす赤く日に焼けた肌に、さっぱりとした白いドレスがよく似合っている。髪もアップに結ってもらって、黄色い花心のある白い花が一輪挿してある。その花からも、甘くいい香りがした。  世話をしてくれた侍女の人たちが、最後に私の足に白い革のサンダルをはかせてくれた。ごく薄い柔らかい革でできた、羽根のように軽い靴で、きっと、自分の足ではめったに歩かないような、深窓のお姫様がはく靴なんだという気がした。  ここでは、私はどういう役回り?  拾われてきたお姫様として、いつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたし?  どうもそういう訳ではないみたい。  その証拠に、着替えの終わった私が部屋に入ってくるのを見たイルスは、愛しの姫を見つめるうっとりとした王子っていう顔はしてなかった。  丁重なふうに私を出迎えた彼は、私の額を見て、静かに激しく驚いていた。これが漫画だったら、天井から落ちてきた金だらいに脳天をガッツンやられた人ぐらいの驚きっぷりだったんじゃないかな。  しばらくあ然としてから、イルスは私の額を指さして、言った。 「無い。聖刻が」 「せいこくって何ですか」  私は彼が指さす自分の額を見ようと視線を上げたけど、もちろん見えるわけない。 「あっただろ、赤い点が。ここに」 「あったんですか」  私は知らなかった。彼らが砂浜で私を見つけて、食い入るように額を見ていたのは、その赤い点があったせいらしい。  私を連れてきた侍女の人が、ものすごく気まずそうに、イルスに教えた。 「お顔を清めてさしあげましたら、消えてしまいました。どうやらお化粧だったようでございます」  イルスはまだ私の額を指さしていた。 「化粧?」 「はい」 「描いてあっただけか?」 「そのようでございます」  深く息をついて、イルスは指さすのを止めたが、私の顔を見る彼の下瞼が、ぴくりと微かに震えた。もし怒鳴って良いんだったら、怒鳴るけど、という表情のような気がした。しかし彼は怒鳴らなかった。ものすごい濁流を背中で押しとどめている感じのする低い声で、独り言のようにつぶやいただけだ。 「聖刻を描く馬鹿がどこにいる」  ごめん。ここにいる。 「なんの遊びか知らないが、二度とするな。神殿に知れたら命がないぞ」  自分で描いた憶えもないんだけど、行きがかり上、私は反省した面持ちで頷いておいた。  疲れたふうに、イルスは執務机に行き、卓上にあった書きかけの書類のようなものを手に取ると、びりっと派手な音をたてて破り捨てた。きっとやつあたりだ。  破っただけじゃ足りなかったのか、イルスは壁際の小さな暖炉のほうにいき、その書類を燃やした。寒くないのに、なんで暖炉なんかあるんだろうと思ったけど、どうやらそれは彼のシュレッダーらしかった。燃やすんなら破らなくてもいいのに。やっぱり、やつあたりなんだ。 「食ったら出ていってくれ。送らせる」  気分を切り替えたらしく、イルスはいくぶん軽い声で、私のほうを見もせずに言った。  ごはん食べていっていいんだ。  とてもお腹がすいていたので、その一言は私には嬉しかった。天国風呂の幸せから、一転して空きっ腹で追い出されるのかと思った。  でも問題は、食べた後に、どうすればいいかのほう。  この世界で気付いてすぐ、彼に拾われたので、この人が私の物語の重要人物なんだと思ったのに。額の赤い点がなければ、彼と私の間には、どんな物語も始まりはしないらしい。  恋愛ものじゃ、なかったんだ。 「あのう……赤いの、聖刻だけど消えちゃったってことは?」  燃えおちる書類を見つめていたイルスの目が、ゆっくりとこちらに向けられた。まだ言うか、という、彼の気持ちが、ものすごく率直に表現されている顔つきだった。 「聖刻は、神殿種であることをあらわすための聖なる刻印だ。一生消えない」 「私がもし、その神殿種だとしたら、なにかまずいことでも?」  おどけた仕草で、私がたずねると、イルスは暖炉のそばで腕組みをして、笑いをこらえているような顔をした。笑うと案外、若いんじゃない。二十歳そこそこくらいに、彼は見えた。 「お前はこの大陸の生まれじゃないらしいな」  確信めいた彼の指摘に、私は仕方なく頷いた。私はこの世界の人間ですらない。私は旅人で、よそ者で、遠からず吹きすぎてゆく風のようなもの。それをどうやって彼に伝えよう。 「隣大陸(ル・ヴァ)から来たのか」 「たぶんもっと遠くから」  曖昧に答えた私を、イルスは怪訝そうに見た。 「素っ裸でか」  するどいツッコミだった。  私は物語を渡り歩く風。前にいた場所で身につけていたものは、次の場所へ持ち込むことは許されていないらしい。だからいつも気付くと裸で立っている。今回は女の子だったけど、次はおっさんかもしれない。なかなか大変なのだ。 「テル」  真面目な顔で、イルスは私の名を呼びかけた。子供を諭すような口ぶりだった。 「浜に裸で立っていても罪にはならないが、神殿種のふりをすれば、神殿への不敬罪で処刑しなければならない。近隣の者が、立っているお前を見つけて腰をぬかし、夜警隊(メレドン)に通報した。口止めはしたが、もし神殿に知れれば、お前は殺されるだろう。火刑は苦しいぞ」  ……死にオチ?  私は思わず視線をはずして、自分の爪先を見下ろした。死ぬのは、いやだな。 「冗談で、神殿種のことを口にするな」  彼の静かな忠告は、ずしりと重みを持っていた。 「額に赤い点を描いただけで、死なないといけないなんて、おかしな世界」  私が思った通りのことを言うと、イルスは奇妙なものを見るように、しばらくの間、私をじっと見つめ、そして言った。 「俺もそう思う」  かちり、と何かのスイッチが入るような感触があった。何かが切り替わるような。たぶん私は物語の核心に触れた。あの何気ない一言で?  執務机の椅子の背に、私に着せかけてくれていた薄地の外套が戻ってきていた。イルスはそれを慣れたふうに身につけ、卓上にあったクリスタルの鈴をとって、りんと鳴らした。  鈴の音に呼ばれたように、扉が開いて、執事らしき初老の男が無言のまま姿を見せた。 「夜警隊(メレドン)を招集してくれ。それから族長に今回の件を報告しておいてくれ。俺は出かける」  一度にいくつもの用件をまとめて伝えるのは、彼の癖みたいだった。 「どちらへ」 「夜警隊(メレドン)を労いに」 「娼館(ルパーナ)でございますか」  執事は感心しないふうに顔をしかめた。イルスはいかにも面白そうに笑った。 「悪いか」  からかうように、イルスは老人に毒づいた。私は彼の予想年齢を引き下げた。実は大して私と年が変わらないんじゃないの? たぶん、十七、八ぐらい。少し年上なだけ。 「テル」  指で招いて、イルスは私も一緒に部屋を出るように促した。 「お前を待っている家族はいるのか」  イルスは扉をくぐると、私の背を押すようにして、足早に廊下を歩いた。 「いないと思います」 「それはいい。しばらく身を隠せ。お前は危険すぎる」 「私をどこかへ連れて行くんですか?」  イルスは頷いた。 「ごはんは?」  私が恨めしさいっぱいに訊ねると、イルスはちょっと驚いたように歩みを止めかけた。 「ああ、すまない。忘れてた。腹が減ってるか?」 「ものすごく」  答えると、私のお腹がぐーっと鳴った。イルスは吹き出し、それが悪かったと思ったのか、笑いをかみ殺した気配で、私の背を押してまた歩き出した。  馬に乗れるか、と、イルスは聞いてきた。  私は自分が乗れるような気がして、自信満々で頷いたのだが、あてがわれた栗毛の馬に颯爽とまたがった瞬間、反対側に落馬している自分がいた。  馬も、イルスも、馬上で出発を待っていた夜警隊(メレドン)のお兄ちゃんたちも、どうしようもないものを見たという済まなさそうなショボショボした目で、地面に落っこちている私を見下ろしていた。 「……一緒に乗るか」  そう言わなきゃしょうがないという雰囲気で、イルスは私に相乗りを申し出た。みんな、せめて笑ってくれれば。ぶっつけた腰を撫でさすりながら、私は踏み台を借りてイルスの鞍の前に乗せてもらった。 「素直に乗れないと言っていれば、馬車を出させたのに」  手綱をさばき直しながら、イルスが小声で苦情を言った。どうも相乗りが嫌らしい。 「乗れるつもりだったんです」  この世界で自分がどんな能力を持っているか、まだよく分かっていない。馬ぐらい乗れるんじゃないかと思ったのだ。なにしろ私は主人公なんだし、もしかしたら空だって飛べるかもしれないんだから。 「妙なやつだな。寄り道してから娼館(ルパーナ)へ行く。飯は到着してからだ」  イルスが踵で馬の腹を軽く叩くと、馬はゆっくりと走り始めた。予定外の二人乗りで馬も怒っているかと思ったけれど、私の哀れな落馬シーンに同情してくれたのか、特に機嫌は悪くないようだった。  夜警隊(メレドン)の一隊を引き連れて、私たちは屋敷を出て、石畳の街道を市街地へと向かった。海を望む岬のうえに建っていたイルスの屋敷は、市街地からそう遠くない場所にあるようだった。街道を駆け下る道すがら、海辺の扇状地に開けた都市が一望できた。規則的に張り巡らされた運河が街を区切っており、計画的に作られた都市であることが見て取れる。 「海都サウザスだ。港、商業区、居住区、中央が王宮、そして神殿」  乗馬用の鞭の先で、眼下の都市を指し示して、イルスが教えてくれた。港には帆船がいくつも停泊していた。今まさに出港してゆく船も、入港してくる船もあり、かなり活気のある港のようだった。 「神殿に寄っていく」  さらりと言うイルスに、私は少し驚いた。私には、神殿から逃げ隠れしたほうがいいと忠告したばっかりじゃなかったっけ。 「見ておいたほうがいいものがある」  私の無言の非難に気付いたのか、イルスは小声で付け加えた。  市街地までは、ほんのひと駆けだった。途中で何度か、街道を行く荷馬車や人の群れと行き会ったけれど、彼らがみなあらかじめ夜警隊(メレドン)の一隊に道をゆずったので、私たちは速度をゆるめる必要もなく、駆け抜けることができたのだ。  石壁で囲まれた街の門をくぐるころになって、イルスはやっと馬の足並みをゆるめた。飛ばし屋だ、こいつ。お屋敷で結い上げてもらった私の髪は、すっかりぐっちゃぐちゃになっていて、挿してもらっていた花も、どこかへ抜け落ちていた。  馬車を出してもらえばよかった。私は女の子なんだから!  城門をくぐった先は、商業区のようだった。幌を張った簡単な露天から、立派な石造りの建物までが、通りの両脇をにぎわし、買い物にきた人たちで通りも混み合っていた。 「夜警隊(メレドン)だ!」  水っ洟を垂らした男の子兄弟が、目の前を通り過ぎる私たちを指さして叫んだ。素朴なおもちゃの木剣を腰からさげている二人は、目をキラキラさせながら、おもむろに帯から剣を引き抜いて、天を突くような仕草をした。 「夜警隊(メレドン)、挑戦だ! 挑戦だーーっ!」  きゃあきゃあ喜びながら、ちびっこたちは隊列についてくる。 「危ねえぞ坊主ども! 母ちゃんとこ帰ってクソして寝ろ!」  馬を恐れずに突っ込んできそうな子供を鞭の先でつっついて牽制し、イルスが怒鳴った。 「イルスだ!」 「呼び捨てにすんな。俺は族長の息子なんだぞ」 「イルスだーーーっ」  弟のほうが、兄の真似をして、飛び跳ねながら大声で叫んでいる。イルスは苦笑とともに、しょうがねえなと独りごち、子供たちを置き去りにするため、馬の足並みをわずかに速めた。  街の人々は、そんな光景を、ある人は面白そうに見守り、ある人は買い物に熱中して、こちらを見もしなかった。たぶん、日常的な光景なのだろう。この街は活気があって、調和がとれている。淀みなく流れる水のように。  そんな賑やかな風景も、白い漆喰で塗られた町並みを進むに連れ、徐々に静まり、厳かな雰囲気のあるものへと移っていった。神殿が近づいてきたからだろうか。  私は自分の素性を思って、緊張した。  初めは、出ていけと厄介払いしたそうな事を言っていたイルスは、いったいどうして気が変わったのだろう。私をどうするつもりなんだろう。まさか神殿に差し出すことに決めたのだろうか。  神殿の周辺の地面は、白い大理石で舗装されていた。広大な広場に囲まれ、いくつもの尖塔を持った純白の建物がそびえ立っている。塔には、それを守るように、白大理石で作られた彫像が飾られていた。長い杖を持ち、背中から、一対の翼を生やした人の姿の像だ。私には、それが天使に見えた。この世界に、翼を持った人間が実際にいるのでなければ。 「神聖神殿だ。この大陸を支配している」  私にだけ聞こえる声で、イルスは説明した。耳元で聞こえる彼の声は、かすかな苦みを帯びていた。 「あれが神殿の支配だ。よく見ておけ」  私の顎をつかんで、イルスは私の目を神殿脇の広場に向けさせた。そこには人垣もなく、うち捨てられたような空気が漂っており、白一色のこの一帯にあって、異様ともいえる黒い彫像が飾られていた。白い柱に、繋ぎ止められたような、華奢な黒い像……遠目には、そう見えた。  馬が近づくにつれて、私は独特の悪臭に気付いた。きな臭い、ものの焼ける臭い。そして、生き物の焼ける臭い。  私は、示されたものの正体に気付いた衝撃で、また馬から落ちそうになった。目眩で鞍から滑り落ちかけた私を、イルスが片腕で支えた。  目の前を行き過ぎていくのは、火刑台だった。それが実際に使われた結果が、まだ生々しく薄煙をあげて、無惨な姿をさらしているのだ。 「火刑は公開処刑だ。あれは……」  イルスは深い呼吸のため、わずかに言葉を切った。 「神殿種の聖女だと偽って民を惑わした罪で、処刑された娘だ。十四歳だった」  火刑台の柱に縛られた遺骸は、燃えおちて小さかった。 「病気や怪我を治す力があったんだそうだ。だが本人は病気だった。生まれつき頭が弱くて、ずっと幼い子供のようだった。それを悪党どもが聖女に祭り上げたのさ」 「額に赤い点を描いてですか」 「そうさ、お前のようにな」  淡々と、彼は答えた。  空きっ腹で良かったと、私は感謝した。こみあげる吐き気が、私の視界をぐるぐると回転させていた。 「確かに、おかしな世界だ。お前が言うように。だがな、それは冗談で言えることじゃない。あの火刑台で、何度でも焼かれる覚悟が必要だ」 「放っておくんですか。お墓に埋めてあげないの?」  顔を覆って、私は頼んだ。涙と鼻水がいっぺんに出てきた。 「今は無理だ。俺もまだ、死ぬのが怖い」  私が涙に腫れた目で見上げると、イルスはただじっと、火刑台を見つめていた。そこにある死と、恐怖を。ただじっと、目をそらさずに。 ----------------------------------------------------------------------- 「湾岸の風」(2) -----------------------------------------------------------------------  その明るい部屋に、私は涙と鼻水にまみれ、髪はぼさぼさの埃だらけ、空腹と吐き気の二本立てに揉まれる胃袋を抱えて到着した。顔面蒼白で立っている私を見て、その女の人は何度か目を瞬かせてから、イルスに顔を向けた。 「あんた、この娘をどこからさらってきたの?」 「さらってきたんじゃない。拾ってきたんだ。浜に落ちてたから」  私はナマコかウミウシか。そう思う元気ぐらいは出てきたけれど、私は何も言えなかった。口を開くと吐き気がこみ上げてきそうだったから。 「しばらく面倒みてやってくれ、エレノア」  イルスは命令ではない口調で言った。  エレノアと呼ばれた女の人は、長身の美人で、ゆるく結った長い髪に、白い花をいくつも挿している。燃えるような赤いドレスの、大きく開いた胸元には、金と宝石でふんだんに飾られた、重たげなネックレスをしていた。だけど足元はなぜか裸足。ドレスの裾からちらりと見えた、形の綺麗な足の爪は、赤と金色でつややかに染められていた。 「いきなり連れてきて、面倒みろじゃないわよ。猫じゃないんだから」  彼女が言うのを狙い澄ましたように、赤いドレスの裾から、にゃあという細い甘え声をあげて、真っ黒い猫が歩み出てきて、イルスの足に親しげに擦り寄った。  よく見ると、花で飾られた大きな窓がいくつもあるこの部屋には、窓辺でひなたぼっこを楽しんでいる猫がごろごろしている。猫たちは知らん顔をしているようでいて、ピンと耳を立て、こちらの様子をうかがっているようだった。 「もう猫は連れてくるなって言ったでしょ」  美人エレノアは怒っているみたいだった。 「今日のは猫じゃねえだろ」 「拾ったもんは、自分のうちで飼えって言ってんの」  腕組みをして、エレノアは顎を上げ、猫を抱きかかえようとしていたイルスをにらんだ。言い争っている真っ赤な美人と、黒猫を抱いた男にはさまれて、私はとにかく、部屋に置かれている大きなベッドに今すぐ横になりたい気持ちでいっぱいなのに、それを言い出す切っ掛けが見つけられない。 「事情ぐらい聞けよ」 「あんたの事情はだいたい言い訳なのよ。あんたは自分がなにか、いいことをしたような気分になりたくて猫を拾ってきてるのよ。単なる罪悪感の裏返しなのよ。いやなことがあるたびに、猫を抱いて現れないでくれる? ここは娼館(ルパーナ)よ、猫預かり所じゃないわ」  イルスに抱かれている黒猫は、彼になついていた。ごろごろと喉を鳴らし、長く黒い尾をゆらゆらさせながら、気持ちよさそうに耳を閉じている。 「人の子を拾ってくるなんて、今回はどんな心の痛む経験をしたわけ。甘っちょろいわね世間の荒波のひとつやふたつ、酒でも浴びて忘れるもんでしょ大の男なら。火刑がなによ、あんたのせいじゃないでしょ。終わったことで、いつまでもウジウジウジウジしてんじゃないわよ」  エレノアは驚くほど、こちらの話を聞いてくれなかった。まるで、頭ごなしに説教しているお母さんかお姉さんみたいだ。  イルスとエレノアは全然似てないけど、もしかして二人は血の繋がった姉弟なんだろうか。そんな私の予感を、イルスのぼやきが否定した。 「俺、いちおう客なんだけど」 「金払ったからって偉そうにしないで。あたしは花魁(ファラン)よ。客を選ぶ権利があるわ」  エレノアは鉄壁だった。イルスは諦めたようにため息をついて、肩をすくめ、戦法を変えた。 「俺たち腹減ってんだけど。朝からなにも食ってない。こいつもだ」  私のほうを顎で示して、イルスがうったえると、エレノアは、片眉をあげて「そう来るか」という表情をした。  なんだ、イルスもお腹すいてたんだ。そう思いながら、私はやっとのことで口を開いた。 「あのう……話の途中ですいません。吐きそうなんですけど、トイレどこですか」  そう言うなり、私は白目をむいてぶっ倒れたんだそうだ。後に、猫を抱いていたから、とっさに私を抱き留められなかったとイルスは済まなそうに言った。そのときも黒猫はイルスに抱かれて勝ち誇ったように鳴いていたが、あいつはぜったいメス猫だと思う。  ごはんを食べさせてもらった後、土埃だらけになった白いドレスを脱いで、私はエレノアが貸してくれた新しい服に着替えていた。サイズが私にぴったりだから、エレノアの服を借りているわけではなさそうだった。彼女は長身で迫力のある美人で、豊満な胸の谷間がまぶしいくらい。そんな人の服が、今の私に合うわけがない。 「ごめんね。あたし、てっきり、あの子が行き倒れてたあんたを勝手に拾ってきたんだと思ったの。あの子はそういう癖があるから」  行き倒れはともかく、浜で勝手に拾われてきたことは確かに事実だと思うんだけど、目を覚ました私に詫びるエレノアは、なにか他の事情があると思っているらしかった。いったい「あの子」は美人のお姉さんになんて説明したんだろうか。  エレノアは綺麗で、気さくで、誰からも好かれる親切な近所のお姉さんみたいな雰囲気を持っていた。相談すれば何でも一緒に考えてくれて、泣いていたら頭をよしよし撫でてくれそうな。  イルスがそうしてもらっているところを想像して、私はなんとなく嫌な気分になった。 「なんかヤバい事情らしいじゃない。神殿から隠れてるんですって? まったく洒落にならないわよ。猫ならともかく、そんな厄介者を預けに来てさ。どうするつもりなんだか……」  悪口を言われているのに、なぜかあまり責められている気がしない。お母さんに文句を言われているみたいで。エレノアはにっこり華やかに笑って、私の手を元気づけようとするみたいに握った。暖かい手だった。  窓の外は夜になっていた。私たちは一人用のベッドに並んで腰掛けて、姉妹のように話していた。  部屋の、花が飾られた窓には、小さな灯りがいくつも点されていて、窓の外に見えるたくさんの窓々にも、同じように夢のような花と灯りが飾り付けられている。まるでお祭りの日みたい。 「ここは、あたしの禿(デーデ)の寝室よ。空き部屋だから自由に使っていいわ。あっちの扉は廊下に出るし、こっちの扉はあたしの部屋の控え室に続いているからね。廊下には誰がいるかわからないから、あまり出ないほうがいい。あたしの部屋には、あたしが一人のときには自由に入ってきていいわよ」 「ここは娼館(ルパーナ)だって……」  私は、握ってもらった手を握り返していいかどうか、決められないまま、小声でたずねた。 「そうよ。でも心配いらない。あんたに客をとらせたりしないから。女を守るなら、ここが一番なの。誰もあんたの素性を勘ぐったりしないわ」  可笑しそうに、エレノアが先回りして言った。  私はそれを心配していたんだろうか。 「イルスは帰ったの?」  目を覚ましたら、彼はいなくなっていて、私は一人で食事をしたのだった。 「夜警隊(メレドン)の連中のところに顔を出していたのよ。あれでもいちおう、隊長だからね。もう戻って、隣にいるわ。会いたい?」  私はとっさに首を横に振っていた。会いたいかどうか、自分では良く分からなかったんだけど。 「イルスは、よくここに来るの?」 「そうね。眠れなくなったらね。猫に会いに来るのよ」  それはたぶん違う。彼は、この女(ひと)に会いにくるのだ。そんな気がした。握ってもらったエレノアの手の、優しいぬくもりが、それが真相だと語っている。 「テル、あんた、帰るところはあるの? 行く宛は?」  私はまた、黙って首を横に振ってみせた。私はこの世界で、自分がどんな物語を語るべきなのか、いまだに分からないでいる。 「心配しないで、ほとぼりがさめるまでは、のんびりここに隠れてなさい。あの猫たちみたいにね」  握っていた私の手を、もう片方の手でぽんぽんと叩いてから放し、エレノアはまた、にっこりと笑った。 「あんた、イルスが好きなの?」  両手を腰にあてて、エレノアはなんでもお見通しだという口調で、突然話を変えた。私はあんぐりした。 「どうしてですか」 「あの子が、自分は客だって言ったときに、あんたが吐きそうな顔をしたからよ」 「本当に吐きそうだったんです」  私は断言した。するとエレノアは楽しくてたまらないというふうに、うっふっふと笑った。 「なんだったら隣にいったら。今夜は私がここで寝るから。そりゃあもう殺しても起きないほど深く眠っているから」 「からかわないでください。エレノアさんがイルスの恋人なんでしょ?」  私は真っ赤になって怒っていた。意地悪で優しい美人なんか嫌いだ。エレノアはさらに面白そうな顔をした。 「あら違うわよ、おあいにく様。私はあの子のお母さん役。恋人はまだ見たことないけど、テルなら年も釣り合いそうだし、いいんじゃないかしら。試しに迫ってみたら? きっと嫌とは言わないわ、あの子惚れっぽいから」  私はむすっと押し黙ったまま、ベッドのうえで膝を抱えた。いろいろ考えると恥ずかしかった。ラブラブでハッピーエンド。そういう物語だったら私の旅もここで終わりにできる。そうだったらいいのに。  でも、きっと、そうはならない。  私の脳裏に、火刑台を見つめるイルスの無表情な目が思い出された。焼け落ちた遺骸を見つめる彼の目、あれはなにか、奇妙な憧れのように、揺るぎのない一途な視線で、死の瞳と見つめ合っていた。それと同じ、静かな熱を帯びた目で、彼が他の誰かと見つめ合うことはない。そんな気がする。  それとも私が知らないだけ? 「火刑のあとを、毎日見にいっているのよ」  エレノアが、背伸びをするようなポーズで、ベッドに倒れ込んだ。彼女は回想するように天井を見つめている。 「え? 誰がですか?」 「イルスよ。逃がすつもりだったらしいの。奇跡屋の聖女をね。でも神殿に出し抜かれてしまって、ああいうオチよ。仕方ないわよね、不敬罪は不敬罪、濡れ衣じゃないんだから。気の毒な娘(こ)だけど、この世で不幸なのはあの娘(こ)だけじゃない。死んだものはどうしようもない。不運だったのよ。でも、イルスは責任を感じてる。火刑台にとびこんででも助けるべきだったんじゃないかって」 「そんなことしたら自分も死にますよ」 「そうね」  目を細めて、エレノアは微笑している。 「黙って見ていて正解だったのよ。それが大人になるってことじゃない? なのになぜ、あの子はつらいの? みんな大人になるのよ。いつまでも十四歳の子供じゃない」  ふーっと長いため息をついて、エレノアは横に座っている私の手首を握った。 「テル、あの子はなぜあんたを助けることにしたの?」  なぜなのか、私にも分からない。はじめは出ていけって言ってた。でも途中で気が変わったの。 「額に赤い点を描いただけで、死なないといけないなんて、おかしな世界だって、私が言ったら、俺もそう思うって言って、ここに来ることに決まったんです」  何か切っ掛けがあったとしたら、それくらいしか思い当たるものがない。私の説明を聞いて、エレノアは、あー、と困ったようなうなり声をあげた。 「あのね、それは常識よ。神殿種のふりなんかしたら、不敬罪で殺されても当たり前。火刑よ? 生きたまま焼かれるのよ? それを知らないのは、気の毒な頭の足りない娘っこくらいよ」 「どうしてですか。変は変でしょう。変だなって思うくらいは自由じゃないですか」 「違うわ。それが変だと思うこと自体が、神殿への反逆なのよ。まともな頭をしてたら、そんなこと口には出さない」  むくっと起きあがって、エレノアは人差し指を唇にあて、しーっと戯けたしぐさで忠告した。 「死んだ娘も火刑台で同じ事を言ってたそうよ。額に赤い点を描いただけで、なぜ殺されるのかって。可哀想に、せめてそれを知っていれば、死なずにすんだかもしれないのにね。処刑を見に行った連中は、みんなそう思った。だけどイルスはこう言いたかったんでしょ。俺もそう思う、って」  あの人は火刑を見たんだろうか。女の子がみんなの前で焼き殺されるのを見たの?  その時も、あの透明な青い目で、じっと見つめていたんだろうか。炎の形をした死を。 「テル、あんたどこから来たの?」  ゆるやかにカールした栗色の長い髪を、指にくるくると巻き付けながら、エレノアがたずねた。 「わかりません。イルスと会う前のことは、なにも憶えてないの」 「あら、そう」  私の突飛な答えを、エレノアは面白そうに聞いている。 「あんた、聖女の生まれ変わりかもしれないわね。神殿種は転生するっていうから。火刑台で死んだ娘は、じつは本当の聖女で、生まれ変わって、あんたになったのかも」  言いながら、くすくす笑っているエレノアは、とても本気とは思えなかった。 「そうね……本当にそうだといいのに。そしたらあの子は、もう後悔しなくて済む」  華やかに微笑んでいるエレノアの目は、とても優しかった。ゆりかごに眠る赤ん坊を見つめる目で、エレノアは、ここにはいないイルスを見ていた。  エレノアは、彼を愛している。母のように、姉のように、情熱や嫉妬を越えた、もっと深いところで。  この人には、誰も敵わない。絶対に敵わない。赤ん坊を抱く母親の代わりを、他の誰もできないみたいに。 「花魁(ファラン)を待ってたのに、禿(デーデ)が来たな」  ベッドに寝っ転がっていたイルスが、私を見て面白そうに言った。  仰向けになっている彼のお腹の上で、あの黒猫が、いかにも満足そうに眠っている。それを撫でているイルスも、お酒を飲んでいるのか、どことなく眠そうだった。昼間着ていた夜警隊(メレドン)の制服を脱いで、質素な木綿の普段着姿になっている。そうしていると、彼はもっと、身近な存在に見えた。 「私、隣大陸(ル・ヴァ)へ行こうと思います。エレノアさんに相談したんだけど、神殿と気まずくなった人は、そうするのが一番いいんだって。それに、せっかくだから、どんなところか、行ってみたいし」  だから船賃貸してください。私がストレートに頼むと、イルスはふっふっふと押さえた笑いでお腹をふるわせ、薄目をあけた黒猫が、にゃーんと不満げに鳴いた。 「それはいい考えだ。エレノアに追い出されたんでなければな」 「自分で決めたんです」  私は早口に反論した。 「今月は巡礼月だ。あと数日したら、俺も族長の聖地巡礼に付き合わないといけない。俺が戻るまではここに厄介になったほうがいいが、そのあとは屋敷で匿ってやれるぞ。あとひと月ふた月、我慢できないのか」 「もう決めたんです。明日の朝には旅立ちます」 「そうか。エレノアが支度してくれるだろう。欲しいものがあったら、何でも頼め」  不満げに張り付こうとする黒猫をベッドの下におろして、イルスは半身を起きあがらせた。彼は裸足で、岬に建っている屋敷にいる時よりずっと、自分の家にいるような顔をしていた。 「どうして私を助けてくれるんですか」 「ひと月に二度も火刑を見たくはないからな」 「そんなの、見に行かなければいいだけじゃないですか。知らん顔して、あの豪邸でのんびりしてればいいじゃないですか」  私はどうも早口だった。なぜか腹が立って、責める口調でイルスに話しかけていた。助けてもらって、感謝しないといけないのに、それとは反対の態度をとる私を、イルスはただ苦笑しただけで見逃した。 「お前、俺の友達の子供のころにそっくりだ」 「私は子供じゃないです」  窓辺の猫をかきわけて、イルスは窓を開いた。点々とともされた灯でほの明るい窓の外からは、弦を弾く静かな音楽が流れ込んできた。 「俺も子供の頃はそう思ったよ」  窓辺のアルコーブに腰掛けて、イルスは夜風を楽しんでいるふうだった。横顔の輪郭が、花窓の灯りでぼんやり光っている。 「俺も十四歳のころには、何が正しくて、何がそうでないか、良く分かってた。それと分かっていて、正しい道から目をそむけるのは卑怯者だと思っていたさ。大人はみんな卑怯に見えた。だけど今はなんとなく分かる、自分もいずれはそういう一人になるってことが」 「おじさんくさい」  吐き捨てる私を、イルスは笑って見ている。 「俺はまだ十八だぜ」 「立派におじさんです」 「そんなこと言ってると、俺の気が変わって神殿に引き渡すかもしれねえぞ」  イルスの口調は、まるで小さい子供をからかっているみたいだった。ちょうど、街で見た、木剣をふりまわしていたハナタレ兄弟を、笑いながらあしらったみたいに。私はそれに、カッときた。なんだか胸がもやもやして、頭が熱くて、吐きそうだった。 「私が火刑になっても黙って見ているんですよね。自分が可愛いおじさんだもんね」  腹いせに、私はイルスを傷つけようと思って、そう言った。  癇癪を押さえている私を、イルスは困ったような顔で見つめた。 「いいや。お前が可哀想だから、火の中に飛び込んで助けるさ。そして俺の部下も、俺の家族も処刑されて、俺の部族は滅亡させられる。それでもいいよな、俺は正しいことをしたんだから」  彼は皮肉を言っているらしかった。私が言っている事は子供のワガママだと、イルスは言いたいのだ。 「じゃあ、もし、火刑にあうのがエレノアさんでも、助けずに見ているんですよね」  そこまで問いただす権利が私にあっただろうか。  責めるような私の問いかけを、イルスは聞き流したように見えた。彼は黙りこんだまま微動だにせず、窓の外の音楽がいく小節もくりかえし同じメロディを奏でては流れ去った。  私は謝罪すべきだ。言い過ぎたのだ。  そう思い、私が言葉を選び始めた時、イルスはやっと口を開いた。 「俺の友達に、好きな女と一緒になるために世界を滅ぼそうとしている奴がいる。奴は、その女のためなら迷わず命をかけられる。奴には他に欲しいものも、惜しむものも、ひとつもないんだ。俺は奴のそういうところが哀れに思えるし、うらやましくもある。そこまで人を愛するには、わがままでなければいけないし、並はずれた強さも要る。俺にはできない。大切なものを失った後で、俺は言い訳するだろうな。仕方がなかった、俺は苦しんでいる、だから許してくれって」  長い沈黙の間に考えただろうことを、イルスは淡々と答えた。私は要するに彼が、例えエレノアであっても見捨てると答えたのだと気付いて、驚いた。 「あなたはエレノアさんを助けると思います。だって……!」  しかし根拠は見当たらなかった。でも私には分かる。  言い淀む私のほうを見て、イルスは苦笑した。 「それは女の期待だ。命がけで助けなくても済むよう用心してくれ。お前も、エレノアも、他の皆もだ。そのほうがずっと簡単だからな」  彼の言うことは、もっともだった。私はイルスが怒るどころか、ムッとした気配さえない事にがっかりした。  どうして彼は、なんの義理もない私を神殿から匿ったり、ぶしつけな質問に真面目に悩んだりするんだろう。くだらない事を聞くなと怒って誤魔化してくれないんだろう。  嘘をつく大人は嫌いだけど、嘘をつかない大人は困る。私は彼に、他の女なら無理でも、エレノアなら命をかけられるって言ってほしかった。だったら仕方ないなって思えるから。あの人に敵(かな)わなくても。 「赤ん坊(デーデ)はもう寝ろよ。明日には船に乗るんだろ」  私は悲しかった。たくさん話したのに、肝心な事はなにも話していないような気がしたから。 「イルスは、あの火刑で死んだ女の子の代わりに、私を助けたの?」  私はしょんぼりして、たずねた。胸の奥の訳の分からない怒りは、燃え尽きた花火みたいに消えていった。 「いいや」  花窓にもたれて、イルスは正直に言った。 「お前が気に入ったからさ」 「それは私が好きだっていうこと?」  イルスは薄く笑ったけど、今度はなにも答えなかった。 「私はイルスが好きみたい」 「そうらしいな」  なんだ知ってたんだ。私も知らなかったのに。 「助けてくれて、ありがとう」  それを伝えてしまうと、もう言うことがなにもない。 「テル。俺は戦ってる。いつかこの世界が、おかしい場所じゃなくなったら、戻ってこい。俺がその時も生きてたら、豪邸でのんびりさせてやる」 「その時、私のおっぱいがエレノアさんのより大きくなってたら、さっきの質問の答えを教えてくれる?」  イルスは一瞬ぽかんとしてから、私もびっくりするような大声で笑いはじめた。イルスの側でくつろいでいた猫たちが、迷惑そうにその場を離れ、アルコーブからとんとんと飛び降りていく。あの黒猫が、恨めしそうに私をじろりとにらんでいった。 「元気でな、テル。悪い男にだまされんなよ」  まだ笑いをこらえながら立ち上がって、イルスは通りすがりに、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でた。猫を撫でるときと、同じ手だった。 ----------------------------------------------------------------------- 「湾岸の風」(3) -----------------------------------------------------------------------  翌朝、私がエレノアに旅支度を用意してもらって、すっかり出発の準備が整っても、むかつくことにイルスは寝ていた。  別れが気まずくて寝たふりをしているのではないかと期待して、エレノアとこっそり見に行ってみたけど、イルスは本当にぐうぐう寝ていて、通りすがりの猫が踏んでも目を覚まさなかった。 「叩いて起こす?」  エレノアが、枕元で拳をふりあげ、やる気まんまんで私にたずねた。 「いいですよそんな」 「でも失礼しちゃうじゃない。寝てる場合かっていうの」  エレノアの言うとおりだった。だけど起きられても、なにを話していいか分からない。さよならは、昨夜もう言ったような気がする。 「エレノアさん……」  私は足元に置いていた、旅の荷物を抱え上げた。 「もし自分が神殿の人に火刑にされそうになったら、イルスは助けにくると思います?」  真面目に質問した私を、エレノアは少し、わけがわからないという表情で見つめ返してきた。 「さあ……来ないんじゃない?」 「どうしてですか」 「どうして、って。なんとなくだけど。だってもう助けようがないでしょ」  エレノアの言葉は、仮定の話にしても、あまりにもあっさりしていた。 「エレノアさんは、それで悔しくないんですか」 「なにが悔しいのよ」 「助けにきてほしくないんですか」  私がひそめた声でせき立てると、エレノアはやっと、あーなるほどねという顔をした。 「テル、あんたね、そこまで考えるんなら、もうちょっと先まで想像してごらん。自分のせいで、イルスが死ぬかもしれないんだよ。あんたはそれで嬉しいの? あんたがイルスを好きなんだったら、そういう時にはむしろ、助けに来るな馬鹿野郎って思うんじゃないの。それが本当の愛よ」  それは私にとって画期的な発想だった。私はあぜんとした。  私は試しにエレノアが言うように、想像してみようとした。でも、できなかった。もし助けに来てくれたら、私はきっと嬉しい。見殺しにされたら、つらい。悔しい。それが私には、限界いっぱい。 「愛っていうのはね、男にもらうものじゃなくて、女が与えるものなの。あんたも、もうちょっと成長して、ほんものの女になれば分かるわ。その時は、どんな男もあんたにイチコロよ」  にっこりと微笑んで、エレノアは保証するように何度も頷いてみせた。  私が与えられる愛? そんなものがあるだろうか。  自分になにができるかって、考えてみたことがなかった。  私は、自分の物語が向こうからやってくるのを、ただ待っていただけだった。  不意に、ひとすじの風が私の耳元の後れ毛をなぶって吹きすぎていった。  部屋の中なのに?  暖かく吹き続ける風が、私の髪だけを優しくなびかせていた。この世界にやってきた時にも、同じように風が吹いていたっけ。  そうか。私はまた旅立つんだ。ここでの私の物語は終わろうとしている。  甘い風の香りをかいで、私は忘れていたことを思い出した。  私は、この物語の主人公だったのだ。 「エレノアさん、イルスを起こして。見せたいものがあるの。神殿の前の広場に来てって、たのんで」  もらった荷物を足元にのこして、私は裸足のまま、部屋を駆けだした。まるで風のように。  驚いたエレノアの声が私の名前を呼んでいたけど、私は振り返らなかった。    可哀想な女の子は、昨日と変わらず焼け落ちた姿で火刑台の柱に縛り付けられていた。  私は彼女と向き合うのがとても怖かった。今の私と同じ年頃、同じ背格好、そこにはまるで自分自身が殺されて晒されているみたい。誰にも弔われず、ここで朽ち果てるまで放っておかれている。  神殿前の広場には、相変わらずたくさんの人が訪れていたけど、彼女の周りだけが、不吉な結界でもあるように遠巻きにされ、ひとけがなかった。  私はエレノアが唇に塗ってくれていた口紅を、薬指でこすりとってみた。可愛らしいピンクがかった赤が、私の指を染めた。  これならいけるんじゃないかな。  鏡がないので、自分の額を上目遣いに見上げながら、私は赤い小さな点をそこに描いた。聖刻っていうんだっけ。神殿種のしるし。  私の長い髪が、吹き始めた風にあおられ、ふわりとひろがった。時ならぬ強風に、人々の目が私のほうへ向けられた。うち捨てられた火刑台へと上がっていく、常識はずれの娘っこのほうへ。 「私は転生したわ!」  喉のかぎりの声で、私は叫んだ。あらかじめ決められていた台詞のように、言葉は私の喉から自然と生まれ出た。 「私は本物の聖女だったわ!」  声をききつけた人々は、動揺してざわめきはじめた。神殿の中に逃げるように走り込んでいく人たちも大勢いた。やがて白い衣をまとった神官らしい人々が、白大理石の建物の中から、駆けだしてきた。 「なにをしている。不敬罪で罰さねばならなくなるぞ」  私の額にある赤い印を見とがめて、神官のひとりが叫んだ。彼らは街の人たちと変わらない褐色の肌をしていて、額に赤い点を持ってはいなかった。 「私は人の命を救っていただけよ。なぜ殺されなければいけなかったの」  私の口を借りて、死んだ女の子が喋っているような気がした。本当は誰もがみんな分かっていることを。みんな彼女にひどいことをした。 「この世界はおかしいわ。人を救うための神様がなぜ人を殺すの。みんなおかしいと思わないの」 「娘、神殿種への畏れを知るがいい」  握りしめていた杖をふりあげて、神官たちが私を取り押さえようとした。  広場の入り口に蹄の音が響いたのは、ちょうどその頃だった。  私は白大理石の石畳をかけてくる一騎を見つめた。起き抜けで悪かったけど、間に合ってよかった。  着替えもせずにすっ飛んできたらしい、ぼさぼさ頭のイルスを見て、私は微笑んだ。突っ走ってきた馬は、きゅうに手綱をひかれて、びっくりして竿立ちになっていた。  イルスは心臓が口から出そうな顔で、額に赤い点を描いて、神官たちともみあっている私を見つめた。イルス、私を助けに来て。心の中で、私はそう念じた。  その願いが通じたみたいに、イルスが帯びていた剣の柄に手をかけるのが見えた。  私には、それで十分だった。 「私に触らないで」  肩をつかんで連れて行こうとする神官たちの手を、私は軽く振り払ったつもりだった。勢いを増した熱い風が、私を包み、彼らをはじき飛ばす。  私の指も髪も、光り輝いて燃えるように熱かった。自分の背中を割って、なにかが現れるのを私は感じた。  それは一対の白い翼だった。  神殿の屋根を飾っている、天使たちの彫像を私は見上げた。なるほど。あれは神殿種の姿なんだ。  広場に集まっていた人々は、低いどよめきの後、恐ろしいほどの沈黙の中に沈み込んでいった。皆が青い目で私をじっと見つめている。恐怖と、期待と、興奮のいりまじった顔で。 「どうか私をお墓に埋めて、弔ってください」  そこにいた人々すべてに、私は頭をさげて頼んだ。  私の時は、そこで尽きてしまった。旅立ちを急ぐ風が私の体を包み、巨大な鳥が舞い上がるように、私を空へと運んだ。私の体は空の青を空かし、光り輝く粒子になって、風に運ばれるたんぽぽの綿毛のように散り散りになっていく。  空を舞いながら、私は私を見上げる人々の小さな顔と、まぶしさに細められた目を見下ろした。馬上から私を見上げるイルスは、奇跡におののき、ただ呆然とする群衆の中で、なぜかとても静かな強い目でこちらを見つめている。  この沢山の人の中で、私を見送ってくれているのは、彼だけだった。  さよならと、私は言った。  しかしそれはもう声にはならず、夏の朝に吹く一陣の風となって、湾岸の街を吹き抜けてゆき、朝寝坊の男の髪を優しく撫でていくだけだった。 《完》 ----------------------------------------------------------------------- 習作「腕相撲する」 ----------------------------------------------------------------------- 「イルスとシュレーはいつも練習試合ばかりしてますけど、どっちが強いんですか?」  夕食の支度をするために集まった食堂で、シェルが急にそんなことを言い出した。  講義が終わった午後からは、学生たちは自由時間を与えられており、物好きな教授の特別講義を聴きに行く物好きな学生もいれば、馬場や剣闘技場で鍛錬する学生もいる。  シュレーは物静かな風貌に似合わず、体を動かしているほうが好きらしく、剣闘技場ではイルスとよく顔を合わせたし、いると気付けば練習試合だった。  シェルは、彼の風貌どおり、体を動かさないほうが好きらしく、剣闘技室に近づくことすら避けている。だから、ふたりのいつもの練習試合の結果を知らないのだった。  にこやかなシェルに質問されたシュレーは、無表情に沈黙して、すぐには答えようとしない。やつは面白くないのだ。イルスにはそれが分かっていた。  練習試合では、たいていイルスのほうが優勢だったし、たまにシュレーが勝っても、勝ちを譲られたことに気付かないほど、彼は能天気ではなかった。 「どっちでもいいだろ、シェル」  もう訊くなという含みをこめて、イルスは代わって答えておいた。シェルはそれに浮かない顔をした。  腹が減ったので、さっさと食欲を満たしたくなり、イルスはひとりで厨房へ行こうとした。 「待て、フォルデス。その返事は、自分のほうが強いという意味か」  かちんと来たらしいシュレーが、どことなく早口に引き留めてくる。  ああ、まったく、と、イルスは内心でぼやいた。とかく勝ち負けのことになると、こいつは粘着だ。いっぺん機嫌が悪くなると、ぼろ負けするまで一歩も退かないので、お互い疲れるばっかりだ。 「めし食おうぜ、シュレー」  どこか頼み込むような気持ちで、イルスは言った。 「私のほうが強い」 「そうか、俺もそう思うよ」 「腕相撲なら」  どこか神聖な気配さえする尊大さで、シュレーは顎を上げて立っている。  イルスは彼の言うことに、一瞬ぽかんとした。  シュレーと腕相撲なんかやったことはない。 「腕相撲?」 「そう。机に肘をついて手を握り押し合う。さきに手の甲が天板についたほうが負け。知らないのか」 「いや、腕相撲は知ってるけど……」  イルスは口ごもって、食卓にいるスィグルに目をやった。彼は、姿勢悪く椅子に腰かけ、いかにも迷惑だという顔をしていた。その次に、横に立っているシェルを見ると、彼は楽しそうに目をきらきらさせて何かを待っている。 「なんで自分のほうが強いと思うんだよ」 「やってみればわかる」  シュレーは、にこりともせずに断言した。  真顔でそこまで言われると、イルスも気分が良くなかった。どうせ、いつもの張ったりだ。そうに決まってる。 「一回だけだぞ」  イルスは挑戦を受けた。  その答えを聞いて、シュレーは初めて、かすかに笑った。自信ありげだった。 「僕、ごはんにしたいんだけど。さっさと食べて部屋に戻って読みたい本があるんだけど。調理人たちはなんで働かないんだろう」  椅子をどかすイルスに、スィグルは横目で文句を言っている。 「すぐ終わる」  自分の右腕を撫でながら、シュレーが請け合った。  そういえばシュレーは右利きで、自分は左利きだった。だからあいつは、自分の利き腕のほうで争えば、勝てるだろうと思っているのだ。イルスはそう考えて、勝手に納得した。  甘いな。  イルスは今回はシュレーに勝ちをゆずってやる気はなかった。手加減するとごねられて長引くし、さっさと食事を済ませたい。  シュレーを黙らせるには、完膚無きまで叩きのめすのが一番なのだ。 「じゃあ僕が審判やりますね!」  嬉しそうに申し出るシェルを、スィグルが心底愛想が尽きたという顔で見上げる。  シュレーは思ったとおり、右腕を使うつもりらしかった。  イルスは彼の手を握って、いかにも冷静そうな緑色の目を見つめた。  ほんとうは腹が立っているくせに、よくそんな何でもないような顔をしてられるもんだ。 「はい、じゃあ数えますよ。さん、にー、いち、はじめ!」  シェルのやる気のおきないかけ声を合図に、イルスは腕に力をこめた。  勝負は一瞬でついた。  シュレーが勝ったのだ。  食卓に押しつけられている自分の手を、イルスは呆気にとられて見下ろした。 「あれ」 「私の勝ちだったろ」  勝ち誇りもしない無表情で、シュレーはさらりと言った。その声が、これでもかというほど勝ち誇っていた。  指をほどいて、シュレーはどこか上機嫌に、厨房に向かおうとした。  イルスはなにか釈然としなかった。 「待て。もう一回、こんどは左でやってみたい」  二度は試さないと自分が宣言していた手前、イルスは恥ずかしかったが、どうしても納得がいかない。  シュレーはこちらを振り向いて、いつになくにやりと笑った。 「いいよ、それで君の気が済むなら」  挑戦に応じたシュレーの左手は、乾いたままだった。  指の長い白い手は、イルスのより僅かに大きかったが、それでも瞬殺されるほど強いとはどうしても思えない。  不思議なのか、スィグルも今度は文句を言わず、卓上で握り合わされたふたりの手を、じっと見下ろしている。  シェルがまた数えた。  シュレーはなぜか、一拍待った。無抵抗の彼の手は、はじめ難なく傾いたが、すぐに石のように重くなった。驚いて、イルスは向き合ったシュレーの顔に目を向けた。  目を伏せて、シュレーが腕に力をこめるのが分かった。渾身の力で押し戻そうとしても、イルスの左手は、ゆっくりと食卓に押さえ込まれた。 「……なんでだ」  思わず、イルスはうめいた。 「私のほうが強いからだろう」  そう答えるシュレーの額には、かすかに汗が浮いている。軽いものだった訳ではないことに、イルスは少し安堵したが、それでも納得がいかない。 「お前、なにかしたんだろ」 「なにかって、なんだ。普通にやっただけだ。君の筋力は、瞬発力はあるが、持久力は私より劣っているんだ。種族的な素養の違いだ」  いつものしたり顔で、シュレーが解説した。こういう話をするときのこいつは、ものすごく嬉しそうだ。イルスはシュレーのその嬉しさをひた隠した無表情と、そうやって語られた話の内容に、腹を立てた。 「種族的な話に持って行くな」 「でもそうなんだ。君たちが鍔迫り合いを避けるのは、やったら負けるからだ。案外、非力だから」 「非力?」  シュレーが言った言葉を、イルスは繰り返した。 「それ、力が弱いって意味で言ってるのか」 「ほかになにか意味があったか」  薄い笑いで唇を開くシュレーに言われて、イルスは傷ついた。  腕力が弱いなんて言われたことは、今までの生涯で一度もなかった。年の割にはよく使うと誉められて育ってきた。それを鼻にかけたつもりはなかったが、たぶんずっと、他の者より腕が立つのは、自分にとって自信の源だったのだ。 「納得いかない」 「そうだろうな。それが敗北するということだ、イルス・フォルデス」  思い知ったか、という口調で、シュレーは話しをまとめようとした。  いつもお前に負かされている自分の気持ちがわかったかと、やつは言いたいのだろう。  もちろん、分かった。なぜシュレーが剣闘技室でやたらと粘るのかも。 「もう一回やろう」 「イルス、僕お腹空いたよ」  ぎょっとして、スィグルが口をはさんだ。 「水でも飲んでろ」  イルスは彼がうるさくなって、邪険にそう答えた。 「だめだもう正気の顔してない。猊下が余計なこと言うから」  スィグルがため息をついて非難すると、シュレーはふふんと笑った。 「何度やっても結果は同じだ」 「そんなはずない。やってみなきゃわかんねえだろ。お前だって練習試合では、たまには勝つんだから」  言い返してやると、シュレーは期待通り、かちんときた顔をした。侮辱に弱い山エルフを乗せるのなんか、容易いものだった。 「それでは君が納得できるまで、何度でも敗北を味わわせてやろう」  腕組みして、シュレーが挑戦を受けた。 「結局、どっちが強いんでしょうね!」  わくわくしたふうに、シェルが尋ねると、スィグルはがつんと食卓を叩いた。 「そんなのどうでもいいんだよ!」  スィグルの叫びに取り合う者はいなかった。  二勝三十六敗だった。  イルスは観念した。  シュレーの話は本当で、いくらやっても奴には勝てないのだ。 「俺ってこんなに弱かったんだ」  椅子でうなだれて、イルスは結論づけた。  空腹もあったが、流れた汗のせいでひどく喉が渇き、腕は疲れてぼろぼろだった。 「まあ控え目に言って、君なんか一捻りだよ」  シュレーが明らかな追い打ちとわかる事を言った。 「てめえも汗だくで、そんな涼しい顔するな」  濡れて痩せた金髪を、シュレーはいかにも一戦終えたという達成感もあらわに掻き上げた。 「大丈夫だ、イルス。君にも私より優れたところはある」 「そうか、それは良かったよ。お前よりなにが優れてるか教えてくれ」  この機にいたぶろうという腹が見え見えのシュレーの上から目線に、イルスは卑屈に応えた。 「それはな」  食卓に珍しく頬杖をつき、シュレーはじっと、うなだれるイルスの顔をのぞき込んできた。 「スフレ・オムレツ」  ゆっくりと教えるシュレーの声を、イルスはあんぐりとしながら聞いた。 「作ってきてくれ。私は腹がへった」  汗だくの天使はそう命じて、椅子にふんぞり返った。  勝ったとなると、どこまでも尊大なやつだった。  イルスは敗北感を背負って立ち上がった。厨房へ行くために。  《終わり》 ----------------------------------------------------------------------- 習作「懺悔室」 -----------------------------------------------------------------------  礼拝の刻限だった。  学院の聖堂が、扉が開かれたことを告げる、独特の鐘を鳴らしている。  行こうか行くまいか、まだ漠然と迷いながら、スィグルは薄暗い石造りの通路を歩いていた。  赤の祭日だったからだ。  厳密には明日だが、その始まりを祝うための特別の礼拝が、日付の変わるこの真夜中に行われる。赤の祭日は、天使ブラン・アムリネスの誕生日だとされている。  おしなべて敬虔な山エルフ族の学生たちは、鐘を待たずに聖堂へ行ったようで、通路には人の姿もまばらだった。  行かないと言って、イルスを先へ遣ったのに、後からのこのこ現れるなんて、かっこつかないなと、スィグルはぼんやりと思った。  やっぱり、引き返してしまおうか。  スィグルは迷った。  天使の誕生日を記念する礼拝だなんて、ばかげた茶番だ。どうして、その本人が、まるでまったくの他人のような顔で、自分を賛美する祭礼に参加できるのか。  いつも聖堂の最前列に与えられた席で、自分たちと並んで、どこか飽きたような表情をしているシュレーのことを、スィグルは思い出した。  そういう横顔を見せられると、響く聖歌によって醸された敬虔な気分は、いつもあっというまに白けた。  やっぱり、学寮に戻って寝てしまおう。真夜中に叩き起こされてまで、跪いて祈るようなことと思えない。今ではもう。  踵を返して、スィグルは立ちつくした。  廊下の向こうから、祭祀のために聖堂へ向かう、白い神官服の列がやってきていたからだ。彼らは学院に仕える山エルフ族の神官だった。  いつもは祭祀を取り仕切っている彼らが、僧冠をかぶった頭をいつになく垂れて従ってくるのを、スィグルは見つめた。その列の先頭を歩いてくる、よく知っているはずの顔を。 「猊下」  驚いて、呆然とスィグルは呼びかけた。  神官服をまとったシュレーは、すぐ目の前で足を止めた。 「レイラス、もう始まるぞ」  金糸で天秤の紋章を刺繍された僧冠に白く飾られた彼の額に、血の一点のような赤い聖刻が、薄暗がりの中でも十分に生々しかった。 「行かないのか?」  シュレーの問いかけを受けるスィグルを、居並ぶ神官たちは、この異端者めという顔で見下ろしてくる。  普段の金曜礼拝をさぼる不信心者は、たまにはいたが、祭日にはたとえ真夜中であっても、寝床から立って歩ける者はすべて参加するものだった。歩けずとも、人に運ばれてやってくる。天使の祭日は特別な日で、それを無視できる者は、神殿への信仰がない者だからだ。 「どうしてそんな格好をしてるんだよ。まるで神官みたいじゃないか」  猊下、と呼びかける皮肉も、今このときには何の嫌みもなかった。シュレーはどう見ても神殿種の正神官だった。 「おかしいだろう。この者たちがどうしても、ブラン・アムリネスの祭日の祭祀を、私が信徒の席から見ている前でやるのは不敬だというので、仕方がないから、祭壇で名を讃えられることにしたんだ」  背後を気にするように、シュレーは身を傾けてスィグルに囁いた。  彼はこの部族の宮廷の客人で、向こうがどうしてもと求めることには、根本的に逆らえなかった。もしも我を通そうとしたら、神殿種の顔で命じることになり、それだと事が大きくなる。  たった一時間の祭祀なのだから、シュレーは折れることにしたのだろう。  スィグルは、あぜんとしてその姿を眺めた。聖典の挿絵から抜け出してきたような、神聖なその佇まいを。 「髪……ちょっと長いんじゃないの」 「ああ、それか。そうだな」  話しかけたシュレーの背後で、神官たちが急かすように、猊下、と小さく呼びかけた。聖堂の鐘はもう、残響さえ消えている。 「あとで話そう。祭祀には来た方がいいぞ」  手袋をした白い手を上げ差し招き、シュレーはまた歩き出した。一緒に来いという意味らしかった。  一歩遅れて、スィグルはよろめきそうな足で歩き始めた。  本当は、いつもこうだったのだ。  学院の制服を着て、友達のような顔をして隣を歩いていたが、本当の茶番はそっちのほうで、シュレーはいつも、こうだったのだ。冒しがたい正神官で、大陸の民を跪かせる神聖な空気を、あたりに発しながら歩く。  彼に引き連れられて、スィグルは一言もなく歩いた。聖堂の大扉には、黒檀の木地を飾る白絹の装飾に、今日ばかりは金の天秤の紋が掲げられている。  天使ブラン・アムリネスの紋章だった。  結局来たのか、という顔で、シェルとイルスがそろって自分の顔を横目に見やるのに、スィグルは黙り込んだまま応えた。  高く天井を持ち上げた聖堂の中には、荘厳な聖歌を歌い上げる声が響き渡っていた。きょろきょろと祭壇から目を背ける者もおらず、スィグルは目立つのを嫌って、おとなしく自分の席におさまった。  祭祀のために用意されている、祭壇のまえの金の小卓の傍らで、シュレーは僧衣のすそを引いて立ち、慣れた仕草で祭礼用の翼のような形をした小杖をとった。  神官たちは祭祀のおわりに、皆に薄く丸い聖餐(せいさん)を与え、それを含んだ口で翼の小杖に口付けさせる。あれはそのための杖だった。  日頃、シュレーにあまり好意的でない学生たちも、今夜はただじっと、食い入るように彼の姿を見つめている。  歌が止み、祭祀のはじまりを告げる聖句を、シュレーの声が唱えた。それは天使の声として響き、聖堂にとじこめられた者たちの脳を、ゆるやかに痺れさせていく。  神官服を着たシュレーを見るのは、これが初めてだった。そんなものを持っているとも知らなかった。  なにかひどい裏切りのような気がした。  天使ではない。跪いてはならないと命じたくせに、今こうして皆を跪かせるとは。  跪け(トーレス)と、シュレーが天使の声で告げた。皆が跪いた。  それは祭祀では当たり前の動作だった。  しかしスィグルは、苦しかった。まるで身が引き裂かれるようで。  あれは天使で、友で、気まぐれになじっても良い相手で、服従すべき主で、跪くなと言った、跪け(トーレス)と命じる、その名はブラン・アムリネスだった。  二律背反する命令が、聖歌に飾られ、スィグルの頭のなかでぐるぐると回っていた。  懺悔室から出てきたイルスは、なんとなく曇った顔色をしていた。 「お前の番だぞ」  席から立たないでいるスィグルに、イルスが小声で促した。  スィグルは聖堂のすみにある、凝った彫刻をほどこされた木製の小部屋を見やった。あの中は明かりのない暗がりで、人がふたり入れるだけの広さしかない。  まだ喉の奥で飲み下せないでいる聖餐(せいさん)を感じながら、スィグルは立ち上がった。白い手袋をした手が差しだした翼の形の杖に、ついさっき跪いて接吻したばかりだった。  王族たちの順番はすぐやってきて、むかつく胸を鎮める暇もない。  しかし次々と行かねばならなかった。祭祀の時間は限られていて、ひとりひとりに与えられる懺悔のための持ち時間は僅かだからだ。  中に天使が待っているはずの小部屋の扉に、スィグルは手をかけた。なんともいえない、恐ろしさがあった。  扉が開くと、よく見知ったシュレーの顔が、まぶしげに外の明かりに目を細めるのが見えた。  スィグルは後ろ手に扉を閉めて、自分たちを閉じこめた。  そして待った。シュレーが、偽りなき言葉で話せ、と命じるのを。 「レイラス」  ひそやかな声で、シュレーが呼んだ。 「さっきの話の続きだが」  あけすけに話し出した天使に、スィグルはあんぐりとした。 「明日、私の髪を切りに来てくれないか」 「か……髪?」  シュレーは頷いた。  椅子にこしかけている彼の前には、跪く者が膝を痛めないように、赤いびろうど張りの膨らんだ台座が置かれている。  居場所がなく、スィグルはそこに膝をついた。 「座るな、狭いんだから」  うるさそうな早口で、シュレーが言った。 「懺悔なんかいい。君の罪なんかいちいち聞かなくても知ってる」 「でも、これは祭祀じゃないか」  泣きそうな気分がして、スィグルは言い返した。 「次の金曜礼拝のときに、学院の神官に聞いてもらえ。こんなものは茶番だ」  顔をしかめて不愉快そうにするシュレーは、気安くて、まるで天使ではないようだった。 「学院が寄越した散髪屋がな、この神官服の仮縫いのときに、たまたま来たんだ。それで、髪を切らせようとしたら、恐ろしくてできないと言うんだ」  ひそひそ声で、シュレーは説明した。懺悔室の中の声は、外の聖歌にかき消されているはずだが、ここは罪を告白する場所で、ひそめた声で喋るのが習慣になっている。シュレーはその癖が抜けないのだろう。 「私の髪を切るのは、いつも恐ろしかったが、神官服を着た姿を見たら耐え難くなったんだそうだ。神殿種の身を傷つけるのは大罪だから」  話すシュレーが回想にも腹を立てているのが、スィグルには分かった。 「馬鹿らしい。髪を切るだけだぞ。それで困って、皆にもさっき頼んだんだが、やつらも嫌だというんだ」  眠気があるのか、シュレーは言いながら、手袋をした手で目元に触れた。 「皆って、シェルとイルスのことかい」 「そうだ。他に誰に頼むんだ」  当たり前のことを聞くなと言いたげに、シュレーは答えた。 「君が切ってくれ。自分じゃできない」  なにか答えようとして、スィグルは唇を開いたが、息しか出てこなかった。なんと答えるか決めていなかった。  喉にはまだ、乾いた聖餐(せいさん)が引っかかっているような気がした。 「いいけど……」  スィグルは自分の喉もとに触れながら、ゆっくりと言葉を選んだ。 「僕の懺悔も聞いてよ」  自分の顔色は、きっと青ざめているだろうと思った。さっき懺悔室から出てきたイルスの顔が、そうだったように。  シュレーはたぶん、全く理解できていないのではないか。自分の姿が見る者に与える気分のことを。天使の権威をことごとに利用するくせに、実はそのことを一番理解していないのは、本人なのではないか。  スィグルに乞われて、シュレーは妙な表情をした。 「君はまた私の知らないところで悪さをしていたのか」 「うん、あんたの絵を描いたよ」 「それぐらい別にいいだろう」  少し意外そうに、シュレーは答えた。生きている神殿種の姿を描くのは不敬とされているのを、彼は知らないのかもしれなかった。 「それから、このまえ講義を欠席するから伝えろって言われた時に、教授には猊下がひどい下痢だから来ないって、みんなの前で言っておいた」 「どうしてそんな下らない嘘をつくんだ君は」  顔を覆って、シュレーは耐え難そうに言った。 「面白いから」  素直に、スィグルは答えた。ここは偽りなき言葉で話す場所だから。 「面白くない」  怒った声で、シュレーが呻く。 「面白いって」  彼をからかうのは、スィグルには心底面白いのだ。ちょっとしたことで、すぐ怒るし、たまに激怒させてしまい、勢いでぶん殴られることもある。  だけど許してくれる。  ブラン・アムリネスは赦しの天使だから。 「レイラス、汝の罪を許す」  そう言えと促すために、スィグルはゆっくりと、シュレーに告げた。  白い手袋をした手をどけて、そこから現れたシュレーの顔には、「呆れた」と書いてあった。  懺悔室にこもれる時間は、そろそろ尽きそうだった。外で暗にそれを知らせるため、定期的にならされる鐘の音が聞こえていた。 「レイラス……」  凄みのある苛立った声で、シュレーが呼びかけてきた。 「汝の罪を許す」  にやりと微笑んで、スィグルは懺悔室での作法どおり、跪いたまま身を折って、神官服の裾に口づけをした。するとシュレーがうるさそうに、スィグルの大仰な仕草を足で押し返してきた。 「明日行くよ。散髪しに」 「フォルデスにもう一度だけ頼んでみてくれ。君にやらせると、どんな目にあうか怖い」  去り際の背に、シュレーが愚痴った。  スィグルは振り返って、意地悪く彼に微笑みかけた。  喉に張り付いていた聖餐(せいさん)が、その拍子にふと剥がれた。スィグルはそれを、小さく喉を鳴らして呑み込んだ。  扉を開くと、聖歌が響いていた。  赦しの天使、静謐なる調停者、ブラン・アムリネスの名を讃えて。  《終わり》 ------------------ いただいたお題より、01.散髪、14.茶番劇、10.二律背反の三つを消化したつもり。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「芋祭り」 -----------------------------------------------------------------------  芋(いも)祭りの夜だった。  シェルの畑で大量発生した小さな芋(いも)が、いちどきに収穫され、いちどきに皮を剥いて茹でられようとしていた。  なにも一気に料理しなくてもいいのではないかとイルスは思うが、そもそもの事の始まりは、シュレーが本で読んだという保存食の話で、そのために適した品種の芋の栽培がシェルに依頼され、ちょっとでいいのに調子に乗ったシェルが山ほど苗を植え、今夜の芋祭りへと繋がっている。  収穫時期を逃すと味が落ちるというので、総出で芋掘りをし、総出で皮を剥いている。  もっとも、シェルが剥くと皮が九割で芋がなくなり、スィグルを働かせると、手を動かすより不満を言う口のほうが忙しなくうるさいので、その二人はただ厨房の通り道を塞いで立っているだけで、口より手を動かしているのは、イルスとシュレーだけだった。  あまりにも退屈なので、芋の山と格闘する間、イルスは世間話でもしたかったが、シュレーは膨大な単純作業に酔う質(たち)のようで、自分の手元に没入して、目を爛々とさせるばかりだ。  そうして一言も喋らなかったシュレーが、突然小声で歌い出したので、イルスは軽い驚きで芋だらけの視界から目を上げた。  空耳かと思ったが、椅子に軽く腰掛けて、くるくると小振りな芋の皮を剥いているシュレーが、かすかな声で鼻歌を歌っている。  シュレーが歌うのを、いままで聴いたことがなかった。聖堂での祭祀のときでも、神官が聖歌を促したとして、シュレーは面白くもなさそうに黙りこんでいたからだ。そういうことに興味のない性格なのだと思っていた。  なんの歌を歌っているのかと、イルスはしばらく手を止めて耳を澄ましていた。  どうやら聖歌のようだった。イルスには聞き覚えのある曲だった。  頑として歌わないのだから、もしかして音痴なのではないかと勝手に疑っていたが、聴いていると、そうでもなかった。  イルスがそう言おうとしたとき、ふと歌い止んで、シュレーがじろりとこちらを見た。 「手が止まっているぞ、フォルデス」  それに気付いて、現世に帰ってきたというような顔を、シュレーはしていた。よっぽど芋を剥くのが楽しいらしい。 「お前が鼻歌を歌ってたから、珍しくてつい聴いてたんだよ」  イルスは説明したが、どうも言い訳めいた口調になった。シュレーが不機嫌そうな顔をする。 「歌ってなんかいない」 「自分でも気付いてなかっただけだろ」  そういうことはあるものだ。イルスは肩をすくめて、大人しく芋祭りに戻った。 「私には、歌える歌なんかない」  断言して、シュレーは籠から新しい芋を取った。 「聖歌だったぞ。確か天使サフリア・ヴィジュレの」  教えようと、イルスは聖堂で耳慣れたその曲を口ずさんでやった。  シュレーの手の中にあった芋が、皮むきナイフに一刀両断され、その切っ先が白い手に突き刺さるのが見えた。 「うわあ」  誰よりも早く、遠目に見ていたシェルが、素っ頓狂な悲鳴を上げた。イルスは驚きのあまり声も出なかった。  痛くないのか、シュレーはどこか慌てたふうに、手を貫いたナイフを引き抜いた。それを調理台に置いて、シュレーはもう片方の手で傷口を押さえたが、そんなもので出血が止まるような傷ではなかった。 「血が出てます!」  見ればわかることを、シェルが叫んだ。 「私はヴィジュレの賛美歌なんか歌わない」  小さい子供が傷を隠すように、シュレーは真顔で言って、暗いが平然とした顔をしていた。 「君の聞き間違いだ」  そうだと言えという含みのある口調で、シュレーが念押ししてくる。 「聞き間違えじゃないと思うけど……俺の守護天使だから」  その返事にシュレーは一瞬、卒倒しそうな顔をした。彼がなにに衝撃を受けたのか、イルスには全く見当もつかなかった。 「痛くないのか、それ」 「痛い」  シュレーがそう認めると、急に調理場の緊張がほどけ、シェルが粟を食って駆け寄ってくる。 「医務室にいきましょう、手当しないと」  シェルが腕を引くと、シュレーは首を振って拒んだ。 「自分でやる」 「縫わないといけないと思います」 「自分で縫うからいい」  シェルにとっては、その考えは、精神的に耐えられる限界を超えていたらしく、彼はあんぐりと口を開けたまま、返事らしい返事をしなかった。  のろりと遅れて寄ってきたスィグルが、シェルの代わりだという気配で、怪我をしたシュレーの手の前に自分の手を差しだした。 「治せるよ、僕は治癒も使うから」  シュレーの手を赤く染めた出血は、厨房の床に滴り、いくつもの赤く小さい丸を描き出している。差し出された魔導師の手を見下ろして、シュレーは真顔でいた。迷っているようだった。 「……守護天使とは何だ」  大きな息をしながら、シュレーが誰にともなく、そんなことを訊いた。スィグルに傷を見せるつもりがないようだった。 「生まれた日を司る天使が、その人の守護天使です。僕のは天使アズュリエ・カフラ」  シェルが心配そうな青い顔で、静かに説明した。なだめるようなその口調は、シェルが森の中で出会った臆病な生き物に話しかけている時とそっくりだった。 「カフラ?」 「そうです。深い意味はないです、大陸の民の習慣です。誕生日には、守護天使に捧げものをして、加護を願います。それだけです。イルスは天使サフリア・ヴィジュレの司る日に生まれたというだけの話なんです」 「そうか……」  それを聞いて、ほっとしたように、シュレーの声が和らいだ。  まずいことを言ったようだと、イルスは反省した。 「ヴィジュレよりはカフラのほうがましだ」  痛そうな顔をして、シュレーはやっと傷口を押さえていた手を開いてみせた。手のひらに、ナイフが突き抜けた傷がぱっくりと開いている。血は脈に合わせて流れ出ていた。  スィグルがその傷の表と裏を、両手で包んだ。  特段、なにかしている風でもないスィグルの顔を、シュレーは不思議そうに見下ろした。 「君にもいるのか」  恐ろしそうに問いかけるシュレーを、スィグルは首をかしげて見上げている。スィグルにも、守護天使がいるのかと尋ねているのだろう。それは誕生日があるかと聞くのと同じことだ。 「いないよ」  静かにそう答えて、スィグルが両手を開くと、そこから現れたシュレーの手は、怪我をしたのが幻だったように、完全な無傷だった。シュレーはそれを確かめるように、手を開いたり握ったりした。 「治ってる」 「偉大なる魔法種族に敬意を払う言葉はないわけ」  スィグルがふんぞり返るのを見て、シュレーは苦笑した。 「ありがとう、助かった」 「まさに華麗なる奇蹟」  にっこりと微笑して、スィグルは自分でほめ言葉を付け足した。 「それじゃ調理人たちは芋祭りの続きを。不器用な猊下が、またぶすっとやったら呼んで。僕は向こうでさぼってるから」  そしらぬ顔で、スィグルは厨房を出て行った。  シェルが腹でも痛いような顔をして、その場にしゃがみこんだ。なんたが、くたびれたらしかった。 「魔法って疲れるんでしょうか。殿下は、僕の怪我はぜんぜん治してくれないのに。殿下が僕の足をひっかけて、階段から落ちても、それでも治してくれないですよ?」  すねているらしかった。イルスは印象を訂正した。  ぶうぶう言うシェルに、シュレーがなにか言ってやっていた。深手とかすり傷の違いじゃないのかとか、君は怪我が多すぎるからじゃないかとか、そういう、あまり元気の出ない話だった。  それでも、言い含めて宥める役はシュレーのほうで、慰められるのはシェルであるほうが、いつもらしくて良かった。  その逆はいやだ。 「ごめんな」  消沈して、イルスはシュレーに詫びた。  シュレーは案の定、なぜ謝るんだという顔をした。  殺しても死なないような図太いやつだが、いったん崩れると弱く、突いてはならない弱点がある。本人がそれを知らないようなのが、いちばん哀れだった。  祈っても、馬鹿馬鹿しいからと言って、スィグルは自分の誕生日を聖堂で祝いはしない。  守護される必要があるのは、どちらかというと天使のほうだ。 「レイラスには、なぜ守護天使がいないんだ。皆にいるんだろ?」  気を取り直したように、ナイフを洗いながら、シュレーが尋ねてきた。イルスは新しい芋を籠からとった。 「さあ。たまには、いないやつも、いるんじゃないのか」  イルスは、はぐらかした。シュレーは釈然としないようだった。  考えて分からないはずはないのに、この時ばかりの異様な鈍さは、まずい兆候だった。 「なあ、シュレー。これ全部剥くのか? 俺もう飽きたんだけど。残りは明日にして、今日はもう剥いたぶんだけで作ろうぜ」  話をそらすと、シュレーは期待通り、むっとした顔をした。 「君はなんて、根気がないんだ」 「俺の根気はほかの時に使うからいいんだ」 「それはどういう時だ。眠っている時か?」  冗談で言っているわけではないらしいシュレーに、イルスは情けなくなった。よくそんな無遠慮なことが言えるものだ。どこまで舐められているのか。  シュレーにいつものように悪態をつきながら、イルスは考えた。  スィグルの誕生日はいつだったろうか。  この四人でお互いの誕生日を祝い合うことは、後にも先にも、きっと永遠にないのだろう。  シュレーはいつ生まれたのか分からなかったし、スィグルの守護天使はブラン・アムリネスだったからだ。  でも、それでいい。  その代わりに、自分たちには芋祭りがあるじゃないか。  イルスはまだ籠に山盛りになっている、嫌みなほど皮の固い芋を、切ない苦笑とともに見つめた。  《終わり》 ---------------------------------- いただいたお題より、12.手と手、15.血が止まらない を使いました。「カルテット」本編らしい、地味シンミリ系作品だった予感。トル学でもやってましたね、芋祭り。頻繁にやっているのです。 ----------------------------------------------------------------------- 習作「水に潜る」 -----------------------------------------------------------------------  その小さな湖のことを、学院の山エルフたちは竜の水(リッツア・ドラグナ)と呼び習わしている。  トルレッキオには、竜(ドラグーン)にまつわる名を持った場所が多い。それはこの地の深くに、今も生きた竜が棲んでいると彼らが信じているせいかもしれなかった。  竜の水かどうかは別にしても、リッツア・ドラグナ湖の水は上質で、いつも冷たく澄んでおり、底知れない深く暗い青をしていた。  実質この湖の水が、トルレッキオ学院の主な水源であり、そして、シェル・マイオスの不気味な農地の水源でもあった。  日照りが続くと、シェル・マイオスはいつも熱心そうに湖へバケツを持って出かけていき、水を汲んでは畑に撒くのだ。  事の起こりは、十日ほども雨が降らないまま晩秋の日が過ぎた頃のことだった。  何日も前から、そわそわと落ち着かなかったシェルが、とうとう意を決し、午後の講義をさぼるから、よろしくたのむと言い置いて、バケツを握りしめ走り去っていった。  なにをよろしく頼まれたのか、良く分からなかったものの、私はてきとうに頷いておいた。歴史学の講義で、隣にシェル・マイオスが座っていないことは、私にとって行幸だったからだ。  マイオスは独り言が多い。  それは独り言ではなく、私に話しかけているのだと彼は言うが、まがりなりにも私語が禁じられている講義室で、彼が感激したり、納得したり、興味をひかれたりした話題が教授の口から出るたびに、へえ、とか、すごいなあとか話しかけられることに、私の神経はかなりすり減っていた。  マイオスがなぜ私の隣にわざわざ座るのか分からないが、とにかく彼から離れようと、講義のたびに席を移るのだが、マイオスはやはり意図して私の隣をねらっているらしく、どこへ逃げても追ってきた。  おかげで近頃では、うるさいマイオスの脱力を誘う感想談話を嫌って、私たちの近辺の席を避ける学生が多く、私が講義室にあらわれると、皆の目が、今日はどこに座るのだと問いかけてくるような気がする。  そのあまりの気まずさに、私はいつも講義室の一番奥の、可能な限り皆から離れた場所を選ぶことにしていた。そこでも一時間の講義の間、マイオスの独り言に耐え続けるのは針のむしろだったが、今日は違う。  今日は、シェル・マイオスは来ないのだ。  その開放感に浸りながら、私は大陸史の講義に耳を傾けていた。  心地よい静けさのなか、教授の話は四部族分裂の時代にさしかかろうとしていた。  講義室の大扉が激しく開かれたのは、そのときだった。  ばん、と、けたたましい音をたてて黒檀の扉が開き、その向こうに、全身ずぶ濡れのシェル・マイオスが立っていた。わんわん泣きながら。  私はとっさに、赤の他人のふりができないものかと思った。彼が私を見つけられない可能性もあるのではないかと。  しかしマイオスは初めから私がどこに座っているか知っていたような、迷いのない目で、こちらを見つめ、わっと泣き崩れた。 「ライラル殿下! いっしょに来てください。竜の水に僕の額冠(ティアラ)を落っことしてしまいました」  自分が口にした事実に再び撲たれたように、シェル・マイオスは廊下に膝をついて泣き伏した。がらんがらんと激しく何かが転がる音がした。  マイオスが、持っていたバケツを落としたからだった。  教授はもちろん、大講義室にいた山エルフ族の学生の顔が、すべて私のほうを向いていた。  気のせいではないかと思おうとした。  だがそんな逃避は通用しなかった。なにも答えない私に焦れて、シェル・マイオスが私の名を繰り返し泣き叫んでいたからだ。  私は立ち上がって、中央の講壇に立っている教授と目を合わせた。 「退出してもよろしいでしょうか」  私が尋ねると、教授は慇懃な黙礼をした。 「ご随意に、猊下」  皮肉のたっぷり利いた返事に送られ、私は講義室を出るため歩き出した。  でも一言許されるならば、その場にいる全員に言ってやりたかった。  うるさいのは私ではなく、シェル・マイオスで、私は彼とは関係ない。私も被害者なのだと。  まだ泣きべそをかいている水浸しのシェル・マイオスを連れて現れた時、スィグル・レイラスとイルス・フォルデスは学棟の合間にある列柱広場にいた。次の講義のために彼らは移動中だった。  シェルが、ちょうど行き会う頃合いに彼らがそこを通過するはずだというので、彼を信じて行ってみたのだ。使わないという約束をしたはずなのに、シェルはいつも感応力を使って、私たちが学院のどこにいるかを調べているようだった。  彼は寂しいからそうしているらしい。私はそれが気の毒に思えて、いつも気付かないふりをしてやっていたが、そう思わない者もいる。 「なんで僕らがここにいるって分かったんだよ。滅多に通らないのに!」  憤慨したふうに、スィグルは濡れ鼠のシェルを詰問した。答えを知っているなら尋ねなくてもいいと思うのだが、そういう時こそレイラスは口うるさいやつだ。 「イルスを探していたんです。スィグルには用がないから、どこへでも行ってください」 「誰に向かって口をきいてるんだ、こいつは」  さらに憤慨して、スィグルは怒りの形相になった。怒っていても彼の顔は人形のようで大して凄みがない。 「俺に用って?」  あぜんとした顔のまま、イルスは私に尋ねた。  なぜ私に訊くのだろう。私は無理矢理連れてこられただけで、彼には何の用もない。  そういう態度でいたつもりだったが、イルスはいかにも私が話すだろうという顔をして待っているので、諦めて私は腕組みてしていた腕をほどいた。 「マイオスが額冠(ティアラ)を湖に落としたらしい。命の次に大事なものなんだそうだ」 「まあ……そうかな」  イルスはうなずいた。  エルフ族の王族にとって、額冠(ティアラ)は自分の身分を証すものであり、生まれた時に作られ、墓まで持って行くものだ。それを奪われることは首をとられたことを意味しており、名誉がかかっていた。 「取りに行ってやってくれ」  なぜ私が頼まないといけないのか。そう思いながら私はイルス・フォルデスに申し入れた。すると彼は、なんともいえない困った顔をした。 「竜の水(リッツア・ドラグナ)? シェルが水くみに行ってる、あの湖か?」 「そうだ」 「そうだ、ってお前。いまが冬だって知ってるのか」 「まだ秋だ」  私はイルスの見解を訂正した。トルレッキオはまだ秋だった。しかしスィグルとイルスはもう外套を着ていた。彼らは寒がりだったからだ。 「お前には秋でも、俺にはもう冬だ。それにあの湖の水は夏だって尋常じゃなく冷たい」 「山渓の雪解け水が、地下水になって、あの湖に流れ込んでいるらしいから」 「そんな豆知識はいい」  深刻な顔で、イルスは私の話を遮った。 「せめて春まで待てないのか、シェル」  イルスがそちらに目を向けたので、私も自分の傍らに立っている小柄な森エルフの姿に目をうつした。シェル・マイオスは蒼白な顔で、がたがたと震えながら、涙まで流していた。 「……イルスを、説得してください」  歯の根が合っていないが、彼の意志は鮮明だった。私に言っているのだった。 「フォルデス、何ヶ月もたったら、見つかるものも見つからなくなる」 「シュレー、お前、そんな薄着で平気なんだったら、お前が行け。竜の水に潜れ」  講義中に連れ出された私は、確かにシャツ一枚だった。平気なわけではなく、寒かった。ただ寒さに耐えられるだけだ。 「私は泳げない」  答えると、えっと大仰にスィグルが驚いた。驚くようなことだろうか。 「なんで泳げないんだ」  情けないと言わんばかりの顔で、イルスが尋ねてくる。 「泳ぐ必要がなかったから」  それ以外の理由があるのかと思ったが、イルスはまるで私がとんでもないことを言ったような顔をしていた。 「お前、それで、恥ずかしくないのか」 「微分積分が全く理解できなくて恥ずかしくないのかフォルデス」 「じゃあこの話はいい」  私が即答してやると、片手で顔を覆って、イルスはうなだれた。 「とりあえず行くだけ行ってみる。シェルは着替えたほうがいいんじゃないのか」 「ありがとうございます」  私に言ったのか、イルスに言ったのか、はっきりしない礼を述べて、シェル・マイオスは震えながら、自分の身を抱いていた。確かにこのままでは風邪ぐらいはひきそうだ。 「場所は伝えますから、先にいっててください。日が暮れたら探せなくなりますから。僕も部屋で着替えたら、すぐ行きます」  今度は明らかに、マイオスは私に向かって喋っていた。  学寮にいる者が、どうやって竜の水にいる者に場所を伝えるつもりなのだ。  マイオスが感応力を使って私を伝令がわりにするつもりなのは、考えるより早く分かったが、私はその考えから逃れようとした。午後の講義に戻るつもりだったからだ。  しかし、よたよたと去っていくマイオスから、すでになにか目に見えない糸のようなものが伸びてくる感じがした。それは神殿で使われる翼通信に似ていたが、もっと漠然と曖昧な声であり、もっと明確に他者を使役するための力だった。 「じゃあ頑張ってね。晩ご飯までには戻ってくるんだよ」  レイラスがにやにやと暢気な口調を作った。 「君は来ないのか」  私が誘うと、レイラスはますます、にやりとした。 「行かない、僕は用なしだし、泳ぐ必要もないから。温かい講義室で昼寝でもするよ」  手を振って、レイラスは意気揚々と列柱広場を抜けていった。  私は、ひどく憮然としたイルス・フォルデスと、列柱の陰に残された。足元を見ると、シェルのバケツが置き忘れられていた。  そのことを考えた瞬間、どこからともなく伸びていた糸がふるえ、私はむしょうにそのバケツを拾いたくなった。マイオスはこれを、持って帰ってほしいらしい。  しかし私は、へこんだ使い古しのバケツなど持って歩きたくない。腕組みをして顔をしかめた私を、イルスはじっと見ている。 「シュレー、お前はシェルに甘すぎだ」 「甘いわけじゃない」  いらいらして、私は目を伏せた。脇に挟み込んだ両手が、むずむずする。  バケツを拾いたくて。 「とにかく行こう」  広場の石畳に長靴の底を鳴らして、私は足早にその場から逃げだそうとした。仕方ないというふうに、少し遅れてイルスはついてきた。  ほとんど走るような早足の私を、イルスは不思議そうに眺めたが、やがて私が立ち止まって、踵を返すのには、イルスはあ然とした顔をした。  その視線を浴びながら、私は走っていることにならないぎりぎりの早さで、列柱広場まで戻り、バケツを拾った。屈辱感に打ちのめされながら。 「マイオスを殺すしかない」  水際で私がぼやくと、イルスは湖の水に素足をつけて立った後ろ姿のまま、声をあげて笑った。 「あいつが本物の守護生物(トゥラシェ)を見つけるまでの辛抱だろ」 「ときどき我慢の限界を超えている」  シェル・マイオスの感応力の細い糸は、今でも学寮のほうから延々と、私の後頭部あたりに繋がるように、切れずに伸びていた。マイオスに言わせれば、これが可能な距離の遠さが、感応力の強さのひとつの目安らしい。  森エルフたちの持つ力がどれくらいのものか私は知らなかったが、シェルの力は、私が学院の端まで逃げても、その支配域から出ることができないほど広範囲にわたっていた。私に限らず、シェルは学院にいる者なら誰でも、彼らがどこにいるか探すことができる。  私にはシェルが伸ばしてくる目に見えない糸が感じられるが、他の者には分からないらしい。繋がれるのは契約した相手だけだとシェルは言っていた。彼は頑として認めないが、それはつまり、支配したものしか操れないという意味だ。  人を感応力で操ってはならないというのは、森の者たちの掟らしい。私にそれをやっていることが同胞にばれれば、彼は罰を受ける。  どんな罰か知らないが、受ければいいと、私は毎日彼のことを心の底から呪っている。 「それで、シェルはどこに額冠(ティアラ)を落としたって?」  暗い青の水底を透かし見るようにうつむき、イルスは本題に入るよう促した。 「厳密には」  シェルが伝えてきた要領を得ない情報を、私は自分の頭の中で整理した。 「落としたのではない。マイオスが竜の水に落ちて、水から上がってきたら、額冠(ティアラ)がないことに気付いた。場所はこのあたりに間違いない」 「深いな、ここは。中はどうなってるんだ」 「知らない。伝承では、この湖は底なしで、冥界に続いているらしい」 「冥界?」  その言葉を知らなかったようで、イルスは私に尋ね返してきた。彼は公用語の語彙に不足があり、日常使われない言葉を知らないことが度々あった。 「死んだ後に行く世界のことだ。実際にあるわけではない。レイラスが信じている月と星の船と同じようなものだ」 「あいつは本当に信じてるんだから、本人の前でそんなこと言うなよ」  振り返って念押しをしたイルスの顔は苦笑していた。スィグル・レイラスが信じていようがいまいが、彼が期待するような楽園の船など妄想の産物だ。そう思えたが、私は黙っていた。信じるのは自由だ。  決意したのか、イルスは外套を脱いで、私のほうに放って寄越した。制服の緑色のシャツも脱いで寄越し、肌着だけになってから、ふと思いついたように、自分の額冠(ティアラ)を外して、それも私に投げ渡した。 「持っててくれ。シェルの二の舞はごめんだからな」  私は彼の額にある竜の涙を、久しぶりに見た。  イルスはもう一歩、水の中へ歩いていった。膝上まで竜の水につかってから、彼はこちらを振り向いた。彼があと一歩先へ行くと、そこから先は暗い水中の奈落だった。 「なんであいつは水を汲むために、こんな奥まで水の中を歩いたんだ?」  水が冷たいらしく、イルスはかすかに震えていた。 「水の中を見たかったようだ」 「見てどうするんだよ、まったく、あいつは変わり者だぜ」  悪態をついて、イルスは深く息を吸ったようだった。そしてそのまま私を見て、一歩後ろへイルスは歩いた。ほとんど水しぶきも上げず、イルスの体は水に呑まれた。  水中に消えた彼の姿に、私はなぜか、ひどくぎくりとした。  真夏でも、ここで泳ぐ者はいない。水が冷たいこともあったが、例の伝承が原因だった。水底から、この世のものではない者が、ときおり浮き上がってくると、山エルフたちは信じている。それに足を掴まれるのを恐れて、竜の水に入るのを避けている。  迷信深い民族だから。  そう思いながら、私は竜の水の底を透かし見ようとした。  どこを泳いでいるのか、イルスの姿はちらりとも見えなかった。  彼は深く潜り、そして私が焦れて水に入るまで、浮かび上がってこなかった。  彼ら海エルフが水中に長く留まれることは、あらかじめ知っていた。だから彼に探索を頼んだのだ。  でも彼は寒いと言っていた。 「イルス・フォルデス」  心配になって、私は意味なく呼びかけたが、その声は波のない水面を上滑りして消えただけだった。  確かに、足を浸す水はひどく冷たかった。この中に全身浸かったら、どんな感じがするのだろう。 「イルス」  私は声を強くして、もう一度水の中に呼びかけた。  水面にさざ波が立った。  それから長いように思える時間が過ぎて、ほとんど真上に浮かび上がってきたように、イルスの姿が水面を割って、潜ったときと同じ場所から現れた。  彼は苦しそうな荒い息をつきながら、水に浸かっている私の長靴を見た。 「シュレー、岸で待ってろ。お前まで落ちてくるなよな」 「そんなドジを踏むのはマイオスだけだ」 「水の中の石は滑るんだ。どうしても入るんなら裸足になれ」  また潜るつもりなのか、イルスは深い呼吸をしていた。 「見つかりそうか」  私が尋ねると、イルスは小さく首を横に振った。 「深すぎる。底まで行けなかった。お前の話じゃないけど、底があるような気がしない」 「無理をするな。助けに行ける者がいない」 「そうだな、お前は泳げないしな」  からかうような声で言って、イルスはまた水の中に消えた。  泳げたところで、イルスより深く潜れるわけがなかった。みるみる掻き消えていく彼の姿を水底に見て、私は軽い苛立ちを感じた。  軽率だったのではないか。シェルが頼めと泣きわめくので、深く考えずにそうしたが、二度目に潜るときのイルス・フォルデスの顔は、落とし物を捜しているようには見えなかった。  彼は竜の水(リッツア・ドラグナ)の底まで行こうとしているだけなのではないか。シェルの額冠(ティアラ)が底に沈んでいるというなら、同じことかもしれないが。  額冠(ティアラ)がどれだけ大事なものかは分からないが、ただの金属の環だ。シェルにはそっくり同じ物を作ってやればいいだけのことではないのか。  もしイルスが水底からあがってこなくなったら、助けに行ける者はいない。彼の額冠(ティアラ)だけが残る。  それはいやな想像だった。  また彼の名前を呼びかけたい衝動にかられたが、その必要はなかった。水しぶきをあげて、イルスが浮かび上がり、私の足元にある水中の断崖に取り付いた。彼は肩を揺らす荒い息をしていた。 「なにかいる」  浅瀬に這い上がりながら、イルスはひどく驚いたように恐慌していた。 「魚か?」 「いや、ちがう。もっとでかいものだ。俺を見た」  立ち上がろうとするイルスの腕を掴み、私は手を貸した。彼の体は冷え切っていた。 「そんな間近にいたのか」 「遠かった。音を投げてきたんだ」  湖をふりかえって、イルスはそう言った。顔を伝い落ちる雫を、彼は拭いもしなかった。  イルスの話が理解できず、私は無表情になった。 「剣貸してくれ、シュレー」 「持ってない。講義中だったから」 「俺もだよ。いっぺん戻って取ってきてくれ」  イルスが水に戻ろうとしたので、私は彼の腕をつかんで引き留めた。 「やめろ。武器が必要だと思うようなところに行くな」 「でも、シェルの額冠(ティアラ)は?」 「ただの装身具だろう。命を張るようなものか」  私は忠告したが、彼は聞かなかった。腕を掴んでいる私の指を外させて、イルスは一歩水中に退いた。 「お前が探せって言ったんだぜ」 「もうやめていい」 「冥界の者かもな」  悪戯っぽく、イルスは言った。  水に体温を奪われた彼の顔色はひどく悪かったが、目は輝いていた。 「あと一回だけ」  イルスは私に言い訳するように小声で言った。 「これでもし君が死んだら、墓碑銘は私が考えていいか」  言うことをきかないイルスに腹を立てて、私はそう返事をした。どんなことを墓に刻むつもりか、イルスの目が私に尋ねていた。 「イルス・フォルデス・マルドゥーク、忠告をきかない者、溺れて死す」 「かっこわる」  笑って答え、イルスはまた水中に消えた。 「やあ猊下」  背後から呼びかけられ、私は心底驚いた。  水の中を見るのに必死になっていたらしい。  振り返ると、スィグル・レイラスが珍しく大荷物を持って立っていた。  講義で居眠りしているはずじゃなかったのか。 「シェルが寝込んだよ」  気味が良さそうに教えて、スィグルは荷物を足元に置いた。 「イルスは?」 「水の中だ。戻ってこない」 「大丈夫だって。ここでは死なないだろ、予言によれば」  荷物の中から素焼きの酒瓶を取りだして、スィグルは私にそれを振って見せた。食堂の厨房からとってきた葡萄酒のようだった。 「飲んだら? 顔色真っ青だよ」 「水の中に何かいるから、剣が欲しいと言っていた」  岸に立っているスィグルに、私は言った。  それなのにあいつは潜ったと、私は言いたいらしかった。 「へえ。剣までは思いつかなかったな」  私の告げ口を聞いて、スィグルは、それはけしからんと答えるような、芝居がかった眉のひそめかをした。 「シェルもそんなこと言ってたよ。水の中から何かが呼んでたんだって。悪いもんじゃないみたいだけど、とにかく、その呼び声でぼけっとなって、水に落ちたらしいよ」  荷物の中から、外套を取りだして、水の中に立ったままの私に、スィグルはそれを放って寄越した。 「着なよ。ちゃんとあんたのだよ、部屋までとりにいった」  秋の日は気ぜわしく傾き始めており、シャツ一枚では確かにあまりにも寒かった。私は大人しく、スィグルの好意を受け取った。 「遅いね、イルス。いつから潜ってるの」 「君が来る少し前からだ」 「ふぅん……」  気のないような返事をして、スィグルは私の背後にある湖を眺めた。 「シェルが謝ってたよ。力を使って悪かったって。後で見舞いにいってやって」 「別にいい。持っている力を使うのは、結局彼の自由だ」  不本意だが、シェルがその力を使って押し通そうとすることは、子供っぽい我が儘の類で、私の気分が悪いというほかには、これといった実害がなかった。  今までは。  私は上の空で答えていた。水面はまだ静まりかえったままだった。  イルス・フォルデスは初め、頼まれて、いやだと答えた。 「あんたも他人の心配をするようになったんだ」  きゅうにスィグルがそんなことを言うので、私は意表を突かれて彼のほうを振り返った。 「イルスのことだよ」  スィグルは湖のほうを顎で示して、それから私の顔に目を戻した。 「それとも、それはシェルに操られて心配してるわけ?」  もう陽が落ちるのではないかと、私は思った。スィグルの顔には濃い陰影が落ちていた。 「別にいいんだよ。ここにいる間は楽しくやっても。僕もそのほうが楽しいし、他にやることもないしさ。だけど時々疲れちゃうよね。シェルやイルスは確かにいいやつだけど、あいつらが猊下を骨抜きにしちゃうんじゃないかって、僕は心配なんだ」  黄昏時の頼りない光の中で、スィグルは微笑みながら佇んでいる。 「ヤワなあんたが、この世界を壊したくなくなったら、僕はどうすりゃいいのさ?」  軽口のように言うスィグルの顔は、私を責めていた。  彼の目には、私はときどき、この学院での暮らしに浮かれているように映るらしかった。レイラスはいつも私のことを猊下と呼び、私に自分が誰なのか忘れさせないようにした。他の者がそう呼ぶのは皮肉であったり、敵意であったりしたが、彼のは祈りだった。 「約束しただろ。神殿と戦うんだろ。僕らはそのための駒なんだろ。イルスは死んでも代わりがいるよ。僕やシェルだってそうだ。そんな心配そうな顔すんなよ。もし僕らがいなくなったら、あんたどうするの」  不安げな性急さで、スィグルは私に尋ねた。 「代わりをさがす」  私は、彼が期待する答えを与えた。  スィグルは安心したように、また微笑んだ。 「そうだね」  外套をかき合わせて、スィグルは私から目をそらし、湖を見つめた。 「そのほうが天使らしいよね」  レイラスは、私の野望に憎しみの薪をくべる炎の供給源で、私が幸福になるのを決して許さない。同盟の人質は偶然集められたはずだが、どうしてこんな奴がやってきたのかと、私はときどき不思議になる。  もし、レイラスがいなくなったとして、彼の代わりがどこかで見つかるものだろうか。  イルス・フォルデスの代わりが。  シェル・マイオスの代用になるものが、ほかに見つかるだろうか。  私は今、千載一遇の機会をとらえていて、奇跡的な偶然の中にいるのではないか。  彼らといると、時々、ふとそういう気がした。それを話すと、たぶんレイラスは怒るだろうが。  突然、待っていた水音を背後に聞いて、私は振り返った。  イルスの疲労しきったような背が、水中の断崖にとりついていた。 「なにをやっていたんだ、死んだかと思った!」  怒鳴りつけると、イルスはぜえぜえ息を吸いながら、返事もせずに水中から腕をあげ、私になにか差しだした。  シェル・マイオスの額冠(ティアラ)だった。  金に緑の石で装飾された植物の文様が、夕日を浴びて鈍く輝いている。 「戻ろうとしたら、見つけたんだ。あと一回だけって約束したし、ちょっと無理した」  苦しげな呼吸にまぎれて、説明するイルスの話は切れ切れだった。浅瀬に這いあがろうとして、彼は何度も失敗した。手伝ってやるべきかもしれないが、腹が立っていたので私は無視した。 「シュレー、ぼけっと見てないで手を貸せよ。寒いんだって」  イルスは私の長靴を掴んで、泣き言を言った。長靴の革はすっかり水を吸っていて冷たく、不快だった。 「私は止めた。君が勝手に行ったんだ。自分でなんとかしろ」 「よくそんなこと言えるな」  岸へ歩こうとする私をなじるイルスの声は恨みがましかった。  ふん、とため息をついた私の片足を、イルスは思い切り水中に引いた。  預かっていたイルスの額冠(ティアラ)を落としかけて、私はそれを握りなおすのに気をとられた。青い石をつけた金属を両手で持ったまま、気がつくと私は水中に沈んでいた。  竜の水は猛烈に冷たく、急激に冷やされた肌は、なにか鋭いもので刺されたように痛んだ。水面は薄明るい光の板だった。遠ざかるそれを見上げて、どうやって泳ぐのだろうかと、私は考えた。  水面の光を乱して、粟を食ったようにイルス・フォルデスが水中に現れた。彼はあっと言う間にこちらに泳ぎ着き、私の腕を掴んで水面へと引き上げようとした。  彼の額冠(ティアラ)を落とさないように、私はそれだけをしっかり握っていた。彼らにとってこれは、命の次に大事なものらしいから。  私を浅瀬に押し上げてから、イルスはまた一度潜り、それから死んだもののようにゆっくりと浮いてきた。仰向けになって竜の水に漂い、イルスはため息を吐いた。 「忘れてた。お前、ほんとに泳げないんだな」  私は咳き込んでいて、返事ができなかった。だが内心では、この馬鹿野郎と思っていた。 「でも普通、泳げなくても藻掻くぐらいしないか?」  そう言ってから、イルスはきゅうに可笑しくなってきたらしく、声をあげて笑い始めた。笑いと寒さで震えながら、水中の断崖にとりつき、イルスはゆっくりとそれを這い登り、それから私の帯をつかんで引っ張り上げた。  岸へ行こうとして、イルスはやっと、スィグルが来ていたことに気付いたらしかった。 「スィグル」  彼が呼びかけると、岸にいたスィグルは応えて軽く片手を挙げた。  私を立たせて、イルスはいっしょに岸まで歩いた。  スィグルはずぶ濡れの私たちを、心底あきれた顔で見返してきた。 「シェルの額冠(ティアラ)は見つかったかい」  尋ねられたイルスは、手に持っていた金色の環を、スィグルに投げ渡した。それから私の手にあった自分の額冠(ティアラ)を奪い取り、身につけた。  私たちは岸につくと、その場に座り込んだ。  水に濡れていると、岸辺に吹いている風が冷たく、震えが止まらなかった。 「せっかく外套まで持ってきてやったのに、それごと水に落ちてどうするのさ」  まるで私が自分で落ちでもしたように、スィグルは非難した。私は重たく濡れた外套を脱ぎ捨てた。  スィグルに差し出された葡萄酒の瓶から、イルスは一気に呷っている。濡れた肌着を脱ぎ捨てて、イルスは私が岸に置いておいた彼のシャツを羽織った。そして自分の外套を、私に差しだした。 「学寮まで貸すから、濡れたのは脱げよ。寒いだろ」 「いいや、寒くない。他人の服を着るぐらいなら凍死したほうがましだ」  私はきっぱりと断った。もちろん寒かった。  今度はスィグルが、どこか堪えたような声で、腹を震わせて笑った。 「命のあるうちに歩いたら、二人とも」  竜の水(リッツア・ドラグナ)に夕闇が迫っていた。凍えた足で倒れ転びながら、私たちは立ち上がった。  背を向けた私たちの背後で、湖から何か大きなものが飛び上がった。私たちが振り向いた時には、それは水面を打って竜の水に沈み込むところだった。  巨大な尾びれのようなものを、私たちは見た。  泡立つ波紋が、何度も岸辺まで押し寄せてきた。  伝承によれば、あれは竜の水の奥底にすむ冥界の者で、私たちの足を水中へと引っ張りに来た。 「やべえ……生きててよかった」  ぼんやりと、イルスが呟いた。 「君のせいで、私まで死ぬところだった」  私の恨み言に、イルスはさも気味がよさそうに笑い声をあげた。  学寮までの道のりは遠く、すっかり凍えた私たちは、それから何日も寝込むことになった。先に回復したシェル・マイオスが、平身低頭しながら私の病床に現れ、看病と称して、私が気絶するまで喋りつづけた。  早く元気になって、また大陸史の講義をいっしょに受けましょうねと、彼は言った。  たぶんその一言で、私の回復は、半日は遅れたのではないかと思う。  《終わり》 ---------------------------- いただいたお題より、06.命の次に大事なもの、20.ずぶ濡れ を使用。掌編じゃない長さなのは気のせいです……。「カルテット」ではかなり珍しい、一人称を試してみました。猊下けっこうおセンチでした。 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「秘密の効用」 -----------------------------------------------------------------------  レイラス、と学棟の廊下で呼びかけられて、スィグルは足を止めた。  振り返ると、曲がり角の向こうに、シュレーの長身が見えた。 「今日は私は用事があって遅いから、料理は先にはじめろと、イルスに言っておいてくれ」  夕食はいつもの食堂で、みんなで食べる習わしだ。  しかし最近のシュレーは、なにか特別講義をとったらしく、講義が明けるのが遅かった。  だからイルスに料理させておいて、自分は食うだけにしようという腹なのだろう。 「わかったよ」  スィグルは頷いてみせた。  シュレーは急いでいて、こちらに来る気配はなく、もう行くようだった。 「またさぼるのか、レイラス。たまには講義に出た方がいいぞ」  もっともらしい説教をして、シュレーは背を見せた。  レイラス、レイラス。うるさいなあ。  友達なんだから、他人行儀に洗礼名で呼ぶのはやめて、名前にしましょうと、恥ずかしげもなくシェルが言うので、そういうことになっていた。  しかしシュレーはいつも、レイラス、レイラスだった。  なのにさっき、イルスはイルスだったろ。  なんかむかつく。そう思いつつ、スィグルは講義をさぼることにした。  食事に遅れてやってきたくせに、シュレーはイルスが作った料理をくどくど批判した。  味のことは言わなかったが、切り方が大ざっぱとか、不揃いとか、君はがさつだとかいう話だった。つまり味は美味かったらしい。  イルスは苦笑しながら、しかし面白そうに、その批判を聞いている。  とかく食い物の話には、スィグルは興味がなかったので、つまらないから、イルスがキレりゃいいのにと思いつつ、ぼんやり自分の皿から食べていた。 「美味しいんだからいいじゃないですか。シュレーは、なんで人が作ったものに文句を言うんですか」  キレたのはシェルのほうだった。それじゃ毎度のことなので、何の面白みもなかった。  ふん、とシュレーは毎度のように、シェルを鼻で笑った。 「君にはなんでも美味いんだろう、シェル」 「いいじゃないですか別に。そのほうが幸せでしょう。何が出ても、いちいち文句のつけどころがある殿下よりは」  踏ん張って言い返しているシェルを見ながら、スィグルはなにか違和感を覚えた。  今、猊下がシェルのことをシェルと呼んでいた。そう呼ぶことに、とうとう慣れたのか。 「君の意見は、レイラス」  シェルに噛みつかれるのが面倒になった様子で、シュレーが食べながらお鉢をこちらに回してきた。  スィグルはしばらく、押し黙った。  言うべきか考えて、やめろと思ったが、結局言っていた。 「なんで僕だけレイラスなんだよ」  案外、不機嫌な声だったので、シュレーがなんだってという顔で、こちらに目を戻した。 「いや、だから、イルスはイルスで、シェルはシェルなのに、どうして僕だけレイラスなのかって話」 「君はレイラスだろう」  だからそれは洗礼名だろ。敢えて言わなかったが、相手が知らないとは思えない。  もしかして、猊下はわざと僕だけ仲間はずれにしてるんじゃないのか。僕が猊下を猊下って呼ぶから、その仕返しとか。  それともあれか、お前は自分の支配民だろ的な、上から目線か。  そう思って、スィグルは盛大に顔をしかめた。 「そういう話じゃねえだろ」  水を飲みながら、イルスが口を挟んだ。どうやら気付いているのは自分だけではないらしく、ただの被害妄想でもないらしい。 「俺も知りたい。なんでお前がスィグルのことだけ、洗礼名で呼ぶのか」 「ああ、そうだな」  大ざっぱな切り方の野菜を食べながら、シュレーは含みのある声で答え、意地悪く笑った。 「知りたいか、レイラス」 「是非知りたいね」 「では、イルスにだけ教えよう」  そう言って、シュレーは耳を貸せという仕草をして、隣にいるイルスに密談をした。  その秘密は短い話だった。ほんの一言しか、シュレーは喋らなかった。  しかし聞いたイルスは、一瞬、えっという意外そうな顔をして、それから爆笑しはじめた。 「なんですか、それは。理由があるなら僕も知りたいです」  シェルがそう叫ぶように言った。イルスはまだ笑っていた。 「いいよ、イルスに聞いてくれ。レイラスに話さないと約束するなら」  にやにや薄笑いしながら、シュレーは食事に戻った。  あぜんとしながら、スィグルはその姿を眺めた。  約束しますと断言して、シェルはイルスに耳打ちするよう迫った。笑いながら、イルスはシェルの耳になにごとか教えた。それを聞き、シェルは笑いをこらえる半笑いの顔になって、こちらを見た。 「あ、なーんだ……」 「何がなーんだ、だよシェル。僕にも話せ」  むかむかしながら、スィグルは隣にいるシェルを脅しつけた。 「いや、それはできません。秘密を守る約束で聞いたんですから」 「イルスは。イルスは約束してなかったろ」  向かいに座るイルスの足を蹴ると、彼はまだ微かに笑っていた。 「教えていいが、引き延ばせ。面白いから」  話そうとするイルスに、シュレーがそう忠告した。  そう言われて、イルスは同感だったようだった。とにかく、言いかけていた言葉を彼が呑み込むのを、スィグルは苛立って見つめた。 「なにが面白いんだよ、むかつく」 「それだよ。君がむかつくのが面白いんだ」  身も蓋もない返事だった。シュレーはそう言って、結局本当に教えてくれなかった。  もういいよと、スィグルはぶちきれて叫んだ。どうせ大した話じゃないんだろ、ほんとにお前らむかつくんだよ。  結局その後も、イルスに教えてくれとは言いにくかった。  イルスは忘れているのか、それとも本当に引き延ばしているのか、自分から暴露しようという気配が僅かもなかったので、こちらから、実は気になるのだがというのには敗北感がありすぎて、とても無理だった。  仕方なく、スィグルはしばらく悶々として日々を過ごした。  その間も、気にすればするほど絶え間なく、シュレーはレイラス、レイラスだ。  何かもう、連中の顔を見るだけで、わなわなしてきた。  そんなある日、図書館で講義をさぼっていると、調べ物をしにきたらしいシュレーとばったり出くわした。  やあレイラス、と、シュレーは嫌みなく言った。ただの挨拶だ。  ただの挨拶。ただの、挨拶。た、だ、の、あ、い、さ、つ。  スィグルは内心で、自分にそう言い聞かせたが、すでに苛立ちと好奇心による憤懣が爆発寸前だった。 「教えてよ」  机についているシュレーのところまで、わざわざ行って、スィグルは彼がのぞき込んでいた本を叩いて訴えた。 「なにを」  本当にわからないらしく、こちらを見上げるシュレーの顔は、あぜんとしていた。 「洗礼名の話だよ。どうして僕だけレイラスかだよ」  早口に問うと、シュレーはあぜんとした顔に、ああそうかという納得の表情を加えた。  そして、にやりとした。 「そんなことに、まだこだわっていたのか、君は」 「しょうもないことでも、秘密にされると僕は気になるんだよ!」  そういう性格なんだ。知ってるんだろ。知っててやってんだろ。このやろう。  癇癪を起こしてそう言うと、シュレーは気味がよさそうに声をあげて笑った。 「じゃあ気の毒な君を哀れんで、教えてやろう。その代わり、講義をさぼるのは二回に一回にすると約束してくれ。君の素行が悪いので、学院内には、それを不愉快に思っている者たちもいる。だから取引だ」 「わかったよ」  吐き捨てるように、スィグルは応じた。この際、そんなことでいいなら従う。  シュレーは頷いて、秘密を教えるのだからという雰囲気たっぷりに、耳を貸せと指で差し招いた。  どんな答えが返るのかと、猛烈な期待をしながら、スィグルは身をかがめて、シュレーの耳打ちを聞いた。  ゆっくりと勿体ぶって、シュレーの声がした。  私には。  君の。  名前は。  発音できない。  だから。  レイラスと。  呼ぶんだ。  ひっそりと区切った囁き声で、シュレーはそう教えてきた。 「えっ」  それだけ?  何日も、何日も悩んで、秘密って、それだけ?  愕然としながら、スィグルはシュレーの顔を見た。聖刻のある顔が、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべた。 「そ……それだけ?」  思わず、スィグルは言葉に出して訊ねた。  シュレーは小さく何度か頷いてみせた。 「それだけだよ。レイラス。他の理由がよかったんなら、君がこの何日かの間に悶々と考えたほうの理由を、私に教えてくれ」 「……そんなもん」  心なしかよろめき、スィグルは後ずさった。 「そんなもんないよ!!」  思わず叫ぶと、図書館にいた他の学生たちが、じろりとうるさげにこちらを見た。  見下ろすと、シュレーはいかにも物静かに席についていた。  そこからシュレーは、ぽつりと皆に聞こえるように、いかめしい声で言った。 「うるさいぞ、レイラス。大人しくできないなら、よそへ行け」  ああそうするよ。  秘密を知る前より、さらにむかむかしながら、スィグルは歩み去った。  振り返ったら負けだと思ったが、スィグルは結局振り返って見た。  本を読んでいるシュレーは、素知らぬふうだったが、その口元は、どう見てもにやにやしていた。  どこか、ぶち切れてぎゃあぎゃあ叫んでも嫌みを言われない場所を探して、スィグルは図書館を出た。 《おしまい》 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(1) ----------------------------------------------------------------------- 「痛って!」  部屋を出るなり、正体のわからないものを踏んづけてしまい、イルスは踏み込みかけた足のやり場がなくなって、よろめいた。裸足のままの爪先に、するどい痛みがあった。  扉にもたれて傷口を見てみると、小さく針のささったような痕があり、血がにじんでいた。 「……またか!」  すでに腹を立てながら、周りを見渡すと、将棋(チェス)の駒らしい、銀でできたものが床に点々と転がっている。それは廊下の向こうから、イルスの寝室の前を通り過ぎ、その先にある居間に続いていた。  出所は分かっている。スィグルの部屋からだ。  薄暗い廊下を、絨毯の上に転がっている駒やら何やらをよけながら進んでいき、イルスはいつもなら居間の長椅子に寝そべってるスィグルを探した。  だが、そこには長い黒髪を垂らした姿はなく、イルスは怒鳴りかけた言葉を一時呑み込まねばならなかった。  居間には廊下にまして、様々なものが散らかっていた。  長い巻紙に描かれた物語のようなものが、だらしなく広げられたまま床を這っており、将棋(チェス)の盤は暖炉のそばに放置されている。  ほかへ目を向けようとした時、イルスはその盤の傍に、スィグルが寝転がって本を読んでいるのを見つけた。  床に直に寝転がるのは、スィグルのいつもの悪い癖で、彼の生まれ故郷では普通の習慣だというが、イルスにはどうにも納得がいったためしはない。地べたに寝るのは、犬か猫のやることだ。 「スィグル」  すっかり説教じみて響くようになった声で呼びかけると、スィグルがうるさそうに顔を上げた。 「何だよ、今いちばんいいところなのに」  絨毯に頬杖をつき、スィグルは大判の革表紙の本にかじりついている。本を読み始めると夢中になりたいのが、スィグルの性癖だ。普段ならわざわざ声はかけない。これが朝いちばんの出かける時間ぎりぎりで、スィグルがまだ夜着のままだらしなく寝そべっているのでなければ。 「朝めし食いにいくぞ」 「ああ、僕いいや。これを読みたいから。昨日、タンジールから届いた荷物に入ってたんだ。一晩中読んで、あとちょっとで終わりなんだ」  それが理由になっていると思っているらしい口調で説明し、スィグルはまた本に顔を埋めようとしている。 「朝イチの講義は?」 「さぼるよ。どうせ眠いし、読み終えたら寝たいから」 「お前、今日はシェルとどこか行くから、朝ぜったい起こせって言ってたぞ」 「そうだっけね。もういいや、それ取りやめ。イルスがシェルにそう言っといてよ」  足をゆらゆらと揺らしながら、スィグルはもう上の空で、羊皮紙に連ねられた装飾的な文字を追っている。それは彼の部族の言葉で書かれたもので、イルスには意味の分からない線がのたくっているだけにしか見えなかった。 「スィグル」  怒声を作って、イルスは呼びかけた。 「なぁんだよ……」  こちらを見もせずに、スィグルがうめいた。 「廊下に落ちてるものはなんだ。俺の足に刺さったぞ」 「裸足で歩いてる君が悪いんだよ」 「片付けないお前が悪いんだよ」  もう出かけないといけない時刻だった。  非難されて、不機嫌そうに顔をあげたスィグルと、イルスはほんの一時睨み合ったが、ばかばかしくなってため息をついた。  食堂の厨房で、朝食を作るのがいつもの習慣で、遅れるとシュレーがうるさい。 「俺はもう行くけど、戻ってくるまでに片付けておけよ」 「何の権利でそんな偉そうな口をきくのさ」  スィグルは、まったく信じられないという口調だった。イルスはあぜんとした。 「ここが俺の部屋だからだ。お前が一晩かけて散らかしたのを、俺が一日かけて片付けて、それをお前がまた一晩かけて散らかすのか? お前こそ何の権利があって、俺にそんな果てしないことさせるんだよ」 「イルス、君は僕の部屋を片付けるためにいるのかと思ってたよ」  にやっと意地悪く笑って、スィグルが言った。  挑発だ。こっちがムカついてるのを知ってて、わざと言ってるんだ。  それが分かっていても、イルスは予定通り我慢の限界だった。 「お前の散らかし癖には、もううんざりだ」  部屋を散らかす人種と、イルスは縁があった。  学院に来る前に暮らしていた師匠の庵では、剣の腕は立っても、生活態度のだらしない師匠のおかげで、イルスは剣の腕を磨くのと同じ程度に、家の掃除と切り盛りを身につけるはめになった。  そこから学院にやってきたと思ったら、今度は自堕落な同居人の後片付けで一日がつぶれるような日々だ。 「うんざりだったらどうするのさ」  頬杖をついたまま、スィグルはいかにも面白そうにこちらを見ている。 「どうって。どうしようもないだろ。お前をもっとまともに変える魔法でも知ってたら教えてくれよ」  そんなものがあるわけない。  イルスが皮肉のつもりで言った言葉に、スィグルはふっふっふといかにも楽しそうな笑い声をもらした。 「まともって、どんなの。僕よりまともなやつなんて、この学院にいるの?」 「よく言うぜ。お前以外の誰とだって、お前と部屋を分けるよりましだと思うぞ」 「ああ……そうか。じゃあ、試してみたら?」  床に転がっていた鈍い金色のランプを手にとって、確かめるように眺めてから、スィグルはそれを放って寄越した。 「なんだ、これ」 「見たまんま、魔法のランプだよ。三回まで同居人を変えてくれる」 「なんでそんなもんが……」  実在するのか、と訊いたつもりだった。 「父上が送ってくれたんだ。僕が君に嫌気がさしたら、使えってことじゃない? でも僕は使う気ないからいいんだ。だって誰だって似たようなもんだよ。イルスなんてましなほうさ、我慢できる範囲内だよ」  我慢?  その一言は、イルスにとって我慢できる範囲外だった。  自分がスィグルのやることを我慢してやっている事は多々あるが、向こうがこちらの何を我慢しているというのだ。 「そうか……」  受け取ったランプの鈍い金色の光を、イルスは暗い目で見下ろした。 「じゃあ俺が使う」 「三回までだよ、イルス」  にやりと笑いながら、スィグルは忠告した。 「どうやって使うんだ」 「磨いてごらん」  興味なさそうに言うスィグルの言葉どおり、イルスは曇った金色のランプを、制服の袖で磨いてみた。  丸みを帯びたランプの表面に、自分の顔が歪んで写り込んでいる。  しばらく待ってみても、なにかが起きるような気配はしなかった。  スィグルに担がれたらしい。  どうせそんなことだろう。同居人を変える魔法のランプなんてふざけたものが、この世にあるとは思えない。  だましやがって、と顔をあげたイルスは、暖炉の前に誰もいなくなっている事に、ぽかんとしなければならなかった。  スィグルも、彼が読んでいた本も、転がっていた将棋盤も、そこになかった。  ふりかえって居間を見渡すと、散らかっていたものが、すっかり片付いている。  スィグルが一瞬で片付ける魔法でも知っていたかのようだった。そんなものを知っているなら、さっさと使えばいいのに……。  と、内心ぼやいていたら、廊下をばたばたと走ってくる足音がきこえた。 「すみません、待たせちゃって! 髪がカーテンの引き綱にひっかかっちゃって、どうしても取れなかったんです」  奥から出てきたのは、学院の緑色の制服を着たシェルだった。  いつのまに来ていたんだろう。スィグルの部屋にでも潜んでいたのだろうか。 「急いで行きましょうね。待たせるとシュレー怒るから」  背中に垂らしたままのシェルの金色の巻き毛が、ぼさぼさになっていた。  イルスは自分の手の中に残されたままの、鈍い金色のランプを見下ろした。  シェル?  まさか、同居人がスィグルからシェルに入れ替わった? 「なあ……スィグルは?」  ランプを見つめたまま、イルスが問いかけると、シェルは持って行く荷物らしいものを抱えなおしながら、部屋を出る扉に小走りに向かったところだった。 「え。さあ、食堂で待ってるんじゃないですか? どうして?」 「いや。……あいつ、なんでここにいないのかなと思って」  イルスが曖昧に答えると、シェルはなぜか大笑いした。 「殿下が僕らの部屋に来るわけないですよ。自分の部屋でごろごろしてるのが好きなんですから」  扉を開けて、シェルは手招きした。 「イルス、急がないと僕らのぶんのご飯ないですよ。なんだ、遅いから来ないのかと思ったよ、って言われますよ」  いかめしい口調で、シェルはシュレーのまったく訛りのない公用語をまねた。  確かにその通り、いつもと何の変わりもない。同居人が入れ替わったこと以外は。  暖炉のそばにおいてあった長靴をはこうとして、イルスは自分の足についている針の穴のような傷を思い出した。血は止まって、かすかに赤く腫れているだけだが、その傷は確かにそこにあった。スィグルがばら撒いた将棋(チェス)の駒を踏んでできた傷だ。  しかし、あの駒も、あのスィグルも、この部屋のどこにもいないのだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(2) ----------------------------------------------------------------------- 「おはようございまーすっ」  やけに元気のよすぎる声で、シェルが食堂で待っていた二人に挨拶した。  厨房に行こうとしていたシュレーが振り返って、来たな、という顔をした。  食卓の椅子には、スィグルが朝に弱い彼らしく、いかにも気怠げに腰掛けている。 「おはよう。朝っぱらからうるさいんだよ。もっと小さい声で挨拶してよ」  文句を言うスィグルの向かいに、シェルはにこにこと機嫌よく席をとった。  どうにも妙な感じがした。  いつもなら、このシェルの挨拶を聞くのは自分のほうで、いっしょに歩いてくるのはスィグルのほうだった。 「どうしたんだ妙な顔をして」  顎で差し招いて、シュレーが早くしろという顔をした。厨房へいって朝食の料理をするのは、シュレーとイルスの役割で、あとで皿を洗うのが、シェルとスィグルの仕事だった。もっとも、洗っているのはシェルだけのようだが。 「新鮮な卵が手に入ったから、今日は卵料理で」  厨房で手を洗いながら、シュレーがそう言った。 「スフレ・オムレツ」  綿布で手を拭きながら宣言するシュレーの顔は、必要でもない神聖さに満ちていた。  こいつがやってると、ただの料理でも、なんだか厳かだ。毎度のことながら、イルスは感心した。  もとは毒殺を恐れて始めた自炊だったが、シュレーは料理を気に入ったらしく、一日も欠かさず毎食自分で料理した。時には図書館で調べ上げた調理法を試すと言って、イルスが見たこともないような料理も作った。  勤勉なやつというのは、何をやらせても徹底的すぎる。 「ただのオムレツでいいんじゃないのか、時間ないし」  左手に大きなボウル、右手に泡立て器を握って立っているシュレーに、イルスは提案してみた。  シュレーはかすかに首をかしげた。 「スフレ・オムレツだ、イルス・フォルデス」  泡立て器を突きつけて、シュレーは断言した。 「まさか俺が泡立てる?」 「そうだ。卵はここに。私は竈のパンを見てくるから」  言い置いて、シュレーは背中を見せた。  食い物なんて、美味いにこしたことはないが、普通に食えりゃいいかとイルスは思っていた。  しかしシュレーには厨房においても美学があるらしかった。  イルスは大人しく、卵を割って、泡立てた。  卵液を攪拌して、たっぷりと空気を含ませてから、溶かしたバターとともに注意深く焼くと、気泡が熱で膨張し、ふわふわにふくらむ。  それがスフレ・オムレツだ。  ただのオムレツとは違う。  スフレ・オムレツと、ただのオムレツには天地ほどの隔たりがある。  ただのオムレツは、焼いた卵にすぎないが、スフレ・オムレツはシュレーの好物だった。  スフレを見事にふくらませるに足る卵の泡立て具合が、今日のシュレーの機嫌を決すると言ってもいい。  だったら自分でやりゃあいいのにとイルスは内心に毒づいた。それを口に出せば、シュレーは真顔でこう言うだろう。  君のほうが、うまい。と。  卵料理には熟練だけでなく、生来の適性が必要なのだそうだ。シュレーが言うには、イルスにはそれがあって、シュレーにはない。  単に泡立てる手間が面倒くさくて言っているのではないかと思う。  どうせ他人に押しつけるなら、妙な理屈をこねないで、君が作ったオムレツが好きだとか何とか普通のことを言えばいいのに。  ため息をつきながら、それを想像して、イルスはげんなりした。  気持ち悪い。  シュレーがそんなことを口走るのは、明日死ぬか、場合によってはその場で死ぬ時ぐらいだろう。  とにかく不気味すぎる。  なにごとも、いつもと変わりないのが一番だ。  卵が泡立ち、フライパンでバターがほどよく溶けたところで、イルスはオムレツを焼いた。  スフレ・オムレツは上出来に仕上がった。  うまそうな、いいにおいだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(3) -----------------------------------------------------------------------  帰ってみても、寮の部屋は片付いたままだった。  同居人がスィグルだったときには、一日が終わって戻ってくると、我が目を疑うほど部屋が散らかっている時が多く、それだけで何だかどっと疲れたものだったが、今日、イルスの目の前にあるのは、朝出かけた時と変わらず、すっきり片付いた寮の居室だった。  部屋つきの執事ザハルは、この学院の執事最古参というだけあって、まさに「自律せよ」という学則を体現したような老人で、学生の怠惰を許さない。  故郷の宮廷で、飯を食うにも髪を梳くにも専属の侍女か侍従がいる生活に馴染んでいたスィグルは、当然といえば当然だが、自分が持ち出したものを自分で片付けるという発想を持っていなかった。飽きた物を放り出しておいても、故郷ではそれが、魔法のようにいつのまにか片付いていたのだろう。  ザハルは初めのうちは、見かねて片付けてくれていたが、やがてスィグルの自堕落を放置するようになった。老執事は、スィグルと戦うことにしたのだ。彼の面倒をいっさい見ないという手段で。  ザハルのこだわりは徹底したもので、使用人たちにいったん部屋を片付けてから掃除をさせ、そのあと散らかっていたものを元通りの場所に散らかし直させた。そのお陰でスィグルの寝室はいつも、極めて清潔に散らかっていたし、居間や廊下も、イルスが片付けないかぎり同様だった。  ザハルが戦うのは自由だと思うが、ふたりの戦いの板挟みになって、自分が苦しまされるのは不当だと、イルスはいつも不満だった。 「お帰りなさいませ」  突っ立っていると、背後から声をかけられ、イルスは驚いた。  いつのまにかザハルがそこにいて、片手に持った盆に水の入った瓶を載せていた。 「着替えのお召し物は寝室に。飲み物は居間でよろしいですか」  訊きながら、ザハルはイルスの答えを待たずに、飲み水を暖炉のそばの椅子に添えられた小卓へと運んだ。  午後の最終講義のあとは、剣闘技の練習室か、馬場で一汗かくのがイルスの習慣で、居室に戻ってくると、ザハルが水と着替えを用意してくれている。  講義室か食堂以外でスィグルと顔を合わせるのは、たいてい部屋に戻ったときだったし、着替えてから夕食までは、暖炉の傍でのんびり時間をすごして、スィグルとその日にあったことを話すともなく話すのが常だった。  スィグルはいつもシェルとつるんで図書館あたりにいたし、イルスはひとりでいるか、気が向けばシュレーと剣の手合わせでもしている。改めて考えてみると、この時間帯に顔を合わせなければ、スィグルが日中なにをしているのかは、イルスにとっては、まったくの謎だった。  部屋で着替えて居間に水を飲みに戻ると、いつもならスィグルがいる長椅子に、シェルがちんまりと腰掛け、ちょうどお茶を出しにきたザハルと、にこやかに話し合っていた。  ザハルが笑えるということに、イルスは度肝を抜かれた。  スィグルと違って、シェルは行儀が良かったし、スィグルがザハルにするように、卑しい召使いを見るような目で、不躾に見下したりもしない。  ザハルは、この部屋に住んでいる学生が、スィグルからシェルに入れ替わったことに、なんの違和感も感じていないようだった。まるでずっと前から、講義明けの午後、この長椅子に座っているのはシェルだったみたいだ。  ふたりは争っておらず、部屋は平和だった。  魔法のランプ。 「ああ、イルス、お帰りなさい。ただいま」  こちらに気付いて、シェルが複雑な挨拶をした。にこやかなシェルがいると、この薄暗い部屋も明るい雰囲気だ。 「今日の晩ごはん何かなあ」  腹が減っているのか、シェルは真剣な顔をして、そう言った。  長椅子の上には、シェルが図書館から借りてきたらしい本が、数冊積み上がっていた。本の背表紙には、持ち出し禁止を表す蝋封のようなものが貼り付けてあったが、シェルはそんなことを気にしている気配もない。  写本はしない、翌日には必ず返すという誓いのもとに、シュレーがシェルに図書の保管庫の鍵を貸してやっているのだ。一時期そのことでシュレーはシェルにうるさく付きまとわれ、あの堅物もとうとう根負けして折れたのだった。  その時の約束が守られているとしたら、シェルはこの本の山を、今夜のうちに平らげるつもりなのだろう。翌日返却の誓いが、翌々日になって、また一日延びて、というような事を、シュレーが許すはずがないからだ。  禁帯出書架の書物は、山エルフ王室の財産で、本来、おいそれと貸してやっていいものではない。  ふと見ると、分厚い古書のところどころに、細長い栞がいくつもはさんである。 「課題でもやってるのか」  首をかしげて、イルスはシェルが大事そうに抱いている本の山を眺めた。 「この栞ですか? これは写しをとっておきたい場所です」  シェルはそのことに話を向けられて、嬉しくてたまらないという顔をした。 「お前、写本はしないって、シュレーと約束したんだったろ?」 「写本はしてません」  えっへん、という態度で、胸をはり、シェルは自慢げに答える。 「栞をつけたところを、明日返す前にスィグルに読んでもらって、丸暗記してもらうんです。あとからそれを僕が口述筆記します。それなら写本じゃないでしょう?」  スィグルは読んだものや見たものを、まるごと憶えて忘れないという、突飛な特技を持っていた。一度見たことがあるものは、いつでもそれを思い出して、絵でも文章でも、そっくりそのまま紙に書くこともできる。  その特技のおかげで、スィグルは講義にも出ず、ろくに勉強をしなくても、いつも学院の教授をうならせるような答案を出すことができた。主に憎しみのうなりではあるが。 「シェル、お前なあ。シュレーは写しをとられたくないから、写本はするなって言ってたんだろ。そもそも山エルフじゃないお前が読んじゃまずい本なんだからさ。そんな騙しみたいなことして、シュレーを裏切るなよ。卑怯だぞ」  面罵すると、シェルはうっと怯んだような顔をした。 「でも、シュレーはスィグルに読ませるなとは言いませんでした」 「そんなこと、いちいち言うかよ。お前を信用してたんだろ」  シェルは、うううっ、という顔をした。初めから本人も分かっていただろうが、シェルは知識欲に勝てない性分なのだ。  この山エルフ族の学院で、あるいは宮廷で、ずっと昔にどんなことが起きたか、そんな今の自分たちには、これっぽっちも関係のない些細な知識を得るために、友達の好意を裏切ろうというシェルの気持ちは、イルスには理解しがたかった。 「でも……でも、山エルフ族は正史を秘密にしているんです。僕の部族と、ここの人たちは、大昔にはひとつの部族だったらしいのに、いったいどこで分かれたのか、知りたくないですか。森から来たんだったら、彼らの守護生物(トゥラシェ)はどこに行ったんでしょう。気になりますよね?」 「ぜんぜん気にならねえ」  イルスは正直に答えた。気になるのは、シェルの裏切りをシュレーが知ったら、どうなるかという事のほうだ。  シェルはイルスの返事があまりにも意外だったのか、口をぱくぱくさせて驚いている。 「お前さ、飯の時にシュレーに白状して謝れ。それから写したやつは、ぜんぶ燃やせ」 「いやですっ。イルスお願いだから黙っててください!!」 「俺があいつに告げ口したりするかよ……」  あっというまに涙目になるシェルに弱って、イルスは腕組みした。  イルスは自分からシュレーにご注進するつもりは、さらさらなかった。シュレーの身になれば、このての話を他人の口から教えられるほど、いやなことはない。 「お前が自分で話せよ」 「そんなぁ……。イルスなら分かってくれると思ったのに」  なにを分かれというのか、さっぱり分からない。  スィグルもスィグルだとイルスは思った。そんなこと、シェルに頼まれた時点で断ればいいのに。 「飯行くぞ」  髪をかき上げながら、イルスはシェルを促した。  シェルは未練がましく本に抱きついて、いやいやと首を振った。 「僕は今日はお腹がすいてないので行きません。イルスだけ行ってください。絶対にシュレーには黙っておいてくださいね。もしバレたら、僕、禁帯出書庫の鍵をとられちゃうから」  それどころか図書館自体に出入り禁止だろう。  シュレーは自分の顔をつぶしたシェルを絶対に許さないだろうから。 「あんまり、あいつを怒らせんなよ。しょうもないことで簡単に怒るやつなんだからさ。お前とスィグルと二人がかりで毎日毎日向かっ腹立てさせられたら、あいつも参っちゃうよ」 「そんなのシュレーの勝手です。僕らは普通にしてるのに、シュレーが勝手に怒っているんです!」  今日は朝からオムレツがうまかったらしく、けっこう機嫌が良かったのに。  知らぬが花だ。  イルスは少し後ろめたかったが、スフレ・オムレツの効用が続くかぎりは、あえてシュレーのご機嫌をそこねるような事はしないでおこうと思った。夕食でなにか、さらにシュレーの厨房の美学を満たすようなものが、ひと皿ふた皿作れたら、もっといいのだが。  そればっかりは、運しだいだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(4) -----------------------------------------------------------------------  イルスは疲れた。  夕食の料理は成功裏に完成し、食卓に並べられた。シュレーは夕方、狩猟に出たらしく、とってきた兎がオーブンでこんがり美味そうに焼かれて、どこかの本で見たという怪しいソースをかけられることとなった。  そのソースが果たして本当に正しく作られたのか、それは誰にも分からない。山の部族の伝統料理らしく、それを作ったシュレー本人を含め、その場にいた誰も食べたことがなく、味のほうは正直言って微妙なものだったからだ。  まずいというほどではないが、美味くもないような気がした。  まさにそのソースと同様、兎肉をひとくち食べたシュレーの顔も、かなり微妙な表情だった。  食卓に現れた肉の塊に、スィグルは文句ばかり言い続けていたし、シェルは本人が言っていたように、夕食に現れなかった。  シュレーは、批評しろというように、食事の間中、イルスの顔をじっと見るし、普段ならシェルが引き受けている大絶賛する役目を、イルスが引き受けることになる。  それも料理が迷いもなく美味ければ、言ってやれることもあったが、率直に批評すれば、まあこんなもんじゃないか、といったところだった。  しかしイルスはシュレーの機嫌をそこねたくなかった。  口下手が世辞を言おうなどと試みるものではない。  イルスの嘘は一瞬でバレて、シュレーのご機嫌は急降下した。  どうせ険悪になるなら、素直に言えばよかった。「うまくも、まずくもない」と。  うっすらとした自己嫌悪に浸り、イルスが寝ようと寝床に潜り込んだ時だった。  どんどん、と、寝室の扉が叩かれた。 「イルス……」  青い顔をしたシェルが、捧げ持ったランプに顔を下から照らされて、ゆらりと扉の向こうに現れた。  なんとなくそんな予感はしていたが、イルスは羽根枕に顔を埋めてうめいた。 「どうしたんだシェル……腹が減ったんだろ、どうせ」  もともと空腹だったらしいシェルが、シュレーと顔を合わせたくないばっかりに夕飯抜きだったのだ。腹が減って寝られないのだろう。 「ちがいます……」  亡霊のように、白い夜着の裾をひきずって入ってきたシェルは、左手に灯火、右手には、分厚い羊皮紙の束を抱えていた。 「僕の話を聞いてください……」  そう言って、シェルは床に灯火を置き、紙束をざらざらとイルスの布団のうえにまき散らした。  そこには、公用語でびっしりと文章が書き連ねられ、あるものにはインクのあとも精緻な絵が描かれている。文字はシェルのもののようだったが、絵はどう見ても、スィグルが描いたものだった。  これが、二人がこそこそと、禁帯出書架から盗み出した、山エルフ宮廷の隠された正史からの抜粋に違いない。イルスはそんなものを見せられたくなかった。 「これです、これ!!」  羊皮紙に青みがかった黒インクで描かれた絵を、シェルはまだ寝床に倒れたままのイルスの眼前に見せつけた。そこには、カタツムリのようなものが描かれていた。 「これがなにか分かりますか!?」  カタツムリだろう。イルスはそのようなことを口の中で答えた。 「違う! 違います!! これは守護生物(トゥラシェ)です。そうに違いないです!!」  シェルはイルスの耳元に断定の叫び声をあげた。夜でなくても、勘弁してほしい声の大きさだった。 「禁帯出書架の本にあった、山エルフ族の正史に載っていたんです。初期のころに、こういう竜(ドラグーン)が現れたって。でもこれは絶対に守護生物(トゥラシェ)です。ほらここに、目が銀色だったって! 書いてあるでしょう、読んでくださいよ、ちゃんと!!」 「銀色でも金色でも俺にはどうでもいいよ! なんでそんな話をしにくるんだ」  イルスがカタツムリの絵を押し返すと、シェルは信じられないという、衝撃を受けた顔をした。 「だって守護生物(トゥラシェ)が契約する主もなくさまよっているなんて、可哀想すぎます」 「じゃあお前が契約してやれ。俺は寝るから」 「守護生物(トゥラシェ)は長期間誰とも契約しないと、野生化して、凶暴になるんです」 「だからお前が契約してやれよ。俺は寝るから」 「この守護生物(トゥラシェ)は村々を襲ったので、殺されてしまったんですよ! 可哀想に……」  巨大なカタツムリに襲われた山エルフ族の村人のほうが、よっぽど気の毒だ。 「ほかにもまだ、離れになった守護生物(トゥラシェ)がいるかもしれません。守護生物(トゥラシェ)は自分で主を選んで、呼びかけてくるんです。山エルフ族のなかに、感応力を失っていない人がいても、守護生物(トゥラシェ)のことを何も知らなければ、呼びかけに応えられないんじゃないですか?」  必死の形相で、シェルは訴えてきた。  イルスには、それがどれくらい悲劇的なことなのか、見当もつかなかった。  そもそも守護生物(トゥラシェ)は長らく、海エルフ族にとっては敵が使役する怪物で、それをいかにして殺すかという話や、それにいかにして殺されたかという話だけが伝わり、子供だったイルスの耳にも、銀色の目をした怪物の逸話は、ひどく恐ろしいものとして吹き込まれた。  シェルには済まないが、守護生物(トゥラシェ)が可哀想だと感じることは、イルスには無理だった。 「呼びかけに応えられなかったら、どうまずいんだ」 「えっ」  シェルの頬が、ぴくりとかすかに震えた。 「ど……どう、って。悲しいですよ」  シェルは、理解されなかったことがよほど悲しかったのか、急にぽろぽと涙をこぼし始めた。  イルスは目を閉じて、それを見ないようにと枕に顔を押しつけた。  シェルが泣くのでいちいち動揺していたら、やっていられない。  イルスは男が泣くものじゃないと躾けられたが、森エルフは悲しくなれば涙を流すのだ。それに深い意味はない。可笑しかったら笑うのと同じことだ。 「悲しいのは分かったけど、だったら何なんだ。俺に走っていって誰か呼んでこいってことか?」 「違います!! 正史を調べて、山エルフ領内に過去現れた守護生物(トゥラシェ)を探したいんです。まだ生きているのがいるかもしれません」 「正史っていつのだよ。守護生物(トゥラシェ)はそんなに長生きするもんなのか?」 「ものによっては、します。アシャンティカなんかは……僕の父上の守護生物(トゥラシェ)ですけど、何百年も生きているんですから。どこかに潜んで生きているものが、孤独に耐えきれずに凶暴化したらどうするんですか!」 「どうって……」  守護生物(トゥラシェ)を殺すことは困難だが不可能ではない。実際に、同盟により戦いが止む以前は、森エルフ族との国境で、対・守護生物(トゥラシェ)戦が日々繰り広げられていた。  しかし、その話をシェルにすべきでないことは、イルスには分かっていた。 「イルス……言いにくいですけど、守護生物(トゥラシェ)は人を食べます」  シェルは深刻そのものの顔をしている。イルスはシェルに教えられなくても、そんなことは知っていた。 「どこかにいるんだったら、早く見つけなきゃ」  唇を噛んで、シェルはうつむいた。 「だから、僕は禁帯出書架にある正史を調べたいんです。ほんとは王室書架も見せてほしいんです。でもシュレーがそれは絶対にダメだって」 「あいつがダメだっていうんなら、ダメなんだろう」 「どうしてシュレーもイルスも分かってくれないんだろう」  シェルは涙に濡れた顔を覆って、おおげさに嘆いている。  シュレーが分かってくれない理由は簡単に推測できる。シュレーもイルスと同意見で、凶暴化した守護生物(トゥラシェ)なんてものが実際に現れたら、殺すしかないと思っているのだ。 「殺すなんてひどすぎますーっ」  わっと泣き崩れて、シェルは叫んだ。  イルスはぎょっとした。そんな話は口に出していないはずだ。 「僕、ちゃんと全部話して謝りましたよ。シュレーにも事情は話したんですよ! でも燃やせって言うんです。写しを父上に送ったら僕を学院から追い出すって!!」  イルスは開いた口が塞がらなかった。  シェルは山エルフ族の秘密の正史を書き写して、族長シャンタル・メイヨウに送ろうとしていたのだ。本人が分かっていなくても、それは間諜(スパイ)のやることだった。山エルフ宮廷に属しているシュレーが、そんなことを許せるわけがない。 「おっ……お前、そんなことシュレーに話したのか!?」 「イルスが話せって言ったんじゃないですか」  シェルはいかにも、お前のせいだと言うようにイルスをなじった。  その話を聞いて、シュレーがどんなに激怒したかを想像すると、イルスの頭は真っ白になった。だまされたとはいえ、機密漏洩の片棒を担がされた結果になったと知れば、平静ではいられないだろう。 「写しを預かってください。明日になったらシュレーに渡すように約束させられてるんです」 「そんなもん預かれるかよ。素直にシュレーに渡せ!」  シェルはだだっ子のように激しく首をふり、いやだというような事を繰り返し口走った。 「だって助けなきゃ。ここに置いておいてくれるだけでいいんです。イルスは知らなかったことにしてくれていいんです」  シェルはイルスの枕元にあった引き出しに、持ってきた紙束を詰め込もうと突進してきた。その勢いに、引き出しの上に置いてあった鈍い金色のランプが転がり落ちた。  イルスはとっさにそれを受け止め、泣きながら引き出しに羊皮紙を片付けているシェルを見つめた。 「落ち着けよ、シェル。そんなことしても無駄だ」 「僕はなにも悪いことしてません」  大事そうに紙束を胸に抱き、シェルは訴えかけてきた。 「いや、してる。してるって……シュレーが怒るのも当たり前だ。お前、いっぺん冷静になって考えてみろ。お前に悪気がなかったのは分かるけど、そういう問題じゃないだろ?」 「イルスはどうせ、いっつもシュレーの味方なんですよね。僕やスィグルには、大人みたいな説教ばっかりして。どうせ僕らは幼いですよ! そんなに気が合うなら、シュレーと住んだらどうですか。イルスになんか話さなきゃよかったです。話さなければ、こんなことにならなかったのに!」  足を踏みならしそうな勢いで、シェルは文句を言った。無茶苦茶なことを言われていると思ったが、イルスは呆気にとられて、なにも言い返せなかった。責任転嫁もいいとこだ。  シェルは言いたい放題言い終えると、きゅうにめそめそ小声になった。 「イルス、僕は守護生物(トゥラシェ)が心配だっただけなんです。悪気はなかったんです。確かに短慮だったかもしれませんけど。だからって、シュレーも少しは僕の気持ちを理解してくれたって、いいんじゃないですか。頭ごなしに怒らなくても……」  要するに、シェルは拗ねているらしかった。  もともと言葉のきついところがシュレーにはあるが、怒るとさらにそれが極まる。罵詈雑言を吐くわけではないのに、ちょっとした一言で、相手をぐさっと傷つけることができるのだ。  そういうシュレーの冷たいところが、シェルには我慢がならなかったのだろう。それで意地になっている。どうせそんなところだ。 「たまにはイルスも僕の味方をしてください」 「そんなのスィグルにやってもらえ。あいつなら喜んでシュレーと戦う」 「イルスは嫌なんですか?」  寝台のうえに半身を起こしたまま、イルスは顔を擦った。眠かった。 「嫌というか……俺、この問題になんの関係もないよな?」 「僕たち四人は仲間じゃないですか」  がつんと頭を殴られたような顔を、シェルはしていた。 「そうだけど。これはお前とシュレーの問題だろ? サシで解決しろよ。お前が一方的に悪いんだからさ、シュレーの言うとおりにして、許してもらえよ」  そうする以外になにか解決法があるか?  イルスは考えたが、そこから先は頭が回らなかった。謝れば、シュレーは許すような気がした。問題はまだ取り返しのつく範囲内だ。写しをとった羊皮紙の束を焼き払い、シェルから書架の鍵を取り返し、スィグルには箝口令を敷く。スィグルはどうせ、おもしろ半分でシェルに手を貸したのだから、シュレーに「それじゃあ黙っておいてやってもいいけど」みたいな事を恩着せがましく言ってやれれば満足するのだ。  あの二人はなんだって、やたらシュレーに絡もうとするのだろう。方向性は違うが、二人そろってやっていることは同じだ。シュレーも短気で、いちいち怒りはするが、結局いつも二人のわがままを許してきたのだから、今回だって許せないはずはないだろう。 「僕、イルスと同室じゃなきゃよかったです。だったらこんな事になってなかった」  捨て台詞を吐いて、シェルは走って部屋を出て行った。  イルスは頭を抱えた。布団にぶちまけられた機密文書が、そのまんまだったからだ。  お友達付き合いもいいが、あいつは自分が他国にいるという緊張感が足りなすぎるのではないか。仲間じゃないですか、の一言で、自分や、スィグルや、シュレーを問題に巻き込んでもいいと思ってる。  あれは一種の甘えで、シェル自身も危ないことをやっている自覚はあるらしいが、それを誰かと共有したい気持ちのほうが強いのだ。  あいつなりに、異国で寂しいのだろう。  分かるけど、イルスは惨めな気分だった。  シェルが自分に無茶苦茶なことを平気で言うのは、それを言っても大丈夫だと信じているからだろう。笑って受け流せる程度に強いだろうと期待されてる。  そうだろうかとイルスは思った。  金色のランプに、いかにも惨めそうな表情の自分がうつっている。  だっせえな、と悪態をついて、イルスはランプを袖でこすった。  疲れた。  機密書類だろうが何だろうが知ったことではなかった。イルスは羊皮紙ごと布団をかぶって、意地でも眠ることにした。  今夜はできれば故郷の夢を見たかった。あの青い海を。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(5) -----------------------------------------------------------------------  どんどん、とまた扉を叩く音がして、イルスは飛び起きた。  開いた扉の向こうに、シュレーが白い寝間着姿で立っていた。びっくりして、イルスはとっさに布団の上にあるはずの、例の羊皮紙の束に目を落とした。  しかし、そこには何もない。自分が寝ながら蹴飛ばした布団があるだけだった。 「寝坊した」  きっぱりとそう言うと、シュレーはまた勢いよく扉を閉めた。廊下を行く慌ただしい足音がする。  呆然と髪を掻きながら、イルスはシュレーも寝癖がつくらしいことを考えた。  シュレーは自分を起こしに来てくれたらしい。イルスの頭の中には、つい今まで見ていた夢の残りが留まっていた。故郷の海で魚をとっている夢だ。  寝ぼけ頭で、イルスは考えた。  眠っている間に、入れ替わったらしい。昨夜はシェルが同居人だったが、朝になったらシュレーと同室になっている。  魔法のランプ。  鈍い金色をしたそれは、寝入りばなに取り落としたまま、まだ布団の上に転がっていた。それを枕元の引き出しの上に戻して、イルスは寝台から降りた。  急いで着替えを済ませ、居間へ行くと、ちょうどシュレーが出かけるところだった。  声をかけると、シュレーは振り向いた。起こしに来たときにはあった寝癖が、すっかり消えている。学院の制服をまとった姿には、一分の隙もなかった。 「お前でも寝坊できるんだな」  イルスが感心して言うと、扉を開けながら、シュレーはふん、と、笑っているような、ため息のような音をたてた。 「昨日の夜、シェルと言い争ったので、腹が立って眠れなかった」  学寮の廊下を並んで歩きながら、シュレーは無表情な口調で話した。  羊皮紙は消えたが、シェルが正史を盗んだ事実までは消えてくれなかったらしい。シュレーがあくまで無表情に、行く先の一点を見つめているので、イルスは緊張してごくりと唾を飲んだ。  シュレーは怒れば怒った顔をする。彼が無表情になるのは感情を押し殺している時だ。たとえば激怒しているときなど。 「君は何か聞いているか」  シュレーはこちらを見もせずに問いかけてきた。  しらばっくれたところで、知っているものは知っている。イルスは観念した。 「正史の件か?」 「私は写本をとるなと言った」  イルスの質問に答える代わりに、シュレーはつっけんどんにそれだけ言った。早足のシュレーに少し遅れながら、イルスはうなずいた。 「私が愚かだった」  シュレーがどんな顔をして、それを言っているのか、イルスには見えなかった。 「あいつ、お前に謝ったんだろ」 「そういう問題ではない。謝ってすむ事ではない。彼が機密を故国に漏らせば、彼も私も責任をとらねばならなかった。私は気付かずに危ない橋を渡った」 「シェルを信用してたからだろ」  イルスが言うと、シュレーはその言葉に躓いたように、きゅうに歩調をゆるめた。  追い越しかけて振り返ると、シュレーは立ち止まっていた。  赤い聖刻のあるシュレーの顔は、あまりにも無表情で、そこに建っている彫像のようだった。 「さあ。信用していたんだろうな」  シュレーはこちらをじっと見て、あやふやなことを言った。 「彼が鍵を貸してくれとうるさかったので、貸したんだ」 「あいつら、ゴネ出すと聞かないから」  イルスはシュレーを慰めたつもりだった。シュレーはやっと、不機嫌そうな顔をした。 「そういう問題ではない。マイオスが歯止めのきかない性格なのは熟知していた。そもそも鍵を貸したのが間違いだ。私の責任だ」  シュレーは立ち止まっていた自分に気付いたように、また歩き始めた。  マイオスか。  イルスは少し驚きながら、シュレーの背を追いかけた。  シェルがなにを怒っていたのか、なんとなく察しがついた。  シェルは、シュレーが自分のことを洗礼名で呼んだのが嫌だったのだ。親しい友達の間柄なら、洗礼名でなく名前で呼ぶのが普通だし、神殿種のシュレーから洗礼名で呼ばれると、なにかひどく遠い高いところから見下ろされている感じがする。  イルスもシュレーが自分のことを、フォルデスと呼ぶと、いやな気持ちがした。  でも、そういう事は時々起こった。シュレーはイルスと名前で呼んでくることもあったが、上の空だと洗礼名を使うことも多かった。それをいちいち訂正していては会話にならない。 「あいつも悪いと思って、謝ってんだから、許してやれよ」 「もう許した」  あっさりと、シュレーは言った。 「だが、マイオスは納得がいかないらしい。写しを渡さないと言っている」  またマイオスか。 「私には理解できない。なぜそんな意味不明なことをするんだ」 「写しを持っていたいんだろ」 「それをシャンタル・メイヨウに送られると私は困る」  シュレーはシェルの父である森エルフ族族長に、それにふさわしい敬称をつけるのを忘れていた。山エルフのふりをするのを忘れてる。 「送らないって約束させて、持たせておけばいいんじゃないか?」 「馬鹿な。鍵を貸したときに、写本はしないと約束したんだぞ。それでも写しをとった。あいつは私をコケにしてる」 「甘えてるんだよ」  イルスが言うと、シュレーは苦い顔でかすかに振り返った。 「竜(ドラグーン)だと?」  歩きながら、シュレーは憎々しげに呟いた。  その声はひどく感情的で、イルスは何とはなしに嬉しくなった。 「守護生物(トゥラシェ)だか、竜(ドラグーン)だか知らないが、部族領を侵すものが現れたら、だだじゃおかない。なにが可哀想だから助けるだ」  ひそやかな声で、シュレーは早口にぶちまけた。 「見つけ次第、ぶっ殺してやる」  あは、とイルスは思わず声をたてて笑った。シュレーの顔が怒っていたからだ。 「シェルにそう言ってやれよ」 「彼は怒るだろうな」 「ああ、そうだな。ケンカしろ」  イルスが背中を叩くと、シュレーは、ふん、と面白くもなさそうな笑い声をたてた。 「あれが相手じゃケンカにもならないよ」 「そうでもない。あいつもけっこうすごい文句言うぜ」 「誰が舌戦だと言った。一発殴ってやりたい」 「だったら殴ってやれば」  苦笑して、イルスは言った。  シュレーがそんなことをするとは到底思えなかった。 「無理だ。手が痛いから馬鹿らしい」 「お前どうせ、君のせいじゃない、私の責任だ、マイオス。とか言ったんだろ?」  イルスが指摘すると、シュレーは少し意外そうに、横目でちらりとこちらを見た。図星のようだった。 「鍵を貸した私の責任だ。写しを返してくれれば許すと言った」 「あいつ、お前に謝ったんだろ。悪いと思ってんだよ。責任とらせてやれよ。書架の鍵もとりあげないでおいてやれよ。もう二度としないだろ」  シュレーは顔をしかめて、思い悩んでいるふうだった。 「一度裏切った者を、もう一度信じろというのか」 「そうだよ。友達だろ?」  シュレーは、さも面白いことを言われたように、珍しく声をあげて笑った。  廊下にいた連中が、それを見てぎょっとしていた。シュレーが笑うのは、たいていは最高潮に激怒しているときだと皆知っている。  でも今は違うだろう。シュレーは気恥ずかしくて笑ったのだ。 「君らしい発想だな」 「シェルを信用してやれ」 「信用している。それが、そもそもの問題だ」  シュレーはそう言って、食堂の扉を開いた。  目の前に、いつもの黒大理石の床が広がった。  定席の食卓には、シェルが徹底抗戦と書いたような顔で座っており、膝の上には大量の羊皮紙の束を持っていた。 「それを返してくれ。そしたら無かったことにしてやる」  座っているシェルの前に立って、シュレーは命じるように言った。シェルはぎゅっと唇を引き結び、いかにも頑固そうな顔で、そんなシュレーを見上げている。 「いやです」 「なぜいやなんだ」 「山エルフ領内に守護生物(トゥラシェ)が残っていないか調べたいんです。これは大事なことなんです。気付いたからには、知らん顔はできないんです」 「そうか。じゃあ調べるがいい」  矢継ぎ早に言いつのっていたシェルは、シュレーがあまりにあっさりと許したので、拍子抜けをしたように、ぽかんとした。 「……いいんですか?」 「なぜ私に相談しなかった」 「それは……それは、なんででしょう。分かってもらえない気がして。それに、全部調べてから、話そうと思って。あのう……僕、勝手なことして、すみません。楽しくて、調子に乗ってたんです」 「まったくその通りだな、このお調子者が。私をなめるな。君のせいで肝が冷えた」  シュレーがぼやくと、シェルの向かいの席で気怠げに頬杖をついていたスィグルが、気持ちよくてたまらないというように、くつくつと笑い声で喉を鳴らした。  シュレーはそれを少しの間じっと見下ろしていたが、やがて何か思いついたように指輪をはずして食卓に置いた。そして、痛快なまでに音高くスィグルの横っ面を平手で殴った。  椅子から転がり落ちかけながら、スィグルはびっくりした顔で、シュレーを見上げた。 「い……痛いよっ」 「忘れたか?」  スィグルを威嚇するように、シュレーはもう一度手をふりあげた。紙束に抱きついて、顔面蒼白のシェルがひいいっと悲鳴をあげた。自分も殴られると思っているのだろう。 「なにを!? なにを忘れるんだよっ」 「羊皮紙は燃やせても、君はさすがに燃やせないからな。暗くて狭い学生牢に三日も寝泊まりすれば、天才的な君の記憶力も、少しは薄れるだろうか」 「いやだよっ、そんなの拷問じゃないか」  椅子の背にしがみつき、スィグルが血相を変えていた。  スィグルは暗くて狭い場所に閉じこめられるのが嫌いなのだ。虜囚時代の心の傷だろう。その理由を察すると、哀れすぎて普通はできない処遇だと思うが、シュレーには難しいことではないらしい。 「忘れた! ぜんぶ忘れたよ!!」  スィグルは今なら求められれば何でも言うといった雰囲気で悲鳴のように答えた。 「そうだろうか?」  シュレーは目を細めて、疑わしげに呟く。  イルスは笑いをこらえて顔を擦った。シェルもスィグルも本気でびびっているが、シュレーはたぶん遊んでいるだけだ。 「懺悔しろ、スィグル・レイラス・アンフィバロウ」  シュレーに神官ぶった声で言われて、スィグルは首をすくめた。 「僕はシェルに頼まれたことをやっただけだよ」 「いいや君は止めるべきだった」 「機密だなんて思わなかったんだよ」 「この嘘つきめ」  シュレーが殴るふりをすると、スィグルは身を固くしてそれを待った。  しかしシュレーは、結局スィグルを二度は殴らず、ため息をひとつついただけで、食卓から指輪をとりあげて指に戻した。 「今朝はもう時間がないから、簡単なもので」  制服の袖をまくりあげながら、シュレーは厨房のほうに歩いていった。それを見送ってから、イルスは彼が自分に話しかけていたのだということに気付いた。  はああ、と深い息を吐いて、スィグルが脱力した。 「何で僕がこんなめに……」 「お前ら、毎度毎度、こうなるのが分かっててやってるんじゃないのか?」  イルスは不思議になって聞いてみた。しかしシェルもぼけっとしていて何も答えようとしない。  怖いもの見たさというか。シュレーをからかって根性試しをしているとしか思えない。そんな目に遭いたくなければ、そもそもシュレーを怒らせなければいいだけなのに。  びびらされるのが気持ちよくてやっているんじゃないか、こいつら。 「お前ら、朝飯食うの?」  イルスが確かめると、スィグルとシェルは、どこかぼんやりしたまま何度も黙って頷いた。  食うんだ。  見た目の割に、あまり堪えていないらしい二人に、イルスは呆れた。やっぱり楽しんでやっているんだ。こういうことは今後も果てしなく続くにちがいない。  厨房に行くと、シュレーが神妙な顔をして、じゃがいもを剥いていた。 「あれで許してやったのか?」  手ぬるいんじゃないかという意味合いで、イルスはシュレーに訊ねた。  シュレーはなんだかんだであの二人には甘い。だからまた、しょうもない事でちょっかいをかけられるのだ。本当に迷惑なら、もっとガツンと言ってやればいいのに。案外こいつも、あの二人と戯れるのを楽しんでいるのかな。  イルスがそう結論付けようとしたとき、ふふふ、と笑って、シュレーがつぶやいた。 「今日はスィグルに肉を食わせてやろうかな」  まだ全然許していないらしかった。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(6) -----------------------------------------------------------------------  いつものように寝室に着替えに戻ると、枕元の引き出しの上に、金色のランプは相変わらずあった。  イルスはそれをじっと見つめた。  二回。  すでに使ったのだろう。  スィグルは三回まで使えると言っていたから、あと一回は同居人を変えることができるはずだ。  汗を流すために水を使った後で、濡れた髪が鬱陶しかったので、イルスは横目にランプを見ながら、髪を束ねた。  もう使う必要がないだろう。  シュレーは僅かだが年上で、年齢以上に落ち着いて見える。これまで同じ年頃の子供と付き合いが薄く、大人としか暮らしたことがなかったイルスには、そういう相手のほうが居心地がよかった。  シュレーは部屋を散らかしまくったり、夜中に怒鳴り込んできて大泣きしたりしないだろう。  お互いに干渉することなく、ほどほどの距離を保って、気楽にやっていける。  夏は去りかけており、夕方ともなると、濡れ髪では寒かった。いつものように、居間の暖炉のそばに座りたくなって、イルスは部屋を出た。  素足で廊下の絨毯を踏んでいき、居間へと入ると、そこには異様な臭いが漂っていた。暖炉のそばにシュレーが片膝をついて座っており、火の中になにかを投じている。  羊皮紙の束だった。  シェルが観念して、返したのだろうか。 「手伝おうか。燃やすの」  イルスが声をかけると、シュレーはゆっくりと振り向いた。どこか大人びた横顔に、火影が踊っている。 「シェルのだろ?」  手の中にある羊皮紙に書かれた文字を見つめてから、シュレーはただ黙って、それを火の中に落とした。紙はあっけなく、めらめらと燃え上がり、独特の臭いをふりまいている。 「正史の写しは、どうしても手元に欲しいというので、取り上げなかった」  講義時間が終わって、学寮に戻ったので、イルスはもう着慣れた民族衣装を身につけていた。そのほうが落ち着くからだ。  しかしシュレーはまだ学院の制服を着ていた。髪が濡れているので、彼も戻ってから身繕いしたらしいが、そういえば夕食に現れる時でも、シュレーはいつも学院の制服か、山エルフ族の平服を着ている。それは自分と違って、半分は山エルフの血を引いているシュレーには、似合わないわけではなかったが、なんだかお仕着せをむりに着せられているようで、くつろげないのではないかと思えた。  シュレーの前髪が濡れて、額にある赤い聖刻が、いつもよりはっきり見えているせいかもしれない。シュレーが神官服を着ている姿を、イルスは見たことがなかったが、部屋ではそういう格好なのではないかと、勝手に思っていた。  僧衣がいちばん、似合いそうだったからだ。髪だってまだ、ほかの山エルフのように、短く切りそろえていない。たよりなく細い金髪を、肩まで伸ばした僧形のままだ。  案外こいつは、まだ神殿に未練があるんじゃないのか。  イルスはそう思った。その気になりさえすれば、髪を切るなんて、シュレーには簡単なことのはずだからだ。 「なにを燃やしてるんだ?」  世間話のつもりで、イルスは火の側にならんで膝をつき、シュレーが床に重ねていた紙束をのぞきんだ。 「恋文だ」  無表情に答えたシュレーの言葉に、紙に手をのばそうとしていたイルスは硬直した。 「読んだら殺す」  横目でこちらの顔をのぞき込んで、シュレーは念を押すように言った。 「……読まないよ」  イルスは無意識に両手を挙げて空手を示し、シュレーはそれをじっと睨んでいる。  読みはしなかったが、紙の上に綴られていた几帳面な文字は、おそらくシュレーのものだった。読もうと思えば盗み読めた。それは公用語で書かれていたからだ。 「……なんで燃やしてるんだ」 「書き上がったから」  さも当然のように、シュレーは小声で答えた。  聞いてはいけない話だという自分の忠告が、イルスの頭の中で囁き始めた。  そういえばシュレーは結婚しているのだった。  日頃はそんなこと、全く意識せずにいたが、それはシュレーがそんな話をいっさい話題に出さないせいだ。  寒いので、居心地のいい暖炉のそばにいたかったが、シュレーがあまり喋らないので、それはそれで居心地が悪かった。  こういう時に、シェルなら一人でべらべら楽しげに話したろうし、スィグルなら程々喋ったろう。しかしシュレーの沈黙は、手を伸ばせば触れそうな重い幕だった。  下手に動くと、沈黙が破られそうな気がして、イルスは椅子に引っ込むこともできず、そのまま暖炉のそばで片膝を抱えて座っていた。  部屋にいるときと、外にいるときで、人はどこか別人なのだ。その事実を、イルスは今ここで思い知っていた。自分が付き合いやすいと信じていたのは、シュレーの外面のほうだったのではないか。  思えば今まで、シュレーとは必要な話しかしたことがない。話すともなく、二人きりでただ雑談する機会が、今まで無かったのだ。そういう機会がこうして突然やってきても、イルスはシュレーと何を話していいか見当がつかなかった。  イルスが話の糸口をさがして、そわそわしていると、彫像のように黙っていたシュレーが、とつぜん話し始めた。 「二人は反省してくれたようだ。特にスィグル・レイラスが」 「そりゃあそうだろうな……肉まで食わされちゃ」  少しほっとして、イルスは返事をした。  夕食の食卓に、シュレーは肉料理ばかりを出した。猪肉の煮込みは、今夜は特に上出来だった。シュレーの得意料理のひとつだ。  いつもなら、肉が食べられないスィグルのために、シュレーは野菜料理もわざわざ作ってやっていた。まさか干されると思っていなかったらしいスィグルは、食卓に自分が食べられるものが何もないので、きょとんとしていた。  イルスにとって意外だったのは、シュレーがスィグルにも肉料理を取り分けて出したことではなく、スィグルがそれを大人しく食ったことのほうだ。  その場で吐くのではないかとイルスは心配したが、スィグルは与えられた肉を全て食べてから、ふらりと部屋に戻っていった。 「肉によって味が違うだろう。兎と鴨と鹿は違う味がする」  火の中に手紙を放り込みながら、シュレーが突然のように言った。イルスは話の意図が見えず、相づちを打ちそこねたまま、シュレーの横顔を見た。 「彼が食べた肉は、どんな味だったんだろうな」  イルスは瞬きを忘れて、その話をしているシュレーの口元に目を奪われた。シュレーが言っているのは、スィグルが今夜食べた煮込み料理の話ではないだろう。  暖炉に乾かされた唇を湿らせるため、シュレーが無意識らしい仕草で、唇のはしを舐めた。白い歯列に、不似合いに鋭い犬歯が見えた。  守護生物(トゥラシェ)は人を食べます。シェルが言っていた話が、唐突に思い出された。 「そんなに罪深いことか。生きるためにやったことが」 「お前が、そう決めたんだ」  それを言うべきかどうか、イルスは迷いながら、シュレーに教えた。 「公用語を話す種族は、人だから、食ってはいけないと、天使ブラン・アムリネスが定めた」  大陸には実に様々な種がひしめきあっている。どこまでが人で、どこからが獣か、その境界線は曖昧だった。  およそ人語を解するものは人ゆえ、獣のごとく相喰らうことはならぬと、はるかな昔に天使ブラン・アムリネスが命じ、その言葉は戒律に記されている。神殿が各部族の王族に神殿語で洗礼名を授けるのも、その流れを汲んだ習慣だった。  ブラン・アムリネスが、獣でなく人だと認めた種族には、公用語の名を与えた。これを喰らってはならぬと聖別する意味で。神話の中では、天使はすべての大陸の民に名前を与えたというが、今では実際にはそんなことはしない。王族にだけだ。  洗礼名を持つのは、支配者であることと同時に、被支配民であることも意味していた。民に君臨し、神殿に隷属する。 「フォルデス」  シュレーはどこか厳しい声で呼びかけてきた。 「君は公用語を話すから人なのか」  イルスはほつれた髪をかき上げた。シュレーの理詰めは苦手だった。 「そういうわけじゃない」 「そうだな。もしそうなら、君はもっと公用語の練習をしないと、いつか間違えて肉屋に売られるかもしれない。君の肉はどんな味がするんだろうな」  たちの悪い冗談だった。  イルスは何となくぞっとしたが、シュレーはほんの軽口のつもりのようだった。  シュレーは狩猟を好み、ときどき一人で森に入って獲物をとってくることがある。昨日の夕食に出た兎もそうだ。学院の調理人に頼めば、採ってきた獲物の下処理を任せることができるのに、シュレーはたいてい自分でそれをやる。  自分が殺めた獲物を、自分で調理して食うのは、筋が通っているようにイルスには思えた。学院の学生のなかには、遊びで狩りをする者も沢山いるが、シュレーはそうではない。  それには共感できるはずが、イルスは、シュレーが獲物の血抜きをするのを見るのが苦手だった。シュレーが実際楽しんでいるのは、狩猟ではなく、獲ってきた獲物を捌く作業のほうなのではないかという印象があったからだ。  以前は何度か付き合ったことがあるが、神聖さを帯びた白い手が血にまみれるのを見るのに、とうとう嫌気がさしてからは、誘われても一緒に行ったことがない。 「君たちエルフ族は肉食の種だ。肉を食わないと健康を保てないよ。気の毒がる気持ちはわかるが、あいつにも時々は肉を食わせろ。痩せている」 「スィグルは肉を食うと具合が悪くなるんだと思ってたんだ」  実際、自分たちが食べている肉料理の皿を、スィグルはいつもうとましそうに見ていた。一緒に食事をするほうを選んで、我慢しているが、ほんとうなら見るのも嫌なのだろうと思っていた。 「そんなはずはない。あれは甘えているんだ。今夜は久々に飢えを満たして眠れるさ」  シュレーが紙でなく、新しい薪をとって、暖炉に放り込んだ。火はぱちぱちと爆(は)ぜた。  確かにスィグルは肉を全部平らげた。シュレーがそれを食えと命じたからだ。いやなら、いつものように罵詈雑言を吐き、席を蹴って出ていっただろう。よそで食事ができないわけではないのだから。  なぜ食ったのだろう。  イルスにはそれが、天使が肉食を許したからのように思えた。  ブラン・アムリネスは、人語を解する種族どうしがお互いを食料とすることを禁じた。その戒律は、同時にもうひとつの基準を作った。共通語を解さない種族は、人ではないから、食って良いという基準だ。第四大陸(ル・フォア)には、人型をしていても、言語能力を持たない種もいた。天使はそれを、亜人と呼んで、獣に分類した。 「お前って、ひどいことするよな、時々」 「そうかな」  とぼけているのか、シュレーは曖昧なことを言った。 「お前でも、好きな女には優しいのか」  つい先刻には、詮索するまいと思ったことを、イルスは聞いてみた。とにかくシュレーにも、人並みの感情があるのだということを、確かめたかった。 「さあ、どうだろう。私は彼女とはほとんど会ったことがないんだ」  暖炉のそばには、もう何枚かしか羊皮紙が残っていなかった。その送られない手紙の中に、どんなことが書いてあるのか、イルスは見てみたい気がした。  こいつの心の中にも、愛だとか、相手を思いやる気持ちがあって、愛しいと思える相手には、それなりの言葉を吐くのだと思いたい。 「私は君たちにも優しくしているつもりだが、君はなにが不満なんだ」  シュレーは本気で言っているらしかった。 「不満?」  イルスは不満を訴えたつもりはなかった。 「君は今、私が優しくないと文句を言っている」  シュレーは苦笑していた。  言われてみれば、その通りのようにも思えた。 「……やりすぎじゃねえのか。スィグルは確かに、お前をコケにしたかもしれないけど、だからって」 「いい機会じゃないか。彼は誰かが許してくれるのを待っている。それをやるのに私より適任な者が?」  よき牧者だ。  翼ある者、天より来たりて、これを牧す。  聖典に書かれてあり、共通語の訓練のために師匠から繰り返し読まされたその文章を、イルスは連想した。  神殿種は、第四大陸(ル・フォア)の全種族を支配する神だった。シュレーはその一員で、本来なら決して、こんなふうに隣に座って口を利くような相手ではない。  シュレーは最後の羊皮紙を暖炉に投げ入れ、それが身をくねらせて燃え尽きるのを、じっと見守った。あれには何が書いてあったのだろう。  愛の言葉が?  そうだといいのだが。  イルスは恨めしく、火影をうつしたシュレーの横顔を見つめた。 「俺さ……」  呼びかけると、シュレーは気安い友の顔で振り向いた。 「お前の本当の心なんて、見たくねえや。あいつらと同じになりそうでさ」  イルスは、シェルやスィグルがシュレーを怒らせようと躍起になる理由が、何となく理解できた。怒っている時のシュレーが、いちばん分かりやすい。自分と変わらない年頃の仲間だと信じていられる。からかえば怒って、自分たちと同じところにいてくれる。 「今日の私たちは、いつもより余計に口をききすぎたんじゃないか?」  床に座るこちらを心持ち見下ろして、シュレーはそう言った。 「私も君の本音は、剣闘技室で聞くだけにしたいな」  シュレーはまた、薄く苦笑していた。  剣闘技室では手合わせをするだけで、会話らしい会話をしたことがない。シュレーが言っているのは、武器越しに見交わすときの、言葉でないやりとりのことだろう。  確かに、自分が気が合うつもりだったのは、そのときのシュレーだ。 「なにをそんな惨めしそうな顔をしているんだ。腹でも減ったのか」  飢えた飼い犬に、残り物の骨でも放ってやるような口調で、シュレーは言った。その声は優しかった。 「靴をはけ、フォルデス。怪我をしている」  燃えおちた羊皮紙の臭いを残して、シュレーは暖炉のそばから姿を消した。  なんであいつは白い神官服を着ていないのかな。  イルスはそれがどうしても不思議で、満たされない気持ちになった。  もしそうなら、命じる口調で言われても、こんなふうに複雑な気持ちにはならないだろう。もともとあいつには、支配する血が流れていて、自分はその猟犬だ。友ではなく、火のそばに座って、主人の言葉をただ聞いていればいい。森で獲物を追うのなら、それについていく。  イルスは小さな傷の残っている、自分の裸足の足を眺めた。  魔法のランプ。  あれはまだ、あと一回働いてくれるはずだ。  自分はこのまま、この部屋で暮らしていると、そのうち人語を話せなくなるのではないか。そんな気がして、イルスは逃げ出したかった。 ----------------------------------------------------------------------- 「魔法のランプ」(7) -----------------------------------------------------------------------  用心して扉を開けると、薄暗い廊下には、何だか良く分からないものが、こまごまと散らかっていた。うっかり踏みつけると足を怪我してしまう。  イルスは自分の部屋で靴を履くのが嫌いだった。師匠の庵にいたころは、すぐそばに砂浜が迫っていたし、近隣の者たちも、靴を履いて出かけるのは、それなりの遠出をするときだけだった。  ここには砂浜はないが、自分の部屋にいるときぐらいは、イルスは好きな格好をしていたかった。  見慣れた姿を求めて、居間へ入っていくと、いつもの長椅子にスィグルがだらしなく寝そべって、巻物に描かれた極彩色の絵物語に見入っていた。 「おかえり」  足音がしたわけでもないだろうに、スィグルはこちらの姿を見もせずに、ぽつりと挨拶した。 「三回しか使えないんだよ、イルス」  訳を知ったようなことを、スィグルは言った。  金のランプはもうただのランプで、魔法は使えない。  別にそれでよかった。いつもと変わらないのが一番だ。 「お前、ちょっとは部屋を片付けろよ」  暖炉のそばの椅子に腰掛けて、イルスがつぶやくと、スィグルが低い声で笑った。 「明日でいい? いまちょっと吐きそうだから」  目を向けると、スィグルが眺めている絵物語は、創生神話を描いたものだった。  竜が抱くふたつの卵から、様々な種族が生まれ、第四大陸(ル・フォア)を満たそうとしていた。天使たちは、それを牧した。スィグルは絵の中のブラン・アムリネスを見ていた。 「猊下はなんか言ってた?」  スィグルは返事がかえるのを期待しているような声で、訊ねてきた。  イルスは炎を見下ろし、少し考えてから答えた。 「お前もときどき肉を食えってさ」 「ふぅん……」  スィグルは興味なさそうに相づちを打った。 「今夜のあの料理さ、あれはなんの肉だったの」 「猪だろ。あいつの得意料理だよ」 「そうか」  絵巻物に埋もれて、スィグルは重たい息を吐いていた。  大きすぎる獲物をまるのみした蛇が、苦しんでいるような姿だった。 「美味しいような気がしたよ」  うめくように感想を述べて、椅子からずり落ち、スィグルは執事に用意させたらしい飲み水を、小卓からとって飲んだ。 「僕の言ったとおりだったろ?」  浴びるように大量の水を飲み、スィグルはぜえぜえと苦しそうな息をしたが、こちらを見たスィグルの顔は、蒼白なまま笑っていた。 「なにがだ」 「いっしょに住むなら、僕がいちばんマシってこと」  イルスは答えようとして、口を開いたまま、しばらく黙っていた。  スィグルの言うとおりのような気もした。 「ひとりで住めるようになる魔法って、ないのか?」 「ひとりで暖炉の火と話すのかい? 耐えられないだろ、そんなの」  ありえないというように、スィグルは笑って手を振った。 「イルスはさ、僕の部屋を片付けるためにいるんだよ。そのほうがずっと気楽だろ?」  薄明かりに照らされた居間を見て、イルスはそこに散らかった物の多さにうんざりとした。  確かにそうだ。ここには片付けるものなら、いくらでもある。片付けても片付けても湧いてくるように、仕事が増える。なにも考える暇がない。自分の本音なんて。  乾いた髪をふりほどいて、イルスは立ち上がった。まだ微かに湿り気の残った髪の芯から、羊皮紙を焼いたような臭いがかすかに漏れ出た。 「どうしたの」  長椅子にもたれて、だらしなく床に座り込んでいるスィグルが、通りすがるイルスを見上げた。 「掃除するんだ」  答えると、スィグルはいかにも楽しそうに、ふっふっふと笑い声をたてた。  いつもと変わらないその声は、イルスの耳にひどく心地が良かった。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(1) ----------------------------------------------------------------------- 「君に足りないのは、能力ではない」  晩飯時を待つ学寮の居室で、イルスが長椅子に仰向けに寝そべり、暖炉の熱を浴びていると、いつもより遅く戻ってきたスィグルが、脇に立つなり突然そう言った。 「え、なんだって」  その口調が別の誰かを彷彿とさせたので、イルスは聞き返した。 「君に足りないのは、能力ではない。私が思うに、それは努力」  面倒くさげな無表情で、そう教え、スィグルは手に持ってた紙束を、イルスの腹の上に放り投げてきた。  どさっと落ちてきたそれには、けっこうな量があり、びっしりと文字が羅列されている。  思わずイルスが覗き込むと、見覚えのある公用語の筆跡は、シュレーのものだった。 「そして視力だ」  断言して、スィグルは屈み込み、懐から出した眼鏡をイルスにかけさせた。  ぼんやり滲んでいた文字が、急にはっきり見えた。  唖然と紙を見ているこちらの顔を、スィグルは首をそらせて、尊大なふうに見下ろしている。 「似合わないなあ……」  顔をしかめて頷き、スィグルは納得したふうに言った。 「でも、それで、良く見えるようになったのかい」  イルスは頷き返して、受け入れがたいという渋面をしているスィグルの顔を、ガラスごしに見上げた。そして、こいつはこんな顔だったのかと思った。いつも、だいたい見えていたけど、細部まではっきり見たのは初めてかもしれなかった。 「これ、なんなんだ」 「猊下からの、伝言だよ。君に足りないのは努力。それは哲学の口頭試験のための詰め込み資料。猊下直筆。読んで丸暗記……」  顎で紙束を示すスィグルの顔を、イルスは見つめた。いかにも厭そうに伝える内容は、表情に反して、どことなく律儀さを感じさせる。白い顔の中で、暖炉の薄い灯りを受けて、黄金のような目が輝いて見えた。 「それから、君の不甲斐ない視力を補うための眼鏡。君の試験勉強に粘りがないのは、目が悪いせいじゃないかという、猊下の分析により。僕が遣わされたわけ」  ずる、と示し合わせたように、スィグルが言い終えるのと同時に眼鏡がずり落ちた。  人差し指をのばしてきて、スィグルがそれを押し上げた。 「居室に逃げても無駄だ、フォルデス。この追試をしくじったら、君は落第なんだからな。これを読んで分からないことがあったら、レイラスに聞け。伝言は以上」  腕組みをして、スィグルは渋面のままため息をついた。結っていない黒髪が、はらりと頬に落ちかかり、深い陰影を生んだ。 「僕を、患わせないでくれる? そして、落第しないでくれる? 落第すると、君には補習があるらしい。君がそれに行くと、飯時の予定が合わなくなるというので、猊下の機嫌が悪い。料理を温め直すのが、いやなんだって」 「そんなの自分でやるよ」  顔をしかめて、イルスは答えた。余計なお世話だった。 「いや、そうじゃなくて。温め直すと、まずくなるんだって。せっかくの料理が」  驚愕の事実、という口調で、スィグルは教えてくれた。  イルスは返す言葉もなかった。  シュレーは料理にのめり込んでいて、それもやつの性格を写し、ちょっと楽しむという感じでではない。 「学院生活の教訓。あいつは、聖堂では天使、厨房では暴君。付き合い方のこつは、とにかく、諦めて跪くこと。跪け(トーレス)……イルス・フォルデス」  スィグルは疲れた真顔で金言を与えてから、制服を脱ぎに、寝室に引っ込んでいった。  イルスは唖然として、暖炉の火を見つめた。いつもと同じように揺れる火影が、ガラス越しには、いやにくっきりと見えた。 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(2) -----------------------------------------------------------------------  自分の目が、よく見えていなかったという事実に、イルスは初めて気がついた。  今まで何の不満もなかった視界が、ちっぽけなガラス板一枚で、見違えるほど鮮明になっている。  投げ渡された紙束に目をやってみると、びっしりとシュレーの字が書き連ねてあり、その内容は、読むと眠くなるような、哲学の話だった。  近々、イルスは哲学の口頭試験を受ける予定になっていた。すでに一度受けてあるのだが、教授がどうも、こちらの回答に満足できなかったらしく、追試を食らったのだった。  課題は毎回、ひとりずつ異なり、前もって連絡される。前回はなにか、神殿の教義についての話で、それなら分かるだろうと思って、特になんの準備もせずに行った。なにしろ礼拝には毎週行っているし、神殿との付き合いは長い。生まれた時の洗礼式から数えて、今年で十四歳、だから十四年にもなるわけだ。自分が特に不信心なほうとも思えなかった。だから、知っていることを適当に話せば大丈夫だろうと。  でも大丈夫じゃなかったらしい。  試験のあとで、シュレーにどうだったと聞かれ、回答した内容を話したら、情けないという顔をされた。それは見ているこっちまで、情けなくなるような顔だった。  信仰と宗教哲学は別物だと、シュレーは言い、イルスはそれに、でも神殿の話だろうと答えた。  追試があるらしいと話すと、次は私が模範解答を教えるから、課題を知らせろと、シュレーはその場で約束した。  そんなのは卑怯ではないのかと、イルスは思う。他人が考えた答えを丸暗記して喋るだけなんて。  さっきの伝言を伝えてきたスィグルは、不気味だったが、あいつは俺にもあれをやれと言っているのだろう。なんだか、馬鹿らしくて、やってられない。  紙の上の文字に、イルスはため息をついた。  教授が寄越してきた今回の課題は、人は何故(なにゆえ)に生きるか、だった。  だからシュレーの文字は、人は何故に生きるかについて、三分ほどで話し終わる解説を書きつらねていた。たぶんこれは、あの気むずかしい哲学の教授が、にっこりと微笑むような模範解答なのだろう。  しかし退屈だった。  文字がよく見えるようになったのは面白いが、読まされる内容は、何ら興味の湧かないようなものだ。  聖なる神殿の、よき僕ゆえ、と、目に付いた文章が語っていた。よき僕ゆえ、天使の与え給うた役割を果たすべく、人は生きるのだそうだ。  あいつはどの面でこれを書いたのかと、イルスは思った。  神殿などまやかしだと言うくせに、哲学の単位をとるためなら、こんなことを平気で書くとは。シュレーの頭の中は、いったいどうなっているのか。  あいつは、ずるい奴だと、イルスは面白くなかった。この回答の内容もずるけりゃ、これを丸暗記して答えろという考え方も、ずるい。  シュレーがなぜ、ずるをしてまで自分を助けようとするのか、分かるようで、分からない。たぶんあいつは、学院の他の学生たちが、自分の取り巻きだと見なしている者の中から、試験に落第するようなのが出てくるのを、自分自身の恥だと思っているのだ。  スィグルは頭のいいやつだった。勉強している姿を見たことがなく、講義はさぼるし、出席しても聞いている気配はなく、学寮でいつもだらだらしているが、それでも試験の成績はいいらしかった。どうやってそんな事ができるのか、尋ねてみたことがあるが、スィグルはいつもの調子で、僕は君らとは頭のできが違うんだよと、偉そうに言うだけだった。  シェルはシェルで、勉強熱心というか、知りたがりのあいつには、知識を蓄えることが何よりの幸せのようだった。いつもイルスには意味のわからないような事を、夢見るように話して、面白い面白いと言っていた。彼の試験の成績に、シュレーが顔をしかめた事はない。  シュレーから見て、その二人が支障ない友人であるとして、自分は違うということだろう。何とも言えず、腹の立つ話だった。シュレーの見栄っ張りにはもう慣れたが、そういうことは本人に関してだけにしてほしい。他人にまで手出しするのは、やりすぎだ。  支障のある友人が恥ずかしいというなら、付き合わなければいいだろう。  したり顔のシュレーを思い出して、イルスは複雑な気分がした。  もしかして俺とあいつは、今、けんか中なのではないか。  シュレーは哲学の追試を手伝うと言い、それにこう言い添えた。  君は、この学院の者たちに、左利きのヘンリックの息子は馬鹿だと思われても、それで平気なのか。王族としての誇りを示せと。  なんだかそれにカチンと来て、シュレーを振り切って学寮に避難したのだ。  あいつは部屋には追ってこない。  それがなぜかは知らないが。たぶん誘ったことがないからだろう。  まさかスィグルを使ってまで、作戦が遂行されるとは、想像もしてなかった。あいつは、しつこい。  怒っていいやら、どうやら、イルスは決めかねた。  あいつも暇ではないわけで、その中で他人のために口頭試験の草案を作り、目が悪いんではないかという些細な事まで気にしてきたわけだ。  うるさいよと文句を言うべきか、それとも、ありがとうと言うべきか。  はっきりしないのが、困るところだ。  それでも、いつもはぼやけた視界で気にならなかったように、今まで深く考えずに付き合ってきた。今更それを、鮮明にされてもな。  この学院にやってくるまでは、世の中はもっと、単純だったのに。  どこかで扉の閉じる音がして、スィグルが早足に居間に現れた。彼は制服ではなく、彼の部族の衣装を着ていた。鈍い色合いの絹地の、長い裾を翻して歩く姿は、いかにも黒エルフだった。 「暗記した?」  当然しただろうという口調で訊かれ、イルスはびっくりした。 「いや、まだ、最後まで読んでもいない」 「寝てたのかい、イルス」  まっすぐ目を見て、呆れかえった口調で言われ、イルスは思わず、眼鏡をはずした。  スィグルはよく、ほかの学生たちと悶着を起こすが、まともな視力で、こいつの蔑む顔と対峙して、頭に来るやつがいるのは当然だった。  今まで気づかなかったが、この顔で言われると、些細なことでも傷つく。  まともな視力で、普段こいつの罵詈雑言に平気でいるシェルやシュレーは、かなり根性があるとイルスは思った。 「行こうよ、イルス。猊下に会ったら、全部憶えたって言えばいいよ。もしも何か突っ込まれたら、僕が適当に誤魔化すから。とにかく、食事中に喧嘩するのは、やめてよ。僕は静かに食べたいんだ。そして、すみやかに帰る」  わかったか、という口調で、スィグルは話していた。  お前まで俺に嘘をつけっていうのか。  嘆かわしい話だ。嘘つきばっかりの世の中かという気がした。  うんざりした顔で、イルスは部屋を出た。スィグルにはその顔がよく見えているはずだったが、何も気にならないのか、振り返りもしない早足で、すたすた歩くだけだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(3) ----------------------------------------------------------------------- 「読んだか、イルス・フォルデス」  跪け(トーレス)、という顔で、シュレーは厨房の竈の前から聞いてきた。 「読んだ」  イルスは正直に答えておいた。スィグルに持たせた例の模範解答のことに決まっているからだった。途中までだが、読むことは読んだ。 「眼鏡は?」  真顔でそう訊ねてくる相手に、イルスは帯に引っかけて持っていた眼鏡をとって、シュレーに振って見せた。 「見えたのか、それで」 「見えたよ」  こちらの答えに、そうかというように頷いてから、シュレーは鍋から何かを手の甲にとり、ぺりと舐めて味見した。  出来はよかったらしく、シュレーはいつもなら大体、不機嫌そうなような無表情でいるその顔に、笑みを浮かべたようだった。 「読んで答えれば大丈夫だ。あの哲学の教授は、宗教哲学に傾倒していて、神殿寄りのことを答えておけば、だいたいにおいて問題がない。私がやると嫌みらしいが、君が答えるならそのほうが無難だろうと、レイラスも言っていた」 「お前ら、相談したのか」  びっくりして、イルスは訊ねた。  スィグルはとっつかまって相談に乗らされたのかもしれないが、どっちにしろ余計なお世話であることには変わりない。 「皿」  答えもせずに、神聖なる天使は皿を要求していた。聖なる神殿の、よき下僕ゆえ、皿を持ってくるのが俺の生きる理由かと、イルスは情けなくなった。  それでも湯の中で温めてあった皿を拭いて差し出すと、シュレーはそれに、鍋で煮込んでいたらしい肉料理を、あたかも祭礼の祠祭のごとく厳かな手つきで盛りつけた。  皿は三つだけ埋まり、残りの一枚を突き返してきて、シュレーは厨房の対岸にあるもうひとつの竈を指さした。 「レイラスのはあっち」  お前が盛ってこいということらしく、イルスは大人しくそれに従った。  スィグルはときどきシュレーに肉料理を食わされていたが、今日は別物がもらえるらしい。作戦に付き合ったのだから、それくらいはしてもらえるだろう。まさか、そんな餌のために跪かされたわけじゃないだろうなと、イルスは今、食堂のほうでシェルといるはずの、同室の相棒のことを恨んだ。 「今日のは、上出来だったよ」  にっこりと笑っているような顔で、シュレーは肉料理の皿をひとつイルスに手渡してきた。料理が納得のいく出来だと、シュレーは機嫌が良くなった。そうでなければ普段に輪をかけた不機嫌でいるので、料理の出来不出来は、些細なようでいて、同盟の子供たちにとっては非常に重要な問題だった。  思い返してみても、シュレーが日常の中で、にっこり笑っているのは、この時だけだ。  どういう訳かは謎だが、よっぽど料理が好きなのだろう。それで上手く仕上がったのを、ひとりで食うのでなく、皆で分けたいというのは、気分としてよく分かる。  普通にそう言えばいいのではないか。皆でそろってゆっくり話すのも、晩餐の時だけだから、ちゃんと顔が四つそろうように、試験は頑張れよと。 「あのなあ、シュレー。試験のことだけど……」 「後にしろ。料理が冷めるから」  ぴしゃりと言って、シュレーは自分の持ち分の皿を二枚だけ持って、さっさと厨房を出ていった。  なんだそりゃあとイルスは思った。  厨房では暴君。確かにその通りだった。  しかし、どんな暴君だろうが、支配を受ける義理はない。たかが肉が熱いか冷たいか、それっぽっちのことで、どうして左利きのヘンリックが出てくるのか。それがこっちにとって、どれだけ腹の立つ話か、知らずに言ってりゃ可愛げもあるが、向こうはその効果のほどを重々理解したうえで、あえてぶつけてきてるのだ。  怒っていいかと、イルスは自問した。怒ってもいいんじゃないか。ここは、ありがとうではなく、この野郎ではないのか。  シュレー、この野郎。  そう思って、イルスは皿を見た。そしてふと思った。片方はスィグルの晩飯だった。  喧嘩をするなと言っていたし、さっさと帰ると言っていた。あいつはとばっちりを食っただけで、この喧嘩に巻き込まれて、晩飯を干されるいわれはないのだ。  それにシュレーは自分に給仕するのを嫌がって、自分で運んだ皿をいつも人に回していた。ということは、今ここに持っているのは、あいつが食うやつだ。それが遅れて冷えていたら、きっと機嫌が悪いだろう。  それで喧嘩か。  しかしこれは四人の問題ではない。サシで勝負するべき事だ。俺はあいつみたいに、他人を巻き込むようなことはしないから。  そう結論して、イルスは皿を運んだ。  そして食卓で待っていたシュレーに、蔑みきった声で、遅いと言われた。 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(4) ----------------------------------------------------------------------- 「怒ったってしょうがないですよ、イルス。ライラル殿下はそういう性格なんだもん」  長椅子の端から、遊びにやってきていたシェルがたしなめてきた。  イルスは暖炉の前に仰向けにぶっ倒れて、両腕で顔を覆い、それを聞いた。そうやって押さえていないと、今は何とか水面下にある怒りが、飛び出してきそうな気がした。 「怒ってんのか、これ? 落ち込んでるのかと思ってたよ」  長椅子の反対の端で、スィグルは胡座し、自分の膝の上に頬杖をついていた。そうしてこちらを見下ろし、スィグルがどんな顔をしているか、イルスには見なくても想像がついた。  呆れたねえみたいな顔だ。  とにかくスィグルは皮肉屋で、なにかにつけ毒舌だった。どこまで意識しているかは分からないが、人を馬鹿にすることにかけて、スィグルは達人だった。  そんな偉そうな態度でも、スィグルに腹が立たないのは、こいつに悪気が無いからだと、イルスは思った。普通に喋ると、こいつの場合それが毒舌なのだ。  わざと言ってるあいつとは違う。 「怒ってるんだと思いますけど。でも我慢してるんじゃないですか」 「なんで我慢する必要があるんだよ。まさか猊下が怖いのか」  頭の上を、シェルとスィグルの会話が飛び交っていた。 「怖くはないでしょうけど、言うだけ無駄みたいな気がして、怒ってもさらに腹が立ちそうだからじゃないですか」 「それは事実だけど、苦しい堂々巡りだよ。どこかで突破口を見つけて、がつんと一発いっとくか、それとも脱力して許すかだよな」 「どちらとも言えない心境なんじゃないですか。怒るにしては、一応向こうも親切なんだし、許すにしては、あの態度がむかつきます」  真剣に分析しているシェルの話に、スィグルがそうだねと言った。 「どっちかに押せばいいんじゃないの。むかつく方向か、それとも親切か」 「基本、親切なんだと思うんですよ。ライラル殿下の心理としては。試験に落ちるなんて屈辱で、耐えられないっていうのが、ライラル殿下の世界観でしょう」 「そうだろうなあ。試験に落ちるくらいなら、崖から落ちるほうが気が楽だろうなあ、猊下は」  評するスィグルに、シェルは黙って頷いているらしかった。  そんな気配のあと、二人はしばし、黙々と茶を飲んでいた。長椅子の真ん中の、空いたところに、盆にのせた三人分の茶器を、執事のザハルが供していっていたからだ。 「でもこの際ね、僕はイルスにはちゃんと試験に通ってほしいですよ。だってやっぱり、晩ご飯は四人でのほうが、いいと思いませんか」 「僕はどうでもいいけどな」 「殿下に聞いた僕が馬鹿でした」  シェルが嫌みなくそう答え、なにが可笑しいのか、ふたりは顔を見合わせているふうに、あははははと軽快な笑い声をあげた。 「とにかくですね、不本意かもしれませんが、イルスには、ライラル殿下のねじれた親切を、素直に受け取ってもらって、試験では丸暗記の答えを回答してもらいたいです。そして単位をもらって、引き続き晩ご飯は四人ということで」 「でも、イルスはもう模範解答を丸暗記するつもりはないみたいだよ」  スィグルは茶をすすりながら、シェルにそう教えた。 「そうなんですか、イルス」  シェルは、それは困ったというふうに、咎める口調で訊ねてきた。  イルスはふて寝のまま、頷いておいた。なにが模範解答だ。 「困っちゃいますね」 「こうなるとイルスも頑固だからなあ」  そう言うふたりは、しょうがないやつだという口調だった。 「こんなことだろうと思ったんです。ごはんの時の顔色を見てて」  シェルは、それで心配になって来てみたのだと言っていた。 「お前が見たのは、イルスの顔色じゃないだろ。何かもっと別のもんだろ」 「そうかなあ。まあ、そうだったとしてですよ、それはまあ、勘の良い人なら察しのつく範囲じゃないですか。僕が感応力を使ったかどうか、証拠はないですよ」 「それは屁理屈じゃないの」  スィグルが指摘した。  屁理屈だった。いつの間にか、人の心を読んでしまうのは、シェルの悪い癖だった。悪気はないのだろう。心配だったから、うっかり覗いたのだろうが、いいかげんちゃんと力を制御してほしかった。そうでないと、わざとやっているように思えてくる。 「屁理屈だって理屈のうちです」 「そうだけど。それこそ居直りだよな。だったらもう居直りついでに、イルスがちゃんと勉強する気になるように、お前が手伝ってやったらいいよ、シェル」  スィグルは勧めるというより、そうしろと命じるような口調だった。  イルスはその話に、自分の腕の下で、閉じていた目を開いた。 「そんなことしていいんでしょうか。感応力で操れって言ってるんでしょう、殿下は」 「そこまで言ってないよ。手伝えって言っただけじゃん」  にやりと笑ったような声で、スィグルは答えた。 「あぁ……そうか。さすがにずるいなあ、殿下は」  感心したふうに言って、ふたりはまた、けらけらと笑った。 「しょうがないなあ。四人の友情のためです」 「ちょっと待て」  決心しているシェルに、イルスは驚いて起きあがった。 「やめろ、シェル。たかが試験で、どうしてお前にそこまでされなきゃならないんだ」  思わず大声になって言うと、シェルは目をぱちぱちさせた。 「イルスが試験に落ちそうだからです。そしたら皆でごはんが食べられないし、寂しいからです」  シェルは寂しいという顔をした。それが動機だと。 「僕もできれば、こんなことしたくないです。でも、イルス……なにか悩み事はないですか、心の傷とか」 「ねえよ!!」  思わず、イルスは座ったまま後ずさったが、すぐ後ろが暖炉だった。炎は明々と燃えていた。それ以上後ずされば焼け死ぬ。 「ライラル殿下は、悪気はないです。あれはあれで、本当のところ、イルスも一緒にごはんを食べてほしいから、言っているんです。そんなこと分かるでしょう」  長椅子から話してくるシェルは、説得するというより、付け入ろうという口調だった。 「厨房でむかつくのは、いつものことじゃないですか。それはそれで、ライラル殿下がそれだけ遠慮なく楽しんでるってことですよ、イルス。それもこれも、イルスが料理を教えてあげたからじゃないですか」 「そんなこといちいち言うな!」  シェルは、かすかな渋面になって、スィグルと顔を見合わせた。 「だめみたいだね、こんなもんじゃ。もっと押すといいよ、シェル。きっとどこかに心理的な弱点があるはずだ」  スィグルは真顔でシェルを励ました。 「力を貸すな、スィグル!」 「なんだろうなあ、イルス。いったい何に怒っているんだろう。猊下はいったい君に、なんて言ったんだ」 「どうでもいいよ、そんなこと。お前の知ったこっちゃないだろ」  イルスが焦って言うと、スィグルは伏し目になって、こちらを睨んだ。 「案外忍耐強い君が、そこまで怒ることって、そう沢山はないよね」 「いや、そんなことはないって。俺は気の短いやつだよ。あいつの態度に、むかっときただけ……」  イルスが話す途中に、シェルが思いついたように、ぱちんと手を打った。 「きっとお父さんのことですよ」 「あぁ、それだきっと。しかも相当に痛いところだよ」  そう言ってスィグルは痛そうな顔をした。身に覚えがあるように。 「じゃあきっと、あれですよ。それでも左利きのヘンリックの息子かとか?」 「いやあどうかな。知略で鳴らす類の人じゃないだろう、イルスの父上は。どっちかというと武勇の人の印象じゃないかな」  よそ事のように話すふたりを、イルスは唖然と眺めた。こいつら今、どんな顔してこれを話しているのだろう。暖炉の灯りだけでは、イルスにはそれは良く見えなかった。 「それじゃあ、ライラル殿下のことだから……」  シェルは口元を覆って、こころもち上を見ていた。 「お前が馬鹿ってことは、父親も馬鹿だとか言われたんだろ、どうせ」  そこまで言われていない。スィグルの当てずっぽうに、イルスは内心で悶絶した。 「あっ、今の当たりかもしれません!」  シェルが鋭く指摘した。お前はもう帰ってくれ。イルスは内心でそう懇願した。 「イルス」  しかしシェルは満面の微笑で、こちらに身を乗り出して言った。 「そんなの、気にすることないですよ」 「なんの話だ、なんの……」  イルスは抵抗した。しかしシェルは人を癒す微笑だった。 「悔しかったら、試験でいい成績をおさめて、みんなに分かってもらえばいいんです。ちゃんと哲学の講義を理解してるってことを。それがひいては、お父上の名声にもなるかもしれないですよ」 「そうそう。さすが我が息子みたいな」  お茶を飲みながら、スィグルが調子の良いことを言った。シェルが頷いて、話を継いだ。 「親子の愛に、成績なんて関係ないと思いますけど、それでも、成績が悪いよりは、良いほうが、きっと喜んでもらえますよ。だって、親にとっては、可愛い我が子の活躍が、いちばんの自慢なんですから」  可愛い我が子だと。  イルスは自分の中で何かがブチッと切れたのを感じた。  親父殿に俺が可愛いわけないだろ。だったらこんなところに捨てやしないよ。いらないから捨てたんだ。それ以外に理由があるか。いらない餓鬼が活躍しようが、よそで死のうが、あいつには関係ないんだよ。  一気にそう思うと、シェルがきゅうに、青ざめた真顔になった。 「失敗しました」 「なんだって、下手くそめ。だからお前には守護生物(トゥラシェ)がいないんだ!」  スィグルが呆れたように言い、天を仰いだ。シェルも傷ついたのか、顔を覆って天を仰いだ。  イルスは腹が立って項垂れた。  どうしてこんなことで三者三様に苦い思いをしなくちゃならないのか。何もかもあいつのせいだと、イルスは厨房でにこにこしていたシュレーのことを思い返した。 「人それぞれだよなあ……」  苦い声で、スィグルが悔しそうに言った。 「なんでそう思わないの。イルスは。頑張って気に入ってもらおうって」 「それは頑張れば気に入ってもらえるやつの言い分だろ」 「可能性はあるだろ。優れてれば、可愛いと思われるかもしれないよ」  スィグルにはそれが正論らしかった。それでお前は優れてるらしいな。イルスはそう思ったが、口には出さなかった。言ってもしょうがない。相手が傷つくだけだ。 「哲学ができても、可愛くはないだろうさ。そんなもん湾岸ではなんの価値もねえよ」 「じゃあ、何なら価値があるの。知ってるならそれでいいじゃん、それを頑張れば」  反論してくるスィグルの言い分は、もっともだったが、哲学の試験と何の関係もなかった。もういいよとイルスは思った。 「死ねば気に入るかもな。親父殿も俺を」 「そんなわけないですよ。そんな親いませんから」  シェルが粟を食って教えてきたが、どうせ異民族の言うことだった。シェルはいいやつで、物知りだったが、左利きのヘンリックを見たことがない。 「もう、いいだろ。試験と関係ないよ。シュレーに言っておけよ。哲学なんかできなくても、俺は生きてられるってな。とにかく、もう寝るから」  立ち上がって、そう話すと、シェルはまだあわあわしていて、スィグルは情けないという渋面だった。 「まずかった。たかが試験でここまで追いつめるとは」  首を振って、スィグルは反省したようなことを言った。 「イルス、あのさ、考えすぎだって。いま考えたってしょうがないよ。ここはトルレッキオだよ。湾岸から遠いんだ。憶測で決めつけない方がいいよ」 「そうだな。お前の言うとおりだよ。今考えるより、この先、冥界で会った時に、直に親父に聞けばいいよな。俺が死んだとき、せいせいしたかって」  きっと、そうだと言うだろうよ。左利きのヘンリックは。  卑屈にそう考えて、イルスは顔をしかめた。そして、さっさと寝ようと思った。 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(5) -----------------------------------------------------------------------  哲学の口頭試験は、教授の講義室で、一対一で行われる。  人払いした、がらんと広い部屋で、中央にある講壇に座った教授を相手に、与えられていた課題への回答を、蕩々と語るのだ。  イルスは結局、シュレーが寄越した模範解答を暗記しなかった。  しかしそれを、眼鏡といっしょに持ってきていた。  講義室の前で、その後の首尾を知りたいシュレーが待っているに決まっているからだった。  予想したとおり、シュレーはそこに待っていた。なぜか、ついでにシェルまで突っ立っていた。 「試験ですね、イルス」  にこにこと必死の作り笑顔と分かる表情で笑い、シェルが軽快に声をかけてきた。 「がんばってくださいね、僕もここで応援してますから」  意気込んで言い、頷きかけてくるシェルは、かなり肩に力が入っていた。その横にいるシュレーは、特になんの気負いもない、いつもの無表情で、こちらが抱えている模範解答の紙束を、じっと見下ろしてきた。 「憶えられたか、フォルデス」 「いいや、全然。最後まで読んでもいないよ」  イルスは正直に答えてやった。するとシュレーは明らかな渋面になった。 「なにをやってたんだ君は。渡してから何日もあっただろう」  確かにそうだったが、イルスは答える気がせず、黙っていた。シュレーがさらに険しい顔をした。 「まさかまた試験に落ちる気か。そうして何の得がある」 「大丈夫だよ。一応ちゃんと、自分で解答は考えてきたから。これはお前に返す」  紙束と眼鏡を差し出すと、シュレーは渋面のままそれを見下ろした。そして考え、それからまたイルスと向き合った。 「悪いことは言わないから、持って入れ。口頭試験は、暗記でなければならない訳じゃないんだ。書いたものを読んでもいいんだ。それが、その場で考えた自分自身の論だという体裁をとるために、ほとんどの者が暗記してくるだけのことなんだ。でも、実際には課題も解答も事前に準備しているわけだから、体裁さえ気にしないなら、原稿を読みあげるのでも、別に違反ではないんだ」  シュレーは畳みかけるように、意味のないことを言った。今度はイルスが顔をしかめる番だった。 「お前の言ってることは、おかしいよ、シュレー。読み上げるのが違反でなくても、これを書いたのはお前で、俺じゃない。だからこれはお前の解答だろ?」 「哲学の教授は君の筆跡を知らないだろう、おそらく」  だから、ばれないだろうと、シュレーは言わなかったが、要するにそういうことだった。 「それは違反じゃないのか」 「違反だ。しかし発覚しない」  シュレーは真顔でそう答えた。イルスはため息をついた。 「お前はずるい。それにお節介だよ」 「ずるいはともかく、私がお節介? 余計なお世話という意味か。それが本当に余計なんだったら、そもそも追試には至らないよな、イルス・フォルデス。私は仲間のひとりである君を、助けているだけだよ。助け合うのが、友達なんだろう」  シュレーは、そうだろうと訊ねるように、首を巡らしてシェルを見た。シェルはびっくりしたように、慌ててこくこくと何度も頷いた。 「そうです。助け合わないと」  イルスは呆れて脱力した。今さらなにを言うんだ、こいつは。だったら最初からそう言えばいいのに。最初からシュレーがおとなしく、力になろうと言っていれば、たぶん助けてもらっていた。なにしろ哲学は苦手なのだから。  丸暗記用の解答をくれとは思わないが、相談くらいはしたかもしれないのに。  どうしてこいつらと居ると、至極単純なことが、いちいち回りくどいんだろう。 「護符だと思って、持って行け、フォルデス。どうにも困った時だけ使えばいいだろう」 「どうにも困ったときは、どうにも困ったっていうのが俺の結果だよ。お前の親切心はよく分かったから、お守りには眼鏡だけもらっていく」  呆れて答え、イルスはシュレーに紙束を押し返した。 「どうせなら逆にしろ。眼鏡を返して、解答は持って行け」  シュレーはしつこかった。そうしたほうがいいですよとシェルがすすめた。  しかしイルスはそれを無視して、講義室に入った。名前を呼ばれたからだった。  講義室の中は、しんと静まりかえっており、苦虫をかみつぶしたような壮年の教授が、中央にある一段高くなった講壇に、立派な肘掛け椅子を持ち込んで、どっしりと深く座っていた。  山エルフの短い金髪に、白髪が交じり始めている。何とはなしに、振り乱した感じのする髪だった。きっといつも、小難しい哲学の本ばかり読んで、普通なら悩む必要のないようなことを、うんうん唸って悩んでいるせいだろうと、イルスは思った。  その証拠に、教授は眼鏡をかけていた。古くから愛用しているようで、それはかなり使い込まれており、教授がまだ若いうちから、本に視力を食われていたことが推察できた。 「氏名をどうぞ」  講壇の正面にある席をすすめて、教授は膝に持った、手記をとるための白紙にペンをあてたまま、こちらを見もせずに、名乗ることを求めた。  実際には誰が来たか知っているにしろ、人に名を問うなら、せめて顔を見ればいいのにと、イルスは思った。 「イルス・フォルデス・マルドゥークです」  名乗ってから、イルスはすすめられた席に腰をおろした。教授は眼鏡を持ちあげて、じろりと見下ろしてきた。 「殿下。これは追試であります。前回の解答に難がありましたので、別の課題を差し上げます。これが最後とご理解のうえ、お答えを」  もう追試はしないから、覚悟しろと、教授は言っていた。これに落ちたら、お前は哲学の単位を失い、この枠において落第するぞと。  しかし脅されても、イルスは別に怖くはなかった。哲学で落第したからといって、死ぬわけじゃない。 「今回、お答えいただきたい課題は、人は何故(なにゆえ)に生きるか、です」  あらかじめ知らせてもらっていたのと、一言一句変わらない課題を、教授は与えてきた。イルスは、また膝の上の帳面に目を落とした教授を、黙って見上げた。待っていれば、こちらの顔を見るかと思って。  しかし教授はそのつもりがないらしかった。前回もそうだったから、きっと今回もそうなのだろう。人が話すのを聞きながら、この男はなぜか自分の帳面を見るのだ。  なんだろうな、これは。  まったくこちらの話を聞いていない、左利きのヘンリックでさえ、話すときには俺の顔を見たが。この教授は、それにさらに輪をかけて、俺の話になんか興味がないのではないか。だったらなんで、わざわざ長々と考えてきた話を、喋ってやらなきゃならないんだろう。  山の連中は、異民族とはいえ、理解しがたいことばかりやっている。  しかしそれが学院のやり方だというなら、無視するわけにもいかなかった。  イルスは喋ろうと思って、大きく一呼吸した。  声が聞こえたのは、その瞬間だった。  フォルデス、と囁くような声が耳元でした。イルスはそれに、ぎょっとして、後ろを振り返った。シュレーの声だった。  それはかなりの小声だったが、耳打ちされたような感じで、すぐ近くで聞こえていた。しかし、振り返ってみても、そこにシュレーが居るわけではなかった。  翼通信だと、イルスは気づいた。シュレーは神殿種の持つ特殊な能力として、肉声を使わずに、離れたところにいる狙った者に話しかけることができるのだ。  その証拠に、イルスが目を戻してみても、教授は相変わらず、膝の上の帳面を黙然と見下ろしているだけで、声が聞こえた様子はなかった。  フォルデス、と、再び声が囁いた。  なぜ黙っているんだ。課題は与えられたんだろう。何も思いつかないんだったら、これから解答を読み上げてやるから、その通り話せ。  そう囁いて、シュレーは例の模範解答にあった最初の一行を囁いてきた。  イルスは唖然と、それを聞いた。  そこまでするかと、呆れるのを通り越して、かなり驚いた。  黙っているのが不審だったのだろう、教授がちらりと見下ろしてきて、イルスの驚いたような顔に、不機嫌な表情になった。 「どうなさいましたか。驚愕するほど意外な課題でしたでしょうか」  そんな嫌みを言い、教授は念のためか、手元にあった課題の一覧らしい名簿を、帳面の下から取りだして眺めている。予定と違う課題を告げたかと思ったらしい。  どうしたんだフォルデス、なぜ黙っているんだと、シュレーが訊ねてきた。  なぜ黙ってるって、わかるんだと、イルスは愕然と考えた。講義室の中の音が、あの分厚い扉ごしにでも、聞こえるのだろうか。  そこまで思って、イルスははっと気づいた。シュレーといっしょに、シェルがいた。あいつは森エルフ独特の感応力なる力を駆使し、遠方の様子を探る念糸(ねんし)とかいうのを放つことができる。  それは透明な細い糸のようなものだとシュレーは言っていた。やつにはシェルの糸が見えるのだそうだ。その糸は離れた場所にある人や物を見つけることができるし、その気になれば、それを介して人を操れる。能力しだいだし、限度はありますけどと、シェルは言っていた。  その限度って、どれくらいだ。  イルスは知らなかった。糸は見えなかったし、操られたことはない。  今までは。  急に口を利きたい気がして、イルスは驚いた顔のまま、自分の口を覆った。  シュレーがまた最初から、覚え込ませるように、模範解答のはじめから一行ずつ、その内容を語りかけてきた。それを、なにげなく繰り返して口に出したい衝動が、時折ふっと湧く。  ぼけっとしていたら、素直に従ってしまいそうな衝動だったが、抵抗できないようなものではなかった。ふとした思いつき程度のもので。  しかそれを度々繰り返して何度も思いつくのは、あまりにも不自然だった。 「時間が限られているのです。そろそろお始めください」  顔をしかめて、教授は言った。  第四大陸(ル・フォア)に生を受けたる者は、とシュレーが読み上げた。  その話にイルスの喉は息切れしそうだった。それを復唱したくて。  生を受けたるものは、神聖神殿の崇高なる教えの語る、理想世界を実現すべく、働くべきものである。課題の問う、人なるものを、神殿の教義に照らして正しき者であると定義して、この論を進めるものとする。  それは誰が聞いても、と、イルスは気もそぞろに考えた。  俺の言葉じゃねえだろ。  たとえこの教授が俺をぜんぜん知らなくて、嘘に気づかなくても。 「お始めください」  さっさとしろと、教授が言った。  さっさと話せと、シェルが攻勢をかけてきた。  口を覆ったまま、イルスはつらくて目を閉じた。声がうるさかった。囁くような声なのに、うるさく感じる。耳元で叫ばれているみたいに。 「人は、何故(なにゆえ)に……」  苛立った声で、教授が言った。それは読み上げるシュレーの声にかき消されて切れ切れに聞こえるようだった。  人は何故(なにゆえ)に生きるのか。 「生きる……」  正しき者は聖なる神殿の。 「のか、です。課題は聞こえて……」  神殿のよき僕ゆえ、天使の与え給うた役割を。 「おりましたでしょうな」  役割を果たすべく、生きるものなり。  イルスは頭の中がいっぱいになった気がして、頭痛の襲う頭を抱えて思わず立ち上がった。 「うるさい! さっきから、べらべらうるせえんだよ!! 黙れ!」  そう叫んでから、自分の声の残響を聞き、イルスは気付いた。その次の瞬間、耳元で朗読されていた声が途絶えたことに。その声が自分にしか聞こえていなかったことに。  そして、講壇にいる教授が、虚を突かれた唖然という顔で、やっとこっちを見ていることに。  イルスはその、ぽかんとしたような異民族の緑の目といっとき見詰め合った。  でもそれは、教授がむっと眉間に皺を寄せるまでの、ほんの短い間だった。  フォルデス、と、また囁く声がした。イルスはむっとして、自分の眉間にも深い皺が刻まれたのを感じた。 「他人(ひと)が何故(なにゆえ)に生きてるのかは知りません」  イルスは怒った勢いで、立ち上がったまま、教授の目を睨んで話した。 「分かるのは自分のことだけです。俺が生きている理由は」  じっと睨んで話すと、教授は怒ったような目付きのままだが、それでも目を逸らしはせずに、イルスの話を聞いていた。 「ただ、生きたいからです。以上!」  断言すると、教授はかすかに口を開き、なにか答えそうだった。  しかし、結局何も言わなかった。  イルスはしばらく返事を待ったが、静まり返った講義室に、それ以上誰かの声が聞こえる様子はなかった。 「退室してもよろしいでしょうか」  用事は済んだと思って、イルスは教授に尋ねた。  すると彼は頷き、険しい表情のまま腕を上げて、講義室の扉を指し示した。出て行けという意味らしかった。  イルスは一礼して、その場を立ち去った。  つかつかと早足に部屋を横切り、蹴飛ばすようにして扉を開けると、廊下にびびって顔面蒼白のシェルと、怒りで顔面蒼白のシュレーが突っ立っていた。  イルスはシュレーと、睨みあった。 「上首尾だったらしいな、フォルデス」  シュレーがまっすぐ目を見て嫌味を言ってきた。 「お前、何様のつもりだ。崇高なる神殿の、神聖なる天使様か」 「答えに詰まってるから助けてやったんだよ」  睨み付けてもシュレーは微かにもたじろがなかった。イルスはそれに、自分の怒りが最高潮まで高まるのを自覚した。 「余計なお世話だって言っておいたろ。俺の話を全然聞いてねえのか、お前は」 「君が自力で試験に合格できるというなら、神聖なる天使様が頭をさげて謝罪してやる」  できるもんかという口調で、挑むシュレーを、イルスはじっと見つめた。 「殴るぞ、シュレー」  脅すと、シュレーは首を傾げて見せた。 「やれるもんなら、やってみろ。イルス・フォルデス」  さあ殴れと言わんばかりに、シュレーは自分の頬を指してみせた。イルスはそれに、ため息をついた。 「どいてくれ」  立ちふさがるようなシュレーの長身を、乱暴に押しのけて、イルスはその場を立ち去ろうとした。シュレーはそれを引きとめはしなかった。  代わりにシェルが、あわてたふうな上ずった声で背中に呼びかけてきた。 「ごめんなさい、イルス」  そう言われても、イルスは許してやれなかった。  シェル、お前も悪い。だけどお前は、けしかけられたんだろ。横の奴に。  そいつが謝るまで、今回ばかりは許してやる気はしない。  しかし神聖なる天使様には、頭をさげる気配もなかった。そりゃあそうだろうなと、イルスは思った。こいつはそんなこと、ちらっとも思うまい。お偉いつもりで、いつも命令しやがって。  本当に、ぶん殴ってやればよかった。  イルスはそれを後悔したが、なぜそうしなかったのかも、漠然と理解できた。  たぶん、相手が、神聖なる天使様だったからだ。殴って怪我でもさせてみろ、咎が部族に及ぶかも。そんなふうには、思わなかったか。  早足に歩み去りながら、イルスは情けなかった。  あいつは結局、孤独なやつだ。  友達だろう、命令すんなって、そういう態度で来るやつが、それと同じ腹の中で、結局お前は天使なんだろって、びびって眺めているんだから。  ずるいというなら、お互い様だろ。命令されても、仕方ないだろ。  案外向こうも本音では、お前はずるいと思っているのかも。天使様かと言ってやったとき、あいつは本当にいつもの無表情だったか。  俺にはよく見えなかったけど。なにか複雑な顔をしていたようだった。  皺の寄ってきた眉間を指で押さえて、イルスは思った。  確かに俺には、眼鏡がいるらしい。あの微妙な表情しかしないやつと付き合うにしては、視力に若干、難ありだ。 ----------------------------------------------------------------------- 「うるさい連中」(6) -----------------------------------------------------------------------  膠着するかと思えた事態は、意外な展開で幕を下ろした。  青筋たてた数学教師からもらった、追加の特別課題を、空いた時間に図書館でやっつけようかと思っていたら、そこへシュレーがやってきて、悪かったといって頭を下げたのだった。  予想外の出来事に、イルスは唖然とした。  まさか神殿種に頭を下げられることがあるとは、予想もしてなかった。それだけならまだしも、シュレーが大人しく反省してきてくれるとは。  俺も悪かったよと、イルスは詫びた。俺もちょっと、ずるかったなと。  するとシュレーは、どう見ても真顔に見える顔で、なんの話だと平静に言った。 「君は哲学の追試に通った」  奇蹟だ、という口調で、シュレーが教えてきた。奇蹟だと、イルスも思った。 「お前がなにか、裏工作したのか」  またもや天使が奇蹟を起こした違いないと思って、イルスは訊ねた。しかしシュレーは首を横に振った。 「何もしていない。廊下に張り出してあった結果を見ただけだ」 「嘘つけ」 「嘘じゃない。正々堂々と敗北したい君のご機嫌を、この上さらにそこねても困るから」  イルスが座る平机の席の、向かいの椅子を引いて、シュレーはやれやれというふうに、そこに腰掛けた。 「食事に来い、イルス・フォルデス。君が来ないと、食卓における四部族(フォルト・フィア)の均衡が崩れる」  四部族かと、イルスは思った。シュレーはいつでも、四人で居るとき、自分は山エルフだという体裁をとりたがる。それは事実とは微妙に違っている。シュレーの額冠のない額には赤い聖刻が目立っていた。だからそれは、言うなれば願望だ。いっしょに飯を食うときは、シュレー・ライラルとして扱えという。 「シェルは俺が飯に現れないのがいやで、俺を操ってまで追試に通らせようとしたってことか?」  イルスが訊ねると、シュレーはそれが驚くべきことだというように頷いた。 「そうだよ。あいつは少々変だな」 「だったらお前はどうだっていうんだよ」  苦笑して訊ねると、シュレーはかすかに笑ったようだった。 「私も少々変なんだろう」  どんな顔してそう言うのかと思って、イルスは眼鏡をかけてみた。  シュレーはにやにや笑っていた。天使がにやにや笑うのかと一瞬思ったが、シュレーなら笑うかもしれなかった。なにか企んでいるような顔だった。 「似合わないな」  眼鏡のことだろう。言われてイルスは頷いた。 「数学か、それは」  やっていた課題を眺めて、シュレーは訊ねてきた。 「ああ。なぜか数学の教授が、俺にだけは特別に課題を出したくなったらしいんだ」 「それは極めて納得のいく話だよ」  にやにやしながら、かすかに眉をひそめて、シュレーは手をのばし、机の上にある課題の紙を抜き取っていった。 「トルレッキオの地名の由来を知っているか」  シュレーは、いかにもお前は知るまいという口調で訊ねてきた。  イルスはもちろん知らなかった。考えたこともなかった。それを教えるため、イルスは黙って首を横に振った。シュレーはそれに納得したのか、それともこちらが知らなかったことに満足したのか、それでいいというふうに小さく頷いてきた。 「嘆きの山という意味らしい。トルが山で、レッキオが嘆き。訛っているが、森エルフ語だとマイオスは言うんだ」  数枚ある紙を繰りながら、シュレーは教えた。 「この学院は、首都であるフラカッツァーより歴史の古い都市なんだ。おそらく、山エルフ族で最古の都市ではないだろうかと思う。もともとこの部族は、森エルフの一派だったが、感応力を失って彷徨い、ここに辿り着いた。森エルフの首都は、名をイル・エレンシオンというだろう。それは、希望の都という意味らしい。そこを追われて、我が民は路頭に迷い、哀れにも、嘆きの山(トル・レッキオ)に到達したということらしいよ。マイオスの説によればな」  すらすらと語るシュレーの声は静かだったが、聞き取りやすかった。もともと神官だからか、シュレーは人に話して聞かせるのが得意のようだ。本人にその自覚があるのかどうか定かでないが、イルスは大して興味もない話題に、結局すべて耳を傾けた。 「でも、私の考えでは、嘆きの山で嘆いているのは、山エルフではなく、例の竜(ドラグーン)だ。時々、地下から嘆くような声がするだろう。それがトル・レッキオの名の由来じゃないかな。だが、いずれにしろ、山エルフ族がほかのエルフのような、特殊な能力に恵まれていないことは事実なんだ。この民は、ただ我が身の叡智を鍛え、ひたすらの努力によってのみ、他の部族と戦い抜いてきた」  シュレーの顔を見つめると、彼は微かに微笑んでいるようだった。いつもの良く見えていない視界でなら、たぶん、無表情だと思う程度の、ごく淡い笑みだった。 「だからこの学院は、そんな山の部族の叡智の粋を集めた、戦いのための最高学府だ。ここでは、学ぶ気のある者は、いくらでもその叡智を分け与てもらえる。君はたまたま、人質としてここに牽(ひ)かれてきて、いやいや居るだけのつもりだろうが、せっかくその叡智の水際にいて、例しにそれに飛び込んでみようとは、思わないのか」  イルスは真顔で、シュレーを見つめた。天使はどことなく、参ったような、悪だくみをしているような、妙な微笑になっていた。 「私ともあろうものが、先日は君を激励するのに、間違った話題を選んだよ」 「左利きのヘンリックか」  確かめると、シュレーは微笑のまま頷いた。 「その線には間違いはなかったと思うが、論旨の展開に誤りがあった」  むっとして、イルスはシュレーを睨んだ。するとシュレーは今度は明らかに、にやりと笑った。練習試合で興が乗ってきた頃合いに、こいつが見せる笑みだった。 「改めて言うが、イルス・フォルデス。試験の合否が問題じゃない。君には将来、湾岸の族長冠を受け継いでもらう。その時に、ここで学んだ物事は、きっと君の助けになるだろう。族長ヘンリック・ウェルンは、武闘派だ。平民の出で、高等教育は受けていない。それでも立派に族長職を勤めているとは思うが……フォルデス、君はここで学ぶことで、左利きのヘンリックを凌ぐ族長になれる」  それが留めというように、にやにや笑って弁舌を振るうシュレーに、イルスはやむなく、苦笑になった。 「ずるいやつだよ、お前は」  シュレーはそれを否定せず、かすかな人の悪い笑みのまま、ただ小さく頷いた。 「食卓で築かれた四部族(フォルト・フィア)の均衡を、永遠に保とうじゃないか。そのためにも君には、頑張ってもらいたいのだが」  ふうん、とイルスは相づちを打ち、まだ追撃があったかと思った。シュレーはいつでも、慎重なやつだ。 「向学心が燃えてきたか」 「とろ火程度には」  大して効いてないよというふうに、イルスが答えてやると、シュレーは一瞬、紙を見下ろしたまま、参ったなという顔をした。よく見える目で眺めれば、案外表情豊かなやつだった。それともいつの間にか、そういうふうになっていたのか。いつからそうだったか、よく見えてなかった。 「こんな簡単な問題もわからないのか、君は」  ぶんどって眺めていた課題に目を通し終わり、シュレーはそれを投げ返してきた。 「わかんないよ。教えてくれ」 「しょうがないやつだな。視力以前の能力の問題だ。基本からやりなおしたほうがいい」  しかめっ面でため息をつき、シュレーはイルスの手元から紙とペンとを取り上げた。  そして机の上で大書した数式を、まじめ腐った顔をして、こちらに掲げて見せてきた。 「この難題が君に解けるか?」  そう挑むシュレーの指の下にある式は、1+1と書いてあった。  イルスは鼻梁で重い眼鏡を押し上げ、深く悩む顔をした。 「答えは3だろ?」  まじめ腐って答えてやると、シュレーはむっとした顔をした。 「ふざけるな、フォルデス」  それにイルスは苦笑して、答えてやった。 「ふざけんな、シュレー」  するとシュレーは渋面を崩し、にやりと笑った。  その親しげな表情を眺め、イルスは、こいつはこんな顔だったのかと思った。  《完》 ----------------------------------------------------------------------- 番外編「海老祭り」 ----------------------------------------------------------------------- 「ただいま」  ヘンリックはがらんとして誰もいない離宮の居室に、そう呼ばわった。  戻ってきたらそう言えと、ヘレンと約束されられているので、言わなかったら半殺しにされる。  やがてその声を聞きつけたらしい足音が、どたどたと走ってきた。  木剣を振り回した絶好調の長男だった。  数歩前から勢いよく跳躍し、斬りかかってきたジンを、ヘンリックは扉の前で、仕方なく避けた。避けないと本当に力一杯殴られることは実験済みだったからだ。 「おかえりヘンリック、遊ぼうぜ」  木剣を見せて、ジンは満面の笑みだった。 「お前のところに帰ってきたんじゃねえから。ヘレンはどこだ」  愛しい男が帰ってきてやったというのに、お帰りなさいとか、抱擁とか、熱い口付けとか、そういうのないのか。 「母上はめしを作っているよ」  ジンは首をめぐらして奥を指した。  遅れて離宮の奥から走ってきたイルスが、ぜえぜえ言いながら辿り着いて、ジンのシャツの裾を掴んだ。 「じゃあまた厨房か、あいつは」  うんざりしてヘンリックが言うと、なんとか口を挟めたというような気合いを感じる声で、イルスが言った。 「きょうは、エビだから」  海老?  木剣を帯にはさんで、にこにこしているジンを、ヘンリックはしかめた顔で見下ろした。すると息子は、弟の言うとおりだというように頷いて見せた。 「さあ今日は海老祭りよ! どんどん食べなさい、みんな」  歌うようにそう言って、ヘレンは紙を敷いた食卓のうえに、バケツからざらーっと、真っ赤にゆであがった小エビをぶちまけた。食卓全体に小山のように流れおちてきた海老からは、猛烈に海老の匂いがした。  海老だ、と、腹ぺこだったらしい餓鬼どもは嬉しげに騒いでいる。 「なんでこんなに海老ばっかりあるんだ」  あぜんとして、ヘンリックは、鼻歌を歌いながらイルスの隣に腰掛けるヘレンに問いかけた。  昔は並んで座っていたのに、ジンがヘレンの膝に座っていられなくなり、そのあとイルスが生まれたので、いつのまにかヘンリックは追い出され、彼女の向かいの席にジンと並んで座らされた。ヘレンはイルスの食事の面倒をみてやらないといけないらしい。  ほっときゃ勝手に食うだろと思うが、ヘレンが何くれと世話を焼くせいで、イルスは甘ったれていて、やたらと不器用だった。  幼児なんだから普通だ、ジンもそうだっただろうとヘレンは言うが、ヘンリックには記憶がなかった。上のは放置でなんとでもなった。 「ヘレン、なんでこんなに海老ばっかりあるんだよって訊いてんだろうが」  ヘレンがイルスににこにこしていて返事をしないので、腹が立って、ヘンリックは食卓の下にある彼女の足を蹴った。痛いわねとヘレンは器用に、イルスににこやかな顔を向けたまま、凄みのある声だけこちらに向けた。 「あんた海老好きでしょ」  ヘレンにそう言われると、そんなような気がヘンリックはした。  だいたい、食うときはぼけっとしているので、何が好きかなんざ食いながら考えたことがねえ。  食事のときは、俺はぼけっとしていたいんだ。それが好きなんだ。だけど最近なぜか、ここに来ると、ぼけっとして飯を食った気がしない。 「そろそろ海老の美味しい季節だからと思って、守衛に来てるメレドンの子たちに市場に買いに行ってもらったの。そしたらこんなに山ほど届いちゃって」 「なんでメレドンの連中がお前の買い物部隊をやってんだ」  当たり前のように言い、イルスに海老をむいてやった指を舐めているヘレンに、ヘンリックは問いただした。 「なんでって……なんでだったかな。ああ、そうよ、ヘレン様、何かご用はありませんか、なんつって、みんな暇そうに尻尾パタパタだったから、海老買ってきてって頼んだの」  あいつらヘレンに粉かけやがって。死刑。  そう思ったが、ヘンリックは渋面になるだけで我慢した。うっかりヘレンの前でそんなこと言おうもんなら、まず俺が死刑だから。  尽くしてくれる部下は家族だから。大事にしなきゃ罰があたるんだから。 「ほんと、慣れればけっこう可愛い子たちなのよねえ」  うっふっふと含みのある笑い方をして、ヘレンはそう言った。  それは誰だと、思わずブチッときて、ヘンリックは脳裏の隊員名簿を繰った。あいつか、それともあいつか、俺の半殺しリストに載る野郎は。 「ぼけっとしてないで海老食えよ、ヘンリック」  横からジンが、海老を食いながらそう言った。  小器用な長男はヘレンに放置されていたが、上手くは殻がむけないようで、まだらに剥けた海老を、どうもせっかちな性分らしく、気にせずそのまま食っていた。  それでいいんだ、男なんてもんは。腹がふくれれば何でもいいんだ。餓鬼なんざ、ほっときゃ勝手に育つんだ。腹が減ればそこらへんにあるもんを、手前で勝手に食えばいいんだ。いちいち世話を焼いてたら、弱い男になっちまうだろ。  そう思ってヘンリックは長男のがさつな食いっぷりに満足したが、ふと見ると、食卓の向かいで、イルスがあーんと口をあけ、ヘレンに海老を入れてもらっているのが見えた。その有様に、ヘンリックはやや呆然とした。 「なにやってんだ、それは。ヘレン、いいかげんにしろ。そいつは何歳なんだ」 「三歳でしょう。あんた自分の息子の歳も、あたしに訊かなきゃわかんないの?」 「そういう話じゃねえんだよ。イルス、てめえ自分で食え。できんだろ。男が三つにもなって、赤ん坊みたいにヘレンとべたべたしやがって、情けねえと思わねえのか」  思わずヘンリックがそう詰ると、横にいたジンが海老の殻をあさってのほうに吹っ飛ばしながら、そうだイルスは情けねえからと合いの手を入れてきた。  何かっちゃすぐぴいぴい泣くし、走るの遅えし、俺がちょっと殴ったぐらいで、すぐ母上抱っこでタレこむし、ほんと情けねえ弟だよ。そんなんで本当に一人前の剣士になれんのかと、ジンはこの時とばかりに滔々とイルスを批判した。よっぽど恨みがたまっているらしかった。  兄貴に文句を言われて、イルスは脳天をがつんとやられたような顔をして、椅子のうえであわあわしていたが、やがて意を決したように、目の前の山から海老を一匹ひっつかんで言った。 「俺、じぶんで食うから」  イルスはなぜか、ジンにではなく、ヘンリックにそう言い訳をした。  ああそうしやがれと思って、ヘンリックは頷いておいた。ジンは小悪魔的に、けっけと笑っていた。  しかしイルスは不器用で、もたもた海老をすり潰すだけで、一向に食事が進まなかった。  しかしヘンリックは気にせず自分の晩飯にとりかかった。ほっときゃいいんだ餓鬼なんか。  ヘレンは少しの間、イルスが下手くそに食う様を眺めていたが、自分も腹が減っているせいか、子供の好きに任せて、放っておくことにしたらしい。黙々と海老を剥き、食べ始める女の食欲は、なかなか旺盛だった。  ヘレンは昔からとにかく、慎みのかけらもなく食う女だった。  普通、女なんてもんは、いかに自分の胃袋が小さいかを誇示するほうに傾き、一緒に飯を食っていても、ついばむ程度に食うのが精々だ。ちょっと摘んでから、ああ私もう食べられないわなんて言って、恥ずかしげに微笑むのが、男にうけると思ってるような連中なのだ。  ヘレンのように、いきなりどんぶり飯をがつがつ食ったりしない。  今も変わらず、何ら遠慮無く海老を貪り食っている女の姿を見ていると、ヘンリックは内心で、お前は実は完膚無きまでに俺に気がないんじゃないかという、不吉な気分になってきた。  そういやこいつ、一回でも俺のことを好きだと言ったことがあったっけ。  いや、そりゃあ、あっただろう。一回くらいあるはずだ。  それがいつだったか、全然思い出せないけど。  まさか何にも無しのまま、餓鬼をふたりも産むわけないだろ。  頭の中の記憶をさかのぼり、ヘンリックは考えたが、いくら時を戻しても、思い当たるものがなかった。他の女から聞いた歯の浮くような愛の言葉は、辞書がつくれるくらいあったが、とにかくヘレンがそれっぽいことを言ったような記憶が、ちらっとも出てこない。  ええ、と思って、ヘンリックは愕然とし、自分の皿を見た。  まとめて剥いてから食うはずの海老が、そこには一尾もなかった。  えええ、と思って隣を見ると、ジンが盗んだ剥き海老を、満足げに食っているところだった。 「てめえ、なんで俺の皿から食ってんだよ」  びっくりしてそう訊くと、ジンはぽかんとした顔をした。 「取っても怒んなかったじゃん。剥いてくれてんのかと思った」 「んなわけねえだろ。今まで俺がいっぺんでもお前にそんなことしたか」 「えー。昔はしてたじゃん」  ジンは口をとがらせ、もっともらしく答えた。  その減らず口な態度に、ヘンリックはなんだとこのやろうと思ったが、考えてみればジンの言うことは正しかった。  こいつがまだ舌っ足らずだったころには、ぼけっと飯を食っていると、自分にも食わせろとねだりに来たので、どうしたもんか分からず、皿から分けてやっていた。  思い出したからには、知るかとも言いづらい。  そういう顔で睨むと、ジンはにやっとした。自分と瓜二つな、しかし人を拒むところのない、悪童のツラで。  ジンが銀の匙でヘンリックの皿を叩いた。 「はやく剥けよ」  自分の取り分のつもりらしい、まだ殻のついた海老をつかみ取って、ジンはヘンリックの皿に入れさえした。  それを見ていたヘレンが、にやりとして、何をするのかと思えば、自分も海老をつかんで、ヘンリックの皿にざらっと足した。 「あたしのも剥いて、面倒くさいから」 「ヘレン」  何となくぎょっとして、ヘンリックはそれを見た。なんだか彼女がちょっと甘えたようだったからだ。  にこにこと待つ顔で、ヘレンは急に言った。 「あたし、海老を剥いてくれる男が、世界一好き」  その言葉が心臓にぐさっと来たので、ヘンリックは死にそうになって、脱力して椅子の背に仰け反った。 「くっそ、海老ぐらいで、そんな奥の手を……」  お前いま初めて俺のことを好きって言ったんだぞ。いや、厳密には違うか、ヘレンは海老を剥く男が好きだと言っただけで、俺はまだ海老を剥いてやってないから。  負けるもんかとヘンリックは身を起こし、ヘレンに向き直った。  アルマの潮が満ちてきて、本当にこの女に抵抗できなくなった時ならいざ知らず、今は幸い引き潮だ。こういう時に勝たなくて、いつ勝てるっていうんだ。  自分でやれと皿の中身を投げ返しかけたとき、隣の席からジンの手が伸びてきて、代わりにそれを鷲掴んでいった。 「じゃあ母上のは俺が剥いてやるよ。待ってて」  にこにこと機嫌よく、息子はそう言った。それは絶妙の間合いだった。  ヘレンが優しい息子に、にっこりと笑いかけるのを、ヘンリックは眺め、それから、楽しげに仕事にかかる長男を見た。  こいつ。  俺からあの跳躍を盗んだだけじゃ飽きたらず。  女ったらしまで似やがって。  むかつくような、末恐ろしいようなだ。 「いいよ、てめえは引っ込んでろジン。俺がやるから」  腹が立ったので、ヘンリックは息子が途中まで剥いた海老をひったくって、食ってやった。それにジンが衝撃を受けた顔をした。 「ずるいよ」 「俺の前に割って入ろうなんざ十年早いさ」  まあ、それがヘレンのこととなれば、何十年たとうが、実の息子のお前が勝てるわけないが。ざまあみろという目で見てやると、ジンはかっときたらしかった。  息子はものすごい意気込みで海老を剥き始めた。  笑いながら対抗してやると、ジンは見るからに焦って、やがて殆ど剥けてきたヘンリックの手の中の海老に、がぶりと食らいついてきた。  そうやってお互いの海老を食い合うせいで、ちっともヘレンの皿には海老が行かない。  楽しげに焦れたふうで、ヘレンが皿を叩いた。 「早くしてよ、あたし飢え死にしそう」  笑ってそう言うヘレンの隣で、イルスが突然、できたと叫んだ。  なにが出来たかと驚いて皆が見ると、イルスはたぶん海老だろうという、ひょろひょろになった、みみっちい肉を振りかざしていた。その顔は真剣そのものだった。 「あら、できたじゃない、イルス。あんたもやるわね」  にっこりとしてやって、ヘレンは海老の汁のついた指で、すでに海老まみれのイルスの小さい頬を、気にせずくすぐるように撫でてやった。 「これ、母上にやるから。あーんして」  そう言いながら、イルスはなぜか自分も口をあけていた。ヘレンはくすぐったそうに笑って、言われるまま口を開け、イルスの指から海老を食べさせられていた。 「ありがと、イルス。海老むいてくれて。世の中の男の中で、あんたが一番好きよ」  冗談なのか、ヘレンは本気に聞こえる声でイルスを誉め、息子の体をぎゅうっと強く抱きしめてやった。イルスはその胸で、ひどく得意げだった。  隣の席で、ジンがうめいて、持っていた海老を投げるのが見えた。 「俺、だめ、もうやる気なし」  椅子で悶えるジンの気持ちに、ヘンリックは賛成だった。  これが他のやつだったら半殺しというか、もう死刑。  だがイルスだとそうもいかない。  こんな餓鬼相手に、必死になれるもんか。男の沽券に関わる。 「むかつく」  ジンが端的にそう言って、目の前にあった海老を、椅子に戻ったイルスに投げた。殻のついたままの海老が顔にあたって、イルスはぎゃあと喚いたが、向こうも面子があるのか、すぐにジンに投げつけ返しはじめた。  ヘレンは食べ物を粗末にするなと兄弟たちを叱ったが、ヘンリックは心のすみで、長男のほうを応援した。  もっとやれジン。あいつを泣かせてやれ。  期待通り、イルスはすぐに兄の剣幕に負けて、ぴいぴい泣き出した。いい気味だった。うるさい餓鬼だとヘンリックは微笑んだ。  それに気付いたらしいイルスは、ぴょんと椅子から飛び降りると、兄の攻撃をかいくぐり、ヘンリックの椅子の下にやってきた。足を掴んでくる小さい手を、ヘンリックは感じた。  イルスは母親に躾けられて、日頃めったに人の体に触れないようにしているらしかった。触れると未来視が始まることがあるらしい。それから守るように、ヘレンはどこか偏執的にイルスをかばい、他人には許さないくせに、自分はイルスを閉じこめる繭のように抱いてばかりいる。  ジンが弟とじゃれるのも、ヘレンには心配なようだった。人の死を視る力を持ったイルスが、兄の死を未来視するのではないかと。  しかし、そんなことは実際には未だかつて無い。ヘレンはたぶん、恐れすぎているのだ。芯の強い性分に似合わず、子供のこととなると、足が震えるらしかった。  そんなヘレンの内心を汲んでか、イルスはいつも物欲しげだが、それでもおとなしく手を引っ込める。  あるいは決然として、すがりつく。  そういう手に、どういうふうに応えるべきか、ヘンリックには皆目見当がつかない。  普通の餓鬼にするようにじゃ、まずいのか。たとえばジンを蹴散らして、これまで付き合ってきたように。 「父上。兄上が、俺をいじめるよ」  それが途方もない悪だというように、イルスは椅子の下から訴えてきた。 「それがどうした、俺が知るかよ。兄弟ゲンカに俺を巻き込むな」  イルスを引き剥がそうと、足を振ってやると、弟のほうは、頑固にすがりついていた。  ヘレンは今にもイルスがはっとして、父上の死を視たと口走るのではという顔を、曖昧な笑みの下に隠していた。  別にいいじゃねえか、それでも。ろくな死に方しないだろうという覚悟はできてる。できればただ、息子たちがお前を守れるくらいに育つまで、命があればと願いはするが。  ヘンリックは不安げな女の顔に、見つめる目でそう語りかけたが、ヘレンは気付かないようだった。  つくづく鈍い女だからさ。  それとも、案外なにもかも分かった上で、黙っていられる女なのか。 「父上」  食卓の下の薄暗がりから、イルスが呼びかけてきた。 「俺も膝にのっていい?」  薄闇の中でイルスの目はかすかに光るかのようだった。 「いいわけねえだろ、鬱陶しいんだよ」  ヘンリックが答えると、イルスはたじろいだ顔をした。  昔、ジンがこれぐらいだったころには、同じことを答えても、やつは全く気にしなかった。自分が乗りたきゃ、膝だろうが肩だろうが、猿みたいに飛びついてきて、納得するまで居座っていた。 「なんでだめなの。兄上はいいの」  どうやらジンが自慢を垂れたらしかった。弟をやっつけたつもりで、意気揚々と海老を食っているジンを、ヘンリックは横目に眺めた。  お前はほんとに、大した奴だよ。自分の欲に正直で。  苦笑とともにそう思い、ヘンリックは食卓の下のイルスをのぞき込んだ。 「イルス、お前なあ。欲しいもんがあるときは、ぼけっと待ってないで、自分の手で掴め。そうしないとな、手に入らないもののほうが、世の中には多いんだ」  ジンが生まれつき知っていたらしい教訓を、ヘンリックはイルスに教えてやった。  こいつは、つくづくヘレンに似たんだなと、ヘンリックは息子を眺めた。ヘレンは、頑固で気丈なようでいて、なぜかいつも、黙って待っている女だ。運命を受け入れて。  俺にはそういうお前が、いつも、もどかしいんだよ。  たまには運命に、逆らってみろよ。俺ほどじゃなくても、ちょっとはゴネてみたって、罰はあたんないだろ。  そう思って待っていると、イルスが膝を掴んで、這いのぼってきた。  隣に現れた弟の頭に、ジンがぎょっとたようだった。  その顔を見るイルスは、どことなく勝ち誇っていた。 「えびを食おうっと」  イルスはどこかとぼけたような声でそう言い、ヘンリックの脚の上に座って、黙々と海老の殻を剥きだした。  それがあまりに遅かったので、ヘンリックは焦れて、しかたなく新しい海老をむいて、皿に置いてやった。しかしイルスはすぐにはそれに手をつけず、自分が剥き終えたほうを、満足げに口に入れ、それから与えられたほうを、いかにも美味そうに食った。  ジンが情けない顔をしたので、ヘンリックは隣の皿にも海老をくれてやった。  そうやって、ふたりのチビに満腹するまで食わせていると、自分は全く腹が満ちたような気がしないまま、食べる気力もなくなってきた。  その様子を、微笑んで見ていたヘレンが、立ち上がってやってきて、手に持っていた皿から、剥いた海老をぶらぶらとヘンリックの眼前に振って見せた。 「あーんして、父上」  からかう口調で、ヘレンは言った。  頭を殴られたような気がして、ヘンリックは愕然とヘレンの顔を見た。 「誰がお前の父上だ。俺のことは、ヘンリックと呼べ」  思わず強い口調になると、ヘレンは笑った。 「ありゃまあ、すぐ怒るから。それじゃあヘンリック、あんたには、あたしが食べさせてあげるから。そしたら、みんなでお腹一杯になれるわよ」 「俺はひとりでぼけっとして飯を食いてえよ」  ぼやく口に、ヘレンが海老を押し込んできた。  唇についた潮っぽい味を舐めるついでに、ヘンリックはヘレンの指も舐めた。それを女は微笑む目で許した。 「海老祭りは、もう勘弁してくれ」 「大丈夫。明日は別のだから。もう用意してあるの」  頷きながら答えるヘレンの言葉を、イルスが膝の上でそわそわと聞いていた。  母親が言い終えるやいなや、自分に言わせろという早口で、イルスが教えてきた。 「父上、明日は、カニだから」  ヘンリックは倒れそうだった。 「メレドンの子たちに、買い物を頼んだら、ぎゃって思うくらい、沢山買って来られちゃって。厨房が蟹だらけ。もうね、真っ赤っか」  上機嫌に、ヘレンはイルスの話を継いでいた。  椅子の背に仰け反って、ヘンリックは顔をしかめたまま目を閉じた。  そうか。明日は、カニ祭りか。  海老祭りと、痛さにかけては大差ねえだろ。  俺、明日はよそで晩飯を食おうかなと、そんな考えがよぎったが、たぶんそれは無理な話だった。  きっと明日も、ここに戻ってくる。そして、ただいまと言う。  この女に。この餓鬼どもに。  言わなかったら、ヘレンに半殺しにされるからだが。  もしそれを言う相手がいなかったら、たぶんとっくの昔に自分は死んでいた。  そんなような気がする。 「早く帰ってこいよ、ヘンリック。俺、カニ好きだから」  隣の席から、ジンが言った。  ヘンリックはそれに、曖昧に頷いておいた。 《おしまい》 ----------------------------------------------------------------------- 「帰れの部屋」第一幕:四十六個のクッション ----------------------------------------------------------------------- 「猊下の部屋ってさあ、ほんとに殺風景だよね……」  がつがつ林檎を食いながら、レイラスが私の部屋の長椅子に寝そべっていた。  本音を言えば、彼は床に寝そべりたいらしいのだが、それは不潔だ。人が土足で歩いているところなのだぞ、と一度諭すと、彼は極めて不愉快そうな顔をし、それから二度と私の部屋の床には寝そべらなくなった。  言われてやっと気づいたのだろう。人が土足で踏みしめた床に寝そべるのが、不名誉だということに。 「いつも思うんだけどさ、何かもっと飾りになるようなものを置いたら? 壁になにか掛けるのでもいいしさ、せめてもうちょっと凝った絨毯を敷くとか、花のひとつも飾るとか、宝飾のある照明とか天井飾りとか、香炉とか、御簾《みす》とか鎧《よろい》とか、宝剣とか、何かそういうの、あるだろ? 普通は部屋に飾ってあるようなものがさ」  いつも通りレイラスはぶつぶつ言い続けた。私はいつも通り、それに背を向け、書き物机《ビューロウ》に向かってものを書いて、全く聞いていないふりを続けた。 「何もないの? だったらさ、僕がなにか持ってきてあげようか。そういえば丁度、王都から新しい荷が届いてさ、前に僕が手紙に、トルレッキオにはまともなクッションもないんだよ、薄汚い毛布に干し草が詰めてあるようなのしかないよって書いたのを、父上が哀れんでくださったようでさ……」  しゃり、もぐもぐと、林檎を噛む音がした。 「刺繍入りのクッションが、五十六個も届いたんだよ。すごいだろ。もちろん本物の宝石がついてて、中身は真綿だし、芯には香木が詰めてあるから、すごくいい香りもするしね。実用性もありつつ、美術品としての価値もある、ものすごい逸品なんだよ」  レイラスの口振りは、いつものように、かなり恩着せがましかった。 「四十六個くらいあげるよ、猊下」  にこやかなような口調で、レイラスがそう言い、私は筆を置いて、ゆっくり彼をふり返った。 「いらないな。あいにく、この部屋には、干し草を詰めたぼろ毛布で間に合っているよ、レイラス」  私は断言した。それでもレイラスは微笑のままだった。 「遠慮しなくていいんだよ、猊下」 「四十六個もあって、どうするんだ」 「どうって。この長椅子とか、寝台《ベッド》の上とか足下とか、床とか床とか、とにかく、そこらへんにバラ撒けばいいんだよ。そういうものだろ?」  そういうものなのか。彼の故郷では。 「バラ撒きたいなら自分の部屋にバラ撒いたらどうだ」  思ったとおりのことを私は口にしたが、するとレイラスの眉間に一瞬にして、極めて不愉快そうな皺が寄った。見慣れていなければ、ぎくりとするような表情だった。しかし今さら、この黒エルフの美貌がなんだというのだ。私はその程度で動じはしない。 「もうバラ撒いたよ。そしたらイルスに怒られたんじゃないか。部屋を散らかすなって」  レイラスは明らかに苛立っている口調だった。  なぜ私が苛立たれなければならないのか意味不明だ。 「あいつはさ、異文化に対する敬意が足りないんだよ。いくら自分が板きれ一枚敷いただけのほったて小屋で育って、靴も履かずにうろうろするのが好きだからって、僕にまでそれを強要するのはどうかと思うよ。こっちは王宮育ちなんだ。贅沢するのに慣れているんだよ。あいつと違って、犬ころみたいには暮らせないんだ」 「喧嘩したのかレイラス」  今月何度目だという含みを込めて、私は確かめた。 「してないよ。あいつが勝手に怒って、この居間に許せるのは十個までだとか抜かすもんだから、僕も呆れて出てきただけさ。どういう基準なんだよ、それは。僕が僕の居間に僕のクッションを百個置こうが二百個置こうが、そんなの僕の勝手だろ?」  彼はいかにも自分が正しいという口調だった。私は無表情なまま、レイラスのその眼光鋭い金色の目と見つめ合った。 「ひとつ意見してもいいだろうか」 「なんだよ猊下」 「君は”僕の居間”というが、あれはフォルデスの部屋じゃないのか。君たちの部屋は元々二人分だった学寮の部屋が、壁を打ち抜いて一続きに繋がっているだけなんだろう。つまり、なにもかも二つずつあるわけだ。そうだろう?」  私が指摘すると、レイラスは鬱陶しそうに首筋にかかる長い髪を払いのけながら、ぞんざいに何度か頷いてみせた。 「それは、居間も二つあるということだろう。しかし、私は君たちの部屋の居間は、ひとつしか知らない。もう片方のは、どうなっているんだ」  ずっと疑問だったことを、私はとうとうレイラスに訊ねた。 「物置だよ、猊下。もうひとつの居間だったところは、僕の物置になっている」  レイラスは恥ずかしげもなくそう答えた。  私は初めて眉をひそめた。 「物置ではなく、それが君の居間なんじゃないのか、レイラス」 「そういう考え方もできなくはないね」  レイラスは煩そうにそう答え、食べ尽くした林檎の芯を、ぽいとそこらに放った。私は、ころころと転がっていく、案外綿密に食われている林檎の芯を見送った。 「考え方の問題ではない。君はフォルデスの居間を侵略している。そこに十個もクッションを置いていいというなら、相当に寛大な領地割譲じゃないか。文句を言われる筋合いじゃないだろう」 「そうだろうか」  不満そうにレイラスは私に反論してきた。 「置きたいなら君の居間に置け」 「そうしてもいいけど、あっちに置くと、せっかく送ってもらった見事な刺繍が、眺められないじゃないか。とても居られたもんじゃないんだ、あっちの部屋は。ただの物置なんだから」  私はその部屋を見たことはないが、それにも関わらず、頭がくらっとした。 「僕は眺めて楽しみたいんだよ。父上からの送り状には、品物は厳選したが、作らせた品はどれも出来がよくて、これ以上、数を削れなかったから全部送ったって書いてあった。無理もない。実物を見たら、無理もないっていうことが、あんたにだってよくわかると思うよ、猊下」  わかるかどうか自信はなかったが、わかりたくもなかった。 「それでも泣く泣く十個までは絞り込んだよ。イルスが、そうしないんだったら窓から全部捨てるっていうんだ。馬鹿じゃないの、あいつ? そんなことして何の意味があるのさ。馬鹿だよね、ほんと……」  吐き捨てるようにレイラスは言い、口調の通りの苦り切った顔をした。 「でも、どうも本気みたいなんだよ。あの目を見れば、それがわかる」  怖気だったように、レイラスは微かに震える小声でそう付け加えた。  震えるほどの何が、あの温厚そうなイルス・フォルデスにあるというのだ。私は彼と喧嘩らしい喧嘩などしたことはない。もしや怒っているのかと感じる瞬間はあるが、震え上がらねばならないような危機感は感じたためしがない。 「しょうがないから、残りの四十六個は、猊下の部屋に置いてよ。そしたら、時々来て眺められるからさ」  退屈なのか、レイラスは長椅子にだらしなく寝そべったまま、自分の指の爪を眺めていた。 「私の領土まで侵略しようというのか。さすがは砂漠の黒い悪魔の息子だな。この侵略者め」  私はまた思ったとおりのことを言った。するとレイラスはまるで鞭で打たれたように、びくっとして飛び起きた。 「どういう言いがかりだよ猊下! 僕の父上は侵略者なんかじゃない。こっちの領土を侵略してんのは森エルフとか、あんたの部族のほうだろ? 父上はその失地を回復なさっただけだ。それのどこがいけないんだよ」  そう言うレイラスはまさに吠える猫だった。猫が吠えるとすればだが。  私は咳払いした。冷静さを保とうと思って。 「話をすり替えるな。その話じゃない。私の部屋に君のクッションを持ち込む権利はないという話をしているんだ。フォルデスは許したかもしれないが、私を甘く見るな」  どうやら私は怒っているようだった。うっすらとだが怒っている。  それを見て、レイラスは急に、にこやかになった。にこにこしていると、彼はまさしく、媚びる猫のように見える。 「まあ、そう、かっかしないでよ、猊下。僕は大事なクッションの保管場所を得る。猊下はこの殺風景な部屋に豪奢な刺繍入りクッションという望外の調度品を得る。それでお互い、いいことづくめじゃないか」  切々と語るレイラスは本気で言っているかのように見えた。  私は内心、微かに震えた。何に身震いしているのか、自分でも良く分からなかったが、とにかくぶるぶると微かな震えが内蔵の奥底からこみ上げてくるのに耐えた。 「帰れ、レイラス」 「なんでだよ」  いかにも不当だというように、顔をしかめ、レイラスは私に抗議していた。 「何が、なんでだよ、だ。そもそも、どうして君がここにいるんだ。私の部屋だぞ」 「友達だろ?」  まるで私のほうが間違っているかのように、レイラスはこちらの人格を疑う口調だった。 「友達?」  友達というのは、黒エルフ語では物置という意味なのか?  という言葉が、舌先まで出かかったが、私は耐えた。それを言うべきかどうか、瞬時に判断しかねた。 「違うの?」  レイラスは今までで一番不愉快そうな顔をしていた。 「違いはしないが……」 「じゃ、クッションの十個や二十個や四十六個くらい、二つ返事で引き取ってよ。それくらいしてくれたっていいだろ、友達なんだから」 「なぜ私なんだ。マイオスにも頼んでみたのか。四十六個というのはかなりの数だぞ。マイオスと半々にして、二十三個ずつではだめなのか」 「だめだよ。シェルはものを食いながら本を読んだり、三日に一度はお茶とかなんとか、ところかまわずこぼしてるだろ? あんなやつの部屋に置かせたら、僕のクッションが汚れちゃうじゃないか」 「それを言うなら他人に預けること自体に問題がある」  私がそう教えると、レイラスは軽く背を仰け反らせ、いかにもおかしそうに笑った。 「まさか。猊下んとこに置いとけば平気だよ。自分の部屋に置くよりずっと安全さ。いつ来ても塵一つ落ちてないし、この干し草を詰めたぼろ毛布だって、いつも寸分違わず同じ場所にあるじゃないか? その机の上にあるインク壺だって、僕の目で見るかぎり、髪の毛ほどの位置の狂いもないよ。だいたい、毎日ごそごそ何か書いてるのに、机にも周りにもインクのしみひとつないなんて、あんたは異常だよ。汚しちゃまいずいものを保管するのに、この部屋ほどうってつけの場所はないね」  レイラスはにこにこしていた。 「……レイラス、友達というのは、黒エルフ語では物置という意味なのか?」 「いいや。違うけど、なんで?」  レイラスはにやにやしていた。悪い猫のようだった。  皮肉というのは、使い時を間違えると、何の効果もないのだった。 「悪いんだが……帰ってくれないか」 「いいよ。今日のところは。クッションはいつ運ばせたらいいの?」 「いらないな、そんなものは」 「まあまあそう言わず。じゃあ、いきなり四十六個とは言わないから、まず一個か二個か三個くらい……」  猫なで声で言うレイラスに、私の頭の中でなにかがぷつんと切れるような気配がした。 「帰れ」  私は努めて冷静にそう言った。しかし、口を突いて出る時、その声はなぜか怒鳴り声になっていた。 ----------------------------------------------------------------------- 「帰れの部屋」第二幕:森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》 ----------------------------------------------------------------------- 「綺麗な色ですよねえ、この蕾。咲いたらもっと綺麗なんですよ、ライラル殿下」  にこにこして、シェル・マイオスが私の今の長椅子に、ちんまりと足を揃えて座っていた。執事が出してきたお茶のカップを宙に浮かせたまま、部屋の入り口あたりにずらりと並んだ、極彩色の花のつぼみをつけた植物の鉢をふり返り、それで手元がおろそかになって、お茶をこぼしたらしい。  あっちちちと慌てている気配がした。  私は敢えてそれを見ないようにした。マイオスが来るとなぜか部屋が汚れる。 「すみません……。ええと、全部の鉢の開花時期をそろえるのには、かなり苦労したんです。咲くと色だけじゃなく、いい香りもします。花の形が、つり下がった星形なので、流れ星みたいでしょう。だからこれ、森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》と」  講釈はいい。問題はなぜ君が大量の草を持って私の部屋にやって来たかだ。  現れた時、シェル・マイオスは草まみれだった。両脇に二鉢ずつ抱えていたうえ、それでは運びきれなかった分は学院の者に持たせていた。人に持たせるのであれば自分は運ばないのが王侯らしい振る舞いかと思うが、それではシェル・マイオスとは言えない。  マイオスは上機嫌で草まみれになり、少々、泥まみれでもあった。学院の裏にある彼の庭園をいじる日課から、何のためらいもなく直行してきたらしい。  それで私の居間の長椅子も泥まみれに。そしてお茶をこぼされ、次は何をこぼされるのだろう。 「しばらくここに置いてもらえませんか」 「なぜだ」  心底不思議で、私はマイオスが言い終わるより先に聞き返していた。 「ええと……もうすぐ開花なので」  マイオスはしどろもどろだった。 「それが私と何の関係があるんだ」 「いいえ、あのう……日当たりの問題です。僕の部屋より、殿下の部屋のほうが、ちょっと暖かいみたいです。この花、もっと南のほうの原産なので、暖かいところに置かないと、開花が進みにくいみたいで。この分だと、予定したとおりに咲きません」 「それが私と何の関係があるんだ」  念のためもう一度言うと、マイオスは無言だったが、無言でも彼は何となくしどろもどろだった。  しばらくの、そんな舌の回らない沈黙ののち、マイオスはまたやっと口を開いた。 「置いてもらえませんか」 「いやだ」 「僕ら友達でしょう?」  友達というのは、森エルフ語では物置という意味なのか?  既視感のある一節が脳裏に湧いたが、私は堪えた。一日に二度も同じ話をしたくない。  むっとした無表情のまま私が黙っていると、マイオスはしゅんとした。 「殿下って、ずるいですよね。友達になってくれなんて平気で言う割に、友達らしいことなんか何もしないじゃないですか?」  何も? 何もとはどういう意味だ。友誼がないならなぜ君はいま私の部屋にいるんだ。そして毎朝毎晩、同じ食卓で顔を付き合わせ、同じ料理を食っているんだ。  第一、それと君の草と何の関係があるんだ。 「友達らしさというのは君にとって、温室代わりに部屋を貸すか否かという基準で判定されるのか。寡聞にして知らなかったよ」  「そういうふうに嫌味を言わないでください。ほんの一晩二晩ですよ。ただの草ですし、邪魔にならない隅のほうに……できれば日当たりのいいところがいいんですけど。置いてくれればいいんです。そしたら僕が狙ったとおりに、一斉に咲くと思うんで……」 「君の趣味だろう。ひとりでやってくれ」  うんざりして、追い払うように手を振ると、マイオスはむっと拗ねたように、口をとがらせた。 「とにかく置いていきますから。いやだったら捨てればいいでしょう」  マイオスは私がそれを捨てられないと思っているらしかった。  それは私への挑戦か。  不愉快だな。その程度のことで、私に勝てるつもりなのだったら、君の大事な草なんて、何鉢だろうが捨ててやるのだが。 「水をやるのは、僕が適切な時にきてやりますから。変にいじらないでくださいね。僕にはちゃんと、こいつらの声は聞こえています。捨てたらわかるんですからね」  脅し文句のように、マイオスはそう言い渡してきた。  私はさらにむっとした。  君はまたもや例の怪しい感応力とかいう技で、私を監視しようというのか。 「わかったら何だというんだ」 「そんなことしたら僕らもう友達じゃないですから」  まるで人質でもとったかのような物言いだ。  それが脅し文句になっているつもりなのか。  いかにもシェル・マイオスだなと、私は腹に据えかねたが、それについては結局、なにも言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったからだ。 「帰れ、マイオス」  吐き捨てるように私は言った。 「そうします。また来ます」  棒読みにそう言って、マイオスはすっくと立ち上がった。  そして、言おうか言うまいか、迷ってから、どうしても黙っていられなかったというふうに、マイオスは言った。 「殿下は、僕に怒ってるんじゃないですよね。僕にも怒っているみたいだけど、そもそもはレイラス殿下にですよね。そんなの八つ当たりじゃないですか。そんなことするくらいだったら、僕に愚痴ればいいじゃないですか。なんでも聞くのに」 「友人面して私の部屋に物を置こうとする輩がいて迷惑なのだが何とかならないだろうか、マイオス。そいつは、さも当たり前のように私の心をのぞき見する無神経さで、私は不愉快なんだ」  私が相談すると、マイオスはどことなくぐったりと、肩を落とした。 「すみません。帰ります。のぞき見の件は、以後、気を付けますから」  とぼとぼと、彼は帰った。草は放置したまま。  あくまで置いていくつもりだったらしい。  そして、マイオスが去った直後に、執事がふたたび居間の戸を叩き、私に告げた。  謎の差出人から、たいへん嵩張《かさば》る異国風のクッションが四十六個届けられたが、どこに置けばよいだろうかと。  私はそれに、深く沈黙した。  黙っていないと、何の罪もない執事に、なにごとか怒鳴り散らしそうな気がしたからだった。 ----------------------------------------------------------------------- 「帰れの部屋」第三幕:天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》 ----------------------------------------------------------------------- 「お前、そうとう機嫌悪いな、今日は」  こちらの顔も見ず、厨房の奥にいるイルス・フォルデスが声をかけてきた。 「なぜわかるんだ、そんなこと。君も感応力を使うようになったのか」  淡々と答える、私の声は不機嫌そうだった。  それを聞いて、フォルデスが笑う、低い声がした。 「そんなもん使わなくても、足音でわかるんだよ、お前の機嫌は」 「それはそれは、耳のいいことだな」  確かに機嫌は悪そうだった。答えながら、私はすでに反省し始めていた。  ため息をつき、呼吸を整えてから見渡すと、いつもの厨房に、料理の皿がいくつか、すでに出来上がっていた。  それを眺めて、私は空腹を覚えた。何とはなしに、いつもに増して食欲をそそる。たたぶん私の好物ばかりが、そこに出そろっていたからだろう。 「なにを作っているんだ」  いつもより、多めと思える品数に加えて、まだ何かフォルデスが仕上げていたので、不思議に思ってそばへ行くと、それは銀色の大皿に盛られた、輪の形をした何かだった。 「小麦粉と卵を蒸して作ったプディングだよ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》、祝い事のときに食う菓子だ」 「祝い事? なんの?」  なにかの祝日だったか、今日は。祝日だったら先日、天使ブラン・アムリネスの記念日が、学内でも盛大に祝われたはずだ。おそらく私に気を遣って、盛大にやったのだろうが、こちらは気が滅入るばかりだった。  それを知ってか知らずか、食卓を囲む四部族《フォルト・フィア》は、いつもと変わらず素っ気ない献立《メニュー》でそそくさと空腹を処理したはずだったが。それでなくとも特に何か、祝いの食卓を囲むということは、未だかつてなかったはずだ。 「特に、なんのって訳じゃねえけど。お前、誕生日がないんだろ。シェルがそう言われたって話してたよ」  祝いの菓子だという割に、極めて素っ気ない輪っか状の薄黄色くつるんとした菓子に、フォルデスは鍋でこがした糖蜜のソースをかけていた。 「お前にだけ誕生日がないのに、他のを祝うわけにはいかないだろ。だけど、それだとつまんねえから、天使ブラン・アムリネスの祝祭日を、お前の誕生日ってことにしたらどうかって、シェルは思いついたらしいんだけど、スィグルが反対したんだよ。それはお前には、あんまり歓迎されないだろうってな」  銀のカップに入っていた、小さな銀色の粒を、フォルデスは褐色の指先でつまみとり、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》の上にぱらぱらと散りばめた。まるで小さな星のようだった。 「俺もそう思うよ。それで流れて、でも、何もなしじゃあな、ってことで、何でもない日に四人分まとめて誕生祝いをやることになったのさ」 「聞いてない、そんな話」  私が静かに抗議すると、フォルデスは苦笑した。 「そんなこと話して、お前が素直に、じゃあ、やろうやろうって言うかよ」  言わないだろうか。  言うわけがないな。  そんなことに何か意味があるのか。  正直言って、そう思っている。 「葡萄酒の味見をしろよ」  広口の硝子《ガラス》の酒瓶《デキャンタ》に移され、空気を含まされていた、深い赤色の葡萄酒を指して、フォルデスが私に命じた。  今夜の厨房ではもう、それぐらいしかやるべき仕事が残っていないらしかった。  私は大人しく、用意されていた硝子《ガラス》の酒杯に葡萄酒を注ぎ、頼りないランプの明かりに透かして色を見た。美しい赤だった。香りもよかった。  舌に乗せると、その飲み物は、学院の古い酒蔵で熟成を重ねた、馥郁《ふくいく》たる味わいがした。山の部族の者たちが、何より誇りとしている味だ。  ここへ来る前、私がまだ神殿の城壁の中にいたころ、食事というのは、生命を維持するためのものだった。空腹というものすら、意識したことはなかった。欲求を満たすため、なにかを貪るということが、否定された世界だったのだ。  しかしここでは違う。 「これで完成。でも天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》は、後のお楽しみさ」  淡い笑みでそう言い含め、フォルデスは料理を運ばせた。  食堂のほうには、食うだけでいい、気楽なふたりが待っていた。いつの間に来たのだろう。  シェル・マイオスはどことなく、そわそわしていた。  スィグル・レイラスはどことなく、にやにやしていた。 「僕の大事なクッションは届いたかい、猊下」 「届いたよ、レイラス。全部、窓から投げ捨てておいた」  席に着きながら私が答えると、レイラスがからかうような小さい口笛を吹いた。 「嘘です。ライラル殿下は嘘をついています」  そわそわしたまま、マイオスはこちらを見もせず、きっぱりとそう言った。 「シェル。お前、のぞきはやめるって約束したんじゃなかったのかよ?」  呆れたふうにフォルデスが言い、それぞれの酒杯に葡萄酒を注いでやっていた。 「のぞいてません。今のはただの直感です。それより早く食べましょう」  よほど空腹なのか、マイオスは落ち着かなかった。  そのせいで慌ただしく食う羽目になり、マイオスは、落ち着けよと罵るレイラスに、何度も食卓の下で足を蹴られていたようだ。 「そろそろデザートに進みませんか。もういいでしょう」  必死の形相で、マイオスはそう頼んだ。誰にともなく。  なぜ君はそんなにデザートを食いたいんだ、マイオス。 「落ち着かないな。食った気がしないよ」  マイオスにぶうぶう文句を言うスィグル・レイラスの声が、葡萄酒のほろ酔いの向こう側から聞こえていた。 「だってもう、花が咲きそうなんですよ! さっきから、何とか必死で止めてるんですから……」  そう言うマイオスは、確かに何となく、思い詰めたような目をしていて、必死のような形相だった。 「花……?」  不思議に思って、私が訊ねると、マイオスはひっそりと頷いたが、それだけだった。 「そういうことなら、飯《めし》はもう切り上げて、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食うか」  フォルデスが席を立ち、そう宣言した。  私以外の全員が、それではと、席を立つ。  彼らは私の部屋で、このささやかな祝宴の続きをやろうというのだった。  なぜそういうことになるのか、皆目見当がつかない。なぜなんだと、やや呆然とする私を連れて、我が盟友たちは、無理矢理に私の部屋を訪れた。飲み残した葡萄酒と、皿と、そして天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》なる、円環状のプディングを持って。 「ああもう本当に、間に合って良かった!」  私の学寮の居間にある、沢山の植木鉢の花が、まだ蕾のままでいるのを見て、シェル・マイオスが快哉を叫んでいた。  そんなものには目もくれず、スィグル・レイラスはずかずかと上がり込み、謎の送り主から送りつけられてきた、四十六個のクッションの中から、二つ三つを選びだして、暖炉の前のいちばん居心地のいい辺りの床に、それを敷き詰め寝そべった。 「猊下の部屋って、ほんとに広くて居心地がいいよね。地味すぎるのが難だけど。僕、ここに引っ越そうかな」  すでにもう引っ越したかのようなくつろぎぶりで、レイラスは靴まで脱いでいた。 「引っ越すんなら喜んで手伝うぜ」  長椅子のそばにひとつだけある、客用の小さなテーブルの上に、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》の銀皿を置きながら、フォルデスはまんざら冗談でもないふうに言った。 「無理だ、それは無理だ。物置になっているほうの居間にある物はどうするつもりだ」  青ざめて、私が抗議すると、フォルデスは笑い、その笑いに震える手で、円環だったプディングに、四等分のナイフを無造作に入れていた。 「どれを食うか自分で選べ」  すでに、ごろごろ寝そべる構えのレイラスとマイオスに、フォルデスは四枚あるプディングの皿を示した。皆それぞれ好き勝手に選び、フォルデスは私にも、自分より先に皿をとらせた。  プディングの中に、未来を占う、小さなお守りが入っているらしい。  食べ物の中に、食べられないものが入っているという話に、私は愕然としたが、それは彼の生まれ育った海辺の町や村では、ごく普通の習わしらしい。誕生日に天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作り、皆で分け合って食べる。その中にはお守りが散りばめられており、うまく引き当てた者には、幸運がやってくる。 「何を当てようが恨みっこなしだぜ」  遠い砂漠の薫香が匂う、大振りなクッションにごろりとくつろぎ、フォルデスはそのままプディングを食らうつもりのようだった。 「私の部屋で寝そべってものを食うな」  驚いて私が咎めると、スプーンを銜えたフォルデスは、わざと難しい顔を作ってみせた。 「俺の故郷の王宮じゃあ、寝そべってものを食うんだぜ。それが正式な作法なんだ」 「なんて野蛮な連中だ」  嬉しげに批判するレイラスも、すでに寝そべってプディングを食っていた。 「このクッション、いい匂いがしますね。でも、寝そべって食べるのって、案外難しいな」  嬉しげに寝ころんでいるマイオスの皿から、今にも糖蜜のソースがこぼれ落ちそうだった。 「お前も来いよ、シュレー。なんで突っ立ってるんだよ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食わなきゃ誕生日にならないだろ」  珍しくも強引に、そう誘うフォルデスに負けて、私もどうにも所在なく、床に置かれた砂漠風のクッションの上に、座らされる羽目になった。  床に座るなんて野蛮じゃないか。寝そべってものを食うなんて。それにこの、祝いの席の菓子というには、素朴に過ぎるプディングはなんだ。中に一体、何が入っているというのだ。  こわごわスプーンで、震えるプディングを突っついている私の横で、いかにも楽しげに天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を食っているマイオスの口の中から、がりっという恐ろしい音がした。  血相を変えて、噛みしめたものの正体を、手のひらに取り出して眺めたマイオスは、ぎゃっと短く悲鳴を上げた。 「なんですか、これ。木じゃないですか!」 「そうだよ。ほんとは銀とか錫《すず》とか、陶器で作るんだけどな。本物のはさすがに手に入らなかったから、木を削って作ったんだよ」  フォルデスはさも当たり前のように、そう教えてやっていた。 「お前の、それ、本だよな。本を引き当てた奴は、将来学者になるとか、知識を極めるとか言うんだぜ。それを噛み割るなんて、お前は相当、験《げん》が悪いよ」 「きっと将来、ものすごい馬鹿になるんじゃない、シェルは」  けらけら笑って、レイラスは気味が良さそうだった。 「ほっといてください! 殿下のには何が入ってるんですか」  ぷんぷん怒って、マイオスはレイラスの皿を引っ張り寄せようとした。 「うわっ、やめろよ。こぼれるだろ! 僕のクッションにシミをつけるな」 「僕のクッションてお前、シュレーにやったんじゃなかったのか?」  皿を巡って争っているふたりに、フォルデスが驚いたふうな声を上げるのを、私は呆然と眺めた。 「くれてやったわけじゃないよ。ここに置かせてやってるだけじゃないか。置き場がないなら捨てろとか、送り返せなんて君がぐちゃぐちゃ煩く言うから、置き場所を見つけておいたのさ」  レイラスはまるで、このクッションを半永久的に私の部屋に置いておけるかのような口振りだった。 「ねえ、なんなのさ、この、丸い板みたいなの?」  自分のプディングの中から出てきた木ぎれを、レイラスはスプーンの先に乗せて、フォルデスに示した。 「それは金貨だ。それを引き当てた奴は、将来、金持ちになれる」 「僕は今だって金持ちなんだよ。君たちは知らないだろうけど」  ふんぞりかえるレイラスから、マイオスが金貨の形をしたお守りを、見せてもらって眺めていた。 「お前は探さないのか」  手をつけていないプディングを見とがめられ、私はフォルデスに訊ねられた。  未来の幸運だなんて。自分の未来に幸運があるかどうか、それすら分からない身の上なのに。 「ただの遊びだよ。そう真剣に考えることはないんだ。お前はちょっと、頭が固すぎなんじゃないか?」  プディングの中から、スプーンで何かを掘りだしながら、悟った風にフォルデスは言った。 「俺のも出てきた」  銀のスプーンに乗せられた、小さな木の帆船を、フォルデスは私に見せた。逆巻くプディングの波頭を、蹴立てて走る極小の快速船だった。 「これが作るの一番大変だったのに、自分で引いちまったよ」  見せろとうるさいマイオスに、小さな船を廻してやりつつ、フォルデスはぼやいた。 「船を引いた人はどうなるんです?」 「遠くへ旅する運があるとか」  葡萄酒の杯を上げながら、フォルデスはマイオスに教えてやった。 「それって幸運と言えるのかい、イルス。遠くへの旅ならもう、してるだろ、このトルレッキオへ」  皮肉めかしてレイラスが言うのに、フォルデスは苦笑していた。 「そりゃあ、まあ、そうだけどな」  薄暗い部屋の灯火に透ける葡萄酒の色は、まるで、微かに光るようだった。 「悪いことばかりじゃないさ。お前らにも会えたし。何が幸運かなんて、その時になってみなきゃ、わからない」  含蓄のあるふうな、フォルデスの言葉に、しきりに頷く感激屋のマイオスを、底意地の悪い笑みで、レイラスが見つめた。 「そうそう、だからシェル、お前にも、馬鹿のお守りが当たってよかったと思える日が来るよ」 「馬鹿のお守りじゃないです! 知識のお守りですから!!」  噛み割った、木の本をレイラスに示して、マイオスは期待通りの怒り方だった。それが可笑しくてたまらないというように、身を揉んで笑うレイラスは幸せそうだった。  確かに何が幸運かなんて、分からない。運命の手によって、切り分けられたプディングの中に、何が入っているかは、同じでも、それを幸運に変えるのは、自分自身の力ではないか。 「猊下のには何が入ってるんだい。ひとりだけ秘密にするのはずるいよ」  卑怯だと、咎める口調でレイラスが言うので、それもそうだと私は思った。  私がプディングを食う間、フォルデスはずっと、にやにやしていた。思えば彼は、それを見る前から、私の食い扶持に何が秘められていたか、知っていたのだ。天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作ったのはフォルデスで、彼は残りの一つがどんな幸運だったのか、消去法で知ることができた。 「何か出てきた」  スプーンが掘り当てた、小さな木の輪を、私は予言者フォルデスに見せた。 「それは指輪だよ」  淡い笑みのまま、フォルデスは私の無言の問いかけに答えた。 「なんだ。額冠《ティアラ》かと思った」  将来の戴冠を予言する幸運のお守りかと。なにしろこの菓子は、天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》というくらいなんだから。 「指輪を引き当てた奴は、意中の相手と結婚できる」  意中の相手と。  私は慌てて難しい顔を作った。そして葡萄酒を飲んだ。甘いプディングのせいで、口の中が甘くてたまらず、頭の中まで砂糖漬けになりそうだった。 「意中の相手ですって」  マイオスのほうが私よりよほど嬉しげにじたばたしていた。 「お前やっぱり馬鹿だよ。喜びすぎなんだって……」  たじろいだ笑みで、レイラスはマイオスを見ていた。そこまで喜ぶマイオスのことが、私も恥ずかしかった。  まさかこいつ、私に共感してはいまいな。もしもそうなら今すぐ死にたい。 「ちょっと甘くしすぎたな……」  プディングの味のことを、フォルデスが反省していた。 「そろそろ花を咲かせてもいいですか」  にこやかに、マイオスが立ち上がり、満を持したらしい、流れ星のような花の開花を宣言した。  それは魔法以上に、魔法めいた光景だった。  たくさん並んだ鉢のひとつに、マイオスが唇を寄せ、なにごとか囁きかけると、つり下がる滴のようだった蕾が、いっせいに解けた。ゆっくりと咲き始める花の目覚めは、次々に隣の鉢に伝播していき、見る間に部屋中の花が、星形に見える形へと、花開きはじめる。  花心が薄ぼんやりと、淡い緑色の燐光を放っていた。  あたかも流星の降りしきる野に、寝そべっているようだった。  私はそれに、ふと、古い記憶をよみがえらせた。  どこか遠い、遠い荒野で、満天から降りかかるような星を見上げ、願いを叶えてくれるという、幸運の星を、いつまでも飽かず探していた、幼い日のことを。  私はその話を、今まで誰にもしたことがなかった。私のそんな他愛もない記憶に、興味を持つ者が、誰もいなかったからだ。  しかし、この夜、葡萄酒の香気に任せて、皆、他愛もない話をした。  イルス・フォルデスは亡き母親が、生前最後の彼の誕生日に、この天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》を作り、食卓に供した時のことを、憶えているという。その時も彼は小さな銀の帆船を引き当てた。  スィグル・レイラスは四十六個もあるクッションの、刺繍で描かれた部族の文様の話を、ひとつひとつ苦にもせず話した。その文様によって華麗に飾り立てられた彼の都についての話を、誇らしげに。  マイオスは彼の姉たちとそぞろ歩く、森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》の咲く夜の森の話を。笑いさざめく金の髪の兄弟姉妹たちとの、穏やかな日々のことを。  波乱含みの生涯にある、幾多の苦みのことを、この夜ばかりは砂糖衣に隠し、私たちは僅かばかりの人生の甘みを、そこに持ち寄った。  星を見上げた時のことを、私は彼らに話しただろうか。震える子山羊を抱いて眠る、寒い寒い夜のことを。葡萄酒の許す、甘い酔いに任せて。 「君たちはもう、帰ったらどうだ。床で寝る気か?」  ランプの灯も絶え果てて、揺れる暖炉の火影だけが照らす、薄闇に包まれた居間の床で、四十六個の極彩色の、刺繍された文様と宝石に埋もれて眠る、盟友たちに私は呼びかけた。  誰もそれには、答えなかった。  眠ったのか。仕方ないなと、私は誰にともなく言い訳をした。 「帰れ、レイラス」  ぐっすりと深い寝息で、床に蜷局《とぐろ》を巻いているスィグル・レイラスに、私はそう呼びかけた。  帰れ、マイオス。帰れ、フォルデス。  ここは君たちの部屋じゃないだろう。なぜ帰らないんだ。  なぜ皆、私と一緒にいてくれるのだろう。  不思議だな、と思いながら、私は眠りに落ちた。  森の流れ星《フィブロン・トン・ディ・ジュー》。  天使の戴冠《セラフィス・ティラヌス》。  そして四十六個のクッションのある、幸運な床の上で。  明日の朝、目覚めて、帰れと怒鳴るいつもの時まで、穏やかに繰り返す、友たちの寝息を子守歌にして。 《おわり》 _______________________________________________________ Copyright (c) 1998-2010 TEAR DROP. 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